梗 概
酔宙夢譚
時は22世紀も四半を過ぎようという頃。
およそ一世紀前に日本で初めて販売された「樹木から造られる酒」。その技術が普及し、様々な樹種の酒が世界中で造られるようになり、地域特産の「地木酒」が新たな蒸留酒として楽しまれるようになっていった。一方、各地で貴重な樹木を使った密造酒が高値で取引されるようになり、違法伐採や保護地域での盗伐が問題視されるようになっていく。
和澄は、希少品から密造品まで、違法スレスレの方法も顧みずあらゆる「木造酒」を味わいつくしてきたマニアだ。そんな和澄の耳に、異星で製造された「特別な木造酒」が数量限定で販売されるとの情報がもたらされる。
地球から10光年離れた系外惑星ピウリー47b。地球に非常に近い環境をもち、地表を群生する巨樹「ピリウリ」に覆われた惑星の開発は2090年代からすすめられており、今回、その木を使った木造酒「ピリリー」が、11年の亜光速航行(光速の約90%)を終えて地球に到着したという。
10光年モノの木造酒――その甘美な響きに欲望を抑えられない和澄は、馴染の高級バーにピリリー酒が入荷したと聞きつけ、至高の一杯を味わう。魅惑的な味わいに酔いしれる和澄だったが、カウンターで隣り合った男は「あんた、何もわかってないな」と鼻で笑う。
男の話ではピリリー酒は蒸留したての味こそ至高、寝かせれば甘味は増すが本当の味は失われてしまうという。彼はピウリー星から帰還してきた蔵人だった。
男の言葉が忘れられない和澄は、すべてを投げうって片道11年(体感約5年)をかけてピウリー47bへ向かうことを決心する。
惑星に到着し、ピウリー酒蔵会の門前に立った和澄が恐るおそる中に入って行くと庭で昼間から木造酒を楽しんでいる男がいた。白髪交じりの長髪に恰幅のいい巨躯、厚い瞼の下から覗く鋭い眼光に、只者でないことは一目でわかる。男は和澄にグラスを差し出し「飲んでみな、飛ぶぞぉ」と呟く。
透明に澄み切ったピリリー酒の中に浮かぶ氷。震える手でグラスを受け取った和澄は酒を口に含んだ刹那、一つの宇宙の始まりから終わりまでを幻視する。
チョウと名乗った男はこの酒蔵の杜氏だという。しばらくピウリー星に滞在し、異星の風景と酒の味、幻視を満喫する和澄。しかしビザの期限は迫る。このままピウリー星に残りたいと考えた和澄は蔵人として雇って欲しいとチョウに懇願するが「お前は蔵人にはなれない、酒に飲まれすぎだ」と断わられる。
個人輸送が許されるだけのピリリー酒とピリウリ樹の木片を土産に地球に帰還する和澄。10光年寝かせたピリリー酒の味に満足できず、故郷の酒蔵に依頼して持ち帰ったピリウリ樹の木片から木造酒を造る。地球産ピリリー酒を味わう和澄だが、何かが足りない。一抹の寂しさを覚えながら、10光年先の味を懐かしみ和澄はグラスを傾ける。
文字数:1200
内容に関するアピール
なるべく新しいトピックかつ自分の作風に活かしやすいものをと考えて調べていたところ、8月上旬のニュースで「木からお酒を造る」木の酒研究棟(木質バイオマス変換技術研究棟)がつくばの森林総合研究所に新設されたというのを目にして、その関連記事を基にアイデアを膨らませました。
製品名としては「ウッド・スピリッツ」という名称があるようですが、商標の関係などがありそうなので「ウッディール」という独自のものを使っています。
木のお酒はいろいろな香りが楽しめるそうで、地球外に存在する木からはどんな風味がするだろうかと想像して、物語を組み立てていった形となります。『酔郷譚』のように幻想的・官能的ではありませんが、幻の酒を求めて異界に入り込む酩酊旅行記を書きたいです。
梗概ではやや哀愁の漂う結末にしましたが、他にもいくつかラストの候補があり、実作を書き進めながら一番しっくりくる着地点を見つけたいと思っています。
文字数:400
酔宙夢譚
二十二世紀も四半を迎えようかという二一二四年。夏の暑さも徐々に薄らぎ、夜風が涼しくなりはじめた九月のある日、和澄は馴染みのバーのカウンター席で一人、メタセコイアの「木造酒」を味わっていた。
彫模様のないシンプルなショットグラスに注がれた無色透明なそれは、湖北省利川産の古木から蒸留された由緒ある古代酒「水杉」として名高い一品である。
グラスを手にして口元に近づけると、昏いダウンライトに照らされた表面には素直な橙が照り映えしている。一口、クセのないさわやかな香りが広がり、やわらかいくちどけで口内に清涼感を残しながら、スッとのどの奥へ溶け込んでいく。
胃が熱さを覚えるが、チェイサーには手をつけない。熱がゆっくりと沈んでいくのを待つ間こそが、和澄にとって至福の時だった。
およそ一世紀前に日本で初めて製品化された「樹木から造られる酒」。木材を1マイクロミリメートルまで微粉砕することでセルロースをリグニンから解放してブドウ糖に分解し、水中ですり潰してクリーム状とする。それを糖化・発酵タンクで醸造し、さらに蒸留を重ねることで蒸留酒とする。
二〇三〇年代にはその技術が普及し、様々な樹種の酒が世界中で造られるようになり、それぞれの地域で特産の「地木酒」が新たな蒸留酒として楽しまれるようになっていった。一方、各地で貴重な樹木を使った密造酒が高値で取引されるようになり、違法伐採や保護地域での盗伐が問題視されるようになっていく――。
惑星開発への投資が当たり三〇代半ばで早期リタイアした和澄は、その財力にものを言わせて希少品から密造品まで、違法スレスレの方法も顧みずあらゆる「木造酒」を味わいつくしてきた。
働いていたころの和澄の酒の飲み方は最悪だった。仕事のストレスから逃れ、嫌なことを忘れるため、ひたすら酒に溺れていた。あのままの生活を続けていれば、確実に身体を壊して更生施設の世話になっていただろう。だが今は純粋に酒の味を楽しむことができる。二口目を舐め、熱い息を吐き、チェイサーから水を含む。
「もうご存知でしょうね」
店内に客はまばらで、暇になったのか、バーテンダーに声をかけられて和澄は視線を向けた。もちろん噂はすでに耳にしている。
地球から十光年離れた系外惑星ピウリー47b――地球に非常に近い環境を持ったその星は、地表を群生する「ピリウリ」と呼ばれる巨樹に覆われている。二〇九〇年代半ばからピウリーの開発はすすめられており、今回、ピリウリ樹を使った木造酒「ピリリ―」が、十一年の亜光速航行を終えて地球に入荷したのだ。
遥かな距離を旅してきた「十光年モノの木造酒」――その甘美な響きはマニアの興味を惹くには十分すぎるほど魅惑的だ。
「残念ながら、うちみたいな小さな店ではとても手が出ません」
異星で製造された「特別な木造酒」は、入荷本数が限られていることや輸送に膨大な時間とコストがかかることから、価格が高騰していた。また、宇宙開発局を通した正規ルートでの取引になるため、いくら金を持っていても和澄のような一般人が個人で簡単に手を出せる代物ではなかった。
近いうちに競売が行われるという情報はつかんでいたが、和澄がそれ以上のことを知るのは難しかった。
「宇宙海岸が、一本落札したという話です」
頷いて、和澄はグラスに残っていた水杉を飲み干し、会計を頼む。
「今日はお客さんが少なくて、退屈ついでにお話しさせていただきました」
代金にチップを上乗せして、和澄は足早に店を出た。
水杉で火照った身体に夜風を浴びながら、和澄は大通りでエアライド・タクシーを拾って宇宙海岸を目指した。入口の走査検問を抜けて、赤い絨毯の敷かれたホールをカウンター目指して進む。直進してくる和澄の姿を見とめたバーテンダーは苦笑いを浮かべ、「流石ですね」と正面の席に腰を下ろした和澄に向かって呟いた。
一杯限定という条件で、和澄はピリリー酒にありつくことに成功した。本来であれば一本ボトルをキープしたかったが、入荷したのが一本きりということであれば諦めざるを得なかった。ボトルの中身は既に半分ほどになっている。
常に広く情報に耳を傾け、機を逃さず迅速に決断し行動すれば、求めるものは手に入る。投資で莫大な財産を築いた和澄の鉄則だ。
小さなグラスをゆっくりと傾ける。口に含むまで特に香りはなく、無色なそれはまるで水のようにさらさらとして見える。舌先にふれると、一瞬、目が覚めるような刺激。続いて甘くまろやかな芳香が広がっていく。刺激された舌は緊張がほぐされるように弛緩していき、酒のなかをゆったりと泳ぐように彷徨う。
和澄は恍惚として、しばらくのあいだ飲み込むのを忘れてしまいそうになる。酒に溺れるとは言うが、一口含んだだけでその芳醇な海のなかへ引きずり込まれそうになったのは初めてのことで、和澄は戸惑いながら喉の奥へと流し込んでいく。ひんやりとした清涼感が肺腑を衝くように広がり、それから胃を温かく包み込むように優しく広がる。
目を閉じて、これがピリリーかと和澄は唸った。
グラスを置いてしばし放心して前を見つめていた和澄を、いつの間にか隣に座っていた男が鼻で笑った。
「あんた、何もわかってないな」
思わず和澄は男の顔をまともに見つめてしまい、すぐに視線を逸らしてピリリー酒の残ったグラスに向けた。
ピリリー酒は蒸留したての味こそ至高、と男は断言した。寝かせれば甘味は増すが、真の味わいは失われてしまう。地球で楽しめるのは所詮劣化した味にすぎない。
男はピウリー星から帰還してきた蔵人であり、今回入荷されたピリリー酒を造ったピウリー酒造会の一員だったという。
出稼ぎを終えて家族と暮らすために地球に戻ってきたのだという男の身の上話を上の空で聞きながら、和澄は「真のピリリー酒」がどんなものなのか、その味にふれることを渇望していた。
稀少酒、密造酒、簡単には味わうことのできない珍しい木造酒は、地球にも数多存在している。絶滅危惧種の保護林や天然記念物に指定された樹木、化石として発掘された木片から造られたものなど、これまで和澄は様々な木造酒を堪能してきた。特別な場所でしか飲むことのできない木造酒の噂を聞きつければ、南米の密林からアフリカの砂漠、メキシコの高山地帯などあらゆる場所へ足を延ばした。
いま、十光年先にまだ味わったことのない木造酒があるという。どれくらい一人で思案していたのか、気がつくと隣の男は居なくなっていた。グラスに残っていたピリリー酒の甘さが何故かつまらないもののように感じられる。
この甘さは本物ではないと、男は言った。
ならばピウリー星へ行くしかない。和澄の心に迷いはなかった。
次に地球の土を踏むのは早くても二十二年後になる。資産を整理して身軽になった和澄は、宇宙港のロビーで出発を待った。
ピウリー星はまだ開発段階であり、一般の観光客が訪問することはほとんどない。和澄は研究目的の調査員という肩書で入星することになっており、三カ月の就業ビザが発行されていた。ピウリー星へはハイクラスの最新旅客宇宙船の運航がなかったため、一世代前の貨物輸送シャトルに出稼ぎの労働者たちとともに乗り込んだ。
ピウリー星まではおおよそ十光年の旅になり、シャトルの亜光速航行では体感時間で約五年ほどかかる。その間、基本的にはカプセル内で低体温状態で睡眠し、定期的に覚醒することを繰り返しながら到着を待つことになる。日常的な栄養補給や排泄、また筋力維持のためのマッサージなどはカプセルによって管理されるため、大きなストレスもなく過ごすことができる。
もちろん起きたままで過ごしていることも本人の自由ではあるが、狭い船室で五年間も日常生活を続ける者はいなかった。和澄も当初は舌が鈍らないよう、持ち込んだ木造酒を飲みながら起きて過ごしていたが、酒が尽きるとやることもなくなってしまった。また、食料が貴重なため船内の食堂の料金が異様に高額なこともあって、三月も経たないうちにおとなしく低体温睡眠を選ぶことになった。
定期覚醒のために何度が強制的に起こされはしたが、和澄はいちいち日時を確認することはせず、体操プログラムと胃へ固形物を入れるための食事を手早く済ませて再び眠りについた。
起こされて、また体操と食事かと思いながらカプセルから身を乗り出した和澄は、ピウリー星に到着したと聞かされて、あまりの呆気なさに拍子抜けしてしまった。
部屋着から調査員らしくスーツ姿に着替える。長らく眠っていたせいかズボンが緩くなっているのをベルトで固定し、何年ぶりにかネクタイを締めながら、和澄は手の感覚を確かめるように何度か拳を開閉した。空腹感はなかったが、胃を含め全身が軽くなっており、アルコールが抜けて頭もすっきりしていた。
中毒者にはコールド・スリープ状態での宇宙旅行が最適か、と和澄は自嘲気味に口元を歪め、船室を後にする。
宇宙港の構内は地球とほとんど変わらず、自分が地球から十光年離れた場所にいるとは感じられない。しかしピウリーへの入星審査を受けて宇宙港から出ると、目の前に異様な光景が広がった。
宇宙港の周辺こそ開発されて小規模な市街地が形成されているが、その向こうに脈々と連なっている山々――と見えるのはピウリー星を覆うように群生する巨樹「ピリウリ」だ。小規模なビルほどもある太さの幹が延々と伸びながら互いに複雑に絡み合い、うねりながら盛り上がり、四方に枝葉を伸び繁げらせており深緑の山のように見える。おそらく和澄が立っている舗装された地面の下にもピリウリの幹か、あるいはその根が張り巡らされているのだろう。
星全体が緑に覆われているだけあって、ピリウリの空気は地球に比べて澄んでいた。深呼吸をすると無機質なシャトルの空調に五年間さらされ続けてきた肺腑が、新鮮なピウリー星の空気で満たされた。コールド・スリープによりすっかり浄化された身体にあわせて、まるで心まで洗われるようだと和澄は感じた。ピウリー星に到着するまでに五歳分、齢をとっているはずだったが、むしろ若返ったかのように調子が良かった。
健康を祝して、まずはピリリー酒で一杯やりたいものだという思いが、和澄の中に自然と湧き起こってくる。身体はすっかり浄化されたが、本質は何も変わっていないことに安堵して、和澄は目的地であるピウリー酒造会を目指した。
荘厳な門構えに力強い毛筆で「會造酒ーリウピ」と書かれた看板が掲げられた、ピウリー星屈指の酒造所「ピウリー酒造会」は、四方を高い塗り壁の塀に囲まれている。身長の倍ほどもある重厚な正門は閉ざされていたが、脇の通用門は開いており、和澄はそこから中に入って行った。
砂利敷の庭に飛び石で道が作られており、その上を歩いていくと分かれ道になっていた。左手の道は酒造所の建物のほうへ続いているようで、和澄はそちらに向かいかけて、足を止めた。
ほんの微かに甘い酒のにおいがする。それは建物を迂回して裏側に続いている右手の道のほうから漂ってくるようだった。躊躇いなく、和澄は右へ進んだ。
酒造所の脇を抜けると、ピリウリ樹の枝葉を庭木のように生い茂らせてつくられた中庭に出た。甘くまろやかなにおい――これは間違いなく地球で味わったピリリー酒の、それも濃厚な香りだった。和澄は思わず唾を呑み込んで、香りのするほうへ近づいていった。
木陰に据えられた石の上に、恰幅のいい男が腰かけていた。足元は白いゴム長靴、ベージュの作業ズボンを履いた足はどっしりと開かれ、間にピウリー酒造会と書かれた紺の前掛けが垂れている。上半身は黒いTシャツの上に紺の半纏を肩に羽織ったラフな格好だ。白髪交じりの長髪の間にある顔は、口元が無精髭に覆われ、厚い瞼の下から鋭い眼光を和澄のほうへ向けていた。
「よう」
少しこもった、しかしずっしりと響くような低い声で男は和澄に呼びかけた。挨拶するように軽く挙げられた大きな右手の指の間には、よく見るとロックグラスが収まっている。
和澄は会釈して男のほうへ近づいていく。遠くからは男の巨躯に隠れて見えなかったが、石の上にはラベルの貼られていないボトルが一本置かれていた。間違いない、ピリリー酒だ。さらに盆の上にいくつか握り飯が置いてあった。
「着いたばかりで腹減ってるだろう、食うか?」
男は盆を和澄のほうに差し出す。握り飯よりも、まずはピリリー酒だと和澄は思う。そんな考えを見透かしたように男は「出来立てのピリリーは空腹で飲んだら、胃がやられちまうぞ」と不敵に笑った。
男の言葉に従って、和澄は渋々握り飯を一つ口にする。まだ温かく、ふんわりとした柔らかさと、しっかりとした弾力、そして広がるような甘さを備えた上等な米だ。
「ここは水がいいからな。五年前の米でも旨く炊けるんだよ」
地球から取り寄せた新米で炊いたのだと男は満足気に言う。酒を飲む前にご飯を食べるというのは和澄の美学に反していたが、確かに握り飯は旨かった。
男は空のロックグラスにピリリー酒を注ぎ、トングでアイスペールから氷を一つ摘まんで入れて、和澄のほうへ差し出す。グラスを受け取った和澄の手が、アルコール中毒の禁断症状のように震えて、グラスの中の氷が揺れた。五年ぶりの木造酒、しかも至高のピリリーである。
グラスを口元に近づけると、先ほどから周囲に漂っていた濃厚な香りが、さらに一段と強くなった。
「一気にいきな、夢ぇ見れるぞ」
言われるがままに和澄はグラスを傾けて、ピリリーを口内へ流し込む。刹那、和澄の視界は光を失ったように暗転した。
★
何も「無」い――何も映らない、音もなく知覚から隔絶された、存在さえもままならないゆらぎが、明滅するように在ろうとしては消えてしまう。繰り返される明滅にはまだ時間が与えられておらず、ただ同じ点で無限に続く「無」を限りなく「無」たらしめている。
いつしか存在しないはずの無が破られて、今度は無限に限りなく「有」へと転換して広がっていき、再び収縮しはじめたとき、瞬間という時が生まれた。すべてが無くすべてが有った瞬間は凝縮されてタネとなり、タネに蓄積されたエネルギーが膨張して広がっていくことで瞬間は終わり、時間が流れはじめる。
拡散されたエネルギーは無数の粒となって、互いにぶつかり押し合い混ざり合い、熱を持って膨張しながらそれぞれの居場所を求めて有を埋めるように飛び散っていく。その隙間を走るように発光した粒が全方位にまっすぐ走って線となり遠ざかっていった。その伸びていく先が距離となって有のなかに空間を形づくっていく。
ぶつかり合っていた粒子たちはいずれそれぞれの居場所を見つけ、引きつけ合いながら渦を巻くように中心を作りほかの粒たちを堆積させていく。やがて中心となった大きな渦の周りに、小さな渦がいくつも形成されていき、螺旋の流れのうえを漂うように、さらに粒たちが集まっていく。
粒の中央に凝集されたエネルギーが小さなタネとなり、まばゆい星の萌芽となる。大きな渦に巻き込まれながら、踊る小さな渦。そのまた中に無数の星のタネたちが揺られながら、自らの回転を見つけて軌道に乗り、安定していく。回り続ける星のタネはやがて密度を増しながら重くなり、周辺に浮かぶ様々な粒たちを引き寄せていく。星に惹かれた粒が結合し、様々な形をとりながら星の姿を作っていった。
はじまりの瞬間からどれだけ時間が経ったのか、いつしか星は自らの姿を定めて軌道の流れに乗りながら代謝しはじめる。熱を帯びていた粒たちは結びつきながら星の表面を覆うように液状になって付着し、次第に熱を失っていく。冷やされた星に新たな粒が降り注いで熱を帯び、再び冷まされていく。その繰り返しの中でやがて星の気候は安定していき、
中央に眠っていたタネが芽吹く。小さな芽は星の体内を這い伸びるように茎と幹、枝葉を張り巡らせ、成長を止めることなく伸び続けていって、いつしか星を覆いつくす。
和澄は一瞬、その星の中で無数の粒の集合の一つとして在り、消えてしまう。
一方で、距離の果てを求めて走り続けていた光の粒たちは、やがて勢いを失って減速し停止する。速度を失った空間はゆっくりと時間をかけながら、徐々に活動を終息させていく。ある渦は中央の密度を増すために周囲のすべてを呑み込んでいき、またある渦は逆流して霧散していく。安定しはじめていた複雑な回転の重なりは徐々に崩れていき、空間の法則が乱れる。
終わりにたどり着いて停止していた光は、かつて無であった中心に向かって、来たときと同じ速度で引き寄せられるように戻っていく。その速度に巻き込まれるように拡散した粒たちは、中心に引かれて急速に収縮する。無数に散らばっていた小さな中心のタネたちはほころび、一つひとつの粒へと解体されて軽やかに重さを失っていく。
有によって広がり形づくられていた空間がその奥行きを失い、距離はどんどん短くなって空間を削り取っていった。空間と距離が混ざり合って一つの点に凝集されて、最後に残された有が揺らいで反転し、明滅する無に還ったとき、時間は瞬間となって消滅した。
そうして始まりと終わりの集う場所は、何も「無」い無となった。
★
空になったグラスを片手に、和澄はしばしぼんやりと前方を見つめていた。
「どうだ、うめぇだろ?」
男の声に我に返り、和澄はいったい自分が何を見たのかと考える。長大な時間の流れのなかに飲み込まれていたような、しかし一瞬のことだったような、不思議な感覚が残っていた。和澄は自分が何を見たのか理解できず、ピリリー酒を口にしたことさえ思い出すことができなかったが、グラスが空になっているということは酒を飲んだことに間違いはなさそうだった。ピリリー酒のもたらしたあまりの刺激に、和澄は五年ぶりに口にした酒の味を楽しむ余裕などなかった。
曖昧に頷いて、和澄は勧められるがままに二杯目を口にする。さらさらと流れるような舌ざわり、口内に広がる芳醇な甘味から続く柔らかく撫でるような喉越しから、心地よい胃の火照り。
これまでに飲んできた木造酒は、胃を刺激するような熱が「生きていること」を実感させてくれたが、ピリリー酒のもたらす温かさは自分がこの宇宙の生命の一部であるという包み込まれるような安心感を与えてくれるものだった。
一口飲んだら 夢心地
二口飲んだら 母の腕
三口飲んだら あの世行き
歌うように言って男は三杯目を勧めたが、和澄が頭を左右に振って、調査員のIDを提示すると男は「おう、話は聞いてるよ」と言って、グラスに入ったピリリー酒を一気に飲み干す。
「俺は丁、ここの杜氏をやってる。よろしくな」
丁は大きな手で和澄の手を奪うようにして握手を交わしてから、「案内しよう」と言って立ち上がった。並んでみると丁の背丈は和澄より頭一つ分ほど高かった。
基本的に酒造所の中の設備は地球のものと全く同じであり、和澄には面白みのないものだった。退屈そうな和澄の表情を察してか丁は「まぁ、見慣れたもんだろう。基本的にやることは地球と変わらんさ」と呟く。
木片を微細に粉砕して発酵させたものをさらに蒸留することで木造酒は出来上がる。その程度のことはすでに和澄は熟知しており、丁もわざわざ説明することはなかった。二人は工場を抜けて、そのまま貯木場のほうへと向かう。
貯木場に入ると清涼感のある独特な樹木の香りが充満している。
「ピリリーの秘密はこいつさ」
山のように積まれた木片を大きな手で撫でながら、丁は満足そうに言って「もっとも、ここじゃ、どこにでもある当たり前のものなんだがな」と付け足した。
それはピウリー星を覆う巨樹ピリウリを伐り出したものだ。和澄も木片を一つ手に取って香りを楽しんだ。
一通りピウリー酒造会の施設の見学を終えた和澄は、その後、しばらく丁の杜氏としての仕事ぶりを眺めていた。元から鋭かった目つきが、さらに真剣さを帯びて近づきがたい雰囲気を醸し出している。短い言葉で部下の蔵人たちに指示を出しながら、作業の各工程を忙しなく確認していく丁の動きには無駄がない。
出来立てのものを丁が味見して、満足気にうなずくと、和澄に一杯勧めてくる。小さなショットグラスを受け取り、先ほどはロックで飲んだのを、今度はストレートで味わう。
一瞬、視界がホワイトアウトして、中央に小さな点のようなものが見えた。その点は次第に近づいてきて、翼を広げた鳥のような輪郭を現していく。全身が玉虫の羽のような光沢を帯びて輝いているそれは、和澄の顔のすぐ横を通り抜けて、後方へと遠ざかっていった。
すれ違いざまに呼びかけられたような気がして、和澄は咄嗟に振り返ったが、そこにはピリウリ樹が山のように連なっている景色が見えるばかりだった。
「お前も鳥に呼ばれたのか」
和澄がうなずくと、丁はにやりと口の端をゆがめて笑う。たしか三カ月だったか、と和澄の滞在期間を確認した丁は、その間に一度、ピリウリ樹の伐り出しのために遠征隊が派遣されることを説明し、和澄もその一員に加わるように言った。
酒造会の近くにとってあった宿に向かいながら、和澄は先ほど見た「鳥」のことを考えていた。丁の話によれば、この星に暮らす人々から「ピルモー」と呼ばれているその鳥は、ピリリー酒を飲んだ者の数人に一人が幻視するという。
地球の日本でいえば初冬くらいの気候で安定しているピウリー星には、鳥や魚のようなものから虫まで、種類は少ないが固有の生物は存在している。しかし実際に玉虫色に輝く鳥の姿を見た者はいないという。ピリリー酒を飲んだ者のうち、限られた者だけが幻を見ることから、蔵人たちにとっては幸運をもたらす縁起の良いものとされている。丁はピリウリの樹海の奥には「幻の鳥」が実在するのだと信じているようだった。
ピリウリ樹の伐り出し作業は、木造酒の原料とするために行われるのだが、もう一つ、ピリウリの樹海の中心にある大樹の心臓ともいうべき根を探り当てることを目的としていた。調査隊は、回を重ねるごとに少しずつ奥地へと足を踏み入れているが、まだ未踏の場所も多く残されていた。
宿は古い日本家屋を思わせる重厚な木造だった。とにかく樹木が生い茂っているピウリー星では建物の多くは木で造られており、日本古来の建築技術が活かされていた。
チェックインして部屋に荷物を置いた和澄は、ひとまず室内に併設されたピリウリ樹で作られた木風呂で汗を流す。五年ぶりの入浴、熱い湯の中でピリウリ樹の香りに包まれながら、全身がほぐされていくのを和澄は感じた。
部屋に置いてあった木製の盆を湯に浮かべて、丁からもらったピリリー酒を一本開けて、グラスに注ぐ。備え付けの冷蔵庫にあったミネラルウォーターも盆にのせておき、水割りで一杯。
身体が皮膚と内臓から温まっていき、長旅のあとで久しぶりに歩き回った和澄の疲れを癒していく。視界が暗転したりホワイトアウトするようなこともなく、純粋にピリリー酒の味を楽しみながら、和澄が湯気の逃げていく天窓の先を見上げると、大きな白い月が夜空に浮かんでいた。
ピウリー星の一日は地球よりも三時間ほど短い。コールド・スリープの間に、自然とその周期に馴染めるように刷り込まれているらしいが、地球よりもだいぶ近い衛星との距離感にはしばらく慣れそうにもなかった。
夕食の半分は地球から持ち込まれた食材を使ったものだったが、メインで出てきた白身の魚はピウリーに生息するピリバスと呼ばれる川魚らしかった。ずいぶん淡白な味だったがピリリー酒と一緒に口にするとほどよく甘味が染みて美味かった。魚にあわせて米が食べたくなったが、あいにく食卓には用意されておらず、昼間に丁からもらった握り飯が恋しくなる。
木造酒を飲むときは、長くその味を楽しむため米は食べない主義だったはずが、和澄は自分の変化に戸惑う。おそらく長らく酒を断っていたせいで感覚が変化してしまったのだろうと納得して、酒の味を知った舌を取り戻すため、膳が下げられた後もしばらく大きな月を眺めながらピリリー酒を一人、呷った。
翌朝、和澄が酒造会を訪ねると、遠征は一カ月後だと丁に聞かされた。それまでの間、調査員という肩書から、和澄は仕方なく形ばかりの研修を受けたり、酒造のプロセスをチェックしたりといった退屈な日々を過ごした。
昼間は丁と昼酒を楽しみ――ほかの蔵人たちは仕事中に酒を飲むことを禁止されていた――、夜はピリウリ風呂の香りを楽しみながら月を相手に酒を呷る。遠征を待つ間、和澄はそんな生活を続けていた。
ときどき、ピリリー酒の影響で短い幻覚を見ることはあったが、あれ以来、玉虫色の鳥の姿が現れることはなかった。幻覚のなかには、自分がピリウリ樹になって長い年月をかけて成長して絡み合い、星を覆っていく感覚を味わうものや、ピリウリ樹の葉の裏に産みつけられた卵から孵化した虫の一生を体験するものなど、ピウリー星にまつわる様々な体験が含まれていた。
そのせいか、毎日、酒造会と宿の間を往復してただ酒を楽しんでいるだけのはずが、和澄はすっかりピウリー星に詳しくなっていた。丁も相当な酒飲みであったが、和澄も劣らずピリリー酒浸りの生活だった。
しかし、遠征の一週間前になって突然、丁は和澄がピリリー酒を口にすることを禁じた。理由は感覚が鈍くなるからというものだった。複雑に絡み合ったピリウリ樹の根源に近づくため、遠征隊に参加する者は感覚を研ぎ澄ませる必要があり、遠征の一週間前から遠征の間にかけて、一切の酒類を口にすることを禁じるという仕来りになっているという。
そんな話は聞いていないと抵抗することもできたし、遠征への参加を拒否することもできたが、和澄は幻の中で垣間見てきたピウリー星の歴史から、星の根源に興味をもつようになっていたこともあって、身体がピリリー酒を求めるのを必死に抑え込みながら、出発の時を待った。
杜氏という立場から丁は酒造所を離れることができず、遠征隊は若い蔵人を中心に、星の植生を研究する学者たちも加わって出発した。途中までは六人乗りのホバー・カーに分乗して進むことができたが、三日目からは重たい荷物を背負って歩くことになり、和澄は隊の最後尾を必死になってついていった。
岩肌のようにごつごつと固くなっている道は、古いピリウリ樹の皮が硬化したものであり、隊は先ほどから巨大な樹木の幹のうえを進んでいるのだった。密林のように生い茂っているのはピリウリ樹の枝葉であった。これらがさらに時間をかけて成長し絡み合っていくのである。
前回調査の最終ポイントまで直進して、そこにキャンプを設営する。学者たちはキャンプ周辺の植物――といっても和澄にはすべて同じピリウリ樹にしか見えなかったが――について調査をすすめ、蔵人たちは木材を収集しながらさらに奥へと道を切り開いていく。和澄は蔵人の部隊に加わることにして、渡された鉈で小さな枝を叩き落としながら、ピリウリの樹海を彷徨った。
はじめの数日こそ、和澄は真面目に蔵人たちの仕事を手伝っていたが、一週間もするとピリリー酒の味が恋しくなってくる。樹海の茂みに紛れるように身を隠し、荷物の底に忍ばせておいたボトルを取り出して、艶のあるガラス瓶を撫でる。
グラスを用意する手間も惜しく、ボトルに口をつけて一口。ピリリー酒は和澄のなかへと流れ込むのを待っていたかのように抵抗なく芳醇な香りと甘い刺激の快楽をもたらしてくれる。ストレートで口にしたピリリー酒は、しばらく酒を断っていた和澄にはあまりにも刺激的過ぎた。
バランスを崩すように倒れかけたのを何とか持ち直して、太いピリウリ樹の枝につかまって深く呼吸する。胃が焼けるように熱く、さらなる刺激を求めていた。片手を枝に添えたまま、もう片方の手に握っていたボトルを持ち上げて、二口目を呷る。
美味い。思考が白濁としていき、遠くで何かが光るのが見えた。枝から手を離して、壁のように続く幹を撫でるようにして、光のほうへと歩いていく。うまく足が運べず、千鳥足。だが、ボトルを落として割ってしまわないよう、手にはしっかりと力を込めて、前なのか後ろなのか、とにかく足を動かして光を追い求めた。
耳元で鳥のさえずるような歌声が聞こえる。
一口飲んだら 夢心地
二口飲んだら 母の腕
三口飲んだら あの世行き
和澄は、ボトルに口をつけて三口目を呷った。
背後から羽ばたきの音がして、振り返るまもなく、妖しく輝く小さな鳥が和澄の頬を掠めるようにして前方へ飛び去っていった。幻のピルモー鳥の長く伸びた尾羽をつかもうと和澄は手を伸ばす。その拍子に手にしていたボトルが落ちて割れる音がする。だが、そんなことは気にも留めず、和澄は全力で駆けだしてピルモー鳥を追いかけた。
フラフラの足取りで、しかも足元は樹木が複雑に絡み合った凹凸のある地形のはずであったが、とにかく和澄は鳥に導かれるように真っ直ぐに前進していた。何かが身体に絡みついたり、肩や腕にぶつかるような感覚はあったが、痛みは感じない。
息が上がっているはずなのに苦しさはなく、手足にも疲れはない。ただ幻の鳥は一定の距離を保って前を飛び続けており、離れることも近づくこともできない。
どれくらい走ったのか、もう元来た場所へ戻ることもできないくらい、和澄は自分がどんな道を進んできたのかわからなくなっていた。さすがに身体が限界をむかえたのか、次第に和澄の足の動きが鈍くなってきたころに、ピルモー鳥は太く岩のように硬くなった幹から伸びた一本の枝にとまって、和澄のほうに顔を向ける。
一声高く啼いて、ピウリー鳥は天高く飛び去っていった。和澄は足を引きずるように鳥のとまっていた枝に近づき、大人の胴ほどもあるそれに手を触れた。まだ若い木肌は脈打つように熱かった。
背負っていた荷物から、和澄は小型のチェーンソーを取り出して、枝を断ち伐った。枝を持ち運べるサイズに加工し、それを大切に抱えるような格好で和澄はとにかく来た道を戻ろうとする。しかし酔いが醒めたのか、耐えがたい疲労に襲われて、その場に倒れ伏し、意識を失ってしまう。
気がつくと和澄はキャンプ内の簡易ベッドの上で横になっていた。抱えていた枝がなくなっていることに焦りを覚えて咄嗟に上体を起こすと、枝はベッドのすぐ横に荷物と一緒に置かれていた。
両脚は疲労困憊して痛みもあったが何とか立ち上がった。全力疾走して汗をかいたせいか、身体からアルコールはすっかり抜けているようだった。テントの外で顔見知りの蔵人に声をかけて話を聞くと、どうやら和澄はキャンプから少し離れた茂みのなかに倒れていたらしい。そこは和澄が隠れてピリリー酒を飲んだ場所のすぐ近くだった。
和澄の持ち帰った枝はかなり立派なもので、蔵人たちはしきりに良いピリリー酒ができそうだと褒めそやした。皆で和澄の倒れていたあたりを探したが、同じ品質の枝を見つけることはできず、どこで見つけたのかと訊かれても、和澄には答えることができなかった。
持ってきたピリリー酒も落としてしまい、その後は酒も飲まずに蔵人たちの仕事を手伝ったが、たいした収穫もなく、再びピルモー鳥を目にすることもなかった。
遠征を終えてピウリー酒造会に戻ると、和澄が良質な枝を手に入れたという話を聞きつけていた丁の歓迎が待っていた。
和澄は作業用の荷物を返却すると、一度宿に戻って風呂で疲れを癒し、夜は丁の主催する遠征隊を労うための宴に出席した。ピリリー酒をはじめ、地球から取り寄せられた様々な木造酒が振舞われ、和澄も久しぶりに最もポピュラーな木造酒の一つであるサクラ酒を味わった。
丁は蔵人たち一人ひとりにピリリー酒を振舞って回り、最後に和澄の隣に腰を下ろした。
「鳥に会えたみたいだな」
和澄のロックグラスに氷を入れてピリリー酒を注ぎながら丁は言って、「だが、ピリウリ樹の心臓にはたどり着けなかったか」と笑った。
「しかし悪くない枝だ。良い酒ができるぞ」
グラスのピリリー酒を一気に飲み干して、和澄は次回の遠征にも参加したいと伝えた。丁は頭を左右に振って、これからピウリー星は長い雨期に入り、次の遠征は和澄の滞在期限よりも先になると言った。
脱力して肩を落とした和澄の背中を軽く叩き、丁は二杯目を勧めた。
一口飲んだら 夢心地
二口飲んだら 母の腕
三口飲んだら あの世行き
宴席のどこかで誰かの歌う声が聴こえる。気分がいいのか、丁も手を叩いて調子をとっている。和澄は手酌で三杯目をついで飲む。
――あの世行き。和澄の胃は熱く疼いているが、まだあの世は遠そうだった。無性に腹が減って、和澄は刺身を数切れ口にして、ショットグラスに持ち替えてストレートのピリリー酒を呷った。
四口飲んだら 正気に返る
隣で丁が口ずさんだ。その一言で和澄の酔いは完全に醒めてしまい、ピリリー酒の味や香りがわからなくなる。
「ほどほどにしておけよ」と言い残して丁は立ち上がり、上着をはだけて踊っている蔵人たちの輪の中へ入って行った。
丁の忠告も虚しく、その夜から連日、和澄はピリリー酒に溺れながら、ぼんやりと月を眺めて過ごした。和澄の持ち帰った枝から造られたピリリー酒を土産だといって、丁から数本のボトルを受け取った。出来立てを味わうために一本開けようかと思ったが、和澄はすべて持ち帰ることに決めた。地球に戻るまでの5年の間に楽しむつもりだ。
帰還の日が近づくにつれて、もう一度、ピルモー鳥に出会いたいという思いが和澄のなかに募っていく。そして願わくは、ピリウリ樹の心臓を探し当てたい。
帰還の一週間前になって和澄は意を決して蔵人としてピウリー星に残りたいと申し出たが、丁は鼻で笑って「お前には無理だ。酒に飲まれすぎている」と一蹴した。その言葉に反論する気も起こらず、未練も残らなかった。自分はもともと最高の木造酒の味を楽しむためにここに来たのだと、和澄は目的を思い出して、残りの数日は出来立てのピリリー酒を楽しむためだけに費やそうと決めた。
「達者でな」の一言で和澄を見送って、丁は仕事場へ戻っていった。
個人で持ち込めるだけのピリリー酒とピリウリ樹の木片を荷物に詰め込んで、和澄は帰りのシャトルに搭乗する。
毎日三口と決めて、ピリリー酒での晩酌を楽しみ、持ち込んだ酒がなくなった後はコールド・スリープで内臓を休めた。
帰り着いたとき、地球では二十二年の歳月が経ち、和澄は十歳、齢をとっていた。出発前に整理して残しておいた資産はずいぶん目減りしていたが、まだしばらくはやっていけそうだった。ピウリー星から持ち帰ったピリリー酒はシャトル内で飲みつくしてしまい、手元に残ったのは数本のピリウリ樹の木片だけだった。
それを旧知の酒造所に持ち込む。代替わりはしていたが先代はまだ健在であり、和澄のことを覚えていた。コールド・スリープの効果か、あまり老けていない和澄のことを不審そうに見ていたが、事情を説明すると納得し、ピリウリ樹の蒸留に関心をもってくれた。
和澄は手持ちの木片をすべて提供し、調査員の仕事として申し訳程度に記録しておいたピウリー酒造会での製法に関するメモも渡し、水を変えてみるなどいくつかの条件下で木造酒を造ることを依頼した。
メモの解析や条件の選定など、木造酒が出来上がるまでには一月ほどの時間を要したが、ようやく完成した地球製のピリリー酒を前にして、和澄は気分が高揚するのを抑えられなかった。最終的に和澄の前には三本のボトルが並べられた。
一本目のボトルを開ける。広がった香りはピウリー星のものよりもやや濃いが、確かにピリリー酒のものだった。一口目をストレートで味わうと、香りに比例して味もやや濃くて、まとわりつくようなまろやかな喉越しがあった。胃に落ちた酒は熱く、すぐに身体が火照ってくる。
二本目。漂った爽やかな香りはピリリー酒のものではない。期待せずに和澄はショットグラスに注いで一気に呷る。さらさらとした舌触りはピリリー酒に近いが、甘味が薄く物足りない。先に飲んだ一杯の濃さが残っていたせいもあり、本物とはほど遠いものだ。
最後の一本。芳醇な香りに和澄の心がわずかに踊る。二本目に似たさらっとした舌触りと芳醇な喉越し、だが甘味よりも辛みが強い。もう二度と、本物のピリリー酒の味を楽しむことはできないという失望に襲われ、和澄はグラスを置いてアルコールの混じった溜め息を吐いた。
和澄の試飲を見守っていた杜氏が、実はもう一本、別の条件で造ったものがあるといって、ボトルを持ってきた。しかしそれは香りがほとんど飛んでしまっており、完全な失敗作であるということだった。
念のため開けてみるが、杜氏の言うとおり香りはなく、和澄は飲むこともせずにボトルのふたを閉めた。
礼を言って四本のボトルを受け取り、和澄は仮住まいにしているホテルに戻った。どこかのバーでヤケ酒でも飲もうかと思ったが、気落ちしてそんな気分にもなれず、部屋の窓から夜空に浮かぶ地球の小さな月を眺めながら、持ち帰った出来損ないのピリリー酒を順番に開けていった。心なしか酔い方も味気ない。
酒のつまみにと、ホテルのバーに連絡してフィッシュ&チップスを注文する。つまらない酒にはつまらないつまみが似合うだろう。ピリリー酒を飲みながら月を眺めていると、ピウリー星で過ごした夜のことが思い出される。月も酒も地球ではずいぶんとスケールが小さくなってしまい、酔って幻を見ることもできない。
不意にはじめて出来立てのピリリー酒を飲んだときに丁にすすめられた握り飯のことを思い出してバーに問い合わせてみると、米を用意できるという。届いた炊き立てのご飯はふっくらと柔らかく甘かった。さて、この味には四本のうちどのボトルが合うだろうかと考えて、和澄は四本目の香りのないボトルを開けて、ロックグラスに注いだ。
これで何口目か、覚えていなかった。もうとっくに四口は超えており正気は失っているはずだ。口に含むと一瞬、ピリウリ樹の太い幹や枝の絡み合った樹海が目の前に広がり、頭上に重なり合った枝葉の隙間から、鳥のはばたきが聞こえた。しかし幻はすぐに消えてしまう。いつの間にか月は雲に隠れ、窓には疲れた和澄の顔が映っていた。
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