タイム・イズ・ビューティフル

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タイム・イズ・ビューティフル

   タイム・イズ・ビューティフル

 

 

   1.

 夜空をくり抜いて浮かぶ満月のように、丸い懐中電灯の明かりが真っ暗闇を照らしている。午後六時。思ったより綺麗な廃屋の廊下は、埃っぽさよりかび臭さが際立っていた。俺はお母さんが防災用に買っていた古いラジオ付きの懐中電灯を握り締めると、意を決して一歩足を踏みだす。その瞬間、背後でパァンとけたたましい破裂音が響いて俺は絶叫した。

 振り返ると、後ろにいた悪友三人がゲラゲラ笑いだした。誰かがわざと拍手して驚かせたんだ。手前からシュウ、リツ、ハルト。三人は俺と同じ西橋小学校六年二組のクラスメイトで、学童の頃からの付き合いになる。

「ふざけていい空気じゃないってぇ、もおぉ!」

 俺らが国道沿いに放置されたこの廃屋に侵入して、まだ数分も経っていない。いたずらするにしたって早すぎる。

「ねぇ誰!?」

「気にすんなって。誰でもよくね?」

 そうわざとらしくシュウが誤魔化す。シュウは運動神経がいいくせに、無神経な性格のせいでいまいちクラスの人気者になれない残念な奴だ。二歳の時に喉を手術したせいで、常にガサガサのかすれ声なのが玉に瑕。声門下狭窄症だっけ。呼吸器に問題があって、気管切開した時に声帯も切ったのが原因らしい。今も喉に痕がある。でもこの声のおかげで、シュウの無神経発言はだいぶマイルドに聞こえて、ほとんど腹が立たない。

「いいわけなくない!?」

「早く進めよ」

「えっおまえらだよな? やったの。マジで幽霊じゃないよな?」

「…………」

 嘘だろ?

「も〜〜〜やだ俺ぜったい後ろ歩く絶っっ対うしろあるく!」

「ごめんごめん俺。もうやんない」

 笑いながら白状したのはリツだ。テストはいつも満点のくせに、内申点が低いせいで成績表がBばっかのひねくれ者である。授業中にイキって学習塾の宿題やったりするからだよ。だから担任の望月に嫌われるんだ。ガリ勉のくせになぜか坊主頭なので、よく少年野球をやっていると勘違いされている。

 歩こうとしない俺の背中をリツがぐいぐい押してくるので、先頭を行きたくない俺は持っていた懐中電灯を押し付けた。するとリツはあっさり受け取ったものの、すぐさま隣にいたハルトにバケツリレーの要領でそれを手渡す。おまえもビビってんのかい。

「結局俺かよ」

 と、ハルトが呆れながら懐中電灯を握った。物怖じせず辺りを照らしたと思ったら、ずんずんと暗闇の中を突き進んでいく。強ぇー。ハルトは昔から、肝試しもお化け屋敷も一切怖がらないとんでもない奴だ。この感じだと、たぶんバンジージャンプも涼しい顔でやってのけるんじゃないだろうか。体がデカい奴は心も強いんだ。ハルトはクラスで一番身長が高い。

 ハルトに置いていかれまいと、慌てて俺たちも後に続いた。散らばったガラス片を踏むざりざりという音が辺りに響く。

 この廃屋は、学習塾帰りのリツがバスの中で偶然見つけたものだ。古くさいアパートに似た二階建ての建物で、それを囲むコンクリート塀には「所有者を探しています。ご存じの方は下記連絡先まで」という市役所の張り紙の他に、「信者以外の立ち入りは厳禁致します」という、なんとも不気味な看板まで残っていた。ホラーゲームすらろくにプレイできない怖がりの俺は、この時点で引き返すべきだった。でも三人が中を探索している間、建物の前でひとり待機している方が絶対に怖い。やりたくない。

 外からはアパートのように見えた廃屋だったが、いざ入ってみるとなんだか学校に近い。廊下に並んでいるのはすべてスライド式の引き戸で、なんだか西橋小の旧館に似ている。室内はドラマで見る会議室のような雰囲気で、放棄された机や椅子が部屋の隅で乱暴に山積みにされていた。

 懐中電灯を逆手で持ったハルトが、サバゲーのクリアリングみたいな立ち回りで一部屋ずつ中を照らしていく。その後ろを、ハルトの背中にぴったり貼り付いた俺と、横並びのシュウとリツが続いた。恐怖心を紛らわせようとしているのか、シュウとリツはさっきから雑談が止まらない。

「リツ、塾どう?」

「キツいよ。個別指導だからサボれんし」

 中学受験組のリツは、夏休みが始まった先々週からずっと勉強漬けだ。ゲームもYouTubeも、テレビまで禁止らしい。俺だったら泡吹いて倒れてる。するとシュウが、嬉々として俺を小突きながら口を開いた。

「俺ら今リツのためにいいもん作ってんだ。な?」

「そうそう、すげーやつ」

「来週見せっから待ってろ」

「期待できねー」

 そうリツが笑う。確かにシュウの発案はこれまでろくなことがない。でもな、今回ばかりは楽しみにしてていいぞリツ。

 ハルトを先頭にした途端、探索はさくさく進みだした。一階を網羅したので次は階段を登る。二階も同様の作りだが、こちらは生活空間を兼ねていたのか、どの部屋も畳の上に朽ちかけた布団や座布団が散乱していた。何もないがらんとした廃墟よりも、こうして色んな物が放置されたままの生活感が漂う方が、圧倒的に不気味に感じる。怖いから細かいところをじろじろ見るのは避けて、さくっと各部屋を見て回ると、最後にとんでもない部屋が俺らを待っていた。

 そこだけ扉を開ける前から少し異様だった。

 やけに広いのだ。

 恐る恐る扉を開けると、かび臭さと一緒に畳の独特の匂いが漂ってくる。ここだけ壁がぶち抜かれていて、ざっと四、五部屋分くらいの広さがあった。

「あっ…………俺無理かも」

 と、リツが後ずさる。坊主のくせに根性ねぇな。

「うわすげーな。ここで撮るわ」

 そう言ってシュウが、ポケットから使い捨てカメラを取り出した。シュウは最近、ユースケTVとかいうホラー動画チャンネルにドハマりしている。YouTuberのユースケが、日本各地の心霊スポットを使い捨てカメラで撮影して回るというコンセプトだ。シュウはここに来る直前、自分も同じように心霊写真を撮ってSNSに投稿するんだと豪語していた。

 シュウは俺ら全員を和室に上がらせると、勝手に写真を撮り始めた。俺とリツは死ぬほどビビっていてそれどころじゃないが、ハルトだけはカメラに向かってピースサインをする余裕がある。おまえの心臓は鋼鉄か? もはや廃屋よりハルトの方が怖い。土足のまま畳の上にいる罪悪感も相まって、俺の恐怖は頂点に達しつつあった。膝が笑ってまるで力が入らない。さすがにもう帰りたい。急におしっこしたくなってきた。だがそんな胸中など知りもしないリツが執拗に俺の背中を叩き続けるので、思わず小声で怒鳴り返してしまった。

「なんだよ……!」

「……なんか光ってる……」

 怖すぎて半笑いのリツが部屋の奥を指差す。

「見てきてよタツキ」

 ぶっ殺すぞ。

「無理無理無理」

「行けって、ほら」

「無理無理無理無理無理」

 無理って言ってるのにリツが背中を押すのをやめない。乱雑に積まれた大量の座布団の隙間から、確かに何かが光っている。仕方なく俺は不自然な早歩きで部屋の奥まで進むと、恐怖のあまり目を逸らしながら手を伸ばす。座布団を指先でつまみ上げたら、ごとん!と何かが転がり落ちてきた。

「わぁっ!」

「わああぁ!」

 驚いた俺の叫びにつられて、遠くでリツが叫ぶ。ねぇ離れすぎじゃない?

 足下に転がってそれをゆっくり拾い上げる。

 球だ。

「……なにこれ」

 と、俺の隣まで来たハルトが呟いた。いや俺に聞かれても。

 球は野球ボールより大きくハンドボールより小さい。真っ黒な表面が、ぬらぬらと赤や橙に淡く光っている。両手で持ち上げてみる。結構重い。なんかつるつるしてる。そんで妙にあったかい。

 遠くから動こうとしないリツが、小さく「なんだった!?」と声を張るが無視する。

 ハルトが懐中電灯で球を照らした。すると妙な感じになった。光が反射しないんだ。懐中電灯の光がまっすぐ球の中に吸い込まれている。一見するとそこだけ穴が空いたみたい。ハルトが光を逸らすと、すぐまた元の球に戻った。

「見たことないこんなの」

「な」

 すると、ようやくシュウとリツが俺らの近くまでやってきた。

「うわ、すげぇ」

「なにこれ、かっこよ」

 試しに投げてみる。俺が真上に投げた瞬間、一瞬球が浮いた気がした。

「えっ」

「やば」

 だが本当に一瞬だけで、すぐまた俺の手の中に戻ってきた。結構重いので、思わず取りこぼしてしまうところだった。何回か繰り返す。真上に来た時、やっぱり一瞬止まったように見えた。

 するとハルトが、俺らの丁度反対側、出入口に近い方を指差して俺に言った。

「あっちから投げてみて」

 マジで言ってる?

 すると、隣にいたリツとシュウもニヤニヤしながら俺から離れた。あー怖い怖い。その場のノリって本当に怖い。でも仕方なく移動する。息が浅くなってきた。ていうかそんな遠くまで投げれるかなこれ、結構重いんだけど。

「い、行くよー」

 球を持った手を振りかぶる。

 投げた。

 球は比較的まっすぐ飛んでいって、丁度俺とハルトの真ん中くらいで一瞬止まった。さっきと同じだ。違うのは、なぜか俺の方に球が戻ってきた点だ。慌ててキャッチする。

 その直後、シュウとリツが窓の方を見ながら絶叫した。

 ほぼ同時に俺も叫んだ。二人の叫び声に反射的に驚いただけだが、和室の出口へと駆けだしたシュウとリツのただならぬ様子に、問答無用で俺も走りだす。終わった。絶対出た。幽霊が出た。俺は見てないけど間違いなく心霊現象だ。死ぬ。振り返ったら死ぬ。俺のすぐ横をハルトが猛スピードで追い抜いていく。わはは。さすがにハルトもビビったか。今日は記念日だ。いや喜んでる場合か。

 急いで三人の後を追う。すっかり最後尾だ。俺だけ圧倒的に足が遅いので仕方ない。なぜかといえば、小学六年生にして体重が五十キロを超える肥満児だからである。ようやく俺が廊下に出た時、三人はすでに階段の手前にいて、俺の名前を叫びながら追いつくのを待ってくれていた。ありがとう。お太り様で申し訳ない。持つべきは自分を見捨てない親友である。こんな目に遭ったのもそいつらのせいだけどな。

「持ってくんなよそんなもん!」

 追いついた俺にリツが叫ぶ。俺の両手は、まだあの黒い球を握り締めていた。うわぁなんで捨ててこなかった俺よ。

「だって──」

 言い訳しかけたその時、踊り場の窓からおかしなものが見えた。

 太陽だ。

 しかも動いている。まるで転がっていくピンポン球のように太陽が空を横断すると、今度は青空が橙を経由して黒色に戻っていく。そして月が横切ったかと思えば、しばらくして空が白んでまた太陽が顔を覗かせた。動画で時々見かける、定点カメラの早送り映像だと、俺は思った。俺らは逃げることも忘れて、ただ呆然と窓を見つめていた。両手に球を抱えたまま。太陽と月が交代を繰り返す。

 ごん、とぶつかる鈍い音が響いて、シュウが「わっ!」と驚いた声を上げた。球を落としたんだ。

 顔を上げると、月はもう動かなくなっていた。

「……行こう」

 ハルトの上擦った声と共に、俺らは走りだした。

 俺らは黙ってるのに、廃屋の中はやけにうるさかった。俺らの荒い息づかい。足音。小さな咳払い。なのに国道から響く車の走行音だけがやけに遠い。まるでここだけ異世界に飛ばされたみたいだ。

 俺らは廃屋を飛び出すと、勢いそのままにコンクリート塀にぶつかって、そのまましゃがみこんだ。全員しばらく黙っていたが、緊張の糸が切れたのか突然リツが笑いだした。俺らもつられて笑いだしたら止まらなくなってしまった。

「びっくりした」

「なに? 今の。誰の仕込み?」

「バカ」

 笑いすぎて漏れた涙を拭きながらリツが続ける。

「窓が急に昼間みたいに光りだしたからさー、マジでビビった。UFOだ! って」

 いや人魂であれよそこは。

 

 

 妙な達成感と高揚感を抱えながら、俺らは廃屋を後にした。いつの間にかすっかり日は暮れていて、街灯が煌々と道を照らしている。廃屋近くの公園に停めておいた自転車は、こんな時間なのに運悪く撤去されてしまっていた。仕方なく徒歩二十分の距離を歩いて帰る。

「なんだったんだろうな、あれ」

「どうする。親に言う?」

「無理無理無理。親に言ったら頭おかしくなったって思われそう」

「受験ノイローゼって?」

「そう」

 リツの両親は大学と中学の先生で、リツの百倍頭がいい。いくら説明しても絶対に信じてはもらえないだろうな。リツはすぐに話題を変えた。

「でさ、俺のために作ってるって、何を?」

 俺とハルトは発案者に気を遣って、シュウが喋りだすまでしばらく黙った。

「秘密基地。いま新川の河川敷に建設中ー」

「勉強嫌になったら逃げてこいよ。マジで住めそう」

 YouTubeの手作りテントの動画を参考にして建てた、ブルーシートのわりとしっかりしたやつである。家からパクってきた厚手のレジャーシートを中に敷いたら、余裕で昼寝できるくらいの出来になった。難点は日が差すとクソ暑いのと、虫が多いこと。

「みんな西橋中行くの?」

「たぶん」

「いいなー」

 リツのぼやきに、俺らはどう声を掛けていいかわからなかった。「じゃあ勉強サボれよ」は明らかに無神経だし。受験するのは当然親の希望が大きいだろうけど、別にリツ自身がそれを望んでいないわけじゃない。リツなりに色々天秤に掛けた結果なんだ。だから下手なこと言って傷つけたくない。余計なこと口走って気まずい空気にさせるくらいなら、一生黙ってた方がいいじゃん。でもリツは勇敢だった。

「俺だけ別の中学でも、また遊びに来るから」

 リツの直球を、俺とシュウは照れ隠しで笑い飛ばしてしまった。

 まずい、と気づいた時にはもう手遅れだった。俺らは気づいてしまったのだ。一緒になって笑うリツがひどく悲しそうな目をしていたことに。俺は謝る習慣がないから、こういう時とっさに口から何も出せない。シュウはアホだから笑っていれば済むと思ってる。

 でもたったひとり、ハルトだけは違った。

 ハルトがリツに向かって右の手のひらを向ける。まるでボクサーの拳をミットで受け止めるみたいに。リツは一瞬だけマジな目をさせて、ハルトの右手に思いっきり拳を突き刺した。「痛ってぇー」とハルトが笑う。リツも笑った。

 そしていつも通りに戻った。

 やっぱハルトはすげーわ。

 

 

 西橋小前のいつもの交差点で解散した。俺の両親はここから歩いて数分のラーメン屋「さんさん」を経営していて、自宅もそのすぐ近くだ。

 さんさんの前を通りがかったら、なぜかもうシャッターが閉まっていた。あれ? 十二時閉店なのに。どうしたんだろう。お店でトラブルでもあったんだろうか。

 心配になって、俺は小走りになって自宅の一軒家に向かった。家の窓からはいつものように明かりが漏れている。特段、変わったことはない。どうしたんだろう。珍しくスープがなくなったのかな。鍵を開けて玄関戸を手前に引きながら、俺が「ただいま」と言って中に入ると、すぐに両親と五歳上の兄貴が走ってきた。

 真っ青な顔をして。

 お母さんは俺の顔を見るなり泣き崩れて、お兄ちゃんに縋りついた。

「四日間もどこに行ってたんだ」

 お父さんが震える声で言った。

 俺はわけがわからなくて、しばらく靴も脱げなかった。

 

   2.

 俺ら四人が仲良しグループになったのは、まだ学童にいた小学校三年生の頃だ。元々シュウとハルトが友達同士で、俺とリツが後から加わって四人組になった。

 シュウの家は介護士のシングルマザーで、いつも家に人がいない。リツの母親は毎日遅くまで勤務先の中学校で残業。父親はそこまでじゃないけど、平日はほとんど飲み歩いていて家にいない。ハルトの家は、ボランタリーチェーンの小規模スーパー「ひらいフーズ」を家族経営している。閉店の十時まで家には誰もいない。で、俺ことタツキの家が、まあまあ人気のラーメン屋「さんさん」だ。でも俺んちはかなりマシな方だ。だって七時過ぎには、お母さんかお父さんのどちらかがちゃんと家に帰ってくる。

 俺らは授業が終わると、ランドセルも置かずに誰かしらの家に上がりこみ、みんなでだらだらゲームをしたり宿題をしたり、テレビのクイズ番組を見ながら早押しを競ったりした。週の半分はひらいフーズの賞味期限切れの惣菜で腹を満たし、もう半分はさんさんで味玉が半個しか乗っていないまかないラーメンを食べる。それが俺らの最高の放課後ルーティーン。

 性格も家庭環境も経済状況もバラバラの俺らが、どうして仲良くやってたのか。今思い返せばなんとなく理由はわかる。全員親が忙しくて、兄弟がいても年が離れすぎていて、孤独を無視するために連帯せずにいられなかった。

 あとシュウは、俺とハルトがいなかったらマジで飢え死にしてたと思う。

 

 

 廃屋へ肝試しに行った日。俺らが建物に入って出るまでの間、信じられないことに四日もの時間が過ぎていた。

 小学生が四人も同時に失踪したので、結構なニュースにもなったらしい。溺死の可能性があるからと新川は数百メートルにも及ぶ捜索がなされ、四人の親は近所の心当たりを駆けずり回り、マスコミに追い回され、もれなくインターネットで監督不行き届きだと叩かれた。俺らが帰ってきた後はさらに叩かれた。意味がわからん。大人は子供のイジメを怒るくせに、なぜか自分たちはイジメをやめない。

 警察官にこの四日間のことを尋ねられたので、俺は正直に「廃屋にいた」と答えた。俺はただ「いた」としか答えなかったのに、聞き役をしていた婦警さんは「家出して四日間そこにいたんだね」と勝手に物語を追加してきて、気持ち悪かった。

 でもまあ、自業自得なのかもしれない。だってあの日見た不可思議な現象については、さすがに何も言えなかったからだ。後から聞くとリツもハルトも同じ答え方だったらしい。ただシュウだけが馬鹿正直に「本当のこと」を言ってしまったので、後日がっつりスクールカウンセラーの世話になる羽目になった。

 無傷で戻ってきたおかげか、世間もマスコミもインターネットもすぐさま俺らのことを忘れてくれたのは幸いだった。ただインターネット上に書き込まれた店への誹謗中傷はしばらく消えきらず、さんさんも常連以外は客足が減ってしまった。空席の目立つ店内を見た時はさすがの俺も罪悪感を抱いけど、両親は一度も俺を責めなかった。

 俺らは反省した。さすがに自転車で学区外まで行くのはやりすぎだった。完全に調子に乗っていた。そう、イキっていたのだ。

 とはいえその代償はデカすぎた。俺らが戻ってきた日以来、四人で会うことを禁じられたのだ。失踪中、親同士で相当揉めたらしい。シュウのお母さんに至っては、俺ら三人がシュウをイジメてたんじゃないかとまで言ったらしい。そんな馬鹿な。大体シュウはされる方じゃなくてする方だろ、どう見ても。お母さんは「うちが何杯シュウちゃんにラーメンご馳走したと思ってんの。頭くるわ」と本気でキレていた。

 というわけで、俺の夏休み後半戦はほぼほぼ自宅待機で終わろうとしていた。時々近所のコンビニに出かけるのが唯一許された外出という始末。まるで週刊誌に不倫がすっぱ抜かれて、活動自粛に追い込まれた芸能人みたいだ。つまりほとぼりが冷めるまで、家で大人しくしているしかないってこと。

 俺はアニメや漫画が好きなので、引きこもることには大して不満はなかったのだが、両親だけでなく反抗期の兄貴までもが過剰なくらいに気を遣っていてきたのはキツかった。俺がごめんなさいと一言でも言えたら、家の中の空気はもっと早く正常化したんだろうけど。このウンコみたいな性格は本当に直した方がいい。

 以降、俺らはSNSの匿名アカウントとオンラインゲームのボイスチャットで密かに連絡を取り合った。聞くとリツは子供用の見守りGPSを持たされて常に監視され、ハルトは朝から晩までスーパーの手伝いを命じられ、シュウは一時間おきに母親から電話を掛かってきていた。これはキツい。そんな極端な環境変化が長く保つわけがなかった。

 案の定、夏休み最終日にシュウが逃げ出した。ストレスが爆発したシュウは当直帰りの母親と大喧嘩になり、24インチのテレビをぶん投げてベランダのガラス戸に巨大なひびを入れた後、着の身着のまま家を飛び出したのだ。

 数時間後の午後五時、親づてにその話が回ってきたものの、前回ひどく恨まれたせいか誰の親もシュウの母親に協力しない。俺はショックだった。じゃあシュウはどうなる。

 いくらクソ親の息子だからって、シュウに罪は一個もない。

 

 

 最初に動いたのはハルトだった。

『迎えに行こう』

 ハルトはすぐさま俺とリツを加えた三人のグループチャットを作り、そうメッセージを送ってきた。通知を見て、俺は目が覚めた思いだった。そうだ。大人が動かないなら俺らが動けばいい。

『どこ探す?』『心当たりは?』

 そう俺が送ると、すぐにハルトが『ある』と打ってきた。

『とりま集まろう』

『リツは無理すんな』

『塾優先で』

『平気』『すぐ行く』

 そこからは早かった。俺は財布だけポケットに入れて、近くのコンビニに行くふりをして家を出た。西橋小前のいつもの交差点で集合する。ハルトはスーパーのバイト用エプロンを持ったままやってきた。塾があるはずのリツもいる。

「みんなサボって平気?」

「知らねー」

 ハルトとリツがまったく同じ台詞で同時に答えた。サボっちゃマズいのは当たり前なのに、二人の顔は清々しい。

 ハルトが向かった先は新川の河川敷だった。そうか。

 秘密基地か。

 夕陽に染まった堤防を登って降りて、二週間近く放棄されていた例の場所を覗くと、見るも無惨に崩れてしまったブルーシートの残骸だけがそこにあった。シュウはそのすぐ近くにいた。小枝と石を集めて、見よう見まねで竈を作っている。駆けつけた俺らを見て、シュウは纏った殺気をより鋭くさせて吠えた。

「戻んねーから、もう。あんな家」

 本気かどうかは別として、シュウはとにかくキレまくっていた。別に珍しいことでもないので、ぶっちゃけ俺らは屁でもない。案の定リツがわざとおどけた口調で反論する。

「いやいやいや……どうすんのじゃあ、家とか」

「ここで暮らす」

 ウケる。

「馬鹿すぎるってそれは」

 リツのツッコミをシュウは無視した。駄目だこりゃ。

 するとハルトが、何も言わずにその場に座り込んだ。

 俺らも倣うと、シュウは「死ね」と叫びながら集めた小枝を蹴り飛ばして去っていく。でもしばらく待ったらあっさり戻ってきた。石投げ用の平たい石を何枚か握っている。シュウは軽く助走をつけて、石を川面に向かって鋭く投げた。小気味よくぽんぽんぽん、と水面を跳ねていく。テンポが心地いい。

「リツだけ西橋中行けないって話、前したじゃんか」

 川を見つめたままシュウが言う。

「ババア再婚するって。だから俺も行けない。東京引っ越すから」

 言いながら、シュウが二個目の石を投げた。シュウはクソガキなので母親をババア呼ばわりしている。

「誰も悪くないよ」

 淡々とハルトが言った。ハルトはいつも大人だ。

「俺でも再婚するよ。一人で働いて子供の面倒も見んのキツいもん」

「うるせぇ。知るか」

 はいはい。

 シュウが容赦なく会話をぶった切るので、再び沈黙が訪れてしまった。

 新川をまたぐ陸橋を、騒々しい音をさせながら私鉄電車が渡っていく。

「……受験やだな」

 ぼそりとリツが呟いた。

 オレンジ色に染まった川が何もかも吸いこんでる。

 するとシュウが、持っていた石のひとつをリツに渡した。リツはすぐに立ち上がって、大きく振りかぶってその石を投げる。

「やだなー! 受験すんの!」

 石が跳ねる。ぽんぽん。だがすぐに沈んでしまった。

 シュウはハルトと俺にも石を渡してきた。ハルトもリツに倣って投げる。ぼちゃん、と跳ねずに石は沈んだ。ようやくシュウが笑う。ああ良かった。俺も立ち上がる。

 石を握る。なんだかじんわりと暑かった。夏だからかな。

 護岸のコンクリートまで軽く助走をつけて、ぐっと左足を踏み込んだ瞬間、上半身を思いっきり捻って右腕を振りかぶった。俺らの夏が終わる。今日で終わる。夏は来年も来るけど、きっとそれは今までとは全然違う夏だ。今年は特にひどかった。やり直せるもんならやり直したい。

 肝試しに行ったあの日からやり直したい。

「終わんじゃねーよ! 夏!」

 右腕を振って生まれた力が、手のひらを通って指へ流れた瞬間、石を離す。

 投げた石が水平の角度から水面に突き刺さろうとした瞬間。信じられないことが起きた。水しぶきを上げたまま、石が空中に浮いたのだ。いや、違う。

 止まってるんだ。

 風も、音もない。堤防でランニング中の見知らぬおじさんが、寄り添いながら散歩するカップルが、縄跳びを跳んでいるトレーニング中のお兄さんが、動画を一時停止したみたいに不自然な体勢のまま固まっている。は? わけがわからない。

 背後で草を踏みしめる音がして、俺は慌てて振り向いた。シュウと、ハルトと、リツの三人が、呆然とした顔で辺りを見回している。

「おまえがやったの?」

 ハルトが俺に問う。俺じゃない。

 俺はただ、石を投げただけだ。そこらへんに落ちていた普通の石を。

 すると突然、リツが万歳しながら「よっしゃぁ!」と叫んで飛び跳ねだした。俺はついにリツがぶっ壊れたのかと思った。シュウとハルトも同じことを考えたに違いない。互いに見合わせる目が右往左往している。そんな俺らの様子にまったく気づいていないリツは、ただただ嬉しそうな声で叫び続けていた。

「遊び放題だおまえら! なにやっても怒られない! 寝落ちするまでゲームだってしていいんだぞ! やった! 塾なんか二度と行くか! やったぁ!」

 そこでようやく俺は理解できた。今何が起きているのかを。

 俺らを除いたあらゆるものが時間を止めたのだということを。

 次に喜んだのはシュウだ。

「ババア! ざまぁみろ!」

 叫びながら意味もなく河川敷を走りだした。げらげら笑いながらリツがそれを追いかける。

 うわぁ。馬鹿が二人になっちゃった。

「てかどうすんだよ、元に戻らなかったら……」

 そう俺がぼやいたら、隣にいたハルトが「まあ大丈夫っしょ」と楽観的に励ましてきた。珍しいな、ハルトが脳天気だぞ。思わず不満げな声で反論する。

「根拠は?」

「ないけど、たぶん四日経ったら終わるよ」

「なんで」

「四日失ってるから」

 そう言って、ハルトはシュウとリツの後を追って走りだした。

 釈然としない俺を残して、遠くでは早くもプロレスごっこが始まっていた。

 

 

 ハルトの予言通り、体感速度四日で時間の流れは元に戻った。予想外だったのは、時間は完全に停止していたわけではなく、目で見ただけでは気づかない低速度で動き続けていたということだ。

 気づいたのはシュウだ。散歩中の犬が電柱に引っかけていたおしっこの放物線が、翌日見に行くと、なぜか途中から半分の長さに変化していたのだ。試しに秒針のある時計を観察してみたら、確かにわずかながら針が進んでいる。一秒経つのにざっと三分ほど。測る物がないから適当だけど。にしても犬のおしっこで気づくとか、あまりにも発端がろくでもない。

 結局、リツが期待していたゲーム三昧は実現できなかった。いくらボタンを押してもゲーム機の電源が付かなかったからだ。となると当然、テレビもスマホも役に立たない。これは相当キツい。学童が退屈すぎた三年生の終わり頃を思い出すレベルだ。仕方なく俺たちは、潰れてしまった秘密基地を再建することを四日間の目標に設定したものの、やはり長続きせず発狂寸前だった。こんなはずじゃなかった、の一言に尽きる。

 でも楽しいことがなかったわけじゃない。普段やったら咎められるようなことを気兼ねなくできたりね。車のボンネットで飛び跳ねるとか、黒板消し投げつけ合うとか、夕飯をポテトチップスだけで済ませるとか、教員室に忍び込んで、真剣な顔で電話を掛けている望月先生の胸ポケットがパンパンにはち切れるまでボールペン詰め込んだりとか。

 唯一揉めたのは、シュウが電気屋からテレビを盗もうとした時だ。

 それは三日目、自分が家のテレビを大破させたことを思い出したシュウが、今なら盗んでもバレないからと、中華屋と蕎麦屋の間にある「古河電器」に入ろうとしたのだ。たぶんシュウは本気じゃなかった。現に俺もリツも、シュウがそう言った時冗談だと思って笑い飛ばしたくらいだ。そんな中で、一人だけ本気で怒りだした奴がいたのだ。

 ハルトだ。

「やっていいことと悪いこともわかんねーのかよ」

 滅多に怒らないハルトが語気を荒らげたので、俺らは面食らってしまった。

 これは微妙な問題だった。すでに俺らは、飢え死にしないために大型スーパーから何度も食料を盗んでいたからだ。惣菜の寿司を盗むのはいいけどテレビを盗むのは良くない。確かにそうかな、と感覚ではわかるけど、理屈で説明しろと言われても俺にはよくわからない。

 シュウは露骨に拗ねた顔でハルトに言い訳した。

「冗談だよ」

「言うな冗談でもそういうこと」

「……ぎゃい」

 え?

 気まずすぎて舌が回らなかったらしい。ただでさえシュウはガッサガサな声のせいで何を言っているのか聞き取りづらいのに、意味不明な台詞を吐くからリツが噴きだした。ハルトも明後日の方向を見ながら肩を震わせている。

「よりにもよって今噛むなよ」

 声を震わせながら俺がツッコんだら、シュウは両手を振りながら「ぱっぱらぱ〜」と言って変顔をしてみせた。全員それで爆笑して、気まずい空気は完全に霧散した。

 古河電器は、八十過ぎのおじいちゃんが経営する小さな電気屋だ。そろそろ五十になる息子と二人暮らしだが、中度の知的障害の持ち主なので、見た目はおじさんでも中身は俺ら小学生と変わらない。近所で店屋をやっている俺とハルトは、古河さんちの事情を昔からよく知っている。知っているからこそ、ハルトは冗談でも怒ったんだ。

 もしくは、冗談で覆い被したシュウの態度の裏に、ほんの少しだけ「本気」が潜んでいたのを、ハルトは見抜いたのかもしれない。シュウとハルトは俺らと違って保育園からの付き合いだし、二人にしかわからない何かがあるんだろう。

 リツが励ますようにシュウの背中を叩いて言う。

「盗るならせめて駅前のでっかい電気屋にしような」

 だからそういう問題じゃない。

 

 

 最終日。シュウとハルトは、終わってなかった夏休みの宿題をリツに頼んで丸写しさせてもらい、俺はやっつけで終わらせていた工作の版画を彫り直して大傑作を作った。あれだけ遊べることを歓迎していたはずだったのに、結局リツは後半二日間ほとんど自習していた。なんでも嫌いなのは通っている学習塾であって、勉強自体は好きらしい。よくわからんこいつのことは。

 いつまでも沈まない夕陽の中で、俺らは一生分の夏休みを味わったと思う。

 腕時計の短針がまるっと八週した頃、河川敷を橙色に染め上げていた太陽は地平線近くまで沈んでいて、辺りもわずかに薄暗く変化していた。ひらいフーズからパクってきた炭酸飲料を四人で飲んでいる最中、時間はなんの前触れもなく唐突に元に戻った。俺らが日頃いかに環境音で騒がしい場所で暮らしているか、よくわかる瞬間だった。無音で四日間も過ごしたツケで、しばらく耳を塞いでいた方が丁度いいくらい。

「なんか貯金崩した感じだよな」

 四人で帰り道を歩きながらハルトが言った。

 なるほど、俺らは肝試しの日に四日分の時間を貯めて、後からそれを使ったことになるわけか。時間貯金だ。それで損したと思うか得したと思うかは本人の性格によりそうだが、俺ら四人はおおむね満足していた。ゲームができるならまたやってもいい。

「時間って貯金できんだな、知らなかった」

「いや普通できねぇって」

「このこと誰にも言うなよシュウ。特に心理カウンセラー」

「言わねぇよ。学習した」

 ならいいけどな。

「楽しかったなぁ。またやろうないつか」

「そう都合よくいくかよ」

 少なくとも俺は、たとえ昼間だろうとあの廃屋には二度と行きたくないけどな。

 そうして俺たちは、今度こそ本当に西橋小前のいつもの交差点で解散した。

 家に帰ったら、高校生の兄貴が咎めるような顔で部屋から出てきて、俺に言った。

「長ぇぞ、コンビニで三十分は」

 あ、そうか俺、コンビニ行くって出て行ったんだっけ。

 

   3.

 志望校に合格したというリツからの連絡は非常に簡素なもので、グループチャットにただ一言「合格」とだけ飛んできた。カッコつけ方がリツらしい。

 卒業式の日、リツとシュウはすでに西橋から都内に引っ越しを終えていた。それまで弟と同室だったリツは、新居で初めて自分だけの部屋を持てて大喜びだった。一方シュウは、義父が気を遣いすぎてキモいと一刀両断していた。おまえが無神経すぎるんだよ、と俺は心の中でツッコんだ。

 今思えば俺もハルトも、西橋市がどれくらい東京から離れているのか、よくわかっていなかった。乗り換え案内で検索したら、快速電車で七十分の距離だと出て、ああまあそんなもんか、ならまったく会えなくなるわけじゃないな、なんて楽観的に考えていた。この時は。

 大事なのは物理的な距離じゃなくて、みんなで集まるための時間を作れるかどうかだったと気づくのは、もっと後になってからだ。現に俺ですら、六年通った小学校の門を出た瞬間、これから通う中学校生活への期待で頭がいっぱいだったんだから。

 同じ西橋中に進学した俺とハルトは、最初の頃こそよく一緒に下校していたが、互いに別の部活に入ったことで次第に疎遠になった。クラスも三年間別だったし。背も高くて大人っぽいハルトに、勝手に俺が気後れして距離を取っていた節もある。結局、校内ではほとんど喋らなかった。ただ家が近所だから、コンビニや駅前でばったり会うことは時々あって、その時だけは昔みたいに気兼ねなく話せて嬉しかった。

 俺とハルトでさえこうなんだから、リツとシュウは言わずもがなだ。特にシュウはSNSやメッセンジャーアプリがとにかく苦手で、滅多に自分から情報発信をしない。年賀状に写るシュウが年々チャラくなっていく様子で、色々と察するだけである。茶髪から金髪になった次の年、ピンクの短髪になった時はさすがに笑った。いやその見た目ならSNS得意であれよ。

 リツは自撮りも自分語りもしないので、記憶の中では小学生の時のままだ。俺は中学でバスケ部に入り、朝と放課後を精力的に部活動に捧げた。おかえでデブも卒業できた。先輩から「野球行けよ」って散々イジられたけどな。

 こうして少しずつ、少しずつ、俺らは離れていった。

 特段寂しくはない。こうして「大人になる」んだと本気で思っていた。

 でもお互いSNSで繋がっているから、幸か不幸か疎遠になった感じはしなかったのだ。その細い糸みたいな繋がりにあぐらをかいた。まあいいか、このままでも、どうせいつか会えるだろって。でもどんな状況であれ、俺らは面倒がらずにもっと頻繁に集まるべきだったんだ。

 あんなことが起きる前に。

 

 

 バラバラの俺らが久しぶりの再会を果たしたのは、最悪の出来事が起きたからだ。高校二の冬休みだった。

 俺と違って成績の良かったハルトは二駅隣の市立高校に、俺は地元の私立高校に進学したのだが、中学の間に薄まった俺らの繋がりはこれを機にほぼ断絶し、顔を合わせることも滅多になくなっていた。本当にごく稀に、道端ですれ違うくらい。

 始まりは、朝のテレビニュースだった。

 午前八時半過ぎ。西橋駅前の交差点で、未成年が運転する軽自動車が赤信号を無視して横断歩道に突っ込み、歩いていた家族三人を二十メートルも吹っ飛ばした。

 被害者の名字が全員「平井」であることと、千葉県西橋市というテロップと共に「ひらいフーズ」の映像が流れた瞬間、母親は「嘘でしょ」と叫び、朝食を食べていた俺の食欲は一瞬で消え失せた。テロップの名前を何度も確認する。ない。「平井晴人」の名前はない。よかった。いやよくはない。馬鹿か俺は。でもハルトは無事だ。無事なんだ。年齢から察するに亡くなったのはハルトの両親だろう。妹は意識不明の重体だ。

 俺は食べかけの朝食を放りだすと、家を出て走りだした。

 西橋駅前の交差点はパトカーと野次馬だらけで、現場周辺には規制線が張られていた。現場の警察官にハルトの家族の搬送先を尋ねて回ったが、関係者でなければ教えられないと誰も答えてくれない。単に知らないだけなのかもしれないけど。

 一番近い救急病院の場所を調べる。たいして遠くない。走りだす。

 移動中、リツとシュウからもメッセンジャーアプリに連絡が届いた。ハルトを含めたグループチャットに何ヶ月ぶりかのメッセージを飛ばすが、ハルトからの応答はなし。

 病院を何軒か回ったが、どこにもハルトの姿は見つけられなかった。

 汗だくになりながら駆け込んだ待合室のテレビで、意識不明だったハルトの妹が死亡したことを知る。ああ、この世は地獄だ。その場でしばらくうずくまってしまった。

 その後も数件病院を回ったら、いつの間にか空は橙に色を変え始めていた。

 昼飯食いっぱぐれた。腹は減ってるけど、何も食う気がしない。

 着ていたフード付きのパーカーは、真冬だっていうのに汗でびしょ濡れで、生地の色はすっかり変わっていた。

 規制線が解かれた西橋駅前の交差点は、まるで最初から何事もなかったかのように平和で、一日走り回っていたのが嘘みたいだ。諦めて帰ろうと思った矢先、見覚えのある雰囲気の高校生が目にとまって、息が止まる。ハルトだった。少し離れた小さな駐車場の脇で、しゃがみながら交差点を眺めている。

 走って駆け寄ったが、しばらくどう声を掛けていいかわからなかった。

 夕陽に染まったハルトの横顔を、俺は随分長いこと盗み見ていたと思う。

「あのさ」

 ようやく捻りだした声は、緊張で少し擦れていた。

「朝ニュースで──」

「悪いけどほっといて」

 と、ハルトが交差点を見つめたまま俺の言葉を遮った。覇気のない声で。

「誰とも喋りたくない。ごめん」

 そう告げられて、俺は走ってもないのに息が浅くなった。

 ただただ悲しかった。でも同時に、なんて身勝手な感傷だろうと気づく。

 俺にできるのは、その場から立ち去ることだけだった。

 こんな時でさえ、俺は謝れない。最悪だ。

 

 

 報道によると、軽自動車を運転していた無職の少年は免許を持っておらず、以前から無免許運転を繰り返す常習者だった。地元では有名な暴走族で、事件当日も朝まで仲間たちと遊んでいて、その帰り道で居眠り運転をした結果、事故が起きた。

 ワイドショーが映した加害者が両親と共に住む自宅は、西橋駅の反対側だけど、うっすら見覚えがあるくらいには近所だった。

 しばらくして、町内会長経由で告別式の案内が届いた。シュウとリツの分も預かったので、すぐに二人に連絡する。三人で集まってから告別式に行くことになった。

 案内を受け取った俺は心底ほっとした。正直、俺はあの事件の日のことで二度とハルトに会えないんじゃないかと覚悟していたからだ。告別式で会ったら、今度こそちゃんと謝ろう。そう誓った。

 

 

 最寄り駅の改札前で、中学一年の正月ぶりに再会したシュウとリツは、俺を見るなり「は!?」と叫んだ。そういやデブを卒業してから二人に会うのは初めてだった、と今更思い出す。

「おまえら変わったな」

 リツが言う。いやおまえにだけは言われたくない。かつて坊主だったガリ勉小学生は、四年経ってなぜか肩までつくロン毛野郎に豹変していた。元々リツが坊主にしていたのは合格祈願の願掛けだったが、だからってそこまで伸ばすかね。今時軽音部でもそんな髪型してないぞ。理由を尋ねてみる。

「不良みたいな見た目でめちゃめちゃ勉強できるのカッコよくね?」

 ダセぇー。中二病か。

「シュウは? なんでその髪色なの」

「赤が一番カッコいいじゃん。戦隊ものだって赤がリーダーだぞ」

 こっちは感性が幼稚園。

 どこを見ても「懐かしい」を連呼するシュウとリツを連れて、駅からほど近い大通り沿いにある葬儀会館に向かう。西橋小のすぐ近くだ。そういや小学生の頃は、これがなんの建物なのかまるで知らなかったな。あれから五年。全員バラバラの制服を着て再会することになるとは想像もしていなかった。

 告別式の会場には、すでに町内会や商店街の人々数十人が集まっていた。俺の父親の姿もある。受付を済ませた俺を、聞き覚えのある声が呼び止めた。

「ああ、タっちゃん」

 古河電器のおじいちゃんだ。早くもぼろぼろと涙を流している。

「おじいちゃん」

「僕はねぇ、もうハルくんが不憫で不憫で……なんであんないい子が、こんな目に遭わなきゃいけないのか」

 会場奥に並べられたお棺を見やる。三つも並ぶと圧迫感がすごい。かなり憂鬱な気分になる。

 参列者の案内している人に見覚えがあった。ひらいフーズの古参社員、佐々木さんだ。俺らが名乗ると、神妙な表情の佐々木さんは急に相好を崩した。

「覚えてる覚えてる、ハルくんの仲良し四人組だろ。大きくなったなぁ」

 当時、賞味期限切れの惣菜をこっそり俺らに分けてくれていたのが、他ならぬこの佐々木さんだった。あの時三十半ばだったから、今もう四十近いのか。ハルトが言うに元引きこもりらしいのだが、とてもそうは見えない。いつもニコニコしている温和な人だ。

「ハルくんち、遠方の親戚が多くてね。人手足りないから、従業員もできる限り手伝おうって、みんなで話し合って」

「ハルト、来てます?」

「そのはずだけど……ちょっと待ってね」

 佐々木さんはそう言うと廊下に出て姿を消したが、すぐに戻ってきた。

「ハルくんまだ来てないって」

 と、少し困った様子で佐々木さんが言った。告別式まであと十分もない。

「親戚の人が迎えに行ったんだけど、もう家は出たみたい。寄り道かな? まあねぇ、逃げたくもなるよね。このあと弁護士さんとマスコミ用に記者会見もあるみたいだし。でもハルくん偉いよね。事故の後、私に『店頼みます』って頭下げに来てくれてね、わざわざ。自分が一番大変なのに」

 佐々木さんは、他人の自分が口を出すのもおかしいからと、干渉しすぎないように気をつけていたらしい。うぐっ……それを聞いて俺の罪悪感が疼く。

「聞いた話だけど、無免許の居眠りじゃ大した罪に問えないらしいよ。みんな危険運転致死傷罪を期待してるけど、それじゃあ無罪になりそうだから、もう少し軽い罪で起訴しようって」

 三人殺したのに? 信じられない。

 親戚や弁護士は、早くも量刑が不当だと控訴の準備に入っているらしい。署名集めもするんだとか。

 告別式の時間になった。でもハルトは現れない。

 親戚とおぼしき人たちが集まって何やら話しだした。ハルト不在のまま始めるのかもしれない。佐々木さんは呑気に俺らと一緒にいるけど大丈夫なんだろうか。

「ハルト大丈夫かな」

 心配そうにシュウが言った直後、「あっ」と佐々木さんが思い出したように言った。

「なにか知ってます?」

「いや、ハルくんね、この前…なんの話だったかな。『貯めなきゃ』ってずっと言ってて」

 ためる?

「ほら、ハルくんしっかりしてるからさ。税金かな〜ってその時は思ったんだけど。相続税とか。でもさすがにそれは変かって。ねっ。家出資金貯めるって話だったら、嫌なこと聞いちゃったなって、今思い出したんだけど……なんか違う気もするんだよねぇ。なに貯めるって言ってたっけ。なんか、こう、もっと目に見えない物だったような」

 ぞーっと全身から血の気が引いた音がした。

 恐る恐る隣を見たら、シュウとリツもまったく同じ顔をしていた。

「最後にハルトと会ったのって、いつですか?」

「えーっと、二日前かな」

「ありがとうございました」

 早足でその場を去った。

 葬儀会館を飛び出し、点滅していた歩行者信号に滑り込んで、小学生の時よく使って道をひた走る。途中でシュウは制服のブレザーを脱ぎ、俺はネクタイを毟り取った。互いに顔を見合わせることもなく、全速力である場所へと向かって爆走する。

 国道沿いの廃屋だ。

 

 

 子供の頃の記憶なんて実にいい加減だ。廃屋は今にも崩れそうなほどぼろぼろに思えていたが、そんなことは微塵もないし、なんなら近所にある放置された空き家の方がよっぽど雑草まみれで朽ちかけている。

 五年ぶりに訪れた例の廃屋は、いいのか悪いのか、未だ取り壊されることもなくそこに建ち続けていてくれた。以前侵入した時は、近くに転がっていた古びたカラーコーンを足場にして塀を登ったが、高校生の今は軽くジャンプをするだけで縁に手が届いてしまう。

「ハルトー!」

 建物の中を駆けずり回りながら名前を叫ぶが、わずかに声が反響しただけで返事はない。

 高校生になっても俺の怖がりは健在で、昔よりは怖くないかなと思ったら一ミリもそんなことはなく激怖い。よくこんなところ子供だけで探検したな。信じらんねぇわ。泉のように湧き出る恐怖心を打ち砕くために、とにかくひたすら大声を出す。

「ほら球。変なボールみたいなやつ。どうしたんだっけ? あの時」

 リツが言う。うわあぁ覚えてねーよ。

「でっかい和室があったろ! そこで見つけたんだよ」

「そんなのわかってるよ!」

「そこに置いてったんだっけ!?」

「覚えてない!」

 真っ先にあの広い和室へ行ったものの、残念ながらそこにあの球はなかった。その後も手分けして全部屋を覗いたが見つからない。ハルトもいない。せめて何か手がかりはないかと再びあの和室を訪れるも、かびっぽいイグサの臭いが充満しているだけだ。

 さっきから背筋が寒い。建物の中に入った時から、誰かの視線をずっと感じている。幽霊なんかいるはずないと何度自分に念じても恐怖心は一向に薄れない。それどころか、気配がますます増えていっているようにさえ思える。

 と、奥にある窓の障子がわずかに開いていることに気づいた。恐る恐る近くまで行ってみると、隙間のサッシに何かが置かれている。デジタル表示の置き時計だ。

 と、シュウとリツが戻ってくる。

「こんなに見つからないなんてことある?」

「盗まれたとか」

「あの球だけ都合よくか?」

「いや違う」

 そう言って俺は、デジタル時計をシュウに向かって放り投げた。時刻と年月日が表示された液晶画面の隅には、忘れもしない、俺が小学生の時にいたずらで貼り付けたアニメキャラクターのシールがこびりついている。ハルトのだ。

 間違いない。ハルトはあの球を使ったんだ。いや、使ってる、か?

「時間貯めて、何する気だろ」

「使うんだろそりゃ」

 んなこた知ってるよ。

「だから何に使うんだって聞いてんだよ」

「知るかよ! 俺はハルトじゃねぇ」

「俺だってそうだよ!」

 想像力脳から切除したのか? シュウはとにかく昔から物事を深く考えない。まあ考えないから髪を真っ赤に染めてピアス開けまくれるんだろうけどな。なんせテレビでバットマンの「ダークナイト」を観た時の感想が「画面が暗い」だった奴だ。

 俺とシュウの会話がだんだん口喧嘩みたいな調子になってきたその時、それまで黙ってスマホを見ていたリツがようやく顔を上げて口を開いた。

「自動車の運転による過失で人を死亡させた過失運転致死罪は、悪質な場合だと懲役や禁固刑になる」

 ようやく喋ったと思ったらやけに小難しいことをリツが喋りだしたので、俺とシュウは同時に「は?」という呆れた声を漏らした。だが気にすることなくリツは続ける。

「佐々木さん言ってたよな。過失運転致死傷罪。悪質な場合、懲役や禁固刑になる。犯人は色んな違反して保護観察処分も受けてた奴みたいだし、二年か三年は行くんじゃないかな、交通刑務所」

「なんで知ってんの?」

「ウィキペディアだよ。んなのはどうでもいい。問題はだ、三人轢き殺してもちょっと刑務所行っただけでお役御免になるってことだよ」

「まとめろ短く」

 キレ気味にシュウが言う。クソリプかおまえは。リツはすぐ答えた。

「あいつ、復讐する気だ、運転手に」

 

 

 ハルトは頭がいい。勉強ができるのはリツの方だったが、ハルトの方が圧倒的に物事を広く俯瞰して見ることができていた。だからか、自分の範囲内のことは自分の裁量で裁く傾向がハルトにはあった。

 たとえば小学五年生の時、近くに住む中学生グループが自分の店で万引きしていたのを知ったハルトは、なんと警察を呼ぶのではなく、そいつらが歩いているところに一人でカチコミに行った。素行の悪さから近所でも煙たがられていた中学生の五人組相手に、である。案の定ハルトはボッコボコに殴られたが、騒ぎに気づいた通行人の通報によって警察が来て、中学生たちは傷害罪でしょっ引かれる大騒動になった。

 ハルトは浅い正義感から殴り込みに行ったんじゃない。初犯の万引きごときでは、性根の曲がりきったそいつらを正しく裁けないと踏んだんだ。だからわざと自分を集団で殴らせた。確実に懲らしめるために。五年生がやることか?

 入院先に見舞いに行った時、ハルトからその話を聞いた俺らは青ざめた。左腕を骨折したが安いもんだと笑いながら、ハルトはこう続けた。

「これであいつら、もう西橋で悪さできないだろ」

 ハルトの予言通り、それまで迷惑行為を連発していたその五人は悪さができなくなるどころか、三人は西橋から引っ越し、二人は何年経っても後ろ指をさされ続け、ポイ捨てすらできなくなった。

 ハルトはこういう奴である。

 

 

 俺らがとぼとぼと葬儀会館に戻ると、告別式はとっくに終わった後だった。仕方なくその場を後にすると、さんさんで遅い昼飯を食うことにする。厨房にいたお母さんにシュウとリツを紹介すると、「大きくなったわねー!」と佐々木さんと同じリアクションで歓迎し、特製ラーメンを奢ってくれた。

 ピークタイムを過ぎた店の奥で、ラーメンを食べながら状況を整理する。ハルトの目的が復讐だと仮定して、ならどうして時間を貯める必要があったのか。確実に復讐を遂げるため? それとも自分が罪に問われないよう逃げるため? そりゃないよりある方が便利だろうけど。

 少なくともハルト自身は、明確なゴールを設定している可能性が高かった。わざわざ家から日付表示付きの置き時計を持参しているし、電池交換不要のソーラーパネル付きを選んでいる辺り、長期戦を見込んでいる。それこそあのハルトに「たまたま」はあり得ない。

「球何回投げたか覚えてる人」

 リツが問う。誰も挙手しない。溜め息をついてリツが目頭を押さえる。

「どのくらい持ってた? タツキ」

「さあ……」

「待て。おまえ逃げる時球持ってなかったか? 途中までさ」

 ああ、そういえば。

「いつまで持ってた?」

「……さあ」

 ジト目で睨まれた。責めるな。おまえだって覚えてねぇだろ。

「加害者が出所するまで時間を貯める気なのかもな」

 そうリツが言った。

「なんでわかんの」

「効率いいじゃん。俺だったらそうする。それに運転手をぶっ殺した後また球投げれば、指名手配されても逃げ切れそうじゃん?」

 リツっぽいなー。でもそんな卑怯なこと、あのハルトが考えるかな。

「投げて五秒で一日経つとするだろ。一ヶ月過ぎるのに一五〇秒。二分半だ。一年で三十分。五年で二時間半」

「さすが理系」

「文系だよ俺は」

 リツがうんざりした顔でツッコむ。

 崩した半熟卵の黄身を、箸でスープにばしゃばしゃ溶かしながらシュウがぼやいた。相変わらず行儀悪ぃ食べ方だな。

「いつ戻ってくるかわからねぇ奴をどう迎えに行けばいいんだよ」

「待つんだろ」

 溜め息まじりに俺が答える。しばらくラーメンをすする音だけが響いた。

「……あのさ。確認なんだけど」

 と、俺が切りだす。

「俺らの最終目標って、ハルトの復讐を止めるってことでいい?」

「うん」

「俺らにそんな権利あるの?」

 二人とも黙ってしまった。

 うん。やっぱ微妙な話だよな。

「……権利?」

 神妙そうなリツの隣で、シュウが訝しげな顔で呟く。失礼、内一人はただの馬鹿だった模様。

「権利ってなに」

「ハルトを止める権利」

「はぁ?」

 はぁ?はこっちの台詞だ。

「ハルトの気持ち考えてみろよ。運転してたら居眠りして人轢いちゃいました〜、三人死にました〜、でもわざとじゃないんでネンショー行くだけです〜。キレるだろ普通」

「だからってハルトがそいつ殺したら、ハルトが刑務所行くじゃん」

「行ってでもやり返したいんだろ。おまえマジで想像力ないな!」

「だとしても人殺しがいいわけねぇだろ!」

「しー!」

 人差し指を口元に当てながらリツが割って入った。いつの間にか店中の人間が俺らに視線を送っている。お母さんもだ。マズい。

 声を潜めてシュウが続ける。

「俺はやだよ。ハルトが捕まんの」

 そりゃそうだけどさぁ。するとリツが「まあまあ」と助け船を出してきた。助かった。

「バレずに捕まんないかもしんないじゃん」

 救助船かと思ったら沈みかけの泥船だった。リツ、おまえって奴はさぁ。

 するとシュウが嘲るように呟く。

「ははーん……おまえらハルトが怖いんだろ」

 ぎくっ。

 思わずシュウから視線を逸らしてしまった。リツも露骨に目が泳いでいる。

「ハルトを止めて、ハルトに恨まれるのが怖いんだ」

 そうは言ってない。

 でもさっきから俺の脳裏に、包帯まみれで笑う小五のハルトがちらついている。そういえばあの時、シュウだけはハルトを「やりすぎだ」と言って非難してたな。

「おまえら自分のことが可愛いだけじゃん。そんなん親友じゃない」

「四年も会ってないけどな」

 リツが水を差す。そういうのやめろおまえ。よくないぞ。

 するとシュウは、ひどく真面目な顔でこう言い返した。

「でも親友だよ」

 俺とリツは思わず顔を見合わせたが、結局大きな溜め息をつくだけで言い返すのをやめた。

 こういう時のシュウはどうせ折れない。

 

 

 シュウの指摘はなかなか確信を突いている。少なくとも俺は、ハルトの意志を尊重するというもっともらしい理由をつけて、ハルトを救えたかもしれない罪悪感から逃れようとしていたし、再会したハルトに拒絶されるのが怖かった。

 俺は怖がりだ。些細な失敗を謝ることすらできない。謝れるシュウは強い。負け芸ができる奴が実は一番強いんだ。リツも案外謝れない奴だけど、俺と違って頭がいいからそもそも謝るような事態に陥らない。たまに失敗した時、屁理屈で論破してくるのはカッコ悪いけどな。ハルトはどうだったっけ。ハルトはなんていうか、謝るとか謝らないとか、そういうステージにすら最初からいなかった気がする。いわゆる人生二週目の奴。

 それに比べて俺はなんだ。アニメと映画を何本見たかでしかマウントが取れない、中身ゼロの人見知りだ。高校に入って筋トレをするようになり、デブを卒業して屈強な肉体を得ることはできたものの、強くなったのは外側ばっかり。

 ハルトはあの日、事故現場の交差点を見つめながら何を考えていたのか。

 もしあの時、俺がビビらずに食い下がっていれば、ハルトを止められたかもしれない。俺がシュウみたいに勇敢だったら。リツのように口が達者なら。でも何もかも手遅れだ。

 

 

「ごちそうさまでしたぁ」

 店を出ながら、シュウがクソデカ声で厨房に叫ぶ。午後三時。リツが「帰って勉強しないと」と言うので、仕方なく解散することにした。なんでも土日も勉強しないと授業が難しくて置いていかれるらしい。狂人集団じゃん。馬鹿で良かった俺。

「なぁ。生まれる時代間違えたって、思ったことあるか?」

 駅に向かって歩きながらリツが言う。俺とシュウが否定すると、リツは笑った。

「俺は小五の時思った。日本がもし五十年後、飛び級進学ができる国になってたとしたら、俺は生まれる時代を間違えたんだってな。小五の時に受験できてれば、俺はあのクッソムカつく担任の嫌がらせを一年受けずに済んだし、内申点が少しでも上がるならって頭坊主にする必要もなかった」

 俺は驚いて、一瞬息をするのを忘れた。願掛けのためって、あれ嘘だったのか。

「あそこで集団生活してた奴ら、きっとみんな同じこと考えたんだろうな。あの球使って、みんな未来に行ったんだ」

「タイムマシーンってこと?」

「そう」

「タイムマシーンって乗り物じゃないの?」

 シュウが問う。こいつSF偏差値がドラえもんで止まってんな。

「つかさぁ。なんで未来にしか行けねぇの?」

「過去に行けないから、逆に信憑性があるんじゃん」

「そうなの?」

「時間は一方向にしか進まないもんなんだよ。不可逆だ」

「ふきゃがきゅ」

 相変わらずのガサガサ声でシュウが噛んだ。

「逆には進まないってこと。過去から現在、現在から未来。例外はない。熱力学第二法則と矛盾するからだ。物理学の基礎中の基礎」

 おまえ文系なんじゃないの?

 シュウがこの世の終わりのような顔でリツに問う。

「どゆこと?」

「肉まんレンジでチンするだろ。食べずに放っておくじゃん。冷めるじゃん。あったかい肉まんは時間と共に冷めるけど、あったかくなることはないだろ」

「またレンチンすればいいじゃん」

 駄目だこいつ。

 呆れたリツが半眼になって俺を見た。やめろ。それにな、どっちかの味方につけって言われたら俺は断然シュウの側だからな。

「えーーーっと……マクスウェルの悪魔はわかる?」

 やめとけやめとけもう。頭いい奴は変にポジティブだな。

 そうこう喋っている内に西橋駅の改札口に着いた。

 リツが鞄からICカードを取り出す。シュウは暇だから残るらしい。去り際にリツが言う。

「できる範囲で色々調べてみる。タツキは、暇見つけて廃屋覗いといて」

「りょーかい」

「がんばれ〜」

 カッスカスの声でシュウが言う。出たよ、言い出しっぺが一番何もしないパターン。

「おまえもなんかしろよ」

「リーダーの仕事は決断だ」

 腕を組んだ仁王立ちでシュウが言う。リーダーおまえかよ。

「じゃあな」

「おう。また連絡する」

 改札を通っていくリツの背中を二人で見送りながら、シュウが口を開く。

「ハルトほんとに帰ってくんのかな」

「帰ってくる。全部奪われた奴が行きたいのは未来じゃない、過去だ。未来にしか行けないんだったら嫌でも戻ってくるしかない」

 エスカレーターに乗ったリツの背中が視界から消える。

「どうする? 俺らも一応、なんか調べる?」

「どうやって」

「わかんねーけど」

「てかバカとバカが話し合いしてなんか解決すんの?」

 確かに。

 しばらく黙ったあと、シュウが鼻をほじりながらこう言った。

「パチンコ行くか」

 行けるか制服で。門前払いだわ。

 結局、二人でカラオケに行った後ゲーセンでメダルゲームして、シュウは帰った。なんとも人任せなリーダーだ。

 

 

 それからというものの、俺らは定期的に集まっては廃屋を覗いたが、特に変化もなく時間だけが過ぎていった。人間という生き物は成果がないとやる気を失っていくもので、初めは隔週だった集まりもいつしか隔月になり、ついには数ヶ月に一度のペースになってしまった。高校生は暇ではないのだ。部活もあるしバイトもあるし、彼女もできる。スロット行って脳汁だって出したい。

 忙しいなりに調べてわかったのは、あの廃屋があった土地は元々相続人が四十人近くいる面倒くさい場所で、建物も誰かが勝手に建てた違法建築だったということだ。リツと俺が馬鹿な学生のふりをして「学校の宿題で使うんです〜」とかなんとか言って、西橋市役所に聞き込みをして得た情報だ。でもそれ以外は、仏教系新興宗教「三世の集」の道場だった場所、くらいしかわからなかった。

 佐々木さんの言う通り、犯人は危険運転致死傷罪では起訴されなかった。構成要因を満たさないから断念したんだと。よくわからん。三人殺したのに三人分の罪に問えないのがなんでか素人にはさっぱりだった。調べたところ、要はひとつの犯罪はひとつの罪でしか裁けないという理屈らしい。やっぱりよくわからん。

 判決は懲役三年の過失運転致死傷罪。量刑が不当ではないかと世間は騒ぎたてたものの、肝心のハルトが不在なので誰も控訴せずあっさり決着してしまった。

 テレビからもインターネットからも瞬く間にハルトの話題は姿を消し、日常が戻ってきた。俺らが失踪したあの小六の夏休みみたいに。きっとみんな、悲劇を悼む感情なんかいつまでも抱えてられないんだと思う。つらいもん。

 そうして俺らだけが、終わりの見えない非日常に取り残された。

 待つしかないというのはなかなかキツい。利便性とコスパの良さが声高に叫ばれ、あらゆる情報や商材がコンパクトに圧縮されていく中で、未だに時間だけは誰もその長さを短縮できない。学習動画の最後みたいに、何もかもダイジェストにしてくれたらいいのに。あの変ちくりんな球が欲しいと、初めて俺は心底願った。

 

 

 高校三年生の夏休みに、俺らは数ヶ月ぶりに集まった。

「……なんかデカくない?」

 そう言って、リツが俺の二の腕を無遠慮に掴んだ。中学のバスケ部で靱帯を一本切って退部を余儀なくされた俺は、高校でパワーリフティング部に入部した。パワリフなら走らなくてもできるからだ。おかげで小学生時代が嘘みたいな筋肉マッチョに変貌を遂げたわけである。

「すげームッキムキじゃん」

「後で一緒にジム行こうぜ」

「ぜってーヤだ」

 シュウとリツの声がハモる。

 手慣れた手つきで廃屋の古びた外門を解錠し、我が家のような堂々さで中に入った。元あった錆びた鍵をハンマーで叩き割り、百均で買ってきた南京錠を代わりに取り付けたのは三回目の侵入の時のことだ。今のところ市役所にバレてはいない。

 我が物顔で二階奥の和室まで突き進むと、前々回くらいに一階から持ち込んだ会議用パイプ椅子に腰かけながら、シュウが言った。

「そもそもさぁ。なんで時間が貯まるわけ?」

 シュウの赤かった短髪は長めの金髪に変わり、所々にピンクとか紫が混ざっている。ユニコーンカラーっていうんだと、こういうの。

「知らん」

 リツが言う。相変わらずの長髪を後ろでひとつに束ねた風貌からは、とてもじゃないが偏差値の高さは感じられない。本人はオシャレ俳優気取りなのかもしれないが、完全にヤカラの見た目である。

「貯金みたいに考えるからおかしなことになるんだろ。そもそも時間は絶対的じゃない。観測者によって伸びたり縮んだりする。光速度不変の原理だ。だとしたら球使って何が光速で移動するんだ? 相対性理論だけじゃ説明がつかない」

 日本語辞めたのか?

「待てよ。そもそもあの球なんなんだ?」

「誰か殺してくれー!」

 あまりの理解できなさに、シュウが遂に椅子の上で大の字になって叫んだ。ダメだこりゃ。

 煮詰まった空気を変えたくてリツに問う。

「最近どう?」

「模試の志望校判定ギリでさ……胃が痛い。タツキは?」

「んーまあ。Fランしか受けんし」

「俺高校辞めたわ」

 シュウの台詞に、俺とリツは「えええぇぇ」と雄叫びにも近い声を上げた。

「あと半年で卒業できんのに!?」

「しょーがねぇじゃん、自分でも馬鹿だと思うよ。でもなんか耐えられなかったんだよどうしても」

「親は?」

「別に。あんなババア無視だよ無視」

 まだババア呼ばわりしてんのかよ。

「今何してんの」

「荷揚げ屋さん」

「なにそれ」

「えーとね、大工さんの手伝い。トラックから木材運ぶの、ながーいやつ、建築現場に」

 うわぁ超大変じゃんそんなの。絶対高校行く方が楽だろ。

「タツキもやんない? 筋肉あるし」

「無理無理無理。パワリフの筋肉って飾りだから。使える筋肉じゃないのよ」

「張りぼてマッチョじゃん」

 そう言ってシュウとリツが笑った。くそ。こいつらといると小学生の頃のヒエラルキーに強制的に戻されてしまう。デブの人権のなさなんてしばらく忘れてたわ。

「シュウ大工になんの?」

 俺が問うと、シュウは急に不貞腐れた顔になった。

「どうだろ、色々キツいし。でもこんな声じゃ普通の就職無理だしなー」

 いやそんなことはな……くはないか。表向きどう言われようが、シュウのガサガサ声は少なくとも接客を伴う仕事では嫌煙されるだろう。

「ま、なんとかなるっしょ。あー早く会いてぇなーハルト、退屈だわ」

 天井を仰ぎながらシュウが言う。

 するとリツがニヤニヤ笑いながら口を開いた。

「あいつ、見えないだけで実はずっとここにいたりして」

 ……まさかぁ。

 でも少し怖くなった俺がチラッと背後を振り返った途端、シュウとリツが馬鹿みたいに一際デカい笑い声を上げた。

 

 

 ハルトを入れっぱなしのグループチャットに、リツから「合格」という一言だけが飛んできたのは、二次試験合格発表があった三月頭のこと。カッコつけ方が小学生の時から変わっていない。春から国公立の人文学科で考古学を学ぶんだと。

 俺も私大の法学部に見事合格。法学部といっても、リツと違って大した学力がなくても入学できる偏差値四十のアホ大だが、一度は進路調査票に「就職」と書いて提出した身としては大きな決断だった。きっかけはハルトだ。

 あれは高校三年生の進級間近のこと。もしハルトが戻ってくるとしたら、事件の裁判がある日じゃないかと考えた俺は、訳のわからない小難しい単語が並んだ裁判所のホームページとにらめっこし、理解不能だったからわざわざ地方裁判所まで行き、同じく訳の分からない掲示案内とにらめっこし、警備員に睨まれ、案内のおじさんに呆れられながらも、なんとかハルトの事件の開廷日を突き止めた。忘れもしない、始業式の翌日。だが当日、時間通りに裁判所に向かったら傍聴希望者の長蛇の列がなんと外まで続いていた。

 そういやこういうのテレビで観たことあるな、と行列を見ながら俺は呆然とした。当然とんぼ返りだ。こんなに苦労したんだから立ち見くらいさせてくれよ、と絶望しながら。唯一の幸運はハルトが現れなかったことだ。いやいいわけあるかい。

 もしこの日、本当にハルトが戻ってきて、法廷で何かしでかしてたらどうするつもりだったんだ俺は。自分が腰抜けなことで損をするのは自分だけじゃないように、自分が無知であることで損をするのは自分だけじゃない。あまりに腹が立ったので俺はその足でパチ屋へ直行し、台も狙わず財布の中身をスロットに全ツッパ。まあ全部溶けたよね。また下らぬ台を打ってしまった……こんなんだからダメなんだよ人生。

 別に俺は、今更社会正義に目覚めて法学部を選んだわけじゃない。不幸な被害者を少しでも減らすために弁護士になる気は一ミリもないし、理不尽に思える法律を変えるため政治家になることも一生ない。法律とか裁判とか多少詳しくなったし、ならパチンコと一緒で投資しないと損かな、という不純極まりない理由だ。とはいえ、奨学金の申込書にサインする時は指が震えた。返せんのかな俺、四五〇万なんて大金。人生最大のギャンブル。

 シュウは今も荷揚げ屋を続けている。あの飽きっぽいシュウが同じ仕事を何年も続けているのは、失礼な話だが結構意外だった。万一あの廃屋が売りに出された時を考慮し、結構前から購入資金を貯めているらしい。

 俺が感心してどれくらい貯まったか聞いたら、シュウは耳くそを掘りながら言った。

「えっとぉ……七万くらい?」

 パチスロ辞めろもう。ジャンキーすぎるわ。

 

 

「俺ら何してんだっけ」

 ストロング系チューハイのロング缶を握り締めながら、酔った声でシュウが言った。本当は大学が夏休みに入る八月に集まるはずが、予定がズレにズレてもう十月である。

「ハルト探し」

「それだ」

 指でさすな人の顔を。

「いつ戻ってくんだっけ」

「知らねー」

 全員覇気がない。最近はハルトを探すのはほぼ諦めモードで、幼馴染みがただただ集まって酒を飲むだけの会と成り果てている。

「仮出所なさそう、豊本崇士」

 俺がスマホのメモ帳を見ながら答えた。豊本崇士は例の軽自動車を運転してた元少年だ。

「出所が来年一月だろ、残り十ヶ月くらいか。豊本の実家も引っ越してない」

 何回目かの裁判傍聴の時に、豊本が父親の小さな内装業の会社で手伝いをしていたと話していたので、国税庁のホームページから住所を調べたのだ。地域行政の授業で、先生が法人番号だとか登記上の住所がどうだとか話している時に、インターネットで調べられることを知ったのだ。いや〜法学部でよかった。

 父親の会社は自宅の増築部分を事務所にしているので、所在地がそのまま自宅の住所になる。会社は引っ越して別の場所に移ったが、売りにも出せないマイホームは同じ場所のままだ。

 俺の返答にシュウが「げぇ」と毒づいた。

「半年以上出てこねーの? もういいよ飽きた」

 いや気持ちはわかるけども。それ絶対SNSとかで呟くなよ。大炎上するぞ。

 仕方なく俺が話題を変える。

「ずっと考えてたんだけどさ」

「うん」

「時間を貯める方法はなんとなくわかるよ。あの球投げりゃあいい。でも貯めた時間を使う方法がわからんのよ」

「わかってどうすんだよ」

 拗ねた声でシュウが言った。妙に機嫌が悪い。リツが答える。

「わかればハルトを止められるかもしんないじゃん」

「意味ある?」

「ある。発動する方法がわかるってことは、阻止する方法もわかる」

「どうでもいいよ」

 おまえもう酒飲むのやめろ。

 絶望しきった顔でリツが項垂れた。いい加減シュウに理解させようなんて考えるなよ。俺はだいぶ昔にやめたぞ。

「俺らさ、河川敷にいなかったっけ……?」

 眉間を揉みながら俺が問う。するとリツが明るい声で同調してきた。

「思い出した。シュウが家出したんだよ。テレビぶっ壊して」

「俺そんなことしてねぇ」

 歴史修正主義者め。

「河川敷でさぁ、なんかしてたんだよ。そしたら止まったんだよ時間が。覚えてない?」

 リツは首を横に振り、シュウは酒を煽った。

「仕組みがわからなくても、発動条件はわかりそうな気がする」

「リツー」

「物理学科に聞け〜〜〜俺がやってんのは貝塚から出土した土器の分析だぞ」

 なにそれ、めちゃ面白いことやってんじゃん。

「わかった!」

 シュウが叫ぶ。俺とリツが身を乗り出した。

「電サポ七十回転の間に大当たりを引けばいいんだ。三十二分の一の確率で出る」

 速攻後退した。誰かこのパチンカスを殺せ!

 シュウはロング缶の最後の一口を煽るとぐしゃっと握り潰し、投げやりに言った

「なんかもうどうでもよくなってきちゃった」

 完全に酔っ払っている。

 するとあろうことかシュウは、埃とカビだらけの畳を丸太のようにごろごろ転がりながら大声を張り上げた。

「ハルトくぅ〜ん! どこですかぁ〜!」

「馬鹿静かにしろ」

「通報されるわ」

「ハルトぉ〜」

「黙れってば」

 俺とリツが二人がかりでシュウを押さえ込んだら、急に動かなくなった。おっとしまった怪我させたか? 慌てて体を離す。シュウは酔っ払い特有の据わった目で、遠くの一点を見つめていた。

「俺さ、ハルトの親友だよな」

 シュウが呟く。俺らもカウントしろよ。

 虚ろな視線の先を覗いたら、ハルトが二年前に置いていったデジタル時計があった。

「ハルトが決めることだよ、それは」

 リツが言う。ずき、と心臓が痛んだ。事件があったあの日、西橋駅前の交差点でハルトと会って喋ったことを、傷ついたハルトに謝れなかったことを、俺は未だに二人にも話せてさえいない。

「最悪なんだよなー、俺」

「知ってるよ」

 一言余計なリツをシュウは一瞬睨んだが、すぐに視線を置き時計に戻した。

「最悪なんだよ。俺こうやっておまえらと定期的に集まれて、すげー嬉しいんだ。ハルトがいなくならなければ絶対こうはなってないじゃん。だからハルトがいなくなって、ほんの少し、いやほんっっの少しなマジで。……ラッキーって思っちゃった」

 シュウの正直な告白に、返す言葉もなく黙ってしまった。

 俺も、きっとリツも、ずっと同じことを思っていた。

「嫌だよな、こんな親友」

「おまえその程度であいつが友達辞めると思ってんの? ハルトを信じろよ。この程度のことで自信が揺らぐなんてな──」

 リツがなんて言葉を続けようとしているのかピンときた。目配せして同時に告げる。

「そんなん親友じゃない」

 何年か前に、シュウ自身に俺らが言われた言葉だ。シュウは笑った。

「早く会いてぇ」

「そうだな」

「ハルト帰ってきたら、二・二でノリ打ち勝負しようぜ」

 だからパチスロから離れろよ。いい話が台無しだ。

 

 

 ハルトが消えて二年以上が経った。俺らはもう、ハルトがいない人生に慣れ始めている。二年は長い。三年はもっと長い。秋になって、冬になり、春が来て、また秋になって。途方もない。早く帰ってこいよハルト。おまえと違って俺らは、馬鹿正直にずっと同じ速度の時間で生き続けている。

 

   4.

 ハルトの帰還は想像を超える形で俺らの元に舞い込んできた。

 犯人に科せられた三年の刑期が満了するであろう二十歳の一月に、その騒動は起きた。西橋市の踏切で、バーの下を掻い潜ったひとりの男子高校生が、スピードを上げた私鉄電車の真ん前に飛び出したのだ。問題はその後で、どこを探しても轢死体が発見されなかったどころか、車体に血痕ひとつ残っていなかったことだ。目撃情報は瞬く間にインターネットを駆け巡り、怪奇現象だ、心霊現象だと大騒ぎになった。

 偶然居合わせていた車のドライブレコーダーには、飛び出した男子高校生の背中がわずかに写っていた。すぐさま匿名の人々によって学校が特定された。西橋市立第二高校の制服。ハルトが通っていた高校だ。

 間違いない。帰ってきたんだ。

 おそらく本当に時間の流れを操れるかどうか実験するために、あえて踏切に飛び出したのだろう。命がけで。失敗すれば死ぬというその状況設定にハルトの本気度が伺える。誰か殺すからには死んでもいいってか。あいつらしい。俺らもすぐに動きだした。俺とリツは授業を抜け出し、シュウは荷揚げ屋を相対して西橋に駆けつけた。

 最初に西橋駅に着いたのはシュウだ。午後四時三十一分。その十分後に俺が到着する予定だった。リツは少なくとも三十分は掛かる。犯人の家でハルトを待ち構える役目はシュウに譲って、考えた末にある秘策を思いついていた俺は、国道沿いの廃屋へ向かうことにした。いちいちチャットを打つのも面倒なので、ここからは全員ビデオ通話を繋ぎっぱなしだ。

 豊本崇士の顔を知っているのは、裁判傍聴に行ったことがある俺だけだ。到着したシュウにスマホのカメラで映してもらう。豊本崇士は、自宅の駐車場で絶賛車を洗車中だった。マジかこいつ。どんなに不便でもおまえだけは二度と車に乗るなよ。

 丁度そのタイミングで、俺も例の廃屋の前に辿り着いていた。

 そして唖然としていた。

「あー……マズいぞ、シュウ」

『えっ!? なに!? よく聞こえない!』

 スマホの画面いっぱいに、シュウがイヤホンを耳に押し込んでいるリアルタイム映像が映る。

 俺はカメラの反転ボタンを押して、目の前に広がる絶望的な光景を映してみせた。

 今まさに二台の重機が、廃屋の手前の方を半壊させている様を。

 シュウとリツのパニックに近い叫び声がイヤホンをつんざく。

『なんでこのタイミングなんだよ!』

 シュウが絶叫する。本当にそう。と、リツも叫んだ。

『タツキ! 俺もう西橋着いたから! 待ってろすぐ行く!』

『俺も行く!』

『馬鹿おまえはそこで見張ってろ! ハルトが来たら入れ違いだろ!』

 そんな大慌ての二人の会話を、俺はほとんど聞いていなかった。いや、聞こえなかった。うるさくて。重機が建材をなぎ倒す音と、敷地内に不法侵入した俺を遮ろうと光る棒を振り回す警備員の叫びに邪魔されて、まったくといっていいほど聞こえていなかった。

 あまり足腰の強くなさそうな高齢の警備員を強引に振りほどいて、俺は絶賛作業中のパワーショベルの横をすり抜けると、壁を壊されて剥き出しになった階段を駆け上った。間取りならもう完璧に頭に入っている。二十回近く通ったんだ。崩れかけた廊下を飛び越えながら、最短距離で和室に向かう。

 ところどころ障子が破れた開きっぱなしのスライドドアを潜り抜けると、窓際の壁はすでに根こそぎ崩れ落ちていた。同じ場所とは思えないほど開放的になった和室の真ん中に、見つけた。あった!

 八年前、俺が拾い上げたあの黒い球が。

 急いで拾い上げようとした近づいたその時、地面が大きく揺れた。床が抜けそうなのだ。当たり前だ。解体工事中なんだぞ。地面が斜めになってる。

 俺の目の前を、掴み損なった球がごろごろごろと転がっていく。このままでは廊下の向こうに真っ逆さまだ。とっさに足が出た。必死で蹴飛ばしたらなんとか和室に戻ってきたけど、壁に激突してしまった。

 ばきん、という嫌な音がした。背筋が凍る。球にヒビが入っていた。斜めになった床を、さらさらと何か光る粉のようなものが落ちて蒸発していく。球の中身か。

 慌てて駆け寄ろうとした瞬間、がくんと床が大きく揺れた。

「わわわわわ」

 床が一気に急斜面に変わる。危うく滑り落ちそうになったのを、俺はかろうじて残っていた床の間の柱に捕まることでなんとか耐えた。そんな俺の目の前を。

 球が転がり落ちていく。ああああ。

 ああああああもう俺って本当に馬鹿。

 斜めになった畳の上をごろごろ転がっていった球は、窓際の敷居に引っかかって大きく跳ねた後、落ちて消えた。

 終わった。

 もうおしまいだ。

 足りない脳みそでひたすら考えたのだ。実質、時間を止められるようになったハルトは無敵だ。普通の時間を生きる俺たちに為す術はない。小六の時の担任の望月先生が、胸ポケットが破れるまでボールペンを詰め込まれるのを防げなかったように。しかし俺は長年少年ジャンプを読み続けているので、対抗する方法がひとつだけあることを知っていた。時間を止められる奴がもうひとりいればいいのだ。だがその望みも絶たれてしまった。

 何もかも終わりだ。

 斜めになった床の間で項垂れていたら、聞き覚えのある声が遠くから響いてきた。

「タツキー! 無事かー!」

 リツだ。

 書院部分の障子をぶち破って俺が階下を覗くと、球を持ったリツの姿がそこにはあった。俺と目が合ったリツは、優勝トロフィーを掲げるみたいに、球を片手で頭上高く持ち上げた。

「ぼさっとすんな! ハルト止めに行くぞ!」

 最高の友達って、まさにこういう奴を言うんじゃないか?

 人目がなかったらサッカー選手みたいに抱きついているところだった。

 

 

 球はすっかり軽くなっていた。中身がほとんどこぼれ落ちてしまったんだろう。俺が球を真上に投げると、空中でほとんど止まらずすぐに落ちてきた。中はもう空っぽだった。

「時間、足りるかな」

「間に合わせるしかない。それより問題は発動方法だ」

 リツの懸念に、俺は剥き出しになった和室の壁を指差して答えた。

「たぶんあれ」

 床の間の丁度真正面、出入口近くのその壁には、何度も打ち付けられたのだろう野球ボールの痕が無数に残っていた。そうか。

「石切り。やってた。俺たち。河川敷で」

 そう口にした瞬間、あの美しい夕日に染まった河川敷の記憶が、鮮明に蘇ってきた。

 どうして今まで忘れてたんだろう。あんな最高の思い出を。

「後はもう、やれるだけやってみよう」

 リツが言う。俺たちは走りだした。

 

 

 シュウと合流するため、全速力で俺とリツが西橋小学校の横を通り過ぎ、西橋駅前の交差点に辿り着いたまさにその時、イヤホンからシュウの言葉にならない怒鳴り声が聞こえてきた。少し経って、『ごめん逃した』という悲痛な声が続く。

「ハルトか!?」

『豊本が消えた、瞬間移動みたいに!』

 ハルトが連れ去ったんだ。時間を止めた奴が物を移動させたら、そうでない奴からは物が瞬間移動したように見える。

「時間切れだ」

 残念そうにリツが言う。いや早ぇよ。諦めんなよ。

 こっちは四年待ってんだぞ。

 考えろ考えろ考えろ。ハルトならどうする。ハルトなら何をする。俺がハルトなら何をする。もし俺が。ある日突然。家族を轢き殺されたら。殺した奴に復讐する。思い知らせる。同じ目に遭わせる。家族と同じ目に!

「駅前の交差点」

 ここだ。

 車両用信号機が青に変わり、一斉に車が動きだした瞬間、車道の真ん中に突然高校生と青年が姿を現した。

 瞬間移動をしたみたいに。

 俺は廃屋を出た時からずっと握り締めて準備していたパチンコの玉を、交差点に向かって投げた。動け、俺の腕。届かせろ。バスケは辞めてしまったが、幸いスリーポイントの自主練くらいはたまにしていた。高校で入部したのはパワーリフティング部だったけど、時々野球好きの親父と新川の河川敷でキャッチボールくらいはする。

 振り下ろした右腕からパチンコ玉が消えた瞬間、見えるすべてのものが止まっていた。

 交差点の真ん中で、高校一年生のままのハルトが驚いたように俺を見た。

「タツキ」

 よくわかったな。痩せただろ、俺。最近リバウンドしてるけど。

 目の前のハルトは本当に昔のままで、まるで懐かしい写真を見返してるようだった。

 おまえはあれから何日かしか経ってないだろうけど、俺らは九百日だ。九百日もずっと、ずっと、考えて続けてきてんだ。

「ハルト」

 俺ごときがどうやって説得できるって言うんだろう。喋るのは苦手だ。

 でも俺には、言わなきゃいけないことがある。絶対に。

「ごめん、あのとき、俺、逃げたりして」

 ハルトは俺らの中で誰よりも寛大だった。

 馬鹿みたいなプライドを優先して謝れない俺を、いつも許してくれた。

「あんなに仲良かったのに……離れてごめん……」

 あの優しいハルトがぶっ壊れるとこなんか見たくない。

「……力に、なれなくて……」

 必死で訴える俺を、ハルトはただただまっすぐ見つめていた。

 そしてほんの少しだけ、笑った。

「ハルト」

 そう俺が名前を呼んだ瞬間、目の前の景色が変わった。車道ではなく歩道にいる。流れるように景色が動き、雑音と喧噪が戻っていた。

 時間切れだ。よろけた俺を、隣にいたリツが支えてくれた。

「ハルトは?」

 不安そうな声のリツに答えたのは、俺ではなかった。

「ここだよ」

 振り返ると、高校の制服を着たハルトがそこに立っていた。

 呆然としている俺の体を、リツが乱暴に交差点の方へ振り向かせた。何事もなかったかのように、ただ車が走っているだけだ。たまたま歩行者信号の下に立っていた小学生たちが、道の真ん中を指差しながら口々に「ユーレイ!」と騒ぎ立てている。

 気づいたら俺は泣いていた。

 ああ、よかった。本当によかった。

 心臓止まるかと思った。

「おまえら暇かよ。懲りずに何回も廃屋来てさ」

「見てたの?」

 驚いた。リツの冗談は的中していたのだ。

 ハルトはずっとあの廃墟にいた。俺らには見えなかっただけで。

「事故があった朝、親と喧嘩したんだ。うちの店のさ、社員の佐々木さんって覚えてる? あの人レジでポイント泥棒してたんだ。会員証持ってないお客さんの会計で、自分のポイントカードの番号手打ちで入力してくすねてた。一年半も。クビにするって親が言ったんだ。悪質すぎるからって。俺は反対だった。あの年であんなにトロかったら、この先アルバイトしか仕事ないよ。四十近いのにひどい仕打ちだと思った。だから考え直してほしかった。でも家出る時間だからって、遅刻するからって話遮られて。いつもより少しだけ遅い時間に、両親と妹が家を出ていった。そんで轢かれた」

 ハルトが静かに続ける。

「俺のせいだ」

 俺らは何も言えない。

「赤の他人庇って、家族を殺したんだ」

「違ぇよ」

 遮ったのは、肩で息をしながらやってきたシュウだった。

「おまえは誰も殺してない。殺してないんだ。自分を責めるなよ」

 シュウの言葉でなんとなく理解できた。なぜハルトは交差点に、犯人だけを置き去りにしなかったのか。踏切なんかに飛び出したのかが。

「なあハルト」

 今となっては幼く感じるハルトの顔を見て、呼びかける。

「おまえが自分を許せなくても、俺らはおまえを許してるよ」

 そう俺が言ったら、ようやくハルトは洟をすすりながら涙を零した。

 おかえり。

 

 

   5.

 ハルトが三年半もの長きに渡って時間を貯め続けたのは、復讐のために使う以外にも理由があった。心も体も粉々にしてしまいそうなほど強烈な憎悪を、それだけの長い時間抱え続けられる自信がなかったからそうだ。憎み続けるのは疲れる。そして疲れると、人間は諦めてしまう。戦うことをやめてしまう。憎い相手を、許すことになってしまう。ハルトはどうしてもそれが許せなかったのだ。

 廃墟に現れるたびに成長し、変化していく俺らを見ながら、ハルトは何を感じていたんだろう。逆に、何年経っても大して変わらないなとほっとしていただろうか。スプレー缶を持ち込んだシュウが、壁にでかでかとハルトの似顔絵と猥褻単語を並べて描いたこともあった。花見がしたいと庭に咲いていた梅の枝を折って、三人がかりで引きずって和室に持ち込んだりもしていた。軽犯罪のオンパレードだ。他にも山ほどある。きっとそんな光景が、高校生のままのハルトの前を十倍速で過ぎ去っていったんだろう。「誰か止めろよ」と、独り言でツッコミを入れるハルトは容易に想像がつく。超えちゃいけないボーダーラインの手前で、いつも釘を刺すのは実はリツじゃなくてハルトなんだ。リツはガリ勉のくせして、案外バレなきゃ平気というタイプである。やっぱ俺らには、ハルトが必要だ。

 俺らの九百日を早送りで見て、ハルトもそのことに気づいたはずだ。

 

 

 西橋小前のいつもの交差点に辿り着くと、ハルトが言った。これから使ってない分の時間を消費して、同い年になって戻ってくると。俺はポケットに残っていたパチンコ玉をハルトに渡して、「ここで待ってる」と言って見送った。戻るまでおそらく五時間くらいかかるそうだ。まぁ気長に待ってるよ、三人で。

 だってもう四年待ち続けたんだ。五時間くらい瞬きしてりゃ終わる。

文字数:34649

内容に関するアピール

 拙作のために時間を割いて下さった全ての方に感謝申し上げます。

 第三回の提出課題をリライトしたものです。

 その際、梗概をご指導くださいました大森先生と円城先生、実作を評価してくださった藤井先生(あの時の嬉しいお言葉は一生忘れません)と溝口様、皆様ありがとうございました。ダルラジでご助言くださった古浜様、遠野様、稲田様もありがとうございました。せっかくの期待に実力不足で応えきれずすみません。面白かったと声をかけて下さった5期生の皆様もありがとうございました。学童の詳しい話を教えてくれた高尾さんもありがとう。また遊びに行きましょう。

 「貯めた時間を後から使う」というSF設定が非常に好評だったので、このアイディアだけ残してまるごと違う物語をいつか書こうと思います。

文字数:333

課題提出者一覧