すべての愛しいイナリたち

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梗 概

すべての愛しいイナリたち

移民の惑星・ヒタチⅡの人口は2万人ほど。二十歳の青年ケントは移民三世だ。地盤が固いこの惑星は中々開拓が進まない。それでもなんとか暮らしていけるのは人間と共生する「イナリ」と呼ばれる生物のおかげだ。

イナリは体長約1m、狐とも少女ともつかぬ半獣半人の姿をしている。深く穴を掘り地中の鉱石を食すためイナリのいる土地では良質な土が労せず手に入る。単純な使役が可能な知性も備えているため、人間社会の中にもイナリたちの姿があった。

ケントの祖父によれば、最初のイナリは一匹だけでこの星に来たという。入植から数年後、見慣れぬ移送用ポッドが漂着した。移民たちはこの最初のイナリを無害とみて放置していたが、ある年、食糧難で追い詰められた誰かがイナリを食べてしまった。すると翌日、見覚えのあるポッドが2基到着していた。中にはイナリ。餓えた移民たちはこれも食べてしまった。すると次はポッドが4基。2匹までは変化はなく、3匹目がいなくなると8基のポッドがやってきた。

つまり、惑星に到着したイナリの半数以上が居なくなると倍量のイナリが到着するのだ。16,32,64,128……イナリは生殖しなかったが病や老衰によって死ぬこともあり、定期的にその数は半数を割っては倍化した。最後の到着はケントが生まれた歳、65,536匹が押し寄せて大混乱になったという。荒れ地で自生できるとはいえ、多すぎるイナリによる「獣害」が発生したためだ。その対処で開拓が10年遅れたと言われている。
人々は次のイナリ到来にはとても耐えられないと判断し、個体数をコントロールするためイナリ養殖の研究が始まった。イナリは人の手を借りることで単為生殖が可能だった。ケントはイナリの生殖と養育の担当だった。厳密な個体管理が始まり、自然減した数だけ養殖した個体を荒れ地に放つ。やがて個体数が収束し32,768体となった翌日、新しいイナリの誕生と同時に母体となっていた一匹のイナリが寿命を迎えた。数は合うはずだった。

しかしその日人々はは131,072基のポッドの飛来を検知した。個体数管理は失敗したのだ。
ケントだのせいだった。今朝方死んだイナリと密かに心を通じ合わせていたケントは、自身の遺伝子を仔イナリに混入した。それによってイナリの個体数が0.5不足したのだ。
イナリの正体は侵略的群生生物の一種で、母体は遠い惑星にいた。倍々で個体が送り込まれるのは彼女らがその星を占有するのに必要な数を探り当てるためだった。ケントを愛した一匹の個体がそれを教えてくれた。人口2万の星に131,072のイナリがやってくる。群体であるイナリたちはゆるやかな共通意識を有している。彼女たち一匹一匹の中に、ケントが愛したイナリがいる。彼はなんとかして自分が生きているうちに262,144匹の新しいイナリにも会いたいと思う。すべての愛しいイナリたちに、彼が愛したイナリの思い出話をするために。

文字数:1200

内容に関するアピール

「増えていく」方の話を選びました。

倍々で数が増えていく時、最初は少しずつなのにあっという間に手に負えないくらい大きな数字になることに、ほのかな恐怖を感じるからです。その感覚をお話に落とし込みたくて「うつろ舟」の逸話と五穀豊穣のお稲荷さんをモチーフにして掛け合わせました。

この話では一人の人間が元凶になって数の管理に失敗しますが、元々人間は大きな数字を扱うことに向いていないような気がします。数字を感覚で取り扱って間違えたり、巨大な数に圧倒されて無力を噛みしめるしかない人間のありようを書けたらと思います。

文字数:252

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すべての愛しいイナリたち

じいさんは故郷の海が好きだと言っていた。

ケントの祖父がこのヒタチⅢに移住したのはちょうど今の彼と同じ二十歳の時で、故郷を離れる日に見たそれが彼にとっては結局最後の景色になった。開拓移民の星・ヒタチⅢで海と呼ばれるのは地表から何キロも深く断崖を成している巨大なクレーター痕だけだ。それは本当の海じゃない、というのが口癖の祖父からは「本物」を模した思い出のホログラムを見せてもらったこともあった。しかし地表の低いところに溜まった大量の水が規則的に陸地に寄せては返すその光景は、ケントの想像力を幾分超えるものだった。だから彼は今でも祖父の言う本当の海がどんなものかは分からない。

それでもヒタチⅢにある海岸線――クレーター痕の境界――だってそんなに捨てたものではないと彼は思っている。研究所での勤務に息が詰まったときには、区外調査の名目でケントは一人で部署のローバーを借りてここに来ることにしていた。

この小さな星では、祖父が見せてくれたあの海のように渡り鳥が飛ぶこともないが、それでも黒々とした窪地の向こう側に星がきらめいているのは悪くない光景だ。それに、鳥の代わりにここにはイナリがいる。海岸線沿いに目をやれば、そこにはぽつぽつとイナリが掘り返した穴がある。じっと観察していれば、それほど待つことなくその穴の主を見ることもできるだろう。イナリは体長一メートルほどの二足歩行の生き物で、シルエットだけなら少女のようにも見える。それでも人間と見間違えることがないのは頭の上にピンと立った耳と小麦色の短い体毛のためだ。キツネに似ているから「イナリ」と呼び名がついたと言われている。穴を掘るのは、土の中に埋まっている鉱石を探し出すためだ。人間と全く違う代謝の仕組みを持つイナリは、土や鉱石を食べて生きている。

ケントが目を凝らしてイナリの姿を探していると、ローバーに備え付けられた通信機が着信音を鳴らした。

《ケント、どこにいる。会議が始まっているんだが》

同期で入所した同僚シロウの声だ。

「今日は区外調査に出た」

《サボりじゃねえか。欠席の連絡くらい入れろ》

「忘れてた、ごめん」

 

チッと聞こえよがしな舌打ちと共に通信が切れた。同期の間柄なので、シロウが本気で気を悪くしているわけではないことは知っている。むしろ会議主催者の主任にはうまく取りなしてくれるだろう。シロウには借りができてしまった。しかし会議の時間になったということは、今は他に話しかけてくる所員もいないということだ。ケントは通信機のチャネルを公共放送の受信に切り替えて、音楽を流す。視線をまた海岸線の方に戻すと、無意識にため息が出た。開拓が中々進まないこの星で、ただ一つの研究所に所属できるのは、かなり恵まれた事だと自覚はしている。研究職は自分の天職だとも思う。それでも時々、どうしようもなく嫌気がさすのはこの星が小さすぎるせいだ。人口もすべて数え合わせても二万人ほどしかいないこの星では、彼が本当の意味で心を開いて話ができる相手は今のところいない。特に、彼の一番の理解者だった祖父がこの世を去ってからはそう感じることが多くなった。ローバーの質の悪いスピーカーから、子ども向けの歌唱曲が流れてくる。

 

イナリはどこからやってきた

遠くの星から やってきた

はじめはいっぴき 次からにひき……

 

かなり遠くの方で、何かが動くのが見えた。イナリが穴から顔を出したのだ。ケントはその姿を捉えると、ローバーを低出力で動かしてなるべく音を立てないように近づいた。携帯していた端末を起動して、発信器の信号を探す。反応は……ない。となると目の前にいるのは発信器の着いていない個体だ。すなわち、研究所生まれではない《天然》イナリということになる。規則上、《天然》ものは研究所で保護して連れ帰ることが推奨されている。保護すれば、区外調査の名目も立つから好都合だ。さてどうするか。イナリの方もケントの姿に気がついてはいるが、基本的に人を恐れないので特に彼の存在を気に留めることもなく穴掘りを続けている。

「イナリ」

迷いながら、ケントはイナリに声をかけた。単純な言葉なら聞き分けられる程度の知能がイナリには備わっている。イナリは動きを止めてこっちを向いた。耳がピンといつも以上に立つ。

「イナリ、一緒に来ないか」

イナリはケントを見つめたままだ。ほどなくして、声をかけたイナリのすぐ近くにポコンと新しい穴ができて、地中から二匹目のイナリが顔を出した。続けて二匹。あっという間にケントの周りに四匹のイナリが集まった。これはしめたぞ、とケントは内心得意になる。

「一緒に来るならこっちへおいで」

4匹のイナリは身を寄せ合って、相談事をするかのように頭部を突き合わせた。そしてすぐに、2匹が穴の中へと戻って、残りの二匹がケントの方に近づいてくる。彼はその結果を予期していたので、二つ分の運搬ボックスを用意して中に2匹を収容できるようにすでに準備を整えていた。イナリの不思議な習性で、何かを決める時、彼女たちは必ず半分ずつに分かれるのだ。大人しくボックスに収まった2匹のイナリを積み込んでケントは研究所に戻ることにした。もう少し油を売っているつもりだったが、思いがけない出会いで気分はいくらかよくなっていた。海岸沿いから舗装のない道を辿っていくうちに、開拓中の農業エリアに入る。農地には海岸とは比べものにならないほど多くのイナリの姿があった。基本的にはどれも研究所生まれの《養殖》イナリだ。イナリの土を掘る習性を、固い地盤の掘り起こしに利用している。掘り起こしが終わった土地は柵で囲ってイナリが入れないようにして、それ以上土を荒らされないよう管理されていた。故郷の星々から遠く離れたヒタチⅢは開拓に必要な資源も乏しく、作物を食べずに土地の開墾の役に立つイナリの存在に大いに助けられている。今でもまだ食料事情は完全に充分とは言い切れないが、それでもここ十年は産出量が消費量を上回り、備蓄に回っていると聞く。農作業をしている人々が、ケントのローバーが通り過ぎるのを見ると、各々作業の手を止めてこちらを指さしているのが見えた。何かを見咎めるようなジェスチャーで、感心されていないのは明らかだった。ヒタチⅢの住人のほとんどが農業従事者だ。彼らはケントのような非生産労働に従事するものを養ってやっているという意識が強い。たとえ彼らが研究所生まれのイナリをもらい受けて、農地の拡大に役立てているとしても。ケントは進行方向だけを真っ直ぐ見て農地を抜けていった。

 

その先にある市街地に入り、さらにその市街地の中心にある研究所にたどり着くまでにはそれほど時間はかからない。入り口にある検疫のゲートをくぐる時に申請を出して、ケントは野生のイナリを保護する専用棟までローバー乗り付けた。イナリは平均して一匹15キロほどの重さがある。抱えて運ぶのは難しいので棟の前でローバーからボックスを降ろして、屋内用のカートに乗せ替えをする。作業の途中で彼の帰還を嗅ぎつけたのか、研究棟からシロウがわざわざやってきた。

「やっと戻ってきたか、ケント。お前の姿がないから、主任、ちょっと怒ってたぞ」

「野生のイナリを見つけたから連れて帰ってきた」

「またか。会議には出ないくせに、熱心なやつだな」

「海岸で見つけたんだ。あのあたりは《養殖》のリリースポイントも近いから、天然ものはいないと思ってた」

「確かに珍しいな。17波の個体かな」

「どうだろう」

「毛並みも良いし、多分そうだな」

居心地良さそうにボックスの中に納まっているイナリを覗き込みながらシロウが呟いた。

「一度くらい、15波のイナリを保護してみたいものだな」

「15波はさすがにもういないんじゃないか。50年以上前だろ。ちょっとサボって外出するくらいじゃ絶対見つからないって」

「SI-768がさみしそうに見えて、気になってるんだ」

ケントが口にしたのは研究棟で保護している個体の名前だ。

「そうかあ? 他の個体と仲良くやってるだろ」

「でもやっぱり、世代によって何かが違う気がするんだ。15波世代はもう彼女一匹しかここにいないから」

「そうはいっても今じゃもう16波だってめったに見かけないし、一番若い17波だって、ケント、お前と同い年だろ。15波は本当にあいつが最後かもしれないな」

シロウは同期入所だが実年齢は二つほど上で、時々彼のことを若輩扱いする。この後の予定がないのか、イナリをのせたキャリーを運ぶケントに並んで保護棟の中にまでついてくる。どうやら今日はもう熱心に働くつもりはないようだ。

「お前の祖父さんの世代はさ、《最初のイナリ》を見たことある人たちと一緒だったんだろ」

「ああ、子どもの頃はしつこいくらいよく話してくれたよ」

ケントは耳の奥で祖父の声を思い出す。

 

――最初のイナリはたった一匹でこの星に来たんだ。

 

それは百年前、さっきまでケントが見ていた海岸線に一艘の見慣れないポッドが着岸したのが始まりだったという。有機的な曲線をしたそれは、植物の種に似ていたと言う人もいる。もっとも、最初のイナリを運んだポッドと同じ形のものを実際に目にしたことのある者は後年もっと多くなるし、そのうちのいくつかはこの研究所にも展示がある。ともあれ、ヒタチⅢに入植した数百人ほどの人々は、最初のイナリの姿を見たはずだ。正体の分からないその生き物を無害と判断したのは、土や鉱石を食べるという人や家畜と全く異なった代謝の仕組みを持っていて、生存に必要なリソースが競合しないこと、適当な距離を保って人に危害を加える様子がないこと、何より人間と同じ二足歩行で動物のような体毛と耳を持つその姿に人が親しみを覚えたことが大きかっただろう。ヒタチⅢに持ち込まれることのなかったイヌやネコといった愛玩動物たちのかわりに、最初のイナリは人々に大層かわいがられたという。祖父はよく、年寄りからその時の話をしょっちゅう聞かされたと言っていた。祖父自身もまたその話をケントに何度もするので彼もよく覚えている。そして最初のイナリが姿を消した時にも、その到着の時と同じくらいの騒ぎになったという話も。

 

――最初のイナリは、誰かに食べられちまったんだとよ

 

ヒタチⅢの開発は最初から全くうまくいっていなかった。入植時に持ち込まれた移民プログラムでは、食糧計画はまともな土地が備わっていることを前提としたものになっていた。しかしこの星の土地は乾ききっている上に浅いところに強固な地盤があり、植物が育つのに必要な栄養をほとんど引き出すことができなかった。イナリが漂着したのは、入植時に持ち込まれた食料がまさに底を尽きた年だった。収穫できた作物の分配は厳密に行われ、カロリーの観点では平等が徹底されていたが、空腹に対してどれほど辛抱ができるか、堪え性というものは均等ではない。代謝の系統が全く違うイナリは、人が捕食したところで栄養にはならないはずなのだが、それでもその話がケントの代に至るまで語り継がれることになったということは、そう結論づけるだけの何かはあったのだろう。

しかし、人々が最初のイナリを失ったことを嘆く時間は、それほど長くなかったに違いない。

伝え聞くところによれば、海岸線に二艘の舟が着岸したのは最初のイナリが姿を消した数日ほど後だったという。その中には、やはり最初のイナリと同じ姿形をしたものが一匹ずつ。それを見た人々は驚いたのだろうか、喜んだのだろうか。その点について祖父は何も言っていなかった。人々の記憶は、その二匹のイナリもまた誰かの胃袋に納まったのか、彼女らが姿を消した次の日に、四艘の舟が来たということによってすべて上書かれてしまった。どこからともなくやってくるイナリのことを、よく知りたいと思う人間が現われたのもこの頃だ。後にこの惑星唯一の研究所を設立した初代所長が、その人である。

そこから先のことは研究所の沿革と共に、ケントもシロウも耳にタコができるほど何度も研修で聞かされていて、今やわざわざ話題にすることもない話だ。初代所長となった人物は、4匹のイナリを捕獲して、無情にもそのうちの二匹を解剖し、身体の仕組みを調べようとした。残りの二匹は飼育するつもりだったが、翌日にはまた海岸にポッドが漂着し、新しいイナリが8匹になった。

《ヒタチⅢの歴史 第5波――16匹のイナリの到着》

保護棟の廊下に貼られた研究所の沿革ポスターに並ぶ文字列には目もくれず、ケントとシロウは奥の部屋を目指した。

《ヒタチⅢの歴史 第6波――32匹のイナリの到着》

ヒタチⅢの住人は、2の冪乗だけは計算が得意だ。なにしろこの惑星の歴史と切り離せない。すなわちそれは、倍々になってはこの星に漂着する、イナリの頭数だった。

研究所の廊下は長い。そして沿革を綴るポスターもそれに負けじと大層長い。イナリは、その数が最後に到着したイナリの頭数の半分を下回ると、倍になって増えるのだった。

《第9波――256匹のイナリ》

《第12波――2048匹のイナリ》

《第15波――16384匹のイナリ》

ポスターの最後は第17波――65536匹のイナリ、だ。それが起きたのがケントの生まれた歳、20年前。人のに害のない生き物だとしても、人口の3倍以上の頭数が押し寄せた時には大変な事が起きたという。着岸した無数のポッドは海岸線からクレーターに投げ捨てることで廃棄ができたが、イナリたちは追い払おうとしてもどうしても人間の居住区の近くに暮らしたがる習性があった。数が少なければ役にも立つが、6万匹以上のイナリたちは農地を踏み荒らし、市街地の建物をむやみにかじった。やむなくイナリの頭数減らしが始まり、イナリの駆除と市街や農地の修復でヒタチの開拓は10年遅れたと言われている。しかし、数を減らせば減らしたで別の問題が立ち現れてくることとなった。

「ケントさん」

廊下に面した《療養室》から学生フェローが一人飛び出してきて、ケントに声をかけた。

「ケントさん、探しましたよ。ミミとミナ……じゃなくてETB-12433と13884が今朝方……」

「……だめだった?」

フェローの青年は答える代わりに肩を落とした。

「そうか、知らせてくれてありがとう。何も食べなくなるとだめだね。もっとイナリのことが分からないと、栄養補給も正しくしてやれない」

「もう少し何かできることが会ったんじゃないかと思うのですが……」

「いや、セキ君はよくやってくれてたと思うよ。それで、二匹とも、最後に何か言ってた?」

ケントのその言葉で、セキ君はわっと泣き崩れた。

「よくは聞き取れなかったんですが……二匹とも……僕の名前を呼んでくれたような気がするんです」

「君の耳にそう聞こえたんなら、きっとそうだったんじゃないかな」

ぐすぐすと鼻をすするフェローの様子に、キャリーのボックスから不安そうにイナリが二匹とも頭を出した。その頭をケントがそっと撫でてやると、警戒心で真っ直ぐに立った耳の角度がいくらか穏やかになる。

「報告書はお願いできるかな。処理の時は僕も立ち会うから」

「はい」

フェローが頷いて《療養室》に戻るのを見守ってから、ケントとシロウは移動を再開する。

「そんなに一匹一匹に感情移入してたら、身がもたんだろ。あとどれだけ残ってると思うんだ」

二人の様子を黙ってみていたシロウは、呆れ気味につぶやいた。

「《養殖》が25000と、野生の個体が推定約15000」

「そういうことを聞いてるんじゃないよ」

「シロウの生化学チームは生きたイナリと接触しないから、そう思うんだ。実際に世話をしたら、どれもみんな違う個体に思えるさ」

「それは俺たちが哺乳類だから起こす錯覚に過ぎないな。

 イナリは厳密かつ完全にすべてが同じ個体だ。個性なんてない。

 個別に蓄えた経験ですら、何らかの方法で共有しあっているのは分かってるんだ。よほど隔離して長期間飼育しない限りは行動も均質だ。だから呼び名もつけるなって規則があるだろ、本当は。あいつ、星外品の絵本の読み過ぎだぜ。イナリはイヌやネコとは違う」

シロウは肩をすくめた。

「かわいいナリをしているが、俺たちとは全く違う生き物だ。生き物なのかどうかも怪しい。こんな貧しい星で得体の知れない奴らと当たり前に生きているのがおかしいんだ」

「今日はやけにおしゃべりだな。何かあったのか」

「《御船祭》の日に発表できそうな研究成果がどこの部門にもないってこと以外は、別に」

「ははあ、今日の会議はそれで荒れてたんだな」

「今日は出なかったお前が正解だよ。ただでさえ普段から無駄金喰いだと風当たりが強いのに、ハレの日に何も有用性をアピールできないようじゃ、そのうち研究費も打ち切られるかもな。そうなったら《養殖》だってうまくいかなくなるっていうのに」

「《養殖》をやめるわけにはいかないだろ。

 18波は……13万匹も一度に来たら、今度こそ終わりだってみんな分かってるじゃないか」

 

イナリの寿命は不明だが、個体としての耐用年数はあるようだった。かつ、イナリは自力では繁殖しない。人為的な頭数減だけではなく、そうした時間経過による個体の自然減によっても次の波を招き続けてきた。17波のイナリが到着してからようやく、イナリの頭数を維持する《養殖》に人々は成功した。星外の生き物と言っても、体が細胞で構成されている以上はほとんど我々の親戚のようなものだ。人類はまだ本当の意味で異質な生命と対峙する機会を得てはいない。

細胞があればゲノムがある。ほとんど解読が進んでいないイナリのゲノムだが、偶然の発見によって特定のコードを編集すると生殖に近いことが再現できることは分かっていた。決められたとおりに手を加えた細胞を培養すると胚盤胞状の細胞が試験管の中でも形成される。それをイナリの体の組成に近い一メートル四方ほどの《肉の板》に植え付け、その板を培養液の入った水槽の中に鉢の巣箱のように入れておけば胚から新しい個体が誕生する。人々の暮らしを維持するためには、少なくとも自然減するイナリと同数の養殖イナリを算出する必要があった。ケントはイナリのゲノムの解読が専門だったが、培養から産出までの全工程の担当者の一人でもあった。人材は常に足りていないのだ。

ケントとシロウはイナリの飼育室に到着した。IDカードを差し込んで認証を済ませると、専用の受け取り口にイナリの入ったボックスを入れる。カタンと軽い音と共にボックスが向こう側に吸い込まれていった。手続きはそれで終わるはずだったが、受け入れ完了のサインを示すはずのモニタにパッと人の姿が映る。その姿にシロウが声を上げた。

「げっ、ミヤモ女史」

「ケント、シロウ、良いところに来たね」

ミヤモトは二人の先輩で、イナリの飼育全般の責任者だ。

「ちょっと立て込んでて、手を貸してほしいんだけど。お願いできるかな」

彼女の言葉はお願いなどではなく実質命令だ。二人とも是非もなく飼育室に入室する。二重になった扉の間で消毒液の噴霧を受け終わると、奥のドアが開く。中の空気は、麦を煎ったような不思議な香りが染みついている。イナリの匂いだ。

飼育室内にはそこそこの広さに仕切られた中部屋が何室もあり、各部屋でスタッフが数十匹のイナリの体温を測ったり、様子をチェックしたりと忙しそうにしている。どの部屋も高い位置に採光窓がいくつもしつらえられており、棟の他の部屋にくらべて明るい空間だ。イナリたちが呑気な様子で過ごしていることもあり、ほとんど人間の子ども用の保育所と変わらない。ミヤモトはケントが連れてきた二匹のイナリの体を拭いてやっているところだった。

「二匹とも健康だ。ケント、よく見つけたね」

「それで、何を手伝えばいいんでしょう」

「《放流》予定の子たちに発信器をつけてほしい。それで、今日中にリリースするからその地点まで連れて行って。20匹」

「今日中? 急ですね」

「計画性がなくて困るよ。ほら。《祭り》が近いでしょ。それまでになるべく多く、付近にイナリを定着させておきたいんだって」

「どうしてまた。イナリは関係ないでしょう」

《祭り》というのは彼らの初代の入植者が持ち込んだ故郷の伝統だ。当然、プログラムは人類がイナリと出会うよりももっと昔から決まっている。ケントの祖父が言うところの「海」に祈りを捧げる祭礼が、この星の数少ない市民イベントとして今も人々に愛されている。

「撮影するらしいよ。移住希望者を募るために。で、せっかくだからイナリとの共存を特色のひとつとして売り出したいみたい」

「そんな呑気な……。共存できているのかどうかだって、あやしいのに」

シロウが眉間にシワを寄せて、低い声で抗議した。

「私もそんなに急いでリリースするのは反対。最近、市外での頭数減がちょっと加速してるから、調査してからにしてほしいんだよね」

「何か要因が?」

「分からない。寿命を迎える個体が多いのかもしれないし、局所的に疫病が発生している可能性も考えられなくはない。あとは……誰かが密猟しているか」

「密猟? 似ても焼いても食えないこいつらを?

 ケントみたいなヤツが他にいるなら、愛玩用に何匹か盗みそうだけど」

「変なこと言うなよ、シロウ」

「栄養にならないだけで、食べられるよ、イナリは。実際、まあまあ美味い」

「……食べたんですか」

「余った検体をちょっとばかり炙って……ね。

 譲ってくれたのはシロウのとこのチームだったんだけど?」

「俺は知りませんよ。完全に取り扱い違反だ」

「まあそんなわけで、頼むよ。運搬用のカーゴ車は棟の前に回しておくから。よろしく」

 

***

「シロウまでついてくることなかったのに」

ケントはミヤモトに指定された地点をマップで確認した。市街地から海岸線を抜けて、さらに西の方に走らないといけない。ずいぶん簡単に頼まれたが結構な距離だ。放流予定のイナリを20匹乗せたカーゴ車の助手席で、シロウは運転をケントに任せきりにして窓の外の風景を眺めていた。

「俺もたまには「外回り」したくなったのさ。何か新しい研究のネタ探しになるかもしれないしな」

言いながら、シロウは座席越しにカーゴの荷台に載せられたイナリたちの方を振り返る。

「なあ、イナリよ。お前たちは何者なんだ」

半ば真面目に、半ば冗談交じりな調子でシロウはイナリたちに声をかける。ケージの中からこちらを見るイナリたちの目には好奇心がたたえられている用にも見える。彼の声に応えるように、キュウキュウとイナリたちは鳴き声を立てる。はじめは各々好き勝手に出していた声が、だんだんそろっていく。

 

「「「シロウ」」」

 

「えっ!?」

イナリたちの口から意味のある言葉が出てきて、シロウはぎょっとする。

「今……呼んだよな、俺の名前」

「呼んだよ。イナリたちは言葉が分かるんだから」

「そうだけど……俺は名前なんか教えてないぞ」

「聞いてたんだよ、僕たちの会話を。イナリは、一般に理解されているよりずっと賢いんだ」

「覚えられるのは簡単な言葉だけのはずで、人間同士の会話の中から人の名前を聞き分けられるなんて、知らないぞ」

「イナリと接していたら分かるよ」

「そんな話、聞いたことがない」

「研究室で細胞ばかり見ているからだよ、シロウも、主任も」

「しかしますます気味が悪いな。一体どこから来て、何が目的なんだ、こいつらは」

「僕たちみたいに、この星に入植しようとしてるんじゃないのかな。イナリは群れになると、半分ずつ別れて行動するだろ。ヒタチⅢに漂着する個体と同じ数だけ、どこかに控えがいるんだろう。それが、漂着したイナリの個体数に反応して次の群れを送ってくるんだ」

「大した仮説だな。それじゃあまるきり侵略生物じゃないか」

「そうだけど、僕たちにはイナリを排除するすべがない。数を減らせば倍になって戻ってくるんだから、共存するしかないんだ」

「共存どころか、頭数の維持に相当な貢献をさせられているだろ。つまり……俺たちが思っている以上に、こいつらは種族としてうまくやってるってわけか」

「そう考えても良いかもしれない。でも僕はそんなイナリが好きだよ。ずっと合理性だけを追い求めて進歩してきた人間のやり方に比べると、あまりに曖昧で大雑把で大胆な生存戦略だ。その力強さに、どういうわけか惹かれるんだ……」

 

海岸線が見えてきた。今日ケントがイナリを見つけた地点をさらに越えて、虚ろな海沿いを半周するように走る。所々に《御船祭》のための準備に掛かっている人々の姿が見えた。祭りの当日はこの海岸沿いを、かつての本物の「海」を渡るための舟を模したものが何キロも人の手によって運ばれることになっていた。その舟を曳くための木枠がせっせと人々の手によって敷き詰められていく。ケントたちの世代をはじめ、本来の舟の用途を知らない人間ばかりになっても、この祭りは愛され続けている。貧しい移民の星の人々にとっては、年に一度のほとんど唯一の楽しみでもあり、彼らの故郷、本当の海のあったヒタチの土地に思いをはせる数少ない機会になっている。

「もう少しで到着する」

祭りの準備をする人々の姿が遠ざかっていき、広大な岩場の姿が見えてくる。巨大な岩石が無数に転がるこの地帯は、いわばイナリにとっての森のようなものだ。

車を止めて荷下ろしをする。ケージの扉を開けて、イナリに外に出るように促した。研究所育ちのイナリたちは物珍しそうにあたりを見回している。耳元には豆つぶ大の発信器が取り付けられている。イナリの体温で駆動するようにできており、個体の頭数の計測する役目を持っているものだ。

「おいで、イナリ。もう少し岩場の奥の方に行って、先住の群れを見つけよう。先輩たちから知識をもらって、ここで暮らしていくんだ」

ケントの言葉を理解したのかどうか分からないが、ケージから出てきたイナリたちはキュウキュウ音を立てながらケントの後に続く。

「なんかお前、手慣れてるな」

「ミヤモトさんにはよくお使いを頼まれてたからね」

「研究費が打ち切られても、ケントならイナリの飼育員くらいならすぐ務まりそうだな。お前今日会議にいなかったけど、専門の方は進捗どうなんだ。イナリのゲノムの解読。」

「……みんなと同じだよ。発表できる成果なんてない」

ケントは視線を足下に落として答えた。

「それもそうか。お前のところは、こっち10年新しい発見がないので有名だもんな」

「だからメンバーがゲノムの加工と《養殖》の工程も兼任することでなんとか廃室を免れてる」

「イナリのゲノムから、繁殖のための細胞の増殖と分化を許さない部分のコードが見つかったのが30年前、それを切り落としたゲノムからイナリを培養できるようになったのが10年前、だっけか。何か新しい発見ができたらお前、それこそ半永久的に廊下のポスターに名前が残るよ。お前のじいさんみたいに」

「嫌だな、僕はそういうのはごめんだ」

そう言いながら、ケントは研究室の廊下に貼り出されたポスターに映る、30年前の祖父の姿を思い出した。まだ髪が黒い時代の祖父の姿は、ケントの知っている祖父とは別人のように思えて、あまり親しみが湧かなかった。

その時ふと岩場の陰で何かが動いたような気がして、ケントはそちらに目を向ける。イナリにしては大きさがあった。おそらくは――人影。

「シロウ、見えたか」

小声でシロウに呼びかけた。シロウの方は何も気付いていないようだった。ケントは一人で走り出す。

「ケント!どうした?」

視界を遮る岩山の裏側に回り込むと、数人の若い男女の姿があった

「何をしている!」

彼らの手にはボウガンのようなものが握られており、足下にはそれで狩ったらしいイナリが数匹、積み上げられていた。ケントの姿を見ると、そのうちの誰かがチッと舌打ちをした。

「……イナリの狩猟は禁止されているはずだ」

「なんだよ、たくさんいるんだから数匹くらい」

「そういう問題じゃない!」

ケントを追ってシロウもやってきた。すぐに状況を理解して、市内の保安局に連絡を入れる。ケントは若者の集団とにらみ合っていた。

「イナリを狩って、どうするつもりだ」

「どうするって……こいつらは害獣だ。お前ら、研究所の人間だろ。イナリのために俺たちがどれだけ税を払ってるか知ってるのかよ」

「イナリは自然減する数の方が養殖数より多いんだぞ。これ以上頭数を減らしたら、何が起きるか分からんのか」

シロウが呆れたように口をはさんだ。

「数が減ったら、大量のイナリが飛来してくるなんて嘘っぱちだ。研究所の連中が広めたデタラメに決まってる。知ってるんだぞ、この星の周辺に生き物のいる惑星なんて他にないんだ。物理的に考えて不可能だ。お前たちはイナリの養殖を口実に、研究費で遊んでいるだけだろうが」

「やれやれ、うちの研究所も広報費をケチるからこんなことになる」

若者たちの言葉に、シロウは肩をすくめた。ケントはじっと黙ったままだ。やがて通報に応じた保安局の観測機が飛んでくる。

《どうされましたか》 機械の音声がその場にいる全員に問いかけた。

「イナリの不正狩猟だ。取り締まりを」

《観測した映像は記録されています。違反者は後日保安局に出頭を。応じない場合は過料を申し受けます》

事件性の低いケースと判断されたのか、観測機はそれだけ告げるとまた去って行った。若い男女のグループは、狩った獲物の山を腹いせに蹴散らしてから、ケントたちの前から姿を消した。

「何が違反だ! いずれ俺たちの方が正しかったと分かるはずだ!」

捨て台詞が岩場の間に反響して、それから何も聞こえなくなる。

「チッ、嫌なもん見ちまったな。あんな奴らがいるから、イナリの自然減が加速してるのか……。減った分は養殖で増やさなくちゃならないんだから、リソースを無駄遣いしてるのはあいつらの方なのに」

「どうして、こんなむごいことを」

ケントは狩られたイナリの状態を検分して、押し殺した声で呟いた。それらは単なる狩猟ではなく、手足を切られたり、何本も矢を打ち込まれたりと、明らかに遊び半分に狩られた痕跡があった。

「許せない」

「そうはいっても、イナリに愛護法はないから、どんなやり方をしても密猟以上の処罰はないからな……あいつらも多分罰金取られて終わりだ」

「シロウ、リリースした20匹は?」

「あ、いけね、放りっぱなしだ。多分車の近くにまだいるだろ」

「その方がいい。……こんなの、見せられない」

狩られたイナリは全部で七匹だった。できることなら埋めてやりたいが、岩場の地盤は固いのでそうもいかない。車の中にあったボックスに積み込んで、研究所に持ち帰ることにした。連れてきたイナリたちはまだケントたちにまとわりついて、その作業の一部始終を見守っていた。

「なあ、イナリは大体のことは理解できるんだろ。それなら隠さずに何が起きたか教えてやった方が、同じことが起きないようにイナリたちも警戒できていいんじゃないか」

「イナリには外敵を警戒する習性はないんだ。教えても無駄だ」

「呑気な生き物だ」

「人間が目の前で仲間を殺したって、おびえたりしないし、人間を憎みもしない。……だからこそ、そんなことしちゃいけないんだ。していいわけがない」

「しかし、そんなに無防備じゃ、どんどん数が減るわけだ。それに比べると、おれたちはよくできてるよな。何百万年もかけて生存競争してきたたまものなのかな」

「無害な生き物を意味もなくなぶって狩りをするのが、生存に必要なこととは思えない。……僕たちは出来損ないだよ」

「まあそう落ち込むなよ。とにかく研究所に戻ろう。ミヤモ女史に報告したら怒り狂うだろうな。俺はそれが一番気が重いよ」

 

もう日が傾きかけていた。ヒタチⅢは一日の周期が25時間ほどで、故郷とほとんど同じ一日を過ごすことができるのは移住の利点の一つとされていた。故郷のそれより少しだけ弱々しい光量のヒタチⅢの太陽はもう海岸線に半分ほど飲まれていた。放流したイナリたちに別れを告げて、ケントは重い足取りで研究所に帰還した。

 

***

翌朝、ケントの所属するチームは大忙しだった。培養槽で育成していた養殖イナリの《誕生》が当日を迎えたのだ。肉の板に植え付けたイナリの胚は、板上の栄養をすべて吸い取って自身の肉体に転用する。板の中身はほとんどなくなり、最終的には板を支えるために張り渡されたワイヤーだけが誕生前のイナリの体を木枠の中につなぎ止めている状態になる。遠目からなら、単純なプラモデルキットの部品の一つに見えるかもしれない。

「どういう状態になったらイナリとして「一匹」になるんだろうな」

ケントの先輩格の研究員が、水槽から出した木枠のワイヤーを外しながら何の気もなく呟いた。研究所生まれの養殖イナリはすべて発信器によって頭数を計測しているが、その体制が確立してからまだ次の「波」が訪れた事はない。どの時点をもってイナリの頭数が半数を割ったと判断すべきなのかは誰も分からなかった。

イナリは誕生の時点で成体と同じ大きさだ。というよりも、幼体から発達するという過程がないので仔イナリというものは存在しない。まだ培養液で濡れたままのイナリを一匹ずつ保温器に入れて《保育室》に送る。目覚めたらすぐに他の成体に混ざって、普通に暮らすことが可能だ。規定の日数を保育し終わった個体は、原則外部にリリースする。それが研究所の担うイナリの養殖業の流れだ。

その日は水槽三つ分、60体のイナリの《誕生》が行われた。こちらの作業だけで十人以上で一斉に取りかかる大仕事だった。きっと今ごろ保育室の方ではミヤモトがきりきり舞いをしていることだろう。朝から昼過ぎまでかかった作業が一段落して、ようやく休憩が取れるようになった。

「今回はどの個体も無事に《誕生》できたな。ケント、お前がゲノム編集した胚は具合がいい気がするよ。今回のもそうだったよな」

「そうでしょうか。手順通りにやってるだけですけど」

ケントは壁にもたれかかって果実の匂いの付いた湯を啜りながら培養槽の方を見た。数日後にまた同じ作業をする予定の水槽があと5つほどある。部屋の奥には研究員用の休憩スペースがあったが、今は取り払われて何もない空間になっていた。培養槽を増やす工事待ちだ。

「養殖もここ最近は大分成果が安定してきたから、もう少し産出量を増やせそうだ。残り個体の余裕があとどれくらいあるか、知ってるか」

「あまり正確には……まだ5000くらいは余裕があると聞いていた気がするんですが」

「それは去年の数値だな。今は2000に少し足りないくらいだ。野生の個体の概算が間違っていたら、実はもうほんの数百くらいしか余裕がないかもしれないとも言われている。急がないとまずいんだよ」

先輩のその言葉に、ケントはぱっと顔を上げた。

「どうしてそんなに急に…?」

言いながらも、昨日のならず者たちの顔を思い出す。でたらめな大義名分を持ち出して、遊び半分でイナリを狩っていた。17波の到達から長い時間が過ぎて、危機感のない連中が増えたのだ。

「しばらく、研究より養殖作業の方が忙しくなるかもな。ケント、お前にもしっかり働いてもらわないと」

「それはもちろん……」

ケントは控えめに頷きながら一人で作業室を出た。そのまま飼育棟の方へ足を運ぶ。入館して、何度となく足を運んだ部屋の前でIDをかざして入室する。

 

「元気にしていたかい」

部屋の中には10匹ほどのイナリがいたが、そのうちの一番大人しい個体にケントは話かけた。識別用のタグには「SI-768」とある。研究所内の《第五波》で保護された唯一の個体だ。

「けんと」

「よしよし、おいで」

ケントは座り込んで膝の上にそのイナリを載せる。ポケットからイナリ用の練り餌を取り出して与える。他の個体もそれに気がついて集まってくるので、平等に分け与えてやった。ミヤモトからこっそり分けてもらったものだ。オヤツをもらって心なしか上機嫌に見えるイナリの口の中から、手早く唾液を採取する。ここから培養のための細胞を取り出すのだ。ケントはいつも、この古い第五波の個体から細胞をもらうことにしていた。

個体ごとの知識や経験を均等に共有しあうイナリに個性はないとされているが、それでもケントはこの膝の上のイナリだけは特別に賢い気がしていた。実際、彼女だけは他のイナリより少し多く言葉を話せるようだった。ケントのことを最初に識別して名前を覚えてくれたのもこのイナリだ。その情報は他のイナリにも伝わっていくから、イナリは皆ケントのことを知っていることになる。伝えてくれたのはこの最初に出会ったイナリだ。

「ねえ、君たちは一体どこから来るんだろう。

 どうしてわざわざこんなところに。人間のいるところに来たんだろう。君たちの故郷の星はどこ?」

ケントの言葉に、イナリの答えはない。理解はしていても、イナリから明瞭な言葉を発することはほとんどない。

「もしかしたら星じゃなくて、舟に乗って旅でもしているのかな」

「ふね」

「やっぱりそうなのか? どこかに母船があって、少しずつ増えて、そのうちの半分は移住できる星を探しているのかな。君たちはきっと群体生物みたいなものなんだろうね。たくさん集まって、ひとつのイナリなんだ」

膝にのせたイナリは温かい。特定の個体を特別に感じてしまうのは、やはり彼自身が人間であるがゆえの錯覚なのだろうか。採取したサンプルにしっかりと封をして、ケントは立ち上がった。午後からはまたゲノムの編集作業だ。彼が手がけた培養個体は、今月産出した分も会わせれば累計で数百にも及ぶだろう。

「けんと」

「もう行くよ。長生きしてね、一番賢いイナリ」

彼女に名前をつけてやればよかったなとケントは思っていた。入所したばかりのころは、規則に従ってそういうことは慎んでいたが、今となってはつまらないことをしたと思っている。しかし今となっては、いきなり名前を与えるのも少し違う気がしていた。

「けんと」

「はいはい」

「ふね」

「うん、今日は舟の話をしたね」

「ふねがくるよ」

「え?」

「ふねがくるよ」

「舟が来るって……イナリの?」

「くるよ」

「……イナリ、今の話、内緒だよ」

「ないしょ」

「そう、誰にも言わなくていいからね」

「いわないよ」

「賢い子だね。それでいいんだ」

ケントは部屋から出て、研究室に戻った。同僚たちも在席していたが、彼はその日の作業が終わるまで、誰とも口をきかなかった。

 

***

祭りの日は、研究所も休みだ。最低限の作業者を残して、研究員たちも連れ立って海岸線の様子を見に来ていた。ケントもシロウとミヤモトと連れ立って、特別に設営されたメインステージからはかなり遠くの見物エリアに来ていた。双眼鏡を使わないと様子が分からないくらいに距離があるが、ステージ上の人々が叩く伝統的な太鼓の音は、かなり曖昧になりながらもしっかり届いていた。その音を聞いていると、実際には見たこともない故郷の風景が想像の中で喚起される。そしてその音色で心がまとまることで、同じ星に生きている移民としての一体感を覚えることができるのだ。

「みんなこういうのが好きだよね」

少し冷めた様子でミヤモトが呟いた。

「普段はみんな、好き勝手に暮らしてるくせに。こういうときだけ、団結力~なんていっちゃってさ」

「同じ帰属意識があった方が、まとまりがあって暮らしやすいじゃないですか。そういう意味で、こうした催し事は有用だと思いますよ」

ミヤモトとはまた別の意味でスレた調子でシロウが言った。そんなことを言いながら、彼自身はあまり祭りに興味がないようだ。

しばらくして、メインステージの方からどよめきが起きる。祭りの目玉でもある「御船」の登場だ。舟の上にはゆうに数十人の若者が乗り込んでいて、それを数百人の若者が地上から綱を引いて曳航するパフォーマンスが始まる。舟の上にも設えられた太鼓を叩き鳴らす若者たちの姿を眺めながら、ケントは先日の「イナリ狩り」の連中のことを思い出していた。もし、毎日でも「祭り」があれば彼らも退屈せずにむやみな殺生などせずに過ごしていただろうか。だとしたら、祭りのない時期の人間は、何のために生きているのだろうか。

祭りの歓声は時々吹き付ける突風になぶられるのか、波のように揺らぎながらケントたちの耳に届いた。その調子は、祖父に見せてもらったホログラムに組み込まれた音声にも似ていた。あの、寄せては返す海水が奏でる潮騒だ。目を閉じてみるとますます似ていると感じる。

絶え間なく沸き起こるその歓声が、一瞬にして不穏などよめきに塗り替えられて彼らのところに届く。驚いてケントは目を開けた。

 

「な、何だあれは!」

 

見れば、虚ろなクレーターの海の向こう側に黒々とした闇が広がり、それでいて陽光を受けてキラキラと輝いていた。何万という渡り鳥がこちらに向かってくるように、黒々とした物体が数え切れないほどこちらに向かって飛来してきている。

 

――ふねがくるよ

 

それが一体何なのか、人々はすぐに理解した。不安げなどよめきは、次第に悲鳴と怒号に移り変わっていった。

「どうして……まだ、まだ半数以上イナリは残っているはずだろ!」

ケントはシロウの心底狼狽えた声を初めて聞いた。

「今週だって200匹は保育器から出したのに……」

ミヤモトも呆然としている。

 

「僕だ」

 

ケントは突然笑い出した。シロウとミヤモトはぎょっとして彼のことを見た。

「イナリは、イナリじゃないとだめだったんだ」

「どういうこと」

「僕は人間も、イナリみたいになったらいいと思ってた。

 イナリみたいに、恐れたり、怒ったり、憎んだりせずに生きられる人間ができたらいいのにって」

「あんた、まさかイナリの培養用の細胞に……」

「そうです」

「……混ぜたんだね、人間のゲノムを」

「でも、生まれてくるのは完全に普通のイナリに見えていた。しかし実際は、ちゃんと取り込まれてたんだ。だから、養殖イナリの一部はイナリじゃなくなった。頭数に入らなかったんだ」

「馬鹿なことを……イナリは繁殖しないんだから、遺伝子を混ぜたところで一代限りだ。何の意味もないだろう」

ミヤモトもシロウも、ケントから数歩後ずさった。

ケントは二人のことなど気にせずに、恍惚として黒い空を眺めている。

「イナリが継承するのは遺伝子じゃなくて知識と経験だ。もしかしたらこの先、まがい物のイナリたちが人間らしさを本物のイナリたちに伝えてくれるかもしれない。もしかしたら、イナリたちも少しは人間を警戒するようになるかもしれないね。そうしたら、少なくともこの星のイナリは僕の手によって進化したことになるかもしれない。僕の痕跡はイナリの中に残るんだ。

 

――けんと

 

イナリの声を思い出す。イナリたちは彼の名前を知っている。それはこの先すべてのイナリたちに共有されていく知識の一部になるだろう。色褪せた研究所のポスターに写真が載るよりも、それは彼にとって栄誉なことだった。

 

今まで通りなら、あの黒々とした影は131072艘の舟のはずだ。その舟の中にイナリがいる。これから次々とこの海岸線に着岸し、そして彼の名前を知るであろう131072匹のイナリたち。

131072匹で足りなければ、今度は262144匹がやってくるだろう。この星がイナリのものになる日まで。ケントはその日が待ち遠しかった。できることなら立ち会いたい。そして、名前を呼んでもらうのだ。すべての愛しいイナリたちに。

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