梗 概
余白
彼の人生のシミュレーションは、いつも、子供部屋で本棚の最上段を見上げているシーンから始まる。
手を伸ばしても届かなくて、無理な背伸びをするうち、一冊が頭の上に落ちてくる。
太宰治の『人間失格』。
そのタイトルが、小さな痛みと共に、リョウの記憶に刻まれる。
「こんな『もしも』に、何の意味があるんです?」
新人アルバイトに問われ、リョウは肩を竦めた。
リョウの勤務する会社では、「もしもの人生」をシミュレーションする、体験型サービスを提供している。
体験できる設定には様々なバリエーションがあり、リョウが特に関わっているのは、「もしも、自分の人生に、あの人がいなかったら」という内容だ。
自分の人生を滅茶苦茶にした、憎い相手。そんな人物が登場しない、本来あるべき自分の人生は、どれほど素晴らしいものだったのだろう。
「そんな仮想の人生をシミュレーションしたって、現実が変わるわけじゃないでしょう。虚しくなるだけじゃ?」
「そうでもない。要らないと思った人物が、実は人生の重要なファクターだったなんてのは、この仕事をしてるとよく聞く話だ」
「へえ?」
「そうやって、誰もが自分の人生にとって必要だったんだと気付くことで、ヒトは他人に優しくなれる」
「という、タテマエなんですね」
「ま、誰かを恨むことが、生きる気力に繋がることもある」
リョウも、最初はそれを期待して、このサービスの担当に名乗りを挙げた。
その人がいなければ、自分が幸福になれたはずの誰か。そんな「誰か」を見つけたくて、テストをさせてもらうたびに、違う誰かを消してみた。
誰を消しても、「もしもの人生」に幸福を感じることはなかった。
「なあ。君は、本や雑誌を読むほうか?」
「人並みには」
「必要なんだ、デザインには。余白ってものが」
かつて、出版社でアルバイトしていたときに学んだこと。情報をまとめようとするとき、無理に多くの内容を詰め込もうとしてはいけない。
重要なのは、適切な余白なのだ。
「つまり、人生には、一見無駄なことも必要だと」
「そういう真っ当な教訓じゃない。余分なものは、削ったほうがいいってことだ」
リョウは、繰り返し「もしもの人生」をテストする。自分の人生にあるべきはずだった余白、それを埋めてしまった異分子を探し出すために。
知ったところで、今更、取り除くことができるわけではない。
けれど、この窒息しそうな人生に、「うまくいく可能性があった」と思うことができたとすれば、せめてもの慰めになるのではないか。
この名状しがたい苦しみが、他の誰かのせいであったなら。
どうか、この人物だけは違ってくれ。そう願いながら、リョウは、最後まで消していなかった人物を消してみることにする。
リョウのいなかった場合の、リョウの人生。
その矛盾した平穏な世界のシミュレーションは、子供部屋の本棚から始まった。
いつもリョウの頭に落ちてくる一冊の本は、その本棚には置かれていないようだった。
文字数:1197
内容に関するアピール
課題文を読んで、思い浮かんだ光景が二つありました。そのうち一つが、小学生の頃、眠りにつこうとするたびに目に飛び込んできた『人間失格』です。
当初は、もう一つの光景をベースに組み立てていましたが、書き進めるうち、ただ恨みつらみを吐き出すような内容になっていました。この「自分の人生を元ネタにしようとするときに、恨みつらみを書き連ねてしまう自分」こそを元ネタにすべきではないか、という着想を得て書き改めたのが、この梗概です。
文字数:209