梗 概
意志の回遊
地球外からやってきたイール・ニールたちの一族は、海と河川を行き来するウナギを宿主として以来初の危機を感じ始めていた。ここ最近、この惑星の調査に行ったはずの仲間の多くが戻ってこない。これまでも帰るのに時間がかかった仲間たちはいたが、こうも大勢戻らないのはおかしい。
不安を抱える彼らの海底基地に、ある日慌てた様子の調査員が戻ってくる。彼らは二本足の生き物たちに、宿主ごと捕らえられていた。しばらく幽閉されていたが、何故か捕らえられたうちの半分が解放されたため戻ってくることが出来たという。もう半分の行方は分からない。イール・ニールは仲間を救うため、そして自分たちに何が起きているかを知るために、自らも危険を承知で調査員として旅立つことを決意する。
日本の社会人、吉田はある時からふと「遠くに行きたい」と思うようになった。何かが自分を待っている、行かねばならぬという気持ちになるのだ。
漠然とした焦燥感を抱えながらも日々を過ごしていた吉田は、九月に友人と旅行に行くことになる。どの行先もしっくりこない中、グアム旅行のポスターを見かけた吉田は、あの衝動がまた強く湧いてくるのを感じる。自分の行くべき場所はここだったのだ、そう根拠のない確信を抱きつつ、友人に行先を提案する。
イール・ニールたち調査員の旅は途中までは順調だった。ところが宿主が幼生から稚魚に変わった頃、話に聞いていた二本足の生き物に群れごと捕まってしまう。
やがて連れていかれた先で彼らの宿主は殺され、宿主ごと火炙りにされたイール・ニールたちは、遠い故郷の星の戦争で感じた以来の熱に悲鳴をあげ、気を失う。
日本の社会人、吉田は友人と美しいグアムの海で泳いでいるうちに、あの衝動がかつてない強さで自身を襲うのを感じる。こんな浅瀬ではなく、もっと深いところにいかなくてはならない。周囲の止める声も聞かず、吉田は沖へと泳いでいく。大きな潮の流れが彼を連れ去っていくのを感じながら、吉田は安堵で笑みを浮かべる。
やがて息絶えた彼の身体は小魚につつかれ、小魚は更に大きな魚に食われ、その魚を食らった鮫が海の底へと潜っていく。
イール・ニールはふと気が付くと、違う生き物の体内にいた。
あの二本足の仲間に捕食されたらしい。運よく火炙りが甘かったため、辛うじて生き残ることのできたイール・ニールは、行方不明になっていた調査員たちの末路を悟り、決意する。
仲間たちにこの真相を伝えるため、何としてでも基地のある海に行かなければならない。新たな宿主の脳に指令を与える。遠くへ。遠くの海に行かなければならないと。
ぼんやりとしている宿主に、同種の生き物が声をかける。
「大丈夫、吉田。具合悪い?」
何と言っているのかイール・ニールには分からないが、何も知らぬ宿主は相手ににっこり笑って大丈夫だと返す。
相手は安心したように笑い、九月の旅行の行先を相談し始める。
文字数:1194
内容に関するアピール
旬の話題、ということで五十年後にお年寄りが何を当時の話題として話すだろうと考えた時、感染症の話などは勿論、きっとウナギの絶滅の危機や蒲焼の話も出るのでは、と個人的に思っています。
時系列がサンドイッチのように入り組んでいる話です。
イール・ニールたちは地球外生命体なので我々とは時間の流れも言葉も異なりますが、そこのズレをどこまでなら出せるか、そもそも宿主がウナギであることをどうやって世界観を崩さず、かつ読者に伝えられるように表現するか、今から泣きを見る気がしてなりませんが挑戦してみたいです。
<参考文献>
『結局、ウナギは食べていいのか問題』(海部健三,2019)
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』(キャスリン・マコーリフ,2017) ※原語版2016
『子どもには聞かせられない動物のひみつ』(ルーシー・クック,2018) ※原語版2017
参考文献は増える予定です。
文字数:389
意志の回遊
イール・ニールが帰ってこない。
調査に行ったきり戻らぬ仲間に、基地では暗い緊張が漂い始めていた。
この星に基地を構えて以来、調査は順調に進んでいたはずだった。
宿主として選んだ生物は非常に調査に適していた。寿命は短すぎず長すぎず、海流に乗りあらゆる場所へ向かうことが出来、長距離の移動が可能。運が良ければ川へと行くこともできた。おまけに黒く細長い身の宿主は、海底で集まり次の個体を増やす。そこは基地を構えるにも最適であり、宿主に乗った調査員が持ち帰ったサンプルやデータをすぐに回収することも出来た。
この調子で調査を進めれば、更に広い範囲を調べることが出来る。
そう皆が思っていた矢先のことである。
異変に初めに気が付いたのは、基地で備品の定期点検を行っていたイール・ニールだった。
調査に出た仲間の備品が置かれていた、今は何もない空間。その隙間がこれまでよりも広々としている気がしたイール・ニールは、改めてこれまで調査に出た仲間の記録と備品のリストを付け合わせてみた。思った通り、メンテナンスに出している分を考慮しても、基地を出てからまだ帰還していない仲間が明らかに増えている。
次に気付いたのは、活動記録をまとめていたイール・ニールだった。
調査員たちは報告のため、定期的に基地に戻ってくる。その活動期間をまとめてみたところ、通常なら帰還するはずの時期を過ぎても帰ってきていない調査員が何体もいることが分かったのだ。
活動期間の長さは調査や宿主の個体によって前後するとはいえ、あまりにも時間が掛かりすぎている。おまけに帰らないのが一体二体どころの話ではない。帰還は宿主の乗り換えや備品のメンテナンスも兼ねているから、調査員がこうも大勢、無断で長期間不在にすることは考えにくい。
これは何かが起きている。そう思った記録係のイール・ニールが基地にいる仲間たちを集めて聞いてみると、言われてみればと他の仲間たちも口々に――――正確に言えば発話機能のある口をもたない彼らは、信号で会話している――――己の担当している仕事で見つけた異変を報告し始めた。
曰く、出発時に予定していた帰還時期を大幅に過ぎている者がいる。
曰く、戻ってきた調査員は海を巡っていた者ばかりである。最近は川に行ったという調査員が少なく、水質の調査が進まなくて困っている。
曰く、いつもなら五回は調査を終えているはずの優秀な調査員が、前回出かけたきり戻って来ない。何か新しいものを発見して時間が掛かっているのかと思っていたが、こうして他の戻らない調査員が何人もいることを考えると、彼もその一体なのかもしれない。
宿主の乗り換えの補助を担当しているイール・ニールは、調査員を乗せた個体だけでなく、「空」の宿主たちの数そのものが少なくなっている可能性を指摘した。次世代の個体が産まれるための球体の準備に定期的にこの海底へと集まる宿主たちは、通常集まって巨大な塊を一帯につくる。その塊が最初に見た時よりも、ここ数十回の間に小さくなってきている気がすると言う。もっとも、イール・ニールたちにとっては途方もない大きさの話だ。見間違いの可能性も高いが、他に様々な異変が起きている現状、無視することも出来ないだろう。
調査のためにこの惑星に降り、滞在期間の四分の一と少しを過ぎて初めての危機に、基地内部はにわかにざわつき始めた。あちこちで不安や心配や疑問を表現する信号がさざめく。
原因が判明するまで、次の調査員の出発を見送るべきだという意見も出始めた。故郷から自分たちを狙う勢力でもやってきたのではないかという者まで現れる始末だったが、さすがに荒唐無稽だと一笑の信号に付されていた。
そうこうしているうちに何体かの調査員が定期報告に戻ってきたが、彼らは同中トラブルに見舞われることもなかったと言う。同時期に海底基地に戻ってきた宿主や仲間の装備を調べても何も異変は見られない。基地中のイール・ニールたちがない首を傾げたが、やはり原因は分からずじまいだった。
――――原因と危険性が不明なため、今回の調査隊出発は見送りとする。
戻ってきた調査員も交えた議論の結果、基地内におおむね予想されていた内容の伝令信号が響き渡った。
――――現在基地にいる者は全員、次回の定期報告の時期までに原因究明に向けた対策を考えてほしい。
――――何か新たな異変があれば、適宜連絡すること。
変化は次の定期報告の時期より前に訪れた。
最初に異変に気付いたイール・ニールこと備品担当の三十八号は、休養室の外へと出てすぐに、信号が慌ただしく飛び交っているのを感じた。
――――怪我はないようだが、疲れ切っているようだ。
――――宿主の損傷も激しい。あっという間に死んでしまった。
――――とにかくここに辿り着くために、休まず宿主を動かしてきたと言っていた。
――――戻ってきて良かった。
――――けど、一体だけなのか? 他にも同行した仲間がいたはずだ……
――――どうした? 何が起きた?
急いだ様子でこちらに向かってきた数体を捕まえて尋ねると、ああ丁度君たちを呼ぶところだったんだと、乗り換え補助を担当している二十九号が安堵の信号を返してきた。
――――調査員が一体だけ戻ってきたんだ。
――――前回出発した七十二号だ。
――――こんな季節外れの時期に?
定期報告の時期は宿主が繁殖のため海底に戻る時に合わせている。前回の調査隊が帰ってくるには、あまりにも早すぎるタイミングだ。
備品担当の三十八号が驚いていると、隣にいた十六号が信号を潜めて囁いた。
――――それだけじゃない。戻ってこない仲間たちの理由が分かったかもしれないんだ。
必死に海底基地に戻ってきた七十二号は、宿主から転がり落ちるように飛び出ると、迎え出た見張りに向かって「助けてくれ、仲間が危ない」と信号を放ち倒れこんでしまったという。
――――どうやら捕虜にされていたらしい。
――――詳しい話は今五十六号が医務室で聞いている。
――――この星の水の外に、比較的文明を発展させている生物がいるようだ。
――――そいつらに捕らえられていたと?
二十九号が頷きの信号を一つ返す。
――――後で全員に集合がかかる予定だ。そこで詳しい話が聞ける。
――――他にも捕虜にされている仲間がいるのなら、救助隊も組まれるだろう。
その後、イール・ニールたちが集められて伝えられたのは、これまで惑星の水を中心に調査していた彼らにとって初めて聞く内容だった。
前回出発した調査隊のうち、七十二号たちのグループは、海流に乗って幼体の宿主と共に川の方へと向かった。そこで見知らぬ二本足の生き物の群れに、川の外から宿主ごと捕らえられたという。
――――七十二号の報告によると、形状はかなり大きい。海の中ならそれなりの捕食者程度はあるようだ。毛皮も鱗もなく皮膜のみの部分と、日替わりで模様の変化する毛の部分が両方存在しているという。基本的には少ない群れで行動するが、時々離れて一人で動くこともある。この星の水の外に生息する、皮膜のみの生き物としてはこれまで見た中で最大の部類だろう。
医務室で話を聞いていたという五十六号が放つ信号が、基地中のイール・ニールが集められた基地の講堂内に響き渡る。
報告に聞く未知の生き物は、今まで見てきた生き物とはあまりにも形状が異なりすぎていて、備品担当の三十八号にはあまり想像がつかなかった。
――――二本足の生き物と意思疎通は可能なのか?
講堂のどこかから飛んできた質問に、五十六号は否定の信号を返した。
――――生き物同士は頻繁に音でコミュニケーションを取っていたようだが、こちらからの呼びかけには一切反応しなかった。そもそも我々がいることに気付いていなかったらしい。他の生き物との意思疎通の段階まで進んでいないか、信号の受容器を持たないかのどちらかだろう。
捕虜になっている宿主たちにはほとんど話しかけてこなかったので、あちらの会話方法を解析することも難しかったという。ただ一つだけ解析できたのは、二本足が宿主を指す言葉だった。
――――信号では再現しにくいが、宿主たちを指して定期的にこのような音を発していたと、七十二号は言っていた。
五十六号はそこで一度信号を止め、何やら力を入れる動きをしてから、歪な信号で三音の形を作った。
講堂に放たれたぐにゃりとした信号が、不安を抱えて報告を聞いているイール・ニールたちに降り注ぐ。
受容馴染みのない音に奇妙な信号を浮かべる仲間たちを一通り見回してから、五十六号は話を戻そう、と先ほどより少し疲れた調子の信号を発した。
――――七十二号たちはその後しばらく幽閉されていたが、宿主が幼体から成体に切り替わった頃に、何故か捕虜のうちの半分が解放された。
七十二号の乗る宿主は解放された方にいたため、こうして戻ることが出来たという。
だが、もう半分の捕虜たちがどうなったかについては、分からないままだった。
――――七十二号と共に捕らえられていた調査員は、同時期に出発した九十一号、二号、六十八号。
残りの三体の乗った宿主たちは、解放されずどこかへと連れていかれた方にいたという。
それまで多少の相槌は打てども静かに報告を聞いていたイール・ニールたちは、その信号を受けて途端にざわめき始めた。
やはり、他の仲間も捕らえられていたのだ。
七十二号の前に出発した仲間たちも、同様に捕らえられているのではないか。
では、彼らはどこに連れていかれたのか。解放されなかったイール・ニールたちは無事なのだろうか。それとも。
信号のさざ波が広がる講堂内に、五十六号のひときわ大きな信号が響いた。
――――イール・ニール五十六号は、三体の調査員を救出し、この捕虜の状況について更に詳しい状況を得るために、次の宿主の繁殖期に調査隊を派遣することを提案する。
静まり返った講堂内を再度ぐるりと見回してから、五十六号は話を続けた。
――――これまでの惑星調査では最も危険なものになるだろう。それでも行くという勇気ある少数のイール・ニールを派遣し、できる限り川の方に行き先を限定して調査を行いたい。
静かになった講堂のあちこちから、異議なし、という信号がぽつりぽつりと弾けていく。
中には既に自分が行きたいと名乗りをあげるイール・ニールもいた。それに釣られて自分も調査に参加したい、いや自分もとあちこちから信号が上がる。中には通常調査隊に加わらない、基地担当のイール・ニールたちもいた。
備品担当の三十八号もその一体だった。
通常、備品担当は基地内に常駐している。それでも仲間たちの危機に何か行動を起こしたかったし、何より自分たちに何が起きているかを確かめたかった。先日アップグレードした調査装備の試作品を試してみることを口実に、何とか調査隊に混ぜてもらえないだろうか。
ぽつぽつと上がる仲間たちの信号になるべく重ならないよう気を付けながら、三十八号は遠慮がちな信号を五十六号の方へと飛ばした。
目覚まし時計が三度鳴り、ようやく起き上がった彼の寝ぼけた頭に浮かんだのは「ここではない」という一言だった。
その一言を脳内でぼんやりと眺めながら、彼はまたか、とどこか他人事のように一人呟く。
それはぼんやりと霞のかかる脳内で、遠くから聞こえる叫び声のようだった。
携帯電話で現在時刻を確かめる。七月二十七日月曜日午前六時三十分。いつも通りの土日休みが終わった、憂鬱な月曜日の幕開けだ。
しかし月曜日の朝に出社を考えただけで頭に浮かんだ一言は、いつもの「帰りたい」とは違うものだった。いや、仕事に行きたくないことは確かなのだが、このまま布団に戻り二度寝したいという、お馴染みの怠惰な願望はなりを潜めている。
むしろ今すぐ着替えてどこかに行かなければならない、ここでじっとしていてはいけないという気持ちが、じりじりと脳の片隅を焦がし、却って思うように身動きを取れなくなりそうだ。
この頃どうにも、調子がおかしい。
自分のいるべき場所はここではない。気を抜くとそんな思考がふと、脳内を過るようになる。
このままスーツに着替えて仕事に向かうよりも前に、どこかへといかなければならない気がする。
いつものように電車で職場と家を往復するよりもずっと大切な、成し遂げなければならない何かがある気がする。
……だが、どこへ向かえば良いというのだろう?
辛うじて入社できた企業で、得意なことも苦手なことも考慮されずに振り分けられた部署に日々通い、何となく働いているだけの平凡な存在だ。今からどこかに行くことも、そのために違う何かになることも、何やらひどく億劫なものに見えて仕方がない。何より、自分にできるとは到底思えない。
そんな自分が、果たしてどこに行けばいいというのか。
そしてその先で、何ができるというのか。
思考が渦を巻き始めたところで、四度目の目覚まし時計が鳴った。どうやらスヌーズを切るのを忘れていたらしい。
頭を一つ振って、頭に浮かんだ雑念を追い払おうとする。
今はとにかく会社に行かなくてはならない。寝ぼけているから余計にこんなことを考えるんだと自分に言い聞かせた彼は、コーヒーを入れるために布団から這い出るように起き上がった。
柔らかな海流から外に出た宿主たちが、あっという間に波に攫われる。
孵化した後、漂流体へと姿を変えた宿主と共に、備品担当だったイール・ニール三十八号は海流を漂っていた。
漂流体の宿主は平たい体で波を捕まえ、そのままあちこちへと流されていく。長距離を移動するのには大変便利な構造であり、様々な場所へ調査に向かう調査隊にはありがたかったが、今回のように特定の場所へと向かうにはあまり向いていないようだった。
イール・ニールたちは宿主の中枢に指令を出し、向かう場所をある程度コントロールすることができる。だが、漂流体は泳ぐよりも流されることに特化している体のため動かしにくく、調査員たちが七十二号の捕らえられた座標の川に辿り着けるかは難しいところだった。通常の宿主のルートとは異なるが、漂流体ではなく成体になってから目的地に向かうことも考えた方が良いかもしれない。
またひときわ大きな波がうねり、イール・ニールたちが乗った漂流体がひっくり返る。
久々の浮遊感に揺られた三十八号は目を回しそうになりながら、何とか宿主の中でバランスを取ろうとした。長いこと基地に籠っていたせいで、ずいぶんと身体がなまっている。
――――それよりも、きっと装備が重いせいだ。
――――仕方がない。これがなければ三十八号は選ばれていない。
通りすがりの九十号が、からかうように投げかけてきた信号に送り返す。
他の選ばれた調査員たちとは異なり、イール・ニール三十八号だけは試作品の装備をその身に付けていた。備品担当としての仕事を兼ねた調査、という理由で調査隊に採用された以上、装備を捨てて宿主に乗るわけにもいかないだろう。
試作品が重いのは、従来の身軽に動き回れる装備と異なり、厳しい環境下でも調査が可能なように様々な性能を追加したせいだった。記録装置が壊れた時用の臨時記録装置も容量が増えているし、水の抵抗もなるべく少なくなるよう、これまでと形状が変わっている。更におまけの機能として、耐寒・耐熱機能も追加されていた。
――――それなら、次は海底火山にもいけるのか。
期待の信号を放つ九十号に、三十八号は否定の信号を返した。
――――火山に行くには耐久性がまだ低い。もっと高温に耐えられるよう、更に改良される予定だ。
なるほどと相槌を打つ九十号の宿主はそのまま違う海流に乗ったのか、向かう方向が次第に一同から離れ始めていた。「空」の宿主たちと共にみるみるうちに波の向こうへと引き離されていく。
次の波が宿主を更に遠くへと押しやる間際、九十号は微かな信号を三十八号たちへと飛ばした。
――――よき回遊を。気を付けて。
大波に負けじと三十八号たちも信号を返す。
――――よき回遊を。
うねる海面下でイール・ニールたちの信号が、パチリパチリと跳ねていく。
次に一行から離れたのは二〇二号だった。通りすがりの生物が、漂流体の宿主をぱくりと飲み込んで捕らえた。二〇二号の信号が、そのまま泳ぎ去る生物の体内から飛んでくる。
――――よき回遊を。また基地で会おう。
――――よき回遊を。
二〇二号は新しい宿主の体内で、新しい場所を調査するのだろう。あの生き物は二本足の捕虜にならないことを願うばかりだ。
漂流体の宿主は波に攫われ、次第に一体、また一体とイール・ニールを連れて四方に流されていく。
気付けば三十八号の隣にいる調査員は、七号だけとなっていた。
現在地の座標を確認する。どうやら七十二号たちが捕らえられた座標に最も近いのは、三十八号と七号のようだった。
ひらひらと波にはためく宿主の身体が、川に近づくにつれて少しずつ姿を変え始めた。波間を漂う生活から、川での暮らしに身体を切り替えつつあるのだ。
わずかではあるが、ようやく波に逆らい動くことが出来るようになった宿主をどうにか動かし、出来るだけ目的地の近くへと前進する。
気が付けば重く柔らかな潮の匂いは消え、固さのある透き通った水へと宿主たちは辿り着いていた。いつの間にか川へと入っていたらしい。
――――イール・ニール七号から三十八号へ。直に目標地点の座標に着く。
七号の張りつめた信号が届いた。
もしもこの辺りで例の二本足の生き物が待ち構えているのであれば、このまま捕まることになる。
イール・ニールたちに緊張の信号が走り続ける中、薄く平たい宿主の姿が、細くやわらかな円筒形へと変わっていく。彼らが中幼体と呼んでいる姿だ。
そのまま他の宿主たちと共に川へと辿り着いた宿主たちは、ゆったりと川の石が積み重なる隙間へと収まった。
周囲の気配を探るイール・ニールたちを他所に、宿主は透き通った身体をくねらせて水底の小石の上を這う。せせらぎは穏やかで、彼らを脅かす者は時折川底を訪れる他の生き物程度だ。
一通り何も不審な動きがないことを確認したイール・ニールたちは、少し拍子抜けしながらも、怪しい動きがあるまで交代で警戒態勢を解くことにした。
ひとまず七号に見張りを託した三十八号は、宿主越しに周囲を見回す。
透き通った宿主の身体より、更に澄んだ色の水の香りが心地よい。小さな砂利がぶつかる音は、楽しい時の信号に似ていてどこか心が躍りそうな気持になる。生物も海底では見ないものばかりだ。
ここしばらくは海底基地に籠りきりだった三十八号にとっては久々の光景に、知らず心が弾むのを感じる。たまにはこうして調査に出るのも悪くないかもしれない。
和やかな景色はしかし、そう長続きはしなかった。
川についてから三度目の月が空に昇った頃、今まで聞いたことのない調子で水が跳ねる音がしたのを聞いたイール・ニールは、同時に互いへと警戒の信号を送った。
もう一度、先ほど聞こえたぱしゃん、という音が川に響く。
音は川の水面から聞こえているようだった。周囲を見回したイール・ニールは、宿主の目越しに大きな板のようなものがこちらへと向かってくるのを確かめた。その板の脇から時折、先ほどのぱしゃん、と跳ねる音と共にもう少し小さい板が川の中へと顔を出しては、また水面へと去っていく。
大きな板の脇から出ているのは水を跳ねる板だけではなかった。水面の底を掬うように、時折大きな網らしきものが沈んでは上へと上がっていく。
イール・ニール三十八号は一度七号のいる方を一瞥してから、自身の宿主に向かって指令を出した。
――――進め。あの網のようなものの方へ行け。
そう命じた途端、それまで小石の山の周りを泳いでいた三十八号の乗り物は、ゆらりとその身体の向きを変えた。
もう一度、網が引き上げられた板を追いかける。次に網がそっと入れられた瞬間を狙い、宿主は網の中へと躍り出た。
網は二、三度ゆすられた後、丁寧に水の外へと引き上げられる。
あっと言う間に宿主が持ち上げられた先では、大きな音が響いていた。
「おお、良かった。ようやく今日一匹目のウナギだぁ」
それは鳴き声のようだった。
様々な音から成り立つ鳴き声は、イール・ニールたちには何を意味するか理解できないはずのものだ。だが、たった今頭部の穴の開け閉めで立てられたその音の中には、彼らにとって唯一聞き覚えのある言葉が含まれていた。
報告の時に聞いた五十六号の歪な物まねが、とっさに三十八号の頭を過る。
毛皮のない手足。胴体だけに生えた毛皮。巨大な図体。二本足で立つという、その特徴。そして信号では表現するのに難しい、「ウナギ」という複数の音で出来た、宿主を指すらしい表現。
――――七号、やはり奴らだ! 二本足だ!
網から水の張られた器へと放り投げられながら、三十八号は水面下の七号にできる限り大きな信号を放った。
電車の軋む音を聞きながら、彼はぼんやりと電車の広告画面に視線だけを向けていた。
前日に充電を忘れたせいで、いつものように携帯でゲームをしながら時間を潰せなかったのが原因だろう。たまたま運よく座れたのもいけなかった。微かな振動に誘われた睡魔と中途半端な覚醒がマーブル状に混ざり合っていた、あの心地よい感覚はとうに消え去り、今はただ濁った頭で揺られている。
車内は全く以ていつも通りだった。四つ前の駅で大勢が降りたため、向かいの窓の外の景色が少しだけ見える。満員電車で通う彼のいつもの通勤経路の、ほんの少しだけ一息つける時間帯だ。
ただ一つ違うのは、車内アナウンスが告げる次の駅が、彼の降りるべき駅の一つ後であることだ。
やってしまったなぁ)
電車の動きに合わせて頭がぐらりと揺れるのもそのままに、彼は視線だけは変わらず広告画面の方へと向けている。内容は全く入ってこない。
やはりこの頃調子がおかしい。いつもの駅が近付き、電車が少しずつスピードを落とし始めたその時になって、突然また例の衝動が湧き上がってしまったのだ。
――――こんなところで降りている場合ではない。
――――もっと遠くへ。更に遠くへと行かなければならない。
――――やるべきことがあるのだから。
そう心のどこかで叫ぶあの原因不明の焦燥感のせいで、何となく座席から立ち上がることができなかったのだ。そのまま衝動をやり過ごそうとしているうちに電車はホームに到着し、気付いた時にはドアが閉まるところだったのだ。
不思議と罪悪感は湧かなかったが、これからどうするべきか悩む。
いや、本来なら今すぐ立ち上がり、次の駅で反対のホームの電車に飛び乗るべきなのだ。そうすれば特に問題はなく、何事もなかったかのように出社できる。
けれども彼は思い出してしまった。今日は何のアポイントメントも会議もない日だ。急ぎの仕事もあるにはあるが、明日どうにかすればいい。
そしてこの電車の終点で一本乗り換えれば、海へと出ることが出来る。
ならばこのまま電車に乗って、あの衝動の通り遠くまでいってしまってみてはどうだろうか?
自分にしては少しばかり思い切った考えだ。けれどももう、あの衝動を無視していつも通りに暮らすことで、内側から焦げ付くような感覚にばかりなるのも疲れてきたのだ。
終点でホームへと降りた彼は、携帯で上司に体調不良のため休むと一報を入れ、少しばかりの嫌味を言われた。
本音を言えばこのまま誰にも何も言わずに、まっすぐ遠くへと向かいたかったし、本当に遠くに行ける人間はそうするのだろう。けれどそこで会社を休むと連絡を入れることそのものが、彼がどこにも行けない人間であることの何よりの証明のような気がする。それが良いのか悪いのかは、彼にはよくわからなかった。
乗り換えの途中で炭酸ジュースを一本買い、海へと向かう列車に乗る。平日に仕事に行く姿のまま、違う景色を眺めるのは少し新鮮だった。
ようやく辿り着いた海岸は、真夏の日の下賑わっていた。
はしゃぐ子供の声があちこちから聞こえてくるのを耳にして、初めて今が夏休みの期間であったことを思い出す。
ここに着くまでで既に半分に減った炭酸ジュースを口にした彼の脳裏に、またあの言葉が横切った。
――――ここではない。
遠くへ、遠くへと叫ぶ自分の衝動は、この距離では満足してくれないようだった。
ならば一体、どこに行けばいいというのだろう。
捕らえられたイール・ニールと宿主たちが、別の二本足に引き渡されて連れて行かれた先は、水の張られた四角い箱の中だった。半透明の宿主の幼体があちこちで重なり合い、互いの身体に影を落とす。この調子では幼体が育つにつれて、ひどく狭苦しくなりそうだ。
一通り箱の中を探し回ったが、七十二号と共に捕らえられていたという他の仲間たちの姿は見当たらなかった。箱の中にいるのは幼体の宿主ばかりだ。年齢で収容所を変えているのかもしれない。三十八号と七号は、ひとまず脱出経路を探しつつ、様子を見ることで話が落ち着いた。
逃げ帰った七十二号の報告通り、捕虜になった宿主たちと二本足は全く意思の疎通を行っていないようだった。二本足は定期的に箱の上にやってきては、上から宿主たちに食事を振り撒いたり、水の上に浮いた死んだ捕虜やごみを掬い取ったりしてから去っていく。だが、あの頭部の開閉する穴で音を発するのは、専ら二本足同士で話し合っている時ばかりだ。捕虜である宿主に労働を課すことも尋問することもなく、ただ狭い場所に幽閉し、死なないように世話をしているだけに見える。
自由に泳ぎ回れない場所でも、宿主たちはよく食べてすくすくと育っていった。細長い体は全長を伸ばし、胴の直径も次第に太くなっていく。透明だった身体は少しずつ暗さを増していった。
全ての宿主の身体が成体へと姿を変えてからしばらくすると、毎日収容所にやってきては同じような動きばかりを繰り返していた二本足がいつもと違う動きをするようになった。
丸い箱をいくつも抱えてやってきては、網で掬った宿主たちを入れてどこかへと去っていくのだ。
――――あれに乗っていけば、九十号たちの場所が分かるかもしれない。
用心のために潜められた七号の信号に、三十八号は頷きの信号を返す。
――――三十八号が向かおう。念のためイール・ニール七号はここに残ることを提案する。解放されるだけかもしれない。
――――了解した。三十八号、気を付けて。
三十八号は宿主に指令を出すと、次に二本足が箱へと差し入れた網にするりと乗り込んだ。
――――よき回遊を。
空の宿主たちと共に丸い箱に入れられて連れ出されるその最中、四角い箱に残された七号に向かって三十八号は信号を放つ。
――――よき回遊を。
七号の信号が、徐々に遠ざかっていく。
喫茶店にありがちな、小洒落た音楽が人々のざわめきにかき消されている。
コーヒーカップを手にしたまま、彼は机の一点をぼんやりと見つめていた。
遠くへ行きたいという例の衝動が、彼の脳裏を引っ掻いている。近頃ますますひどくなってきたようだ。
コーヒーに口もつけずに固まった彼の前の席に、数人が腰掛ける気配がした。
「大丈夫、吉田。具合でも悪い?」
友人の橋本と長谷川だ。少しばかり心配そうな顔の彼らに向かって、彼――――吉田は、顔を上げて笑ってみせた。
「大丈夫大丈夫、ちょっと考え事していただけ」
「本当に?」
「あんまり無理すんなよぉ。この前も急に病欠になったじゃん」
部署は違うが同じ会社で働く長谷川は、その日急に休んだ吉田が、海に行っただけだとは知らない。一人会社の違う橋本が、こちらを向いて顔をしかめた。
「本当に大丈夫? 風邪?」
「いやぁ、何かその日調子悪くってさ。今はもう大丈夫」
最近調子が変なんだよ、ずっとどこか遠くへ行きたくてさぁなどと正直に言うこともできない彼は、それで、と無理やり話題を変えた。
「俺のことはいいから。それより九月の行先、色々調べてくれてありがとう」
「いいえいいえ、せっかく皆で久々に行く旅行だもんね。チラシや旅行サイト見るのも楽しかったし」
橋本は抱えたリュックからパンフレットの束を取り出すと、コーヒーカップにぶつからないよう気を付けながら机の上に広げた。
「どこか行きたいところある? 私が行きたいところばっかりだから、皆に選んでもらって大丈夫なんだけど」
「俺は予算の範囲内ならどこでも。どこもそんなに寒くない時期だし」
店員に二人分の飲み物を注文した長谷川が答えると、橋本が口を尖らせた。
「ちょっと佐川もシノも同じこと言ってたんですけど。こういうのはちゃんと行きたいところ言わなきゃ決まらないじゃん」
「何だ。それなら吉田が行きたいところでもう決めちゃうか」
「えー。俺が決めちゃっていいわけ?」
友人との楽しい旅行の計画。
それなのに笑いながらパンフレットの束をめくる吉田の心は、どこか沈んだままだった。
北海道、沖縄、京都、ハワイ。次のチラシはプーケット。
どれ一つとしてしっくりこないのだ。
このまま曖昧に選んでも、旅先で自分だけ何となく楽しめずにぼんやり過ごすだけじゃないのか。
そんな不安が横切りかけたその時、チラシをめくる彼の手が止まった。
《エア・ミライで行く三泊四日! 美しいビーチすぐのホテルでの宿泊……》
踊る宣伝文句は彼と同じく月並だが、その地名を見た瞬間にしっくりときたのだ。
――――遠くへ。
――――ここではない、ずっと遠くへ。
かつてない強い衝動が、彼の脳で響くのを感じる。
自分が行きたいのはここだったのだ。
根拠など何もない。だが、あの衝動が目指していた先はこの場所だったのだ。
「……あのさ、こことか、どうかな」
どうにか控えめな様子を取り繕い、目の前に座る二人に目当てのチラシを見せる。
その内容を覗き込んで、真っ先に声を弾ませたのは橋本だった。
「良いじゃん! 私前に行ったことあるけどめちゃくちゃ良かったよ! 佐川とかも好きそうだしここにしよう!」
「長谷川は?」
「良いんじゃん? 暖かいし、海がきれいだし。みんなで色々できそう」
おっとりと頷く長谷川は、いつも旅行に行くときに場所にこだわらない。それよりも仲間で何をして遊ぶかという方を重視していた。
よし、と手を合わせた橋本が、パンフレットを突っ込んで来たせいで形のゆがんだリュックから携帯を取り出した。
「じゃあ、他の二人にも言っておくわ。九月の旅行は、グアムに決定、っと!」
薄暗い箱に入れられて運ばれた先は、これまでで最も海から遠い場所だった。
二本足には狭そうな建造物の中で、白い毛皮の個体が何体も動き回っている。宿主たちを入れるような、水の入った箱はどこにも見当たらない。おまけにここに運ばれてから、ひどく何かが臭っている。二本足は嗅覚が鈍いのだろうか。宿主を通して感じる臭いは、気が遠くなりそうになるほどだというのに、何事もないかのようにきびきびと動き回っていた。
今度は何をされるのだろう。
二本足を見張るイール・ニールの宿主が入った箱の隣には、同じような形の丸い箱が山積みにされていた。二本足はその箱から空の宿主を数体取り出すと、すぐ近くに置かれた板に乱雑に並べる。
その板を見たイール・ニールは突如、臭いの正体を思い出した。
板の上に染み付いた、宿主たちの体液だ。
――――殺される!
思わず信号を放ったイール・ニールを気にも留めず二本足は、平らな薄い石で宿主の一体の首を叩き、そしてその頭に細長い棒を打ち込んだ。
びくりと身体を動かす宿主の身体は、そのまま薄い石で次々と解体されていく。
ここは捕虜の処刑場だったのか。だが、それならばなぜこの時まで宿主を育てる必要があったというのか。
愕然としながら周囲を見回したイール・ニールは、白い毛皮以外の二本足が低い壁を隔てた先に何体もいることに気が付いた。
二本足たちは四角い置物に座り、頭部の穴にせっせと何かを送り込んでいた。
意思疎通の音を出すためだけに使われている訳ではないらしい。海洋生物の一部と同じく、あの穴が栄養摂取も兼ねていると考えると、食べている物は――――。
再度板の方に視線を戻す。解体された宿主は頭だけ残し、胴体を串刺しにして二列に並べられていた。しばらく置かれた胴体はひっくり返され、やがて他の二本足のところに運ばれていく。
なるほど、宿主はこのために食事をこれまで与えられていたのか。
宿主は成体になった後、海へと帰るための帰還体になる。それよりも前の、この成体になりたての頃の捕虜の胴体が、二本足たちの好物なのだ。
これまで帰ってこなかったイール・ニールは、二本足たちに宿主ごと食われていたのだ。
だが、宿主ごと食われることは、彼らにとってよくあることだった。今回の旅でも二〇二号が別の魚に食われている。少し遠回りにはなるが、そのまま他の生き物たちを巡り、基地に戻ればいいだけだ。
なぜ、二本足に食われたイール・ニールは帰ってきていないのだろう。
宿主が次々と殺され、解体されるのを眺めている間にも、自分の番がどんどん近づいていく。
とうとうイール・ニールが乗った宿主が、板の上へと取り出された。宿主の頭から逃げると、なるべくあの薄い石も細長い棒も当たらなさそうな身体の位置へと身を潜める。
手慣れた手つきで宿主を解体した二本足は、胴体を何本も細い棒で串刺しにすると、他の宿主だったものの列の横に同じように並べていく。
胴の列に置かれた途端、イール・ニールの身体を灼熱の痛みが襲いかかった。
――――熱い!
思わず上げた悲鳴の信号はしかし、誰にも拾われない。
細る意識の中見た列の下は、こうこうと燃える黒い灯りで埋め尽くされていた。
真下から湧き上がる熱で火炙りにされる。
かつて故郷の星の戦争で多くの仲間が死んだとき、イール・ニールは遠く離れた場所で仲間を殺した熱を感じていた。それが今、自分のすぐそこで宿主ごと自身の身体を焼いている。
熱い。熱い。朦朧としてきた意識で、同じ言葉ばかりを繰り返す。
最早死んでしまった宿主を逃がすことも出来ず、熱にもがき苦しむ中で宿主の外に逃げることも出来ないまま、イール・ニール三十八号は意識を手放した。
周り一面が、青と緑の透明と、所々に浮かぶ人で出来ている。
パンフレットの写真で見た通り、グアムの空と海は美しかった。違うことと言えば、写真では一切映っていなかった人が思ったよりも多い。その中には彼と友人たちもいた。
あのラインまで競争だと泳いでいった佐川とシノが、疲れた様子で戻ってきた。スイカの形をした浮き輪につかまり、のんびりと浮かんだままの橋本がおかえりぃと間の抜けた声で二人を迎える。
「めっちゃ疲れた。シノこんなに速いとか聞いていないんだけど」
「いえーい、頑張っちゃいました。後でホテルで飲み物奢ってね」
髪を結びなおす手を止めて、シノがピースサインを作る。佐川は本気で悔しそうだ。
「吉田も誰かと競争しようぜ。長谷川とかどうよ」
「何でだよ。ゆっくりさせてくれよなぁ」
どうやら持て余した悔しさを、他を巻き込むことで解消しようと決めたらしい。いきなり名指しをされた長谷川は、不平を言いつつ浮き輪の板から水の中へと降りて肩を回した。どうやら勝負には乗る気のようだ。
「俺、あんまり泳ぐの速くないんだけど……」
「良いから、良いから。じゃあ吉田は負けても奢らなくていいってことで」
「佐川が代わりに奢ってくれるってさ」
「なんでだよ! すでに一人に奢ることになっているんですが!」
おどけた調子で怒る佐川に、一同の間でどっと笑いが起こる。それならやろうかなと長谷川の横に並んだ吉田に、そうこなくっちゃとシノが手を叩いた。
「えー、では、先ほどと同じくあのラインまでぇ……よーい、スタート!」
佐川の掛け声とともに、二人がいっせいに泳ぎだす。
思った通り、運動神経の良い長谷川は泳ぐのも早かった。あっと言う間に距離を離され、少しでも追いつこうと必死に吉田は手足を動かした。
途中、浮き輪で浮いていた他の観光客にぶつかりそうになる。悪態か罵声か、ただの悲鳴かも判断がつかない、知らない国の言葉にソーリーとだけ叫んだ。後ろで頑張れ、頑張れと叫ぶシノたちの日本語だけ、妙にはっきりと聞こえる。
必死に泳いでいる間も、グアムの海の美しさに圧倒されそうになる。時々入る海水で口の中が潮からい。
変化はゴールの直前で起きた。
必死に手足を動かし、せめて何とか泳ぎ切ろうとする彼の全身を、落雷のようにあの衝動が襲いかかってきた。
――――遠くへ。
それはかつてない強さで彼を覆っていた。朝起きた時も食事中も、電車を乗り過ごして海に行った時も、これほどまでの焦燥感を感じたことはなかった。
――――もっと遠くへ。深いところへ。
もはや彼の全身が、あの衝動で突き動かされていた。いつのまにかゴールを通り過ぎた彼の後ろから、どこまで行くんだと、とっくにゴールインしていた長谷川の笑い声がする。
――――こんな浅瀬ではだめだ。
――――もっと沖へ。もっと遠くへと行かなければならない。
波が背中を押して更に浜辺から遠ざかる。うまく泳げない人の身体がもどかしい。
いつの間にか後ろで聞こえる長谷川の声が、焦りを帯びていた。とまれ、危ないから戻ってこい。笑い声は怒鳴り声に変わっているのをどこか遠くの出来事に感じながら、彼は尚も手足を動かし続ける。
呼吸で顔を上げる時間がひどく惜しい。それよりも更に遠くへ、遠くへ行かなければならないと、衝動のままに泳ぎ続ける。
――――遠くへ、更に深い場所へ。
――――ようやく帰ることが出来る。
ひときわ大きな波の塊が、もたもたと浮かぶ彼を飲み込んだ。思いきり海水が口の中に入り込み、少しむせた。海に取り込まれてしまいそうだ。
呼吸が苦しくなっているのを感じながら、彼は確信する。自分の行くべきだった場所に、ようやく近づいてきていた。
海流が彼の身体を更に沖へと運んでいくのを感じながら、彼は安堵で目を閉じると、少し疲れた手足を休めるために動きを止めた。
海流が彼の身体を運んでいく。溺れ死んだにしては安らかな顔で眠る死骸のほとんどは、後に捜索隊により回収され、遠く離れた故郷の国へと友人と共に帰っていった。
だが、その死骸の一部は波間に漂う中で、小魚につつかれ少しだけ欠けた。
小魚はしばらく辺りを泳ぎ回っていたが、ある真夜中に大きな魚の群れに迷い込み、そのままそのうちの一匹に食われた。
小魚を食った魚はそのまま泳ぎ回って暮らしていたが、ある日いつもより少し深い場所へと進んだ時に、通りすがりの鮫に食われた。
魚を食らった鮫はそのまま、海の底へと潜っていく。遠くへ、もっと遠くへと進んでいく。
目的地まで、あと少し。
薄暗くて、じめじめしている。
視界の向こうにある壁はぬるりとしており、時々生き物が脈打つように動いていた。
蠢く壁をぼんやりと眺めながら、気が付いたばかりのイールニール三十八号は、覚醒しない思考で記憶を辿り始める。
ここは、どこだっただろうか。
辺りを見回すため身体を動かそうとして、三十八号は自分の身体のあちこちに衝撃が走ったのを感じた。
二、三拍ほどしてそれが『痛み』だと気が付いた途端、遅れて覚醒した思考がこれまでの出来事に追い付くようにあらゆる記憶を思い返す。
――――そうだ。
――――二本足に、宿主が。
――――仲間を助けようと。
――――火炙りだ。
――――仲間たちは。
――――熱い。熱い。
――――捕虜にされた。
――――殺されて、胴を焼かれた。
パチリパチリパチリと信号が三十八号の周りで弾ける。だが、ぬめりけのある壁の中でそれに反応する者はどこにもいなかった。
身体を見下ろすと、身に付けていた装備もひどく損傷していることに気が付いた。せっかくの試作品が、もう駄目になってしまっている。
そのことに落ち込むよりも前に、イール・ニールの頭上にひらめきの信号が踊った。
――――耐熱機能で、助かったのか。
海底火山に行くには足りないと言われていただけの、試作品のおまけの機能だ。損傷は激しく装備自体もぼろぼろだが、お陰であのひどい熱から、辛うじて生き延びることが出来ている。
焼かれた胴体ではなく、頭のほうに逃げた九十号の安否が気になる。今回の調査隊で耐熱機能のある装備を持ち出したのはイール・ニール三十八号だけだ。宿主の頭は焼かれなかっただろうか。先ほどから信号を飛ばしているのだが、どこからも反応が返ってこない。
痛む身体を抑えつつ、改めて周りを見回す。生ぬるい温度に脈打つ壁は、よく見ると何か液体に覆われているようだった。思考が覚醒した今では、ここがどこだかはっきりとわかる。
二本足の体内だ。
自分たちを宿主ごと大量に捕らえ、火炙りにして食っていたあの生き物たちの中にいるのだ。
二本足たちはどういう訳か、彼らが「ウナギ」と呼んでいた宿主たちに執着しているようだった。あれだけの数を捕らえては食うだけでは飽き足らず、食事前にわざわざ死体を並べて火炙りにまでしていたのだ。彼らと宿主の間に何があったかは分からないが、宿主を少しずつ、時間をかけて滅ぼすつもりなのだろう。
三十八号は二本足の体内を進む。二本足の体内は雑音が多くてうるさかった。
――――今の宿主は、恐らくもう駄目だ。乗り物を変えた方が良い。このままでは危険すぎる。
入り巡ったやはり生暖かい管を辿り、体内の上の方へと昇りながら、イール・ニールは一体きりで思考を巡らせる。
二本足が宿主たちを捕らえて火炙りにしているのであれば、三十八号たちより以前に捕らえられた九十一号や二号、六十八号はもう焼け死んでいる可能性が高いだろう。基地に長い間戻って来なかった仲間たちも、そのほとんどの原因に二本足が関わっているはずだ。
耐熱装備がダメージを負うほどの熱を、毎度浴びて生き残るのは難しい。試作品の性能を上げて数を増やすという手もあるが、何しろ装備には限りがある。使い捨てのようには使えないものだ。
それに、仮に火炙りにされず解放される方だったとしても、中幼体の頃に捕らえられてしまえば、その後の調査が全く出来ない。それでは何のためにこの星に調査に来たのか、わからなくなってしまう。
ひときわ太い管をそのまま辿ると、やがて大きくてぶよぶよとした、太い皺だらけの塊が置かれた場所の入り口へと辿り着いた。
長年の調査により、この星の生き物の構造はある程度は解析されている。イール・ニールは二本足の動きの中枢を担う塊の中へとそのまま進むと、ひとつひとつの個所を丁寧に確かめながら、塊に向かって指令を出し始めた。
――――遠くへ。
何としてでも基地に戻り、仲間たちにこのことを伝えなければならない。
――――遠くへ。遠くの海へ。
耐熱機能で生き残れたのは、備品担当だった自分しかいないのだ。このまま同じ宿主に乗り続けることの危険を伝えられなければ、自分たちは宿主共々二本足に食い尽くされて終わってしまう。
――――早く、一刻も早く。遠くへ。
遠くの海へと帰らなければならないと、イール・ニールは繰り返し二本足に向かって指令を出し続ける。
イール・ニールが指令を出す中、ぼんやりと停止していた宿主に、同種の二本足が二匹、近付いてきた。
「大丈夫、吉田。具合でも悪い?」
何と言っているのかイール・ニールには分からないが、何も知らぬ宿主は相手ににっこり笑って大丈夫だと返す。
「俺のことはいいから。それより九月の行先、色々調べてくれてありがとう」
「いいえいいえ、せっかく皆で久々に行く旅行だもんね。チラシや旅行サイト見るのも楽しかったし」
二本足のうちの一匹が、平たい板の束を取り出し宿主の前へと広げてみせた。
「どこか行きたいところある? 私が行きたいところばっかりだから、皆に選んでもらって大丈夫なんだけど……」
鮫からイカへと乗り移った三十八号は、一時的な宿主に行き先の指示を出す。
一刻も早く仲間の元へ戻らなければならない。二本足の生き物に宿主ごと食われてしまってから、ずいぶんと時間をかけてしまった。
全く以て、二本足は宿主に適さない生き物だった。二つの棲み処を何往復もするだけで、違う場所に行くにも一苦労。おまけに一個体では長距離を移動するのには向いておらず、調査向きとはとても言えない。今回だってようやくつかんだチャンスだった。
底へ、もっと底へと海を潜りながら、イール・ニール三十八号はこれまで戻って来なかった仲間たちのことや、死んでしまった六十一号のことを思い出し、そして備品の持ち出しのリストを思い出す。
調査期間の序盤から、ずいぶんと仲間を失ってしまった。
しばらくは慎重に動かざるを得ないだろう。次はもっと海底の方にいる生き物を宿主にした方が良いかもしれない。
――――二十九号は、残念がるだろうな。
今の宿主を最も気に入っていたのは、宿主の乗り換え補助を担当している二十九号だった。調査で乗っているうちにすっかり愛着の沸いたらしいあの個体は、きっと二本足が宿主たちにした仕打ちにもきっと怒るだろう。
早く戻って、海底の仲間たちにこのことを伝えなければならない。
ようやく見えてきた基地の方へと下りながら、イール・ニールは海底に向かって帰還を知らせる大きな信号を放った。
<参考文献>
『世界で一番詳しいウナギの話』(塚本勝巳,2012)
『うなドン 南の楽園にょろり旅』(青山潤,2013)
文字数:18237