私を月まで連れて行って

印刷

私を月まで連れて行って

  はからざりしこころの痛みをもちておん手の花を抱きしめたまへ……

 

                              大江健三郎『セブンティーン』に引用された≪なげく少女≫

                          TS・エリオット『エリオット全集一巻』≪なげく少女≫深瀬基寛訳

 

1.

二〇二一年二月二七日。

今日は私の誕生日だった。私は二七歳になった、トウェンティセブンだ。

毎日こうして捨てられた駅のホームのベンチに腰かけていると、自分はここから立ち去ろうとしているのか、それとも誰かが来るのを待っているのだろうか、わからなくなる。

“彼女”に送った緑のメッセージは今日も未読から既読へ変わらない。誰もいない街には真昼の濁った月が浮かんでいる。

私はひび割れたスマホを翳す。アンテナを伸ばしたそれが電波を受信しやすくするために。そんないつかやったみたいに晴れた冬空へ高く掲げる。

月に手を伸ばすんや、たとえ届かんでも。

十年前、高校生だった頃に私と同じ誕生日の男がいて、俺は二七で絶対死ぬんだってそう言った。曰く、カートにジミヘン、ブライアン・ジョーンズにジム・モリソン。ソイツはカートはコバーンじゃなくて、コベェインなんだとソニーNW-S750のノイズキャンセリングイヤホンを渡しながら自慢げに私に話した。

俺は伝説になるから。

なるからなんなんだ、一体。私は伝説を恋人にしたいと思ったことはない。

やばい、すげえ、エロいで生きていた教室の美しき単細胞ネヴァー・マインド

ホルモン過剰のわかりやすいクラスメイト男子高校生。そう思ってた。けど今になって思えばもしかしたらソイツは、そうやって来年も再来年もまして一〇年後ですらわかったふうに決めつけてくる何かに抗おうとしてたのかもしれない。確かにその何かは確実にあった。それは認める。

退屈を裏返して、それでも退屈は続いて。泡が弾けて失われた時間を明日が昨日のように与えられた、ここより先に何もない、前方にぽっかり空間の空いたゆとりある私達、ひっくり返った進歩9調和

冒険するならドコモかauその着メロが知らせてくれるなかで充分だった私達。まだあの頃は数年もすればスマホに買い替えるなんて誰も気づいていなくって、ずっと富士通とか三菱とかF-08AとかD903iワンセグTVのガラケーを私達の毎日と同じように取り換えて、センター問い合わせをし続けていた小文字の私達iモード

私達のループ・エンディング機種変

センター問い合わせから、未読無視、既読スルー、そしてブロックへ。私達の時間はやんわりとゆとりを失っていき、そのたびに祭りのような破局を辻褄を合わせるようにして受け入れて終わった世界をまた生きた。

世界の終わりというなら、私達が生まれた頃だって終わりだった。確かにソイツの言ったとおり。でも、伝説なのは私達じゃなくて、飛んで来るんだが来ないんだがよくわかんないミサイルとか気化した化学薬品の地下景色とかそんなのばかりで、私達自身じゃない。伝説なんて、世界が一回また一回と壊れるポイントをただ空を眺めるように見てただけ。

私達の世界はいつも終わり続けた。

それが私達の日常だった、現実だった、諦めだった。

それも今度こそ本当に終わったのかもしれない。

時間は螺旋ループ・エンディングに進みとうとう辿り着くべき場所ニルヴァーナに辿りついた。

二七で死ぬって言ってたソイツは本当に二七で死ねたのかもしれない。

この世界の終わりの終わりに積まれた死体トウェンティセブンの一つになって。私は今この吉祥寺の駅でスマホを覗き込む。“彼女”からの既読はつかない。私が送ったメッセージがそもそも届いていないのか、ただシンプルに“彼女”にはもうアプリを開く気力もないの。

既読さえついてくれれば生きていることくらいはわかるのだが。

生きていることがわかれば? わかれば、私はどうする? このいつも寝不足の私を二十三区の摩天楼へ運んだオレンジの車両も黄色い総武線の車両も来なくなったこの駅から歩いて引きこもりの“彼女”のいる場所まで私は歩いて向かうのだろうか。

今や東京のあらゆる行政サービスもエッセンシャルワークも全てが消滅してきている。それらに関わらない人間も家から出ず、職場に向かわず、己の職責を果たすことを止めた。

私は繋がらないスマホの電池残量を確認する。充電もできなくなる。一週間前にガスが止まり二日前に水道も止まった。そして今日、電気が止まった。もうこのホームに来て、存在しない電波を拾おうとするのもやめるべきだ。

誰もいない駅のホームを振り返る。

押し込めるほどにいた人達はもういない。日差しだけが残っている。

電車はここにはもう来ないし、誰もつれて来ない。

電車はもうどこにも行かないし、どこにも私を連れて行かない。

それがこの穏やかな景色。

私達は買い占めた水を飲み尽くし、食糧を食べ尽くし、何も出てこない蛇口を咥えて、空っぽの胃袋とともに一人で死んでいく。あるいは、維持管理を行う人間を失ったインフラから発生したいくつかの場所ではすでに発生したような火災に巻き込まれて。

月に手を伸ばせ。

私は現実よりも過去に手を伸ばす。

あんたさ、私がどういう人間か教室の連中が話してんの聞いたことあるやろ?

大事な話があるから電車に乗らずに待っててくれって言われてあの日もこうして誕生日に買ってもらった赤のi-Podを耳に突っ込んで待ってた。そういえばソニーのほうが微妙に音質がいいって誰かが言ってたけど、今も昔もそんなの私にはわからなかった。駅のホームに遅れてやった来たソイツセブンティーンは私に言った。

知ってるで。

それやったら、なんでなん?

月に手を伸ばすんや、たとえ届かんでも。

ソイツはたった五秒前にフラれたというのに笑い、五秒前に振った私がなぜか眉間に皺を寄せていた。次に私はソイツになんて言ったんだっけ?

私は今、ソイツの顔を思い出せない。思い出すのは独特の早口と男子にしてはかん高かった声。結局はソイツの言うことが正しかった。

明日は昨日のように続いていかない。

生き残った私達は月に手を伸ばすどころかもう隣の人間に触れようともしない。

一〇年後の私は押し黙ったホームに落ちかかる白い月に一人見られながら、既読がつかない鈍く光る画面に触れる。冬の気温に冷やされたそれはアクリルのような感触がした。

誰もいないはずのホームに私とよく似た私ではない声が耳元で響いた。

「ハッピーバースデー」

二七くらいからやな、本格的にハッピーバースデー言われても嬉しなくなんのは。かつてそう言ったその人は嫌味か皮肉か、それともたんに自分が過去にそういったのを忘れたのか、そう私に声をかけた。

「三時過ぎ位に着くって、朝、ライン送ったやんか、なんで返事もせえへんし、アパートにもおらんの? 東京危ないからあんま長居したないのに探さなあかんかったやん」

「東京、もうなんにも繋がんないの」

私はお姉ちゃんにスマホを向けて言った。

お姉ちゃんは冬用ジャケットからスマホを取り出した。電波がきてないことに気づいていないわけない。

「うわ、ほんまや、既読ついてへんやん。あかんなあ、やっぱ東京は」

東京はあかん。それが言いたかっただけなのかもしれない。

「東京の電波無くなるまでにあんたとこ行く言うといて正解やな、さすがお姉ちゃんやな」

猿芝居。なんだかこんな人だったろうか。

「ほな帰ろか、妹さん」

そして、お姉ちゃんは行き先を告げる。

「大阪に」

二〇二一年二月二七日。

今日は私の誕生日だった、私は二七歳になった、トウェンティセブンだ。

九十四年生まれの私の世界は去年でだいたい終わっていた。

 

2.

お姉ちゃんは日産ノート愛車のハンドルを握り、多摩川を越えたくらいで言った。

「やっぱ東京がベラボーに人間の数多いからそのぶんムーニーの絶対数が段違いなんやな。東京が一三〇〇万人で大阪は二七〇万人やろ。ムーニーは人口の四割ってデータがあるから、東京で五百二十万で大阪は百八万人や。大阪も大概かもしれんけど、それにしても一気に五百万以上も人間が反社会的になったら、そら都市として壊滅やわ」

一人喋り続けるお姉ちゃんに私は拗ねた子供みたいに景色を眺めることで応答していた。

「相変わらず、機嫌の悪い思春期お姫様やねえ」

お姉ちゃんはなぜか嬉しそうに言った。

窓の外にはやはり人の姿はなかった。お姉ちゃんは大通りを避けて住宅街を器用に抜ける。慣れない道のくせにハンドルに迷いはなかった。

「これ、道ほんとにあってんの?」

「GPSも使えんから、道順は紙の地図で覚えてきたわ。高速やったら簡単やねんけど、海老名とかのSAにはムーニー達が集団でおるっていう噂があるし、囲まれたら最悪や。下道なら逃げようもあるしせいぜい野良のムーニーに出くわすくらいや」

私は溜息を吐いた。それから助手席の野党として運転席にヤジを飛ばす。

「道って、大阪までどれくらいあると思ってるのよ」

「大丈夫、心配せんでも私はお姉ちゃんなんやから」

与党側は私には使えない最強の論理で反論をねじ伏せた。思わずやれやれと言いたくなったが、言ったら負けのような気がして我慢した。

「退屈やったら、なんか聴いとってもええで。ムーニーは耳が異常に聞こえる猛ダッシュのゾンビとかやないから、音出しても平気や」

私はなにも言わず収納ボックス型のCDラックからいろいろ引っ張り出す。お姉ちゃん自らがわざわざCDに焼いたお手製のディスクが出てくる。ミスチル、安室奈美恵、嵐。J-POPばっかり。いかにもお姉ちゃんらしいチョイスだ。

お姉ちゃんは今年で三五歳。ぎりぎり昭和生まれだ。

私はガチャガチャ乱暴にラックを探し続ける。日曜朝にやっている変身ヒーローのCDもあった。私はそのケバケバシしい黄緑の新解釈バッタ怪人が写ったCDジャケットを見つめた。私よりも先にお姉ちゃんが口を開く。

「あんた、それ、平成のライダーやと思ってへん? 残念でしたー、それは令和のライダーゼロワンですぅ。いつまでも平成ティーン・スピリットやと思ったらあかんでアラサー女」

何も言えず、選んだディスクをカーステレオにセットする。宇多田ヒカルがあった。まあ、J-POPだけど宇多田は良しとする。

ポップスは瞬く間に景色に溶けこんだ。殺風景に静まり返った郊外の住宅地Prisoner Of Loveは月世界になる。お姉ちゃんは一曲目のBメロが終わるまでに切り出した。

「そもそもあんたはムーニーについてどれくらいわかってんの?」

お姉ちゃんの問い方は高校時代の私に勉強を教えた時と全く同じだった。

私はドーナツばかり食べるスパルタ教師の前で、泣きながら過去問を解いたトラウマを蘇らせながら答えた。

「もともとは東京で発生したってわけじゃないんでしょ?」

「はい、正解」

お姉ちゃんは大学教員らしく教育口調で、“講義”を始める。

お姉ちゃんは私が大学受験の頃に京大理学部から移ってすでに大阪市立の博士課程にいたはずだ。設立以来の才能と謳われてお姉ちゃんのために研究所が一つ建てられることが検討される、大変に嵐を呼ぶ女だったらしい。

心配せんでも私はお姉ちゃんなんやから。

確かにそれは圧倒的な才能を持つこのお姉ちゃんにだけ使える論拠だった。東京から大阪まで六時間かかる道を全て覚えるのも私のお姉ちゃんなら確かにできてしまうのだ。

いつだったか誰かが私に、リオちゃんのお姉ちゃんは本当に賢くてああ言うんが天才言うんやねえ、と言った。その大人はあからさまに私がへそを曲げた顔をしたのに気づいて、慌てて、リオちゃんは飛んだり跳ねたり元気でええね、と無駄なフォローした。なんだ、跳んだり跳ねたりって、うさぎか私は。陸上競技舐めんな!

私が隣で憂鬱と戦っているFight The Bluesともつゆも知らず隣では解説の続きが進行した。

「一応ムーニーが世界で初めて確認された言われてんのは、“赤道の通る国”やけど、これくらいの情報やったら知ってるやろ?」

「知ってる」

私はその東南アジアの小国の名前をはっきり発音する。

「その“赤道の国”で一昨年二〇一九年の年末ごろにちょっとした市民デモみたいなもんが最初に起こった。みたいなもんっていうのは、そのデモに参加した市民がなんの政治声明も要求も口にせえへんかったからや。その人間の集団はみるみる人を増やしてあっというまに体制側と衝突した」

私はその当時ニュースやSNSで触れた彼の国の映像を脳内再生する。街路のコンクリートは剥がされ街路樹に火が放たれた。それらの映像は大変によくシェアされた。

「その“赤道の国”の政府は強権体制のもと警察と軍を出した。そんであれよあれよというまに自国民の虐殺になり最後は死体の山や。もちろん最初は放水や催涙弾を使って抑えようとしたんやけど、現れた市民の数が半端じゃなかった。どれだけ押さえつけても市民は破壊行動を止めんかったんや」

お姉ちゃんはもう光の点かない信号機をどんどん進んでいく。世界が終わるとドライバーもその人間の本性が出るもんだな。

「政府は鎮圧後に国中の学者を集めて参加した市民達をあらゆる角度で分析して、この理由不明の暴動の性質を明らかにしようとした。ほんで最初に破壊行動がある種の“症状”やということを発見したのは、ある医者やった。その医者は破壊行動に参加した自分の娘の死体を自主的に徹底的に調べ上げた。よっぽど自分のおとなしかった娘がなんで急に破壊行動に参加したんか納得いかんかったんやろな」

またハンドルが切られる。さっき道は覚えていると言っていたがもしかしたらやはり迷っているのだろうか? いや、お姉ちゃんに関してそれはない。

「結論からいうと、その医者の娘も他の破壊行動参加者の死体も脳内視床下部にウィルス性脳炎と酷似した病変の痕跡が確認された。残されとった死体全員からな。ええ? 全員やで。すごいやろ。つまり、集団破壊行為というある特定の行動をとった人間すべてに共通しとった事象ってのが、脳の一部が病変してるってことやったんや。といわけで、ここからWHOの調査研究もその国に出張って正式に行われることになったわけやな」

あんた、その前のダッシュボード開けてみ。

お姉ちゃんが私の助手席の前を左手の爪先でコンコンと叩いた。私が開くと、健康診断のお知らせのようなA4茶封筒が出てきた。外国語の資料だが、一枚白黒の画像が印刷されたものがあった。

「それが共通点として発見された残存ウィルス」

顕微鏡の拡大写真には、正円で中に楊枝で突いたみたいに斑点のある月面が写っていた。

「パッと見た感じ、ミクソウィルス科に似てるけど、絶対に新種やな。エンベロープに突起のスパイクがなくて、むしろいくつか凹みクレーターが見られる。せやからムーナウィルス月の病って名前や。それに罹った人間のことをムーニーいうとるわけやな」

実をいうとここまでの話は私も知らないわけでもなかった。全部国内ニュースでやってた。でも報道の数は少なかった。まして海の向こうの小国のことをちっとも気に留めていなかった。

「そのムーナウィルスは身体に入ると、そのまま細胞内で脱穀して剥き出しの核酸となりDNAの塩基配列の一部を改変する。塩基配列はそのまま独自のアミノ酸配列となり本来人体で産生されるはずのなかったタンパク質が生じる。そうなると全身感染が引き起こされてウィルス血症状態になる。ムーナはそうやって血中を巡り脳血液関門において血液透過性亢進を起こしてタンパク質ごとアストロサイトをすり抜けて滲出する」

私は鍛え上げたお姉ちゃん専門翻訳機でぎりぎり要約する。華麗なる天才科学者様リチャード・マシスンが言ったことはつまり、ウィルスは細胞のDNAを変異させて、それを利用して増殖する。そして全身を巡って本来ウィルスが入れるはずのない脳に到達する。そういうことだ。

「脳血液関門を滲出したムーナは間脳視床下部に取りつく。それからその脳部位を拡張させられた結果脳浮腫ができて観察されたような病変様相となるんや」

と、推測されてる。最後にお姉ちゃんは付け足した。

「つまり、ウィルスが脳に入って、それで人間が暴力化しているってことでしょ」

「そんな単純な話やったら苦労せぇへん」

隣の科学者は肩を竦める。

「脳炎を起こすウィルスはこれまでも確認されてる。有名なんやと日本脳炎ウィルスとかポリオウィルス。サイトメガロウィルスってのもあるし、エイズウィルスもものによっては実はそうや。これら脳炎ウィルスのなかには感染すると、異常行動を引き起こすことがあるもんも確かに知られとる。せやけど、」

そこでお姉ちゃんはおでこに皺を寄せて言葉を切る。見れば前方の隘路は小型の日産ノートでも通るのは厳しそうだった。

「せやけど、ムーニーのなかには単純に暴力化した人間だけやなくて、極めて知的に反社会的行動を取る“症例”まで発見された。そんな“理性的な行動”をウィルスが引き起こさせる言うんはかなり解釈がキツイ」

お姉ちゃんは一気にアクセルを踏んだ。この人は最後には全て無理くり行ってしまう。そんなところがある。

フロントドアから嫌な音がした。サイドミラー曲がってんじゃん、おいおい。

 

 

ぎりぎり通路はすり抜けた。“講義”を改めて始める。

視床下部が自律神経系を通じて怒りなどの情動に関与することは知られとる。せやから、一応、ムーナがその視床下部に浮腫を作って暴力衝動や直接的な破壊行動を起こすいうんは、無理筋やない。現在生き残って連絡のつく学者たちの間でも、そう解釈されとる」

私の横のガラスがすーっと自動で下がっていく。曲がったミラーを直して欲しいらしい。

「やけど、やっぱ納得がいかんな」

ミラーはありえない方向に曲がっていた。これ、思い切ってやっても取れちゃわないよな。バキっていかないかな。大丈夫だよな。せーの! バキッ! あっ。

「今、ムーニー症状は突発的に人間が暴力的に変貌することで知られる“突発型”と、一見様子はなんの変化もないけど、実は裏でこっそり反社会的行為を行う“非突発型”の二つが知られる。前者ならいざ知らず、後者の方は理性的な振舞いとすら言える。さて、じゃあウィルスが脳を冒したいうだけでこの後者の“症例“を解釈できるか? むしろ、それは器質的な生理的側面だけやなくて精神面的なものすら考えるべきやないんか?」 

私はサイドミラーを窓から放り投げた

「せやけど、社会を上手に壊乱しようなんて観念を精神に抱かせるウィルスってなんやねん。そら、病気になって気落ちして鬱とかはあるけど、そんな話やない」

助手席に戻っても、お姉ちゃんの一人検討会は続いていた。えーと、お姉ちゃんはなんの話をしてるんだっけ?

「ムーニーに関して、一番大事なんはここやな」

お姉ちゃんは参考書の学習ポイントを読み上げるように言った。
ちゃんと聞いときや。

「推計やけど、全人口のうちムーニーはだいたい今のところ40%ほどや。そのうち突発的な暴力行動を起こすのは半分、つまり20%。この20%は明らかに様子がおかしいから、なんとかしようもある。ほな、残りの20%の非突発型感染者。こいつらが笑顔(笑うたまんま)で反社会行動を起こすか、それともほんまにただニコニコ気のいい奴なんか。それが仮に半々10%と10%やとして、見分ける科学的因子は今のところない。どっちに転ぶかはようわからん。けど、重大な反社会行動を起こしたやつを調べたらやっぱりムーニーやったいう事例は山ほどある。ムーニーが理由のない反社会性人間やない、でも、理由のない反社会性人間はムーニーや。人間はこの二つをごっちゃにせんようにはなかなかできん。じゃあその時目の前で笑うとる気色悪い奴がおったら人間どうするか。東京を始めとする世界の人口過密都市で突きつけられた問題は究極そういう問題やな」

ほな、ここで応用問題。お姉ちゃんは私の方も見ずにそう問いかける。

「目の前の人間はあんたと笑顔で挨拶してすれ違ったあと一〇分の一の確率であんたを後ろから刺し殺すかもしれん。もちろん、そうやないかもしれん。せやけど一〇分の一や、言い換えると一割や、言い換えると10%。あんた、自分を一〇分の一の確率で殺すわかってる人間が目の前におったら臆病な人間が何するかわかる?」
私は今やお姉ちゃんの問いにすぐに答えることができる。なにせ経験済みだからだ。 言い換えるとイン・アザー・ワーズ言い換えるとイン・アザー・ワーズ、いつのまにかカーステレオのJ-POPは最後の隠しトラックFly Me To The Moonになっている。

「誰にも会わないように家に引きこもるか、先に殺す」

「はい、正解」

私達は淡々と問題集を解く。

一〇ある玉の内、問題は四個。二個は赤玉で、残りの二個はどっちかが赤玉だということがわかっているが、私達にはその色がわからない。

最悪な感染者ガチャ。

最初の20%でビビらされて、残り潜んだ10%の数字はもう片方の10%無症状を巻き込んでやたらに大きく見える。やがて10%のゲシュタルト崩壊。

最後にはあらゆる人があるゆる人へのムーニー疑惑の大混乱動物探しのフルーツバスケット

「あの頃東京では今の大阪みたいにムーニー検査キットもできてなかった。結局、ムーニーが殺した人間の数と、ムーニー対策と称して殺された人間の数どっちが多いんやろなあ」

その問いに答えられなかった。私は言い訳するように代わりに仮面ライダーゼロワンとミスチルのCDの上にさりげなく安室奈美恵を重ねてお姉ちゃんから隠した。

去年の7月のド頭だ。私達はその頃にWHOからムーナというふざけた名前を知らされた。この時点でXデイまで残り二三週間。
「WHOが最初にムーナを発表した段階では、感染性はない、そう言ってた」

べつにお姉ちゃんがWHOというわけでもないが、私の声は不満気になった。

まあ、WHOを責めてもしゃあない。ムーナの感染経路は今をもっても不明なんや。ウィルスがどう拡がってるかは現在もようわからん。ほんまやで、空気感染も飛沫感染も接触感染もなし、媒介感染もなし。飛沫感染がないんは初期からわかってたことなんやけどな。どうもムーナのクレーターが排出門戸となる特定の身体器官の細胞で受容体を包むように接合するみたいで、体内からのウィルス排出が行われんのや。これはスパコンのシミュレーションで確認されてる」

ここも大事なポイントやな、お姉ちゃんは強調した。

「ウィルスは人間の中におる以外、感染経路もわからなければ、感染源の目星もつかへん」

WHOは“赤道の国”の一件以来、このウィルスのサンプルを見つけようと躍起になった。でも見つからなかった。まるで存在しない。その時点で見つけられたのは死体となった暴動に参加した人間と共に活動を終えたウィルスの残骸だけ、そういうことらしかった。

「ムーナは“赤道の国”の民族のDNAから由来し、そして彼ら自身に自家中毒を起こした。一国の一民族で勝手に始まって勝手に終わった限定的な奇病。したがって、感染拡大パンデミックの恐れなし。それがその時のWHO付きウィルス学者達の結論。が、もちろんその物語は外れやった。ちゃーんと世界流行は起きた。感染経路はわからんでも、一気にな」

お姉ちゃんの言う世界流行の日、二〇二〇年七月二四日。

まあわかると思うけど。つまり、東京2020五輪競技大会その開幕。

「ここからは実際に東京におったあんたの方が詳しいかもな」

お姉ちゃんは運転しながら喋るのに疲れたのか、説明役を交代しようとした。

うんざりする説明の果てに西日が車内に差し込み始めている。窓の外はありきたりな住宅地、その裏の田園風景。私はウィルスの顕微鏡写真を再び取り出した。でもすぐ嫌になってお姉ちゃんから渡されたお喋りのバトンを資料ごとダッシュボードの上に放り投げた。
代わりに一言だけで済ませる。

「誰もが誰もを信頼しなくなっただけだよ、東京では」

農道脇には赤と白の鉄塔が花のように伸びて、伝う送電線が地上の私達を血流の網目のように捕えている。光はその線より遥か雲まで照らしてその時間の訪れを否定する。

だが、それでも太陽は沈む。

吸血鬼達のためにやがて夜は明るく優しい光に満ちて、暗黒の空にうかぶ黄金の人間マリア様が私達を見つめる。

 

 

到着したのは二三時を過ぎていた。私達は下道を走り続けて、最後は天王山の麓の山崎から大阪に入ってお姉ちゃんのマンションがある北摂の高槻市まで来た。

お姉ちゃんは日産ノートをマンション駐車場に停めると降りるよう促した。
「長旅ご苦労さま」

お姉ちゃんが助手席を降りた私に声をかけた。

「あんた、ほんまにアパートから持ってくるのはその適当に引っ掴んだコートだけでよかったん?」

「だからよかったって、着替えはお姉ちゃんの貸してくれるんでしょ」

私はフロントドアを投げつけるように閉めながら言った。

「それより、お姉ちゃんの上野の荷物は降ろさなくていいの?」

私は乗り込む時に気になっていた後部座席の積み荷についてさり気なく話題にしてみた。

その積み荷は布に包まれていた。電化製品か何かかと当人に聞いても、秘密兵器や! と誤魔化されるばかりだった。布には国立

科学博物館と書かれていた。

なんで博物館? その類の施設は東京ではとっくに閉められていたはずだ。お姉ちゃんのことだから、人のいないところを無断で入ってかっぱらってきたんだろうけど。

「秘密兵器は、まだヒ・ミ・ツ。明日、阪大に持っていくから車に載っけといてええわ」

「阪大? お姉ちゃんは大阪市大の先生でしょ」

「はっはーん、妹さん、情弱やな。今の大阪域内の大学施設はな、全部阪大が中心になって組織的に一元化されとるんや。せやから、日本国立やった旧国立の阪大が大阪住民新国立になるのに伴って、大阪市大もはれて新国立扱いの『阪大』キャンパスになったんや」

大阪住民新国、私は思わず自分が踏んでいるこの高槻の地を見た。地方自治体の独立宣言は聞いていたけど、いざ自分がその場にやってくるとなんとも奇妙な気がする。

「心配せんでもここはあんたの地元大阪の高槻や。それは変わらんから気にせんとき」

三〇代教授先生は、多すぎる情報量に処理が追い付いつかない私にそう言った。

大阪府じゃなくて、大阪住民新国。私が生まれて、私が一八歳までいた、お姉ちゃんの家がある、東京にいた私の外国。もう、どうとでもなれ。

私達はそのまま駐車場から階段で上がった。

お姉ちゃんは廊下一番奥の角部屋に辿り着くと、二段階鍵に更にワイヤー錠を外して玄関戸を開けた。三和土で靴を脱ぐとお姉ちゃんは照明をつけた。

私はとにかく座りっぱなしだった体を休めようと遠慮せずにリビングのソファに身体を預けた。この部屋に来るのはいつ以来だろうか。お姉ちゃんが結婚して、この新居に移った時に一度、それから二三度来て以来訪れていなかったのかもしれない。それでも壊れてしまった東京をそのまま自分で再現するみたいだった吉祥寺のアパートよりもどうしてか悔しいけどやっぱり安心してしまった。ソファに身を沈めたら、すぐに大きな欠伸をして起き上がれなくなった。もうダメだ、活動限界。

あんた、とりあえずお風呂入った方がええな。ただ座っていただけの私よりも運転していた絶対に疲れているはずなのに、お姉ちゃんは部屋に帰ってきてもさっさとバッグを置いてテキパキと動き回っている。あー、寝たらあかん、お風呂、お風呂。お姉ちゃんがそう言うのが聞こえる。自分のいる空間に誰か安心できる別の人がいる。そんな感覚も、ここ半年で忘れていた。

だめだ、起きろ、まだお姉ちゃんに聞かないといけないことはいくつもある。私はお姉ちゃんに訊くことを脳内でまとめようとしたが、上手く言葉が組みあがらない。

お姉ちゃんからラインが来たのは東京で通信が途切れる数日前だった。

生きとるん? 

そう、ウサギが話すスタンプのあと、返信も待たずにメッセージが私に投稿された。

世界をやり直す方法をみつけたで、手伝ってや。

世界をやり直すってなに?

このムーニー禍の世界をなんとかする方法や。

それからお姉ちゃんは私の投稿すべてを華麗に既読無視して、そのうち東京に迎えに行くわ、と一回だけメッセージを送った。そして私は今このお姉ちゃんの部屋のソファの上でアザラシと化している。

ねえ、ムーニーをなんとかする方法ってなに?

私のソファからの問いかけは、声になっていなかった。お姉ちゃんはただ私の隣で頭を撫でて、お風呂は明日はちゃんとはいりや、ここやったらあったかいお湯が出るさかいな、そう顔を寄せて囁くだけだった。

私が瞼を完全に閉じてこの終わってしまった世界から少しの間だけ逃げ出す前に、お姉ちゃんの細く体温の高い指先は眠気で力の入らない私の掌を開いて冷たい金属の塊をお守りのように触らせる。お姉ちゃんの声が子守唄に聴こえる。危ないから、明日からこれ持っときい

な。もう九割は閉じた薄目でぼんやりと見えるその黒い金属はピストル。

最後に耳元で聞こえたお姉ちゃんの声はこう言った。お姉ちゃんと一緒に世界を変えよな。それから握らされたはずのピストルは完全に力の抜けた私の手をすり抜けた。鋼のカタマリがフローリングに落ちて鈍い音を立てる。それが合図で私は完全に眠った。

おやすみなさい、お姉ちゃん。

3.

起きた。目を覚ました。

目線にあるのは、障子の貼られた木の引き戸。その先のベランダ。掛布団ごと上体を起こす。ソファで寝たはずが布団の敷かれた和室で寝ている。半目のまま部屋を見渡す。

襖を開けてフローリングのリビングに入る。暖かい。すでに暖房が入れられている。誰の声もしない。トイレにいるのかとも思ったが、そんなこともない。気づけば、パジャマを着ている。昨日の夜に着替えた覚えもない。

まどろんだ頭がまず一段階レベルを上げる。

上品な漆喰の壁、ガラス窓にかかる光を程よく通すリネンのカーテン、私が昨日横になった布張りのソファ、40V型液晶テレビ、テレビ台には子供用絵本とニンテンドースイッチ、ダイニングテーブルの向こうには画面の消えたデスクトップ。

ここは東京にあらず、大阪。高槻市。私の地元。この部屋はお姉ちゃんのマンション。東京から六時間かけて、やってきた。なんのため? 世界を終わらせたムーニーをなんとかするため。世界はムーニーで一旦終わってる。そう、そんな感じ。

薔薇のハーバリウムの置かれたテーブルには、目玉焼きと手紙、それからピストル。

 

おはよう。早速ですが、準備があるので家を空けます。ここで暮らすのに必要なことはパソコンのファイルにまとめてあるからそれを読んでね。家のものは食べ物も含めて好きにしてください。掃除もテキトーでもいいのでよろしく。料理も洗濯もあんたはやればできる子だって信じてる。それから外に出てもいいけど、念のためピストルはちゃんと持ち歩いてください。大阪の偉い人はそうすることになっています。では、改めて、二七歳誕生日おめでとう。

それから追伸。もう少し、しっかり食べましょう。体重、軽すぎ。いっぱい食べないと大きくなれないぞお。ぱおーん。

 

像のラクガキがしてある。ぱおーん。

テーブルに座って、改めて書置きを読み返すと、ノロノロと立ち上がって歯を磨くために洗面台を探した。歯ブラシ立てには三本。赤がお姉ちゃんのだろう。彼女はなんでも赤が好きなので。残り二本のうち大人用の青を使わせてもらう。歯を磨くともう一段階霧がかった頭が晴れてきた。

冷静に考えて、二七歳にぱおーんはやっぱりねえよな。

ソファの上に着替えが畳まれている。一応、暇つぶしにパジャマを脱いで着ておく。伸ばしておいてくれたコートはとりあえず椅子に引っかけておく。それから椅子に座り目玉焼きを付け合わせの野菜ごと食パンに載せて齧り始める。ちゃんと私の好きな片面焼きサニーサイドアップだった。

新聞はない。テレビは7チャンネル(テレビ大阪)だけ点いたが、観覧車が回り続ける環境映像に「次の定期公共放送は翌日8時です」とテロップが流れるだけだった。時計を見るともう10時だった。NHKもやっていなかった。東京新秩序緊急クーデター政府からの放送は大阪住民新国がブロック受信拒否してるのだろう。

テレビ台の上に私のスマホがあった。白いケーブルが根を伸ばして充電されている。手に取るとちゃんと電波も立っていた。私は試しにお姉ちゃんに適当に送信してみる。ぱおーん。予想外にちゃんと既読もすぐについた。もう一回送ってみる。ぱおーん。しかし、返信は来なかった。はいはい、そういうやつね。東京で受信できない間に溜まっていたメッセージはお姉ちゃんのものだけだった。

私はその事実に少し傷つきつつ目玉焼きだけ先に無理やり咀嚼して、次にお皿の横のピストルを片手で摘まんでみる。本物か? おもちゃとかじゃなくて? 確かに触った感じとか重さは本物な気がするが、どうなんだ。

パンをもぐもぐしながら、試しに構えてみる。人差し指はトリガーに入れる。撃鉄が真上の丸いリビング照明を反射して艶めいている。銃口の先は肩から肘へ一直線でカーテンのかかった40V型テレビ。

「アーメン」

画面の中の観覧車はぼんやりと回り続ける。

大阪のマンションいばらの森に寝ぼけながらパンを咥えて、点けっぱなしの液晶テレビにピストルを向けているアラサーの女が一人。

なんじゃそりゃ。とんちきもいいところだ。

まあ、今こうしてお姉ちゃんのマンションに座っている状況のでたらめさを思えば、この掌の中にピストルおメダイがあるのも不思議に納得してしまう気もする。世の中の関節は外れてしまっているのだし。

伸ばした腕の先の鉄の重みで肩がだるくなってきたので、安全装置と思わしき部分だけはとりあえず確認して、コートのポケットに突っ込んでおく。どう考えても何かが間違っている気がしたが、もはやヤケだ。

食事を終えるとデスクトップの前に座った。マウスに触れるとモニターが点いた。お姉ちゃんのアカウントでログインされている。デスクトップの壁紙はお姉ちゃんが常々推しだと公言して憚らないおじさんだ。おじさんは赤く色のついた威厳のあるサングラスで画面いっぱい散らばったファイルやアプリケーションの隙間からこちらに笑っている。

うーむ、昭和ダンディ、渋いね。曰く、めちゃくちゃ立派な民族学者。お姉ちゃんが京大から博士で大阪に進んだのもこのおじさんの経歴に憧れてらしい。

我が姉枯れ専女子なりけり。

私はカーソルをうろうろさせてお姉ちゃん言うところの“ここで暮らすのに必要なこと”を纏めたファイルを見つける。
ファイルの分量はかなりで、最初は在阪メディアのネット記事をコピペしたまとめ記事だったが、途中からお姉ちゃん自身の言葉で説明してあった。

大阪住民新国内でも、情報秩序維持の名目のもとウェブサイトの自由閲覧は大幅に規制されたようだ。テレビは大阪テレビだけ系列から勝手に独立させて大阪住民新国の公共放送として活用するだけで、他は人員資源の効率化を名目に停波。新聞は産経も朝日も含めて主要五紙の大阪本社は解体されてやはり全て廃刊。

お姉ちゃんファイルによれば、こういった新体制の整備は独立宣言直後に行われた住民投票の過半数によって承認された大阪住民新国憲法に基づくものらしい。

成立した住民新国憲法を根拠とする社会再編として曰く、急減少した特定社会維持設備要員のための住民雇用とその刑法上のみなし公務員

取り扱い、あるいは社会構造新制のための経済活動の一時的共有化措置に基づく域内首長指定企業の公共法人格の付与、あるいは特定感染症行為の予備に関する法律に基づく各種住民サービスの実施。まあクソ長い単語が胃袋に飛び込んできて、消化不良が起きる。

私はファイルを送っていく。お姉ちゃんが書き加えている情報は途中から明らかに一般市民レベルでは知ることのなさそうな情報まで纏められている。その理由も当のファイルの中にきっちりと書き込まれていた。

曰く、公益及び公共防疫秩序の為の各住民クラスター単位への情報の分散的提供適正化。

みんな大好きな、情報は知ることが必要な者のみニード・トゥ・ノゥの原則。知るべき人間が知り、知らない人間は知らなくていい。ベタベタのベタな悪者が使うやつだ。

我が関西弁の紅薔薇のつぼみロサキネンシスアンブゥトンのピストルの感触を私は思い出した。

今や国立大学の先生様たるお姉ちゃんは、この知ることが必要な者(大阪の偉い人)の中に入れたらしい。

ビッグ・シスター・イズ・ウォッチング・ユー。マリア様がみてる

いや、ラノベ少女小説かよ。

いずれにせよ、これらの施策のベースはかなりの社会的リソースを割いて行っているムーニー研究の進展によるところがやはり大きいらしい。今の大阪では、その人間がムーナを体内に持っているかどうかを判別するムーニー検査キットを作り出すところまで対応は進んでいるようだ。ムーニー検査キットに関してお姉ちゃんの説明がある。

お姉ちゃんが言ったとおり、東京ではムーニーは明らかに行動の外形の上で感染者とわかる人間はともかく、残り半分の非突発型ムーニーは表面上見分けがつかなかった。だが大阪では開発されたムーニー検査キットを使えば、いまや非突発型感染者もよりわけることができるようになったのだ。

ただ、これも車中でお姉ちゃんが確かに言っていたが、ではある人間がひとまずウィルス保有者であるかどうかはわかるとしても、さらにその先でその人物がムーナ特有の反社会性行動が現れる発症者であるかまでは検査キットでもわからない。ムーナの感染者であることがわかっても、そこから将来にわたって感染しただけの無症状感染者かはやはり神のみぞ知る領域ということらしい。

それでも検査キットを基盤とする施策はおしなべて成果を上げており、なんとなれば大阪住民新国政府は突発型ムーニーだけでなく非突発型ムーニーに対しても優位な立場に立ちつつあるらしい。もちろん翻ってもやはりムーニー発生の突発性は残るから、以前の秩序に戻す見通しは立っていない。だがそれでもある水準、どれだけ少なく見積もってももはや崩壊しているというしかない東京よりはよっぽどまともな秩序維持には成功している。そういうことらしかった。

 

 

そうして私は飽きずに最後まで長いファイルを読み切り、作成者の意図通りこの街の基本情報を頭に入れることができた。ご丁寧にも最後にはピストルの取り扱い方まであった。

×印でウィンドウを閉じると、びっしり細かく詰め込まれた文字を見つめていた目を休めた。モニターから目線を外して息を吐く。この時点でもはやすることは無くなってしまった。私は昭和の大学教授が微笑むデスクトップ画面でカーソルを迷子のように彷徨せた。

私は習慣的に何となくブラウザアイコンをクリックしてしまった。読んだばかりのファイルによると、現在の大阪では各種の生活実務住民サービスに関わる申請を出す以外に自由なウェブサイトの閲覧は都度許可制ヤフーキッズ仕様とのことだったが、お姉ちゃんアカウント許可された権力様専用のブラウザクロームはあっさりとシンプルな検索窓で私の前に現れた。

検索窓にカーソルを合わせるとyoutubeの文字が履歴に現れる。私は導かれるようにクリックする。自動アルゴリズム機能は生きていて、お姉ちゃんのアカウントにおすすめリコメンド動画がトップ画面に表示された。

各動画の日付をみると日本の投稿動画に関してはある時期以降投稿がなくなっている。ウェブサイトの閲覧規制以降の日か。生き残った海外の人間からの動画投稿はこんな状況にも関わらず、細々続いている。適当に一つ再生してみる。

わずか一分四〇秒ほどの短いシークバーが画面の端まで進む間に、自分の親しい人達がまるで誕生日のドッキリサプライズパーティ―のように襲い掛かる。私はその動画に今さら動揺しなかった。こんな光景は動画でなくとも、今日までに何度も見たのだ。私は見飽きたその縦一列の関連動画ゴア・ムービーをスクロールで送っていく。

私はお姉ちゃんの履歴からアルゴリズムが弾きだした別の動画をクリックする。

コメント欄には、家庭内であってもいつムーニーになるかわからない状況で共にいるのは良くないと英語で書き込まれていた。それも海外の動画だった。生き残った家族がリビングで幼気な子供を映していた。子供はまだカメラに慣れていないのか、画面のこちら側を不思議そうな顔で見つめる。私は再生の終わりまで子供の顔を黙って観続ける。

子供の動画は別の動画を呼び寄せた。関連動画欄に同じように子供を映した生き残った家族のVLOGが集まってくる。私はその短い動画を一つ観てはまた一つと眺めて、取り憑かれたようにクリックし続けた。子供達と家族の動画は私の目の前で何度も再生された。

私は動画を再生する前に気づいていた。幼い子供の関連動画の全てのサムネイルには、過去に一度視聴済みであることを示す赤いシークバーのラインが入っていた。

朝青の歯ブラシで磨いた口の中が乾いていく。

私はデスクトップから視線を外すと、この三人のための部屋を見つめる。テレビ台の下の子供用絵本の何冊かは私が“彼”の誕生日のたびに毎年送ったものだ。

私はウィンドウを閉じモニターをオフにした。子供達の動画を見続けていた私の顔が真っ暗な画面に反射した。

私はお姉ちゃんが動画の子供達を見つめる、その目を想像した。この部屋で毎晩一人で過ごしてきたその表情を。誰の声もしないこの部屋の音を目を瞑り感じる。

温風を送るエアコンの音は微かで冷蔵庫のコンプレッサー音ばかりが大きく聞こえる。

私は椅子に掛けていたコートを掴むと部屋を出た。

 

 

二月の最終日は残る冬の空気で気温は低いままだ。高層マンションの狭間でたった一人暗い天気に触れながら肌に感じる。

私はJR高槻駅北口からセンター街方面の南へ進む。公共交通機関に乗車する必要があるのはICカードに運送指定を受けた住民の方のみになります。入り口にそう書かれたポスターが貼られた駅地下通路を歩いて抜ける。南側も北側の広場と同じでこちらのバスロータリーに人の姿はなかった。

私はありえたはずの人影をこの目の前の現実の街影に重ねてみる。

この駅前の景色を今生きるはずの人達がここにはいた。あのベンチで一休みするはずだった買い物帰りのおばあさんがいる。あのサイゼリヤで過ごすはずだった女子高生がいる。この松坂屋前のロータリーで客を待つはずだったタクシーの運転手がいる。それに乗るはずだったサラリーマンがいる。このペデストリアンデッキを父親と母親に連れられて歩くはずだった幼い子供がいる。

今とそして未来に。

でもやっぱりいない。

世界から人間が消えた、本当はそんなのは嘘だ。

人々は今も窓の内側で、玄関扉の内側にいる。カーテンの隙間から息をひそめて自分たちの捨てた世界を不気味に覗いている。

これが新しい日常で、新しい街で、新しい世界だ。捨て去られた街の新しさ。

でも。

こんな言い方は傲慢なのかもしれない。

そうだ。

私はこの街を九年前に高校卒業と同時に出ていった。

人々は街とこの景色を捨てた、なんて私は言うけど、この場所を捨てたのは私も同じだ。

進学先が東京にあるから、就職先が東京にあるから、私は周囲にそう言った。けど本当はこの街には残らないという意識がその時明確にあった。東京という単語はただその辻褄合わせに過ぎなかった。

自分の住み慣れた街を出ていくのはべつに珍しいことではない、そんな人間は掃いて捨てるほどいる。責められることでもないだろう。それでも私はこの街を捨てたという感覚がいつもどこかに拭い難くあった。

それはなぜだろう。

センター街に入る前に聳える高層マンションを背後に背負う駅舎を私は振り返る。

私のことを好きだといった音楽好きのセブンティーンを思い返す。

なぜここから出て行った?

どこにでもある百貨店もどこにでもある古本屋もどこにでもあるシネコンもどこにでもあるこのアーケイド商店街も、全てどこにでもあるものを組み合わせて過ごすしかなかったこの場所でどこにでもいるような人間にやがて自分もなっていくのがたまらなく気持ち悪かったのだ。騒がしいお喋りで、騒がしい冗談で、無意味さを誤魔化すように笑ってべたべた素手で触りあうように受け入れていく周囲のなかで、私もまた触れられてそうなっていくことに。

この地元で一日一日と過ごす日々の中でくだらない冗談への愛想笑いはだんだんとぎこちなくなって、気づけばすっかり疎外感まみれになっていた。その疎外感もやがて周囲と自分が違うことを証し立てるものだとしがみついて離れず、結局勝手に孤立したつもりになった。なんのことはない。それこそどこにでもいる思春期のホルモン過剰の女子高生痛すぎるセブンティーン

騒がしいクラスメイトも国道が貫くありきたりの郊外も本当は問題じゃない。

結局自分の問題だった。気持ち悪いのは私だった。

その証拠に私はこの街を放り投げて東京に来て、それでもやはり今日まで馴染めず、疎外感を手放せなかった。あげく今二七歳になれば、自分があれほど逃げ出そうとした街の方から人が消えた。

今、私が歩くセンター街の隅にはなんてことのないカラオケボックスがある。当然今はもう閉まって、入り口には廃業の張り紙が出ていた。その店は私が東京に引っ越す前の日にお姉ちゃんと来た。お姉ちゃんはそこに来たら歌うのは必ずJ-POPで、私は洋楽。
私はその日もソファで転げまわってグランジスメルズ・ライク・ティーン・スピリットを全力で歌った。お姉ちゃんは私のメロンソーダで勝手にハイボールを作って酔ったニヤニヤ顔で私に言った。

東京も大阪も関係あらへんで、梅干しはいつも背中についとるんやからな。

 

 

センター街をさらに抜けて阪急高槻市駅を東に進んだ。それから私は高架下の交差点に辿りついて立ち止まっていた。ここから北側に行けばお姉ちゃんのマンションにまた帰れる。南に行けば八丁畷交差点から国道に出ることになる。

お姉ちゃんはいつ帰ってくるつもりなのだろう。数日か一週間か。いや一年以上帰ってこなかったりして。天才でよく笑うけど何を考えているのか誰もわからなくてそれでいてなんだかんだ周りの人間のことが大好きでちょっとお節介な三五歳のお姉ちゃん。
私は赤も青も黄も消えた信号機を見つめる。部屋で聞いた冷蔵庫のコンプレッサー音が耳を離れなかった。お姉ちゃんが失ったもの。傷ついていないわけがない。辛くないわけなんてない。あたりまえだ。でも私に何がしてやれる? もう帰らない人間を抱える人に。

私は南の国道171号線を選ぶ。

過去に何度も自転車で通ったそのロードサイドを私はお姉ちゃんのマンションから逃げるようにひたすら東に歩く。

ローソン。何度もガラケーを機種変しにきたドコモショップ。中古のi-Podが売ってたリサイクルショップは更地になっていて、お姉ちゃんと分担して買い漁った少女漫画とラノベがたくさん置いてあるブックマーケットは今はGEOに代わっている。いくつもの見知った歩道橋とENEOSなんかのガソリンスタンドを通る。そこから先は坂道で隣に丸大食品の工場があって、上った先にミドリ電化だったエディオンがある。

そして坂の向こうにはなんども買い物に来たイオン高槻店がある。

ここは私が高校生の頃にジャスコからイオンに屋号が変わったのだが、私達の間では今だにジャスコと呼ばれ続けている。ジャスコはジャスコだ。

自転車で駆け回っていた当時の私の行動範囲はこのジャスコくらいまででこれより先は隣り街という感覚だった。

頭でっかちな私の小さな街の終わり。セブンティーンのショッピング・センター終末のコンフィデンスソング

私は上りきった坂を再び下りその静まり返った世界の果てワールズ・エンドへと歩く。外観に荒れた様子はない。縦に長いマゼンタの看板が立つ国道側入り口から入る。車で埋まるべきはずの野外駐車場は空っぽで、敷地内は森閑とした聖堂を連想させた。建物正面玄関のガラスの自動ドアは閉ざされている。東へ回ってみると立体駐車場の店内入り口がなぜか細く中途半端に開いていた。私はコートを引っかけながらも、その扉の内側に入る。

 

店内は過去に鳴っていたBGMはもう鳴らず、薄暗かった。一階の食料品売り場は肉や鮮魚などが並んでいるはずの棚の向こうは見通せない。暗闇には近づかないようにして、まだ窓から光が入っている廊下側を進む。

右手に吹き抜けの階段広場、左手にフードコートに入る位置まで来る。

先にフードコートの方をのぞく。並べられた椅子とテーブルは、かつてここでうどんを食べたり、アイスクリームを食べたり、タコ焼きを食べたり、雑談したり、ゲームをしたり、勉強したり、そんなふうに過ごした客の帰りを今日も待っていた。

来るとよく食べたラーメンショップもまだあった。もうちゃちなアラーム無線を渡されてラーメンの出来上がりを待つこともない。あのアラームの音を思い出すとたまらなくて仕方ない気がした。

お姉ちゃんがミスタードーナツを何個も食べながら、私に閉店まで延々と受験勉強を教えたのは給水機の横のあのテーブルだ。あの時の家庭教師代のポンデリングは高くついた。

私はフードコートを引き返すと、吹き抜けの階段広場に来た。

吹き抜けは屋上駐車場が建物の中で唯一明るさがあった。屋上駐車場のある最上階から落ちて来る外光はステンドグラスを通る光のようだ。私は広場の階段に腰かける。視線を上げると広場に吊られた大型モニターが聖像のごとくこちらを見下ろしている。モニターはただ暗い画面でこちらを見続ける。

冬の吹き抜けは冷蔵庫のようにひんやりしている。コートのポケットに冷えた手を入れる。ポケットには突っ込みっぱなしのスマホとピストルが入っていた。スマホを取り出すと、何に反応したのか画面がぼうっと点灯した。
ロックを解除してみる。ここでは電波は立っていなかった。それでも私はこの電子機器が両手を暖める暖になるんじゃないかと握りしめ見つめ続ける。

スマホはただ鈍い光を放つだけで震えない。

私は自分の惨めさを再びスマホごとポケットに戻す。人差し指の背が何か紙の角のようなものに触れた。取り出すと実際、それは一枚の紙のカードだった。カードは薄くてよくあるポイントカードよりも一回り大きい。そのカードは私が確かに入れたものだった。

私はホイル加工で輝くようにプリントされたその白い龍の絵を見つめる。

龍のカードは私をこのカードが渡された日の記憶へと誘う。

 

 

電子扉の向こうからわざわざ残って中継を見ている同僚達の囃し声が聞こえてきた。私は入室タグの認証が承認されたのを確認すると扉を開けた。フロアに置かれたテレビの方を見ると、日本選手団が最後の選手入場(ホスト・カントリー)としてカメラの前に現れていた。

「あれ? 先輩、帰ったんじゃなかったんですか。タイムカード押したと思ってました」

テレビ前に集まる人間たちに背を向けて自席でデータ入力をする “彼女”が私に気がついて話しかけてきた。

愛しのクソメール月曜日までで大丈夫ですが神聖なるかまってちゃんなのよ」

私はビニール袋の中の買ってきた夕飯を自分の席に置く。それから仕事を再開する前に椅子に掛けていたモッズコートを掴んだ。

「あんたもまだ帰んないの? そっちで急ぎ案件なんてあったっけ?」

コートに半袖を通しながら私は“彼女”に言った。

「ありますよお。研究所で選手達に比較テストしてもらった来年のシューズ素材の検討を週明けには結論出したいからって、今日中のデータまとめを主任から頼まれちゃいました」

「じゃあその主任は?」

「なんか頭痛いし風邪かもみたいなことをもにょもにょ言って、帰って行かれました」

「なにそれ、絶対家で観たいだけでしょ。クソじゃん」

「クソですね! まあでも、確かにこのままだと風邪ひくかもですね」

“彼女”は、数日前から持ち込んでいるファーのついた冬用コートの前を合わせながら、両手で口を覆った。クシュッ! と、控えめな音を彼女は発した。

「うう、夏なのに寒みいよぉ、絶対これ暴走して18℃以下になってますよ、これで風邪ひいたら絶対労災申請してやるぅ」

ごめんね、ごめんね、そのうち工事の人来ると思うから、だから労災は勘弁してね、ね。デスク島の窓側から気の弱そうな声がした。あ、課長もいたのか。

私は冷気を発して止めない直あたりかましてくる真上の業務用エアコンを睨みつけた。

冷え性には堪らんな。

気づけば“彼女”はリモコンを猛烈な勢いで連打して、切れろ切れろ切れろ、切れろ切れろ、切れろよぉ! 今切れなきゃ、みんな死んじゃうんだ、もうそんなの嫌なんだ、だから切れてよぉ! と、絶叫していた。

いや、さすがに死なんから。私は後輩の頭を軽くチョップした。

「まあ、寒いんなら無理せず帰んな」

私は座りつつ、隣の“彼女”のパソコンを覗き見た。データ入力はなんだかんだ終わりそうらしい。私は文句を言いつつきっちり成長している後輩の席にビニール袋から暖かいドリンクを供えた。

「きゃ、先輩、おごりですか、おごりですね、おごりです、ありがとうございますいただきまーす」

まあ、そのつもりだったんだが、なんだろう、あまりに高速な、おごり三段活用を見せられて、最近の若者、そしてこの国はこれでいいのだろうかと考えさせられてしまった。

“彼女”は私の憂国をよそにあっというまにドリンクを飲み干した。

「そいじゃ、先輩にはお礼にこいつを進呈します。メルカリで間違ってダブり買ったので」

“彼女”はデスクの引き出しを勢いよく開けて、ごそごそと一枚のカードを取り出すと私に差し出した。手をおでこに当てて「勝利のピースはすべてそろったぜ」と意味深そうな表情で言った。

あ、これ、知ってる。小中高と男子がひたすら教室でやってたあのカードゲームだ。

課長も横から、あ、ぼくも知ってるー、口をきいてくれた頃の息子が小学生の時にやってたよー、とお父さんの微妙な悲哀を混ぜながら言った。

「それは推しから受け渡されし魂のしもべ! 本当は交換が流儀なんですけど、先輩と私の魂の友情に免じて進呈しますよ」

「さっきあんた間違ってダブり買ったって言ってなかった?」

「このカードが先輩と私の絆、そう、見えるけど見えないもの」

うわあ、ベッタベタだあ……。さすが少年漫画……。

「でも、先輩、ほんとに残ってていいんですか? 開会式を生で観に行くんじゃなかったんですか?」

“彼女”は表情をクルクル百面相のように変えながら言った。

「なんで? そんなこと言ったっけ? 全然そんな予定なかったけど」

「ふっふっふ。じつはさる情報元によると、先輩が総務課から今日のチケットを事前に二枚こっそり手に入れたという秘匿情報がありましてね。利権だ、利権だ、私はオリンピック利権を許さんぞお! ぱおーん」

ぱおーん。私は腕組みをして考えこんでしまう。

「しかも、二枚! やはり男か! あろうことか私に隠れて、だれだ、どいつだ、課長か? やはり課長なのか! 先輩と課長の愛の開会式なのか!」

課長は、いや、ぼくも今ここにいるからね……、と小さく囁いた。

私はぱおーんぱおーんのゾウさんになってしまった“彼女”に言った。

「親会社から分けてもらったチケットを会社が購入希望者に抽選で回すって連絡来てたでしょ。べつに利権じゃないわよ」

うちは祝日は休みじゃないから行くなら退勤後か有給取ってね。チケットを引き取るとき総務課長になぜか不機嫌そうに言われたのを思い出す。きっと総務課長は抽選外れたんだな。どんまい。

「あんたも欲しかったら総務課に言っておけばよかったのに」

「なにを言いますか先輩! 私は誇り高き根暗腐女子暗黒オタとして体育会系の野獣どもの祭りは断固反対です! 日々裏アカでも、その立場を鮮明にした政治ツィートを粛々とですね……」

あんたなんでうちスポーツ用品メーカーに入社したんや……。

私は思わず地の出たツッコミを心の中でしてしまった。

課長は、あの、ほんと、企業的立場もあるから、SNSの個人的意見の表明はバレないようにやってね……ね、と汗を拭きながら言った。

「じゃあ、じゃあ、二人分ってなんですか? どうせこのあとちゃちゃっと仕事終わらせて、待ち合わせしたステディと新国立までしけこむんでしょ! きゃー不潔! やっぱりオリンピックは汚れてるんやあ!」

人差し指をピシィっと高く掲げて告発の時やでえ! と生まれも育ちも東京育ちの“彼女”は微妙なイントネーションの関西弁で雄たけびをあげた。

「旦那よ、旦那。それから甥っ子」

「ええ、先輩、結婚してたんでっか? それは普通に知らなかったでごんす」

「てやんでぃ、甥っ子言うとるやろがい。旦那ってのはお姉ちゃんの旦那さんってこと。お姉ちゃんはスポーツとか興味ない人なんだけど、お義兄さんがね、こういうの好きでね」

正直にいうと、私はそのお義兄さんがあまり得意ではない。お姉ちゃんの結婚式の前に、親族顔合わせで何か話さなければならなかったのだが、音楽の趣味が全然合わんかったのだ。うーむ、ミスチルか。私とは魂が違うのかもしれない。

ちなみに甥っ子の方はというと現在、特撮ヒーローにドはまり中で、送られてくるお姉ちゃんからのラインによると開会式にも敵を倒しにライダーが来るかもしれんという謎の期待をしているそうな。

甥っ子よ、ライダー正義の味方、来てるかい? 私は少しだけフロアのテレビの方をちらっと見た。

「じゃあ、先輩のお姉さんと旦那さんとその子供さんでチケット二枚ってわけでぽんすな」

私は、怪しい口調を改めない“彼女”に「そういうこと」と返事をする。ちなみに三歳未満の幼児は保護者がいればチケットは要らない。ちゃんと数はあってる。

「それじゃあ、三人とも今東京に来てるんでぴょんすな」

「まあね。と言いたいところだけど、お姉ちゃんはちょうど今日の朝に新幹線乗る前に大熱出しちゃってね、結局来たのは旦那さんと甥っ子だけなのよ」

それほど楽しみにしてた訳じゃなさそうだったから、そこまで悔しくはないだろうが、それでもお姉ちゃんは今頃冷えピタをおでこに貼って、高槻の家のテレビでこの開会式を観ながらうんうんうなされているだろう。いや、日頃の行いって大事だね、お姉ちゃん!

なんか嬉しそうっすね、先輩。“彼女”は私のお姉ちゃんへの二七年分の愛憎を目撃しながら不思議そうに言った。

そんなふうに“彼女”と話していると、テレビの中ではドローンによる球体が現れた。市松模様の球体は月面のクレーターみたいに見える。

競技場に集った世界中の選手と観客が夜空に浮かぶその満月を見上げた。

“彼女”はそんな演出にわっと沸くフロアの同僚達を眺めながら言った。

「先輩もお姉さんのチケット余ったんなら、開会式行けばよかったのに。中学のとき幅跳びでインターハイ出たんでしょ?」

彼女は座りながらはさみ跳びのつもりか両腕をばたばた動かした。何年前の話だよ。

「新国立なんてすぐそこなんだから、行きましょう! なんなら出場しましょう! 私と共にもう一度栄光を! ええい、先輩は金が欲しくないのか!」

はいはい、仕事仕事。それから私達は隣同士座って、あと残り少しの仕事を再開させた。

テレビの中では二人の男女がスピーチしている。

私はそのスピーチを“彼女”の隣で聞きながら、推しとのイベントは一昨日クリアしたっていったし、このあと飲みに誘ったらついてくるかな。そんなことを考える。着こんだコートが身体に馴染んできたのか、冷房の寒さは随分和らいでいた。私は貰ったカードをもう一度取り出して眺める。

「これ、ありがとね。ええとなんだっけ?」

「魂のしもべです、先輩」

「魂のしもべ、ありがとう」

それから、“彼女”はイタズラを仕掛けるみたいに笑った。

「言いたいことがあるなら、もっと正直に言ってくださいね」

私はその言葉にまた笑う。そうだな、どんなふうに切り出そうかな。私は考える。そして決める。そうだな、ちょっと冗談っぽく、こんなふうに。 

「金メダルなんて要らないよ。私が本当に欲しいのはね、」

でも、私の勇気は、フロア中に聞こえるように誰かが上げたテレビ中継のボリュームに掻き消された。

二人の会長のスピーチは終わった。いよいよこれから開催宣言がされるらしい。

国家元首立ち上がり、その開会を宣言する。

これが私達の世界の開会宣言2020年の東京五輪だった。

「記念する宣言します私は第三十二回近代オリンピアードを開会を東京大会のここに」

 

 

歩き疲れて、ウトウトしてしまったのかもしれない。ぼんやりとした頭を振る。意識がはっきりすると、感覚も戻ってきて、今いるジャスコの吹き抜けの寒さが焦点を結んだ。

私はそれから真昼のウトウトした感覚の中で思い出していたその日から、それ以降の日々を少しでも早く抜け出したくて早回しのリピート再生で通過する。

暴力の渦と化した競技場から溢れだしたムーニー、疑惑ムーニーというそのとき使われた未完成な言葉、対策という政府の言葉と混乱の二文字の違いが判らない日々、やがて首相を巻き込んだムーニー閣僚疑惑、どっちがどっちのフルーツバスケット千代田暴動で崩壊した司法立法行政国民国家、恐怖に乗じた新秩序緊急政府クーデター声明、その新秩序緊急政府への更なるムーニー疑惑、新秩序緊急政府の新日本国宣言と各自治体の不承認、東京への独立通知自治体の現れ、日本分裂。

最後にはどういう思惑か在日米軍が無人兵器ドローンでご登場、でもその数日も経たないうちに自分達のお膝座元ニューヨークでの第三の世界的拡大、ひっくり返ったジョーカー《トランプ》の議事堂引きこもり。 

以上、再生終わり。

こんなことが世界の都市で繰り返されたリフレイン。開会式はそのモデルケースAメロに過ぎなかった。

ムーニーが現れる前の時間、それは今や夢だったみたいだ。あるいは今こうして廃墟となったジャスコの吹き抜け階段に座り続けているこの時間が夢か。本当の私達はただ安らかな眠りの中でこの世界の終わりという悪夢を見ているだけなのか。それともやはり、それ以前の世界こそ夢で私達はとうとう夢から覚めてしまったのか。

夢と現実がわからない。

あまりにも、あまりにも陳腐な三流のフィクションの言い草だ。

私が過ごしてきたあの世界。それはいつも寝ても覚めても少女マンガBeautiful Worldを夢見てばかりのペラペラなイミテーションの木だった。

私はもう世界なんて考えたくなくて内側に籠ろうとする。でも、内側に向っても向っても、逃げられなかった。私も同じだったからだ。世界も私もプラスチック製の木フェイク・プラスティック・ツリーズ。そうだ。私もその安っぽさではおんなじ。このジャスコの棚に並べて売られていたありきたりなトップバリューのおにぎりエソラだ。

東京も大阪も関係あらへんで、梅干し自分はいつも背中についとるんやからな。

お姉ちゃんはいつもすべてお見通しだ。東京にいようが大阪にいようが結局のところ同じ。だって、いつもそこにいるのは自分なんだから。

私は彼女から貰ったカードをこの廃墟のジャスコに差し込む光に重ねてみる。ホイル加工のカードは反射して虹の輝きを放った。

それでも、

それでも? それでもってなんだ? 私は唐突に浮かんだ、逆接の接続詞に戸惑った。私は自分のなかに今まで現れることのなかったものに触れかけた。

しかし、思考は床に物が散らばる音に遮られた。そう、ショッピングカートがバランスを失って倒れたような。

誰かいる? 私の思考は急速に冷めて、全身が素早く反応した。ムーニーか?

私はポケットの中のピストルに触れた。お姉ちゃんを呼ぼうかと考えたが、さっきスマホの電波が立っていなかったこと思い出して、ポケットの中でピストルを握る手を強くする。大丈夫だ、使い方はお姉ちゃんのファイルで一応読んでいる。

きゅっと、ジャスコの床を鳴らして子供が姿を現した。

子供? 私はポケットの中でピストルを握る力が緩まるのを感じた。いや油断しちゃだめだ。子供だってムーニーかもしれない。子供は柱に身を隠しながら、覗き込むようにこちらを見ている。先に声を発したのは少年からだった。

「らりるれろって言ってみてや」

「らりるれろ」

私が呼びかけられるままに、ら行を発音すると、少年は柱の影から出てきてふーっと息を吐いた。えっ、なにこれ。

「君、ここに何しに来たの?」

私は聞かれる前に問いかけた。

「何って、そら、遊びに来たんや」

「その、らりるれろってなに?」

 少年は私の問いかけに、情弱やなーと、マウントをとって答えた。

「知らんの? 突発ムーニーはうまいこと喋られへんねんで。せやから、らりるれろって言えんかったら、そいつはムーニーや」

「いや、突発ムーニーがちゃんと話せないのは知ってたけど、なんでらりるれろなの? だいたいにして、べつに突発型じゃなくてもやっぱりムーニーかもしれないでしょ」

質問多いなあ、おばちゃん、コミュ障か! 

少年は、ポリコレ無視で私のトラウマをがんがん抉るようにツッコんだ。

「“らりるれろ”ってのは、お兄ちゃんが教えてくれたんや。突発ムーニーは“らりるれろ”で見分けろって。ほんで、確かにちゃんとしゃべれてもムーニーかもしれんけど……」

けど? そこが大事なとこよ、少年。

「そんなこと言うてもしゃあないやん。そんなん言い出したら、友達とも遊ばれへんやん」

「それもお兄ちゃんが言ってたの?」

「せや、お父さんとお母さんは徴用日以外部屋から全然出てきよらんし、家の中のことは最近全部お兄ちゃんがやっとんねん。お兄ちゃん、長いこと部屋からでられんよったのに逆に部屋から出てこれるようになって妙にイキイキしとる。もともとネットの友達とよう会うとったから適応早いんやろかねえ。最近もその人達となんか悪巧みしとるみたいやで」

人生わからんもんやなあ。少年は腕を組んで頷きながらしゃらくさい調子で言った。最後に慌てて、あ、お兄ちゃん達がネットで悪巧みしとるんは内緒やで、と付け足した。

なるほど、非合法なるアンダーグラウンドクリック・ドラッグ・ロックンロールってわけか。

「ほんまは子供だけで外出たらあかんし、外で大人に見つかったら大問題なんや。ま、せやからこのジャスコを秘密基地にしとるというわけなんやけど」

「大人に見つかったらって、私に見つかってんじゃん」

「せや。だから、賄賂やるわ、ほれ、これで内緒や」

少年は私にアイスクリームの刺さった棒を差し出した。

「ふふん。これもお兄ちゃん達や。これは上のゲーセンのアイスの自販機やねんけど。お兄ちゃん達がこっそり発電所のシステムからそこに配電しとるねん。今はまだお試しで自販機だけやけど、次はゲーセン全体に電気通してくれるんや。目標は大阪住民新国に一人占めされとる中之島の中央給電指令所のシステム丸パクするんやって。お兄ちゃん、引きこもるまで中学のパソコン部やったから詳しいねん」

いや、それ、パソコン部ってレベルじゃねえよ。すげえな、お兄ちゃん。発電所のシステム丸パクて……。ロックかよ、革命かよ。

そういえば、ここに入る前に閉まってるはずの自動ドアが微妙に開いていたが、それもこいつ――とたぶん兄?――の仕業だったのか。なるほどね。

少年はアイスクリームを受け取らない私を見て不審気に見上げた。

「アイスはまだちょっと残っとるから気にせんでええで。それともやっぱりチクるん?」

私は少年の頭をぐしゃっと撫でた。

「チクらねえから心配すんな。アイスもあんたが食いな」

「ええん?」

「いいよ。おばさんはもうアラサーだ。地元モーリー・ファンタジーアイスクリームセブンティーンアイスも卒業だよ」

「おばさん、大阪の人なんやな。ほな、なんでそんなキショい喋り方すんの?」
キショい喋り方って……。

そういうとこ。そういうとこだぞ、少年。大阪人のそういうデリカシーに欠けるところが私と地元の関係を微妙にしたんだぞ。

「他人を見た目とか喋り方でキショいとか言ってはいけません」

おーい、リョウヘイ。

さっき少年が出てきた柱のあたりから蟻の子みたいに子供達が数人現れた。子供達は、リョウヘイのもとに近づいてきた。

「らりるれろ!」

少年達はラ行を交わしあった。それ、ほんとにやってるんだ。

「そのおばさんは?」

「なんやキショい喋り方するおばさん」

コラ!

「え、キショい喋り方……。大丈夫なん?」

リョウヘイは、仲間達に肩をすくめて答える。

「なんやちょろそうやし、大丈夫やろ」

クソガキ。私は次にリョウヘイを呼ぶ時は、そう呼んでやろうと心に固く誓った。

「ほな、おばさんもやろか」

リョウヘイは冬服のポケットからカードの束を取り出す。

「隠さんでええんやで。おばさん、見えるけど見えないもの……やろ?」

へ? 私はリョウヘイがやたりに熱い眼差しで見つめて言ったことが一瞬なんのことかわからなかったが、リョウヘイが握りしめるそのカードを見て合点が言った。「残念、おばさんは一枚しか持ってないの」

なんやおもろな。リョウヘイは熱い表情をくるっと百面相のように戻しながら言った。

リョウヘイと友達はそれからアイスを食べながら階段の陽だまりでカードゲームをして遊んだ。吹き抜け広場に子供達の声がした。私はポケットに手を突っ込んで横からその闇のゲームをいつまでも観戦した。

 

 

やがて差し込む光にも暖色の色がついた。

流石にそろそろ帰した方がいいかな。私は子供達に声をかけようとすると、彼らは自分の口から、「ほな、続きは来週やなと」約束を始めた。

「リョウヘイ、またな」

吹き抜けに集まった子供達は一人一人散っていった。最後に残ったリョウヘイに自分も帰らないのかと私は言った。

リョウヘイは私に、ん、とカードを一枚差し出した。

「やる。今日ずっとへんな奴来おへんか、俺らのことみとってくれたんやろ? お礼や。子供は大人のそういうのちゃんと見てるんやで」

私は相変わらず生意気をいって照れ隠しするリョウヘイに頬が緩んだ。

「気にすんな。ガキがちゃんと遊べるように見とくのは大人の務めだ」

「ええからやるて。結構ええやつやから、メルカリで転売したらええ値段で売れるで」

今はメルカリなんか使えないでしょ。私はそう笑いながらカードを受け取る。

「じゃあ、私からはコレ。ほら、交換が流儀なんでしょ?」

私がカードを差し出たのが意外だったのかリョウヘイは目をぱちぱち瞬きさせた。それから少し躊躇ったあと、「まあ、ええわ、貰といたるわ」そう言って、私の手からカードを取った。

「ほなな。今度はおばさん用の初心者デッキ作って来たるから、おばさんも決闘デュエルしよな」

私は帰り際にそう言って去ろうとするリョウヘイに手を挙げて応えた。

「ふん、なめんなよ、クソガキ。大人が本気でカードゲームやったら、キッズなんて秒で泣かしたるわ」

うわあ大人げゼロやん……。リョウヘイはそう、ちょっとひいて本当に去って行った。

さて、私も帰りますか。

 

4.

「準備完了やで、早速明日にはいこか」

お姉ちゃんは数日後、マンションに帰ってきた。

「行くってどこに?」

帰って来たばかりのお姉ちゃんに私が作っておいた晩御飯を差し出すと、ああごめんやけど、食べたい気分とちゃうんや、と皿を退けた。

「パットパラリト、パッとひらく、花の万国博覧会や」

お姉ちゃんの目には隈ができていた。碌に寝ていないのだろう。もう私はお姉ちゃんの明るさが無理やり作り出されていることに気がついていた。

鬼が出るか蛇が出るか、最後に出るのは何より怖いお姉ちゃん。

 

 

その空の道は揺れずにひっそりと私達を吹田の千里丘陵万博記念公園駅へと運んでいく。

私達は無人のシートのど真ん中で身を寄せて座ってる。お姉ちゃんは遠足にでも行く少女のように身を捻って、真面目な顔で背中の窓からこの北摂の街を眺めている。

自動運転のモノレールは橋脚に載せられて曇り空の街を地上より僅かに高い位置で滑る。ミニチュアのようなビルや団地の間をすり抜けて、駅を一つまた一つと未来へワープした。

私は出発前に高槻市駅の改札でお姉ちゃんに渡された乗車ICカードPITAPAを手で弄ぶ。それから人のいないこの貸し切り状態の車内を見渡す。運転席にも姿はなく車掌も運転手も幽霊になった。PITAPAを渡す時、お姉ちゃんは私に言った。

それは今日一日だけの特別乗車券やからな、失くさんといてや。ほんまは普通住民は割り当てられた徴用日以外に勝手に交通機関使えんのや。あんたは権力者のお姉ちゃん様がおるから特別やで。

勝手に交通機関使ったらどうなんの? 私は何気なくきいた。

そら、速攻で銃殺や。

お姉ちゃん様は指でっぽうを私の額に当てて、アーメンと笑って撃った。

モノレールはやがてホームで停止して万博記念公園駅に辿り着く。ホームに降り立つと、これだけでもう車両は今日の役目を終えたらしく、行き先を回送表示に自動で切り替えた。

線路分岐器が切り替わり、車両は本線から彩都線の公園東口駅に去っていく。

公園東口には万博記念競技場がある。私は中学の時は陸上の地区予選のたびにそこに通った。普通は応援など誰も来ないものなのだが、約一名シスコンの親族が応援に来たことがあって死ぬほど恥ずかしかった。

改札を抜けて駅を出る。お姉ちゃんは降りてすぐある商業施設群を横で歩きながら話す。

「ここ今はエキスポ“シティ”やけど、昔はエキスポ“ランド”やったん覚えてる? ほら、あんたが卒業式の日に連れてったったやん」

覚えてる。ただその連れてきてもらったエキスポランドは後にジェットコースター事故が起こり、私が中学を卒業する年あたりに閉園になってしまった。私は中学の最後の年、幅跳びの出場待ち時間に競技場から取り壊される遊園地を暇つぶしに眺めた。

お姉ちゃんは私を自動券売機前まで連れてきた。そしてじゃじゃーんと両手を大にして私の前に躍り出た。背中には耳飾りのようなゴンドラをつけた高い金属の輪が回っている。

「ほな、これ乗るで!」

「なんで、これだけやってんの?」

遊園地から生れ変って休日には再び人を集めたエキスポシティららぽーとも、109シネマも、体験型水族館も今は誰もいない。お姉ちゃんは閉鎖された無人の商業施設群のなかであっけらかんと説明する。

「プロバガンダや。自分ら大阪は他の独立自治体諸国と違って、ちゃんと電気も独占してこんなでっかい観覧車もちゃーんと回せまっせっていう。国威発揚壮大なボケや」

私は無茶な大きさの観覧車の嘘ぱっちで回る大阪の回転ギャグを見上げる。世界の終わりでは、ランドマークも街も人間さえも狂って回り続けるだけ。なんでやねん。私の苦手な言葉大阪弁

「そういう裏話聞くと乗りたくなくなるんだけど」

「ま、そういいなや、お姉ちゃんとの今生の思い出いうことでな」

私は溜め息を吐きながら乗り場まで進み、お姉ちゃんとゴンドラの一つに乗り込んだ。やがてすぐに北摂の景色がガラスの室いっぱいにひろがった。

吹田、茨城、それから高槻。そして、モノレールの北側で待ち受ける万博記念公園。

その象徴モニュメント、太陽の塔。

世界の終わった曇り空の街に立つくすんだ黄金の顔を持つ反逆的な人類の進歩と調和ヒューマン・プログレス・アンド・ハーモーニー

私達を乗せてゴンドラは月と太陽を隠し持つ曇り空へ上昇していく。

開けゆく無限の未来に思いをはせつつ……

 ☆

 

「これがウィルスで終わってもうた世界をやり直すお薬や」

ゴンドラの中でお姉ちゃんは小さなピルケースを振ってその錠剤を二つ取り出した。

「正確には違うんやが、まあ言うたらこれはワクチンや。ムーナを無力化するから、コロナ太陽って名前にした」

お姉ちゃんは掌の錠剤を長い指先で一つだけ摘まんでみせた。

コロナ・ワクチン。私はそのお姉ちゃんの手の中の白い恒星の名前を繰り返した。

「最初に言うとくけど、コロナは治療薬にはならん。前にも言うたけど、ムーナは生体の睡眠と覚醒の機構である概日リズムサーカディアンリズムを司る脳の視床下部にミクロな浮腫を作るんや。浮腫は一度脳内に形成されたら、もう化学的な方法で分離できん。やるとしたら、外科手術でその視床下部ごと取り除かなあかん。せやけど、まあそんなんやったら、概日リズムはおかしなって。二四時間寝てられるんようなるかずっと寝てまうか、そもそもホルモン系が壊れてまあ生きてられんな」

大事なんはこの薬は治療薬にはならんで予防薬でしかないうことや。お姉ちゃんは指先のコロナを見返して要点を一言で言った。

「コロナは体内でムーナのクレーター型エンベローブに刺さるスパイクたんぱく質を持って増殖する。その後ちょうどインターフェロンのような役割を果たして、一つのウィルスに罹ってると別のウィルスに罹らん、いわゆるウィルス干渉現象を人為的に起こさせることができる。欠点は副作用というか、作用機序の本質的にコロナはどうしても毒性が残る。それでも死に至る確率は高いものやない。症状はそうやな、まあ風邪かちょっと質の悪いインフルエンザ様症状くらいかな。感染性も強いから世界中の人間に投与せんでも、一人が体内に入れて街中を歩き回ったら、それでコロナは拡まるやろ」

その風邪かインフルエンザ程度で死んでしまう人間はいないのだろうか。お姉ちゃんの説明は知らない単語も多いし早口でうまくついていけない。でも、話を聞いていると、その部分が印象に残った。

「それじゃあ、そのワクチンを世界中に配るってわけ? それで治療にはならなくても予防としてとりあえずムーニーをこれ以上増やさないようにするために」

お姉ちゃんは首を振る。

「残念やけど、それも無理や」

「どういうこと? 治療も予防もできない薬って何の意味があるの?」

ここからちょっとめんどくさい話やからよう聞きや。お姉ちゃんは私に注意を促す。

「ある意味この世界にムーナウィルスは存在せえへん。感染は一人としておきとらんのや。せやから、感染がない以上、この世界の人間にワクチンをいくら投与しても無駄なんや」

ウィルスも感染も存在しない。目の前の科学者は私を見つめてはっきりとそう言った。

私はお姉ちゃんの目を見つめ返す。

こうやってお姉ちゃんの目を見るのはいつ以来だろう。お姉ちゃんの目はいつから変わっていないのだろうか。それがわからないくらい、お姉ちゃんの目を見ることを私は長くしてこなかった。

「今世界で起きとるんわな、パンデミック単一世界感染爆発やないパラデミック並行世界感染爆発や」
お姉ちゃんは覚えの悪い妹の勉強の面倒を見るように言った。

「ムーナの本質はウィルスやない。あれは細胞に働きかける世界航行装置や。ウィルスは実際に存在する別の世界で感染が拡がって、比喩的に言ってその症状としてこちらの世界にその感染者の脳情報が飛ばされて来とる。そういうことや」

天才の発想。ありきたりな凡人の思いつき。いいや、むしろ狂人の発想。私は天才と呼ばれてきた科学者の言葉をそう処理してしまいそうになる。

「ムーニーが反社会性を持つのはウィルスに直接由来するもんやない。それはあくまで世界移動を行う際に事故的に生じる副次的な作用や。ムーナは感染者の脳の視床下部の一部を浮腫にしてミクロ装置に変える。ほんでから二つの世界でそのミクロ装置が扱う特殊な脳波を基準にして間世界的に同じ存在やと見做す存在を見つける。見つけたら、そのまま別の世界でムーナと一体になった脳情報をこちらの世界に飛ばすんや。脳そのものが物理的に来てるわけやないけど、物理状態の情報がこちらの脳に上書きされるんやから、同じようなもんやな」

天才、凡人、狂気。私の頭の判断は、ルーレットのように回る。

「当然、そんなめちゃくちゃなことは脳全体に半端じゃない負荷がかかる。おまけにその人間はある瞬間を境にぱっと目の前で知っとった世界が全然知らん別の世界になるんや。二つの世界の間でその差がその人間にとって耐え難いほど大きかったら? 例えば、ある平凡なサラリーマンで中央線に揺られとったやつが同じような平凡な通勤電車に飛ばされるんやったらまだええわ。せやけど気づいたら中央線に乗っとったはずやのに、一国の王様になって貴賓席におって、ほなオリンピックの開会宣言を十秒後にお願いしますって突然言われたら? ただでさえ負荷過剰でまともな脳やないのに、そら人間、頭壊れてまうやろ。あるいは移動の直後はまだ精神を壊すほどのその“存在の差”の閾値は越えとらんでも、生活を重ねるうちにズレはやっぱり大きなっていく。自分のいる場所は本当にいるべき場所やない。不気味な悪夢を見てるんちゃうか。この世界は自分にとっておかしい。はよ目を覚ますために世界を壊そう。なんて本能的になるんかもしれんな。ムーニーの脳状態はレム睡眠下の状態に極めてよく似とるんや。ムーニーの反社会行動はある種の夢遊病と言えるかもしれん」

気づけばゴンドラは地上に辿り着いている。

お姉ちゃんの話はまだ目的地には辿り着かない。

ゴンドラを降りると空から冷たいものを頬に感じた。

お姉ちゃんは降ってきたそれを受け止めるように掌をくるっと返して言った。

「雨やな、はよ行こか」

そしてお姉ちゃんは雨宿りへと連れ込むように私をその場所へ誘う。

 

 

中央橋を渡って万博記念公園のその中へ。

目の前には両腕を広げた縄文時代みたいな太陽の巨人。

黄金のカラス顔は未来を、胴体部の第二の顔は現在を現す。

私達は今と未来に見つめられてボールを投げあうみたいに歩きながら会話を続ける。私達がここに来るのは始めてというわけではなかった。

「侵入門戸は脳でそこから全身に拡がっとるんや。全身から脳やない。情報の上書きされた脳から全身ってのがほんまの話や。感染

経路は並行世界情報感染ってところか? まあ感染経路も見つからんのも納得やな」

「待って」

私はこの公園に三人で遊びに来た時みたいにお姉ちゃんに言う。

「ねえ、それってこの世界とは違う別の世界があるっていう前提でしょ? どうしてそんなことを当たり前の前提の上で話せるの」

私はなんとかボールを受け止めてお姉ちゃんの物語を壊そうとさらに投げ返す。あの時一緒に来た甥っ子は鬼ごっこじゃなくてドッチボールがしたかった。でもお姉ちゃんがボールを持ってくるのを忘れていた。

「理由は二つ。一つはムーニー達自身がそう語ったんや。もう一つはちょっとした先行研究みたいなもんかな」

「語った? 突発型ムーニーは、喋れないでしょ? それじゃあ、非突発型が語ったっていうこと?」

「いや、語ったのはやっぱり突発型ムーニーや。拘束した非突発型ムーニーに、ムーニとしての自覚があるのかは依然わからんままや。まあ原理的にいってそれは究極内心の問題やからわかりようがないんや」

「でもやっぱり突発型は喋れないんじゃ」

「正確に言うと、喋られんいうか、あくまでこの世界と元いた世界の差がその人間にとって大きなりすぎると、言語野のその人が持ってる言葉と意味の繋がりがぐちゃぐちゃになって言葉の在り様が壊れてまうんや。例を挙げて言うなら、使う言葉の時制が壊れたり、ひらがな語が壊れたり、あるいは語順だけ壊れたり。症状はさまざまでも、その言葉の壊れには法則を見つけることができる、これは別のチームの研究やけど、このムーニーの言葉の壊れは言語意味復元療法という方法で復元できる可能性がある」

一を質問すれば十投げ返してくる。いつものお姉ちゃんの投球ホームだ。

「大阪住民新国で拘束している初期の突発型ムーニーのなかでその言語意味復元療法を試みたんや。それで復元してできた語りを繋げると、自分達は二〇二五年、つまり今から四年後に自分がおると思い込んどる。ほんでムーニーがいうには二〇二五年の大阪で万博でやったらしいねんけど、自分らはそこでアメリカ館の月遺構の展示みとったら、急にこっちの世界に来てもうたらしいわ」

「月遺構?」

「あんた、今、合衆国議事堂に引きこもってアメリカの臨時政府勝手にやっとるおっさんがほんまは二〇一六年に選挙出てアメリカの大統領なりかけたん、覚えとる? 向こうの二〇一六年やとそっちの方が勝って今の2021年は全然違う人間が大統領やっとるんやとさ。それはええねんけど、その向こうの大統領は二〇一九年にアルテミス計画(宇宙政策指令第一号)いう月面着陸計画を立てたんやって。ほんで二〇二四年にそのアルテミス計画の調査隊は人類未踏の月の裏側Kiss&Cryまで到達した。そしたらその月の裏側で文明遺構が見つかったんやとさ」

「それが並行世界の根拠?」

「一つはな。せやけど、並行世界の根拠は連中の言う二〇二五年の大阪万博別世界の未来の話だけやない。一九七〇年の大阪万博の前後に月の石と並行世界の可能性を裏で考えとった研究会があるんや。私は学生の頃からその研究会のリーダーやった教授を心酔しとってなあ。私は今日までその人とその研究会の資料は表に出てへん誰も知らんようなもんまで一人で徹底的に集めとったんや」

お姉ちゃんと私はどんどん太陽の塔に近づいていく。やがて階段を降りて、裏から地下の塔の入口へ。私達はこの巨人の身体に取り込まれていく。

「表向きはどうあれ、資料によれば当初は知的交友会やったその研究会はある段階から性質を変え始めた。それはリーダーやった教授が東南アジアへ民族学的調査に初めて出向いて、現地の部族が信仰する面や神に月のモチーフが共通することを気づきはってかららしい。教授はそれ以降もその部族のもとへ何度も訪れて、最後には部族の最長老にやっとこさその地域に伝わる話を教えてもらえたらしい。その話はかいつまむと、その地域の古代には月の裏側から神さまが来て、その部族と交流をしたいう話やった」

塔の中に入ったことは私はない。ここからの光景は私にとって未知だった。地下の入口には、様々な民族の祭祀で使われるお面が飾られていた。無数のお面の中央には太陽の塔の黄金の顔をよく似た顔が安置されていた。そのお面からケーブルが伸びて、隣に冷蔵庫のような計算機と繋がっていた。

お姉ちゃんは「この第四の顔を通じた計算に二三日かかってもうたんや」、そう留守の言い訳を私にする。「せやけど、それももうあとちょっとや」

お姉ちゃんはぴょんと飛び跳ねてその第四の顔HEART STATIONの前に立ち、最後の操作する。

「研究会のメンバーは学者だけやのうて、いろんな人間が関わっとった。メンバーやった一人の小説家は東南アジアの話を聞いてその部族に伝わる話をこんなふうに解釈にした。すなわち、その神さまは月より飛来した超文明人であり、彼らは時空間を自在に操る技術を持っていたんやないか、その彼らが地球にやってきた際に接触したのがその東南アジアの人達ではないかってな」

私達はさらに奥へ進む。いよいよ塔全体の中心に到達する。

「研究会はその後もさらに裏で研究を進めて、なんとその超文明の技術の一部を一人のメンバーが再現するところまでいった。もうそこまでいくと科学より呪術とか芸術に近い感じやったみたいやな。ほんまは70年エキスポで研究会のメンバーはこの超文明技術を発表するつもりやったみたいやけど、その頃って冷戦やろ? やっぱりこの超文明技術を表に出して世界航行技術の研究が進んでも、この世界の人類はうまく使えるんやろうか。研究会の結論としてはその当時の人類にはよう扱いきらんやろいうことで、表向きはこの太陽の塔の内部にモニュメントとして展示するけど、ほんまの役割の情報は封印したんや」

ここがお姉ちゃんの語る物語の到達点、この世界の終わりの物語のラストシーン。

頂上へ伸びる赤い階段と止まったエスカレータが周囲を取り囲む。吹き抜けとなったお御堂のような空間を見て私はお姉ちゃんに呟く。

ジャスコみたいだね。

私は高く空洞となった深紅の血管内壁に虹の血流として聳える“聖像“を見上げる。

雨は私達が塔に入り本降りになったらしい。

塔の外を雨滴が凄まじい勢いで一気に叩きつけ始めたのが聴こえる。

お姉ちゃんは私達を敬虔に見下ろすその五色のイミテーションの樹の名を私に告げる。

「生命の樹や。これがその研究会の人間達の最大の成果でありその遺産や」

そして、言う。長々とした今までのセリフと対照的にただ一言だけ。

「この生命の樹であっちの世界に行ける。この世界をもう一回やり直せるんや」

 

 

その“樹”は私達の立つ地下から黒色の幹を伸ばしている。幹から伸びる枝は五大陸を表現する残りの色、赤、青、緑、黄に彩られ、原生類から哺乳類まで生命進化の歴史に則り各生物模型が飾られている。最下層にはアメーバやウミユリ、太陽虫なんかの原生類がいて、樹の最上段には哺乳類であるヒトやサル、ゴリラにマンモスがいる。しかし、それがこの内部空間の最上部ではなく、そのさらに上には空洞の空間がある。

「太陽の空間や。最上部を空けておいた理由は未来へ伸びる生命のためのものと説明されとる。けれど、その本来の理由はもっと具体的なもんなんや」

お姉ちゃんはずっと上まで“未来”を見上げる私にそう説明する。深紅の階段は塔の内壁を伝って樹を中心にぐるぐる螺旋状に吹き抜けを上がっていくようになっている。それもまた生命のDNAを模しているかのようだ。

「私はムーニーが自分達は並行世界二〇二五年の万博から来た言うとるのがわかったら、すぐに研究会のことを思い出してな。ムーニーは月の遺構みとったら来てもうたんやろ? 私は改めて研究会の資料を全部読み返した。そしたら当時研究会がツテで借りた月の石を調べたら、東南アジアの例の部族に伝わる石仮面と含まれる粒子成分に共通するもんがあったとある。せやから、私も上野で月の石を貸してもろたんや。国立博物館には月の石がアメリカから寄贈されて70年万博のあと保管されとったからな」

そうか、だからお姉ちゃんはわざわざ東京に……。

「私は月の石のついでだったのね」

少し不服な私にお姉ちゃんは笑う。

「んなことない。まあまあ、そう怒らんと。とにかく、私の読みは当たった。私は当時の並みの技術では見つけられんで研究会だけが見つけとった月の石に含まれる粒子物質を取り出した。それがこのコロナっちゅうわけ。このコロナは月の石に隠されとる状態やと、ちょうど眠ってるみたいな状態なんや。せやけど、研究会が残したこの生命の樹を使えばこのコロナにエネルギーを賦活して再起動させることができる。そしたら、」

私は自分の理解ためにそれを引き取って口にしてみた。

「ムーニーが本当に発生している向こうの世界に行ける」

お姉ちゃんは私の復唱に満足げにする。

「行ってムーニーが発生するのを止めるだけやない。さっきの第四の顔がこの生命の樹本体の操作盤兼WiFiみたいになっとるんやけど、私はそれで向こうの世界の二〇一九年に行けるよう設定した。世界航行装置でありムーナワクチンでもあるこのコロナを持っていく最適なタイミングや。月の石から採取できたコロナ成分は微量で大量生産できんかった。やから、ようけ薬持っていくんやのうて、誰かの身体をベクター媒介者として持っていかなあかん。いったん運べば感染力は極めて強力やから、勝手に拡がって二〇二五年までで充分な人類全体の免疫になる。ほんで向こう世界の二〇二五年で起こるはずのムーナ感染爆発を防げる。連鎖的にムーニーが来たこっちの歴史もキャンセルや。これで私達のいる今この二〇一九年以降の時間はなかったことになってやり直し。やっぱお姉ちゃん天才やな」

これでやっと言いたいことは言い切ったらしい。お姉ちゃんはそれからゆっくり私に歩み寄って左手を取った。そして、その白い錠剤を乗せた。私の手の中に小さな太陽が転がった。お姉ちゃんグランスールはまるで十字架ロザリオを握らせるようにプティスールの手をぎゅっと握りこめた。

お姉ちゃんの手紅薔薇のつぼみは、こんなときでも私には暖かった。

「さあ、行こう。お姉ちゃんと一緒に世界をやり直そうや」

生物模型だったはずのウミユリもアメーバもポリプが動き出した。動き出したのは原生類だけじゃない。サソリやオーム貝の三葉虫時代も、魚類も、メソザウルス、マストドンサウルスの両生類も、プテラノドン、エダフォンサウル、トラコドンの爬虫類、マンモス、ゴリラにニホンザル、ネアンデルタール人、クロマニヨン人の哺乳類。あらゆるその進化の生命がその樹が指し示す未来に従って蠢き始めた。

第四の顔の計算は最終段階に入ったらしい。生命の樹はついに本格的に動き出したのだ。頂上の太陽の空間には未来からの七色の光を放つ球体が現れてこの深紅の塔内部を照らし始める。樹はその太陽へ、根源と彼方その終焉と始端の頂きへ、黒色の幹を伸ばし始めた。

そして生命を称える音が樹本体から聴こえる。

アッアッアー。アッアー。アッア―。

厳かな天への聖歌のようにも死者達の地の蓋が啓く呻きのようでもあるそのコーラス。

ただただ重々しい生命の讃歌。

お姉ちゃんが誰かに乗り移られたように囁くのが聴こえた。

  太陽は人間生命の根源だ
   惜しみなく光と熱を降り注ぐ
   この神聖な核
   われわれは猛烈な祭によって
   太陽と交歓し
   その燃えるエネルギーにこたえる 

この生命の樹を残した芸術家の言葉や。

お姉ちゃんはイタズラ気味に笑い最後にそう補足した。

芸術は爆発やな。

再起動された樹は歌い、生き物達と悦びに震えてその未来へ伸びていく。

 

 

私はその宇宙の祭りを見ながらお姉ちゃんに水面に一滴こぼすようにぽつりと尋ねた。

「ねえ、でもコロナにはどうしても副作用があるんだよね」

「あるな」

お姉ちゃんは今どんな表情をしているだろう。

「それは向こうの世界の人を傷つけないものなの?」

「確かに副作用は避けがたくある。せやけど、コロナは風邪や。そら人類全体に感染させるんやから、体の弱い奴何人かは耐えられんと死んでまうやろう。せやけど、それは割合で言うたら僅かや」

「でも、僅かって言ったって……! それでも……!」

私は耐え切れなくなって、お姉ちゃんの方を向いた。お姉ちゃんは無表情だった。その無表情に興奮しかけた私の声は小さくなった。

「人類は76億人いる。もしその割合が0.1%でも、1%でも、それは、」

「せやな、実数と割合のどっちで考えるかいうことやろな。私の作ったこのコロナの死亡率は正味0.05パーってところかな。つまり、三百八十万人や」

お姉ちゃんは科学者だ。私がここでその死亡率はあくまで予測でしかなくもしかしたら1%かもしれない10%かもしれない。そう言うよりお姉ちゃんの数字は確かなんだろう。それでも。

それでも私はその数字について考える。きっといろんな考え方ができるだろう。

妹の私はこう考える。

お姉ちゃんが作った小さな太陽コロナで、二年で三百八十万人に近い人が死ぬ。

お姉ちゃん対死者一対三百八十万

三百八十万人に近い人が死ぬ。そうして私達のこの終わってしまった世界はやり直される。お姉ちゃん一人が作り出した太陽で。三百八十万人と一人。三百八十万プラス最初の感染者つまりお姉ちゃん。私の大切なたった一人。私がその一人を大事に思えば思うほど、それは掛け算して三百八十万に増える。三百八十万は誰もが誰かにとって大事な一人で、それが三百八十万集まっているのだ。それは忘れるべきではやはりない。

「ねえ、やっぱり三百八十万は少なくはないんじゃないかな。それに死亡はしなくても、症状が出る人はそれ以上出るでしょう? そしたらその向こうの世界は大混乱だね」

「せやな。混乱は避けられん。けど向こうの世界がそれで終わるわけやない。もしかしたらオリンピックが一年ズレる二〇二一年開催くらいあるかもしれんけど、その程度や」

その程度。

私達の掌の中のその程度の太陽。

ちょっぴり日射しが強いので運動会は中止になりました。そんな程度の太陽。

「リオ」

お姉ちゃんが私の名前を呼ぶ。

「開会式のチケット、ありがとうな」

私は溜息を吐く。ここでそれを言うか。やっぱり気にしてたんじゃん……。それはそうか、旦那も自分の子供も亡くしてんだ、気にしてないわけがない。この世界と同じように、お姉ちゃんの世界もやっぱりもう終わっていた。

だから、やり直す。

世界を再びガラガラポン。

お姉ちゃんは私の耳元に口を寄せて悪魔のようにも小さな子をあやすようにも囁く。

「あんたの行き先はお姉ちゃんが決めてあげる」

お姉ちゃんは一人ぼっちの私を遊園地にでも連れて行ってくれるみたいに手を差し出す。

あっちの世界をめちゃくちゃにして、こっちの世界をガラガラポンしようとする人は鬼でも悪魔でもない。鬼より悪魔より恐ろしいお姉ちゃん。世界をやり直そうとする迷惑な人はただ家族を亡くしたこの終わった世界ではそれこそ掃いて捨てるほどいる哀れな人。

私は何も言えず沈黙する。そして、お姉ちゃんがくれたこの掌のコロナを見つめる。

結局、私にお姉ちゃんに抵抗する方法なんてありはしないのだ。お姉ちゃんが行こうというなら行くしかないし、それはこの物語の最初から、お姉ちゃんが私を東京に迎えに来た時からずっと決まってることなのだ。

もうお姉ちゃんには、私しかいないし、私には、お姉ちゃんしかいない。だとすれば、本当は私に負けないくらい寂しがり屋のお姉ちゃんを誰も知り合いもいない、わけのわかんない出鱈目な並行世界にどうして一人で送ってやれる? 

妹はお姉ちゃんに勝てないのだ。

もはや反論は不可能に思われた。

私はお姉ちゃんから貰ったこの白い錠剤を無くさないように握った拳を左ポケットに突っ込んだ。私は返事の答え代わりに差し出されたお姉ちゃんの手を掴む準備をする。

拳の先が入れっぱなしのスマホに触れる。

スマホはポケットの中で今も震えない。きっと既読すらやっぱりついていないだろう。

そうだ。

“彼女”も、もうこの世界を受け入れないのだ。

終わってしまったこの世界で、“彼女”が私と共に生きることももうない。

わかっている。

でも、それでも、私はポケットから手を抜いて、なぜかお姉ちゃんの手を取ることができない。お姉ちゃんはせかさない。私は五秒経ったらポケットの左手を抜こうと決心する。五、四、三、二……、

私は手をぎゅっと深く突っ込む。

すると、スマホの奥に隠されていた小さな何かが指に当たった。私は予想外の感触にその何かをポケットから引き抜いた。

なんのことはない、“彼女”から貰ったあのトレーディングカード。

いや、違う。これはジャスコで交換したものだから、“彼女”のものではない。

彼女から貰ったカードで交換したアイツクソガキのカード。

私は白い錠剤の代わりに手に舞い込んだそのカードを眺める。

塔の外の雨は弱まることなく強く叩きつける。この私がいる大地を濡らし続ける。

私はカードから顔を上げてお姉ちゃんに言った。

「ねえ、お姉ちゃんはコロナを向こうの二〇一九年に持って行ってこっちにムーニーが来た歴史をリセットするのよね」

「そうや、やり直しや。この世界は失敗バッド・エンドしてもうたんや。ほな、もう一回やり直し、それが物語のお約束やろ?」

「やり直したら、このなかったことになる今のこの時間はどうなるの」

「さあ、どないやろな。まあ私達が行った時点で時間軸が分岐して、普通にこのまま残るのか、あるいは端的にソーダの泡みたいにしゅっと消えてまうんか、それはやってみなわからんな。どっちでもええわ、今のこっちの世界はなんにせよ偽物に過ぎん」

この偽物の世界こちら側。ありえたはずの本物の世界向こう側

ペラペラで脆くてこの手元のカードのように吹けば飛ぶようなどうしようもなかったもう終わってしまったこの世界。

「この世界にあんた未練でもあんのか、あんたは結局、どこにいても辛気臭いおもんなそうな顔してたやん」

お姉ちゃんにしては強い言葉だった。

「この世界に残るのが正義っちゅうわけでもないで」

お姉ちゃんは私に隙を残さないように畳みかける。

「確かにムーニーに対する脅威は、今はあれでも、もうしばらくしたらだいぶマシになるやろな。せやけど、結局、それはムーナを体内に入れたやつを隔離しての話や。ファイルに書いといたったやろ。今大阪ではウィルスを保有してるてわかったら、その時点で収容所に入れとる。突発型だけやのうて、検査で感染してるってわかったたらそれだけでな」

特定感染症行為の予備に関する法律に基づく各種住民サービスの実施。

私はファイルに書かれた長ったらしい言葉を思い出す。感染してしまった哀れな病人はみな収容所へ。それが今この大阪住民新国で住民サービスと呼ばれるものの一つだった。

「突発型やったらまだしも、いやたとえ突発型だろうが、非突発型だろうが、自由を奪うんが許されんのはその量刑に見合う罪を犯した奴だけや。どれほどその確率があろうと、罪を犯す可能性のあるだけでは自由は奪えん。それが原則やったやろ。病気と犯罪はべつもんや。当たり前やろ。せやけど、この街の人間はその原則すら捨てた。これ、全部住民投票で住民自身が選んだことやからな」

お姉ちゃんが初めて苛立ったように言った。

「お姉ちゃんは反対したの?」

「したわ、ボケ。せやけど、いくら言うても誰も聞きよらん。私も諦めてもうたわ。ええか、確かに今の大阪住民新国政府は無茶苦茶や。非常時やからって相当無茶してきよる。せやけどな、それに従うとるんは住民自身や。もうみんな、自分で生きるっちゅうことを手放してとるんや。現状を許容しているんは何より自分達自身なんや」

私は数日歩いた、捨てられていった地元の風景を頭に思い浮かべる。

「この世界はもう終わってもうたんや、人間ごとな。そんでその終わった世界に残り続けるんは必ずしも正義やない。なんやったら、それはこの間違うた世界に加担し続けなあかんのかもしれん。しかも大事なもんも、もうここには残っていない。それでもあんたがここに残る理由はあるんか。はっきり言うたるわ。ない。まじでなんもない。せやからもう一回いうで、私達はそれを今自分の手でやり直せるんや」

わかってるよ。全部わかってる。私はお姉ちゃんみたいに天才じゃないけど、それでもこの世界が完全にダメダメなんてわかってる。

でも。

そう。

それでも、

それでも、だ。

私は手の中のカードを少し傾ける。反射する方向が僅かだけ変わりカードは鈍く光った。

そう、なんだっけ。ああ、そうだ。

見えるけど見えないもの、だ。それが私達の絆。

やれやれ、ベタベタのベタなやつらKindred Spiritsめ。

それでも、愛してるぞ。

「大事なものがもうないなんて、そんなのお姉ちゃんに決めてもらうことじゃない」

なんや? お姉ちゃんは私の言葉が聞き取れなかったらしく、聞き返した。

「お姉ちゃんが言うみたいに確かにこの世界はもうだめかもしれない。この世界に拘ることも留まろうとすることも正義じゃないのかもしれない。たんにこのままでいいなんて絶対に言えない。変えていかないといけないものは絶対にある。それでも、それでも、なんだよ。それでも私はこの場所で生きていたい。お姉ちゃんと一緒にいた世界。この二七年間。クソどうしようもなかった世界をやり直さずにこれからも生きていたいんだ。ただこの場所で生きなきゃ、ううん違う、この場所でこれからも生きようとするからこそ、それまでの自分もこれからの自分も、この場所も変えていこうとすることができるんだ」

たとえ、それがロックじゃなくても、革命じゃなくても。

もうセブンティーンじゃなくても。

トウェンティセブンでも。

きっと太陽じゃなくて、この地上で、月に手を伸ばすようにFly Me To The Moonでも

私は目の前のお姉ちゃんを少し見上げる。お姉ちゃんは私よりも背が高い。私はいつもお姉ちゃんの縮小コピーみたいだって誰に言われるでもなくそう感じていた。でも私はお姉ちゃんより小さくとも、コピーではない。

私はコートのポケットからちっぽけな錠剤を取り出す。

世界をやり直すためのお薬。

生命の樹とその進化の生命達は依然動き続けている。その樹は嗤うように蠱惑的に身を揺らして、地鳴りのように厳かな生命の讃歌を歌い続けている。

私は幹の根元で揺れているポリプに向かって、白い錠剤を投げた。

「……あんたも大人になったなあ」

お姉ちゃんは私を見て、相変わらず自分の気持ちを押し殺すように笑いながらいった。

大人になった。中学に上がる時も、高校に上がる時も、大阪を出ていく時も、お姉ちゃんはよく言った。そう、あんたは大人になった。だから私はお姉ちゃんに言ってやる。

「冗談はやめて、私もう二七よ。お姉ちゃんは三五。大人になった、なんて今更言われることじゃないよ」

お姉ちゃんは私の言葉に初めて少し驚いた表情をした。でも、すぐにまた余裕ぶった穏やかな微笑みで誤魔化して、せやな、と一言だけ呟いた。

「あんたももう二七か、妹がアラサーってまじやばいな。もうお姉ちゃんと遊びに行ったりせんか。そんなん気持ち悪いわな」

お姉ちゃんは少し距離をとるように一歩後ろへ私から離れていく。

「あんたもようやく姉離れか。いや、ちゃうな、私が妹離れせなあかんのやな。そうや、私があの人と結婚して、実が産まれて母親になって、あんたはおばさんになってたんやな」

実。私の甥っ子の名前。お姉ちゃんは自分が一番好きな少女漫画に出てくる子供の名前を付けた。お姉ちゃんと甥っ子と私赤ちゃんと僕

「ありがとうな、私の家族とつきおうてくれて。ほんまは人づきあいも大阪も嫌いやのに」

お姉ちゃんはさらに後ろに下がる。何をしてるのだろう? 何かの時間稼ぎか?

「私が開会式観に来たらって余計なこといって、チケットまで取って二人を巻き込んだのは本当に悪いと思ってる。ごめん」

ごめん。私はその続きに何かを言おうと考える。でも、思いつかなかった。こういう時、ごめん、以外に何を言えばいいのだろう。

「それに関してはあんたが悪いわけないやん。あの人も実もめっちゃ喜んどったし、私だって熱出えへんかったら、普通にいくつもりやった」

お姉ちゃんは生命の樹の方をみる。それから呟く。

せや、私も行けばよかったなあ、開会式。

「お姉ちゃん」

私は離れていくお姉ちゃんへ距離を詰めようと駆け寄る。

でも、それは阻まれた。

お姉ちゃんはジャケットの内側からピストルを取り出して、銃口を私に向けた。それから口を歪めて早口で言った。

「せやから、向こうの世界で今から聖火見て来るわ! あとから誰が金メダル取ったか、気になっても教えたらへんで!」

お姉ちゃんは私の足元に威嚇の一発を撃った。

調和を意味するこの塔の中で私とお姉ちゃんの対立を示す銃声が一発反響した。

 

 

カンカンカン。カンカンカンカンカンカン。

私達はこの深紅に塗られた螺旋の歴史で鬼ごっこをする。

原生類時代。一つ踊り場に上がるたびに、お姉ちゃんは生命の一時代に達して、未来から私を撃つ。弾丸は耳元をヒュウと鳴らして過去へ消えていく。脳襞を表現した背後の反響板に金属の弾ける高音がして進化を告げる。

カンカンカン。三葉虫時代。サソリ、オルトセラス、ペルキドウム。

お姉ちゃんはまた一つ階段とエスカレータを駆け上がる。私もお姉ちゃんを追うためにこの高さ三〇メートル、一四五段を階段の影で銃弾を避けながら駆け上る。

カンカンカン。魚類時代。三匹の魚とポスリピレオスとドレパナスピス。

私はコートの右ポケットから、ピストルを取り出す。私は勢い安全装置のレバーを外す。外してどうする? 撃つのか? お姉ちゃんを? 世界をやり直させないために。向こうの世界にコロナを運ばせないために。お姉ちゃんの心臓を貫いて。

カンカンカン。両生類時代。メゾザウルス、マストドンサウルス。

「べつについて込んでええねんで。もう理由なんてないやろ」

アーメン、バン! 頭上からの感動的なマズルフラッシュマリア様のこころ

「うるさいな、そんなこと言われたら逆に追っかけたくなるんだよ」

私は上がっていくお姉ちゃんに銃口を向けようとするが動く的をうまく捉えられない。

四十六億年の生命が見守る私とお姉ちゃんの姉妹喧嘩。

カンカンカン。爬虫類時代。プテラノドン、トラコドン。

お姉ちゃんは最上階に辿りついた。威嚇射撃はもうしてこない。ただ頂上の回廊をグルっと回って太陽の空間を見上げている。太陽の空間の虹の光塊はエネルギーをはち切れさせて圧倒的に大きくなっている。生命の樹がコロナにエネルギーを賦活する計算は完了したのだ。世界のやり直しがいよいよ始まる。

お姉ちゃんは両手を広げて太陽の空間からの光を神々しく浴びる。

世界を渡る儀式のため。その身を捧げるように。そしてポケットからコロナを取り出す。

カンカンカン。哺乳類時代。ゴリラ、チンパンジー、ネアンデルタール人。

私はお姉ちゃんのいる現代に追いつく。

私は回廊の向こう側へピストルを構える。銃口から伸びる射線がようやくつながる。ここでトリガーを弾いてしまえば、弾丸は塔の中心の生命の樹を微妙に外して、向こうのお姉ちゃんに達するだろう。

どうする? どうすればいい?

何かないか? 何か。このトリガーを弾く以外にこの物語を終わらせる方法はないか? ダメだ、回廊をまわってお姉ちゃんを止めに行くのは一瞬の差で間に合わない。

そうだ、だったらいっそ直線に跳んでしまえばいい。

「なあ、妹さん」

太陽の空間から全身で光を浴びていたお姉ちゃんが、別れの挨拶に私を呼ぶ。

「元気でやりや、病気したらあかんで」

私はお姉ちゃんのその表情をみて、決めた。大丈夫だ、枝を中継地にして三段跳びの要領だ。私は階段を下がって、また一気に助走代わりに駆け上がる。

生命の樹のその幹は倍速再生された植物のように成長し虹の太陽の未来に今、到達する。時間の流れがゆっくりになる。まるで一瞬一瞬が一コマ一コマの映画だ。お姉ちゃんは手に持ったコロナを供物のように指先で握り籠める。お姉ちゃんは背中に体重をかけて、手摺を支点に頭から落ちようとしている。両足が蹴られて床から持ち上がる。背中を中心に足と頭が水平になる、その頭が六階真下の地上に向けて上半身ごと下がり、加速度をつけて重力に囚われていく。

落ち行く身体に自身を託して、受け入れるように腕を上げる。お姉ちゃんは虹の太陽マリアに向けて握った拳を伸ばし向けて、薔薇の蕾を開花させるように掌を開いた。人差し指の先からコロナが花滴になり、垂れるように今その口に恩寵が与えられる。

お姉ちゃんはほんとうのほんとうに最後に呟く。

天には光を、地には平和をグロリア・イン・ケレム、パーケム・イン・テリス

お姉ちゃん! 私は叫んでピストルを握っていた両手を固く力を籠めた。

そして、私は階段を上りきるとそこをジャンピングボードにして跳ねた。目一杯、足で掻いてはさみ跳び。

進歩と調和の未来なんてとっくに終わってたけど。

でも私は跳んだ。

開けゆく無限の未来に思いを。

 

 

襟元を乱暴に掴まれて宙づりのお姉ちゃんは、目を見開いて信じられないと言いたげな顔をしている。その開かれた目に映っているのはもう虹の太陽なんかじゃなくて、この妹さまの顔だ。ざまあみやがれ。

お姉ちゃんの指から口に太陽が落ちるその寸前。コロナは私に払われ手元のピストルと共に「根源」へと落ちていった。

しかし、いかん。このままでは二人とも一緒に真っ逆さまだ。それはまずい。私はここにきてやれやれキャラを捨てるしかないと決意した。

どぅおおおおりゃあああああ! 私は一本投げの要領でお姉ちゃんを引き上げて、全力で回廊に叩きつけた。私達は勢いそのまま回廊の床に無様に転がった。

ああ、まじで死ぬかと思った。

叩きつけられた三五歳は腰と背中をさすりながら、私にキレた。

「何すんねん! ふざけんなや! 私はもうここにおりたないねん! もういややねん! もう死にたいんや! 向こうの世界に行くんや! この世界は間違うとるんや! クソなんや! 最低なんや! 居ってもしゃあないんや! あの人も実もおらん場所にもう一秒もおりたないんや。ああ! ああ! ああ! わけわからん! なんであんた妹やのに私の気持ちわかってくれへんの! あほ! ぼけ! カス! 死ね!」

とうとう本音を言ったな、この姉は。妹には全てお見通しだ。どうせそんなことだろうと思った。私は襟首掴んで右脳に浮かんだ言葉を思いっきりぶつけてやる。

「あほはお姉ちゃんや! この宇宙級のどあほが! 死ねはお前や! 何が天に光を、地には平和をや! 決め台詞言ってカッコつけて死ねるんはフィクションの中だけにせえや! あほあほあほあほあほあほあほあほあほあほ! 私らは生きてるやんか! 生きてるんやったら生きなあかんやんか! そんなんあたりまえやんか。そんなんあたりまえやんか! 人生にやり直しなんてきかんし、何があってもこれで生きるしかないんや! 世界がどうとかそんなんの前にとりあえず生きなあかんやん。そうに決まってるやん」

普段と役割が逆転してんのが悔しかったのか。お姉ちゃんは駄々っ子のように叫んだ。

「うっさい、うっさい、うっさい、うっさいわ! あんたに何がわかんねん! もうどうしたらええかわからんねん! なんもわからんのや! ここにいる意味も何をする意味も、私にはもうなんもないねん! それで生きるしかないってまじでなんでやねん! あの子はもう生きられへんねんやぞ!」

「わかっとるわ! せやけど、せやけど、やっぱり、それでも、生きるしかないやんか。私はお姉ちゃんにここにおってほしいんや。どこにも行かんといてほしいんや。いっしょにここにおりたいんや」

「そんなん、あんたの勝手やん。私はここにおりたない。おりたない。おりたないけど、せやけど、死ぬんもいやや、あかん、ごめん、ごめんな、実」

「わかっとる、わかっとるよ、お姉ちゃん」

キレたいだけキレてすっきりしたのか、今度はぎゃんぎゃん泣き始めた。うるさい。まるで怪獣だ。まあ、私のほうが先に泣き始めていたのはこの際おいておく。

「なあ、お姉ちゃん、帰ろう」

私はひとしきり放射熱線を吐きだした怪獣に声をかけた。

三五歳は泣き止むと、少し落ち着いたのかバツが悪そうに、ぶすっと言った。

「ほんま、あんたには敵わんわ」

それから私達は一段一段太陽の塔を降りていった。

三葉虫時代の過去に戻ると、振り返って樹を観た。樹はエネルギーを放出し切ったのか光の球を失い、生きてるかのようだった幹の頂きは静まり返っている。

私は隣のお姉ちゃんに言った。

「お姉ちゃん体重軽すぎ、私より背が高いのに背負い投げされるとかまじなんなん」

どうせ、今日までろくに喉も通らず、殆ど何も食べていないのだろう。

「ちゃんと食べな、大きくなれないぞお」

「うっさいわ、死ね」

ぱおーん。なんかお姉ちゃんキャラ変わってない?

お姉ちゃんはまだ赤いまなじりを誤魔化すように大きく伸びをしていった。

「あーあ、おなか減った。今何時や。うわ、液晶割れてるやん。電源も入らんし、あんたの一本投げのせいやろ、もう世界にはドコモショップないのにどないしてくれんねん」

お姉ちゃんが割れたスマホを手に文句を言う。

はいはい、スマホでも何でもなんとかしてやりますよ。私はそう生返事をしながら、自分のスマホで時間を確認しようと取り出す。朝早く出たからかまだ夕方にもなってない。

見れば通信電波も通ってる。第四の顔がWiFiとか言っていたけど、それか?

私はお姉ちゃんがぶつぶつ言うのを聞き流しながら習慣でついラインを開いた。

「あ!」

なんや、お姉ちゃんが律儀に反応する。

「既読になってる」

 返信はないが、それでも私が送った投稿に間違いなく既読の文字がある。

「なになに? 好きな人なん?」

お姉ちゃんは意地悪く笑い、私をからかう。

「まあ」

私はあっさり認める。もう顔を真っ赤にして否定する、そんなティーンじゃない。お姉ちゃん、三五でひゅーひゅーは厳しいものがあるよ。

私はお姉ちゃんが口をすぼめて囃し立てるのをそのままにさせておいて、その既読の文字を読み返す。まあ返事は依然来てない。でも、それでも今の私は未読無視から既読スルーは小さくても偉大な一歩に思えた。

私たちは、たしかに、宇宙と地上でひきさかれる恋人の、最初の世代だった。

それでも、空に向かって手を伸ばすことができる。

「そういえば、お姉ちゃん、発電所のシステムをハッキングできる高校生がいるんだけど、知ってる?」

「知ってるでー。あのちょこちょこ住民新国管理サーバーに入ってくるクラッキンググループやろ。今んとこ私が適当に誤魔化したってるからええけど、そのうちめんどいことになるで……、いや、待てよ、そいつらを誘導すれば、収容所のセキュリティを攪乱するくらいはできるんとちゃうんか、なるほど……」

お姉ちゃんは勝手に何かを閃いたように考え始めた。

私はお姉ちゃんが早速何かまた企み始めたことに肩をすくめた。ま、なんでもいいさ、天才様も前向きになったみたいだし、そうなりゃなんでも少しづつやってくさ。

「あー、あかん全然やんでへん」

お姉ちゃんは入り口前のガラス戸に立ってぼやいた。塔の内部にまで響くほど降っていった雨はちっとも上がっていなかった。

「雲ってたのに、なんで傘持ってこおへんかなあ」

私は今回の万博公園ツアーに誘い出した隣の人間に嫌味を言った。

「だって、向こうの世界行くからまあええかなーって」

お姉ちゃんはそう、つーんと言い訳した。

私はやれやれともう一度笑いながら肩をすくめた。

このまま外に出て雨に打たれれば、熱でも出そうだ。それでも私達はびしょ濡れになるのを覚悟して扉を開ける。そして、私達は暗い雨空の下へ進歩と調和の塔から外に出た。

三月の雨はまだ冷たかったけど、それでも春の雨には違いなかった。  

文字数:47974

内容に関するアピール

現実をそのまま描くわけではないが、SF小説として現実と関わる中に身を置く作品にしようと思いました。

自分はこれまでも小説を書いてきました。ただ主語を「ぼく」にすると上手く描けない感じがありました。この講座で主語を変えて、姉妹を書いて見たら不思議と筆が乗ることに気づきました。

自分には姉が二人います。長女は結婚して息子がいて、次女は実家で暮らしています。今回この小説を書くために一度地元に帰省して、改めて万博公園と太陽の塔を取材を兼ねて見に行こうとしたら自粛生活で暇だったのか姉達も母と甥と共についてきました。母は70年万博では万博少女だったそうです。

万博公園は近くに競技場もあって中学の時は陸上大会の度に行きました。ただ選手としては落ち零れでいい思い出はありませんでした。

今日まで世界は変わっていきました。この病禍が終わりさえすれば前と同じ世界が戻ってくる。そう思っていました。それは自分のなかで現実を否認することだった気がします。でもどこかのタイミングで、もうコロナがなかった世界には戻らないのかもしれない。そうならそれを受け入れたうえでちゃんと生きるしかないな、そうも思うようになりました。コロナでなくても周囲は変わっていくし、自分だって変わっていく。否定しても仕方がない。結局、僕等に出来るのはちゃんと生きようとすることだけ。それは現状肯定を必ずしも意味せず、むしろ目の前の現実を受け止めることで変わっていける前向きなものもあると信じます。

自分が生きてきた人生の時間から出発して、生まれる前の過去を通過して、最後には未来を考えられる歴史改変SFを目指しました。この現実に即した具体的な固有名が出る箇所もありますが、それはこの小説を読む人の間で共有できる言葉を探したいという気持ちで出しました。短い時間しか生きていない自分一人の少ない手札ですが、何か読む人の現実と繋がれば、と願います。

文字数:794

課題提出者一覧