ひかげのひと

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梗 概

ひかげのひと

大矢は、親からうけたアパート群をほそぼそ管理する五十男である。もと同級生の寛子と暮らす。息子の智也は通いの大学生である。
 大矢は大学生のころ同じ年頃の女性祐衣と、寛子とうまくいっていなかった時期、しばらくつきあった。部屋で二人で過ごして翌朝祐衣は消えた。大矢は酔って状況を覚えておらず無理に迫ったので嫌がったかと思っていた。ネットもスマホもない時代、残されたのは部屋で見つけた何本かの長い髪で、大矢はアルバムの自分の写真の裏に残していた。
 大矢が生物系の大学以来の趣味でミツバチの巣を置く借り農園に、智也がきた。知り合いが大矢に会いたがっている、入院中の若い女性という。変に思ったが一緒に病院にいく。智也よりすこし年長、祐衣そっくりの女性佳野が、多発性腫瘍で寝たきりになっていた。すでに死んだ祐衣の娘で、母から大矢が父親と聞いた、という。大矢は否定もできない。息子の智也は、母には言わない、祐衣が祐衣にのこした金で治療はしているが底をつきそうらしい、と説明。
 治療費の足は妻寛子に隠れて払える程度。数か月、何度も祐衣そっくりの佳野を見舞い心中過去を懐かしむ。佳野はそのまま亡くなった。戸籍等はしっかりしているようだが葬式もない。大矢は智也に、かっての祐衣との思い出や、残された髪について語る。
 智也に病気の佳野のことを教えたのは、大矢の前にも病院にも一切こなかった、佳野の妹の直美である。姉の意思だからと智也に固く口留めをしていた。直美のほかの姉妹はみな早く死んでいた。
 祐衣が亡くなったのを機に、直美は一度だけでいい、早くしないと自分もいつ死ぬかわからないと、智也と深い関係になろうとする。父親から祐衣の話をきいていた智也は、草食奥手でもあり、いくら迫ってもパンツを脱がない。智也は、非常に佳野に似る直美も父の子ではないかと疑う。佳野の髪は死ぬ前に得ており、直美からも密かに髪を得る。祐衣、佳野、直美の髪と、父である大矢の髪をすべて解析したところ、大矢は誰とも血縁関係なく、それどころか祐衣と佳野と直美は、すべて同一の遺伝情報であった。
 智也はどういうことなのか直美に迫る。直美は、遺伝についてはわからないが代々やっていることだと前置きする。女系の一族であり、女性しか生まれない。いちど性交渉もつと、あとは定期的に数人の女子を生む。みな病弱であった。そのため、はじめのだけはじぶんの選んだ男と性交渉してトリガーを入れ、その後は、どのような手を持っても富裕な人間に扶養されるようにして、その子であるかのように出産する。金が足りなくなったら、なんとか昔関係を持った男を探し出して頼るのだった。
 かってぱっとしない学生だった大矢がちょっとした小金持ちなのは佳野にとってラッキーだった、自分の男の好みは母と似ている、あなたが父のあとをついて安泰ならずっと一緒になってもいいという直美から智也は逃げ出した。
 大矢は、アルバムの髪がなくなったことに気づき、慣れない端末で智也とやりとりする。顛末を教えられ、ミツバチのように単為生殖的に自分の分身を増やしていくものが人間にもいるのかと想像する。祐衣には大矢のほかにも相手がいて、うまれた分身の娘たちに、いざというときに頼る相手として何人も教えていたのではないかとまで想像する。それでも最後に佳野に頼られたことを大矢は損したとは思わなかった。
 慣れない端末を扱う大矢を不思議に思った妻寛子が、やりとりを目にして激怒し、大矢も、智也も、しばらく家に戻れなかった。

文字数:1448

内容に関するアピール

自分の人生というお題です。
 何を書いてもそこに絶対自分の人生が流れ込むものだと私は思うのです。
 以前の知り合いのことを思い出したりするのは人生の一部になっています。さすがに知らないうちに子供がいたりしたことはありませんが、自分の人生のいろんな部分があちこちにへばりついて、こういう話になりました。
 男性の遺伝子ものこさず自分の遺伝子を残すためだけに自分の一部を育てて新しい自分にして継代するわけですが、単為生殖は変異や病害にも弱そうに思いますし、ほかの人類と同期して進化するには、ウイルスの干渉などいろんな理屈がいるとは思います。この人(人?)たちは、いまではちゃんと扶養されることを目的に行動しており、法律的な立場には問題ありません。そもそも、女性ではなく人間のふりしたべつの生き物であって、こういうありようをもってジェンダー論に踏み込む気は毛頭ありませんのでよろしくお願いします。

文字数:392

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ひかげのひと

数日珍しく雨が降っていない六月である。日はやや傾き、低い山の際の自家農園に長い列で植えた胡瓜の花の出来をみて、道沿いの物置にもどってきた大矢は、物置のむこうの、敷地の入り口の人影に気づいた。
「すみません、大矢さんですか」
 人影の方から声をかけてきた。やや低めにおさえた、女性のような声だが、小柄な体は紺の男子用ブレザーを着ている。
首のタオルで、それほど出てもいない額の汗を拭きながら、作業服の大矢は短く返事した。
「はい」
「いきなりすみません」
 バックパックを右肩に背負い、手に飲み物のペットボトルを持った、髪の短い、色の白い、男女不明な印象の人物は続けた。
「母の旧姓は木下といいます、名前はカオルといいました。僕はヒロキといいます」
 大矢は、まじまじと、ヒロキをみた。顔も全体の輪郭も男にしては華奢で、昔知っていた、その、カオルという女性に似ていた。薄い眉に眼鏡をかけている。ぼってりした釣り目も似ていた。ショートカットの髪は、いつも長い髪だったカオルとは違った。
「母の残したご実家の番号に連絡したら、お母さんが、こっちだろうと教えてくださって。母の名前も覚えててくださって」
 一気に力が抜けた。何年前の話だろう、と思った。
「ものすごく久しぶりに聞く名前です、それは」
 すこし待ってといいながら、大矢は、道路の反対側に向いた、プレハブ物置小屋の扉を開けた。2畳ほどの内部には、奥に棚、その手前にちいさな作業台があり、入ってすぐのところに小さな流しをおいていた。右足と上半身だけ中に入れて顔と手を洗い、タオルでまた拭きながら大矢は体を戻した。ヒロキは、道路から入ってすぐのところで、神妙な顔をしている。
「ええと、あのひとと私が昔付き合ってたという話から、君の話は始まるのですか」
「そのへんはぜんぶきいています、母はもう亡くなったんですが、姉が大矢さんの娘なんです、会ってやってくれませんか」
 しばらく返事できなかった。大矢はゆっくり口を開いた。
「いきなりいわれても」
「説明します、あ」
 ヒロキがいきなり声をあげた。蜂が数匹、たかっていた。ヒロキはペットボトルを持ったまま手をやみくもに動かし、
「痛い」
とその手をおさえた。大矢は、物置からスプレーを持ち出してその辺りに播いた。
「その色はいけない」
といいながら腕をつかむ。女の子のようだと思いながら物置に引き入れた。桃の匂いがする。しっかり握りしめたペットボトルは、桃の風味の水である。こいつの匂いかと思いながらペットボトルの頭をもって、作業台に放り出した。ヒロキは、流しと作業台の間の壁にもたれて座り込んだ。
「すみません」
「飲み物の匂いもいけない、いままで刺されたことはあるのかい?」
 左手の中指の関節が腫れている。
「覚えはないです」
「ちょっとでも気分がおかしかったら救急車を呼ぶよ、エピペンはこないだ切れて、補充してない、抗生剤入りステロイド軟膏とバンドエイドはある」
「大丈夫です」
 大矢は、作業台からペットボトルの頭をもってヒロキに渡した。ヒロキは一口飲み、大矢はそれを作業台に戻した。ヒロキを立たせて刺されたところを洗わせ、軟膏を塗ってバンドエイドを貼った。
「来たそうそう騒いですみません」
「あっちの小山には蜂箱おいてる人がいるんだ」
 この騒ぎで、大矢はすこし頭が動き始めた。
「彼女は亡くなったんですね」
 大矢は言葉遣いを戻した。ヒロキは黙っていた。
「彼女と付き合ってたことを知ってるのはわかりました、しかし子供というのは聞いたことがない、だいたい私は50越えてる、あれは25年、いや27年前だから、そのときの娘というなら27歳くらいになるがどうしたんです」
「そうです、姉も病気で入院してて、会っておきたいといって」
「君がいるということは、義理でも父親がいるんでしょう」
「もういないんです、ですから気にせず」

ヒロキを物置の奥におしこんだまま、男同士だから失礼するよといって作業服の上下を薄青のシャツに薄茶の綿パンツに着替えた。大矢は中肉中背で太ってはいない。髪も減ってはいたが、額をおおっていた。
「すまないけど、女の子かと思ったよ」
「よく言われるんです」
 いまどき踏み込むことでもなく、それは余計なことをきいたと謝りながらベルトを締め、大矢は明るいグレイの薄い夏ジャケットを着て、革のスニーカーを履いた。
「蜂がまた来るといけないから、畑から出たら右のほうにさっさと歩いてほしい、駐車場がある、物置閉めたらすぐいくから」
「はい」
 数百メートル先の駐車場に置いた軽トラックに乗り込んだときには、畑のむこうに夕陽がかかっていた。
「このあたりまだ畑あるんですね、バス停から住宅ぬけたらいきなり広い畑で」
「うちの畑だよ」
 意識しないとすぐにしゃべり方が雑になる。
「そうなんですか」
「真ん中だけ私が自分用にとってある、まあ一反どころかその3分の1もないけど、よくある貸農園の10倍はあります」
「趣味なんですか」
「やることもないからね、このまわりの畑はぜんぶ貸してるんですよ」
「すごい土地持ちですね」
 そのあとは言わないので、大矢は注意深く先回りした。
「お金にはならないよ、税金分に毛が生えた程度いただいて、やってもらってるんです、いまどきこんなもの、金なんかとったらだれも耕作してくれない、耕作放棄だとすごく金がかかるんだ、ま、できたものをわけてくれるくらいはしてくれます」
 ふうん、とヒロキはつぶやいた。大矢はエンジンを起動させた。
「まずいっておくが、私は今独身でね」
 頷くヒロキは表情を変えない。脅しにきたわけではなさそうである。ヒロキはブレザーの内ポケットから封筒を出して大矢に渡す。中にあったのは、喫茶店のカウンタで、店主や大矢やカオルがそのほか何人かと写った記念写真であった。色あせていたが、見覚えがあった。大矢は、息を吐きだした。カオルの関係者であることは本当のようだった。写真と封筒を返して大矢はシフトレバーに手をやった。
「で、どこにいったらいいのかな」
「なにがですか」
「迎えにきたんでしょう、聞いたというなら言うけど、ふられたのは私の方だからね、なにがあったのか私もききたいんですよ、事情をカオルさんからきいたというなら」
 ヒロキは、病院の名前を言った。

三十年前といえば、携帯電話もインターネットもない。県庁のあるその中都市の繁華街に、三十歳ほどの女性のやっているカウンターのみの喫茶店が数年間あり、大学生や若いサラリーマン、背伸びした高校生たちが入れ替わり訪れた。お定まりどおりに雑記帳というものがあり、「常連」は名簿に名前と住所を書き込んだ。気の合う相手には、それで連絡先を調べて電話するのだった。たいがいは自宅の固定電話であったから、あやしく思った家の人が取り次いでくれないこともあった。おたがい自宅住まいだったので、大矢からカオルに電話するのも、カオルが大矢に電話するのも、親の取り次ぎだった。
(なににしても、のどかなというか、間延びした時代だった)
 大矢は、運転しながら思った。
 大学生の大矢が、たまたま隣に座ったカオルと付き合い始めたとき、カオルは高校生だった。カオルは卒業後隣の県の大学に通い、なかば遠距離恋愛の形になった。そのうち肌を合わせるようになったが、カオルは最後の一線を許さなかった。いちどその気になった大矢がカオルに覆いかぶさろうとすると、カオルは
「ちきしょう」
と叫んだ。大矢は、萎えてしまった。
 農学系の大学院に大矢が入り、実家と同市内ながら大学近くの下宿に移って研究に集中しはじめると、大矢も時間がとれなくなっていく。秋のことだった。久しぶりにきたカオルが、夜中に大矢の体を触り始めた。カオルを上に載せて最後に達するまで大矢は半ば寝ぼけたままだった。
 次の朝、バス停まで大矢はカオルを送った。シーツには血のシミがつき、枕には長い髪が散乱していた。
 カオルはそのままつながらなくなった。下宿にいってみたら引き払われ、電話も通じなかった。実家への電話はすぐに切られた。
(なぜ俺は切られたんだ)
 大矢は、悔恨とも怒りともしれないものを、ずっとかかえていた。アルバムに貼っていたカオルの写真は捨てた。だが、喫茶店で、女性店長も含めて何人で撮った、カオルも写り込んだ記念写真だけはおいてあった。その裏に、残された髪を大矢は押し込んでいた。

暗くなるまでに、軽トラックは病院の駐車場に入り込んだ。
 四人部屋の空気は、排せつ物と吐瀉物をずっと薄めた匂いがした。数年前、大矢が父親を自宅で看取ったときもおなじような匂いだった。
 カーテンの中に入って、大矢は目を見張った。白とピンクの病室着をきせられ、カオルとしか思えない女性が、腕と鼻にチューブをつないで、胸までシーツをかぶっていた。思い出の中のカオルよりも目の下の皺が深く、ずっと痩せた風貌である。それでも大矢よりよほど若い。ややぽってりした瞼の釣り目で、髪は長い。ベッド枠の名札に目をやると、新田瑠璃と印字されていた。これが、カオルの結婚相手の名字か、と思った。
「ルリ姉さん、大矢さんだよ」
 ヒロキはベッド上の人物に声をかけ、大矢に顔を向けた。
「姉さんです、ルリといいます、ちょっと体力ないですけど、ボクより母からいろいろ聞いてるんで、話してやってください」
 そのままカーテンの外に出て行った。大矢は、カーテンを通路側に半分あけて、ルリの頭側のストック台のそばにある折り畳みスチール椅子に座った。
 ルリはゆっくり大矢に向かって、つぶやくようにいった。
「ありがとうございます」
「あなたは、その、カオルさんの、娘さんなんだね、失礼ですが誕生日は」
 保健の授業できいたことを大矢はだいたい覚えていた。出産予定日は最終月経の月に9、日に6だか7だかを足して出されるが、受精日は最終月経の二週間後の筈である。出産そのものは予定日を前後するから正確に当てにならないにしても、ルリの誕生日は大矢の記憶と整合した。しかしこの病人にあれこれ畳みかけていくのは、すこし憚られた。
 隣のベッドの老女が呻き始めた。ルリに黙って怪訝な顔を向けると、ルリはしばらく呻きをきいてから、コールボタンを手にした。はい、と太い声がした。
「アンドウさんがしんどそうなんです」
 スピーカはぷつんと切れたが、若く太い男性看護師がやってくるまでしばらくかかった。カーテンの向こうの看護師とアンドウさんとのやりとりをききながら、大矢はルリに小声で訊いた。
「ここはいつもこうなんですか」
「みんな大変なんです、私はまだましなほう」
 ルリは首を振って、枕にもたれ込んだ。
 部屋が静かになったが、大矢は、立ち入った話を詳しくできる場所でもないことに気づいた。
「ルリさん、ええと、ご本人からまず訊くしかないんですが、ご病気なんですね」
 病室で、いかにも間の抜けた質問である。
「そう、多発性に腫瘍ができる病気で、ふつうはもっと子供の時にできるそうなんですけど、高校の頃からずっと病院に入ったり出たり、けっこう末期なんです私」
 さらっといわれてしまって、大矢は少し黙り込んだ。ルリも黙っている。
「ルリさん、お母さん、カオルさんの話をきいていいですか」
「ええ」
 小声の大矢に、ルリも小声だった。
「母は家の事情で大学をやめて、そのあとすぐ、親の命令で齢のはなれたひとと結婚したんです、私は早産ということにしてたんです、母は10年前になくなったけど、亡くなる前に大矢さんの話をしてくれて、最後にあった日、というか、夜のこととか。そのあと私も病気になって」
 ルリはまた黙り込んだ。そして、ゆっくり大矢の眼を見た。
「奥さんやお子さんがいたらごめんなさい」
「いや、どっちもいないです」

カオルが消えたあと、大矢も研究室がかわった。それなりにいい結果が出て、研究室の秘書とも仲良くなって、30歳前に結婚した。
 数年して、ずっと離れた湖沿いの研究所に職を得た。その頃から妻が子供を欲しがったが、できる気配はなかった。
 大矢はそれほど子供が欲しいとは思っていなかったが、妻が不妊治療外来に大矢を引きずっていった。検査の結果大矢の精子が非常に少ないのがわかった。妻は離婚を切り出した。
「絶対できないというほどのもんじゃないと先生もいってたからまだ頑張れるんじゃないか、それに子供がいなくても、やっていこうじゃないか」
 妻が答えた。
「あんなの気休めじゃないの。私調べたのよ、受精卵を戻す作業も恥ずかしいし、それより前にね」
 妻は息を吸い込んで、大矢を真顔で見据えた。
「あなた、ほしいもんだから、子供できるまで余計あなたの相手はしなくちゃいけないでしょ」
 一瞬ためらって、吐くように声を出した。
「あなた下手なの、重いし痛いし、もう耐えられない」
 そのあと、理屈が多くて決断力がない、ひとりよがりだ、仕事がうまくいかなくてらあたられるのはもう嫌、と続いた。
 仕事をやめたのは、離婚したからだけではない。研究所の上司ともうまくいかず、研究の結果も出なかったからで、次のポジションもみつからなかった。
 もともと農地を持っていた父親が、近くまで市街化が及び、土地を売りながら、建物を建てて管理しはじめたのを、実家の町に戻り手伝うようになって、今に至るのである。かって農学系の仕事をしていたことは、いまもすこし自分の農園であれこれ育てることで、生かしているつもりではあった。

本当に自分の子供なのかい、とは、大矢は、目の前の病人に言い兼ねた。
 やっぱり子供ができる程度には大丈夫だったじゃないか、と心の中で昔の妻に言ってはみたが、別れたのはそこがポイントではないから、気分が晴れたわけではない。
 この、カオルそっくりの女性を、自分に関係ないと切ってしまう気にはなれない。どういう関係であるべきなのかと思いながら、大矢は、ルリの話を黙って聞いていた。
「あんなことがあってびっくりしたし、あたしが出来たのがわかってからは、研究していく大矢さんと一緒になってもたぶんすれ違ってうまくいかなかったろうから仕方ない、一緒になった人が面倒みてくれて感謝してるけど、あなたがうまれたのは大矢さんのおかげだって、母に言われたんです」
 自分のおかげじゃなく、自分のせい、だろうと、大矢は頭のどこかで考えながら話を聞いていた。
 離婚して以降、大矢は、女性に、そういう意味で近づくこと自体避けていた。女性の接待する店に行くこともなかった。
 カオルの娘には違いない、自分が父だというこの娘と、その母についてゆっくり話がしたかった。
 隣のベッドの老女がまた呻き始めた。
「4人部屋は大変だね、私の父も、自宅にさいごに引き取るまで病院にいたんだが、個室だった、まわりがなにかあったら気づいてくれるのが利点なんだろうけれど」
「でも、患者の出入りも夜が多いんですよ、夜バタバタして、朝になったらそこが空いていて、その日のうちに違う人がくるんです、けっこうここで長いんです」
ルリはゆっくり微笑んだ。カオルはけっこうはきはきしていたが、娘はおっとりしているな、単に体力がないだけなのかと、大矢は思った。
 面会時間終了の院内放送が流れた。ヒロキは詰所の向かいの、テーブルの並んだ談話スペースでモバイルの画面をみていた。大矢は声をかけた。
「送ろうか」
「いえ、もうちょっと姉のところにいます、家族なんで残れます」
 あたりには誰もいないが、詰所にはナースが数人いた。大矢は手招きし、窓際にやってきたヒロキに小声で訊いた。
「ここはもう長いのかい」
「はい」
 背の低いヒロキは、顔を上げずに話すので、表情がよくわからない。
「お金は大丈夫?」
「父が死んだあと母がやりくりしてたんですが、母も死んで、いろんなもん処分して、僕はなんとか大学にいけてますけど、けっこうきついです」
「そうか」
 大矢は考えながら言った。
「カオルさんの子供なのはわかった、僕が父親かはわからないけれど、ちょっとは手助けをしよう、個室に入れてもらったらどうだい、その分は出す」
 まわりにひとのいないところで、ルリとゆっくり話がしたかった。

大学前の大通り沿いに、喫茶店「ベル」がある。大矢が大学院生の頃にできた。そのころほど頻繁では全然ないが、今もときどき、大矢は昼食を食う。木調で、いまとなっては古いつくりである。4人掛けの低いテーブルが3つ、起毛の赤いソファが並び、カウンタもあった。夜になると、スナックタイムと称して、酒も出す。夜の10時には閉まる。
 かっては店主夫婦ふたりだけでやっていたのだが、離婚した大矢がこの町に戻って顔を出すと、アルバイトを雇っていた。
「大矢君の後輩を雇ってるんだ」
 店主の児玉はいった。
「大矢君のいた研究室からよく食いに来てくれるからね、ここでセミナーやったりもしてるし、コーヒーを出前に行くことがあるから、バイトが欲しかったらいらっしゃいといってる。ちょこちょこ来てくれるよ、べつに限ってるわけではないから、そうじゃないコもくるけど」
 研究室の教授が代替わりしても、その周辺の学生がバイトにやってきた。女子であることのほうが多かった。
 学部という呼び方もなくなり、部門という名称になった。そのなかの研究室のひとつでは、大矢の後輩にあたる男が教授になっていた。自分の過ごしたキャンパスにいま通う学生を見るのはなんとなく楽しく、話もしやすかった。自分のかっての仕事に関する未練はもうなかった。ほとんどの学生は、ちょっとした世間話や、大学の付属農園にまつわる軽い昔話の相手を、仕事の合間に短くであるがしてくれた。愛想のいい学生を選んでは雇っているようだった。児玉夫婦は、いまは二人とも六十超える筈である。
 昼食に訪れたその日、大矢は、自分の農園の隅の木から摘んだブルーベリーの詰まったビニール袋を、レジにいた児玉夫人に渡した。
「ありがとう、デザートのアイスにのっけて出すのにいいのよ、減農薬だし」
 黄色いエプロンをつけた小柄な児玉夫人は、大矢に笑いかけた。
「胡瓜の花も咲いてるからそのうち持って来ます」
「むかしは学生さんが農園のものもくれたんだけど、いまどきは、それをお客に出してお金とるのってどうなのって、すぐに問題にされるから」
 ランチをオーダーして、まばらに客の座る店内の奥のソファに向かう。短い白髪頭に、痩せて姿勢の悪くなった店主の児玉が、薄黄色いポロシャツと褪せたジーンズに胸からの長い白いエプロンをつけて、調理室でフライパンの相手するのが見えた。児玉夫人が持ってきたグラスの水を飲みながら新聞を読むうちに、児玉がランチの皿を運んできた。
「バイトが今いないんで、自分で運ばないといけない」
 笑いもせずに児玉は言った。
「最近は夜来ないね」
 たまには夜の部にも来て、軽く飲むのである。
「眠いんですよ」
「歳だね、夜の方は後輩のバイトもいるからまたおいで」
「また学部生ですか」
「もうじきやめるんだけど、次がまだ見つからなくて、大矢君働くか?」
 猫の手ってものもあるからね、と児玉は付け加え、大矢は苦笑した。児玉は調理室に戻っていった。児玉は大矢が、離婚していまは不動産の上りでやっていることは知っていた。離婚にまつわる事情などは話したことはない。
 大矢は、白身魚の薄いカツを食い、ミルクティーを飲みながら、この店には、カオルと何度も来たことがあったと思った。いつも座ったのはもっと表側だった。カオルと別れて、児玉にその話をしてからは、児玉がそれに触れることはなかった。
 昨日みたルリが自分の娘であるという実感も確証も一切なかった。むしろ、カオル自身にまた会った、という感覚しかなかった。
 店のおもてには緑のネットがさげられて、瓢箪の蔓が這っている。明るく光るおもての通りにひっきりなしに車が通る。大矢は、しばらく、電球色のランプがあちこちに灯された店内のその奥から、むかし自分とカオルの座っていたあたりを見ていた。

大矢は週に数度、ルリを訪ねるようになった。ヒロキの姿を見ることはなかった。
 ルリは次の週には個室にうつされた。
「静かでうれしい」
 ルリがベッドから大矢に笑いかけ、大矢はカオルのためになにかいいことをしたような気分になった。
 ナースが部屋に来た時に、ルリはわざと大矢を、
「お父さん」
と呼んだ。
「あら、そうでしたの」
 ナースはわざとらしく言った。訪問者登録でわかるような、名字のちがう年輩の男がずっと若い女性の患者を頻繁に訪ねるのだから、ナースの噂になっていないわけがなかった。入院時の聞き取りには家族構成もある筈である。大矢は正直に言った。
「いや、僕も最近知ったんです」
「母が結婚する前につきあってて、別れた後、私ができたの。でも、知らせたのはこの最近」
 ナースは、この人をキーパーソンに入れておいた方がいいのかと、ルリに言った。こうやって、どんどんこちらに負担を持ってくるんだろうか、と一瞬大矢は身構えた。
「いきなり出てきた娘の面倒をそこまでみるのは無理よ」
 ルリは首を振った。
「お母さんのこととか、話できるだけでいいのよ」
 ナースは、そうなのねと機械的な相槌をうって出て行った。
 ルリは、かってのカオルの話を少しづつするのだが、育ての父親の話は避けていた。むしろ大矢の話をききたがった。大矢のことは、ずっと、大矢さん、と呼んだ。
 離婚の原因については言わなかったが、大矢の私生活のかなりの部分をルリに話すことになった。不動産を管理する日々の業務、農園のこと、あちこちの美術展にいくのが好きなこと、読書、大学院からこちらの生活などであった。
 喫茶店「ベル」の話をすると、私もいちどそこに行って、お母さんの座ったところに座ってランチが食べたい、と言った。調子がよくなったら連れて行ってあげるよ、と大矢は答えた。
 よくなることはなかった。
 ゆっくり、確実にルリは弱っていった。痛みを我慢するようで、話をしながら、ときどき顔をしかめることがあった。
 夏の盛りを過ぎた午後、病室を訪れると、ゆったりめのシャツに薄いジャケットを羽織ったヒロキがいた。
「久しぶりです、今日こられると姉に聞いたもんで、いま先生呼びますから」
 ヒロキは部屋を出ていった。ルリは大矢に、
「大矢さん、今日もいままでも来てくださってありがとう、もう痛くてたまらないし、私、眠ることにします」
 一瞬わからなかった。
「もうできる治療もないの、きてくださるときは、これを頭につけてるけど」
 ルリは手をやって髪を引っ張った。それはウィッグで、毛の塊を手にしてつるつるの頭のままルリは、小さい声で大矢に言った。
「もう眠るからこれもいらないわ、もらってください、自毛なの、気持ち悪かったら焚き上げてください。そしておねがい、お父さん、私をぎゅっとしてほしいの、今まで誰にもされたことがないのよ、父は子供が嫌いだったの」
 大矢は恐る恐るルリに近づいた。ウィッグを左手でうけとり、ベッドに屈みこんで、ルリの右肩に顎を当てて、背中に右手を回した。ルリは大矢の肩越しに両手を回し、しっかりハグして、力を抜いた。かすかに桃の匂いがした。
 大矢が、左手にウィッグを持ったままベッドサイドに立ち尽くしていると、医師ひとりとナースふたりについて、ヒロキが戻ってきた。
「新田さん、じゃあ、入れたらいいんだね、まあ、あっちに行ききれなかったら戻っておいで」
 わざとだろう、ちょっと明るく、医師は言った。そして大矢を見た。
「こちらは立ち合いかな」
「お父さん、私が眠ったらもう来ないでね、お話できないのが嫌だから」
 ルリは大矢に語りかけ、医師に向かって言った。
「先生、お願いした通りです」

農園に行く途中に、たまに遠回りして病院のそばを通りながら、大矢はルリのことを思った。
 週ごとに請求される個室代の支払いはつぎの週で止まった。大矢はしばらく泣いた。カオルを看取ったような気分になった。実際にどうなったかを知ろうにも、ヒロキの連絡先をきいていないのに気づいた。あの状況で、お葬式はどうするのかその話をききたいから連絡先を教えてくれとは言えない。どこの学生かもわからない。県庁所在地である市内には、大矢の出身校のほか、いくつも大学があった。
 あの病棟まで行ってももうルリはいないし、詰所でその親族の連絡先をいまさら手に入れられるとは思えなかった。はじめに母に電話はかかってきたようだったが、それは固定電話で、過去の履歴がわかるわけでもない。
 農園の物置の作業台の隅には、ヒロキの飲み残したペットボトルがあった、触る気にもならず、大矢はそれをおいておいた。その横に、カオルのウィッグを袋にいれて並べた。
 秋がきても気温の下がらない日が続き、久しぶりに大矢は、「ベル」の夜の部を訪れた。シャンデリアは酒を飲む店にしては明るい。バイトの女子を雇っても、これはあくまでもウェイトレス扱いであって、接客要員ではなかった。大学の関係者が軽く飲みながらグループで話をするためにあけている、と児玉は言っていいた。夜の店にいかない大矢がときどき酒を飲みにくる唯一の場所である。
 テーブルは2つ空いていたが、カウンタの丸椅子にした。この丸椅子にしても、昼の店であるからオフィスチェアの高さである。
「久しぶりだね」
 児玉が、昼と同じ格好のまま水の入ったグラスをおいた。
「胡瓜です」
 大矢が、ぶら下げたビニール袋をカウンタの上に出した。いつもありがとう、サラダにもサンドイッチにも使える、といいながら児玉はそれを調理室に運んでいった。カウンタ内の反対の方から声がした。
「なにになさいますか」
 大矢は顔を向けて、いきなり耳に自分の心拍が大きく聞こえた。カウンタの向こうにカオルが立っていた。なにもいわずその顔を見ていると、調理室からでてきた児玉が大矢に声をかけた。
「びっくりするだろ、似てるよな、カオルちゃんに、いやそんなにはっきりは覚えてないんだけどね、似てると思ったんだよ、本人にはいってないけどね、こないだからバイトで来てるんだよ、ユキちゃんだ、ユキちゃん、大矢という人だよ、むかしから来てくれてる人でね」
 グレイの前開きブラウスを着て、華奢で、髪が肩にかかりかけ、色白の、瞼のややぼってりした釣り目の少女は、高く響く声で、
「なんの話なんですかいきなり」
と児玉に顔を向ける。その横顔に大矢は訊いた。
「君このへんの出身の方かな、親族とかきょうだいとか」
「私、ひとり暮らしなんです、みんななくなって」
 正面から見ても、カオルに似ていた。
「奨学金で大学に行ってるんだって、まあ珍しくはないけれど。大学はこことは違うよ」
児玉は口をはさんだ。大矢はルリの名字を思い出した。
「新田という名字ではない?」
「違うって、斎藤さんだ」
「はい、斎藤です、名前はユキ」
 はあ、そうですか、どうも、と口の中でつぶやく大矢に、ユキはふたたび、
「なにになさいますか」
と訊いて、笑顔ををつくって見せた。
 奥のテーブル席では、大学院生らしい若い2人の男が、研究スタッフらしい年長の男と、小皿の菓子をかじりながら、声高に実験の話をしている、大学の中でやればいいのにとも思ったが、いまどきは大学敷地も門限や戸締りがうるさいらしい。
 大矢は、薄いビールの入ったグラスをときどき口にあてながら、新聞を読み、ついで、タブレットを出して気になる書き込みを見ていた。カウンタの向こうの流しでユキがグラスを洗っている。顔をあげると目が合った。
「老眼ないんですね」
 改めて齢の差を感じながら大矢は首をすくめた。
「軽い近視だからね、生活に不自由ないし、これくらいの手元も見えるよ」
 自分の後輩にあたるバイトたちには軽口もたたきやすいが、あまりにもカオルに似ていて、どう接していいのかわからなかった。相手に女性を感じてしまってはおわりである。ユキは、グラスを拭いてしまうと、タブレットを読み続ける大矢に話しかけた。
「大矢さん」
 大矢はふたたび顔をあげる。
「私、誰かに似てるんですか」
 むかしの彼女とは言いかねた。このあいだ死んだ人に似ているとも言いにくい。
「大昔の知り合いにね」
「どこにでもある顔なんですねえ」
「そういう意味じゃないよ」
 テーブル席で議論していた3人が立ち上がった。児玉が入り口近くのレジに向かう。まだユキには勘定を触らせないようだ。ユキは軽く会釈して、カウンタから調理室に回り、奥の手洗いの横から出てテーブルの上を片付け始めた。勘定を終えて客を送り出した児玉が、レジから大声で大矢に話しかけた。
「大矢君、まだお母さんと住んでるんだっけ」
 大矢は苦笑した。
「いまさら子供部屋オジサンみたいに言わないでください、八十ですからね、ひとりおくのは怖くって。家も昔風に広いんで」
「タクシー呼ぶだろ」
「酒飲んでますからね」
 児玉はテーブルを拭き終えてグラスなどを盆にのせカウンタの中に戻ってきたユキに、そのまま話しかけた。
「ここでちょっと飲むのにタクシー使うんだよ、常連さんはありがたいよ、あそこのOBでいちばん金持ってる、定期的に東京にいっては美術展みてるんだ」
 大矢は首をすくめた。金持ちがこの店に寄り付かないだけじゃないかと思った。児玉はふたたび大矢に向かって言った。
「だからすまないけど、帰りに彼女をいっしょに乗せていってやってくれないか、同じ方向と思う、自転車の修理中で今日はバスなんだよ」
「悪いですよ」
 ユキは、皿を洗う手を止めて児玉に向いた。
「大丈夫、バツイチになって以来数十年、羊の皮がはりついて狼に戻れないから、大矢君は」
「そんなこと言っちゃだめですって」
「目の前でひとの話をするのはやめてほしい」
 大矢は首を振りながら眉を寄せた。
「そりゃ近かったら送っていくけれど、どの辺ですか」
 ユキが地名を口にする。
「ああ、たしかに、ちょっと回り道すれば行けるな」
「二区間もかわらないだろう、今日は僕も早上がりで閉めたいんだ、あと三十分だから頼むよ」
「いいんですか」
 ユキは礼をいって、また皿を洗い始めた。

運転手の後ろに座り、助手席の後ろに座るユキに、黙っているのもなんなので大矢は訊いてみた。
「大学はどこなんです?」
 大学はユキの住むあたりのちょっとむこうだった。
「あそこは文系だけですね」
「そうなんです、「ベル」のお客さん理系が多くって、話がおもしろいけどわからないことも多くて」
 連中は相手の理解を気にせず話をするからなと大矢は思った。
「なにやってるんですか」
「大学院なんですけど、テーマが絞り込めなくて、教授はまずはやってみたいことを探せっていう方針なんです、はじめはパンダの政治史をやろうかと思ったんですけど」
 なんだそれはと思ったが顔には出さない。
「さすがにそれはやめて、民俗学のほうから行こうと思って、戦後の芸能史をジェンダーの方からやってみようと思って、いろいろ読んだり見たりしてるんです」
「歌ったり踊ったりもかい」
 相手が若いとすぐに口が雑になるのは、なかなか直らない。
「そうですね、もう昔のことだからなかなかリアルタイムの話ができなくて」
「新しい話を掘り出さないといけないからね、ああいうのは」
「それでちょっと煮詰まっちゃって、お休み貰ってるんです、いろいろ考えようと思って。それで新しいバイトもはじめて」
 タクシーは、北から繁華街の端に少し入り込んで、西に移動する。ユキのいった地名から考えて、大矢は思い出した。
「だったら、あなたをおろすところの手前におもしろい店があるな、五十年くらい前からやってる店があって、今日はライブやってるんじゃないかな、オンザバンクという店を知ってますか?」
「なんですかそれ」
「むかしギター鳴らして歌うフォークってのがはやったけれど、そのバックの一つにアメリカのカントリーフォークがある、ヒルビリーとかいうやつの流れで」
「白人の音楽ですね」
「日本でも、そのカントリーフォークから日本のフォークにいった当時の人がいろいろいたんだよ、僕よりひとまわり以上上の世代だけど、そのころからカントリーミュージックやってる人が、ライブハウスしてるんだ」
「へえ、初耳です」
 あの分野はそんなにマイナーなのか、ユキの興味方向がぜんぜん違うのかわからない。
「行ってみますか?酒は出るけどノンアルもある筈だし、そのあとはちゃんと送るよ、僕も久しぶりに行きたいので」
「おともします」
 ユキはかしこまって答えた。

店内の客の入りはそこそこであった。高齢者が多い。
 山小屋のような内装で、天井からはところどころ灯油ランプの形の半導体照明がぶら下がっている。踏み台程度の高さの、幅五メートルで奥行きのないステージがあり、そこに向かう店内の両壁にはベンチが生えている。ベンチの左側はステージ近くで途切れて音響コントロールシステムが並ぶ。ステージ前には椅子のひとつついた小さなテーブルがいくつもおかれ、ステージから遠くなるに従いテーブルサイズも大きくなる。店内後部にはステージに面して肘を置いてもたれられる程度の高さのカウンタがあり、横に長い窓の奥は飲み物などを用意する小部屋になっている。
 ステージでは、客層よりずっと若いグループが演奏していた。全員男で、歌っている男は濃い茶色に髪を染め、ギターを鳴らしながらマイクに向かって、どうやらオリジナルらしい曲を歌っている。ドラムにベース、スチルギターというよくある構成である。
 カウンタで金を払って飲み物を受け取り、ユキといっしょにすこし店内を見回した。右側のベンチにはすこし明るい色の服を着た、大矢よりすこし上の女性が十人近く陣取って、歌に合わせて手を叩き始めた。
「最近ここも禁煙になって」
 大矢は訊かれもしないことをユキに話しかけ、ユキは立ったままあたりを見ている。テーブル席はどこも空いた椅子があり、相席は誰も気にしない店なので、大矢はユキを空いた席に誘導して、自分も、隣のテーブルの空いた席に座った。
 曲が終わると、壁際の一団がことさらに高い歓声をあげて拍手した。ボーカルは笑いながら投げキッスしてみせて、一団もどっと笑った。ゲストに呼ばれたグループにファンがついてきたらしい。
 ちょうど入れ替えで、グループは、ボーカルのトークに続いてエンディングを演奏し、ステージの明かりがおとされて、演奏者たちは楽器をしまい始めた。あかるくなった店内で客たちはしゃべり、カウンタ前では、この店のあるじでいまだにアメリカにいっていろいろなフェスティバルで歌っているというコニー永田が、客たちと話をしている。八十歳近いはずだが、ぴんと背を伸ばして、色の擦れたブルージーン、赤いウールのシャツに革のベストをつけ、オイルで光るカウボーイハットをかぶっていた。コニー永田はときどき、カウンタの中に声をかける。中に座る、これも大矢よりずっと年上の、灰色の薄いセーターを着た体格のいい奥さんが、さらにその奥にいる若い男に、グラスをつくらせるのである。
「むかしあの人のラジオきいてたんだ」
 テーブルは隣だが座る位置は近い。賑やかな店内で、大矢の声も少し大きい。
「永田さん、本業は不動産屋でね、というかもともと土地持ちなんだ、このご時世損もしないでやってる。自分の好きなこともこうやってちゃんとやって、本当、たいしたもんだよ」
 どこかで自分と引き比べるところがあったが、はじめから比べ物にならないのもわかっていた。
 やがて、コニー永田や演奏者たちがステージに上がっていき、楽器の用意を始めた。バイオリンやバックギターが加わり、ざわめきが残る中で客席の明かりがおとされ、明るくなったステージでテンポのいいカントリー音楽が始まった。ドラムは小太りな女性で、スチルギターは非常に年配の男性だった。
 じっと静かに音楽を聴く店ではなく、小声で客たちはしゃべりながら、曲ごとに拍手する。二曲目は大矢も知っているハンク‐ウィリアムズの曲だった。三曲目で、何人かの客が席を立った。
 やや老年の男女が、カウンタ前のスペースで、ステップを踏み始めた。見ている者も、踊るものも、笑っていた。ユキは目をみひらいて、上半身だけ後ろに向けてそれを見ていた。
「あれ」
「なんかあるだろうね、僕は踊れないけれど」
 ユキは立ち上がってゆっくり歩いていき、ステップを踏む一団の端の、やや背の高い、ピンクの服で髪を染めた年配の女性に話しかけた。女性は楽しそうにこたえ、ユキに、ステップを教え始めた。ほかの人たちも、ユキが体を動かすたびに笑いながら話しかけた。
 一団がまたステップを踏み始め、それを見ながらユキもステップを踏んだ。グレイのブラウスと細い薄茶色のパンツのユキが、一団とすこしずれたタイミングで動く。肩にかかりきらない髪が揺れ、間違えると楽しそうにけらけら笑った。
 オンザバンクからユキの帰るところまではそれほど遠くないというが、人通りのすくない住宅地であり、大矢自身の帰宅にはほしかったので、モバイルでタクシーを呼んだ。ステージが終わったあとの時間を指定したが、終わる前にきてしまい、エンディングの演奏が流れる中、二人は店を出た。
 タクシーの中でユキは大矢に礼を言った。
「楽しかったです」
「ああいうものもネタとして役に立ったらいいと思うよ」
「そうですね、あの、またおききしたいこともあるかもしれないし、ライン交換しませんか」
「ラインか、うちの母親がなんでか興味を持って、僕も入れさせられたんだけどやりかたわからないんだ、メールの方が楽なんだけど」
「大丈夫、慣れますよ」
 ユキは、もたつく大矢の手元をのぞき込みながら、運転手に、
「そこの角、電柱の手前で止まってください」
と声をかけ、自分の端末とあわせて操作し、「ともだち」リストの、大矢の母親の下に現れたアイコンに「ユキ」と名前を入力した。そしてドアをあけさせた。
「ありがとうございました」
 タクシーより早く前に歩いて角を曲がっていった。

数日後に、ラインが入ったのだが、あまりモバイルをみない大矢はしばらく気づかなかった。
「美術展よくいかれるそうですが」
から始まり、隣の県の、宗教団体が山の中につくった美術館で行われる企画展に車でいくなら、声をかけてほしい、という内容のことが書いてあった。大矢も行ってみたいと思っていたものだった。
 夕方からあとの番に「ベル」に入る、帰ることを考えて、昼食時に自転車で「ベル」までいくので食事の後にピックアップしてほしい、という。前後について身動きのとれない予定をちゃんと作るなと、大矢はほほえましく思った。そういうやりとりを結婚するまでに何人かの女の子としたこともなつかしい。
 「ベル」で昼食をおごり、児玉夫人にいってらっしゃいといわれて白っぽいシャツに薄茶色のパンツ、薄緑のカーディガンを着たユキを連れて、薄青いポロシャツにやはり薄茶色のズボンでオリーブオイルのジャケットを着た大矢は、近くのコインパーキングから車を出した。4シートだが、尻のずんぐりした車の後部座席は前の背もたれがシートにぴったりついて荷物置き場にしかならない。
「かわった車ですね」
「これはね」
 ユキがのりこんでドアを閉めたので、大矢は得々とボタンを押した。
ずわっとゆるい機械音がして、天井がうしろに折りたたまれた。
「ハードトップのカブリオレで、オープンカーになるんだ」
 女性どころか他人を乗せたのもはじめてである。大矢はそのまま通りに出て、山を越える道に向かった。
「フランス車なんだ、日本の会社からはむかし出たこともあるけれど、すぐディスコンした、あれも中身はイギリスだったからまあいいかってね、べつに外車が好きなわけではないよ、乗ってみたかったんだ」
「乗ってみたいだけで買うんですか」
「軽トラだけじゃ日頃なんだかだからね、母親も乗りたいと言ったし」
「お母さま、八十っていわれてませんでしたっけ、ラインもしてられるんですね」
「そう」
 お元気ですね、とうなずいてユキは黙ったが、やがて、
「上が開いてると涼しいのかと思いましたけど、あまり風きませんね」
「暑いの?」
 太陽はまだ高い。日光は直撃している。
「もうちょっといけば影が増えて、ちょっと山に入るから温度も下がるよ」
 ユキは黙り込んだが、こんどは、
「この袋はゴミ袋ですか?」
 シフトレバーにコンビニ袋をひっかけてあるのをそのままにしていたので、運転しながらそれを助手席側から運転手側に移した。
 ゆるい山をあがるふとい二車線の道路で、数度のヘアピンカーブをこえて展望台がある。黙ってしまったユキを見て、大矢はその駐車場に車を停め、ルーフトップを戻した。そして、飲みものをあそこの自販機で買う君は何が要りますかとユキに訊いた。
「ただの水があれば。小さいので」
 自分には麦茶を買った。空調をつけたまましばらく車を動かさない。水のペットボトルに何度か口をつけて、ユキは深呼吸をついた。
「ごめんなさい」
「いや、調子に乗って暑い中を我慢させて悪かった」
 ユキはすこし笑った
「わかればいいです」
 大矢は、まずい、と思った。ところどころがカオルにそっくりなのである。
 四十分ほどで美術館につき、絵や彫刻を見て、画集をユキの分まで買った。館内喫茶店で軽くお茶をのみ、駐車場に戻る途中、ユキが躓いた。
「あ」
 とっさにユキが大矢の肩に手をかけて、転ばずに済んだが、大矢は、その声に聞き覚えがあるような気がした。桃のような匂いが軽く漂った。
 帰りは、遠回りでもいいからあまり曲がらない道をとユキがリクエストした。
 そちらはそちらで狭い盆地がつらなるなかをぐるっとまわらねばならないのである。町に近づくにつれて、盆地と盆地のあいだの山間に、廃墟のような建物が何度も見られた。
「ラブホのあとですねえ」
 ユキはつぶやいた。
「民俗学の関係でああいうのも話するんですけど、ああいうの、使ったことあるんですか」
 大矢は、こいつは何を訊くんだと思ったが、学問としてそれをするならふつうに話に出るのかもしれないとも思った。
「この辺はないよ、こういうのもなかなか新しく作れないんじゃないのかな」
「ふつうのシティホテルが時間で使えますから、そういう専用の、内装もそれっぽいのはどんどん減ってますよね、実際にいろいろ見てみたいところなんですけど」
 君も使うのかいとも、連れて行ってあげようとも、言い兼ねた。年が離れていると、ここまで男扱いされないのか、とも思ったし、それは古い感覚なのかもしれないとも思った。山を越える二倍の時間をかけて、ふたりは「ベル」まで戻った。手に持つ水のペットボトルが空になっているのをみて、大矢は、
「ここに入れたらいいよ」
と、運転席側に来ているコンビニ袋の口をすこし拡げた。ユキは、すこしためらったが、ペットボトルをねじ込んで、車を降りた。

楽しかった、あの車は気に入ったからまた乗せてどこかに連れて行ってほしい、というラインが入ったが、しばらく忙しいと大矢は返事した。
 どう考えても、この展開はおかしいと大矢は思ったのである。
 二週間ほどして、大矢は、ユキに、ちょっと見てほしいものがあると連絡した。
 遅い午後、待ち合わせの「ベル」の前に軽トラを停めると、なかから、濃い赤のワンピースのユキが出てきた。
「今日はこの車なんですか」
「いやごめん、農園につきあってほしい、あそこは道の悪いところがあって」
 すこし硬い表情でユキは助手席に乗り込んだ。ゆるくなりかかった陽光は、助手席に射した。
「ユキってどう書くんですか」
「名前ですか」
 ユキは答える。
「余裕の裕に、貴いの貴です」
「そうか、、それって、ヒロキとも読めるね」
 一瞬ユキは黙って、それから笑って言った。
「バレちゃいました?」
「名字はなんで違うんだい」
「母が再婚してからできたから、ルリ姉さんとは父が違うんです、私の父ももう死んでますけど」
「なんで男のふりをして、メガネしてたろ君」
「男の恰好は大学に入ってずっとです、男の人とそういう関係にならないために。声も低めにおさえてたんです」
 すこし俯いて続ける。
「でも、結局関係ないんですね、無駄だったから戻しました。気づかないもんですね、大矢さんしっかり男と思い込んでくれて。たいがいのひとはこっちが女だってわかるんですよ、性的志向が違うと思ってくれたらよかったんですけど、実は私もノーマルなんです、それと、いまコンタクトしてます」
 住宅地を抜けて、農園の、駐車場ではなく入口近くの路上に軽トラを停める。柵の錠をあけて、革のスニーカーで濃い茶色の土を踏み、薄青いシャツに明るいグレイのジャケットを着た大矢は、物置の扉を開けた。作業台の上に、ルリの髪、ヒロキと名のったユキののこしたペットボトルに、ユキがコンビニ袋にねじ込んだペットボトルが並んでいた。作業台の前に立って、大矢はユキに向かい、それらのものに目配せした。
「なに、これ」
 丁寧語を外して、ユキがつぶやいた。
「君がヒロキだと確信するために、ペットボトルの指紋を比べたんだ」
「なにそれ」
 ユキは目を見開いた。
「一言訊けばいいだけのことにそこまでするの、頭おかしいわ」
「金はかかったけどね、確信したかったんだよ、双子だってこともありうる。指紋は双子でも違うからね。なんで違う人間のふりを」
「どういう反応するかわからなかったのよ、気づかれたらそれまでだけど、気づかなくても大丈夫そうなら話そうと思ったの、そうじゃなきゃ逃げたらいいんだし」
「どういう反応って」
「むかしつきあったひとの娘で、姉は自分の娘でしょ、女扱いされるかわからないじゃないの」
「女扱いされたかったのか」
「そうよ、今とてもたいせつなこと言ってるのわかる?」
「ちょっと待ってくれ、まだ調べたことがあって」
 ユキは黙った。
「カオルの髪が、アルバムに残してあって」
「お母さんの言った通りね、大矢さん、ちょっと粘着だって」
「その髪を、ルリさんの髪、ペットボトルに残った君の唾液と比べたんだ、僕の血も一緒にね、そしたら、僕は誰とも血縁関係がない」
「姉さんも?」
 ユキは頓狂な声をあげた。
「そしてこれが問題なんだが、遺伝子検査では、君もルリさんもカオルも全員同一人物という結果になった」
 大矢は、ユキから少し離れた。
「君はカオルなのか、でも、ルリさんはなんなんだ」
 ユキにも意外だったようである。しばらく黙って、ゆっくり話し始めた。
「遺伝子はわからないわ、でも、私もルリ姉さんも、お母さんから生まれたのは確かで別人よ、ほかにも何人か姉さんや妹はいたけど、みんなもっとはやく死んでしまったの、ちゃんと戸籍上は父親ともつながってるわ、でも、ルリ姉さんは自分の子じゃないと結婚相手は思ってたみたいで、あまりかわいがられなかったと言ってたわ」
 物置のなかは少し蒸す。
「お母さんに言われたのよ、そういう体だって。いっぺんセックスすると、あとは勝手に子供が生まれるようになる、お母さんの一族というのがあるらしくて、代々そうだったんだって。だからいっぺんセックスしてしまったら、すぐに、ずっと養ってくれる金を持った人と一緒になれって。はじめのひとりだけは自分で選べっていうのよ、お母さんはそれで、大矢さんとそうなったけど、定期的に子供を産み続ける女を研究者が養えるわけがないといって、ちょっと齢のいった金持ちといっしょになったの。奥さんのいない金持ちは若い女の子に弱いといわれたから、大矢さんがこんなこと調べ始めるとは思わなかったわ」
「待ってくれ、それは遺伝子形が一緒という説明に何もなってない、それだと、刺激を受けてどんどん自分の分身をつくるようじゃないか、単為生殖というのがあるけど人類がそれをするという話はきいたことがない」
「知らないわよ、文系なんだから。お母さんは、はじめての相手とそうなったあとは、妊娠していない期間にはなるべく金持ちになりそうな若い男の子とも仲良くして連絡先をもっておいたら、将来娘が、生活がうまくいかなくなったときに頼りに行けるとも言ってたし、ルリ姉さんはそうしたのよ、大矢さんがちゃんとお金持ってるというのはお母さんの予想外だったけど、遺伝子とかなんとかでわかるようじゃもう駄目ね、でも、ずっとそうやってきたっていうの」
「君もそうするのか」
「私は嫌だったのよ、だからなるべくそういう関係にならないように男の恰好してたの、勉強もしたわ、でも、そうなっちゃったの。母の一族とやらも、早死が多くって、今時関係は切れてしまって頼れないし、いっしょになってくれそうな、そこそこお金持った人って大矢さんくらいしかみあたらなかったの、どう、お母さんに似てるでしょ、私の面倒を見る気はない? 私、お母さんに好みも似てるから、その齢でも大矢さんの事嫌じゃないの、身ぎれいだし。ダメっていうなら、子供を次々生むシンママとしてやっていく覚悟はあるけどね、子供の戸籍が父なしになるのは避けたかったのよ。堕胎すのはやめろって母さんは言ってたのよね。それで死んだ姉さんもいるし」
 大矢は、背中に変な汗を感じたまま、物置の外に出た。
 傾きかけた陽が、遅く植えた向日葵の列の影をつくっていた。黄色い顔がこちらに向いている。背後で、ユキが物置をでてくる気配がした。
「時間がないの、あいつのせいでもう妊娠してるかもわからないんだから」
 この、人間かどうかもわからない小柄な生きものは、しかし、カオルと文字通り同じ存在なのだった。
「つまり、君はカオルなんだな」
「違うんですけど、そう思うならそうでもいい」
「でもねえ、君が言ってるのは、ひょっとしたら自分の子供じゃない子供たちをどんどんつくる君を養えということだよ」
「その検査何かおかしいのよ、ほかの男とどんどん関係を持つなんてこともしないわ」
 大矢はユキに向き直った。
「あからさまな、財産狙いの結婚じゃないか」
「誰が見てもそうだから堂々と一緒になれるのよ、大矢さん齢考えてよ、恋愛結婚のほうがおかしいわよ」
「一緒になったら、君のやりたい放題だよ、法的な立場ができれば、逆に、僕の相手なんかしなくてもいいんだから」
 ユキが、心外な、という顔をした。
「へんに頭が回るわね、これでも私は尽くす方なのよ」
「カオルと中身が一緒じゃわからないな、そのはじめての相手はどうしたんだ」
 悔しそうにカオルは答えた。
「同じゼミの男に無理やりされたのよ、油断したわ、やっぱり女はへジャブでもかぶって男に近づかないのが一番いい」
 そういいながら、ユキは向日葵に近づいて行った。大矢は、あらためて、カオルと最後にあった夜の、白い体をぼんやり思い浮かべた。大矢は、ユキの方を向かずに続けた。
「じゃあ、君の面倒は見よう、でも籍は入れない、子供は調べてから認知する、というのはどうだ」
「ただの愛人じゃない、そういうのが嫌だったの」
「割り切った関係の方がやりやすくないか」
「痛い」
 叫び声にユキを見ると、蜂が数匹、ユキにたかっていた。物置に駆け込んでスプレーを持ち出し、撒き散らしながら、手をばたばたさせるユキを物置に引き込んだ。
「また刺されたな」
 今回は、左手の甲が急速に赤くはれてきた。返事はない。顔色がさっと蒼くなった。まずいとおもって、大矢はモバイルで救急車を呼んだ。
 意識を失ったまま搬送された救急病院で、担当医から、ショック状態は脱したと言われたのは夜中になっていた。

翌日、そろそろおちついたろうかと午後になってから、大矢は病院に向かった。
 死にそうになったユキを見て、もう失いたくないと思った大矢はユキと一緒になる決心を決めていたのだが、詰所にいってまず窓口のナースに状況を訊くと、
「もう退院しましたよ」
という答えが返ってきた。慌ててラインをみても、なにも書かれていない。もう退院したのですかと書いても、既読もつかなかった。
「ベル」の扉をくぐると、レジから児玉夫人から声をかけてきた。
「ユリちゃん、今日、やめるって急に連絡してきたんだけど、なにかあったの」
「きのううちの農園でハチに刺されて入院したんだけど、今日行ったら退院して、連絡もつかない」
「どうしたの」
「住んでるところ、わかります?」
「そりゃ履歴書はあるから、でもいちおう個人情報だからね」
 渡すわけに行かないから自分も行くという児玉夫人を助手席に乗せる。エプロンをつけたままの児玉夫人は、ゴミ用のコンビニ袋が足に触れても何も言わない。大矢は天井を開ける気にもならない。
「言ってしまうと、一緒になって面倒を見てくれといわれたんです」
「おめでとう」
「めでたくないですよ、いろいろややこしいことがあって、お金は出すけど籍は入れないという話をしたところで蜂に刺されて」
「なにそれ、大矢君奥さんもいないのに。それで入院したの?そんなにショックな話だったのね」
「そういうショックじゃないんだけどな」
 履歴書の住所を入力した児玉夫人のモバイルのオンラインマップに従って、「オンザバンク」の近くを過ぎ、木造住宅と空き地とコンクリの小建築が混ざりこんだ地区の、四階建ての古めのワンルームマンションの前に車は着いた。
「番号からいうとこの東南の角部屋ね」
 セキュリティもない建物だったが、チャイムを押しても反応はない。
「こういうのはね」
 児玉夫人はそのあたりを見回し、建物の入り口にある不動産屋の「空き室についてはご連絡ください」とともにある電話番号を見つけた。
「すみません、、、、、の建物なんですけど、ここの304号室空いてますか、ちょっと場所が気に入ったんですが」
 すこしやりとりして、児玉夫人はモバイルを切った。
「ちょうど空いたところだけど、片付けがおわってないから、見るのはちょっと先にだって。業者が片づけに来るのは明後日で、住んでた人に話をききたいと言ったら、急用でもう戻れないからぜんぶ業者にやってもらうんだって」
 呆然としている大矢は、児玉夫人と車に戻った。
「入院って、そんなに危ない状態だったの、それを助けてあげたのにねえ」
「蜂に刺されたのが2回目で、エピペンもずっと切らしていたから、救急車待つしかできなかったんです」
「なんだ、人工呼吸とかAEDとかもなかったの」
 ゆっくり頷くと、あきれた、という表情で児玉夫人は言った。
「じゃあ、ハチにさされるところに連れて行って、したことは救急車呼んだだけってことね、まあ呼ばないよりずっといいけど、しかも、籍を入れないっていったんでしょ、そんなもの切られるにきまってるじゃないの」
 その背景を、大矢は、説明する気にもならなかった。
「続きは、できなかったんですねえ」
とだけつぶやいた。

大矢はあいかわらず、農園にいったり、「ベル」にいったりする。「オンザバンク」にも月に一度はいくようになった。「ベル」の奥から、カオルと座ったテーブルのあたりを眺める。ときどきモバイルを見るが、ラインが既読になることはない。

文字数:22227

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