モチ帰る遥けき空に偲ぶれば

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梗 概

モチ帰る遥けき空に偲ぶれば

「モチモドキ」がいつから人間と暮らしはじめたのか、ミチが子どものころには既に祖母の家にモチモドキの「シロ」が飼われていた。両親が多忙でミチはよく祖母に預けられていた。
 モチモドキは見た目は餅にそっくりで、丸や四角、白や桜色や草色のがいる。普段はじっとしてあまり動かないが、時々、のびたりふくらんだり、這って移動したりする。身体のほとんどが餅と同じ成分でできているが、約1%ほどモチトロゲンという新物質が含まれており、その働きにより動作すると考えられている。
 祖母の家に行くたび、でんぷんと水を混ぜた団子を餌としてシロに練り込むのがミチの楽しみだった。もちもちとした感触を楽しんだり、肩に乗せて散歩したり、ゆっくり動くのを眺めたり、ミチはシロと遊ぶのが好きだった。
 だから、シロが硬くなって死んでしまい、それを祖母が焼いて食べたと聞いてショックだった。それ以来、祖母のことが苦手になってしまう。その後、両親が離婚して祖母とは疎遠になる。後年、ミチは食べることが供養なのだと知った。

大人になって一人暮らしを始めたミチは、捨てモチモドキの里親募集広告を見て、一匹を引き取り「マル」と名付ける。マルを育てているうちに、シロと遊んでいた日々や祖母のことを思い出す。
 週末には公園に散歩に出かけ、他のモチモドキと交流する。そんなある日、マルと他のモチモドキがくっついて大きな一つの塊となり、やがて三つに分裂した。モチモドキの生殖である。子モチモドキの誕生を目の当たりにしてミチは感動する。ミチは生まれた子モチモドキを引き取り祖母へ預けることを思いつく。再会した祖母はその子をシロと呼び、懐かしいと言って可愛がる。
 しばらく経ったある日、ミチはマルの様子がおかしいことに気づく。身体がいつもより熱いのだ。モチ病院に連れて行くと、同じ症状のモチモドキが最近増えているという。原因は不明だがひとまず硬くならない程度に氷水に漬けて冷やすようにと医者に言われ、ミチは無力感に苛まれながらマルを冷たい水に浸した。
 数日後、マルの熱はさらに上昇し、白い表面が茶色く焦げ始め、全身が風船のように大きく膨らんでいく。部屋いっぱいになる前にミチが窓を開けてやると、マルはそのまま外へ飛び出し、空高く浮かび上がっていった。空には他にもたくさんのモチモドキが浮かんでいる。彼らはこのまま飛び去りどこかへ帰っていくのだと直感したミチは、マルとの別れを悲しむ。

翌日、祖母が亡くなったという報せが届いた。ミチが祖母の家を訪れると、部屋の片隅でシロが硬くなっていた。シロは飛び去らずに果てたのだ。葬儀のあと、ミチはシロを持ち帰って焼いて食べた。子どものころに祖母が焼いてくれた、懐かしい餅の味がした。
 マルがいなくなった日、世界からモチモドキが一斉に去っていったことが判明し、その現象は「渡り」と名付けられる。いつか彼らが再び戻ることを願って。

文字数:1200

内容に関するアピール

課題を見て最初に思い浮かんだのが、天井からゆっくり伸びて降りてくる物体が再び天井に向かって伸びていく、というイメージ(砂時計の落下とその逆流のような)だったので、その動きに適したのものとして餅を選び、渡り鳥のイメージを重ねました。
 自分は子どものころにカメを飼っていたくらいで、生活空間にペットがいるということにあまり馴染みがないのですが、近所の大きな公園には犬の散歩をしている人がたくさんいて、交流しているのを横目に見ることも多いので、ペットとのふれあいだけではなく、ペットを通じた人同士のコミュニケーションについても書ければと思います。
 作品のテーマとしては「別れ」を設定しました。梗概ではモチモドキとの別れ、両親の離婚、祖母の死など、いくつかエピソードを書いていますが、実作の分量に余裕があれば、主人公にとっての家族(親族)以外の他者との別離についても、できれば盛り込んでみたいと考えています。

文字数:400

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モチ帰る遥けき空に偲ぶれば

二年間一緒に暮らしていた相手が出ていって、一週間が経った。
 離れることについて違和感はなく、ごく自然な別れだったように思う。とつぜんではあったけれど、お互い納得のできるタイミングだったはずだ。共同で使っていたクローゼットの片隅には、おそらく鞄に入きりなかったのであろう、衣類や下着がいくつか残されていて、そのなかには一度も着ているところを見たことがないシャツもあった。大きな青い花の描かれたマグカップ、丸い翡翠の灰皿、使いはじめたばかりの歯ブラシはなくなっていたが、プラスチック製の白い茶碗と箸は残されていた。最低限、生活に必要な物だけを持ち、多くの不要なものを残して去っていくのが実にらしい。
 居なくなったその日、ダイニングテーブルの上には白くて丸い餅そっくりの「マル」がぽつねんと佇んでいた。ぐうぜん里親募集の広告を目にして一緒に保健所まで赴き、たくさんの捨て「モチモドキ」のなかから二人で選んだ一匹だった。ずいぶん可愛がっていたのに置いていったということは、マルはここにいたほうが安心して暮らせると判断したのだろう。
 マルを迎え入れたのは年が明けて少し遅めの初詣に出かけた日の午後だった。「ミチのほっぺに似てるね」と小さなガラスケースに収められていたマルを指差して、そのあとほっぺたを軽くつままれたときの指の冷たさと笑顔を覚えている。
 テーブルの真ん中でじっとしているマルを軽く撫でてやると、手のひらに冷たくてもっちりとした感触が伝わってくる。「マル」と呼びかけると、わずかに身を震わせて応えてくれる。
 モチモドキは餅にそっくりの生き物で、丸や四角、白や桜色や草色のがいる。手のひらにちょうど収まる大きさで、普段はじっとしていてあまり動かないが、ときどき伸びたりふくらんだり、ゆっくりと這って移動したりする。
 モチモドキは身体のほとんどがアミロペクチンを主成分とするデンプンでできているが、ほんの少しだけモチトロゲンと呼ばれる物質が含まれており、その働きによって動作するのだと、マルを引き取るときに職員から説明を受けた。モチトロゲンはモチモドキの体内から発見された新物質で、いまだに解明されていない点が多いらしい。
 モチモドキがいつ現れて、いつから人間と暮らしはじめたのか、正確な日付は記録されていないが、いまから四十年前に世界的な大雪があって、溶け残った雪の一部がモチモドキとして各地に棲みつきはじめたという説が有力だった。
 子どものころには既に、祖母が「シロ」という名前のモチモドキを飼っていた。両親ともに忙しく、よく祖母のところに預けられていたせいでシロと仲良くなった。そっとふれてもちもちとした触感を楽しんだり、肩に乗せて散歩に出かけたり、ゆっくりと這いまわるのを眺めたり、母が迎えに来るまでいつも一緒に遊んで過ごしていた。「ミチはシロが大好きだね」と言われたけれど、他に遊ぶ相手がいなかったので、自然と愛着を覚えたのだ。
 もち米と水を混ぜあわせ、蒸して団子状にこねたものを餌としてシロに練り込むと、白い身体をもぞもぞと動かしながら取り込んでいった。その様子が可愛くて、つい餌をあげすぎてしまい祖母に叱られたりもした。
 だから、シロが硬くなって死んでしまい、祖母が遺体を焼いて食べたと聞いたときはショックだった。それ以来、祖母のことが苦手になり、すでに一人で留守番ができる年齢としになっていたこともあって、しばらく祖母の家に寄りつかずにいたら、両親が離婚して、そのまま祖母とは疎遠になってしまった。
 祖母の家――つまり父の実家のそばのマンションから、母と二人で隣の市へ引っ越した後、祖母のことはほとんど考えなかったし、モチモドキとふれあう機会もなかった。数年後、気まぐれにモチモドキについて調べた際に、死んだモチモドキは供養のために焼いて食べることがあるという話を知った。また、モチモドキは餌の団子から摂取した養分を排泄する代わりに、一定のサイクルで外皮を硬くして脱皮することで代謝するというのも、このとき初めて知った。一緒に遊んでいたとき、シロが脱皮することはなかったから。
 モチモドキの皮には個体の記憶が宿っており、食べることで一瞬その断片を垣間見ることができるらしかった。祖母はシロの皮や遺体を食べることで一体どんな記憶を見たのだろうかと気になったが、それを訊ねるために会いに行くほどの動機づけにはならなかった。
 去年の年末にモチモドキの里親になろうという話になったとき、祖母とシロのことを久しぶりに思い出した。しかしマルを迎え入れて暮らすようになると、またすぐに記憶の片隅に埋もれてしまった。
 この一週間、マルと二人きりになってからというもの、餌の団子を練り込んでいるときなどに、よくシロのことを考えるようになっていた。捨てモチモドキだったマルは発育が悪く、シロよりも一回りほど小さい。しかし白色で丸型という同種の特徴をもっているため、まじまじと見つめていると、まるでシロが生まれ変わったかのようにそっくりに見える瞬間があった。
 テーブルのうえに両手で頬杖をついてぼんやりしていると、いつの間にかマルが天井に向かって身体をいっぱいに伸ばしていた。細長い紐のようになったマルはそのまま前部を天井に貼りつかせて、テーブルに残っていた下部をゆっくりと引き寄せていく。とても遅いエレベーターのように天井に吸い寄せられていくマルを見上げる。天井で丸くなっている姿は小さなシーリングライトのようだ。
 テーブルの隅に置かれた漆器風の小さな器からミルクキャンディをとって口に含むと、安っぽい甘さが広がった。器は駅前のワンコインショップで購入したプラスチック製で、キャンディも同じ店でいつも買い足していたものだった。好みの味ではなかったけれど、「美味しい」と言っている横で一緒に舐めているとそんな気がしてきたものだった。いまは単に甘ったるいとしか感じられず、もう買い足すこともないだろう。
 しばらく天井にいて満足したのか、マルは再び身体を伸ばしてテーブルに向かって液状の砂時計のように垂れ落ちてくる。手を伸ばして、手のひらですくうようにマルの前部を受けとめてやると、細く伸びた身体を丸めながら収まっていく。
 明日の土曜は晴れの予報で、マルと一緒に公園に散歩に行こうと決めた。マルと二人きりになった家にはまだ違和感があって慣れず、職場との往復で気が休まらずにストレスだけが溜まっていた。
 手のひらで丸まったマルをモチ台に戻してやり、そっとひと撫でしてから明かり除けのシェードで覆ってやる。
 金曜の夜は疲れる。今週は特別長く感じられた。週末を気持ちよく過ごすため早く眠ることにする。

 〇

マンションから歩いて五分ほどのところにある公園は市内で二番目の大きさで、週末は多くの人でにぎわっている。マルを肩に乗せて歩いていると、同じようにモチモドキをつれて散歩している人と何度かすれ違った。
 木陰の芝生にビニールシートを広げて腰を下ろすと、マルも肩から降りてきてギリギリ日射しの当たっているシートの端で丸くなる。四月の陽は暖かく、心地よい風がときどきそよぐ気候はのんびりすごすには最適で、鞄から読みさしの文庫本を取り出して、木の幹に背をもたせかけて読みはじめる。
 マルもかすかに伸びたり縮んだり身体を動かして、気持ちよさそうにしており、安心して読書に集中していると、しばらくして横を通りかかった女性から「かわいい子ですね」と声をかけられた。
 文庫から目を離して見上げると、白いワンピースに水色のカーディガンを羽織った女性がマルのほうに視線を向けて微笑んでいた。同年代か、あるいは少し年上だろうかと思いながら「ありがとうございます」と返す。
 風がベージュに染めてウェーブのかかった彼女のセミロングの髪を揺らし、微細な毛先が光を弾いてちらちらと輝きながら、肩に乗っていた桜色のモチモドキをくすぐると、モチモドキは小さく身を震わせた。
「モモちゃん、ごめんね」と言いながら、彼女は肩の上のモチモドキを保護するように優しく手のひらで覆い、そのまま撫でた。
「モモちゃん、て言うんですね。マル、お友達だよ」と呼びかけると、マルはモモを見上げるようにして身体を縦に伸ばしはじめる。
「こんにちは、マルちゃん」と彼女はモモを両手で抱くようにして、胸元へ寄せながらかがんで、マルのそばに近づける。
「モチモドキって、子どもには言いづらいらしくて、いつの間にか『モモ』って呼ぶようになって」と笑いながらモモの名前の由来について語り、彼女はモモをマルの隣に降ろして手を離し、二匹を交互に撫ではじめる。
 どこか幼くはかなげに見え、一人で散歩していたこともあって、彼女に子どもがいるらしいことが少し意外だったけれど、その点には深く言及せず、文庫をシートの上に伏せて、モモを撫でてやる。
 マルとモモはじゃれ合うように身体を寄せてふくらませている。白と桜で何となく目出度めでたい色合いで思わず微笑んでしまうと、つられたように彼女も小さく声を出して笑った。
 彼女は「ミサキ」と名乗り、しばらくすると「ごめんなさい、読書の邪魔しちゃって」と言って、モモを包み込むように両手で掬いあげて肩に乗せ「マルちゃん、またね」と手を振ってから軽く会釈して散歩に戻っていった。
 白くふわふわと揺れるワンピースの端から覗くふくらはぎは細くしなやかに伸びており、白いレースアップサンダルの紐が足首のあたりで交差しているのがひどく頼りなさげに見える。その背中が見えなくなるまで見送ってからマルに視線を向けると、満足そうに身体を大きくふくらませており、ふれると少し温かかった。

ミサキさん、というのが苗字なのか名前なのかわからなかったし、あえて聞くこともなかったけれど、それから週末に公園に行くたびにミサキさんとは何度となく会うことになり、マルとモモも親しくなっていった。多くの場合、立ったままで他愛のない会話をしてミサキさんは去っていったが、たまに隣にシートを広げて休んでいくこともあった。
 会話のなかには子どもの話題が出ることもあったが、ミサキさんが子どもを連れてくることは一度もなかった。ふとした瞬間に、ミサキさんは実の子どもを見つめるようにモモに愛おしそうな眼差しを向けることがあって、本当は彼女には子どもなどなくて、モチモドキを子どものように溺愛して錯覚しているだけなのではないかと思うことがあった。
 しかし、あるとき子どもの名前が「サクラ」だと知らされて、生きていれば七歳になるのだとミサキさんは話してくれた。モモはサクラちゃんが三歳のときから一緒で、二人は姉妹のように育ったのだけれど、去年の春にサクラちゃんは交通事故で亡くなったのだという。
 それ以来、ミサキさんはいつでもモモを連れて出かけるようになったらしい。最近になって、だいぶ気持ちも落ち着いてきて、こうして話せるようになったのだと言い「ミチさんは何だか話しやすくて」とミサキさんは笑った。
 とつぜん告げられた重たい話にどう返していいかわからず、ただ薄く笑って肯くことしかできなくて、何だか情けない気持ちになったけれど、ミサキさんは友人というわけではないし、サクラちゃんには会ったこともなく、深く気持ちを寄せることは難しかった。
「モモちゃんがマルちゃんと遊んでるのを見てると、何だかサクラに友だちができたみたいで嬉しくて」というミサキさんに、これからも時々こうして会うくらいなら構わないと思いながら「マルも友だちができて喜んでるみたいです」と返した。
 モモと会った後、マルはいつでも少しふくらんで温かくなっている。モチモドキの感情はよくわからないけれど、きっと喜んでいるのだろうと解釈していた。
 公園に行くたびに会うというわけではなかったけれど、顔を合わせれば座り込んで話し込むくらいにはミサキさんと親しくなって、マルとモモも色が混ざり合ってしまうのではないかというくらいべったりとくっつき合うようになっていた。
 同居人がいなくなって以来、プライベートで親しく付き合う友人も近場にはいなくて、職場ではすることができないような話をしてストレスを解消するには、ミサキさんはいい話し相手になってくれた。たまにサクラちゃんの話が出ることもあったが、とくに重たい雰囲気になることもなく、懐かしい思い出話のように話してくれるミサキさんは、初めて会ったときよりも少しふくよかで健康的になったように見えた。

ある日、いつものようにミサキさんと他愛のない話で笑い合って、ふいにマルの様子を見てみると、マルとモモが互いに身体を寄せ合い白と桜のマーブル模様の一つの塊になっていた。ミサキさんも二匹の様子に驚き、戸惑っている。
 マーブル模様の大きなモチモドキはふくらんだり縮んだり、伸びたり平べったくなったり、激しく体を動かし、ひねりながら、やがて三つの塊に分裂した。
 白い大きな塊はマルで、桜色の塊はモモ、そしてもう一つ、小さな白い塊――つまり子どものモチモドキが弱々しく身体を震わせている。モチモドキの生殖については以前、何かの記事で読んだことがあったが、実際に目の当たりにするのは初めてで、あまりに突然のことでどうすればいいのかわからず、ミサキさんと二人でしばらく呆然と三匹並んだモチモドキを眺めていた。
 そのうち小さな白いモチモドキはマルのほうに身体を寄せていった。同色の親のほうへ惹かれていったのかもしれない。
「初めて見ました」とミサキさんが呟くように言ったのに頷き返し、そっとマルと小さな白い子を撫でてやる。当たり前だけれど子モチモドキはマルと同じようにもっちりとしていた。ミサキさんもモモを胸元に抱きかかえながら、子モチモドキにそっとふれた。
「マルちゃんに懐いてるみたい」とミサキさんは微笑む。
 生まれたばかりの生き物は母親に懐くことが多いようなので、ということはつまり、マルが雌でモモが雄だったということだろうか。モチモドキには性別はないと言われているが、それでは何を基準に小さいモチモドキはマルのそばに寄っていったのか。くっついている二匹を見つめながら考え込んでしまう。
 小さい子を見つめているうちに、どこか祖母の家にいたシロに似ている気がして、思わず「シロ」と呼びかけると、小さなモチモドキは嬉しそうに身体を震わせて応えてくれた。
「シロちゃん、かわいい名前ね」とミサキさんは言って「初めましてシロちゃん」と小さい子を撫でる。
「ミチさん、もしよければシロちゃん、マルちゃんに懐いてるみたいだから、一緒に連れて行ってあげてくれない」と提案されたとき、モチモドキを二匹飼うことは考えていなかったので、しばらく思案したが、一匹増えたところでそれほど困ることもなさそうだと思い至り「そうですね」と応えた。
「よかったね、シロちゃん」とシロを撫でてから「すこし風が冷たくなってきたみたい」と言ってミサキさんは立ち上がり、いつもと同じほうへ向かって歩きはじめた。
 マルとシロを両肩に乗せて帰宅する。モチモドキ自体はそれほど大きいものではないので、二匹になってもそれほど存在感は変わらない――と思っていたけれど、戯れ合うようにいつもより活発に動き回っているのが目の端にとまると気になってしまう。
 シロ、と呼びかけるたびに子どものころの祖母の家の情景が思い出されて懐かしくなり、何度目かには、祖母は元気にしているだろうか、という思いが不意に浮かんできた。両親が別れて、祖母と会わなくなってから、そんなことはほとんど考えたことがなかったなと、何だかとても自分が薄情なように思えてくる。
 十五年以上前に語呂合わせのようにして暗記していた祖母の家の電話番号がスッと浮かんできて、人間の記憶力というものは馬鹿にできないと思う。まだ生きているのだろうか。母からは亡くなったという話は聞いたことがないけれど、かつての義母の生死などおそらく母にも知るすべはないのかもしれない。
 母方の祖母は早くに亡くなっていて、初めて出席した葬儀が中学二年の夏、祖父のものだった。母には兄弟姉妹もなくて、以来、二人きりで過ごしてきて、母も誰かの死を意識することはあまりなかったのではないだろうか。
 祖母に電話してみようか。声を聞いてすぐにわかってくれるだろうか。それ以前に覚えているだろうか。不安、ではなくてどこか好奇心にも似た感情が湧いてくるが、今すぐに行動に移すまでには至らず、けっきょくあれこれ思いあぐねた挙句、二日後になってようやく連絡してみる決心をした。

 〇

とくに劇的な反応もなく、「懐かしいねぇ、元気にしてたかい」と安否を訊ねられただけだったけれど、久しぶりに聞いた祖母の声はどこか嬉しそうに感じられた。声はすこし細くなっていたけれど、受け答えはしっかりしており、子どものころにずっとそばで聞いていた祖母の口調に懐かしさがこみ上げてしまい、電話越しにしばらく黙って言葉にふれていたくなる。
 再来週の土曜日に会う約束をして電話を切った後にも余韻はあって、ずっと気にもかけていなかったはずなのに、ほんの数分声を聞いていただけで、どうしてこんなに祖母の存在が大きくふくらんでしまったのかわからなかった。
 テーブルの上にいるマルとシロも心なしかふくらんで見える。しばらく戯れ合っている二匹を眺めているうちに、シロを祖母に預けてはどうかと思いついた。祖母の家にいたシロが硬くなって死んでしまってから、少なくとも両親が別れるまでの間、祖母が新しいモチモドキを飼い始めたという話は聞かなかった。
 もしかしたら今は別のモチモドキと暮らしているかもしれないけれど、何となく、祖母がシロ以外のモチモドキを飼うことはないような気がした。
 このシロだったら祖母は可愛がってくれるだろうと思えた。撫でてやると、くすぐったそうに身体を震わせる仕草が、子どものころに遊んでいたシロにそっくりだ。
 念のため、もう一方の親モチモドキの飼い主であるミサキさんにも相談しておこうと考えて、週末、祖母の話をしてみると、とてもいい考えだと賛同してくれた。
「きっとお祖母様、喜んでくれると思う」と言ったミサキさんは「私は、サクラのことがあってから向こうのご両親に会うのが何となく気まずくて」と溜息をつく。そんな話を聞かされてこちらも気まずくなったが、笑ってやり過ごした。
 ミサキさんのお墨付きをもらい、翌週末、マルとシロを連れて祖母の家を訪ねた。外観は子どものころと変わっていないが、外壁はきれいに塗り直されている。呼び鈴を鳴らすとしばらくして玄関の引き戸が開く。記憶のなかよりも祖母は白髪が増えていたが顔つきは変わらず、身体は一回り小さくなったように見えた。
 入ってすぐ横の壁に手すりが付けられてる以外、記憶のなかにそのまま保管されていたみたいに玄関は何も変わっていないように見えた。手すりにつかまりながらかまちを上がる祖母は、振り返りながら「すこし前から足が悪くてね」と力なく微笑んだ。
 靴を脱いで家に上がろうとすると、肩の上のシロに気がついた祖母が「あら、シロ」と声を弾ませた。シロをそっとつかんで祖母に手渡すと、白くてもちもちとした身体を撫ではじめた。指が細くなりしわが増えていたけれど、ゆっくりとシロを撫でる手つきは昔と変わらない。
 子どものころからずっとあるダイニングテーブルについていた傷跡を指先でなぞる。壁にかかった重厚なアンティークの時計、秒針の音、冷蔵庫のうなる音が聞こえるくらい静かな昼下がり。ただそこにいる二人だけが、時の経過を感じさせる。
 マルは見慣れない部屋の中、落ち着かない様子で動き回っており、祖母の膝の上に乗って撫でられているシロは気持ちよさそうに丸まっている。
「お祖母ちゃんさえよければ、シロを預かってもらいたいんだけど」と提案してみる。しばらく返事はなく、無言の時が流れるけれど居心地は悪くない、祖母の間だ。
「そうだねえ……散歩にもなかなか連れて行ってやれないし」と気乗りのしない返事に続けて「でも、懐かしいね」とシロを撫でながら「すっかり大きくなって」とこちらに視線を向けて微笑を浮かべる。
 ごめんなさいねお茶も出さないで、とシロをテーブルの上に置いて、祖母はゆっくりと立ち上がる。緩慢な動作に、手を貸して身体を支えてあげたい衝動に駆られるが、うまく動き出せないことに子どものころとは違う距離感を覚え、キッチンに立つ小さな祖母の背中をじっと見つめる。
「ミチは昆布茶が好きだったね」と言って出された湯呑から懐かしい香りが立ち込める。お茶請けに出された草大福を仲間だと勘違いしたのか、マルとシロが銘々皿めいめいざらに近づいてくる。駅前の和菓子屋はまだ営業を続けており、二代目になっても味は変わらないと祖母は言う。
 皿の上から草大福がなくなると、マルとシロはまた好き勝手な方向に動き出し、シロは祖母のほうへと寄っていく。「仕方ないね」と苦笑しながら、祖母はシロを膝の上に置いて「たまにその子を連れて遊びに来なさい」とマルのほうに視線を向けた。
 シロを祖母に預けて家を出た。けっきょく、祖母の口からは一度も父の話題は出なかった。今どこに住んでいるのか、再婚して新しい家族がいるのか、独りなのか。祖母のことを想像していたときに比べて興味は薄かった。忙しくてあまり家にいなかった父の思い出は、ほとんどない。

 〇

シロの様子を見に祖母の家を訪ねたり、電話をしたり、頻繁ではなかったけれど、連絡をとるようになった。祖母と再会して、細々とではあるけれど関係がつながったことを報告すると「よかったね」とミサキさんは笑った。ミサキさんの笑顔は優しいけれど感情が薄く、どこか空虚さを感じさせる。
 年末に祖母から大量の餅をもらい、ミサキさんにもおすそ分けをする。「ありがとう、彼の大好物なの」とミサキさんは礼を言う。ふだんは旦那さんの話はほとんどしないので、興味が湧いていろいろ尋ねていると、ミサキさんは「ミチさんは、いい人はいないの」とやり返してきた。
 一緒に暮らしていた相手と春に別れたのだと言ってから、まずかったと思ったが、「そう」と呟いてミサキさんは視線を遠くに向けた。ミサキさんにとっても春は大切な人との別れの季節だった。
 また来年、と挨拶を交わしてから年末年始の休みはあっという間に過ぎてしまう。三箇日には母のマンションに顔を出した。祖母のことには一切ふれず、マルを紹介したが母は興味がなさそうだった。
 母からも「いい相手はいないのか」と訊かれたけれど、「そのうちね」と素っ気なく返した。
 仕事始めは慌ただしく、一月の週末は疲れた身体を休めるために費やしてしまい、祖母のところに遊びに行く暇もなく、寒さのせいか公園でミサキさんと顔を合わせることもなくて、仕事以外では誰にも会わずに過ぎていく。電話越しの祖母の声は相変わらず細く、ときどき咳き込むのが心配になる。
 二月に入ってようやく祖母を訊ねると、風邪をひいたと言って寝込んでおり、簡単な食事を用意してベットに運ぶと「小さいころはよくおままごとをしてたね」と祖母はシロに話しかける。料理は上手くはないけれど、子どものころよりは『食べられる』ものを作れるようになったのだ。
 暖かくしてゆっくり休むように言うと「どうせもとからたいして動けないからね」と祖母は笑った。その笑顔が元気そうで少し安心して、シロに「またね」と声をかけて「お祖母ちゃんをよろしく」と頼んだ。

数日して、仕事に疲れて帰宅し、テーブルに突っ伏しながら、ただいまとマルを撫でようと手のひらでふれると、マルの様子がいつもと違っていた。身体が熱を帯びたように火照ほてっており、感触もふだんより柔らかくやや粘ついている。
 顔を上げてマルを見ると、色もほんの少し黄色味がかっている。表面を水で濡らしてやるが、染み込まずに弾くように流れ落ちてしまい、餌を練り込もうとしても上手くいかなかった。動きも鈍くなっており、身体を重たく引きずるようにゆっくりと移動するマルを見ていると心配になった。
 翌日、モチモドキ専門の病院に電話をかけて外来の予約をとった。
 初めて訪れたモチ病院は混み合っていた。皆、膝の上にそれぞれのモチモドキを乗せて待合室のベンチに腰掛けているさまはどこか異様だったが、空いている席を見つけて座り、やはり同じように膝の上にマルを乗せて撫でる。熱を帯びたマルは日に日にすこしずつ大きくなっているようだった。他のモチモドキたちもふだん街で見かけるものより大きいような気がする。
 三十分ほど待って、ようやく呼ばれて診察室に入ると、三十代半ばくらいの、鋭い目つきが印象的なモチ医者が疲れた様子で座っていた。
 促されて丸椅子に座り、小さな診察台の上にマルを置いてやる。聴診器でマルにふれて「最近流行ってるみたいなんですよ」と言いながら、医者はコンピュータに何かデータを打ち込んでいく。
「ときどき発熱することはあるんですが、ここまで高温になることは珍しいです。また炎症にともなう全身のれで大きくなっていますが、これは数日で治まる可能性が高いです」
 ただし、原因はまだはっきりとわかっておらず、当面の対処としては氷を張った水に漬けて体温を下げることと、炎症を抑える塗り薬を一日朝晩二回、全身に塗ってやることくらいだと説明を受ける。
 薬を受け取って帰宅し、とりあえず言われたとおりマルを氷水に漬けた。少しずつマルの体温が下がっていくのを感じるが、他にしてやれることがないと思うと無力感にさいなまれる。
 二十分ほどして冷たい水から出してやり、全身を拭いて薬を塗ると、スーッとするメントールの成分が気持ちいいのか、マルは嬉しそうに身体を揺らした。早く治るといいね、と声をかけると、マルはゆっくりと身体を縦に伸ばしはじめて、そのまま天井に貼りついてしまう。
 冷やしたり薬を塗ったりを数日続けたけれど、マルの熱はなかなか下がらず、炎症も治まらずにどんどん身体はふくれていった。むしろ体温はどんどん上昇しており、一緒に寝ると湯たんぽのようだった。水に張った氷もすぐにけてしまい、この対処方法では治療できそうにもない。
 モチモドキの発熱が大流行していると少し前からニュースでも取り上げられるようになり、何らかのウイルスの影響とも噂されたが、医者の言ったとおり原因はまだ特定されていない。この状況でもう一度病院に連れて行っても無駄だろうと思い、処方された塗り薬がなくなるまでは、家で看病しようと決めた。
 そんな矢先、とつぜんマルがまったく動かなくなってしまった。

 〇

いつもより遅い時間に目を覚ました土曜の朝、ベッド代わりのモチ台の上で丸まっているマルにおはようと呼びかけるが反応がなかった。マルは元気だったときの倍くらいのサイズになっていて、近頃は身体を動かすのも億劫おっくうそうではあったけれど、呼べば必ず応えてくれた。
 そんなマルが今朝は無反応で、どうしたのと言って撫でようとして伸ばした手を反射的に引いてしまう。熱い。ふれていられないくらい、マルの身体は熱帯びている。そばに手をかざすとまるでストーブのようだった。
 午前中、そばで様子を見守っていたが、午後になって白い表面が次第に焦げていくように薄茶に色づきはじめた。
 焦げ目は次第にはっきりとしていき、加熱した餅がふくらんでいくように、マルはどんどん大きくなっていった。マルの膨張は止まらず、テーブルや棚の上に置いてあったものを次々に押しのけて、やがて天井に届くくらいになってしまう。室内はサウナのような暑さで、このままではマルに押しつぶされてしまうと思い、外に逃げ出そうとしたが出入口をふさがれていた。
 掃き出し窓を開けてベランダに出ると、外の空気が冷たくて気持ちいい。このまま逃げようにも四階の高さから飛び降りる度胸はなくて、部屋いっぱいに充満したマルの姿を見守るしかなかった。
 いた窓の隙間から押し出されるように身体を変形させながら、マルはベランダへ出てくると、そのまま手すりを乗り越えて風船のように空に向かって浮かび上がっていた。モチモドキは空を飛ぶことができたという事実に驚きながら、目の前を覆い隠す巨大なマルが遠ざかっていくのを見上げていた。
 ようやく視界が開けて空を見渡すと、あちこちに巨大な風船――のようなモチモドキが浮かんでいた。その数はどんどん増えていき、群れをなすように同じ方向へ飛んでいく。公園でモチモドキと散歩する人はよく見かけたけれど、この街にこれほど多くのモチモドキがいたのかと思う。
 モチモドキたちの航空ショーは三十分ほど続いた。すでにマルは空の遥か彼方に遠ざかってしまい、その姿を認識することはできなくなっていた。視認できる最後の一匹が雲の隙間に消えていき、やがて空は何事もなかったかのようにいつもの平静さを取り戻した。
 マルによって滅茶苦茶になった室内を見遣ると、床に携帯通信端末が転がっていた。刹那、シロはどうなっただろうかという考えがよぎり、祖母に電話をかけてみたがつながらなかった。
 翌日、あらためて祖母に連絡してみると、電話に出た声は男性のもので、いくつか言葉を交わしているうちに相手が父であることがわかった。懐かしいとか、聞き覚えがあるというような感覚はなくて、赤の他人と会話するような流れのなかで祖母が亡くなったことを知った。
「ミチのこと、母さんから聞いてたよ」と言われても、自分の名前を呼ばれたような気がしなくて「そう」としか応えられず、なるべく事務的に済ませてしまおうと、葬儀には出席しないけれど、近いうちに一度祖母の家を訪ねたいとだけ伝えて電話を切った。
 翌週末に祖母の家に行くと誰もおらず、父から知らされていたとおり、郵便受けの底に敷かれたボール紙の裏側から鍵をとって中に入った。子どものころに祖母が買い物に行っている間、一人で留守番していたときの静けさが思い出されて懐かしく、廊下をぬけて陽だまりになっている縁側に出る。見上げた空が眩しい。雲一つ、モチモドキ一匹見えない快晴だった。
 マルが飛び去ってしまったあの日、世界中から一斉にモチモドキがいなくなったということをニュースで知った。専門家は、モチモドキには渡り鳥のような性質があるのではないかという説を掲げ、モチモドキがあるタイミングで群をなして去っていく現象を「渡り」と名付けた。そのネーミングには、とつぜん去っていたように、いつか再びモチモドキが戻ってくることもあるのではないかという願いが込められていた。
 思っていたよりも多くの人がモチモドキを可愛がっていたらしく、喪失感を覚えた人々はモチ・ロス状態に陥っていた。たしかにマルがとつぜん居なくなってしまったことは寂しかったが、去年同居人が出ていったときのことや、直後に祖母が亡くなったことなど、いくつかの別れの感情が混ざり合ってしまい、自分が何を寂しがっているのかよくわからなくなっていた。
 シロはどうなったのだろうかと思い、祖母の寝室に入ってみると、ベッドの横に丸められたタオルケットのなかで硬くなっているシロを見つけた。モチモドキの死が何を原因としてもたらされるのかわからなかったけれど、シロはマルたちと一緒に旅立つことができずに果ててしまったのだ。
 キッチンを借りて、シロを焼いて食べた。フライパンの上でうっすらと焦げながらふくらんだシロは、子どものころに祖母が焼いてくれた懐かしい餅の味がした。しかし、硬くなった皮に宿るという記憶の断片は何も見えなくて、俗説にすぎなかったのかとすこし残念な気分になった。
 ガスの元栓を閉めて、カギを元の場所に戻して祖母の家を離れた。もう二度と来ることはないだろうと考えて、数歩進んで一度振り返り、自分の育った場所はたしかにここだったと思う。去っていったマルは二度と戻って来ない、少なくとも生きている間には帰ってこないだろうなと直感し、それでも万が一、再び会うことができたならとても嬉しいだろう。
 たぶん、祖母も再会を喜んでくれただろうと思うことにする。きっかけはシロと触れ合うことで子どものころの記憶がよみがえってきたことだった。だから、ふとしたきっかけでマルが一緒に過ごした日々を思い出して、ふらりと戻って来ないとも限らないではないか。
 帰り道、散歩ついでに公園を通ってみたが、ミサキさんと会うことはなかった。おそらくモモがいなくなってしまい、モチ・ロスに陥っているのだろうと想像して、ミサキさんとももう会うことはないかもしれないと思う。
 帰宅すると郵便受けに海外の切手が貼られた汚れた封筒が入っていた。開けてみると便箋びんせん一枚に、去年ここを去っていった相手からの近況報告が綴られていた。戻ってくるつもりもないくせに手紙をよこすというのが、いかにもらしいと笑いながら読み終えて、手紙をもったままベランダに出る。
 とつぜん手紙を書く気になるなんて、どこか遠い国でモチモドキたちが空に帰っていくのを見て、マルのことを思い出しでもしたのだろうか。
 マルが遠くに去っていった空と、どこにあるかもわからない遠い国からの手紙。手すりの上で手紙を折って紙飛行機をつくり、風に乗せてスーッと飛ばしてみるけれど、もちろん空には届かない。

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