天体使いたち

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天体使いたち

 わたしの記憶の中で神人たちが奉納する円舞はいつも軽やかだ。一生を神々との対話に捧げる彼女たちが土の上に並べられた板の上に円形に並んで刻むその足音は、荘厳さとは無縁で、押し付けがましいようすもなく、なまなましく、重さがない。その踊りはわたしたちの生活に隙間なく敷き詰められた厳しい労働という石畳を破ってひらききった花なのだ。
 それと同じように、ちゅらびとの足音は軽かった。かれの身体は山のように大きいと端女には聞いていた。粉挽き小屋のような、規則正しくずしずし響く音を立てて歩むと言うのだ。でも、せいぜい十五歳を超えたばかりの端女たちが、かれの足音を聞いたり、ましてやその姿を見たことがあるはずはなかった。かれは七十五年に一度だけ島にやってくるのだ
 この海でもっとも偉大なまれびとであるかれには、王以外の謁見は許されていない。たとえ王と言えども最大限の礼を尽くし、奴婢のように振る舞わねばならない。離宮全体から人払いがなされ、わたしのほかには誰も居ない中、うつぶせのまま、腕、脚を広げ、重い神衣に全身を押さえつけられるような姿勢でわたしはかれを待っていた。かれの足音が作る揺れは胸の底に響いている。まるで胸郭の内側で、誰かがくるくると踊り続けているかのようだ。
 臼が鳴る音とはぜんぜん違う。

 双子の姉のリグヌは端女たちの監視から逃れるのがうまかった。あるとき、わたしたちはちょっとした儀典の座学から逃げ出して、離宮の近くの粉挽き小屋に忍び込んだ。たしかわたしたちが八歳の誕生日を迎えたころのことだ。クバの葉で編まれた粗雑な壁からは太陽のひかりが斜めに差し込み、わずかに舞う粉を活火山の中心で灰になるたましいのようにきらめかせていた。わたしはリグヌと床にうつぶせに寝転んでいるうちに、こうして精巧に組まれた機構がことんことんと粉を挽いていくのを見ることがとても好きだと気づきはじめた。同じことを繰り返すだけの日常にわたしたちはうんざりしていて、わたしは仲の良い料理人の老婆から端材と刃物を手に入れて水牛の動くおもちゃをリグヌによく作ってやっていた。きっとわたしはわたしが手の中で作り上げたものよりも高度に実践されている木造りの仕組みに興味が湧いたのだった。
「いつまでこうしてるの?」
「ねえ、いつまで?」
 リグヌはわたしに何度かそう聞き、最後にはすっかり飽きてわたしを置いていった。外で車を回している水牛を見に行ったのだ。彼女にとっては水牛の表情のない顔を見ているほうがたのしいのだろう。わたしは彼女のことを愛していたから、田畑で汗を流す水牛たちをひたすら見つめるのに付き合うことがあったし、彼女が粉挽き小屋で車が回転するのをそれなりに長いあいだ一緒に眺めてくれていたのは、わたしのことを愛しているからだった。わたしたちはそうして二人きりで周り続ける小さな連星だった。
 とにかく、周り続ける臼を見つめながらその精緻な機構を作り上げた才能を想像することは、わたしにとってこの上ないよろこびだった。
 そのうち男がやってきた。
 かれはわたしの服装を一目見たあと、その場にごとんと膝をついて平伏した。わたしはあわてて立ち上がり、何か言葉をかけようと「あ」と言いかけてじゃらつくヒメガイの首飾りを握りしめ、年老いたかれの姿を見つめた。離宮の外で人と言葉を交わしたことはなかった、わたしは気まずくかれから目を背けると、かれが入ってきたばかりの戸から外に出た。水牛がくくりつけられている十字の丸太のあたりには、リグヌはもういなかった。わたしを置いて離宮に帰ったのだ。
 わたしはじっと男の背を見つめた。小屋の機構について深く知りたいという欲求をどうしても手離すことができなかった。「質問をしても良いでしょうか」とかれに言う。
「あなたがこの小屋を作ったのですか」
 かれはじっと地面に付したままその場から動かなかった。そのままゆっくりと頷く。
 わたしは水牛の肩に触り、その動きを抑えた。機構のすべてが止まり、木材の軋みは消え、あとにはクバの森で葉が風に振られさわさわと鳴る音だけが残った。木立の中ではたくさんの植物の種子が羽根を広げて回転しながら落ち、少しでも遠くの地へその生命を継いでいくよう足を伸ばしているだろう。
 水牛の鼻は湿っている。
「素晴らしい仕組みです。小屋は風で粉が飛ぶのを防ぐためでしょうか」
「はい、このあたりは風が強いもので」
「風の力を代わりに使えないでしょうか。そうすれば、この水牛は田畑を耕せます」
 はっと男は顔を上げて、それから再び勢い良く頭を下げた。その額にはかつて犯した罪を示す刺青が染み付くように罰をつくり、わずかに見えた瞳の奥には端女たちにはない内なる思索の残光があった。
「恐れながら、質問をお許しください。風を回転に変える車のことをおっしゃっているのでしょうか」
「そうです」
「風車の速度は風の強さに左右されます。あまりにも早く回転すると石臼が壊れてしまいます」
 わたしはかれがすぐれた技師で、わたしがすぐ思いつくようなことにはすでに考えを巡らせ、なおかつ実践を施したことがあるということを知った。とん、とわたしは下唇を叩いた。「なるほど、なるほど……」と呟きながら小屋の中に戻っていった。麦の粉をひとつかみ取ってぱっと地面に撒く。その上に指で今思いついた仕組みを描いていった。わたしが最後に回転の方向を示す楕円を矢印で描いてやると、男の顔は紅潮した。
「つまり、これは遠心力を利用するのですね。回転が早くなったとき、回転軸に取り付けられたおもりが外側に広がり、石臼を持ち上げる――」
 わたしは大きく息を吸って、吐いた。ヌハの島を統べる王君の一人として平静を装う必要があった。それでも背中に浮いた汗を沈めることはできなかった。頭の中で描いた事柄が、人に伝わるということが、こんなに嬉しいことだとは思わなかったのだ。
 その瞬間。
 わたしはぎょっとして「や!」と声を上げた。男がとつぜんわたしの手を取り、自らの額に当てたのだ。男の力は強く、振り払うことができなかった。「やめて!」とわたしは再び喚いて、男の禿げた頭をもう片手で抑えつけ、なんとか逃れようとした。でも、やがてわたしは抵抗するのをやめた。
 男が咽び泣いているのがわかったのだ。
「あなたがあと二年で〈偽王〉となる身でなければ」
 とかれは言った。短い嗚咽のあと「あなたはわたしの、一生の師であったかもしれないのに」と呟いた。
 それでかれはようやく手を離した。
 わたしは涙に濡れたかれの瞳を上から覗き込んだ。かれの額にもう一度触れて、何か言葉をかけてやるべきだと思った。そう思ったときにはもう遅すぎた。「なんで」と呟いたとき、わたしはすでにかれの粉挽き小屋から離れ、森の中につくられた細いけもの道を走って海へと向かっていた。離宮とは反対の方角だ。胸で鳴り続けている首飾りを捨て、東の工房で作られた陶器の腕輪も、翡翠の小冠も捨てた。「なんで!」と大声で叫んだ。
 偽王になんてなりたくなかった。
 わたしこそが、わたしの役割をもっとも呪っていた。
「それ絶対誰にも言っちゃだめだよ」
 とリグヌはその夜怖い顔をして言った。
「なんで……」
 わたしは泣きながらこたえた。
 きっと彼女は姉の責務を果たそうとしていた。彼女はわたしの寝室に潜り込み、根気よく慰め、寝かしつけようとしてくれていた。そうしなければわたしが眠ろうとしないからだった。「死んじゃうよ」とリグヌは微笑みのかたちに口元を歪めて言った。それからわたしの耳元に口を寄せ、偽王となったあとにわたしがなすべきことを話した。
 わたしは彼女こそ王にふさわしいと思った。
 偽王の候補は地方の島民から本島の神人に選ばれ、偽王となる日まで王族として暮らすことになる。選ばれる赤子は精神を病んだ親の子どもが多いようだった。人頭税が二人ぶんも下がったのだから、おまえたちの村は相当によろこんだだろうと端女たちは笑っていた。
 候補のなかからさらにたった一人が、美らびとのやってくる前日に偽王に選ばれる。
 美らびとは海の彼方からこの地にやってくるまれびとだ。七十五年に一度、決められた暦の日にやってくるかれらと話した者には、必ず災いが起きるとされている。そのため、王府の島王はその前後に王位を降り、偽王を立てる。美らびとを偽王がもてなし、かれらにお帰り頂いたあと、偽王はすべての忌みごとを引き受けて本島の中心にある火山に生きたまま放り込まれるのだ。
 わたしにそんな大役が務まるはずがなかった。
 だからこのうつくしくやさしい姉こそが、わたしの王になるはずだった。
 でも結局、わたしが浜に投げた小石は、西島のマキマキのそれよりも、東島のカザンシのそれよりも、そしてリグヌのそれよりも、わずかに深い穴を穿った。だからわたしはリグヌの斬り落とされた首を前に、偽王の名を神々に授かったのだった。
『なんで』
 わたしの額に王権を示す文字が刻まれているとき、砂に塗れたリグヌの首がわたしに囁いた気がした。わたしとあなた、リグヌとリグで、なにが違うと言うのだろうか。わたしになにが託されたのだろうか。島のすべてが、わたしの小さい肩に重くのしかかっている。わたしは島に与えられるすべてを引き受けて死ななければならないのだ。

 最後の足音が頭のすぐ横で鳴り、室内にわずかな残響を作った。美らびとがそこに立ったのだ。わたしはつばきを飲み込み、深く息を吐いた。緊張のためかひどい吐き気がした。
「美らびとよ、貴きまれびとよ。わたしはこの地の王、リグと申します」
 わたしはうつぶせのまま言った。
「願わくば貴方様のご滞在が、よきものとなるよう――」
 と口上の続きをやりかけたとき、わたしの両脇からそっと腕が差し入れられた。「うわっ!」と叫んだときには、わたしはもう美らびとに立たされていた。
 かれの風体をなんと表現すればいいのかわからない。
 最初に目に入ったのは巨大な頭部だった。金箔のすっかり貼られたまるい石のようなものでその頭は覆われており、その奥にあるかれの顔は見えなかった。その全身は太い筒のような白くごわごわした布で覆われ、指先までが同じ材質でできていた。
「スァン」
 とかれは自分の胸元に手を当てて言った。女のように高い声だった。わたしはびくりと震え、「あ……」と小さな悲鳴を上げた。冕冠の先についたかざりが震えるのを抑えることができなかった。
 スァン。
 知らない言葉だった。なんでかれと話ができるなんて思ったんだろう。それは神人たちが口上をわたしに教えたからだ。かれは、とん、と手袋の先をわたしの胸に押し当てた。指はあるのかもしれない。だが、この金いろをした石の向こうには、何匹ものハブが凝り固まったような恐ろしい顔があるのかもしれないし、あるいはひょっとしたら頭部などなく、ただ闇そのものがこちらを見ているのかもしれなかった。
 泣きそうな表情が金いろの覆いに反射している。
「リグ」
 かれはわたしの胸をもう一度、とん、と触ったあと、ぱちん、と音を立てて自分の首元を触った。それでさっと覆いが透明となり、たちまちうつくしい女性の顔があらわれた。
「はじめまして、リグさん。私のことはスァンと呼んでください」
 と美らびとは言った。
 膝がとつぜん砕けたように言うことを効かなくなり、わたしはその場に崩れ落ちた。床材の冷たい石に落ちた影がこちらを見ていた。「大丈夫ですか?」と頭上から彼女が聞いた。
『死んじゃうよ』
 床の裏側からリグヌの声がした気がした。死がわたしの足首を掴んでいる。それでもわたしはこの夜という儀式をつつがなく終えなければならないのだ。わたしは絶望の表情をそこに残し、笑みを作ってから顔を上げた。
「失礼しました」
 声はしっかりと出る。

 別室にはひときわ豪勢な宮廷料理が湯気を立てて並べられていた。わたしはスァン様を席に案内し、彼女の盃に酒を注ぐと、長机の反対へと座って長箸を手に取った。美らびとと触れることが許されるのは厳格にひとりと決められていたから、わたしは彼女の世話をすべてひとりでやらなければならなかった。服の上半分を脱いで躊躇なく料理を食べはじめた彼女をわたしはほっと眺め、それから自分の料理に手をつけた。言葉数は少なかったが、スァン様はこの地の自然の清冽さや彼女の舟を先導した王軍の艦の勇壮さ、また食の豊かさについて褒めた。わたしは愛想よく相槌をうち、しかし彼女が自分のことについて話し過ぎないよう気を配っていた。
 神人のことばによれば、大きな災いを避けるためには、美らびとから教えを引き出してはならないのだ。
「美らびとの舟は銀でできているそうですね。継ぎ目も鋲もないと聞きました」
 食後の湯屋で、湯に浸かった彼女の足を腿に載せ、その裏をゆっくりと揉み込みながらわたしはうっかり質問じみたことを聞いてしまう。
「あれは銀ではありません」
 わたしは美らびとの声にはっとして、「なるほど、あなたがたの知はわたしたちよりよほど深い」と媚びた笑みを浮かべて話を打ち切った。見上げるような視線を彼女に投げかける。その瞬間、そっとスァン様が湯屋の外の星空に目をやったので、わたしは不安になった。何か機嫌を損ねるようなことをしてしまったのかもしれないし、あるいは今すぐわたしに災厄が訪れるのかもしれなかった。肌に張り付いた浴衣がきゅうっと軋んで、わたしは逃げ出したい気持ちになった。
 スァン様はそっと頭を覆っていた布を取り去って、わたしにその長い髪を晒した。
 彼女の髪は銀いろだった。見たことのないその峻烈な輝きにわたしは息を飲み、目を伏せた。なめらかでまっしろな足先と、紅の差された爪が目に入る。一生かけて今日のために手入れしてきた自分の黒髪と褐色の肌が急にみすぼらしいものに思えて、髪先を手のひらで隠した。
「きっと舟は、あなたの髪のように、うつくしいのでしょう」
 とわたしは呟くように言った。
「是非見送りに来ていただければ」
 スァン様の声に、わたしは顔を上げて曖昧に笑い、かすかに頷いた。湯をたっぷりと掬った指を髪に通しながら、彼女ははっきり「ふふ」と笑った。果たされぬ約束をしてしまったと思った。わたしが浜に立つことはもう二度とない。彼女がこの離宮から出るとき、わたしは離宮に残ると決められている。そのまままっすぐに山へと向かい、殺されるのだ。

「そろそろ失礼します。明日も早い」
 寝室に移り、西島の茶を囲んで肌の手入れについて話したあと、彼女は寝具に向かって歩いていった。絨毯の上にてんてんと置いてあるその一つに身体をもたれかけると、わたしに視線を寄越して、目を細めた。
『なんで』
 と、再びかさついたリグヌの声がした気がした。死が未だにわたしを捉えていた。わたしはその手をどうしても払わねばならないのだった。
 それがリグヌが残した願いだった。
 わたしはスァン様を見つめ「双子の姉がいるんです」と言った。
「昨日、首を斬られて死にました。今ごろ島の中央にある火山の火口に葬られていることでしょう。明日には、わたしも同じように捨てられます」
 彼女の瞼がわずかにひらいたような気がした。亀の甲に貯められた香油の上でちいさな炎が揺らめき、スァン様の顔に落ちた影は踊るように形を変えている。わたしはそっと茶机から離れた。はだしのまま石づくりのつめたい床を音を立てず歩き、それから沈み込む絨毯の上に載った。そうしてわたしはスァン様の身体を跨いで立った。彼女は頭を動かさぬまま、銀の前髪を透かし、赤い目でこちらを見上げている。
「なぜあなたのような偉大な女王が、そのように死の恐怖に震える必要があるのでしょうか」
 と彼女は聞いた。
「わたしは偽王です。偽の王です。都に住まう真の島王からわずかなあいだ王権を預かり、忌みびとたる貴女のお相手をするために今日まで生きてきました」
 スァン様の指がぴくりと動いた。「なるほど、なるほど……」と彼女は言った。
「どうか……」
 わたしは囁き、言葉を切った。つばきを飲み込んだとき、ジッ、と炎の中で虫が燃えたような音が部屋のどこかで鳴った。そして「どうかわたしに御子を授けてください」とわたしはなめらかに言った。
 それはわたしがリグヌに言われて何度も練習した言葉だった。
 スァン様はもぞもぞと身体を動かし、わたしの方に向き直ると「なぜ?」と聞いた。
「百五十年前、当時の偽王は美らびとと子を為して神格を得、その子が六歳で死ぬまで生きたという伝承があります」
 ふっとスァン様は笑い、「馬鹿な」と言った。
「その日この地を訪れたのも私です。王の名はカルタカルタ。齢はあなたと同じ十歳で、あなたのように可憐な子でした」
 わたしは大きく息を吸い、吐いた。それは彼女がわたしの前にあらわれたときから予期していた答えだった。
「何かが歪んで伝わったか、あるいはきっと彼女を殺したくない誰かが子どもを孕んだと偽ったのでしょう。それに、あなたはどうすれば子どもができるか知っているのですか?」
 わたしは、く、と奥歯を噛み締めた。スァン様はわたしを慈悲深い目で見上げていたが、その言葉は鋭かった。
「私たちはふたりとも女で、そもそも――」
「わかっています!」
 わたしが叫ぶと、スァン様はくっと唇を結んだ。だめだとわかっているのに、やめることはできなかった。わたしはぶん、と腕を振り、「だってリグヌが言ったんだ!」と絶叫した。
「リグヌが、美らびとの子どもを産んだら生きられるって教えてくれたんだ……」
 全身の力が抜け、わたしはスァン様の上に身体を投げ出した。スァン様のあたたかな身体がわたしを迎えると、抑えることができなくなってわたしは号泣しはじめた。リグヌがわたしを守ろうと残した言葉ですら、無為に消えてしまった。わたしはわたしのみならず、リグヌの生すら踏みにじろうとしているのだった。
 わたしたちは死の前になにもこの世にあらわすことがなかった。
「リグさん」
 スァン様がわたしの名を囁いた。子が無事生まれるための祈念に鳴らされる鈴のような声だと思った。わたしはそっとスァン様を見上げ、溢れ続ける涙を拭った。
「好きなものはありますか」
 スァン様は微笑んで言った。わたしは一度スァン様のやわらかな胸に顔を押し付けたあと、そのまま「赤魚の煮付けが好きです」と言った。
「今日の食卓にもありましたね」
「はい。料理人のマァザヌは、魚料理が得意なんです」
「たしかに美味でした。他には、料理以外に」
 わたしは顔を上げた。鼻をすすり、「マァザヌが教えてくれた遊びがあります」と言った。
「二本の紐をそれぞれ環状にして、わたしはいつもリグヌと――」
 わたしはスァン様の導きに従って、好きなものを並べ上げていった。わたしにはスァン様がわたしの気を紛らわせようと、眠る時間を遅らせて付き合ってくれているのがはっきりわかった。わたしはそれに縋るしかなかった。この寝屋を出たら、もう一歩たりともわたしは生きて歩くことはできないのだった。
 そのとき、わたしは粉挽き小屋の話をしていた。スァン様のおなかの上に図を書きながら、自分の発見を誇らしげに語っていた。
「ある種の植物は、その種子を二つの羽根でくくって回転させ、遠くに飛ばします。それで遠心力とおもりを使って、石臼を持ち上げることを思いついたんです。実践の機会を逃してしまいましたが――」
 わたしがそこまで喋ったとき、スァン様はわたしを遮って「遠心調速機の原型だ」と呟いた。
「調速機、ですか」
「回転速度などを調整するための機構です。大変重要な発明だ」
 スァン様はわたしを腿の上に載せたまま身体を起こすと、枕元から袋を取り出し、さらにその中から短剣を取り出した。飾り気のない鞘から刀身を抜き取ったとき、しゃりいん、と冷たい音が鳴った。
 わたしはその金属のつめたい輝きを見つめ、そのまま目を閉じた。
 ひかりが瞼の裏に残っている。
 わたしはきっとこれから殺されるのだった。スァン様はわたしの言葉を理解してくれた人だった。交わした言葉は無限の抱擁に似ていて、交わした眼差しは無限にやさしかった。この人に殺されるのなら、もうそれだけで十分だと思った。わたしはスァン様の中で永遠に生きるのだ。わたしは銀の刀身がわたしの中に挿し込まれ、わたしの生が世界の薪となるのを待った。
「あなたには恐ろしいほどの工学の才能と、ひらめきにつながる恵まれた運がある」
 とスァン様は言った。
 わたしは目をひらいた。しばらく目を閉じていたせいですべてがひかって見えた。その中心で、スァン様の手のひらに剣の切っ先が突き刺さり、指先から赤い血が滴ろうとしていた。
 その指がわたしに差し出された。
 まるでたった今世界が産まれ直したかのようだった。わたしはぼうっとスァン様のうつくしい顔を見つめた。彼女は自分の血でわたしの額に縦の線を一本描いて王権を示す刺青を隠し、それから下唇を紅を差すように血で汚した。そのあと、袋から更に取り出した透明の小さな瓶を血で満たしはじめた。
 わたしはばっと立ち上がり、周囲を見渡して円卓に走り、茶道具の下に敷かれていた飾り布を取った。粋を凝らした盃や水差しが固い床の上で粉々に砕け散る音がした。わたしは「なんで!」と叫びながらスァン様の手のひらの傷をその布で抑えようとした。
「大丈夫、もう少しです」
 スァン様はそっとわたしを押しやると、瓶の蓋を閉めた。それから傷を負った手のひらをわたしに差し出した。「うう」とわたしは呻きながら、ぐっと抑えて彼女の傷の止血をし、包帯のように巻きつけた。彼女の傷を見ていると、自分の身体が刺されたかのように痛んだ。しばらくして血が止まったとき、スァン様は汚れを見渡して、これは大変だ、と小さな声で呟き、そして立ち上がった。
「私たちには重力が働いている。ものが落ちる力ですね」
 とスァン様は言い、指でつまんでいた瓶を寝具へと落とした。わたしはなにが起きようとしているのかわからず、彼女のことを見上げていたけれど、スァン様が、わかるか、と聞くかのように首を傾げたので、あわててこくこく頷いた。
「それとは別にもうひとつ、〈業力〉という力が知的生命体の肉体を構成している〈業量〉には働いている。あなたや、私のような」
 スァン様は、ことん、ことん、と瓶を何度か落とした。それをわたしにそっと手渡す。瓶は仄かな熱を持っており、あたたかかった。
「世界の中心、〈世界炉〉の方向に、生命体の身体を移動させると、その表面に熱が発生する。身体はその一部でも、死体から切り取られたものでも良い。これが業力です。ご存知ですね」
「世界炉……」
「あなたの島にある火山の、火口からはるか下にある炉です。あなたがたが死体を葬っている」
 わたしはふたたび頷き、それから少し俯いた。火口に投げ込まれるリグヌのばらばらの身体と、『美らびとをよろこばせる』と彼女がどこかから聞いてきた運動が同時に頭に走ったのだ。身体を激しく上下させると、体温が上がるので、それを性交の前にやっておくと男が喜ぶというのだ。ばかみたいだと思ったけど、リグヌは楽しそうだったから、わたしも楽しかった。
 なにもかもがもはや消えてしまった。
「この熱は無限の応用が可能です」
「応用ですか」
「そう。たとえば、水は温めると膨張し、気体になりますよね。大きな力です」
 スァン様はわたしの腿の上に図を書いた。一つの円と、くくりつけられた棒、それから長方形が密閉された空間を示している。
「この部分に水と血液を満たし、上下させると――」
「円運動に置き換えられる」
 わたしは言葉を継いで、呆然とスァン様を見上げた。
「風も、水が流れ落ちる力もいらない」
 とスァン様は続けた。
「水牛も」
 とわたしは付け加えて、それから二人でくすくすわらった。

 翌朝、空が白みはじめるまでわたしたちは寝ずに業力の工学的応用について話し合った。スァン様が問題を出すと、わたしはすぐさまそれにこたえた。そのよろこびは、リグヌを失った悲しみや、死の恐怖を少しずつ埋めていった。
 まるで世界が広がっていくようだと思った。
「見送ってくださいね、約束通り」
 とスァン様が言ったので、わたしは離宮からほど近い、美らびとの舟のみが着くことを許された桟橋まで二人で歩いていった。神人の禁を破ってもわたしを押し止めるものはおらず、わたしは少し拍子抜けした。みんな美らびとがもたらす災いが怖いのかもしれなかった。スァン様と一晩じゅう話し、わたしはもはや彼女に対する迷信をほとんど信じていなかった。これほど善意に満ちたうつくしい彼女が災禍の中心だなんて考えは滑稽だ。
 スァン様の舟は思ったよりも小さかった。国軍の軍艦のうちもっとも小さいものと同じくらいの大きさだ。しかし、その姿は想像通りの優美さに満ちていて、わたしはいつか海中で見た大きくゆったりと泳ぐ銀色の魚を思い起こした。
 スァン様はまっすぐに上を指差し「あそこに不動の星がありますね」と言った。空にはいつものように格子点状に規則正しく星が並び、彼女が差したのはその回転の中心の、常に北を示している極星だった。
「帝星のことでしょうか」
「あの星が私の星です」
「え」
 わたしは絶句して、彼女を見上げた。
「ヌハの民よ!」
 スァン様はとつぜん大音声で叫び、桟橋の部材がびりびりと震えた。まるで舟全体から声が聞こえるかのような大きな音だった。わたしは鼓膜が破られぬよう耳を両手で抑え、彼女を見上げた。
「偽王リグをけして殺すな! 私がこの娘に授けた祝福と叡智は、お前たちに永劫の幸福をもたらすであろう!」
 スァン様の宣言が終わったあと、背後の森からあらわれていた鳥や動物の声が消え、あたり一面が静まり返った。わたしが両手を耳から外すと、さざ波が浜に打ち寄せるざあざあという音だけが残っていた。
「星のことは秘密です。私とあなた、二人だけの」
 そう囁いて、人差し指を口元に立て、スァン様は微笑んだ。
 海の果てには海水の滑り落ちる大瀑布があり、そのさきを見ようと漕ぎ出していき、帰ってきた人はいないのだった。美らびとが特殊なのはまさにそこだった。かれら以外にこの島を訪れるひとはいない。しかし、かれらが唯一、天に住む人びとならば、その出自には合点がいった。
 わたしはそっとわたしの額につけられたしるしに触れた。
「子の代わりになるものが、あなたに渡せたのなら幸いです」
 とスァン様は言った。
 わたしは「役目を終えたら、スァン様の元に参ります」と一息にこたえた。スァン様はあっけにとられた顔でわたしをしばらく見つめた。ふは、と吹き出す。それから顔いっぱいで笑った。
「待っています」
 スァン様は言い、手を振った。そして舟の中に乗り込み、姿を消した。
 舟は滑るように出港し、そのあとを軍艦の壮大な列が追っていった。折しも昇りはじめた太陽にまっすぐ横から光を投げかけられて、スァン様の舟は偉大な王の剣のようにぎらぎらときらめいた。神衣を握りしめている自分の手の力が強すぎて痛かった。
 ひどくあかるい笑顔だったとわたしは思った。妹を見る姉や、子を見る母が、ふとした瞬間に内なるよろこびに気づき、そのまま表出する。そういう笑みだ。わたしは一生彼女のことを忘れずに生きていき、死の直前に彼女に再び出会うのだ。わたしはわたしをそう運命づけた。
 わたしはひと月もしないうちに業力を動力に転換する〈業然機関〉を実用化し、島王は死体は元より、囚人をはじめとする生きた人間を燃料にして機関を動かしはじめた。機関を応用した機械が王意に従い広まっていく一方で、宗教と完全に一体化した権威的な体制に対する忌避は加速度的に高まっていった。わたしが死体から業力のもととなる〈業油〉を効率的な精製方法を確立した年、ついに王政は打倒された。時の王族は生きたまま火口に葬られる最後の人びととなった。人民の暮らしは死体から作られる業油で安定的に支えられるようになり、平穏な時代がやってきた。
 そしてわたしが十八になったとき、太陽が消える。

 * * *

 母屋から激しく立ち上った炎の粉が、風に巻かれて渦を作っていた。ウミホタルの死にぎわのようなその舞いが、窓を閉め、分厚く黒い帳を下ろし、瞼を閉じても、まだ瞳の内側にきれぎれの弧を描いていた。研究棟は敷地の森の中に隠れるように作られ、破壊の音はほとんど聞こえなかった。隠れるように背にした事務室の漆喰は冷たい。
 ここにあるのはわたしが繰り返す動揺の息遣いだけだ。
 すうっと吸って。
 止め。
 はぁーっと吐いた。
 目をひらく。
 わたしは保管庫に向かって駆け出した。いつ暴徒がここにやってきてもおかしくなかった。雑嚢を肩から下ろし、棚から高濃度の業油アンプルがぎっしり詰まっている箱を次々に滑り落とした。そのうちの一箱を落として割り、むっとする臭いが部屋に満ちた。わたしはそれに構わない。
 壁の一面を袋に入れ終わったころ、手元ではなく、どこか遠くでがしゃんと音が響く。
 わたしは扉のほうを振り向き、手を止め、そっと身を屈めた。正面玄関のほうから数人の女の声が聞こえた。悲鳴が漏れそうになって、手をはっしと口に当てた。保管庫を見渡す。もちろんこの部屋には直接外への出口はない。入ってきた扉に嵌め込まれた窓から外を見渡した。人の姿はない。
 背中を丸めて、そっと袋を背負ったとき、カシャッ……とアンプル同士が擦れる音がして、さらに小さく身を縮めた。兵士から隠れ、泣き叫ぶ赤子の口を塞いで殺してしまう母親の寓話を思い出した。わたしは袋を捨てなかった。この業油はそれぞれが同じ重さの金よりもはるかに高価なばかりか、わたしたちの未来そのものでもあるのだ。
 わたしは事務室に戻る。足音を立てず滑るように走り、そっと森の奥へと通じる扉を開けた。左右を見渡し、森の中に入っていった。袋は重く、肩紐は肉に厳しく食い込んでいた。星あかりの下、昨夜降った雪でけものみちはまっしろに覆われ、踏みしめた足を前に進ませ続けるのは難しかった。
 シダたちが葉を閉じて枯れている。
 白い息は激しく乱れ、わたしを覆っている。
 それでもわたしは絶対に足を止めることはできない。

 この世界に太陽が昇らなくなって数ヶ月が経っていた。大地の裏側で太陽がどうしてしまったのかは誰にもわからなかった。あの何ものにもかえがたい星はただ単にその進行を止めてしまったのかもしれないし、あるいはもうすでに我々の世界から永遠に消えてしまったのかもしれなかった。占星術師たちはその流派にあわせて次々に太陽に起きたことを説明する学説を出していった。燃料を使い果たして暗くなった。重さに耐えきれず自壊し爆発した。天に揺蕩う海が黄道の周囲で流れを止めた。水晶でできた目に見えない太陽を動かしていた球殻が悪魔によって破壊された。風説はもっとも著名な術士たちの家が暴徒に燃やされてからはむしろその種類を増していった。流れた噂の中にはわたしがあたらしい機械を動かすために密かに太陽を壊し、その熱を独占しようとしているというものがあった。わたしの家を襲撃したのはそういった混乱したひとびとだろう。
 かれらもこの状況の被害者なのだ。
「ラクシア!」
 とわたしは少女の姿を認めて叫んだ。手をすり合わせながら巨大なガレージの入り口に腰を下ろしていたラクシアは弾けるように立ち上がり、わたしに向かって両腕を広げた。偽王候補として暮らしていたころからわたしを気にかけてくれた料理人のマァザヌを、離宮から離れたわたしは個人的に雇い入れていた。その孫のラクシアは祖母に劣らない腕で、マァザヌの引退後、この一年はわたしの別邸を守る役割を一手に引き受けていた。マァザヌに似て心配性な彼女の、ふくよかな頬を伝っていたらしい涙のあとが痛々しかった。わたしはぎゅっと一瞬だけ彼女の身体を抱きしめると、すぐに無理やり引き剥がして雑嚢をその場に捨て、「手伝って!」と叫んだ。
 ガレージの扉を操作してひらき、暗闇のさらに奥に隠れている機械の後ろに取り付いて、外付けされている業燃機関を始動させる。これで軌道の上を台車は目的地まで自動で移動していくはずだ。
「私はもういやです。リグ様が危ないことをなさるのは――」
「早く、袋を!」
 わたしはラクシアが袋をこちらへ引きずってくるのを横目で確認し、手探りで機械についている業油タンクの蓋をひらいて、それからラクシアが台車の上に登ろうとするのを手伝った。
「これはなんでしょうか」
 とラクシアが聞いた。
「舟だよ。飛ぶ舟」
「……飛ぶ……」
 わたしは袋を引き裂くようにひらいて箱を取り出し、「落ちたら死んじゃう!」とラクシアが叫ぶのを聞きながらアンプルの蓋を両手で四本まとめて割り開け、タンクに業油を注いだ。限界まで濃縮された業油はほのかに光を放つ。わたしの手元はぼんやりとひかり、ラクシアの悲壮な顔も闇に浮かび上がっていた。
 そのとき、わたしの舟は星あかりの下にゆっくりと出て、その姿を晒した。表面は白く、全体はちいさな漁船のかたちに似ていた。上部には互いに反対方向に回る二つの回転翼が、さらに姿勢制御のための噴射口が十二箇所に取り付けられていた。たったそれだけで巨大な舟を飛ばすのに十分な上昇力が得られるわけがないのだが、この機械が飛べる秘密はその大部分を占める素材にあった。この研究施設が置いてある私邸は島の北端にある新興財閥系の別邸が集中している開発区域にある。近くの浜では星さんごの砕けた死骸が砂となって山を為しているのだが、その白いかけらには重力に従わず、上へとゆっくり落ちていくものがわずかに構成されていることが昔から知られている。わたしはその物質の化学的な単離方法を見つけていた。もともと軽い星さんごは、空を旅する船舶の理想的な素材になった。
「落ちなくてもちょっと操作を誤って下降したら業力で焼け死ぬ」
 次の四本。
「でも飛ばなかったら、わたしたちは全員、太陽のない大地のもとで凍え死ぬ」
 次の四本。
「でも、だって、一度も、飛ばしたことのないものに……」
「実はもう同じ形のものを無人で飛ばしてる」
「どうなりました」
「飛んだよ。でも還ってこなかった。空の彼方に消えてしまった」
 わたしはラクシアのほうを向き、手を止める。
「ラクシア、手伝って。業油を入れて」
「できません」
 わたしはまっすぐ立ってラクシアの顔を見下ろし、「どうしたら手伝ってくれる?」と囁いた。
「話してください」
 ラクシアはこたえた。
 わたしは黙ったまま、ラクシアの眉のあいだに刻まれた厳しい皺を見つめ、一度小さく頷くと、それから業油を入れる作業に戻った。手真似でアンプルをわたしに渡すよう指示すると、ラクシアはすぐさまその役割を担いはじめた。
「わたしは世界でもっとも巨大な望遠鏡を私有している」
「望遠鏡ですか? あの遠くを見るおもちゃの」
「研究棟の真ん中を斜めに走る柱があるでしょう」
「あの掃除にひどく邪魔な柱」
「あれがそう。望遠鏡」
「はあ」
 わたしの言葉に、ラクシアはぶつぶつと文句を呟いた。それから「それで、何を見ていたんです?」と聞いた。
 わたしはシャツのボタンを外し、下着の裏地から先ほど研究棟から持ち出した紙を取り出した。はっきりとした縁を成す真円と、それからぼんやりとしたもやのようなものを写実的に写し取ったスケッチが描かれている。
「望遠鏡で撮った帝星の写真から、わたしが描き写したの」
 ラクシアはそれを受け取り、「……どうも、もやっとしていますね……ここは顔に見えなくもないです」と、もやの中に浮かび上がる凹凸を見て、感想を言い。紙を返して寄越した。
「わたしはそれがスァン様だと確信している」
 ラクシアははっと顔を上げ、「美らびとが帝星にいるんですか」と聞いた。わたしは身を起こしてまっすぐ頷いた。
「太陽に何が起きたのかはわからない。だけど、スァン様ならきっと世界を救ってくれる」
 わたしが話のために手を止めたので、ラクシアは代わりにアンプルの中身をタンクに移しはじめた。「スァン様という方は、情けない顔をしていらっしゃるんですね」と言った。わたしは手の中の紙をふたたび見つめ、黙り込んだ。その通りだと思った。記憶の中のスァン様のすべてを満たされているというような自信は、このスケッチからは見いだせない。生まれてからずっと求め続けているなにかが一切与えられていない、というような表情だ。
 いや、どうせ光の加減だ。
 わたしは紙を元通りに納める。台車がそろそろ発射台に着くのだ。タンクはいっぱいになり、わたしたちは舟に残りのアンプルが入った袋を積み込んで、翼を回すための業然機関の始動プロセスを開始した。その途中でわたしは身に着けていた装飾品をぜんぶ外してラクシアに手渡す。
「あげる」
 わたしが言うと彼女は目を剥いた。
「飛び立ったら、家を燃やしたひとたちにきっと見つかってしまう。ラクシアはもう行って。これは最後に、餞別」
「美らびとを呼んでくればいいんでしょう。リグ様こそ逃げて下さい。私が飛んで、連れてきます」
 わたしは吹き出して、「操縦の仕方、知らないでしょう」と笑った。体温を一定に保つためのスーツを指差して「これも入らない」と言った。ラクシアは悲壮な目つきをして、胸の前で両手を祈るように組み、わたしの笑みを見つめていた。でもわたしが服をすっかり脱いで下着だけになると、スーツを着るのを半分まで手伝ってくれた。
「もう行って」
 わたしがもう一度そう言うと、ラクシアはぎゅっとはだかのわたしを抱きしめ、それからそっとわたしの額の真ん中に縦に走る刺青に祝福の口づけをおこなった。台車を降り、わたしを見上げる。
「きっと会えます! 美らびとに!」
 ラクシアは最後にそう叫んだ。
「ありがとう」
 わたしは返事を返し、それからハッチを閉めた。
 規則的な揺れが止まり、台車が発射場にたどり着いたのがわかった。始動した業然機関を翼につなぐ。巨大な回転が振動を轟音と揚力に変えていくのを感じる。わたしはスーツを着終わると、ベルトを締めて自分の身体を座席に固定した。円い窓の向こうは完全な闇だった。目を閉じる。あの星の近くにたどり着いたとき、どのような景色がわたしの前にあらわれるのだろうか。
「スァン様……」
 わたしはわたしを守護する神の名前を呼び、それから目を見ひらいた。姿勢制御系の計器を確認したあとスイッチをぜんぶ有効にし、わたしはスロットルを大きく倒した。
 わたしの舟は離陸する。
 次の瞬間、ごん、という音が聞こえた。わたしはぎょっとして、動かない首を動かしてなんとか音の方を凝視する。その瞬間、こんどは正面の主窓の真ん中に石があたり、わずかなひびを割り入れた。何かの拍子に巻き上げた土砂だろうか、と思って、次の瞬間思い当たったことに戦慄した。誰かがすぐ近くからこの舟に石を投げたのだ! 高度が上がり、周囲の闇は薄れ、燃え盛る家が見えた。わたしは操縦桿をひねって舟の方向を変え、ラクシアが去ったほうとは逆方向に暴徒を誘導しようとした。家に近づく。それでわたしは、炎の周りで踊り狂うように調度品を略奪するひとびとを見た。敷地内の建物にはすべて火がつけられ、当然研究棟にもその徹底的な破壊の手が及んでいた。
 わたしが築き上げてきた技術がそこで灰になろうとしていた。
 叫びだしそうになるのをこらえて、空へと視線を向けた。今からなすことに成功しなければ、未来はない。規則正しく並ぶ星ぼしの明暗から帝星を見つけ出して指差したあと、わたしは窓に走るひびの中心を星に合わせた。
 冷えた窓から指先を離したとき、わずかな痛みが広がった。
 わたしはあと少しでスァン様に触れられるのだ。

 空は形を変えはじめた。星は最初いつものように規則正しい格子を作る結節点のように見えていたが、帝星に近づくにつれ、それが実体を伴う球殻に点々と配置されたもののように感じられるようになった。空には無限の暗黒が満ちているわけではなく、少なくともなんらかの半球が大地によって切り取られるかのように配置されているのだ。星々の格子がかなり大きくなったとき、わたしはあることに気づいて目を細め、簡素な望遠鏡を取り出して観察をはじめた。
「……波か?」
 帝星から近い八つ星は、天球でもっともゆっくり円を描いている。そのうちの一つから、舟が動くときに生まれるような鋭い三角の波が規則正しく生まれていることに気づいたのだ。波は星が放つ仄かなあかりに照らされて、夜空に僅かな濃淡を描いていた。これは海だ。昼の頭上の紺碧は天に満ちている海の青さだったのだ。永遠に落ちることのない天海の神秘にわたしは興奮して誰かに教えたくなり、後ろを振り向いた。それから小さな窓からわたしがあとにしてきた大地を見つめて息を呑んだ。
 上昇速度をそのままにして、主窓を大地のほうに向け、足元を見つめた。
 故郷のヌハは、今や平たい板の上に張り付く小さな列島だった。空の立場に立つと、天球はすり鉢のような底を見せており、島と海はその球を半分に断ち割ろうとする不動の円盤の一部だった。美らびとが世界炉と表現した本島の中央にある火山のひかりは暗くひらめいており、人間たちの暮らしが掃き出す、山のふもとの都でこうこうと瞬くひかりのほうがあかるかった。
 空を飛ぼうとしたひとびとはこれまでもたくさん居たが、今のわたしほどの高さに昇る野心を持っていたひとは皆墜落するか燃え尽きて死んだ。この光景を見るのは、きっとわたしがはじめてだろう。自然が作り上げた偉大な事業の結晶に打たれた胸をそのままに、わたしは舟を回頭させてふたたび帝星を正面に捉えた。感慨に浸っている余裕はないのだ。
 そのとき、やっと違和感に気づいた。
 上昇速度が速い。いや、少しずつ速くなっているのだ。警告灯が点く。わたしは計器を指差しながら船体の状態を把握しはじめた。天球が近づくにつれ、その速度は落ちていると言っても良いほどになっていった。星ぼしがどんどん遠くへと広がっていく。完全に想定していなかった事態だった。正常な値の範囲を示していたいくつかの指示器は、振り切ろうとしている速度に引っ張られるように次々と赤いろの照明に変わっていった。この速度がもし逆向きに、大地の方へと向かっていたら、わたしの皮膚はすでに発火していただろう。死の恐怖が指先をしびれさせている。わたしはぐっと操縦桿を引くと、舟が上下逆になるように操縦した。床に置かれていた荷物が壁を擦るように落ちていき、膝に載せていた望遠鏡は天井で派手な音を立て、わたしの身体は肩ひもにぐっと押し付けられた。
 頭上に大地が見える。
 わたしは空に落ちている。
 船体の姿勢が上下ぴったり逆になり、方向が定めまった瞬間、スロットルをあけて巨大な翼の揚力をすべて制動に使う。振り切っていた速度の指示器は速やかにその値を落としていった。天海への墜落はどうにか免れることができそうだった。わたしは荒い息をつきながら警告を消していき、帝星の近くへと降りられるように船体を制御していった。
 どうしても消えないいくつかの警告が室内を赤く照らしている。
 帝星は今やその球のかたちをはっきり見せていた。わたしはついにその上に座っている人かげを認めた。彼女は白い長衣に全身を包み、こちらを見上げているようだった。あの人がほんとうにスァン様で、わたしと同じ程度の身長ならば、星の大きさはかなり小さく歩き渡るのに十歩もかからないというようすだった。このまま星に降りれば、わたしは彼女を潰してしまうだろう。
 わたしの舟は海の上に着水できるようにできていた。わたしは得体の知れない天の海へとわたしの舟を着けることに決めた。ゆっくりと操縦桿とペダルを操作しながら、周囲の海をざっと観察した。星の近くの海底にわずかに灯ったひかりがあった。あそこには誰にも知られていない星が沈んでいるのかもしれなかった。わたしはそれを目標に、舟をそっと進めた。周囲の海にまるいさざ波が広がっていき、徐々にそれは大きくなっていった。
 そのとき。
 さっと星の上にいた人が立ち上がった。わたしの舟が作る強い風が、彼女の顔を半ば覆ったフードを飛ばして、その表情を晒した。
 眦を上げ、決意に満ちた、成人するよりはるかに前の子どもの顔。
 スァン様じゃない。
 わたしは呆然とかれを見つめた。次の瞬間、かれはだっと星の中央から走り出して、こちらの方へと向かってきた。勢いをつけたまま海に飛び込む。
「……ちょっと……」
 わたしの舟はけっこうな速度で着水する寸前だった。かれが不器用に泳ぎながら、その真下に滑り込もうとしているのは明らかだった。このままではかれを潰してしまう。
「ちょっと!」
 わたしは悲鳴を上げて、操縦桿を押し倒しながらペダルを思い切り蹴り飛ばした。舟は回転翼を斜めに傾けながら、姿勢制御用の噴射口から凄まじい速度で高温の業然剤を噴射する。わたしの操作のおかげで舟はかれをぺちゃんこにしたりはしなかった。素早く姿勢を変えすぎて、回転翼の先端が海をわずかに切り裂き、舟は一度海面に跳ねてから横倒しに叩きつけられた。凄まじい衝撃で主窓が割れ、水が勢いよく舟に入り込むのが見えた。

 熱せられた部品に水が触れ、吹きこぼれた鍋が鳴るような音を立てていた。海が船体を擦り、時たま爆ぜた波頭がちゃぷんと鳴っているようだった。わたしはうっすらと目をひらき、自分の身体のほとんどが船室の半分を満たす水に浸かっていることに気がつく。
 何かを叫ぼうとして、激しい咳がやってくる。それが去ったあと、呻きながら周囲を見渡した。吐き気。ぐるぐる世界が回っている。頭を打ったのだろうか。
 わたしは顔をしかめた。肩がひどく痛み、小さなころ木から落ちて鎖骨を折ったときのことを思い出した。四肢を軽く動かす。食い込む肩のベルトが打ち身を作っているだけのようだった。わたしは腰で接合されている部品を外して、わたしの身体を座席から逃れさせようとした。
「うわっ!」
 次の瞬間、わたしは水面を離れ、天井に向けて落下し、背中から叩きつけられた。室内は狭く、身体が受けた衝撃はそれほどでもなかった。わたしは頭を振って身体を起こした。座り込み、床に向かって手を伸ばす。
 水面に指先が届く。
 水が床に張り付き、わたしの身体は天井に押し付けられている。
 ここでは重力がわたしに対して逆にはたらいている。
 思考が麻痺したかのように室内をぼうっと見渡したあと、わたしは立ち上がり、扉をあける。ひゅうひゅう風が吹いていた。わたしは頭上に揺蕩う海、そこに浮かんでいる小さな星と、眼下の遥か先に広がるくろぐろとした大地を見た。ひどい目眩がした。思わず室内に後ずさり、天井に落ちていた何かを蹴った。それは壊れた望遠鏡だった。よく見ると床にはたくさんの荷物が転がっていた。わたしだけが狂ってしまったわけではないのだ。つまり、一部のものが天上に属し、一部のものが地上に属しているということだ。
 わたしは手の中の望遠鏡を扉から外に捨てた。星のひかりを反射しながら闇夜に消えていくそれを、わたしはゆっくりと見送った。
 ばしゃっ、という水音にわたしははっとして視線を戻した。溺れているひとがいた。星の上に座っていたあの少年が、目の前の海面で必死に呼吸をしようともがいていた。わたしは慌ててあたりを見渡して、助けになりそうな人がわたしの他にどこにもいないのを認めると、「くっ」と呻いてすぐさまスーツを脱いだ。ぐっと勢いをつけて天井を蹴り、船室に溢れている水面へと飛び込み、すっかり全身を水に浸す。浮力はわたしに対して地上とは逆にはたらいた。水のほうがわたしを吸い込もうとするのだ。わたしは空中に落下しないように船体を掴みながら慎重に顔を水中から出し、それからそのまま海の中を船外へと出ていった。
 天海のなかを泳いでいくのは、海に慣れ親しんだわたしにも相当に困難だった。少しでも外に身体を晒しすぎると、わたしはたちまち宙空へと放り出されそうになるのだ。やがてわたしは少年のもとにたどり着いた。「こっちへ!」と叫んでかれを首に捕まらせる。かれの身体はずっしりと重く、わたしはほとんど自由にかれを動かすことができずに海中へと沈んだ。わたしは手足をばたつかせてなんとか進もうとしていたが、そのうち肺の中の空気をすっかり吐いてしまい、わたしの意識は海中を仄かに照らしている星のひかりの中で消え失せようとした。そのとき、かれがわたしの手を引いて、海面へと誘った。わたしが水面で荒い息をついたあと「舟へ」と息も絶え絶えに言うと、かれは頷いてぎこちなく海の中を進んだ。わたしたちはそうして抱き合うように海中を進み、やっとのことで舟へと戻った。
 水をげえげえ吐いているかれをそのままに、わたしはどうにか海面を出て天井へと落ち、身体をぐったりと横たえた。わたしはそうして息を整えながらかれをしばらく観察した。白い長衣に身を包んだ、年若い少年だ。
「大丈夫?」
 わたしが腕を伸ばし、かれの背中をさすってやろうとすると、かれは音を立ててわたしの手をはねのけた。その瞬間、かれがわたしの舟にしたことが頭を駆け巡って、怒りは急激に膨れ上がり、わたしの視界は真っ赤に染まった。
「なぜわたしの舟の下に飛び出したりしたの」
 とわたしは震える声で言った。船室の惨状を見渡し、「おかげで舟が壊れた!」と叫ぶ。
「そっちこそ、どうして星さんごを潰そうとしたんだ!」
 とかれは言った。
 わたしは顔をしかめて、かれが何のことを言っているのかを考えた。「あのひかりは星さんごだったのね」と聞くと、かれは頷いた。最初に着水しようとしたときに目印にしたひかりが、きっと星さんごの群れだったのだ。地上の生き物と同じものが、天海にもいるのは意外だった。あるいは海鳥がこの地を訪れることがあって、魚やさんごの幼体を運ぶのだろうか。船体に使った星さんごには、天海の影響をうけたものがあるのかもしれない。だから空に向かって落ちていくのだ。
 わたしは雑念を振り払い、「ごめんなさい、気づかなかった」と、いらいらと髪を絞りながら謝った。
「ともだちなんだ。星さんごが」
 かれは急くように言う。
「話し相手になってくれるんだ。ぼくはここから動いたことがない。ぼくの星は動いてはいけないと定められているから。きみはかれを殺そうとした。ぼくのともだちを!」
 わたしはかれの主張を無視して、「スァン様はどこ?」と聞いた。
「ぼくの名前はポスだ」
「あなたの名前は聞いてない」
 ポスは憎々しげにわたしを睨むと「きみはリグだろ」こともなげに言った。わたしは驚愕し、「なぜわたしのことを知っているの」と聞き返す。
「きみの手紙を読んだんだよ。『不動の星に住まう、スァン様へ』」
 さっと記憶が蘇った。それはわたしが試作した舟に積み込んだ、金属板に刻んだ手紙だった。ひょっとしたらその舟がいつかスァン様の手元に辿り着く気がして、わたしは祈りを込めてその手紙を送ったのだった。
「拾ったひとがわざわざ届けてくれたんだ。これはポス宛じゃないかって。リグが来るのを本当はずっと楽しみにしていたんだ。『あなたの星にすぐに伺います』って書いてあったから。名前は違っていたけど、不動の星に住んでいるのは、ぼくだけだった。でも本当はわかってた。ぼくはスァンじゃない。きみが求めてる人じゃない。ぼくの名前はポスだ!」
「あなたがわたしの求めている人じゃないなんてわかってる!」
 わたしが叫ぶと、ポスはぎょっとしたように黙った。
「わたしがここに何をしにきたかわかる? 太陽を見つけ、元のように動かしに来たの! 地上に住まう人間すべてのうち、わたしにしかできないことなのよ!」
「待って」
「舟の下にわざわざ飛び出してきて溺れる男の子を助けに来たんじゃ――」
「待ってってば!」
 ポスはわたしを押し留めると、「怪我してる」とわたしの頭を指差して言った。わたしは反射的に額に手をやった。それで指先がわずかに赤く染まったのがわかった。大したことはない。着水に失敗したときに、どこかにぶつけて切れたのだ。わたしはあたりを見渡し、転がっていた雑嚢から救急箱を引っぱりだして包帯を手繰った。
「貸して」
 ポスが言って、こちらに手を伸ばした。かれが水面からそっと立ち上がったとき、低い音を響かせて舟は傾いだ。やはりかれは見た目よりもずっと重いのかもしれなかった。それでわたしたちは上下互い違いに立ちながら、わたしの頭の血を拭い、清潔な布を当てた。
 かれはわたしを見つめてほっと息を吐いた。それからわずかに逡巡したあと、「ぼくはポス。〈天体使い〉のポスだ」と言った。
「……星を使える。動かせるってこと? 帝星を?」
「帝星?」
「あなたの星のこと。地上ではそう呼ばれてる。天球の回転の中心で、すべてを統べる星」
 かれはそっと舟の座席に座り、肘掛けに肘を置くと、「じゃあぼくはずっと玉座にいたわけだ」と呟き、わたしを見つめた。
 わたしはかれに「あなたが太陽を」と言いかけて、「元のように――」と続け、それから口を噤んだ。
 気まずい沈黙が部屋に降りた。
「動かせると思う? 動かない星に産まれ落ちた、一度も星を動かしたことのない天体使いが、あの巨大な太陽を」
 かれは言った。
 かれの肌や髪の色はスァン様とまったく同じだった。その危ういうつくしさに打たれてわたしはしばらく黙っていた。かれの顔の一面は横向きのあたたかな星あかりに照らし出され、もう一面は計器の示す赤に彩られていた。濡れた長衣の張り付いた薄い身体と、少女のように角張った肩。
 わたしはそっと口をひらく。
「動かせない」
 とわたしは囁いた。
 いっぱいに見ひらいたポスの瞳が、輝きはじめ、わずかに揺れた。こぼれた涙は、尖った顎先から音もなく海面へと落ちていった。かれのなかに既にあったこたえを他人に指摘されたとき、かれが耐えられなかったのがわかった。ポスは肘置きにもたれかかって身体を丸めると、手のひらを使って嗚咽を隠した。わたしはかれに手を伸ばすことができなかった。わたしはかれとは逆さまの世界に生きていたし、わたしが傷つけたのだから、かれの頬を拭う資格なんてなかった。その背に、枯れ果て、凍りついたようになっている翼が生えているのをわたしは見つけた。こんなに温かな海にはんぶん浸かっているのに、この羽根はなぜ凍っているんだろう。その痛々しさがつらくなって、わたしは悲しく目を閉じた。
 その瞬間、わたしの中に重大な転回があらわれた。
 わたしはポスを太陽の天体使いにする。かれをこの場所から解放して太陽へと導き、世界を救う。どうすればいいのかなんてぜんぜんわからない。だけど、その身を挺して星さんごを救おうとしたやさしい天体使いを、帝星に生まれたこの運命の王子を、救世の道へ誘うこと、それこそが、わたしにしかできない、きっとわたしだけに与えられた天命なのだということが、頭の内側にひらめきはじめていた。
 わたしはかれに向けて腕を伸ばし、「手を引いて」と言った。
 砕けた宝石のようにきらめく瞳を腕の隙間からしばらく見せたあと、かれはわたしが伸ばした腕を戻す気配がないので、諦めたようにわたしの腕を引いた。かれが天球に落ちる強さは、わたしが地上に落ちる強さよりも遥かに強いともうわかっていた。わたしはかれに引かれてそのまま頭上の水に全身を浸した。わたしは落下しないようにポスの身体を掴みながら慎重に顔を水中から出し、かれの膝の上に乗ると、「ポス」と名前を呼んだ。
 ポスは泣きぬれた瞳でわたしを見下ろしていた。
「やり方を教えて」
 とわたしは言った。
 わたしはそれからかれを海中に引き込んだ。ポスの口から、小さな空気の泡が上がっていった。わたしはそのまま半分沈んでいる舟からポスを引っ張り出し。再び水面に顔を出した。
「あなたが星を動かすためのやり方を、知っていることを教えて。わたしがあなたを、助けるから」
 ポスは黙ってわたしを見つめたあと、そっと星に視線を移した。そして「星を動かしたら、資格を失ってしまう」とひとこと言った。
「不動の星の天体使いになるのに、資格がいるの?」
 わたしはポスの腕に捕まりながら囁いた。
「動かないことが大事なんだ。決められているんだよ」
「誰かがあなたにそう言った?」
 わたしはそう言って返事を待った。ポスはゆっくりと俯き、そのまま何も言わなかった。わたしはかれの身体に腕をまわして、翼に触った。「この翼、動かしたことある?」と聞いた。わずかな痙攣にも似た動きが、冷たく凍りついた翼から伝わってきた。かれにこれまで与えられていた使命の残酷さのすべてが、それだけでわたしに伝わった。何しろかれはその身を海に囲まれていながら、泳ぐことすらできなかったのだ。わたしはたまらなくなって、かれのことを抱きしめた。ぐっと身体を引き寄せ、頭のうしろを撫でてやると、やがてかれもわたしに抱きついた。
 天海のなかで抱き合っていれば、わたしたちは同じように立てる。わたしたちはふたりで黙ったまま、ずっと海中で浮いていた。
「わたしたち、旅に出よう。太陽を動かそう」
「星はどうするの」
「残していく。大丈夫。資格なんてない。あなたは永遠にこの星の使い手だよ」
「スァンって人は?」
 とポスが言った。わたしは口をつぐむ。
「その人に会いに来たんじゃないの。わざわざ、あの島から」
「どうせ会えないよ。最初からわかってた。きっと嘘だったんだ」
「どうしてリグはぼくと旅に出てくれるんだろう。スァンの代わりに」
「わたしがそうしたいから」
 わたしがそう言うと、ポスは黙った。
 わたしは反応しないポスに不安になった。「ポス?」と促し、その顔に触れようと手を伸ばしたとき、かれはそっとわたしの額に唇を寄せ、先ほど手当てをしたばかりの包帯と布を取り去ると、やさしく傷口に口づけをした。
 そしてかすかに残った血液を舐め取った。
 ポスはぶるっと身体を震わすと、息を大きく吸って、わたしの腕を引きながら海に潜った。ギザギザとした歯が暗い海中にひらめく。わたしはまたたく間にポスが巨大なフカになったのを見た。わたしなど丸呑みにできそうなほどの大きさだった。徹底的に命を奪うためのその口が、わたしには穏やかに笑っているように見えた。ポスが促すようにわたしにその背を擦り付けたので、かれの背びれに捕まると、かれはすごいスピードで海中を泳ぎはじめた。ごうごうと耳元で水が鳴っていた。わたしが凄まじい水の勢いに圧倒されているのがわかったのか、ポスは速度をゆるめる。それでわたしには海中を見渡す余裕が生まれた。周囲はポスの星の仄かなあかりであかるく照らされていて、色とりどりの海藻が海底の球殻に根付き、そのあいだを魚や蛸が巡っているのをわたしは知った。天海はけして孤独な世界ではないのだ。息が苦しくなると、わたしはわずかに海面へともちあげられた。そのまま水を割って進みながら星をぐるっとまわり込み、ふたたびポスは海に沈んだ。
 ポスは星を海の裏側からとん、と一度だけ突いた。それで不動の星はすうっと動いた。星は海の生き物と化した天体使いに押されて動いているのだ。その仕組みの単純さにわたしは愉快になって海中で笑い声を上げそうになり、ポスが動かしすぎた不動の星を慌てて戻そうとしているのを微笑みながら見守った。
 ポスはわたしを背に、再び少し星から離れる。
 そこに星さんごがいた。
 ポスは海中で天体使いの姿に戻った。わたしたちは自ら淡いひかりを発するその星さんごの近くまで沈み、それから二人でかれに手をかざした。海の中は十分にあたたかいのに、わたしの手はさらなる熱を感じ、さんごに微笑みかけるポスを見やった。きっとポスとかれのあいだのつながりがわたしにあたたかさを感じさせているのだ。わたしたちはうなずき合うと、ふたたび手をつないで海面へと上がっていった。
「はじめて星さんごの姿を見た」
 とポスは言った。苦しい息のなかに、笑い声が交じった。
「フカになったのは?」
 とわたしは微笑して聞いた。
「もちろんはじめて!」
 ポスはこたえた。ぐっとわたしの手が握られた。ポスはわたしの身体を引き寄せて、これまででいちばん強く抱きしめた。
「ありがとう、リグ」
 とポスは言った。そして「ぼくにだって星が動かせるんだ」と自分に言い聞かせるように呟いて、微笑んだ。

「星のひとつひとつ、すべてに天体使いがいるのね」
「そうだよ。かれらが星を動かしている」
 ポスの力で斜めになった舟を水に浮かべ直したあと、ポスとわたしは船内に戻って昼食を取ろうとしていた。ポスはわたしが手渡した焼き菓子を一口かじると、顔をほころばせて缶ごと手に取った。
「じゃあ、あなたに手紙を届けてくれたのもほかの天体使いなのか」
 とわたしが天井に置いた簡素なコンロで湯を沸かしながら聞くと、「マズだよ。惑い星の天体使いマズ」とポスはこたえた。わたしは壁の星図の中に描かれた、ひときわ大きく描かれた星を見つめた。惑星は、天球上で唯一規則正しい配置と円運動を逃れ、自由に動き回る星だ。「惑い星……」とわたしは呟いた。
「人間の血液はぼくたちの食物になるんだ。むかしマズがそう教えてくれたのを思い出したんだ」
「ふうん」
 そっとお茶を口に含む。ポスにも飲ませてやりたかったが、わたしの方へと落ちようとする液体をかれに飲ませるのは難しかった。わたしたちはそのまましばらく黙っていた。船内には波の音と、わたしが時たまお茶を啜る音が響いていた。やがてわたしはそっと口をひらいて、「太陽の天体使いには何があったのかな」と言った。
「わからない」
 とポスはこたえる。
「でもマズなら知ってるかも。惑い星はどこにでも移動できるから、大地の裏で止まった太陽を見たかもしれない」
 わたしは立ち上がり、窓の外を見た。惑星の位置はすぐにわかった。ここから大地の裏へと向かい、太陽を直接見に行くよりはかなり近い。
「惑い星のところへ行こう」
 とわたしは呟いた。
「マズはすごくやさしくて、星から動けないぼくのことをずっと心配してくれてたんだ。ぼくが泳げるようになったって言ったら、きっとよろこぶ」
 とポスはうれしそうにこたえた。
 わたしはうなずきを返しながらまったく別のことを考えていた。全天でもっとも自由で、太陽のほかにもっともあかるい星が惑い星だ。その天体使いの助力があれば、太陽を動かせるかもしれない。逆に、マズに動かせなければ、誰にも動かせないだろう。
「ねえ、いつ旅に出る?」
 マズは缶から最後の菓子を取り出しながら急くように聞いた。わたしは微笑み「生きてさえいれば、すべてが旅だよ、ポス」とこたえた。

 舟の修理には時間がかかった。回転翼は八本のうち四本が折れてしまっていたが、残りをまとめると舟を天海の上で進行させる程度なら十分な推進力が得られそうだった。
 やはり星さんごから抽出された物質以外は天球へと張り付くことができなかった。船外に出るとわたしはたちまち地上へと落ちてしまうので、わたしは船体に自分の身体をくくりつけたり、ポスに支えてもらったりしながら作業を進めた。落ち着いて馴染んでみると、重力の強さは地上よりもかなり弱いようで、落下の恐怖は徐々に薄れていった。それは、舟が天球に向かって落ちる速度が球殻に近づくに連れ急速に高まったことと同じ仕組みかもしれなかった。
 わたしたちは疲れるとはだかになって天海で泳ぎ、船室の天井と甲板にわかれて眠った。食事を九回ほどしたところで持ち込んだ食料が尽きると、わたしはポスが海中で捕まえた魚を焼いて食べるようになった。味付けは塩だけだったが、ひどくおいしかった。
 やがて舟を動かす日がやってきた。
 わたしはポスにクランクを回させて業然機関を始動させた、即席で組み上げた回転翼の機構と接続すると、首尾よく全体が動作した。わたしは天井に取り付け直した操縦桿を一通り動かし「天才!」と叫ぶ。
「リグはすごいね。なんでも作れる」
 ポスが言ったので「工学の才能があるからね」とわたしはこたえた。
 修理が終わるまでのあいだに惑い星は大地の裏側へと隠れてしまっていた。わたしたちはかれを追って不動の星を出発した。星を背にしながら、波を割って海を進んでいるとき、窓を外した船室から、なにか声をかけようとして、結局わたしは黙っていた。回転翼を取り外した屋根で寝転んでいるはずの、ポスの返事はなかった。時間の概念をかれと共有するのはむずかしかったから、かれがどれくらい長いあいだを星と過ごし、このいっときの別れが訪れようとしている今、何を思っているのかはわからなかった。
 わたしたちは道中さまざまな星ぼしを通り過ぎた。急ぎの旅だったから、ひとつひとつの星に滞在することは叶わなかったけれど、星に住む天体使いたちはわたしたちがそばを通るとみな声をかけてきて、次の星に着くまでかれらのほとんどが舟についてきた。太陽が消えた世界に皆飽きはじめていたし、ポスほど星を使う天命に真摯な天体使いはまれだった。
 かれらは皆飛べた。
 灰いろの、黒いろの、焦げ茶の、赤いろの、緑いろの翼をして、舟のまわりを周り、錐揉みし、まっすぐに落ちて、滑空し、舳先に留まった。
 ポスは最初のうち楽しく彼らと会話しているようだったけど、そのうちあらたな天体使いたちと交わされる話に疲れを見せはじめるようになった。かれは星から動いたことがなく、会話の相手は限られていたのだから、慣れていないのは当然だった。わたしはポスがそうして天体使いたちと話し続けるのは良いことだと思っていたから、天海を下る速度を少しだけ緩めてやりながら、かれらを歓待するのをやめなかった。
 やがて終わりがやってきた。
「人間がここまでやってくるなんて!」
 大地のへりの近くで出会った、かなりあかるい星の天体使いは親しげにわたしに話しかけた。かれの背中からは、一際鮮やかな金いろの羽根が生えていた。
「それで、きみがポスか。不動の天体使いが太陽を動かすってわけだね」
「できるかどうかわからないけど。マズに相談しようとしているんだ」
「マズなら何か思いつきそうだ。彼女からきみの話を聞いたことがあるよ」
 ポスはしばらく黙って、それから「マズはどんなふうに言ってたの」と聞いた。
「自慢してたよ。あの選ばれた天球の中心たる不動の星の天体使いに、私は唯一会いに行けるんだって」
 と言ってかれはにこにこ笑った。
 わたしはなんだか誇らしげな気分になった。親が子どもを褒められたときには、こんな気分になるんだろうかと思った。
 浮き立った気持ちは、一瞬で霧散する。
「ポスはマズの翼が広げられたところを見たことがあるでしょ? あの巨大な真紅の翼! かっこいいよね」
 ポスは曖昧に笑い、「ああ、うん」とこたえる。
「きみはたぶん飛べないよね?」
 とかれはあっさり言った。「意外だったな、不動の星の天体使いが凍りついたままの翼を背にしているなんて――」とポスの翼にそのまま手を伸ばそうとした。気がついたときには、わたしは立ち上がり、その天体使いの手を払っていた。業然機関が立てる唸り声のような轟音だけが、しばらく船室には響いていた。わたしはポスの翼がそうして他人に冗談交じりに馬鹿にされるのが、一瞬たりとも我慢ならなかったのだ。
「えーっと……」
 気まずそうに天体使いは黙った。ポスはしばらくわたしたちを不安そうに交互に見ていたけれど、わたしがもはやひとことも発さずに天体使いを睨んでいるので、かれの手を引き、船室から連れ出した。かれはポスに「ごめんね」と言った。あかるい星の天体使いは舟のへりに腰かけると、「ごめん」ともう一回囁いて、そのまま背中の側から海に落ちていった。そうしてかれは巨大なオニエイに姿を変えると、自分の星へと戻っていった。
 業油の警告ランプが点く。
 わたしは天井に配置しなおしたタンクに、アンプルの中身をいくつか割り入れた。空になったガラス瓶を一つを残して窓の外に放り投げ、わたしは操縦桿を固定して壁を背に座り直した。
 そうしてわたしたちは同じ壁を背に外を見つめる。
 地上の海が落ちていく大瀑布は、目の前に濃い霧を広げてわたしたちを覆い隠そうとしていた。その奥のどこかに太陽があるはずだった。わずかなひかりが靄を透かしてわたしたちに投げかけられた。わたしたちはきちんと計画どおりまっすぐ進んでいるはずなのに、不安が二人の胸を満たしているとお互いにわかっていた。
「太陽を動かすのに、資格がいるのかな。大きい翼がないと動かせないとか」
 わたしはそう囁いたあと、「どうしたら翼を大きくできるんだろう」と聞いた。
「わからない。ぼくの翼はずっと動かしてなかったから、少しずつ試してみればいいんだろうけど……ひょっとしたら才能なのかも」
「わたしの血をぜんぶあげたらいける気がする」
「何それ。死ぬよ」
「わたしが死ぬのはだめだな」
 わたしたちは短いあいだ笑い合い、そして黙った。わたしは口をひらき、何を話すべきかまとまらないままに「わたしはかつて王様になるしかなかった」と言った。わたしが偽王になった話はかれと出会った日のうちにしていたけれど、口をついて出たのだ。
 手の中の小さな空き瓶を弄び、こと、と音を立てて天井に置いたあと、指先で支えた。
「美らびとの子どもを産むしかないって思ってた。スァン様に産ませてほしいってほんとに頼んだんだよ。わたしにはそれしかないって」
 瓶には油の元になったひとの名前が二十人ぶんほど描かれていた。音の響きから全員が西島の出身だとわかる。どういう生を歩んだ人たちなのだろうか。白みはじめた外からのひかりで、茶色い輝きがわずかに天井に落ちていた。
「でもわたしは結局彼女の子どもを産んだりはしなかったし、王様もやめた。それでも生きてる。ポスと一緒に」
「何が言いたいの」
「たぶん、太陽を動かしたあと、その次は二人でどうするって話だと思う」
 わたしが瓶を投げ上げると、かれはそれを捕まえた。
「ぼくはきっと永遠に空を飛べないと思う」
 かれは言った。
「わたしがいつかポスを飛ばしてあげるよ。天才だから」
 とわたしはこたえた。
「ぼくが油だったらいいのに」
 ポスはほとんど聞こえないほど小さな声で言った。「そうしたら何も考えずに、リグのためだけに生きられるのに」と続けたあと、立ち上がって振りかぶり、手の中の空き瓶を窓の外に投げ捨てた。
 金いろのひかりが室内の中をすみずみまで照らし出した。ポスの背であおく凍りついた羽根がきらきらと日光を吸い込んでいた。わたしはかれを見上げ、あまりにもその輝きが強すぎるので、手のひらをかざした。

 地響きのような轟音を立てて、真っ赤な鯨がその身体を海面に叩きつけた。
 規則正しい配列をつくり、完璧な円運動を運命づけられている星々の中で、唯一自由に動くことを許された星。燃え立つような地肌をあかあかと晒し、惑い星は天海の真ん中に屹立していた。太陽が黄道を通るときと同じように、周囲の星たちは少しだけ惑い星のことを避けていた。星に刻みつけられた黒い水路は、瀟洒な首飾りのようにその胸を彩っていた。そのすぐそばの海面から、今まさに鯨があらわれ、そして海中へと消えたのだった。わたしはあっけにとられ、それから「うわっ」と声をあげて舵を切った。鯨が作った巨大な波がわたしたちを襲ったので、急いで船体をそちらに向けて立てたのだ。
 次の瞬間。
 赤い稲妻が舟にまっすぐに突き刺さった。どん! という大きい音がして、舟は激しく揺らいだ。何が起きたのかわからず、わたしは慌てて立ち上がって窓枠にしがみついた。揺れが収まりかけたとき、わたしは船室の前に少女が立っていることに気づいた。
「誰そいつ」
 と彼女はいきなりポスに聞いた。あどけない顔だ。人間の尺度で言えば、ポスよりも若く見える。
「ああ、えっと……リグっていうんだ。人間の……むかし島の王様だったんだって。リグ。彼女がマズ」
 わたしは「リグと申します」と神妙に頭を下げ、彼女の全身を観察した。鮮やかな紅の長衣に金の縁取りが走っていた。吹いた風に波打つ赤毛をうざったそうに抑えながら、「ふうん」と言った。
「で、まず私になにか言うことあるんじゃないの」
 と彼女は言った。
「うん、リグがここに来たのは――」
「違う違う」
 マズは扉から離れると、舟のへりに腰掛けた。ギシッ、と高い嫌な音がして、舟が大きく傾いだ。
「なんでポスが不動の星を離れてんの、って言ってんの」
 とマズは言った。
 わたしは不穏な空気を感じ取った。ポスは彼女のことをやさしい天体使いだと言っていた。座ったままのかれの脚が萎えないようにやさしく揉みつけてやりながら、彼女はポスの知らない遠くの星ぼしのことを話し、はげましてくれるというのだった。そうして彼女がまるで二人きりで育った幼馴染みのように語ったマズが、目の前の不機嫌そうな天体使いと同じ人物だとは、わたしには思えなかった。
「リグが連れ出してくれたんだ。また戻ればいいからって……。嫌だった?」
「嫌なんて言ってない」
 マズは片足を持ち上げて、脚を組んだ。表情を変えずに「私はずっとポスに星を離れたほうがいいって言ってたじゃん。おめでと。ポス」と言った。
 ポスは胸をなでおろしたようすで「マズ、今日ちょっと怖いよ」とこたえた。
「そう? ポスがいきなり大人っぽくなったから、きっと焦っただけ」
「ぼくが?」
 ポスが吹き出すように笑うと、マズもわずかに微笑んだ。
 わたしはほっとして、「マズ様、わたしの願いを聞いていただけませんか」と口を挟んだ。
 太陽が消え、地上が破滅の危機に陥っていること。これから太陽を動かすために、天体使いの助力を願えないかを聞く。
「ポスはどうしてこの子を助けようって思ったの?」
 とマズは聞いた。
「前にマズが海底に落ちてた手紙を持ってきてくれただろ。あれ、リグが送ったものだったんだ」
 マズは目を見ひらいたあと、「星から連れ出してくれたのもリグだし」と言うポスに、目を細めて「そ」と呟いた。
「いいわ、協力する。わたしが知ってることを教えてあげる」
 とマズは言った。
 わたしは安堵して、「マズ様が太陽を動かすことはできませんか」と聞いた。
「それは無理」
 とマズはこたえた。そしてため息をつき、「今の私にはね。あなたたち人間が世界炉の火を消したせい」とこたえた。
 ごう、とひときわ強い風が船室に飛び込んできた。わたしは「は……?」と呟き、視線を揺らしてポスを見た。ポスはマズに「世界炉って?」と聞いた。
「そっちの人間は知ってるみたいだけど?」
 とリグは囁き、わたしを顎で差した。
 ひどく気温が下がったような気がした。どっと汗が吹き出して、わたしは両肘を抱えて震えはじめた。そうしてわたしはやっとすべての真実を知った。「太陽の天体使いは飢えて死んだ。この宇宙は滅びる。お前たちのせいで」と、マズが囁く声が遠くで響いていた。
 ぐら、と足元が揺れて、たたらを踏んだとき、足先が雑嚢に触れた。中からアンプルがいくつか転がりでた。太陽と惑い星に照らされて、輝きを隠したそれを拾い上げ、わたしは手のひらに載せた。「世界炉で燃え盛る業力が、天体使いの食物なのですか?」とわたしは聞いた。
「それ何?」
 とマズが聞いた。「世界炉の中心みたいな光が見える」と付け足す。
「本当にそうなんですか?」
 わたしは重ねて聞いた。
「人間の身体を凝縮して作った油だよ。リグがそれを発明したんだ。それで機械を動かしてるんだよ」
 とポスが言った。
 はあっ、と息が漏れた。
 わたしは知った。ついに、自分が世界を破滅させようとしている魔女であることを知った。わたしが業然機関を作り、世界炉へ人の身体を葬る宗教儀式を廃れさせ、太陽の天体使いを殺した。その上で世界を救わんとする矛盾に溢れた旅に出たのだ。
「どうしたの?」
 とポスは気遣わしげにわたしに声をかけ、手を伸ばしたので、わたしは一歩船室の奥に下がった。
「リグ? えっと……だいじょうぶ?」
 へら、と悲しそうに笑って近づいたかれの身体を、わたしはどん、と押し返した。
 かれは何も知らない。知らないのだ。知ったらどうなるだろう。息がおかしい。ちゃんと呼吸ができない。過ちに満ちた、愚かで、卑小な人間のわたしが、得意げにちいさな舟を操り、あまつさえかれを救うなどと言ったことを、かれはどう思うだろう――。
 思考の巡りは突然絶たれる。
 マズはいつのまにか主窓の側に回り込んでいた。船室にとつぜんその腕を伸ばすと、わたしの髪を掴んで引きずり出した。わたしが激痛と恐怖に叫ぶと、「うるさい」とマズは耳元で囁いた。わたしはその凍りついたような表情を、涙混じりに見つめた。彼女があまりにも恐ろしくて、わたしの悲鳴は口の中へと押し込まれた。
「やめて!」
 とポスが叫び、扉を回り込んでマズに近寄ろうとした瞬間、マズは「うるさいって言ってる。落とすよ」と言い、厳しい目をポスに向けた。ポスは立ち止まり、悲壮な顔つきでわたしを見つめた。
 はるか下に大地が見えた。わたしは今やマズに掴まれた髪だけで空中に宙吊りになっていた。恐れのためにばたついていた足をなんとか鎮め、わたしは髪を自由にしようと伸ばしていた手で、逆にマズの指にしがみつこうとした。
「わかる? ポス、こいつが太陽の天体使いを殺したの」
 とマズは言った。
「たすけて――」
 と言いかけたわたしを遮って、「この女が私たちを殺そうとしてるんだよ!」と叫んだ。
 知られてしまった。ポスにわたしのことを知られてしまった。わたしは「ポス……」とかれの名前を呼び、嗚咽しながら首を振って、意味のない否定をおこなった。
「お願い、やめて……」
 ポスは懇願するように囁き、絶望の視線をわたしに投げかけた。かれになんと声をかければよいのかわからなかった。わたしにはこの世の誰に対してもひとことも何かを弁明する権利がなかった。わたしは世界で最悪の罪人なのだ。それでも心の内側で、洪水のように言葉が溢れようとした。やがてすべてがわたしの舌に結集し、「ごめんね、ポス」とわたしは囁いた。
「死んで燃え尽き、すべてに詫びろ」
 マズはほとんど独り言のように言った。そしてわたしの髪を離した。
 ああ! とわたしは言葉にならない叫び声を上げ、手足をばたつかせた。重力が小さいので落ちる速度は遅く、しかし手がかりがまったくないので、どうすることもできなかった。やがて速度が上がっていき、皮膚の周りがチリチリと熱くなった。わたしの絶叫は悲鳴に変わっていった。「熱い!」と繰り返し絶叫し、この苦痛から逃れる以外のことが考えられなくなった。わたしは星を操るほど偉大な存在に投げ上げられた、重力と業力の二重の監獄に閉じ込められた囚人だった。わたしにできることは、わたしの身体が大地に叩きつけられるよりも早く、できるだけ速やかな死がわたしに与えられることを祈ることだけだった。
「リグ!」
 叫ぶ声が聞こえ、わたしはそのまぼろしに瞬いた。目の前にポスがいた。かれは彗星のように燃え盛りながら落ちていくわたしに追いついて、わたしを救おうとしているのだった。すでに天球からは遠く離れ、ポスを球殻へ引こうとする力よりも、わたしを地上へと引こうとする力のほうが強かった。ポスの背中には凍りついたままの翼があった。わたしはかれの身体に腕をまわし、わたしの炎でその翼の氷をなんとか溶かそうとした。しかし、そんなことで偉大なる重力からわたしたち二人が逃れられるわけがなかった。
 わたしの罪はわたしのみならずポスまでも殺すのだ。
「ぼくに翼があれば」
 とポスが絶望に満ちた声を出した。
 わたしは突然のひらめきに、腕を畳んだ。かれとぴったりくっついたまま、その口に左手の指を二本差し入れた。
「噛め!」
 わたしは叫んだ。「噛み千切り、飲み込め!」と繰り返した。わたしの肉体から発生する業力がかれの体内から直接強くあらわれれば、かれの失われた飛行能力が復活するかもしれなかった。視界が突然白く曇り、ポスの顔は見えなくなった。濃い雲に入ったのかも知れないし、眼球が熱にやられたのかもしれないし、溢れかえった涙がかれをかき消したのかもしれなかった。「お願い」とわたしはかれの耳元で囁いた。
 やがてこれまでに百倍する凄まじい激痛がわたしを襲い、意識はふわりと途絶えた。

 * * *

 夢を見ていた。
 リグヌが生きていた頃の夢だ。姉は水牛が好きだった。黒く大きな動物たちと戯れるうちに全身を泥だらけにして、いつも端女たちの機嫌を悪くさせるのだった。わたしはリグヌがよろこぶのが好きだったから、結局わたしも泥に塗れるのだった。さんざん水牛の群れと遊んだあとに草っぱらに出ると、乾いた泥で灰色の頬をして、リグヌはよく花を編んでくれた。
『長生きしてね』
 リグヌはいつもわたしに願った。『死んじゃだめだよ』と、繰り返し教えた。今ならわかる。彼女は花かんむりとともにわたしに祝福と教えを与えようとしながら、自分のこころにある恐怖をかき消そうとしていたのだった。
 死の恐怖に怯えているのは彼女自身なのだ。
 わたしは彼女を救えなかった。
 とてつもなく悲しくなって、姉の名を呼ぼうとし、わたしは自分の声が出ないことに気づく。
 目をひらく。
 二回、三回と咳をする。背骨が粉々に折れているかのような凄まじい痛みが全身にひろがり、わたしは呻き声を上げた。目がおかしい。霞がかっていたし、どうやら左目は暗闇のなかにあるようだった。包帯が巻かれているのだろうか。
 室内は凍りつくように寒く、四肢は縛り付けられたように動かない。
「水はいる?」
 わたしは女性に話しかけられ、はあはあと言葉にならない返事をしたあと、ようやく短くうなずいた。匙で二、三杯の水を飲み干すと、わたしの舌はようやく下顎から離れた。
「マズ様……」
 わたしは目の前にいる人物の名を呼んだ。
 かつ、と小さな音を立て、マズは匙を椀の中にしまって床へ置くと、ばさ、と羽ばたいて天井へと腰を下ろした。周囲を見回す。わたしはどうやら粗末な漁師小屋にいるようだった。地上へと戻ってきたのだ。
「ここへは私が運んだの」
 マズがわたしの心を読むかのように言った。
「ポス、まだそんなにちゃんと飛べないし、あんまり向いてないから。こういうのに」
 わたしはマズを見つめたまま、安堵の息を吐いた。ポスは死んではいないのだ。
 波音が壁板の裏から遠く響いていた。ランプを灯している安い油がじりじり鳴った。その光にぼんやりと照らし出されながら「あのね」とマズがぽつりと言った。
「世界炉とか関係なかった。私はあなたのこと最初から嫌いだった。ポスを救うのはずっと私だけに与えられた役割だったのに、なんで、って。あなたはポスをあの牢獄から連れ出したし、翼も与えてくれた」
 マズは小さく息を吸い込み「お礼言わなきゃ」と言った。
 沈黙が降りる。
 やがて、くふ、とマズは笑った。頭を抱えると、子どもを亡くしたばかりの親のような声で「無理だ、無理。無理」と何度か言って、それからしばらく笑っていた。
 笑い終わり、はあ、と息を吐く。
「私あなたが下着の中にポスの肖像を隠してるのを見つけちゃった。やっぱりポスに惹かれてるんだ。あなたは」
 マズはそう言って目を細めると、「痛いよね。もしそうして欲しかったらちゃんと殺してあげる。苦しくないように」と囁くように聞いた。
 わたしは何もこたえずに、ただ黙って彼女を見ていた。
 ふわ、と夜風が入り込む。
「リグ様」
 炭袋を持った娘が部屋に入ってきて、わたしのもとに走り込んだ。「わかりますか。ラクシアです」と娘は言い、わたしの額に触れた。わたしは目を見ひらこうとした。瞼と瞳はほとんど言うことを聞かなかったが、たしかにその声はラクシアのもののようだった。わたしがわずかに首を動かすと、ラクシアはこくこくとうなずきを返しながら、わたしの額を幾度も撫でた。
「あなたが持ってた人間の死体、全部使うから」
 マズはひっそりと言った。立ち上がり、短く滑空して、ちいさな扉から出ようと身を屈めた。彼女は振り向かないまま「朝を待ってて」と囁いて、それから出て行った。ラクシアはマズのあとを追い、扉から深々と頭を下げた。

 火鉢に火が入れられ、火吹きで二度、三度と吹かれた。ラクシアはそっとわたしに向き直り、床に腕を割り入れてわたしの手をやさしく握った。指を失い、火傷に覆われた手はそれでひどく痛んだが、彼女のあたたかな手はわたしにとって癒やしの源だった。
「あの天体使い様がリグ様を連れられて、天から降りてこられたときはびっくりしました」
 とラクシアは言った。
「私がちょうど漁から帰ったところにあの方の輝きがあらわれたんです。あんなに強い光を私が見たのは太陽が消えて以来でした。祖母があなたの名前を叫んだので、私にもリグ様のことがわかったんです」
 わたしは枯れかけたつばきを何度か飲み込み、「マァザヌは……」と問いかけた。
「祖母は火口へと登っていきました。一昨日のことです」
 ラクシアはこたえた。
「マズ様は全島の都市にお触れを出して回られました。太陽を動かすために、人の身体が足りないって。お前たちが死体を葬らなくなったのが悪いのだから、老いたものから生きた身を火口に投げ込めって――」
 わたしは身を起こそうともがいたが、ラクシアがわたしの胸をぐっと押して床へとおさえつけたので、叶わなかった。死にかけた鳥のようなぐううと言う叫び声と、むっとする熱気が部屋に満ちていた。わたしは慈悲を乞うように、ラクシアを見上げた。熾火がラクシアの瞳の奥で揺れていた。「……見せて……」と、わたしはひとことだけ懇願した。
 ラクシアは長いあいだわたしを見つめたあと、戸板をがたがたと外しはじめた。わたしをそれに載せて浜を引きずっていき、やがてわたしたちは一隻の壊れた小さな漁船へとたどり着いた。わたしは漁船の船体を背にして座り、ラクシアと共に火山を見つめた。
 夜が白みはじめている。
 火口は惑い星のひかりのように赤い。
 その火はいつもより大きくなっているようだった。きっとたくさんの人々がそこに集っているのだ。マァザヌがたった今、その身を火口に投じているのかもしれなかった。「マァザヌ……」とわたしは口の中でその名を呼び、ぐずぐずと涙を流した。肉体を失い、芋虫のように全身を布で巻かれ、膿にまみれながら、それでもわたしはあたりまえのように悲しかった。わたしが生涯をかけてやってきたことがすべて世界にとって害悪だったことよりも、それが今マァザヌを殺そうとしているという事実よりも、ただひたすらにマァザヌの喪失がつらかった。
「私は泣きません」
 ラクシアが断固とした声で言った。わたしは涙を目尻から滑り落としながら、首をもたげ、彼女のことを見上げた。
「祖母は言っていました。わたしたちの命はきっと使い果たすためにあるんだって。天命のためにわたしたちは生きているんだって」
 ラクシアは続けて言ったあと、しばらく黙っていた。だからわたしは、太陽が昇る瞬間を見落とした。
「夜明けが」
 ラクシアが呟いた。わたしは彼女のように浜の東側を見つめ、そこから太陽が昇りくるのを見た。紫は黄金に追いやられ、空は海と同じ色を取り戻しはじめた。わたしがそのいつもと変わらない朝を見つめていると、「リグ様、ポス様ってどういう方でしたか」とラクシアが呟いた。
 わたしはラクシアのほうを振り向いた。
「マズ様は、リグ様に恩があるとおっしゃっていました。ポス様というひとを、自由にするために、あなたの命が使われたのだと。だからお前たちを救うのだと。リグ様、私はすべてを聞きました。私はあなたを責めません。あなたはけして自分を責めてはいけません。私はあなたが偉大な旅をおこなって、マズ様を連れていらっしゃり、この世界の救世主たらんとされたことにかわりはないと――」
 ラクシアはわたしへの慰めの言葉を途中で切った。彼女はそっと立ち上がり、「速すぎる」と言った。
 わたしは太陽を見上げた。ラクシアが言ったように、その動きは速すぎた。砂に落ちたわたしたちの影は急速に形を変えつつあった。「どかない星が……」とラクシアがふたたび呟いた。眩しい太陽から少し離れたところに、赤い染みのような光があった。太陽が昇るとき、星ぼしは大きくその位置を変え、その道をあけてやるものだ。しかし、全天で太陽を除けばもっとも明るく、もっとも自由なはずの星が、今はその場所を動こうとしなかった。
「マズ様の惑い星だ」
 ラクシアが言った。
「ポス」
 わたしは呟いた。星が流れたのだ。まばゆく輝くあおい光は、太陽から出て、惑い星に走った。しかし惑い星は微動だにしないまま、太陽の強いひかりに飲まれ、そして消えた。
「ああ」
 ラクシアがかすかな悲鳴を上げたとき、太陽は三つに砕けた。
 一つはその場に崩れ落ち、天海に激しい波紋を広げた。一つは地上の海へと向かい、遠目にもわかる、恐ろしいほどの高さの波しぶきを立てた。爆発するような激しい勢いで霧が立ち上り、奇妙な形の雲を作った。
 最後の一つはわたしたちの頭上を飛び越えるかのように斜めに飛んでいく。それがもっとも近づいたとき、凄まじいあかるさと熱さがわたしたちを襲った。まっくろい雲を引き、わずかに回転しながら飛びくるその大きな太陽の破片は、島の中央にある火山へと激突した。いっぺんに万を超える雷が一度に落ちたかのような地響きと轟音が鳴り、瞬時に先ほどの海に立ち上った雲に倍する恐ろしい色をした煙が立ち上った。
 わたしたちは言葉もなく、それを見つめていた。
「おばあちゃん……」
 ラクシアが呟くように言った。わたしは彼女を見上げた。その顎からぽたぽたと涙が落ちるのを、わたしは見た。次の瞬間、ラクシアは弾かれたように走り出した。
「待って」
 わたしは叫んだ。喉も枯れよとばかりに「待って」「わたしも連れて行って」と繰り返し叫んだ。しかし、はるか遠くから繰り返し聞こえる雷鳴のような地響きにかき消され、わたしの声はわたしにすら聞こえないのだった。わたしは背にしていた舟からずり落ちるように浜の上に倒れこみ、そのまま短い距離を這った。砂を蹴り上げ続けるラクシアの脚が視界から消えるには、わずかな時間しかかからなかった。
 山からはラクシアが登るよりもはるかに早いスピードで、恐ろしい色をした雲が降りてきていた。
 そこから逃れられる人間がいるとは思えなかった。
「マズ様」
 わたしは囁いた。「ラクシア」「マァザヌ」「リグヌ」と、次々に人の名前を呼んでいった。最後に「ポス」とわたしが呟いたとき、あの恐怖の雲はわたしのいる浜の切れ目まで迫っていた。稲光がぱちぱちとその先頭で鳴る音が聞こえた。
 そのとき、まるで見えていなかったものがとつぜん見えはじめたかのように、目の前にポスがあらわれた。ふうーっ、と膨らませていた頬から息を吐き、滝のような汗を拭いもせず、ポスは降りたときに巻き上げた砂が落ちるよりも前にわたしを抱き上げた。次の瞬間には、わたしは空にいた。
「ポス」
 わたしは強い風の中呟いた。ポスを見上げようとしたけど、その力はなく、ただあおいひかりの残像だけが目の中にひらめいていた。
 火山は大きく形が変わり、その中央からはどろどろとした火が吹き出して広がりはじめていた。わたしがいた浜はすでに赤黒い雲に覆い尽くされ、ほかの浜や港街も覆い尽くされるのは時間の問題だった。海にはたくさんの黒い点が見えていた。その中のどれかがひょっとしたらラクシアの頭なのかもしれなかった。ああ、とわたしはこころの中で呟いた。沖から押し寄せた波が雲とぶつかり、激しく立ち昇る巨大な壁を作ったのだった。その衝撃が周囲に広がっていくと同時に、ほとんどすべての点が消えた。やがてわたしたちの高さは天球に近づき、何も見えなくなった。もっとも厳しい冬よりも遥かに冷えた海で、わずかに海上に残ったひとびともやがて凍え死ぬだろう。
 わたしはわたしを抱いているひとをやっと見上げる。
 その翼は天海をすべて凍らせたときに生まれる大氷山のように神々しく広がり、あらゆる星ぼしをかけあわせたかのように万色のひかりを帯びていた。ポスは玉座に座るものにふさわしいようすでわたしを抱えていた。出会ったころよりもずっと精悍な顔つきだった。ただ浮かべられた表情だけが、何も得ることのできなかった敗者のものだった。ポスとマズがどのように太陽を動かし、なぜ失敗したのか、詳しくはわからなかった。ただ、わたしがいなければ、ポスがこのような地獄の最果てに落とされはしなかっただろうということだけはあきらかだった。
 やがてわたしたちは帝星に戻った。ポスはわたしを天海にそっと横たえ、星にうつぶせに寝転ぶと、わたしの身体が地上へと落ちていかないように両腕で支えた。
「マズは死んだ」
 ポスはひとことだけ言った。わたしは頷きも、首を振りもしなかった。ポスが背にしているのは世界の破滅だった。今や地殻のあらゆる部分がごうごうと燃え、地上の海は蒸発し、逆に天海は冷たくなりつつあった。世界炉が破壊されたせいか、周囲では星が天球から抜け落ちはじめていた。あの陽気にポスに話しかけていた天体使いはどうなっただろうか。
 ポスはわたしが死ぬのをこのまま見守るつもりのようだった。わたしは指先や背をちいさな魚が食べているようなわずかな揺れを感じていた。ポスはそれに気づいていないように感じられた。
 最早何もかもに耐えられなかった。
 わたしは口をひらき、ポスに「殺して」と囁いた。
 ポスはしばらく無表情のままでわたしを見ていたが、やがてゆっくり袖で顔を隠した。
「リグは」
 と呟いて、「ぼくと旅に」と続けたあと、言葉はぷつりと途絶えた。しばらくそのままでいたあと、かれは長く深い呼吸を一度だけおこなって、わたしの最後の願いを聞こうと、わたしを海中へ向かってぐっと勢いよく沈めた。
 わたしは自分の口が海中へと沈む瞬間「食べて!」とはっきり叫んだ。
 まるであの空中でポスに自らの指を食べさせたときのようだった。そうしてかれに食べられてしまえば、わたしの生には意味が生まれるのだった。だが、乱れる暗い水面を透かして地上の巨大な炎が形を変えているのを見つめているうちに、その最後の願いすらありえない過ちなのだとわたしは気づいてしまった。わたしのような人間が、これ以上偉大な天体使いの霊肉となって良いはずがなかった。
「やめて……」
 とわたしは海中で呟いた。
 すべては遅すぎた。巨大なフカの口があらわれたとき、最早わたしには抵抗する力さえ残ってはいなかった。そうしてわたしの死は、暗闇と泡の中で音もなく与えられた。

 * * *

「あまりいじめないでくれませんか」
 と背後から声がかけられたので、わたしはそっと振り向いた。何もかもが何百年も毎朝磨き抜かれた銀でできているようなこの船室において、彼女こそがもっともうつくしい光輝だった。以前出会った時の不格好な服とは異なり、身体にぴたりと合うまっしろな服を着ていた。その頭には冠も覆いもなく、梳いたばかりのようにすとんと落ちた銀髪だけが彼女の頭部を縁取っていた。
 スァン様は片手に水の入ったガラスの盃を持っていて、わたしにそれを手渡そうとした。わたしの焼け焦げた皮膚はすっかり元通りになっていたけれど、欠けた指がそのままになっていたことには盃を受け取ろうとしたときにはじめて気づいた。わたしはひどく冷たいそれを両手で慎重に受け取った。彼女はそのままわたしの横に立ち、目の前の水槽をじっと眺めた。
 わたしが船室で目覚めたとき、最初に目に入ったのがこの水槽だった。壁の一面を覆う巨大なそれには、一匹の魚が入っていた。もっとも、淡水魚をトカゲとかけ合わせ、背中に蛸の触手を数本生やしたような生き物を魚と呼んでいいのかはわからない。とにかくその姿形とは裏腹に、かれはとんでもなく優美に水槽のなかを泳いでいたので、わたしはこの寝室で起き上がったあとまっすぐに水槽に向かって歩き、とんとんと指先で二度、その壁面を叩いたのだった。
 スァン様の横顔が描く完璧な曲線をわたしはぼうっと見つめる。
「スァン様が助けてくださったのですか」
 わたしは囁いた。
「私の唯一の友人なんです」
 と彼女はこたえた。
 そして、こここん、こん、とやさしく水槽を叩いた。わたしが叩いたときと何が変わったのかはわたしにはわからなかったが、魚は口を動かし、とこん、と返事を返した。
 わたしが魚を見つめていると、スァン様はわたしの顎に指をかけた。穏やかな雨のようにやさしい口づけが降りくるのを、わたしはわずかな間だけ受け容れた。
「む……」
 戸惑いの叫びがあらわれ、スァン様は離れた。わたしに食い破られた下唇から、赤い血が滴り落ちていた。スァン様は指先で傷口に触れ、痛みを確かめるように何度か押し込みながら、問いかけるような視線をわたしに投げかけた。わたしはそれにこたえなかった。やがて彼女は一度だけ頷くと、そっと部屋を離れ、外の階段から上へと登っていった。わたしは彼女からもらった盃には手を付けず、壁と一体になるように配置された卓にことりと置く。それから数歩だけ彼女のあとを追い、一瞬魚のほうを振り向いたあと、口元を拭い、階段を登った。
 外に出る。
 眩しかった。
 太陽が復活したのだ。スァン様の銀いろの舟は、かつてのわたしのぼろ舟のように天球に張り付いている一方で、わたしはなぜか床にただしく立っているのだった。太陽はちょうどわたしたちのすぐそばにやってくるところだった。その輝かしい圧倒的なひかりに胸が高鳴り、わたしはスァン様を見上げた。きっとわたしが眠っているあいだに、スァン様がすべてを救ってくださったのだ!
 スァン様は「あれがアェレフ。あなたが帝星と呼んでいた、この宇宙の主星です」と、太陽を指差し、短く言った。
 わたしは何を言っていいかわからず、口をただ二度、三度と動かした。それから天球を、ぐるりと見渡した。宇宙の形状そのものはもとの世界とほとんど変わらなかったが、大地のようすだけが違った。世界の中心には小さな水の球があり、その表面の数割ほどに緑いろをした地面が張り付いているようだった。距離がわからないので、その球がどれくらいの大きさかはわからなかった。
「あなたたちの太陽はここからは見えづらい。先ほどまでは全天でもっとも明るく輝いていたけれど、もうかなり暗くなってしまいました」
 スァン様は天球の一点を指差して言った。わたしはその指の先を探そうとしたが、彼女が腕をすぐに下ろしてしまったので、しばらく星ぼしを見つめたあと、彼女のほうを振り返った。
 ここはわたしのいた宇宙ではないのだ。
「私たちが住まうこの宇宙は多元の泡です。私やあなたたちのような生命の群れにひとつずつ与えられた宇宙は、互いの主星とその天体使いの写像をそれぞれの天球上に持っています。彼らは本質的に不可分だ。あなたの宇宙の不動の星と、天命に真摯な天体使いのポスのように」
 スァン様ははっきりとした声でそう言うと、わたしを振り向き、「あなたはただしいゲートを通って泡を渡った。やはりリグさんには、運があります」と微笑んだ。
 背中にびっしりと汗が浮いているのがわかった。スァン様の声の響きはやさしく、その言葉は端的に多元宇宙の真理を教えてくれていた。わたしはすべてを理解できた。だが、わたしは突然広がった視界のなか、ほかに自分の宇宙に属するものもなく、ただひとりきりで孤独に立っているのだった。
 わたしはすうっと息を吸い、聞くべきことを聞こうとする。
「わたしをどうしたいのですか」
「私と一緒にいていただけるのであれば、自由にしていいですよ。この舟も勝手に動かしてしまって構いません」
「わたしはわたしの宇宙に戻ります」
 とわたしは宣言した。
「何のために?」
「ポスに会うためです」
「この宇宙にもポスが居ます。アェレフの天体使いとして」
 スァン様は主星を指して言った。わたしは即座に首を振り、「元の宇宙のかれに会いたいんです」とこたえる。
「間に合いません」
 と彼女は続ける。
「わたしの舟があなたたちの宇宙に到達するまでは五年ほどかかります。あなたの宇宙の泡が弾け、なにもないのと同等になるまでは一年もないでしょう」
「太陽の天体使いにこの身を捧げて、移動します」
 スァン様は頷く。
「確かに、ゲートは舟より早い。しかし、あなたの宇宙の天体使いが業力の制御に失敗して太陽を砕いたとき、この宇宙でも太陽の天体使いが流れ落ちました。他の宇宙でも同様です。それにあなたが人の身で戻ったところで、あの宇宙の環境には最早耐えられない」
 噛み締めた奥歯が、みし、と鳴った。痛みもないのに、繰り返し胸を刃物で刺し続けられているような不快感があらわれ、「あなたは」とわたしはひとこと言ったあと、落ち着くために一度深呼吸をした。
「あなたは、わたしの宇宙がいずれ崩壊するとわかっていて、わたしに業然機関を教えたのですか?」
「それ以外にあなたが救われる方法がありましたか?」
 わたしは「は?」と聞き返した。
「わたしはあなたを救いたかっただけなんです。ほんとうに」
 スァン様は囁くようにこたえて、微笑んだ。わたしに対して無償の施しを与えんとするその瞳の奥に、彼女自身に救いが与えられることを求めるかのような隠されたひかりがあった。
 わたしは突然神人たちによって偽王が立てられた意味を完全に理解した。
 スァン様にとって、わたしの島や宇宙の行く末なんてどうでも良かった。彼女はきっとその言葉通り、ただ目の前にいる哀れな少女を救いたかっただけなのだ。スァン様は永遠に全宇宙を彷徨う美らびとだ。行く先々でわたしに対して発したような善意を放ち、それが世界を滅ぼす災厄の源となっているのだった。彼女にとって、わたしたちは彼女自身を救済し続けるための苗床なのだった。
 わたしは顔を覆い、頭を抱え、その場でよろけて船体にどん、とぶつかった。彼女はわたしと完璧な相似形を作っていた。ただ傲慢に短い手を差し伸べて、周囲のすべてに破滅をもたらしていた。わたしはそれをもう二度と繰り返してはいけなかった。わたしは顔の皮膚を破る寸前まで力の込められた指の隙間から、眼球を裏返すかのように彼女を見上げた。スァン様は、裂けた唇と、その薄い表情にかすかな気遣いを孕んで、わたしに致死的な毒の込められた指をやさしく伸ばそうとした。わたしはそれを振り払い、冷たい目で彼女を睨みつけた。
 わたしと彼女、全多元宇宙でもっとも恐ろしい二人の魔女は、そうして見つめ合った。
「かれこそが救われるべきです」
 とわたしはこの地の主星をまっすぐに指差して言った。
「かれは不動の星の天体使いとして生まれ、その重責にひたすら耐えていました。わたしは」
 すっと息を吸う。
「わたしに、救いが必要だとは思わない。もちろんあなたにもです。でもかれは違う」
 言葉を切った。すぐ近くの天海をアェレフが通過しようとしていて、スァン様の舟はぐらぐらと揺れた。時間がなかった。わたしはこの女と自分の毒を利用して、ポスの孤独を救う方法を今すぐに探し当てなければならなかった。わたしはわたしに与えられるあらゆる役割とわたしから生まれるあらゆる欲求から離れ、かれがただ存在しているというそれだけの事実を愛せるように自分を作り換えたかった。
 わたしは絶対にあの世界が終わるまでかれのもとに寄り添い、かれの旅路を支えるのだ。
「わたしは星になる」
 とわたしはスァン様に囁いた。
「わたしがかれのように星になり、その身に天体使いを纏えば、わたしはかれと対等に存在できる」
 わたしが言い終えると、スァン様はひと呼吸ほど考えた。
「私はあなたを星にする」
 と彼女はこたえた。
「主星は業量のかたまりです。多元宇宙の主星たちの業量をあなたに注ぎ込み、アェレフの連星にする。その写像は、あらたな星とその天体使いとして、すべての宇宙に姿をあらわすでしょう」
 わたしは「やり方を教えて下さい」と言った。

 * * *

 連結連星の大気は完全に接触し、手をつなぎあうように一体だ。それと同じように、わたしの左手は生まれたときから兄の右手と癒着し、結ばれていた。わたしたちはお互いが守る星をよく行き来して、寝転び、作り話をしてお互いを喜ばせた。宇宙はまっくらで、冷えていきつつあったけど、二人でいれば怖くはなかった。
 わたしたちがいちばん好きなのは、二人で手をつないだままうつぶせになり、二つの星が接触している合間から海底を見つめることだった。そこにかつて暮らしていた星さんごの作りあげた礁が、未だにぼうっと光っているのだった。
「すっかり死んでしまう前、喋れないかれらを友人に見立てて、ずっと話しかけていたんだ」
 と兄は言った。
「喋れない相手とお話してて、おもしろい?」
 わたしが聞くと、兄は笑い、わたしのあたまに手をのばしてくしゃくしゃと撫でながら、「そこにいるということが大事なんだ」とそっと言った。兄がそうしてわたしに触れるのは、心地良くて好きだった。
 やがて世界炉の火は完全に落ちた。わたしは「消えてしまった」と言い、周囲をぐるっと見渡した。もはやこの宇宙にわたしたちのほかにはひとつの星も残っていなかった。ざあざあというわずかな波音だけが世界にひびいていた。兄だけはその身体に輝き続けるための薪をたくさんためこんでいたから、かれの元であたらしく生まれたわたしもきっと最後の天体使いになれたのだった。
 わたしはそれが誇らしかった。
 わたしたちは星の上に立ち上がり、茫漠とした暗黒に身を任せた。わたしたちの仄かな赤いひかりも、そのうちこの闇に溶けていくのだ。
「何をしようか」
 兄が言った。
 かれがそうして逡巡するのを見るのははじめてだった。わたしのこころはみるみる弾んだ。かれの肩を引っ張って、耳打ちをした。
「踊ろう」
 わたしの囁きに、かれは短いあいだ意外そうな顔をした。そして顔いっぱいに笑みを浮かべ、それからわたしの右手を取った。わたしたちは手を取り合って寄り添い、円を描いて踊りはじめた。ふたつの星の上でくるくると回転しながら、笑い合い、踊り続け、翼を広げて宙を舞った。
 きっとこの宇宙が終わっても、わたしたちは永遠の円舞を続けるのだ。
 わたしにはそのことが、手に取るようにわかった。

文字数:43267

内容に関するアピール

がんばりました。

文字数:8

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