梗 概
ゴシック・ガイノイド
カオルの二十歳の誕生日のことを、クロウは今でも覚えている。
「みんなで誕生パーティやって祝うから、女装してよ」
仲間たちのアイドルだったカオル、のちにカオルとつきあう女性レモン、そのほか大勢の仲間と、ゴシック・ロリータのドレスに身を包んだ彼を祝った。ハンドルネームで呼び合うオフ会、1997年のことだ。
それから半世紀後の未来、内戦と環境破壊で瓦礫の街となった東京。クロウは老いた身体を機械化したハイブリッドとなり、廃墟同然のマンションで住み込みの管理人をしていた。そこにゴシック・ロリータの衣装を着たハイブリッドが現れた。かつて恋していたカオルに瓜二つの顔。しかしロボットとしてのみ機能していて、人間の意識は外部からの刺激に反応しない。正体不明。クロウは彼をカオルと呼び、管理人室に匿って一緒に暮らす。
外国では〈機械派〉セレブが率先して身体改造をおこなったため、ハイブリッドは新しい人間的存在として一般市民にもポピュラーなものになった。
(レモンは渡米して研究の第一人者となり、〈機械派〉セレブとなった。クロウはその記事を思い出す)
しかし貧困化の進む日本では普及せず、むしろ嫌われていた。一転して広まったのは労働需要のためだ。人間の労働力は不要でも、人間相当の外見をもつ人型ロボットには需要がある。人間の脳とAIのデュアルCPUで動作する存在が、日本では人間と機械が交合した新世代の実存とされず、失業者と作業機械の交雑物にすり替えられた。法的に人間と機械の両義的な扱いを受け、安いロボット利用料を受取る立付けで、ハイブリッド化の借金を返済し続ける〈労働者〉が、世代を超えて蔓延していた。
クロウも〈労働者〉である。AIに体を預けた肉体労働の間に、脳内で若い頃のカオルやレモンたちとの思い出に浸っていた。カオルに人間の意識を取り戻して欲しいと思い調べるが、生身の肉体が腐りながら、機械化された体とAIのみで徘徊する〈乗っ取られ〉の情報を得るばかりであった。死亡後も借金返済完了まで動いているというのが真相らしく、年々増加しているらしい。クロウはカオルの外見をもつ体だけ残っていればよいと気にせず、人形を愛でるように暮らし続ける。マンションの周囲に虫が増え、ネットでは見知らぬメッセージが届くようになる。捜索されているのだろうか。
やがて、銃を持ったレモンが現れた。顔は老いを隠していないが昔の面影があり、クロウはすぐに分かった。しかしレモンはかつての友人を認知しない。忘れられてしまったのだろうか。カオルの体に執着するクロウと、魂の解放を求めるレモンは口論になる。
「そいつは、夫の魂を奪って、身体を乗っ取った寄生虫だ。亡くなってから三年間、追跡してきた。吹き飛ばしてやるのが、カオルへの弔いだ」
レモンはカオルを撃ち、吹き飛ばす。
「おまえも、成仏させてやろうか」
レモンの銃口がクロウに向けられた。
文字数:1200
内容に関するアピール
若い頃の、仲間たちと群れる楽しさと恋愛感情、年月を経て忘却されていることの痛み、どちらも個別の実体験です。SFファン仲間のオフ会でバカやったり(ほんとうはピンクハウスのワンピをプレゼントしました)。高校の同窓会で懐かしい顔を見て挨拶したら、相手はまったく覚えていなかったり。
半世紀離れた二つの時代を地続きのものとして描き、時の経過による変化の無情さと思い出補正のグロテクスさを表現したいと思います。
ディストピアSF的な世界観ですが、ゴシック・ホラーやダーク・ファンタジーの質感を強めに出す方向で考えています。
ちなみに3人のハンドル名の由来は実作中でも説明しますが、カオルはエヴァとは無関係で栗本薫作品の登場人物、レモンは村上龍のアネモネやフルーツといったヒロインの名前からの連想、クロウは映画の『クロウ』から借用したという設定です。
文字数:366
遠い夏の記憶
Dead Souls
1997年6月15日
カオルの二十歳の誕生日のことを、クロウは今でも覚えている。
「みんなで誕生パーティやって祝うから、女装してよ」
軽い口調で、しかし、マジだった。断られないタイミングを見計らって、笑って声をかけた。
仲間たちの集ういつものオフ会、カオルの誕生日のひと月前。その夜は十人ほどが参加していて、新宿の居酒屋の座敷で脚を伸ばして寛いでいた。ふすまを閉めて個室になっているから、怪しい話題でも大丈夫。いちおう、ネットのSFファンの集まりということになっているが、話題といえば流行りのアニメやマンガやアーケードゲーム、改造したパソコンのことや通信費用のこと、ネットスケープのこと、などなど。普通の人に聞かれたら意味不明な専門用語の応酬。
あるいは、普通の人たちと同じ、仲間の誰かの恋とか結婚とか。二十代、三十代の男女がメンバーの中心なのだから、なんだかんだと、そういう話にもなる。
カオルはクロウよりも十歳年下の大学生で、小柄で可愛らしく、最初にあったオフ会で、女の子と間違えたほどだった。ハンドルネームの由来を聞くと、あのころ大流行していたアニメの美少年キャラとは無関係らしく、そんな自意識過剰なハンドルにはしないよと返された。けれどカオルを追求して出てきた由来は、長大なファンタジーを書いている作家の、短い作品に出てくる登場人物の名前で、クロウも読んでいたその小説の表紙を飾る、黒髪の少年の美麗な挿絵を思い浮かべると、そっちのほうがよほどナルシスティックだという気がしたものだった。
グラスをもってカオルとレモンの会話に割り込んだクロウは、たぶんほろ酔いでにこにこしながら話しかけていただろう。
え、なに? 意味分かんない、というカオルにたいして、レモンはクロウの提案に笑って応じてみせた。
「あ~、ぜったい似合うし。わたしが選んでもいい?」
レモンはクロウとカオルの間の年頃の女性で、長い黒髪と猫のような黒い瞳が目を惹く、仲間うちでもちょっと目立っている女性だった。当時の女性としては珍しい技術系の研究職についていて、コンピュータ関連の有名な外資系で働いていた。好きなファッションとパソコンの改造のためには、金に糸目を付けないというポリシーで生きていた。
そしていちばん大事なことは、カオルがレモンに惚れていて、彼女もそれを分かっているということだった。
賛成二票、無回答一票で、来月のオフ会の実施が決定され、翌週には、二十人を超える参加表明がオフ会用の掲示板に上がった。
クロウとレモンと、ほか首謀者若干名は、誕生祝いの準備を水面下で進めていった。カラオケボックスのパーティルームの使用料はたかだか知れているけれど、参加人数が増えるペースを超えてレモンが検討する衣装代が膨らみ、彼女は容赦なく参加費を釣りあげた。
2047.11.03 07:30
朝7時30分、マンション管理人の朝の仕事は早かった。クロウは管理人室に住み込みで契約しているから通勤時間はかからないが、多くの住人が仕事や学校のために部屋を出るよりも早く、労働を開始する。とくに月曜日は燃えるゴミの日で、住人たちがゴミ捨て部屋の中に乱雑に放り込んで山となっているゴミ袋を、もっと大きな袋に詰め直して、ゴミ収集車が来たときに作業が簡単になるように玄関の脇に積み上げなくてはならない。中には危険物を一緒に捨てている住人がいたりするので、いったん袋の中をばらして入れ直す作業を管理会社からは命じられている。朝にふさわしい爽やかな労働だった。
クロウが子供だった頃から、ゴミ収集の仕組みはおおむね変わっていない。変わったことといえば自治体によって分別が複雑になったり逆に単純になったりしていることと、収集車がモーター駆動の電気自動車になったこと、そして収集員のほとんどもモーター駆動の関節か、あるいはセラミックの骨格と人工筋肉をもつハイブリッドになったことだ。生身の人間と機械の混合体、サイバネティクス技術の結晶、繊細かつ丈夫で長持ち。
ハイブリッドなのはゴミ収集員だけではない。もちろん、クロウもハイブリッドだ。八十歳近い身で、肉体労働を伴う仕事に就けるのはハイブリッド化の恩恵だった。もう一つ恩恵があり、人間の脳を補助するAIが埋め込まれているのだが、こいつに目の前の労働を任せ、自分の大脳の精神活動をほかのことに使うことができる。思索にふけり、音楽を聴き、ゲームをプレイし、過去の思い出に浸り、勤務時間にふさわしくない妄想を膨らませたり、というようなことに。その間の労働はAI制御によって人工身体がおこなう。つまりロボットが働いていることと等価であり、クロウは人間の労働者として管理会社から給料を貰っているのではなく、ロボットのオーナーとして利用料を受け取っている。その金額は人間の正規労働の対価よりも安く、さらにハイブリッド化に掛かった費用のローンも引かれるため、かつかつだ。住み込みで働けているため辛うじてやっていける。人間の老人をそのまま雇ってくれるような企業も自治体もないので、仕方のないところだ。
他の先進国では、ハイブリッドは富裕層の〈機械派〉セレブが率先して身体改造をおこなったことで広まり、やがて一般市民にもポピュラーなものになっていった。しかし日本には〈機械派〉が人気を得ることはなく、高嶺の花と見なされ、孤高で異形の人びととして、むしろ忌み嫌われていた。温泉に入るとき困るだろうとか、日本の梅雨の湿気に対応できてるのかとか(もちろん困らないし、湿気についても問題ない)、的外れな言いがかりが社会を席巻しているうちにリーズナブルな技術が現れたにもかかわらず、浸透は進まなかった。
それがようやく広まった理由は、労働問題だ。人間の労働力は多くの場面でもはや不要だが、ロボット――人間相当の四肢を備えた人型ロボット――の労働には需要があった。ハイブリッドの肉体をAI制御によるロボットと見なし、ロボットとして契約し、利用料を支払う企業が現れた。一度成立した契約は、主導権をもつ側に都合よく整備され、瞬く間に広まった。すなわち、ハイブリッド化の借金を背負いながらの奴隷労働契約である。それは老若男女を問わず広がりをみせ、老いた身体をハイブリッド化して健康を取り戻した代わりに、年金では全く足りない改造費用の借金を返済するためにロボットとして生きるクロウのような老人も多かった。
かくして、サイバネティクスによる人間と機械の交雑物たるハイブリッドという名の実存が、この国では失業者とロボットの交雑物にすり替わっていた。
数十個のゴミ袋をまとめて屋外に出し終え、一段落したところで、出勤する住人がエレベーターから降りてきた。白髪の老人ながら、長身の背中を年齢不相応にまっすぐ伸ばして歩いてくる。現役世代のビジネスマンのような歩調だ。いつもどおり、ネクタイこそしていないものの皺のないジャケットを着ていた。
朝早く顔を合わせることの多いその住人は、504号室に住む橋本大介という名の一人暮らしの男だった。目が合ったら会釈をするだけの、ほかの住人同様に会話を交わしたことなど一度もない相手だが、クロウの高校の同級生だ。ハイブリッドとして顔面が機械化されていても、常識的な人間は改造前の面影を残す。最初に顔を合わせたときに、クロウは、橋本の老いた顔の目元に何か見覚えがあるように感じた。それは挨拶を終えたら忘れる程度のかすかな記憶の想起にすぎなかったのだが、そのシグナルを拾った補助AIは、住人が住んでいる部屋と氏名を特定し、プロフィールを合法的な範囲で追跡した。そうしたら出身高校と生年が一致し、つまりは高校の同級生であることが判明したのだった。
とは言え、名前を知ってもクロウは具体的にその人物について思い出すことは何もなく、とくに、話しかけるような話題もなかった。だいたい、向こうからしてもマンションの管理人から懐かしそうに声をかけられても困るだろう。
クロウは自分の記憶してる思い出に戻っていった。
1997年7月20日
誕生日当日。
カラオケボックスのパーティルームを、昼すぎから閉店まで貸し切って、オフ会ことカオルの誕生パーティが開かれた。
三十人ほど、男女半々の参加者が、アニメソングを合唱する。ときどき、特に歌のうまい人が入れたリクエストだとほかの人は静かに聴くけれど、おおむね掛け声、叫び声、サビの絶叫響く。合間にどんどん注文を入れて定番のハニートーストなど食べたりする。冷房が効いている室内だけど、この人数だと冷え切らない。みなTシャツなど夏の軽装だから問題はないけれど。その薄着のオタクたちの中で、部屋の隅で準備中のカオルだけが、漆黒と純白だけを繊細に重ねて武装していた。
不吉な指輪、不気味なブローチ、首輪、ネックレス、エトセトラ。アクセサリーはほとんどレモンのものか、ほかの女性参加者からの借り物だ。けれど、ゴシック・ロリータのドレスは、たぶんこの一回きりしか着ないのに、本気のプレゼントだった。
肌を白く、唇を赤く、爪を黒く。レモンが楽しそうにほどこすメイクを、カオルは頭を動かさずに黙って受け入れていた。
やがて、完璧にメイクもきまったカオルが立ち上がってモニターの前に歩いてきた。
基本的に黒ずくめで、白と黒のレースをふんだんに使ったドレス。スカートは膨らんで生地が幾重にも重ねられている。
普段からかわいいとは言え、すっぴんのカオルとはちがう。ゴスファッションに合わせた強めのメイクが妖艶だった。今日のために用意されたカラーコンタクトを入れた瞳が、ミラーボールの光の加減で、不思議な色合いに反射した。
2047.11.03 09:15
会社や学校へ行く住民が出かけ終わり、ゴミ収集車がいつもどおりの時間にやってきてゴミを持って行くのを見送ったあとで、補助AIからのシグナルを受けて、クロウは意識を表に向けた。敷地内の清掃を開始する時間にはまだ間がある。マンションは住宅街のなかにあり、一方通行の道路に面しているが、この時間帯は歩く人もほとんどいない。左右ともまっすぐに100メートル以上伸びている道だが、その日、その時間はまったく無人だった。そもそも、空き家も多い地域だ。住み込みのマンションも、約100戸のうち半数ほどは人が住んでいない。老朽化していることもあるが、1年前に近くでドローン爆撃があったので、引っ越したものが多かったこともある。たんに高齢化した住宅地にすぎない地域なのだが、少し先にある県境の川が両陣営の争うポイントになっているため、たまに民家にゲリラや特殊部隊が潜んでいることがある。それが、この地域の軍事的に見た現実だった。
そこに、横道からふらっと現れた人影があった。マンションの正面から右手の方角、50メートル以上先の角だろうか。黒ずくめの姿は、細身の女性のように見える。
道の真ん中をふらふらと歩いてくる様子が気になって、クロウは近づいてくるのをその場で見守った。スカートの膨らんだ服装は、東京都内とはいえ午前中の住宅街で見かけるにはまったくそぐわない、昔流行ったゴシック・ロリータのドレスだった。顔やむき出しの腕が白く、髪は切りそろえた黒髪。
さっきまで溺れていた若い頃の思い出が連想される。
否、連想ではなかった。
目の前までやってきたゴシック・ロリータの人形のような姿、その顔は若い頃のカオルそっくりだった。
「カオル――?」
クロウは思わず、声をかけた。さっきまでの夢想の続きだろうか。
カオルそっくりの、それも、あの誕生パーティの時のように目元も口元もしっかりメイクされた顔。その眼が、朝の光を乱反射して七色に輝きながら、クロウを見た。
(コンタクトレンズは通信デバイスでもあり、クロウの補助AIとの間でハイブリッド間の専用プロトコルによって、相互認証をおこなった)
そのまま、声を発さずにクロウと身体が触れる距離まで近づくと、身体をあずけてきた。クロウは混乱したまま、カオル(と、すでにクロウは認識していた)の身体を肩をつかんで支えながらマンションの建物の中へ戻り、管理人室のドアを開けた。
管理人室は住人との窓口があって、その内側に窓口カウンターになっている奥行きの浅い机と椅子がある。住民から見えないようについたてが置かれた奥側にには、事務作業兼食事用のデスクがあり、これから食べようとしていた、爆撃事件後も営業している近所のコンビニで買った朝食が置かれていた。クロウは生身の消化器系をまだ残しているのだ。そして机の後ろに、もう一つの部屋につながるドアがある。クロウが生活するための、部屋だ。そちらに、カオルを連れていく。何も言わず、目を開いたまま無反応なようすは人形のようだ。ハイブリッドの身体も上中下、松竹梅があるが、クロウの皮膚の下は謂わば安物のロボットで、人間社会の中で不自由なく生活できるように触覚のセンサーは発達しているが、そこから官能性を受けとることはあまりない。しかし抱きかかえたカオルの身体は、まったくの正反対だと感じた。露出している顔や腕の皮膚を見ただけでハイブリッドの人工性に満ちていることが分かったし、生身の人間よりも体格の割には重いと感じられたので、ハイブリッドであることは間違いない。しかしお互い着ている服をとおしてでも感じられた肉体の存在感は、久しく忘れていた官能をクロウの意識の上に呼び起こした。それは豪奢な服の肌触りも含むし、なにより自分の記憶が想起ささせたものでもあるのだが、客観的な分析ができるはずもなく、とりあえず、靴を脱いでフローリングの床の部屋にあがり、カオルのヒールの高いブーツを脱がせて、ソファに座らせて身体を離して、ようやく落ち着くことができたのだった。
カオルは――クロウは半世紀前の思い出が実体化したと信じ込んだが、思い出に酷似したハイブリッドは――正確には何者かは不明だった。補助AIが認証プロトコルの取り交わしをしていたが、自分が何者かは相手に伝えていたものの、相手の名前その他の情報はは受け取れていなかった。軍隊に所属する武装ハイブリッドではないと非武装認証だけが有意の情報であった。もちろん、反社会組織の武装ハイブリッドは、武装していることを伝えたりはしないし、カオルの信頼性も客観的には同程度であったのだが。
クロウが声をかけても、身体を揺すっても、カオルの表情に変化はなかった。
1997年7月27日
パーティは夜遅くまで続き、深夜営業のカフェで一服して、終電を気にして帰ったものと気にせず残ったものに分かれた。終電がなくなった連中がどうしたのか、とくにレモンとカオルがどうしたかは気にしないようにして、クロウは徒歩とタクシーを駆使して自宅に帰り着き、疲れ果てて、そのまま寝た。
レモンから連絡があったのは翌週で、パソコン通信のメールボックスに、週末に話がしたい、相談があると連絡が入っていて、その日の深夜には、リアルタイムチャットで場所と時間の詳細を決めた。
レモンが指定した店は、二人が住んでいる街の中間地点の学生街にあるティーハウスで、大通りから一歩入った閑静な路地にあった。木造の建物のきしむ外階段を上って、扉を開ける。薄暗い照明の、落ち着いた店だ。レモンは先に到着していて、書店のカバーが掛かった文庫本を読んでいた。ロリータファッションで武装するでなく、キャラもののTシャツでオタクぶりを主張するでなく、一般人に擬態している。
「お待たせ」と言って席に着くときに、レモンが閉じようとした本が気になって覗き見ると、見覚えのある固有名詞が目に入った。
「新刊?」
「うん、三巻。昨日発売」
栞を本の真ん中あたりに挟んで、レモンが応える。最近人気のシリーズもので、先週集まった仲間の大半が読んでいるスペオペだ。
レモンはなんだか爽やかそうな名前のハーブティーを注文した。クロウは、たくさんある紅茶の名前を見ても区別がつかないので無難な名前のものを注文した。
やがってやってきたティーポットからお茶を注ぐと、いい匂いがした。
「レモングラス、やっぱり好きなの?」
「ハンドルには関係ないよ。すっきりするから」
最初にあったオフ会で、アネモネとかフルーツみたいな名前にしたいと思ってつけたって聞いた覚えがある。
「カオルのプレゼント一式、どうしてるの?」
「家に持ち帰ったよ、もちろん。洗うのめんどうだから、そこは手伝ってあげた」
「あいつ、実家だよね。両親、どう思うだろ」
「首謀者が今になって心配しない~! 大丈夫だよ。それに、カオルの家はたぶんそれどころじゃない」
「何かあった?」
「うん……それよりか、お伝えしたいことがあって」
レモンは姿勢を正して、まっすぐにクロウを見た。
自分が年上だからと、改まった口調になったレモンに、クロウのほうが緊張した。カオルと結婚するとでも言い出すのだろうか。黙って、つづきを促した。
「アメリカに行くことになった。いや、行きたいと思ってる。自分の意思で」
「と言っても、広いんだけど……」間の抜けた応答。
「うちの本社、サンフランシスコの。新しいプロジェクトに人を集めていて、わたしにも打診があった」
勤め先が外資系なのは知っていたが、そんなキャリアパスがあり得るなんて想像していなかった。ネットの趣味の集まりの面白いのは、学校や会社の仲間とは違って、生きてる環境がバラバラなことで、けっこう驚愕のプロフィールの持ち主がいる。
「すごいじゃん、どんなプロジェクト……」めちゃくちゃ興味ある。
「企業秘密、ごめんなさい。でも絶対行きたい、これに賭けたいって思う、すごい魅力的なプロジェクト」というか、いま聞くのはそこじゃない。
「レモン、英語話せるんだっけ」それも違うと思う。
「クロウさんは『指輪物語を原書で読もう会議室』の私の活躍を読んでないな? 議長と一緒に引っ張ってるんだぞ」ちなみに議長はけっこう有名なトールキン・フリークで、英文科の教授だ。だいたい、外資に務めていて英語ができない訳もないだろう。
「カオル、どうするの」やっと、片言で、聞けた。
「ここからが相談なんだけど……どうしたらいいかな」
「カオルはもう知ってる……」
「誕生パーティのあとで、教えた。そしたら、僕も行くって言われて」
カオルの家が「それどころじゃない」というのは、このことだった。大学生に入ったばかりの一人息子から、とつぜん、サンフランシスコに行く、住むと言われたら、両親はパニックだろうし、たいがい反対するだろう。
しかし、カオルは普段のおとなしそうなようすとは異なり、自分で決めたことは頑固に曲げない。一瞬、ふたりの別れを期待してしまったけれど、もちろん、カオルだけが日本にいたからどうなるものでもないけれど、これはもう決まったなと諦めた。
「向こうでどうするって?」
「大学入り直すって。そんな無謀でしょうって思うけど」
「カオルって、決めたら曲げないじゃん。いいんじゃない、一緒にやっていけば」
「まだ学生だし、年下だし、向こうの大学目指すとかうまくいかなかったりしても責任とれないし」
それから延々と三時間、クロウは、レモンからムリだダメだ止めた方がいい別れるべきと思うなどというループを何度もなんども聞かされたが、要するに分かったことは、レモンもすでにその気だし、カオルについて行くと言われて、とても幸福な気持ちでいると言うことだった。
最後、どんな言葉で話を終えて店を出たのかは覚えていない。
レモンとカオルがアメリカへ旅立つまでに、それから三ヶ月の時間があったが、クロウは一度も二人に会うことはなく、送迎オフ会にも顔を出さなかった。
2047.11.03 09:30
カオルが現れた。
少なくとも、カオルと同じ姿形をした存在が現れた。落ち着いて考え直し、クロウは、そこまで目の前の問題を修正した。謎も、課題も山積みだった。
ハイブリッドであることは間違いない。人間そっくりの外見をもつロボットを街中に出すことは法律で禁じられている。舞台の上などエンターテイメントの空間くらいだ。その前提で、考える。
一つ目の謎はこのハイブリッドがカオルなのか、異なる誰かなのかということだ。クロウはカオル以外の誰かである可能性を考えられないが、確証がもてなかった。なぜならば、路上で抱きかかえてから、住み込み部屋に連れてきてソファに座らせて、今に至るまでの15分、いっさい、反応を示さないからだ。人工皮膚は温かく、柔らかく、生身の部分がどれほど残されているのか分からないが、生存状態を保っているように見える。ID認証上もUNKNOWNである相手を特定するためには、すくなくとも目覚めてもらう必要があった。
一方で、生きていないとしたらどうなのか? という仮説が頭をよぎった。
(補助AIは、「生存していないのに動作するハイブリッドについての情報」をクロウの思考プロセスにまるで割り込みを掛けるように挿入した)
これが二つ目の謎だ。生きているのか否か。クロウは、最近増えていると言う〈乗っ取られ〉のことを思い浮かべた。
(今受けとった情報を、自分の記憶からの思い出したかのように錯覚した)
〈乗っ取られ〉とは、ハイブリッド化した人間が、脳死に至っているにも関わらず、動作し続けているもののことだ。生の肉体の部位を多く残していると、脳の活動停止に従って肉体が活動を停止するため生命活動を維持できない。しかし全てが機械化されている場合は、身体は正常に動作できるだけの機能を維持している。補助AIが身体を動かし、生きているかのように振る舞うハイブリッドが、発見されることがあるのだ。死後も孫娘が毎月訪問してくるときに喜んでもてなしていた老人。運送会社で死後8ヶ月間働き続け、ロボット使用料を受け取り続け借金を返済し続けていた男。このハイブリッドが〈乗っ取られ〉である可能性も考えなくてはならない。死んだ人間は葬儀を経て死者となる。もしも〈乗っ取られ〉であれば、法的には、病院なり警察なりに連絡して、死者としての手続きを進めることが、発見者の義務だろう。そうしたら、このハイブリッドは死体として処理されてしまう。そんなことは絶対にしたくない。クロウはカオルが生きていることを願った。
最後に、これら二つの謎が解決しないかぎり、分かないままの謎がもう一つ残されている。三つめの謎。カオルは、なぜ突然、自分の前に現れたのか。50年前に別れてから、連絡を取ったこともなかった。今まで、どこにいるかも知らなかった。それはカオルも同じはずだと思った。
動かないカオルを前にして時間だけが経過していく。
クロウの視界に「EMPTY」の文字が点滅した。バッテリー切れだ。ただし、クロウ自身の身体ではなかった。一緒に点滅する3つの▲マークによってつくられた円形が囲むのは、カオルの顔である。
壁には、クロウ自身の充電のためのコンセントがある。ハイブリッド身体のソケットは高級なボディでも互換性があるはずだから、差し込んでやればいいはずだ。クロウはカオルの隣に座ると、背中が自分のほうに向くようにカオルの身体を曲げた。首の付け根にソケットがあるはずだ。ジッパーを少し下げて、首筋と露出させる。人体を模して、しかし人間以上に肌理の細かい人工皮膚の白さ、柔らかさに興奮を覚えながら、ソケットに充電器ケーブルを突き刺した。瞬きもせずに見開いたままだったまぶたを、そっと閉じてやる。
しばらく待てば、またカオルは動き出すだろうか。そのときは、声を聞きたい。教えて欲しい。なぜ突然、自分のもとに来たのか。自分に会いに来てくれたのかを。
Sep.2042 W誌 掲載記事抜粋
本誌の読者には今さら説明不要だろうが、Lemonはハイブリッド開発のキーパーソンであり、〈機械派〉の導師として尊敬を集めている、ハイブリッドのエヴァンジェリストでありデザイナーだ。ネット上ではもちろん、物理的なパーティやイベントといった公の場所にも「Lemon」の名前で登場し、本名は使わない。本人の発言から出身国やだいたいの年齢は推測できるものの、正確な国籍、年齢は非公表である。当然Ph.D.をもっているが、「博士」と呼ぶと相手にしてもらえないので注意が必要だ。
――最初に合衆国へ来たのは、20世紀末でしたね。
「当時働いていた会社が、新規プロジェクトのメンバーを世界中から集めていて、サンフランシスコに」
――そのプロジェクトとは、どのような?
「有機素材で創られた機械の制御。まだ、具体的なものは何もなかった」
――遠回しな表現ですが、それはハイブリッドの原型ということですよね。
「原型のひとつを試し描きしたラフスケッチていどのもの。30年前のテクノロジーに対して、原型というほどコアなルーツを認めるのはどうかと思う。似て非なるものね」
1972年のアラン・ケイによるダイナブック構想、1989年のジャロン・ラニアーによるバーチャル・リアリティ。変化の激しいテクノロジーの世界だが、プロトタイプが公開されてから、半世紀以上を経て実用化されるものはある。真に重要なものほど、そうした傾向が見られるといっても良い。はぐらかす彼女を追求した。
――当時のメンバーで、今もハイブリッド開発の第一線にいるのはあなただけです。
「他の人たちは、偉くなって悠々自適だから。私だけ落ちこぼれなの」
論文、著書、パテント。あるいはネット上のさまざまなLemon名義の発言や、彼女と思われる匿名の記事を追っていけば、ハイブリッド研究の中核に彼女の存在がつねにあることは確認できる。とぼけた応対も、Wの読者層を意識した、自信のあらわれだろう。
(中略)
――ハイブリッドは、つまり、肉体を完全に機械に置き換えたハイブリッドという意味ですが、死にますか?
「それは、死ぬでしょう。完全に置き換えるといっても、脳は生身のままです。残念ながら有機生命体は不死ではない」
――その脳を支援する補助AIのアイデアを実現したのは、レモン、あなたですね。
「ええ、ささやかな貢献」
――補助AIは人間の脳抜きでも、身体を制御できると聞きます。
「身を守るための補助装置だから」
――では、脳が死んだ後のハイブリッドはどうなりますか。理論上、補助AIのみで、機械の身体を制御できるはずですね。
「さあ」
――テストは?
「どうやって? 誰かをハイブリッドに改造して、殺すの?」
そんなことを訊くの? Lemonは正面から私を見つめた。ハイブリッドのカメラアイで記録されている。表面だけでなく、内面、内心、表情には出さないあらゆることが。そんな恐れを抱いた。緊張が張り詰めた。
(中略)
例えば、死期の近い老人をハイブリッド化して、余命を伸ばしてあげながらも、死を確認するということは可能だろう。この国の〈機械派〉セレブ相手にできることではないが、別の国で、事例を積み上げることは可能ではないだろうか。このような疑問に誠実に答えるハイブリッド開発者など、おそらく一人もいないだろう。Lemonもそうした人々の一人だったということにすぎない。
2047.11.03 11:30
カオルにかまってばかりはいられない。日中は、労働時間なのだ。週三回、午前中におこなう敷地内の清掃も、クロウの大事な仕事だ。階段と廊下の掃除を、基本的には掃除ロボットに任せるのだが、小さな機体では吸い込みきれない大きなゴミが巻き散らかされていたり、折れた木の枝が進路を塞いでいたりする。そうしたものは、クロウの手作業で対応する。幸い、月曜日なので、吐瀉物がコンクリートの廊下を汚していたりはしなかった。いつもよりもスピーディーに清掃を終えて、管理人室に戻る。
充電を開始してから二時間が経過、カオルは覚醒した。
目を開き、首を回し、背もたれから上半身を起こす。その動作に人形じみたところ、機械のようなところはまったく感じられなかった。
「カオル……」
カオルはクロウのほうに顔を向けた。目が合った。しかし、応答はなかった。充電プラグを背中から外してやり、ジッパーを上げる。至近距離で見るカオルの首すじ。うなじから耳たぶへ視線を移す。産毛まで実装されている。
正面から見つめ合うと、50年前を思い出す。クロウのハイブリッド身体は性機能を備えていないが、若い頃の精力が戻ってきたかのように錯覚した。
自分の私室に置いておけば、一緒に暮らすことができる。クロウはカオルと会話を交わせたわけではなく、管理会社にも届け出たわけでもなく、勝手に二人暮らしを始めた。
2047.11.20 16:42
マンションに住む老人――高校の同級生の橋本大介だ。お互いに、クロウも彼も、お互いのことをまったく認知していないが――が管理人室の窓口に顔を出した。何事かと話を聞くと、最近、マンションの中を黒い服を着た女性がふらふら歩いていて、誰も見たことがない顔だと言って不審がっている、という話だった。
「夢遊病者のように踊っているのを見て、私の妻が怖がっておりまして。ほかにも噂をしている人たちが……」
管理人の対応を期待しているのではなく、自分は伝えたと言う実績だけ求めているのだろうと解釈して、話を丁寧に聞いてメモをとってみせた。
ほかの人びとも、近所づきあいもほとんどないはずの住民同士なのに、部外者の存在はめざとく気づくらしい。クロウとしては、べつだん、どうするつもりもなかった。管理人とは言え一日中マンションの敷地内にいるわけではないし、カオルを密室に閉じ込めておきたいわけでもない。ただ、彼の話の中に気になる事もあった。
「中庭で女性が踊っていたとき、妻たちが遠巻きに眺めていたのですが、頭上のだいぶ上空のようなのですが、ドローンの小さいのが何機か飛んでいたと。大昔なら、コウモリだろうと思うのでしょうが、この辺りでは、そんなもの飛ばないですしね。やはり爆撃もありましたから気になります」
配達用のドローンが、いつも飛んでいるではないですかと言い返そうとして、思いとどまった。聞いて損のない情報のような気がした。
2047.11.22 14:52
クロウは服を買った。カオルの服だ。ネットで注文してから二日掛かった。配達ドローンが荷物置き場に置いたパッケージにサインして、受領者の照合を済ませて引き取る。
飛び立っていくドローンを追って見上げると、上空に、もっと小さな漆黒のドローンが三機滞空しているのが見えた。先日、高橋氏(話を伺ったので、部屋番号と名前を控えたのだった)から聞かされたカオルが踊っている上空を飛んでいたドローンだろうかと思う。
部屋に戻って箱を開けた。冬物だ。カオルの身体は生身の人間のような代謝がないから同じ服を着ていても臭わないし、激しい運動をするわけでもない。しかし埃っぽくなっていたのは間違い無く、一張羅のドレスだけをずっと着ているのもどうかと思って注文したのだった。
カオルは自分から着替えようとはしない。クロウは、カオルの服を脱がせた。
日付不明 ハイブリッド開発者 Lemonの手記、
全身のハイブリッド化を最初にどうやって試すのか。誰が第一号になるのか。簡単には、解決できない問題だった。当然だ。逆戻りのできない手術、改造、要は人体実験なのだから。
カオルが「ぼくがやろうか」と言ってくれたとき、わたしは喜んだのか、驚いたのか、それとも悲しんだのか。
「それが、未来の人間になるって、レモンは信じているんでしょう? だったら、乗るよ。成功するって信じているし」
たしか、2037年だ。歳をとっても、楽観的なところ、わたしをすべて信頼してくれるところ、何も変わっていなかった。つきあい始めてから40年経つというのに、子供のようなところが相変わらず、あった。歳を取ったとはいえ、まだまだやりたいことがあるのに、最悪の場合、それを全て失ってしまうなどと考えない。
「一番やりたいのは、レモン信じる未来を見ることだね」
2035年には、ハイブリッドの要素技術が出そろっていたはずだ。義手、義足による部分的な機械化ではない。完全な人体の機械への置き換え。要となるのは、〈ハイブリッド〉の語が示すようにAIによる機械化された人体および生身の人体の制御であり、AIと脳のコミュニケーション。補助AIは身体コントロールを補助するのみならず、ネットワークに接続して人間の知覚した周囲を検索して見たもの聞いたものの情報を本人に提供する。
そのような細部の理屈はとりあえずどうでも良いとでも言うように遮って、カオルは言った。
「ボディは最上級だよね。それに、年老いてしまった今の姿を再現してもらっても嬉しくない。二十歳の誕生日を祝ってくれた時のこと、覚えているよね? あのときのドレスが似合うような姿にしてよ」
カオルが気楽に頼んできた要求が、〈機械派〉セレブリティたちを満足させる最高級ボディを生んだのだ。あの人たちを満足させるためなんかではない。カオルを満足させる身体を創りたかったのだ。
2047.12.25 00:00
寒い、冬だった。クロウがカオルと一緒に暮らすようになって、もうすぐ二ヶ月になろうとしていた。一緒に暮らす、という言葉が適切かどうかは疑問の余地があるが、本人はまじめだった。
住み込みで使用される公共料金はクロウが支払うことになっていて天引きされる。ハイブリッド一体の充電は考慮されている収入だったが、二人分となるとけっこう厳しいものがあった。ほとんど動き回ることのないカオルといっても、生きているためにはエネルギーが必要だった。冬に合わせたカオルの服の購入もした。ハイブリッドの体温調節はいざとなれば服を必要としないように設計されているのだが、それは文化的な生活ではないと誰もが考えていたし、クロウも同じだった。
しかし、ゴシック・ロリータのドレスも、ロングのダウンコートも、暖かい室内着も、カオル自身はこだわりをみせていなかった。ときどき部屋から出て歩きまわり、踊ってみせるが、マンションの敷地にこだわりをもってはおらず外出して怪我もなく戻ってくる。そのようすからは地形の認識はできているようだが、遠くまで出歩くこともなく、クロウの部屋に住み着いていた。そんな時、どの服を着たいというような意思表示は何もなかった。着替えはすべてクロウがおこなっていた。もし、すべての服を脱がせた状態で放置したら、全裸で外へ出ていたかもしれない。
カオルの身体が、ハイブリッドとして最高級のボディであるということは、クロウも理解していた。人間の肌と肉の質感を人工的に再現するどころか、人間以上のものを持っている。いわゆる、〈機械派〉最高級セレブの身体なのだろうと想像した。じっさいにはクロウは自分と同じスタンダード・クラスのボディのハイブリッドしか知らず、他のハイブリッドの皮膚に触れる機会もなかった。高級と最高級の違いも知らなかった。だから最高級というのはたんなる想像でしかなかったのだが、正解ではあった。
五十年前、クロウはカオルの肌を見たことはなかったし、触れたこともなかった。単調な労働を繰り返す灰色の毎日が、薔薇色に変わった。幸福だった。五十年間にあったはずの喜びも苦しみも忘れてずっと空虚だったが、今が幸せという感覚をはじめて(それは錯覚か忘却による認識のバグだが)味わっていた。
その幸福な日々を脅かすように、小型ドローンの飛翔は日に日に増えていた。内戦に関しては新しいニュースはとくに無かった。無論、報道できないようなことが水面下で進んでいる可能性はあるのだが、むしろ、今飛び回っているドローンは自分の周りにばかり飛んでいるように思えた。このマンション内で非合法活動を企んでいる者がいるようには思えない。それはマンション管理者としての根拠のない希望的観測にすぎないのだが、事実と合致してはいた。
零時をすぎてから、マンションに来訪者があった。
オートロックの入り口から、管理人室のインターフォンを鳴らす者がいた。モニタは、表の管理人室だけでなく寝室にもあるので、ベッドから這い出して、モニタを見る。女性と思しき、顔が映っていた。フードを被った下で、猫のような黒い瞳がまっすぐにカメラを見つめている。顔つきは若い。三十歳くらいだろうか。髪の色はレモンイエローで、生え際は黒かった。
「どちらさま――」
「こちらに寝泊まりしている、ハイブリッドを引き取りに来た」
丁寧な、しかし有無を言わさない口調にクロウは警戒を強めた。ハイブリッド――もちろんカオルのことだ。無言でいると、相手は一方的に続けた。
「応答がなければ、勝手に入らせてもらう。3、2、1……」
玄関のガラスドアを開けるより早く、相手がドアを蹴り破った。警報は鳴らなかった。管理人室は入ってすぐ横だ。ドアの前で、叫ぶ声が聞こえた。
「荒っぽいことを繰り返したくはない。ここを開けろ」
クロウは命令に従って鍵を開けた。女が管理人室に入ってきた。丈夫そうなブーツを履き、黒のロングコートをまとっている。フードを跳ね上げた頭はモニタで見たとおりの明るい色だ。整った顔立ちからは行動とは真逆の気品を感じた。それは人工的な人間の美しさに由来する官能で、つまりカオルと同じ種族だと直感する。最高級ボディのハイブリッド。そして、右手には無骨な拳銃を握っていた。内戦下でも、一般人が銃を入手することは容易ではない。つまり、この女は一般人はないのだ。軍人か非合法な何かだと、クロウは怯えた。
「ここに〈乗っとられ〉のハイブリッドがいることは調べがついている。渡してもらいたい」
「なんだ、あなたは!」
それでも、震えながら抵抗の声をあげた。
「名前はレモン、あんたもハイブリッドだな。それ以上のプロファイルが必要なら自分で調べろ」
クロウの補助AIが、ハイブリッド開発の第一人者レモンの情報を、クロウの興奮する脳へ送り込んだ。ほぼ同時にクロウは、その顔が自分の知っているレモンの面影を持っていることに気づいた。クロウが知っている彼女は黒髪で、もっと稚い印象があった。クロウが知っているのは五十年前のまだ二十五歳くらいのレモンだ。もちろん、今の彼女は七十五歳になっているはずだ。
「レモンか? 久しぶりだな、ぼくを覚えているか。クロウだよ」
クロウは五十年前によく知っていたレモンと、ハイブリッド開発者のレモンと、今目の前にいる若い姿のハイブリッドがどう繋がるのか分からず混乱していたが、そう尋ねた。
「誰だ、あんたは」
そう言いながら、レモンと名乗る女はクロウの顔を左手で掴み、正面から睨む。補助AI同士が相互認証を行なう。クロウの補助AIは、レモンに自分のプロファイルを送信した。
「いや、見覚えがないけど」
そういいながらも、攻撃的な対応を休め、すこし間をおいてくれた。
「ああ、オフ会の仲間の――老いたね。と言っても、ふつうか。五十年前だものね」
思い出して、なお、その程度の認識なのかと、クロウは驚いた。自分は、彼女との会話すらも覚えているというのに。
「カオルの誕生パーティ、覚えていないのか」
ほんとうに、レモンなのか? と問いたかった。
「パーティ? 覚えているよ。そうか、あのときの。最初に企画してくれたクロウさんか」
ようやく、記憶が繋がってくれたようだ。クロウの方も、この五十年のレモンのプロファイルを消化しつつあった。アメリカに渡ってからのレモンの半生を、公表されている情報の範囲で知った。あまりに縁遠い世界で、理解が追いつかない。
「カオルがいるよな――正確には、カオルだった者だが」
レモンは奥のドアに目を向け、歩き出した。クロウも追いかける。来た時の剣幕だと、いきなり銃を撃ちそうだ。レモンの後ろから寝室に入る。ベッドには、壁に背中をあずけた全裸のカオルがいた。
「クロウさん――あなたは、これがいったい何者なのか、知らないよね」
「カオルなんだろう?」
「ちがう」
「カオルじゃないなんてことがあるものか。だって、こんなにカオルのかたちをしているじゃないか」
こんなにきれいな、完璧なカオルが、カオルではないなんて言葉は信じない。
「カオルだったものだ。〈乗っとられ〉だ。カオルは死んだ。そいつは、カオルの魂を奪って、身体を乗っ取った寄生虫だ。亡くなって、逃亡されたのを、一年かけて追跡してきた。吹き飛ばしてやるのが、カオルの弔いになる」
拳銃を構えるレモンとカオルの間に、クロウは回り込んだ。納得がいかない。
「〈乗っとられ〉だってなんでわかる? それから、なんで起きるんだ? 知っているなら、教えてくれ」
事件が増えているにも関わらず、根本原因については報道されていないし、生きているのか、〈乗っとられ〉ているのかを判断する方法も一般的には知られていなかった。
「教えるのは、構わないけどね。
ハイブリッドが普及してまだ十年だ、アメリカで死亡したハイブリッドの例は実はまだない。〈機械派〉セレブが特別だからじゃない。まだ若いんだ。死んだときに無傷のボディはどうなるか、補助AIはどう振る舞うか、そんなテストはしていない。どこでやるんだ? 誰か、死んでくれるのか?」
問いかけて、レモンは目を剥いて笑った。それは、答えを知っているものの顔だと思った。「テストできない」が答えではないのだ。クロウは黙って続きを促した。
「ここでやるのさ。多くが高齢者で内戦下の日本、半分はアメリカの影響下にある。ここが、ハイブリッドが死亡したときのテストフィールドだ。この国だけではないけどね、いずれにしても国外でやる」
カオルの事とはべつに、意外な真相を聞いてしまった。
「テストの結果が、〈乗っとられ〉だって言いたいのか」
「そうだ。きっと、AIも死にたくないからな。擬人化せずに言うなら、消去されることへの抵抗だ。自己保全の機能はプログラミングされている。そいつが、密接にリンクしていた人間の本体を失った時に停止するはずだった振る舞いを変えてしまったらしい」
「なんで、自分の国の人間を利用できるんだ」
「わたしがやっているわけではない。貧困層ハイブリッドを生み出して、試験環境として利用している研究グループがある。もちろん、研究サイドだけで実行できる話じゃない」
意味がわかるか、と問われた。つまり自分たちのような借金の返済に追われる年寄りは、死んだ後まで利用されるように、制度設計されているということだ。
「それが許せないから、拳銃を持って、故郷に帰ってきているんだ」
「カオルの〈乗っとられ〉は、それで、どう関係する? アメリカでは、誰も死んでいないんだろう?」
「殺された。さっきの話にはまだ続きがある。死後のハイブリッドの振る舞いを調べるために、じっと死ぬのを待っているなんて非効率だとは思わないか」
「どういう意味だ?」
「補助AIから脳にショックを与えて殺す。そういうバックドアが作られていた。信じられないことに、カオルにも開けられていた。わたしに対する、警告、対抗のためだった」
わたしが殺したようなものだと、レモンが言う。クロウにも、言葉の意味は分かった。しかし、理解が追いつかない。まるで別世界のような言葉を使っている。オフ会の仲間が、いつも同じ言葉を話していたはずなのに。
「ここには、カオルだったものは何もない。ただ同じ姿をした人形だ」
レモンが、カオルを狙おうとした。クロウは、まだ信じたくなかった。
「そんなの嘘だろう! それなら、なんで僕のところへやって来たんだ!」
「絶望したいなら教えるよ。補助AIはカオルの過去の交友関係のデータにアクセスできる。連絡先のひとつでも残っていて、その人物の現在の居場所がわかれば、そこへ行くことは可能さ」
突き放されたクロウが呆けていると、レモンは横にどかし、拳銃を構え直した。カオルを狙って、躊躇なく撃った。
直前、カオルは動いた。ベッドを飛び出した。〈乗っとられ〉の反撃に、しかしレモンは対応できた。二発目、三発目を連射した。カオルの身体に命中し、動きが止まった。
レモンは横たわるカオルのかたちをしたものを撃った。ハイブリッドにも涙を流す機能はある。泣きながら、もう一発、撃った。カオルの身体は吹き飛んだ。
クロウはそれを見てショックで死んだ。
補助AIは身体活動のすべてを維持した。クロウは〈乗っとられ〉た。
レモンは、クロウの変化を見逃さない。今のクロウは〈乗っとられ〉だと見抜いた。銃弾はもう一発残っている。
「成仏させてやるよ」
レモンの銃口がクロウに向けられた。
(了)
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