シロクマの日曜日

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シロクマの日曜日

 「これを持って、神様の代わりにピンチヒッターに立ってちょうだい」彼女はそう言って、私の手に銃を押しつけた。–ホレス・マッコイ「彼らは廃馬を撃つ」

一.彼らは熊を撃つ 
 一九四三年八月末日、奥飛騨動物園の園長吉澤は腰を屈めて楓の一本棒を両手で強く抱え、そのまま一気に地面から引き抜こうとしていた。楓の木には自分で彫った「奥飛騨動物(熊)園🐻 ⬆ 」という文字と絵が書かれていた。空襲時の猛獣逃亡対策のため、日本各地の動物園に対して戦時猛獣処分令が出されてから一ヶ月が過ぎた日の正午のことだった。

 八月中旬には上野動物園の象の殺処分が始まり、飼育員が与える毒林檎を食べようとしない象が餓死をした報告が奥飛騨動物園にも届いた。各地の動物園でも殺処分の多くは餌に毒を注入する方法が決定されていた。
 吉澤は、熊達を逃がし森で放し飼いをすることに決めた。事実、奥飛騨平湯温泉一帯の山は全て代々吉澤家の土地であったので、自分の庭で熊を飼っているという説明には道理があった。
 しかし芸達者な熊達は、熊舎の扉を放ち無理に森の中へ連れて行っても、そこが自分たちの住処だと思えなかった。熊達は切符を買わずに入り口を通り、扉を開けて客のいない檻の中に戻った。それから自分たちで音楽をかけて踊り、夜になると小さな岩で囲われた熊舎に一匹ずつ入って眠った。
 これでは、いつ憲兵の視察で熊達が射殺されるかわからないと、森に逃がした後は熊園に入れないように鍵を閉めた。森の奥には、熊達が好きな林檎や蜂蜜の壺まで用意した。さらに飼育員長の提案で、熊達が使っていた自転車と太鼓やフラフープも傍に置いた。
 これなら熊達も森の中で暮らすだろうと、吉澤が「奥飛騨動物(熊)園🐻 ⬆ 」と掘られた楓の棒を抜いていたのだった。
 回りの土を掘り起こしても木がなかなか抜けずに困っていると、喇叭の音が聞えた。振り返ると、そこには太鼓を叩き、喇叭を吹き、自転車に乗りながら踊る月ノ輪熊達が行進していた。吉澤園長と棒を囲んで一二匹の月ノ輪熊は、円を描いて行進を続けた。
 そして熊たちは代わる代わる楓の木に自分の背中を気持ちよさそうに擦りつけた。
 
 吉澤園長が熊達に頬を膨らませて腰に腕を当てて怒っている仕草を示した時、そっと近づいてきた三人の憲兵は新品の三八式歩兵銃を構えた。
 最初に撃たれたのはフラフープを回して踊っていた月ノ輪熊だった。熊は眉間に銃弾を受け、フラフープを握りながら、後ろに二歩後退ってから仰向けに倒れた。次に自転車に乗っていた熊は側頭部から銃弾を受け、自転車のハンドルを握ったまま真っ直ぐに五メートルほどの道を進んでから斜面を滑り降りて倒れた。その倒れた場所に生えているシロツメクサの花を見つけて、ようやく熊は自分がここに来た理由を思い出しながら、次々と響く銃声を聞いた。
 それが一番目のぼくだ。一番目のぼくは命が止る僅かな時間で、ぼくの家族のことを想った。
 これはぼくの家族の物語だ。

 ここから地球上での出来事は、地球上の時間列通りに進んで行く。
 ただぼくの回りの出来事は、なかなかそうはいかない。
 ぼくが住む世界では地球上の因果律は殆ど成り立たない。「約束を守らないと酷いことになる」のようなそんな因果が成り立たない世界だ。
 オッオー

二.上等兵は熊女と出会う
 今野雄二陸軍上等兵が、熊女に出会ったのは白頭山への登山訓練の初日のことだった。今野雄二は戦争に参加するために満州に来てから、人が死ぬ戦争を見たことがなかった。三八式歩兵銃すら支給されなかったが、銃の弾倉箱は胸に掛けさせられた。満州入りをしてから、満州九九八部隊の訓練は、銃も使わず格闘訓練もなく、ただ毎日の山登りだった。
 白頭山の頂上には天池という大きく澄んだ池があり、この池の中央に一本の国境が通っている。人見知りの雄二は、一人で握り飯を持って天池の脇にシロツメクサが生えている一帯に腰かけた。四つ葉のクローバーでも見つけてやろうと思い、暫く真剣にクローバーだけを目で追い続けているといつの間にか湖まで辿り着いてしまった。そして隣には同じようにクローバーに顔をつけるようにしてしゃがむ熊がいた。
 お互いの目が合うと、熊は慌てて長い爪の両手で顔をおおった。
 その日今野雄二は熊に逢ったことを誰も話さずに部隊に戻り、みんなと一緒に山を下りた。
 満州人からはよく白頭山の雪人シュエレン伝説を聞かされていた。白頭山の頂上にある天池で雪人に出会い、雪人に食物を与えると、その者は栄えた国の王になる。ただ雪人に嫌われれば、その国は滅びると言われている、と。
 雄二が「その雪人シュエレンは男なのか女なのか」と訊ねると、「回りに見た者がいない。いたとしても、誰も他人に教えないから。わからないね」と言われた。
「なるほどなるほど」
 今野雄二が次の日も一人で天池のシロツメクサの一帯へ行くと、同じ場所に服を着た人が立っていた。昨日見たのは人間だったのかと思い顔を見やると、やはり白い毛だらけの熊の顔をしていた。しかし人の服を着ているなら人なのかもしれない。雄二が握り飯を与えると、その熊はたいへん喜んで食べた。掌は肉球のような形をしていた。
 今野雄二がまた次の日もそっと同じ場所へ行くと、その人の袖から出た腕は毛で覆われ、顔も毛だらけだが知っている顔のように見えた。その人は四つ葉を探しているのではなく、シロツメクサの花を摘もうとしていた。ただ、長い爪では花を取るのに苦労していた。
 雄二が花を取るのを手伝い、子供の頃に作ったシロツメクサの指輪を作ってみせた。その人の掌を広げさせ、白い花の指輪をそっと置いた。
 その人は指輪を見ると興奮して立ち上がって言葉を発した。
「おっおー」
 波が立たない深い青色の天池は、その湖面にもうひとつの青空と四方を囲む雪を被った白頭峰と顔が毛だらけの人を映し出していた。雄二は少しの間、上と下のどっちが本物なのか分からなくなった。
 集合時間の笛が鳴り、雄二が部隊に戻り出すと、その人も後ろからついて来た。雄二がついてくるなと手を振って合図をしたが、その人は背中を丸めて雄二の背中にぴったりとくっつくようにして部隊の集合地点まで来てしまった。

 分隊長の田中伍長が、雄二に言った。
「この人は民間人か?どこの人だ」
「それが」と雄二が言うのを遮って、この人は言った。
「この近くの者だ。何か手伝える仕事はあるか」
 雄二は、この人がかなり不自然な発音ではあるが日本語を話せることに驚いた。
 田中伍長もこの人も驚いてはいなかった。
「そうですか。ご苦労様です。今野、炊事班長と相談して何か仕事を見つけてやれ」
 ただ驚く雄二に、田中伍長は小声で言った。
「あの人は、俺の許嫁に似ている」 
 それからも、今野雄二が連れてきた人に対して、妻に、妹に、そして母親に似ているという仲間達の声があがった。そうやって、雄二がまたその人の顔を見ると、確かに日本人の女性の顔に見えてきた。
 現地の満州人が、この人を「雪人シュエレン」と呼ぶので、漢語が分かるふりをしていた新兵が、この人は「熊女」だという完全な誤訳をした。そこで隊の仲間はその人の髪が長く、愛する人の面影があることから、心をこめてこの人を「熊女さん」と呼んだ。
 雪人シュエレンの正しい日本語の意味は、「雪男」、もしくは「雪だるま」だった。
 現地の満州人達からは、この熊女はひどく気味悪がられていた。
 熊女さんは雄二にしか日本語を話そうとしなかった。部隊の他の者が話す日本語は理解したが、どこの国の言葉ともいえない叫び声で返すだけだった。そして、午前から訓練で雄二のあとを背を丸めた姿勢で白頭山を登った。昼食の時間になると、熊女さんは雄二の腕を引っ張って天池へ連れて行き、白頭山を映す池のふもとに広がるシロツメクサの上で二人は腰を下ろした。
 二人の後ろ姿は誰が見ても山へピクニックにやってきた恋人に見えた。
「あなたは王冠も作れますか?」熊女さんは奇妙なイントネーションで言った。「ぼくに、この花で王冠を作ってください。生きている花の王冠」
「できるよ」と雄二は言った。
「そうですか。では花の王冠とこの戦争でのあなたの命を交換しましょう」
 雄二はシロツメクサを使った王冠を見たことがあったが、作ったことはなかった。正確に言えば、「できると思うよ」だったかもしれないが、こんなところで正確さを優先する必要はなかった。何しろここは戦場なのだ。
 雄二はシロツメクサを纏めてみるが簡単には出来なかった。なかなか茎と茎を繋げられなかった。熊女さんには、それが雄二が複雑な工程で王冠を作っているようにも見えた。
「少しずつ作るから。ん、今日中には出来ないな。急ぎじゃないよな」
「あなた達の時間を基準に考えれば急ぎではありません」と熊女さんは言った。「でも、もし作れないと、酷いことになりますよ」
「え?」
 そうして熊女さんは雄二を見ながら長い爪の両手を上に挙げた。と、その効果音のように音が上空からやってきた。青空を見上げると爆撃機の大編隊が現われ、あっという間に近づいた。隊からは呼び出しの笛音が強く鳴り響いた。雄二は身を隠す場所を探して走り出そうと、震えながら立ち上がった。
 熊女さんは両手を挙げたまま、爆撃機の方向を見上げていた。雄二にはその顔が喜んでいるように見えた。雄二は熊女さんに酷いこととはどういうことなのかを訊くのを諦めて、逃げ出した。

 今野雄二上等兵が日本は戦争に負けたのだと聞かされたのは、その日の夜、田中伍長の髪の毛を刈っている時だった。二歳年上の田中伍長は、手先が器用そうだという理由で小隊の理髪係を雄二に命じた。雄二は東京月島の造船工場で溶接工をしていた。確かに可燃ガスを持たせれば、金属と金属を融接するのは得意だった。
 戦争が終わったというが、その日は昼も夜の空を飛ぶ大編隊の音を何度も聞いた。しかし、戦争が終わったのなら、もうこれで自分も誰も死ぬことは無いだろう、とこの時の今野雄二は気楽に考えた。
 「もう山登りの訓練は必要ないですね。これで日本に帰れますか」雄二は飛行機の音に負けないように大声で訊いた。
 「図們ともんに集合することになっている。そこから帰国だろう」田中伍長も大声で答えた。
 今野雄二は、安心したため息をついた。
 熊女さんは離れた所から眉間に皺を寄せ、雄二が王冠のことを忘れているのではないかと睨み付けていることに雄二は気づいていなかった。雄二は戦争が終わったのなら、日本へ帰る前に握り飯を持って熊女さんと一緒に白頭山に登るのもいいなと考えているところだったのだ。
 
三.彼らは国境を越える
 図們ともんには多くの日本兵と民間日本人が集まっていた。図們もまた朝鮮との国境の土地だった。白頭山の麓から徒歩で図們に到着してから、小学校校舎内で一泊をした時も熊女さんは雄二がいる日本兵の部屋に入り、雄二の隣で眠った。
 翌朝、雄二は寝ていた田中伍長を起こして集合時間までには戻ると伝えた。ソ連兵の隙を見て雄二は熊女さんを連れて外へ出た。八月の朝、図們の街は霧が濃かった。霧の中でハングルのネオンが点滅していた。
 ハングル文字ばかりの看板の街を抜けると、図們大橋に出た。橋の入り口にはトラックが止まり、ソ連兵が二人いた。朝鮮と満州の国境を渡るこの橋は、雄二が日本から来たときに通った橋だった。朝鮮から橋を渡るときは暖かい明りが灯る街が見えた。満州から見る朝鮮は深い緑の森が広がっていた。
 どこからか砲弾の音が響いた。橋の上のソ連兵も、それがどこから撃たれた砲弾なのかあたりを見回していた。
 雄二は熊女さんを連れてソ連兵に見つからないよう橋の傍の雑草が生える中にシロツメクサが生える場所へ連れて行った。何頭もの小さな黄蝶が飛んでいた。そこで、雄二は茎の下からシロツメクサの花を取っては、胸に下げた銃の弾倉箱に入れた。
「花の王冠は、必ずあとで作るよ」
「生き物は美しいですね」
「花じゃなくたって、人も動物もみんな生物だろ」
「人間は生き物ではないですよね」
「人間こそ生きているじゃないか」雄二はどこをどう反論すればいいのか分からなくなって言った。「おまえも生きているだろ」
「ああ、ここではそうでしたか。ぼくは生き物じゃない。あなたの国の言葉でいうなら。ぼくは機械です」
 熊女さんは黄蝶を捕って雄二の掌の間に挟ませた。黄蝶は雄二の掌の中で何度も羽ばたいて飛んで行った。
「その掌の感触。それが生命です」
「え?」と今野雄二は熊女さんの顔を見て言った。
 街からクラクションと人の叫び声がして雄二が振り返ると、ソ連軍のトラックが荷台に人を積んで二人が座る草地に向かって走っていた。
 トラックが止まると、荷台から飛び降りた満州人達は、雪人シュエレン间谍ジエンデイエ(スパイ)と、怒鳴りながら雄二と熊女さんを取り囲んだ。ソ連兵が近寄る前に、二人は押し倒された。倒れたところで頭を蹴られると、一番目の雄二は簡単に死んだ。
🐻‍❄️
 トラックが止まると助手席に座っていたソ連兵が二番目の雄二の腕を強く後ろに回した。荷台から降りた大勢の人は、雪人シュエレン间谍ジエンデイエ(スパイ)と、怒鳴りながら熊女さんを取り囲んだ。
 熊女さんは大勢に囲まれ押し倒されながらも、こう怒鳴った。
「雄二、思い出しなさい。あなたたちが機械だったことを」
 それは今野雄二が聞いた熊女さんの言葉でもっとも標準的な日本語の発音だった。
 しかし、雄二には機械であった自分を思い出せなかった。そして、熊女さんのことも花冠を作る約束をしたことも、この二番目の今野雄二も三番目の今野雄二も、何度やり直しても忘れてしまうことになる。
 雄二が座ったトラックの運転席からは、熊女さんが囲まれてスパイだと怒鳴られている様子が見えた。その囲まれている真ん中で熊女さんは踏み倒され、腹を強く蹴られ、頭を硬い靴で蹴られると死んだ。
 それが、雄二の目の前に現われた戦争での最初の死だった。
 ただこの時の今野雄二は、トラックの荷台ではなく、運転手と助手席の間のギアボックスの上に無理矢理座らせられて、安心しているだけだった。トラックの荷台に乗ると必ず酔ってしまうからだ。
 そして、脳機能が停止し、動かなくなった後も蹴られ続けた熊女さん。それがぼくだ。

四.熊たちは扉を開けて外に出る
 ぼく達の住む世界は小さい。どこを向いても世界の端を見ることも出来るし、上を見上げれば青い天井を見ることが出来て安心できる。
 ぼく達の姿は地球の熊達のように毛が無いことを除けばだいたい似ている。そのため地球では毛だらけの熊の形となって現われたのだが、地球でぼくは熊に会えず人間に会うばかりだった。
 ぼく達の世界で動く物はぼく達だけだ。他の姿をした物はいない。ぼく達は時に体が壊れて、粉々になってしまうことがある。そういう際には、砕けたぼく達の破片は掃除され、かき集められ、また再生される。時にいくつものぼく達が同時に砕け、混ざり合ったぼく達が再生されるので、その形状は完全に複製されるわけではない。だいたいだ。
 ここでのぼく達の世界はいくつかの壁で遮られていて、扉を開けないと隣の仲間の姿が見えないのも安心する。ぼくの目に映る景色は、天井と壁。それから、部屋に置かれた水が溜まる池。そして床に置かれた棒と頭の上の王冠。木の棒と花の王冠は生き物だ。
 生物は美しい。棒を抱きしめ、ぼくは体を擦りつける。素敵な匂いがする花の王冠は、ぼくたち機械に生命を与える。
 本当の命がある生物には死がある。ぼく達の頭の上の王冠は生物なので、何時かは死んでしまう。ぼくが作られてからずっと頭の上に乗っていた王冠は突然死んだ。死んで砕けた花冠は白い床に落ちると床に溶けて見えなくなった。

 ぼく達の眠りはみんなが共有する。仲間の眠りの中に入り、時に誰かと合体し、時に皆でひとつの同じ夢を見る。皆の王冠も死んでしまったことを知った。
「ぼく達の王冠を探しにいこう」誰かが呟いた。暫くの静寂の後、別の誰かが言った。「ぼく達の王冠を取り戻しに行こう」
 そして、ぼく達は扉を開け、ここから外に出て花の王冠を探しに行くことになった。

五.彼らは家を建て死体を埋める
 図們ともんの小学校の校庭で、日本兵と民間人の列が分けられた。まず日本兵が先に帰国が出来ると誰かが言う。日本兵はソ連兵達の「ダモイ、ダモイ(帰国だよ)」という無邪気な声に誘導されて次々と到着する軍用トラックの中に入って行った。それは牛舎へ長閑に入っていく牛のようにも見えたが、雄二にはその車が屠殺場に向かうトラックのように見えた。いつまでも荷台の鉄棒に捕まって中に入りたがらない雄二を後ろから田中伍長が蹴り入れた。
 トラックの中では日本兵が声高に「ダモイ、ダモイ(帰国するよ)」と言い合い、今からなら戻れるだろう互いの田舎の秋祭りの話をし合った。
 雄二は乗り物酔いで何度も吐くために後ろの位置に立たされた。そこで、殆ど吐く物が残ってないのに思う存分嗚咽をして吐いた。
 トラックを降りて屋根が無い貨物列車に入れられてからも、皆どこか旅に出かけるような高揚感に溢れていた。しかし、半日ほどかけて日が沈む頃になると、ようやく貨車はずっと西に向かっていたことに気づきだした。
 誰かが「おれたちは騙された」と叫んだ。誰かが貨車の鉄柵を揺らしながら大声で泣き喚いた。いつまで経っても、男の喚き声が収まらなかった。
 雄二の隣に立っている田中伍長が言った。
「あいつは、うるさい。今野、あいつを静かにさせてこい」
 雄二は、名前の知らない男の後ろから背中を軽く叩いた。男はそれでも喚き続けるので、雄二がもう一度男を殴った。男が振り向くと目から涙を流して鼻から鼻水を出して雄二に真剣に言った。
「もうこんな所にいるのはいやだ。早く帰ろう、な」
 雄二は男の顔を殴った。男が言葉を出せないほど殴ると、床に倒れると田中伍長に敬礼をして報告した。
「これでよろしいでしょうか、田中伍長」
 雄二はそう言って田中伍長の前に屈み、「おれも早く帰りたい」と何度も言って、田中伍長の足下に胃液を吐いた。
 雄二を殴ってくれる者は誰も現われなかった。
 
 図們を出発してから初めて貨車が止まると、またソ連兵に「ダモイダモイ」と言われ、軍用トラックに乗り換えさせられた。半日ほどして到着した場所は鉄条網で囲まれ腰ほどの雑草が生えているだけの土地だった。20台ほどのトラックはきちんと停まってから、10台のトラックはどこかへ去った。
 大型のテントが組立てられ、そこにソ連兵達が眠り、日本兵はみな10台に減ったトラックの荷台で眠った。
 そこでは千人近い日本兵が昼は森で木を伐り、夜は相変わらずトラックの荷台で寝た。そのトラックには幌が着いていたが、寝るにも膝を抱えて眠る空間しか無かった。荷台の端は上官達が位置し、下士官は自分の尻の場所を取るのが精一杯だった。荷台で寝るようになって三日目の夜、前に座った男が支給された黒パンを握ったまま動かなくなった。男は死んでいた。
 雄二がソ連兵に伝えるとスコップを渡され、近くで埋葬することになった。シベリアの土は固く、二人がかりでもなかなか地面を掘れなかった。なんとか男の体を埋め終えると、雄二は一緒に穴を掘った男から黒パンの半分を渡された。
「こいつが食べられなかったやつだ」
 雄二は男から受け取った黒パンを胸に掛けていた弾倉箱に入れようと蓋を開けると、中に新鮮なシロツメクサの花が入っていた。
「あそこに何かいるぞ」
 男が指さした場所には確かに大きな動物の光る目がこちらを見ていた。
「オオカミかもな」と雄二は言った。
 雄二は、弾倉箱に入っていたシロツメクサを死んだ男の上に撒いた。
 オオカミはがっかりしたように首を傾けると、静かに去って行った。それがぼくだ。

 木を伐ってからは、日本兵の建設経験者らに設計図が渡され、自分たちが入る収容所の宿舎を作っていることが分かった。自分たちの生活をする場所を作れることがわかると、仕事自体には自然とやる気が出た。食事が小さな黒パンと糊のようなスープだけでも、作業場や伐採場で見かける虫や小動物を採って分け合って食べた。宿舎に屋根がつけられる度に、ベッドのない宿舎で眠った。最初は身動きが出来ないほどの狭さだったが、宿舎が次第に増えていき、三段ベッドで一人が一つのベッドで眠れることを想像するだけで、日本兵達は幸せな夢を見られた。
 ちょうど一〇の宿舎が出来上がって、明日からはいよいよベッドを組立てると思った夕方、これからすぐにトラックに乗るように指示された。今回も「ダモイダモイ(帰国だ)」というかけ声で鶏のように尻をせき立てられて、トラックの荷台に乗り込まされた。
 今野雄二は今度はトラックに乗るときに何も叫ばなかった。それは宿舎で寝られなかったことにひどく落ち込み、疲れと寒さで荷台の真ん中に入りたかったからだ。しかしすぐに乗り物酔いで吐き出すと、また荷台の端へ追いやられた。
 すでに戦争が終わったと言われてから四ヶ月が過ぎ、頭には氷のような大粒の雪が降り注いでいた。
 これが日本行きのトラックでないことは、誰もがわかっていた。ただ、「ダモイ」と呼ばれて、荷台に誘導されれば、日本兵達はそのまま荷台に乗るしか無かった。

 雄二達が乗ったトラック一台だけが到着した収容所は石で作られていた。施設の中に入ると壁で囲まれベッドがあるだけの小さな部屋に一人ずつ入れさせられた。部屋の前には鍵のかかる檻が扉になっていた。
 翌日は半分に分かれ、半分は固まった排水と糞尿を台車に乗せて河まで捨てに行った。残りの半分は裏庭に積まれて固く凍った死体を埋葬させられた。凍った裸の死体はどこの国の者なのかもわからなかった。凍っているので一体ずつ剥がすのは困難だった。スコップを入れると指はもちろん手足や首で千切れ、また二体が合わさったまま、シベリアの土の中に放った。雄二は次第に人の正しい形とはどういう物だったかも分からなくなってきた。
 大きなシベリアミミズクが男達の傍を滑るように舞い降り、またすぐに埋められた男達の土の上からシベリアの空へ舞い上がった。
 雄二は何かを思い出したように弾倉箱を開け、黒パンを取り出した。爪ほどの大きさに分けて皆とわけあった。ここではまだ戦争が終わっていなかったことに気がついた。パンくずと一緒にシロツメクサの花が土の上に落ちた。
 ミミズクは上空で二、三度羽ばたいて、円を描いて飛んでいた。それがぼくだ。
 
 六.シロ熊は日本兵と出会う
 三つめに移された収容所へ到着するまでにいくつもの日本人捕虜を入れた貨物列車が合流した。そこでも、また「ダモイ、ダモイ」と言われて列車から降ろされ、千人程の日本兵はシベリアの地を歩いた。途中、どこかの国の壊れた戦車が何台も止まっていた。
 そこは砂漠の砂塵のように、強い風で凍った地面の氷が舞っていた。数千人の目の前にも足下にも、砂埃ではない氷塵が強く巻き上がり、視界が悪くなった。
 半日ほど歩き、太陽の灯りも殆ど見えなくなった頃、氷塵が舞う道の先に微かな灯りが見えた。たとえそれが刑場であったとしても、寒さと疲労を少しでも和らげる場所があるのならば、と千人の日本兵の歩みには僅かな生気が蘇った。
 遠くから見えた灯りは石塀の上に引かれた有刺鉄線の上に聳える監視塔が灯す明りだった。大きな鉄扉が開いて中に入ると、石で囲まれた広大な敷地の収容所には見渡す限り、どこにも建物がなかった。ただ、ところどころ大きく盛り上がった土がいくつも並んでいるだけだった。
 敷地の中ほどから、今日ここへやってきた人数と同じくらい大勢の日本兵が、こちらの入り口に向かって歩いていた。有刺鉄線で囲まれた場所に、既に日本人がいると分かっただけで、新しく入った日本人達は安心をし、三ヶ月前からここにいた日本兵達も仲間の人数が増えたことに安心を覚えた。そして新旧二組の日本兵は抱き合った。
 先住民の上等兵の一人は今野雄二上等兵に説明した。
「ここは熊の穴って、おれたちは呼んでる」
 来たばかりの日本兵は、盛られた土にある扉をあけて中に入った。階段を降りると、中は広い宿泊所になっている。地下に掘られた穴に、丸太で作られた三段ベッドが並んでいた。部屋の中には両端と中央に四本ずつ太い柱があり、そこにランプが吊されている。中央にはストーブも置かれている。
「暗い。窓がない」
「窓があったとして、外の景色を見て何になる?」
「確かに。よく眠れそうだ」
「熊の穴だからな。それから、収容所の端には小さな盛り土がある。そこの扉は絶対開けるな」
「熊でもいるのか」
「その通りだ」 
 ここノリリスクの辺りでは、愛玩動物としてシロ熊を飼うことはそれほど珍しいことでは無かった。ちょうど、この冬の時期は熊の冬眠時期であり、シロ熊も絶食をし体温を下げて代謝機能を落とす。しかしシロ熊の冬眠は眠らない。起きたまま、時には歩き回る冬眠をする。このノリリスク収容所で暮らしているシロ熊もまた、夜になると収容所の中をふらふらと首を揺らせて出歩いていた。それがぼくだ。
 シロ熊は、窓の無い土で盛られた熊の穴へやってきて扉を開けた。この宿舎に到着した者はみなベッドに入ろうとしたところで、シロ熊が堂々と歩いて入ってきたことに驚き立ちすくんだ。シロ熊はベッドの間の通路を端から端までゆっくり歩いた。雄二を見つけると片目を瞑るウインクに失敗して両眼を瞑ってしまった。そしてまた体を左右にふるわせてゆっくりと通路を通り、扉を閉めるのを忘れずに出て行った。
「時々、シロ熊がああやって俺たちの穴に入ってくることもある」
「へえ」と雄二は言った。
「でも、絶対シロ熊の後をついていったり、シロ熊の寝床に入ったりしてはいけない」
「熊の寝床に一緒に入る人なんていないでしょ」
「皆がそう思う。でもあの後ろ姿を見るとついて行きたくなるんだ」と男は、わかるだろうという目つきをして言った。「何故か一緒にシロ熊の隣で眠ってしまう」
「えー」
「そしてシロ熊が見ている夢を一緒に見てしまう。わかるだろ」
「わかりません。どうしてシロ熊が見ている夢だと分かるのですか」
「シロ熊しか出てこないからだ」と男は勝ち誇ったように言った。「そんな夢を見ると頭が壊れてしまう者もいる。でも安心しろ。ここには病院がある。」
「へー」
「トイレも風呂も洗濯場もあるし、娯楽室には劇場だってある」
「はい」
「仕事はきついけど単調では無い。木を伐るのと石を掘るのと道を作る作業を交代でやる。君の特技は何か無いか?夜は何か個人の特技を使って皆のために働く部活動に入るんだ」
「溶接ならできる」
「それはない」
「満州に来てから髪の毛を切れるようになりました」
「よし、丁度髪結い部には欠員が出てた」
「その前の人はどうしました?」
「シロ熊の夢を見るようになって病院に入った」
「なるほどなるほど」と雄二は頷いた。

 熊の穴と呼ばれる宿舎から外に出るまで、雪が吹き込まないように通路が曲がっている。
 雄二は初めて外側の扉を開けた時から、毎回扉の外に広がる何かに対して畏れを感じた。雪が降らなくとも風が吹かなくとも、ここに来てから一年が経っても、扉を開ける度に怯え震えた。
 収容所では一年間で約200人が亡くなった。3000人まで収容した施設で一週間に一人ずつが亡くなっていったが、春には発疹チフスの流行で100人が亡くなった。夜に寝床で普通に話していた者が朝になると亡くなることも珍しくなかった。
 死にはサインがあるという。死ぬ者の前日には蚤や南京虫がその者の体から去って行くともいう。また前日の夜にシロ熊が亡くなる人の前に立って手をかざすともいう。機械たちに安らかに止ってもらう。それもぼくの仕事だった。
 雄二は何度も仲間の死体を埋葬した。冬は一輪車で死体を運び、凍った土を焼いて溶かしてから土を掘って埋めた。死体を埋葬するのは誰もが嫌がったが、雄二は誰もやらなければ引き受けた。扉を開けた時に感じるシベリアの大地への畏れも、シベリアの雪と地面を燃やす、この時のこの小さな場所だけは、その畏れに勝っているように思えたのだ。
 そして必ず離れた所で、シロ熊は頭を伏せ、雄二に何か話しかけていた。それがぼくだ。
 作業の間は今野雄二の耳には耳当てが当てられていたが、それが無かったとしても、雄二には熊の言葉がわからなかった。
 誰もが最初はここでの飢えと疲労がいつ自分の限度を超えてしまうのか、この夜の眠りが朝に続くのか不安に感じた。しかし次第に厳しい労働こそが不安を和らげた。自分たちを機械のように思い、日替わりで代わる仕事内容に順応していった。特にここノリリスク収容所では、日本語の通訳も兼ねるナディア・ハカマダ政治部長による部活動の推進により、日本兵の精神は比較的均衡を保てていた。

 髪結い部にも最新の理髪道具が取り寄せられた。特に今野雄二の技術への評判は高く、次第にソ連人警備兵も雄二の理髪椅子の後ろの列に並ぶようになった。毎週日曜日の午前にはナディア・ハカマダも、収容所の全体が見渡せる鉄扉の前に座って、雄二に髪を切らせていた。その脇には、必ずシロ熊がいた。ぼくは既に雄二に約束を思い出させるのを諦め、自分の腕を枕にして眠った。

 毎週土曜日の夜には娯楽室の舞台で、部活動の芝居や合唱や演奏会が開かれた。月に一回の日曜日には映画の上映があった。エイゼンシュテインの全作品を鑑賞することも出来た。ナディア・ハカマダ女史による映画解説も人気があった。イワン雷帝の第二部は明らかなスターリン批判ではあり、傑作とは言い難いが、個人的には彼の全作品中最も美しい映画だと熱く解説をした。
 そして来週からはこの部屋を使って新しい政治部長の勉強会が開催されることになったと説明した。
 その満月の夜、いつもと同じ鉄扉の前にナディア・ハカマダは座っていた。シロ熊はその横で自分の腕を枕にして眠っていた。
 微かな理髪が終わると、ナディア・ハカマダは、雄二に「Извинитеイズヴィニーチェ」 と言った。雄二の知らない言葉だったが、雄二はいつものように「Спасибоスパスィーバ(ありがとう)」と言った。それから、ナディア・ハカマダが立ち上がると、二人で「До свидания ダスヴィダーニャ(また会いましょう)」と言いあった。
 シロ熊は、「ヴァオー(約束忘れないでよ)」と言った。

 月曜日の朝、ナディア・ハカマダ政治部長はひっそりとノリリスク収容所を去った。
 次の日曜日は、娯楽室を使った「民主化講演会」が朝から夜まで開かれた。参加は自由であったので、最初は人気が無かった。講演の内容も、たどたどしい新しい日本語通訳者による、デカルトの動物機械論、ラ・メトリーの人間機械論から、マルクスの唯物史観が丁寧に日本語のテキストつきで説明された。
 雄二は「人間の意識がその存在を規定するのではない。逆に人間の存在がその意識を規定する」という箇所に舐めた赤鉛筆で線を引いた。
 人気が無かった講演会も、しだいに出席を講演に重ね、講演の感想文を書くことによって、明らかな労働の別待遇が受けられると分かると、皆が競って講演に出席し始めた。さらに近くの収容所を集めた地区政治学校、地方政治学校へも多くの者が通うようになった。
 その彼らはアクチブと呼ばれ、別の収容所で民主化運動の担い手として活動することになった。
 シベリアからソ連全土に広がるアクチブたちにより、旧日本陸軍の秩序を壊す階級闘争の目的が次第にエスカレートし、ソ連式民主化に抗う者達を攻撃する運動に変化していった。
 ノリリスク収容所でも、ソ連式民主化を拒む者は反動とされ、かつての娯楽場で毎晩つるし上げにあった。刺繍部の部長であった田中伍長は、一度も講習会に出席しなかったことでつるし上げにあった。唯一の生き残りの部下である今野雄二が呼び出され、田中伍長に活を入れることになった。
「今野さん、おねがいします」と田中伍長は言った。
雄二は最初は軽く、次第に強く何度も田中伍長の顔を殴った。倒れる田中伍長に馬乗りになっても殴り続けた。雄二は立ち上がり、正式な敬礼をして田中伍長に言った。
「これでよろしいでしょうか、田中伍長」
「スパスィーバ(ありがとう)」と田中伍長が言った。
二人を囲んでいた収容所の運動員達は声を揃えて大声で叫んだ。「スパスィーバ、スパスィーバ」

 その日の夜中、刺繍部所属の日本軍の将校らが今野雄二のベッドの回りに集まった。その内の一人が雄二の口の中に汚れた下着を詰め込んだ。他の者らが四肢を押さえ、一人が工具ハサミを取り出し、雄二の右手の指を二本一遍に切り落とした。
「指が三本残っていれば、まだ床屋もできるだろ」 
 男はそう言いながら、切り落とした指を何度も踏み潰した。刺繍部の男達は一発ずつ雄二の顔と腹を殴ると勢いよく宿舎を去って行った。
 雄二は口の中に汚い下着を入れられたまま言った。「スパスィーバ(ありがとう)」
 すぐに治療をしなかった二番目の今野雄二は、ここノリリスク収容所診療所で指を切られてから三日後に亡くなった。
🐻‍❄️
 三番目の今野雄二は口の中に汚い下着を入れられたまま言った。「スパスィーバ(ありがとう)」
 刺繍部の男達は一発ずつ雄二の顔と腹を殴ると宿舎を去って行った。
 男達が出て行くのと同時にシロ熊が扉を開けて入ってきた。熊はブルブルと体を揺らして積もった雪を払い落として、雄二が寝るベッドにやって来た。
 シロ熊は「ヴァオー、ヴァオー」と何度も吼えた。
 回りで寝ていた者達が起き出し、血を出している雄二のもとに駆け付けた。足の速い者にドイツ兵宿舎へ報告に行かせた。
 雄二は指を切られた右手で下着を口から取り出して、泣きながら言った。
「スパスィーバ、スパスィーバ」
 シロ熊は「ヴァオー、ヴァオー(約束を忘れないで)」と言って、その場を去った。

七.雄二は熊女さんと再会する
 
騒動を起こした刺繍部は「スターリン感謝状」を刺繍するという自らの提案が殊の外ノリリスク収容所所長に喜ばれ、誰も処罰を受けること無く、労働後から消灯までの時間をスターリンへの感謝状を刺繍するという仕事に没頭した。
 昼間の労働に使えない怪我を負った者であり且つ優秀なソ連式民主化講習会出席回数を誇っていた今野雄二は、ノリリスク収容所から優先して帰国(ダモイ)できることになった。いったんソ連第四九収容所(アラナープ収容所)に移送された。そこでは日本への引き上げを待つ約二万人が待機していた。
 第四九収容所でもまた日本人アクチブによる、民主化理解度の確認やスターリンへの感謝状署名が行われたが、雄二はここで帰国者名簿の優先度を上げられなかった。
 第四九収容所も、日本兵により建設された立派な木造宿舎で、そこで新しい服装を支給され、溶接の仕事を割り当てられた。日曜日だけは、収容所外の近くの川沿いの道まで散歩することが許された。
 小雪が降る日曜日の朝、雄二はテルマ川のほとりで自分の雪道を歩く音を聞きながら歩いていると、熊女さんと再会した。それがぼくだ。
熊女さんの顔は、ナディア・ハカマダに似ていた。
「わたしの花の王冠はどうしました?約束を忘れないでください」
「すっかり忘れてた」
「約束を守らないと酷いことになりますよ」
「戦争はとっくに終わっているんだし、もういいだろ。たかがそんな花くらい」
「わたしは、この戦争の間、あなたを守りました」
「え?知らないよ」
「あなたの戦争は本当に終わったのですか?」
 熊女さんの視線が自分の胸辺りにあることに気づくと、ノリリスクに置いてきたはずの銃の弾倉箱を胸に掛けていた。雄二が箱を開けると中には黒パンと活き活きとしたシロツメクサの花が入っていた。
「もうとっくに、こんな戦争は終わってるんですよ」
 雄二はそう言って黒パンを自分の口に押し込み、シロツメクサを熊女さんの手に渡した。雄二はパンにむせながら収容所へ戻った。
「わたしは、最初にあなたを守った図們で待ってますよ」
 熊女さんは雄二の後ろ姿をじっと見ていた。
雄二はここで帰国リストに名前をあげられず、また収容所へ戻された。
🐻‍❄️
 労働に使えない怪我を負った者であり且つソ連式民主化講習会に提出した論文「弁証法的人間機械論―人間の精神は歯車の中にある」がナディア・ハカマダによってロシア語化され、「日本民主化闘争優秀賞」を受賞した、四番目の今野雄二は、誰よりも優先してナホトカに向かいダモイできることになった。
 今野雄二上等兵は、昭和二二年高砂丸に乗船し舞鶴に上陸し帰国した。

八.雄二は双子の親になる
 今野雄二は日本への帰国後に仕事を探しながら軍人恩給の申請をすると、支給条件の在職期間に一ヶ月足りないと県庁の帰還兵事務担当者に言われた。
「実際にはシベリア帰還者は係数が加算されるので、あと三日間帰還が遅れれば支給対象でした」と市役所年金窓口の担当者から残念そうに言われた。
 雄二は係数が何なのか意味が分からず、自分で二回、知合いに頼んで三回調べて貰ったが結果は同じだった。誰もがどういう計算なのかわからなかったが、とくにかく「恩給を貰うのに三日足りない」という返事を貰った。
 今野雄二はそれ以来、他人から軽く「満州はどうだった」や真剣な「あなたにとっての戦争とは」という質問にもみな、「おれは三日足りないだけで恩給が貰えなかった」と死ぬまで回りに言い続けた。それは次第に共感や同情を生むよりも、単に中身が薄く安い人間であることを宣伝するだけになっていった。
 そして雄二は一人になった時、「二日足りない奴よりはましだった」と自分に言い聞かせた。
 雄二は東京月島で溶接の仕事を見つけ、職場の同僚の妹と結婚をし、男二人と女二人の子供を作った。ただ仕事は長続きせず、次第に小さな工場に移っていった。仕事で何か指摘をされると、指を無くしたことやシベリア帰りを揶揄されている気がしてしまい、すぐに仕事を辞めた。仕事を変える度に友人が少なくなった。妻との間で喧嘩も増え、子供の相手をするのが辛くなり、毎晩外で酒を飲んで遅く帰るようになった。
 雄二は決して器量が良いわけでも口が上手いわけでもなかったが、結婚をしてからも何人かの女性と交渉を持ち、そのうちの一人が妊娠をした。
 妻の家に帰る回数が少なくなり、妊娠をした女亜希子の家で寝泊まりをするようになった。もとより体の弱い亜希子は体調を崩し、夜は全く眠れなくなっていた。亜希子が子供は絶対産みたいと言うと、雄二は喜び、子供は責任を持つからと亜希子を抱きしめた。
 亜希子が眠れない夜は、雄二は戦争の話をした。亜希子は熊女さんの話を聞くのが好きだった。
 四番目の雄二もすっかりぼくとの約束を忘れていたので、ぼくは二人の間に混ざりたかった。
「熊女さんって女性なの?」
「そういえば、男だか女だかよくわからないんだ」
「わたしが知っている熊達の話はこういうの」
 亜希子は本を読むのが好きだった。自分が知っている熊達の話を朝まで話続けた。ぼくも二人の間に混ざって話を聞いた。

九.熊は花の王冠をかぶる
 
人が言葉を発し、文字で最初に伝承した言葉は熊を崇拝する神話だった。
 全ての動物と土地を支配する熊は人にとっての神であった。人が生きるために集団で一匹の熊を殺すようになっても、熊が人の王であることを示し、熊の亡骸には美しい花の王冠を捧げた。熊もまた毎年人のためにその命を捧げ、熊に花の王冠を捧げる者の命を守った。
 次第に人は熊との約束を忘れ、ただ熊を残虐に殺すことで人の偉大さを見つけようとした。
 カリギュラは犬を連れた剣闘士と熊を闘技場で闘わせたが、熊は死ぬまで次から次とやってくる剣闘士を倒さなければならなかったし、剣闘士も熊を倒さないと闘技場を出ることが出来なかった。
 ゴルディアヌス1世は三日間で1000匹の熊達を闘技場で殺し合いをさせ、ゴルディアヌス2世は二日間で1000匹の熊達を闘技場で殺し合わせ、ゴルディアヌス3世の時にはローマの回りに熊は一匹もいなくなった。
 この熊殺しの興業文化は特に英国で栄え続けた。ヒグマ、クロ熊から、シロ熊の骨も英国闘技場跡地で発見されている。英国の熊闘技試合とは、闘技場の中央に杭が打たれて、そこに熊が繋がれ、数十匹の犬と闘わせた。傷ついた熊は命をとりとめると、指や手足が欠損していても闘えなくなるまで何度でも闘技場に出された。
 20世紀頃からイギリスは闘技用と趣味の狩猟で熊を全て殺して絶滅させ、ソ連から熊を輸入した。ソ連で熊の輸出を推進したのはスターリンだった。スターリンは英国のジョージ6世へ、「熊が怖いのなら森に近づいてはならない」 と書簡を送ったが、ジョージ6世には森とは何のことなのかわからなかった。
 現在、世界中の博物館に熊の親子の剥製があり、そこで様々な熊達による幸せな家族の団欒を見ることができる。しかしそれらはどれも剥製を作るためだけに殺された本物の熊の家族なのである。

一〇.ぼくは二人と合体する
 夜も昼も眠れない亜希子の体が弱ってくると、雄二は睡眠剤を探した。駅前の薬局で“妊婦が安心して飲める安全無害な薬”という広告文字が書かれた「イソミン」を購入すると、亜希子に与えた。確かに薬は効き、亜希子は夜、眠れるようになった。
 世界各地で手足に奇形のある子供達が生まれていることと、サリドマイド化合物を含んだ鎮静睡眠剤を服用した妊婦の関係性が指摘されていた。一九六一年一一月西ドイツのレンツ博士は、奇形の子供達とサリドマイドとの因果関係について学会で発表を行うと、十日後に欧州では薬の製造・販売が中止され、回収も開始された。日本の厚生省は、レンツ警告に「科学的な根拠がない」として何ら対策を講ずることなく、別の一社にも製造承認を与えた。大日本製薬は宣伝の主力を睡眠薬から胃腸薬「プロバンM」に変えて販売を継続した。日本では真剣にこれらの薬を問題視する者は殆どいなかった。
 薬局の店員も知らなかったし、今野雄二も亜希子も知らなかった。二人の間に生まれることになる子供も知らなかった。それはぼくだ。
 ぼくは雄二に直接約束のことを思い出させるため、亜希子が生む子供に混ざった。自宅の出産で産婆に取り上げられた子供は双子として生まれたが、姉は永遠に泣くことができず、弟だけがすぐに泣くことができた。それがぼくだ。
 産婆の隣にいた亜希子の姉は、生まれてきた子供の姿を見ると濡れ手ぬぐいを強く顔に押し当てた。産婆も辛そうに頷いた。息が出来なくなると男の子は泣き止むのを止めた。それがぼくだ。
🐻‍❄️
 産婆の隣にいた亜希子の姉は、生まれてきた子供の姿を見ると濡れ手ぬぐいを強く顔に押し当てた。産婆も辛そうに頷いた。いくら強く手ぬぐいを押し当てても男の子は泣き止まなかった。亜希子の姉は手ぬぐいを外して、「ごめんよごめんよ」と生まれてきた男の子に言った。
 二番目の男の子はこの世に無事に産まれてきたことを喜んで泣き続けた。それはぼくだ。
 父親の雄二も母親の亜希子も、産まれた子供が奇形児であったことに驚き悲しんだ。
 男の子は姉が死んでしまった事を知って悲しんだが、両親が生まれたばかりの自分の姿を見て驚いていることは分からなかった。人の外見は“だいたい”でいいではないかと考えていた。それがぼくだ。
 父親の雄二は、子供の指が足りていないことは自分の指が無いことと関係がないはずだと思うほど、なぜいつまでも自分は誰かから責められなければいけないのか。と怒りを感じ、仕事をすぐに辞めるのと同じように、この子供の父親になることをやめた。そしてそのままいなくなった。
 母親の亜希子は子供を産むことに反対をしていた両親に相談もできず、体が回復すると病院を抜け出した。その時に自分の名前から取ったのか子供の名前は「亜希廣」にして欲しいというメモが一枚残されていた。
 戸籍上は今野雄二の養子となったが、育児をする者が見つけられずに児童養護施設預かりとなった。明広は腕だけでなく内臓のいくつもの機能に障害があったため、実際には国立の小児科病院で子供時代の殆どを過ごすことになった。
 この時の施設事務長が戸籍を申請する際に指が無い子供だから簡単な名前が良いだろうと、「明広」という名前を届けた。それがぼくの名前だ。
 人間の明広という体と合体したぼくは、次第にぼくの力が失せていくのを感じた。この体には明広という人がいて、ぼくがいるのだが、ぼくの言葉は明広には全く届かなかった。そして次第に、ぼくもなぜこの生まれてくる子供に合体したのかが、思い出せなくなっていた。
 この頃、日本各地の病院と養護施設で両腕の無い子供が置いておかれる事件が発生した。どの親も奇形として生まれた原因は、何か自分に原因があるのかもしれないと思いつめた。ある親はその因果に囚われすぎ、生まれてきた命と共に生きることを放棄してしまった。
 新聞にはただ「両腕のない捨て子たち」と書かれた。
 
一一.熊は病室に現われる
 
明広の病室は6人部屋だった。子供達はみな純粋に仲が良かった。毎日見回る医者も看護婦も、学生らしい若い医者たちも、みな子供達にやさしく、テレビも見れて漫画も読めた。壁には太陽や虹が描かれ、大きな扉から熊が蜂蜜の壺を抱えている絵も描かれていた。熊の赤いシャツには「uh-oh」と書かれていた。ベッドはふかふかだった。毎日三回、美味しい匂いを運ぶ食事台車がやってきた。夜はこっそり、仲間のベッドの布団の中に潜り込んで懐中電灯を灯し、飴を舐めながら一緒に漫画を読むこともできた。
 明広は施設に帰らなければならない前日は辛かった。実際に施設に帰る度に生活は想像以上に辛くなっていった。そこで生きていくことは闘いだった。怒鳴り合い、殴り合い、蹴り合い、盗み合った。感情をぶつけあい、そして自分が障害者であることを思い知らされた。ここでは“だいたい”の形ではいけないのだ。きちんと指が揃っていないだけで、罵倒され蹴り倒され食事も持ち物も盗られる世界。明広にはどちらが現実なのかを長い間気づかないふりをした。
 病院に戻ると、次第に気づくことがあった。同じ病室にいた何人かがいなくなっていた。退院したという話もきくし、病院を代わったという話も聞いた。仲良くしていた仲間が個室に移っていることを知ったが、その個室の中には入らせてもらえなかった。
 何日か後にその個室の前を通ると、ベッドは空だった。噂で彼は死んだと聞いた。壁には虹も太陽も無かったが、扉の絵だけが描かれていた。ここから熊は大部屋に出て行ったのかもしれない。ベッドにはマットもなく、半分開いた窓ではレースのカーテンが風に揺れていた。
 明広はこの五歳の夏に「命の死」という意味を知った。何もかも消えてしまうことで、誰もがそれから逃れられないことも理解した。これから、誰かの死を知る度、明広はこの病室の風景を思い出すことになった。
 いつも明るく子供達を笑わせてくれる白衣を着た若い人達は、笑って遊びながら時折真剣な顔をして明広達に言った。
「辛いことをたくさん経験すれば、将来は必ず幸せになれる」
「生まれつき苦しい子供たちこそ選ばれた天使なの」
 仲間達は若い人達がいるときは、頷いてみせたが、皆それらの話を信じられるほどの良い子供ではなかった。
 明広は訊ねたことがあった。
「いつ、ぼくにも指が生えてくるのですか」
 若い人達は言葉を返せなくなった。明広はいつものように何か冗談で返してくれることを期待しただけだった。ただこういう質問をしてはいけないのだと学んだ。
 大部屋にいる仲間は、体のどこかが無くなっていたり、膨れていたり、体から出した管が機械に繋がっている者達だった。
 体を動かせない仲間が両足に鉄のギブスをつけ、上半身をふらつかせながら手摺りに沿って歩いてみせたことがあった。仲間同士では「かっこいい」と言い合ったが、本当は誰も、本人ですらそうは思っていなかった。
 自分たちの病気のことは話題にはしなかったので、仲間の病名は知らなかった。いなくなった仲間がどこへ行ったのかを聞くことはなかった。ただ聞くのが恐かったのだ。
 明広が何回目かの手術で、手術室へ行くストレッチャーに乗せられた時、急に抵抗をした。察した看護婦が明広を優しく抱きしめると、この看護婦のためにと我慢をしてストレッチャーに乗った。
 大きな手術棟の扉を入り、両脇にいくつもの手術室が並ぶ廊下を通る時、明広は恐くなって泣き叫び、ストレッチャーから飛び降りた。
「いやだ」と明広は叫んだが、廊下を走って手術室の扉を押した所で止まった。扉を開けた先には何も無かったからだ。そこは闇ですらない無が広がっているように見えた。明広はすぐに追いかけてきた医者に乱暴に抱えられて、手術室に連れて行かれた。

 全身麻酔の手術から目が覚めた時は猛烈な痛みでいつも苦しんだ。同室の仲間のように、痛みが激しいときに背中を擦ってくれる家族がいなかったし、本当に恐いときに助けを求める家族もいなかった。 
 明広は真夜中に痛みの泣き声で仲間を起こしてはいけないと、声を噛み殺して壁に書かれた熊の絵を見つめた。壁の扉を開けた熊は、蜂蜜の壺を抱えて明広のベッドの横にやって来た。
「オッオー」と熊は言って、明広の頭を軽く叩いた。
 明広はようやく「uh-oh」の読み方が分かったことに満足して眠りについた。

一二.明広は両親と再会する
 
明広にとって、毎回の手術が本当に意味があるのか理解できないまま、最後の手術が終わったのは10歳の冬だった。小児科病棟は男子と女子が別棟になっていたが、イベントがあると子供達は皆講堂に集まった。明広はギブスをしたまま席に着いた。
 女性歌手が唱う英語の知らない歌だった。隣の席に女の子が座ってきて言った。
「“この世の果てまで”っていう曲」小さな声で英語の歌詞に合わせて日本語を唱った。
「♪どうして両方の目から涙が溢れるの?/知らないのね この世は終わったの/それはあなたにサヨナラを言われたときに」
 隣に座った女の子は明広と同じ歳に見えた。
「君の母親も、睡眠剤を飲んだんじゃない?」と隣の女の子は言った。「♪知らないのね 世界が終わりだってことを」
 女の子もまた肩から短い腕の欠けた指が出ていた。
「君はさ。早く生まれてきた意味を見つけるんだよ」そう女の子は笑顔で明広を睨むようにして言った。    

 次の日、病院へ警察がやってきた。
若い白衣を着た人達から、入院していた女の子が列車事故にあったと聞かされた。またすぐに仲間からは、入院していた女の子が歩道橋から走る列車へ飛び降りたと聞かされた。
 明広は自殺という言葉はテレビや漫画でしかない、作り物だと考えていた。わざわざ自分から死を選ぶ人などいるだろうかと考えていた。しかしこの日、自分で死ぬことを選ぶ人もいるのだと理解できた。ただ列車事故を起こした女の子が誰だったのかは訊ねなかった。
 そして、次に明広の身近で自殺をする人が出たときには、この「THE END OF THE WORLD/この世の果てまで」を録音したカセットテープを何度も聞いて歌詞を覚えていた。

 その年の夏、養護学校での授業中にアポロ11号が月へ到着するのをみんなと見ていた。テレビの向こうでは砂嵐が吹くような画面の中、宇宙服をした人達が兎のように飛び上がっていた。
 その途中で教室の扉が開いて事務員から両親が迎えに来ていると言われ、初めて応接室へ案内された。明広は廊下を歩きながら何度も記録の頁を捲って、父雄二と母亜希子の写真を探し出した。
 応接室で校長の隣にいた男女は、明広が認識している映像から確かに10年の辛い年月を経た姿だった。
「あきひろか」と父親は言った。
「初めまして。字は違うけど、明広です」と明広は言った。
雄二も亜希子も箪笥の消臭剤が匂うようなよそ行きの格好をしていた。
 初めて三人で横になって歩いた。両脇を父と母に挟まれて、その間を明広が短い手を胸に当てて歩いた。
 父親は最初から決めていたように堂々と、駅前の商業ビルの中の普通の食堂に入った。三人で寿司とハンバーグとカレーを注文して分け合って食べた。明広は生まれて初めて寿司を食べた。醤油の皿まで舐めて咎めようとする母を父が止めた。
「今日はいいじゃないか」
 無邪気に醤油皿を舐めながら、明広は少しだけ嫌な予感がした。

 養護学校に近い場所にある、埋め立て地の新しい団地に三人で暮らすことになった。
 父親から新しい病院へ出す資料だと言われて、明広は裸になって何枚も写真を撮られた。
 三人で暮らす生活は、夢のようだった。
 自分一人専用の玩具を初めて買ってもらった。シロ熊の縫いぐるみだった。あるいは単に色を塗り忘れたのかも知れない。左右のバランスが悪く、手足の肉球もだいたいの形で作られていたし、怒っているような顔をした熊だったが、明広はとても気に入った。
 どこかの景品で貰ってきた縫いぐるみを明広が格別に気に入っているのを見ると、父親は、熊が太鼓を叩く玩具や、ブリキの自転車に乗った熊を買って与えた。
 団地は2DKで明広は初めて自分の部屋を持てた。襖一枚で隣が両親の部屋になっていた。自分の部屋から台所に行くにもトイレに行くにも親の部屋を通らなければならなかった。
 引っ越してきた最初は機嫌が良い父親の声が聞えていたが、次第に父親が一人で怒鳴り声をあげるようになってきた。母親に怒っているのはわかるが、母親は何も言い返さなかった。三人で暮らしてから一週間も経ってから、ようやく明広は母親が普通に喋れなくなっていることに気づいた。
 母親は他人の話し声は聞えるようだった。そして自分が息を出すだけで、母音のいくつかを話し手に理解させ、限られた人との間のみ必要なことを伝えていた。
 父親が四月から普通学校に通える手続きをした。
 普通学校へ行くなら自転車くらい乗れないといけないだろうと、父親は明広へ中古の自転車も買い与えた。手が短い息子に乗り方を教えなければいけないと、その日は陽が暮れても自転車の乗り方を教えた。
 買ったばかりの自転車を押しながら、父親からお前は大きくなったら、ここへ行けと地名が書かれた紙を渡された。
「中国で大切な約束をしたんだ。でも、おれはもうだめだ」と父親は言った。
 紙には「図們」と書かれていたが、今野明広はその文字が読めなかった。明広は父親は難しい漢字を知っている物知りなのだと感心した。
 次の日の朝、起きると父親は自分の服と靴だけを持っていなくなった。母は特に泣くでもなく、食卓の椅子に座り、握りこぶしを作った手で太ももを叩いていた。
 連絡を受けた母の姉がやってきて明広に説明した。
「おまえのサリドマイド裁判訴訟に参加するため、あの男は補償金を貰うためだけに父親役をしに戻ってきたんだよ。それが簡単に勝てると思った裁判が終わらないからさ。ここでの生活が耐えられなくなって、また逃げ出したんだ」
「裁判ってどのくらいやってるんですか」と明広は訊ねた。
「もう五年以上経ったかね。国も製薬会社も、薬を飲んだかも知れない妊婦から、偶然奇形児が沢山生まれただけだって言ってる。裁判はいつ終わるか分からないね」
 母は今度はどこにも出て行かず、2DKの公団住宅で最初は内職をしながら、息子の明広を小学校へ通わせた。毎日弁当を作り、翌日の準備を手伝った。学校で問題を起こした明広を何度か迎えに行った。
 内職の道具を持ってくる男性と夜出かける回数が増え、次第に夜の帰りが遅くなり、帰らない日もあった。
 明広は母親は自分のためにたいへんな仕事をしているのだと考えた。

一三.吉沢さんは花冠を作る
 
普通小学校の五年生に転入をすると、明広は普通に気持ち悪がられ、言葉で虐められ、体を虐められた。それは明広にとって想定内の出来事だった。教師も気づかないふりをし、誰からも外見で気味悪がられるのは、重度の身体障害者が普通学校に入るなら覚悟しなければいけないことだ。
 このクラスで奇妙な事は、全てが一人の女の子を中心に回っていることだった。母親がロシア系だという吉沢ひとみという女の子は、薄茶色の髪の毛で顔も小さく外国の人形のような顔をしていた。
 ただ吉沢さんはよく、授業中に立ち上がって自分から暫く話し続けることや、授業中に教室を出て行ってしまうこともあった。そんな時は一斉に何人かとりまきの女子がすぐに吉沢さんを追いかけた。
 体育と音楽以外、吉沢さんはどの科目の成績も優秀だった。そして吉沢さんが何かを話す時は、皆は集中して吉沢さんの話を聞いた。休み時間になると、女子達は吉沢さんを囲み、吉沢さんが動くときは一斉に動いた。男子達は離れたところで、吉沢さんら一行を見つめていた。
 社会科の授業で身分制度についての考え方を発表するために班を作ることになった。吉沢さんと同じ班になり、明広は机を動かして吉沢さんの隣に来ると、吉沢さんに指を凝視されて言われた。
「ところで」と最初に言うのが吉沢さんの口癖だ。「今野君のこの指気持ち悪いよ。なんで今野君は私達のように普通じゃ無いの?」
 そう吉沢さんが言うと、その日の放課後の虐めはまたエスカレートした。裸にされて掃除で使った雑巾を洗った水を飲まされ、縛られてから掃除用具入れに閉じ込められた。母親が夜の仕事をしていることも揶揄われたが、それがどういう意味なのか明広には分からなかった。
 このまま明日の朝になれば出して貰えるかなと思っていたところで、用務員のおじさんに助けて貰った。
 用務員のおじさんからは、「その貸した服は、洗ってから君のお母さんに返しに来て欲しい」と言われた。

 朝の学級活動は、出席番号順に三分間スピーチを行う予定になっている。そこに突然、今日の予定では無い吉沢さんが立ち上がって、背筋を伸ばして教壇に立った。それだけでクラスの全員から熱い拍手がわき起こった。
 「ところで。昨日今野君を虐めて掃除道具入れに閉じ込めた人がいます。これはとても悪いことです」と言い、胸を張って教室を見回した。
 五人ほどの男子が立ち上がって口々に、「すいません、ぼくらがやりました」と言った。
 「校庭を五周走ってきなさい」と吉沢さんが厳しい声で言うと、男子達は素直に校庭へ向かって教室を出て行った。
「ところで。今規律委員は吉沢一人なので、真面目な今野君に手伝ってもらいたいと思います。もう二度とこのような虐めが起こらないようなクラスにしたいと思います。どうでしょうか」
 最初は躊躇いがちに、そして次第に全員の強い拍手が起きた。
 吉沢さんの一言で、今野の回りの世界は一変した。昨日までの時間が鋏で切り取られたように、人の良い今野明広という人間が出来上がった。授業中も休み時間も、男子も女子も先生も、明広に対して突然人懐っこく接してきた。
 体育のドッジボールでも、今までは敵側が明広に狙って当てると味方がその球を拾うので、明広は永遠に敵から狙い撃ちになっていたのが、今は王様の明広を味方が全員で守るドッジボールルールに代わっていた。敵チームが明広に向かって投げられるボールを味方が身を挺して守った。敵チームにいる吉沢さんが真剣に強いボールを投げると味方が一人一人といなくなった。
「お命守れず、無念です」
 味方チームが明広へそう言って枠の外に出て行き、最後は明広一人になった。
 吉沢さんが思いきり、明広目がけてボールを投げると、明広は短い手と顔と胸を使ってボールを挟んだ。味方と敵からも自然と拍手が起きた。吉沢さんは本当に嬉しそうに、何度も飛び上がって興奮していた。明広の顔はボールを受け止めたせいで、真っ赤になっていた。
 授業で発言を失敗しても、優しく助けられ、清々しい​笑いに教室は包まれた。
 昼食の時間は明広の回りを昨日掃除道具に閉じ込めた男子が取り囲んで、ドラえもんのどこでもドアについて話し合った。未来になれば、どこでもドアが出来るのだろうか。
「ところで。どこでもドアは、たかだか10光年しか向こうの扉と繋がらない。それに次元を越えることができないなんて、ボロだね」と吉沢さんは言った。
「なるほどなるほど」と男子たちは皆頷いた。
 放課後、いつも吉沢さんは大勢の女子達と一緒に帰るのだが、「吉沢はこれから、今野君と二人で帰るのだ」と右手を真っ直ぐに挙げ高らかに宣言をした。
 暖かい拍手に見送られて、二人は並び吉沢さんから明広の手を繋いで帰宅した。それは明広にとって生まれて初めて人と手を繋いで歩いた瞬間だった。何度も吉沢さんは明広の指の間をこするようにして指を絡めた。
 二人が通う東小学校は埋め立て地に出来た新設の小学校だった。この一体は全ての住居も商店も埋め立て地だった。その中でも小学生にも分かる階層分けがあった。明広らが住む家賃約一万円の賃貸団地と約一千万円の分譲団地。そして街の干潟沿いに立つ高級一軒家。そこには見えない境界線が引かれていた。
 明広が自分の住む賃貸団地へ向かう道で別れようと指を離そうとすると、吉沢さんは逆に指を離さないように強く握って言った。
「吉沢の家に来な」
 そうして吉沢さんは一層握った腕を前後に振りながら、自宅へ明広を導いた。干潟近くに集まる一戸建ての住家の庭はどこも外車が停まり、大きな犬が機嫌よさげに歩き回っていた。
 そういう白亜の家の一つの大きな家の扉を吉沢さんは開けた。庭にいた青い目をしたシベリアンハスキーが勢いよく吉沢さんへ飛びついた。
 「ニーナ、ニーナ」と吉沢さんは犬の顔を抱きしめながら言った。「わたしのお友達。今野君。手が普通の人と違うけど、気持ち悪がらないでよね」
 吉沢さんは犬に顔を舐められるのを喜びながらそう言った。
 犬のニーナは吉沢さんの顔を舐めながら「おまえはだれだよ」と言っているような気がした。
 家に入ると吉沢さんのお母さんが二人を迎え、吉沢さんだけを二階に上げて着替えてくるように言った。吉沢さんのお母さんはかなり歳をとっているように見えた。
 明広が通された居間は家具も壁もカーテンも白かった。壁には額に入った刺繍がいくつか飾られていた。居間の中央に実物大のようなシロ熊の彫像が置かれていた。
「フランソワ・ポンポンの1/1レプリカ」と吉沢さんの母親はシロ熊の背中を叩きながら言った。「覚えなさい。フランソワ・ポンポンはフランス人で、パリのオルセー美術館にこの実物は置いてある。オルセー美術館知ってる?」
「いいえ」
「そうでしょうね。機会があれば行った方が良い。フランソワ・ポンポンはずっとロダンの助手をしていて、ロダンが死んでから独立して67歳でこの白熊を彫った。そうして彼とこのシロ熊は世界に名前を残した」
「知りませんでした」
「コレを見て、何か感想を言ってごらん」
「熊なのに毛が一本も生えてない」
「へえ」と満足そうに微笑んで吉沢さんのお母さんが言った。「君は、昨日いじめられていたのが、今日になると急に皆が親しく接してきたんじゃない?」
「そうなんです」明広は驚いた。
「全部わたしのおかげだから」
「えっ」
「全部わたしがひとみに教えたおかげだから」
「え?」
「わたしは毎日ひとみから、その日に起きたことをノートに書き出させるの。それから、わたし達は毎日反省会を開いて、これからどうすべきかを話し合うの」
「へえ」
「そうして、こうなったっていうわけ」吉沢さんのお母さんは両手を上にかざして自分で頷いて言った。「だからといって、君はわたしに特別感謝する必要は無いから」
「はい。そうします」

 二階から吉沢さんが降りてきた。着替えた吉沢さんの白いTシャツには「BY THE WAY」と書かれていた。そして、もう一着、同じ「BY THE WAY」のシャツを手にしていた。
 シロ熊の背中を撫でながら母親と明広が隣同士に立っているのを見かけると、吉沢さんは二人の間に体を入れた。思いのほか、明広と体が近くなっていると、明広の顔を握った拳で殴った。
 明広がよろけると、強く明広の胸を左右の拳で殴り、明広をソファに躓かせた。転んだ明広の顔をめがけて殴り続けると、明広は短い手で自分の顔を覆った。
 吉沢さんは、明広の体に跨がって荒い息を吐きながら、顔を殴り続けた。
「いたい、いたいよ」
 ようやく、母親が吉沢さんの体を明広から離した。吉沢さんは母親から羽交い締めにされても、興奮しているように顔を真っ赤にしていた。
「『今野君、調子に乗るなよ』って、ひとみは言ってるよ」
「え?」
「君は急に、皆から好かれたと思っているけど、違うんだよ。それはひとみが作った世界なんだよ」
「え?」
「調子に乗るなよ、今野」と吉沢さんは、今野を睨み付けて言った。
 吉沢さんは床を見ながら、持ってきたTシャツを明広に投げて渡した。
「今野、これを着ろ」
「それを着な」と吉沢さんのお母さんも言った。
 明広が着ているポロシャツを脱ぎ始めると、「今野君、シャツは脱がなくて良いだろ」と吉沢さんのお母さんが笑って言い、「今野、シャツは脱ぐなよ」と吉沢さんも言った。

 明広が一人でシャツをなかなか上手く着れないでいると吉沢さんのお母さんが手伝って、きちんと裾を伸ばして着させた。Tシャツは吉沢さんと全く同じ色で「BY THE WAY」と書かれていた。
 明広はお揃いのTシャツが嬉しくなって笑った。それと同時に吉沢さんは明広の頬を思い切り拳骨で殴った。
「え、なに?」
「今野君、調子に乗るなよ」
「調子に乗るな、今野」と吉沢さんは嬉しそうに言った。
 吉沢さんのお母さんが写真機を持ってくると、吉沢さんは窓を開けて、居間にシベリアンハスキーを呼び入れた。そうやってタイマー撮影で、左から吉沢さんのお母さん、シロ熊、明広、ニーナ、吉沢さんの順で並んで記念写真を撮った。
 シベリアンハスキーのニーナは明広の方を見あげ、また「おまえはだれだよ」と言っているようにも見えたが、写真に写る者たちは、みな幸せそうに笑っていた。

 ニーナの散歩のついでだからと、明広は帰りに近くの干潟まで一緒に寄ることにした。干潟には十数羽のセイタカシギが整列して一本足で立っていた。
 干潟の傍にはベンチが幾つか置かれていた。地面には芝が植えられていたが手入れが行き届かず、背の低い雑草が芝の領域を侵していた。
「ところで、吉沢の母は刺繍が得意なのだが」
「ああ」と明広は壁に飾られていた、白地に上品に青系の抽象画のような刺繍が飾られていたことを思い出した。
「ところで。三つ葉のクローバーから四つ葉が発生する確率は通常一万分の一か二十万分の一なのだが、この辺りでは1/10くらいが四つ葉のなのだ」
 吉沢さんはシロツメクサを摘みながら、素早く結んでいった。間に紫や黄色の花を混ぜて、花を三十程繋げると、明広の頭に当ててみた。
「あと二十くらいか」と言うと、またシロツメクサを摘んで、繋げていった。
 ニーナが明広に向かって何かを伝えるように吼えた。
 明広は、この光景をどこかで見たことがある気がしてきた。
「ところで。お母さんは、昔シベリアで刺繍を教えから今でも教えている。だから、吉沢もこのくらいはすぐに出来るのだ」
 吉沢さんは両端の花冠を素早くつなぎ合わせ、明広の頭にそっとのせた。
「えっ」
 明広の目の前に突然扉が現われた。

一四.熊女さんは今野明広に会う
 
熊女さんが扉の向こうから現われ、明広に向かって歩いてきた。扉の向こうは枯れ木を覆い隠す地吹雪が舞っていた。吹雪は明広のTシャツの「BY THE WAY」の文字も濡らした。地吹雪は止らず、気づくと辺り一帯がシベリアの氷土になっていた。
 熊女さんはシベリア収容所の囚人服を着ていた。熊女さんとはぼくだ。
 熊女さんは花冠を被った今野明広の隣に座った。熊女さんは明広の頭からそっと花冠をとりあげた。この明広も人の形と合体したぼくの一部だ。
 熊女さんは花冠を手に持って、動かしてよく観察した。
「よく出来ています」熊女さんは明広に言った。ぼくはぼくの一部に言った。
「それはぼくが作ったんじゃありません」
 明広が隣を見ると、吉沢さんは手を上げたまま静止していた。ニーナの尻尾も静止していた。
「そうですね。わたしはあなたのお父さんに花冠を作ってほしいと頼んだ」
「そうだ。思い出しました。ぼくは何度も死んだり、何度も合体したんです。あなたがぼくに合体した。だからぼくは自分で花冠を作って、あなたにあげないと。約束を守らないと酷いことになってしまう。ぼくの、これが酷いことなのですか?」
「それは違います。たまたまです」熊女さんは残念そうに言った。「図們へ来て下さい。忘れないで下さい」
Проститеプラスチーチェ(ごめんなさい)」
Пожалуйстаパジャールスタ(どういたしまして)
 熊女さんは、花冠をまた明広の頭に被した。熊女さんは鏡で見る自分の顔をしていた。熊女さんは立ち上がって扉の向こうに入ると、扉は閉まった。

 地吹雪も止み、明広は雑草の上に座っていた。隣には吉沢さんとニーナがいた。干潟からはセイタカシギたちが一斉に飛び立った。
「吉沢さん、ぼくに花冠の作り方を教えて」
「ところで、今野君の指だと、これを作るの無理だよ」
「練習するよ。今すぐに出来なくてもいいんだ」
「いいよ。じゃあ、見てて。最初は日本のシロツメクサを十字に持って、横の茎を縦の茎にぐるりと巻いて、茎を揃えたところに三本目の茎を交差させる。出来る?」
「今はできない」と、明広はすぐに答えた。
「uh-oh」と、ニーナは言った。

一五.縫いぐるみの熊は夢を見る
 
その夜、明広は吉沢さんが作った花冠を持って帰り、家の熊の縫いぐるみの頭に被せた。
 明広が一人で即席ラーメンにご飯を入れた夕飯を食べ終わった時に酔った母親が帰ってきた。
 母親は明広の顔を見ると、突然笑顔を作って明広を抱きしめた。明広は母親の口からアルコールと煙草と香水が混ざった匂いを嗅いだ。母親は何かを震える声で明広に伝えてようだった。しかし、最近明広は母親の言う言葉を理解できなくなってきた。もしかしたら、母親自身もそうであったかもしれない。
 明広は布団の中に、花冠をかぶった縫いぐるみを入れ、短い両手で抱えるようにして眠りについた。
 縫いぐるみの熊は、明広が吉沢さんと毎日干潟に座ってデートをしている夢を見た。
🐻
 明広は何度も吉沢さんの見本の通りに作ろうとするがシロツメクサを結ぶことが出来なかった。吉沢さんはいらいらして立ち上がり、明広を何度も殴り、足蹴にした。
 明広はそれでも干潟に行って何度も吉沢さんにシロツメクサの花冠の作り方を教わった。その間に吉沢さんは結婚もして、子供も出来た。シロツメクサの空き地も舗装され、明広は一人で花冠を作る練習をした。
 四○年が経ってようやく明広はシロツメクサを結ぶことが出来て、吉沢さんへ見せに行った。
 吉沢さんは海辺の高層マンションに住んでいた。インターフォンを押すと一階の待合で会うことになった。五十代の吉沢さんはもの凄く痩せていた。明広の指を見ると、明広のことを思い出したようだった。
 明広がシロツメクサの花冠を取り出して、吉沢さんの頭に被せた。
 吉沢さんは、花冠に手をおくと、皺がある顔一杯の笑顔を作って頭を縦に振った。それは最初に干潟で見た吉沢さんの笑顔だった。吉沢さんは何度も飛び上がって喜んだ。飛び上がって明広に抱きつき、首に手をかけたので明広は短い腕で吉沢さんを抱えた。
「キスしようか、今野君」と五十代の吉沢さんは言った。
 五十代の明広が戸惑っていると、吉沢さんは明広の唇に軽く唇を寄せた。
 花冠を被った縫いぐるみは目が覚めた。

一六.明広は日曜日にデートをする
 小学校の帰りは、毎日のように明広は吉沢さんと一緒に帰宅した。天気が良ければ、干潟の前でシロツメクサの花冠を作ろうとしたが、秋になるとシロツメクサが見当たらなくなった。花冠を作る目的を失うと、吉沢さんの家まで行く理由はないと思い、明広は途中で自分の家の方向へ向かうようになった。
 今までのように一緒に帰りたがっていた吉沢さんのとりまき女子達に声をかけて、帰りは他の女子達も一緒に帰るようになった。大勢で帰るようになると、二人は手を繋がないようになった。

 小学六年生になっても、学校では吉沢さんと一緒に規律委員を続け、クラスの誰とも接することはできていた。吉沢さんは、相変わらず突然いなくなったり、回りに気を使わずに思ったことを話し続けることもあったけど、皆が吉沢さんを大切に思っていた。明広もその一人だった。一人以上だった。
 学校へ行くのは吉沢さんを遠くから眺めるためだった。吉沢さんが話すことは、一文字一文字全てメモをしていた。吉沢さんが突然動き出す前後の出来事も観察した。吉沢さんが苦しくなるとき、叫び出すとき、泣き出すとき、笑うとき、すべて前後の出来事も書き、それぞれの事象についてまとめて自分なりに考察を入れることもあった。
 吉沢さんの口癖、「ところで。ハッピー。約束を守らないと酷いことになるよ」等がどういう時に言うのか。吉沢さんの手の動き、掌をひらひらさせるとき、よく他人を殴るとき。それらを全てメモをしていった。緑色の小さなノートの表紙には「全吉沢さん記録」と書いた。
 三学期に札幌オリンピックが始まると、男子達はワックスを塗った廊下でスケートを競い、ホウキと雑巾でアイスホッケーを競い滑り台を使ってジャンプを競った。
 二月に浅間山荘事件が起きると先生は授業中にテレビをつけっぱなしにした。巨大な鉄球で別荘が破壊される様をクラス全員で見ていた。
 その日の放課後、吉沢さんが「今野君と二人で帰る」宣言をすると、一緒に帰る女子たちも「それがいいよ」と強く笑顔で頷いた。
 久しぶりに二人だけで帰ることに明広は恥ずかしさがあったが、吉沢さんは毎日そうしているかのように、明広の指の間に自分の指を絡め、腕を元気に振った。
 白亜の家の門を開けると、ニーナが明広の腰を目がけて突進をしてきた。
「なんで今まで来なかった」とニーナが言っているように明広は思ったが、突き飛ばされて一回転した。
 明広はニーナに舐められるのを嫌がったが、吉沢さんがいつまでも放っておくので、暫くして玄関から吉沢さんのお母さんが出て来て、ようやくニーナを離してもらえた。
 お母さんの許可が下りて、吉沢さんは自分の部屋に明広を招き入れた。部屋の棚には画集とレコードが一杯入っていた。その中から吉沢さんはビル・エヴァンスの「alone」というアルバムのレコードをかけた。歌も入らない、ピアノだけのアルバムレコードがあることを明広は初めて知った。
 吉沢さんは箪笥からシャツを取り出すと、今着ていた服をその場で脱ぎだした。驚く明広に、吉沢さんはシャツを一枚放り投げた。明広も同じように今着ているシャツと下着代わりに毎日着ている「BY THE WAY」Tシャツの服を脱ぐと、同じく下着も抜いた吉沢さんが目の前まで来て言った。
 「ところで、今野君は第二次性徴って知っているかな。男子も女子も生殖能力を可能とするために、女子は乳房が発達し、陰毛が伸び、月経が始まる」
 そう言うと吉沢さんは下の下着も脱いで全裸になった。
「ところで、男子は陰茎が大きくなり、陰毛が伸びて、声が太くなって、背が高くなる」
吉沢さんは、明広のパンツを脱がし、明広の体と一緒に固く緊張して勃起している陰茎を眺めた。
「ところで、中学生になるとそのサイズのTシャツだと小さくなるから、大きいのを用意したのだ」
 そう言って吉沢さんは大きなサイズのシャツをするりと着た。シャツにはやはり「BY THE WAT」 と書かれていた。吉沢さんの身長は160cmでおよそ明広と同じ背の高さだった。お互いに新しいシャツを着ると性器を隠すだけの丈の長さだった。
「ところで、中学になると、吉沢は遠くの女子だけの学校に行ってしまうのだよ」と吉沢さんは言った。
「え?」
「ところで、今流れている曲は、ネヴァー・レット・ミー・ゴーっていうのだよ」
「え?」
 吉沢さんは、明広の胸を叩いた。
「なに?」
 吉沢さんは、明広の鼻の真ん中を思い切り殴り、続けて頬を何度も殴った。明広がベッドに倒れるとその上に跨がってまた顔を何度も殴り始めた。
 明広は短い手で顔を覆って声に出さなかったが、吉沢さんが大声を出した。
Простите!プラスチーチェПростите!プラスチーチェ!」
 扉を開けて吉沢さんのお母さんが部屋に飛び込んでくると、吉沢さんを明広から離した。暴れる吉沢さんを床に寝させたまま、その上から被さるように抱きしめた。吉沢さんは、まだ同じように、「Простите!プラスチーチェ、ママ。Простите!プラスチーチェママ」と叫んでいた。
 明広は、立ち上がって脱いだジーンズを履いて部屋を出るときに言った。
「吉沢さんのお母さん、ごめんなさい」
 階段を下りて、玄関を開けた。外で舌を出して尻尾を振っているニーナを見ると、明広はまた家の中に戻った。階段を駆け上がって、吉沢さんの部屋を開けた。吼えるような鳴き声を上げ続ける吉沢さんを吉沢さんのお母さんが抱きしめていた。
「吉沢さんのお母さん、よかったらこれ見て下さい」と明広は「全吉沢さん記録」と書かれた緑色のノートを手渡して言った。「吉沢さんと吉沢さんのお母さん、さようなら」
 明広が玄関を開けて出て行こうとすると、ニーナが尻尾を振っていた。明広はニーナの頭を数回だけ叩いて門扉をしめた。門扉の間にニーナは鼻を出して、「またきてね」と言っているように明広には見えた。
 
 明広は自分の家まで歩きながら、これで一生女の子と手を繋いで歩くことはないだろうなと思った。それはそれで良いことかもしれない。と12歳の今野明広は考えた。
 自分の部屋に入り、「BY THE WAT」のシャツを脱いで丁寧に畳んだ。熊の縫いぐるみの頭にすでに枯れているシロツメクサの花冠を思い切りむしり取って、ゴミ箱に放り投げた。明広は裸になって自分の姿を鏡に映してみた。まだ勃起していた。短い手を持ち上げ、指を広げた。自分の姿を暫く見続けてから、今日貰った「BY THE WAT」のTシャツを着た。ゴミ箱に捨てたシロツメクサの花冠を頭に被って玄関を出た。
 明広の家は公団の五階ですぐ上に屋上へ行く鉄の扉があった。鍵のかけていない鉄扉をあけて屋上に出た。団地の屋上の屋根は柔らかく、明広は何度も飛びあがった。そして思い切り走り出した。
 🐻‍❄️
 明広は自分の姿を暫く見続けてから、今日貰った「BY THE WAT」のTシャツを着た。ゴミ箱に捨てたシロツメクサの花冠を頭に被って玄関を出た。
 明広の家は公団の五階ですぐ上に屋上へ行く鉄の扉があった。いつもは鍵のかかっていない鉄扉に鍵がかけてあるのか、何度扉を押しても開かなかった。すぐ隣の自分の家から電話の鳴る音がした。
 電話に出ると、吉沢さんのお母さんからだった。少しだけ会いたい、すぐ団地の下にいると言われ、そのまま「BY THE WAT」のTシャツを着て長い階段を下りた。
 白い自転車に乗ったまま、吉沢さんのお母さんが階段の下に待っていた。明広が渡した「全吉沢さん記録」を持っていた。その緑色の手帳を叩いて言った。
「よく書けている。わたしも気づかなかったことがまとまっている。ありがとう。そして、ひとみは今野君にこれからも会いたいようなんだ。だから、これからも会ってくれないかな。たとえば、毎月第一日曜日の午前中に、二人でデートするってどうかな」
「え?」
「そして、君にはまた、吉沢記録を書いて見せてくれないかな。できれば、わたしも入れて三人で反省会してくれないかな」
「え?」
「とりあえず、吉沢全記録のお礼だよ」
 そう言って吉沢さんのお母さんは一ダースの緑の手帳と、一ダースのボールペンと、文庫本「心は孤独な狩人」と「脱走と追跡のサンバ」を明広に手渡した。
「ところで、今野君、頭に花冠つけて何してたのよ?」と吉沢さんのお母さんは、吹き出して言った。

一七.吉沢さんは象と話をする
 中学になって、近くの公立中学に進学をすると、予想した通り、明広は虐められた。初めて明広の体を見た同級生からは素直に気持ち悪がられた。小学校と同じように裸にされて、掃除道具入れに何度か入れられた。吉沢さんがいなくなると、小学校で明広と親しく接していた生徒達も、最初は戸惑いつつも虐める側に回った。
 明広にとって肉体的な虐めや羞恥はそれほど辛いことでは無かった。ただ、誰にとっても忌み嫌われるという事実が、生涯に渡ることを考えれば、明日起きる意味があるだろうかと考えることもあった。しかし、明広にとっては、学校生活が全てでは無かった。どんな時でも吉沢さんに会える日曜を思って日常を過ごせた。
 吉沢さんのお母さんとの約束は月に一回だったが、おすすめの映画があれば、一ヶ月に二回、三回と一緒に映画館へ出かけた。吉沢さんは映画館では比較的じっと座っていることが可能だった。ただ時に、「エクソシスト」を見たときは悲鳴が止らなくなり、「燃えよドラゴン」を見たときは興奮して前の座席を蹴るのを止められなくなった。吉沢さんが見た映画の一番のお気に入りは「ジョニーは戦場に行った」だった。
「ところで、これ凄いよね、今野君よりも。手も足も顔もないんだよ。凄え」と吉沢さんは本当に嬉しそうに言った。 

 明広は吉沢さんの家に行くときは自転車で出かけた。天気が良い日はすぐ近くの干潟へ行く時も二人乗りをして行った。そして、吉沢さんからシロツメクサの花冠の作り方を教わった。シロツメクサの結び方を理屈では理解したが、どうしても吉沢さんのように指を動かすことは出来なかった。ただ、吉沢さんの家にあがって何かをする口実が必要だと思い、「粘土でシロ熊を作りたいので、時々このシロ熊を見に来てもいいですか?」とでまかせを言った。
 吉沢さんのお母さんが大賛成をし、結局殆どの日曜日の昼を吉沢さんの家で過ごした。そしてまた、明広はシロツメクサの花冠を作る理由をすっかり忘れていた。

 吉沢さんのお母さんの提案で、動物園と水族館もよく行った。吉沢さんは特に大きな動物を見ると興奮して大きな声を出した。象の前で何度も叫び続けると、象が反応して鼻を大きく揺らしながら叫び声をあげた。熊の前でも吉沢さんが叫び手を上げると、近くにいた一匹の熊も立ち上がって両手を挙げたまま叫び始めた。次第に岩山に散らばっていた熊達も吉沢さんの前に集まり、同じように両手を挙げて立ち上がった。まるでライブハウスに集まった観客のようだった。それに影響されて、周りの動物たちも興奮した鳴き声を上げ出した。騒ぎで動物園の飼育係が駆け付けて、「動物を刺激させないように」とその場を追い出された。

 中学三年になると、明広への虐めは無くなった。はっきりした原因は分からないが、暴力のはけ口が学校外へ及んだことなのかもしれなし、受験や恋愛や深夜放送のDJに手紙を書くことへ興味が移っていったのかもしれない。ただ言葉や肉体を使っての虐めが無くなっただけで、黙って自分を見る目は何も代わっていないことを明広は分かっていた。

 新聞でサリドマイド裁判が10年かけて和解したという記事があった。和解とはどういうことなのかよくわからなかったが、国と製薬会社がサリドマイド禍の親へ支払う金額で折り合いがついたのだと理解した。少なくとも、ここにはサリドマイド禍の本人の和解ではなかった。
 明広が中学生の間も父の行方は分からなかったし、母はずっと言葉を話せないままだった。
 それが、この裁判の記事が出た日の夜、明広は母が話すのを聞いた。真夜中、明広は隣の部屋から母の怒鳴り声を聞いた。「ちきしょう」と母は何度も大きな声を出した。明広が襖を開けると、母は寝ていた。それは、少し大きな寝言だった。
 翌朝、明広は先に一人で支度をして出かける前に、起き出した母に「おかあさん」と声をかけた。
 母親は「なに?」と言った。
 母が言葉を出せるようになって、母は全く驚いていないようだった。明広と再会してからもずっと言葉を話せていたように接した。そして普段通り、殆ど親子の会話を交わすことなく二人は過ごした。

一八.田中さんは和解は認めないと言う
 高校に入ると、虐めに合うことはなかった。誰もが明広のことをできるだけ見ないように、いないかのようにしていた。
 高校一年生の時に母が交通事故にあった。
 ひき逃げだったので、入院費や治療費が苦しくなった。母の姉が何度か家に来ては愚痴をいい、母が退院する頃には、母の姉も近寄らなくなった。
 そんな時に行方不明になっていた父が戻ってきた。すると家で寝ていた母が嬉しそうに父と話をした。まるでずっと、この団地に二人で住んでいたかのように何のわだかまりなく母は父がいることが嬉しそうで、父もよく母の面倒を見た。
 丁度サリドマイド裁判の保証金を受け取る時期でもあり、父が一人で全ての手続きをした。
 そして聞いたことも無いような駅から相当歩く場所の一戸建て住宅を何度も回った。家を買えること、あるいは家を探していることを、明広の父親は十分に愉しんでいるようだった。
「明広、前に渡した中国の地名な。トモンって読むんだ。必ず行ってくれ。おれの代わりに行って、中国の友達に献花してきてくれよな」今度は父は図們の橋と友人が死んだという場所の地図まで書いて、明広に言った。
「自分で行けばいいのに」
「俺はもうだめなんだ」
 父は前と同じようなことを言って、その翌日、またいなくなった。
 その日に連絡を受けた母の姉がまたやってきて、サリドマイドの保証金が下りた途端、父が全額を持って行ったのだと説明した。
 「お前の父親はろくでなしだ。お前に一円も残さなかったよ」と母の姉は本当に悔しそうに言った。「自分が恩給を貰えなかったからって、息子の金を全部持って行ってどうすんだ」
 母は、布団の中で何度も「ちくしょう」と言った。

 明広は、紙粘土で熊を作る作業に夢中になっていた。全て自己流で、誰が見ても熊のようには見えない熊が出来上がった。乾かしてみるとそこかしこに指の跡がつき、どことなく手足と首の区別がつくだけの、味の素の瓶ほどの白い熊が出来上がった。
 日曜日に「BY THE WAY」Tシャツを着て吉沢さんの家へ粘土の白い熊を持って行った。吉沢さんにも吉沢さんのお母さんにも、よくできていると言われた。お祝いに、ストーンズのレコードを聞きながら吉沢さんのお母さんが焼いたロシアケーキを食べた。窓の向こうでニーナが立ち上がって、じっとこっちを見ていた。 
「今野君は、大学はどこにいくの」と吉沢さんのお母さんに聞かれた。
「就職しようと思っているのですが、まだ見つかりません」
「そうなの」
 吉沢さんは白い熊を持って二階へ上がっていった。
「大学に行けば何かの機会があるかもよ」
「お金が無いから、どんな仕事でも」
「そうなの」と吉沢さんのお母さんは言った。「ひとみの大学は東京だから、春にはわたしと一緒に東京へ引っ越すよ」
「はい」
 明広は自分の左右の指を組んで下を向いた。
「ひとみ、自分の部屋に行ったから、ちょっと見てきて」と吉沢さんのお母さんは言った。

 二階の吉沢さんの部屋に入ると、机の真ん中に明広が作った白い熊が置かれていた。
「ところで、今野君はわたしのことを想像してマスターベーションをしたことあるのか?」
「え?」
「男子の第二次性徴期は、毎日マスターベーションをする」
「うん」
「ところで、もう一度今野君の指を見せてくれ」
「はい」 
「今野君」
「え?」
 吉沢さんは自分の指で、明広の指の形をなぞった。明広もその足りない指で吉沢さんの五本揃った指をなぞった。二人は見つめ合いながら、目と指を使って互いの指の形を確かめ合った。

 サリドマイド児を集めた交流会があり、「保障金が無くなったことを説明しに行け」と母の姉に言われ、明広は東京まで出かけた。
 五〇人ほどの中学生から高校生のサリドマイド児が集まっていた。アザラシ肢症と言うように、殆どが袖から小さな掌を出したり、袖に腕を隠していた。
 一人一人、これからの人生に対して前向きな自己紹介が始まった。
 三番目の田中さんは素肌に皮のベストを着て、腕がない箇所を全く隠していなかった。田中さんは怒鳴るような大声で言った。
 「おれは和解なんかしていないから。なんでおまえらの親は和解してんだよ。金のために、和解してどうすんだ。おれは親がいないから裁判行けなかったけど、国や製薬会社の奴ら許さないんだよ。会ったらボコボコにしてやんだよ。いつか、おれは自分の親も見つけて、ボコボコにする。おまえらも、あの裁判は金を欲しかった親のための裁判なんだから。てめえら、親に金を取られるんじゃねえぞ」
 それからの自己紹介は、田中さんの発表がなかったかのように、今までの苦労とこれからの希望、やりたい仕事の話をした。会場の一番隅に座っていた明広が最後に自己紹介をした。
「田中さんの言うとおりです。ぼくも誰も許していません」
 明広は、事務局に実の父親にお金を持って行かれたと言えず、中学を卒業してから働いているという田中さんの名前と顔だけを覚えて帰ってきた。

 家に帰ると、黙って粘土を捏ねて熊を作り続けた。熊達が住む岩で囲まれた部屋も粘土で作り熊の世界を作ることに夢中になった。
 自分の机の端にも不出来なシロ熊たちが並んでいた。突然音も無く、揺れることもなく、ひとつのシロ熊がペシャンコにつぶれた。そして順番に二個、三個、と作ったシロ熊が潰れてしまった。
 明広は部屋を見回し、念のために五階の窓を開けて辺りを見回しても何も見つからなかった。
 明広は粘土を買った時の説明書きを開き、紙粘土の再生方法の箇所を見直した。ビニール袋に水を入れ、その中に潰れた粘土を入れた。
 明広はずっとそうしてきたように、今日の夜も熊の縫いぐるみを布団に入れて眠った。

 一九.吉沢さんのお母さんはハイライトを吸う
 
干潟が見えるカフェのテラスで吉沢さんのお母さんはニーナのリードを椅子にかけていた。
 明広は、吉沢さんのお母さんに、「全吉沢さん記録」手帳を渡した。吉沢さんのお母さんは手帳をパラパラと捲った。
「ありがとう、いつもよく書けてる」
「これが最後になるかもしれないけど」
 白いサギが雪が降るように干潟に舞い降りて、干潟一面を白く染めた。
「そうね。ひとみは、結婚することになったから。そして妊娠もしている」
「え」
「だから、もう今野君の『全吉沢さん記録』はいらない。いや、記録とることできないしね」
「いつ」
「一週間後。何か他に言うこと無いの。あなたたち、つきあい長いでしょ」
「おめでとうございます」
「はいはい。ありがとう。で?」
「吉沢さんが、ぼくの初恋でした」
「初恋って、性の第一次衝動のことだからね」
「ずっと、勝手に好きでした」
 吉沢さんのお母さんはハイライトにライターで火をつけた。
「今野君、あなた勝手にひとみのことを分かっているつもりになっているけどね」吉沢さんのお母さんは、煙をきれいに横へ吐き出して言った。
「煙草吸うんですね」
「外に出たときね。ひとみのいない時はね。自分に許している。今野君は、ひとみを女性として好きなわけではないのよ。今野君は女の人を好きになったことがあるの?」
「え?」
「あと、ひとみがシロ熊の人形を自分で壊したくせに、シロ熊が壊れたって騒いで煩いの。また新しいのを作ったら送ってくれる?」
「粘土の壊れた部品がありますか?欠片があれば、持ってきて下さい、ぼくが直しますから」
「あったかな」
「ありますよ。ぼくは直します。ぼくが直しますから」明広は急に立ち上がり、短い腕を上下に振って言った。「吉沢さんの子供って、ぼくの子供じゃないですかね」
「何言ってるの?君たちセックスしてないでしょ」
「別に全てのことを『全吉沢さん記録』に書くとは限らないですよ」
「なるほどなるほど」と吉沢さんのお母さんは言って、明広へ向けて煙をまっすぐに吐いた。

二〇.明広はラブホテルでライターを持って帰る
 
明広はラブホテルの部屋の中を歩き回っていた。テレビをつけ、風呂に湯を入れ、洗面台を見回し、持ち帰れるアメニティを見て、桌子の上の雑記帳を見た。その部屋に泊まったカップルがメモを残していた。どれも女の子が、一緒に彼とラブホに来られた嬉しい思いが丸文字で書かれていた。灰皿の上にはホテルの名前が入った100円ライターを見つけて、明広はポケットに入れた。
 部屋の呼び鈴が鳴り、明広が扉を開けると、車椅子の女性がいた。女性は明広に挨拶をして、部屋に入ってきた。
「お客さんも障害者か」
「やっぱりそういう人が、多いですか」
「ううん、障害者の人は少ないよ。障害者なら、風俗嬢選ぶんだったら、健常者でしょ。若くてきれいな。健常者に多いの。障害者の裸を見てみたいとか、不自由な手でペニス触ってもらいたいとか。うち、わたし以外みんな健常者だけど。わたしでいいの?」
「はい」
 車椅子の女性は三十中頃に見えた。髪は薄いブロンドに染め、鼻にピアスをしていた。話す言葉も聞き取り辛かった。内側に曲がった手首で電動車椅子のレバーを押して、ベッド横につけた。女性は事務所に入室の連絡をすますと、明広を見て言った。
「自分でベッドに行った方が良い?それとも、その手でわたしを抱いてベッドに運びたい」
「え」
 明広が答えられないのを見ると、女性は自分でベッドに転がるようにして、ベッドに横になった。
「脱がして」
「はい」
「キスして」
「はい」
「電気消して。そっちのボード。そこの、有線の演歌チャンネルつけて」
「はい」
「すぐやりたい?それとも、少しわたしの話を聞きたい」
「話を。お願いします」
「きみ、こういう所に来るのも。女の裸見るのもはじめて?まあいいや。わたしは一ヶ月前まで結婚してた。夫は大学で知り合った健常者。ハンサムで筋肉質でセックスも激しく上手だった。交通事故で死んだ通夜の時、思ったの。これでわたしは一生誰ともセックスすることないだろうなって。そう思いながら夫の棺桶の隣で寝た。大学在学中に結婚したから働いたこともないし。家族もいないし。朝一人で起きたら、夫は隣で棺桶に仕舞われてる。自分には本当に何もないのがわかった。これからどうやって生きたらいいのかと考えて」
 女性はため息をついて、長い間黙っていた。
「誰かの役に立とうと風俗をはじめた?」と明広が訊いた。
「セックスが好きで、これは稼げると思ったからかな。ニッチのいい香りがした。わたしがこんなくだらない話をしたのは。わたしが知っている障害者はみな、諦めてるのよ。何もしないで、運命を受け入れるだけなの。ねえ、そうじゃない?」
 明広は長いため息をついた。
「時間まで、何度もやった方がいいんじゃない」 
 そう、車椅子から降りて痩せた体の女性が明広に言った。女性の体は妙に熱かった。

二一.明広は休憩時間に落雁を食べる
 
行方不明になっていた父が癌で亡くなったと母から聞いた。
「危ない人達から借金をしてて、返せないとわたしと明広を傷つけるって言われたらしい。それなら、仕方ないよね。お父さんが全部お金持って行っても仕方ないよね」
「そうだね、お母さん」
「明広が、いい仕事みつかってお母さん安心したよ。」
「そうだね、お母さん」
 明広は2DKの公団の母の寝室を通って、自分の部屋に入った。
 机の上には熊の縫いぐるみと粘土で作った熊達が置かれていた。
「お母さんを見てて」と、明広は熊の縫いぐるみに言った。
「わかった。でも、父親の図們へ行くことも忘れるなよ」そう言った熊の縫いぐるみはぼくだ。

 明広は高校を卒業すると、その春に障害者雇用をしているという信用金庫へ入職した。
 駅から20分ほど歩いた場所にある、看板が何も出ていない事務所の一室が、信用金庫の人事部研修課だった。その部屋には障害を持った人だけが集められて働いていた。
 部屋は上部にだけ窓があり、机に座ったままだと外が見えなかった。
 部屋の中央には定年を越えた元係長が嘱託で6人の部下に指示をしていた。社員は和文タイプで文字を打ち、研修ビデオのダビングを見守っていた。係長が三桝家總本舗の「麦落雁」を配ると全員が拍手をして午前10時に長い休憩時間が始まった。

 窓の下の壁に扉が現われ、開いた扉からは雪を被った白頭山が見えた。そこから熊女さんが明広の隣に立った。
「お母さん、だめだったよ。スーパーで必死に20円違いの綿豆腐を選んでいたのにさ。スーパーから帰って冷蔵庫に買った物をきちんとしまうと、団地の屋上へ上ってくんだ。あとはベランダから飛び降りたり、梁で首を吊ったり、何度やっても同じだったよ」
「そうか。仕方ないね。家族がいなくなっちゃったな。おかあさん、何か言ってた?」
 熊女さんは、明広の肩を二回叩いた。
「毎回、ごめんね、って言った」
 係長がやって来て、明広の机の上に落雁を一二個置いた。「おつかれさま」と言って、明広の肩を叩いた。

二二.吉沢さんのお母さんと一緒の部屋で旅行する
 六月下旬の大安に吉沢さんは海辺のホテルで結婚式を挙げることを人づてに聞いてはいたが、明広のところへ招待状は来なかった。
 六月になると、日曜日の度に自転車で吉沢さんの家の前を通ると、ニーナが門扉まで寄ってきて鼻を出した。吉沢さんは引っ越してしまったのか姿は見えなかった。明広は門扉から飛び出たニーナの鼻の上を叩いた。
 小学生の時吉沢さんの取り巻きだった女子は数人招待されていて、「どうして今野君が招待されないの。間違いかも知れないから聞いておく」と言った女子もいたけど、人はそう簡単に結婚招待状を出し忘れるものではない。
 結婚式をするというホテルは海側に瀟洒な教会を建てていた。
 明広は朝の7時には自転車でホテルに到着し、教会を一周し、一階のラウンジでモーニングセットを頼んだ。吉沢さんのお母さんから貰って使い切れなかった手帳に、今日の計画を整理した。二人の結婚式に突入して、自転車に乗って、バスに乗って、港まで行く計画があった。そもそもこの計画は、吉沢さんが映画「卒業」のように、明広に向かって走ってくれることを前提としている。本当に大丈夫なのか。教会の扉を開けて怒鳴るときは、「ひとみ」と叫ぶべきなのかと考えているうちに、招待客らしい人達の姿が見えたので、明広は教会前の生け垣で待機することにした。
 午前9時前には、知った顔の幸せそうな人々がチャペルに入り始め、明広は姿勢を一層低くした。
 扉が閉められた音を聞くと明広は立ち上がった。息を吸って大きな音をたてて扉を開けると、全員が振り向いた。しかし、正面に神父の姿が見えるが新郎新婦の二人はいなかった。呼びかける機会を逸したまま、前に向かって歩くと、吉沢さんのお母さんに腕を引っ張られて、横の出口から連れ出された。
 丁度出される時に、明広が入ってきた扉が開けられて拍手とともに、新郎新婦の姿が見えた。
 明広は警備員に連れられ、警備室に鍵をかけてられて、「警察が来るまでここで待つように」と言われた。
 一時間ほどすると、吉沢さんのお母さんがやってきた。
「久しぶりね。警察は帰ってもらったから」
「すいません」
「『卒業』ごっこしたかったの?」
「すいません」
「やるじゃない。教会から走るところまでの二人は格好いいよ。でも今野君は、なにやっても詰めが悪いよね」
「はい」
「今野君、ひとみと結婚したいの?」と吉沢さんのお母さんは真剣に訊ねた。「そうじゃないんでしょ」
「えっ。ただ」
「まあいいや。ひとみは入り口であなたの姿を見てから、暴れて動かなくなったの。まだ暴れてる。理由はいろいろある。今野君が近くにいると安定するのは知ってる。いい?これで最後だと思うけど。もう一度ひとみにあってもらえる?」
「もちろん、いいですよ」と明広は答えた。「はい、これ」
 明広は吉沢さんのお母さんへ、ラブホテルで集めた使い捨てライターが一二個入った袋を渡した。
「あら、ありがとう」と吉沢さんのお母さんは言った。「じゃあ、これ」

 明広が吉沢さんのお母さんから受け取ったのは、次の日に出港する沖縄行きのクルーズ船チケットだった。
 竹芝を出港してから半日が経ち、周りが海しか見えなくなった。吉沢さんのお母さんはサングラスをしたまま、プールで泳いでいた。
 船酔いでビーチチェアの上で倒れている明広の隣に座った。
「昨日もひとみは、ずっと暴れてわたしと寝たのに。今日船に乗った途端に、旦那とはしゃいでいるの。これ、どう思う、今野君?」
「いいんじゃないですか。夫婦なんだから」
「わたしはね、ひとみを好きだっていう男は皆信用できないの。ひとみの外見だけで近寄ってくる、ろくでもない奴にしか思えないの」
「旦那さんは何の仕事してるんですか」
「大学病院でひとみの担当医。一二歳年上。背が高く筋肉質。まあハンサムだし口が上手い」
「いいじゃないですか」
「担当になって二ヶ月で妊娠させたっておかしくない。わたしが結婚させた。ひとみには恋愛って感情がないような気がする。性衝動はあるかな。でも、あの男と本当に暮らせるのか、わからなくなってきた」
「吉沢さんは」
「いや。今野君もずっとひとみを見てきたかもしれないけど、わたしはずっとひとみを見てきたから。これからも、わたしが一生ひとみをずっと見ていくの。いい?あなたに最後の機会をあげる。今晩ひとみが、あの旦那と一緒に寝るのが嫌だったら、わたしの部屋に来るように伝えてあるから。今野君がどうにかできるなら、何とかしてみてよ」
「え?」

 その日の夜中、吉沢さんのお母さんと明広はクルーズ船の部屋でずっと待っていた。何かが扉を叩いてくれることを待っていた。吉沢さんの泊まる部屋は上の階にあった。二人は何度も扉を開けて、海に映った月がきれいなどと言い合った。明広は船酔いも忘れて、扉が叩かれるのを待っていた。
 時間が今日と明日を跨ぎ始めるころ、扉を開けて吉沢さんが入ってきた。そのTシャツには「BY THE WAY」と書かれていた。
 吉沢さんは母親の部屋に明広がいることを知らなかったので、何度も飛び跳ねて、そして明広に突進して鼻を目がけて拳で殴った。明広に跨がって何度も顔を殴った。明広は殴られるのを喜んだ。
 吉沢さんのお母さんは、「ヘー」と言いながらハイライトに火をつけようとしたとき、扉が激しく叩かれた。
「ひとみ、ひとみ」と扉から大きな声が聞えると、吉沢さんは明広の顔を殴るのを止めた。
 明広には吉沢さんの顔が悲しい顔をして、時間が止ったように見えた。自分の体の上を跨がっている吉沢さんの目から水が滴って空中で止っている。その水滴の向こうでは吉沢さんのお母さんがハイライトを吸っている。そのハイライトの煙だけが動いて、吉沢さんの目から落ちた水に触れると、何もかもが動き出した。
 吉沢さんは、「バイバイ」と言うと、急いで立ち上がって部屋を出て行った。吉沢さんのお母さんが旦那さんへ挨拶だけをして扉を閉め、吉沢さんと旦那さんは帰った。
 明広は、全力を出して立ち上がって、自分の体をベッドに横たえた。
「すごい、いいものを見たわ」と吉沢さんのお母さんは言うと、美味しそうに煙草の煙を吐き出した。

二三.田中さんは首筋に刺青を入れる
 明広は十分な日焼けをした顔で「ちんすこう」を持って、一ヶ月無断欠勤した信用金庫に出社すると、解雇を言い渡された。
 明広は仕事を探す気力もなかったが、サリドマイド福祉センターから紹介された神奈川の知的障害者施設で三ヶ月だけ働いた。そこに入院している人達の周りで働くことはとても気分がよかった。
 また、福祉センターの同じ担当者からサリドマイド児同士の交流促進のため、今野君は田中さんと連絡を取ってはどうかと紹介された。
 明広にも記憶があった田中さんへ電話で話してみると、思いがけなく田中さんから岐阜の職場へ来てみないかと誘われた。
 
 奥飛騨熊牧場で働いている田中さんは鼻にピアスをしていた。
「もっと、いろんなところにピアスしているんだぜ」と田中さんは明広に体をぶつけながら嬉しそうに言った。
 田中さんの紹介で熊牧場でアルバイトをすることになった。腕が無い田中さんは器用に胸でスコップを動かし、熊達に餌と水を与え糞を集めて水を与えた。
 田中さんは他の飼育員と同じように、熊達に芸を教えていた。飼育員が手を上げると、一斉に熊達は手を上げた。田中さんが合図をすると、田中さんを目がけて沢山の熊達が押しくら饅頭のように押し合いをした。そして周りの熊は田中さんを持ち上げて、くるくると田中さんの体を回した。
 田中さんは熊牧場に住んでいた。明広はその隣の部屋に住み込みで働いた。
 田中さんの部屋からは、よく夜になると、自分で作った曲を唱う声が聞えてきた。たまに、誰かのあえぎ声が聞えることがあった。
「おれは、生きてる確証がほしいんだよ」田中さんはよく明広に体をぶつけながら言った。
 自然に明広は田中さんの着替えや生活の助けをするために田中さんの部屋に入ることが増えた。
 朝、起きると、裸の田中さんが体をつけて、明広の肩に首を乗せて寝ていることもあった。
「おれは、うめき声を上げるきみを想像するだけで十分だよ」と、田中さんはよく言った。田中さんは明広より二歳年下だった。

二四.熊達は無秩序な運動状態になる
 明広の誕生日には、「ビキニパーティ」をやるからと寄付金を要求されたので、先月の給料を全額田中さんへ渡した。そして、田中さんが買ってくれた派手な蛍光色のビキニパンツを明広に履かせた。明広は田中さんが派手なビキニパンツを履くのを手伝った。二人はその自分たちの奇妙なビキニ姿を鏡に映して笑った。明広は、自分はこういう姿でもいいんじゃないかと思えた。ビキニパーティとは、自分の姿を鑑賞する催しなのかと思ったら違った。

 明広は田中さんに連れられて、ビキニパンツの姿で熊牧場の入り口で客の来訪を待った。
 夜遅い時間になると、白いバンが到着してビキニの水着を着けた男性と女性が五人ずつ下りた。田中さんは熊達が芸をする建物に十人を招き入れた。誰もが田中さんを見知っている挨拶をした。
 明広は飲み物と軽食を用意し、田中さんは音楽をかけた。ルー・リードやパティ・スミスの曲に合わせて、みんなは体を揺らし、歓声をあげながら体を寄せ合った。
 扉が開いて、熊女さんが現われた。その後ろには十二匹の熊がついてきていた。
熊達も同じように体を合わせて踊った。
 ビキニ姿の男女がいなくなると、また十二匹の熊が増えて、クラッシュやラモーンズの曲に合わせて踊った。熊達は体を激しく寄せ合うモッシュをし、田中さんの体を持ち上げて回した。田中さんが回転する度に次第に全身の刺青が増えていった。
 さらに熊達は増え続け熊牧場にいる約一六〇匹の熊達が、PJ ハーヴェイやソニック・ユースやピクシーズの曲に合わせ、仲間の熊を持ち上げて運んだ。もう田中さんの姿はどこにも無かった。
 ザ・ポーグスやニルヴァーナやパール・ジャムの曲が流れると、明広を持ち上げてくるくる回した。
「ストップ」と明広は熊女さんへ言った。「もう随分長い間、ここで踊りを繰返している気がする」
 熊達が明広を頭上で回すモッシュ・ダイブのまま、止った。
 熊女さんは明広に説明をした。
「繰返していますよ。君の一番大切な人達にたいへんな事が起きているから。一匹の熊は一度しか戻すことができないから。一二匹の熊が全部やり直すと、地球の時間で一年経って再生するとまた一二回やりなおしてます。結果は同じだけど、熊達がまだやりなおしているので、まだ再生しています」
「それで、ぼくはここで何年踊っているの」
「地球ではとても長い時間です。今は二〇一六年。7月二二日から二四日までフジロックのヘッドライナーは、シガーロス、ベック、レッド・ホット・チリ・ペッパーズでした。そして二五日から二六日に日付が代わったところです」
 明広は、自分の知合いで生き残っている人を思い出そうとしていた。
「もういいんじゃないかな」
「そうですか?」
「そんなに長い時間。君はやれることはやったんだろ。もう、止めたり戻したりしなくていいんじゃないかな」
「そうですか、わかりました」
 ダイブをした明広の体を熊達は回し始めた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「By the Way」が流れ、熊と明広は激しく飛び上がって踊った。
 一匹の熊が突然押し倒された。また別の熊は叫ぶこともなく仰向けに倒れた。熊達は両手で目を塞ぎその場に蹲った。何匹もの熊達が倒れると、無事だった熊達も静かに扉から出て行き、自分達の熊舎へ戻った。明広は倒れて動かない熊達を一匹ずつ数えた。一匹の熊の丸まった背中をその短い腕で抱くようにして横になった。

二五.吉沢さんのお母さんはSNSをしている
 明広は自転車に乗って吉沢さんの家まで向かった。四〇年近く経つと、公団の賃貸は落書きだらけで放置された錆や罅が目立つ。分譲地区では目立つ箇所は改装されていた。一戸建ての地域はより豪邸が大きくなり、三台は入るガレージと大きな庭に大きな犬がいた。吉沢さんの家があった場所は更地になって、雑草が生えていた。
 SNSで吉沢さんのお母さんの名前「吉沢ナディア」で検索すると簡単に吉沢さんのお母さんのインスタグラムが見つかった。一〇年前で更新が止っていて、それまでは自撮りと食事の写真ばかりが並んでいた。
 DMをしてみると、瞬時に返信が来て、その日に吉沢さんのお母さんが住む海沿いの高層マンションを訪ねた。
 吉沢さんのお母さんに通された居間には、五○歳を越えた吉沢さんが座っていた。髪は腰辺りまで長く伸ばしていた。明広の顔を見ると、すこしだけ驚いた素振りをして、遠回りをして椅子を回って別の部屋へ入っていった。
「昔のわたしのように、ひとみもおばさんになったでしょ。もう、あの娘のおっぱいを見たいなんて思わないでしょ」
「え」
「ごめんね。知らない人を見かけるだけで、ひとみはすぐ逃げるの。気が小さい飼い猫よ。ああなると絶対出てこない」
「ぼくのことはもう知らない人なのですね」
「仕方ないよ、もう。でも今野君が昔みたいに毎週日曜日に来てくれれば、あなたたちなら仲良くなれるかんじゃない。今野君の知らない間に、ひとみにもいろいろなことがあったの。旦那の助けや偶然や、ちょっとした神様のひと振りで、いろいろなことが変わってしまうの、わかる?」
「わかります」明広は強く言った。
「今日は酷い事件があった。あんなにひどいことが」
 二人とも何かを言おうとしたが一旦やめると、話すことが見つけられないでいた。
 吉沢さんが入った部屋の扉が開いた。熊女さんは両手一杯に明広が作ったいびつなシロ熊粘土を持っていた。
「壁にはドライフラワーの花冠が、かかっていたよ。ほら」と熊女さんは言った。「花冠の中にこの紙が貼られてた」
 折りたたまれた紙にはシロツメクサの花冠の作り方が書かれていて、最後に「今野君へ」と小さく書かれていた。
「息子は中国に行ったきりで連絡もよこさない。今野君、何か食べていく?」
 吉沢さんのお母さんには熊女さんも、明広が短い腕で持っている粘土も紙も見えていなかった。
「吉沢さんのお母さん、どうもありがとうございます。そして、さようなら」
 明広は立ち上がって、熊女さんが開けた扉から吉沢さんがいる部屋に入っていった。
 吉沢さんのお母さんは少し慌ててそのあとを追って部屋に入ると、吉沢さんが一人でいるだけだった。
 吉沢さんは嬉しそうな顔をして立っていた。吉沢さんは壁に掛けていた花冠を前の何かに捧げるようにして持っていた。そして手を離した花冠は、ほんの暫く空中に浮かんでいるように見えた。

二六.最後に明広は図們で家族に会う
 
熊女さんと呼ばれていたぼくと明広はまた一つに合体した。ぼくらは、元々ひとつだった。
 今こそ、父親の今野雄二の代わりに明広は花冠を作れるだろう。ただ、その前に明広のために。もう少しいろいろな扉を開けて、いろいろな場所の人や物を動かしてこようとぼくは考えた。
 国境にかかる図們国境大橋はあの戦争から全く改修されていない。ここから向こうに見える川と森の景色も何一つ代わっていないように見えた。
 ぼくはいくつもの扉をあけて、いくつかの場所に立って見渡す。そしていくつもの人を何度も動かして、ここにみんなを集めた。

 今野亜希子がノリリスク収容所の扉を開けると、地吹雪が舞い、視界が白く覆われた。殆ど先が見えない中を微かな灯りを目指して亜希子は何度か転びながら歩いた。その灯りの下には今野雄二が仲間の死体を埋めていた。もうひとつ目の前に現われた扉を開けると、男の汗の匂いに充ちた収容所の中だった。指を切られた今野雄二が悲鳴をあげていた。亜希子は「お父さん」と叫んで雄二の腕を取った。
 今野雄二はホテルの隣に建てられた教会の扉を開けた。ノリリスク収容所で髪を切ったナディア・ハカマダが再婚をして吉沢ナディアの名になる式の最中だった。もうひとつの扉を開けると大きな居間で暴れてばかりの娘を抱きしめ、疲れ果てて床に横になった吉沢さんの手を取った。
 吉沢さんのお母さんはアパートの安普請の部屋の扉を開けた。その部屋で今野亜希子が出産をしていた。そこで双子の亡くなった弟の代わりに産声をあげた明広の姉を見た。もうひとつの扉を開けると雑居ビルの暗い一室だった。胸にシロツメクサの刺青をした明広の姉が客の男に足蹴りにされていた。吉沢さんのお母さんは明広の姉の手を取った。
 明広の姉が扉を開けると、養護施設の玄関で発見された両手の無い田中さんが職員に優しく抱かれていた。もうひとつの扉を開けると奥飛騨にある熊牧場だった。真夏の日差しが強い熊舎で田中さんは胸にスコップを挟み糞尿の掃除をしていた。明広の姉はそのスコップを取り、田中さんの肩を抱くようにして引っ張った。
 田中さんがホームセンターの扉を開けると、店の端で売れ残っているニーナが瞳を輝かせてこちらを見ていた。もうひとつの扉を開けるマンションの大きな部屋の中でニーナは吉沢さんに抱かれていた。その息が静かになりやがて止りニーナが叫びだした。動かなくなったニーナの背中を田中さんは足で何度か擦ると、ニーナは田中さんの跡を追って歩いた。
 シベリアンハスキーのニーナは奥飛騨の扉を開けて、熊たちが憲兵に撃たれていくのを見た。もうひとつの扉をあけると、熊舎の中でモッシュダイブを繰返し踊っている熊達がつぎつぎに倒れていくのを見た。そこで、怖がり目を隠し怯えている熊達を押し出すようにして外へ連れ出した。
 熊はホテルの隣に建てられた教会の扉を開けた。吉沢さんは明広が奥の扉から外に連れ出されるのを見て叫びながら走った。明広を追いかけるところを夫に止められた。後ろから羽交い締めにされても両腕両足を激しく動かして抵抗した。熊がもうひとつの扉を開けると、吉沢さんは小さな暗い部屋の中でシロツメクサで花冠を作り続けていた。その後ろには花冠が部屋一杯に埋めていた。熊はその吉沢さんの手を取って部屋を出させた。
 吉沢さんは奥飛騨熊牧場の扉を開け、白頭山の扉を開け、図們大橋の扉を開け、シベリア収容所のあらゆる扉を開け、明広が生まれた部屋を開け、全ての病室の扉を開け、クルーズ船室の全ての扉を開け、クマ牧場の全ての扉を開け、学校の掃除用具入れの全ての扉を開け、そこで裸になっている明広を見つけて手を取った。

 図們国境大橋の中央に扉が現われて、扉から明広の家族や家族になったかもしれない人達が橋を渡って来た。明広が子供の時に病室であった仲間達やどこかで命を無くした人達が橋を渡ってゆっくり集まってきた。ぼくはみんなの名前を覚えていた。ぼくは皆に名前があることを知っていた。
 明広は吉沢さんが作ってくれた紙を見ながら、ゆっくりとシロツメクサを一本ずつ重ねていった。その横に吉沢さんが現われて、細かく指示をし、途中に入れるための赤や黄の花を明広へ渡した。全員が見守る中、明広は苦労をしながら両端を結び花冠が出来上がった。

 父の今野雄二は、明広から照れながら花冠を受け取った。
「熊女さん、おれは来るのが遅すぎたな」
 熊女のぼくは笑った。ぼくの家族みんなも、小さく幸せに笑った。
 雄二は熊女さんの頭にシロツメクサの花冠を被せた。花冠を被り満足をした熊女さん、それがぼくだ。
 花冠を手に入れて本当にぼくと明広は一緒になった。これでぼくは元の世界に帰れる。ぼくと混ざった明広は、そこにいなくなった。
 誰もそのことには気づいていないようだった。
 ぼくは家族で写真を撮ることにした。
 中国の図們で何の変哲も無い橋を背にして、左から母と父と姉と吉沢さんのお母さんと吉沢さん。そして手の短い姉を真ん中にしてニーナと田中さんと、そこへやってきた自転車に乗り喇叭を鳴らし太鼓を叩き手を上げて踊る熊達が並んだ。
 皆は横に並び周りの人と楽しそうに話している。
 ぼくはカメラのファインダーをよく見ると吉沢さんだけは、笑っていなかった。明広を探しているのかもしれない。
「撮りますよ、そのまま。はい、チエズ」
 ぼくはそのまま家族の方に向かって走って一瞬だけカメラの方を向いた。家族の列に止らずに走り抜けた。他のぼくが知っている人達の側も頭の花冠を押さえながら走り抜けた。吉沢さんだけは振り向いてぼくの方を向いていたので、ぼくの家族の写真がどう写ったのかはわからない。
 ぼくはそのまま、図們国境大橋に出来た扉に入って、元の世界へ向かった。

エピローグ
 
ぼくは花冠を被って、元の世界へ戻ってきた。ぼくは、ここで自分の部屋に座っている。とても安心できる生活だ。ぼくは膝を曲げてただ座り続けた。
 急に思いつき、自分の胸のあたりをVの字型に削り取った。その削り取った箇所を集めて、そこから妻と子供二体を作った。仲間から何をやっているのか不思議に思われたので、家族を作ったのだと答えた。
 この小さな家族はぼくの周りを動き出した。ぼくも家族らにつられ、家族を連れてぼくたちの世界を歩きまわった。仲間から何をやっているのか聞かれたが、これがぼくの家族だと答えた。ぼくは花輪を被って家族と一緒に幸せに暮らした。
 
 気づくと、ぼくは歳をとり小さな家族の妻と子供らも歳をとっていた。ぼくは機械であるはずなのに次第に体を動かすことができなくなった。家族はベッドに寝たままのぼくを取り囲んだ。ぼくはもうすぐ動かなくなるのだろう。
 小さな息子が言った。
「ようやく、お父さんの世界に戻れる扉が見つかったよ」
「え?」
「よかったね。お父さん」
「ここはぼくの世界じゃ無かったのか」
「お父さんはどこからか扉をあけてこの世界に来てしまったのでしょ。だから、お父さんはずっと元の世界の扉を探してたじゃないか」
 息子が教えてくれた。ぼくの家族はみな笑った。
「あなた、ようやく元の世界に戻れますね」ぼくの妻がそう言った。
「よかったね、パパ」ぼくの娘が嬉しそうに言った。
「おまえたちは?」
「わたし達は、あなたが作ってくれた機械だから、あなたの世界に一緒にいけない」
 妻はぼくの頭を少し持ち上げてくれた。
 ぼくの白い体に色がついていた。上を見上げると、薄く透明な緑色の扉がゆっくりと降りてきていた。また自分の体を見ると、ぼくの体はすっかり黒色に染まっている。家族を作るために削った胸のV字の箇所だけは白いままで残った。
 緑の扉はもう少しでぼくと重なる。扉は透過されていて、家族の姿も見ることが出来た。ぼくが手をあげようとすると、扉と重なった腕は扉の中に入って行った。
 ゆっくりと扉は降りてきた。扉はぼくの体と混ざり合った。
 自分の体に扉ができたので、ぼくは扉を開けた。

プロローグ
 高山から奥飛騨を走る国道 471号線の曲がりくねった路を通っている時、偶然道脇に置かれた小さな「熊牧場 🐻⬆」 という看板を見つけられる人がいるかもしれない。
 そんなよほどの熊好きでなければ興味を持たないようなこの看板に誘われて長い階段を登り、誰もいない入り口で入場料を払えば熊牧場に入ることができる。そこからさらに長い石段を登れば、入り口に立つだけですぐ全体が見渡せるような小さな「飛騨高山熊牧場」にたどり着ける。

 この小さな熊牧場で愉快に暮らす月ノ輪熊達に一袋100円の餌を与えて熊の鑑賞を堪能すると、すぐに最後の小屋に突き当たる。そこで1000円を払うと子供服を着た子グマを膝の上に置いて記念写真を撮ることが出来る。
「この子は何歳ですか」とお客さんは訊く。
「三ヶ月ですよ」と飼育員の吉澤さんは答える。
「この子は♀ですか?♂ですか?」とお客さんは訊く。
「女の子ですよ」と吉澤さんは答える。
「へえ、可愛いですね」
「おっおー」と、ぼくは答える。
 誰の膝の上に座っても愛嬌を振舞う♀の子グマ、それがぼくだ。
熊牧場が閉館したら、ぼくたち熊は熊舎の中に入って休む。ぼくは食事の後、吉澤さんと一緒にコーヒーを飲みながらNetflixでドラマを観て過ごす。こういう生活も悪くないな、って最近は思うようになった。そしてシロツメクサが敷き詰められたベッドの上で家族のことを考えながら、体を丸めて眠りにつく。
 これはぼくの家族の物語だ。
   (了)

謝 辞:
群馬県 国保軍歴照会担当者様
財団法人いしずえ 担当者様
奥飛騨熊牧場 飼育係様

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文字数:49628

内容に関するアピール

二年間も講座を続けてしまいましたが、小説を書くことが上手になったのかは全く自信がありません。
ただ、わたしはずっと上手い小説や面白い小説を書くことより、自分しか書けない物語を書こうとしていたのだと思います。ただ、それが成功したのかどうかもわかりません。
また、わたしは、ずっと第一作から何かが欠けている人達を書いてきたのですが、遂に今回は殆どの人が欠けている物語を書きました。こういう物語が他人にどう読まれるのかはわかりませんが、とにかく最後まで書き切れたことに自分ではたいへん満足をしています。
二年間、ありがとうございました。

文字数:262

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