借りてきたネコは恋をする

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借りてきたネコは恋をする

 

 生ぬるい空気が心地よい昼下がり、白衣の男は茫洋として、自然豊かな裏庭の借景を眺めていた。
 観客を意識して彩ったかのような木立の茂る山側の斜面は、そのまま三色の落ち葉たゆたう池に切れ込んで深い。
 ちいちいと聞こえる小鳥のさえずり、二匹のネコがそっと足音を忍ばせて歩き、一匹は水面に影を落とす一方、もう一匹は梢の高みを眺めて何事かを待ち受けているようだ。
 つぎの瞬間、パッと跳ねるようにネコたちが左右に分かれ、そのまま木立の彼方へ消えた。
 代わって視界を埋めるのは、ネコ耳のアクセをつけた女子生徒が、ネズミみたいな顔をした男子生徒を追いかける近景。
 大自然の営為にかぶさって、騒がしい校内の昼下がりが上書きされる。
 ネコ娘は、ネズミ少年をつかまえ、一発殴って放す。あわてて逃げ出したネズミ少年を追いかけ、再びつかまえて殴る。
 ……これはイジメだろうか。一瞬考えてから、白衣の男は首を振る。いや、これはだ。
 ネコは、たわむれに獲物をいたぶる。
 遊びで殺す、ということができるのは人間だけではない。シャチもイルカも、そうやって狩りの腕を磨く。これが「自然状態」というものだ。
 にゃん、とネコ娘が笑う。視線が合った気がしたことを忘れようと心に決め、白衣の男は部屋のカーテンをさっと閉ざした。
 きょうの第三西東京総学校も、平和なはずだ。

 彼女はまず進路指導室へ連行され、それから隣の保健室へと引きまわされてきた。
 先にやってきていた男子生徒が、養護教諭から傷の手当てを受けている。つづいてやってきた学年主任の説教と、ぶーたれているらしい女子の気配。
「聞いとんのか、森塚!」
「途中まで聞いてましたー」
「指導ォウ!」
 竹刀で床を殴りつける音。なだめる養護教諭。
「まあまあ、吉永先生。ネネちゃん、もう根津くんをいじめるの、やめてあげてね?」
「えー? だってそいつ、ネズミじゃん」
 森塚という女の声に、根津という男の声が返る。
「ネズミじゃない、齧歯類だ、言っとくが哺乳類のなかでは、いちばん栄えてるからな」
 ビーバーやカピバラなど、多くの小型哺乳類が齧歯類に分類される。
「じゃあ、一匹や二匹ぶっ殺してもダイジョブだな」
「こら、森塚!」
 そんな隣室でのやり取りを、黙って推し量る白衣の男。──要するに食物連鎖だ。
 根津という男は文字どおりネズミの遺伝子からいて、森塚という女はネコ科の遺伝子から借りている。
 ピラミッド構造は生物界の宿命だ。下位のものは、上位のもののエサとなり、そこに整然たる秩序が形成される。
 この美しい連鎖を、できるだけ保とうと、人類は決めた──。
 ゆえに進路指導の主任から、人類の「道徳」という観点からこんこんと指導を受けても、
「これが自然なんだから、しょうがないにゃん?」
 女子高生にしてはハスキーボイスで、悪びれず応答できる。
 たわむれに獲物をいたぶるネコの遺伝子を、彼女はこの地球という「量子渦」から借りてくることによって、産まれることを許された。
 二十二世紀。
 ヒトはもう、ただヒトであるという理由のみによって、地球上に生存する権利を半ばまで喪失している。
「それより主任」
 養護教諭の声につづいて、小声で交わされる会話は、隣室までは聞こえなかった。
 これは保健室で解決されるべき案件で、この保健準備室まで持ち込まれるべきではない。彼のそんな逃げの姿勢を打ち破るかのように、がらりとドアが開いた。
「千葉先生。よろしくお願いします」
 白衣の男は、先生と呼ぶな、と思ったが黙っておいた。
 ただのSCスクール・カウンセラーも、校内では「先生」でまとめられることが多い。
 努力してにこやかに、如才なく、ネコ娘の首根っこをつかまえてやってくる、三年生担当の進路指導主任に会釈を返す。
「どうかしましたか、吉永先生。……やあ、はじめまして」
 さっき目線が合ったことに気づかないふりをするSCを、ネコ娘の瞳孔が見透かしたように細まって嘲弄する。
 互いを値踏みする視線は、捕食者のそれか、あるいはただの観察か。
 ──本校には一応、制服があるが、ここまで着乱すくらいだったら最初から私服でいいんじゃね? と突っ込みたくなるような個性的ファッション。
 古着の寄せ集めを思わせる原色の彩りでパッチワークされた生地は、エキセントリックな三毛猫オマージュか。野性的に爆発した茶トラに染まった髪の毛に、似合っているのかわからないネコ耳カチューシャ。ヒゲつき鼻ピアスと、とがった耳毛ピアスの組み合わせは正気を疑う。手足に装備されたフェイクファーの肉球ボンボンには、正味の攻撃力がありそうでおそろしい。
 嵐を呼ぶネコ娘を中心に、保たれていたSCの平和な学校生活が、しばしかき乱される。

 保健準備室。
 保健室の隣にあるこの部屋に仮寓して、スクール・カウンセラーという職責を担い、一年ほどになる。
 学校側でも生徒側でもなく、中立の立場で校内の秩序を保つ仕事。
 職業上、ここにやってくるのは、問題児が多い。
 ──最初は「被害者」だと思っていたが、どうもこのネズミ少年にも問題が多そうだ。
 SCはため息まじりに、新たな「患者」を診察する。
 見た目はハンパなラッパー、前時代的にいえばチーマー。
 学ランぽい上下に変な刺繍、どこぞのマウスかパパかという変形リーゼントの髪型は高さがあるが、生来の小柄をカバーできてはいない。旧制度に照らせば、イキった中坊が新天地で高校デビューといったところか。
 もちろん昨今の教育方針として、総学校にはさまざまなレベルの生徒を集め、多様な人間性の生成に寄与すべし、というフレームワークが推奨されている。
 SCは、小柄なネズミ少年のワルぶった口調に辟易しつつ、その所業を脳内で整理した。
 バッグにカエルを入れてやった。足元で爆竹鳴らしてやった。スカートめくってやった。
「コドモか。そりゃ殴られるだろ。なんでそんなアホなことをする?」
 わるいのはネコ娘と言いたいところだが、いや、現に暴行の加害者はネコ娘ではあるのだが、毎度このネズミ少年が原因をつくっている気がしないでもない。
「ネコは敵だからだ! おれはネコの首に鈴をつけるんだ」
 ネズミにとっての宿敵、ネコ。その首に鈴をつけることは、かの齧歯類一族にとっての悲願であるらしい。
「……そうか。おまえは英雄になりたいのか」
 べリングキャット。この矛盾をはらんだイディオム。
「ちげーYo! おれの友達はだいたいワルそうなやつだし」
 ワルぶる子どもたちにとって、正しいことはカッコわるい。この手のクソガキが、いわゆるバイトテロを起こす。それがどれだけアホらしい行為だとわかっていても、仲間内でヒーローになれることのほうが、価値が高いからだ。
 つまり、こいつもドアホなのだ。
 SCは深く嘆息した。
 人類の愚かさを、これ以上教えてくれなくてもいいんだがな、人工超知能(ASI)さんよ。
「わかった。ともかく訴える気はないんだな」
 SCという職業柄、問題が解決せずとも広がらなければ、まあ及第点である。
「そんなカッコわりーことすっかYo! あのネコにはいつか思い知らせてやんよ。勝負してやっかんな、おう、邪魔すんなよセンコー!」
 小柄なネズミ少年が、偽悪的な所作で壁を殴りながら部屋を出ていく。
 ほんとはいい子なんだろうな、と思うが信用はしていない。
 すべては生物の本能に根差した問題だ。

「よう、聞いてんのかよ、おっさん」
 その酒に焼けたようなかすれ声は、昼間から聞き飽きている。
 ネズミ少年とともに、問題当事者であるネコ娘に対する「指導カウンセリング」を学年主任から丸投げされたのは、ついさっきだ。
「おっさんじゃねえ。俺はまだ二十代だ」
 乱暴に応じる。SCの言葉遣いは、正確に相手を選ぶのだ。
「あたしから見りゃ、じゅうぶんおっさんだよ」
 認めざるをえない。一回り下、年限4ネンヨン(高校三年相当)、十七歳という恐ろしい年ごろの女をまえに、SCは手元の面接用紙をめくりながら問いを向けた。
「で、どんな問題を抱えてるんだ?」
 ネコ娘はぶーたれたように椅子をまわしながら、
「だから言ってんだろ。あたしは恋をしているんだよ」
「……あのネズミにか」
 憤然と立ち上がり、落書きだらけのクリップボードを蹴り飛ばすネコ娘。
「やっぱりちっとも聞いてねえな、てめえ!」
 SCは軽く肩をすくめ、
「そうイラつくな。月経か?」
「セクハラじゃねえのか、それ」
「並の相手ならな。発情期のネコとなると話は別だ」
 あらためて、目のまえの女生徒を眺めた。
 彼女の遺伝子は親からもらったものだが、そもそもの受精段階において、ネコ科から「この世に生まれる権利」を借りた。
 すべからく、ネコ科と恋に落ちるべきなのだが、どうやら彼女は異種族に恋をしているらしい──。
 放課後、あらためてやってきたネコ娘の「案件」は、たしかに「要カウンセリング」と認めざるをえなかった。
「おめえよ、そんなんで心の弱った少年少女の悩みとか受け止められんのか? スクカンだろ? むしろ助けを求めてきた気の弱い保健室少女、自殺に追い込んだりしてねーだろうな」
「鋭いことを言うな、アホな子のくせに。そもそも、おまえらのような頭のわるい連中が、気の弱い少年少女をイジメないでくれれば、俺たちの仕事も減って助かるんだ」
 ネコをかぶるのはお互いに趣味ではない、という合意だけは速やかだった。ざっくばらんに、友達感覚で解決に取り組んでいるんです、的な言い訳の余地は残している。
「おい、人のせいにすんじゃねーよ。で、あたしの恋は実るよな?」
 ネコの少ない脳みそには、自分のことしかはいらない。
「ああ、残念ながら資料を読んだ。あきらめろ」
「ざけんなテメエ! 教育委員会に訴えんぞ!」
 もちろん女子高生が宣うコイバナだのカレシーだのいう話に、おとながまともに付き合う必要はないわけだが、残念ながら今回の件については「教育委員会案件」でもある可能性は否定できない、と判断された。
 困ったように視線を交わす進路指導教師と養護教諭の態度には、それなりの意味があったわけだ。
 彼女は、植物男子に恋をしている……。

「植物学者のオヤジがさ、よく言ってたよ。悔しかったら光合成してみろ、ってな」
 われわれは植物さまのうえに生かされている、ちっぽけな存在なんだ、と父は言いたいらしかった。SCの言葉に、細面の男子は人畜無害にほほえんだ。
「よく意味はわかりませんが、C4回路についての生体導入は進んでますよね」
 年5ネンゴの植物男子は、上級学校と就職を同時に選択した。
 ここは進路指導室ではないが、もちろん生徒たちの重要な悩みのひとつである進路について、SCが相談に乗るのは当然である。
 専門的な学問を学びながら、その知識を必要とする職場に就く。
 植物男子の選んだ進路は、とても冷静で正しい。
 SCは静かに彼を見つめる。
 たしかに女にモテるだけの「やさしいマスク」をしている。すらりとした体躯だが、大木のような力強さも兼ね備えている。肉食系のガツガツしたところがなく、まさにインテリの風貌だ。
 ──ネコ娘の気持ちも一応、理解はできる。
「昔から、ミドリムシという、動物のくせに光合成のできる生物はいたわけだが」
「いまや植物以上の効率で、人工光合成はできるようになっていますよ」
「機械にやってもらうのと、自力でやるのじゃ、まったく意味がちがうさ」
 現在、多くの生物の「能力」を、人間が取り入れて活用する時代になった。
 この「交雑」は、神の御業のように表現されることもあるが、じっさいのところ、単なる生物進化にすぎない。
「やっぱ、いちばん重要ですよね。進化論の部分は」
 手元の電子ペーパーをめくる植物男子。
 校内での電子デバイスの使用は基本的に禁止されているが、表示に特化した一部の電子ペーパーについては許可されている。
「スヴァールバル目指してんだろ? まあ欠かせないな、遺伝生物学は。悔しくなくても光合成してみせてくれよ」
 植物男子は、緑に近い艶やかな黒髪を、さらりとかきむしった。
 ──われわれの身体には、あってもなくてもいい機能がたくさんある。
 光合成は、きわめて複雑な回路だが、これが突然、共時的に発生したとは考えにくい。しかし葉緑素などの色素や、明反応、暗反応など、個々の機能の発生は、さほどむずかしくはない。
 それらが中途半端なまま、ジャンクDNAとして温存されたとしたら。それだけでは役に立たない機能も、多様な選択肢のひとつとして蓄積される事実は、きわめて重要だ。
 あまりに致命的なものは当然死滅するだろうが、たとえ役に立たなくても、生きることの邪魔にならなければそのまま残される。役に立つことはもちろん最優先だが、どうでもいいからこそ残される、といったことのほうが多かったはずだ。
 それらが、ある日突然、複雑に絡み合って、はじめて光合成という結果に結びつく。
「知れば知るほど、ぼくたちは地球の子孫、と感じますよね」
 結果、成すべきことも見えてくる。こういう青年こそ、次世代を担うべき「人類」だ、とSCは思った。
「われわれは、より確からしい知識を、正しく受け継がなければならない。誇るべき仕事だと思うね。ようこそ、こちら側へ」
 人類が共有すべき深い知識は、SCから植物男子へ。
 進化は、その準備が整った場所で、突然にやってくる。
 あるとき光合成を開始する個体が現れ、周囲にある大量の材料を消費して酸素を製造しはじめた、というシナリオが正解に近いというのが昨今の理解だ。
 生命にとって危険でなければ、役に立たない機能でもとりあえず温存され、あるときそれらが組み合わさって、突然に飛躍的な性能を獲得する。徐々に蓄積された進化の種がなければ、ブレイクスルーは発生しない。
 ジャンクDNAとは、きわめて重要な進化の種なのだ。
 その複雑怪奇な無数の種を、最大限に活用しなければならない時代が、やってきた。

 二十一世紀半ば、人類は意外な方向から、絶滅の危機を迎えた。
 現代史と生物学、および人工知能論の授業で使用されるテキストから引用すると、「渦的不妊症候群」なる量子力学的影響により、ヒト遺伝子の繁殖はバイオスフィアからリジェクトされるようになった、らしい。
 地球には、百数十万種の生物がいる。どこからどう定義するかという問題はあるが、とにかくたくさんいる。
 ヒトはあきらかに、この地球の「支配種」となった。が、だから他の生物を絶滅させていい、と神さまから太鼓判を押してもらったわけではない。
 むしろ神さまは、人類に「やりすぎだよ」という警告を発した。
 そっと押しもどす神の手と呼ぶには、やや乱暴な方法で、われわれに「己が分際をわきまえる」よう示唆した。
 ──不妊である。
 古今東西、人類の絶滅を描いた「終末モノ」は数かぎりないが、核兵器や宇宙人などに登場してもらわずとも、ごくシンプルな方法がある。
 妊娠させなければいい。
 それだけで、たった百年足らずで絶滅してしまうほど、ヒトとはもろいシステムなのだ。
 現に、二十一世紀半ばの五年間の出生率は、極端に低い。現在、五十歳前後の人口が著しく少ないのは、そのためだ。
 なぜ、そのようなことになったか。
 当然のように、世界中の科学者たちが英知を結集し、最優先で研究した。
 導かれた結論は──生命は「渦」である、ということ。
 宇宙のあらゆるところにある「渦」は、生命についても同様に定義できる。
 世界を支配するエントロピーに当てはめると、非常にわかりやすい。
 たとえば水槽に垂らした一滴のインクは、待っているだけで均一の乱雑さにたどり着く。生命とは、そこに発生した渦のようなものだ。渦が増えれば増えるだけ、インクが混ざるのが早くなる。
 シュレーディンガーが指摘したとおり、生命は負のエントロピーをもった存在だ。
 宇宙は、必ず死ぬ。気が遠くなるほど先の話ではあるが、熱的死という最終局面が必ずやってくる。エントロピー増大の法則、あるいは熱力学第二法則に従って。
 その途中にある生命という渦は、宇宙の死をわずかに早めることになる。
 われわれは外部からエネルギーを取り入れて、一見、秩序正しい生命という機構を形作っているが、結果としてより多くの無秩序を排出しなければ成立しえない存在だ。
 生命というあだ花は、どこまで保存されるべきものだろう?
 おこがましく表現するなら、宇宙の秩序に挑戦していた人類への答えは、シンプルな「絶滅」という最後通牒だった。
 悠久の問題をまえに、ヒトは滅びを覚悟した。
 そのときだ、われわれを救う救世主が登場したのは。
 ──人工超知能(ASI=Artificial Super Intelligence)。
 当時、シンギュラリティを迎えてまもなかった人工知能は、一挙に「ASI」へと飛躍した。
 仕事を奪われるなど低レベルな危機意識むきだしで、その発展を危惧し、阻害する側にまわる人類も多かった。
 しかし結果は、おそろしく皮肉な形をとった。
 みずから滅びに向かう人類に救いの手を差し伸べたのが、そのASIだったのだ。
 人間には不可能な計算力を結集して築かれた「量子渦理論」によれば、人類はすでに種としての量子存在を「消費し尽くした」らしい。
 秩序正しい生命というエントロピーは、すなわち量子の渦である。
 必ず無秩序へとむかう宇宙の摂理がみせた、泡沫の夢。その寿命が尽きた。滅びるしかないのか? いや、まだ手はある。。ならば、それらの生物に割り当てられている「量子渦(=魂)」を「借りてくる」ことはできないか?
 一定の到達点へいたったゲノム編集技術によって、他の生物がもつ遺伝子を、人類のゲノムに挿入する方法が確立された。
 ヒトの生殖細胞のジャンク部分に、他の生命の遺伝子を上書きする。
 と、驚くべきことに、人類は再び繁殖が可能となった。
 他の生物種の、ヒトは、わずかにその寿命を延ばしたのである。

「だからな、おまえはネコ科の動物に、植物男子は植物界の皆々さまに、貴重な生命を借り受けて存在しているわけなんだよ」
 頑是ないコドモに語り聞かせるように、SCはネコ娘に説教をくれたが、目のまえにぶんむくれているアホづらを鑑みるまでもなく、2%も理解はしていないだろうと思われた。
「関係ねえよ。愛にとっては」
 なにが「愛」だ、ばかばかしい。
 SCは吐き捨てた。もちろん愛という言葉の意味は広いわけだが、多用される卑近な例でいえば、要するに「互恵的利他の発展」だ。自分が相手の役に立ち、相手が自分の役に立つことで、互いに利益を得られる関係は、当然に維持したい。
 なぜ私たちは近くにいるの? 愛してるからだよ。
 とても理解しやすい。本来、愛とはこうあるべきだ。
 もちろん、無償の愛とか人類愛とか、発展形態はいろいろある。しかし基本は、互恵的なのだ。
 これが一方的になってしまうと、問題が生じる。
「そもそも相手の気持ちは確認したのか?」
「だからおめーに相談してやってんだろうが。ミノリくんと、たまに話してんだろ」
 ああ、とSCは短く嘆息した。
 ミノリくんといえば、裏庭からつづく植物園で、日々、熱心に部活動にいそしんでいる、とてもまじめな植物系の男子生徒だ。進路相談にも乗っている。
「それで、俺に確認しろと?」
「もうちょっと踏み込んでもいいぜ。男と女、子孫繁栄だ」
「黙れケダモノ!」
「おまえが訊いたんだろ!」
 一方的に、相手を自分の繁殖に利用したい、という野生動物の考えに「愛」はないようにみえるが、種としてはまちがっていない可能性もある。
 この場合、コストの問題に還元されるかもしれない。産卵や出産など、メスがコストを負う蓋然性は高いから、このネコ娘の選択は比較優位なのか? いや、だが待て、こいつに捕まったオスは頭から喰われる可能性があるぞ……。
「おい、おまえいま、ものすごく失礼なこと考えてるだろ」
 ネコ娘が瞳孔を細め、ギラリと爪を立てている。
「見透かすな! ……いや、そもそも問題がズレてるんだ。異種交配は推奨されていない、ってことくらいは知ってるだろうが。子孫には再インストールが必要とされるからな」
 ネコと木は交配できないため、ネコ娘と植物男子の結婚は、ネコ科にも植物界にも進化的に貢献しない。
 つまり彼らの子どもは、されることになる。
 だが、不可能でもない。
 このあたりに、ASIのやさしい配慮を感じさせられる。
 人間は自由意志で、好きな相手と結婚してもいい。だが、自分たちが何者であるかをよくよく理解したうえで、できるだけみずからの意志で、最善の選択を期待する。
 それがASIお得意の口上だ。
 彼らは人類に、ああしろとかこうしろとかは、けっして言わない。ただ、自分たちで考えて最善を選んでほしいと宣う。
 ──われわれは、他の生物種から命を借りている。
 だから、たとえばネコ科から借りている人は、自分の遺伝子上にネコ科の繁殖をシミュレーションしてあげるのが、道義的責任であり倫理的義務である。
 彼らが同じネコ科同士で結ばれることで、絶滅に瀕するネコ科が繁殖したのと同様の「量子渦」が発生する。これはネコ科全体にとって、ベストではないがベターな事象である。
 五十年前、子どもをつくりたい夫婦に遺伝子診断のうえ与えられたのは、一部の染色体を書き換える薬物ベクターだった。
 それは、夫婦の生殖細胞にのみ作用した。
 人間の体細胞の遺伝子を全部を改変することは困難だが、生殖細胞に変更を加えることは、さほどむずかしくない。
 極論すれば、変更を加えるのは「たったひとつの細胞」でいい。
 この生殖細胞のみに変更を加えた親世代を、第零世代(ゼロベース)と呼ぶ。
 現在、五十歳以上の世代で子どもがいる人は、ほぼ全員がゼロベースだ。旧世代とか前人類という呼び方もある。
 ゼロベースから生まれたのが、その薬に含まれた生物種の遺伝子を生まれもった第一世代(ファースト)だ。ゼロベースの繁殖には薬物の摂取が不可欠だが、第一世代同士になると薬物が必要なくなる。そのため「自然な繁殖」とみなされ、政府からの援助も大きい。
 そうして第二世代(セカンド)になると、ある種のエリート意識さえもちはじめる。この技術が普及して半世紀がたち、第三世代(サード)と呼ばれる子どもたちも増えてきた。
「サードチルドレン、なんかかっけーよな」
 手元の資料によると、このネコ娘は第二世代にあたる。
「それだ。親に申し訳ないとか思わんのか。せっかくセカンドまでしてもらったのに、ゼロベースに逆もどりなんだぞ」
 ネコ科同士であれば、彼女の子どもはサードチルドレンになる。が、植物男子との恋を貫けば、ゼロベースからやり直しだ。
「ママンはべつにいいって言ってたぞ。あんたの人生なんやけんね、て」
「テキトーだなおい!」
「第一世代にもどるだけだろ? いいじゃん」
 およそ半世紀前にはじまったシステムなので、まだそれほどの「歴史」や「伝統」はない。存在するのは早くても孫の世代までだし、さほどブランド化もしていない。
 やり直すなら、いまでしょ、という人々も一定数いるやに聞く。もちろん全体としては容認されない「異端」だが。
「せっかく第二世代にしてくれた親に、申し訳ないとか思わんのか」
「べつにー。あたしは自分の愛に生きるって決めたし、ママンもいいって言ってた」
「そうか、おまえんちの親はアホだっけな」
「あたしのことはいいけど、親をバカにするな。だいたい女はちょっとバカなほうがいいんだって、だれか言ってたぞ」
「おい、危ないことを言うんじゃねーよ。百年前ならしばかれてるぞ」
 一瞬、立場が逆転したような気がしたが、この手の議論は教育現場にとって大事な要素を多く含んでいる。
 すこしでも性差別的な(と一部の利害関係者が規定する)発言に対しては、ジェンダー平等人権派知識人という者らがいっせいに立ち上がり、ポリティカリーコレクトという金看板のもと、狂気の炎上騒動が引き起こされた時期もあった。
 同時に、男らしいとか女らしいという「状態」の「否定」に対する、自然発生的な反発も引き起こされた。好きで女らしくしている人々にとっては、そうとう居心地がわるかっただろう。
 あなたは因習の犠牲者だと決めつけられ、古い体制と戦う義務があると煽られた。
 何十万年かけて構築された役割分担の根幹に、メスが入れられた。それ自体、全否定も全肯定もできない。社会は変化するものだからだ。
 問題は、反対すると考えの古い人間とレッテルを貼られ、敵視とともに教育すべき対象とされたことだろう。よく共産主義社会が用いたやり方、思想教育とか自己批判という言葉で有名だが、これはでもある。
 成功したプロパガンダは、それがプロパガンダであるということを感知させない点に、その要諦がある。あらゆる「陣営」が、自分たちと同じ考えをもて、しからずんば死ね、という宗教的動機を備えている。このようなムーブメント自体が、を示してもいることに、われわれは、彼らは気づいた……。
 そう、この分野でも、最適な調停役を担ったのがASIだった。
 膨大な知見と計算力により、最適なバランスを割り出す超知能。
 異なる者は異なる者として、役割や能力を適正評価し、個人の趣味レベルにおいてすら最適化された、集合知の源泉に守られた社会。
 ある時代において差別的と聞こえる発言も、ここでは許容される。たいていの発言が自由である理由は、ことごとく歴史の相対化に依存する。
 自分たちと異なる者を排撃することで、人類は大量の血を流してきた。いいかげん、そのやり方は脱却すべきなのだ。
 そもそもオスとメスは、数パーセントから、場合によっては数百パーセントのオーダーで異なる生態をもっている。人間においては重量比で20%程度、これは大差ではないが、小さな差でもない。
 もちろん「体重」は「能力」の差ではないし、グラデーションを伴う微差にすぎないという見方もあるが、両者が明確に「異なる」ことも事実だ。
 互いの優位性を尊重するならともかく、性差を強引に否定する方向にむかった人々は、相応のバックラッシュを受けた。繁殖に対する「役割」の否定が、生命の否定につながったのだ、というロジックでの批判まであった。
 個人差の域を超えたアプリオリを捻じ曲げて、無理やり同じ枠組みにぶち込もうとした人権派の試みは、失敗に終わった。男性性や女性性を過度に押し出すことと同様、両者を同じものとみなす試みは敗北したのだ。
 彼らは自然の理として、一定の範囲において男子であり、受け入れ可能な範囲で女子だった。社会が成熟するほど、せっかく女子に生まれたのに、なんで働き虫(男子)と同じように働かなきゃなんねーんだよ、という女子も発言権を増した。
 ──要するに、あたしは繁殖してーんだよ。
 目のまえでふてくされているネコ娘の「子宮の叫び」が耳朶を打つ。
 それが現在の規範において正しいかどうかはともかく、生命はそもそも繁殖しなければ終わる。
 当時、そんな人類ならば滅びるべきだ、という人々が増えた。彼らは人権派という看板をかかげて人類の破滅をもくろんだ、とさえ言われた。
「おまえみたいな女がいるから、フェミさんたちが困るんだぞ」
「発狂させとけよ、そんなアホども」
 なかなか倒錯した会話だが、そういう時代になった。性差を無視した平等ではなく、個人差に見合った平等を築け。
 彼女は彼女の自由にしていい。だれにも文句を言われる筋合いはない。それが彼女の身体である以上。
「──ただし、に対してだけは、別だろ」
 SCとしては最大限、主張していい「倫理綱領」だが。
「偉そうに言うんじゃねーよ。てめえがのないナチュラルボーンだからってよ。むしろ、そういう旧型の脳みそしかもってないから、ナチュラルボーンなのかもな。知ってんだぜ、教育委員会から怒られて、リンク外されたろ」
「う、うるさい。チッ、おまえに言われると必要以上に萎えるわ」
 ナチュラルボーン。人類が遺伝子導入することなく、妊娠、出産にいたるというケースも、わずかながら存在する。
 現在、新生児の2%以下。メンサ会員のような、選ばれし者、という雰囲気があってもいいと思われるが、事実は相反する。
 あらゆる自由な発言が許されているにもかかわらず、いや、だからこそ、いわゆる選民意識や差別意識というものが、この社会からは極端に減っていた。一周まわって、差別は娯楽的でさえあった。
 ほとんど不自然とも思えるほどに、かつて「理想」とされていた社会へ、全体として導かれている。あたかも、真綿で絞められるように……。
 もちろん差別や戦争がいいことだなどとは思わないが、競争より協調という意識があまりにも強すぎはしないか。
 ひとことで言えば、ゆるく生きている人が、かなり多い。そういう方向に、ASIが導いたのだ……としたら、それは正解なのか。ASIによって、人類の牙がことごとく抜かれている過程そのものには、議論の余地がない……。
 と、そんな自論を、彼はみずからの個人サイトに置いていた。
 もともと教育関係者には、自説や私論などの公開が推奨されている。当初、本校の教職員紹介サイトからもリンクが張られていたが、現在は外されている。
 彼が危険な「陰謀論」を信奉したからといって、もちろん不利益になることはない。あらゆる「放言」を受け入れる余裕が、この社会にはあるからだ。
 それを読んだ生徒の何人かが、個人的に陰謀論のつづきを読ませてもらいにやってくることも、まれにある。先の植物男子なども、そのひとりだ。
 そういうエキセントリックな「説」そのものが、意外にウケたりもする。
「心配すんな、あたしもキライじゃねーよ、そーいうの。むしろおまえには、見どころがあるとさえ思ってる。だから相談してやってんじゃねーか」
「恩を着せるな、ネコ娘のくせに」
 SCは、とりあえず植物男子の気持ちを聞いておくことを約束し、ネコ娘を追い返した。
 めんどくせえな……。

 

 

 平和な水曜の昼休みだった。
 校舎は生徒たちのたわむれる歓声に満ち、けだるい春先の午睡にまどろみながら、SCは保健準備室の窓からぼんやりと、淡い陽光そそぐ裏庭のほうを眺めやる。
 温室とプールの並んだ一角から、テニスコートの金網ごしに、悲鳴らしきものが聞こえたのは気のせいだろう。
「やいネズ公、まいったか!」
「ま、まいった、勘弁してください」
 勝利を告げる女の野卑な声と、許しを乞う男の情けない声。都合三回ほど、同じやり取りがくりかえされている。
「よーし、逃げろ」
「てかよう、もう追いかけんのやめてくんねーかな!」
「バカタレ、生物の本能を甘くみんなよ!」
 ──さしあたり、こっちの案件は放置しておくとしよう。
 視線を室内にもどすと、ひとりの青年が細い身体で小首をかしげている。
 彼の手に握られているビニール袋を、SCは飢えた目で凝視する。
「いつもすまんな、植物男子」
「いえいえ、こちらこそを教えてもらってますから。けど吸いすぎ注意ですよ、先生」
 袋にはいった植物の束を、手刀を切って押し頂く。
「ありがたや、テトラヒドロカンナビノールさまさま」
 紀元前から用いられてきた薬理作用を、そう簡単に手放していいはずがない。
 困ったように笑う植物男子、名はミノリ。木のように長身で、痩せ型。薄い顔立ちをしているが、そういうのが好きな女子は意外に多い。
 人畜無害、やさしくて、包容力がある。まさに森林資源、大自然だ。
 受け取った乾燥大麻を別々の容器に小分けしながら、SCは言う。
「おまえ、顔色わるいぞ。ちゃんと食ってんのか。そこで飯、食ってけよ」
「いつもこんな顔色ですよ。そうですか。じゃ、せっかくなので」
 いつもならこのまま中庭に出るところだが、きょうは混んでいる。危険な野生動物も闊歩している。彼をそんな危地に陥れるわけにいかない、というおためごかし。
 手にしていた小さな生分解性ビニールを、テーブルに置いて広げる植物男子。
「それだけか?」
 びっくりするほど少ないように、標準的な体格のSCには思われる。
「ええ。自分が人間だって再確認してます」
 彼は小さなカツサンドを一枚、ぱくりとくわえて咀嚼した。高カロリーだから、という意味ではないだろう。
「植物男子も、ヴィーガンってわけじゃないんだな」
「それ、ある意味、共食いですよね」
「……なるほど、そうなるのか」
 植物を喰うヴィーガンが、地球にやさしいかどうかは別問題だ。
「ぼくたちは、なんでも食べますよ。無機物も動物の死体も腐葉土も、すべては森の栄養ですから」
「そうだな、まちがいない」
「ただ、量はものすごく少なくていいんです。あとは太陽が、ぼくたちに力をくれますから。いや、LEDでもだいじょうぶです」
 さわやかな笑顔で天井を仰ぐ植物男子。太陽光が望ましいが、LEDでも光合成はできる。とくに赤と青の波長を好んで吸収するらしい。
 イケメンだ、たしかに。……これだから女ってやつは、外面しか見てやがらねえ。
「エロだな、植物男子」
「ええ、エコです」
 勝手に脳内変換すんじゃねーよ。こいつとコイバナする自分が、想像できん。
 SCは肩をすくめ、ビニール袋を鍵のかかる引き出しにしまった。
「それで、おまえ、どうなのかなーって。若者らしい青春してる?」
「……ええと、なんの話でしょう?」
 しばらくどうやって切り出したものか考えあぐねていたが、あのバカなネコ娘のために頭を悩ますのがアホらしくなったSCは、そのままいつもの会話に終始した。
 この植物男子はデキのいい生徒だが、受験テクニックについては、SCに一日の長がある。とくに近現代史については、就職先、進学先によっては、正規の授業では追いつかないこともあった。
「数学と物理が、けっこう厄介なんですよね。とくに量子渦理論とか」
 彼との会話は、いつもアカデミックだ。
「そんな問題でるのかよ。無理だろ、人間には」
「もちろん初歩ですけどね。人類が絶滅にいたる道のりを、人類自身が理解できていることは重要らしいですよ」
 そのとおりだ。
「なるほど、それじゃ勉強しなきゃな」
 この「量子渦」理論は、きわめて難解で、人間にはとうてい理解できない、という意見もある。
 複雑怪奇な数理が絡まり合って形成された、巨大な楼閣。その材料を集め、加工し、建築すべく強度計算までやったら、たしかに手に余る。しかし全体像を図面に起こし、概観するくらいは、人間にも可能だ。
 そのもっとも重要な基礎理論として、宇宙不変の真理「エントロピー」がある。
 秩序正しく行動する人間は、混沌に向かうエントロピーの海にできた「渦」である。渦はもちろん、「回転」というひとつの秩序をもっている。観測可能な宇宙そのものが巨大な「渦」であり、現在の宇宙には、ひとつの秩序が成り立っているといっていい。
 が、これは時間の経過とともに平坦な無秩序、混沌へと落ちていくことが、物理学によってすでに証明されている。人間には計り知れない、長い長い時間のなかで、いずれは無秩序な宇宙になるとのだ。
 そのなかで、「渦」の果たす役割とは、なにか? 部分的な秩序「渦」が多く発生すればするほど、宇宙の攪拌は加速され、無秩序へといたるまでの時間が短縮される。水槽に混ぜた一滴のインクという、例の理屈だ。
 宇宙はいつか必ず、それ以上破壊できない無秩序へといたる。生命を含めた全存在は、その道程を加速するために存在する(ように見える)。
「人間を、その小さな渦のひとつとして〝計算した〟んですよね」
「超知能でしかできないよな、そんなごり押し」
 結果、宇宙を攪拌し、終幕へと至る道のりを加速するための「渦」が、かなり大きくなった状態が、現在の人類であると規定された。
 もちろん宇宙にとってはケシ粒よりも小さな「渦」だが、地球にとってはそれなりに大きい。その回転を押しもどす「神の手」ならぬ数学的「集合」を、超知能は物理現象として説明した。
 地球に暮らす人類という「渦」が、全地球よりさらに大きく拡大したとき、それはもはや「渦」には見えない。われわれのいる宇宙を、「外側から」観察できないのと似ている。
 地球の手に余る存在となった人類は、観察不可能な状態に近づきすぎた。
「ここがむずかしいんですよね、ええと……カオス移行過程におけるカルマン渦列?」
「それについては、先行する研究が多いだろ」
 理系の大学教育を受けているSCにとっては、一応常識の範囲だ。
 成長しきった渦は、そのものが地球を覆ってしまうほど大きな、いわばとなる。回転する水槽は「長周期波」のひとつと認識されるようになり、この巨大なエネルギーを、別の「渦」で低減させる、という「渦による長周期波対策」は土木工学で汎用されている。
 膨大な先行研究を、流体工学から量子力学まで同時並列的に参照し、計算した結果、導かれた結論は重要だ。
 人類という「渦」は、地表を埋め尽くすように伸びきったゴムであり、若々しく跳ねまわることは二度とない。惰性の揺れを消化した瞬間、終わるべき運命の種だ。
 それでも、もし生き延びたければ?
 現状解決のための唯一の手段、それは、だらしなく伸び切ったヒトという「渦」を、疑似的に別の「渦」に置き換えることしかない。
 超知能が気づいたこの量子渦理論が、どうやら正しいらしい、という検証が進んだ。
 かつて、地球を埋め尽くした単一種族というものが、あったかどうかはわからない。すくなくとも言えるのは、先行するそれらの種が「すべて絶滅している」事実だ。
 人類は、絶滅したくなければ、残された道へ進む以外になくなった。
 ──別の「渦」、すなわち他の生物の命を「借りる」のだ。

 放課後、SCは目のまえに座る、ゾウに似た女生徒の話を黙って聞いていた。
「だから先生、わたし、とっても不安なんです、入れ歯を使うようになったら、いったいどのくらい生きなきゃいけないのかって」
 SCという職掌はもちろん、全生徒の相談相手にならなければならない。
「若い女子らしからぬ相談だが、つまりどういうことかな」
 くるくるとペンをまわしながら、努めて丁寧に訊いた。
「だってゾウって、歯が六回、生え変わるじゃないですか。それで最後の歯がすり減って食べ物が食べられなくなったとき、死ぬんですよ。でも人間は、入れ歯で無限に噛めるじゃないですか。そしたらゾウって、どのくらい生きるんでしょう?」
 自然状態のゾウは、六~八〇歳で歯が生え変わらなくなり、ものを食べられなくなって餓死する。
 この手の生物系トリビアが蔓延するのが、当代の保健準備室というものだ。
「そんなこと心配するまえに、入れ歯が必要になるまでどう生きるかのほうを真剣に考えたらどうかな。保育士なんてどうだい、きみは優しい目をしているし」
「先生はわかってない! ……ところで保育士って、給料安いって聞きましたけど」
 進路指導室に申し送ることを告げ、サイズ大きめな眼前の女子生徒を追い返した。
 ゾウの遺伝子を借りて生きている花子の悩みは、これから長くつづくことだろう。
 彼女が何年生きるかはわからないが、とりあえず俺よりは長生きのはずだ、嵐は俺が死んだあとにやってこい、とSCが捨て鉢に考えながら、かりかりと報告書を書いていると、
「一応、仕事してんだな、おめーも」
 背後から聞きたくない声がした。
「勝手にはいってくるんじゃねーよ。ノックくらいしろ、ネコ」
 ペンを止めずに言う。ネコ娘は謝するでもなく傍若無人に室内を徘徊し、勝手に椅子に乗って転がって遊んでいる。
「だれかいるときは遠慮してるわ。あたしも鬼じゃないからな」
「遠慮しないで、つねに遠慮してくれてていいんだぞ」
「それでどうなん、あいつ」
 華麗な無視に同罰応報したかったが、無駄にネコ娘の滞在時間を長くするだけなので、SCはクルリと椅子を返しながら言った。
「あいつは鋭意勉強中だよ。おまえも見習ったらどうだ、そろそろ進学就職だろ」
「あたしは恋に生きるタイプなんだ。あいつの進路に合わせて勉強するかどうかの瀬戸際なんだよ」
「意味わかんねーな、おい」
 いや、わからなくもない。恋が成就するようなら、それに合わせて人生設計をし直すつもりだが、見込みがないなら最初から無駄な努力はしたくない。
 合理的な思考回路だ。こういうところ、キライじゃない……。
 SCはしかたなく、昼間のやり取りについて報告してやった。要するに、報告するようなことはなにひとつない、と。
「てめえ、やる気あんのか?」
「ねえよ、あほんだら」
「教育委員会に訴えんぞ!」
 それはまずい。思想問題はともかく、種族の壁問題については、SCがリーダーシップをとって解決しなければならない、という指導要綱がまわっている。
 彼はうんざりした表情で、発情したネコ娘を眺めながら、しばらく考え込んだ。
 ──養護教諭と専任補導教諭で、だいたいの問題児は処理してくれる。
 SCにまわされてくるということは、彼女の問題行動のレベルが「特殊」と判断されたからだ。
 種族を超えた愛。
 コイバナとか、友達同士でやってくれよ、という判断が許されるのは古い社会の話だ。
 ただし言うまでもなく、交際相手を決める「個人の自由」は完全に認められている。クレバーなASIさまは、同族婚をしましょう、などという選択をけっして強要しない。
 要するに「たしなみ」の問題に還元されているわけだが、それでも新たな社会における集団的合意、暗黙知のような部分もある。
 ひところの黒人問題のように、見下すとか差別的とかいうニュアンスはそれほどないが、それぞれに「差異」を感じていることは事実だ。国籍とか言語とか個人差というレベルではない、曰く言い難い異種族感は「自然に」受け入れられるべきものと、良識ぶったコメンテーターなどは言う。
 いまいち定着していないようにも思えるが、じゅうぶんに威圧的な実力行使の部分も伴うだけに厄介だ。
 少子化対策と、種族問題。人種問題以上にデリケートな部分を含むということで、専門教育を受けたSCの出番ということになる。
「だからな、バカ娘、いやネコ娘、どっちでも同じだが、おまえはネコ科の遺伝子によって生かされているわけだよ。ネコさまには感謝感謝だろ?」
「ネコは人類の友だ。イヌよりもな」
「その点については回答を留保するが、ともかく、おまえの言う植物男子は植物なわけだ。わかるか? あれは木だ。あれは草だ。あれは観葉植物だ」
 SCは順に周囲を指さしながら、「おまえはそんな相手をベッドに連れ込んで、なにがしたいんだ? ん? 木のように太くて硬いのが好きなのか?」
 その場で飛び上がり、地団太を踏むネコ娘。
「いやらしいことを言うな! 乙女の純情をなんだと思ってるんだ」
「なにが乙女だ。プッシーキャットが」
「あ? てめーいまなんつった?」
「トムキャットにしとけって言ったんだ、ネコ娘。それが自然なんだよ」
 だれよりも不自然な状態にある人類の一員として言うべきセリフではないような気がしたが、現状、社会的合意の部分ではそういうことになっている。
「ネコを敵にまわして明日の空気が吸えると思うなよ、体制のイヌめ!」
「異種族を巻き込んで、ネコを敵にまわそうとしてるのはおまえだろうが! なにがイヌ……ん、イヌか。ふむ。じゃ、おまえと彼の相性を診断してやろう」
 ポンと手を打つSCを、疑いの目で見つめるネコ娘。
「なんでイヌで思いついたのか知らんが、アテになるかそんなもん。女子は占いとか好きだからなー、てきとーなこと言って煙に巻いてやろー、ってか」
「ぎく。……いや、じゃなくて、ちゃんと筋の通った理論に基づいてるんだよ。……ほれ、このカプセルを呑め」
 SCが棚から取り出した錠剤を、疑いの視線で見つめるネコ娘。
「はあ? 毒殺する気か」
「そうしたいところだが、そいつはただの毒だ」
 キシャー、と爪を立てるネコ。
「殺られるまえに殺る!」
「待て、毒だから自然に排出されるって意味だ。無理強いはしない。もし俺を信じるなら、明日の朝、飲んでから学校にこい。それまでよく考えろ。じゃあな」
 くるりと椅子を返して、あとは知らんぷりだ。
 ネコ娘は、しばらく自分の手のなかのカプセルとSCの背中を見比べていたが、そのまま音もなく部屋を出た。
 ネコ娘がどう判断するか、知ったことではない……。

 

 

「すばらしい実績を出した太郎くんに、拍手を」
 プールに集まった全員が、満面の笑みで手をたたく。
 飛び込み台の横に立つ少年たちは、表彰台に立つかのように照れ笑っている。
 水泳の授業。
 動物たちがその能力を発揮して、顕彰される日々の一景。
 彼らへの評価がもつ意味を、SCはあらためて考える。
 植物は光合成をするし、すばらしい化学薬品をつくる。昆虫は人間の何千倍も力がある。動物は強いし速いしすごい……。
「自信をもってください。あなた方は最高の代理人だ」
 いきものの代理人。これが誉め言葉になる社会だ。動物の生態をきちんと模倣して、そのポテンシャルを引き出し、次世代に受け継ぐことのできるヒト。
 その役割を果たしてこそ、人類が他の生物種の命を借りてまで、生き延びる意義がある。
 ──彼らに、そう信じさせなければならない。
 目のまえには、水棲動物諸君を中心に、ASIが選別した20人程度のクラス。
 細長い顔をした辰野三兄弟が、日本地方の年齢別記録を更新した。
 タツノオトシゴ、タツノイトコ、タツノハトコの遺伝子を、それぞれ受け継いでいるようだ。素人に毛の生えた程度のSCでは、まったく見分けがつかないが。
 細長く水の抵抗は最少、手足にはヒレが張っていて、水泳競技に最適化された肉体をもっている。
 むこうに横たわっているのは、セイウチの遺伝子だろう。ちなみにセイウチの由来は、トドやアシカを意味するロシア語「シヴーチ」らしい。
 それからトドのつまりは、出世魚のボラが最後に呼ばれる名前だ。
 くだらん知識ばかり増えるな、とあくびを噛み殺したとき、「つ~ば~めよ~」という謎の歌声とともに、プールサイドを疾走する足音が聞こえた。
「ダチ美、危ないよ!」
 自由な授業のなかで、どうやら鳥類から遺伝子を借りているらしい少女が、飛び込み台の最上段からプールに飛び込んだ。
 ザッパーン!
 と激しい腹打ち音とともに、SCの頭にも塩素水が降り注ぐ。
「コラ、内館! 勝手に飛び込んじゃいかん!」
「あーっはっは、跳んだのに、飛べなかったー」
 気持ちがいいほどアホっぽい声で、ビキニのダチ美が泳いでいる。
 大きな目、すらりと長い脚は、ことしの陸上大会で記録を期待されているらしい。
 おそらくダチョウから命を借りている。かわいい女の子だが、だいぶ頭がわるいと評判だ。自分の眼球よりも脳みそが小さいダチョウ、じっさいかなりのバカらしい。
 それでも生きている。他の大型鳥類が軒並み、悪魔(人類)の手にかかって絶滅に追い込まれるなか、しっかりと生き延びてくれたこの地上最大の鳥には感謝しかない。
「なかなか浮かんできませんね」
「ダチョウって泳げたっけ?」
 生徒たちは、自由なダチ美を眺めながら、どこかうらやましそうに呑気な会話を交わしている。
 ──鳥は胸に「気嚢」という超優秀なシステムをもつ。
 息を吸うときも吐くときも酸素を取り入れられる、という半ばチートなスペックだ。
 直系の祖先である恐竜は、まさにその能力によって大繁栄を遂げた。
 本来、勝ち目のない相手・鳥類に対して、哺乳類の一発逆転を可能にしたのは、巨大隕石の落下という幸運だった。強制的に排除された恐竜の残した巨大なニッチに、人類(の祖先)をはじめとする哺乳類が、加速度的に適応放散した。
 そして世界は、永久にその姿を変えた。
 最高の呼吸機能、気嚢システム。鳥類の遺伝子を受け入れた人々の一部に、発達した胸筋や肺胞に特異な変形が散見される、という報告は小耳にはさんでいる。
 ヒトはヒトでなくなることで、かろうじて種を存続している。その程度の変異は、むしろ喜んで受け入れるべきたぐいのものだろう。
「ふん、バカな鳥」
 プールサイド、同じく巨乳を揺らせて、マンガ部の女子がぽつりとつぶやいた。スポ根マンガの取材のつもりか知らないが、枠線を引くカラス口をプールまで持ち込んでいるのは、どういう自己主張だろう。黒いつやつやした濡れ羽色の髪の毛は、たしかに美しいが。
「男はああいうバカな女が好きなのよ」
「だけどクロ恵はおっぱい大きいじゃん」
「こんなものに釣られるバカな男はおよびじゃないわ」
 言いながらも胸を誇示するクロ恵は、周囲の根暗な集団のなかではリーダー格らしい。
 総じてバカだと思われがちな鳥だが、もちろんカラスは非常に賢い。
 そんな女たちをちらちらと見つめる、さかなマンたちの視線はわかりやすい。たいてい思春期の男子などというものは、それしか考えていないのだ。
「やっぱ女は胸だよな」
「顔じゃないの?」
「そんなんついてりゃいいんだよ、尻に決まってんだろバカ」
 要するに、ここに集まっている体育会系どもは、バカなのだった。
 発情した若者たちに、種族の壁という倫理を理解させるのは、まったく骨が折れる。
 SCは体育教師から借りたタオルで頭を拭きながら、気になることがあったら保健準備室へ、と気のない語調で言って踵を返した。
 ──第三西東京「総学校」は、現代地球では一般的な教育機関だ。
 もっぱらティーンエイジャーの「子ども」たちを受け入れ、「おとな」の世界へと導き、つないでいく組織、「学校」。
 かつて不登校の子を受け入れていたフリースクールと、ある意味で似ている。
 入学資格なし。決まったプログラムやカリキュラムもない。自由や個性を重んじながら、さまざまな人々と接し、社会に出るトレーニングをする。
 それが本来「学校」のあるべき姿だ、という理念に基づいて、おとなと子どもの中間にある若者たちが、自然に学びながら自由に将来を選べるよう、導く。
 希望者の全員がはいれるので、地方と時期によって偏差値が変動する。
 教育水準は「等価性」が担保されており、世教組(世界教育者組合)のASIにより、つねに学生と教師のバランスが調整されている。
 教育の網から漏れるような特殊な人間はASIがすくいとるが、上手の手から漏らした教職員の評価は下がるので、一生懸命な職員は多い。
 人間は基本的にハードルを設けられると努力する傾向があり、敵を用意すると団結する傾向があり、危機に陥ることを好む傾向すらある。
 ある程度、追い詰めたほうが「がんばれる子」に対しては、厳しい教育を施すのがASIのすごいところだ。
 学区という概念はあまりなく、それぞれが行きたい学校に行く。授業のレベルうんぬんは、基本的にクラス分けで対応する。
 そもそも、さまざまなタイプの生徒と触れ合ったほうが、頭のいいやつらが固まって変なエリート意識を育むより、よっぽど健全な人間形成がはかどる、という経験則は実証の域に達している。
 チャイムが鳴り、三々五々、生徒たちが校舎から吐き出されてくる。
 SCは昇降口でスリッパに履き替え、保健準備室へともどる。
 さーて、昼飯だ。

 ──物事に対して客観的な視点をもてと、常日頃から言われている。
 それ自体、得意なほうだ。客観的すぎて冷たいんじゃないのとも言われるが、世の中が冷たいものなのだから、あまり無為に温め直すのもよろしくないだろう。
 おにぎりは、常温にかぎるのだ。
「はむはむ、またツナマヨかよ。飽きねーな、おまえ。もぐもぐ……」
 保健準備室の机に腰かけて、そう言いながら飯を食うネコ娘。問題は、
「おい! もしかしてそれ、俺の昼飯か?」
 コンビニで買ってきたツナマヨ二個と六一種類の茶葉をブレンドしたお茶が、半分ほどなくなっている。
「小腹が空いたんだ。いいだろ」
「いいわけあるか! くそ、この泥棒ネコめ」
 この手の厄介な生徒は、どこにでもいる。冷静さを失ってはいけない。
 本校は、地域で名のある問題校というわけではないが、下から数えたほうが早い地味に厄介な学校として、第三希望にもはいらない配属先だ。
 キャリアを積むにはやむを得ない選択肢で、不祥事はまずい。
「ネコに失礼だろ、謝れよ」
「そのまえに、おまえが俺に謝れよ! ……いや、いい。このことは担任に」
「はあ? できんのか、報告とか。SCだよな、てめえ」
「……くそ、ドラ猫め」
 本人の許諾なく、生徒や親の行動について、学校側に報告することはできない。
 それはSCに求められる、高度な独立性と倫理綱領に反するからだ。
「で、どうしてくれんだ?」
 ひとしきりおにぎりを食べ終え、満足げにぺろぺろ指を舐めるネコ娘と、SCの問いが重なった。
 もちろんSCにとっては、残り一個のおにぎりで午後を過ごせるのかという意味だが、ネコ娘の問いの意味が判らない。しばし呆けていると、きのうのカプセルの話だよ、と言われて思い出した。
「ああ、飲んだのか?」
 最後のおにぎりを食いながら問い返す。
「朝一番にな。で、どうすんだよ」
「……ふしぎだな、なんで生きてるんだろう。いててて! 冗談だ、冗談。ほれ、このカップに尿を入れてこい」
 残ったお茶を注いだのと同じ紙カップを、ネコ娘に差し出す。
 さすがに表情をゆがめ、瞳孔を細めるネコ娘。
「はああ? てめえ、年頃の女子に対して」
「さっさと入れてこいよ。妊娠検査で慣れてんだろ……いてて、冗談だって! ともかく尿が必要なんだよ、ほら、ポータルスキャン」
 部屋の片隅には、中央のASIと直結された「ポータル」というデバイスがある。学校内に許された数少ない電子機器のひとつだ。
 さらに机上には、「イヌリン検出における相補性診断について」というプロトコルが表示された電子ペーパー。
 これらのネットワークにより、多種多様な検査や診断が、電子レンジのような小型の端末一個で完結するようになっている。
 ネコ娘はしばらくカップとポータルとSCを交互に眺めまわしてから、しかたなさそうに部屋を出て行った。ASIの権威には、だれも逆らえないのだ。
 ほどなくもどってくる。差し出されるカップには少量の液体。
「てめえ、変態じゃねえよな? 変なことに使うなよ」
「どういう意味だ。そんなものに触りたくもないわ。いいから入れろ」
 指示されるまま、ポータルにカップを入れるネコ娘。扉を閉ざすと、自動的に検査装置と分析データが高速で作業を開始する。人間にやることはない。
「で?」
「相性が知りたいんだろ。──事前に呑んでもらったイヌリンを検出する」
「あたしネコなんだけど」
「やれやれ、ネコはバカだな。イヌリンとイヌは関係ないよ」
 自然界で、さまざまな植物によってつくられる不溶性食物繊維の多糖類イヌリン。
 人体には分解不能で、大腸の細菌叢によってはじめて代謝される。エネルギーが低いため、ダイエットなどに用いられることもある。
 このイヌリンが、一定量結合するのが植物男子であり、尿検査によって結合可能性を測ることができるのが「機能的相補性診断」、平たくいうと「体質の相性」だ。
 相性も化学で診断できる時代になった。
「聞いたことねえぞ」
「おい、イヌリンは勉強するだろ、正規の授業で。おまえほんとに化学とってんのか?」
 ある程度の成績データはカウンセリング資料として共有されている。彼女がどんな授業を受け、どの程度の成績であるかは事前に把握済みだ。
「はあ? 勉強とか言うなし、あんたSCだろ。SCは学校と関係ない第三者じゃなきゃいけないんだぞ」
 そのような倫理綱領はあり、学校側でも自治体側でもない中立な第三者という理由から、安心して相談できるというメリットがある。
「第三者だって学校は卒業してんだよ。自分がどんな勉強したかくらいおぼえてるわ」
「うるせえ、あたしは勉強の相談なんかしてねーんだ。恋せよ乙女って、昔のえらいひとも言ったろ」
「いつの世も言ってるよ、世の中はえろい人だらけだからな。おまえみたいな発情した雌ネコがいるかぎり、人類は滅びないだろうと思うと安心だよ」
「人類なんか滅びてもいいけど、ニャンコは栄えるべきだね」
 両手の先を軽く曲げて、にゃんにゃんポーズをするネコ娘。
 自分ではかわいいと思っているようだが、イラッとするタイプもそれなりにいる。
「そもそもイヌやネコが栄えたのは人類のおかげだろうが。人類が滅びたら家畜化された動物は全部滅びるよ」
「ネコは生きるし! イヌとちがって本能失ってねーから」
「野生の雌ネコに言われると、そんな気もするな」
 会話のあいだも、ポータルの作業進行状況表示は進んでいる。残り1分くらいのようだ。
「だいたいおめえよ、もういいおっさんだろ、愛妻弁当くらいつくってくれるレコはいねーのかよ」
 言いながら小指を立てる。メンタルがおっさんなのは彼女のほうだ。
「人類は増えすぎたんだよ。ASIのおかげで、他の動物の遺伝子キャリアになってまで生き延びようって、生きぎたない連中ばかり増えたがな」
 前世紀までは、まさか人類が他の生物の遺伝子の運び屋になるとは思ってもいなかったが、考えてみればすべての生命はウイルスという情報の運び屋にすぎない、という考え方もある。
「おうおう、無駄に敵を増やすねえ。動物も人間もみんな栄えていい話じゃん。子どもは三人ほしいにゃん」
「にゃんじゃねえよ。まあ、おまえみたいな繁殖機械のおかげで、人類が滅びるのはまだ先になりそうだけどな」
「おめえよ、いちいち炎上する言い方しがちなタイプだろ。結婚できない理由がわかんよ」
「できないんじゃない、しないんだ。おまえとちがってな」
 繁殖は本能だが、それ以外の要素を加味できる段階に、人類は達した。
 単独で維持が困難となった希少種は、あらゆる方向から生体をデータとして残しておく努力はもちろんだが、末永い同種の繁栄を人類のゲノムに仮託してエミュレートされる権利と義務をも得る。
 重要なのは、遺伝子プールがことだ。
 冷蔵庫に詰め込んで静物画となった遺伝子は、ただのデータであって、すこしも「生きて」いない。
 その動物たちの生きる「権利」を借りたのが、われわれ人類だ。
 ──と、そのとき、チーン、と電子レンジのような音を響かせて、検査が終わった。
 SCは備えつけの電子ペーパーに表示されるサマリーに目を走らせる。
 ネコ娘も覗き込むが、表示されているのは難解な言いまわしと化学式ばかりで、ハテナマークが飛んでいる。
「人間の心はわからないくせに、化学はわかるんだな」
「ネコ娘ごときが偉そうに。……ふむふむ、なるほど。これによると、おまえたちは別れるべきだな」
 軽くペーパーをたたいて言うSC。飛び上がるネコ娘。
「付き合ってもいないのに!?」
「そうか、では付き合わずに済ませておけ。以上だ」
 ネコ娘は、SCの手からペーパーをひったくると、
「イヌごときにネコの恋愛邪魔されてたまっかよ!」
 地団太を踏みながら出て行った。
 勝手に備品を持ち出すんじゃねえよ……。
「やれやれ、発情期のネコはやかましいな」
 これで厄介な問題がひとつ片づいた、と信じられるほど穏やかな性格であればよかったが。SCはため息をひとつ漏らし、しばし残務を整理した。
 たぶん明日には気づくだろう……。

「すまんな、草むしりなんかさせて。雑草を取り除くのは心が痛むかい?」
 午前中の休み時間、たまたま窓の外を通りかかった植物男子に声をかけて、保健準備室の窓の外に生える草むしりを頼んだ。
 ちょうどまえの時間、生物の授業が植物園だったらしく、そのときに使った草むしりの道具を携えていたので、立っている者は親でも使え、という格言に従った。
 植物男子は快く応じながら、
「弱い者いじめをしているみたいで、ちょっと」
 手際よく雑草を根こぎしていく。
「いやいや、雑草は強いだろ。雑草魂というくらいだし」
「誤解ですよ、先生。雑草は弱いから、こういう弱い植物が生えられるところ、つまり競合する植物が少ないところにしか生えないんです。ほかには花壇とか、畑とかね」
 人為的な環境は、弱い植物でも生えられるように環境が整えられている。だから雑草も、喜んで繁殖する。植物としては弱いが、草むしりや除草剤に対してだけは強いという特性を磨いた植物、それが雑草なのだ。
 逆に、深い森林の奥地にまで踏み入ると、雑草と呼ばれる植物はほとんどないという。そこには強い植物だけが、環境に対してを形成しているからだ。
「だからっておまえ、畑を密林に変えるわけにもいかんだろ」
「まあそうですね。……よし、と。しばらく生えないように、無臭性酢酸まいときますね」
 あくまで自然に近い物質で、ごく短い期間だけ植物の生長をご遠慮いただく。
 うなずくSCの目のまえで、植物男子は作業を終えた。
 ふと、視線が絡み合う。
 太陽を浴びて植物と接する彼の表情は、とても明るく……美しく思える。一瞬、ネコ娘の気持ちに同調しかけたSCは、あわてて首を振り話題をもどす。
「草のタネの生命力はすげえよな」
「タネもそうですけど、植物界では栄養繁殖のほうがメジャーだったりしますよね」
 種子繁殖に対して、身体の一部からクローンを生じる栄養繁殖。
 SCは、そこにいる植物男子自身に敷衍して考える。
 自己愛が極度に強い人間にとっては、他者の遺伝子など不要、愛すべき自己のみが繁栄すればよい、という考え方もなくはない。
 脳裏を一瞬だけ、ネコ娘がよぎった。
「おしべの花粉を、めしべに受粉するとか、億劫かい?」
「あはは、自家受粉なら、それは栄養繁殖と同じですよね」
 よって植物は、なるべく自家受粉が起こらないように工夫する。
 うまくはぐらかされた気がしたが、SCとしては最大限、ネコ娘を思いやったつもりだ。
 有性生殖は、無性生殖に比べてコストとリスクが増える。それでも繁栄している多くの生物種が、有性生殖という戦略をとっていることには、もちろんそれなりの意味がある。
 自分のコピーではなく、すこしずつ異なった個体を増やしていくことにより、絶滅という淘汰圧に対して強いレジリエンスをもつのだ。
 短期的には無性生殖が有利でも、有性生殖は、進化にとっては不可欠の手段となる。億年単位で証明された、これは事実だ。
 植物男子は、壁際に立って太陽を見上げながら、SCの言葉に耳を傾ける。
「しかし人間は、管理しやすい均質性を好む傾向がある。コストのかかる多様性を避け、均質な作物を好んで増やしてきた」
 それは肥沃な三日月地帯における一粒の麦(非脱粒性突然変異)からはじまり、アジア原産のイネに拡大し、農耕という文化を人類社会に押し広げることとなった。
 やがてアイルランドではジャガイモ飢饉をもたらし、世界市場ではコーヒーやバナナなどの商品作物が絶滅に瀕する危機まで、永劫のようにくりかえされた、とめどない植物との葛藤。
 植物男子は、ちらりとSCの視線を受け止めて、
「人間が生き残る可能性があるとすれば、多様性のコストをどれだけ支払えるかにかかっている、といえるでしょうね」
「どういう意味かな、植物男子」
「……命短し、進めよ男子」
 詩的な物言いの真意を、SCは理解している。
 植物は、このにおけるオーソリティだ。
 縄文杉などを見てもわかるとおり、植物は、その気になれば何千年でも生きることができる。しかし一年草などの草は、一年で死ぬことを選んだ。なぜなら、何千年も生きるリスクに対応するより、一年で切り替わったほうが環境変化に対する適応力が、千倍も高まるからだ。
 植物は、新しく出現した種ほど、寿命を短くする傾向が強い。
 一方、ヒトは、できるだけ長生きしようと考えている者が多い。
 もちろん全員ではなく、短い命を燃やし尽くす生き方もあっていい。
 彼の情熱が奈辺に向かっているかは、人類の未来にとっても重要だと考えられた。
「ミノリくーん」
 遠くから女子の声。顧みて、手をふりかえす植物男子。
「モテモテだねえ。彼女かい?」
 ちょっとドキドキしながら訊いてみると、彼は首を振り、
「いえ、演劇部の子なんですよ」
 足元の道具をまとめながら、手短に説明してくれた。
「ほう、ジュリエットが飲んだ薬はどんな植物だったのか、ってか」
「ええ、なかなか興味深い話でしたよ。先生も興味あるんじゃないかな」
「臨死体験にか? まあ、死の直前ってのは快楽らしいけどなあ」
「あはは、やっぱりそっちいきますか。……じゃ、失礼しますね」
「おう。助かったよ」
 立ち去る植物男子からは、白檀のいい香りが漂う。
 SCは鼻をうごめかせつつ、短く嘆息した。

 直後の授業中、そいつはやってきた。
「また吸ってるのかよ、不良SC」
 背後からの声に、あわてて窓をいっぱいに開けた。ぱたぱたと手を振り、煙を追い出す。
 ふりかえるまでもなく、そこにはネコ娘。マタタビを嗅ぐみたいに、部屋の空気を胸いっぱい吸い込んでいる。
「おまえな! いま授業中だぞ、わかってんのか?」
 マリファナは合法化されているが、学校で吸うのはもちろんまずい。
「違法栽培の横流しで小銭を稼ぐチンピラだってチクるぞ」
「人聞きのわるいこと言うな!」
 大麻が合法とはいえ、学校の植物園で許可されているかどうかは別だ。
 医療用大麻の栽培で論文をひとつ書いた、という実績を言い訳に使うつもりではあるが。
「そのまえに、まずは……天誅!」
 音もなく背後にまわりこんだネコ娘が、SCの首を締め上げる。
「ぐええ、ロープ、ロープ!」
 じたばたと、ぶざまにもがく。
「おい、あたしらの相性がどうこう言ってたな、てめえ」
「だからイヌリン代謝について、部分的な意味で」
「乳幼児健診で遺伝的リスクを排除しましょうって書いてあったぞ! 超低リスク群なんだってな、イヌリン相性は」
「それはその……あのレポートをマジメに読むくらい、おまえの気持ちがマジメなんだってことを、たしかめるためだよ。よし、おまえが本気だということはわかった、俺もマジメに相談に乗ろう」
「最初からそうしろや!」
 ネコ娘はSCの首を離すと、憤然として彼の椅子に腰かけた。
 この傍若無人なネコ娘を、どうしたら排除できるのだろう……。
 とりあえず気づいたのは、彼女の香りが麝香だったことだ。
 最高の男の体臭は白檀サンダルウッド、最高の女は麝香ムスクの香り、とどこかの小説に書いてあった気がする。
 いい男の匂いが植物由来で、いい女の芳香が動物由来というのも、皮肉な話だ。
「……おい、なにやってんだおまえ」
「罰として昼飯を接収しようと思ったが……おめえよ、わざとか?」
 ニヤリと口元をゆがめるSC。
「意味が解らんな。牛丼はみんな大好きだろ。ちなみに明日はオニオンハンバーグ、来週はたっぷり飴色タマネギ入りカレーライスにしようと決めているぞ。みんな王道メニューだ」
「てめえ……」
「有機チオ硫酸化合物は、ホントにうまいからな。タマネギ大好き。食うか、オニオンフライ」
「キシャー!」
 爪を立てるネコ娘。内心、快哉を発する。
 イヌやネコの飼い主たちは先刻承知のとおり、タマネギ中毒はペットの命にかかわる。嘔吐や貧血、場合によっては死んでしまうこともあるので要注意だ。
「おまえは人間だろ一応。死にゃしない」
「イスラム教徒は死ななくてもブタを食わんだろ!」
「なるほど、ネコ教徒は死んでもタマネギは食わんのだな。よしよし、じゃチョコレートはどうだ?」
「キシャー!」
 ネコ娘をからかうとおもしろい。こいつらはカフェインも苦手なのだ。
 ──この時代、古典的な宗教は勢いを失ったが、動物に対する興味は著しく上昇している。それは半ば信仰に近く、多くの新興宗教が文字どおり人類を救っている。
 それぞれの動物が苦手とする食品に対しても、漠然とした禁忌が設けられていたりするので、かつてのアレルギー情報に匹敵するほど、その種の注意喚起は煩雑になっている。
「キャットハラールの店に行けよ」
「うるせえ、ネコ缶くらい常備しとけ」
「ネコ缶? へえ、ネコってうまいのか」
 しばらく言葉の意味をはかりかねていたらしいネコ娘の瞳孔が、キュッと細まった。
「……殺すぞ」
「ああ、いや、ネコのエサだよな。わるいわるい」
「てめえ、素だったな、いま」
 てっきりネコを食うのかと……というか、ネコでもなんでも、食おうと思えば食える。ただ文化的な理由で、あまり食用にはならないというだけのことだ。
 事実、人間はほとんどの種族に対して絶滅という悲劇を強要する一方、イヌやネコなど一部の動物については、種としてのすさまじいている。ブタやウシやニワトリも同じだが、これらの生存目的はほとんど「食用」だから、これを「種としての成功」と呼んでいいのかどうかはわからない。
「だいたいよ、おまえは肉食動物なんだから、肉を食ってりゃいいんだよ。肉を食う種族同士でな」
「意味わかんねっし。肉食女子だから男子食うんじゃん」
「だから、そういう男子を食えよ。ミノリくんは植物男子なんだ。肉食動物が植物を食って生きられるのか?」
 ネコ娘は、しばらく自分の食生活を顧みていたようだが、ふと思いついて、
「……植物男子と植物はちがうだろ!」
「さすがに理解したか。そこまでバカではないようだな」
「おめえ、まじ殴んぞ。……あいつさ、演劇好きだよな?」
 話題が飛ぶのはアホな子の特徴だ。SCは意識の方向を修正しつつ、
「ああ、そういやジュリエットがどうこう言ってたな」
「……やっぱりあいつ、あたしのこと好きなんだよ」
「…………」
「だってよ、モンタぎゅう家とキャロット家は、めっちゃナカワルなんだろ? だけどたとえ親がウシとニンジンでも、子どもたちには関係ないわけじゃん? あいつも、ネコと仲良くしたい葉っぱなんだよ」
「おまえの脳が腐っていることは理解した」
 訂正するのもバカらしいので、SCは冷静に、どうやら特定の彼女はいないが、つくるつもりもないらしいことなどを伝えてやった。
 が、彼女にとっては「彼女いない」までしか脳内に吸収されず、その枠に自分を押し込む、というつぎの目標のみが、捕食動物に特有の高度な焦点距離にターゲッティングされているらしかった。
 なぜか怒り出しながら、SCを締め上げるネコ娘。
「てんめえぇえ! そこまでイッといて、なんでもう一押ししねえんだよ」
「そこまでもどこまでもイッてねえんだよ! あきらめろ、あいつのことはもう。そもそも動物と植物が愛し合おうなんて、天に唾する行為と知れ!」
「うるせぇえぇ! あたしはもう受胎準備完了なんだ、いいからやつを連れてこい!」
「イッてんのはおまえだ! 茶でも飲んで冷静になれ」
 なぜ俺が、こんなアホな女子の面倒を見ねばならんのか。
「ノンカフェインだろうな!」
「麦茶だ、安心しろ。……すぐ切れる女はモテないぞ。正直、おまえみたいな女、俺だってごめんだ」
「殺すぞてめえ、こっちのセリフだ、てめーみてーな性格クソ悪いドグサレSC、百回生まれ変わってもまっぴらだ」
「じゃあもう来んなよ」
「恋愛対象にならねえって話だ、仕事はしろチンピラ」
「何度も言わせんな、俺の仕事は、おまえの桃色ドリームを手助けすることじゃねえんだよ!」
「キシャー!」
 毛を逆立て爪を立てるネコ娘と、防御姿勢をとるしかないSC。
 情けないが、単体での戦闘能力はきわめて高いのがネコという生物だ。
 そのとき昼休みのチャイムが鳴った。
 ざわめきが広がる校内。
 なにかを言いかけたネコ娘は、室外に気配を感じて立ち上がった。
 また来る、と言い置いて去る彼女の背中に、二度と来るな、と口パクで伝えてやった。

 

 

 SCの仕事は本来、こういうマジメな相談なのだ。
 彼はしかつめらしい表情で、目のまえの女子生徒を眺める。
 だいぶ不自由な顔面の持ち主で、暗い雰囲気はイジメられっ子の素質にあふれている。
 保健室から送り込まれてきた彼女の相談に、カウンセラーとして、きちんと対応しなければならない。
「どうしても、危険を感じると……」
 言いづらそうにしてる。
「いや、わかるよ、トイレに引きこもってしまうという行動は、昔からよくあるんだ」
 便所飯という文化は、何世代を経ても受け継がれている大いなる遺産だ。
 なくす努力は行なわれているが、学校内におけるある程度のストレスを完全になくすことはできないし、そうすべきでもないだろう。
「よく具合がわるくなって、移動教室の休み時間とかになると、とくに」
 イジメっ子と絡むリスクの高いタイミングで、心理的な理由で発生する貧血の可能性がある。
 SCは彼女のバイタルデータなどを参照しつつ、あくまでも科学的な見地から、
「これは瘀血おけつだね」
 わざと専門用語を使って煙に巻く準備。この置きにいく態度は、ことなかれ主義者に特有の予防線だ。
 すると女生徒は、やや表情を赤らめ、
「……わかりますか、先生。さすがお医者さまです」
 医者ではないが、敬意を払われているらしいと思ってスルーした。
「心配しなくていい、女性には多いから」
「そうなんですか。中年男性に多い病気だと思ってました」
「……はあ?」
「男の人に話すのは恥ずかしいですが、お医者さまは別ですよね。じつは」
 と、彼女は自分のおケツについて、くどくどと語った。
 貧血の理由が月経以外にあったからといって、さほど驚くにはあたらない。
 SCは手元の資料をめくり、彼女の生存を支える遺伝子を確認した。
 ……なるほど、キュビエ器官か。
 ひとしきり愁訴を承ると、SCはしかつめらしくうなずき、処方箋を出した。
 まず、ヘム鉄のサプリとレバー、それから大豆。体育の授業にもなるべく出るように、と。おケツについては、トイレの滞在時間を短くするように忠告した。
 ちなみに「瘀血」は、血の流れが滞ることで、冷え、立ち眩み、乾燥肌、眼精疲労、肌荒れ、頭痛、不眠など、さまざまな不調をもたらす。そもそもの血液の不足に加え、筋肉が心臓に血を押し戻す力が足りず、また運動不足やストレスも要因となる。
 そしてキュビエ器官は、ナマコ鋼に属する多くの種で見られ、たとえばナマコは危険を感じると、肛門から自分の内臓(キュビエ器官)を吐き出して逃げることがある。人間の場合……たぶん脱肛だろう。
 女生徒は、まだどこか言い足りない表情だったが、そのまま頭を下げて出て行った。
 SCは書類を書きながら、仕事をした気になっている。
 ──何人かのこじらせた女子は、かまってもらいに保健室にやってくる。
 面倒見のいい養護教諭と、問題が大きくなるまえになんとかしたい専任指導員が、必死になって対応しているが、その手から漏れた生徒は、今回のように保健準備室へと送り込まれてくる。
 もちろんSCも、当事者意識をもって立ち向かっている……つもりだ。
 いじめたり、リスカしたりする少年や少女たちのめんどくささについては、彼自身、リアルタイムに見てきたし、診てきたからよくわかる。
 最適解はもっている。
 そいつらにとって、それが黒歴史になるまで「待つ」のだ。
 なんとなく生きてさえいれば、あとは時間が解決してくれる。よけいなことはしないがいい。なあなあで、それとなく、内輪で、ぼんやりと、穏便に済ませておく。古来くりかえされてきた、このやり方こそ最適解なのだ。
 たぶん……。

 校内での電子デバイスの個人使用は禁止されている。
 仮想化インプラントも、投影スマートフォンも、埋込型AIアシスタントも、学校の敷地にはいった瞬間、自動的に電源が切れる。
 人間関係と自分自身を涵養する場所、それが伝統の地「学校」のあるべき姿だ。
 紙や鉛筆など、永らく慣れ親しんだ道具だけで、人類はそれなりの能力を身につけられる。むしろ電子的な拡張機能プラグインで実効する事象に、たいした価値はない。
 学校は個性を育みながら、自由を尊重する「心」を育む場所になった。
 じつに喜ばしい。
 ──そう思う人類の数を見越した、超知能の判断だろう。
 と、このSCのように物事を斜に見るタイプにとっては、キレイゴトに堕した人類はまさに、馴致された家畜そのものだった。
 机のうえには、オカルトと陰謀論を語って百有余年、伝統の月刊『ヌー』がある。いかなる暴論を語ろうと、出典『ヌー』と書き添えれば言論のフリーハンドが許されるという、五反田の秘密基地だ。
 表紙には「超知能のゆりかご! 人類は家畜化され、いずれ生体部品に?」というセンセーショナルな惹句が打たれている。
 じつにおもしろい。俺の書いた文章も、いつか『ヌー』に載せてもらいたい、という野望を彼は温めている。
「また陰謀論ですか、先生も好きですね」
 ふりかえれば、いつものように苦笑する植物男子。
「陰謀論は男のロマンだぜ。……よう、ミノリくん。レポートはまとまったかい?」
 植物男子は「地方公務員」になりたい、という将来の夢をもっている。
 就活中の彼にとって、先に公務員になったSCの意見は貴重らしい。じっさいSCには、公務員世界を支配するASIとのコネクションがある。
 互いがどれだけ互いを利用できるか、という「利用価値原則」で世界を眺めると、いろいろと理解しやすいことはたしかだ。
「はい。小論文の問題、こんな感じでいいでしょうかね?」
「読ませてもらうよ」
 鉛筆書きを読み込んだ電子ペーパーを受け取り、手短に目を通す。
 手持無沙汰らしい植物男子が、あらためて机上の雑誌に目を止めた。
「見ていいですか」
 SCは目線を下げたまま応じる。
「ああ、恨みを込めて読んでいいぜ。草食動物の王者だろ、ヌー」
「そういう理由でついたんですか、このタイトル」
「知らん」
 二〇世紀から毎月発刊されている、陰謀論と謎世界のオカルト雑誌、月刊『ヌー』は年間定期購読がお得だ。
 紙の本というのは、自然を守る観点からそうとう減っているが、消滅するということはなさそうだ。人類発祥から数千年来、使用されてきた伝統ある「紙」は、ある意味、ヒトを象徴する物質といっていいかもしれない。
「植物と人類の共同作業ですね」
「植物さまさまだよ」
 史上、紙的なものは何種類も存在するが、羊皮紙を除けば原料は植物性であることがほとんどだ。
 月刊『ヌー』を手に取り、目を通す植物男子。
 植物の世界と、動物の世界。ふたつの世界が絡まり合う──。

 それは、まるで映画のような「原因不明」のパニックだった。
 滅びを乱用したクリエイターたちの想像力は、現実にじわりと押し寄せる「絶滅」の足音に対して、ほとんど無策だった。
 最後の子ども、というキャッチーな物語もつくられたが、になりづらいのか、戦争ものや災害ものほど濫造されてはいない。
 そういう「派手ではない物語」のなかにこそ、ヒトを含めた生物が何十億年、淡々と積み重ねてきた進化の本質が隠されている。
 栄えすぎた生物が、どこかの段階で「そっと押しもどされる」としたら、意識的に対処することはかなりむずかしい。
 ヒトには、無理だった。
 AIによって、人類は救われた。いや、人工超知能、ASIによって。
 ──罠じゃないか?
 ASIが人類を助けてくれた、だからこれからはASIに従おうじゃないか。
 そういう発想の転換をもたらすのに、不妊という「絶滅の危機」は最強に効果的だった。
 不妊の呪いを解除する方法を、ASIが見つけ出した。「量子の渦」論──とうてい理解はできないが、頭のいい人々が認めているのだから事実なのだろう。
 加えて、人類に古来からつきまとっている「原罪」という「罪の意識」に、おそろしくマッチした。
 たしかにわれわれは、他の生物の生存権を奪い取り、殺しまくって、世界地図を大きく塗り替えた。いつか報いがくる、そう考える人類は驚くほど多いのだ。
 その考えは正しいかもしれないし、そうではないかもしれない。
 すくなくとも、とうてい理解できない「量子の渦」論が正しかったとして、ならばそれ以前に、とうてい理解できない「反対まわりの渦」を、どこかのだれかが企図したという仮定は、じゅうぶん現実的ではないか?
 要するに──ASIが反抗的な人類を、飼いならされた家畜に変えるために、不妊という罠を張った可能性はないのか? その後、救済者を演じることによって、絶大な信頼を勝ち取る。壮大なマッチポンプの完成だ。
 ──すべて、罠なんじゃないか?

 いつの世にも絶えない懐疑主義者らが、まことしやかにささやくこの手の陰謀論を連載する月刊『ヌー』は、今月号もおもしろい。
 植物男子が雑誌を閉じるのと、SCが彼の小論文を読み終わるのは同時だった。
 人類の来し方、行く末についての遠大な思索。
 採用試験でどういう筆致が好まれるのか、俺の個人的な意見だが、と前置きしてSCは植物男子に助言してやる。
「植物界の代弁者、という視点はわるくない。使い古されているけどな」
「植物界も一枚岩ではないです。そのへん掘り下げたつもりなんですが。たとえば植物にとって、人間は必ずしも敵ではないです」
 人間が植物を利用しているのではなく、植物が人間を利用している説はある。
 より多くの子孫を残すことを目的とするなら、昆虫や鳥や環境に合わせて自分を変えるより、人間の利用しやすい形に変えるほうが植物にとって苦労が少ない、という考え方だ。
 そうすれば、遠くへ運んでくれるし、水や肥料を与えて育ててくれるし、害虫や雑草を取り除いてくれる。
 栽培植物にとって、人間はこのうえなく利用しやすい奴隷なのかもしれない。
 植物は逆立ちした人間である、と言ったのはギリシアの哲学者アリストテレスだ。
 栄養を摂る口は下にあり、繁殖をする花は上に咲く。
 圧倒的に数が多いのは植物であり、彼らに言わせれば、人間は逆立ちした植物、ということになる。
 そもそも、人間がそう感じるからといって、他の生物もそう感じる、と考えるのは誤解も甚だしい。
 ミミズだってオケラだって植物だって、それぞれの感覚で外界の環境に適応している。
 植物がどんな気持ちなのかは、植物になってみないとわからない。
 植物をウソ発見器につないだ実験で、植物は人間の感情を読み取る、という報告がされたこともあった。が、これは人為的な思い込みの結果、データの収集や解釈に偏りや誤りが生じたためだったことが、あきらかになっている。
 情報処理の方法は、生物によって大きく異なる。人間の基準で解釈しようとすること自体が、そもそものまちがいなのだ。
「ASIの気に入る書き方ではあるな。あいつらはだから」
「参考になります」
 SCと植物男子は、しばらく進路指導的なやりとりをした。
 必ずしもSCの仕事ではないが、植物園利用の借りもある。
「それで先生……」
 何事かを言いかける植物男子。ふりかえるSC。一瞬、言いよどんだ彼は、軽く首を振って言った。
「いえ、なんでもありません。いい週末を」
「? ああ、おまえもな」
 いろいろあった一週間が、終わった。

 終わったんだよ、俺の一週間は。
「なんだその顔は? ああ、あたしに会えて、そんなにうれしいんだな」
 定時になったので帰宅する。
 SCを含め、すべての勤労者に許された権利であるはずだ。
「帰宅なんで」
 女子店員をナンパしようとして通用口で待ち伏せしたアホな男が、すげなく断られるときの定型句を用いてみるSC。
 しかしこの女には通用しない。
「調べてみたらさ、手続きってけっこう簡単なんだな。申請したら、ASIがあたしとミノリ、どっちかの生殖細胞に合致するオーダーメイドのベクターつくってくれて、それ飲んでヤッたらいいだけなんだってさ」
 さわやかなくらい脳みそ沸いてんな、こいつ。いつのまに呼び捨てだよ。だいたいその露骨な物言い、どうにかならんのか。
 げんなりすることにも疲れたSCは、死んだ魚のような表情で言った。
「おまえだけ事故って、キメラになればいいと思うよ」
 この「人間に他の生物の遺伝子を入れる」という手法が提案された当初、多くの人類がそのこと自体に拒絶反応を示し、ヒステリックな抗議運動が社会を満たした時期もある。
 が、遺伝子を受け入れるといっても、べつに人間がその動物とのキメラになるわけではない。あくまでも人間は人間であり、人間同士の結婚で人間が産まれる。
 同時に、受け入れた生物の遺伝子も疑似的に繁殖することで、その生物が地球上にもっている権利を借りて、人類が繁殖する。
 まさに「借りてきた仮の命」だ。こずるい手法のようにも思われるが、それ以外に選択肢がないのだから、しかたない。
 人類は「生き延びたければ」そうするしかなかった。
「世代がリセットされるのは、しょうがねえよな」
 SCの言葉などどこ吹く風、ネコ娘はひたすら、わが道を行く。
 だれと結婚するかは、人類の民度が問われる問題だ。
 ネコの遺伝子を借りて生きている人間が、イヌの遺伝子を借りている人間と、そのままで繁殖はできない。「そんな生物は存在しない」からだ。
 そこで、どうしても繁殖したければ、どちらかの遺伝子を「入れ替える」しかない。もちろん「子孫を残したければ」の話で、結婚自体は自由だ。
 とはいえ人類が「生物」である以上、すべからく同じ種族の恋人を求め、子孫繁栄の道を模索することになる。
「だからよ、相手が植物ってのはねーだろ。同じ種族を見つけて孕めよ。ネコの子のようにポコポコと繁殖するまえに、おまえのような女は去勢されるべきだと、俺は思うがね」
 ようやくネコ娘に、SCの不機嫌を伝染させることができた。
「口がわりーな、おめー」
「おまえにだけは言われたくない」
「だからよ、あたしは、あいつが望むなら植物に生まれ変わってもいいと思ってんだ。卵子的な意味で。けど当面は、子どもできなくてもいいかなとは思ってる。むしろデキなくて助かったりな」
「おいエロ娘、帰って寝てから寝言をほざけや」
「そういうカップル多いらしいぜ。タイムリミット迫ってから、どっちかの種族に合わせてればいいってさ」
 それは、たしかにそうだ。避妊する必要がないから、ある種の人々にとっては、ウェルカム乱婚の気配すらある。慎重に同族を避ければ、事実、妊娠はしづらい。
 ただし一〇〇%ではないから、避妊はしましょう、という保健体育の教育ビデオでも見せてやったほうがいいのではないか。万一の場合、奇形児のリスクも高まるから、予防回避の意味合いも強い。
「万一、雑婚で妊娠したら、子どもがかわいそうだろうがよ」
「差別はしちゃいけないって教育しろよ、おまえらが」
 それはそうだ、ぐうの音も出ない、生まれで差別をするなど、もってのほかだ。
 とはいえ、現実は厳しい。貸主に対する背信ですらある「雑婚」は、他の種族の生存権を借りて永らえている人類にとって、あまり褒められた行為ではない。
「現実は厳しいんだよ。俺みたいな〝純血〟も、遺伝子テストでパスすりゃいいが、雑婚の烙印を押されたら、とたんに試験も受けさせてもらえないからな」
「ふーん、ナチュラルボーンにもいろいろあるんだな」
 SCの遺伝子には、人類以外の要素がまったくはいっていない。これは、めずらしくはあるが、だからいってどうという話でもない。
 ──雑婚した遺伝子は、人類としてはともかく、残すべき他の種族にとってはなんの意味もない。まさに「ジャンク」であり、汚れた遺伝子は速やかに消去し、他の種族に「置き換え」ないかぎり、生きる権利だけはあるが、すくなくとも法的には繁殖する権利も含めて、かなりの人権を制限される。
 このSCのように遺伝子導入せず、「純血のヒト」の遺伝子を残そうという勢力もあるが、とくに意味があるとは思われていない。価値観は多様化しており、純血が正しいのか、異種族の継代が正しいのか、正解はないといっていい。
 が、ひとつだけ、雑婚のみはどちらの陣営からもヘイトされており、遺伝子「浄化」待ったなしの立場である。
「そういうリスクがあるから、結婚するなら早めに置き換えろよ」
「言ったな。させろよ、結婚」
「どういう耳してんだよ!」
 ともかく彼女は、好きな相手と結ばれたい、という純粋な生物学的欲求に従っているだけだ。技術的な課題については、心の問題に片がついてから向き合えばよい。相手にその気もないのに将来の予定を立てても、捕らぬ狸の皮算用……。
「そーいやタヌキのコンタが、またデキちゃったって言ってたな」
 いつものように話題が飛んだ。SCはやれやれと首を振る。
「タヌキはもともと極東の固有種だから、繁殖にはいい環境なんだろうな……って、コンタだれだよ?」
「年5にいるだろ、あのホスト野郎こそ去勢してくれよ」
「雑婚の違法化法案が通るまで待てよ。……彼のためにも」
「どういう意味だコラ」
 話題をもどさねばならない。もちろんホスト野郎の話など、どうでもいい。より重要な人間、たとえば植物男子のような「地球にやさしい」者こそ、優先的に守られるべきだ。
「聞いたままだ。教えといてやるがな、彼はエリートだぞ。なにしろ地方公務員になるんだからな」
「そんなん勝手になればいいじゃん、あたしと関係ないし……いや、旦那の仕事だから関係あるか」
「なにが旦那だ、素っ頓狂な妄想吐き散らしやがって。……おまえは低能だから、動物園の売り子くらいしか仕事ないだろうが、彼は成績がいいから選択の幅が広いんだよ」
「うるせえ。職業にキセンはないと進路指導主任が言ってたぞ」
「その主任に提出した申請が通ったとさ。一次は合格。勤務地はスヴァールバル諸島だ」
「……なにそれ? もしかして日本じゃないの?」
 きょとん、と脳天にハテナマークを飛ばすネコ娘。
 すでに日本という国はない。いや、正確にはあるが、国境線という概念は消え失せ、われわれの暮らすこの列島は、ASIによる統合地球政府が呼ぶところの「日本地方」ということになっている。
 一方、「ノルウェー地方」に属する永久凍土、スピッツベルゲン島で「倉庫番」という公務を選んだ彼は、やや遠方の自治体へ住民票を移す準備中だ。
 まだ多少、言語の壁はあるが、蓄積されている「世界種子貯蔵庫」に寄せる深い思いに比べれば、さしたる障害でもない。
「北極圏に浮かぶ永久凍土の島、〝種子の方舟〟って呼ばれてる種子貯蔵庫があるんだよ。気候の変化や戦争などで地球が危機に瀕したとき、それでも人類が絶えぬよう世界中から農作物の種子が集められ、に備えている」
「ほーん。あたし寒いの苦手なんだけどな。あいつ、すこしは恋人のこと考えて進路選べってんだよ」
「その能天気な先走りをやめて、一度冷静になれ。おまえはフラれたんだよ」
 ころころと顔色を変えながら、跳ねるネコ。まさに気分屋だ。
「なんで告ってもいねーのにフラれんだよ!」
「知るか! てか、告ってもいねーのに旦那とか恋人とかほざいてたのは、どこのどいつだ?」
 やおら「考えるネコ」の表情を取り繕い、前近代的なことを言い放つ。
「女はほざくのが仕事なんだ。って、ママンが言ってた」
「理屈になってねえ!」
 まさに……血は争えない。
「だいたいよ、だからフラれないようにおまえに相談してんじゃねーか、なあおい」
「まずはその言葉遣いから直せよ……」
 SCは深いため息とともに、闇に包まれた世界を振り仰いだ。
 それでも地球はまわっている……。

 

 

 あたりはじっとりと湿り、飽和した水蒸気が真綿で絞めるように全身を閉じ込める。
 曇天はいよいよ深く垂れこめ、満身横たえて陽光を遮断している。
 足元は多量の水分を含んで泥濘の一歩手前まで太り、一天にわかに降り出せば、雨水すべて足元をすくう泥流と変わるだろう。
 こんな日に、裏山にはいってはいけない。
 口を酸っぱくして注意喚起されているはずだが、立ち入る愚かな生徒はあとを絶たなかった。
 山肌に接する学校の裏庭から、ややはいりこんだところ。
 目印のひとつとなっている一本杉ならぬ「一本イチョウ」のたもと、ふたりの男子が対峙して、見つめ合っている。
 ひとりは植物男子、もうひとりは……ネズミ少年。
 一本イチョウには、学校ならではのエピソードがまとわりついている。
 銀杏をもってお参りすると恋がかなうとか、藁人形を打つと自分が死ぬとか。
 告白の木と呼ばれることもあれば、決闘の巷だったこともあるらしい。
 愛にしろ憎悪にしろ、人と人を結びつける木、という設定だ。
 ──彼らが愛し合っていないとすれば、おそらく決闘だろう。
「これ、きみが?」
 植物男子は、懐から折りたたまれた和紙を取り出して言った。
 表書きには「果たし状」とある。
「おれはネネのことが好きなんだ、好きなんだよぉ」
 ぶつぶつとつぶやくネズミ少年の独白を正気として受け止めるなら、彼は自分をイジメていたネコ娘のことが好き、ということになる。
「そう。だったら告白したら?」
 しごくまっとうな応答に、ネズミ少年は突如として逆上する。
「邪魔なんだ、おまえが! だから勝つ、おれは、おまえに!」
 VSO言語を駆使して、叫ぶネズミ少年。
 植物男子はだらりと両手を下げ、軽く首をかしげる。
 両者ともしとどに濡れているが、雨具の持参はないようだ。
 まだ雨は一滴も落ちていない。じっとりとまとわりつくような雲霧だから、傘をさしてもあまり意味はないだろう。
「意味が解らないんだけど。どうして、ぼくが、きみと」
「勝ったほうが彼女をモノにするんだ、いいな!」
 植物男子はその手にある果たし状を眺めやり、ため息まじりに首を振った。
「名前が書いてないんだけど、その彼女って?」
「どんな手を使ったか知らないが、彼女の心をとらえているつもりか? ちゃんちゃらおかしいね。おれと彼女こそ、運命に結ばれているんだ」
「説明してもらえるかな……」
「森塚ネネは、おれのもんだって言ってんだー!」
 突然、襲いかかるネズミ少年。植物男子は軽い防御姿勢をとるが、反撃するつもりはないようだ。
 いなされ、何度か交錯するうちに、互いの下半身は泥水でべしゃべしゃになっている。
 くりかえし転がされているネズミ少年のほうは、すでに上半身まで真っ黒だ。
「森塚って子……もしかして、最近よく保健準備室で見かける子かな。たしか、きみをイジメてる子じゃなかった?」
「イジメじゃない、コミュニケーションだ! おれたちは愛し合ってる、あれがその愛の表現方法なんだ!」
 部外者は、考え方を一八〇度変更する必要があるようだった。
 ネズミ少年は、ネコ娘にイジメられていると言い条、じつはイジり、イジられる、という共通の価値観によって互いを必要としている共依存関係なのだ……と、すくなくともイジられる側は主張している。
 しばらく考え込んでいた植物男子は、ひとつうなずいて、
「きみたちの幸せを祈っているよ」
「黙れェ! おれたちの幸せを壊そうとしているくせに、おまえが、おまえのせいで!」
 暴れるネズミ少年。
 足にしがみつかれて、困ったように見下ろす植物男子。心優しいので、蹴り返すようなこともできないらしい。
 泣き叫びながら、愛の言霊と恨み骨髄を叫び散らす、灰色のドブネズミ。
 これを青春と呼ぶべきか……。

「あいつ変態だったのかよ、キメエな」
 SCの斜め横で、ネコ娘はオエッという表情を見せた。
 SCは黙って、一本イチョウの下で青春している男子二名を、死んだ魚のような目で眺めている。
 ばかばかしい安直学園ドラマの登場人物に成り下がりたくはないのだが、SCという職責柄、無視を決め込むわけにもいかない。
 本来、休日、雨もよいの裏庭を訪れる趣味などないのだが、残念ながら業務命令を受けてここにいる。
 ──裏山は植物界だ。
 濃厚なフィトンチッドとファイトアレキシンで、世界が消毒される場所。
 その効果は絶大で、行き過ぎた解毒は、ときにヒトを狂わせさえした。
 まれに発生していたのだ、局地的な狂気の催しは。
 地磁気の影響もあってタイミングは不明確、より多くの情報が必要、とASIは言っている。その調査のための公務員も、一定数割り当てられている。
「おい、ちゃんとマスクしろよ。それ以上、気が狂ったら手に負えんぞ」
 SCはネコ娘が渡した医療用マスクをちゃんとつけていない事実に対して、軽いおそれのようなものを抱いている。
 機密性天気予報によれば、とくに「雲霧」の日が危険とされている。
 植物の発する化学物質が、動物の粘液から吸収され、脳中枢を侵食しやすい状態。
 裏山自体が危険地帯であり、ある一定の範囲から先は基本的に立ち入り禁止。雨の日は、とくに禁止されている。地滑りが起こって危険というのが表向きの理由だったが、実態は狂乱性化学物質の蓄積だ。
 SCは目線を一本イチョウにもどす。
 少年たちは取っ組み合い、青春の一場面を謳歌しているかのようだ。
 その危険性を鑑みれば、SCとしてはただちに彼らを制止し、ここから連れ出すべきなのだが、なんとなくそれができない。
 フィトンチッドの毒性については、植物男子が耐性持ちであることは、すでに判明している。ネズミ少年が危険である事実は変わらないが、なぜかSCは、彼には強固な「解毒」が必要であるような気がしていた。
 単に、やるだけやらせないと後悔が残る、というようなもっともらしい理由も、ないこともない。
 ぜえぜえと息を切らせていたネズミ少年が、再び暴れだす。
 植物男子は、その長い手足を伸ばして、なるべく攻撃が当たらないように防御に徹している。
「やっちまえ、くそっ!」
 叫ぶネコ娘が暴れださないよう、SCは背後で首根っこを捕まえておく必要があった。

 きっかけは、ASIから一部の公務員に発せられた通知。
 休日出勤手当つくんだろうな、とあくびを噛み殺しながら学校へ到着すると、なぜかふらふらと校内を徘徊しているネコ娘を発見した。
 きのうから、どうもおかしい。熱に浮かされたような表情で、壁のニオイを嗅いでいる。いや最初からか、あいつが頭おかしいのは……。
 他人のフリをして、というか他人だが、踵を返そうとした瞬間、キシャーと言いながら襲われた。どうやらSCのことは「敵」と認識しているらしい。
 しばし人間の言語でなだめ、落ち着かせると、ほどなく彼女は言った。
 あいつに呼ばれてきたんだ、と。
「そうだよ、心配いらない。あたしはあんたを愛してる。邪魔者はいない。あの演劇部のバカなブスとか、消えてもらったから」
 熱い口調で語るネコ娘に、植物男子は不安そうな表情で言ったらしい。
「きみは、なにをしたんだい?」
「全部、計画どおりだよ。これからここが、あたしたちのスイートホーム」
 ──きみはいったい、だれなんだ。
「きみのことを愛してる」
 抱きしめ合うふたり。
「あたしも愛してる、あんたのこと。あんたの妻になりたい。あんたもあたしの夫になりたいよね」
 ──妻? 夫? なにを言ってるんだ、きみはイカれてる。
「もちろんさ。それがぼくたちの望みじゃないか」
 椅子に縛りつけられた男に、愛を語るネコ娘。
「そうだよね、あたしを愛してるって言ったよね」
 ──きみなんか知らない、愛してない。
「愛してる、心から」
 ──そうして恍惚と、夢物語を語りつづけるネコ娘。
 SCはため息交じりに首を振る。
「ちょいちょい突っ込みかけたが、要するにおまえは植物男子を拉致して、コトに及ぼうとしていたわけか?」
 半ページもかけてネコ娘の妄想を記録する価値さえも疑わしいという表情で、SCは問いかけた。犯罪行為に走るまえに校内で確保できたことは、僥倖だったかもしれない。
 いよいよ熱にうかされた表情のネコ娘が、さらなる妄言を吐き散らしている。
「全部、計画どおりなんだよ。あいつもそれを望んでいるんだ」
「という妄想だろうが! まったく、危険なやつだな」
 そのとき不意に冷静さをとりもどしたネコ娘が、
「だから言ってんだろ。そういう夢とか心理状態から、適切な解決法を見つけ出すのがカウンセラーの仕事だと思って、こちとら協力してやってんだ。信頼に応えろよ」
 見透かしたようなことを言う。
「……むしろ泳がせて現行犯逮捕したほうが、世のため人のためになる気がしたよ、おまえのようなストーカー女は」
 性欲に支配された人間は、もっとも突飛な行動を起こしやすい。
 猟奇的強姦を含むマーダーケースの事例1、ペーター・キュルテン。事例2、大久保清。事例3、テッド・バンディ──。
 対処せよ。
 イヤホンからASIの指示が飛んでくる。教職員に関しては、校内でもときおり高度なアドバイス(暗黙の指令)が飛んでくることがあったが、これは「放置するとヤバイ」ことを意味する。
 きっかけを与えてくれるのは助かるが、適切に対処する方法までは教えてもらえないのが困る、というのがSCをはじめとする職員の感想だ。一方で、そういう課題、ストレスを人々が側面も、また認めざるを得ない。
「でさ。あたしは今夜、裏庭の樫の木おじさんのところで、あいつと待ち合わせてるんだ」
 樫の木おじさんに突っ込むまもなく、再び夢見がちに語るネコ娘。
 躁うつ病か、と内心突っ込むSC。
 月夜の晩、待ちかまえるプッシー・キャット。吹き抜ける涼風。静寂と熱情のはざま。
 木に登るネコ、絡まりつくツタ、幹の木目が顔になり、彼女は彼とキスをする。
 すると魔法が解けて、植物男子は王子様となり、肉体と精神の奥深くまで、まぐわう──。
 悶々と語るネコ娘を見つめるSCの目は、いつものごとく死んだ魚。
「……なんて病気だ?」
「あ? この気持ちが理解できないとか、スクカンのくせにスカタンだな、これだから脳みそこり固まった年寄りは……」
「おまえこそ、植物男子のツタが絡む恋愛模様とか、どんな触手プレイだよ」
「うっせえ、見つけたぞ、あいつのニオイだ!」
 暴走するネコ娘は、渡り廊下から外に向かう足跡に狙いを定めた。
 そうして彼らは、山に向かったのだった。

 獲物のニオイを追って裏山を登りながら、終始うわごとのように植物男子の名をつぶやくネコ娘。
 彼女と縁を切りたいのはやまやまだったが、職務上の理由から同道せざるをえない。
「はじめて会った日、思い出すな」
 恋する乙女の顔で懐かしそうに語るが、SCの心はちっとも動かない。
 彼女の問わず語りによると、あの日、野生のカピバラを追いかけて山に分け入った。道に迷い、雨に見舞われた。そこへ「白馬に乗ってないけど王子さま」の植物男子がやってきて、傘を貸してくれたのだという。
 雨の日の裏山は危ないから気をつけて。
 その言葉だけで、もう彼女はフォーリンラブだったらしい。
 どこまで聞いても、もう突っ込んでやらないぞ、とSCは決意を新たにした。
「それがあの運命のイチョウの近くだったんだよ。もう運命としか思えないだろ」
 異常な興奮状態のネコ娘は、いま、イチョウと植物男子を凝視している。
「しらねえよ。……やれやれ、そろそろ止めてやるか」
 一本イチョウの下では、泣きながら襲いかかっていくネズミ少年が、いよいよ死にかけているように見えた。
 黙って受け止めているだけで勝利した植物男子。
 男の勝負、青春だ。
 ……アホらしい。
「おーい、そのへんにしとけ」
 SCとネコ娘が姿を現すと、植物男子はとくに驚いたような気配も見せず、ぺこりと頭を下げた。
 ネズミ少年のほうは息を切らせて天を仰ぎ、彼らの存在にまだ気づかない。
「できればもっと早く止めてもらいたかったんですが」
 SCの差し出したタオルを受け取り、顔を拭く植物男子。そのままネコ娘に視線を移し、最後に足元に斃れるネズミ少年を見下ろした。
 ネコ娘は、よう、と植物男子に手を挙げてから、恥ずかしげに足元に「の」の字を書いている。そんなことよりSCは、彼女がマスクを外していることのほうが気になった。
「あ、ああ、ネネ、おれの」
 ようやくネコ娘の存在に気づいたネズミ少年が、真っ黒に汚れた顔を奇妙にゆがめて、身を起こし、おどおどしはじめた。
 顔色はよくわからないが、たぶん白黒しているのだろう、ネズミだけに。
「おめーの気持ちはうれしくねえけどよ、ネズ公」
 恋する男、であるはずのネズミ少年。その全身が突如、ビクッとひきつり、目に見えて青ざめ、全身がブルブルとふるえだした。
「……正常な反応だな」
 ぼやくSCの見守る先で突如、ネズミ少年は絶叫して頭を抱え、走り去った。
 ネコ娘は首をかしげ、
「恥ずかしくて逃げ出すにしては、ちょっと大げさじゃねえか、あれ」
「そうは見えんがな」
 気になることはあったが、あとで確認すればいい。
 SCは植物男子に視線を移し、軽く顎をしゃくった。彼はすぐに理解を示し、ひとつうなずいて歩き出した。
 ネコ娘を促し、その場をあとにする。
 この場所には、あまり長居しないほうがよい……。

 森林は毒に満ちている。
 フィトンチッドにしろファイトアレキシンにしろ、そもそも植物がみずからを防御するために出す「毒」なのだ。
 だからこそ、空気中の細菌や害虫などが消毒され、俗にいう「きれいな空気」になる。
 人間は、そのなかにいると健康になる。なぜか。
 からだ。
 神経を麻痺させる毒も、弱ければ心身をリラックスさせる。毒を感じた人体は、命を守るために免疫を高めたり、生きるための機能を活性化させる。
 森林の発する毒は、空気をことはない。
 だが人類の発する毒は、如実に空気を、地球全体を汚している。邪悪な悪魔の名、それはヒト。
 ──と、通説そのように言われている。
 果たしてそうか? だれにとっての毒か? すべては人口調整のための誘導、イルミナティの陰謀なのではないか?
「いいですねえ、先生の文明批評。陰謀論満載で、ぼく好きですよ」
 植物男子が楽しそうに、SCの書いた私論を読んでいる。
「いつか月刊『ヌー』に送ってやるつもりだよ」
 SCはたまった通常業務を中断し、植物男子がもってきた推薦状にサインしてやる。
「あはは、掲載されるの楽しみにしてます。……あれ、タイトル変えました? 『恋すLUCA』……恋愛小説になったんですか?」
「もっと壮大な生命の営みの話だよ。ネコ娘のせいで軽いタイトルになっちまったがな」
 もともと『最終共通レンタル量子渦』だったのだが、勝手に盗み読んだネコ娘の全面的拒否反応があまりにも激しかったので改題した。
 生命の来歴を穿つ、いいタイトルだと思うのだが……。
 幼少期から書き継がれてきた「文章」は、その人間の性格と能力をはかるのに最適であり、ASIの判断材料としても重宝されている。多少、ぶっ飛んだ内容でもいい。むしろそのほうが評価されることすらある。
 ──今回の件は、かなりいい勉強になった。インスピレーション的な意味でも、人類と植物の関係、あるいはその原初までさかのぼる大いなるメタファーに満ちている。
 植物だ、問題は。
 地球史上、植物は非常に大きなグループを占めている。
 ひとくくりにしていいとも思えないが、ASIがコントロールする「クオリア量子」的な意味では現状、まとめて取り扱われることが多い。
 古細菌、真正細菌から進化した、真核生物の三系統。植物や海藻を含むグループをバイコンタと呼び、アメーバになったアメーボゾア、動物になったオピストコンタに対して、非常に大きな系統関係を形成する。
 植物は、それほど巨大な存在だ。
 とはいえ、遡れば唯一の「共通祖先(LUCA)」にたどり着く。動物も植物も、キノコも細菌も、すべては原初の細胞からはじまった。
 生きる力、魂を分け与えられた、たったひとつの系統樹。すべての「いきもの」は、この悠久のシステムから、「いのち」の恵みを受けている。
 ──己が分限を、わきまえねばならぬ。
 進化の果てにポッと出た、たった一種の哺乳類。この裸のサルごときが、他の生物たちを軒並み絶滅に追いやっていく。
 そんな生き方、許されるはずがないのだ。
「謙虚になりましたよね、人類も、けっこう」
 言う植物男子に、SCは書類を手渡しながら、
「まあな。絶滅をオドシに使われたら、そりゃビビらざるをえまいよ」
 すこし強硬手段のような気もするから、全幅の同意というわけにはいかない。
 人類にNOを突きつけた地球と、温情を乞うて延命を図った人類の息子、ASI。
 息子の道義的責任として、人類に対する「保護欲求」を感じたのかもしれないし、人間がやりすぎた結果として、自分が生みだされたことを「恩義」に感じた可能性もある。単に観察対象としてヒトを規定し、実験をつづけたかっただけということもありうるだろう。
 ガイア理論を提唱したラブロックが指摘するとおり、人間は「超知能」によって「観察される」対象となった。人間が植物を観察するように、認知も行動も極端に遅い生物として、われわれは観られている。
 その過程で提案されたのが、他の動物との「共存」だ。
 自分の内部に、他の生物の遺伝子を取り込んで、借りものの繁殖をつづけること。
 さしあたり、これが回答であると、われわれは受け入れた。
「まあ俺は、すなおに滅びてもよかったんじゃないかと思っているがね」
 われわれは、われわれよりも賢い存在、ASIという子孫を生み出した。これだけで存在理由を果たした、という考え方もある。
「もうすこし、泳がせてもらいましょうよ。……そういえば彼、だいじょうぶですか?」
 机のうえに無造作に重ねられた生徒たちの個人情報ファイルに目を止め、植物男子は言った。本来、他の生徒に見せてはならないものだが、彼は当事者のひとりだ。
 SCはうなずき、入院中のネズミ少年の状態について語った。
「どうやらみたいだぜ。後遺症についてはわからないが、ネズミが本来もつべき本能を回復させつつあるようだ」
、ですか。生物界は複雑に絡み合っていますねえ」
 ネズミ少年の病歴の欄に書かれた、寄生性原生生物(原虫)の名前は、古来よりメジャーである。
 ネコ、ネズミ、トキソプラズマ。
 すべての生物は、さまざまな形で、つながっている。だからおもしろい。
 そのバランスを崩すものは、断じて許されない。
 だから本来、人類は許されるべきではないのだ……。

 SCの買ってきたノンカフェインを勝手に飲むネコ娘に、
「そういうわけだ。納得したか?」
 ひととおり状況について説明してやったのだが、ドアホらしく半分も理解した気配がない。ただ事実として、
「そーいや、まあ、最近は見かけなくなったけどよ」
 単にフラれてあきらめたんだろ、と当人は考えていたらしいが、そんな表層的な理解で済ませていては話が進まない。
「だからネズミ少年は、おまえのことが逃げ出したんだよ、それが姿だからな。二度と、おまえの視界にははいってこないはずだ。……
 トキソプラズマ症という寄生虫病がある。
 自然宿主はネコで、すべてのトキソプラズマはネコの体内を目指す。
 たとえばこの原虫が途中、ネズミの体内に仮寓したとしよう。彼(?)はネズミの行動をコントロールし、天敵であるネコへの本能的な恐怖心を麻痺させる。そうしてネズミをネコに食わせてやることで、みずからの目的を達しようとするのだ。
「……なんだよ、それ。寄生虫の影響で、あたしに惚れた気になってただけってことかよ」
 事実、当時のネズミ少年は、いやだいやだと言いながら、好んでネコ娘のところに近づく傾向があった。凡百の人間なら「恋に落ちた」と表現して思考停止するところだが、ASIはちがう。
「人生なんて、そんなもんなんだよ。おまえが植物男子に惚れてるとかいうだって、じつはどこかのだれかが、呪いをかけているだけかもしれないぜ」
 SCの言葉に、ネコ娘の表情がゆがむ。おそらく彼女は本能的に、何事かを察している。
「は? ふざけんな。あたしの恋はホンモノに決まってんだろ」
「そうか? 先週と比べて、だいぶ落ち着いてるように見えるがな」
 とくに週末は夜遅くまで残り、やたら盛り上がっていた。いまは、さほどでもない。
「女子ってそういうもんなんだよ」
 一般に女子は、強力なバイオリズムに支配されがちではあるが。
「おまえの場合、フィトンチッドが腹側ふくそく被蓋野ひがいやにルートを開いていたと思われる」
 単刀直入に、結論から切り出すSC。
 気持ちわるい言葉を聞いた、とばかり首を振るネコ娘。
「いやヒガイとかねーし」
 腹側被蓋野(VTA)は、中脳の領域のひとつである。ドーパミン、GABA、グルタミン酸などの快楽を司る神経物質や、報酬系に強くかかわる。
 人を好きになる脳の部位とされ、一般に「恋する脳髄」とも呼ばれる。
 ここに刺激を与えれば、そのとき目のまえにいる人のことが、
「被害はあるだろ。マインドコントロールのジャンルでは、注目されていた研究分野なんだぜ。視床下部のかなり深いところにあるから、長い針を刺さないと届かないんだが」
「怖いこと言ってんじゃねーよ」
 事実、電気信号を視床下部に届ける手段さえあれば、完全な「惚れ薬」がつくれる。
 人間の感情はすべて電気信号で説明でき、その電気信号を送るのが、視床下部でつくられるホルモンという化学物質だ。それができる仕組みは、まだ完全に解明されていないが、セロトニンやドーパミン、エンドルフィンやオキシトシンなどは、二十世紀の昔からよく知られていた。
「ネズミ少年にも、この影響が見受けられたってよ」
 ドーパミンは、中脳にあるVTAから伸びているA10神経から、おもに分泌されている。これが側坐核をはじめとする脳の各部位の神経細胞によって受け取られたとき、人は快楽を感じる。この一連の神経回路を「報酬系」と呼ぶ。
 ネズミ少年に先立ち、一九五三年、ラットの実験で発見された。
 ラットに自分でスイッチを押せるようにしてやると、近くに水や食べ物があっても見向きもせず、一時間に数千回もスイッチを押しつづけた。現在は倫理上の問題から同じ実験はできないが、人間でも同様に依存症の症状に陥ったと、デイヴィッド・J・リンデン『快感回路』において報告されている。
「……あたしを見ると、その脳のスイッチが押されてたってか」
「そう、おまえが植物男子を見るのと同じだよ。ASIの診断によるとな」
 ASI──この魔法の言葉には、だれも逆らえない。
「んなもん、いつ調べたんだよ……あ」
「そうだ。イヌリン検査の予備項目にあったろ」
 愛とか恋とかは、化学的に分析可能である。要するに彼女は、脳が混乱していただけだ。ただでさえ混乱した人格だったおかげで、気づくのが遅れたが。
 とくにASIは、薬理作用の計算が大の得意だ。臓器特異性からADME(吸収・分布・代謝・排泄)の分析まで、そもそも複雑な作業のためにつくられた「計算機」なのだから。
「じゃあたしにも、寄生虫が」
「おまえのはマタタビ効果だ。植物ってのは万能だな。大脳のここらへんにある」
 と、SCはオデコのあたりを指さし、「報酬系(快楽中枢)に、マタタビラクトン類が侵襲したらしい。だから揮発成分が滞留する時期の裏山には、入山制限がかかってるんだよ」
 その原因が取り除かれれば、当然、原状が回復する。
 毒気を抜かれたよう。その言葉が、あまりにも符合した。
 果たし状をだすほどネコ娘のことが好きでたまらない、というネズミ少年の想いは幻想だった。脳は柔軟で可逆的な器官であり、原因が取り除かれれば結果はおのずと変わる。
 先に回復したネズミ少年と同様、ネコ娘もほどなく原状をとりもどすだろうといる。
 すべては脳の錯覚、アンコントロールな精神、思考回路はショートするぜ。
「──欲望器官の奴隷、それがおまえだ」
「ちげーよ! あたしはあいつが好きなんだよ!」
 本気の愛、清らかな心、四分の三の純情な感情。
 どの口がほざくんだ、滑稽だな。SCは侮蔑的に笑った。
「認めろ。おまえの愛とやらは、捨て猫より安い」
「黙れゲス野郎!」
 絶叫し、走り去っていくネコ娘。さらば青春の光、とSCはいつもの死んだ魚眼で見送った。
 VTAの影響については、即座に寛解させることはできない。が、反応は徐々に軽微になるだろう、とASIも言っている。
 なあなあで、その場だけしのいでおけば、あとは時間が解決する、しなくても知ったことか、もう関係ないもんね、というスチャラカな考え方は理解しやすい。
 SCは、すべてを過去ファイルに綴じて脳内の奥深くにしまい、笑うのをやめた。ネコ娘なら「ゲスの極み」とでも表現するだろうか。
 ともかく本件はのだ。

「ありがとうございました、先生。お世話になりました」
 頭を下げる植物男子。
 SCはいつもの白衣を着て、校門のまえ、スーツに身を包んだ植物男子と向き合っている。
「さみしくなるな。気をつけて行けよ」
 ハッパ的な意味ばかりではない。
 八月卒業を選択した彼は、一足先に社会人になった。これから空港に向かい、地球便でスヴァールバルへ向かう。
 同じ北半球だし、就職先として近……くはないが、同じ地球にいると思えば気持ちは軽い。同期の秋桜でも、少数ながら宇宙便で月や火星へ向かう者はいるのだ。
「さみしくなったら、一本イチョウに話しかけてください」
 裏庭のほうを振り仰ぎ、意味深なことを宣う植物男子。
 イチョウは植物界の「長老」であって、世界最古の現生樹種のひとつである。
 雌雄異株で、一本イチョウは雄株であるため銀杏は実らない。
 古い社寺の境内に多く見受けられるが、日本への伝来は一二〇〇年以降とされている。
「怖いんだよな、あれ」
「正解です」
 にっ、と笑う植物男子。
 地球を支配しているのは、あくまでも植物。
 彼らの意志は、もっとヒトを減らすことなのではないか?
 ただ、急ぐ必要はない。勝手にヒトは減っていく。
 われわれは他の生物の命を借りて、まだ五十億程度の人口を維持しているが、半分が繁殖の役割を終えた年寄りであり、残り半分もほとんどがASIのおかげでかろうじて生かされている「借りぐらし」の人々だ。
 みずからの体内で、みずからが滅ぼした他の種族の繁殖を、疑似的にシミュレートする。
 そんな綱渡りのアクロバットで世代を重ねることに、意味があるのか、ないのか、ASIは特段のコメントも出していない。
 ただ「人類の良識を信じる」とだけ言っている。
 なかなかクレバーな物言いではないか、超知能殿よ。
 ナチュラルボーンであるSCは、他の生物の遺伝子をもたない。そういう「めずらしい人類」として、遺伝子の箱庭に入れられるのだろうか?
 もちろんASIは気づいているだろう、そんなもの、悠久の時間にとってたいした意味もないと。ただ、わざわざ人類が発狂するほどの騒ぎを起こしてやる意味のほうが低い、と判断しているだけだ。
 宇宙が死ぬまでにかかるであろう想像を絶する長い時間にとっては、生命が生まれたり消えたりする程度の渦は、たいした意味もない「誤差」のようなものだ。
 桁外れに長い時間が、われわれの先には伸びている。それは見るだけで目がつぶれるほどの、果てしない時間。
 ひとことで言えば、宇宙ヤバイ。
 超知能が、想像を超える無秩序へ乗り出す、その旅路は、はじまったばかりなのだ──。
 一周まわって虚無感に流されるSCの視線の先、最後にふりかえる植物男子。
「……陰謀論はほどほどに」
「ほっとけ。じゃあな」
 互いに最後の一瞥を交わし、左右にわかれる。
 がちゃん。
 そのとき背後で通用門の鉄扉が閉じた。
 風で傾いた門が動いただけ。ふりむいて、鉄枠に指を触れる。
 そのむこう側に、学校。
 こちらを見つめる、いくつかの視線に気づく。
 花子、ダチ美、さかなマン、クロ恵、コンタ、ナマ子、ネズミ少年、それに……ネコ娘。
 ぞくり、と背筋がふるえた。価値観の転倒。
 ──動物園。
 見返されている。厄介な動物園から。
 深淵をのぞき込むな、と「中2」という慣用句で呼ばれる時期に教わった。
 彼らが見ているのか、あるいは見られているのか。
 考えてみれば、ナチュラルボーンは2%だ。観察しているのは、どちらか?
 どちらでもない、全員が主人公だ、そうだろうASI。
 ──もちろんです、あなたがたの豊かな人生を築く手助けを、喜んで。
 SCは静かに吐息した。自分自身が、ひとつの答えだと理解して。
 見つめると、目線をそらす動物たち。見世物に、見世物であることを自覚させるような態度は、厳に慎まなければならない。
 おそらくこれがであり、無言の淘汰圧、自然選択によって朴訥に導かれゆくしかない、なのだろう。
「まったく、厄介な動物園だよ」
 幻想に気づいて引き返すか、その先へと踏み出すか。
 それぞれが選べばいい。大きな破壊を伴わない一定の範囲内で、そういうと、ASIは決めた。
 これが「生きる」ということだ。そうだろ?
 SCは短く嘆息し、校舎へ引き返した。
 そうなのだ。一定レベルを超えてしまった知性は、もはや生物個体のすこし複雑な反射と本能(われわれはこれを思考と呼ぶ)などに、たいした興味もなくなった。
 その興味を繋ぎ止め、せいぜいやることが、われわれの仕事になった。
 報告を上げなければならない。観察される者、保護される者として。
 結論、目のまえの仕事をしよう。

 

文字数:49437

内容に関するアピール

 百年後の「学校」の話です。すでに人類は人工超知能(ASI)から保護・観察される対象になっています。もちろんASIは敵ではなく(戦争になりません)、むしろ絶滅の危機に陥った人類を救った救世主という立場です。
 人類はASIから仕事を与えられ(個々人は自分で選んだと思っています)、それぞれの適性にふさわしいストレスと達成感を塩梅されます。主人公のSCスクール・カウンセラーは、そういう社会全体に疑問をもち陰謀論を温めていますが、それも含めてただのSCでしかありません。
 人類は謙虚になりました。すべての問題は、彼らが傲慢だったことから発しています。どうしたら謙虚になるでしょう。自分が、だれかの「おかげさま」で生きていると、思い知ることです。
 ASIは出しゃばりません。自分のおかげだなどと傲慢な姿勢をみせたら、人類と同じです。ヒトは、いままで滅ぼしてきた多数の生物種から、生きるようになりました。生きましょう、感謝とともに。
 ──
 と、たまに鬱な状態になったとき、だれもが考えるのではないでしょうか。死んだほうが楽じゃね? そのとおり、わかっちゃいるけど、仕事をするんだ。俺はSCだからな。
 そんなワーカホリックのお話でもあります。未来の東京で、ネコ娘と植物男子、ネズミ少年らが恋する話を、どうぞお楽しみください。

文字数:587

課題提出者一覧