世御守

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世御守

1

  カーテンに越しに揺れる木々の影。薄い壁に風が当たると、ギシギシと音を立てた。窓も風が当たってカタカタと揺れる。それらの音に、聞き慣れない音がいまにも混じって聞こえそうで、水辺流(みずべながれ)は窓から視線を逸らして、布団の中に潜り込んだ。布団のなかで、じっと瞳を閉じるもものの、眠りは訪れるどころか遠ざかっていくばかりで、夜が深まるとともに感覚はするどくなっていく。息苦しさに、流は布団を少し持ち上げて、空気穴を作ると、ゆっくりと呼吸を繰り返した。冷たい空気を吸い込んで落ち着きを取り戻すと、ふっと瞼がおもくなっていく。
 あぁ、やっと眠れると流が思ったとき、カタカタと天井、もしくは屋根の辺りで何かが触れる音がした。何かが鳴いているような音。その音を聞いた瞬間。自然と呼吸は浅くなり、流の微睡みかけた意識も緊張感とともに張りつめた。流は微動だにするまいと目を開き、布団の穴からわずかに見える部屋の隅を睨み続けた。四畳半の狭い部屋ではあったけれど、今の流には壁と床の隅が遥か遠くに感じられた。西側には窓、東側には押し入れ、南側には薄い鉄材で内と外を隔てるドア。たったそれだけの、眠るためだけに用意された部屋で、流はひとりで夜を過ごさなければならなかった。布団のなかで、耳を澄ましてじっとしていると、耳の血流がはっきりと聞こえてくる。どっどっどっと繰り返すその音に、流は惑わされないように、何度も深呼吸を繰り返した。混乱する頭の中で、祖父の汀(みぎわ)の言葉を流は思い出した。
 『お前の感覚は何も感じ取ってはいない。だから何も起こらないし、何も起きていない。闇を見つめていればいい。ヨゴモリの間は』
 そう、おじいちゃんはいつもそういっていた。流は、足を腕で抱えるようにして丸くなる。
『やみになかぬからすのねをきけば、
 うまれぬまえのちちぞこひしき、
 にしからのぼるひをみれば、
 かわはうみからやまへとながれる』
 おじいちゃんから聞いた、魔法の言葉。流は、ぶつぶつと小さな声で唱え始めた。
  汀は、怯える流を抱きしめ、なんどもその言葉を唱えていた。そのおかげで流は、自然と落ち着いて眠ることができたのだった。
 しかし、丸まった小さな体を、後ろから温かく抱きしめてくれる人はもういなかった。
 流は、瞳から溢れる涙を拭もせずに、じっと体を丸めて、言葉を何度も唱え続けた。さきほど聞いた音が、天井から窓へと近づいてきていることに気づかないふりをするために。
 日が昇るのを待っていたかのように、流は眠りについた。自分の体に何かがのしかかるような感覚を感じて、失っていた意識が覚醒した瞬間、流はビクッと体を痙攣させた。
「なっちゃん、だいじょうぶ?」
 目と耳に飛び込んできたのは、布団の上にのっかって、こちらを覗き込んでいる、いとこの巽(たつみ)の顔と声だった。まんまる坊主の丸い瞳が、ぱちぱちと何度も瞬きをする。小さな手が伸びて、流の頬を突いた。
「めっちゃ汗かいてるよ」巽の手が、流の額に浮かんだ汗を拭う。
 ありがとう、と小さく流がつぶやくと、ゆっくりと布団から起き上がった。窓と扉は開け放たれて、外から吹き込んでくる冷たい風と、差し込んでくる温かい太陽の光で部屋は満たされていた。風が顔を撫でると、汗が冷えて寒く感じる。
 窓の向こうからこちらを見て微笑んでいる巽の父、乾(いぬい)の姿があった。
「おはよう、って言ってももうお昼だけどな。疲れただろう早く帰るぞ」
 乾はそう言って、手際良く布団を畳んでしまい、シーツをまとめると小屋の前に停まっている軽自動車に仕舞い込む。巽が「僕もやるの」と乾から物を預かるとキャッキャと笑って楽しそうに片付けた。窓側の壁に寄りかかるようにして、流はその様子をぼうっとただ眺めていた。頭はまだぼんやりとしていて、体に力は入らなかった。いま見ている光景は夢であって、まだ自分が暗闇の中で眠っているような気分だった。
「着替えるの面倒ならもうそのまま車にのっちゃいな」
 乾が、寝巻きのまま空を見つめている流を外にでるように促すと、流は言われたとおりにゆっくりと小屋の外に出ようとする。扉に手をかけようとした瞬間、流の頭に汀の言葉が蘇る。
『ヨゴモリでは、すべては逆さまだ。言葉も、動作も、習慣も。誤ってはいけないよ。恐ろしいものがきてしまうから』
 小屋に入る前に汀から必ず言われた言葉。の小屋で一晩過ごすたびに、何度も汀に、間違った振る舞いを指摘されて、流はやり直しをさせられた。
『眠る時は北に向いて寝るんだ、敷き直しなさい』
『聞き手は使ってはいけないよ、左手でおやり』
『この小屋からでるときは…』
  後ろ足で出なければならない。
 そうだ、間違ってはいけないのだ。
 身体の怠さを取り払うために、流は自分の頬を両手で叩いた。扉に向いたつま先を、くるりと部屋の方に向き直す。白い壁紙に、色あせた畳。寝るためだけに用意されたその四畳半の部屋に、流は一礼して後ろ足で外に出て、左手で扉を閉めた。
 パタンと閉じた扉の音を聞くと、ふっと体にのしかかっていた重い何かがなくなったように、体が軽くなる。流は、「つかれたぁ」と勢いよく腕を天に伸ばした。体が伸びると同時に自然と欠伸が出できて、いまにも眠れそうだった。ブナ林の葉から漏れる、日の光に眩しくて目を瞬かせた。
「ねぇ、終わったー? はやく帰ろうよ!」と車から巽が出できて、流の寝巻きの裾を掴んで引っ張った。流は、ぐっとこめられた力にふらつきつつも、「わかったよ、わかったから」と言いながら笑って車に乗り込んだ。
「ぜんぶ終わったみたいだね、さぁ、帰ってうまいもんたべるぞー」運転席にいる乾が後部座席に座った流を伺った。流はこくんと軽く頷いた。
 そう終わったのだ。今年の儀式も。
 ヨゴモリとは、年に一度、春の季節に一晩だけ過ごすという水辺家だけに受け継がれている儀式であった。いつから行われているのか、なぜ行われるのか、明らかなになっていないことが多かった。流はただ祖父の汀から伝承された言葉を一心に覚え、行っているに過ぎなかった。ただ一晩を過ごすだけ、それだけのことであったが、何かが蠢く気配を感じて、流は毎度毎度体力を消耗した。
 流はぐったりと体を脱力させて車の窓に寄りかかる。ボタンを押してもいないのに、窓が開く。
「風に当たると気持ちがいいよ、ぜったい開けたほうがいい!」
 助手席に座っている巽が、操作ボタンを動かしていた。巽は流に向かってぐっと親指をたてた。力なく、流はそうだねとうなづいた。
「ほら、そっとしておきなさい。あと出発するからおとなしくすること」
 乾は、巽にシートベルトを付けさせると、車を発信させた。流が眠っていた小屋は、ブナ林に囲まれていて、林床には熊笹が茂っていた。小屋の周辺の熊笹は刈り取られて、余計なものが生えないようにと砂利が敷き詰められている。公道と繋がっているブナ林の細い道を進んでいくと、車はガタガタと左右に揺れた。舗装された道へと出ると、窓からの冷たい風が吹き込んで、流は閉じかけそうになった瞼をこぞばゆそうに擦る。急な坂を降っていくと、険峻な崖の下を流れる川の音が聞こえてくる。葛川と呼ばれるその川は、山を下る道と寄り添うように、北に向かって流れている。流は、後方に過ぎ去っていく、ブナ林を振り返った。この葛川が見える頃には、林の種類はブナから杉へとかわっているのだ。
 『誰も入ってはいけないって言われていたんだよ、ブナ林に入れるのは水辺のものだけだったんだ』
 おじいちゃんは何度も教えてくれた。若葉のブナの葉の産毛、落葉したときの地面の柔らかさ。『ブナはお前を守ってくれるし、お前もブナを守るんだよ』と。
 谷口が開けると、視界は広がり緩やかな坂が続く。なだらかなな山裾が、東と西に対称的に伸び、葛川は、支流の水を集めて川幅が広がり、北の海へと流れ込んでいる。
 流は、後方に聳える影山(かげやま)を振り返った。澄み渡った空に向かって伸びる、新緑に青々としたあの山で、恐怖に晒されながら一晩過ごしたことが嘘のように感じられる。窓から吹き込んでくる風が、頭を撫でた。昨日の朝に刈り上げたばかりの頭を、流は隠すように車に積んであった上着を羽織って、フードを被った。車は、川のそばの道を外れて、東に伸びる道へと進む。見慣れた町並みが見えると流は、車の窓を閉めた。水辺家は、山裾の下にあって、その名前の由来にもなった、山からの湧水を家のそばに持っていた。車は、その湧水の流れる川を越えて、家の前に停まる。巽に引っ張り出されるようにして、車から降りた流は、家の前に少年が立っていることに気づいた。浅黒い肌に、刈り上げられた髪の毛、黒パンと白シャツから伸びる細い手足。その後ろ姿に気づいたとき、流の体は固まって動かなくなった。
 「あ、あっちゃんだ」巽は流の手をぱっと放って、その少年、淳のもとへとかけていく。流は、投げ出された手をどうしたらいいのか迷って、頭にかぶったフードを直すふりをした。淳と一瞬目があった気がしたものの、背けた顔を向き直すのに、強く意思を奮い立たせなければならなかった。
 「よう、巽」淳は巽の頭を撫で回す。屈託のない笑顔で、巽はどうしたの?と問いかける。「親父の付き添いだよ、いつももらってるだろうお前の従兄弟は」と、淳はくいっと顎で指し示した。
 その振る舞いに、流はびくっと背中を振るわせた。だめだ、このままではと思うものの、今までの記憶が邪魔をして、流は立ち向かうこともできない。
 『また山にこもって盗んでいくんだな』
 『坊主になって、ごろついて、そうやってぜんぶ奪っていきやがる』
 『そーならずっと髪生やすなよ』
 頭の中で淳の声が、こだまする。幼なじみといえど、深まるどころか年を重ねるたびに隔たっていく関係に、流はどうしようもない気持ちで耐えるしかなかった。
 『お前もああやって死ぬんだぜ』
 ぎゅっと流は、フードを深くかぶって、つま先を見つめた。一番思い出したくないことを思い出してしまったから。
 とんとん、と肩に置かれた手に、流は驚いて仰ぎ見ると、乾が立っていた。
 「淳、お仕事ご苦労さん」乾は、にかっと白い歯を見せて笑った。「今年のオソナエありがとうございます」と言って、深々と頭を下げた。
 淳は、バツが悪そうに、小さな声で「いえ」と言って、軽く頭を下げた。
 「それでは、失礼します」そう言って、玄関から白衣と紫の袴に身を包んだ、恰幅のいい男が出てきた。
 鹿毛町の神社の神主、淳の父親の三島であった。三島は、玄関先で、流と淳の様子を一瞥すると、すべてを察したかのように、流の方に向き直って、腰に手を当てて、頭を下げた。その三島の様子に、淳は顔を顰めてさきに橋を渡っていく。淳がいなくなったのを待っていたかのように、三島は顔をあげた。色黒の肌に、くっきりと刻まれた瞳が、まっすぐ流を捉えた。流は、淳とそっくりなその瞳に見つめられていることに、緊張を感じつつも、またちがった何かを感じずにはいられなかった。恐怖とは全く別の何かであった。
 「この度もありがとうございました。また来年もどうぞ宜しくお願いいたします」
 三島の朗らかな笑顔に応えるように、流は、一礼をした。三島は、悠然とした歩き方で、西むこうの山裾にある神社に向かって歩いて行った。
 「なっちゃん、なっちゃん、いっぱいあるよ」出て行った三島と入れ替わりに、玄関先に入っていた巽がひっよこりと顔を出した。
 重い足取りで、玄関に流が入ると、玄関框に農作物で詰められたダンボールがいくつも並んでいた。オソナエとは、鹿毛町の祭礼で集められた供物を水辺家に献上する儀礼のことだ。水辺家のものが影山で一晩過ごしている間、神社では春の祭礼が行われていた。巽は、お菓子が詰められているダンボールを物欲しげに見つめて、ダンボールから引っ張り出しては戻してを繰り返していた。流は、「今年も好きなものもっていきな」と笑って、巽が好きそうお菓子を2、3個とって巽に渡した。
 「いつも悪いね」乾はお菓子のラベルに夢中になっている巽の頭を撫でながら言った。
 玄関先の騒がしさに呼ばれるようにして奥から「おかえりなさい」と流の母、静(しずか)が現れた。静は、細身の体でかかけるようにして、大きな袋を持っている。静は流に白い巾着袋を手渡した。うけとった弾みで、ジャリ、と金属同士が擦れあう音がする。
 「今年もいっぱいいただいたのよ、流。これ運んでくれる?」
 流は、小さく頷いて、部屋の奥の和室へ運んだ。六畳半の和室には、静が1人で運んだのだろう、蓋をされたダンボールが5、6個ほど隅の方に積み上げられていた。和室に入って手前の仏壇に、汀の写真が、小さな写真立てに納められて、仏壇の中央に飾られている。写真の右隣に巾着袋を置くと、流は写真をじっと見つめた。汀の切長の目が、こちらを真っ直ぐ見ていた。
 「オソナエ」には、お賽銭も含まれた。神社の祭礼時に集まるお賽銭は、全て水辺家に納められることになっていたのだ。
 『お賽銭は、仏壇にあげて、その後ちゃんと洗いなさい』とよく汀が言っていた言葉を思い出す。今にも写真の汀が言い出しそうで、流はふっと口角をあげた。
 流は、手を合わせた。「無事に終えたよ、おじいちゃん」

 
 四年前、汀は病で命を落とした。乾は、自室で泣いてばかりいる流を連れ出した。
 「流くん、ちゃんとおじいちゃんにお別れを言わないと後悔するよ、もう二度と会えないんだから」
 乾は流をつかんで、和室の中央に据えられた棺までつれていった。水辺家には多くの弔問者が訪れていていた。
 棺は、台に置かれていて、棺の中から、太い縄が沢山垂れ下がっていた。
 流の身長ではその棺の中を覗くことはできなかったため、乾が流を抱き上げて、流は棺の中を覗くことができた。汀は、眠っているかのように瞳を閉じていた。白い服を着ていて、白い服の上に、体を締め付けるように、太い縄がいくつも結ばれている。
 「結びなさい」乾は、流に棺から伸びる一本の縄を持たせた。その縄は、汀の体の下を通っていて、棺から垂れていている縄の両端を結び合わせるのだ。
 「生き返ってしまうから」と乾の隣に立っている弔問客の男性がぼそっと呟いた。乾に抱かれ、乾の言葉に導かれるように流は、縄を結んだ。丁度汀の胸のあたりに結び目が出来上がった。流の結び目を、は隣に立っていた男性が、ぎゅっぎゅっと硬く結ぶと、汀の体はその力で一瞬揺れ動いた。
 乾は、流を縁側に座らせて、「おじいちゃんのそばにいてあげな」と流の頭を撫でた。流は、涙をみせまいと一人でうずくまっていた。
 なぜ縄で結ばないといけないのか、流にはよくわからなかった。流は結びたくなかったと、だいぶ経ってからそう思った。
 「水辺さんは、よかったな往生できて。息子は大変だったじゃないか」
 「ああ、あの子が、漁(いさり)くんの? 流くんだっけ」
 流は、その声に振り返る。漁という名を聞いたからだ。漁とは流の父親の名前であったが、流自身その名前を聞いたのはほとんどなかった。
 縁側の和室との間の廊下に、先程の縄を結び直した恰幅のいい男性と、そばに立っている女性の姿があった。流と視線が合うと、2人はパッと顔を背けて、部屋の奥へと消えていった。
 流は、自分の家にいるはずなのに、少しも落ち着くことができなかった。後ろを振り向けば、汀の棺が置かれていた。棺から垂れる縄の本数は先程よりも少なくなっていて、汀の体にいくつもの縄が結ばれている様子が目に浮かんだ。
 「お前もああやって死ぬんだな」
  その声に、慌てて流は涙を拭いて庭の方を向き直ると、淳が立っていた。黒黒とした眉は、眉間に皺を寄せていて、ぎっと瞳で流を睨んでいた。その隠しもしない自分に対する嫌悪の態度をどう受け止めたらいいのか流には方法がわからなかった。淳は、なにも言わずに泣いて黙ったままの流を見て、足摺をして拳を握りしめた。
 「メソメソ泣きやがって、お前も狂って消えればいいんだ、刃物持って消えろ!」
 吐き出された言葉の意味を、流は理解できなかった。きょとんと目を丸くして無防備に見つめ返す流の様子に、淳は言葉を継いだ。
 「お前の親父だよ、知らないのか?」
 流は、ぽかんと口を開いて、驚きのあまり涙は止まってしまっていた。
 いままで自分はどうして気にならなかったのか。気にしなかったのか。流は、かっと顔が赤くなるのを感じた。
 淳は、流の様子を見ると舌打ちをして、去っていった。
 父親の漁について家族たちの違和感を感じつつも、流は気にもしていなかった。祖父の汀も母の静も、叔父の乾も、父親のことを語ることはほとんどなかったのだ。父親の写真も流は見たことがない。流が知っているのは名前それだけであったのだ。

 
 「今年は、天井から鳴き声っと。今年はわかんないんだね。去年は、犬っぽいやつの鳴き声だったけど」
 流の自室で、巽は流の勉強机に座って、大学ノートに、流が話したことをメモしていた。そのメモの隣のページには、犬の落書きが書かれてあった。流は勉強机の側にあるベッドに腰掛けて、巽のノートを眺めていた。
 祖父の汀が亡くなってから、ヨゴモリのことを話せる相手は、流にとって巽だけだった。「毎年何があったのか、ちゃんと吐き出して忘れよう。前はどうだったか気になったら、このノートをみればいいからね」真剣そうな顔をしてノートに何か書きながら巽はいった。ノートには小屋の上に、四つ足の、犬のようなものが乗っている落書きが出来上がりつつあった。犬っていうよりは、牙の出ている狼のように牙の鋭い様子で描かれていた。
 「そんな風に書いてたら、見返したときによくわからなくなるんじゃない」
 「大丈夫、大丈夫。この落書きは僕の妄想だから。なっちゃんは絵描かないからわかるでしょ」ノートから顔をあげて、巽は鉛筆でこめかみをぐりぐりと押した。
 こうやって巽が描いてくれると、あの小屋の出来事も怖いと感じることがないのが流には不思議だった。流は一人だけで、あの晩のことをを思い出して記しておくことができなかった。汀が亡くなって、初めて一晩を過ごした時のことを流は覚えてないし、思い出したいと思ったことはなかった。一晩をなんとか耐え切って、そのまま自室に閉じこもって流は泣いてばかりいた。そんな流に言葉をかけたのは巽だけだった。「何があったの」と、巽はノートとペンを出して、変な落書きを書いては見せてくれた。昨晩のことを、ぽつりぽつりと話した流の言葉を絵にしてくれたことがきっかけで、それ以来巽のノートメモはずっと続いていたのだった。はじめの時のノートのメモには、罫線の幅を無視した大きな字で「叫び声」と書かれてあって、漫画の効果音みたいに強調された文字で、「ギャー」とか「ワー」とかがノートを埋め尽くして書かれていた。
 流は、勉強机の鍵のかかる引き出しの中から、オソナエとしてもらった海苔のカンカンを取り出した。そこに、巽の書いたノートをしまっておく。流は、そのカンカンから一枚の手紙の封筒を取り出すと、上着のポケットにしまいこんだ。
 「おじいちゃんだったら、こんなんでへこたれてるんじゃないって言われそうだな」引き出しを閉じて、ベッドに横になった流は、天井を見上げていった。自室の天井は、小屋の天井と違って、倍の高さがあった。
 「なっちゃんのおじいちゃんは嬉しそうだったけどな。いっしょに行くときいっつもにこにこしてた。なっちゃんは、ずっと泣いてたからわかってないだろうけど。なっちゃんが行かないっていってぐずっている時のほうがずっと怖かった。じゃあ僕が行くってって頓珍漢こといったとき、覚えてる? おじいちゃんは、流と私がいれば大丈夫っていって頭撫でてくれたんだ」巽は、背もたれに顎を乗せるように座り直すと、回転式の椅子でクルクルと器用に回って遊び出した。
 「ああ、覚える。めっちゃおじいちゃんに怒られたから。年下に気を使わせてどうするって」その年のオソナエから巽に自分から、好きなものを渡すようにおじいちゃんから言われたことを流は思い出した。上着のポケットに手を入れて、封筒を弄ぶ。
 「巽、ありがとうな」流は天井を見上げながらボソッと呟いた。
 「べつにいいよ。僕はいまでも一緒にいっていいって思ってるんだから」くるりと回転した椅子を止めて巽は、はっきりと告げた。
 「変な音の正体を暴いて見せるよ」
 「なんだよそれ」流は、上着のフードを深く被って笑った。瞳から流れる涙を隠すために。

 平日の昼頃、流は上着のフードをかぶったまま縁側の端に座っていた。ちょうど庭先の木々に隠れるようになっていて、外からは見えなかった。流は、ヨゴモリから1週間近く学校に行っていなかった。3歳の頃から祖父の汀とともにヨゴモリを行ってきたが、小学校に上がってからは、ヨゴモリ後の学校が億劫だったのだ。ヨゴモリの時には髪を剃り上げて、坊主にならねばならなかった。たいしたことではないと汀に、流はよく言われたが、それでも流には耐えきれなかった。同級生に幼少期からいじられていたのが、どうしてもダメだったのだ。
 母の静は、流が学校を休みがちになってもはじめから何も言わなかった。今日の朝も「いってくるね」と縁側でじっとしている流に声をかけて仕事に出かけていった。
 流は、上着のポケットから一枚の写真を取り出した。写真の中央には、若いころの静、その右隣には乾が写っている。そして静の左隣に、短髪の髪と体格のいい、凛々しい眉が印象的な男性が写っていた。流の父、漁その人であった。
 自分と全く似てない。その写真を見るたびに流は思った。
 父親の写真を手に入れたのは、汀の葬式のあとすぐのことであった。巽に頼み込んで、乾の実家の写真を持ってきてもらい、アルバムの中から父の漁の名前がかいてあるものを探し出したのだった。
 淳から聞いたことを静に聞いてみても、確かなことはわからなかった。「淳は、オソナエするのがいやだからそういうのよ。気にしちゃだめよ」静はそう言って、話してはくれなかった。
 写真の中の父の姿に眺めることに夢中になっているあまり、流は、玄関先から入ってきた乾の姿に気づかなかった。
 「なんでそんな写真もってるんだ?」乾は、流の後ろから声をかけた。ぎゃっと流は悲鳴をあげて、写真を胸元に引き寄せた。グレーの作業服に身を包んだ乾の手には、弁当屋のビニール袋が下がっていた。温かいご飯の香りと、乾の作業服からガソリンの匂いが漂って、流は軽く咳き込んだ。
 「巽を怒らないで、僕が頼んで持ってきてもらったんだ」流は、胸元の写真を乾に差し出した。乾はその写真を受け取ると、「若いなあ、いつごろだろうな」と言って笑った。「たぶん結婚間際の時の写真だろうな、はい」と乾は差し出された写真を流に渡して、流の隣に座った。ビニール袋から弁当を取り出すと、割り箸とセットで、流の側においた。いただきますと手を合わせると、弁当を食べ始めた。
 「叔父さん、いいの?」流は渡された写真と、唐揚げを頬張る乾を交互に見て言った。
 「いいのいいの、俺の奢りだから」乾は、割り箸を持った手を横に振る。
 「そうじゃなくて、いやお弁当も嬉しいんだけど、写真だよ、お父さんの!」
 流は、写真を乾に見せつけるようにして言った。ピタッと乾の止まらなかった箸が止まる。乾は、黙ったまま流を見つめて咀嚼を続けて、ごくんと音がなるような素振りで飲み込むと、口を開いた。
 「おまえの父親なんだからいいだろうよ、別に持ってても。言ってくれれば俺だって持ってきたぜ」乾は、ビニール袋からペットボトルのお茶を取り出すと、勢いよく口に流し込んだ。
 流は、だってと言いつつ、続かない言葉に口を閉じた。なぜ乾に言い出せなかったのか。乾が割り箸を持ったままこちらを見ているのに気づいて、流はうまくいえないんだけとと口火を切った。
 「でもみんな、話さないじゃないか、おじいちゃんだって、お母さんだって、叔父さんも、お父さんのことについて」
 流は、お父さん、という言葉がうまく言えなかった。何度も何度も考えていた言葉であったのに。
 乾は、縁側に食べかけのお弁当を置いて、その上に割り箸を置くと頭をかいた。
 「これは、みんなで決めたことなんだ。お前のことを考えて、お母さんが決めたんだ。おじいさんも俺もそれに同意した。でも俺は思ってた。知らないままでいるなんて不可能だ。いくら周りに注意してても誰かがお前に吹き込むかもしれない。だったら、俺たちが言ってあげるべきなんじゃないかって、静に言ったこともある。あいつは、頑なだったけどな。お前が聞いてきたら、話そうと思ってんだ。俺はな」
 流は、乾を真っ直ぐ見つめると、つばを飲み込んだ。淳との一件を話すと、「淳は悪いやつじゃないよ」と乾は苦笑いした。
 「俺だって、遠縁って言っても水辺家のことはほとんど知らなかったしな。周りといっしょになって漁をからかったこともある。まあ、あいつはその変容赦なかったからえらい目にあったけどな」
 乾の漁という言葉に、流は親しみを感じ取った。それとともに、自分と父親の違いを知って、居た堪れない気持ちになった。反論もできず、じっと耐えることしか自分にはできないのだ。
 「漁の行方は本当にわからないんだ。でも白昼に突然騒ぎ出したのは本当だ。『死ななければならない』って言ってな。けど俺には、漁に何か理由があったんじゃないかって思っている。で、いまもひょっこりどこからか漁が現れてくるんじゃないかって思ってるんだよ、変だよな。そう思ってしまうのって」
 流と乾が言うと、流が顔を上げた。乾の顔は穏やかで笑っていた。まっすぐ、こちらを見つめる乾の表情が、すっきりと澄んでいるように流には感じられた。
 「あんまり思いつめるな。言いたいことがあったら言っていいんだ。ヨゴモリだって、やりたくなければやらなくていい。もうおじいさんだっていないんだから。ずっと鹿毛にいなきゃいけない訳じゃないんだから」
 乾の手が、流の頭を撫でた。乾は、お弁当の残りのおかずを食べ切ると、ちゃんと食えよと言い残して、仕事に帰っていった。しばらくしても乾の手の感触がずっと頭にのこっているようで、流は前髪を掻きむしった。
 やりたくなければやらなくていい。その言葉に流は、縁側の先でまた蹲ってしまった。
 

 

 
 
 2
   
 
  人肌よりもあたたかい水に包み込まれているような感覚。ぷかぷかと水の中に浮かんでいるようで、ただその水の揺れに身を任せていればよかった。息を吸うように水を飲み込む。咽せるどころか肺や胃に水が流れ込んで、内と外の区別もなくなって、あたたかいその水に全身が包まれた、そのとき。暗闇が突然真っ二つに裂け、真っ白な光が暗闇を消し去っていった。
 「ああん? どうなってんだお前」
 ガツンと耳元で声がすると、流の体は思い出したかのように、息をしようとする。顔をあげると白色の投光機の灯りが目に飛び込んできて、流は目を瞬かせた。飲み込んだ海水が勢いよくせり上がってきて、一気に吐き出した。胃の海水を全て吐き出して、空気を落ち着いて吸えるようになると、喉と口がヒリヒリと痛んだ。よだれが口を伝って、コンクリートにだらりと落ちる。海水を含んだ服がべっとりと体に張り付いて重たく感じる。
 流に声をかけた男は、ドライスーツを着て、背中には酸素ボンベを担いでいた。男は流の背中をさすって、海水を吐き出した流の様子に、「上等上等。こりゃ大丈夫だな」と流の背中を力強く叩いた。流は、朦朧とした意識のなかで、抵抗もできず、男が軽快に笑い声を立てているのに耳を疑った。
 「残念だったな」と男は、濡れた髪の毛をかきあげて歯を見せて笑った。男の後ろから、待機していた救急隊がやってくるのを見たのを最後に、流は意識を失った。
  翌日、流は意識を取り戻した。身元を証明するものを何も所持していなかったことから、警察からいくつかの事情聴取を受けたが、流は何も答えなかった。警察も痺れを切らして、流を療養期間として病院で過ごすことが決定してからは、誰1人やってこなかった。流はそれについて思うところもなかった。ただ気にかかることが一つだけあった。海に飛び込んだ自分を救い出した男。あの男の、白い歯を覗かせて笑った顔が、頭から離れなかったのだ。
 病院は、流が飛び込んだ港からは離れた高台にあった。病院の窓から港の方を眺めることができた。一日の大半を窓の外を眺めることに費やしていた。

 大学進学を理由に鹿毛から離れた流は、ヨゴモリを放棄した。「つぎは1ヶ月後ね」と大学が始まるのを前に鹿毛を出ていく流に母はそういった。ヨゴモリを続けること、それが外に出る条件の一つだった。けれど、流はそれを破った。母からいくら脅されて、生活費が送金されず、金が無くて困ってしまっても流は帰らなかった。
 『やりたくなければやらなくていい』
 叔父の言葉が、流の背中を押したのだ。それを決意するのに、流は鹿毛を離れなければできなかった。電話越しに、母にありもしない事情を話しては、ヨゴモリで戻らない理由をでっち上げた。
 「代わりに巽くんがやることになったわよ、オソナエもらえないじゃないの」
 「巽くんにちゃんと連絡しなさい、自分からね」
 電話越しの母の言葉なら、聞いているだけならまだ流は我慢できた。巽の声を久しく聞いていなかった。しかし流は、巽には連絡をしなかった。巽に何て言えばいいのか分からなかったからだ。やりたくないから、あとはお前がやってくれとは、流は言えなかったのだ。
 下宿先での生活で、まず流がやったことは全てを入れ替えることだった。着る物も、持ち物もなにもかも。鹿毛から母に持たされたもので、金になるものは売り、人が欲しそうなものは大学の顔見知りに譲り、残ったものは捨てていった。手元に残った僅かな金で細々と暮らし、バイトで稼いだ金で新しいものを買っていった。人間関係において、いままでの自分を知っている者がいないという心地よさに満足していた。しかし、関係が深まってくると話を合わせていくのに難しさを感じ、流は億劫になっていった。過去のことを知られたくないという思いが、流の言葉に制限をかけていた。時には、出身地さえも偽ってしまうこともあった。小さな嘘をついていくたびに、自分で張った境界線にがんじがらめになって身動きが取れなくなっていた。普通であろうとすればするほどに、普通ではない自分を流は見つけてしまった。何も考えたくないと、暇さえあれば、バイトに明け暮れた。
 春が近づいてくると、流は落ち着かなくなっていた。母から電話がかかってきても電話には出ず、数少ない友人からの連絡にも返事を返すことはなかった。春の間は、夜を過ごすことができなくなっていた。4畳半の部屋で、布団を敷いて天井を見上げて横になっていると、窓の向こうから、ブナ林の葉の擦れ合う音が聞こえてくるようだった。照明をつけっぱなしにして、眠れない日を過ごしていると、夏を迎えても流の体は元には戻らなかった。大学3年の春。流はうなされるようにして、部屋を飛び出した。下宿先の自転車を盗んで、当てもなく自転車を漕ぎつつけたのだった。
 

 病院内では身元を明かさない流に、周囲は何も言わなかった。しかし、看護師たちは、声をかけはしないが注意は怠らなかった。最悪の事態が無いようにと入院患者にも入れ知恵をして、誰かしらが流の側にいた。病室でも、廊下でも、トイレでも。そんな周囲の様子を流は感じ取って、病院の外で過ごすことが多くなっていた。病院のロータリーにあるベンチで、腰掛けて1日を潰していた。
 流が病院に運び込まれてから、1週間ほどたったある日。早朝の病院にトラックがやってきた。朝日とともに起き上がった流は、すでにベンチに腰掛けていた。トラックは、ロータリーを半周して、道を挟んで流の目の前に車が止まる。なにか事故でもあったのかもしれない。病院ならこんなこともあるのだろうと流は黙って見ていると、車から降りてきた男が、病院の入り口の方には向かわずに、流の方へと向かってきた。
 汚れた作業服に身を包み、無精髭に黒縁の眼鏡をかけた中年の男。足早に流の前で止まって仁王立ちになると、あの白い歯を見せて笑った。
 その笑い方に流は思わず、「あっ」と声を発した。
 「なんだあ、話せるじゃないか。警察と病院はお手上げだからなんとかしてくださいってよ。俺が引き上げたからって言うけどなあ。まあいいや、ほら」
 男は強引に流の腕を引っ張った。立ち上がるつもりはなかった流だったが、思ったよりも強い力と、男の言葉に反応してしまう。流は男に導かれるまま助手席に乗せられそうになる。
 「どこに連れていくんですか」と流は背中を強引に押してくる男を振り返って言った。
 「別にどこだっていいだろ、そもそもお前はもう病院にいられねえよ」
 男は吐き捨てるように言うと、流を席に押し込んで、車の扉を閉める。男は運転席に座ると、シートベルトも締めずにアクセルを踏みこんで、病院の前の坂道を降りていった。
 「最初はみんな優しいけどなあ、それを黙ってちゃあいけねえ。誰かが責任をとられきゃいけねえわけだけども、お前は喋らないし突っ込むと今にも死にそうで不安定だし、警察も病院もめんどくせえんだわ」
 男は、慣れたように猛スピードで坂道を降ると、港の方に向かう道とは反対の道に左折して、路肩に停まった。
 「自分の家に戻れるなら戻ればいいし、戻りたくなければここにいな。それもいやって言うなら、この辺の港に落っこちても、また俺が拾っちまうから、他の港で落っこちてきな」
 捲し立てるようにはっきりと告げられた言葉に、そっぽを向いていた流は、男の顔を睨みつけた。こちらの反応を待っていたかのように、口角が引き攣るように上がった男の顔が目に入った。
 「どこ行くっていてったな、お前の成れの果て見せてやるよ」
 差し込んでくる朝日を受けて、男はそう言い放った。
 病院のある高台を越えた所にある、流が飛び込んだ港とは別の港に男の車が泊まる。岸壁周辺には、すでに警察が控えていて、駐車場には、パトカーと中型のレッカー車も停まっている。
 「清水さん! 車ごとお願いします」
 男の車が近づいてくると、警察官が待っていたように声をかけた。清水と呼ばれた男は、車を停めるとトラクターの荷台に積んだ、ビニール袋を背中に抱えて、岸壁の方へと駆けて行った。取り残された流は、車から降りて、遠巻きに様子を眺めていた。岸壁近くのプレハブ小屋に入って行った清水は、ドライスーツを着込んで酸素ボンベ背中に装着していた。岸壁から海中へと落ちていった姿を最後に、状況がどうなっているのか全く流にはわからなかった。岸壁から海中を覗く警官たちが、レッカー車の運転手に指示を出していた。
 清水が潜って15分程が経つと、レッカー車のチェーンが海中へと移動をはじめた。海中から軽自動車が引き上げられ、車は運転席側と後部座席の窓ガラスは砕けて、窓枠に海藻のようなものが引っかかっていた。岸壁から警官が下ろした梯子を伝って、海中から上がってきた清水の姿が見えた。引き上げられた車に警察官が集まって、検証を始めるのを尻目に、清水はプレハブ小屋へと戻っていった。しばらくして、小屋からドライスーツを脱いで、短パンとTシャツ姿の清水が出てきた。清水の車の側に立っている流に、清水は手招きした。流は、何かあったのかと急ぐように小走りで清水のもとに向かった。清水は近寄ってきた流に小銭を持たすと、港の駐車場から道を挟んだシャッターのしまっている店を指さした。
 「タバコ買ってきてくんね、あの釣り小屋の脇にあるからさ」清水の思惑に、拍子抜けした流は、一瞬口を結んだが、ニヤニヤと笑っている清水の顔を睨みつけて、言われた通りに釣り小屋まで歩いた。
 ついて来いとも、助けてくれとも言われた訳ではなかった。清水に動かされているように流は感じたが、実際に動いてたのは自分だったことに流は気づいた。命令された訳でも頼まれた訳でもないのであった。
 あと10メートルで販売機という所まで来ると、何やらこちらに向かって叫んでいる清水の声が聞こえてきた。何を言っているのかわからないまま、一度は振り返ってみたものの返事をするのも億劫な流は、とりあえず腕を振って合図をした。満足したように腕を振り返してきた清水を見て、流は気まずそうにゆっくりと手を下ろした。販売機の前で先ほどの清水の発音と似ていそうな銘柄を探してボタンを押した。
 戻ってくると、プレハブ小屋の前のブルーシートが敷かれて、そこに清水は座っていた。流が無言でタバコを渡すと、清水は「ありがとうな」と言って、すぐさま封を切って中からタバコを取り出して、満足した様子でタバコを吸った。とくにタバコの銘柄があっているのか間違っているのか何も言わない清水の様子を確認してから、流は清水の隣に座る。タオルを首にかけて、ランニングから出た肩から腕、胸板の様子から清水の体格の良さがよく分かった。タバコの匂い紛れて嗅いだことのない強烈な刺激臭が流の鼻をかすめると、流はとっさに鼻を押させて清水を見返した。
 「あ? 俺も臭いけどよう、お前のそれは多分やっこさんだろうよ」と清水は後ろの方を振り返る。そこには、潜った際に使ったのだろう、ドライスーツと酸素ボンベ、ヘルメットやフィンなどが乱雑に置かれていた。潮の匂いとは違った強烈な匂いを辿っていくと、清水の使用した道具の側に、白いボールのようなものと、それにつながるようにした白と黒のゴム状の幅広のホースが置かれてあった。清水の道具は、濡れてはいたものの水捌けは良いもので、すでに半分近くは乾いていた。ボールとホースだけは、水捌けが悪いのかそれとも潜って置いたばかりなのか、ブルーシートに水溜まりを作っていた。
 流は、清水の道具の山を越えて伺うようにして近づいて見ると、白いホースのようなものは、濡れたワイシャツだった。それがワイシャツがわかれば、パチパチパチパチとパズルのピースをはめるように、流はそれらがいったい何なのかすぐに理解することができた。ワイシャツの隣にある、幅広の黒いゴムのようなものは、黒のスラックスだった。そのスラックスから飛び出しているのは足の甲と指で、皮膚が海水を含んでふやけてしまっていた。流は、スラックスとは反対側にある、白いボールのようなものの正体も何なのか理解した。
 「お前も似たようなもんだったのによう。生きてっからびっくりしたわ。建前は人命救助ってことになってるけど、実際釣りの兄ちゃんたちから連絡があったって現場に向かっている時間でもう無理なのよ」
 隣でしゃべる清水の声に耳を傾けつつも、流は目を離すことができなかった。
 白いボールの正体は、白髪の頭であった。死体の顔も海水を含んで、輪郭がぼんやりと曖昧になっている。その顔は、眠っているかのように穏やか表情で、瞳と口は閉じられていた。魂が抜けたとでも言うのだろうか。まるで苦しみからから解き放たれて、今にも笑みを浮かべようとして眠ってしまったような、そんな一瞬が、保たれていたのだった。
 「車で猛スピード出せば、あんな低い車止めなんて軽々越えるのよ。お前さんは、自転車で飛び込んだら大したもんだよなあ」
 タバコをふかしながら、豪快に笑った清水の様子に、引き戻されるようにして流は魅入っていた死体から目を離した。
 「どうだ、自分の死に顔はよう」と清水は笑った。

 
 現場に付き添った日から、流は清水の自宅兼事務所で過ごすようになった。清水に呼ばれたらついていって、簡単な雑用仕事を言われるまま流は指示に従った。タバコを買ったり、ビニールシートを敷いたり、深夜に仕事があるときは、夜食の弁当を買いに走ったりした。清水は、「仕事するなら名前教えろ」と数日過ぎてもそれだけしか聞かなかった。
 仕事を手伝っているうちに、清水がどういう人物なのかが流はわかってきた。はじめは警戒していた警官官や救急隊員たちとも顔を合わせる度に、言葉を交わすようになって、清水のことを教えてもらったのだった。
 港に落ちた人命を救助するのは警官たちの役目ではあったが、人手不足で代わりにダイバーの清水に依頼がきていたのであった。口ぐちに警官たちは、清水を褒め称えた。一方で救助隊の隊員たちは、引き上げられた遺体の後始末を担っていたから、清水の置かれた微妙な立場を十分に理解していた。
 「無償ではないでしょう、でも払われないことも多いから、基本的に引き上げ代は全部あの人が負担しているんだから。この前なんて、生きた人を引き上げても、結局清水さんの泣き寝入りだね」
 救助隊が間に合わないときは、遺体を囲んで弁当を食べることもあった。深夜遅くに、コンビニで買ってきたカップラーメンを食べながら救急隊を待った。
 清水の現場にはじめて連れて行かれたとき、遺体のそばで弁当を食う清水をいったい何を考えているのか、流はわからなかった。けれど警官たちと騒ぎながら食べる清水は、ほとんどその遺体についての心配ごとしか喋らなかった。
 今も、岸壁の車止めに座って、カップラーメンをすすりながら、1メートルほど離れたところにあるブルーシートに包まれた遺体を横目に「何ももってないからわかんねえだろうな身元」とこぼした。清水の隣に腰掛けている流は、ずるずるとカップラーメンの汁を飲み干す清水を盗み見た。
 「気になるもんですか」流は、食べるのをやめて清水を見上げた。
 「そりゃあ引き上げたからにはな、そのまま誰にも知られないよりも知っている人にあってもらってからの方がいいだろう」と清水は遺体の方を見て言った。
 自分もああなっていたかもしれないという恐怖心は、清水の仕事を手伝い出してからずっと流の側にあった。流は清水と出会ってちょうど2ヶ月が経っていた。その短い間で、清水は両手では数えきれない数の人たちを引き上げていた。この仕事をずっとここ5年くらいはやっているという清水にとって、この状況は当たり前だったが、流にとっては驚きの連続だった。
 「怖くないんですか?」流はずっと聞きたくて、聞けなかったことを今なら聞けると思った。けれど、思ったほどに声はでなくて、清水が聞こえなかったらそのままなんでもなかったことにしてもよくなった。しかし、清水は聞き逃さなかった。清水はあの歯を見せる引き攣った笑い方で笑った。
 「怖いな、でも怖いって感じると体が震えるどころか、笑っちまうんだよ、で止まらないんだなこれが」とさらに口角をクッとあげて清水は言った。流は、食べ終わった清水のカップを受け取ると、自分のカップと重ねた。割り箸は2つに折ってカップの中に入れる。
 「別に楽しいわけでも面白いわけでもないのよ。なのにヘラヘラ笑えてくるんだな。自分のことだからって、別にぜんぶわかっている必要なんてないだろう。やっこさんのそばで食う飯は普通にうまいんだから、それでいいだろう、誰もこまってないしな」
 「そういうもんですか」と流は、清水の方を見ると、清水の歯についたカップラーメンのねぎが目に入った。
 「そういうもんだ」と清水はまた笑った。

 清水の仕事を手伝って、流は大学に戻って卒業すると、そのまますぐに清水の元で働いた。流は、バイトで貯めたわずかな金を清水のもとに行って渡したが、清水は受け取らなかった。何も言わずに勝って知った清水の事務所のデスクに、金が入った封筒を流はしまってそのままにしておいた。
 流は卒業できたことと仕事が決まったことを母に電話で報告した。自分が海に飛び込んだことは、誰にも言っていなかった。一年ほど音信不通であった息子に対して、いままで通りの声のトーンで受け答えする母の声に、流ははじめて心地よさを覚えた。
 「ねえ、ちょうどたっちゃん家にきてるから、代わるわね。全然ヨゴモリのやり方わからなくて困ってるんだから」
 断りもなく、電話先の相手がいなくなって、流は電話を切ってしまおうと携帯を耳から離した瞬間。
 「なっちゃん?」と巽の声が聞こえた。
 流はその声にどう返事をしてよいのかわからず、すぐに答えることができなかった。ごくり、とつばを飲み込んだ。
 巽は、一方的に母から聞いた流の状況について、「卒業おめでとう、全然様子わかんなかったから、卒業できるかどうかひやひやしてたんだよ。仕事はどうやって決めたの? なっちゃんは面接苦手そうだって思ってたんだけど、うまくいってよかったね」と立て続けに話始めた。話始めると、いつ終わるのかわからない、そんな癖があったのを流は思い出した。
 「なっちゃん、お母さんはああいうけど、別に僕はなんともないよ。逆に何も知らないから気楽にやれてるんだ。あの変な音のことはなにもわかってないんだ。だってぐっすり眠れるからね、もちろんちゃんと全部逆さまにやってるよ、意外に父さんがうるさいんだ、ああしろこうしろって。病気だから仕方ないんだけどさ、ちょっと静かにしてって思う」
 乾。流はまったく乾とは連絡を取っていなかった。巽が自分の代わりとしてヨゴモリに参加しているのは、乾ができない理由があったからだった。
 「叔父さん、元気なのか」
 「父さんはね、ピンピンしてるよ。代わりもやる気満々だったんだけど、でも仕事で車の事故に巻き込まれてから、足を傷めてちゃって、だったら僕が行くってなったんだよね、僕の方がよく知ってるからって言ったら、変に怒り出すから、めんどくさいよね本当。だからさ、戻ってこなくて大丈夫だよ」
 流には、巽の言葉が嬉しいと同時に、辛かった。「お母さんが戻ってきた。聞かれちゃったみたい。じゃあね」と切られそうになる電話に向かって、流は「ありがとうな」と呟いた。伝わるかどうかわからない小さな声で。
 

 

 

3
 
 流が潜水士の仕事をはじめてから十数年が経った。流は清水の事務所で働き続けていた。主に担当するのは、水中土木か夏場のスキューバー講習を行うだけで、救難要請は依然として清水だけが担っていた。それでも、時間があるときは流も現場に駆けつけたのだった。
 1月の冷たい海での、深夜の引き上げを終え、自宅には帰らずにそのまま事務所で休んだ。流は未だ夜に眠ることはできないでいたが、体を休める方法を身につけていた。薄暗がりのなかで、ラジオをつけながら、瞼が落ちたら瞳を閉じて、不安に駆られたら瞳を開ける。その繰り返しではあったが、眠らないでずっとテレビを見続けているよりは、体の疲れを少しでも取ることができた。
 日が昇るとともに、流は深い眠りについた。早朝から出勤までの間に死んだように眠るのが流の習慣となっていた。事務所で眠りにつくことも多い流に、はじめは小言を言っていた清水も、起こそうとしても起きない流に痺れを切らして、放っておくのが常となっていた。しかし、その日、清水は流を起こした。力強いビンタで目が冴えた流は、あまりの清水の形相に、なにか仕事で手違いがあったのかと察して、背中を震わせた。
 「お前、鹿毛町って言ってたよな、これ、お前の地元だろ?」
 清水はそう言って、事務所のテレビを指さした。映っているのはニュース番組で、画面上部に「鹿毛町、雪崩発生」と表示されてあった。清水はラジオから速報が聞こえてきて、テレビをつけたらということを捲し立てた。流は、すぐさま母と巽に電話をかけたが、繋がらなかった。ニュースとネットの情報から、大規模の雪崩が発生したことわかった。
 影山の頂上付近で発生した雪崩は、斜面を滑走し続けた。麓付近の斜度は比較的緩やかであるにもかかわらず、雪崩の勢いは止まらずに、麓の民家に突っ込んだという。どのあたりの民家まで雪崩が滑り落ちたのか、詳しいことはまだネットには上がっていなかった。
 流は、何度も巽に電話をかけたが、回線がこみあっているのか一度もかかることはなかった。
 鹿毛町に戻る。その選択肢が頭にあがってきたころには、流の体はすぐさま動き出していた。流は、事務所の前に停めてあった自分の車に乗り込む。流の慌てた様子に、清水は流を追いかけて、運転席側の窓に掴みかかった。流は、忘れてたとばかりに「仕事しばらく休みます」とすばやく言って頭を下げた。
 その言葉に、清水はふっと息を吐いた。「有給はたっぷりある。けどな、戻ってきたらしっかり働いてもらうからな」
 流は、「わかってます」と告げると、車のエンジンをかけた。

大学を出て働き出してからも流は、一度も鹿毛には戻らなかった。大学を卒業して、久しぶりにかけたあの電話以来、巽とは電話で話をすること何度かあった。けれど、会って話そうという話題をお互いにすることはなかった。流は静に電話をかけることは年に一回あれば良い方だったが、静への毎月の仕送りは欠かすことはなかった。
 大学入学時には電車で町を去った流は、はじめて車で地元へと帰った。見られぬ道を迷いながらも進むと、高校時代に通った記憶のある景色に出会う。ロードサイドに立ち並んだ店舗に変化はあったものの、その周辺のシャッターの閉まった商店街や、瓦葺の屋根の住宅、看板広告には見覚えがあった。鹿毛町に近くなってくると、同じように駆けつけたのだろう県外の車のナンバーが目に入った。
 海岸近くの道路に差し掛かると、流は自分が潜っている海とはまったくことなる海の様子に、目を奪われた。黒々とした海は、どこまでも続いていて、この海に自分は潜ることができないと流は感じた。海からの冷え切った風が、車にふきこんでくると、流は窓を閉めた。
 海岸沿いの道路から、鹿毛町の中心部へと入っていくと、影山の斜面が雪崩のせいではげてしまっているのがよくわかった。影山にづづく道路には、立ち入り禁止の看板が置かれて、消防団員の50代ぐらいの男が誘導をしていた。男から話を聞くと、雪崩は、山頂から葛川の沿の道を滑り、谷が開けた周辺に並ぶ民家を巻き込んでさらに進んでいったということだった。山裾の付近までの様子を流は尋ねると、そこまではちょうど被害が及ばなかったと男は言った。
 流は、男に言われた別の道を通るために、進んできた道を戻り、一本前の傍道にそれてから迂回して山裾の実家の方へと急いだ。流はその間、男の言った言葉が気にかかっていた。
 「山裾って、神社とは反対側の? 何したってどうにもならないぞ」怪訝な顔つきで流を見た男は、流の合点が言ってない様子に「水辺んちの方には寄り付かないほうがいいぞ」と付け加えて、去っていったのだった。
 実家近くの歩き慣れた道をみつけると、流は車の速度をあげた。山裾付近は、男の言っていた通りに被害はなく、中心部の騒がしさと比べるとしんと静まりかえっていた。実家の前を流れる川岸の方に車を停めて、実家を見ると、まだ日中だというのに雨戸がしめられ、人の気配が感じられなかった。流は急いでかけて行くと、玄関の扉には鍵がかかってあかなかった。庭の方へ進んで、流は玄関から近い雨戸を開けると、窓には、半透明のビニールシートがガムテープで貼られてあった。不審に思った流は、雨戸を全て開けていくと、どの窓にも同じようにビニールシートが貼ってあった。よくよくそのシートを見ていると、90ℓのゴミ袋を窓に貼り付けるために、一度袋を切り開いて貼り付けているのがわかった。
 ビニール袋の擦れる音がすると、流は庭の奥の縁側の方に視線を移した。ピッタリと貼り付けられたガムテープがほとんどなのに対して、その奥の窓の一部分だけは、ビニール袋がペラペラと、風で動いていた。中の様子を覗けるかもしれないと、流がその奥の窓に近づくと、カチャリと窓の鍵が開いたような音がした。カラカラと軽快な音を立てて、窓が開くと、中から母の静が顔を出した。「ほら、はやく」と静が小声で言って手招きすると、流は靴を脱ぐのも忘れて縁側から上がり込んだ。静は、流が開け放した雨戸を全て閉めた。部屋の内側の窓ガラスには、窓の角の対角線にガムテープが貼ってあった。靴底が床を擦るとじゃりっと音を立てた。
 「靴は脱がなくて正解だったわね、畳に上がればもうガラスは散ってないから、その辺に脱いで置いておきなさい」静は流の靴を一瞥するとそう言って、流の顔と体を舐めるように見た。流もまた、静の姿に目がいった。痩身だった体はさらに細くなっている様子が服の上からもわかった。顔には細い皺が増えていて、昔はつけていなかった眼鏡をかけていた。
 「相変わらずね、ますます似てきたわ」静は、障子を開けて和室へと入っていった。流は廊下から覗くと以前と変わらぬ場所に仏壇があるだけだった。
 「いったい何があったんだよ」と流は静に問うたものの、静は何も言わずに仏壇の前に座ってしまった。流は靴を脱いで、仏壇前で手を合わせている静の側にしぶしぶ座った。そこには、祖父の写真とともに父の漁の写真も置かれてあった。父の写真が家にある。その事実に、流は、欄干にかけられた遺影を見回した。祖父と祖母、曽祖母の遺影の隣に、父の遺影も飾られてあった。仏壇の隣にある棚には、若いころの静と漁の2人だけの写真が、写真立てに入れられて飾られてある。壁にはコルクボードがつけられていて、幼い頃の流の写真や流が作ったのだろう、クレヨンで描いた絵や、粘土で象られた手形が飾ってあった。
 「なんで、父さんの写真があるんだよ、こんなにたくさん。母さんは父さんのこと嫌いだったんじゃないのかよ」流は、声を荒げて、側に座る静に言い寄った。静は、流の声に耳を塞いで、顔を顰めた。
 「また騒ぎ出されたたらどうしようかと思ったわ。私は父さんのこと嫌いだなんて。嫌いだったのはあなたの方でしょう?」
 静は、立ち上がると、壁のコルクボードの、クレヨンで描かれた一枚の絵に触れた。A3の画用紙に、子供が描くような棒人間が2人、手をつないで立っている。大きな棒人間の側は、もう一方の手に杖のようなものを持っていた。流はその絵に、妙な違和感を感じ取った。
 「生まれてすぐ、あなたはこの家に戻ってくるとずっと泣きっぱなしで、泣き止まなかった。はじめはなんで泣いているのか、わからなかった。私があやすのをやめても、おじいちゃんは一生懸命だった。私の部屋を作ろうっていって、写真を一度しまったのね。あなたは眠ってしまってて、掃除の間和室に寝かしておいてたの。いざ最後に和室を拭きましょうってときに、あなたは起きてたけどまったく泣かなかった。そういうことが何度も重なったの。ああ。この子は父親を怖がっているって分かったの。なぜかわからないけどね。あなたは3歳で、ヨゴモリに行ったけど、ずっと泣いてて何もうんともすんとも言わなかった。心配して、『何がしたい?』って聞くと、お絵描きしたいっていうから、渡したのねすぐにクレヨンと画用紙買ってきて。そのあと、あなたはこれを描いたのよ。泣きながらね。描いたあとはぐったり眠って、そのあと何を描いたのって聞いてもあなたはわからなかった。全部眠っている間に忘れたのかしら。でも、誰も教えてなかった。教えないって決めたから。漁がどんな風にいなくなったのかなんて。なのに、知ってたのよあなたは」静は、座っている流を見下ろして、コルクボードの絵を外して流に渡した。
 流は、そんな絵を描いた記憶などなかった。あるはずがなかった。棒人間の周りには、緑色の渦を巻いたようなものが描かれていた。画用紙の上部には、赤色の渦が一つだけあった。太陽が昇っている、森の中で父と手をつないだ絵であった。しかしそんなことは、起きるはずがなかった。漁は流がまだ母の中にいるときに、いなくなってしまったのだから。棒人間が持っているものは、今の流には理解することができた。なぜ母が恐れているのかも。大きな棒人間が持っているのは、杖ではなくて、刃物に違いなかった。
 流が絵から顔をあげると、じっとこちらの様子を伺っている静と目があった。静は両腕を抱えるようにして、震える体を押さえていた。
 「なんで家に全く父さんの写真がないのか、父さんのことを教えてもらえないのかずっとわからなかったよ。巽に写真だって探して持ってきてもらったことだってあるんだ。巽だって見たことないのに。俺は父さんのことずっと知りたかった。怖がっていただなんて」
 流と静はそのまま黙ったままだった。流は黙ったまま服の袖で濡れた瞳を拭った。顔を俯いたまま、流は、静にこの絵をもらってもいいかと聞くと、静は好きにしなさいと言って、コルクボードに刺さっていた画鋲を外した。流はそれを綺麗に四つ折りに畳んで、ズボンのポケットに入れた。
 居間で静が入れてくれたお茶を飲みながら、流は窓のことについてようやく静から聞くことができた。雪崩が起きたのは、昨日の深夜のことだった。静は眠っていて、雪崩のことを知ったのは、向こう岸から一つの石が投げ込まれて窓が割れた音を聞いてからだった。ニュースで雪崩の情報がテレビやラジオで放送されて、住民の誰かが石を投げたのだった。静はすぐさま雨戸を閉めて、電気を消し、2階の山側の元々は祖父の部屋に身を潜めた。『災害や事故が起きたら、家でおとなしくしていろ。動転したやつはきっと何かしてくるぞ。なんで起こしたんだってな』静は祖父の言葉を思い出したという。水辺家がなぜヨゴモリをするのか、なぜオソナエをもらえるのか。それはこの町を守っている神だからだ。伝説を強く信じている住民たちは、なぜ守ってくれなかったと言い募ってくると。特に被害にあった住民は、怒りの矛先を水辺家に向けてくる。なせそうなるのかと静は汀に問うたことがあった。すると、汀はそういう仕組みなのだ、受け入れろと言ったという。
 「先週は、暖かくなって、雨が続いてたのよ。そのあとの1週間はずっと雪が降ってた。昨日は風がものすごかった。だから窓が割れたのも、はじめは植木が何かが飛んできたのかなって思ってたのよ。でもね、小さな石が何個も部屋の中にあったら、わかるわ私だって。ああ、誰かが投げてきたんだってね」
 テーブルに湯呑みを置くと、静は、真向かいに座った流を見た。
 「きてくれて嬉しいけど、あんまり外にでないで。明日になったら帰りなさい。電話もずっと鳴っていて、切ってしまったのだけど、被害のあった人たちは、あなたを探してる」
 「なんでだよ」
 「あなたが、助けてくれるって思ってるから。なんとかしてくれるって」
 静は、まっすぐ流を見ていった。
 

 流は、その日の晩、久々に自分の部屋で過ごすことになった。部屋の様子は高校を卒業した頃から時が止まったままで、勉強机には教科書が並んでいた。窓は雨戸を閉めて、照明は少しだけ灯した。携帯からラジオを流して、ベッドに横たわりながら、机の引き出しからカンカンを取り出した。そこには、巽のノートと、封筒がそのまま入っていた。封筒からあの写真を取り出して、父の顔を見ると、流は自分よりも若い父親の姿に、驚いてしまった。溌剌としたいい笑顔をカメラに向かってつくっているその父の顔をずっと見て、慰めれてた過去を思い出した。
 ラジオが突然止まって、電話の着信音がなると、流は携帯の表示画面を見て、すぐさま携帯をとった。表示画面には巽の文字があった。
 「もしもし、巽か、今どこにいるんだ」
 「やっぱり流くんだったか。この番号。ごめん、いまかけているのは、私だ。乾だよ」乾は、消防団員として捜索をつづけていること、巽の勤務先の事業所近くで巽の携帯電話が見つかったことを話し続けた。流が鹿毛町に来ていることを話すと、乾は一度黙ってから、お願いがあると重苦しい口調で言い始めた。
 「本当は人手がなくて困っていたんだ。土木をやってるんだろう、流は。すこしでもいい。手伝ってくれないか?」その切羽詰まった言葉に流は分かったと告げた。乾にどこでまちあわせをするか相談して電話を切った。
 すでに寝静まっていた静を置いて、流は家を飛び出した。日中は降っていなかったが、綿雪のような雪が空から降り落ちてきていた。流は、川岸に停めていた車から上着を取り出すと、羽織ってそのまま走り出した。雪面をノーマル車で走り切る自信が流にはなかった。
 乾としめし合わせたのは、大通りの通行止めの看板が立っているところだった。
そこにはすでに道の先から降りてきたのであろう、ヘルメットを脇に抱えて、蛍光色のラインが入った防寒具を着た乾の姿があった。髪は白髪が混じって薄くなっていて、母の静と似て、細い皺が顔に現れていた。
 巽は勤務先の介護施設で被害にあったと、乾は道を進みながら、ぽつりぽつりと話た。宿直室がある一階に雪崩が流れ込んで、当直の従業員は見つかっておらず、未だ捜索活動も十分に進んでいなかった。
 「1人で掘り進めていたら、ちょうど見つけてね。電源も入ったままだったんだ。流の着信が何件も入ってるじゃないか。かけてみようと思ってみれば、流はこっちに戻ってきてるって、これは、なんか縁を感じたよ、俺は」流の先導を歩きながら、乾は谷口の葛川の方へと道を進んでいった。前方の山の方は、投光器の明かりで麓の方が照らされていた。乾はすまんと言って足を止めて地面に座り込んだ。
 「なあ、流、巽を探してくれないか」乾は顔を上げずに、ボソッとつぶやいた。
 「叔父さん、当たり前だよ。俺は手伝うよ」そばに立った流がそういうと、乾は、流の足もとによって、頭を地面につけた。「違う、違うんじゃない」そう言って、「すまん、すまん、流」と続けた。
 「叔父さん、大丈夫だから、巽は見つかるよ」そう言って流は、乾の側に座って、頭を上げさせると、見開いた乾の目が流の顔を捉えた。
 「ずっと言えないでいたけれど、覚えている人は覚えているんだ。君のお父さんが救ってくれたことを。本当はあったんだ。でもそんなことは起きてないから誰も言えなかった。これからもずっとそうだったに違いない。でも俺は覚えている。忘れられなかった。ずっとそんなことが起きないことを願ってやまなかった。でも起きて、巽はいなくなった。巽は死んだ。現場で見た俺にはわかる。でも、でも、なんとかなったはずなんだ。俺は一度死んでいる。でも、漁が俺を救ってくれたんだ」流は、寄りすがってくる乾を振り解くことができなかった。乾の手は、流の上着を力強く握りしめた。
 『被害のあった人たちは、あなたを探してる』静の言葉を、聞いた時流には理解できなかった。伝説は作り話だ。自分には何の術もないことを流はよく理解していた。だからこそ、今目の前で、必死に懇願している乾の様子が、正常とは思えなかった。
 「覚えてる人は、覚えてる。俺や、神主の三島さんだってそうだ。静だって。救ってもらったんだ漁に。漁は包丁を持っていた。それで、俺は漁に殺された。俺は覚えているんだ。冷静な顔で、俺の首筋を切った、漁の顔を。夢だって言うのか? でも、漁が「死んでくる」って言ったのは本当だ。刃物を持って、どっかに行っちまったのは本当なんだよ。追っかけっていっても、漁はどこにもいなかった。漁はそんなやつじゃない。分かってる。分かってるんだ。静が、漁に殺された夢を見たっていうと、俺だけじゃなかったって驚いた。漁は、救ったんだよ、俺を。静も。三島さんは、唯一俺たちにそのことを言ってくれた人だよ。本当はみんな知っている。お前の父さんがやってくれたことを」
 涙に濡れる乾の顔から流は目を外すことができなかった。けれど、今言うべきことは一つしかなかった。
 「叔父さん、できないよ俺にはそんなこと」
 乾は、流の声に耳を傾けようとはせず、それから何度も何度も同じことを言った。すまない、すまないと何度も謝りづづけた。

 

 

 

4

 流は、取り乱した様子の乾を担いで進み、葛川の川沿いを歩いていくと、影山の麓へと辿りついた。そこには、葛川を伝ってきた泥を含んで汚れた雪崩が地表を覆っていた。投光機が雪崩を囲むように設置してあった。雪崩に巻き込まれた木々の枝や、農作用の機材などが紛れ込んでいるのが目についた。乾が言っていた、巽の勤めている介護施設は、葛川の岸のそばに立っていて、川から溢れた雪崩が一階付近を覆っていた。流は、消防団員に声をかけて、乾の状況を説明して乾を預かってもらうとともに、救助活動の手伝いを願い出た。乾が言っていたように、人手が足りないのは事実のようで、乾の防寒具を借りて、すぐに流は参加した。
 介護施設の雪崩を掻いている最中に、流は、ぞくりと背中が震える感覚を覚えた。ヨゴモリでしばしば聞いたあの音。あの何かの鳴き声がしたのだ。
 「やみよになかぬ、からすのねをきけば」流は自然と、あの言葉を唱えた。
 しきりに聞こえるその音の方へと、流がその鳴き声をたどっていくと、山の麓にブナ林が見えた。闇の中、慣れ親しんだブナ林を抜けて、別の投光器の光だろうか。ブナ林の向こう側は、ほのかに明るかった。抜けた先の空は明るく澄んでいて、青い空が続いていた。雲ひとつない空に、日は昇って、光は眩しかった。すでに日は出ていたのだろうかと流は訝しかった。ブナ林を抜けた先には、おそらく葛川の支流だろう、細い川が流れていた。その川の水流は澄んでいて、土砂の汚れは見当たらなかった。その穏やかな水流を見ていると、流は一瞬自分がどこにいるのかわからなくなってきた。ブナ林から山を登るような形で流はここにやってきたはずだったが、支流は、流の立っている川岸から向って、左から右へと流れていた。
 流は、後ろを振り返り、ブナ林へと戻ろうとした。しかし流の背後にある林は、ブナではなく杉であった。そもそも、高地にあるはずのブナ林が麓にあるはずがなかったのだ。見間違えたのだろうか? いやそんなはずはないと流は首を振った。
太陽の位置も、夜が明けて日が昇ったばかりだとしたら、高く昇りすぎていておかしかった。そんなに時間が経っているはずもない。流は、とりあえず来た方向を戻ることにした。
 杉林を抜けて、山の麓へと戻ると、のどかな、閑散とした町並みが広がっていた。葛川は、今ままでどおりの姿で、町の中央に存在していた。雪崩はどこにも存在していなかった。投光器も、消防団も姿を消していた。此岸にある巽の事務所は全く何事もなかったかのように、被害も全くない状態でそこに存在していた。
 消防団の防寒具を着た自分だけが、この場所で異様な存在であった。流は、事務所の方へと足を伸ばして、声をかけてみたものの、返事をする人は誰もいなかった。すいませんと断りつつ、事務所の中に進んで、照明のついている受付を覗いてみたが、受付には雑然と広げられた書類がおいてあるだけで、そこには誰もいなかった。
 「誰かいませんか?」と流は、事務所の廊下の先に続く、おそらく入居者が住んでいるホール内で、叫んだ。しかし、その声は虚しく廊下を響かせるだけで、誰の返事もしなかった。ひとつひとつの部屋を確かめてみるべきか。流は足を進めようとしたが、すくんだ足はいうことを聞かなかった。流の身体は一番にこの状況を捉えていた。すくんだ足に力を入れて、事務所から流は駆け出した。
 部屋を探して、誰もいなかったらどうするのか。もしかしたら、昼寝の時間か何かなのかもしれない、たまたま間が悪かっただけだと自分を納得させながら流は、疲れきれるまで葛川沿いの道を走り続けた。
 疲れて地面に倒れ込むように座った流は、葛川の水流に目をやった。やはり、川の流れはおかしかった。下流から上流、流が今まさに下ってきたはずの、影山の方へとたしかに水は流れていっていたのだ。
 「いったいなにがどうなっているんだ?」流は額に伝う汗を拭った。空を見上げれば、高く昇っていた日は、左に傾いていた。流は今、山の麓から海の方へと下っていた。つまり南から北へと移動しているはずだったのだ。なのに昇った日は、左、つまり東へと傾いていた。東から昇ったはずの日が、東の方へ傾いている。否事態はそうではなかった。日は明らかに、西から昇って東へと傾いていたのであった。
 この妙な違和感を、流は最近感じたばかりだった。
 2人の棒人間の絵。あの絵の違和感は、父の漁を描いているということだけではなかった。
 流は、ズボンのポケットに触れた。そこには、四つ折りにたたんだ一枚の画用紙が確かにあった。それを取り出して広げてみると、今なら確かに、その違和感がはっきりと分かった。
 太陽の位置に対して、影の位置が異なるのであった。棒人間から伸びる、その影は、太陽の方向に伸びていたのである。
 子供が描いた間違えなのかそれともいたずらなのか。しかし、母はそうは思ってなかった。父漁のことを知っていたから。
 流は、ごくりとつばを飲み込んだ。ゆっくりと立ち上がって、太陽の位置と、自分の影の位置を確認した。
 影は左に伸びていた。東に傾いた日の方向と同じ方向に伸びていたのだ。
 「俺はここに、来たことがある」流は画用紙を握りしめた。

 

 流は、当てもなく彷徨うよりも、まず実家に戻ることを優先した。流の頭は何も考えられなかった。今自分がいるこの鹿毛の町が、同じようであって、全く異なる町であることだけは流には分かっていた。しかし、それを分かったところでどうすることもできなかった。流は今にも眠りに落ちてしまいそうな身体を引き摺るように歩きながら、なんとか葛川沿いの道を下っていた。
 乾と待ち合わせた、あの大通りの道に出ると、路肩に、1人座っているのが見えた。ぼうと、道路の方を見つめるその人物に、流は見覚えがあった。
 巽であった。従兄弟の、ひとつ年下の巽。大学入学時から一度も会うことはなかった巽の姿は、流の記憶の中では、若々しい、痩せた身体の好青年の姿そのものだった。色白の肌に、くりっとした二重が特徴的な、丸い頭で坊主が似合う、そんな巽の印象を持っている、中肉中背の男性が目の前にいたのだ。
 「巽?」流がそう呼んで肩を叩くと、男性はゆっくりと後ろを振り返った。
 焦点の定まっていない目が、流を捉える。すると、目を瞬かせて、ぎゅっと目をつぶって、「なっちゃんなの」と返事をした。その返事に流が答えると、巽はまたぼんやりと、道路の方に目を向けた。いままでどこにいたのか、他の人を見かけたか、など流がいくら質問を変えても、巽はただ「わからない」と繰り返した。
 流は、巽の腕をつかんで、とりあえず実家に行くよう勧めると、「わかった」と言って、ぼんやりした不安定な足どりで、前に進んだ。
 実家まで進む道でも、流は巽以外の人には誰も会わなかった。実家にたどり着くと、割れてビニール袋が貼り付けてあるはずの窓はやはりなかった。雨戸は全て開けられて、縁側の窓は開いていた。
 その縁側に座っている人物を流は見た時、ひっと息を飲んだ。
 死んだはずの、祖父の汀が座っていたのだ。汀は、じっと流と巽を見つめていた。「なんだい、お前は流か? 老けたなあ」汀の懐かしい声に、流は耳を疑った。
 「なんで、おじいちゃん生きてんの」流は、巽の腕をつかんでいた手を思わず離してしまった。巽は、ふらふらと、また道路の方へと足を進めていってしまう。流は巽の背中を掴むと、また自分のそばへと連れ戻した。 
 「いやあ、死んでるわ。生きてんのはお前だけ。そばにいんのは巽か? 巽も死んでるわ。おめえもしかして助けにきたんか??」
 「助けるって、おじいちゃん知ってんのか。知ってるなら教えてくれ、全部!」 流は、汀に迫ると、汀は近い近いと手を振った。
 「孫といえど、おっさんに詰め寄られると変に迫力があって嫌だねえ」汀は、長くなるでと前置きをしつつ、話始めた。
 この世界は、死んだものだけが来れる世界であること。父の漁は、この世界に迷い込んだ人たちを救って生き返らせたこと。そしてその代償のために、命を落としたこと。
 「おじいちゃんは、知っててなにも、俺に教えてくれなかったのか、母さんやおじさんにも」
 「誰がこんなこと信じるか。ただでさえ漁はここでの記憶を覚えている、中途半端なやつらのせいで、漁は狂人として葬られたんだ。静だって乾だって、信じてないから私には絶対に聞かなかったし、言わなかったね。お前だってまだ幼かった。あの頃のお前に背負えたのか? たった一晩でのヨゴモリにだって耐えきれなかったお前が。漁は違ってた。あの子は特別だったんだ。私にも、お前にもできないことを成し遂げたんだから。あの子はこの世界の王となったんだ」
 汀は誇らしそうに、漁の名を呼んだ。
「お前にはできない、巽を置いて山へ登って帰んな。ここの理はもうわかってるんだろう」と汀は、縁側から立ち上がって、巽の腕を掴んだ。流は、汀の腕を振り払って、巽を連れて走った。
「おいどこにいく」汀の声に振り返らずに、流は、巽の腕を引っ張り続けた。
 ここでの理。それはすでにヨゴモリで、汀に仕込まれたことだった。
 『すべては逆さまだ』汀はそう流に教え込んでいた。
 流は、汀が言っていた『山へ登って帰れ』という言葉の通りに、影山へと急いだ。巽は時間が経てば経つほど、身体の動きが鈍くなっていった。東に傾いていた日は、山裾に隠れ出して、あたりは少しずつ暗くなりはじめていた。流の疲労もピークに差し掛かっていた。眠っていない体を動かすのは、いったい何なのか。流にもよくわからなかった。だが、ここで巽を放っていっていいわけがなかった。
 影山の麓。あそこまで行けばと、なんとか大通りを通って、葛川沿いの道へと進んでいった。山裾に半分まで日は沈んでいた。巽の体はだんだんと冷たくなってしまいには動かなくなっていった。流は、焦るのあまり、巽の表情をよく見ていなかった。巽はすでに、虚な表情で空を見つめるだけで、流の言葉を聞いてはいなかった。地面にぐにゃりと足の力をなくして倒れ込んだ巽のそばに、流は立ち尽くした。
 「巽、巽、おきてくれ、おきれくれよ」流は、巽に呼びかけた。しかし巽は何も答えなかった。答えることがもはやできなかった。
  夕暮れで、空が真っ赤に染まりだす。東の山裾へと落ちていく日を、流は虚しくながめることしかできなかった。あの日が落ちたら、巽は助からない。巽はもとの世界に戻ることはないことを流は感じとっていた。
 じゃり、と地面を踏む音が聞こえた。顔を上げると、そこには、父の漁の姿があった。今の自分よりも、若い1人の男であったが、まごうことなき、写真で何度もみた、自分の父親であった。
 「この世界の王となった」汀の言葉が、流の体を縛りつけて動けなくしていた。 
 漁の手にある、一本の刃物が目に入った。漁は刃元から刃先を自分側にして、柄を掴んでいた。夕暮れの光を受けて、刃物のみねが赤く鈍く光る。振り落とされたみねが流の頭に当たった。ううっと頭を抱えた流が、顔をあげると、漁は、流の側で横たわっている、巽の首筋を掻き切っていた。鮮血があたりに飛び散り、流の顔に巽の血が滴った。
 赤い血を浴びた漁の体。漁の顔は苦しむようにゆがんでいた。
 流は思わず、その漁の体に体当たりした。
 「すべてを逆さまにすること」それがこの世界の者を救う理だとしたら。
 流は、倒れてうずくまる漁から刃物を奪い、漁が持っていたように、逆側から刃物を持った。
 『うまれぬまえのちちぞこひしき』流は言葉を唱えて、巽の血のかぶった刃物で、漁の心臓を突き刺した。漁の体から、刃物を抜き出すと、勢い良く、鮮血が漁の服を汚していった。
 その時、流の頭に記憶が蘇った。あの、海に溺れたときの、あの感覚。
 水に包み込まれているような感覚から、暗闇が突然真っ二つに裂け、真っ白な光が暗闇を消し去っていった、あの感覚。
 母の静の腹を引き裂き、子宮を突き破って、包まれていた羊水から取り出された感覚であった。流は、こちらの世界で、生まれ落ちて、そして死んだ。
 「お前は誰だ?」そう告げて、漁は、朦朧とした表情で流を見た。
 「あなたの息子ですよ」流は、刃物を地面に突き刺し、漁の側に座った。
 すでに巽は命を落としていた。その顔は、すうと魂が抜けたような顔付きだった。漁もまた、ふっと眠りに落ちるように、表情を失った。
 二人の血を浴びた流は、日と川の流れを呪った。
 『にしからのぼるひをみれば
  かわはうみからやまへとながれる』
 山裾に隠れつつあった、太陽は溶け始め、海から山へと流れていく川は動きを止めた。辺りはだんだんと、闇に包まれていく。怖くないと言ったら嘘になる。けれど、自然と溢れる、笑みの理由を流は知っていた。
  
 『やみになかぬからすのねをきけば

  うまれぬまえのちちぞこひしき
 
  にしからのぼるひをみれば

  かわはうみからやまへとながれる』
 
 
 そう、ただ闇をみつめていればいい。流は何度も何度もその言葉を唱えた。

文字数:31275

内容に関するアピール

 今回もギリギリでしたが、なんとかエンドマークを打つことができてよかったです。第4期から続けて、第5期にも参加して本当によかったです。小説をほとんど書いたことがなかったのに、なんとか梗概を仕上げ、4期、5期とも最終実作まで書けるようになったのは、いろんな方のアドバイスがあったからです。本当にありがとうございました。

 今回の作品は、運命に立ち向かうことをテーマに書きました。神話と呪歌から発想を広げていきました。死後の世界の逆転の発想というのはかなり事例として多くあるそうです。

 参考文献

 『まじないの文化誌』花部英雄 

 『自然災害と民俗』野本寛一

 『霊性の震災学』金菱清

 『さかさまの幽霊』服部幸雄

 『さかさまの世界』バーバラ・A・バブコック 

 『シャーマニズム』ミルチア・エリアーデ

 『しぐさの民俗学』常光徹

 『潜匠』矢田海里 

 『津波の霊たち』リチャード・ロイド・パリー

文字数:388

課題提出者一覧