授体

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梗 概

授体

サイが地球に降り立ってから、既に300年以上の時が経つ。あっという間に決着のついた争いと、長い植民地時代を経たあと、人間は陸、サイは海を生活の場とする協定が結ばれ、ここ80年ほどは友好的な共存関係が築かれつつあった。

銚子は、人間とサイの交易地として栄えている。24歳の洋平はサイから水産物を仕入れる仕事をしながら、銚子電鉄の廃車に小さな孤児たちと暮らしている。友好関係が結ばれたといえど、人間の五感を錯覚させる能力と高度な技術力を持つサイたちの横暴は絶えず、銚子には親を失った子供が溢れている。

ある日洋平は、サイの富裕層の間で新生児に人間の男の肉を食わせる習慣があると耳にする。真相は明らかではないが、報酬は破格らしい。貧しい生活を抜けだすことを望む洋平は、人間の男を探しているサイを紹介してもらう。

そのサイは祥子といった。「まずはお互いをよく知ったほうがいい」という祥子の提案で、二人は逢瀬を重ねる。名が洋平の恋人と同じであることも美しい人魚の姿をしていることも、サイのやり口であることは分かっていながら、洋平は祥子に惹かれる。他の横暴なサイたちとは違い祥子は、人間を深く愛し本当の意味で共存していくことを望んでいるのではないか、と考えるようになる。

しかしそんな折、サイの子に肉を食わせていたという男に会う。サイの技術によって身体は再生するというが、男はそれ以上多くを語りたがらず、洋平は悩む。

そんな洋平に祥子は、サイが新生児に人間の肉を食わせるのは子供の栄養不足を補うためであることを告げる。地球に植民してからサイの身体変化等があり、人間の肉を食らえない貧しい階層の子は死に至るケースもあるのだという。自分が共に暮らす孤児たちの親は、サイの子の餌になっていたのだと知る。

祥子の腹が大きく膨らんでくる。腹に手を当てると生き物らしき動きがあり、洋平の心身がそれに大きく呼応する。サイの生殖がどのように行われるのか、そもそもサイがどんな形をした生命体なのか、洋平は知らない。さらにこの生き物は自分達を支配する恐怖の存在となり得るものかもしれない。それでも生命の躍動は洋平を揺り動かす。祥子の子だからなのだろうか。目が合うと祥子がいった。
「あなたの肉を食べさせてやって」

カサカサ這い上るものが体を覆い尽くしたかと思うと、全身の肉が引き裂かれる。痛みを感じる暇もないほど一瞬で気を失い、目覚めると自らの肉片が散った血の海の中に寝そべっている。顔に手をやると、頬骨が一部露出し、眼球がこぼれそうなほど開いている。自分で発したはずのないうめき声がする。いくつもする。薄暗がりに慣れてくると、自分以外の人間がいることに気づく。彼らもまた赤ちゃん、、、、に肉を与えている。

寄せては返す眠りと痛みの中、回復した頃にいつも祥子の声がする。幾度も繰り返される、搾取と回復。けれど不思議と苦しみはない。慣れてきたのかサイの技術の賜物なのか、子供が肉をついばむ間も意識を保てるようになる。美しい海の景色が広がる中、ただひたすら食われて回復してまた与えてを繰り返し続ける。

文字数:1276

内容に関するアピール

出産後の入院期間中、子供の泣き声と看護師さんの声にどやされて、疲れ切った体を授乳室でまで引きずっていき、ほとんど白目で赤ちゃんに体を吸われ続けていたことを今でもよく思い出します。見るも無惨な格好で、半分寝落ちしながら、同じ境遇の、全然知らない人たちが同じような赤ちゃんを抱っこして深夜に集まっている光景には、滑稽さと、恐怖、そして生命の広がりみたいなものがありました。
あの感覚を形にすることを目標に、物語を作ってみました。
自分の身体の一部(母乳)を他者に与えるグロテスクさと神秘性、乳母うばの実利的な感じや大人同士の関係なども絡めながら書いていけたらと思います。

文字数:284

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海が見える。
垂れ込めた曇り空のもとに水面は重く、凪いで動かない。青が濃くなってやがて漆黒となるころに水平線が引かれている。線を指で横に辿っていく。ほとんど一周できる。ここは海に囲まれている。
防波堤の先に立っている。大きな河口に両側から伸びた防波堤のうちの一つ。向こう側の防波堤の先には赤い小さな灯台が見える。ずっと昔は、夜毎灯りが灯っていたというが、今はそんな風景を知る人もいない。
足元の水が揺れ始める。干潮だから水はここまで届かないけれど、打ち寄せる波とは違う。顔を上げると水平線の方に、先ほどまではなかった黒く細長い影が海から立ち上がっていた。影はだんだん大きくなって、しだいにその姿も見えるようになる。先にいくほど広がった黒いしゃもじのような形が海から突き出て、その両側から腕のようなものがだらりと伸びて海の中へ沈んでいる。しゃもじが前へ進むのに合わせて、腕は引きずられるようについてくる。
堤防を打つ水の揺れが激しくなる。黒いしゃもじはもう300メートルほどのところまで近づいている。大きい。思ったよりずっと。3階建てのビルくらいある。港でサイレンが鳴り始めるのが聞こえる。
緩慢なワルツを踊るように左右に揺れながらさらにこちらへ近づいていた。近づきながら、嘔吐物が出ずにえづくような動きを繰り返し、その形を微妙に変えている。もう30メートルほどのところまで近づいていて、その表面が鳥のような羽根で覆われているのも分かる。今は三角コーンのように先細りの形になって猫背みたいに前傾して、直方体が底の角を互い違いに前進するようなぎこちない動きで堤防の前を過ぎていく。黒い羽の一枚一枚が羽虫のように小さく震えていた。
進むたびに水面が大きく揺れて、高さ10メートルの堤防の上まで水飛沫が飛んでくる。通り過ぎるのをじっと見ていると、黒い羽毛の隙間に突如皮膚のような裂け目が開いて、僕の身長と同じくらい大きな目玉が現れた。思わず声を上げて後ずさる。目玉は明らかに僕を見ていたが、何かを合図するように何度か左右に動くとまた突然、羽毛の中に消えてなくなった。
通り過ぎたあとも心臓の鼓動はおさまらなかった。急にあんな大きな目玉が目の前に現れて驚かない方がおかしい。胸に手を当てそう言い聞かせ、港の方へ向かう黒い大きな背中を見つめる。走り出す。サイレンの鳴りつづける港へ向かって。
黒い巨大な姿の向こうで、人々が手を振っている。

 

港に着いたときにはもう海に黒い姿はなく、毎朝と同じ、長靴を履いた人々が忙しなく行き来している光景が広がっているだけだった。海中へ投げ込まれた何本ものパイプが巨大なパウチから魚たちを吸い上げているのもいつもと変わらない。
よく見知った人々の姿に目を凝らす。しばらく見回してもそれらしき姿はなく、諦めて後ろを向いたところで後ろから「凌」と名を呼ばれる。振り返っても姿はない。
「ここだよ」
バハラムの低い声。下方へ目をやると、ペンギンみたいなものがいた。
「よお」
声はペンギンみたいなものからしていた。黒い羽毛に覆われた顔をツンと上にあげ、長い羽を体の横にだらりと垂らしている。ペンギンみたいだけれど、ペンギンだ、とは言いづらい。よく見てみようとその前にかがみこむと、ペンギンみたいなものは嘴を横に向ける。白い縁に覆われたまん丸い目が、黒い羽毛の隙間を縫って左へ右へ揺らいでいる。
「どうこれ、アデリーペンギンってやつ」
そういって、よたよたとその場で回り始める。四角い箱が角を支点にして動いているような動き。
「もしかしてさっきの、あの大きいのもペンギンだった?」
「もちろん」
昔、図鑑で見たペンギンの記憶を手繰り寄せ、色や形をアドバイスすると、さっきよりは大分ペンギンらしくなった。水掻きみたいな足をつけて、嘴の角度を調整して、目の位置もいいところでストップと言ってやる。通り過ぎた女性が何人か「あ、ペンギン、可愛い」と言ったので、僕らは満足してようやく競りへと歩き出す。
「今日のおすすめは?」
バハラムは嘴をあげて小笠原海溝に住む、深海魚の名を口にする。そもそもの収穫量が少ない上にほどんどがサイで消費されてしまうから、人間の市場に出回ることは滅多にない幻の魚だ。
「すごい大群にあたったんだよ。山登ったり下ったり12時間くらい追っかけ回した」
名は聞いたことがあるが、実物を見たことはない。真っ白な皮を、玉虫色に光る厚い鱗が覆っている巨大魚だというのは聞いたことがある。身はアンコウに似た淡白な白身だが、それよりも柔く、火を通すと口の中で溶ける、と老年の仲買が言っているのを聞いたことがある。
「相当な高値で売れるはずだ」
バハラムの言葉に、曖昧に頷く。
「なんだよ、やる気ないな」
「そういうわけじゃない」
ポケットの中身は薄くて軽い。突っ込んだ右手を揺らすと、チャラチャラとコインの当たる音がする。バハラムが嘴をあげて立ち止まった。
「お前、今年いくつになるんだっけ」
「なんだよ急に」
立ち止まって振り返る。
「27だよ」
「人間は80年くらいで死ぬだろ」
「そうだよ」
「じゃあお前、あと50年しかないじゃん」
サイの寿命についてはあれこれ噂があるが、バハラムによると、200年くらい生きるらしい。そういう奴らからすれば、「50年しか、、」ないのだろうが、人生が80年の生き物に50年は短いとは思えない。そもそも突然、そんな数字を持ち出されてもなんの実感も湧かない。この27年のことでさえ長いとか短いとか考えたこともない。いつも生きることに、食うことに必死で、ただ流れるようにして生きて今ここにいるだけだ。
再び歩き始めると、バハラムもよたよたとついてくる。
「お前、欲とかないわけ? 人間はなんかほら、いいもの食べたい、とか思うんだろ?」
「そりゃ思うよ」
「じゃあ今日はチャンスだろ」
「そもそも仕入れる金がない」
「俺がツケ、、てやるよ」
バハラムを見ると、嘴を向こうにむけて澄ましている。
「望みは?」
「何が?」
ツケ、、タダ、、だとは思えない」
バハラムは黙っている。表情が読み取れない。ペンギンには表情がない。

結局、バハラムに押し切られて深海魚を競り落とした。1匹でいつも仕入れる全部の量の3倍の値段だったから売れなかったらどうしようかとヒヤヒヤしたが、高級飲食店への卸しを専門にしている仲買の紹介で何店か連絡したら、粗まで全部あっという間に売り切れた。いつもと勝手の違う取引にあたふたして結局昼過ぎになったが、最後に手元に残った金を確認すると紹介料を差っ引いてもいつもの稼ぎの1週間分があった。
漁港はもうすっかり伽藍堂だった。海は風が出てところどころに白い波が立ち、空を舞ういく羽ものカモメが鳴き声をあげている。遠く水平線が見える。水平線の果てまで何もない、ただ広い海。ポケットは朝よりもずっと重い。
自転車にまたがる。ペダルを押す。いつもより重い気がして、でもそれが心地いい。買って帰りたいものがいくつもあった。

どうせ食べきれないだろうから残った分は貰うつもりでいたのに、目の前の大きなどんぶりは二つともすっかり空になっていた。
「はー、美味しかったね」
長椅子に上半身を投げ出したルルーの声が疲れきっていて、思わず笑ってしまう。
「牛丼大盛り、最高」
銚子の駅前に並ぶ色とりどりの飲食店を何度も行き来して迷った挙句、結局、いつもの牛丼を“大盛り”にすることにした。
港の年寄りたちは「牛肉がこんな安く食べられるなんてな」といつもいう。昔はサイから輸入される高価な培養牛肉しかなかった。本物の牛を飼う牧場もあるにはあったが、その肉はほとんどがサイで消費されていたし、そもそも牧場の経営者もサイであることがほとんどだった。どちらにせよ庶民に手の届くものではなかったということだ。しかし15年前、培養牛肉の技術が人間に解禁された。僕がちょうどルルーくらいのとき、大きなニュースになっていたのを今でもよく覚えている。それから街中に出来た焼き肉屋や牛丼屋から流れはじめたあの抗いがたい匂いのことも。
「牛丼はもうお腹いっぱい食べたから、今度“ゼイタク”があるときはお寿司でお願いね」
牛肉ネイティブのルルーにとっては、魚の方が贅沢品なのだ。寿司がルルーの一番の好物だとは分かっていたが、手を伸ばせばいくらでも掴み取れるはずの魚に高い金を出すのは気が進まない。いつも目の前にあるのにそれは僕の手をすり抜けて、サイからの輸入でしか手に入らない高級品として素知らぬ顔で店先に並んでいる。
「培養寿司が出来たらなあ」
「培養するのは寿司じゃなくて魚でしょ。あー僕、研究者になろうかな。そしたらお寿司いっぱい食べられるよね」
そう言いながらルルーは食器を流しに持っていき、台拭きでテーブルを軽く拭くとカバンからノートを出して宿題を始める。
銚子の孤児たちは、学校に上がるときに孤児院を出て“先輩”と一緒に暮らす決まりになっている。院の収容力問題を解消するためでもあるし、互助的な役割もあるらしい。“先輩”たちが『庇護する存在と共に暮らすことで、生きることに張り合いを持つことができる』というものだ。港の近くにはまさにその理想を形にしたような、孤児院出身の奴らがよりあって暮らす家がいくつもある。上は25くらいから下は7歳まで、メンバーが入れ替わり立ち替わりしながらどこも常時10人くらいで暮らしている。
孤児院の子供たちはみんなそういうところに行くものだとばかり思っていたから、一人で、それもこんなオンボロの廃線後の電車の車両を家替わりに暮らす僕のような“先輩”のところに依頼がくるとは思ってもみなかった。依頼は基本的に断れない。経済的な支援もあるし、その他の条件についてもどういう基準なのかわからないが調査され、クリアしたところにしか依頼は行われないからだ。
初めて会ったルルーのことは今でもすぐに思い出せる。浅黒い肌に深い茶の巻き毛。ほっそり長い手足を持て余すようにぶらつかせ、緊張している様子だったけれど、僕を試したり、媚びたり、怯えたりしている様子は一切なかった。
ただそこに立って、僕をみていた。
そのとき急に新しい生活が始まる、と思って、それまで全く想像さえついていなかったのに、突然ワクワクしたのを覚えている。
「ねえ、凌」
ルルーの声で我に返る。
「サイのことどう思う?」
「どうして急にそんなこと聞く?」
「今、学校で習ってる」
テーブルに広げられた歴史の教科書をルルーが読み上げる。
“1945年オーストラリアの砂漠地帯にサイが現れ、それから200年間サイの世界統治が行われました。その間、優れた生物学を持つサイと地球についての豊富な知識を持つ人間の協力によって、特に食糧生産技術はめざましい発展を遂げました。2145年、サイの統治終了宣言が行われました。それから50年経った現在、サイは海、人間は陸を生活の場として共存しています。”
「この男の人が人間で、こっちの女の人がサイなんだよね」
統治終了宣言についての記述があるとき必ず出てくるスーツを着た男女が握手して微笑む白黒写真。
「男はそう、人間の男。でもサイは、女に見えてるだけで実際女かどうか」
朝のバハラムを思い出す。サイはどんな形にでもなれる。実際はサイが形を変えているわけでなく人間の方が錯覚しているだけらしいが、そう見える、という現実を目の前にして、実体か錯覚かなんて気にしたことはない。
「サイには男とか女とかそういうのがないの?」
「さあ」
「なんだよ、サイのこと全然知らないじゃん」
実際、サイについて知られていることは少ない。どこから来たのか、どれくらいの数がいるのか、どんな形をしているのか、はっきりした答えを持つ人に会ったことがない。銚子のようにサイと直接関わりのある交易地でさえそうなのだから、内陸の都市ではもっとそうだろう。
「なんでそんなに興味ないの? 仕事一緒にしてるんでしょ? あの牛丼だってサイの技術でできてるんでしょ? それにさ」
ルルーが続きを言えずに口ごもる。どんな言葉が言えずにいるのか分かるから、僕たちはこうやって同じ屋根の下で暮らしている。
「凌はサイのことが憎くない?」
ルルーの両親も自分の両親も、そして銚子にいる孤児たちの大半の親たちはサイに殺されている。はっきりした証拠はない。ただみんな、ある日ぱったりいなくなってそのままなのだ。海に囲まれたこの町で見つからないとしたら、海にいるのだ。そして海にはサイがいる。
統治時代が終わったといっても、力の差は歴然としている。政治的にも経済的にも、個人同士が向き合ったときの単純な力関係でもきっとそうだ。さっきの教科書だってきっと検閲が入っている。どんなサイに、なんのために殺されたのか分からない。でもみんなそうだし、それが普通だ。
「憎い」。そんなふうに思っていた頃もあったかもしれない。でも今はそんな強い言葉は異様にさえ感じられる。親を殺したものを強く憎めるほど親のことは覚えていないし、親がいないから特別不幸だったわけでもない。そして日々の仕事、美味い飯、ルルーとの暮らし、そういう目の前にあることがさまざまなことを流してかき消していってしまうのだ。
答えない僕に、ルルーはもう話しかけない。

「昨日はなに食べたんだ」
振り返るが誰もいない。水に濡れたコンクリートの床に競りの済んだ魚の木箱の山が積み上がり、その隣にターレの丸い運転台が3つ並んでいる。3つ? 再び振り返る。よくみると、1つだけ黄色の塗装が新品のように艶めいているものがある。ハンドルをとって運転台へ上がると「正解」とバハラムの声がして、勝手にエンジンがかかり動き始める。
「あの魚、いい値で売れただろ」
ターレは人々の間を縫って走っていく。一応ハンドルに手を置いてはいるが、操作する必要はないらしい。
「ああ、ありがとう」
バハラムに借りができるのは癪だったが、今日の朝もまだ喜んでいたルルーを思い出すと謝辞が口をついて出る。今日はこの後、駅前で待ち合わせて新しいスニーカーを買いに行く約束もしている。
「やっぱり金は大事だよ。人生を変えてくれるからな」
買い物のあと、寿司でも食べて帰ろうかとも考える。でもそうしたら、昨日の稼ぎはもうほとんどなくなってしまう。
「もっと稼げる仕事がある。引き受ければ毎日でも寿司が食えるようになる」
街へ向かうトラックが並ぶ後ろでターレが止まると、人々が集まって荷台に積まれた木箱を運び出してゆく。木箱の中には大きなカツオの腹にあらわれた縞模様が見える。今日のは相当に脂がのっていて良さそうだった。ルルーが食べたらきっと1週間は話し続ける。
「どういう仕事なの?」
「ちょっと肉を食わせてやるんだ」
「誰に?」
「赤ん坊だ」
サイにも赤ん坊がいるなんてことを考えたことがなかった。しかし、アメーバみたいに分裂すると考えるよりは、生まれてすぐ肉を貪る赤ん坊の方がイメージに合う。
「ベビーシッターみたいなもの?」
「近いけどちょっと違うな。どちらかというと乳母うばだ」
乳母うば? 赤ちゃんに母乳をあげる、あれ?」
「そうだ」
「俺、男だけど」
「男の方がいい値がつくそうだ」
荷台が空になってターレがゆっくり動き出したので、隣をついて歩く。
「よく分からないんだけど、具体的に僕はなにをすればいい?」
「お前の体を、赤ん坊に食わせてやればいいんだよ」
僕が立ち止まると、ターレも止まる。言葉が出ずにいる僕の代わりにバハラムが話しだす。
「大丈夫。命を差し出せといってる訳じゃない」
「そんな。食われて平気なわけないだろ。死なないとしても怪我どころの騒ぎじゃない」
「お前、サイが地球に来て250年なにしてたと思ってんだ。ありとあらゆる肉の培養してたんだぞ。食われてもいくらでも再生してもらえる」
確かに、サイの人体再生技術は信頼性が高い。統治時代の数えきれない実験を通じて得られた技術で当時は労働力の補修技術として、現在は医療技術として利用されている。しかしいくら食われた肉が再生するからといって、じゃあいいですよ、と進んで自らの体を得体の知れない生き物に差し出せるほどの肝は持ち合わせていない。
「培養」
思いついていう。
「培養でいいだろ。わざわざ僕の生肉を差し出す必要ない」
「いや、お客さんはその生肉をお望みなんだよ」
「なんで? 培養と生肉、何が違うんだ?」
「さあ、金持ちの考えることは分かんないけど」
ターレがくるりとUターンして運転席をこちらに向ける。
本物、、がいいんだってよ」
僕が返事できずにいるとターレの運転席が何度か左右に揺れて、それからゆっくり動いて僕の隣にピッタリ止まる。
「これはお互いにチャンスなんだ。お前は毎日魚が食えるようになるし、俺は毎日魚を追い回さなくて済むようになる」
「やっぱり」
「なにが」
ツケ、、タダ、、なわけがない」
応えがない。ターレには顔がないから、どんな顔をしているか分からない。
「まあ会うだけあってみろよ。大丈夫。とって食われたりはしないだろうよ」
そういうと黄色いターレはまだ忙しなく行き来する人々の中へ消えていった。

白い灯台が秋晴れの冷えた青い空に映える。下の受付には帽子を被った旅行客たちが群がり、先の丸くなった展望室の手すりには人が出ているのが見える。犬吠埼は銚子の中でも一番東端にあって、日本でも有数の大きな灯台が建てられた。サイが地球に降り立つ100年も前、地球上を人間が支配していた時代の話だ。サイが海に暮らし、人間が海に出ることがなくなった今となっては単なる飾り物だけど、当時は灯りを点し、音を出し、海に漁に出かけた人々が霧や闇の中でも安全に陸にたどり着くための目印になったのだという。サイの統治以前のことは未だに分からないことが多い。この灯台についても最近ようやくその歴史や仕組みが明かされて、近々、250年ぶりに点灯するのだと盛り上がっている。
観光客の喧騒を横切り、灯台横の崖から海岸へ降りていく。白亜紀の地層が剥き出しになった地形で、小さな頃は院のみんなでよくここへ来てアンモナイト探しをした。崖を伝ってしばらく行くと、長い砂浜へ出る。えぐるように湾曲した浜辺には粗い岩がところどころ突き出し、白い波が音を立てて割れている。
「こんにちは」
思ったより近くから声がして、遠くへやっていた視線を戻す。崖のすぐ下、磯の重なり合った岩の隙間から手を振っている女の姿が見えた。
両手をつかい、犬のように岩を伝いながらようやく辿り着くと、半身を海つけたて両手を岩の上に重ねた女がじっとこちらを見つめていた。
長く透き通るような髪は濡れてその肌に貼りつき、海の中にある下半身は青く水の色に溶けている。あらわなままの上半身の白い肌は豊かで、冷たい光を砂のように反射して休みなく煌めいた。
「人魚なんだけど、ちょっとやりすぎかしら?」
女が困ったように胸元に手をやったので、自分の視線が釘付けになっていたことにようやく気づく。なんなら体も少し反応している。実体でないのだから謝る必要もないのだが、つい謝る。女は笑って布を取り出し肩から胸元に向かって覆いかぶせると、上体を伏せて下半身を岩場へ持ち上げた。青い魚の下半身を持つ美しくて、でもどこか歪な女。それは昔、小さな頃に読んだおとぎ話の風景そのものだった。
「凌ね」
その声には聞き覚えがあった。
「初めまして、わたしは」
「祥子」
僕と祥子の声が重なると祥子は微笑んだが、その持ち上がった口角は細かく上がったり下がったりを繰り返している。まだ少し揺らいでいるようだった。
サイの再現能力は、姿よりも音の方が高いことが多い。そう多くのサイを見たことがあるわけではないが、いつもそうだ。見た目は必ずどこか欠点があるが、声や鳴き声、だす音に違和感を持ったことはない。バハラムが祥子に会ったのは1度だけだ。だからその1回の情報を受け取った彼女が再現できるとしたら、声が限界だったんだろう。いや、声だけでよかった。姿まで再現されていたらたまったものじゃない。
「どうしてその名前を?」
「祥という漢字には、よいしるし、という意味があるんでしょう? それが気に入って」
聞きたいことと違う答えが返ってきたが、もうそれはどうでもいい。偽名でもなんでもいいけれど、過去の恋人の名を使われる悪趣味にはさすがに耐えかねる。口を開いたところで、弾んだ祥子の声がそれをさえぎる。
「あなたはバハラムに聞いていたより、ずっと健康的に見える」
「僕のこと、どんな風に聞いていたの」
「あまりいいものを食べていないと」
「ああ、何もかも筒抜けなんだ」
祥子がまた笑って、海の中から小さなパウチを持ち上げた。中にはカサゴにアジ、イワシが泳いでいる。
「弟さんがお魚好きだって聞いたから」
ルルーのことだろうが、弟? それもバハラムがそう伝えたのだろうか。
「魚は食べ飽きている?」
反応しない僕の様子を伺うように祥子がいうので、僕は首を振る。
「いや、なかなか食べる機会がない。だからありがたいけど」
これを受け取るということは、僕はこの女の子供に肉を食わせなければならい、ということになるのだろうか。会って早々食べ物を渡してくるなんて、飼っている牛にいい餌をやる牧場主のようなものかもしれない。パウチを見つめたまま続きがいえずに黙っていると、祥子がこちらを真っ直ぐに見つめる。
「まずはお互いのことをよく知るべきだと思ってる。じゃないと、どちらも決めづらい問題でしょう」
虹彩のない漆黒の瞳。人間の形を真似しても、肝心の「人間らしさ」が抜けている。教えてやればきっと喜んで美しい虹彩を作る。でも祥子を「人間らしく」することで僕はどうしようというのだ。
「祥子は僕を知らないと決められないの?」
「ええ。だってとても大切な選択だから。あなたは違うの?」
その物言いに小さな苛立ちを覚える。祥子にとってはただのいい餌選びに過ぎない、これは僕にとってこそ重大な問題なのだ。それにお互いを知ることで結論が変わるたぐいの問題だとも思えない。
「知らないよりは知った方がいいかもしれないけど、今は分からないことが多すぎてなんともいえない」
思ったよりも棘のあるいい方になって、僕が目を伏せると祥子は小さく微笑んだ。
「そうよね、こうやって来てくれただけでありがたいと思ってる」
それから改めてパウチを差し出した。
「だからこれは今日のお礼。なんの責任もないから、受け取ってもらえると嬉しい」
僕が受け取ると祥子はホッとしたように大きく息をついて微笑み、岩の上をなめくじのように這って海の中に戻っていく。そのなんとも言えない後ろ姿を見ながら、今度会うときにはせめて人魚の美しいダイブだけでも教えてあげよう、と思った。

車両のある倉庫の壁の隙間から朝日が差し込む。閉じた目にも眩しくて布団に潜り込み、微睡の中で人肌を求めて手を伸ばす。が、伸ばしても伸ばしても何もない。ハッとして起き上がる。車両の側面にある長椅子の間に台を置いて車両の幅いっぱいに作ったキングサイズのベッドには、僕一人がいるだけだった。車両の中を見渡す。祥子はすでに起きて、運転席のそばで外を見ていた。何も身につけない昨夜のままの姿で、丸いすに三角座りをしている。黒くて細い髪が肩の上で揃って揺れて、白い背中にはくっきり背骨が浮かんでいる。再びベッドに寝転がり肘をついて祥子におはようをいう。しかし彼女は返事をせずに黙って顔だけこちらに向けていった。
「どうして凌は、仲良くするの」
昨夜の続き。いや、ここのところずっとこの話ばかりだ。祥子は僕がサイと関わっているのが気に食わない。ことあるごとに、唐突に、この話が始まる。
「だから仲良くしてるわけじゃない、ただ仕事で関わらないといけないからそうしてるだけだよ」
もう何十回と繰り返しているやりとり。僕はうんざりしているのを悟られないように感情を押し殺していう。
「ずっとその言葉を受け入れようとしてた、生きていくために仕方ないって。でも、昨日見て・・・」
祥子の顔が歪む。眉がぐっと下がって口が横一線に結ばれる。目の脇に皺が寄って涙が頬を伝っていく。
「凌みたいな人、誰もいなかった。みんなあのサイをできるだけ避けるようにしてる。あんな風に話したり、笑い合ったりしてるのは凌だけだった」
昨日、祥子はなんの知らせもなく突然市場へやってきた。「仕事が休みだったの忘れていたから、驚かせようと思って」そういっていたけれど、僕の様子を見るためにわざわざ休みをとったのかもしれない。
「そんなこと気にする必要ある?」
普段は抑えている苛立ちが声にのっているのが自分でも分かる。それに呼応して祥子の顔が青ざめる。立ち上がってベッドの端で皺になったワンピースに手を伸ばす祥子の腕を掴んで座らせる。抱きしめてみるけれど、細い体には力が入ったまま動かない。
顎を持ち上げると、泣いているかと思ったがその顔は意外なほど無感情だった。
「凌と一緒に生きることを考えると、すごく不安になる」
切長の目の淵にはもうすっかり乾いた涙の痕が見える。
「どんな生き物かも分からない。普段は何もなくても、突然襲いかかってくるかもしれない。そんなものをあんな風に受け入れる人と暮らしていくことが怖いの」
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないよ、凌は親を殺されてるんだよ」
そういった祥子の苦しそうな顔を前にして、僕は申し訳ない気にさえなる。サイに両親を殺された、という事実はいつも単なる言葉として僕の意識を上滑りしていく。百歩譲って、サイに両親を殺された、が事実だとして、じゃあそれでどうして僕がバハラムと関わってはいけないことになるのか。
「凌を失うかもしれないと思いながら暮らすのは怖い。それに私は子供が欲しい。子供ができたら私は一緒にいてあげたい」
「僕がバハラムと付き合うことで、僕は自分の子供を孤児にすると?」
祥子はうつむいたまま答えない。
「そんな、飛躍しすぎだよ」
「私にとっては目の前にある事実なの。凌はきっと、自分の家族とサイを目の前にしてどちらも取ることができない」
分からない。想像がつかない。何かを選ぶなんてそんなこと、まだ目の前にもない家族とサイのどちらを取るかなんて想像することもできない。
祥子が力なく微笑む。
「私は凌と、一緒に生きていくことはできない」
そういって手首に絡んだままの僕の手を解き立ち上がると、服を身につけて電車を降りていく。追いかけたいのに差し込む光が眩しくて目を開けることすらできない。
待ってーー

手を伸ばしたところで目が覚める。
夢と同じ、車庫の壁の隙間から差し込んだ光が眩しくて、伸ばした手でそのまま顔を被う。
隣でモゾモゾと動く塊がある。布団をめくるとルルーのほおけた寝顔があった。
車両の横幅と同じ大きさのベッドを運転席側に降りて、祥子が座っていた丸イスに座るとミシリと危険な音がなる。三角座りで上手におさまっていた華奢な体を思い出すと下腹部にかすかな熱を感じる。
別れて3年、祥子とは1度も会っていない。あの別れの後しばらくして銚子を出ていったと彼女の友人伝いに聞いた。僕たちは青春期から適齢期に差し掛かる5年間をずっと一緒に過ごしたのだから、祥子にとって別れが人生の選択を意味するのは当然のことだった。
祥子のことを夢に見るのはもちろん、思い出すのでさえ久しぶりだったことに気づく。原因は明白、昨日のあの人魚ーー祥子のせいだった。豊満な姿は似ても似つかないが、声が記憶を手繰り寄せたのだろう。バハラムもあの1度しか会っていないのに、よく覚えていたものだ。サイの音の記憶能力は機械みたいなものなのかもしれない。
ふと布団がモゾモゾと動き出したかと思うと、跳ね上がって小さな頭が飛び出す。しばらくじっとそのまま動かずにいて、それからゆっくりとこちらへ振り向く。
「おはよう、ルルー」
小さな同居人に挨拶をすると、寝ぼけ眼の挨拶が返ってくる。
「おはよう、凌の方が早いのなんて珍しいね」
祥子が出て行って半年後にルルーがやってきて、それから2年半、僕らは一緒に暮らしている。今のところ大きな問題はない、穏やかな生活が続いているし、これからもきっとそうだと思う。
ーー凌はきっと、自分の家族とサイを目の前にしてどちらも取ることができない
祥子の言葉が蘇る。ルルーの淡い茶の瞳がこちらを見つめている。
祥子と僕は違う未来を選んだ、そして今、僕の目の前にはルルーがいる。ただそれだけのことだ。
「お腹空いちゃった」
ルルーがいったので僕は立ち上がる。
ルルーに朝ごはんを作ってやる。
それが今僕の目の前にある仕事で、その仕事をこなしていくことが、僕が生きていくということなのだ。

祥子はいつも同じ顔の、女の人魚の姿でやってきた。初めてのとき以来、胸元には下半身の青と同じ色の布を巻きつけている。
人間のことを知識では知っているが、実物に会うーーこうやって一対一で話をするのは初めてだといった。ほとんどのサイがそうらしいが、人間の方でもサイと関わったことのあるものはそう多くないのだから当然かもしれない。
祥子は地球生まれだった。今いるサイのほとんどがそうで、故郷の星を知るものはもう数えるほどしかないらしい。祖先たちは故郷の星で激しい迫害に遭い、新天地を求めて宇宙に発った。地球にはある程度の目星をつけて向かってきたものの、たどり着くまでのトラブル、新しい環境での生活中で多くの困難があり、多くの命が失われた。だから、地球に着いてから生まれた祥子たちの世代はとても大切に育てられたのだという。
「小さな頃よく『食べるものは慎重に選びなさい』って言われた。食糧の中に生き延びるための何かがある、と大人たちは考えていたみたい」
食糧生産技術の発展はそういう事情が大きいらしい。よく分からない全く新しい住環境の中で、原因不明のまま次々に失われていく仲間たちの命。もともと培養に優れた技術者の集団が乗っていたこともあるが、自分たちの命を繋ぐ方法の模索がとにかく最優先事項として続けられたのだ。
「黎明期はたくさんの情報と不安が錯綜して、変なものがたくさん横行したって。エベレストの標高3000メートル以上で獲れた熊の干し肉とか、マリアナ海溝の最深部で獲れたプランクトンとか」
サイの命が多く失われていた頃、人間の命も多くが虫ケラのように失われていた。自分たちの種の存続が危ぶまれる状況下で、言葉も通じない無力な異星の生き物が実験対象以外なにものにも映らなかったのは当然のことだろう。
僕たちは海辺で、いつまでも飽きずにそれぞれの歴史を話し合った。それは僕にとって初めての時間だった。サイの歴史をサイから聞くことももちろんそうだが、こんな風に、波風のない静かな心持ちのままで自分たちの歴史を話し合うことが初めてだった。ここ250年の歴史を語ることと、それについての意見や感情を持つことはいつも必ず一緒くたにされた。
ただ知ること。その時間は想像以上に、僕の心を穏やかにした。
岩礁に立って、僕は泳ぐ祥子を見る。
その泳ぎは、人魚のそれではなく魚そのものだ。ピッタリと腕を体側につけた姿勢で体を左右にしならせて、岩陰から岩陰を移動する。ゆったり、またはとても速く。彼女が住む海の中を思う。僕が漁港から空を行き交うカモメを眺めるように、海の中をたゆたう大きなパウチの中から祥子は魚たちが過ぎゆくのを眺める。祥子は彼らの真似をして泳ぐ。人魚が本当はどんな風に泳ぐのか、そんなことはどうでもいいと思える。祥子は祥子の愛する美しい景色を再現している。そして僕はそれを好ましく見ている。

大漁日だった。いつもより多くの声が飛び交い、競りはいつもより1時間おした。
忙しなく行き来する人々の間を抜け、競り落とした桜色の金目鯛の入った木箱をようやく見つけて持ち上げる。いつもよりずっしり重い。これで買値は変わらないのだから、自然と足取りは軽くなる。
「うまくいってるらしいじゃん」
すぐそばからバハラムの声がしてあたりを見渡すが、こちらを見つめる視線とはぶつからない。
「覚悟は決まったわけ」
本当にすぐそばにいる。木箱へ目を落とすと金目鯛の下で何か動くものがあった。じっと見ていると、魚をかき分けて手のひらほどの大きさの丸カニが出てきた。ハサミを使って魚をさわるので思わず強い口調になる。
「ちょっと、傷つけないでよ」
「大丈夫。これでもプロなんだから」
カニは器用に魚をよけて這い出ると、木箱の端によじのぼった。さすがに見慣れているだけあって、色形は甲羅の細かい凹凸まで完璧、揺らぎも見えない。
「で、どうなの?」
「どうっていわれても」
祥子との逢瀬は続いている。しかしただ会ってたわいもない会話をするばかりで、乳母、、の件についてはまだ少しも触れられていない。
「あんまりのんびりしてると他にとられちゃうよ」
「どういうこと」
「候補はお前だけじゃない、ってことだよ」
それは考えたこともなかった。しかし子を育てるのに必ず必要なものだとするなら、候補者を何人か見繕って同時に審査を進めていて当然だった。サイの子がどうやって生まれるのか分からないが、何かしらの期限はあるだろう。
僕以外ともあの時間を共有している。そう思うと胸がざわついた。
「あれはとても優雅だろう」
優雅。バハラムがどうしてその言葉を選んだのか分からないが、祥子を表現するのに悪くない言葉だと思った。僕の表情を見てとったのか、返事を待たずにカニがハサミを片方あげた。
「いいか、これはかなりいい仕事なんだ。あれはとても魅力的だし、報酬も莫大。つまり争奪戦になる、ってことだ」
「そういわれても」
バハラムがため息をつく。カニの甲羅が心なし内向きになっている。
「美しい見た目をしてるかもしれないが、あれはサイだ」
バハラムに言われてもピンとこない。
「それもかなり高齢だ」
「そうなの?」
「ああ、繁殖できるのは高齢の奴らだけだから」
「高齢って」
「150歳くらいじゃないか」
カニはゆっくり木箱の縁を移動していく。
「今、サイは繁殖期の150歳前後まで生き延びることさえ難しくなってる。さらに実際繁殖して、健康な子を産むとなるとその数はさらに減る。だから子を産めるやつはサイの宝だともてはやされてるし、生まれた子供は玉みたいに大切にされてる」
「そんな事情があるなんて初めて聞いた」
「まああれは言わないだろう。優雅、ってのはそういうもんだ」
「バハラムはどうなの」
「何が」
「君はまだ繁殖できる年齢じゃないの?」
ハッ、と吐き捨てるような声に合わせてカニの両方のハサミが持ち上がる。
「俺はまだ50歳だよ」
思ったよりは年上だったが、そこは価値観の違いなので黙っておく。
「それに俺らみたいな貧乏人は繁殖期まで生きられる可能性がほとんどない。海底パウチなしの暮らしが長いし、子供のとき人間の肉を食わされてない。ちょうど宣言後の生まれで肉のない時期だったんだ。俺らの世代がバタバタ死んで、子供時代に人間の肉を食う必要があるんじゃないかって言われるようになったんだ」
駐車場へつく。木箱を床に下ろすとカニは側面を伝って降りていく。踏み潰されないか心配になるが、人々はうまくよけていく。
「とにかく、お前はサイで最も大切な生き物のために必要な人間エサになるんだ。だから待遇は絶対保証できる」
そういってカニは二、三度、右左へ行ったり来たりを繰り返して見せると
「あんまりゆっくりせずに決めてしまうのがいいと思うよ」
と人々の足元の間に危なっかしく消えていった。

祥子が白いワンピースを着て砂浜に立っている。白い足が砂を踏みしめていた。不安げに足元を見回しているその周りを回ってチェックする。膝の位置を少し上に上げて、親指を他の指より少しだけ大きく、裸足の足にサンダルを履かせれば、ほとんど完璧だった。揺らぎが出ない限り、よほどの玄人でないと見抜けないと思う。緊張の面持ちの祥子を励ましながら、崖を伝い、階段を登っていく。海の見渡せる場所までたどりつくと祥子は声をあげた。
夜の点灯に向けて準備が進められている灯台には、いつもより人が多かった。僕たちはそれを横目に、街への道を歩いていく。初めて銚子へ上がる、という祥子は目につくものを指差しては質問する。
あの土の上にある丸い緑ものは何? どうしてあんなにキレイに並んでるの? 海藻みたいなもの? あのパウチのドームは? 果物? 貝みたいなものかしら? 
道沿いに並ぶ家々や商店に目を輝かせ、すれ違う自転車を追いかけ、かがんでは足元の道の砂利に触れる。
「これは何?」
祥子が古いレールの跡を指していった。
「昔、鉄道が通ってたんだ。銚子に港がいくつもあった時代は、この鉄道で魚を運んでたらしいけど今はもう中央しかないから」
うちの廃車ハウスの話をしようとしたが、ルルーのことを思い出してやめる。言ったらきっと来たがる。ルルーが学校から帰ってくるところと鉢合わせるようなことは避けたかった。小さな罪悪感が沸き起こるがそれが祥子に対してなのか、ルルーに対してなのかは判然としない。
「今、銚子の魚はバハラムが持ってくるものだけなの?」
「そう」
「あの子、そんなに働いてるのね」
年配者みたいな発言をする祥子は、僕より2、3年上、どんなに多く見積ったって30歳くらいにしか見えない。
ーー繁殖できるのは高齢の奴らだけだから
バハラムの言葉を思い出す。今、目の前にいる美しい女をどう理解していいのか分からず脳が混乱する。祥子はそんな僕の気持ちを知ってか知らずか手を差し出す。初めて触れたその手は、大きな犬の毛のようにふさふさした感触がして、僕はもう、考えても無駄なことを悟る。
いたるところでお祭り気分の銚子の街を二人で歩くのは楽しかった。
飯沼の観音様には出店がたくさん出ていて、盛大な人出だった。祥子は食べ物の屋台には慎重な視線を送り僕の差し出す焼きそばにも決して手をつけようとしなかったが、見世物小屋には進んで入りたいといって僕の手を引っ張った。蛇の頭を噛みちぎる蛇女や三味線を弾くろくろ首のショーを見て小屋を出ると、祥子は石垣の上で座り込んだ。気分が悪くなったのかと手を伸ばすと、突然体に大きなショールをかけてしばらく目を瞑って、さらにそれを大袈裟にはためかせて剥ぎ取った。
ショールの中から出てきたのは、いつも浜辺で会う青いヒレを持った人魚だった。
周りにいた人々がワッと声をあげて祥子に群がる。僕は慌てて彼女の横に立って、見ようみまねの口上を述べる。足元に置いた小さなパウチはあっという間にコインで一杯になって、祥子は人波が落ち着いた隙に再びショールを体に巻き付けながら悪戯っぽく微笑んで見せた。

日没前に犬吠埼へ戻り、灯台の見える崖の上に僕たちは並んで腰を下ろす。空は遠い向こうに透けるような藍が、水面近くの赤へとにじんでいく。筆で描いたような雲がわたり、海は白い波を規則正しく送っている。あらゆる音がする。風、波、鳥、遠く人の声。なのに僕たちは二人、とても静かだった。
「今日はとても楽しかった」
風が祥子の長い髪をなびかせている。
「とってもきれい。海の中しか知らなかったけど、陸もみんな美しくて、こんな星に暮らしてたなんて」
海の方へ落とした足をぶらつかせ、手を後ろ手について目を瞑っている。祥子が全てを感じているのがわかる。
「故郷の星がどれだけ素晴らしい場所だったかは分からない。けど私はここを愛してる。地球に生まれてよかったと思ってる」
赤がだんだんと藍に堕ち、空に金色の星が輝き始める。地球の外にあるたくさんの星。いつもただ美しい風景でしかなかった星々が、祥子の隣にいると色づきはじめる。遠い星、近い星、大きな星、小さな星、岩の星、水の星、ガスの星、燃える星、死んでいく星。夜空に光り始めた星の中に、祥子たちの祖先が生まれた星もある。
「サイの寿命が短くなってきてるって」
僕がいうと、祥子は一瞬こちらを見てそれから目を逸らすように暗くなった海を見る。
「バハラムが?」
それ以外、知りようがないのだから僕は返事をしない。
「私たちは人間あなたを食べないと、この星で生きていくことができない」
そう言った祥子の声は揺れている。頬に触れてみる。手と同じ、犬のようなふさふさした感触がした。引き寄せてなでてみる。祥子は僕のされるがままになっている。暗い海には白い波が割れて、ただずっとこうしていられればいいのにと思う。
「私たちがこの星で生きること自体が罪なのかもしれない。そうだとしても、私はこの星で子をうみたい」
そのあと祥子はまだなにか言ったけれど、それは霧笛でかき消された。直後、暗闇だった海岸に大きな光が灯る。人々の歓声が聞こえて、祥子も体を起こして、光を放つ崖の上を見つめた。
白い灯台から二方向に伸びた光が、ゆっくり回転し、海を、陸を、照らしだす。
「この光は昔、海へ出た人たちが迷うことのないよう、目印として灯されたものなんだって」
僕の言葉に祥子は応えることなく、ただその光を眺め続けた。

孤児院の友人たちと点灯を見にくるといっていたルルーとの待ち合わせのため、祥子を海へ送り届けてから灯台の袂へ向かって登っていると、後ろから声をかけられ振り返った。そこには黒いコートを着た50がらみの男が立っていた。
両の手をポケットに突っ込み、居心地悪そうにこちらを見つめて黙っている。それ以上何も言わない男に不安になる。まだ後ろは断崖絶壁の階段だ。なにかあると危ないからとりあえず場所を変えたほうがいいと、再び階段を登りかけると、男が言った。
「サイ」
再び男を見ると、喜びとも苦しみともつかぬ奇妙な表情をしてこちらを見つめている。体を男へむけると、男はさらに続けた。
「繁殖期に入っていて、ジュタイする者を探している」
「ジュタイ?」
「子に、体を授ける。授体」
そういうと男は一つ段差を登った。
「観音様で」
あの人魚の見せ物。まさか街中にサイが現れるなんて思わないから気づかないだけで、知っている者からしたら気づいて当然だった。僕は後ろ手に一つ階段を登る。男はそれを見てポケットから手を出していった。
「そうですね、とりあえず上に戻りましょう」
僕たちは、人々で賑わう灯台の受付横すぐのベンチに並んで座った。ここであれば出て来るルルーを見逃すこともなかったし、男が妙な行動を起こせるとも思わなかった。
「驚かせて申し訳なかった。ただ懐かしくて」
そう言った男の横顔は穏やかで、先ほどの警戒心が一気に緩んでいく。
「昔、サイの子に肉を与えていたことがあるんです」
そう言ってこちらを見た男の顔を僕はまじまじと見つめる。傷ひとつない、どちらかというと整った顔立ち。髪や髭に白いものが混ざっているのは年相応のものだろう。体もコートで隠れてはいるが、なにか不自由があるようには見えない。男は僕の視線を感じ取って小さく笑う。
「サイの再生技術は信頼に足ります。それは心配しなくて大丈夫でしょう」
そう言ったきり、男は人々の往来に目をやったまま黙った。改めて男を見ると、身につけているものが上質であることに気づく。その穏やかな物腰も銚子の人々のものとは明らかに違う。
「どうして分かったんですか」
男が黙ったままこちらを向く。
「その、授体のことが」
言いながら、なにか気恥ずかしい気持ちになる。男もそれに気づいてか早々に答えを返してくれる。
「サイが女の姿をしてあなたくらいの年の男性と一緒にいるとすればそれくらいしかないでしょう」
そういうと、男はこちらを向いて微笑んだ。その微笑みは穏やかだ。しかし穏やかすぎる。こんな表情の男を僕は今までに見たことがなかった。胸の奥がざわつく。男は僕の戸惑いなど全く意に介さぬ様子で、その奇妙な微笑みのまま続けた。
「本当に懐かしくてね。昔、私も銚子で暮らしていてサイとあなたのようにあいびきしました。それからあの・・・あの経験を共有できる者に会ったことがないのです。それでこんな風に驚かせてしまって」
男は微笑みの表情のままこちらを見つめ続けている。怖くなってきて目を逸らす。
「あの僕はまだ、迷っています。どう考えたらいいのか分かりません、それに怖いんです」
「私もそうでした。怖いですよ、肉を食われるなんてね。でも時が来れば自然と受け入れるものです」
男は微笑みをまた往来へ向けていった。
「楽しみですね」
楽しみ? どういうことか尋ねようとしたとき、向こうから僕の名を呼ぶルルーの姿が見えた。男が立ち上がったので僕も立ち上がる。
駆け寄ってきたルルーは男を見て、こんにちは、と頭を下げた。男もこんにちは、といって見上げるルルーの頭を愛おしそうになでた。そして不意に何かに気づいたように
「そうか、あなたは」
というと、男は僕の顔を見て先ほどまでとは少し違う笑みを浮かべてうなづいてみせた。
「では私はこれで。お会いできてよかった、幸運をお祈りしています」
離れていく黒い後ろ姿を見ながら、聞きたいことがたくさんあるような気がしてきた。引き止めて連絡先だけでも聞いておくべきか。追いかけようとしたとき
「ねえ」
とルルーがいった。顔をむけて戻したときにはもう人混みの中に姿を見失っていた。諦めて再びルルーを見ると、少し不安そうな顔をしている。屈んでどうしたのか聞くと、言いづらそうな表情で
「今日、あのおじさんとデートだったの?」
といった。

灯台が灯った日からもう1ヶ月ほど、祥子と会っていない。
いつも週に1度はある祥子からの誘いはずっと途切れている。灯台で話したことを気にしているのかもしれないし、他の『候補』と会っているのかも知れないが分からない。
バハラムに言ってこちらから連絡してみてもいいのだが、灯台で会った男の笑みが脳裏にチラついて動けなかった。あれをどう捉えたらいいのかーーあの穏やかすぎる笑み、気が狂ってしまったとも考えられる。大金を得て、銚子を離れ、サイと関わりのない山間の別荘地で暮らしてなお、感情の起伏が戻らずずっとあんな顔をしているのかもしれない。それくらい、恐ろしいことなのかもしれない。
「時が来れば自然と受け入れるもの」と言っていたのも気になる。なにか恐怖に押し負けて受け入れざるを得なくなってしまう時が来るのかもしれない。それか洗脳のようなものかもしれない。
まだある。ルルーのことだ。あの男はルルーを見て、何か思ったようだった。自分のことならまだしも、ルルーになにかあるのであれば受け入れることはできない。
1ヶ月の間、何度も何度も同じことを行ったり来たりしながら考えて、この依頼は断るべきだと思っている。金は惜しい。もう少し豊かな暮らしがしたいのは本音だ。けれど、それで人生そのものを失ってしまっては意味がない。だからやっぱり今すぐ祥子に会って、自分にはできないと伝えるべきだ。
なのに、踏ん切りがつかない。祥子が他の奴と会っているかもしれないことを思うと不愉快だったし、手に残るフサフサの感覚が心地よく蘇る。そして祥子の、地球とサイとそして人間を想う気持ちが、乗り移ったかのように体に重くのしかかる。
ーー凌はきっと、自分の家族とサイを目の前にしてどちらも取ることができない
祥子は僕をよく知っていたのだと今更思う。けれどあれから3年の月日が流れてもいる。僕はもうあのときの僕ではない。どうなるにしてもルルーだけは守らなければならなかった。

久しぶりに会う祥子は細部に揺らぎが多く見えた。指の先が水に溶けて伸び、口の端は溶けて広がり、触れた耳たぶが取れて海に浮かんでいる。僕がそのたびに、それぞれを指差すと、祥子は力ない笑みを浮かべて修正した。体調が良くないようだった。この1ヶ月連絡がなかったのはそれが大きな原因だったらしく、僕は自分の否定的で自己中心的な思考回路を恥じいった。しかし、そんな不調の中でもこうやって祥子が出てきたのは、そうもたもたしていられないということなのかもしれなかった。
「凌に言わなければならないことがある」
岩上に並んで腰掛ける祥子の唇が小さく震える。
「あなたのご両親のことよ」
「殺されたんだろう」
祥子はこちらをまっすぐに見て頷く。
「統治時代、サイが人間の肉を食べることはそう珍しいことじゃなかった。特に子供にはいいとされていて、培養肉はもちろん、生肉も結構出回っていたの。けど、統治終了宣言がなされた後、生肉は公の流通に乗ることは無くなってしまった。その影響で培養肉の値段も上がって、当時生まれた子供たち、特にあまり裕福でない層の子供たちは人間の肉を食べることができなかった。そしてその世代の多くが成長するまで生き延びることができなかったことで、子供たちの成長に人間の肉が必須だ、ということが分かったの」
バハラムの話と同じ、僕は黙って頷く。
「でも、人間の肉を増やす方法はなかなかできなかった。培養肉にもタネが必要だし、タネの仕入れは合法にはほとんどルートがない。貧困層は、子供が生まれても肉を食べさせることができなくて、ただ我が子が死ぬのを手をこまねいて待っていなければならない。当然そんなことできる訳がない。それで、密猟が始まったのよ」
「密猟?」
「人間の密猟よ。そもそもその層は宣言に反対だったから、憂さ晴らしもあったと思う」
祥子は目を瞑って、話し続ける。
「培養のタネにされた場合もあるけど、ほとんどがその場限りで食べ尽くされて終わり。だから、たくさんの人間が狩られた。特に凌、あなたたちの世代くらいはきっとご両親のいない子が多いはずだわ。まだ何も分からず、噂だけが先行してしまっていたから乱獲だった」
そう、僕が孤児であることをそんなに不幸に思わないは、みんなそうだったからだ。その背景を知れたことに納得感はあるが、そのせいで今までなかった恨みや憎しみが急に湧いてきたりすることもなかった。そしてあの男がルルーを見て納得したのは、僕たちが孤児だ、と気づいたからなんだとわかる。自分のような子供を増やさないために自らの身を捧げる、殊勝な若者と映ったのかもしれなかった。
「そのあと、新生児の半年間食べさせればいい、ということとか、男性の肉の方がいいということなんかが分かって、さらに授体のための技術も確立された。まだ培養肉も授体の技術料も高価だから、密猟は完全にはなくならないけど、それでもなんとか・・・」
祥子の言葉が途切れる。ゆっくりと顔を持ち上げて、まっすぐに僕を見つめる。揺らぎのない、最も魅力的で媚情的な顔。
「子供に、あなたの肉を食べさせてあげてほしいの」
このタイミングでそんな顔で見つめてくることに苛立って、強引に引き寄せて口付ける。海みたいに塩辛くて思わず海に突き落とす。けれど祥子は何も言わず上半身を海面に持ち上げると、黙ったまま再びこちらを見つめた。心を落ち着けたくて、深く呼吸をする。
「培養じゃダメなの? 僕の肉をタネとして一部提供する、それを食べさせたらいいじゃないか」
祥子は黙ったまま俯く。
本物、、じゃないとダメなんだ」
バハラムの言葉をそっくりそのまま使うと、祥子は黙って小さく頷いた。そして再び顔を上げる。
「もうすぐ生まれるの」
そういった祥子の顔が青ざめて見えたのは、完全に僕の錯覚だったと思う。こんなときにも、自分の都合のいいようにしか解釈できない自分が嫌になる。顔を背けて頷く。あるのかないのかも分からない祥子の不安が伝わってきてしまう。
蛇のようなやり方で岩をよじのぼってきた祥子は、僕に身を寄せる。自らこんなに近くやってきたのは初めてで、このまま食べられてしまうような恐怖に苛まれたのに僕は微動だにしなかった。むしろ少し昂ってさえいた。
「目を閉じていてくれる?」
言われるままに目を閉じる。
「絶対に開けないでね」
祥子の声がしたかと思うと、手首にフサフサの感触が巻きつく。引き寄せられた手が濡れてヌメヌメした広い局面に添えられる。恐ろしくて身を固くするが、目は開けない。開けたら余計に恐ろしいことになるだろうから。
しばらくそのままにしていると、感触にも慣れてきてヌメヌメしたものがほんの少し上下していることに気づく。まるで息をしているかのように。
「わかる?」
祥子の声に僕は頷く。すると、ヌメヌメしたものの奥でなにかヒモのようなものが横切っていく感覚がして、さらに向こうから押してくるような力がかかる。何かがいる。ぐるぐると回って、狭いパウチの中を泳いでいるような、そこがとても心地いいような、その中から出ることを心待ちにしているような。手首のフサフサに力が入って、僕の手はヌメヌメから引き剥がされる。もう少し触っていたかったのに。僕は余韻に感じ入って、しばらく目を開けることができなかった。
「凌」
目を開けると、そこには祥子がいた。
「この子に、あなたの肉を食べさせてやって」
僕は頷く。祥子がこちらを見つめたまま何も言わないので
「いいよ、やるよ」
と言った。
祥子は望みが叶ったはずなのに、その顔に喜びは見えない。そもそもサイに表情なんてものはないのかもしれない。
別に感じ入って引き受けたわけじゃない。ただ、これは僕の目の前にある仕事なのだ。ここに祥子がいて子供がいる。そして僕がいる。この子供に必要な肉を食わせてやるのは僕の仕事、ただそれを受け入れただけだった。
祥子の腕がするすると伸びてきて、その腕が僕に巻き付いていく。きっと抱きしめているつもりなんだと思うとおかしかった。フサフサとした感触が全身を覆っていく。息苦しくて、やめてくれ、と叫びそうになる。しかしそれはだんだんと心地よさに変わっていく。

   ⭐︎         ⭐︎      ⭐︎

カサカサ這い上るものが体を覆い尽くしたかと思うと、全身の肉が引き裂かれる。痛みを感じる暇もないほど一瞬で気を失い、目覚めると自らの肉片が散った血の海の中に寝そべっている。
顔に手をやると、頬の辺りになにか硬いものが触れる。頬骨が露出している。それを伝って目の方まで手をやると、ヌルヌルした丸みに触れる。残っている眼球がこぼれないよう、そっと押し戻す。体を起こそうとするが反対側の腕は、筋肉が喰らいつくされているのか、そもそも存在しないのか、全く動かなかった。腹や太腿は確認するまでもない。そこが一番美味しくて、食べ応えがあるのだ。初めてのとき知らずに状況を確認してしまい、しばらくトラウマになった。もう今は前ほどの衝撃は受けないだろうが、それでもわざわざ見たいとは思わない。
どちらにせよ今は真っ暗だ。見たくても何も見えない。夜なのかもしれないし、深いところへ潜っているのかもしれない。
闇の中、うめき声がする。自分で発したはずのないうめき声。初めは怖かった。なにか分からなかったからだ。でもそれは明らかに人間の発するものだったし、ここに自分以外の人間がいることということに気づくと、むしろ嬉しかった。きっと彼らも僕と同じように赤ちゃん、、、、に肉を与えている。
しばらく起きていたが、暗がりはずっと暗がりのままで、うめき声も途絶えていく。そのうちに僕も眠ってしまう。そうやってただ時間が過ぎていく。

聞き覚えのある声がして目を覚ます。明るい光の中に愛しい顔がある。
「ルルー!」
起き上がって呼びかけるが、ルルーは機械みたいにこちらを見つめたままじっと動かない。ゆっくりと首を傾げて、口を開く。その形はてんでデタラメで、つられて輪郭や目の形にまで揺らぎ始める。
「あー、やっぱり一回見ただけじゃ難しい」
バハラムの声でルルーがいう。
「こないだ港に来たんだよ。学校の社会見学だって人間のこどもがたくさん来てた」
「元気そうだった?」
「よくわかんないけど、まあこんな感じだった」
そういってバハラムは仏頂面の自分を指差す。
「電話は毎日ちゃんとしてくれてるんだよね」
「ああ、やってる。心配ない」
ルルーの姿をして僕の声をしたーー僕ってこんな声だったのかーーバハラムがいう。
ここへ来るにあたって、ルルーは孤児院で待っていてもらうことにした。院には本当のことを話した。院長先生は完全に納得しておらずしばらく渋っていたが、ある日突然すんなり受け入れる旨を伝えてきた。何があったのかは考えないようにした。ルルーには、別の港へ出稼ぎに行くのだと言った。
「たくさん稼いでくるから、戻ってきたら寿司食べに行こうな」
そう言ってもルルーは俯いたまま答えなかった。
院には毎日19時にバハラムが電話をかけている。姿は下手でも、音の再現は完璧だから電話なら大丈夫だ。ルルーが何も答えなくても、必ず毎日かけ続けるようにお願いしてる。
バハラムは、僕が回復して人の形を保っていられる束の間を狙ってこのパウチにやって来て、ルルーや港の近況報告を報告をしてくれる。
今、銚子は夏だ。イワシが旬を迎えている。斑紋の並んだ丸々と太ったイワシたちがパイプを次々に流れて、人々の威勢のいい掛け声が響き渡る景色を思い出す。
「そういえばさ、この仕事どう?」
「え?」
「ルルーが最近電話で聞いてくるからどう答えればいいか困ってるんだよ『そっちの仕事はどう?』って」
海に差し込む光が、海中を青く照らし出している。このパウチは世界中の海を漂い続けている。バハラムによれば、今はブエノスアイレスの近くにあるらしい(来るのがとても大変だったという)。産院でもあり、潜水艦でもあるこのパウチは、たくさんのサイと人間をのせて海の中を移動し続けている。こうやって浅いところを進んでいる時は、群れになった魚たちが、巨大なサメやエイ、イルカやクジラが通り過ぎていくのをみることができる。僕たちは静かにそれを見つめている。海の中で暮らすバハラムにとっては見慣れた風景なのだろうが、一緒にずっと見ている。
「悪くないと、思う」
カサカサしたあれが体を張っていく感触、そして肉を喰らう、体を貪られている感覚。疲れ切って言葉も出ないし、辛いと思うこともある。食べ尽くされた後の無惨な自分と向き合うとき、無惨な姿の他の人を見るとき、このまま戻らなかったらどうしようと壮絶な不安が襲ってくる。怖くなる。何日も続く暗くてうやむやな夜を持て余しもする。でもこうやって体が回復して、気持ちも落ち着いてくると、ソワソワしている自分に気づく。
早く、食べさせてあげたい。
そう思う気持ちが抑えられなくなる。
「悪くないんだ」
2度、そう言った僕をルルーの虹彩のない真っ黒な目がじっと見つめていた。

微睡の中、祥子の声がする。なにか答えようとするけれど、どこにも力が入らない。体がすっぽり入るくらいのパウチが僕を包んで、そして浮かび上がる。海の中に体ごと浮かんでいるような気持ち良さが全身を満たし、そして、足の先にあのこそばいようなカサカサとした感覚が触れる。何度触れられても毎回、奇妙な感じがするのに、でも触れられる回数が増えるごとに馴染んでいく。ふくらはぎにしがみついているのが分かる。少しずつ、少しずつ、上手に食べていく。子供も食べるのが上手になってきている。初めの頃みたいに、どこもかしこも引きちぎって食べるようなことはもうしない。
痛みはない。ただ、食べられているんだろう感覚は、する。見ようと思えばその様子を見ることもできる。でも流石にそれは怖くて、目を開けたことはない。
両方の足を食べ尽くして、股間をーーこれだけは本当に見たくないーー食べて、そして腹部にうつってくる。これまで感じたことのない、ずっしりした生き物の重みを体が感じる。子供は成長している。僕の肉を食べて、成長している。うっすら目を開けてみる。でも怖くて下をみることは出来なかった。
パウチは深い海へ潜っていくところのようで、僕らを取り囲む明るい海はだんだんと光を失い、泳ぐ魚たちの群れが闇に霞んでいく。僕は肉を食われ続けている。
ふと、今まで感じたことのないような穏やかな気持ちに包まれて、笑みが溢れる。この笑みを、僕は見たことがあると思った。

文字数:24274

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