いつか溺れる海のために

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梗 概

いつか溺れる海のために

 人間を溶かすなんて簡単だ。溶けるというのは、世界に包まれた個という群れが、細かな新たなる個として引き裂かれ、世界に包まれ直すことに過ぎない。例えば私という個は空気に包まれている。引き裂けば手足と頭、胴体に分かれ、それぞれを空気が包んでくれる。手は指に、指は皮膚と爪、筋肉に。皮膚は細胞に。細胞はオルガネラに、そしてやがては分子となり、新たな個として世界に包まれるだろう。水に溶かした角砂糖と同じだ。角砂糖という群れが千切れて、引き裂かれてショ糖一分子という個となり、それぞれが水分子に包まれる。溶解とは群れている個を引き裂き、その一つ一つを優しく包みなおす過程である。包まれる個を溶質、包む世界を溶媒と呼ぶ。

 自宅で女性研究者が溺死した。謎の死について、上記のように様々な断片的文章が語られる。断片的文章の例を挙げる。

・人魚姫に憧れる幼い夢
・人間を溶質とした溶解シミュレーションの様子
・太古の遺跡から種子が発掘され、開花した大賀ハスのコラム
・初デートで溶けたアイスクリームが指へ垂れ、それを恋人が舐めてくれた思い出
・江の島の海に溶けてゆく夕陽の美しさ
・嬉し泣きの涙を小さなスキットルに貯めている恋人
・ノーシーボ効果とブアメード実験から導かれる、思い込みによる死について

 語られる物語の概要は下記の通りである。

 幼いころ、人魚のように海の泡となり、溶けて消えることを夢見ていた彼女は、分子の動きをコンピュータ上でシミュレーションすることで、溶液中で物質の溶解を可視化する研究を志す。コンピュータ上に表示された溶液に対し、「溶媒分子の海を泳いだ気分はどうですか?」と問われ、幼い夢を思い出す。その頃、片想いしていた相手に恋人がいることが判明し、雨へ溶けてしまいたいという願望を強く意識する。一方で溶解シミュレーションの研究は順調に進み、研究室には秘密で、人間を溶質とした溶解シミュレーションに着手する。彼女は自身を忠実にモデリングすることで、自分が溶解するシミュレーションに成功し、自身が溶けていく様に見惚れる。しかし、次第に画面越しのシミュレーションでは満足できなくなる。
 大学卒業後、新しいコミュニティの中で彼女には恋人ができる。久しぶりの幸福に、思わず泣いてしまう。そこで、彼女はこの涙に溶けることができれば最も幸福なのではないかと考える。物質的に見た自分という人間を再現することから、精神的な自分という人格のシミュレーションへと技術の舵切りを行う。遺伝子の形でデータを種子へ保存することで大規模なデータ保存が可能となった記録媒体技術の助けもあり、彼女は自分の人格を再現し、種子に保存する。この種子を、貯めていた嬉し泣きによる涙つまりは塩水へ沈めることで、幸福に溶解して死ぬという願望を叶えたのだ。

 まあ、溺れたくらいじゃ、溶けないんだけどね。

文字数:1174

内容に関するアピール

 幸福に溶解して死にたい。言い換えれば、生身で成仏できればどれほど幸福かとつい考えてしまいます。しかし、生身で成仏することは叶わず、いつ幸福が崩れるとも分からない恐怖を背負いながら生きるしか、幸福になる道はない。そんな虚しさを描きました。
 本作では、珍しく実体験からいくつかエピソードを抜いてきました。具体的には、
・覚えている一番古い夢は、人魚姫となり海の泡と消えること
・研究室の先生に、「溶媒の海を泳いだ気分はどうですか?」と尋ねられた
・最近、恋人のせいでやたら嬉し泣きをしている
の三点です。あとはすべて捏造です。
 また、最近鬱ゲーム紹介動画にはまっています。そこでふと、わたしというメンヘラも、少々粉薬をかければ立派なエンタメになれるのではと思い上記の実体験と掛け合わせてストーリーを作成しました。
 なお、作中の研究内容は本業とあえて分野を少しずらしています。流石に書けません。

文字数:391

課題提出者一覧