その感情雨あめが降るまで

印刷

その感情雨あめが降るまで

1.

 青白い光の瞬きとほぼ同時に、空が墜落して燃え上がるように轟く雷の音が聞こえる。落雷点が近い。その巨大なエネルギーが試験会場をズンと揺らした。とめどない大粒の雨が窓ガラスをバチバチと鳴らして、表彰式の開始を告げるアナウンスも、勝者を称える科学技術庁長官のアナウンスもかき消してしまう。偉い人も雨にはかなわない。
 自然の力は強い。法則は普遍的で、何にも等しく作用する。
 あの子ならサラッとそう言うだろうな。神山愛流メルはそう思った。
 記念品として配られた〈All Japan Science Challenge 2035〉のロゴが刻まれたステッカーをラップトップに貼りながら、全国の高校生で最も科学分野に長けている者として表彰を受ける天村紗椰サヤを見ていた。物理、化学、生物学まで多分野に渡る試験でも、日頃の研究活動を発表するプレゼンテーションにおいても、二位以下にダブルスコアをつけての優勝だったが、すでに米中のトップ研究者と日夜議論して、Physical Reviewに単著論文を投稿する紗椰は何の名誉とも思っていないだろうな。
 壇上には賞状を受け取りながらも、目を少しだけ開いて口を結ぶ真顔のままの紗椰が立っている。
「もっと笑って、写真撮りますよ」
 カメラマンにそう言われても、紗椰は表情を変えない。普段通りだ。愛流と紗椰が二人で遊びに行って、紗椰のお気に入りのラデュレのマカロンを食べている時も楽しそうにはしない。朝起きてから、眠るまで、定点観測をするように同じ表情でいる。寝ている時、恐ろしい夢を見ている時も、怖そうな顔一つしない。熱を出すと顔を紅潮させたりは、するものの、それはただ、暑いという事実を機械的に表出しているに過ぎないように見えた。
「なんだよ。あいつ。嬉しくないのかよ」
「あの学校、親のいない奴らが集まって科学エリート教育受けてるから、ちょっとおかしいらしいよ」
 受け取ったトロフィーをだらしなく片手で持って、棒立ちで無表情のままの紗椰を見て、会場内にはそんなことを言う者もいた。圧倒的実力差を見せつけられた二位と三位の男の子が悔しそうにする状況にカメラマンは苦笑いをしながらシャッターを切った。
 写真撮影が終わり、ケータリングの食べ物が旧型の配膳ロボットによって運び込まれる。白い円筒形の外殻は中空で、物を乗せるためのトレイが三段備えつけられている。簡易的なカメラを利用した空間認識AIにより、ロボット同士や障害物を避けて通るが、万が一人とぶつかった時は、両手くらいの大きさのディスプレイに青いLEDで笑顔の形を作る。決して怒ることはない。
 彼らに組み込まれた笑いや悲しむ顔や声は、人のためにプログラムされた感情表現だ。決して、身体の中から表出するものじゃない。ロボットには持って生まれる感情がないのだから。喜びや悲しみに、身体が震えたりすることはない。そう作られていないから。
 新聞社や一般向け科学雑誌の記者からインタビューを紗椰が受ける間、愛流は手持ち無沙汰だった。所属する教育機関の〈未来の家〉からは愛流と紗椰のふたりだけが参加していたし、科学エリート教育の実験校として、〈未来の家〉は関心は集めていたが、奇異の目で見られてもいた。政治的な事情により加熱する報道のせいで。
「〈未来の家〉を代表してよくやってくれたよ。二人とも。国立科学院にダブルスコアとはね。出場の甲斐があった。国を代表する者として、これからも頑張ってくれ」
 肩パッドの入ったクラシックなストライプスーツに品よく身を包んだ〈未来の家〉の理事、東園寺とうえんじ崇季たかすえが愛流に声をかける。政財界にパイプを持つこの男は、孤児を集めて科学エリート教育を施すという〈未来の家〉を創始し、理事につき十年目を迎えていた。国立科学院へ予算を投じる政治家の一派と折り合いが悪く。愛流や紗椰といった、実際に学習する子供たち自体のことはそっちのけで、〈未来の家〉では問題のある情操教育が行われていると繰り返し報じられていた。東園寺は子供たちの父親かのように振る舞っていたが、子供たちとほとんど道具としてしか見ていなかったから、あながち間違ってもいなかった。
 丸メガネをかけた国立科学院の理事長がやってきて、険しい目で愛流を一瞥した。
「やあ、東園寺先生。今回はうちの完敗です。ダブルスコアですからね。ウチは感情的知性エモーショナル・インテリジェンスを育み、感情を読んで共感したり、自分の感情を適切に制御する知性なんかを大事にしていますから、科学分野では御校には完敗ですよ…」
 愛流が居心地の悪さを感じていると、帰り支度を済ませた紗椰が来て、手を引かれた。
「帰ろ。甘いものも、もうないから」
「あんた。いつも甘いもの食べてるよね。太らなくて羨ましい」
 二人で歩き出すと、部屋の出口付近で国立科学院の男の子に声をかけられる。神童と呼ばれ、中学受験でも常に全国トップだったプライドが傷ついたのか、紗椰に物理の議論をふっかけたが、開始してすぐに敵わないのが分かると、彼の言葉は短くなり、頬と鼻に薄く汗を描きながら苦い顔をした。
「ウチの理事長が言ってたけど、これからのリーダーは感情的知性が必要だって。お前ら、感情能力テストのスコア低いんだってな。感情的知性のないやつは、そのへんのロボットと同じで役に立たずのゴミらしから。そっちも頑張れよ」
 紗椰は眉毛ひとつ動かさず、苦笑いすることも、怒ることもなかった。むしろ、男の子に言い返し、胸ぐらをつかもうとする愛流の手を、紗椰が強く弾いて引き剥がした。
「あの男、ロボットはゴミみたいなこと言って、本当に腹が立った」
「甘いものも早く食べたいし、時間が勿体ないから行こう。天才ロボット少女さん」
 〈未来の家〉が注目され始めると。13歳の頃からロボット開発企業で長期インターンシップをする愛流も世間の興味を引いた。〈天才ロボット少女〉なんていう、本人がロボットとも取れるような名称で呼ばれていた。愛流は唇を曲げ、眉をキッとして、頭に血がのぼったままなのを自覚する。
「その呼び方。止めて。わたし、いつか。ロボットにも感情、持てるようにしてやる」
 愛流は幼い頃から、ロボットが好きだった。
 その感情は愛に似ていた。人よりも、ロボットの方に、愛を感じるようにも思っていた。ロボットの側からは何も返ってこないのを、不満にも思っていた。計算で設定した以上の感情を、ロボットは示さないから。
 孤児とは名ばかりで、実際には生まれてすぐに、親に棄てられたのを知っていた。
 だから、自分の力で作れるものが、自分のよりどころだった。
 何かの能力を誰かに欲してもらうことが、自分の生きる道だと思っていたから。
 そんな愛流にとって、紗椰のつぶやきは啓示に聞こえた。
「できるよ。ロボットだけじゃなくて、全ての物に。感情はただのエネルギーで、万物に等しく作用するはずだから」
 紗椰が言うのでなく、同級生の誰かが言ったのだったら、ただの冗談だと思って笑い飛ばすか、むしろ少し怒っただろう。発される表情や言葉尻をプログラムとして与えるのではなく、ロボットに感情を持たせることも、その意味についても、愛流は幼い頃から考えてきたのだから。安易な慰めはむしろ腹が立ってしまう。
 愛流が聞き返すまもなく、紗椰が続けた。
「感情は本質的に情報であり、情報は本質的にエネルギーである」
 独り言のようにそう言って、そのうちまとまったら話すね。と言って紗椰は黙った。言葉をかき消すほどの激しい雨が止んだ後、泥濘の中、大小の水たまりに夏至前の夕暮れの太陽が輝いていた。

 気づくといつも甘いものを口にしていて、部屋の冷蔵庫は上から下までコンビニのシュークリームや羊羹で一杯で、どんな写真にも無表情で映る。それが紗椰の特殊体質によるものだと愛流が初めて知ったのは、七月中頃に遊びに行った日のことだった。
 買いたい物があって一人先に恵比寿へ足を運んでいた愛流は、用事を終えると山手線に乗っていた。五反田、大崎を過ぎ、品川を通過し、待ち合わせ場所の駅が告げられる。次は、芝浜しばはま、芝浜。新東京モノレールはお乗り換えください。古典落語にちなんで名付けられた山手線の駅は、今では〈未来の家〉のあるシナガワ経済特区へのゲートウェイになっている。江戸府内の南の出入り口だった高輪大木戸周辺は、いまでは特区の境目になっている。
 特区内では様々な規制が緩和され、先進的なベンチャー企業が街中で試作品プロトタイプを試験することが許される。自動運転電気自動車や配送用ロボット、介護用ロボットの最新モデルが特区内をウロウロしている。バイオベンチャーも多く、医療ベンチャーも集結している。品川区東部、大井町駅より東側、シーサイドまで特区が広がっている。
 新東京モノレールは羽田空港を終点とし、諸外国との距離を近くしていた。特区ではビザ発給の条件も緩和され、新興企業に務めるホワイトカラーから港湾労働者、倉庫労働者まで、外国人住民も増えていた。
 改札を出ると、紗椰がバックパックを担いだ外国人に流暢な英語で道案内をしていた。自分だったら翻訳アプリを使うところなのに。
 どの分野でも、
 黒く素っ気ないティーシャツに包まれた細い上半身は、17歳の女性の身体にしては貧相過ぎると巷の男からは笑われそうだったし、化粧っ気のない顔は生気がなく、表情は今日も乏しかったけれど、そんな表層の、人間の見た目としての美しさは愛流にとってはどうでもいいことだった。
「エリオがあれに捕まってる。待たないと」
 紗椰が改札脇のセキュリティチェックコーナーを指差す。空港に配備されているものと同じ型のゲートが十台ほど並び、通る者が危険物を持っていないか検査する。2020年の東京五輪でテロ予告があり、それをきっかけに東京中に広まったセキュリティシステムだ。ラッシュの時間はどうするんだ。など、開発当初は反発も多かったが、今ではすっかり定着し、乗客はランダムに行われる検査を受けれいていた。
「二回に一回は検査されてるよ。全然ランダムじゃない。もう腹立てるのにも疲れてきた」
 エリオは浅黒い肌の中に浮かぶ、母親譲りのクリっとした目と、愛流よりも指一本分くらい高い鼻をフェイスシートで拭いて汗を拭う。岡崎エリオはブラジル人と日本人のハーフで、芝浜始発の新東京モノレールを四駅乗った勝島駅を降りてすぐ、かもめ橋で京浜運河を渡ったところにある八潮団地に住んでいる。
 中学生のころ倉庫会社を経営していた父親を幼くして亡くし、暮らせるだけの金はあるものの、そんなに裕福ではなかった。
「あのゲート、エリオには窮屈そう」
 紗椰が言うと、それはそれで、嫌なんだけど。とエリオが返す。地域の子供たちもその親も〈未来の家〉と関わるのを避けていたけれど、エリオは昔からふたりと仲が良かった。疎外される者同士の妙な親近感がそうさせていたのかもしれなかった。〈芝浜グランドタワー〉のエレベーター内の鏡に三人が並ぶのを見て、愛流はモバイルの電波強度に似ていると思った。180センチ近いエリオ、170センチの自分、それから160センチの紗椰が並ぶ。
 十七階にはスニーカー専門店があって、古今東西で発売されたモデルがショーケースに並んでいる。十万円を越えるコラボ物のエアジョーダンが年代順に並ぶ中、最も高価なものは二千万円近い値がついており、鍵付きのガラスケースに入れられ、脇に控えた犬型の警備ロボットが、誰かが近づくとすぐに顔を向けて追尾していた。
 ガラスケースの中身は、大昔に公開された映画に出てくる未来の靴で、履くと靴紐が自動で閉まるスニーカー、そのオリジナルだった。エリオは食い入るように見ていたが、顔なじみの店員から、買い手がついて翌週引き取られると聞いて悲しい顔をした。自分がいつか手に入れるまで、ここに存在していてほしかった。
 隣の店の試着室で愛流が紗椰のワンピースを選んでいると、不意に紗椰がよろめいて、鏡に手をついてうなだれた。手に触れると、触る方もめまいを感じるくらいの熱だった。エリオと愛流は紗椰に肩を貸し、自動運転タクシーを呼ぶ。紗椰は品川特区の先進医療センターに向かうよう指示をした。
 体温計は39.5度を叩き出していた。紗椰は顔を紅潮させこそすれど、苦しそうな顔はしなかった。愛流は風邪をこじらせただけだと思ったが、血液検査やMRIなど、物々しい検査が始まり不安になった。エリオは家の手伝いがあると言って先に帰宅して、夕暮れの院内に愛流は一人取り残された。
しばらくして診察室によばれると、ベッドに座った紗椰と、担当医の櫻井の姿があった。
「胃と肺が炎症を起こしているようです。あなた、ルームメイトの方?天村さん、あなた、自分の体質を話したことある?」
 紗椰は首を振る。必要ないと思ったから。極めて事務的に言った。話してよいかと聞くと、今度は首を縦に振った。
「天村さんは、特別な脳と神経網を持っています」
 愛流は頷いた。紗椰の知的能力を支える脳や神経が特別なのは疑いの余地もない。
「紗椰が特別なのはよく知っています。すごく知的で、わたしなんか多分100年努力しても、追いつけない」
「天村さんは、感情機能が欠落しています」
「え?」
 驚いて、胸と喉が強張り、頭から血が引いた。妙に冷静になった頭で紗椰を一瞥すると、紗椰は表情を変えない。
「詳しく言うと、末梢神経系のうち自律神経系が正常に働かないのです。肌の感覚や内臓の感覚が正常に中枢神経、つまり脳にフィードバックされないのです。身体と神経でボタンの掛け違いが起きていると言いますか。肌に限ると、熱や発汗、鳥肌などが分からないのです」
「だから、今日もこんなに熱が高いのに、平気そうにしてたの?」
「そうだね。普段は、体温計を持ち歩いて数字で体温の高い低いが分かるようにしてるけど、今日は忘れた」
 確かに昔から、明らかに体調が悪そうなのに平気な顔をしていることがあったな。
「でも、感情機能の欠落とどういう関係が?」
 詳しい話は、天村さんのが詳しいかもしれませんけど。そう前置いて、櫻井は続ける。
「内臓感覚が情動となって、感情は生まれるのです。天敵の蛇を見て怖いから汗を掻き震える。のではなく、視覚が蛇を捉えた結果、意識的、無意識的に関わらず、身体に変化が生じ、それが驚きや恐怖になるのです。血圧が上がり、脚の筋肉が緊張し、肺胞がしぼむ。全身に張り巡らされた神経網のセンサー網がそれを捉えて、内臓の状態を推定し、感情が生まれる。身体が先で、心はついてくるのです。心臓がドキドキしていても、観測するセンサーが壊れていたら、落ち着いていると感じるでしょう。自律神経系と身体がかけちがいを起こしているとは、そういう状態なのです」
「だから、ドキドキするとか、胸が痛むとか、私は言葉でしか理解してないの」
 首筋から胸の当たりまでが震えて、胸がこわばり、愛流は紗椰を抱きしめた。これまで知らなかった。なんて大変な。悲しく、そして愛おしかった。発熱の残滓がベタついた汗と混ざって肌に触れた。抱きしめたこの感じは、紗椰にはどう伝わっているだろうか。
 迎えに来た看護師に連れられて入院棟に向かう紗椰を見送った。愛流は桜井に聞いた。
「さっき触れ合った感覚とかは、紗椰には伝わっているんですか?」
「ああ、それなら多分。筋肉の感覚はありますから。彼女の場合、センサーの異常で、内臓の調整や制御は効きづらいですから、炎症による体温の変化とか、血行障害であるとかは注意をしてください。ルームメイトには、伝えるように昔言ったんですけどね」
「聞いてませんでした。わたし、頼りなくみえたのかな」
「いえ、彼女の場合、単純に必要ないと思ったんでしょう。通常ならもっと内臓に異常がでてもおかしくないのですが、彼女の場合、脳を中心とする中枢神経が計算によりそれを補っています。感情機能で行うべき推論を、計算能力で補っているのです。休むことなく、ずっと考え続てる感じでしょうか。そもそも、内臓感覚がないっていうのは、内受容感覚がないってことなので、統合失調症の症例にあるような、させられ体験、つまり、他の誰かが自分を操作している。といった感覚を覚えている可能性もあります。そういうと、宇宙人にコントロールされたみたいに聞こますけど。実際にある症例です。たた、彼女の場合はかなり特殊ですから、これが当てはまるかはわかりません」
 〈未来の家〉の自室に戻り、冷蔵庫を開ける。野菜室以外にはエクレアとシュークリーム、それからプリンが隙間なく、文字通り充填されていた。内臓感覚を補うために、休むことなく考え続けている。だから紗椰は、常に甘いものを口にしているのだ。
 恵比寿で買ってきたケーキを開けると、暑さでドロドロに溶けてしまっていた。ふたりで食べようと思っていたのに。
 愛流は櫻井の名前で検索をし、彼の発表する論文や講演に紗椰の症状についての研究成果が含まれるのを見つけ、幾つかを読んだあと、講演の動画を垂れ流しにした。内臓感覚がなく、感情がない。しかし、生活するには問題がない。そこら辺のロボットと同じですからね。対峙したときよりも興奮し嬉しそうな櫻井の声が耳を突く。病室の目つきを見るに、紗椰のことは興味深い研究対象としてしか見ていないのだろう。試作中の小型犬ロボットの脚の関節に擬似神経線維を編み込む手を、愛流は強く握った。ロボットと一緒だというなら、自分がその身体と神経の掛け違いを、編み変えてあげればいいのに。

 小型犬ロボットが居室を走り回る。股関節周りのスムース化が完了していないため、まだ不安定なそれは、よたよたと歩いて何度も床に積まれた本を崩した。崩れる度に拾い上げ、愛流は本棚に戻すが、いつの間にか床に積まれている。紗椰よく、床に積むほうが効率が良いと言った。本はどれも、物理の学術書で、電磁気学、熱力学から相対性理論まで、世界の著名な科学者が書いた本ばかりだった。丁度手に取った情報物理学の本には『2028年7月4日 天村紗椰さんへ』と著者のサインが書かれている。
「本章では、世界は本質的に情報であり、計算可能であることを証明する。だって。わたしには全然解んないけど。紗椰にはこれ、分かんの?」
「分かるよ。もらった時、何度も読んだし」
「もらった時って、今が2035年でしょ、7年前だから10歳の時じゃん。計算、間違えてないよね?」
 そう返すと紗椰はただ頷いた。事実が知りたいんじゃなくて、小さくでもいいから笑ってほしかった。憧れる。例え不老の機械の身体に百年以上勉強したとしても、おいつかないその才覚に。尊さを汚すものがいるかもしれないと思うと、胸が苦しくなるのだった。

 気温が36度を超える暑い日、外を遊ばせたら熱でへばって締まった小型犬ロボットを部屋に連れて帰り、デスクで休ませながら、取り外した足関節に手を入れて、熱の抜けやすい構造にする。付け焼き刃だが、効果を期待した。
 脚自体はロボットに組み込まなくとも、本物の犬の義足として利用することが可能だ。実際の神経と疑似神経繊維を縫合するには精密で繊細なロボットアームが必要だが、どんなロボットでも、愛流は作ることができた。
 愛流のデスクの本棚の隅に、14歳の時から借りっぱなしの本が埃を被っている。ランダウ=リフシッツ、理論物理学教程が5冊。かつてあったソ連という国の物理学者の書いた本。
 面白いけど、難しいよ。11才の私でも2回くらい読んで理解した。
 挑戦したいと思って、100回でも読むつもりで借りた。でも、このざまだった。
 軽く埃を払って元に戻し、ラップトップでCADを立ち上げて、ロボットの図面とにらめっこする。自分にはこちらの技術があるのだから。と息を飲み込んだ。

 八潮団地を挙げて催す八月の夏祭りの時期がやってきて、エリオはママの手伝いでブラジル料理屋台を手伝うと言って、連日準備風景を愛流と紗椰に送りつけた。甘いのはないのかと聞く紗椰に、エリオのママはブリガデイロというカラフルなチョコを作ってくれた。ジリジリと炙るような蝉の大合唱の中、ホースやスプリンクラーで水が撒かれながら準備は進んでいた。撒いた分は蒸発し、巡り、雨の神様のプールが破裂したみたいな雨を降らす。〈芝浜グランドタワー〉から見ると、雨の柱に住む龍が噛み付いて世界を吸い上げているようにも見えた。
 そんな龍の牙がふたりの部屋のある南大井に向いた日、紗椰は雨に濡れて帰ってきた。一緒に買った黒のノースリーブも、パープルのフレアスカートもぴったり身体に張り付いて、黒のショートボブは濡れきって、全身からとめどなく水の精が生まれ落ちていた。
 稲光にだいぶ遅れて、空の遠吠えが聞こえた。風と大粒の雨が窓を揺らしていた。
「考え事してた。早くまとめたくて、帰ってきた」
「身体拭いて、着替えないと。熱も出てるじゃん」
「どいて。忘れないうちに、書き下したいから」
 そう言いながらよろめいて床に手をつく紗椰をベッドに座らせ、身体を拭き、着替えさせて熱を測る。測らなくても軽く触れれば分かった。熱い。38.5度、ほらこんなに熱いじゃんと言うのを聞かず、まだ湿った手で水性マーカーを持って、壁掛けのホワイトボードの前に進み、幾つかの式を書き下す。

dS =Q/dT (S: entropy of mind)
dA = -SdT – Pdv — (Saya = Landau transformation) —> ………………………………………


pV = nET (E: emotion constant)

 足下に落ちていた青色マーカーを拾い上げ、式の下に主張ステイトメントを書く。
「感情は本質的に情報であり、情報は本質的にエネルギーである。感情はエネルギーである」
 書かれた主張を読み上げる。それは宣言ステイトメントにも見えた。紗椰は愛流に、頭がつかれたからシュークリームをいくつか持ってくるように言って、愛流はそれに従って、クリーム増量中のカスタードシューを3つ手渡した。普段どおり、顔つきを変えないまま、紗椰は雨上がりの川べりで蛇がカエルを丸呑みするように2つを飲み込んだ。
 クリームのついた口周りを拭き終わると、ふうと息を吐いて、頭を指差した。
「ここがやってる推論と意思決定には、糖分がエネルギーとして必要不可欠。考えるのに頭使ってると、内臓の方の身体的ソマティックな推論の方ができなくなる」
「あの櫻井っていう医者が言ってたやつ?」
「大まかには、そう。私、感情の法則を見つけだして、感情も物理法則に従って、万物に等しく作用できることを示したい。私も、動物も、植物も、ロボットも、他のすべての物に普遍的に作用することを証明するの。感情が人間の知性を進化させたとか、感情は人間らしさだとか、感情的知性エモーショナル・インテリジェンスが大切とかいうのを聞くけど、それは嘘だって示したい。らしさじゃなくて、独占しているだけなんだから」
 愛流は地元の子供達に無表情を笑われたり、取材に来たカメラマンから楽しそうにしてと言われたりした紗椰のことを思いだした。挙げ句に、全国の子供が受けている感情能力試験なんて受けさせられて、どれだけ悔しくて嫌だっただろう。
 握りしめた拳の指が汗で滑る。喉は疼くけど、返す言葉が出ない。
「誤解しないでね。悔しい。とかじゃないから。それはよく分からない。そんなのどうでも良くて、私は詭弁を退けるために、正しい法則を見つけて、それを証明する」
 小さなホワイトボードはすでに式で満たされている。湿った手から滑り落ちた青のマーカーを拾い上げた紗椰は、隣の空白に歩みを進め、ライトグレーの壁紙にペン先を置いて、走らせる。止めようと愛流が歩み寄ると熱気に気圧された。素朴な黒いティーシャツの首元が汗と雨でびっしょりと濡れている。
 式が下記進められる。熱もないのにオーバーヒートしている。当りに動き回るロボットと同じだと言われた身体が、狂気を発露している。
 そこにはただ、純粋に美しい理論の階段を昇る一つの輝く知性があった。
 美しい。愛流は思った。
 暴れる豪雨の龍を呼び出した暗雲が去り。黄昏の光が紗椰の手元を照らした。
 壁いっぱいの式を書き終えた紗椰が手を止めて、愛流を見た。
「私の身体で起こっていることを、私なりに色々調べて考えた。私達の悩はみんな、推論する機械で。目の網膜に映る二次元の像に生き生きとした三次元世界を見出すように、ありとあらゆるところで世界を捉えようと計算してる」
 紗椰は指先で敷を示し、つま先を蹴って大切な式が隠れないように少し移動する。
「櫻井が言うように、血液の流れとか、肺胞の動きとか、胃の膨らみとかも、この脳は全身に張り巡らされた神経センサーを使って計測して推論してる。それで、何らかの意思決定をして行動に移す。愛流は多分、驚いたら、息が不規則になったり、震えて声が思うように出なかったり、身体が反応するでしょ?そういう情動反応が起こったら、何故起きたか、どう行動するか意思決定する。その結果生まれる感情は、無数の可能性から1つの原因と意思決定を絞り込むための情報を持っている。物理の奥底では、情報はエネルギーと等価。神経回路と身体のどこかにある心は感情と言う情報、つまりエネルギーを常にやり取りしてる。あの式を見て。1つ目のdSではじまる式は、心に加わるエネルギーと、それがもたらす変化を、すごく単純化して表してる。Sは心のエントロピー。乱雑さを表す秩序の指標。Qは心に与えられるエネルギー、熱。Tは心の温度。このモデルで、私たちの感情は理想気体と見なせる」
 愛流は頭の中から、これまで学んだことのある物理学の知識を引っ張り出して式を見た。心に温度というものが仮定できるのなら、温度が低いときは、少しのエネルギーでも心が乱される。温度が高いときはその逆か。ロボットの動力と熱効率を考える時に不可欠な熱力学を思い出す。
 紗椰の書いた式を簡単な形に書く。PV=nRT。理想気体の状態方程式。熱サイクルを思い出す。等圧過程、等温過程、カルノーサイクル。心の温度を一定に保ち、封じ込めて量を減らそうとすると圧力は上がる。逆に、我慢して圧力を抑えようとすると、量が増えて心に貯まる。
 感情は熱力学に従う。紗椰がつぶやき、愛流が繰り返す。
 感情は本質的に情報であり、情報は本質的にエネルギーである。感情はエネルギーである。世界を規定する宣言のように繰り返される主張ステイトメントの正しさは、自分には決して証明できないけれど、目の前の天才が持つ狂気はそれ自体が証左であると感じた。一人の友人として、助けになりたいと思った。
 愛流は壁に手をついて立つ紗椰をベッドへと導いて、汗で濡れたティーシャツと下着を着替えさせ、髪を撫でた。
「感情はある世界では気体として扱える。こっちの世界に物性を引きずり出せれば、愛流のロボットにも、感情が働くようにできるよ」
「計算じゃない、リアルな感情かぁ。紗椰と一緒に、それが実現、できたらいいな」
「約束、しようか。愛流の技術テクニックを貸してね。感情エネルギーを、取り出して万物に開くの」
 眠りに落ちる前、つぶやくようにそう言いながら咳き込む紗椰の熱がまた上がったのを見て、愛流は氷枕を作って額に乗せた。
 約束。いつか果たせるかな。愛流は紗椰の横で、一人の友人として約束が出来たかを考えた。感情のエネルギーを引きずり出せたら、疑似神経線維を案で、骨格と関節を合金で作り上げ、エネルギーで駆動するのにふさわしい身体を紗椰に作ってあげたい。
 そう思いながら、愛流は紗椰の口の端についたクリームを指で拭って舐めた。

 紗椰は風邪をこじらせ、肺炎を併発して入院した。苦しさを自覚することも、苦痛の感情を覚えることもできなかったが、思考力と筋力の強張りには抗えなかった。団地の夏祭りが終わって一週間ほどして退院してくると、感情エネルギーを引き出すための理論を追求するのに集中しはじめた。
 その頃から〈未来の家〉には内閣府の役人や認知科学の学者が出入りするようになり、子供達には感情能力試験が何度も課せられた。選択肢式の単純なものもあれば、文や動画、メディアを見て記述させる試験もあった。愛流も紗椰も、他の子供達も面倒だと思いながらも必死に解いた。結果は芳しく無く、〈未来の家〉の得点の中央値は全国の中央値の半分以下だった。
 〈未来の家〉をめぐる政治状況は変わり、教育を受けた子供達の能力を疑問視する記事や論文が相次いで投稿された。『隔絶した環境で科学エリート教育を受けた〈未来の家〉の孤児たちは、社会生活を営むのに十分な感情能力を持つのか?』、『偽愛国者、東園寺、慈善事業に見せかけた闇の資金の実態』、『周辺住民に聞く、感情の乏しい子供達』、『〈未来の家〉、職員の告発!! 子供を道具とみなす内部文書掲載』、『天才ロボット少女に感情はあるか? ペット義足の悲痛な事故の顛末』など、事実も非事実も混ざり合いながら、勢いに任せて流布された。
 愛流の犬用義足も、利用するアクチューエータの不具合で発煙事故を起こし、徹底的な非難に晒された。SNSで情報を集め、興味本位で周囲をうろつく者たちが、時たま愛流たちをからかい、罵倒し、反応を面白がって撮影した。守ろうとする者も居たが、多勢に無勢だった。
 年が開けると、東園寺ら理事会の抵抗も虚しく、〈未来の家〉の解散が決定された。翌年度以降の予算執行とスタッフ派遣などの運営補助の打ち切りが決まり、立ち行かなくなったからだ。
 紗椰は東園寺のサポートを受け、スタンフォード大へ入学を決めた。東園寺は他の子供達には冷淡で、彼らはみな、各々自ら努力して別の施設への入所や転校を余儀なくされた。愛流はエリオの家、岡崎家に居候することになった。
 紗椰が出国する日、愛流は借りたままのランダウ=リフシッツ5冊をカバンに入れて羽田空港の出国ゲートに立った。
「これでお別れね」
 ただ事実を告げるように、寂しがる様子もなく紗椰が言った。
 また会おうね。そう言って愛流は手を振った。
 カバンの中でランダウの本を掴んだが、結局返さなかった。

2.

 
「ダヴィ。おはよう。今日と明日の天気を教えて」
『2041年6月15日と16日の八潮団地周辺、シナガワ経済特区の天気は概ね晴れで、最高気温は34度。空気中の水蒸気が多く、ほぼ100%ゲリラ豪雨が予測されています。傘と雨具を忘れずに。で、愛流、朝の散歩は、いつ行くの?』
「眠いし時間ないから無理。今日はエリオが休みだから、あいつに連れてってもらって」
 八潮団地の3号棟と4号棟の間を抜ける湿りきった風が開け放たれた窓から吹き込んでレースのカーテンを舞い上げる。寝るときは涼しかったのに日が昇ると暑さでやる気がみんな持っていかれる。愛流は気だるさを振り払えないまま、白いブラウスにダークグレーのフレアスカートを穿いて、申し訳程度にメイクをして工具箱を持つ。ペット義足用の脚や股関節、疑似神経線維が詰まったそれは、ずっしり重い。
 重いものを持つ度に、自分の身体も機械にしてしまおうかと悩む。疑似神経線維も五、六年で十分に発達したから、自分に外骨格をつなげるのもわけないはずだ。
 散歩を拒否されて不満げなダヴィは、チョロチョロと愛流の足元を動き回りながら、ティッシュ箱を見つけると長い鼻を突っ込んで中身を一枚一枚引っ張り出して抗議する。コーギーらしく断尾された茶色く丸いお尻はぷりぷりしていて可愛らしい。
『散歩いかないなら、明日から天気も時間も、教えない。玄関も、通さないぞ』
 ダヴィはコーギー犬だが、おどけた声で喋る。ダヴィの左脳のイヌ言語野と声帯に埋め込まれた生体チップには、ロボットの普及と共に多様に拡充されたオープンソースの言語認識エンジンと音声エンジンが組み込まれている。
 ダヴィは元々は普通のコーギー犬で、ルームメイトのエリオの飼い犬だった。子犬の頃は愛流と紗椰ともよく遊んだが、〈未来の家〉の閉鎖間際、マニュアル運転車に撥ねられ瀕死の重症を負った。シナガワ特区の先端的な動物病院に運び込まれたダヴィに、愛流は三日三晩徹夜の施術をして、ダヴィをサイボーグ犬にした。事故で失った右前足と、両後ろ足は、抜け毛で作ったモコモコの擬似皮膚スキンで覆われているものの、その下にチタン合金製の骨格フレームが隠されている。
 ダヴィが後ろ足のアクチュエータの出力を上げて、玄関前の廊下の両サイドの壁を蹴って加速しながらチャカチャカと左右に動いて愛流の進路を塞いだ。人の目では残像を捉えるくらいが関の山で、愛流は機械の身体だからこそ実現されるその動きにうっとりとしながらも、心配になった。
「ちょっと、また関節ジョイントのバランスが悪くなるから止めなさい。明日は土曜だから、朝の散歩連れてってあげるよ。ねえ。ダヴィ。ちょっと。止まらないと、あなたもこういう脚にしちゃうよ」
 愛流は近くで静かに稼働していたお手製の掃除ロボットを拾い上げて、目まぐるしく動き続けるダヴィの前に示す。掃除ロボットは疑似神経繊維の編み込まれた吸水性素材の8本足をウネウネと、自律するタコの足のように動かしている。
 ダヴィが珍しく牙をむき出しにしていると、朝のランニングを終えたエリオが戻ってきて、ダヴィを抱き上げた。愛流は時計を見て、約束の時間に遅れると思い走り出た。当然、傘も雨具も忘れていた。
 午後になると五反田、大崎方面に現れた雨雲が天を驚くほどのスピードで這い進んで来て、南大井の勝島の東側から京浜運河を越えて八潮団地、大井競馬場の一帯を暗くした。天気アプリからの通知を受け取った団地の住民が、バタバタと洗濯物を取り込み始める。一番西側、3号棟から5号棟は若い世帯が多く、一番の南側、39号棟から45号棟にかけては、シナガワ経済特区に職を持つ各国の移民が多く住んでいた。ブラジル、ベトナム、インドネシア、インド、ネパール、イラン、トルコ、マケドニア、ウクライナ、それからハンガリー他、世界各国の住民がこれほど集まって暮らしているのは、東京でも珍しかった。
 全棟90棟を越え、2万人を超える住民を抱える八潮団地には各国の料理店が立ち並び、芝浜駅から新東京モノレールに乗って観光に訪れる者も多かった。古くなった建物を改造した簡単なモスクや、ヒンドゥー寺院やストゥーパが、神社の横に並んでいた。
 愛流の作ったロボット猫やロボット犬を飼う家庭は多く、対水性能の低いモデルは雨の通知を受信すると住処の棟へいち早く駆け込むのだった。

 ドウドウと吹く風に薙ぎ払われた雨粒が、等しくすべてを濡らす意志を持つかのように雨宿りするところの寄る辺、残された乾いた地面を水に塗で塗り上げていく。京急線の高架下で、愛流は雨具を忘れたことを後悔していた。地上十メートルの高架の下は陰気だが、鮫洲駅、北品川駅を抜けて品川駅までずっと伸びている。高架沿いのコンビニを探すこともできたが、時すでに遅い。濡れたスカートの裾を絞るとビタビタと水が垂れ、酷く湿って食い込んだ下着の感触が気持ち悪かった。
 視界は低く落ちた灰色の雲に閉ざされていて、見上げてもシナガワ経済特区の中心部、南大井の現代建築群は全く見えない。神奈川方面から日本橋へ伸びる第一京浜沿いには、自動配送トラックが徐行運転している。愛流の他、当りに人はおらず、むしろ量産型の掃除ロボットや、配送ロボットが雨よけに集まっていた。
 ショートを防ぐ完全防水能力を備えるより、壊して棄てるほうが効率がいいから、彼らは弱い身体で街へ放り出されている。一台の平たい旧型の掃除ロボットが故障し、赤いLEDを点灯させているのを、他の掃除ロボットが回収し、ゴミのタンクへ入れた。
 可哀そう。愛流は脚を失った子犬を直すときよりも悲しそうな目でその光景を見た。
 ロボットの国にいるみたいだ。もし、あの子たちに感情があったなら。身体の痛みに共感し合って弔いの儀式をやるくらいに知性を発達させるだろうか?
 ロボットに感情がある世界を。感情のエネルギーを万物に。
 この六年、あの雨の日の約束を忘れたことはなかった。
『あの日も、こんな雨だったね。天才ロボット少女さん。ついてきて』
 驚いて身構える。雨粒が全部の音を消してしまっているのに、確かにその声が聞こえたから。振り向くと、芝浜駅や羽田空港駅に配備されている案内ロボットがいた。卵型のボディにうさぎ型の頭部ヘッドを持ち、遠隔操作が可能だ。
 途中で掃除ロボットや配送ロボットにぎこちなくぶつかりながら、高架沿いを北へ向かう。まともな画像認識エンジンを積んでいればこんなヘマはしない。誰かが操縦しているのは明らかだった。
 濡れた髪を絞り、愛流は後を追う。あの日もこんな風な酷い雨だった。

 ロボットに示された迎えの自動運転タクシーは愛流を載せて、青物横丁駅を出ると特区の中心部の南大井に向かう。気まぐれな雨雲は嘘のように消えて、水辺に産み落とされたカマキリの卵みたいな曲面張りの現代建築の何もかもが青く透明に染まった。
 二十七階のラウンジに通され、案内の男性に待つように言われる。
 五十人ほど収容できそうな空間は、艶のある明るい色のウッドボードで張られ、四メートルほどの天井は抜かれていて、黒く剥き出しの、クジラの背骨のような太いダクトが折れ曲がるのがよく見える。暖色のLEDが、フリッツ・ハンセンの胎児のように丸まったチェアを照らしている。
 案内の男性は別の態度の悪い客に捕まり、呼んだのに無視された。謝罪に感情がこもっていない、笑顔も君が悪いと悪態をつかれていた。コンビニやカフェ、病院でよく見る光景で、単純作業をロボットが代わりにこなすようになった結果、人間にはより真心のこもった笑顔や客の怒りを察して解きほぐす力が必要になった。
 男性の上司がやってきて、態度の客の怒りは収まった。上司は案内の男性を柔らかく叱責している。
「髪が長くて、大人っぽくなったね。愛流。久しぶり」
「紗椰、久しぶりだね。突然、連絡が来たから、びっくりした。眼鏡も、よく似合うね」
 厚手の黒いオーバーサイズのティーシャツにネイビーのジャージのパンツ。胸元にSEMと、細いヘルヴェチカのフォントで会社のロゴがプリントされている。
「私、日本に帰ってきてから、何度も愛流に連絡したよ。一回も既読すらつかなかった。嫌われたと思った」
「ごめん。紗椰。わたし、昔のこと。ネットに残ってるの見るの嫌で。SNSのいろんなアカウントも消して、見ないようにしてた」
「いいよ。連絡がついたんだから。別に私、ショック受けたりしてないから。知ってると思うけど」
 真顔のまま、ただ事実を述べる口調で紗椰はそう言った。
 久しぶりの友人、焦がれた人を前にして、愛流は喜びに微かに震えていた。上滑りしそうな声を抑え込むと、今度は涙声になりそうだった。求められていないのは分かっていたけれど、抱きしめて、細い肩をこの両腕で強く締め付けたかった。
「急にどうしたの?」
「準備ができたから、呼んだの。あの雨の日に、約束したでしょ?」
「感情エネルギーを取り出す」
「やっぱり、愛流は覚えていてくれたね」
 嬉しい。とは紗椰は言わない。その賢い頭脳で計算して予測どおりだった。ということなのかもしれないな。愛流は少し悲しくなって、右手の拳をそっと握りしめた。スタッフがトレイを持ってやってきて、三角錐型に積まれたマカロンの山と、よく薫るダージリン、それから小型のデバイスを置いていった。紗椰はマカロンを摘むと、デバイスに電源を入れた。
 そのデバイスは、非接触の体温計にそっくりだった。紗椰が右手で自分の耳の上に近付けると、その形状と動作が匂わせる暴力性までほぼ同じだ。グリップには操作用のトリガー、上部には情報を表示するためのディスプレイと、モード切替用のダイヤルがある。違うのは、グリップの下に透明なカートリッジが装着されていて、200ミリリットルぐらいの液体を格納できる点だった。
「私じゃ、試しても意味ないから。愛流、使ってみる?」
「体温計みたい。なにこれ?この形、向けられると、少し怖い」
「怖かったら、あっちをくぐってもいいよ。あれは、私が作ったやつじゃないけど」
 紗椰が指差す方、ラウンジの端のブースに芝浜駅や大井町駅、鮫洲駅やモノレールの勝島駅に設置されているのに似た、セキュリティーゲートに似た装置があった。紗椰と同じデザインのティーシャツを着たスタッフが、来客に熱心に説明を行っている。
「Emo::tra《エモトラ》? って読むの? これで、感情エネルギーを取り出せるの?」
「そう。仮想的な気体である感情を、物理こっちの世界に液体として引きずり出すデバイス。感情抽出機エモーション・エクストラクター、略して〈エモトラ〉だよ。愛流。使ってみてよ」
「これ、わたしの中にある感情、全部取り出すの?」
 紗椰が言うのだから、本当にこのデバイスは感情を取り出すのだろう。物理的実体として。でも、憧れ、焦がれる人の前で、全部の感情をさらけ出すのは嫌だった。
「〈恐怖〉のサンプルモードにしてあるから。〈恐怖〉だけだよ」
 落ち着いて息を吐き、愛流は恐る恐るトリガーのかけた指に力を入れる。キューンと切り裂くような高周波のノイズが鳴って、ディスプレイの数字が増加する。カートリッジに液滴が落ち、少しの間、ほんの二秒ほどで、ディスプレイにCOMPLETEの文字が出る。
 カートリッジ内に人差し指の爪半分くらいの高さで薄紫色の液体が揺れている。色的に、〈恐怖〉と言われるとそう見えなくもないけれど、にわかには信じられなかった。
 紗椰はカートリッジを開き、愛流の前で温くなった紅茶のカップに垂らした。垂れるたびに、薄オレンジのダージリンの中を紫の靄がクラゲのように泳いだ。色同士は一瞬混ざり合ってチョコのような茶色になるが、すぐに何の変哲もないダージリンに戻る。
「飲めばいいの?」
 紗椰が嘘を付くとは思えないし、嘘なら温いダージリンを飲む羽目になるだけで、本当だとすれば興味深い。それなら、騙されたと思って飲んでみればいい。紗椰が頷く前に、愛流はそれを飲み干して、プチシュークリームの山から1つ取って口に放り込んだ。
 〈恐怖〉の感情エネルギーの作用はすぐに訪れた。
 眉間と耳の上の筋肉の強張りと微かに喉の乾きと力みを感じ、舌の根本が緊張する。〈エモトラ〉を見た時と。自分の耳元に当ててトリガーを引く時に感じた〈恐怖〉が湧いて、すぐに消えた。
「どう? 〈エモトラ〉、すごいでしょ」
「〈怖い〉と思った。でも、すぐ消えた」
「軽い感情はすぐ揮発して消えちゃうからね。重いのはそうじゃないよ」
「本物の液体燃料みたいなこと言うね」
「本物の液体なんだから、当然でしょ」
「ねえ、紗椰は、もう液を飲んだの? これを飲むと、紗椰も感情がわかるようになるの?」
 淡く期待した。再会の〈喜び〉を分かち会えるかもしれない。
 紗椰は首を振った。〈喜び〉も〈恐怖〉もいくつか試したけど、何も感じなかった。〈エモトラ〉も感情物理学もまだ不完全で、改良点が山ほどあると。
 愛流は〈エモトラ〉を手に取り、ディスプレイ脇に取り付けられたモード切替の複数のダイヤルを見る。1つ目のダイヤルは抽出深度の切り替えを担い、一番弱いとサンプルモードになる。2つ目の大きなダイヤルには円周上に感情の名前が刻まれている。〈喜び〉、〈幸福〉、〈楽しい〉、〈好き〉、〈憧れ〉〈興奮〉、〈驚き〉、〈感謝〉、〈警戒〉、〈怒り〉、〈恐怖〉、〈不快〉、〈嫌悪〉、〈苛立ち〉、〈悩み〉、〈惨め〉、〈落ち込み〉、〈悲しみ〉、〈憂鬱〉、〈無気力〉、〈苦しい〉、〈くつろぎ〉、〈安心〉、〈満足〉、…それから、〈ALL〉。ありあわせの部品でできているからか、滑らかには回らずカチカチと音がする。
 使ってから結構な時間が経過しているのに、グリップには触るのがはばかられるくらいの熱が残っていた。長く握っていたら、火傷してしまう。確かめるように軽く触れて、刺すような痛みを感じて手を上下に降る愛流を見て、紗椰が口を開く。
「この子たちを広めたい。モバイル端末みたいに、一人一台〈エモトラ〉を持つぐらいに。でも、見ての通り、排熱の問題があるから、デバイスの筐体の機械的メカニカルな設計をうまくやる必要がある。愛流、あなたの技術テクニックで、私を助けて。二人で約束、叶えようよ」
 平たい声で、紗椰は言う。開かなくても大きな瞳は昔の通り清らかで、危険なまでにこの世の中の正しい法則を見出していそうだった。愛流が紗椰の手を握ろうとすると、紗椰の眼鏡に、二人に近づく一人の男の影が映った。東園寺だった。
 〈未来の家〉が閉鎖される時、それまでは全員にいい顔をしていたくせに、結局は紗椰以外に何の手助けもせずに放り出した男。紗椰は感情を液体化してしまう程の天才で、お気に入りなのは分かるけれど。でも。胃の当りでなにかが流れる不快な感じがし、頭に少し血が昇るのを感じた。〉それは、〈嫌悪〉であり〈苛立ち〉だ。
「天村さん。話の続きをしよう。我々、それからこの国の未来に関わる、重要な話だ」
「何度話しても、結論は変わらないわ」
「今日都合が悪ければ、明日にしよう。あんまり強情だと、こちらにも考えがある」
 紗椰に首を振られ。東園寺は少しの間粘ったが、去っていた。愛流のことなど、覚えてもいない様子だった。愛流はグリップが十分冷えているのを確認して、ダイアルを調整し、〈エモトラ〉を額に当ててトリガーを引いた。タールのような、どす黒く粘性の高い液体が抽出され、愛流は気分が晴れやかになった。
 紗椰もこれを飲んで、この〈嫌悪〉が分かればいいのに。
 一週間後に会う約束をすると、紗椰は用事があると言って席を立った。また会える。それだけで〈嬉し〉かった。フロアの隅の会議室に入っていく小さな背中を見て、体調は大丈夫かと〈心配〉になった。
 フロアの隅で、ゲート型の〈エモトラ〉をラウンジの案内人たちが試していた。抽出された感情液を見て、お客様への真心のこもった〈感謝〉と、お客様に対応できたことの〈幸福〉の色合いが薄すぎると、案内人のリーダーが部下たちを叱りつけていた。

 紗椰と再会したことは、エリオにはすぐには話さないつもりだった。子供っぽく聞こえるかもしれないが、ほんの少しの間だけでも、紗椰との再会の〈喜び〉を独り占めにしておきたかったのだ。再会の日、家に帰った愛流は、仕事道具を整備して、ロボット犬を飼うことを検討している団地の39号棟の家族からの要望を整理して、必要なオープンソースの言語エンジンを検討し終わると、布団を被った。
 微睡みの中、寝て起きたら夢だったなんてことがないように愛流は祈った。

『九時だぞ愛流。起きろよぅ。なあ、紗椰はどうだったんだ。オレも早く会いたいぜ。もう子犬とは言わせないからな』
 ダヴィが布団の上で飛び跳ねている。軽量素材を使っているとはいえ、後ろ脚が当たると、それなりの衝撃で、目覚ましには強すぎる。
「おはよう。ダヴィ。紗椰のこと、なんであなたが知ってるの?」
『エリオが教えてくれたよぅ』
 どういうことなの?エリオに聞こうと、ダヴィをどかして布団をはねのけてリビングに向かう。八潮団地に沿って流れる京浜運河のその向こう、芝浦とレインボーブリッジまで青の広がる爽やかな景色が窓から見える。エリオは分厚く切ったフランスパンにスクランブルエッグを載せた簡単な朝食を頬張っていた。
「わたしが紗椰から会ったこと、誰から聞いたの?」
「いや、紗椰からだけど。どうした?」
『紗椰から? エリオに連絡いってたの?」
「愛流と連絡取れないってね。お前、そろそろオレ以外の連絡先も登録したら? そもそも、あいつ有名じゃん。SLMとかいう新興バイオベンチャーで社長やってるだろ? すごいよな。飛び級でスタンフォード大に入って、飛び級で卒業、その後は清華大学で博士号だっけ」
「なんでエリオのが詳しいの?」
 愛流は六年前の炎上騒ぎで言われない個人攻撃を受けたあと、SNSのアカウントを全部消していたけれど、エリオは定期的に紗椰に連絡をしていたから、エリオの方が多少詳しくても当然だった。連絡と言っても、一年に一回、たった一行か二行の近況報告みたいなものを送っていただけだったけれど。

  週末、土曜日の朝、紗椰から〈Wir〉でメッセージが送られてきた。〈Wir〉はスイスに本社を置く企業が開発する暗号化に特化したメッセージソフトで、欧州の厳格なプライバシー管理法よりも厳しいスイスの法律に準拠している。近距離通信でしかアカウントの交換はできず、スパイさながら受信したメッセージは直ぐに端末から削除される。開いた画面を閉じれば、二度それを見ることはできないというわけだ。
 CEOという立場はほとんど形だけで、社内は東園寺を中心とする対立派に取り仕切られ、ゲート型の〈エモトラ〉は紗椰の知らないうちに製造されたものであり、量産が決まっているのだという。
 あのラウンジで会った時、モバイル端末を寄せ合ってアカウントを交換した。よくああして、モバイル端末を見せあって、エリオと遊んだ時の写真や、本当にくだらなく笑える動画なんて見せたなと思った。笑い合う。ことは当然なかったのだけれど、紗椰は遊びに誘えばほとんど断らなかったし、子犬だった頃のダヴィの写真を撮ったのを何度も見せてもらった。〈楽しさ〉を感じないとしても、紗椰にとってはあの時間は必要なものだった。それが例え、欠落した内臓感覚を計算で補えるほど発達した知性の行った、合理的な計算の結果であったとしても。

 午後になると〈エモトラ〉を支える理論を手書きで描いたファイルが遅れてきた。サヤ=ランダウ変換を利用すると書かれたそれは、丁寧とも汚いとも言えない味のある紗椰らしい字で書かれたいっぱいの式で埋め尽くされていた。解読には時間を要しそうだ。
『散歩はどうする? 一人で行っちゃうぞ。壁、駆け下りて行くからな』
 後ろ脚に協力で柔軟なアクチュエータを搭載し、柔軟な股関節骨格フレームを持つダヴィは、20階くらいの高さだったら衝撃を吸収できるし、壁伝いに上り下りすることもできた。想定と違う力がかかって故障するリスクはあるし、他のロボットペットが見て真似をするのも問題だった。今もまた、トタトタと壁を駆け上がる音が聞こえた。
 散歩に出るが、30度を越えた気温にダヴィも愛流も直ぐにへばってしまい、品川区民の交流施設である〈コミュニティプラザ八潮〉の近くの木陰で休憩をして、児童遊園で入り混じって遊ぶ様々な肌の色の子供達を見て、高齢世帯が特に集まる51号棟から55号棟のあるエリアの脇に立つ、揺りかごのように丸い形状をした青いガラス張りの建物の下でまた休んだ。団地の全区画で最も新しく、最新の設備を供えた現代建築はシナガワ特区の誇る老人ホームだった。周辺にはガラスの向こう側で多くの介護ロボットが仕事をし、身体が自由に効かない高齢者のサポートをしている。
 51号棟に住む斎藤さんが愛流を見つけて声をかける。高齢の彼女は、愛流の作るロボット犬を飼っていて、ゆっくりと喋るけれど、滑舌も立ち姿もキチンとしていて、年齢を思わせない。要約すると、ロボット犬のサブロウの認知エンジンを調整するか悩んでいるらしかった。サブロウは斎藤さんにとって三匹目の犬だった。
「ウチの人、認知症が始まっちゃってね。すごく怯えやすくて、怒りっぽくなってるのお医者さんが言うには、前頭葉ってところが壊れ始めてるから仕方ないらしいけど。サブロウがお薬の予定をリマインドしたら、オレが忘れるわけねえだろう。馬鹿にしてんのかこの馬鹿犬。なんて言って物を投げつけてね。そう言われてもサブロウがニコニコしてるから、逆に怯えちゃって」
「前にジロウちゃんを飼ってたときは、馬鹿犬なんて絶対言わなかったのに」
「そうよ。アタシには馬鹿って良く言ってたけど、犬には言わなかったのに。赤ちゃんみたいに怯えてるし、怒るの。人が変わっちゃった感情が変わると、こうも人は変わるのねぇ」
 進行を遅くする薬は多いけれど、始まった認知の壊れを修復するのは難しい。人類はまだ老いを克服できていない。
「認知エンジンと言語エンジンにルールを追加して、リマインドの頻度を減らしたり、優しい口調にしてみましょうか?」
「ジロウみたいに、やられたらやり返すようにできないかね。ジロウは私に似てたね。絶対にやり返してた。サブロウがやり返さないと、あたしもちょっと張り合いがなくてね。寿命がないから、死んだ時のつらい思いをしなくていいって聞いてサブロウを飼い始めたけど、もう少し怒ったり、恨み節の顔をしたり、感情を見せてくれないとねぇ。機械だと難しいかしら? サブロウらしいかなとも思えてきたけど」
 愛流は唇を噛み、近々、メンテナンスしに行きますと深く頭を下げた。〈エモトラ〉を使えば、斎藤さんの夫からは〈怒り〉や〈怯え〉を抜き去ることができる。
 誰かから抽出した感情液をうまくつかえば、サブロウにもそれらしい感情を与えることができるのだろうか? 
 猛る蝉の声が近くにも遠くにも夏の気配を溢れさせて、愛流の額と首元から汗が垂れて地面に落ちた。〈悔しさ〉と〈もどかしさ〉で右手に掻いた汗のほうが、ベットリとして気持ち悪いと思った。

 再会の予定は突然キャンセルされた。けれどそれは、〈悲しい〉ことではなく、むしろ〈喜ぶ〉べきことだった。約束の一日前に、紗椰は大きなスーツケースを引いてエリオのママの所にやってきたからだ。エリオのママはもちろん紗椰を覚えていて、紗椰を招き入れると、仕事中のエリオに電話を掛けて、貯まりに貯まったスニーカーの箱を片付けないと紗椰ちゃんが泊まれないだろとどやした。
 しばらく住みたい。そう言った紗椰を、エリオのママは受け入れた。
 それを聞いて、愛流は急いで帰ってきた。
 キッチンからスパイシーな匂いが漏れ出していて、エリオのママも含め、男女何人かがワイワイと英語で話していた。エリオと紗椰はエリオの部屋に居て、紗椰は昔エリオが使っていたベッドの上に、エリオは立ったまま話をしていた。6年振りの再会も、エリオはすでに打ち解けていて、仕事の話や食べ物の話で盛り上がっていた。紗椰はポンデケージョを口にしながら、いつもの調子でエリオの話を聞いて頷いている。
「愛流。遅かったじゃん。紗椰は相変わらずだな。寡黙だし。よく食べるし」
「エリオのママの料理、相変わらず美味しい」
「ありがとう。ママも〈喜ぶ〉よ。最近はいろんな国の奴を作るんだ」
「これ、エリオが前にウチで話してた料理教室? 賑やかだね」
「そうなんだよ。フェイジョアーダとドブラジーニャは人気らしい」
「わたし、フェイジョアーダは豚の耳入ってるからちょっと苦手だな。ドブラジーニャは好きだけど」
「ダヴィは元気?」
「元気過ぎるんだ。うるさいから今日は置いてきた。いつでも会えるよ」
「しばらくここにいるって、どうしたの?突然、会う予定が突然キャンセルされて、すごく〈心配〉してた」
「来月頭、7月付けでCEOをクビになった。会社を乗っ取られたとも言う」
 社長がクビになる。というのは愛流には想像できなかったが、株式会社の世界では自然なことだった。紗椰は株式をほとんど持たず、CFOの東園寺が三割近くを持つ筆頭株主だった。東園寺はベンチャーキャピタルや、東園寺とつながりの深い政府系ファンドを抱き込んで、紗椰の解任を決議した。紗椰は平社員扱いになり、事務所用途という名目で会社が借り上げていた家から退去することになった。
 これが君の未来のためだと、保護者や庇護者を装い、あてがった別の家で監視下に置こうとする東園寺を無視して、紗椰は記憶を頼りに八潮団地にやってきた。ここの外では、地元の子供たちに変な目で見られ、酷いときは石を投げられた。ここの近くに来れば、エリオが助けてくれた。区画の中に入れば、安全だった。
「じゃあ約束はどうなるの? 〈エモトラ〉を広めるんでしょ。わたしは準備万端だよ。もう理屈も理解した」
 理屈についてはまだ全部は追いきれていなかったが、愛流はそう言った。
 紗椰はスーツケースから三つの〈エモトラ〉を取り出した。
「なんだこりゃ?」
「これが〈エモトラ〉、感情を取り出すデバイス。軽く話したでしょ?」
「へぇ。話半分だったけど、本当にできてるんだな。〈悲しみ〉、〈楽しい〉、〈怒り〉、〈好き〉だって」
「会社の設備は、まだ少しだけ使える」
「でも、〈エモトラ〉を作るには、現実問題お金がかかるけど、わたしは貯金はそんなにないし、エリオはスニーカーばっかり買ってお金がないし。ロボット犬ぐらいなら私の部屋でも作れるけど、たくさん作るなら、もっと広い場所も必要ね」
「私、株を全部売らされたから、お金は少しはある。足りるかは分からない」
「場所なら、設備は古いけど、昔パパが使ってた倉庫なら使えるよ。鈴ヶ森のあたりだから、ここからは少し離れてるけど、空港も近いし、ビジネスにはもってこいの場所だ」
 ありがとう。愛流がエリオの手を取って言うと、エリオは大きな目を細くして照れくさそうにはにかんだ。
「〈エモトラ〉で、ビジネスを始めるなら、任せとけ。死んだパパがよく、お前もいつか独立してビジネスをやれって言ってたからな。オレもパパの血を受け継いでると信じてる」
 〈エモトラ〉について全然説明してないのに、どうしてエリオはこんなに乗り気なんだろう。愛流が聞くと、昔から、お前らが困ってたら助けるって決めてるんだ。と答えが帰ってきた。
 料理教室で教えられたナッツ入りのハルヴァをエリオのママが持ってきた。愛流の口には甘ったるいインド菓子を、紗椰は気に入ったようで幾つも食べた。食べ終わる頃、玄関でカリカリ音がして、ダヴィが吠える声がした。
「ダヴィ。また壁伝いに降りてきたの?今度脚の出力、絶対に下げてやるからね」
『壁じゃなくてベランダだぜ。紗椰、久しぶり。覚えてるか?もう子犬とは言わせないぞ』
 玄関を開けると、紗椰の胸元にダヴィが飛び込んだ。ダヴィが鼻を押し付けてバタバタすると、眼鏡がずり下がるのをそっとあげた。事故で大怪我したから。今はサイボーグ犬だよ。と愛流が言うと、流石の技術テクニックね。〈エモトラ〉の小型化も頼むね。と紗椰は返した。
 植え込みは白いムクゲとクチナシに凛と彩られて、深い緑の葉で艶とうるおいながら夏の香りを鼻元に運んできた。鳴き始めたばかりの蝉の声と共に、足に絡みつく若蔦のような湿気が夕暮れ前の空に吸われていく。

3.

 〈エモトラ〉の核である紗椰=ランダウ変換を実現するための仕組みについて紗椰から解説を受けた時。愛流は自分でも役に立てると確信を持った。ただ、実際にやってみるまでは〈不安〉で、〈怯え〉ていた。
 必要な素子は、毎日羽田空港を経由して空輸され、中国深センの向上から愛流の元へ届けられた。繁体字のプリントされた梱包テープは粘着力が不必要に強く、時折剥がすのにダヴィの脚の力を借りた。
 紗椰=ランダウ変換は磁気発生素子からから強力な磁場を感情の種類に依存した一定のパターンで出力することにより実現される。心の中の仮想的な気体である感情を特異点を経由して物理世界に引き出すのだった。
 そのためには、磁気発生素子と出力の制御素子の間を高精度につなぐ必要があった。感情を生み出す脳の前頭葉に存在する神経回路網に作用する特注の磁気演算素子は、本物の神経回路網に類似した構造を持っていた。愛流はそれを見たことがあった。ダヴィを助けた時、それからロボット犬やペット用義足を使っている時に縫合する疑似神経線維によく似ていた。
 ダヴィと、これまで救ってきた怪我をしたペットたちと、団地のあちこちを楽しそうに走るロボット犬達、彼等が愛流に力をくれたように思えた。初めて縫合を終え、異常な発熱につながる熱のロスを押さえられた時、愛流は〈歓喜〉し、工具を投げ出して外に駆け出した。縫合の手続き、改良版〈エモトラ〉の作り方をロボットアームにインストールし、愛流は自分の手が増えたかのように感じて〈興奮〉した。
 愛流はエリオのパパが使っていた倉庫の一部に3Dプリンターとロボットアームを設置して試作品をいくつも作った。一ヶ月もたたないうちに改良が進み、〈エモトラ〉は200回程度の抽出を行っても熱暴走することはなくなった。
念の為にまだ試作品プロトタイプと謳っていたが十分実用に耐える。愛流は〈喜ん〉だ。
 SLMから私物を引き払った紗椰は体調を崩し、発熱してエリオのママの家で寝込んでいたが、頭は良く動き、薬を飲みながら、紗椰=ランダウ変換を発展させるための理論を考えていた。というのも、ただ単に感情液を塗布したり、注入するだけでは、紗椰もロボットも感情を感じることなんてなかったから。〈喜び〉、〈悲しみ〉、〈苛立ち〉、〈恐怖〉…。改良した〈エモトラ〉で試したけど、どれも全然、情動作用と、それに伴う感情を発生させるには至らなかった。紗椰は、違う特異点を見つける必要があると言って、幾つも方程式を書き下した。

 エリオは親譲りの商売の才能を発揮していた。勤め先の貿易商社の同僚と、ブラジル系移民のコミュニティの力を借りて、試作モデルの〈エモトラ〉をまずはシナガワ特区内で売りさばいた。簡単な申請をクリアすれば、特区内ならば新規のデバイスを流通させやすかったからだ。申請は紗椰にSLMのCEOとしての信用があるうちに済ませ、公式サイトを立ち上げを立ち上げて、感情に関する相談なんでも承りますと記載した。
 すぐに人生相談めいた問い合わせが何件もきて、エリオは〈エモトラ〉で解決できる場合は彼等に格安で売り、匿名でよいからレビューを書いてくれと依頼した。
 同時に、エリオは仲間たちとフリマアプリ経由で手始めに〈歓喜〉や〈興奮〉、〈満足〉を売りさばいた。特区の湾岸エリアの若者たちが大井ふ頭公園で日夜行うサイファーに脚を運び、サイファー後の〈歓喜〉や〈興奮〉を〈エモトラ〉で抽出したことだった。
 抽出し、酒に混ぜて飲めば、同じ感情をもう一度楽しめる。
 今日もまた、抽出された感情液をエリオが倉庫に運び込む。この前、愛流も勧められて飲んでみると。輪をなし右手を挙げて縦乗りをする観衆の視覚像が少しの間知覚され、視神経は注意を集め血流を増す。ポルトガル語と日本語混じりのフロウが心地よく鼓膜を打ち、現場にいるかの様に汗を掻き、脚の筋肉は飛び跳ねようと力んだ。
 フリースタイルのラップが披露される現場に行ったことなどなかったが、〈歓喜〉と〈興奮〉は確かに理解できた。
 愛流は家に持ち帰り、紗椰にも同じ感情液を与えた。紗椰は不健康そうな色のエナジードリンクに交ぜてそれを飲み干す。
「感情は、言葉よりも伝達しやすいプロトコルだね」
「伝わったの?」
 愛流が〈驚き〉、〈期待〉し、〈喜んで〉笑うと、紗椰は首を振った。
 もちろん、一度きりの現場で生じた感情は直ぐに揮発してしまうから、抽出は二回が限界だった。
 〈歓喜〉や〈興奮〉は仕事があり来れない者、親に止められて現場に足を運べない者によく売れた。ビビって来れないやつにも売れる。エリオはそういって喜んだ。
 工場地帯でロボットと共に倉庫や港湾地域、配送センターで運ぶサイファーの現場は多国籍の入り交じるコミュニティであり、単純労働がロボットに奪われつつ中、団結を強くしていた。エリオは彼らに〈エモトラ〉を配り、彼らは感情を抽出して、せっせとフリマアプリに出品して売り払った。
 地域出身には全国的にファンのいるクルーがいて、彼等のライブ後の〈歓喜〉、〈興奮〉、〈憧れ〉は飛ぶように売れた。熱心なファンの感情ほど重い感情液が生まれ、〈歓喜〉は時に一グラムの値段が金を越えた。抽出回数が少なく、重たい感情液を若い世代はエモい、ガチでエモいなどと呼んだ。
 古残のファンが体温計に似たデバイスを持った男に追い回された。
 多量の感情を摂取し、公共の場で叫び、泣き崩れる者が現れた。
 新規の技術に寛容なシナガワ特区警察もこの事態を看過できず、フリマアプリとオークションサイトに出品制限を設けさせ、取り締まりを開始したが、感情液も〈エモトラ〉も需要に応じて次々に売れた。ただの体温計が買い占められ、偽物として大量出品され、薬局は2020年代に世界を襲ったパンデミック以来の体温計不足に陥った。
 ピルに詰める。酒に混ぜる。ジュースに混ぜる。感情液を隠す方法は山ほどあった。新種のエネルギー体である感情液の解析は難航しているらしく、検出器は一向に出回らなかった。
 警察は感情を露わにするものを取り締まった。結果、コンビニやスーパー、病院や飲食店、駅などで大声を出す者が取り締まられた。
 そのニュースを聞いて、エリオは朗らかに笑った。
「警察は空振りしてるみたいだ。まだ〈怒り〉はあんまり売ってないんだけどな。ネガティブな感情は需要ないからさ」
「でも、〈怒り〉とか〈怯え〉ってラベルがついたダンボール、倉庫で見かけた気がするけど、あれは売ろうとしてるんじゃないの?」
「とりえあず貯めてるんだよ。愛流の紹介してくれた斎藤さんから団地に広まって、ボケがはじまっちゃったおじいちゃんおばあちゃんの感情が爆発した時、吸い出してくれってな」
 激しい感情が生まれると、違う人みたいになる。斎藤さんがそう言っていた。それならば抽出して上げる方が、その人はその人のままでいられて良いのかもしれない。
 部屋でエリオの持つボトルに詰められた〈怒り〉は赤く、黄みがかったバーミリオンに輝いていた。避けられぬ老いがはじまり、赤子のような純粋な混乱としての〈怒り〉や〈不安〉が前頭葉を満たす。その純粋さが、明るい輝きをもたらすのかもしれない。長く心の中に溜まった〈怒り〉は、もっとどす黒く、鬱血に似た紫を帯びている。夫の不倫に何年も悩む女性や、過激な保護者からの執拗な嫌がらせに悩む教師の〈怒り〉を抽出した時、そういう色をしていたのを愛流は覚えていた。
 別の人みたいになる。斎藤さんの言葉を反芻する。純粋なその輝きの中に、ある人間を別の誰かに変えてしまう別の人間が入っているような佇まいをしていて、愛流は〈恐ろしい〉とも思った。
 
 家から第一京浜沿いに南に二十分くらい歩くと、鈴ヶ森の刑場跡を示す道標がある。エリオのパパの遺した倉庫、愛流たちのガレージはその近くだった。朝早く、まだ夏の日が昇りきらないうちにダヴィを散歩させた時に、愛流が刑場跡の説明と供花台について説明すると、ダヴィは〈怖が〉って、機械の脚でなく、一本だけ残った自分の前足を震わせた。
 犬も当然、感情はあるから、感情液をダヴィに与えると、情動作用が発生して、血流や筋肉の張りの変化、発汗や神経の発火が変化する。だから、〈喜ん〉で跳ね回ったり、〈悲しく〉て〈憂鬱〉で、ベッドでタオルに包まったまま出てこなくなったりするのだが、機械の脚には何の変化も感じないらしい。ダヴィを実験台に使うことには〈うしろめたさ〉があったが、ダヴィは〈楽しそう〉にいつも協力してくれた。実験の結果は紗椰が取りまとめ、生き物にとどまらず、機械に情動を作用させるための方法を毎日考え続けていた。

「犬にもこういう怖さ、分かるの?」
『分かるよ。犬も幽霊が見える。オレは怖いから、もうこっちには来ないぞ』
 少し歩いた所に咲くサギソウを何本か手折って、手を合わせ祈った。
 祈りは捧げたとはいえ、夜中に〈エモトラ〉の生産数を増やそうと新しいアームと3Dプリンターを設置していると。おどろおどろしい空気に飲まれそうになった。隅の方の作業台で、資金計画を練っていたエリオが仮眠を取っていた。
 古びたアナログ時計は午前二時で止まっていた。
 整列する3Dプリンターの群れは樹脂を切り裂きながら、高音きらめく電子音楽を協奏し、ファンの音がそれを支える。極めてリズミカルなその繰り返しは尊い心音に聞こえた。足音にも聞こえた。隅には、団地の高齢者の前頭葉から抜き出した〈怒り〉が積まれている。
 もし機械の幽霊が存在して、這い進み、あのボトルに詰まった〈怒り〉に手を出したら。バーミリオンに輝く純粋な〈怒り〉は、ロボットアームの群れにどんな情動作用を引き起こすだろう? 
 金属のアームは震え、制御を外れ、作業台を強く打ち叩くだろうか?
 ガタン。と音がして、愛流は〈驚き〉、椅子から転げ落ちた。
 〈怖く〉て脚が震え、腰が抜けた。喉はベタッと渇いて、悲鳴は出なかった。
 鈴ヶ森の刑場では夜襲で人を殺した罪人が磔にされたという。
 振り向くと、配送用四足歩行ロボットが、積まれたダンボールを崩して困っていた。崩れた箱は〈エモトラ〉製造のためのロボットアームよりではなく、エリオの注文したスニーカーだった。愛流は自分で積み直すと、ロボットに行っていいよと手で示した。
「エリオ、スニーカー買いすぎ、いい加減にして。最近羽振りが良さそうだけど。〈エモトラ〉もっと作りたいから。お金の管理はちゃんとやってよ」
「金の管理はなんとかするし、大物プロデューサー経由で音楽業界に向けて大々的にプロモーションしていくから、〈安心〉してくれ」
 箱に張られた受領証を見ると、七月末の週末二日だけで五十足近く注文されていた。〈安心〉してくれというけれど、ほんとうに大丈夫なのか、愛流は〈不安〉を拭えなかった。
 エリオの言っていた通り、その夏から秋にかけて、爆発的に〈好き〉が売れた。
 全国的に音楽ファンには〈好き〉の常に需要があるらしく、特にアーティストやアイドルに向けられるものを熱心なファンほど買い漁った。〈好き〉に〈好き〉を重ねる程に当人の〈幸福〉が増加していく。夏のコンサート会場のアリーナ席では、一リットルも二リットルも、〈好き〉を摂取する者が増えた。〈好き〉の持つ感情エネルギーの情動作用により、ガタガタと身体が震わせ、涙で顔をグシャグシャにし、定番曲が演じられると筋肉が吊るほどに跳び上がり、挙げ句には失神する。その様子は宗教的体験において、神の言葉を聞いた人間がブルブルと震えながら祈りを捧げ続ける様子に似ていると評された。
 バンドやアイドルの追っかけをする若者たちは遠征費を稼ぐために〈エモトラ〉を利用した。ホールライブに参加して最前列で〈好き〉と〈歓喜〉の純度を高め。ライブが終わると抽出し、地方遠征に来れなかったファンに向けて出品する。売上でライブに行き、これを繰り返す。永久機関の推し事と呼ばれた。
 〈好き〉の重さや体積を比べられるとどうなるか? 当然のように各所でマウンティング合戦が発生し、熱烈なファンはグッズを買うだけではなく、日本中世界中からあるアーティストへの〈好き〉を買い漁り、長く身体に馴染ませるために温湯に溶かして半身浴を繰り返し、繰り返し抽出して、SNS上で重さの自慢をした。
 僅かな〈好き〉でも買い手がつく。少量の感情液を集めて濃縮すると値段はさらに上がる。音楽を中心に、お小遣い稼ぎのためのライトファンが急増した。音楽をかいつまみ、〈好き〉と感じたら〈エモトラ〉で抽出し、金に変える。これに批判の声を上げ、〈エモトラ〉の危険性を指摘する評論家も多く湧き、正しいファンとは何かと言った言説が飛び交ったが、結局の所、音楽の現場は感情液なくては成り立たない状態になった。

 食卓に置かれた巨大なバースデーケーキに51歳を示すロウソクが立てられる。ケーキをよこせと、ダヴィは紗椰の足下をウロウロしている。ネームプレートには岡崎マリア=ソウザと、アルファベットと日本語の両方でエリオのママの名前が書かれている。その下に小さく生年月日が書かれている。1991年8月2日。
「年齢を計算されたくないから、書かないでと言ったじゃないか」
「ごめんよ。ママ。でも、誕生日おめでとう」
「お前。ビジネスが上手くいってるみたいだね。〈嬉しい〉よ」
「料理サークルのみんなと海外旅行をプレゼントするよ。いつもありがとう。〈感謝〉してる。」
「ありがとうね」
「この前言った件、どうかな?」
「ここは結構、暮らしやすいからね。友だちもいるから、お前がこれ以上成功しても。車も家もいらないよ。でもね。お前がそう言ってくれるのは〈嬉しい〉よ。天国にいるパパもきっと喜んでる」
 エリオはパパのことを思い出し涙目になったが、ママに肩を叩かれてありがとうと〈感謝〉を伝えられると目を潤ませながら満面の笑みを浮かべた。
 パーティーはそのまま進行し、フェイジョアーダなど、エリオがママから教えてもらって腕をふるった料理をみんなで楽しんだ。
 会の序盤からケーキを食べ始めた紗椰は、ちゃっかりネームプレートももらっていた。愛流はそれを見て、前から思っていたことを思い出して聞いた。
「そういえば、紗椰=ランダウ変換って、なんで名前なの?天村=ランダウ変換って名前にするんじゃないの?普通。フーリエ変換とか、ルジャンドル変換とか、みんな名字じゃん」
「私も愛流も、親が居ないでしょ。私も、親の顔を知らない。東園寺はそうとは思えない。だから、物理を親にしたの」
 会が終わって部屋に戻ると、愛流は本棚に置かれたままのランダウ=リフシッツをハンカチでそっと拭いた。リフシッツの立場はどうなるんだろうなんて考えながら、今のロシアのモスクワで死んだレフ・ランダウについて調べて頷いた。1月22日、紗椰とランダウの誕生日は、同じだったのだ。

 八月頭の週末、エリオとダヴィはふたりで散歩に出て、愛流と紗椰は二人で勝島駅から新東京モノレールに載って〈芝浜グランドタワー〉へ買い物に出た。
『オレも連れて行け』
 団地から西に伸び、京浜運河を渡る地点、勝島駅前で分かれる時、ダヴィはそう言って聞かなかった。頭上三メートル間近を通るモノレールの線路に飛びつこうとしたが、エリオにたしなめられると諦めた。
 八潮団地では夏祭りの準備が着々と進められ、盆踊りの櫓を組むために稼働する資材運搬ロボットの調子が悪くなると、愛流は呼び出されて対処した。〈エモトラ〉の改良を進めたいが、ロボットが困っていると聞くと放っておけなかった。熱い中停止して、調子を悪くしたら〈心配〉だ。
 紗椰は窓の外、着陸体制に入る飛行機が特区の中心、南大井の高層ビルの青いガラス群に映え、白く高く立ち上がる海坊主みたいな雲の像に飲まれて消えるのを見ていた。
 二人で出かけることは、〈嬉しい〉とか〈楽しい〉ではないとすれば、紗椰にとっては何なのだろう。前にも考えたように、その麗しい頭脳がもたらした計算の結果にすぎないのだろうか? 無数にある行動の中から、目的を果たすための最適な通り道の一つとして、選び取られて入るのだろうか? 目的。感情がただのエネルギーであることを証明する。正しい物理法則を示す。感情物理学を発展させる。
 自分も、その道のどこかにいるだけなのだろうか?
 洋服や靴を買い、いつも黒いロゴ入りティーシャツを着回している紗椰にブルーのワンピースを買った。愛流と紗椰は二人で人気の和菓子屋に入り、よく点った抹茶を啜りながら、天の川を模した羊羹を食べた。季節外れに見えたが、和菓子屋は旧暦の暦で動いているらしかった。
 出際に、七夕クーポンを渡された。織姫と彦星がモチーフのカードは、近距離通信をする回路がプリントされていて、二つのカードが近い時だけ中央に書かれた天の川にカササギを映し出すらしい。
「暗号化近距離通信だってね。紗椰と使ってる〈Wir〉みたい。安全性のためって言ってたけど。南大井のベンチャーが作ってるんだね」
「あんまり需要なさそうだから、こういう会社は直ぐに潰れると思う」
 素っ気なく、普段どおり、事実か予測かを述べるだけ。そんなに冷たいこと言わないでよ。そう言い返しそうになるのを、愛流はこらえた。
 芝浜駅改札では、SLMのティーシャツを着たエンジニアがゲート型〈エモトラ〉の設置について駅スタッフと相談していた。
 駅前のスクリーンでは東園寺が〈エモトラ〉を宣伝している。
 テラス席でグラスビールを鳴らす者たちの三人に一人くらいが、聞きながら興味を持ち、情報を得ようとモバイル端末で検索をはじめる。
『芝浜駅の皆さん。SLMの代表。東園寺崇季です。目に見えない感情の取り扱いにお困りではありませんか?SLMの開発する〈エモトラ〉は感情〉を抽出し、見える化します。ほら。この様に。〈怒り〉や〈悲しみ〉や〈緊張〉、〈憂鬱〉をゲートを通過するだけで取り出せるのです。皆さんは負の感情に苦しめられることがなくなり、生産的、効率的に日々を生きることができるようになるのです……』

 別の日。愛流と紗椰がタクシーに乗ると、経営者向けの広告が表示された。広告のネットワーク上のデータは古く、退任して暫くたっているのに、急成長ベンチャーの社長として登録され、追跡されているからだった。
 東園寺が話す音声に合わせて、自動文字起こしが字幕を表示する。
『ビジネスエグゼクティブやマネジメントの皆さん、従業員の感情の管理にお困りではありませんか?弊社の開発する〈エモトラ〉は、従業員の感情を抽出、液体化することで計測し、重さや体積、粘性といった指標による管理を実現します。仕事に〈喜び〉を感じられない社員を可視化し、効率的に研修プログラムにアサインすることも、〈苦しさ〉を取り除くことも可能です。液体化した感情を分け与えることで、先輩社員から後輩社員への感情共有エモ・シェアも実現します。SLMはこの国の生産性の向上に貢献し余す。お問い合わせは…』
 愛流は顔をしかめ、〈嫌悪〉と〈苛立ち〉を覚えて目をそらした。紗椰は降り際に、〈エモトラ〉を自由な目的のために使わない東園寺は間違っている。そう言ってよろめきながら歩き出した。暑さにあてられているのか、近頃ふらつきが増えているのを、愛流は〈不安〉に思った。
「時間が必要とは思ってたけど、感情エネルギーを万物に作用させるには、もっとダイナミックな実験が必要だね」
 帰宅すると紗椰はそう言って、水性ペンにスケッチブックを持って、団地の地図を描いて、各棟を表す四角い記号をの上に電球マークを幾つも書いて、線でつないでいた。開封したてのアイスは忘れられ、シロップ状に溶け始めていた。
 電力が必要。紗椰は言った。できれば加速器ぐらいの。
 翌週、エリオのママの家のある34棟が、翌日は35棟が停電した。その次には予備電力まで含めて、八潮地区全体を停電させようとしていた紗椰を愛流は全力で止めた。

 秋が過ぎると、政府系ファンドから多大な資金の投下を受けたSLM社のゲート型〈エモトラ〉は、シナガワ特区に急速に普及した。寝ずに働く社長の取り仕切る急成長企業から、お客様対応のため真心のこもった〈感謝〉や接客の〈喜び〉を従業員に感じさせたいコンビニチェーンやフードチェーン、特区と他区の境界域の歓楽街に存在するキャバクラや風俗店、借金の取り立てにのため、債務者の〈申し訳なさ〉や〈罪悪感〉を抽出し、事実として突きつけたがる街金融にも広がっていった。
 導入が明るいニュースとして報じられる度に、愛流を暗澹とした〈憂鬱〉が襲い、〈未来の家〉の解散に至るまでの記憶が蘇って〈辛く〉なった。
 ゲート型の〈エモトラ〉は検査と管理に使われる。あたかもそれは、感情能力や官女的知性を計測すると言って自分たちを苦しめた感情能力試験のように。
 朝食の時、ダヴィは受信した一日のニュースを音声にした。芝浜駅に続いて新東京モノレールと京急線の各駅にゲート型が設置される。それを聞いて、エリオが対抗意識を燃やしたのを愛流は不思議に思った。
「ああいうゲートにはいい思い出がないからな。オレもあいつらには負けたくないよ。まあ、ゲート型が普及しだしたから、最近は結構、ネガティヴな感情も売れ行きが良いけどな。〈申し訳なさ〉とか〈罪悪感〉は、借金をしてる奴らとか、オレの前の仕事みたいに、なにかあった時に客に許してもらうために全力で謝りたい奴らに売れてる」
「もうなんか、何でも売れるんだね」
「そうだよ。〈エモトラ〉のおかげだな。他には、ゲート型で検査されるから、仕事を〈楽しい〉と思ったり、上司に〈憧れ〉たりするのも売れてるな。仲間内で作って、流してる。供給が少ないときは金の二倍か三倍の値段がつく。プレミアのスニーカーと一緒だ」
 テーブル脇に山積みになったスニーカーを見て、愛流は苦笑いする。
「でも、〈楽しさ〉とか〈憧れ〉なんて、エリオの仲間が感じてないと抽出できないでしょ?」
「感情液は、液体だからな、集めりゃいいんだよ。買いたい奴の会社のロゴや社長の顔でも思い浮かべながら、〈楽しい〉と感じようとするんだ。一人二十ミリリットル、二十五人集めればボトル一本分だ。試験受けた後みたいに頭がつかれるから、紗椰みたいに甘いものを食べてせっせと作ればいい」
 紗椰がいうには、感情を生み出すのは前頭葉っていうらしいな。
 だから、オレたちの前頭葉は、感情生産工場だ。
 前頭葉で生産された少量の感情を集めるというエリオの発想は革命的で、追従する業者が大勢いた。フリマアプリやオークションサイト上に〈喜び〉や〈幸福〉の種類が増えていった。〈責任のある仕事を任される喜び〉、〈評価される喜び〉、〈認められる喜び〉なんかは麻薬のように自己肯定感を満たしてくれると幾つもレビューがついた。
 薄給の若手公務員の間では〈安定した収入の得られる喜び〉を売ってお小遣い稼ぎをするのが流行っており、ボーナスよりも〈喜び〉の方が高そうだと、地域センターで話す声を、愛流はダヴィの散歩中に聞いた。
 高純度のマジでエモい〈喜び〉が飛ぶように売れると、ゲート型を使った検査の頻度も上がった。検査する側には〈不安〉を感じる中間管理職が多かった。トップダウンでゲート型を導入するようにトップから言われると同時に、自分や仕事場がどう思われているか純粋に気にしている者が大半だった。自分を越えて会社まで自意識は拡大しているから、彼らは〈不安〉を感じざるを得なかったのだ。
 
 エリオはさらに張り切って、新しく幾つかの倉庫を借りて、スタッフの募集をかけた。
 新しい貸倉庫がいくつも感情生産工場と、併設される〈エモトラ〉生産工場に化けた。
 愛流は一日おきに各工場に出向いて、機器のメンテナンスをした。かつて運送会社のガレージだった建物は断熱性の高い分厚いダークグレーの壁に囲われていて、巨大な換気扇がゴウと鳴っていた。乾いた壁面に映える白いLEDは影を切り裂く新月へ向かって消えていく下弦の月の光の様に見えた。
 感情工場の工員は多国籍で、日替わりで世界中の料理が提供されていた。
 その日のランチはブラジル料理だった。エリオのママの手料理の懐かしい匂いを思い出し、空腹を感じた愛流は〈感情〉工場の喧騒に入り込んだ。ハラルにアレンジされ、ベジとノンベジに分けられて盛られたムケッカはカレーのようにスパイシーに香り、ハチノスやミノと白豆を煮込んだドブラジーニャと、トマトとエビとカニが薫るムケッカの鍋から立ち上る湯気が食欲をそそった。
 工員たちは談笑をし、外国人同士で言葉がどうしても通じないと感じた時は〈エモトラ〉で取り出した感情液を渡し合って心を交わしあった。
 各国固有の文化を実践する時の〈感情〉が交換され、時には宗教的タブーや文化的タブーなど、言葉で説明されても心と身体で理解することが難しいものも、感情液を通じることで多少なりとも通じ合うことができた。
 感情工場内では、感情は言語を超えた、原初から存在するコミュニケーションのプロトコルであった。愛流は工員たちが談笑するのを見ながら、エリオから受け取った紙皿に三つの料理を均等に盛り付けて、並べられたパイプ椅子の一つに腰を下ろした。
 一つ隣の列にはランチを終えたメンバーが三人並んでいる。愛流から一番近い男はタブレット端末を前に置いて指先で漫画のページを捲り、死んだヒロインの遺体を主人公が湖に沈める印象的なシーンをじっと眺め、うっすらと涙を浮かべていた。巻の終わりまで行くと作業机の端に置かれた〈エモトラ〉を手に取り〈悲しい〉にダイヤルを合わせて、カートリッジに薄青の感情液を溜めていた。
 漫画を読む男の隣に座る二十代後半の女性は、高校の制服を着る女の子の写真を見ながら泣いていた。はらはらと落ちる涙は、砂地に咲く花に実る小さな果実がほろりと弾けて種を残すように、白い作業台に薄く小さな跡を残す。
 写真に写るのは八年前に亡くなった親友で、当時はまだ多かったマニュアル運転のクルマに追突され。五十メートル近く引きずられた。即死だった。あるはずだった人生を思って女性が目を閉じる。今度は大粒の涙が落ちる。
 しばらくすると〈エモトラ〉が真っ青の感情液を抽出し、繰り返す。
「大丈夫ですか?」
 右隣の中年の男が女性に声をかけた。男は左の二人から受け取った青い〈悲しみ〉の計量をしている。
「大丈夫。一番辛い時は、大昔に終わったから。いまでもこうやって、〈悲しみ〉がいくらでも生まれてくるのを見ると、安心できるんです。まだきちんと、心が震えて、苦しくなって、身体のどこかで覚えているんだって思えるから」
「そうですか。それなら、大丈夫、だと思います」
 男は空の薄いボトルに〈悲しみ〉を注ぎ込み、続けてほんの少しの真っ青の〈悲しみ〉を垂らして混ぜる。混ぜ終わると指先につけて舐めて、情動が起こるのを待ち、配合を確認した。
「エリオ、あれは何をしてるの?」
 紙皿をゴミ箱に投げ入れて、紙ナプキンで口の周りをゴシゴシと拭いてから、愛流はエリオを捕まえて聞いた。
「メンバーからのアイデアで、〈感情〉の水増しを試してんだ。〈悲しみ〉を増やしてる。マニュアル運転に憧れる子供に与えたいって、親たちから連絡があるんだよ。〈辛さ〉や〈怯え〉や〈怒り〉とか、暗い感情なんて売りようがないと思ったけど、意外とそうでもないんだ。まあ、漫画とか映画とか小説を読んで感じる〈感情〉と、実体験の〈感情〉をうまく混ぜられるかは、まだよくわからないけどな」
 このアイデアも、もっと応用できるぜ。エリオは〈自慢げ〉に言った。

 感情液は新しい稼ぎ方として注目を集めていて、〈エモトラ〉をいくら作っても供給は追いつかなかった。ゲート型の〈エモトラ〉は一年をかけて山手線全駅と私鉄各駅に設置されると発表され、いよいよ全国的に広まろうとしていた。シナガワ特区に限らず、なし崩し的に〈エモトラ〉は全国に広まっていった。
 ゴミとして下水に捨てられる感情もどんどん増えた。生産性に寄与しない感情は、ゲート型から取り出されて下水に流され、下水に済む生き物に感情エネルギーは作用していった。〈怒り〉に猛った蚊が飛び回り、〈悲しみ〉に沈むゴキブリは動かなくなり歓迎されたが、〈苦しみ〉や〈怒り〉感じて暴れ回る動物の被害を受ける者もいたし、ゲリラ豪雨のあとは花が萎れた。感情液が蒸発して、雨に混ざりはじめていた。
 ポジティヴな感情も、使い終わったら捨てられた。〈喜び〉や〈安らぎ〉でさえ、使い捨てにする者もいた。
 愛流の身の回りでも、被害を受ける者が増えてきた。団地にも、それから、感情を生産するスタッフにも。今日もガレージに足を運ぶと、スタッフの何人かが顔に包帯を巻いていた。
「その怪我、どうしたんですか?」
「ネズミに噛まれたんです。下水に住んでるネズミが最近凶暴で、ヤバいんですよ」
「ヤバいって?」
「植え込みには〈憂鬱〉そうなネズミが寝そべってるのはまだいいとして、〈怒り〉狂ってるやつらがヤバいです。後輩たちと飲みに行った帰り道にやられました。あいつら、病原菌いっぱい持ってるから、病院いって太い注射を何本も打たれましたよ。シナガワもそうだし、都心もそうだけど、感情液をじゃんじゃん下水に流してるのがまずいっぽいですね」
 
 愛流は〈エモトラ〉工場で使うロボットアームを何台も組み立て、3Dプリンターと連結し、四足歩行の配送ロボットの股関節の調整している間、心は〈安心〉と共に微かな〈興奮〉を覚えた。愛流はロボットや機械が〈好き〉だったから。
 それでも、連日のようにエリオから向上の稼働率をあげろと半ば命令のようなメッセージを受けていて、疲れ切っていた。気分転換に本屋に行くと、あなたにもできる〈喜び〉のセドリ。今稼ぐなら〈幸福〉を作り出せ。〈喜び〉父さん。〈悲しみ〉父さん。世界一分かりやすい感情投資の入門。サルでも稼げる前頭葉。平凡なサラリーマンが〈罪悪感〉で月50万円稼いでみた。などの本が並んでおり、目眩すら覚え、全然〈安らげ〉なかった。
 家に帰ると、スニーカーの加水分解防止のフィルムを剥がしているエリオがいた。ダヴィがエサをくれとねだっているけれど、気にもとめていない様子だった。愛流にスニーカー売買アプリの画面を見せると、希少性故に、五年前に三千万円近いプレミア価格がついたナイキエアマグ、バックトゥザフューチャーモデルを示して、次はこれを狙ってる。今度オークションに出るんだ。といって笑った。
 息子の目つきがおかしい。疑り深くなってる。
 京浜運河沿いの並木が色づき、真黄色のイチョウの葉を巻き上げる潮風が冷たさに沈み、運河を行く屋形船の浴衣客が減って閑散としはじめた頃、エリオのママが深刻そうに太い眉を曲げ、〈苦し〉そうに〈心配〉そうに口元を歪ませながら、団地の南側のなぎさの森公園に愛流を呼び出してそう打ち明けた。
「金回りが良くなると人が変わるところも、エリオはパパそっくりだ。血は争えないかもって、パパはよく言ってた。エリオには、ウチのパパが事業で成功したけど、働きすぎで倒れたって言ってあるんだ。でも、本当は違うんだよ。愛流ちゃん。パパは調子がいい時に色々なモノに手を出して、借金までして欲しいモノを買えるだけ買って、借りたお金を返すためにたくさん働くことになって、倒れたんだ。あいつは感情液を売って、そりゃ良いところもあるよ。でも、なにか良くない道を踏み外しつつあるよ。目を見れば、私には分かるんだ」
「わたしも、最近忙しくて、あんまり話してなくて、すみません」
「愛流ちゃんが謝ることじゃないよ」
「最近は、たしかに疑り深くなっているかもしれません」
「金の匂いがするところには、悪い奴らが湧くからね」
 エリオのママが言って、愛流は頷いた。生産量が増えた〈エモトラ〉の価格は安定こそしていたが、まだ転売の需要があり、ガレージが強盗に押し入られたり、珍しい感情液を運搬するロボットが襲撃を受けたりしていた。エリオ自身も何度か暴漢に襲われ、〈興奮〉や〈安堵〉の情動をもたらす感情液が流行したことで、半グレや暴力団のシマを荒らしたと見なされて脅迫を受けたりしていた。
 シナガワ特区は再開発の際に横暴な行政による浄化作戦を経ており、指定暴力団の事務所などは壊滅させられていたが、特区の外側となると話は違った。
「エリオと話してみます。そうじゃないとわたし、居候させてもらった恩が返せない気がして、〈申し訳なく〉て」
「そんなの感じることないよ。エリオと仲良くしてくれてる子が困ってるっていうから、〈喜んで〉助けたんだ。あたしは娘が欲しかったし、ちょうどパパの部屋も空いてたからね。あの〈エモトラ〉なんてので確かめないでおくれよ。そんなのしなくたって、あたしは愛流ちゃんのこと、たしかに愛しているんだから」
 そうか。なにか目的があって、家に置いてくれたわけじゃなかったんだ。
 〈嬉しさ〉と〈安堵〉で全身の筋肉がほぐれ、鼻孔の奥が熱くなり、涙が愛流の顔をグシャグシャにした。
 愛流と一緒に、、エリオのママは泣いた龍が呻くように、泣いた。
 暫く背中を擦ると、声は収まった。渡されたハンカチで目元を拭って、エリオのママは口を開いた。
「エリオは、この前、あたしに〈エモトラ〉を向けたんだよ。愛を確かめたいって。親に向かって、あんな物を向けるなんてね。〈悲しく〉てしょうがないよ
 その日、愛流はエリオのママの家に泊まった。エリオのママは一晩中、エリオが小さかった頃の話をした。パパが生きていた頃、三人で撮った写真も愛流に見せた。その後二人に減って、途中からまた、三人に戻った。子犬のダヴィは途中からサイボーグ犬になった。この前の誕生日パーティーの写真には、四人と一匹が映っていた。
 翌朝、起きて部屋に戻ると、ダヴィを散歩に連れ出した。
「ダヴィ、あなた。エリオに怒ってって言ったら、どれくらい〈怒る〉ことができる?」
『〈怒り〉? あの赤いやつ? わかんないけど。やってみるよ』

 モコモコしたお尻を振って歩くいかにも愛玩動物であるコーギー犬がここまで恐ろしくなれるのだと、まして、普段はおどけたダヴィがここまで〈怒り〉に震えるとは思ってもいなかった。
 そのスニーカーが市場に出回ったのは五年ぶりのことだった。しかも、前回のものよりも状態がいい。手に入れたときの〈幸福〉を思うと耐えられなかった。長く燻っていた〈憧れ〉の重さに押しつぶされ〈後ろめたさ〉は影も形もなくなっていた。〈恐れ〉と〈疑い〉は、スニーカーに〈憧れ〉ている時は忘れることができた。
 落札価格六千万円。
 プレミアスニーカーの歴史にエリオは落札者として名前を刻んだのだ。
 今日すでに、羽田についたそれの配送は終わっているだろう。警備も万全だ。感情液を守るよりも高いコストを払って、ハイエンドの警備ロボットを準備したのだ。
 秋の終わりの長い雨が勢いを増す中、エリオは帰宅した。
 降り注ぐ雨が銃撃の様に響き渡って、ひ弱な雨樋と排水系統を麻痺させてしまった。ベランダの窓に稲光が光、すぐに音が続くだろうと思っていると、飛び込んできたのは凶悪なハイエナだった。目をむき出し、半開きの口には鋼鉄の牙が剥き出しになっている。低く鈍い吠え声が聞こえ、心臓は深く一度打った後、行方不明になり、鼓動の感覚が失われた。足の筋肉は膠着し、意志通りに動くのを忘れた。
 耳につながる聴覚野は、張り詰めて冴え渡り、森に暮らす頃に人間の遺伝子に刻み込まれた獣に対する〈恐怖〉で満ち溢れた。
 ダヴィは後ろ足を思い切り蹴って飛び上がり、尻で何度もエリオを踏みつけた。
 エリオが微かにうめき声を上げ、助けてくれと叫んだが、警備ロボットは皆、愛流の手によりハックされ、止められていた。愛らしいコーギーのヒップドロップ五度目にして当たりどころが悪く、エリオは気絶した。ダヴィが跳ねる度にスニーカーの箱に山は崩れ、破れ、中からゴロゴロとイエロー、ブルー、レッド、ゴールドにシルバー、ストリートの原色の色合いに染められたプレミア物のスニーカーが転がりだした。
 遠吠えが三階響いた。吠える度に雷が近くに落ちて、建物が微かに揺れた。稲妻の化身が吠える声が聞こえたと、後日同じ棟の少年が語った。
 〈怒り〉の感情液の作用が抜けて穏やかな表情に戻ったダヴィと共に、愛流はエリオをリビングまで引きずった。ソファに載せようと思ったが、身長百九十に近い男の身体を動かすのは不可能だった。
 やりすぎた。ごめんね。
 そう言って愛流はエリオの大きな手を握った。
 幼い頃、地元の子供たちに石を投げられていた愛流をエリオがかばってくれた時のことを思い出した。一人の少年が投げた丸い石はエリオの後頭部に当たり、エリオはふらついて歩けなくなった。あの時は愛流一人でエリオを家まで運んでいくことができたが、今ではそれすら無理そうだった。時間が経って、大人になった。
 エリオに〈エモトラ〉を向ける。
 友だちの全部を暴くつもりはなかった。エリオの様子を狂わせる原因を探りたいと、純粋にそう思っただけだった。
 ダイアルをSAMPLEとALLにセットし、トリガーを引いた。
 〈エモトラ〉は聞き慣れた駆動音を立て、カートリッジに感情液を貯める。
 比重別に、エリオの感情液が層を作る。一番下に太く〈疑い〉の浅黒い層があった。そに上に、〈怯え〉の灰色の層があった。その二つの層に量で勝とうと、美しく蠱惑的に黄金に輝く層があった。〈憧れ〉だ。愛流は思った。上の方に浮き上がっている深緑の層は〈うしろめたさ〉だろうか。
 一番下、深い所、一番重い所に淡桃の層があったが、他の層の厚みに気を取られ、愛流は認識しなかった。
 〈疑い〉と〈恐れ〉と〈憧れ〉、量の多い層をすべて取り除こうとして、愛流は〈悲しく〉、〈苦しく〉なった。自分のやっていることはSLMの作るゲート型と同じだった。感情を暴き、操作しようというのだから。 
「ごめん。エリオ」
 愛流は覚悟を決め、〈エモトラ〉のモードを切り替えて、全部を抽出して捨てた。
 〈憂鬱〉が心を満たしていく。涙は流れていたが、〈悲しく〉はなかった。
『愛流、オレもエリオの感情、触ってみたい。ちょっとだけでいいから』
「ほんのちょっとだけだよ。ねえ。エリオにはこのこと、黙っておいてね」
 愛流は下の層をティースプーンで掬い上げ、ダヴィに舐めさせた。淡桃色の層はシロップのような優しい舌触りを残しながらダヴィの喉を滑り降りた。
 愛流はその色に見覚えがあると思ったが、思い出せなかった。
 午前中に配送された物々しい荷物の封を解くと、バック・トゥ・ザ・フューチャー2に登場する、足を入れれば自動で紐の結ばれるスニーカーを現実化したナイキの限定モデルが姿を表した。
 過去に戻る手段は発明されていないが、感情を抜き出す〈エモトラ〉は発明された。
 身体に重たい疲れを感じ、愛流はエリオの横に深く腰掛けて目を閉じて眠った。ダヴィは愛流の脚にベッタリと身体を密着させていた。淡桃の感情液を飲み込んでからずっとそうしていた。
 ふたりが寝てしまってつまらなくなったダヴィは壁を伝って地上に降り、近頃一層体調を悪くしている紗椰の元へ向かった。
『いつものように。オレが感情液を摂取した結果、メモを遺してくれよ。今日は〈怒り〉を味わった。犬も人も同じだ。頭が爆発しそうになって、口と歯によく力が入るようになるな。後はピンクの〈感情〉も味わった。こっちは〈安心〉するけど、〈心配〉になるような感じだな。前足とお尻の当たりが火照る感じがしたぜ。それから、愛流の顔が見えたよ。今も見えるぐらい。続いてる』

 宵の気配を含み始めた風の匂いが、時を経ても変わらない優しい涼しさで抜けていく京浜運河を南に進む。大田市場を囲む公園は幼い頃と変わらず。リードを離すと、ダヴィは子犬のときと同じ様に渡り鳥を捕まえようと走り出して、逃げられていた。
 冷たい風の吹き抜ける殺風景な埠頭には交通警察の訓練所があって、今では自動運転パトカーとロボット白バイの詰所となっていた。
 埠頭の外れの海浜公園では、少年たちがスケボーで遊んでいる。広がる東京湾の空には雲ひとつ見えなかった。
 紗椰は部屋で集中したいと言って来なかったけれど、連れ出せばよかった。久しぶりに、三人と一匹で遊びたかった。
 海辺でざわつく声が聞こえる。
 釣り人と、水質調査に訪れていた環境活動家が水面を指差している。
「水質汚染で、こんなに魚がダラーっと浮かんで死ぬのは初めて見た。ひどい状態だ」
「いや、これは、死んでねえ。気力なく浮かんでるだけで、全然エサも食わねえ。かと思うと、同じくらい狂ったように噛み付いてくるやつも釣れやがる」
 翌々日の新聞は、都内の寿司屋で板前に暴行を働く客が同時多発的に発生したと報じた。次の週末、愛流はかもめ橋をダヴィと歩いていると、足元の京浜運河の水面に、〈怒り〉狂った魚が何度も何度も繰り返し飛んでいるのを見た。
 見た目の上では昔と変わらない東京湾が、感情に汚染されはじめていた。

4.

 冬が終わり、春が過ぎ、また夏が訪れた。
 東京の感情汚染は進んでいて、気温が高くなり始めると、蒸発した感情液は空に吸われて、雨になって降り注ぐように鳴った。前年よりも、雨の中の感情液の濃度が濃くなっていた。雨に含まれる〈怒り〉、〈苦しみ〉や〈喜び〉を浴びると、雨に濡れる人は皆、情動作用に支配された。泣き叫び、頭を押さえうずくまり、喜びに震えた。
 エリオと愛流の感情工場では、感情の水増しなどの手法をとらなくなっていたが、一度拡散したアイデアを止めることはできなかった。多国籍の工員は入れ替わり立ち替わりで、彼らは母国へ〈感情液〉や〈エモトラ〉を持ち帰った。なお悪いことに、東京中にゲート型の配備を終えたSLMは〈エモトラ〉を世界に輸出し始めたのだ。
 
 紗椰はある暑い日、コンビニにスイーツを買い出しに行こうとした所で倒れ、そのまま南大井、シナガワ特区の中心部の先端医療施設に入院した。SLMにほど近いそこは、東園寺の息がかかっており、愛流もエリオも面会を許可されず、病棟も教えられなかった。
 血行障害が酷い。思考にエネルギーを使いすぎた。
 意識レベルが低下している。
 そうとだけ伝えられた。病状は分からず。三人はただ〈心配〉した。
 最後に会った時、紗椰は愛流に「待っていれば、約束は果たせる」と告げていた。

 山手線の各駅にはゲート型エモトラが設置され、通るものは感情を検査され、邪なものがあれば取り除かれた。取り除かれた感情は廃液回収業者により回収されたが、規制が追いついておらず、ただ単に下水に流されていた。感情汚染は進むばかりだった。最高気温は更新され続け、海に流れた感情液は蒸発して空に漂った。

 愛流は〈芝浜グランドタワー〉の地下で四つ、ケーキを買った。紗椰が返ってくるのを、祈っていた。和菓子屋のウィンドウを眺めて、そういえば七夕が近いと思った。
 彼らは旧暦で動いているから、今日はその日じゃない。
 でも、七夕。何で忘れていたんだろう。
 財布に締まったままのカードを引っ張り出した。紗椰ももし、財布に七夕クーポンを入れたままにしてくれていたら。
 タクシー乗り場へ向かい。少し待つと最新型の自動運転車両が来て、それに乗って、八潮団地に帰る旨を告げる。
 天気アプリに落雷と大雨の警告が届く。
 愛流が家を出るときから西の方で不穏に蠢いていた雲が、急速にシナガワ特区から光を奪いはじめた。
 二つの閃光が街を引き裂き、空が千切れる音がした。千切れる音は繰り返されて重なり、空の全部が雲に溶け出して地上に流れ落ちるかのようだった。空爆を知るのはアーカイブに即座にアクセスできる検索プログラムだけだったが、雨の下にいる誰もが絶え間ない爆発が身近で起こっているのを感じた。
『シナガワ特区及び大田区海浜部に豪雨警報及び落雷警報が発令されています。ご降車の際はお気をつけください。観測史上、最も落雷が強く、高エネルギー状態の雨雲であると予報されています』
 機械音声が警告を発する。
 雨に打たれながら、百人ほどの人間が怒り狂い、傘を持つ腕を振り回して走っている。 角を曲がり、経済特区の現代建築群に差し掛かる。こんな雨の中でも帰社を急がねばならぬ者たちが雨に打たれ、集団に加わっていき、全体は怒れる群衆と化す。 
 投石も始まる。
 ビルの一階のガラスが割られる。
 出てきた警備員も雨に濡れると〈怒り〉狂い、群衆に暴力を振りかざそうとする。訪れた警察は雨を浴び、情動にかられて警告なしに発砲する。
 連続する閃光がとても長い時間、昼間のような明るさで暗闇を引き裂いた。
 それが契機だった。
 観測史上最高のエネルギー状態となった雲は、感情液の相転移の引き金となった。
 感情液は相を変化させ、真に万物に作用するエネルギー体となった。
 群衆の投石が、愛流の乗る自動運転車の窓ガラスにヒビを入れる。緊急ブレーキが踏まれ、愛流の身体は加速度で投げ出され、頭を打って朦朧とした。
 静音モーターが奇音を上げる。甲高い加速音で耳をつんざく。車体が振動する。〈怒り〉だ。バックミラーとフロントガラスがヒビ割れ、急発進して投石者を跳ね飛ばす。
 自動運転車も配送ロボットも警備ロボットもみな集結して群衆に突撃し、時にはお互いに衝突した。
 雨を受けた万物の情動反応は止まない。万物が感情を獲得した。
 〈怒り〉の雨が上がるまで、地鳴りが続いた。
 経済特区中心部の建物は歪み、倒壊の機器に晒された。
 新東京モノレールも、京急線も、京浜東北線も、その駅の数々も。
 何もかもが内側からの爆発を受けたように、形を変えていた。

 轟音が幾つも鳴って、地鳴りが轟くのを無意識下で知覚したあと、久方ぶりに病室で目を開けた紗椰は、両目が霞んでいることに気がついた。
 目を見開こうとも、そうでなかろうとも、世界の見え方はまるで変わらない。意識を失う前より、目が悪くなっていた。
 起き上がろうと腰に力を入れて、両足を横にして手をつこうとするが、叶わない。
 耳だけはかろうじて自由で、貧乏ゆすりのような空調の音がよく聞こえた。空調の不規則な貧乏ゆすりに、パタンパタンと革靴が床を打つ音が混じり、音が大きくなっていく。 その不愉快な音に、紗椰は聞き覚えがあった。
「もう無理はできまい。天村紗椰、君の能力は我社にも、人類にもどうしても必要だ。死んでほしくない。だからこうして救った。手遅れにならずによかった。感情物理学による〈エモトラ〉のさらなる改良ができるよう、君にいくらでもスタッフをつけよう。手足が使えなくとも、考えを口述してくれさえすれば、それを自由に論文に起こそう」
「嫌だ。身体に何をしたの? 私は協力しないよ。物理法則も技術も、普遍的で自由だから美しいと信じてるから」
「私は、私の最高傑作として、君を次の次元に連れていきたいのだ。そのうえで、その力がただの科学の追求に使われるのを惜しいと思うのだ。私に従うなら、君はもっと自由になれる。研究費用、場所も、人も、いくらでもつける。」
「協力はしない。私をここから出せ」
「出れないさ。少なくとも一人で動けるよう、車椅子の使い方を覚えない限りはね。もっと早く対処していれば、大丈夫だった、あるいは、君が考えすぎなければ」
「どういうこと?」
 東園寺は紗椰の前に鏡を示す。
 ぼんやりとした目でも、自分の身体がどういう状態か分かった。
 見慣れたはずの四肢がない。両腕は根本から切断され、左足は足の付根から消えている。右足だけは、かろうじて膝まで残っている。
 東園寺は憐れみの目で見下ろす。
「ショックか?でも、君なら。いきなり見せても大丈夫だろう?」
「うん。大丈夫。ショックなんて、分からないから。でも、これは困ったな」
「血行障害が酷すぎた。進行しきった壊疽ばかりはどうにもならなかった。先端医療の整った、この設備でもね。しかし、感じられないのだからどうにもならない。いつかはこうなっていた。手も脚も、切らなければ君は死んでいた」
「目は」
「目も、出血が激しい。今後の治療次第だ。だが、その欠陥品の身体じゃ。スタッフのサポートがなければ生きていくのは難しいだろう。ゆっくり考えると良い」
「私には、帰る所があるの」
 東園寺は何も返さない。足音が遠のいていくのが聞こえた。
 遠くで幾つものサイレンが聞こえる。
 何にも繋がれていないのに、ほとんど動くことが出来ずに、体力と思考のリソースだけが削られていく。
 身体を捻る。シーツと一緒に、僅かに動く。
 床に降りる。というより、自分以外誰もいない病室に、肉と骨が床を打つ音が響く。
 それ以上は動けない。移動は絶望的だった。身体の向きを変えることすら、こんなにも難しいなんて。
 カリカリと窓辺で音がする。
 カーテンを開ける音がしてベッドの上を何かが歩くポテポテという音が聞こえる。
『愛流。居ないぜ。誰も居ない』
「そんなはずない。よく探して」
 愛流は七階下、地上の駐車場でダヴィと通信する。釈放された愛流は、家に帰り、紗椰の場所を突き止めると、初めは正面から面会しようとしたが、面会を拒絶されるどころか、紗椰の名前が病室名簿のどこにもないことを不審に思い、ダヴィの後ろ脚の出力を上げ、救出に向かった。ダヴィは壁を駆け上がって、紗椰の病室に忍び込んだのだ。
「ダヴィ。ここにいる」
 ダヴィは、床でうつ伏せのまま動けないでいる変わり果てた姿を見て、時の女神に止められてしまったように動くのを止めた。呼吸をするのも、お尻を降るのも、自分が犬であることも。全部忘れないと、状況を受け止められなそうだった。
「ダヴィ。どうしたの?早く」
 通信の声も忘れてしまうほど、ダヴィは驚いた。
「ダヴィ。とりあえず。下に連れて行って。飛べるでしょ」
 ダヴィ口で紗椰を咥え、後ろ脚で思い切りジャンプする。床からベッドの上へ、ベッドの上から窓際へ、窓際に至ると、一度口を開けて休憩し、今一度、しゃがみこんだ。
『いまから、行く。着地で壊れたら、直してくれよ』
「もちろん」
 ダヴィは出力を上げて、飛んだ。
 夜は深く、放物線は見えない。愛流から十メートルほど離れた所に、ダヴィは着地して、地面の上にそっと紗椰を置いた。バネは強くされていたものの、着地の際に両足は壊れて、あらぬ方に曲がり、疑似神経線維も断線した。
「紗椰。どうしたの。ねえ。どうしたの。その身体」
 愛流は握りしめた七夕クーポンを地面に落とした。
 クーポンの表面の天の川には、うっすらとカササギの橋が掛かっていた。
 もう雨は止んだはずなのに、上から落ちてくる沢山の水滴で、カードの表面が濡れた。
「愛流。血行障害で腕も脚も。腐っちゃったみたい。だから、生かされるために、全部切られたの。これが今の、私」
「でも、生きてて、良かった」
「これじゃあ、一緒に住むの。大変だよ」
「わたしにまかせて。心配しないで。私が機械の身体、作ってあげる。ダヴィを直したときと同じ様にして、疑似神経繊維を編んで、手も足も作ってあげる。紗椰、もう約束は果たされたよ。感情の雨が降って、感情エネルギーが万物に伝わるようになった。紗椰の目的は果たされたの。だから、もういっかいおしまいにしよ。でもまだ紗椰には、感情が分かってないでしょう? わたしはこんなに、紗椰に〈憧れて〉、〈悲しく〉て〈嬉しく〉て、もう何がなんだか分からないのに。いつもの無表情のままなんだもん。でも、これから、それを何とかするよ。普通の感情液だと駄目だったけど、あの感情の雨を浴びれば、きっと紗椰だって、感じられるはずだから」
 愛流は紗椰の採寸をし、かつてダヴィにしたように、最新の素材で骨格と関節を組み上げた。感情液の売買で稼いだ金で信頼できる外科医と麻酔医に依頼をし、設計図を見せながら、協力して紗椰の神経と機械の骨格をつなぐ疑似神経線維を編み上げた。縫合は手足一つずつ行われ、その度に愛流は徹夜した。
 機械の手足の定着までは時間がかかり、一歩歩き出すことも困難で、愛流は紗椰のためにリハビリ補助ロボットを作り、毎日毎日、一歩でも二歩でも、歩けだるだけ歩いた。

 三ヶ月が経過した。
 秋の終わりが訪れ。秋が訪れた。暑さは引いて、雷を伴う豪雨の数は減った。観測史上最大のエネルギーを持つ雷で高エネルギー体となった感情液は、大気の循環と共に何度か東京各所に降り注ぎ、そのたびに人々やタクシー、ロボット、新山の手線、各所にそびえるタワーマンションを感情に巻き込んだが、寒い季節の訪れとともに、平穏な日々が取り戻された。
 SLMは責任を追求され、東園寺は解任されたが、〈エモトラ〉の販売は規制を受けながらも続けられた。
 各国に輸出された〈エモトラ〉はゲート型も小型の物も模倣され売られ続けた。感情雨は各国で発生して被害を出して、感情液は海流に乗って世界を駆け巡った。
 誰もがみな感情に興味があるから〈エモトラ〉を向け合い、ゲートで抽出し解析した。
 エネルギー体としての感情液に関する論文は日に日に増加した。
 感情汚染の対策も始まったが、追いついていない。
 東園寺が解任されて、SLMが紗椰に手を出してくることはなかった。
「紗椰、〈諦め〉たくなってない?」
「ないよ。知ってるでしょ。このアームで式は書けるようになってきた。これで、理論は作れるから、脚の方は合理的に考えると、無駄だからいらないんじゃないか。なんて、この前思ったけど」
「そうかもね。紗椰らしい。後で甘いもの食べよ。でも、脚も頑張ってほしい。これは、紗椰の身体を作りたいっていう私のエゴだよ」
 愛流は笑顔で、続けた。
「掛け違いを、私が直せたらとずっと、思ってたから」

 再び夏至が近づく。平均気温は今年も上がっていた。
 ゲリラ豪雨の予報と共に、あの日と同じ、落雷警報が表示された。待ちわびていた。この時を。一緒に行きたがるダヴィを、エリオが止めて避難を開始する。すでにシナガワ特区全域に、避難警報が出されていた。
 ロボット達は当然のように、放っておかれている。〈悲しみ〉の雨が降れば、壊れたお互いを見て泣くのだろう。愛流は思った。
 警報の中、愛流と紗椰は外に出る。
 人っ子一人外にはいなかった。
 二人きりの世界に滝のように雨が振り始める。
 〈歓喜〉の雨を浴びて、二人はビショビショになりながら手を繋いだ。腕と脚の骨格は震え、編まれた擬似神経が発火を繰り返す。風が強まり、一瞬〈怒り〉の度合いが強まった。
 紗椰が笑った。
 紗椰がムッとして、愛流を平手打った。
 風向きが代わって、愛流は泣いた。紗椰も泣いた。
 時に手をつなぎ、時に向かい合い、時にうずくまり、時に寝そべって、繰り返した。
 やがて雨は上がる。
 濡れきった髪、不愉快な湿度と灼熱の太陽が歌うように輝いていた。
 二人はもう一度、抱きしめあって、今までの人生で一番大きく震えながら、笑った。

文字数:46333

内容に関するアピール

一年間ありがとうございました。

私の中にあるSFをすべて出しました。

悔いはありません。

文字数:42

課題提出者一覧