翠曜日の夜、午後八時に

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梗 概

翠曜日の夜、午後八時に

翠陽すいようの光は地球上に五感を伴う幻覚、翠幻すいげんを見せる。肉眼でしか視えない翠幻は、日常には死者や空想生物など様々な形で、十年周期で訪れる翠曜日には超常的な形で現れる。

ある翠曜日、五階建ての高さの大洪水の翠幻が東京を襲う。百万人が水没を知覚し、空気中で溺死した。飲み込まれる寸前、幼馴染の帆夏と冬羽は沙月に救出された。沙月は翠曜日に現れる塔の翠幻に、翠陽から人類を救う方法があると噂されるから、塔を目指せばよいのだと。

沙月は翠眼を持つ。翠眼は視ることで翠幻を写しとり、現実から消す。一人の翠眼では視れる量に限界があるから、大きなのは複数人で写しとる。翠眼は翠眼者と視線を交わすと獲得される。沙月に憧れ、二人とも翠眼を得た。翠眼同士は視線を交わし、翠幻を共有できる。

翠眼者は獲得から十五年程で訪れる〈その時〉にむけ、徐々に全ての知覚を失い、最後は無感覚に閉じ込められる。それは死より恐れられ、人々は翠眼者から目を背ける。

二人は日々、人々を翠幻から救った。夏帆は翠眼のケアを怠り、翠幻が眼に焼き付きそうになるが、冬羽の眼薬に助けられる。冬羽は本当は前に立つより、薬を作る方が好きと言った。材料探しの途上、千秋を助け、拒むのを説得して翠眼者グループに入れる。

〈その時〉がくると、沙月は冬羽を次のリーダーに任命し、視線を交わした。夏帆は冬羽が声を荒げて泣くのを初めて聞いて、今後も助けると誓った。

冬羽は翠眼者の仲間を増やし、翠曜日に備えた。上の空の千秋を注意しに家を訪ねた夏帆は、千秋と視線を交わす。夏帆にも彼女の家族の翠幻が視えるようになった。街で見つけ、写しとり、視て暮らしているという。焼き付くよ。と言って目薬を渡すが、強く咎められない。

翠曜日が訪れ、人々が業火の翠幻から逃げる中、夏帆達は塔へ向かう。写しとれる限界を越えた量の業火を前に、多くの犠牲を出し塔に近づくが、後少しの所で千秋の翠眼が働かず、逃げ帰る。

冬羽は焼き付きを隠していた千秋に激昂し、千秋を実験体に写しとり量をあげる薬を作り始め、夏帆は協力した。夏帆が開発の途上、千秋に薬を差すと、焦げ付きは治り、家族の幻は消えた。その後、千秋は自殺した。冬羽は薬作りは順調と喜んだ。自身以外を信じない風に狂っていく冬羽に何も言えず、夏帆は苦しくなる。

街中で翠眼を失った死体が相次いで見つかり、夏帆は冬羽の仕業と気づく。夏帆が冬羽に詰め寄って目を合わせた瞬間、沙月が冬羽に共有した歴代のリーダーの翠幻を夏帆も視れるようになり、重い責任感に冬羽が苦しんでいたのを知る。冬羽は姿を消し、夏帆がいくら探しても見つからない。

次の翠曜日、最後と思い夏帆は塔へ向かう。塔の元に冬羽が現れ、塔を写しとり去った。夏帆は思い出の公園で追いつき、目を合わせる。塔を共有し、頂上へ至る。

天上の翠陽から声がする。この塔で光になれる。地球を出て翠陽に行けば救われると。

一人で光になろうとする冬羽に〈その時〉が訪れ、倒れ込む。夏帆は駆け寄り、二人でまた同じ幻を視ようよ、と言って冬羽を抱く。翠陽の光の下、夏帆にもすぐ〈その時〉が訪れる。

文字数:1288

内容に関するアピール

わかり合っていたと思っていた友がおかしくなっていくのを救えなかった。そういう青春の記憶を引き出しながら時間軸などを変えてみました。

一年に一度、もしくは一生に一度の大舞台に向け、先人からの期待やプレッシャーを感じながら、わたしたちは「成し遂げる何か」の準備をします。ひょんなことから大舞台が大惨事に終わったとき、リーダーの落胆は計り知れません。事後の処理でリーダーを支えるつもりが、誰か個人の責任を追求することになり、結果としてコミュニティが壊れてしまったことがあります。

共犯関係のなか、親友がおかしくなっていくのを目の当たりにしながら、狂っていくことに自分が加担していたと気づいた時の悲しさ、悔しさは計り知れません。

視線を交わし、わかりあったつもりでも、誰かが感じている重さとか大切な想いとかを察することはできないものです(ことばにしていないのだから当然です)それでも、わたしたちは仲間と共に何かを成し遂げることを止められません。たとえその成し遂げることが、世間的、世界的にはなんの価値もないことだったとしても。成し遂げるために投じた熱量は暴力的に跳ね返ることがあります。

それにまつわる感情をSF世界に投射しました。一生に数度のチャンスを演出するために、時間軸を調整しています。

※ 眼というデバイスはSFで用いたいと思っていました。

文字数:565

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翠曜日の夜、午後八時に

1.

 白目が翠色の人とは決して目を合わせてはいけない。
 たとえその眼がどれだけ綺麗で、本物のエメラルドのように妖しく燦爛と輝いていたとしても、普通に生きて普通に死にたいのならば目を背けないといけない。そう言って、翠色の眼をしたひとが近くにいるときは、強く抱きしめて守ってくれた母が死んでからもうすぐ六年になる。
 南の空高くに浮かぶ、満ちた月と同じくらいの大きさの円い光源から、碧色の光が降り注いでいる。それは天体であるとも、実はそうではないとも言われ、翠陽すいようと呼ばれている。
 翠陽の光が強い。そういうとき、伊勢いせ夏帆なつほは六年前に家族を奪った大災害のことを思い出さずにはいられない。光の感じは似ている気がする。けれど、本当はあの光はもっとずっと強かった。
 渋谷道玄坂を登ったところの路地裏で、じんじんと痛む目頭を親指で抑えながら、夏帆は同居人の朱鷺杜ときもり冬羽ふゆはが到着するのを待っていた。路地に停められたシルバーの高級車のミラーに、夏帆の顔が映っている。その眼球は翠、つややかなエメラルドグリーンで、街灯に淡く照らされた珠に、磨かれた黒曜石のような深く美しい色をした瞳が浮かんでいる。翠眼すいがんと呼ばれるその眼を持つ者は、普通に生きて寿命をまっとうすることから、生きるほどに遠く離れてしまう。
 翠眼になったはじめの年は、多くのひとが畏れを隠しもせずに自分から目を背けるのを悲しくも思ったけれど、二年もすると慣れてしまった。子供を連れた親たちは、夏帆を見るとすぐ、あからさまに怯えた顔をして、子供を強く抱きしめて目を閉じさせた。それを見る度に、かつて自分もあんな風に母に守られていたのだと思った。それで、自分たちを避けるひとびとを恨めしいとも感じなくなった。
 翠眼の者と目を合わせると翠眼が伝染うつる。だから、見かけたら逃げなければいけない。そんな幼い子供同士のいじめのような、単純すぎる論理を誰もが信じている。そして現実に、それは差別のための言いがかりなんかではなくて、翠眼は視線を介して伝染する。翠眼の者と目を合わせると、見られたものは遅くとも数ヶ月以内に翠眼になる。
 色々なものが翠色に見えるんですか? なんてよく聞かれるけれど、そんなことは全然ない。見え方も、見えるものも変わらない。それでも、翠眼は持つ者の知覚中枢に深く入り込んでいるから、そのおかげで翠眼でしかできないことがある。その代わりに、翠眼者は段々と世界の知覚を失っていき、普通の寿命よりも遥かに早く、あらゆる物を知覚できなくなってしまう。単純に早死するひとと片付けられてしまうことも多い。知覚をまるっきり失ってしまったあと、虚無の中で生き続けるひともいるというのに。
「犬に噛み殺されるぞ。狂犬病みたいな犬があんなにたくさん渋谷にいるなんて信じられない。そこの君も早く逃げないとだめだ」
 髭面のバーテン風の男が、少し先の角を曲がってこちらに駆けてきてそう言った。彼の後ろから、十人くらいの酔っ払った男女が必死の形相で逃げてきた。そのうち何人かは、時代遅れの紙煙草を火のついたまま落としていった。
「わたしは大丈夫。通報を受けて来たんだから」
 髭面の男は夏帆の眼の色に気づくと、それ以上何も言わずに駆け出していった。
 翠眼でしかできないことをするために、夏帆はこんなところまで来た。
 荒ぶるたくさんの犬の幻覚をこの眼で写しとって消す。通報の内容通り、今夜すべきことはどうやらそういうことらしい。
狂犬の群れなんて見えても怖くない。六年前、夏帆が忘れもしない2043年11月8日、あの日はもっと強い幻覚が東京を襲った。あれにくれべれば、狂った犬なんてかわいくてたまらない。
 連日連夜の酷使で痛む眼を閉じて、深く息を吐いた。冬羽を待たずに、ひとりでできる限り視て写しとってしまおうか。そのためにこの翠眼はあるのだから。頭の上の翠陽はまだまだ燃えるように輝いている。放っておいても、犬の幻覚が消えることはなさそうだった。
 しゃかしゃかと軽やかに駆ける音がして、暗い角から一匹の柴犬が牙をあらわにして現れた。涎を垂らしながら、獲物を食い殺そうとする獣の目で夏帆を見据えながら、ぐるぐると唸り声をあげる。柴犬のすがたが、ほんの一瞬、街灯を受けて翠色に透けることがある。それは犬が幻覚であること、翠陽の光が人に見せる集団幻覚、翠幻すいげんであることの何よりの証だ。
 その証は翠眼でないと視ることができない。そして、翠眼だけが、幻覚だと分かったそれを視て、写しとり、この世から消すことができる。
 犬を視界の真ん中に捉えようとすると、それは横にさっと飛んで、しなやかな足で冷たいアスファルトを蹴って高く飛んだ。夏帆の前に着地するとすぐもう一度飛んで、首元に牙を立てようと飛び込んできた。
 倒れた夏帆は上手く受け身をとった。胸の上に乗った犬が、おおんと高い声で遠吠えをしてから、再び牙をむき出しにしてよだれを垂らした。
 翠幻は見えるだけではなくて、あらゆる感覚を伴って見る者を幻惑する。夏帆は鼻元に飛んできた犬の涎からした獣臭に吐き気を感じながら、臆することなく犬を見定めて、翠眼ではっきりと捉えた。目頭が痛むのに耐えながら瞼を閉じる。
 次の瞬間、翠眼に写し取られて犬の姿も、匂いも跡形もなく消えた。
 翠幻を見るのは、シャッターを切って写真を撮るようなもの。翠眼になってすぐ、翠眼の使い方を教えてくれたひとがそう教えてくれたのを、夏帆は思い出した。眼がじんと痛んだ。連日写しとりすぎて、翠眼はだいぶ疲れていた。いつ視界が霞んで、まともに見れなくなってしまうか分かったものではない。
 角の向こうからガラスの割れる音と女の人の悲鳴が聞こえてくる。夏帆が路地を覗き込むと、奥の方の角打ちの外で、酔った男二人がビール瓶を振り回しながら犬たちを追い立てていた。いやむしろ、取り囲まれているといった方が正しそうだった。遠目に見るだけでも八匹ほどの犬が跳ね回り、何匹かは脚に食らいついていた。
 二匹が唐突に、夏帆の方に駆けてくる。それぞれが左右から壁を蹴って高く飛ぶ。
 痛みに眼がどろんと霞んで、夏帆はよろめいた。眼球が尖った石になったごろりと転がるような痛みを感じて、思わず眼を抑えて蹲った。二歩三歩先に唸り声が聞こえて、夏帆は身体を強張らせた。
 こんなの大したことない。あの日の恐ろしい大翠幻に比べたら。
「ごめん。夏帆。遅くなった」
 背の高い冬羽の長い影が、しゃがんだ夏帆の身体をすっぽりと包んだ。犬二匹の息遣いは消えていた。見上げると、冬羽と眼があった。澄み切った翠の宝石に潤む、控えめで綺麗な黒、見る人についていきたいと思わせる。不思議な魅力のあるその翠眼と合うたびに、夏帆は時が止まったような気持ちにさせられる。
「遅いじゃん」
「ごめんね。ちょっと沙月さんと話し込んでた」
「奥にたくさん犬が出てるみたい。わたし、ちょっともう、眼が痛くて、無理」
「連日だもんね。これ、新しい眼薬めぐすり、あとで差しなよ。あとは任せて。私がきつそうだったら、後ろから助けてくれればいいから。夏帆は無理しないでね」
 冬羽はそう言って、長い脚を優雅に進めて路地裏へ歩み進んでいった。
 ビール瓶ががしゃがしゃ割れる音、いくつかの犬の吠え声、男たちが必死に張る声が続けて聞こえた。そのあと、たんたんと冬羽のレモンイエローのスニーカーがアスファルトを打つ音がして、すぐに路地に静寂が取り戻された。犬の翠幻は全部で二十匹くらいいたけれど、群れをなしていたから、どれも翠眼で捉えるのは簡単だった。冬羽はあっという間に全部を写しとって、夏帆のところに戻ってきた。
 幻と戦っていた男二人は夏帆たちに寄ってきて、片方の男は翠眼者すげえじゃんと言って写真を取ろうと携帯端末フォンを構えたけれど、怯えた様子のもうひとりに制されてすぐに立ち去った。わたしたちを見る目と、幻の犬を見る目つきはおんなじだったな。そんな目で見るなよ。慣れきってしまっているけれど、改めて夏帆はそう思った。
 写しとり完了の報告を翠眼者のグループのチャットに流すと、リーダーの梁川やながわ沙月さつきと、メンバーの数名からの労いの連絡がきた。翠眼者は二十人ずつくらいのグループを作っていて、翠幻出現の報告があると現場に行って。翠眼をつかって翠幻を消し去る。
 自動運転パトカーやってきた警察官に状況を報告して、行政への手続きに必要な番号を発行してもらう。そのあと、少し面倒な手続きを終えると、数日後に若干の額の報酬と感謝状が届くはずだ。
 警察と一緒にしなければいけない手続きを終えると、二人は自動運転タクシーを停めて家に戻った。夏帆は眼が痛いと言ってすぐにベッド入って寝てしまったけれど、冬羽は掛け布団に包まる夏帆を見つめながら、しばらくの間、ソファに座って、弱まることのない翠陽を見つめていた。
 数日後、送られてきた感謝状にはご丁寧に内閣総理大臣の署名と日本国の印が押されている。けれど、当然のように文面は定形だし、夏帆も冬羽も総理大臣本人と顔を合わせたことはない。もっとも、翠眼者と顔を合わせるなんて、総理大臣の方から願い下げだろう。だって眼を合わせれば、自分も翠眼になってしまうのだから。
「犬のやつの感謝状。届いたよ。なんかこれ、今回から裏面に変な模様がついてるね。これじゃあ裏紙にも使えないじゃん」
 夏帆はテーブルの隅に雑に積まれた感謝状の山に、今回のものをすっと差し入れた。山がざざっと崩れて、冬羽が苦笑いをした。
「犬で思い出したけど、夏帆、まだそのストラップつけているんだ。中学の頃、二人で仙台のライブに遠征した時に買ったやつ。あのバンド、まだその犬のキャラ使ってるみたいだよ」
「冬羽はなくしちゃったの? これ、けっこう頑丈なのに」
「開けないでしまっておいたら、もうどこにあるか分からなくてさ」
 伝統的な和柄にコミカルな犬のキャラクターを混ぜ込んだデザインの紐は、職人の手で一つ一つ織られていて、今では珍しい手触りのある工芸品だった。
 テーブル脇の落ち着いたウォルナットのチェストの上に、二人でしたいくつもの旅行の写真が飾られている。その横には夏帆と冬羽、それぞれの家族の写真が飾られている。
 冬羽はカメラ目線の父と、珍しく歯を見せて笑う母と、何度言われても少し右に傾いてしまう弟の姿をじっと見つめた。淡い光に満ちた幸せがそこに写し取られていた。夢でも幻でも、幸せだった瞬間が生々しく目の前に立ち現れたなら、いつまでもそこに浸って、溺れてしまいたいと思う人の気持ちも分からなくはないなと思った。
 家族はもう戻ってこない。
 そして、あの日、沙月がふたりを助けるのがあと三十秒でも遅れていたら、ふたりも家族と同じように窒息死していた。白昼、あんなに翠陽の光が強くなって、思い出したくもない大翠幻を生みだした。それで多くのひとが死んだ。
 テレビスクリーンの電源を入れると、東京大翠害の追悼式典に向けた特集の再生がはじまった。全部で十回ほどの連続特集で、翠陽と翠幻調査の最先端の紹介と大翠害の再現映像や被害者の現状が交えられながら、式典当日の中継を迎えるもので、何社ものスポンサーロゴが踊っている。最後の一回には翠眼者に感謝状を送ってくれる内閣総理大臣と、日本における翠陽観測のトップ、天文庁長官を交えた討論が企画されているらしい。
 世界の翠眼者というテロップと共に、ひとりに中国人研究者の名前がインタビューに答え始めた。アメリカ合衆国のラングレー翠陽研究所と並ぶ世界的な翠陽研究の中心、国家天航局翠楊研究中心に所属するシュイ雨桐ユートンという女性研究者だった。
「翠陽の光のカオス的な振る舞いに対して、人類は未だに何の予測の手段も持っていないのが現状です。ヤン夏雲シアユン博士が翠幻と翠陽の関係性を見出してから四十年近くが経とうとしています。観測機構も十全に整備され、世界で大小五百台以上の天文台が翠陽の挙動を観測しています。それでも、翠陽の活動予測は絶望的なまでに外れ続けています。とはいえ、恐ろしい翠曜日が大体十年おきに訪れるということだけが分かっています。ただそれも、周期が完全にわかっているわけではありません。人類はまだ、四回しか翠曜日を経験していませんから。これまでの経験上、大体十年か九年ごとだと言えるだけです。ですから、いつ来てもいいように、十分に備えないといけません」
 解説者として呼ばれている天文庁の技官がバツの悪そうな顔をした。
「やっぱり当たりっこないんだよねぇ。翠陽の活動予測なんて。わたしたちはいつだって待機してなきゃいけなくて、通報を受けたら飛んでいかないといけない。天文庁の今月の予測が当たるんだったら、わたしも冬羽も毎日出張っていかなきゃいけないよね」
 夏帆の挟んだ言葉に、冬羽は何も返さずに真剣な面持ちでスクリーンを見続けている。
 徐博士は自身の最近のプロジェクトを解説図と共に紹介した。彼女のアプローチは、翠幻の出現を予測して回避するのではなく、なんとかして翠陽と共存できる道を見出そうとするものだった。翠眼で写しとる以外に、翠幻をこの世から消す方法を実現しようと試みているのだという。
「とはいえ、現状では翠眼者に頼る以外に翠幻を消す方法はありませんから、技術を進歩させるためにも彼らの力を借りるしかありません。中国では翠眼者を国家が全面的にサポートしています。彼らは準公務員として生活し、組織化されています。その代わりに、日本のように翠眼者の活躍が過度に美化されたり、ヒーローとして名声を受けられるわけではありませんけれどね。二十年程度で〈その時〉がきて、翠眼者がすべての知覚を失ってしまうのも、社会として大きな損失だと考えています。だから、翠眼者が〈その時〉を迎えるタイミングをできるだけ遅らせることも、私は重要だと思っています」
 インタビューが終わり、番組出演者がその内容についてああだこうだと話し始める。解説員のひとりが、日本でも支援は行き届いていると言ったから、夏帆は感謝状ゴミの山を見て笑ってしまった。
「ねえ。夏帆、沙月さんと最後に顔を合わせたのはいつ?」
 いつになく深刻そうなトーンで、冬羽は夏帆に聞いた。
「どうだっけなあ。最近スクリーンで通話しながら話すことが多かったから。三ヶ月前くらいだったと思うよ。沙月の家のあたりでお茶でもしようと思ったけど、結局だめだった」
「沙月さんに助けられてから、もう六年だからさ」
「そうだね。あっという間だったような。沙月にいろんなことを教えてもらったし、一緒に住んで、冬羽のこともたくさん知れたけれど」
「沙月さん。春先から変な感じって言ってたけど、右脚の感覚がもうないんだって。先月までは足の重たさは感じていたけれど、今は重さすら感じなくなったって。犬の日の夜に会ったら、松葉杖で歩いてて、右目と右耳も、最近だめになってきているって。だから」
 続きの言葉を詰まらせたまま、冬羽は夏帆を後ろから強く抱きしめた。冬羽が小さくでも泣くのを見るのは、あの大翠害のすぐ後依頼初めてだと、夏帆は思った。
 〈その時〉は翠眼者誰にでも訪れる。
 時間が経つことは、その瞬間を手繰り寄せてしまうことだった。
「次の翠曜日を迎える前に、沙月さんにも〈その時〉が来てしまうかもしれないって、すごく悔しそうで。私、そう言われた時、なんて返したら良いか分からなかった」
「次こそ、〈塔〉に行かないとって、沙月はずっと準備してるからね。だから、すごく悔しいと思う。前のときは、わたしたちを助けていたのもあって、〈塔〉には行けなかったんだから」
「リーダーとして沙月さんがいないと、私たちは多分、まとまっていられないと思う」
 不安を振り払うだけの言葉は見つからなくて、ふたりはただ温もりを感じ合った。
 開け放たれたベランダの窓から晩秋の湿った冷たさを含む風が入り込んでくる。今夜は東の空で、すべてを見透かすように燦々と翠陽が輝いている。その光が強いということは、翠幻がいつでも現れるということだった。
 案の定、複数件の通報が入ってフォンが震えた。ふたりだけの静寂は破られてしまった。
「私、行ってくるから」
「わたしも。一緒に行くよ」
「夏帆は翠眼が疲れきってるから、止めときなよ。眼薬をちゃんと差して待ってて。じゃないと写しとり過ぎで、最悪、翠幻が焼きついちゃうかもしれない。同じ幻を視すぎるだけじゃなくて、写しとりすぎるのも、焼きつきにつながるらしいよ。とにかく、目の疲れは駄目。それに、私は、まだまだ大丈夫だから」
「冬羽も無理し過ぎだよ。毎日じゃん。他のグループがやってくれるかもしれないし」
「駄目だよ夏帆。私達が写しとらないと、誰かが亡くなるかもしれない。翠幻を視て写しとるのが、翠眼者である私達の責任なんだから。翠眼になったあの日に、私たちみたいに翠幻の被害者がこれ以上でないようにするって、決めたんだから」
 わたしと違って、冬羽は真っ直ぐな目で責任なんてこと言葉に出すことができる。それがすごく羨ましい、と夏帆はよく思った。けれど、その真っ直ぐさを時々怖いとも思う。それでも、その真っ直ぐさはひとを強く惹きつける。冬羽を慕う人はとても多いのだった。
 おろしたてのコートを着て、冬羽が部屋をあとにした。
 窓を閉めようと歩くと眼がごろりと痛んだ。確かに翠眼がこんな状態だったら、足手まといになるだけだ。下手すれば、冬羽や他の翠眼者を危険にさらしてしまう可能性だってある。
 他のことで、自分も何か助けになれないかな。夏帆がそう思ったとき、テレビスクリーンに表示されたままの東京大翠害の特集報道が目に入った。ちょうど番組の終わりで、東京大翠害の再現映像のレビューを行ってくれる翠眼者が募集されていた。
 翌朝、夏帆は番組の担当者にコンタクトをとった。再現映像のレビューに協力する代わりに、番組に出ていた徐博士とコンタクトさせてほしいと。先端的な研究を行っている徐博士ならば、沙月の〈その時〉を遅らせる手立てをきっと知っているはず。夏帆は淡い期待を抱いていた。
 番組の担当者に徐博士に取り次いでもらうと、徐博士は快く返事をくれた。何度も日本を訪れたことのある女博士は、沙月にも以前会ったことがあるのだという。もともと追悼式典の周りの日程で何日か日本に滞在する予定だったらしく、空いている時間に沙月とも面会することになった。
 それから毎日のように、翠陽は強く輝いた。家族を失った人々が追悼式典に向けてこころを整えているのをあざ笑うかのようだった。小ぶりな翠幻はやっぱり毎日のように現れた。それは全然怖くなかった。けれど、追悼式典を間近に控えたある夜、助けた相手から石を投げつけられるとは夏帆は思ってもいなかった。
 通報を受けて駆けつけると、路地裏でカップルが炎の翠幻に包まれていた。夏帆は足早にふたりに近づいて、手早く翠眼で炎を写しとった。それでもう熱さなんて感じないはずだったけれど、すっかり錯乱した女性の方は地面に転がったまま必死に手をバタバタとさせていた。
 手をのばすと、男の怒鳴り声がした。彼女に触るなと。こっちを視るな、翠眼女。
 刹那、額から鼻に拳くらいの大きさの石が刺さるように当たった。ぱっくりと裂けた額から、温い血は、頭が割れてしまったんじゃないかと思うくらいに流れて垂れ落ちた。
 コートを血まみれにしたまま家に帰ると、冬羽が包帯を巻いてくれた。
「こういうことされるたびに、なんで翠眼になったんだろうって思うよ。冬羽はどうなの? 冬羽も、前に飛び蹴りされて酷い怪我したこと、あったじゃん」
「あったね。でもさ、翠眼を止められるわけじゃないからね。翠眼で苦しい思いをするひとを見たくないし、こうやって並くらいの暮らしはしていけるから。そう思っても、すぐ忘れられる。それに、沙月さんとか、グループのみんなとかと一緒に翠幻を消して回るの、嫌いじゃないんだ。みんな同じように、翠幻の被害をなんとかしたいと思って、みんなでがんばれてるから。それが嬉しいかも」
 深く息をするたびに、夏帆の頭はじんと痛んだ。
「わたし。しばらくは辛いままだと思う」
「仕方ないよ。でも、そういうときは、私たちにしかできないことをすればいいよ。あの幻、まだ夏帆の眼に残ってる?」
 あの幻。ふたりで本当に遭遇した。あのバンドの翠幻。翠陽がどんな幻覚を見せるのか、まるで分かっていない。人を襲う狂犬であったり、火事であったり、通り魔だったり、軍隊が現れることもある。危害を加えない翠幻も同じくらいあって、ただの雨であるとか、龍や妖精なんていう空想上の生き物を幻視したり、夏帆と冬羽のように、たまたま音楽家の演奏の翠幻に遭遇することだってある。
 夏帆はローテーブルに置かれたフォンを手にとって、思い出のストラップをじっと見つめる。冬羽は昔からなくしものをしやすくて、思い出のストラップをなくしてしまったみたいだけれど、眼に写しとってある翠幻はなくしようがない。
「もちろん」
 二人は翠眼を閉じて、瞼の裏にその幻を探すように眼を動かした。強く思うことで引っ掛けておかなければ、写しとった翠眼は休息をとるうちに消えてしまうけれど、大切に思ってさえいれば眼の中に残り続ける。ふたりが眼を合わせると、ふたりの眼のなかの幻が合わさって、ふたりだけに見えるかたちで、あのバンドの翠幻が現れる。それは夜通しずっと、知っている曲とまるで知らない曲をまじえながら、低く重い音でふたりの内蔵を揺らしながら、ふたりだけのライブをする。
「こういうふうに眼で覚えてるやつを見すぎると、眼に焼き付いてしまうっていうけれど、わたしはこれ、冬羽との思い出だから、焼き付いちゃってもいいかな、なんて思う」
「だめだよ。そしたら、眼が使えなくて、みんなを助けられなくなるから」
 まどろみながらそんなやり取りをして、明け方近くにふたりは眠りに落ちた。

2.

 
 再現映像のレビューなんて何かしらの理由をつけて断ってしまえばよかった。
 全然こんな風じゃなかった。こんな再現映像に何の意味があるっていうの?
 夏帆はあと少しでそう口にしてしまうところだった。幸いなのは、自分が苛立つ様子が生中継で放送されるわけではないことだけだった。最先端の映像化技術の限りを尽くした再現映像は、たしかに映像としてはひどくできがよかった。でも、それだけだった。
 〈2043年11月8日。この日は翠陽の光が極大化する翠曜日でした。この日、翠幻は世界各地で猛威を振るいましたが、特に被害が大きかったのが東京とインドのムンバイでした。東京は、いま私達が東京大翠害と呼ぶ巨大な洪水の翠幻に襲われました。被害者は百万人を越え、二十万人近い犠牲者のほとんどが、空気中で溺死したのです〉
 ループ再生の映像がはじめに戻り、落ち着いた男性ナレーターの声が小部屋に響いた。ナレーションのあと、真昼の空に輝く翠陽が映し出され、あの日の翠幻の再現が始まる。
 幻の恐ろしさは、同じ幻を知覚したものにしか伝わらない。妄想や薬物の離脱症状に苦しむ人がいるとして、どうして同じ感覚を共有できない人が同じものを感じられると言うのだろう。危険性を伝えたいと思ったり哀れんだりするのは勝手だけれど、再現できるなんて思うはなんておこがましいのだろう。けれど、もしカメラに映るなら、だれも幻なんて文字を翠幻につけなかったのかもしれない。
「御存知の通り、翠幻はカメラに映ることはありません。ですから、実際にあの大翠害を生き残られた方々の証言を元に、私共は再現映像を制作しているのです。もし、見ていて少しでも気分が悪くなったり辛くなったりしたらおっしゃってください」
 映像制作スタジオの一室に通されたあと、気の良さそうなスタッフの男性は優しい声でそう言って退出した。それから三回ほど、映像はループしている。
 ナレーションがフェードアウトして、コラージュされた幾つかの現実の映像があの翠曜日を再生する。
 秋の東京の平和な昼下がり。
 高いビルの影が長く落ちていた。
 渋谷、新宿、六本木、銀座、浅草、押上。交差点を行き交う人混みや、公園で遊ぶ親子、学校の休み時間にドロケイをして駆け回る小学生たち。
 誰一人、豪雨も巨大地震もないのに水が押し寄せてくるなんて思ってもいなかった。
 雲ひとつない澄んだ空、落ちかけてた太陽と真逆の方角で、翠陽は徐々に輝きを増していった。明け方には満月の半分ほどの大きさだった翠陽は急速に輝きを増し、いつしか太陽ほどの大きさとなっていた。空に浮かぶ眼が突然死んでしまって、翠色の瞳孔がぐいと開いたようだった。
 びいいいい。とけたたましい音が街中のスピーカーと、ひとびとのフォンの端末からなり始める。誰もが避難訓練で何度か経験したことのある、ぞっとする警報音が翠曜日の到来を告げていた。
 程なくして、東京中心部は巨大洪水の翠幻に襲われた。包まれて、飲み込まれた。そういう方が正しいかもしれない。冷たく湿った風が四方から吹き込んできて、どこからも濁流がごうと壁を打つ音がして鼓膜を揺らした。建物の入り口からちょろちょろと水が流れ込んできたかと思うと、押し寄せた水の高さはすぐに腰ほどになり、払われた足は水底に引き込まれて、顔が水面に引きずり込まれて、まともに息ができなかった。冷たい水に乱暴に掴まれた苦しさがありありと思い出されて、夏帆は身体を震わせた。
 再びズームアウトした再現映像のなか、水位は徐々に上がり、五階建てのマンションをまたたく間に飲み込んだ。匂いも肌触りも現実感もない映像なんて、もう夏帆は見ていなくて、恐れと共に湧き出す記憶に思考を任せていた。
 すべては幻覚だと分かっていた。夢から覚めるためには夢の中で頬をつねればいい。街中で翠幻に遭遇したら、強い気持ちで眼を凝らしてそれが幻覚だと見破ればいい。駄目だったら、自分で自分の足を踏んだり、翠幻に襲われる人の頬を強くはたいてあげればいい。あのときはみんな、そんなことで目覚められると少しは信じていた。水が迫る中、顔を叩きあっていた子
たちはみんなそのまま死んでしまった。冷たさも苦しさも、流されたものに押しつぶされそうな圧も一緒になっている幻覚はあまりにも強すぎた。
 その場で眼でも抉り出せれば、あるいは助かったかもしれなかったけれど。
 冬羽と学校をさぼっていなかったら、わたしも両親たちやクラスメイトと同じように、空気中にいるのに窒息して、うんちもおしっこも垂れ流しながら死んでいたんだろうな。たまたま同じアイドルが好きだと知った夏帆が冬羽を誘って、平日昼間にほんの小さなホールで開催されるイベントに向かう途中だった。
 ホールの前の公園の広場でストロベリーのフラペチーノを啜っていると、ふたりの元に壁みたいに水が押し寄せた。逃げようと言って夏帆は冬羽の手を掴んだときには、もう全身が水の中だった。冷たい泥が灰をすっかり満たしてしまって、えずくことすらままならずに、ぐりぐりと抉るような喉の痛みが繰り返されて、息が止まっているのがわかる。それからすぐに、手足がじんと痺れて意識が外れていくのを感じた。
 ひとりの女の人が駆け込んできて、ふたりの肩を抱いてから見廻すと、ふたりの周りの幻が消えた。冷たさと苦しさの名残があって、ふたりは大きくむせてしまった。海を割る予言者のように、水の像も感触もさっと消し去ってしまったその人の目がエメラルドグリーンなのに気づいて、目をそらしてしまったのを思い出す。
 走って。そう言われて、彼女が水を消すあとについていって、ホールの外についた非常階段を登りきった所で、夏帆は冬羽を抱きしめて泣いた。冬羽は夏帆を撫でながら、小さく震えていた。あちこちの建物の屋上で、みな悲痛な驚嘆の叫びを上げていた。夏帆が端末のカメラを構えると、女の人はやめたほうがいいと言って静止した。
 レンズは翠幻を透過して、現実を映し出す。カメラには翠幻は映らないのだから。公園でも通りでも、そこらじゅうに遺体が折り重なっていた。高く開けた公園の広場で、山程の空気中で息を詰まらせて絶命していた。
 輝き続ける翠陽の下で、翠幻の洪水は消えることなく街を水で満たし続けた。梁川沙月と名乗ったその女の人は、遠くを指差した。洪水の幻の遥か向こうに、石造りの高い〈塔〉が見えた。
「見える? あれも翠幻。あれは翠曜日にだけ、世界のあちこちに現れる。翠幻の秘密が隠されていて、それを知れば、人類を翠幻から救うことができるって言われてる。みんなと一緒に、わたしは〈塔〉を目指さないといけなかった。でも、二人を助けられてよかった」
 そう言って、沙月はふたりを抱きしめて、声を出さずに泣いた。
 日没と共に翠陽は弱まって、水の幻は跡形もなく消えた。幻の水の水位は少しずつさがるのではなくて、五階建てを覆い隠す高さの水面はそのままに、ところどころに丸い穴があいて、その穴を中心に徐々に幻が溶けていくように消えていった。穴だらけになった洪水が微かな翠の光を残しながら霧散していく中、遠くから山のようなサイレンの音と、自衛隊の迷彩柄のヘリのローター音があたりを包み込んだ。
 その日の未明までに五万人の死者が数えられた。白目を剥いた遺体と対面して、簡単な書類にサインをして、夏帆は両親、冬羽は両親と弟を犠牲者リストに加えた。
 沙月も以前の翠害で両親を亡くしていた。ふたりより十歳年上の沙月は、毎日誰もいない自宅で一日中寝転がり続けていたふたりを自分の家に住まわせた。三ヶ月ほど一緒に暮らして、夏帆が不意に涙をこらえきれずに泣き続ける夜も、朝になるまで優しく体を抱いた。途中で街に翠幻が現れると、どれだけ眠れていなくても、誰かを助けるために外へ出た。
 そして、沙月に憧れて、冬羽は翠眼者になった。わたしも、沙月のために何かをしたくて後に続いた。
「どうです?」
 そう聞く男の声で、夏帆は我に返った 。案内してくれたスタッフが戻ってきていた。
「いいんじゃないですか? あの恐ろしさが視聴者に伝わることを心から願ってます。あとの感想は別でメッセージしますね」
 夏帆がスタッフにそう返すと、スタッフはにこやかにありがとうございますと言って、所狭しと膨大な資料の山積みになっている、物置のような待合スペースに通して、待つようにと言った。最初に挨拶されてから一度も、スタッフは夏帆の方をまっすぐに見ようとしなかった。視られるのは怖いのだろう。
 少しすると、徐博士がやってきた。何人かの身なりの良い男たちに、研究助成や研究内容のプロモーション、ビジネスの話などを矢継ぎ早に投げかけられていた。そんな男たちも、マスタードイエローのソファに腰掛け、足を伸ばしている夏帆が翠眼者だと気づくと、意識から取り除いてしまったかのように、一切の視線を向けなくなった。
 夏帆が出された煎茶と豆大福を頬張った。その皮はもっちりとしすぎていた。伸びすぎてだらりと垂れて、焼きたてのピザを頬張る男の子みたいになってしまって、恥ずかしくて顔を赤らめていると、ようやく男たちが去っていった。
 徐博士は夏帆を見て、にっこりと笑った。画面越しで見た時と同じで、夏帆よりも二周りほど年上だという年齢の差は感じさせない若々しい情熱を感じさせる目つきをしていた。
「徐雨桐です。よろしく。伊勢夏帆さん。再現映像のレビューなんかにつきあわされて。災難ね。直接連絡をくれてもよかったのに」
「はじめまして。徐博士。今日は沙月と合う前に、先に追悼墓地に行きたいとのことでしたけれど」
「あってる。追悼式典には毎年招待されて参列しているけれど、プライベートで行く時間も必要だから。それと、博士なんてつけて畏まらないで、徐さんで構わない。来る前にプロフィールを見て、あなたの生まれた年を見たの。息子と同じみたい。十九歳ね」
 呼びつけた自動運転タクシーに乗り込んで、東京大翠害追悼墓地へと言うと、夏帆の音声が認識されて、ハンドルに埋め込まれたブルーのLEDがぼうと光った。フロントガラスのディスプレイに表示された地図にピンが立てられて、車は江東区木場公園に隣接して作られた共同墓地へ向かい発車した。
 徐博士はふうと吐き、靴紐がほどけっぱなしの白いスニーカーを脱ぎ捨てて足を伸ばした。
「フォンについているそのストラップ。素敵な柄ね。日本の伝統的な模様? 息子が同じのをつけていたことがある気がする」
「ああ、これ。ある日本のバンドのライブ会場限定グッズで、京都の職人とコラボレーションしたやつなんです。仙台って、わかりますかね。東北地方の。そこでしか買えないやつなんです。でも、息子さんは、日本の音楽が好きなんですか?」
 徐博士は口ごもり、少しの間のあと、そうね。と答えた。
 そのアーティストは今でこそ何十万人もファンクラブ会員がいるほど有名だけれど、六年前は簡単に最前列で見れるほどだった。夏帆と冬羽に進められると、沙月もそれを気に入ってくれて、三人で住んだ部屋によくかかっていた。二人はかわりに、沙月の好む音楽を教えてもらった。あの頃の二人は、本でも音楽でも、食べ物でもなんでも、沙月が好きなものを何でも好きになろうとした。
「その頭の包帯はどうしたの? 痛そうだけれど」
「これは、助けた人から石を投げられて」
「それは酷い。中国だったら、翠眼者に傷を負わせるのは、結構重い罪になる。ただ人を傷つけるよりずっとね」
「わたしたちと目を合わせると、翠眼は伝染しますから。嫌がるひともたくさんいるんです。だから、街を歩くときは目を伏せます」
「日本でも、あなたたちはもっと保護されるべきだと思う。いまのところ、翠眼以外で翠幻を消すことはできないのだから。翠眼者と協力して、翠幻を解き明かして、誰かがヒーローでいなくても翠害が防げる社会を作らなければいけない」
 沙月から中国の翠眼者グループについて聞いたことがあった。二十人ぐらいのボランティア的なグループが乱立する日本と違って、彼らは国から手厚い保護を受け、翠幻を消す代わりに高い報酬をもらう。そして、形の上では人々から避けられることもない。
「けれど、中国の翠眼者は国の持ち物なんでしょ? 保護されるかわりに、この翠眼だけじゃなくて、身体全部をいつでも差し出さなければならないんでしょう?」
 中国の状況はとても魅力的に見える。夏帆がそう言ったときに、冬羽が返したのと同じような言葉を、いま夏帆は徐博士に向けていた。
 徐博士は瞳が合うのも厭わない様子で、目元に力を込めて夏帆の方に向き直った。瞳に苛立ちの影を感じて、むしろ夏帆の方が目をそらした。
「翠眼者が非人道的に扱われたなんていう記録はどこにもない。私も見たことない。同意も取っているの。それに、私の国は三十六年前に上海大翠害も経験してる。時間とともに、翠眼者とうまく共存できるようになってきてるの。もちろん、同意は取っているとはいえ、事実としては、あなたの言っていることは確かににそうなのだけれどね」
 最初の大規模翠害は上海とホー・チー・ミンで起こった。その被害から立ち直った経験から得たものを研究に生かして、彼らは翠陽研究の最先端を走っている。そのプライドや、本当に誰かを助けたいのだというプライドが垣間見えたように思えた。約十年周期で訪れる翠曜日はは、二十五年前にはアムステルダムとオスロで、十七年前はニューヨークとサンパウロで、そして六年前、東京とムンバイが大きな災禍に見舞われている。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。それに、私達が同意を取っているのは、翠幻に翠眼以外の対策を打てないのかを探るためだから。翠眼を深く知る必要があって、翠眼者には協力して貰う必要がある。〈その時〉が訪れるタイミングも、もっと遅らせることができたらいいのに」
 木場公園の北の外れで車を降りる。追悼式典の搬入のため、黒白幕に囲まれた広い公園を敷設用ロボットががちゃがちゃと動き回っている。組みかけの献花台には、すでにたくさんのはなが手向けられている。作業員の中にも、花束をじっとみながら手を合わせているひとがいた。大翠害のあと、公園の敷地は東側に五キロ四方拡張され、追悼のための共同墓地となった。追悼墓地と呼ばれるそこは宗派ごとに区分けされ、キリスト教の十字架の立つ墓の一群の脇に入口がある。
 入ってすぐのところに、高さ十五メートルほどの黒蝋石のモニュメントが建てられている。
「毎年、静かに祈りたくて、式典とは別に来るの」
 徐博士はそう言うと、モニュメントを見上げた。判明しているすべての犠牲者の名前が順に刻まれている。夏帆はいつもそうしているように三メートルほど上を見た。そこには両親の名前が刻まれている。夏帆は手を合わせ、少しの間目を閉じた。徐博士は遥か高くまでを見上げて、視線を下げてを繰り返して、なるべく多くの名前をなめるように見たあと、伏し目がちに頭を垂れて祈りを捧げた。
 目を開けた徐博士は端末のカメラをモニュメントに向けて、目では見えないほど上の方をズームして順に写して、うんうんと頷いて、それからまた、目を閉じて長く祈った。そのとても長い静寂の中、穏やかな風の音の、人間の悲しみなんて知る由もなく空をゆく薄暗い色の鳩たちがばたばたと音を立てた。
「わたしは、両親や友達を亡くしました。徐さんも、誰かを亡くしたんですか?」
「清華大学へ留学に来ていた日本人の友達を何人かね。仕事上で関わりのある人もたくさん亡くした。それに、ここに名前がないけれど、今でも連絡が取れない人もいる。ここに名前が載っていれば、悼むこともできるのだけれどね。ここに名前がないのと、あるのは、一体どっちが幸せなのかしらね?」
 夏帆は言葉を返さず、ただモニュメントを見上げた。言葉が出てこなかった。
 それから、共同墓地の別の区画に向かって、自分の両親が葬られている場所の前で手を合わせた。冬羽の家族の墓所には冬羽の好きなダークブルーのヒヤシンスが供えられていた。朝早く、暁の匂いも消えないうちに家を出ていったのは祈りに来るためだったのだろう。
 祈りの時間を終えて、沙月の待つ人形町の外れのビルへと向かった。天文庁が管理する細長いビルを、沙月のグループを含めた複数のグループで使っている。徐博士の研究室のメンバーが入り口の自動ドアに寄りかかって談笑していた。沙月くらいの年齢の技術者と、何名かの学生がディスカッションをしていた。自分と同じくらいの学生を見て、自分にも同じような生活があったかもしれないのにと、夏帆は思った。徐博士の一団は怯えたり目を背けたりなんてしないことが、それだけで少し嬉しかった。
 グループの別の翠眼者に導かれながら、沙月が降りてきた。降りてきてすぐに、お久しぶりと言って、徐博士と抱き合った。沙月は松葉杖をついていて、前に顔を合わせたときより、ずっと細くなって、小さくなっているように見えた。
「沙月。脚のこと、もっと早く話してくれてもよかったのに」
 夏帆が聞くと、沙月はよく聞こえなかったのか、バツの悪そうな顔をした。右耳が全然聞こえなくなってきているの。と言って、夏帆に左耳を向けた。夏帆が同じことを聞き直すと、沙月は悲しそうに小さく笑った。
「〈その時〉のこと、意識したくないかなって。冬羽も夏帆も。それに、急に伝えられたら、夏帆は受け止めきれないかなと思ったから。夏帆は昔からショックを受けやすいじゃない? 頭の包帯、どうしたの?」
「’わたしのことよりも、沙月のことが心配だよ。〈その時〉が来る前に、〈塔〉に行かないといけないのに」
「〈塔〉のことも、〈その時〉のことも、これから徐博士と話すよ。心配しないでよ。あたしはまだ、諦めたわけじゃないから。徐博士に頼れば、少しは道が見えるはずだから」
 〈その時〉はやがて自分にも訪れる。もし徐博士にその力があるのなら、沙月の道と一緒に、自分の道も開けるかもしれない。
「沙月さん。徐博士のスケジュールの都合があるので、打ち合わせをそろそろはじめたほうが」
 いつの間にか冬羽がいた。気配を感じなかった。冬羽は浮かない顔をしていた。徐博士と皐月を見送った後、しばらく夏帆と顔を合わせようとしなかった。
「冬羽、どうしたの?」
「ううん。なんでもない。〈その時〉が来るのが先になるのなら、徐博士の力を借りるのもいいかって、考えを整理できたから。でもね。夏帆、それは、沙月の身体が中国国家天航局中心がいつでも無制限に身体を利用できるようなるってことだよ。私は、それは嫌だなって思った。だって私達、あの大翠害のとき、家族の身体がモノみたいに扱われて、火葬に立ち会うこともできなかったじゃない。もうあんな思いはしたくないから」
 冬羽は夏帆を一度も視ることなく去っていった。
 夜になって、夏帆の元に徐博士からメッセージが届いた。
「あのストラップを買ったのは、仙台って言ったよね?」

3.

 

 追悼式典は厳かに執り行われた。グループのみんなで集まって中継映像を流した。普段はメッセージで連絡を取り合いながら、あくせくと翠幻を写しとっているから、みんなで集まるのは久しぶりのことだった。
 夏帆と冬羽が翠眼になったときは、グループのメンバーは十名ほどだった。あの時は少ないなと感じたけれど、あとで沙月のフォンの壁紙を見て、東京大翠害の前は三十人くらいいたのを知った。多くの人と同じように窒息したメンバーもいるし、あのあと〈その時〉を迎えたメンバーが何人もいるとも聞いた。
 それで今は、みんなで集まると全部で四十人ぐらいになっていた。わたしたち古参だね、と夏帆が言うと、冬羽はそうだよ。と答えた。みんな翠眼者に助けられたことがきっかけで翠眼になっていた。
 沙月は東京の翠眼者グループのリーダーのひとりとして参列していた。みんなでスクリーンに映るすがたを眼で追いながら、黙祷の時間がくるとみんなで目をつむって祈った。黙祷まではみんな、言葉数少なく硬い顔つきだったけれど、祈り終わって目を開けると床にたくさんの涙が落ちた。手をつないだり、抱き合ったりしながら、全員でしくしくと泣いた。総理大臣が追悼の辞を述べているのなんてどうでもよかった。三箱あったティッシュボックスはあっという間に空になってしまって、夏帆は机の隅に積まれた感謝状をぐしゃぐしゃにして目元を拭った。顔をあげると冬羽も同じことをしていて、これで拭くと痛いね。といって小さく笑った。
 夜になって沙月が帰ってくると、古いメンバーは夜遅くまで残って言葉を交わした。沙月は珍しく、安くてにおいのきつい焼酎を呷っていた。疲れた夏帆がソファで打とうとしていると、沙月が大翠害前からのメンバーと一緒にベランダへ行って、風に当たりながら話しているのが見えた。あの日の〈塔〉の形について、それから、〈塔〉を近くで見たときに聞いた、何者かの声に似た幻聴につい話していた。
 まだ起きていた冬羽が呼ばれて、沙月たちと目を合わせながら、長々と話していた。夏帆はまどろみつつ、ときどき薄目をあけながらそれを見て、なんだか取り残されてしまったような寂しい気持ちにさせられた。
 翌日から、例の再現映像も放送された。世間の反応は上々だったようで、どうやら多くのひとを怖がらせることには成功したらしかった。沙月のグループだけではなくて、各地の翠眼者のグループのところに、次に巨大な翠幻が訪れたらどうするのかといくつも問い合わせがあった。近所の老人たちが集まって、目を合わせないように深く帽子を被って、翠眼者のことを訪れることもあった。
「実際問題。わたしたちを頼るより、翠曜日の警報が鳴ったら走って逃げてもらう方がいいじゃんね。わたしたちだけじゃ、何万人も救えないんだから」
 夏帆がそう言うと、冬羽は淹れたてのアッサムティーを口にしてから答えた。
「そうだね。でも、この前来たおばあちゃんたちが、実際に助けてって言ってたら、放っておくことはできない気がする。それでも、私達は普段準備しているように、翠曜日になったら〈塔〉を目指さないといけないんだけど」
「〈塔〉なんて、本当にあるのかな」
「夏帆と私は、あの日一緒に見たじゃない。私だって、はっきりと覚えてないけれど」
「わたしが言いたいのは、〈塔〉に何か秘密があるなんてことはなくて、本当にただの幻なんじゃないかってこと」
「徐博士、ただの幻なんじゃないかってことは否定しなかった。でも、翠曜日に世界のいろんな場所で現れるっていうのは本当みたい」
「〈塔〉を写しとって、登ったひとはいないの? 徐博士なら、知っていそうじゃん」
「いるらしいんだけど」
 冬羽は遠くを見て、持っていたティーカップを持ち直した。夏帆はグラス一杯の水を喉に流し込んで、開きかけのピーカンナッツの袋からひとつ摘んで口に放り込んだ。
「みんな消えてしまったって。行方が分からなくなってしまったって」
「なにそれ」
「わからない。でもさ、夏帆、消えるにしても、消えないにしても、〈塔〉を写しとるなら、一緒にね」
「うん」
 夏帆は迷いなく答えた。色々すれ違うけれど、わたしにとって、冬羽は昔から自分を知るただひとりのひとだし、その真っ直ぐさを支えるのは自分の役目だと、ずっと思っているから。夏帆は思った。
 肝心の〈塔〉を写しとるのに、実際問題としてどれくらいの翠眼者がいなければいけないのか。夏帆が徐博士のグループに聞くと、彼らのひとりが最新の状況を教えてくれることになった。彼は清華大学の学生で、上海大翠害の被害者二世だった。彼の母親は、はじめて翠曜日を経験し、〈塔〉を目撃した人類のひとりだった。
 彼いわく、世界各地で〈塔〉を見た翠眼者の声から鑑みると、〈塔〉の高さは大体三百メートルから五百メートルで、幅はエッフェル塔や東京タワーなど、各地の電波塔くらいの大きさなのだという。
「ちなみにこれは、僕の姉の目撃証言とも一致します。なので、問題の〈塔〉の大きさに関しては、概ね見積もれていると言えるでしょう。問題はひとりの翠眼者が、いったいどれくらいの翠幻を写し取ると限界を迎えるのかということです。翠眼者に協力してもらうと、翠眼の解剖学的構造も含め、いろいろなことが分かってきました」
 投影された資料に、普通のひとの眼球と、翠眼の構造の違いが示される。その横に、脳と眼球をスライスして視神経と脳の接続性を確認したデータが視覚化されていた。
「馬鹿らしく聞こえるかもしれませんけれど、今のところ、翠眼の限界は眼球のサイズに依存するようです。そして、あなたがたの翠眼の疲労が回復する過程で翠眼に巻き込まれた視神経はまったく新しく生まれ変わります。まるで新生児のように。その疲労回復の過程で、いわばつかれにより溜まった檻のようなものが脳の神経を侵し、あなたがたは〈その時〉に向かうことになるのです」
「なら、翠眼を使わなければ、〈その時〉はこないってこと?」
「残念ですが、そうとも言い切れません。翠眼を使わない方がよいといえばよいですが、〈その時〉は遅くとも二十年ぐらいで訪れます。そこは、みなさんご存知のとおりかと」
 結局、いまの試算では〈塔〉を写しとるのには、本当に少なく見積もっても五十人くらいの翠眼者が必要そうだと分かった。
「眼の大きい人を集めれば、少しは楽なのかもしれないね」
 冬羽はそう言ったあと、冗談だよ。といって小さく笑った。
「徐博士を見なかった?」
 メンバー同士が質問し合う声に満たされた部屋にそっと入ってきた沙月が、松葉杖を置いて席につくと、声が途切れた瞬間にそう言った。
「僕たちは、あなたと博士が一緒に一緒に過ごしているとばかり思っていました」
「一昨日、少し長く打ち合わせをしたっきり、今日の朝も話をするつもりだったんだけど、来なかったから、どうしたのかと思って」
 研究グループのメンバーは顔を見合わせた。昨日も誰ひとり、徐博士のことを見ていないらしい。宿泊しているホテルに連絡したけれど、部屋への電話に出る様子はなかった。冬羽が徐博士のフォンへ通話を発信したけれど、圏外であることを告げる合成音声だけが返ってきた。冬羽のしまうフォンに、犬のキャラが織り込まれた例のストラップが揺れていた。
「冬羽、そのストラップ見つけたんじゃん」
「そうだよ。この前、夏帆と話して懐かしくなって探したんだよ」
「徐さんは、仙台にいるのかも」
「どうしてそう思うの?」
「このストラップを買った場所を聞かれて、仙台って答えたから。息子が同じのをつけてた気がするとは言ってたけれど」
「徐女史に息子がいるなんて、はじめて聞きましたよ」
 壮年の技術員がそう答えた。徐博士のグループはみんな顔を見合わせて首を傾げた。明かしていなかったことなのかもしれない。夏帆はそう思って、それ以上なにも言わず、一人で部屋を出た。エレベーターで降りて、フォンで呼びつけたタクシーに乗り込むと、追いかけてきた冬羽も乗り込んだ。
「仙台に行くんでしょ? 一緒に行くよ」
 喪のムードがすっかり失せて、クリスマスや年末に向けて電飾の準備がはじまった東京駅からリニア高速鉄道に乗ると、一時間半くらいで仙台駅に到着してしまった。到着したとはいっても、何か手がかりがあるわけではなかった。ストラップを販売していたバンドが昔ライブをやった古びれたホールは建て直されていた。すっかり綺麗になっていて、なんの面影もなかった。ホール前の広場に植えられている大きな桜の木だけが一緒で、ふたりはそこで一枚写真を撮った。大きな街であるとはいえ、東京よりも翠眼者に対する目線が厳しいように思えた。ふたりで季節外れのサングラスをかけていることがむしろ、自分たちは翠眼者だと主張しているようなものだった。
 ホールの周辺を一通りうろうろし終えて、どうしようかと言い出そうとしたとき、一人の男性に声をかけられた。彼は仙台に住む翠眼者だった。サングラスは目立つから止めた方がいいと言い、人気のない細い通りにふたりを案内した。
「仙台の人じゃないね? 何をしてるんですか?」
「徐雨桐という女性を探しています。昨日か一昨日、東京を出て仙台に来たかもしれなくて、行方がわからないんです」
 ああ。その方なら。男はそう言って、彼の所属する翠眼者のグループに連絡をして、夏帆と冬羽を市の南の外れの市立病院へと案内した。病院の入り口の看板には天文庁のロゴが掲げられ、翠眼者や翠幻の被害者を取り扱う病院であることがわかる。
 一番小さな静かな病棟の廊下で徐博士は待っていた。
「追いかけてきたのね」
「何かあったのかと思って。わたしにストラップのことを聞いたから、もしかしたら向かったのかもって思って。徐さんのことを聞いたら、この病院に案内されたから、仙台で翠幻の被害にあったのかと思って、焦りました」
「研究グループのみんなには私のプライベートのことは全然明かしていないから、彼らは私がここにいるなんて絶対に思いつかないはず。夏帆さん。ここまで来させちゃってごめんなさいね。幸い。私はなんともない。けれど、ここには探しものはなかった」
「息子さんのことですか?」
「息子もだけれど、パートナーもね。正確には、パートナーだった人。正式な結婚はしていなかった。結婚なんて形式を守っても仕方ないと思ったから。もうとっくに〈その時〉を迎えてると思うから、その記録だけでも見れたらと思ったけれど」
「その人も、翠眼者なんですね」
「そう。彼は清華大学に来ていた日本人で、研究のパートナーで、翠眼者だった。彼は中国の翠眼者に対する扱いが理解できなくて、私と分かれることになった。八歳の息子を連れて、彼は日本に戻った。息子はどこからか私の連絡先を聞いて、時々連絡をくれた。怖くてどこに住んでいるか聞けなかった。聞いたら、会いに行きたくなってしまう気がしたから。六年前から連絡はないの。けれど、慰霊モニュメントに、シュイ博文ブォウェンの名前も、日本語だと神山カミヤマ博文ヒロブミの名前もなかった。もしどこかで生きていたら、生きていることだけでも知りたかった。少しの手がかりでもあればと思ってね。でも、ここにはなかった。彼もここにいる人たちみたいに、生かされている可能性もあったけれど。あなたたちの国だと、普段は違う人のように扱われているのに、〈その時〉が来たあとは、普通の人とおなじ様に扱われる。その方がいいって言うあの人を、私は全然理解できなかった。身体は死んでいるのに、意識もなく知覚もない状態で、いつ来るか分からない時まで死んだと認めてもらえない可能性があるのに」
 〈その時〉が来たのかは、究極的には本人にしか分からない。日本では便宜上、脳幹と大脳皮質の活動が一定の閾値より下になったときに、その時が訪れたとみなされる。徐博士が扉の空いた病室の前で歩みをすすめる。病屋には八人ずつ、〈その時〉を迎えつつある翠眼者が入院している。全身のほとんどの知覚を失っている彼らは、訪れる家族の言葉に反応することはない。脳の活動、それから循環器や呼吸器をモニターする装置の音だけが静かに鳴っている。脳幹も皮質も正常に活動しているひとでも、もう自分が身体を持っている感覚も、心臓が動いている感覚も失ってしまっている。
「でもね。安心して。あなたたちの大切な沙月はこうなる前に、上海に移送されるから」

4.

 沙月が上海へ移送される。のではなくて、上海へ移動すると言いたかった。
 けれど、現実問題として〈その時〉は急速に近づいて、沙月の身体はもはや全く動かなかった。本当に荷物として積まれてしまうのだ。そう思ったのは、視ることも聞くことも、話すことも触れることもままならなくなった沙月の身体が、バイオプラスチックの箱に収められるのを目の当たりにしたときだった。柔らかいミントグリーンの色をした箱の蓋には、国家天航局翠楊研究中心のロゴが貼り付けられている。
 箱にはバイタルモニターと呼吸器と点滴がビルトインされていた。それは、沙月の身体を生かし続けるための箱で、生きたまま入る棺だった。
 沙月が箱に入ったのは初夏のことだった。徐博士の来日から半年と少しが経っていて、次の翠曜日に向けてグループのことを整えようとみんなで話し合い始めた矢先だった。身体が溶けて消えてしまうかのように、沙月の知覚と感覚は順番に失われていった。右脚に続いて左足の感覚を失い、続いて右半身の知覚を失った。わずかにでも耳が聞こえ、口が動き、翠眼がはたらいていたのは桜が散るぐらいの頃までだった。
 暑いくらいに燦々と太陽の照っていたある日、沙月はグループのメンバーを順に部屋に呼んだ。夏帆と冬羽は最後のふたりだった。
 横たわる沙月は翠眼を見開いて、冬羽をじっと見つめた。夏帆と冬羽がふたりだけの翠幻を見るときと同じ力の込め方だった。沙月は、沙月の眼の中に残っている幻を思い出し、冬羽に伝えようとした。冬羽も瞼を大きく開いて、その何かを自分の翠眼に写した。
 それが終わると沙月は、次のリーダーを任せるからねと、とぎれとぎれの声で言った。
 冬羽は沙月の細い左手をぎゅっと握って、口を結び何も言わずに沙月を見つめた。その傍らで沙月の顔を擦っていた夏帆は、沙月の唇が小さく動くのを見た。
 冬羽を助けてあげてね。
 そのか細い声は、沙月の最後の言葉だった。
 握りしめた手が握り返す力さえだんだんと弱まっていって、ついには何の力も感じなくなると、冬羽はすでに涙でぐしゃぐしゃだった顔を伏せて、沙月の腹に顔を埋めて大声で泣いた。
 唸るような慟哭が続いた。昼下がりから翌日の正午まで、冬羽は喉が焼け切れてしまうほどに泣いた。こんなにも感情を顕わにする冬羽を見るのは初めてだった。夏帆は冬羽が泣き続ける間、ずっと背中をさすっていた。
 少しひとりになりたいの。箱が上海へ送られると、冬羽はそう言って、一週間くらい自室にこもった。その間ずっと、沙月から引き継いだ書類などを見続けていた。
 夏帆は毎日、食事の時間になると、沙月の部屋の前に料理のトレイを運んだ。冬羽の話し相手になりたかったけれど、肝心の本人は籠もりきりで、リビングに一切姿を表さなかった。
 一週間経って姿を現したとき、冬羽は背中にかかっていた髪をばっさりと切り落としていた。夏帆が急すぎるよと言って止めるのも聞かないで、その日のうちに沙月が住んでいた部屋に引っ越しをした。夕方過ぎ、荷物の整理もつかないうちにグループのみんなを集めて、言った。
「次の翠陽日は必ず〈塔〉に行って、〈塔〉の中にある翠陽の秘密を知らないといけない。それは私達、翠眼者の使命だから。私達のグループは私で五代目で、沙月さんも含め、歴代のひとはみんな〈塔〉に立ち向かってた。私達は、〈その時〉を迎えて消えていった先代たちの思いに報いないといけない。だから、翠曜日に向けて、もっと強くならないといけない。グループの人数も、いまのままだと全然足りないから。もっと仲間を増やさないと。ねえ夏帆、前髪を上げて」
 夏帆は手招きされて、前髪をかきあげた。そこには、投げつけられた石の残した傷跡がどうしても消えることなく残っていた。
「みんなもこういう傷。あるよね? こういう風に傷をつけられないように、私達は他のグループともつながって、翠眼者の立場を守っていかないといけないの。つながっていれば、翠曜日にもうまくできるはずだから」
 そう言われて、そこにいたそれぞれはみんな、長袖の服や髪、アクセサリーに隠された傷跡を擦った。冬羽の雰囲気と喋り方が変わったことに戸惑うひともいたけれど、新しいリーダーの高らかな宣言に声高に反対意見を言うひとはいなかった。
 夏帆。私、頑張るからね。沙月さんの分も先輩たちの分も報いれるようにするからね。
 力になるよ。夏帆がそう返すと、冬羽は小さく頷いた。
 翠眼者の仲間を増やすと一言で言っても、それは全然簡単なことじゃなかった。警察官や消防隊員、自衛官のような募集を公に出すことも、街中に出ていって声をかけることもアイデアとしては出た。けれど、天文庁がいい顔をしなかった。
 翠曜日に備えるためだと説明すると、理解をしてくれるひとたちもいた。
 それでも、結局うまくいかなかった。同じような大翠害が訪れたとき、翠眼者が多ければ被害を抑えられるのか? そう聞かれると、夏帆たちは言葉に詰まってしまった。あの大洪水の翠幻をすべて写しとるなんて、現実的に思えなかった。多くのひとを助けることよりもむしろ、〈塔〉に行くことを目指すなんていうと、理解してくれたひとも離れていった。翠眼者以外の普通の普通のひとは、〈塔〉なんかに関心がなかった。
 それに、翠眼者の誰しも、普通の人がいきなり他の誰かが誘われて翠眼になるなんて想像できなかった。翠眼者は翠幻の被害にあったひとの集まりで、被害にあったときに先輩の翠眼者に救われて憬れたか、親しいものを喪って、被害を繰り返さないと誓って翠眼になっているひとばかりだった。
 わたしたちは傷跡を向かい合わせて、見せあって繋がっている。夏帆はそう思った。
 新しい傷が生まれないようにと、夏帆は後輩の翠眼者を連れながら、毎日淡々と通報に対処した。相変わらず翠陽は気まぐれだったし、現れる翠幻も様々だった。水槽が割れて水族館から逃げ出したサメ、都心を走る環状線の屋根に大量発生した人畜無害な子猫の群れ、泳ぐ者に美しい音を聞かせて溺れさせるセイレーン、牙を剥いて人を食らう家。
 翠眼が使える限り、夏帆たちは写しとった。翠眼が辛くなると、徐博士と連携して新しい眼薬を差して、翠眼が写しとりすぎで疲弊しているのを癒やした。それを使うと、ごろりごろりと写したものが溜まったような感覚はすぐに失せて、次の日にはまた写しとることができた。

 冬羽がリーダーになって二年が過ぎたころ、グループの人数は十人くらい増えていた。みんな翠幻の被害者だった。烟草屋たばこや千秋ちあきもそのひとりだった。十七歳の彼女もまた、東京大翠害の被害者だった。
「夏帆さんも冬羽さんもすごいですよ。私だったら。あの洪水を目の前で見たら、自分がもし翠眼でも、誰かを助けられるなんて思えないですもん。多分怖くて、逃げちゃうと思います」
「あの日。沙月が視たら、洪水が映画みたいに割れてね。そこを走って抜けたんだ。目の前が開けても、足が固まちゃって逃げるの無理だと思ったけど、沙月に声をかけられたら大丈夫だと思えた。だから、わたしもあんな風に、誰かを助けたいなって思ったよ」
「私はあのとき、修学旅行で日光にいたから、生では見てないですからね。巷に出回ってる再現映像とかみると、お父さんもお母さんもあれを見て苦しかっただろうなって思います。すごく怖くて、だから、やっぱり私なんかが翠眼でも、翠曜日に大きな翠幻が出たら役に立たないと思うんです」
 わたしだって、同じような洪水が現れたら、立ちすくんでしまうだろう。けれど、千秋の前でそれを口にすることはできなかった。千秋はただでさえ、恐ろしい翠幻を写しとるのを嫌がった。どちらかといえば放っておいてもいい動物の翠幻の現場にばかり行っていた。猫や美しい鳥の群れのようなのが現れると飛んでいって、写しとって周りに自慢していた。害虫や鼠なんかの翠幻は他の誰かに押し付けていた。
 だから今日は、夏帆は千秋についてくるようにと言った。北新宿の片隅で、区画の全体が幻の炎に包まれていた。夏帆は千秋を入れて五人でかけつけて、それぞれの役割を決めて炎を写しとった。けれど、千秋はずっと物陰に隠れていた。幻の炎に焼かれた男の上げる悲鳴を聞くと耳を塞いでしまって、翠幻がすっかり消えてしまったあとも、しゃがみこんだままなかなか出てこなかった。
 一通りの報告を終えると、夏帆は千秋を自室に呼んだ。冬羽が引っ越したあとも、夏帆は同じ部屋に住み続けている。ひとりで住むにはがらんとしているから、時々こうやって、翠眼者の後輩を呼ぶことがあった。コーヒーを淹れると、千秋はコーヒーは苦手なんです。と言った。アールグレイのティーバッグを開けて、ゆっくりとお湯を注いだ。
「やっぱり怖いの? 今日のは確かに、下手すれば熱くて苦しいけれど、わたしもいれて四人もいたし、千秋は一番うしろだったから、大丈夫だと思ったのに」
「はい。やっぱり私。自信ないですよ。でも、足手まといになってばかりだと、みんなに申し訳ないです。だから、最近また、この眼にならなきゃよかったって、思っちゃうんです」
「わたしもあるよ。そういうこと。冬羽がここに住んでいたときは、ふたりで同じ幻を見て、慰め合ってたよ。わたしと冬羽がたまたま見つけた、音楽をやってくれる翠幻。それを今でも思い出せるけど、最近は全然見てないね。冬羽が忙しくて、ほとんど会わなくなったから」
「私もそういう翠幻があれば、もっと頑張れるかもしれないです。おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなっちゃったから、寂しいんですよ。だから、動物の翠幻を写しとって、思い出してずっと見ているのが好きなんです。でも、それも、焼きつくからやめろっていわれちゃったし」
 寂しいのも無理はなかった。翠幻が千秋に残した傷跡は大きかった。祖父母と行った先のスーパーに、何匹ものヒグマの翠幻が現れた。混乱した客に紛れて、祖父母を見捨てて逃げてしまうこともできたけれど、千秋はそうしなかった。祖父母と共にインスタント食品の長いたあの間に追い込まれ、2頭のヒグマに挟み撃ちにされた。ヒグマが振った手に、祖父の頭が名薙ぎ払われるのを見た。開かれた牙に、祖母の頭が挟まれるのを見た。恐ろしさで失禁してしまったところに、冬羽と夏帆が駆けつけた。
 ショック死した祖父母の葬儀のあと、冬羽は千秋の元を訪れた。それで、翠眼を怖がり、翠眼になることを嫌がっていた千秋と長々と話したあと、眼を合わせて彼女を翠眼にした。傷跡や寂しさにつけこんでいるようで嫌だな、と夏帆は思っていた。
「夏帆さん。時々でいいから、夏帆さんの部屋に来てもいいですか? 夏帆さんのことも、もっと教えてほしいです」
 いいよ。夏帆は言った。懐かしい感じがした。
 それから、週に一度くらい、千秋が来るようになった。何ヶ月経っても、千秋は現場で後ろに隠れるのをやめなかったけれど、少しずつ見かけの恐ろしい翠幻に立ち向かうようになったた。翠陽が穏やかなときは、千秋が来る日に他の後輩を何人も呼んだ。友達と呼べる誰かがふえればいいと思った。グループの名簿には夏帆が顔を見たことのないメンバーも増えていて、そのひとたちに会って話をした。沙月の優しい言葉が恋しくなって、沙月が飲んでいたのと同じ焼酎を呷って部屋の隅でひとり眠りに落ちることもあった。明け方の肌寒さに目覚めると、千秋と別の男の子が、ベランダで毛布を被って遠く空高く優しく輝く翠陽を見上げていた。
 翠の光が弱々しいときは、がやがやとうるさいひとたちが現れた。一ヶ月くらい、ほとんど翠幻が現れない時間があると、翠眼者をよく思わないひとは声高になった。翠幻が現れる怖さがないからか、建物の前に集まってデモのようなことをした。翠眼になるのが本当に怖いのか、誰もが薄いプラスティックのお面の目の穴を潰して、顔をすっかり隠しているのが滑稽だった。
 翠眼者は増えすぎている。翠眼者は本当は翠陽から訪れていて、翠幻の原因は翠眼者だ。若い普通の人間を積極的に助けて、仲間に引きずり込み続けている。直ちに出ていくべきだ。やかましいひとたちはそんな風に大声を張り上げた。多くなったとはいえ、グループみんなで集まっても彼らの数には叶わなかった。歩いていると時々取り囲まれて、蹴られたり殴られたりをされることはまだなかったけれど、耳元で時代遅れの拡声器で大声を張り上げられて、何人かは鼓膜を痛めて入院した。千秋も耳を悪くした。夏帆は遠くからそれを見ていて、そんなに大きな声が張り上げられていることに気づかなかった。
 別の日、もっとひどい暴力の気配が漂い始める前に、冬羽がうるさいひとたちのところに出ていって、強い言葉で彼らを非難した。勢い余って二、三人のお面を叩き落として睨みつけたから、騒ぎは大きくなってしまって、夏帆は罵声を浴びせられて、一番前でもみくちゃになる冬羽をやっとのことで引きはがした。結局、二十人ほどの警察がやってきて、その場は収められた。冬羽はお面のことを警察官から咎められたけれど、相手方に謝罪するだけで済んだ。
「冬羽があんなに怒るなんて思わなかったよ。警察署でもずっとふてくされていたし」
「みんなを守るのが私のやるべきことだから。悪かったなんて思ってないし、思いたくない」
 冬羽を迎えに行った帰り道、タクシーが家の前で止まったとき、夏帆が冬羽に目配せすると、目があった。久しぶりに話そうよ。寄っていかない? 声をかけようか迷っているうちに、冬羽がまたね。と言って、もう一度目を合わせただけでお別れになってしまった。
 うるさいひとたちも、八年目の追悼式典が終わるころには静かになっていた。気まぐれな翠陽はまた、あちこちに翠幻を生み出したし、翠曜日の嫌な気配がいよいよ近づく中で、陰謀論を振りかざしている余裕なんてなくなったのだろう。
 冬が訪れるころ、まだ〈その時〉を迎えていなかった先輩ふたりが〈その時〉を迎えた。別れの儀式は厳かに行われ、集まったみんなで白いトルコキキョウを手向けた。ひとりは箱は沙月の後を追うと言って、ミントグリーンの箱に入れられて上海へと旅立った。もうひとりには兄がいて、兄の希望で天文庁の連携病院へと永い入院をすることになった。時が経つことは〈その時〉が近づくことだった。翠曜日が近づくということでもあった。夏帆も余裕がなくなって、千秋の相手ばかりをしていられなくなった。一番の年長者のひとりになって、次の翠曜日のことを考えないといけなくなった。
 天文庁から送られてくる次の翠曜日の予測はあてにならなかった。覚悟を決めるのと、目指すべき道標としては少し役に立った。徐博士からも連日、新しい速効性の新薬や、〈塔〉についての聞き取りから、出現場所にあたりをつけるような資料が送られてきた。資料を見たり、計画を立てるために、毎日グループの部屋に通い詰めた。
 冬羽と同じ空間で一緒に過ごすのは二年ぶりのことだった。事務的なこと以外であまり深く言葉を交わすことはなかったけれど、冬羽のフォンにあのストラップがついているのをみて、夏帆は変わっていないこともあると安心した。
「ねえ、夏帆。夏帆も多分、ちゃんとこれを使った方がいいと思うの」
「なにこれ、眼薬?」
「夏帆がいなかったら、次の翠曜日に失敗してしまうから。これは、夏帆の〈その時〉を少しは遅らせてくれるはず。徐博士の研究の成果だよ。沙月さんたちも、これを作るの同意しているの」
「徐博士の研究に反対してたのに、冬羽も変わったね」
 仕方ないよ。沙月さんとか、先輩の想いを引き継いでいるんだから。そう言ってから一呼吸おくと、冬羽は続けた。
「夏帆が心配だからさ。夏帆、さっきからこの部屋に流れている音楽、分かる?」
「メロディは、あのバンドの曲だね。誰かがカバーしてるの? 全然音が違うけれど」
「あのバンドの曲だよ。夏帆。お願い。その薬、使ってね。〈その時〉はゆっくり近づいてきて、急にギアを上げるから」
 低い音の聞こえがとても悪くなっているのを自覚すると、まわりの音という音すべてがおかしく響いているように聞こえ始めた。冬羽の声も、自分自身の声でさえも、不確かで揺れ動いて、いつ崩れてもおかしくないように思えた。
「わたし、これで九年目だよ。まだ〈その時〉には早すぎるよ」
「まだ早いって信じてる。でもね。沙月さんの〈その時〉も、急にきてしまったから。だから、夏帆には、その薬を使って欲しいの」
 眼薬には、眼が膨らむような妙な不快感があった。嫌な感じが続いて、まぶたを閉じることができなかった。しばらくするとその感覚も止んだ。低い音の感覚は戻らなかったけれど、翠眼の裏側の方がなめらかに感じられた。独り言を言いながら、翠曜日が訪れたとき、誰に何を任せるか考えている冬羽を見ながら、夏帆はふたりだけの幻を思い出そうとした。
 けれど、どうしてもできなかった。目の奥に引っかかっていたはずの翠幻がすっかり押し流されてしまったように。
 結局、翠曜日に〈塔〉へ行くためには、思い出せないようになったのは都合が良かったのだと夏帆は知った。そうでなかったら、〈塔〉へ行くのに失敗した原因を作るのは千秋ではなかったかもしれないから。

5.

 警報が鳴り響いている。
 天文庁は全国の警報器を調整して、翠陽が少しでも強い光を放つとけたたましい警報を鳴らすようにした。いつ訪れるかわからない翠曜日のいやな気配に、翠眼者もそうでないひともいらだちを隠せない日々が続いていた。
 冬羽から受け取った眼薬を使い切った夏帆は、〈その時〉がそれ以上近づいていないことに安心しながら、毎週のように翠曜日を想定した準備をしていた。再び洪水に襲われる場合、大火に襲われる場合、嵐や雷に襲われる場合、あるいは無数の獣や虫が東京を包み込む場合、などなど、色々な翠害のパターンを考えて、グループのメンバーの動きを確認した。
 動ける人数は、東京の他のグループと連携することを考えると、全部で百五十人を超える。それでも、計算上は〈塔〉を消すためには不十分かもしれなかった。グループ内を焦りが覆って、ちょっとした口喧嘩が激しい口論になってしまうことも増えた。
 夏帆はあれほど大嫌いだった再現映像を、練習のために使うことに決めた。想定されるいろいろな大翠幻を映像に起こしてもらって、グループのみんなに翠眼で視たときの感覚を掴んでもらおうと思っていた。
 千秋はそんな準備に、ほとんど姿を表さなかった。ときどき顔を見せると、見るだけで浮かれた様子なのが分かった。映像を見るときも上の空で、怖かったですね。なんていう身の入っていない感想を言った。それを視た同じ年くらいのメンバーも良い顔はしなかった。千秋は孤立していったけれど、構わないという風に、上の空の顔をして帰っていった。
 一体どういうつもりなのか。
 夏帆は問いただすために千秋の部屋に向かった。
 亡くなった祖父母と一緒に住んでいた古い1LDKだった。ちょうどお昼時に行くと、昼食のカレーを作る匂いが漏れ出していた。
「夏帆さん。どうしたんですか急に」
「あのね。千秋。なんでかわからないけれど、ちょっと浮かれ過ぎに見えるよ? 千秋は自分のこと、役に立たないってまだ思っている? そんなことない。千秋にも写しとってもらわないといけないの」
 千秋の向こう側に火にかけられた鍋が見えた。一人暮らしには大きすぎるサイズだった。アイボリーのクロスの掛けられた大きなテーブルに、ブルーのカレー皿が四枚積まれている。淡く黄色い証明に、ピンクゴールドのスプーンが映えていた
「やっぱり、そう見えますよね? でも、私。いますごく楽しくやれてるんです。夏帆さんも、見たら分かってくれるはずです。夏帆さん。私の眼を、じっと見てください」
 千秋の両肩にそっと手をおいて、覗き込むように真剣な翠の眼を見た。千秋は翠眼の底から、彼女が写しとった大切な幻を引っ張り出してきた。壁際に、彼女の父親と母親が立ってこちらを見ていた。
 翠幻には生きているひとも死んでいるひとも現れることがあるという話は聞いたことがあった。でも、こうやって実際に見るのは初めてだった。洪水よりも大火よりも、そういうひとたちが見えてしまうことは夏帆にはひどく怖かった。翠幻になった沙月にもう一度会いたいかと聞かれたら、わたしはきっと首を振るだろう。そう思った。
「家族を見つけたんです。本当にたまたまですけど。翠陽がすごく綺麗に輝いてる日でした。夏帆さんと冬羽さんの思い出の翠幻の話を思い出して、もう絶対忘れるもんかと思ったんです」
「千秋、これは翠幻だよ。喋ったり触ったり、一緒に御飯を食べている風に感じることができるかもしれないけれど、ただの幻なんだよ。本当に生きているひと違って、話せることにもできることにも限りがあるんだよ」
「今は、いいんです。こうやって楽しく暮らせるの、すごく久しぶりのことだから」
 千秋の父と母に挨拶されて、夏帆は戸惑った。挨拶し返すと、にっこりと笑った。そこに誰もいないはずの空間が、千秋にとっては愛しい家族になっている。玄関のドアが開いて、小さな男の子が乱暴に靴を脱ぎ捨てて、泥だらけのままチェアに座った。
「弟でもいたの?」
「兄みたいな男の子でしたね。父子家庭で、お父さんはいつも忙しそうだったから、近所の私の家でご飯食べてたんです。お父さんが研究者だから、すごく勉強ができて、小学校のとき、算数とか理科を良く教えてもらってました。名字は忘れちゃったけど、博文くん。すごく頭が良かったから、私、あこがれていました」
 千秋のつくったカレーは美味しいからな。と、父の翠幻は言う。あまりにも千秋に都合がいい。翠幻は、幻覚を見る者の願望でも引き抜いてきて居るように思えた。
「千秋、この生活、いつまで続ける気? 気が済むまでやったら良いけど、眼薬はちゃんと差しなよ。毎日見てて、焼き付いちゃったら、もうそれ以外見えなくなるんだから。
 千秋をもっと強く咎めて、強い気持ちで止めさせておけばよかった。

 八月の終わり、朝、眠りから覚めかけの街の上空で、それまでは消えかかるほど弱かった翠陽が突如、燃え盛り始めた。
 空で膨らんでいく翠陽はすぐに満月の二倍くらいの大きさを越える。その大きさの急速な変化をひと目見て、あの日を経験したひとはみんな恐怖に震えた。一度は夏の大きな雲にすっかりかくれてしまった翠陽がぬっとあっという間に大きくなって、雲の端から顔を出すと、通勤電車の窓からそれを見ていた人は次の駅で降りて我先にと駆け出した。地下に逃げ込もうとするひとで地下鉄の入り口はどれもパニックに陥って、四方八方から押されてまるで身動きの取れなくなったひとが潰れた肉団子みたいにあちらこちらに詰まっていた。
 幸いにも警察の初動はまともで、信号の統制と交通整理ロボットが街に出張ってくると、東京を脱出しようとするひとびとの長い車列はスムーズになった。
 耳をつんざく警報のなか、夏帆たちは高い建物に登って、身構えて大翠幻が現れるのをまった。次が来るまでまた十年近く待たなければいけない。それを見れるのは、ここにいるみんなのうち何人なのだろう。
 神宮外苑に〈塔〉が現れた。東京タワーも東京スカイツリーも、他のすべてのランドマークの印象も、全部かき消してしまうほどの存在感で、夏の終りの空は貫かれた。〈塔〉の真上で、翠陽が燦爛と輝くと、〈塔〉を見ていた誰しもの目がくらみ、目眩を感じて立ちすくんだ。
 そして、街の様々な場所が焦げ臭い匂いに包まれた。
 あらゆるところに炎が立ち上がって、ビルの間を吹き抜ける風はすべて灼熱になった 。ちょうどそこを飛んでいこうとした鳩の一群が、灼熱のショックに耐えられず次々に墜落した。それでもその炎が広がっていく速さは、洪水があっという間にすべてを飲み込んだのに比べると慈悲深かった。揺らめく炎をうまく避ければ、炎のこない所に逃げ込むこともできそうだった。それは、〈塔〉へ行く絶好のチャンスに見えた。
 そう確信して、神宮外苑のオーバルの真ん中に立つ〈塔〉へと向かっていって、たくさんの仲間が熱にやられて斃れた。
 〈塔〉へ近づくほどに、写し取らないと行けない幻の炎の量が増えた。普段見るどんな翠幻よりも、幻の広がる速さが速かった。つまり、一見写し取れそうでも、十分に近づける頃には広がっていて、翠眼の限界を越えてしまった。写しとれるほど近くで視ようとして、熱と火傷がもたらす痛みの感覚と、じわじわと増していく息苦しさに、特に若い翠眼者がやられていった。
 〈塔〉へは確かに近づいている。あと少し、青山通りの信号三つ分の距離をくぐり抜ければ、〈塔〉の足元が見える。みんなの眼薬はとっくにつきかけていた。夏帆は帰り道のために確保された避難場所で、まだ全然翠眼を使っていないひとに手を挙げさせて、三十人くらいをつれて先頭を走った。表参道の交差点を抜けたところ、一番の前線に冬羽がいた。
 写しとり、道を切り開く。ひとり、ふたりと、翠眼が限界を迎える。
〈塔〉の手前のY字路で夏帆は千秋ともうひとりを前に出した。
「千秋、色々教えたとおり、しっかり視て、道を開いて。千秋ならできる」
 そこにいる誰もが、千秋の眼がまるで働かないとは、思っていなかった。

6. 

 大部屋の大きなスクリーンに、失敗した翠曜日の当日の様が映し出された。
 それは、失敗を振り返り、次の翠曜日に活かすための反省会だった。天文庁からも、助けを求めるひとびとの声を聞かずに〈塔〉を目指したのに、〈塔〉の所に行けなかったのはどういうことなのかと、理由を求められていた。救うべきひとを助けなかったと報道され、追求の声は日に日に高まっていた。
 わたしにとっては、最後の翠曜日だったかもしれないのに。
 夏帆は気持ちの整理がついていなかった。十年近く積み上げてきたものが、一日の失敗でがらがらとあっけなく崩れてしまった。それは冬羽にとっても、新しい大きな傷跡になってしまったんだろう。翠曜日の失敗からずっと、顔つきが違う。つかれて憔悴しながらも、率いる者としてのプライドを失わないように精一杯踏みとどまっているみたいに見えた。
 失敗の原因をまとめたひとが、前でスライドを送っている。
「あと一歩、青山通りのY字を抜けることができれば、そのあと、〈塔〉の真下まで行ける可能性は十分にありました。翠眼の限界を考えるとギリギリのところですが、冬羽リーダーと他何名かが、ローテーションして〈塔〉を写しとれるくらいの眼薬を持っていたので。でも、あと一歩は及びませんでした。メンバーの翠眼が焼き付きにより、写しとることがまるでできなくなっていたのです」
 前に立つ人は、それが何名だったかも、誰だったかも言わなかった。
 けれど、冬羽は立ち上がると、烟草屋千秋。前に出てきて。と冷たく突き放す声で言った。
「あなたの翠眼の焼きつきで、みんなの八年近くの準備が全部台無しになった。焼きついていることに、気づかなかったの? こんなことになる前に、どうして言わなかったの?」
 それは。と言って、千秋は黙ってしまった。
 黙りきった千秋が口を開こうとして、また黙ってしまって。冬羽が冷たく、早く言って。と言って突き放して、そんなことが繰り返された。
 部屋中の酸素を使い切ってしまうほど長い時間、その不毛は続いた。みんな何かを言おうとしていた。後ろの方にいた夏帆も、割って入らなければと思ったけれど、後悔がそれを邪魔してしまった。家族の翠幻を見ながら暮らす千秋を、あのとき止めていれば、もっと違う結果になっていたかもしれないのに。
「ここにいるひとの半分くらいは、次がないかもしれないのに」
 冬羽がそう言うと、冬羽を止めようとしてたひともみんな黙ってしまった。
 頭痛がするくらい空気が悪くなったとき、またにしましょう。と誰かが言った。
 散会する前、冬羽は手を振り上げた。それでも千秋の頬を打つ手は寸前で止まった。千秋のプライドと背負っているものは、そのときはまだ、状況を最悪にしないことに味方してくれたていた。
 翌日から毎日、狂った集まりが続けられた。千秋は前に立たされて、焼つきの理由を説明した。焼きつきがどういうものなのか、どうすれば防げたのか。翠眼者なら誰でも知っていることを、繰り返し説明を求められた。それが終わると、気づかなかったのか。何故言い出さなかったのか。たどたどしくそのわけを説明した。
 そのたびに冬羽は、納得がいかないの。そう言って靴の裏で床を打った。終わりの見えない問いかけと受け答えが繰り返されたあと、やっぱり納得がいかないの。そう言って集まりが終わると、翌日また集まるように言われた。納得できなければ、沙月や歴代のリーダーに報いることができない。冬羽はよくそう言った。
 眠れていない様子の冬羽は、毎日同じ格好で現れた、お気に入りのレモンイエローのスニーカーも履き潰されて黒ずみが目立つようになった。そういう日が一ヶ月近く続いた。千秋は焼きつく可能性を知るひとは他にいないと言った。家族の翠幻を夏帆に見せたことは決して言わなかった。夏帆を庇ったのか、それとも秘密を千秋だけのものにしておきたかったのか。夏帆は結局聞くことができなかった。
 ある日、冬羽は集まりの場に現れなかった。いつもの場所に千秋が座り、沈黙が続く中、冬羽を待ち続けた。誰も何も言わなかった。誰も何も言えないくらいに疲れ果てていた。
 夏帆は集まりの部屋を飛び出して、冬羽の部屋に駆けつけた。
 冬羽は玄関で、倒れてぐったりとしていた。身体に触るとひどい熱があった。火照る肌から、疲労を含んだ汗の醸すいやなにおいが立ち上がった。ベッドに寝かせると、冬羽はうつろな目で天井を見上げた、そしてときどき、何かを強く思い出すように目を開いて、ごめんなさいと、夏帆でない誰かに向かってつぶやいた。
 冬羽と目を合わせると、夏帆の目にもその誰かが見えるようになった。ひとり、ふたり、顔を知らないけれど、昔の写真で見たことのある歴代のリーダーのうちふたりが、冬羽の枕元に立って、何も言わずに難しそうな顔をしていた。それから、沙月だった。ふたりの眼に沙月の幻が見えかけたとき、冬羽はようやく夏帆を夏帆と認識した。
「今のは忘れて、あの翠幻を見るのは私だけでいい。眼薬を使えば消えるから」
「冬羽は、いまのをいつも見ていたの?」
「そうだよ。歴代のひとの翠幻、私たちは受け継いできたの。〈その時〉が近くなったとき、強く想えば、私たちは自分の姿を相手の眼に写しとらせられる。リーダーだけの秘密にしてた。徐博士、このことは知らないの。翠眼者だけの秘密なのかもね。ねえ、私、〈その時〉までにもう一度、チャンスあるかな? 沙月さんから引き継いだものを果たせるかな? まだ諦めきれないよ。私の力で、約束を果たさないといけなかったのに」
 
 体調が戻ると、冬羽は千秋を呼んで、集まりのことを何度も謝った。千秋はずっとおずおずとしていて、言われるがままに冬羽の謝罪を受け入れた。むしろ、新しい眼薬の開発に協力するように言われて、徐博士に毎日のように連絡して、千秋は温室の中でただ水を注がれて育つ植物のように、送られてくる眼薬を次から次へと使っていった。
 植物だったら根腐れしてしまうほどに目薬をさした千秋の翠眼は着実に変わりつつあった。栄養過多でいびつに膨らんだ花柱のように、翠眼は肥大していった。冬羽の部屋には、千秋の頭部のレントゲン写真が山のように貼られるようになった。一枚一枚に小数点以下までの翠眼の大きさが書き込まれていた。その数字の脇には、その大きさの翠眼で写しとれる翠幻の大きさが見積もられていた。
 冬羽の部屋と病院、それから自室を往復するだけの千秋は、眼球がぷっくりと膨らんで、瞼の皮が伸び切って元に戻らなくなってしまっても、逃げ出すことはなかった。千秋の部屋には焼きついたままの翠幻の家族がいて、いつも彼女と笑い合っていた。
 そんな千秋が目を見開いたまま、自宅の浴槽を手首から流れ出た真っ赤な血に染めて死んでいた。
 新しい眼薬を使ってから、連絡の途絶えた千秋の様子を見にいったときのことだった。
 よく掃除された部屋のダイニングテーブルの上に、開け放たれて乾ききった眼薬のボトルが置かれていた。手配された業者が、あのプラスティックの箱を持って入ってきた。作業員はいたってマニュアル通りに、千秋の遺体を意味もなくバイタル装置につないで箱に収めた。そのまま上海へと運ばれて行って、お別れをする時間の欠片もなかった。
 千秋の遺体の今後を問いただそうと、夏帆は徐博士へ電話をかけた。
「徐博士、千秋をどうするんですか? お葬式の時間もないなんて」
「大きくなった翠眼の様子を、じっくり見させてもらう。翠幻研究への偉大な貢献ね。翠眼が死にきらないうちに上海に届かないと、彼女の死が無駄になるでしょう?」
 夏帆が話しているところに、冬羽が入ってきた。
「千秋はきっと、新しい眼薬の実験体になることは同意したけれど、あんな姿になるとは思っていなかったんだと思うよ」
「夏帆、あんな姿なんて言わないで。私達はみんな、これからあの姿を目指さないといけないんだから」
「あんなに眼を大きくしてどうするの? 翠幻を視ることだけが、わたしたちの人生じゃないんだよ?」
「もう翠眼なんだから、私達。ずっと前から普通とは違うじゃん。普通だと思って、〈その時〉のこととか、私達の傷跡のことを見ないようにしても、その方が苦しいでしょ。眼が大きければ、それだけ写しとれる翠幻が増える。それにね。徐博士が見つけているの。翠眼が大きい方が、〈その時〉の訪れが遅くなるって」
「そうですね。統計的に見ると、〈その時〉は遅くなるの。肥大化すると、焦げつきも解消されるかもしれない。翠幻の焦げつきについては、何故それが起こるのか分かっていないのだけれど、眼球のどこかに貼りついているようなものなら、球の半径が大きくなれば剥がれてくるはずでしょう? 送ってくれた子は焦げついている子だったはずね。だから、焦げついていたら、焦げつきがどういう翠幻なのか解析させてもらう。そうでなかったら、焦げ付きが剥がれているということになる。成果は世界に、発表させてもらうから、安心して」
 千秋の焦げつきは消えてしまったんだ。それは千秋の大切なものだったのに。千秋の父と、千秋の母と、友だちの博文くんの翠幻はすっかり消えてしまったのだ。夏帆はフォンを投げ捨てて、手を振り上げて冬羽を左手で強く打った。
「痛いよ。夏帆。でも、私は、諦めるわけにはいかない。次の翠曜日で必ず〈塔〉に行くの」
 冬羽はグループのみんなを集めて、新しい眼薬の話をした。翠眼を大きくすれば、〈その時〉が先送りされること、次の翠曜日に、またチャンスがあるかもしれないこと。けれど、誰もその場で首を縦に振らなかった。冬羽はひとりひとりの前にいって、翠眼者の使命について空虚に語り続けた。それでも、誰一人、冬羽の味方をするひとはいなくて、最後には並んでいた椅子を次々に持ち上げて、みんなに投げつけて大暴れした。
 二十人くらいに抑え込まれた冬羽が歯を見せて唸っている。その声を聞いて、みんな冬羽を強肩のようだと思ったけれど、夏帆は違った。低い唸り声を、夏帆は聞くことができないから。冬羽の短い髪をそっと撫でて、強く見開かれた眼を見つめた。抑え込むみんなの後ろに、ふたりだけの翠幻が現れた。歴代のリーダーたちの重苦しい顔、ひとり、ふたり、顔を知らないひとが全部で五人。それからその後ろに、沙月の幻があった。受け継いだ幻は想いとともに呪いのように、冬羽につきまとっていて、これで冬羽は変わってしまったんだね。夏帆はごめんね、と、小さな声で言った。
 そのあと、冬羽はいなくなった。部屋は物が置かれたままがらんどうになっていた。保管してあった大量の眼薬だけがなくなっていた。二ヶ月くらいすると、片付けられて別のメンバーが住み始めた。どんなに探しても、冬羽の姿は見つからなかった。それからしばらくして、翠眼の肥大化した翠眼者が眼をえぐられて殺されたというニュースが飛び込んできた。現場の遺留品に、思い出の犬のストラップがあった。
 いなくなる前に、抱きしめてあげればよかった。もっと深く、もっと前に冬羽のことを知ってあげられればよかったのに。
 そして、〈その時〉が近づくのは止まらなかった。冬羽にもう一度だけ会いたいと思って、感覚を失った左脚を引きずりながら、夏帆は上海へと飛んだ。

7.

「その声は叫び声に似てるの。死ぬときの断末魔か、生まれるときの鳴き声みたいなね。あと二十年早かったら、翠曜日だけは予測できて、東京の翠害はもっと被害が小さかったかもしれない。あと五十年早かったら、上海は最初の大翠害都市じゃなかったかもしれない。まあ、生まれる日は選べないから、こんなことを言うのは、誰にとっても慰めにならないのだけれどね」
 夏帆は目覚めさせられて、目の前の徐博士がそういうのを聞いた。
 どろんとまどろむ頭はまともに働きそうにない。右脚はすっかり存在感を失っているが、外付けの大腿義足が歩くのを十分に助けてくれる。
 翠陽の活動で、ただ一つ周期的なのは翠曜日の訪れだ。徐博士のグループは、翠陽の光の特定の周波数帯に注目すれば、翠曜日がいつ訪れるのか、前後の誤差二日ぐらいで予測できることを発見していた。それをうまく音にすると、まるで叫び声のように聞こえるらしい。
 〈その時〉はまだ訪れていない。この眼でまだ見ることができる。
 そのことにまず、夏帆は安心した。
 翠曜日を迎えるための厳戒態勢の東京に降り立つと、誰も彼も顔を伏せる。今日一日で全部終わらせればいい、誰かに見られるために、この身体になったわけではないのだから。夏帆はそう思ったけれど、入国審査の顔認証がエラーになった。それで、このすがたの説明と、このすがたが伊勢夏帆であることを証明しなければならなかった。エラーを吐き出し続ける顔認証システムのところに人間の審査官がやってきて、彼だけでは判断がつかなくて上役がふたりくらい出てきて、何枚もの写真を撮られてようやく入国許可が出た。審査システムのカメラは何度も夏帆のすがたを認識して、誤作動して生き物のラベルとつけた。出目金、カエル、メガネザル、オオヤモリ。大変失礼しましたと言って何度も謝られたけれど、別にその必要はなかったのにと夏帆は思った。事実を写しているだけなのだから。
 すでに多くの人の避難ははじまっていた。翠曜日の被害は山間部では起こりづらいことがわかってきたから、ひとびとはみんな山の方へ逃げるらしい。街に残る人も少なからずいて、そんなひとたちと今の世代の翠眼者たちが、翠曜日当日に救助依頼をする方法について、街角で話し合っていた。
 予測はぴたりとあたって、一晩寝て起きると、翠陽の光が極大に近づいた。
 〈塔〉がシーサイドに降りてくるのを、夏帆は見た。
 暗闇をまとった雲の翠幻がどこからともなく現れて空を埋め尽くして、轟雷が街中を襲った。翠曜日を知らせる警報を聞きながら、夏帆はシーサイドへ向かった。横凪の強い風の中、東京を切り裂いて散り散りにしてしまうんじゃないかと思うほどの落雷音を耳にしながら、肥大化した翠眼で写しとり、〈塔〉の方へ向かった。
 助けて。途中で声をかけられて、轟雷から小さな女の子を救い出した。街のあちこちで稲妻に立ち向かう翠眼者の後ろから近づいて、そっと視るのをサポートすることもあった。彼らは夏帆のことをみてぎょっとしたけれど、みな小さな声でありがとうと言ってくれた。
 〈塔〉の元へたどり着く。翠眼はまだ、なんの痛みも感じていなかった。そこには落雷を視て写しとりながら、〈塔〉を視ようとする後ろ姿があった。真新しいイエローのスニーカーが、軽やかに地面を蹴りながら落雷を避けている。
 交わす言葉はいらなかった。夏帆は右から、冬羽は左から、巨大な〈塔〉を見上げた。ふたりが一緒に写しとると、〈塔〉の姿は消えた。
「冬羽もわたしと同じだね。空港に行ったら、眼が大きすぎるから、メガネザルと間違えられて大変だよ」
 冬羽は何も言わなかった。〈その時〉の近づきで、返せなかったのかもしれなかった。
 ふたりが目を合わせると、二人の意識は〈塔〉の内部へと飛んだ。浮かぶ感覚と翠色の光の中に吸い込まれていくと真上に翠陽の輝く、真っ白い砂地のような場所に出た。そこからは、地球のあらゆる場所に現れる翠幻の様子を視ることができた。
 天上の翠陽が光り輝くと、声が聞こえる。
〈君たちのことばで言う翠陽が一回転すると、わたしは生まれ直す。わたしは君たちの星のことを知りたいと思う。君たちの考えを光を通して顕にして、わたしは解析する。みたいものやみたいくないもの、いろいろなものがあるみたいだけれど、生まれ直したわたしはすべてを忘れている。だから、光を見せて君たちのことを学ぼうとする。君たちがもし、光になって、わたしのところにきて、いろいろなことを教えてくれるなら、もっと早く君たちのことを知ることができる。君たちは翠陽で、しあわせに暮らすことができる。こちらに来る場合は、歩みを進めて、翠に向かって両手を上げて〉
 冬羽が進み、手をあげようとする。片手を上げたまま、砂地に倒れて動けなくなる。〈その時〉の急速な訪れだった。夏帆は歩み寄って、冬羽の身体を抱き上げて、唸るような声をあげながら、手をあげようとするその頭をそっと撫でた。
「わたしは冬羽の眼に、冬羽はわたしの眼に、入ってきてね。ふたりでさ、また同じ幻を視ようよ。〈塔〉には来れたんだから、これ以上進むことなんてないよ。冬羽は、わたしのところで冬羽でいてよ。これまで止められなくって、ごめんね」
 言い終わると、夏帆にも〈その時〉が訪れた。
 〈塔〉に飛んだ意識はゆっくりと現実へと戻る
 背中に公園の芝生の感覚を、夏帆は薄れゆく近くの中で感じた。
 そこは、幼い頃ふたりで遊んだ頃のある公園だった。公園の時計の下で、ふたりの身体は大きな眼で見つめ合って硬直していた。翠陽の光が弱く微かになり、翠曜日は夜に終わる。公園の時計はちょうど、午後八時を指していた。

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