夢で見た龍を殺せ

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梗 概

夢で見た龍を殺せ

重い装備を背負った三十二人の作戦部隊が鬱蒼とした森を抜けると、ひらけたところに巨大なビルが現れた。はるか天空を越えて”向こう側の地上”まで続く超高層ビルである。
松本隊長の指揮のもと、部隊はビルの中に進んだ。
ビルの各階にある通信室に箱型の通信機を設置し、玉(ぎょく)を”向こう側の地上”に返還することが部隊の任務であった。
各階には人智を超えた能力を持つ動物たちが徘徊している。
光を吸収するシロクマ、あらゆる振動を止めるワニ、巨大なシャボン玉に入って浮かぶカバ。
特殊な機材を使ってこれらの動物たちに立ち向かうも隊員たちの多くが動物によって消滅していき、六階に向かうころには松本隊長だけが生き残っていた。

*

夜、峠を運転していた井下一徹は、不注意から脇道の木に車をぶつけてしまう。山の中に一軒の屋敷を見つけ、助けを請うために訪れると屋敷の主人は井下をもてなした。主人の提案で井下はその晩泊まっていくことになった。
深夜に起きた井下はトイレと間違えて奇妙な部屋に入ってしまう。部屋の奥の壁は縦穴が開いていて闇になっており、上から太いケーブルが伸びてきて部屋の中の装置につながっている。装置の上にはカゴに入れられたフクロウがいた。
翌朝、主人にその部屋のことを尋ねるが何も教えてもらえない。井下は電話を借りてレッカー車を呼び、主人に礼を言って屋敷を後にした。
数ヶ月してもなぜか井下の頭の中から奇妙な部屋とフクロウのことが離れず、再びあの屋敷へ行くことを決心した。

井下が主人を問いただすと、主人はその真相を話しはじめた。

主人の名前は松本。四十年前、異世界での作戦部隊の隊長だった。
かつて「玉」と呼ばれるフクロウの見た目をした何かが空間を破って現れた。
破れた空間の先には異世界があり、”向こう側の地上”から玉は落ちてきたのだ。
人々は玉を元の場所に戻そうとした。

玉は通信機器を媒介して移動する性質があり、異世界にそびえたつ高層ビルに通信機器を設置して玉を”向こう側の地上”へ返還する作戦が実行された。
松本の後にもいくつもの部隊が通信機器を設置し続けたが、しかしそれから何度もの作戦の失敗により、人々は作戦を放棄した。松本は初代隊長として責任を感じ、空間の破れの上に屋敷を建て、玉が逃げ出さないように四十年間見張り続けた。

井下は異世界を見せてほしいと松本に懇願する。高層ビルに近づかないことを条件に、松本は許可をする。
井下が縦穴の中のハシゴを登って行くといつしか周囲は現生樹林が広がる森の中だった。
部屋から続いていたケーブルを辿っていくと、公衆電話ボックスがあり、電話がかかってきて井下は受話器を取った。遠くから何かが近づいてくる音がする。森の奥から人間の背丈を越える巨大な蛇がやってきて井下を見つめた。蛇は何もせず去っていった。
井下は昇降路から屋敷に戻り、主人に礼を言って、元の生活に戻っていった。

文字数:1188

内容に関するアピール

子供の頃に夢で見たフクロウをテーマにしました。
夢の中で私は父と一緒に荒野をドライブしています。しかし、車が突然止まってしまいました。夢の中の論理では、それは車のエンジンの中に石が入ったせいであり、そして遠くで枯れ木に止まっているフクロウが私と父を見つめたせいなのです。
フクロウに見られることとエンジンの中に石が入ることは因果的関連が成立していないのにもかかわらず、夢の中では実際に起こり得てしまいました。その超常的な出来事/存在に子どものころの私は恐怖しました。
私はいつしかフクロウに憧れ、自らをフクロウと同一視するようになりました。
そして私は、ある恐ろしい解釈が存在することに気がつきます。エンジンに石を入れたのは自分なのではないか、そしてその後フクロウに罪を被せたのではないか。
あのフクロウは今でもどこからか私を見つめ続けています。

文字数:368

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夢で見た龍を殺せ

部隊が鬱蒼とした森をぬけ、ひらけたところに巨大なビルが現れた。あおぎ見れば天を突き抜けるほど高い。こちらからはビルの先端は見えないが、地図によれば向こう側の地上までつづいている。
森の上空は霧で覆われているのに、ビルの周囲だけが晴れわたっている。木々も同様、ビルの周りには一切の植物が生えていない。
風の音がする。はるか上空で渦巻く風の音だ。隊員たちが土を踏みしめて歩く音は、その風の音にかき消されそうだ。隊長の松本はビルのまわりにただよう虚無的な雰囲気を感じ取って、体の芯から指の先にいたるまで、死ぬことよりもむなしい感覚につつまれていた。
宇宙服のような白い作戦スーツを着た三十二人の隊員たちが、ビルを目指して歩き続ける。隊員たちが手に持っている、あるいは背負っている装備は形も大きさもバラバラだったが、色の白さによって統一がなされていた。
高すぎることをのぞけばビルの外観はいたって普通のオフィスビルだ。近づくにつれ視界の中に占める上下方向の面積が大きくなっていき、松本はその巨大さに足がすくむ思いがした。周囲の地面を覆うコンクリート舗装は、泥で汚れ、ところどころが割れて隠れていた地面がむき出しになっている。
ビルの入口では音もたてずに自動の回転扉が動きつづけていた。隊員たちはそれを不気味に思った。ここはあきらかに人が来るような場所ではなかったからだ。
松本はビルに入る直前に、もう一度だけビルを下から見上げておこうと思った。しかし松本は、目を少し上に傾けただけで、完全に見上げようとする前に顔を元の向きに戻してしまった。なぜなのか、今ここでビルを見上げてしまっては、圧倒されて足が止まってしまう気がした。
隊員たちが一人一人回転扉を通ってビルの地上階へと進入した。誰もいないロビーに照明だけがついている。磨き上げられた大理石の床がその照明を反射している。一段低くなっている場所があって、いくつかのガラステーブルと周りに革張りのソファが並べられていた。ここがもしも本当にオフィスビルだったとしたのなら、待ち合わせや簡単な話し合いに使われる場所だったであろう。しかしこの建物はオフィスビルではない。森の中に忽然と存在する正体不明の超巨大ビルである。
松本は、重い装備を運んでいる隊員たちをガラステーブルのあたりに待機させ、指を使って部隊に指示を出すと、七人の隊員が散開して、銃を構えながら歩き回り地上階の安全を確認した。
そして松本は、見張りのためにエレベーターホールと非常階段口に二人の隊員を向かわせ、残りの隊員たちは装備を降ろして休憩をとった。部隊の緊張はいまだ解けてはいない。
白い箱型の大きな鞄を運んできた隊員が八人いる。そのうちの一人である軒路(のきろ)という隊員が、カバンをテーブルの上に置きファスナーを開いて、鞄にすっぽりと収まっていた黒い機械を中から取り出した。機械の天板のスイッチを押しこむと、横のパネルにつけられた小さい緑のランプが点った。
「通信機、起動しました」軒路が言った。
部隊の第一班班長である田田(でんでん)が鞄から端末を取り出して、画面にビルの地図を表示させた。下から見上げれば無限に続くように思われたビルの階数も、地図の上では二〇五一階という限りのある数で表されている。田田が地図で一階を拡大すると、現在そのフロアにいることを示す白いインジケーターが点滅し、起動させた通信機が動作していることを示すシンボルが表示されている。一階のフロアマップは明るく表示されているが、それ以外の階は暗く表示されていて詳細は分からない。
「通信機の起動を確認」田田が松本に向かって報告した。
「了解」
「しかし、まるでエリートたちが働いてそうなオフィスビルですね」田田が言った。
「こういうところ入ったことあるのか」
「いや、入ったことはないですけど。でも、映画とかでは見たことありますよ」
「映画見るんだな、お前」松本は鼻で笑い、上目遣いで田田を見た。
「だが、二階より上はどうなっているか分からん。装備を持て、進むぞ」松本が田田の肩を叩きながら先頭に進み出た。椅子や床に座っていた隊員たちが立ち上がって装備を担ぐ。
隊員たちは二階へと登るために非常階段口へと向かう。この階が安全であることは確認されていたが、それでも不安は拭えず、隊員たちは足の裏の一歩一歩の感触を使って安全を再確認するようにして進んだ。
さきほどの松本の指示によって、藍瀬(あいぜ)という隊員が非常階段口を見張っていた。
松本が指で指示を出し、二人の隊員が銃を構えて扉の前に立った。合図とともに藍瀬がドアノブを下げて扉を引っ張ったが、なぜだか扉は開かない。両手でつかんで体重を後ろにかけてみてもやはり扉は動かない。
「向こう側から鍵がかかっているのかもしれない。ドアブリーチだ。プラスチック爆薬を使う」
松本が向き直って手のひらを前に振り、隊員たちへ退却するようにうながす。爆薬を持ってきた百舌鳥(もず)という隊員だけが扉の前に残り、あとの隊員たちは爆発の危険が及ばないように壁の影まで移動した。
百舌鳥が爆薬を設置し、部隊がいるところまで退避してくると、百舌鳥は起爆スイッチをその手に握った。
「準備できました」
「了解。秒読みで発破する」
「はい」
「三、二、一、発破」松本の合図とともに百舌鳥はスイッチを押した。
爆発の音が鳴って、壁と空気が震える。
百舌鳥が非常階段口の扉を確認しに行くと、扉は壊れているもののその奥にあるであろう非常階段の空間は見えず、なんとコンクリートによって埋め立てられていた。
百舌鳥はコンクリートの壁に触れ、隙間がないかを手で探った。コンクリートの表面には爆発によってついた焦げ跡があるが押してみてもびくともしない。
第二班班長の不佐津(ふさつ)が百舌鳥を押しのけて壁に触れた。
「埋められてるな、これ。松本隊長、だめです、階段は無理」
それを聞いた松本は淡々として表情を変えなかった。
「階段がだめならエレベーターを試す。全隊、エレベーターホールへ向かえ」
部隊は向き直ってエレベーターホールへと向かった。
エレベーターホールはかなり広く、八基のエレベーターが同時に使えるようになっていた。
エレベーターの扉の上には、豪華な飾り枠とともに階数を示すランプがついているが、明かりは灯っていない。
「二十四階までしか行けないですね。もっと上に行くにはどうすればいいんですか」階数ランプを見た田田が言った。
「こういうのは乗り継いで登っていくんだよ。二〇五一階まで行くには、一体何回乗り継げばいいのやら」松本が言った。
「だいたい百回です」第三班班長の美濃(みの)が横から言った。
「美濃、お前はいつも計算が早いな。だがいずれにせよ我々は一階づつ登って、一台づつ通信機を設置しなければならない。あとのことはあとで考えよう」
松本は扉の横のボタンを押しエレベーターを呼び出そうとした。しかし何度か押してみてもランプは点かず何の反応もない。
「田田、お前の班に任せた」松本が言った。
「巻上(まきがみ)、出番だ」田田が指示を出すと一人の隊員が前に進み出て、鞄から工具を取り出してエレベーターの扉に差し込んだ。工具の先端はとても薄くなっているが、根元にいくにつれて徐々に厚みをましている。工具を力任せに押し込んでいき、扉のすき間が親指の太さほどになるまで広げると、今度は別の二人の隊員が油圧ジャッキを床に置き、そのまま滑らせるように扉のすき間に差し込んだ。隊員たちがハンドルをピストンによって往復させると、エレベーターの扉が少しづつ開いていく。人間一人が余裕で通れるほどすき間が広がり、田田は二人に下がるよう命令した。扉の奥にはエレベーターかごはなく、暗いシャフトがあるだけだった。
田田は開いた扉を両手でつかんで上半身をシャフトに半分入れ、顔を上に向けて闇をのぞきこんだ。作戦スーツからライトを取り出して照らしたが、シャフトが高すぎて天井を見ることができない。
ふと、点いていなかったはずのエレベーターの階数ランプが二十四階に突然点き、一階に向かって一気にランプの灯りが移動した。それに気付いた白名(しらな)という隊員が、エレベーターシャフトに首を突っ込んでいる田田にかけよって、首元をつかんで後ろに強く引っ張った。
エレベーターかごがいきなりシャフトの中に落下してきて、田田はぎりぎりでそれを避けることができた。扉を開けるために差し込まれていた油圧ジャッキがエレベーターかごと床に挟まれ、大きな音をたてながら跳ね上がってひん曲がり、シャフトの外へと弾き飛ばされる。支えていたものが外れたエレベーターの扉はゆっくりと閉じていき、尻をついて仰向けに倒れた田田はあっけに取られてそれを見つめた。
「首がなくなるところだったぞ田田。怪我はないか? 白名に感謝しろ」松本は手を差し伸べて田田が立ち上がるのを手伝った。
「問題ないです。白名、助かったよ」田田は作戦スーツを手で払って乱れを直した。
「しかしなぜエレベーターが急に動き出したんだ」松本は呟いたが、それに答えるものは誰もいなかった。ただ不穏な雰囲気だけが隊員たちの間に忍び寄っていた。
ランプが一階に点っているので、松本がエレベーターのボタンを押してみると、扉は簡単に開いた。しかしこのエレベータが安全なのかどうか分からない。何かの罠だという可能性がある。
松本の指示で給紙(きゅうかみ)という隊員が先に一人でエレベータに乗ってみることになった。
給紙がエレベーターに乗ってボタンを押すと、扉は閉まり、かごが上に移動していることを示すランプが灯る。
全員が見守る中、階数表示のランプが二階で止まる。作戦スーツのヘルメットには無線通話機が埋め込まれていたが、二階に到着した給紙とは通信が切れていた。少しして、二階で止まっていたランプが再び一階へと移動する。扉が開いて給紙が姿を見せた。
「エレベーターに危険はないようです。二階のエレベーターホールとその周囲も見ましたが、大丈夫そうです。ですが無線が使えませんでした」
それを聞いた田田は、無線通話機を起動して給紙に呼びかけてみた。「どうだ、聞こえるか」田田の声がヘルメットのスピーカーから聞こえる。
「聞こえます。原因は分からないですが、階をまたぐとダメなのかもしれないです」
「第一班から順にエレベーターに乗ってくれ。二階のエレベーターホールで待機だ」松本が言った。
第一班から第三班までが順にエレベーターで二階へと向かい、松本は第四班と一緒にエレベーターに乗った。
エレベーターは十人ほどが一度に乗れる広さで、壁には寄りかかるための手すりがあり、ところどころに金のメッキの装飾がほどこされていて清潔感があった。このビルの底知れなさを表しているようだと松本は思った。
松本が到着し、二階のエレベーターホールに全員が揃った。先に来ていた田田は、二階にいる者同士であれば無線通話機が使えるということを確かめていた。やはり階をまたぐと無線が使えないのかもしれない。
「松本隊長、これ見てください」美濃が壁に指をさした。
エレベーターホールの扉と扉の間の壁に看板がかけられている。油絵具で描かれたシロクマのイラストとともに、大きな字で「シロクマの生態」と書かれた看板であった。まるで動物園の檻の前に掛けられている来場者に向けられた看板だ。
 

シロクマの生態
シロクマ(ホッキョクグマ)のはじめくん
英名: Polar Bear
すんでいるところ: ビルの二階の廊下
たべもの: にんげん、光、質量
とくちょう:  シロクマなのにとっても寒がりなんだ。寒いときは毛をぶるッと震わせるよ。近づかないほうがいいかもね。
 

「隊長、どう思いますかこれ」美濃が言った。
松本は書かれていることをもう一度だけ読んだ。第四班班長の兵悟が松本の返事を待たずに横から口を出す。
「この階にシロクマが出るってことだろ。オレらを挑発してるのさ。漫画みたいな演出しやがって」
松本は、このまま全員で進んで二階を突っ切るかどうか、もしもほんとうにシロクマが出るのだとしたら、遭遇を避けるために少人数で行動したほうがよいのかどうかを思案した。
「あらためて、我々が今いる二階での行動には二つの目的がある。第一には通信室に通信機を設置すること。それが成功したのなら、もう一つは三階への移動方法を確保することだ。一階の非常階段はコンクリートで埋められて使えなかったが、二階は埋め立てられていない可能性がある。それと、その壁の看板に書いてあるシロクマのことだが、まずは本当にいるのかどうかを確認したい。安全が確認できたら通信機を運ぶ。不佐津、お前の班から斥候を出してくれ。それと田田、今のうちに地図をダウンロードできるか確かめてくれ」
田田が端末を起動すると、画面の隅に接続していることを示すシンボルが表示され、二階の地図のダウンロードがはじまった。各階にある通信室と端末を接続することができれば、その階の地図をダウンロードすることができる。このことは事前に部隊に知らされていた。他の隊員たちが持っている端末には、田田の端末から自動的に地図が配布された。
不佐津は斥候として都宮(とぐう)と羽布(はふ)という二人の隊員を選び、都宮と羽布はエレベータホールから二手に別れてシロクマを探しに出かけた。
すると、すぐに都宮が戻ってきた。
「廊下の角を曲がったところに何かいました。姿は見つかりませんでしたが、生き物の音がしました。体の大きい何かです」
「松本隊長、その廊下を通らないと通信室に辿り着けません。シロクマをどうにかしないと」田田は二階の地図を松本に見せた。一階にいたときは暗く表示されていた二階の地図が、今は明るく詳細に表示されている。
松本は再び思案した。
相手の正体がまだ分かっていない。
銃火器で倒せる相手かどうか。
おびきよせている間に通信機だけを運ぶか。
気づかれないよう少人数で行動すべきか。
二階は諦めてまずは三階に回るべきか。
考えを決めた松本は隊員たちに向かって太く低い声を出した。
「待ち伏せして、銃で撃つ。四人で廊下に横並びしてうろついているシロクマを待つ。廊下の端から顔が見えた瞬間四人で撃ちまくる。不佐津、準備しろ」
「了解しました。都宮、羽布、落(おち)、霞台(かすみだい)、そこの廊下に並んで銃を構えろ。シロクマが見えた瞬間引き金を引け」
四人の隊員が進み出て並ぶと、膝をついてアサルトライフルを構えた。
「まずはこれで様子を見る」
部隊は音も出さずに静かにシロクマが現れるのを待った。しかし十五分ほど待ちつづけても、シロクマはあらわれない。
松本は、なるべくなら待ち伏せした状態でシロクマに遭遇したいと考えていた。廊下を曲がった瞬間にシロクマに遭遇すれば、銃を撃つ間もなく爪にやられる危険があるからだ。
松本は覚悟を決めるために深く息を吸った。
「待ち伏せしていても埒が明かなさそうだ。作戦変更だ。危険があるのは承知しているが、隊列を組んだまま通信室まで進む。どう進むかは、不佐津、お前に任せる」
「了解しました」不佐津は部隊全員に聞こえるように話しはじめた。
「なるべくならシロクマとは遭遇したくはない。できるだけ目の前で遭遇することを避け、遠くから銃で狙えるチャンスを確保する。曲がり角には十分注意するんだ。シロクマに接敵する先頭の隊列は四人ずつの二列を組む。ただし二列目の者はオレの指示がない限り基本は銃を撃つな。廊下は狭い、味方に当たる。その他の者は一列直線状になって後ろをついて行く。いいか」
隊員たちは緊張した面持ちですぐに隊列を組んだ。
「隊列前進、ゆっくり歩け」不佐津は先頭の隊列の後ろにつき、指示を出した。
隊員たちは銃を構えながら足を一歩づつ前に出して廊下を進んだ。通路の中ほどには給湯室のような個室があり、確認のために隊列はその中にも入った。ほんとうにただのオフィスビルであるかのようだった。
ついに廊下の端までやって来て、緊張の中隊列は一気に角を曲がった。しかしシロクマは見当たらない。さらに廊下を進むんで行くと、なかほどあたりで右手方向にも通路が伸び、丁字路となっている。その手前で隊列は一旦立ち止まり、不佐津の合図で勢いよく通路に体を出したが、またもやシロクマはいなかった。
今のところ誰もシロクマの姿を見てはいない。シロクマを探しに行ったときに都宮が聞いたという音だけが唯一の証拠である。都宮が何かと聞き間違えた可能性もある。しかし、その油断が命取りになる可能性があることを不佐津はしっかりと心構えていた。
不佐津は列の一番いる後ろにいる松本に無線通話機で話しかけた。
「松本隊長、丁字路を右に曲がった廊下の奥の部屋の中に通信室があります。これからそちら側に進みます。もう片方の通路からシロクマが来るとまずいので、四人を待機させて見張らせます」
「分かった」
不佐津は後ろで一列直線になっていた隊員四人を丁字路の横の通路へ待機させ、隊列はそのまま通路を進んだ。地図によればこの通路の奥に大きな部屋があり、その中の一角が通信室になっている。
先頭を歩いていた霞台(かすみだい)が突然歩みを止めた。霞台は手をかざして横に並ぶ他の隊員たちが歩くのを止める。何かが通路の床を踏みしめる音がしたのだ。隊員たちが立てる音ではなかった。もっと大きい何かが立てる音だ。
それから、たしかに他の隊員たちも、廊下の床を何かが動く音を聞いた。壁に大きなものがぶつかる音がして、音の発生源が少しづつ近づいてくる。しかし真っ直ぐ伸びる廊下には何かがいるわけではない。
霞台は、5メートルほど離れた床の敷き詰められたタイルカーペットが、音とともにわずかに窪んだことに気がついた。あれは足跡だ。
「見えない何かが近づいてきています。発砲してもよいですか」霞台は静かに言った。
「全員撃て」不佐津が即座に指示を出した。
先頭の四人は引き金を引いて銃を数発撃ち、発砲音がフロアに響き渡る。不思議なことに銃弾は壁には当たらず、その手前の空中にとどまっていた。
そして、見る見るうちに、今までそこにはいなかったはずの大きなシロクマが目の前に現れた。宝石のように丸い眼が見開かれこちらを見つめ、その目を中心にして全身の毛並みが逆立っているようだ。それでいて根本から毛先に向かって毛並みが不可思議に揺れ動いている。そのせいなのか、隊員たちがシロクマを見ようとしてもなかなか焦点を合わせることができなかった。三メートルは超える巨大な白い体躯、その肩からは弾が当ったのか赤い血が流れている。
シロクマは、聞いたこともないような低くてさみしい唸り声をあげ、隊員たちに向かって頭から突進した。隊員たちは続けざまに銃弾をあびせるが、シロクマはそれを気にせず百舌鳥と霞台を手でつかんで地面に押し付けると、廊下の奥に引っ張っていく。すかさず隊列の後ろから二人の隊員が穴を埋めるように先頭に立ち、地面にいる二人に当たらないようシロクマの顔を狙って銃を撃つ。
シロクマは銃撃によって大量の血を流しながら、ものともしないかのように二人の隊員を引きずったまま後退りして、通路の奥の扉を押し開き部屋の中へと入っていった。
「松本隊長、シロクマが突然通路に現れて、百舌鳥と霞台を連れ去りました。おそらく透明になれる能力を持っている。このまま追いかけます」
「分かった。もしも敵が透明になったら赤外線で見ろ」
「了解。お前ら聞いてたろ、念のために赤外線ヴィジョンを起動させておけ」
隊員たちはヘルメットを操作してバイザーを展開させた。
隊員たちは通路を走ってシロクマを追いかける。部屋にたどり着くまでの間、不佐津はエレベーターホールの看板に書かれていたことを思い出していた。シロクマの好物には人間と光と質量とあった。人間を食べるというのはそのままの意味だろうが、光と質量とはどういう意味なのだろうか。もしかしたら光を吸収することができるという意味なのかもしれない。シロクマが見えなかったのはそれと関係しているのだろう。しかし、質量とはどういう意味なのだろうか。
その答えを考える間もなく、隊員たちは廊下の端に辿り着き、扉を開けて大部屋に突入した。
長い机がいくつも並べられ、それぞれの机にはオフィスチェアが収められている。机の上には何もなく、もぬけのからになったオフィスといった感じだった。
部屋の奥で低い唸り声が聞こえ、二人の隊員が引きずられているのが見える。百舌鳥と霞台はぐったりとしていて目を開けていない。シロクマは透明ではなく、赤外線ビジョンを使わずともはっきりと見ることができた。
隊員たちは銃を構えてシロクマに狙いをつけた。シロクマは叫び声を上げて大きく立ち上がり、体全体の毛並みを震わせた。するとシロクマの白かった毛並みがどんどんと暗くなっていく。表皮や体毛が黒くなっているというようなものではなく、シロクマが存在しているであろう場所が極限まで暗くなって、空間が落ち込んでいるかのようだった。不佐津が赤外線ビジョンでシロクマを見てみると、本来は紫色の背景の中に熱を持つ物体が赤く見えるはずなのだが、シロクマは完全に背景の紫色と同化して区別がつかない。
シロクマは光を完全に吸収している。
「怯むな、撃て」あっけにとられている隊員たちに喝を入れるように不佐津が叫んだ。これじゃあシロクマじゃなくてクロクマじゃないか。不佐津は冗談めいたことを一瞬思ったが、心の中には仲間を連れ去られた憤りだけがあった。
もはやシロクマの全身はその輪郭でしか判別することはできなかった。黒い闇がオフィスの中で蠢いている。隊員たちは闇をめがけて銃を撃ち続ける。
シロクマの首のあたりがおかしい動きをした。隊員たちの目には、首を一回転させるような動きに見えた。動物の身体構造としてありえない動きに、隊員たちは何かが起きる予感を覚えた。
突然シロクマの両手から爆発するような強烈な光が放たれ、シロクマを直視していた隊員たちを襲った。光の放出が落ち着いた後も隊員たちはしばらくはものをみることができなかった。何かを察知して、事前に目を閉じていた不佐津だけが、いち早く目を開け何が起きたのかを知った。シロクマが両手でつかんでいた百舌鳥と霞台がいなくなり、その手が光り輝いている。やがてその光も消え、再びシロクマは深淵のような暗闇に戻った。
シロクマが隊員たちの方へ向けてゆっくりと歩いてくる。シロクマが進路上にある机に触れると、机は光り輝いて消滅し、その光はシロクマの手の中に吸収された。
質量とエネルギーは等価である。そのようなことを聞いたことがあるのを不佐津は思い出した。シロクマは光を吸収することができる。それに加え、手で触れた物体を光、いわばエネルギーに変換することができるのだ。百舌鳥と霞台は光に変換され、シロクマに吸収されてしまったのだ。
「退却、退却しろ」不佐津は銃を撃ち続けている隊員たちに向かって叫んだ。シロクマは真っ直ぐこちらに向かって歩き、机やオフィスチェアに触れるたび光が放出される。
隊員たちは扉から出ると、時間稼ぎのために扉を閉め、通路を走って逃げた。シロクマは、先ほどとは違う種類の、生き物とは思えない電子的で甲高い鳴き声をあげながら追いかけてくる。
通路で待機していた隊員たちに向かって、退却するように不佐津は叫んだ。
「松本隊長、シロクマ倒すの無理です。百舌鳥と霞台が消された。シロクマに触れられたら消滅する」
「全員エレベーターで一階へ戻れ。不佐津、退却する時間を稼ぐんだ」
「了解。お前ら、後退しながら撃ち続けろ」
不佐津の班の隊員たちは廊下の中ほどで銃を構えながら、シロクマが現れるのを待った。さっき閉めた扉が光とともに消滅し、その奥から暗闇となったシロクマが現れる。銃を散発的に撃ちながら隊員たちは後退し、シロクマの移動を遅らせることを試みるが、シロクマは構わず進んでくるので移動の速さにはほとんど影響がなかった。
そのとき無線通話機からあわただしく八鹿(ようか)という隊員の声が聞こえた。
「エレベーター使えません。ボタンを押しても反応なし。非常階段で三階に向かうしかない」
「非常階段口を探せ」松本が返答する。
「もう探してます。あった、これだ」田田が通信に割り込んだ。
「だめです。二階も開かない。多分一階と同じです」田田の焦った声がした。
「待ってください、エレベーターの上に何か表示が出てる」再び八鹿の声がした。「”通信機を設置してね”。くそ、ふざけてやがる」
「通信機を置くまでこの階から出られないってことか」松本は泰然としたままつぶやいた。
「窓ガラスを割って飛び降りるってのはどうです」兵悟が言った。
「だめだ。任務の前にも説明したがビルの周囲は高い重力場があって窓ガラスから外に出た瞬間に地面に叩きつけられる。不佐津、シロクマをひきつけられるか」松本はシロクマに対峙している不佐津に聞こえるよう大声で呼びかけた。
「できるかどうかは知りませんが、やらなきゃ全員お陀仏です。丁字路の向こう側に連れていきます。その間に通信機を運んでください」不佐津は大声で返答した。
「よし、頼んだ」
二階の通信機を設置する担当になっていたのは、絵羽(えば)という隊員だった。絵羽は体が大きく走るのも速かった。絵羽は廊下の角に隠れ、不佐津の班の隊員たちがシロクマを丁字路の奥にひきつけるのを見守った。シロクマが廊下の角を曲がって見えなくなった瞬間、通信機を入れた鞄を背負った絵羽は走り出した。丁字路を曲がって通路を進み、シロクマが消滅させた大部屋の扉をくぐった。部屋の中はシロクマが消滅させた跡がところどころに残り荒れていた。シロクマの手によって一部が削られたようになっている机の上を飛び越して、絵羽は部屋の奥の一角を目指した。扉を急いで開けて中に入ると、絵羽は鞄から通信機を取り出して、天板のスイッチを押しこんで通信機を起動させた。
「通信機設置完了」無線通話機に向かって絵羽は叫んだ。
シロクマをひきつけていた不佐津の班は、そのとき地獄絵図のありさまとなっていた。シロクマに追いつかれたことによって都宮と羽布が触れられてしまい、二人はすでに消滅していた。そのあと落と尺南が通路の袋小路に追いつめられ、同じく光となって消滅した。
エレベーターの扉の上に電光掲示板のように表示されていた「通信機を設置してね」という文字が消えたことを松本は確認した。
「全員エレベーターに詰めて乗れ」
エレベーターホールで待機していた隊員たちはエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの行先階ボタンを押した横倉(よこくら)という隊員が声を上げた。
「一階押せません。ボタンが反応しない」
「仕方ない、三階はどうだ」松本が言った。
するとエレベーターの扉は閉まって階数ランプが三階へと移動した。シロクマから逃げられたとして三階に何が待ち受けているのか分からない。このビルに捕らえられてしまったのだ。そう松本は思った。
エレベーターが往復し、三階へと隊員たちを運んでいく。
「不佐津、タイミングを見計らってエレベーターに乗り込め」松本は無線通話機に向かって言った。しかし反応がない。
「第三班、反応せよ」松本が何度呼びかけても反応はなく、松本は第三班が全滅したことを悟った。通信室から戻ってきた絵羽とともに松本はエレベーターに乗り込み、三階のボタンを押すと扉が閉まった。
 
 
*

やばい、困ったな、とあえて声を出すことで石田は冷静さをよそおった。峠を越える道を運転中に、車を沿道の木にぶつけてしまったのだ。石田自身は怪我はなかったのだが、車のボンネットが木の形に合わせてへこんでしまっている。しかも運のわるいことにスマホの電波が通じなかった。この時間、このあたりを通る車はほとんどいない。どうにかして街のあたりまで歩いていくしかないだろう。石田は落胆しながら、とぼとぼと暗い山道を歩いた。
だいぶ歩き続け、暗闇の中で不安で仕方がなくなっていたときに、脇道に橙色の灯りが見えた。民家だろうか。どうにか助けを借りられるかもしれない。石田は灯りがあるところに通じる道を見つけ、助けてもらえるという望みを抱いて歩み入った。
灯りの正体は、大きな屋敷であった。屋敷全体は暗くてよく見えないが、数十年前に建てられたような雰囲気がある。こんなところにこんな建物があるなんて一体どういうことなのだろうか。金持ちが持っている別荘か何かかもしれないと石田は思った。
玄関まで行くがインターホンの類が見当たらず、扉を叩いて「すみませーん」と呼びかけた。少し待っても誰も出てくる気配がないので、もう一度扉を叩いて呼びかける。玄関の奥で人が動く気配がして、扉から顔を覗かせた。ひげをたくわえた温和そうな顔の老人だった。
「誰ですか、こんな時間に」老人は怪しむような声で言った。
「すみません、山道で車を沿道の木にぶつけてしまいまして。レスキューを呼びたいのでお電話を貸していただけないでしょうか」
「そうでしたか。携帯電話通じないでしょ、このあたり。どうぞ中に入ってください」事情を聞いて、老人の声はすぐに優しい響きに変わった。
「ありがとうございます。大変助かります」
「靴脱いだら、このへんのスリッパ履いてください」
広い玄関だった。廊下の奥には立派な階段もあった。
老人は石田をリビングへと案内した。
「しかし、よくこの屋敷を見つけましたね」
老人の言葉の響きから、やはり自分のことを強盗か何かだと疑っているのではないかと石田は思った。しかし、こんな時間にこんな場所に訪ねてくるのだからそれがあたりまえだとも思った。
「暗い山道を三十分ぐらいは歩いたと思います。ほんとうに怖かったですよ」
「それは大変難儀でしたね。体も冷えましたでしょう。そこに座っててください。紅茶でいいですか」
石田は革張りの大きなソファに体を預けて深々と座り、礼を言って頷いた。ようやく落ち着くことができて、車をぶつけてしまったことにショックを受けているのだということに気がついた。あの損傷の大きさなら買い替えになってしまうだろう。
石田は老人を待っているあいだ部屋の内装を眺めた。分厚くて赤い絨毯が敷かれ、家具や調度品もアンティークの高級品のようだ。一体この老人は何者なのか。一人でこの屋敷に住んでいるのだろうか。
老人が紅茶のカップを二つ持ってキッチンから戻ってきて、一つを石田の目の前のテーブルに置いた。
「どうぞ、アッサムです」
「ありがとうございます。電話を借りたらすぐに出て行きますので」
石田はあまり迷惑をかけないように紅茶を早く飲み切ろうと思った。しかし紅茶はまだ熱い。少し冷まさなくてはいけない。
「今日はもう遅い。電話をして、車を引き取りに来てもらうのは明日の朝にしたらどうですか。お部屋を用意しますよ」
「ありがたいのですが、そこまでしてもらうのは気が引けます。知らない人間を泊めるのも不用心だと思いますし、出ていきますよ」
「そうですか、いや、分かりました」老人は石田の向かい側に座った。「こんな場所に一人で住んでいるので、少し話相手が欲しかったのです。紅茶を飲む間だけでもお付き合いください」
「失礼ですが、どうしてこんな場所に住んでいるのですか」
「古い付き合いがあって、ここから離れられないのです。街から遠く不便ですが、なんとか暮らしています」
古い付き合いというのがなんなのか石田は気になったが、深くは聞かないことにした。それから紅茶を飲み終わるまでの十分ほどだけ、石田は老人と毒にも薬にもならないような世間話をした。
紅茶を飲み終わって電話を借りようかと思ったが、スマホも使えずどこに電話すればよいのか分からないことに石田は気づいた。
「ここってインターネット使えたりしませんよね」
「申し訳ないが使えないです。何かお困りですか」
「レスキューを呼びたいのですが、どこに電話すればいいのやら分からず」
「それだったら電話帳があります。どれ、調べてあげましょう」石田は、この老人が老人ゆえに電話帳などという古めいた慣習を用いているのか、あるいは俗世から切り離された暮らしのためにそうしているのか、どちらなのか分からなかった。いずれにしても豪華な屋敷に比べて不便そうな暮らしぶりに石田は思いをはせた。
「あった、これだ」老人は石田のかわりに電話番号を押してやり、石田に受話器を渡した。
石田は受話器を受け取り、レスキュー業者としばらくやりとりをした。少しすると、石田は受話器を口元から離して老人に言った。
「すみません、明日の朝じゃないとレッカー来れないみたいです。申し訳ないのですが、泊めていただいてもいいですか」石田は申し訳なさそうに眉毛をゆがめた。
「いいですとも」老人は目を見開いて何でもないというふうに言った。
石田が業者との電話を終わらせると、老人は石田を部屋に案内した。
客用の部屋は二階にあった。老人は石田に浴室も案内し、石田はシャワーを浴びた。老人の親切が身に染みながらその日は就寝した。
夜中、石田は何かの不安を感じて目を覚ました。車の買い替えにかかる金銭的な不安か、あるいは老人が親切過ぎることであるか。不安の源ははっきりとはしなかったのだが、一度目を覚ましては再び眠りにつくことができなくなってしまった。
そのうち石田は催してきたので廊下へ出てトイレを探した。一階に降りれば一階に寝室がある老人を起こしてしまうと思い、これだけ大きい屋敷なのだから二階にもトイレはあるはずだと、石田は二階を探した。
石田は見当をつけてある一つの扉を開いてみた。そこはトイレではなかったのだが、その部屋の中の奇妙な光景に目を奪われた。
とても大きな部屋で、奥の壁にエレベーターの扉があった。扉は開いているが、中に乗用のカゴがない。カゴがあるはずのところは暗く空っぽになっていて、闇になっている縦穴の上の方から太いケーブルがおりてきて、部屋の中まで伸びている。エレベーターの左右の脇には人が入るサイズほどの、真空管を大きくしたようなガラス張りの容器があって、ケーブルはその容器の足元につながっている。容器の一つはガラスが内側から破られたように壊れている。エレベーターの上の壁の部分には真鍮の札が打ち付けられていて「第十五次調査隊研究足跡」と書かれている。
見てはいけないものを見てしまった気がした。屋敷の中にこんな部屋があるなんておかしい。
石田はこのケーブルがどこから伸びているのかを知ってはいけない気がした。しかし石田は、何かに吸い寄せられるようにしてエレベーターの前まで歩いていき、暗闇を下から覗き上げた。つかみ取れない闇が広がっている。闇はいつだってつかみ取れないものだが、たとえ光で照らしてもこの奥がどうなっているのか理解できない気がした。
ふと横のガラスの容器を見ると、さっきは気がつかなかったが、中にフクロウがいてこちらを見ている。フクロウのための足場が上から吊られていて、フクロウはそこに留まっている。フクロウの脚には奇妙な形をしたリングが付けられている。
なぜフクロウを入れるためだけにこんな大きなガラスの容器が必要なんだろう。それにこのケーブルは何のためのものなのだろうか。ふつうの電源ケーブルのようなものではないはずだ。それにフクロウを飼うのに電気は必要ない。よく見てみると、電源ケーブルの裏のところからさらに細いケーブルが伸びていて、フクロウの脚のリングに繋がっていた。
石田は不気味に思って部屋を出た。部屋を出る瞬間まで、フクロウに見つめられているような気がした。
結局石田は一階のトイレで用をたし、自分の部屋に戻ったがあの部屋のことが気になって朝までうまく寝つくことができなかった。
夜が明けてしばらくすると石田は部屋を後にして一階のリビングへと向かった。老人はすでに起きていて、ソファに座りコーヒーを飲んでいた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れましたか」
「実は事故のショックなのか、あまりうまく寝れなかったのです」
石田は昨晩奇妙な部屋を見てしまったことを老人に勘付かれないように努めた。見たことを言えば老人の態度が急変するような予感があった。
「そうでしたか、かわいそうに。朝食を用意しますからお待ちください。コーヒーと牛乳どちらがよいですか」
「コーヒーをお願いします」
石田はダイニングチェアに座って老人を待った。昨夜リビングを見回して見たときと何かが違って見えた。あの奇妙な部屋の存在を知ってしまったからなのかもしれない。この屋敷は何かを隠すためにこんな場所に建てられたのではないか。何か世間に知られてはいけない研究か何かをしているのではないか。石田はそれがくだらない考えだとも思ったが、そうとしか思えないような気になってきた。
老人が二人分の朝食を用意して、石田と老人は一緒に食べはじめた。クロワッサンと目玉焼きという簡単なものだった。
「このあたりはね、冬になると雪が積もって街に出るのが大変なんですよ」
「除雪が来ないと閉じ込められて大変なんじゃないですか」
「ええ、だから雪が降る前にね、たくさん食料を買っておくんです。私もこんな年だからね、街まで行って買い物をするのは体がしんどいですが」
「大変な暮らしぶりですね」
「そういえばレッカーが来るのは何時なのですか」
「八時ごろです。これを食べ終わったら出て行きます。大変お世話になりました。助かりました」
「そうですか、気をつけてお帰りくださいね」老人は話し相手がいなくなるのを惜しむようなさみしそうな顔をした。
朝食を食べ終わると石田は老人に再び感謝を伝えて屋敷を出た。来るときは暗くて分からなかったが、振り返ると朝の光の下で屋敷の全容が見えた。かなり古びているが二階建てで赤い屋根の屋敷で、思っていたよりも大きかった。見ることはなかったのだがたくさんの部屋があるのだろう。納屋には大きなジープが止まっていた。老人が乗るには不釣り合いだと思ったが、街に出るときに使うのだろう。雪道でも走れるようにジープなのかもしれない。
石田は屋敷から小道を歩いていき、車道があるところまで出た。振り返ってみると木々に隠れて屋敷は見えなかった。夜の灯りがあったから見つけられたのだろう。
三十分ほどかけて自分が事故を起こした車の場所まで戻り、石田はレッカー車を待った。あの屋敷に行くことは二度とないだろうと石田は思った。しかしあの部屋は何だったのだろうか。それにあのガラスの中にいたフクロウは何だったのだろうか。疑問が頭の中で渦巻きながら、石田は日常へと戻っていった。
 
 
 
 

*
 

松本は、絵羽とともにエレベーターが三階に着くのを待った。エレベーターが止まり扉が開くと、隊員たちがエレベーターホールで待っていた。
「全員点呼」松本は部隊に呼びかけた。
班長たちが人数を報告するが、やはり第二班は誰もおらず、二班が全滅したことが分かった。三十二人いた部隊が二十四人になったのだ。
松本は部隊に呼びかけた。
「二班が全員いなくなった今、さらに用心してビルを登らなければいけない。二階での失敗の理由は退路が確保できていなかったことだ。我々は緊急避難的に三階にやってきたが、もういちど一階へ戻る方法を確保する必要がある。ほんとうに一階に戻れないのか、もう一度エレベーターを調べろ。今乗ってきたもの以外も使えないかどうか調べろ」
隊員たちが全てのエレベーターを詳しく調べたが、使えるエレベーターは乗ってきた一基のみで、やはり一階に戻ることはできなかった。
通信機を設置しつづけることが、今部隊にとって唯一できることだった。それは全員が死ぬまで続くのかもしれない。
そして松本はさっきから気になっていたものを見た。壁に架けられている案内板だ。二階のものと同じ調子で書かれた案内板がある。そこに描かれたイラストはワニだった。
 
 
 
ワニの生態
ワニのふたばくん
英名: Crocodile
すんでいるところ: ビルの三階、水の中
たべもの: にんげん、波
とくちょう:  怖がりだからふだんは姿を見せずにじっとしているよ。ふたばくんは目が見えないけどあごの力はとっても強いよ。
 

「今度はワニか」松本は言った。
「水の中というのが一体何を指しているのか確かめる必要があると思います。ビルにはほとんど水なんてないと思われますから」兵悟が言った。
「シロクマみたいに変な力を持ってるんですかね、このワニも」田田が不安そうな声で言った。
「波というのが何かのヒントだろう。食べ物に光と書かれたシロクマが光を吸収して黒くなったのだから、波と書かれたワニは波を吸収すると考えるのが妥当かもしれない」
「波を吸収するというのが一体何を意味しているのかわかりませんね。水面の波のことでしょうか。さっき兵悟が言ったようにまず水があるのかどうかすらあやしいですが」美濃が言った。
「これだけだと分からんな。結局進んでみるしかないだろう。田田、三階の地図をダウンロードしろ」松本は言った。
田田が端末を使って地図をダウンロードし部隊の全員へ共有する。松本は通信室の場所を確認すると部隊に指示を出した。
「一列になって通路を進む。ワニなら曲がり角で遭遇したときの危険はシロクマよりも少ないだろう。しかしワニは足が速いと聞いたこともある。くれぐれも気をつけろ。発見し次第射撃態勢に移れ」
部隊は一列縦列の並びになり、エレベーターホールを出て通路を進もうとした。しかしすぐに先頭を歩く関口(せきぐち)という隊員が歩みを止めた。
オフィスビルの綺麗な廊下が徐々に泥で汚れて草が生え、その奥はまるで沼地のように深い泥水になっていたからだ。通路の奥に行けば行くほど草木の量が増え、天井はあるものの、まるで本物の沼地のようだ。
「松本隊長、ビルの中が、通路が、沼地になってます。おそらく床が掘られていて、プールみたいに泥水が入れられてます」関口は言った。
「どのぐらい深いんだ、歩いて進めるか」松本は関口のところに近づき通路を見た。
「目視では分かりません、試しに入ってみます」
「気をつけろ、ワニがいるかもしれないからな」
「松本隊長、待ってください。畳(たたみ)に測らせます。畳、水深を測ってくれ」田田が横から言った。
畳は鞄から二つの道具を取り出した。一つは長い紐の先におもりがついた道具で、もう一つは水平器と角度計が一緒になった道具だ。それから畳は紐を手元に持っておもりを奥の方に投げ込んだ。それから紐を少し引っ張ってぴんと張らせると、角度計を使って床と斜めに張った紐との角度を測った。畳は手で紐を巻きとりながら、十センチ間隔で紐に付けられた赤い印の数を数えた。
「水深約八十センチあります」
「特殊能力じゃないですか、それ。三角関数の値を覚えてるんですか」美濃が驚いて言った。
「ええ、覚えてます。電卓を使うより早いですし、電卓が使えない任務もあるので」
「田田の班のやつはそんなやつばっかりだな」兵悟が言った。
しかし松本は特に驚かなかった。
「ふむ、歩くのに困るぐらいは深いな。ワニに遭遇したら逃げられないだろう。ワニに水中にいられたら銃器も使えないだろうし」松本は思案して腕を組んだ。
「ワニが動いているのであれば探知できます。我々の班で水中ソナーを持ってきてます」田田が言った。
「ワニは静かに止まって獲物を狙う動物なんじゃないか」
松本の言葉に田田は黙る。松本の言う通りだった。
「他に案はないか。電気を流すとか、爆薬を使うとかなんでもいい」
「原始的ですが、長い棒で水の中をかき回しながら進む、というのはどうでしょうか」美濃が後ろから言った。
「それだったら組み立て式のさすまたなら持ってきてます」田田が言った。
「何本ある」
「一本です」
「しかしリスクが高い方法だな。他に案はないか」再び部隊に沈黙が訪れる。
「その案で行くしかないようだな。またもや先頭のやつには命の危険があるわけだが、誰がやる」
後ろから軒路が歩み出た。
「私がやります。通信班として一階に通信機を設置するという役目を終えています。役目のない私がやるのが適任です」
「分かった。軒路、頼んだ」
「念の為、ソナーも起動して進みましょう。軒路のすぐ隣に私が立ちます」
「そうしよう。頼んだ、畳。それからその後ろに銃を持ってる四人を配置する。ワニが水面から顔を出したときにしか銃は役立たないだろうがいないよりはましだ。前の二人が前方を、後ろの二人が後方を確認しながら進め。そして三階の通信機担当、夕江(ゆうえ)をその四人の真ん中に配置する。シロクマに比べたらワニの脅威度は下がるはずだ。全員が泥水に浸かるわけにはいかない。必要最小限のメンバーで向かってもらう。他の隊員はエレベーターホールで待機、もしも助けが必要であればすぐに向かう」
隊員たちは「はい」と揃えて声を出した。
そして畳は鞄からいくつかの棒状の部品を取り出し、それぞれを差し込んでさすまたを組み立てた。畳は軒路にさすまたを手渡した。
それから畳は鞄からソナーを取り出して棒状に組み立て上げた。
「お前の鞄の中身は大活躍だな、畳」
「ええ、それがこの部隊での私の任務ですから」
軒路と畳が先頭に立ち、その後ろに銃を持った関口(せきぐち)、葛(つづら)が二人で並び、その後ろに通信機を背負った夕江が立ち、最後に八鹿(ようか)と登日(のぼりび)が並んだ。
隊列は泥の中に足を踏み入れ、水底は徐々に深くなっていって腰の下あたりまで浸かった。
軒路はさすまたで泥水の中をひっかき回し、安全を確認しながらゆっくりと進んだ。
畳は左手でソナーの送受波器を水の中に沈め、右手で端末に移る通路の形状を確認した。ワニがいれば通路の形が歪んで見えるはずだ。しかし通路にはどこから生えているのかも分からない草木がところどころに生えていて、ソナーが受信する画像ではすでに通路の形が歪んで表示されている。ワニが動かなければ木と区別がつかないかもしれない。
三階の形状は二階とほとんど一緒で、通路を進んで行った先に大部屋があり、その中の一角に通信室があるというものだった。
隊列が通路を角で曲がると、水深が少しだけ深くなった。それに今までは見えていた通路の壁が植物で埋め尽くされ、いよいよ本物の湿地帯
のような景観へと移り変わった。水の中に何かが潜んでいてもおかしくはない。
隊列は丁字路までやってきてそこを右に曲がった。二階ではシロクマに遭遇した場所なだけに、隊員たちは第二班が全滅したことを思い出して青ざめた。あとは大部屋まで一直線だ。
奇怪な植物が通路に大きく張り出しているせいでソナーの探知がそこで途絶えてしまっている。その奥にワニがいても分からない。軒路は慎重にさすまたで水底を確認して植物を乗り越えた。大部屋の扉はなく、通路からでも部屋の中が見渡せた。
隊列が大部屋に入ると、その中はさらに草木が繁茂していてジャングルのようになっていた。机や椅子のようなものはなく、ただ植物が床から天井に向かって伸びている。入り組んでいて通信室に真っ直ぐに向かうことは出来なさそうだ。
突然、畳が持っている端末のソナーの画像が消えた。何も探知しなくなったのだ。
「軒路、止まれ。ソナーが効かなくなった」畳はそう口にしたのだが、何かがおかしい。自分の声が聞こえない。口を動かして声を出している感覚はあるのだが、声が耳に届いていない。
畳は腕を伸ばして軒路の肩をつかんだ。
「軒路、止まれ。オレの声が聞こえるか」畳がそう叫ぶと、軒路は何か口を動かしたのだが畳には何も聞こえない。畳はジェスチャーを使って耳が聞こえないことを軒路に伝えた。軒路は一文字づつ大きく口を開き「オレも」と言ったのが畳には分かった。
軒路と畳は後ろを振り返り、関口と葛を見た。どうやら二人も同じ状況だった。
畳は無線通話器で松本に状況を伝えようとした。しかし声を出してみても向こうに伝わっていないようで反応がない
畳は声以外はどうかと考え、左手で水面を叩きつけた。しかし音がしないどころかさらに不思議なことが起きた。叩きつけた水面が全く波打たないのだ。周囲の水面を見てみても、人間が歩いてきたときに起こる水面の上下はわずかさえもなく、水面は停止して一枚の平面となっていた。
ふと畳が隊列の後方を見ると夕江の後ろにいた八鹿と登日がいない。夕江はそのことに気づいていたようで後ろを指すようにジェスチャーをしている。周囲を見ても、通ってきた通路を見ても二人がいない。ワニにやられた可能性が高い。
軒路が口を開けて「どうする」と何度も言った。このまま進むか、戻るかということだ。畳はジェスチャーを使って、まず自分の胸を叩いて通信室の方を指差した。それから手のひらを相手の方に向けて軒路がやったように口で「どうする」と隊員たちに向かって言った。自分はこのまま進もうと思っているが、お前たちはどう考えている、という意味のつもりだった。他の隊員たちも畳を真似してジェスチャーで意見を伝えた。全員がこのまま進むという意見だった。命を危険にさらさずには通信室にたどり着けないということを短時間のあいだで全員が理解していた。葛が夕江を守るために最後尾へと移動した。
畳の推測では、声が聞こえないのも水面が波打たないのも、全て波に関係するものだった。ワニの攻撃はすでにはじまっている。おそらくワニが近づくと波が止まるのだ。しかし、畳は目でものが見えていることに気づいた。光も電磁波の一種であり、波であるはずだ。
案内看板でワニは目が見えないと描かれていたのを畳は思い出した。それが関係しているはずだ。ワニが感じ取れる波を止めているのだ。
ワニに噛みつかれたとしても音が聞こえず水面も波立たない。そのせいで八鹿と登日は気づかないうちにやられてしまったのだろう。二人の死体が水の上に浮かび上がってこないのが不思議だが、二階のシロクマと同様人間を消滅させられる能力を持っていても不思議ではない。
おそらくワニは後ろ側からやってきた。しかしこの樹木が入り組んで生い茂る大部屋ではもうどこにいるのかは分からない。通信機を運ぶ夕江をなんとか通信室に連れていかなくてはいけない。
音の聞こえない中、隊員たちはじりじりとした気持ちで泥水を進む。もはやソナーもさすまたも植物のせいで役立たずだった。先頭の二人は水中から道具を引き上げ丸腰で歩きはじめた。通信室は大部屋の角にある。あと少しのはずだ。先頭を歩く畳は何度も後ろを振り返り、後ろを歩く三人が無事であることを確認した。
水の中から突然黄土色の大きな塊が飛び出してきた。ごつごつとした表皮、それでいて長い流線形の生き物だった。畳は空中に跳ね上がったワニの瞳と目があった気がした。洞窟の奥で怪しく光る宝石のような瞳だった。目が見えないワニとは思えなかった。ワニは口を開けて軒路に噛みつき、軒路が声を上げたのかどうかは分からないが無音のまま水中に引きずり込まれた。
すかさず銃を持っている二人が水中に向かって銃を撃ったが、水面は一切波立たず当たっているのかどうかさえ分からない。銃を撃つ二人は手のひらを振って畳と夕江に急げとジェスチャーをし、銃を水中に撃ちつづけた。
畳は夕江をかばうようにして後ろを歩き、二人は必死で泥水をかいて進んだ。名前も知らない植物が邪魔で仕方がなかった。振り返ると銃を撃っていた関口と葛がいなくなっていた。太い木の横を通ると十メートルほど奥の水面からあがったところに通信室の扉が見えた。
そして、夕江は腕を使って泥水から体を引き上げて扉を開けた。後ろにいた畳はいなくなっていた。
夕江は無念の思いから眉間にしわをよせ歯を食いしばって通信室の扉を閉めた。扉を閉めた瞬間、夕江の耳には無音ではなく静けさが訪れた。床のカーペットを踏む自分の足音が聞こえる。試しに「あ」と声を出してみるとたしかに音が聞こえる。大部屋とは隔絶された場所に、ワニの影響範囲から逃れたからだろうか。
夕江は無線通話機でエレベーターホールにいる松本に呼びかけた。
「こちら夕江、聞こえますか」
「こちら松本、聞こえている。何があった」
「私以外全員ワニにやられました。音も水面の波も止める能力を持ってるやつでした。まだ大部屋の中をうろついています」
「通信機はどうなった」
「今通信室に到着しました。これから通信機を起動します」
夕江は泥で汚れた鞄を開けて通信機を取り出した。鞄は防水加工されていて通信機は無事だった。天板のスイッチを押して通信機を起動させる。
「通信機起動、確認お願いします」
「起動を確認した」田田が返答した。
「よし、夕江、必死の任務ご苦労だった。そこから戻ってこれそうか」
「あのワニがいる限り無理です。助けに来てもらっても犠牲者が出るだけだ。私はここで死を待ちます」
「夕江、ほんとうに感謝する。お前の貢献は無駄にはしない」
そして夕江は通話を終了した。
松本は、すぐに他の隊員たちも自分も死ぬであろうことを覚悟した。
 

*
あれから石田は屋敷にいたフクロウの夢を見るようになった。フクロウが見つめてくる、ただそれだけの夢だ。フクロウが見つめてくるだけのことが、石田は怖かった。起きている間もフクロウの視線を感じるのだ。実のところ生まれてからずっとフクロウに見られていたのではないか、そういう考えが頭の中に芽生えた。屋敷のことは忘れようとしたのだが、どうにも気になって仕方がなかった。石田はあの屋敷があった峠を通ることを避けた。なるべく峠を通る用事を作らないようにした。
屋敷にいた老人の顔がもう思い出せなくなるぐらい時間が経ったころ、やむを得ない用事ができて石田は峠を車で越えることになった。あの屋敷があった場所はなるべく見ないようにして通った。そうしてみれば、案外何も起こることはなく、石田はほっとして峠を通り終えた。
その日の用事を終え、石田が帰るころには夕方になっていた。石田が再び峠を通って帰っていると、なんと走る車のバンパーの上にフクロウが止まった。石田が驚いて車を路肩に止めて追い払おうとすると、フクロウの脚にはあの屋敷にいたフクロウと同じ黒いリングが付いているのが見えた。ケーブルを外して逃げて来たのかもしれない。しかし石田はもう関わり合いになりたくないと思っていたので車のドアを開けて手で追い払った。フクロウは飛び立ち、そのまま去ろうとするかのように見えたが、石田にとっては運の悪いことに開いたドアから車の中に飛び込んだ。石田は四つのドアを開け、追い払おうと、叫んだり手を叩いたり払うフリをしたりしたが、フクロウは後部座席に留まって動く気配がしない。石田は三十分ほど格闘したが、ついにあきらめ、あの屋敷まで行って直接屋敷の老人にフクロウを返すことにした。
フクロウが後部座席にいて落ち着かないが、石田は急いで車を屋敷に向かわせた。ずっとフクロウに見られている気がした。
車はゆっくりと横道へと入る。屋敷へと続く道だ。ずっと恐れていたフクロウは、このフクロウだったのだろうか。実際に見てみれば、たしかに厄介な存在ではあるが、いつまでも恐れる存在ではないのかもしれない。
車が進むと、あの大きな屋敷が見えてきた。屋敷に戻ってくるとは石田自身思っていなかった。石田は屋敷の前に車を停めると、フクロウを車の中に残して屋敷の玄関を叩いた。
あの老人が出てくるのを待つ間、なぜだか新しい自分になったような心持ちだった。
扉が開いて老人が顔を出した。老人は石田の顔を見ると石田のことを思い出したように目を大きく開けた。
「お久しぶりですね。どうしましたか」
「峠を通ってたらフクロウが私の車のバンパーの上に乗って、フクロウの脚を見たらこのお屋敷にいたフクロウがつけてたのと同じような黒い輪っかがついてて、そのうち私の車の中に飛んで入っちゃったんです。なので車の中に入れたまま連れてきました」石田は振り返って車の方を見た。その瞬間石田は、自分がまずいことを言ったことに気づいた。どうして今までそのことに考えが及ばなかったのか分からなかった。石田は、あのフクロウを屋敷の中で見たことを老人に秘密にしていた。あの奇妙な部屋は見てはいけないものだと思ったことを思い出した。
「やはりあなたはあの部屋を見ていたんですね」老人は石田が恐れていたことをそのまま口に出した。
「フクロウを連れてきていただいてありがとうございます。しかし実のところ、フクロウがあなたを連れてきたのです」
石田は老人が言ったことがどういうことなのか理解できなかった。老人は車の方へと歩いていき、後部座席のドアを開けると中からフクロウは飛び出して、滑空しながら開いた扉から屋敷の中へと入っていった。フクロウは飛び上がって階段から二階へと消えていった。
「お入りください。話をしましょう」老人は石田を待たずに屋敷の中へと入っていった。石田は何が起きたのか分からず立ちすくみ、老人が靴を脱いでリビングへと消えていくのを見届けた。一体どういうことなのだろうか。フクロウの夢を見ていたことと何か関係があるのかもしれないと思った。
どういうことなのかを知りたいという気持ちが湧き上がって石田は屋敷の中に入っていった。リビングへと向かうと、老人は以前と同じように紅茶を淹れるために奥へと引っ込んでいった。石田は部屋を見回すがあの日から一切変わりがなかった。
老人が紅茶を持ってきてテーブルの上に置き、椅子に腰掛けた。
そして老人はゆっくりと口を開いた。
「そういえば、私の名前をお伝えしていませんでしたね。私の名前は松本といいます」
 
 
 
 

*
ビルの六階に到達したとき、松本はついに一人になっていた。部隊にいた他の隊員たちは、田田も美濃も、人智を超えた動物たちによって全員消滅した。松本は青衣(あおい)が持ってきた通信機の鞄を代わりに背負い、六階の通信室を目指した。松本はすでに満身創痍だった。六階に出現する動物はゾウだと看板に書かれていたが、松本にはもうどうでもよかった。動物に一人で遭遇したら終わりだと分かっていたからだ。おそらく通信室にはたどり着けずに死ぬのだろう。一人で地図を端末にダウンロードして、通信室の場所を確認する。廊下の奥から入れる部屋があり、その中のL字になった部屋の一番奥に通信室があった。
六階にゾウの足音が響き渡った。どちらにいるのか音の方向が分からない。前かもしれないし後ろかもしれない。壁の中のような気もした。松本は壁に耳を当てて足音をよく聞いた。壁の奥から聞こえてくる。壁を挟んだ向こう側にいるのなら、しばらくは遭遇しないだろうと思った。
そして松本が通信室に向かって小走りに進み出した瞬間、壁が大きく張り出して、無数の細かいものが割れる音がして、壁を突き破ってゾウが現れた。ゾウは体全体がまるまると太っていて堂々と立ち、松本に鼻を向けた。鼻はゆっくりと天井近くまで伸びると、しなるように勢いよく振りおろされた。鼻はそのまま通路の床を砕き破った。松本はゾウから逃げるように走り出し、ゾウは松本を追いかけた。ゾウは鼻を振り回して通路を破り進み、ゾウが通った跡はささくれのような奇妙な光景となった。松本は近くにあった扉をつかんで中に入ると、そこは大部屋であった。大部屋は、松本にとって逃げ場があるといえばその通りだし、ゾウにとって獲物まで一直線で見通しがよい、といえばその通りだった。ゾウは扉を通らずに壁を突き破って大部屋に侵入した。松本が通信室にたどり着くためにはゾウを振り切った上でゾウの後ろ側に回らなければいけない。
ゾウ威嚇するようにその場でじだんだを踏んだ。松本とゾウの間にはテーブルや椅子やキャビネットが並んでいる。松本はこれらを避けて通らなければいけないが、ゾウは巨体によって弾き飛ばしながら松本まで一直線に向かうことができる。
松本は武器を一切持っていない。田田たちが持っていたような便利な道具も持っていない。松本は隊長であり、隊長の責務は隊員たちに指示を出すことだ。生身の隊長一人で何ができようか。
ゾウが勢いをつけて松本に向かって突進をはじめた。左右には避けられない。松本が左右に移動するよりも速くゾウは向きを変えられるだろう。松本は覚悟を決めてゾウに向かって走っていった。白い作戦スーツと巨大な動物が向き合った。ゾウは突進しながら鼻を振り上げて、松本めがけて振り下ろした。松本は床を蹴って飛び上がり、机を蹴って飛び上がり、振り下ろされたゾウの鼻を蹴って飛び上がった。
松本はゾウの頭の上を尻尾の方へと走る。すぐにゾウは全身を震わせて松本を体からふるい落とす。松本はすぐに立ち上がって大部屋の外へと走った。向かうは通信室だ。ゾウはすぐに振り返って松本を追いかける。
松本がゾウを飛び越えて作ったわずかな距離のリードは、みるみるうちに縮んでいく。松本が廊下を曲がった瞬間、ゾウが勢いあまって廊下の壁に突っ込んでいく。ゾウが移動するたび六階全体が破壊されていく。松本はL字の部屋に飛び込み、ゾウが鼻を振り下ろす間一髪のところで通信室に入り、扉を閉めた。
ゾウはなぜか通信室の中には攻撃をしてこないようだった。
松本は息を切らし、しばらくしゃがみ込んだ。落ち着くと、背中の鞄から通信機を取り出し、机の上に設置して天板のスイッチを押した。緑のランプが光る。
松本の部隊は、一階から六階までの通信機の設置をやり遂げた。松本にはもう通信機は残されておらず、帰還する方法もない。
松本はもう死のうと思い、ゾウに殺されるために扉を開けた。
扉を開けるとそこは、ビルの中ではなかった。見覚えのある森の中だった。ビルの周囲に広がっているあの森の中だ。
松本は何が起きたのか分からなかった。しかし命は助かったのだと思った。松本は通信室をあとにして森の中へと消えていった。
 

 

 

*
「私は五十年前、ある秘密の軍隊に所属していました。公にされていない軍隊です」松本は言った。
石田は松本の顔つきが変わったのを感じ取った。紅茶には手をつけられなかった。
「その軍隊では、それまた公にできないものについての任務を行いました。それは、多元宇宙に関する任務です」
「それは、どういう意味ですか。多元宇宙が実際に存在するということですか」石田は恐る恐る聞いた。
「多元宇宙というのは、いわば方便のための言葉で、実際はもっと別のものなのですが、今も昔もあれを説明する言葉がありませんので、仕方なく多元宇宙という言葉を使っています。この宇宙の外には、無数の別の世界が存在するのです」石田は黙って話を聞いた。うなずくことはできなかった。
「その一つの世界から、『玉』と呼ばれるものがこの世界に落ちてきました。玉が落ちてくるとき、世界と世界の間にあるガラスのような壁が破れ、二つの世界が繋がってしまったのです。玉はこの世界に落下してきたとき、偶然一匹のフクロウの中に入りました。そのフクロウというのがあなたを連れてきたあのフクロウです」
「話が分かりません。別の世界というのは、玉というのは何なんですか」
「別の世界については詳しくは分かりません。しかし私たちのこの世界が実際に存在しているように、他の無数の世界も存在しています。普段は二つの世界が繋がることはない。ただそれだけなのです。私は玉というのは祭壇に飾られる神器のようなものであると考えています。ある場所に置かれていることこそが重要なものです。玉はこの世界のもののあり方とは別のあり方によって存在しています。そのため一時的にでもこの世界に存在するためにフクロウと同化したのでしょう。玉は元の世界に戻る必要がありました。私たちは玉によって導かれ、この世界と別の世界の破れを発見しました。その破れは実のところこの屋敷の二階にあるものです。あなたはもう見たと思いますが、二階のあの部屋の扉の奥の闇になっている空間を上に登っていけば、別世界にたどり着きます」
「待ってください。この屋敷が建っていたところにちょうどよくその玉というのが落ちてきたということですか」日常生活からかけ離れた話の連続に、石田は老人がでたらめを言ってるのだと思い、苛立ちを感じはじめた。
「この屋敷は後から建てられたものです。世界の破れを隠すために、そして私たちの軍隊の拠点となるために建てられました」老人は紅茶に口をつけて一口飲み、それから再び話をはじめた。
「私たちは玉を元の世界に戻す必要がありました。世界の破れを戻すためにはそうする必要があると玉が言いました」
「玉が”言った”。あのフクロウがまるで話せるみたいな言い方ですね」
「玉は直接話せるわけではありません。私たちが突然何かの考えについて納得を得る、そういうふうな会話の仕方をします。私たちは玉からいろいろなことを教えてもらいましたが、ほとんどは分からないことです」松本は仕方がないというふうに首を横に振った。
「玉は私たちに、別世界に言って高層ビルを探して、一階ずつ通信機を設置しろと言いました」
「高層ビル。そんなものがなぜ別世界にあるのですか」
「私たちは別世界のものを直接認知することはできません。私たちにはそれが高層ビルに見えるということです。玉は元々、その高層ビルの天辺にいました。その世界は宇宙というものがなく、空の向こう側にはもう一つの地上が広がっています。ビルはもう一つの地上まで高くつづいていて、玉を元の場所に戻すために、私たちはそのビルを登らなければいけません」
「私たちが登る、というのはどういうことですか。玉にフクロウの姿のまま飛んでいってもらえばいいのではないですか」
「玉に私たちの意思を伝えることはできません。フクロウと同化した玉はこの世界に留まりつづけました。おそらく玉には自力で戻ることができない理由があるのでしょう。そもそもビルの天辺から落ちてきてしまったのですから、そう考えるのが自然です。玉を元に戻すために使うのが、玉が作り方を教えてきた通信機です。玉はこの世界のあり方とは異なる在り方で存在していて、私はそれは情報のようなものかもしれないと考えています。この屋敷からビルの天辺までを通信機によってつなぐことで、玉は通信に乗って元の世界に戻ることができるのです」
「そもそもの話になるのですが、松本さんが所属していた軍隊というのは、その玉のために作られたものなのですか」
「過去にもこのような人智を超えた出来事は何度もありました。私がいた軍隊はそのような出来事に対応するために作られたものでした」
「その軍隊は今も活動しているんですか。まだ玉を戻せていないようですし、この屋敷には見当たりませんが」
「軍隊がどうなったのか、今からお話しましょう。私たちは玉に教えてもらった装備を製作し、それから三十二人の部隊を編成し破れを通って別の世界へと向かいました。私は部隊の隊長の役割を任命され、全員の命を預かっていました。別の世界へ行くと、そこには森が広がっていました。森を越えると開けたところに教えられたとおりの高層ビルが見えました。私たちは高層ビルを一階づつ登り、玉に作らされた通信機を一台づつ設置していきました。しかしビルには私たちを阻む人智を超えた動物たちがいました」
「動物ですか」
「ええ、シロクマ、ワニ、ハリセンボン、カバ、ゾウに出会いました。動物たちに隊員たちはなすすべもなく殺され、六階の通信機を設置するころには私は一人になっていました。私は死を覚悟しました。しかし、気がつけば私は森の中にいました。何が起きたのかは分かりませんでしたが、私は命拾いをしました。それから私はこの屋敷に戻ってきて、軍隊長に任務の成果を報告しました。私の部隊が設置した通信機は全部で六台ですが、ビルの階数は全部で二五〇一階もあります」
「そんなに高いなんて。三十人も死んで、それっぽっちしか進めなかったっていうことですか」
「その通りです。玉を返すことは困難だということが分かりました。しかし私たちの軍隊は諦めませんでした。その後も幾度となく部隊が送られました。私は一度目の任務以降、あの世界に行くことはありませんでした。行くことが怖くて仕方がありませんでした。あのビルに向かった部隊のほとんどが全滅し、隊員たちはどんどん減っていきました。そのうち、軍隊が壊滅していき、軍隊長はさじを投げ、隊員たちは何も言わずに去っていきました。政府の人間は、責任を取ることを恐れ、この屋敷と任務に関する記録を抹消しました。私はたった一人で抗議しましたが取り合ってはもらえませんでした。私は第一回の調査隊の隊長として責任を取ることにし、打ち捨てられたこの屋敷で玉と破れを見守ることにしたのです。他の誰も信じてはくれない話ですし、誰も頼ることはできません。私は五十年近くこの屋敷に一人で住んでいます」
「そんな、そんな話があっていいとは思えない。そんな別の世界があるだなんて、科学的にありえないものがほんとに存在するなら、大学の先生なり警察なりが調査するはずじゃないですか」
「社会に生きる人たちは理解不能なものを避けるように生きています。私はそれを感じてこの話を誰にもしたことはありません。あなたに話したのがはじめてです。おや、ここまで話をしておいて、あなたの名前を聞いていませんでしたね」
「石田です」
「石田さん、あなたは玉に呼ばれてこの屋敷にやってきました。五十年ぶりに玉が私に伝えできたのです」
「そんな話、信じられません。ほんとうだというのなら、その別世界というのを見せてください」
「よいでしょう。二階へ行きましょう」
松本は立ち上がった。松本のカップはいつのまにか空になっていたが、石田は紅茶に一口も口をつけていなかったことに気がついた。
松本について階段を登っていき、あの日石田が間違えて入ってしまった部屋へと向かう。
部屋の中に入るとさっき二階に飛んでいったフクロウがガラスの中に入っている。このフクロウがさっきの話に出てきた玉と同化しているというのは信じられなかった。
「フクロウは五十年も生きてるんですか」
「その通りです。老いたり怪我をしたりすることがないようです」
「フクロウが入っているガラスの容器は何なんですか。それに足に繋がれてるケーブルも」
「あれは玉が私たちに作らせたものです。どういう仕組みなのかは分かりません。あのケーブルの先はあっちの世界の通信機に繋がっています」
「ガラスの容器がもう一つあるのは」石田はフクロウが入ってない方のガラス容器を見た。
「そっちは玉が気に入らなかったようで、ガラスを割って飛び出したんです。そのままにしてしまっています」
松本は部屋の奥へと進んでいって、開いたエレベーターの扉の前で石田を待った。
「さあ、石田さん。この奥が別世界になっています。闇になっているところの奥の壁にハシゴがあります。ハシゴを登っていけば森の中に出るはずです。私はもうあの世界に行くのは怖くて仕方がない。行くならあなた一人で行ってください」
石田はここで少し躊躇した。別世界があったとてなかったとて、自分にとってはどうでもいいことではないだろうか。この松本という名前の老人が、頭がおかしくなって、妄想の話を信じているだけだ。ハシゴが安全ではないかもしれないし、老人が狂って自分を殺そうとしているだけなのかもしれない。
ちらりと横を見ると、フクロウがこちらを見ている。夢の中で何度も見たあの視線だ。石田はどこか、このフクロウに惹かれはじめている自分がいることに気づいた。恐怖のゾウ徴だったフクロウに、なりたいと思ったのだ。
空いた扉の先を見ると闇が広がっている。石田はこの闇の向こうに行けば、何かを知ることができると思った。屈折した好奇心のようなものが石田の中に芽生えていた。
石田は扉の奥に進み出て、体を闇の中に浸した。奥の壁に手を伸ばすと、金属の梯子の感触が指にふれる。石田は梯子をつかんで足を使って上に登る。完全な闇の中で、自分の呼吸の音と梯子に裸足の足が触れる音だけが聞こえる。どのぐらい登ったのか分からないほど無心で梯子を登りつづけた。高くなっていき床が離れていく恐怖は感じなかった。
 

気がつくと石田は森の中にいた。足元を振り返ってみても梯子も縦穴もなく、苔が生えた地面の上に裸足の足があるだけだった。地面からケーブルが伸びていた。フクロウが入っていたガラス容器から伸びていたケーブルだ。ケーブルは森の中に向かって伸びている。
石田はケーブルを伝って森の中を進んだ。そこかしこに生き物の気配がするが、姿を見ることはなかった。木々は鮮やかで濃い緑色で、この世のものではないだろうと石田は思った。森がこすれる音がして、森がこすれる匂いがする。松本が言っていたことは本当で、この世界は別の世界なのかもしれない。帰る方法が分からないことを石田はなぜか気にしなかった。ケーブルをたどってどんどん森の奥へと進んでいった。
地面が盛り上がった丘のようなところがあって、ケーブルはその先へとつづき、電話ボックスがあった。森の中に電話ボックスがあるなんて、変な光景だった。石田が電話ボックスへと近づくと、電話が鳴りはじめた。電話がかかってきたのだ。石田は電話ボックスの中へと入り受話器をとった。
受話器からは森の中の音が聞こえてきた。遠くから何かが近づいてくる音がする。その音が電話から聞こえるのか、森の中から聞こえるのかはもはや分からない。森の奥から、何かをひきずる低い音がする。葉が揺れ、空気が静まる。石田は無意識のうちに受話器をはなし、地面に落ちる。電話ボックスを出てそれが来るのを石田は待った。頭上の木々の皮が剥がれ落ちて、石田の頰をなでたことも石田は気が付かない。
そして巨大なそれは姿を現した。顔の大きさだけで人間の背丈を超える、巨大蛇だ。 ゆらゆらと近づいてくる蛇と目があったとき、はじめて石田はその視線に気づいた気がした。石田の心のうちに森が忍び込み、もうどこにも戻れない気がした。蛇は何もせず、そのまま森の奥へと去っていった。石田は蛇の大きな体を眺めていた。蛇がいなくなるまで石田は動くことができなかった。
石田は蛇が去っていった方へと歩き出した。あの蛇はこの森であり、あの蛇は自分である。そんな感覚を石田は持った。
石田は一心不乱で森の中を歩き続ける。裸足だった石田の足は、いつの間にか白い靴をはいていた。石田の上着はいつのまにか白い宇宙服のようなものへと変わっていた。石田はいつのまにか白い鞄を背負っていた。いつのまにか石田の後ろを大勢の隊員たちが歩いていた。
石田が率いる部隊が鬱蒼とした森をぬけると、ひらけたところに出て、巨大なビルがそびえたっていた。
「石田隊長、まるでふつうのオフィスビルみたいですね」第一班班長の田田が言った。

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