五反田オーバー・ザ・ショルダー

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五反田オーバー・ザ・ショルダー

0.
 壁に穴が三つ空いていた。
 画鋲やくぎを刺した程度のものではない。いずれも大人の握り拳くらいの大きさである。クロスと石膏ボードが完全に剥がれ落ちヒビも残っていないほど、ぽっかりとした空洞が三つあった。
それらは等間隔に距離をあけており、線で結ぶときれいな正逆三角形が描けそうで、ずっと眺めていると人の顔のようにも見えてくる。
 新卒入社してから七年、賃貸部の担当として様々な物件の退去に立ち会ってきたけれど、ここまで暗くて先の見えない、穴らしい穴は滅多にお目にかかれない。それも一つのみならず、三つも。
 すべての家具が運び出され、空っぽになった1LDKをぐるりと見渡してみる。壁も天井も、油汚れやヤニが染み込みすっかり黄ばんでいた。フローリングの床は日に焼けて色褪せ、いくつも傷が走っている。ベランダのサッシから入り込んだ日差しがその上を長く横切り、埃がきらきらと舞うのが見えた。
 何十年も積み重ねてきた暮らしの余韻が、そこかしこに残っている。決して広くはない部屋だけれど、老夫婦が長年寄り添うには充分な環境だったのではないか。穴が空く必然性は、空間の表層からは見えてこない。
 地方都市むこうに住む息子たちがね、妻も逝ったし独りにしておくのは心配だから、そろそろ有料老人ホームへ移ったらどうかと勧めてくれたんですよ。費用は自分たちが工面するからってね」
 介護用アンドロイドに車椅子で押されながら、この部屋の入居者である老爺がにこやかに近づいてきた。物腰の柔らかそうな人だ。毛髪のない艶やかな頭頂部とは対照的に、口元には白い髭を蓄えている。
 わたしは手元のタブレットをちらりと見た。事前に送られてきた彼の退去手続きのデータには、御年八十歳と書かれている。日本人男性の平均寿命より十歳も若いが、ずいぶんと疲れているように見えた。
 一方、アンドロイドの方は、たまご型の白くてつるりとした輪郭、黒髪をショートボブに切り揃え、二十代の女性を想定して作られているように思われる。
 ここ数年、この老爺のように介護用アンドロイドを添えて有料老人ホームへ転居するケースがずいぶん増えていた。
「入居契約をしたその日から、運営元の民間企業より彼女が手配されてね。付きっきりで世話をしてくれているのです。引っ越しの面倒な書類作成から、家具の運び出しまで、すべて彼女が手伝ってくれたおかげで、滞りなく今日を迎えられましたよ」
 わたしがアンドロイドをまじまじと見ていたせいだろう、老爺は微笑みを絶やさず付け加えた。彼の言葉に合わせ、彼女は小さく会釈した。
「親想いの素敵なご子息と、アンドロイドさんですね!」
 わたしはタブレットを閉じ、いつもの接客スマイルを繕う。
「場所はここからそう遠くない。五反田駅を挟んで向こう、東口を出て国道一号の坂を登った先にある、最近できたばかりのホームです。オオヌキさんと言ったかな。あなた、ご存じない?」
 商談につながる見込みのない老爺の、今後についての話などまったく興味はなかったが、相手の機嫌を損ねて立ち合いに支障をきたさぬようよう、
「もしや、池田山のほうにできた、あの高級物件のことですか?」
 身を乗り出して聞き返してみる。彼は髭を撫でながら得意げに頷いた。
「すごいじゃないですか! 太っ腹なご子息ですねえ!」
 わたしは声を弾ませ、すかさずタブレットを太ももに挟むと、ぴょんぴょん飛び跳ねながら割れんばかりの拍手を送った。
「……それで、いくらくらいになりそうですかね。あの穴の修繕費は?」
 タブレットが太ももから滑り落ち、床にぶつかる鈍い音が響く。先ほどまでとは打って変わって、老爺は冷ややかな口調で上目遣いにたずねてきた。笑い皺に埋もれ線のように細かった目がスウと割れ、灰色がかった瞳をのぞかせる。
 大げさな芝居を打ったこちらが馬鹿を見た。アイスブレイクはここまでのようだ。もとより退去の立ち合いとは、修繕工事の費用を貸主・借主どちらが負担するかを決着させる鍔迫り合い。向こうだって真剣勝負なのである。
 老爺の変わりように多少面食らったが、わたしはタブレットを拾い上げて気を取り直し、頬に力を入れ口角をきゅっと持ち上げる。
「今から現況確認を行い試算してみるまで何ともお答え出来かねますが、こと穴に関しては入居者さまのご負担となり、この大きさだと一万円はかかるかと思われます」
「えっ、三つで一万円?」
「失礼しました、一つあたり一万円です」
「一穴一万円か……」
 老爺はふむうと呻きながら、伸びた口髭を指先に絡めねじねじさせている。
「とにかく、まずは修繕が必要な箇所とその規模を洗い出してみましょうか」
 そう言うと、わたしは玄関で待機させていた室内点検業務支援ロボットを呼び寄せた。全長一メートル前後のそのロボットは、後脚の車輪で上り框も難なくのぼり、室内に侵入する。背中に乗せているタンクの中で、洗浄液がたぷたぷ揺れる音がした。正面に付いたカメラでぐるりと室内を見渡すと、さっそく床のキズを感知して近づき、前脚と触覚でキズの深刻度を調べはじめた。その形状と、部屋やどを借りる賃貸契約の手助けロボットであることに由来して、わたしたちはこのロボットを〝ヤドカリ〟と称している。
 ヤドカリの手際のよい作業に感心したのか、老爺は「ほう」と車椅子の背から身体を起こした。
「業務支援用非人型ロボットですな」
「はい。彼らが床や壁、天井、浴室からキッチンまで隈なく点検し、汚れとキズの数と深刻度から即座に修繕費用の見積もりを算出、負担者の仕分けまで行います。簡単な汚れやキズについては、前脚のノズルと鋏を使ってその場で直すこともできるんですよ。退去だけでなく、入居前の内見時にも家具配置のシミュレーションもするし、まだ試験導入の段階ですが、よく働いてくれています」
「労働力が機械に取って代わられる日はすぐそこまで来ている……」
 ニュースのあおり文として使い古された、老爺の紋切り型の発言に辟易としながら、「とは言っても、試験導入後にチューニングもありますし、全支店への導入コストに見合うだけの成果が出るのはまだまだ先ですから……」とやんわり否定して返す。床のキズを一通り調べ終えたヤドカリは、今度は壁の点検に取りかかった。
「――労働力と言えばね、オオヌキさん。私、最近耳にしたんですよ。近頃、変わったスーツ・・・が巷に出回りはじめているらしいですね」
 軽く聞き流そうとしていた老爺の話に妙な引っかかりを覚えたわたしは、思わず彼に向き直った。
「スーツ?」
「なんでも、私みたいに身体の自由が利かなくなった老人が、着ればたちまち十代、二十代の頃のような、労働現役時代と同等――いや、それ以上の力を取り戻せるようになるんだとか」
「パワードスーツのことでス」
 間髪入れずに補足したのはアンドロイドだった。
「どこかの保険会社が、身寄りのナイ超高齢者に配布しているト聞きましタ」
「老人SNS内ではもっぱらスーツの話題で持ちきりですよ」
 へええ、と感心しながら、わたしは記憶を辿ったが、そんなプレスリリースを見たことも、社内で共有された覚えもなかった。ヤドカリはいよいよ壁にできた三つの穴に前脚を這わせている。心なしか、前例のない大きさの穴を前に戸惑っているように見えるのはわたしだけだろうか。
「――私もね、夢見るんですよ。若かりし頃の肉体を取り戻せたら、どんなに良いだろうって」
 君だってそんなふうに思わない? 老爺はわたしを見上げながら、髭を上から下になでつけている。
「たとえば君のお祖母さんの身体が元気を取り戻せたらどんなに良いか。世話をする面倒もない。もしかしたら、友だちみたいに一緒に過ごせるかもしれない」
「わたしの祖母は昨年亡くなったので」
 わたしがかぶりを振ると、老爺は眉を八の字にさせて「や、それはすまないことを聞いたね……」と両掌を顔の前で合わせた。
 老爺はそれからアンドロイドに向かって、三つの穴の壁の前まで車椅子を押すように頼んだ。穴の点検を終えたヤドカリは、今度はキッチンのほうへ移動していた。
「この穴はね、むかし妻と息子が、傲慢だった私に怒り狂って空けたものなんです。一つめは妻が二十代で私の不倫がばれた時。二つめは三十代――仕事にかまけて育児をほとんど手伝わなかったせいで。三つめは息子が。進路について意見が合わなくてね……。ぜんぶ猫ちゃんのカレンダーで隠していましたよ。穴が増えるたびにカレンダーも大きくしてね」
「にゃーん」
 アンドロイドがなぜか鳴いた。
「息子が家を出て、妻が死んでから、なんだかこの穴が妻の顔のようにも見えてくるんですよ。毎日話しかけたりするようになって。……どうやら私の認知症も進行しているようなんです。見かねた息子がこの度、ホームへ移るよう勧めてくれた」
 老爺は壁の穴の縁に指をかけ、その質感を確かめるようになぞった。
「そう思うと、私にはスーツがあっても無用の長物かもしれませんな。私には頼れる息子がいるし。あいつに頼れるようになったのは、おのれの肉体の弱さを認められたからこそなんです。強い肉体を取り戻せたら、誰かに頼らず一人で生きていけるようにはなっても、四つめの穴を作ることになったかもしれない」
 ねえ、オオヌキさん。老爺はくるりとこちらを振り返り、まっすぐわたしの正面にやって来た。彼はポケットをまさぐると、右手に何かを握りしめてこちらに拳を突き出した。
「さっきはお祖母さんの話をしたけれど、今度はあなた自身の話を聞こう。君がいつか老いた時、パワードスーツを着てみたいと思いますか? 誰かを頼る必要もないくらい強くなりたいか。それとも私のように、老人ホームでアンドロイドとともに余生を過ごしたいか?」
「わたしは……」
 答えに逡巡しながら、彼の拳の下に手を広げる。するとその時、ヤドカリロボットがポンと音を鳴らし、わたしの前まで戻ってきた。
「点検作業が完了しましタ」
 チャリンと冷たい金属が手のひらに落ちた。それは老爺が長年使い込んできた、この部屋の鍵だった。

1.
 死んだ祖母との記憶で真っ先に思い出されるのは、四歳の夏、二人でNTT東日本関東病院まで歩いた時のことだ。その頃わたしたちは月に一度の頻度で病気がちな母を見舞いに行くのが約束事となっていた。
 しかしその日、幼いわたしは病院へ行きたがらず、家を出てすぐそばの目黒川で足をとめ水面でたゆたうカモを追いかけるばかりで、なかなかその場を離れようとしなかった。小一時間してようやくカモに飽きたかと思えば「もうつかれた」とうずくまり「歩きたくない」と駄々をこね、祖母は手を焼いたという。
 当時のわたしは病院が大嫌いだった。病院では大人たちが息をひそめて会話をするのも不気味だったし、充満する消毒液の臭いも苦手だった。そして何より、せっかく母に会えたとしても、母と一緒に家に帰ることはできないという現実を突きつけられる場所だった。だから、なんとか理由を見つけ見舞いを先送りにしたかったのだ。
「ママが会いたがってるよ」
 祖母は辛抱強く言って聞かせたらしいが、それでもわたしはそっぽを向き頑として動かない。
 しかし、祖母には奥の手があった。
「じゃあ、肩車しようか」
 祖母はわたしに背を向けてしゃがみこんだのだ。彼女はこの時六十五歳。定年まで残り五年をきっていた。当時のわたしはそんな祖母の状況など知る由もないが、彼女の細い首筋と薄い肩を目にして、さすがにここに足を乗せることはためらわれた。それでも「いいから」と語気を強める祖母に促され、わたしはおそるおそる右足を彼女の右肩に乗せた。それからバランスを崩さないよう、彼女の頭にそっと手を置く。この時わたしは初めて祖母の髪がふわふわの猫毛であることを知った。
 祖母はしっかりと地に足をつけて、おもむろに立ち上がった。すると、たちまち視界が広がった。向かい風がうわっと通り過ぎていき、路面で揺れる街路樹の葉っぱのにおいが濃くなった。すれ違う大人たちはうんと小さく見えた。川はどこまでも遠く伸びていることを知った。わたしは直前まで怖がっていたことも忘れて、手綱を引くように祖母の髪を握りしめはしゃいだ。それでも祖母の足取りは決してふらつくことはなかった。
 結局、病院の目の前へ続くゆるやかな坂道の途中で祖母は足をくじいて転び、わたしたちは顔面をコンクリートに強打して鼻血を噴出。祖母は止血してくれた医者にこっぴどく怒られることになった。
「モエちゃん……ない?」
 肩車の道すがら、祖母はわたしに向かって何かを問いかけていた。けれど、今のわたしにはそれがどうしても思い出せなかった。死んでしまっては、本人に正解を訊ねることもできない。生きていたとして、覚えているとも思えないけれど。

 まだ眠気の残る頭をコーヒーで無理やり起こし、洗面台で顔に水をかける。祖母が死んでから初めて彼女との古い記憶の夢を見た。昨日立ち会った老爺に祖母のことを訊ねられたせいだろうか。
 顔をあげ鏡を見れば、コンプレックスの低い鼻とベリーショートの猫毛に自然と目が行く。コンプレックスにはいずれも祖母が潜んでいる。猫毛は祖母の遺伝だし、鼻が低くなったのはたぶん祖母の肩車で鼻を強打したせいだと睨んでいる。
 スーツに着替え、今日のスケジュールを確認しながら玄関を出る。やわらかい日差しの快晴だ。息を吸いこむと新鮮でどこか甘い香りがして、春の訪れを実感する。今日は事前予約がほとんど入っていない。飛び込み客さえ来なければ、早めに上がれそうだ。
 鼻歌まじりに車のキーをポケットから取り出すと、玄関脇の駐車スペースに留めている愛車を開錠する。イタリアンデザインの小型自動車で、全面ミントグリーンにつるんと丸みを帯びた車体から、わたしは〝カエル〟と名付けている。中古車ディーラーを通りかかった時に一目ぼれしたのだった。
 エンジンをかけ自動走行モードへ切り替えると、アクセルがじわりと踏まれ狭い路地をゆるゆる進んでいく。突き当りで山手通りに合流し、そのまま左折して大崎広小路の交差点で信号を待ち、右折でソニー通りへ入った。
 通り沿いにはいくつもの雑居ビルが軒を連ね、その多くが「テナント募集」の看板を掲げているが、窓ガラスが割れていたり、外壁を蔦が覆いつくしていたりと、始末に負えない状態だった。
営業中のビルの壁には、かつて東京都が経済の中心地だった二十年前のデザインの名残で大型LEDビジョンが埋め込まれているが、管理が行き届いていないのだろう、「鍼・灸・按摩」と映されている画面の一部がブラックアウトしていた。
 赤信号に変わり、横断歩道の前で行き交う通行人を目で追いかける。ほとんどが俯き加減に杖を突き、足取りの重い高齢者ばかりだった。昨日の老爺のように、介護用アンドロイドに車椅子を押されている高齢者もいる。パワードスーツを着用していると思しき人は見当たらない。
わたしはカエルにパワードスーツに関する情報を読み上げるように頼んだ。カエル――正確にはカエルに内蔵された自然対話型AIプログラムは、さっそく関連するネットのニュース記事を見つけ出して聞かせた。

 保証人代理サービスを提供するフィットコム社は、二〇六〇年四月より、超高齢単身世帯を対象とした新たな保証代理サービスをリリースした。
 身寄りがなく、住居を借りようにも連帯保証人が見つけられず契約が困難な状況に陥ったり、年金受給や生活保護費だけでは家賃や生活費が賄えない超高齢単身者が、少しでも楽な生活が送れるよう、同社が賃貸の連帯保証人の代理を請け負うほか、契約者に職業の斡旋とパワードスーツを支給するサービスだ。
 パワードスーツは、速乾性と伸縮性を兼ね備えた特殊加工生地の内部に人工筋肉を縫合している。このモジュールにより、着用者の足・腰・腕などの筋肉を強力サポート。重量物の持ち運びも難なく行え、走る速度や跳躍力も飛躍的に向上させることができる。柔らかな装着感を実現し、脱着がしやすく、装着者ごとに異なる体形に調整することも可能となっている。
 なお、本サービス利用料は、斡旋企業の就労で得た収入から月々一定割合を差し引き、フィットコム社に支払われる仕組みとなっている。
 これは、近年著しく減少し続ける労働人口に歯止めをかける一助となるかもしれない。
「養護老人ホームや公営住宅など、社会福祉法人や自治体が営む低家賃住宅の圧倒的床数が不足している昨今、働く余力のある超高齢者たちにも自助努力が余儀なくさせられている。そうした社会において、本サービスの提供は本質的な解決策ではないかもしれないが、少しでも彼らの一助となることを願っている」

――と、記事はフィットコム社取締役社長のコメントで締めくくられている。
 リリースされてからはまだ一週間しか経っていない、眉唾なサービスのようにも思える。プロダクトローンチは半年ほど前に行われていたらしいが、その頃はちょうど祖母が危篤状態で慌ただしかったため、見過ごしてしまっていたのだろう。会社に着いたら支店長に確認してみよう。
 それにしても。わたしはあの老爺の問いかけを反芻した。自分が老後どうありたいかなんて、考えてもみなかった。少なくとも、実娘を早くに失い孫の子育てまで背負わされ、自由な時間を得られずに死んでしまった祖母は、決して幸せではなかっただろう。自分は母や祖母のようにはなるまい。とにかく堅実に、目の前の生活を維持できるように整えなければ。
 信号が青に変わり、目黒川に架かる大崎橋を渡るとすぐに左折する。壁に蔦の這う五反田駅を右手に国道一号に乗り入れて高架下をくぐれば、左の路面に見えるビルが東都不動産五反田支店である。一階の外壁は全面ガラス張りで、ディスプレイにもなっており、案内物件の間取り図がいくつもチカチカと映し出され、遠くからでもよく目立つ。
 駐車場にカエルを停め、まだ開店前の自動ドアを手でこじ開ける。これが重たい扉でいつも開くのに苦労するのだ。やっとできたほんの少しの隙間に身体をねじ込み店内に入ると、正面に飛び込んでくるのは接客用カウンター。その奥が従業員たちの業務スペースになっており、二つの領域の間はガラスパーテーションで仕切られている。デスクをはじめとするオフィス家具の素材は黒のアイアンと温もりのあるオールドパインで統一し、ところどころに観葉植物の緑を添え、上品な空間を演出していた。
 カウンターにはまだ誰も着席していない代わりに、すでに起動されているヤドカリロボットが暇そうにうろうろと掃除をしている。ヤドカリはこちらと目が合うとぴたりと動きをとめた。前脚を左右にゆっくり揺らす動作は彼なりの挨拶だろうか。
 カウンターの脇をすり抜け業務スペースを覗いてみると、フリーアドレスのデスクには事務作業をこなす社員がまばらに座っている。奥のVR内見スペースでは、三人の社員がヘッドマウントディスプレイを装着し、何もない虚空に向かって「さすがお客さまお目が高い!」「この部屋はAI家電が付いているだけでなく、3Dプリンタ付き化粧台も設置されておりまして……」「では続いては、雨の日のシミュレーションを実施してみましょう」など声を張り上げている。どうやら接客中らしい。時差のある国のお客さまとは、開店前に接客を行うこともある。
 適当な席に荷物を置いて陣取り、トイレで一息つこうと一歩踏み出したところで「おい、オオヌキ」と重厚な声に呼び止められた。直属の上司、マツナガ支店長である。窓際の一番奥のデスクにでんと構える彼は、がっちりとした体格で肌は日焼けで浅黒く、切れ長の目は「今月も是が非でもノルマを達成してみせる」という闘志で燃えている。五十五歳には見えないエネルギッシュさだ。そして何より耳たぶがおそろしくデカい。入社当時、わたしはその耳たぶの大きさから、この人について行けばなにか良いことが起こるに違いないと思っていたが。未だその恩恵にあずかれたためしはない。
 手招きに導かれ彼のデスクまで近寄るやいなや、「調子はどうだ?」と支店長はこちらを見上げた。祖母が死に実家で一人暮らしをするようになってから、彼は定期的にわたしの体調をたずねてくれる。
「相変わらずです、良好です」
「ならよかった」
 嚙みしめるように小刻みに支店長が頷くたび、耳たぶがプルプル揺れた。話は終わりだろうか。自席に戻るタイミングを伺っていると、
「良好ついでに、頼まれてほしいことがあるんだけどさ」
 ふたたび支店長がこちらを見上げた。先ほどとは打って変わり、鋭い眼光に射抜かれる。
「東京オフィスビル再開発プロジェクトのことは、オオヌキも知っているよな」
 ええまあ、ざっくりとは。わたしは曖昧な返事をする。たしか、五年ほど前に立ち上がった企画だ。
二〇二五年以降――若年層による東京都からの人口流出が加速し、経済圏が地方都市へ完全に移行、東京都の人口は定年をすぎた七十歳以上の高齢者が七割を占めていた。それから三十五年が経った今、都庁と電鉄会社を中心に、何とか労働人口を再び都に呼び戻さんと発足されたのがこのプロジェクトだ。新宿・渋谷をはじめ、かつて東京の中心地だった地区を対象に、電鉄会社所有のオフィスビルを次々とリフォームするとともに、本社機能を都内オフィスビルに移転した企業にはフリーレントを一年つける訴求を打ち立てている。
「大手デベロッパーであるわが社も再開発組合の一員として、プロジェクトにアサインされているわけだが、いずれの地域も企画はいよいよ施工段階に差しかかった。東五反田五丁目――うちの支店から左手の道路ひとつ隔てた先にある老朽化したビル、わかるだろ? あそこも再開発対象のうちのひとつになっている。そこでだ。オオヌキもあそこのビルに出向いて、再開発の状況をレポートし、わが支店に共有、サイトに記事発信をしてもらえないか」
 たしかに、わが五反田支店は賃貸部の一営業所にすぎない。だが、五反田の地元住民と再開発組合とのハブとなり、再開発の状況を随時住民に伝え期待を醸成していく重要な役割を担うのもまた、支店なのである。と支店長は熱を込めて続けた。
「これで街がにぎわうようになれば、俺たちの業績も関東支部、いや全国支部一位を目指せるかもしれないぞ!」
 俺も昇格間違いナシ、と支店長の額にでかでかと描かれているように見えるのは気のせいだろうか。
「君ももう入社してから八年目になるんだ。こういう大きな案件に携われる機会もそう訪れてこない。いい経験になると思う」
 仰りたいことはわかったけれどなぜわたしが、という顔をしていたのだろう。マツナガ支店長は急に真面目くさった顔をして付け加えた。
「……たしか君と同期入社の社員も企画段階からゼネコンに出向しているようだから、詳しくは彼に聞いてみるといい。話は以上だ。何か聞きたいことは?」
「特にありません、承知しました。……あ、そういえば、それとは別件なのですが、昨日退去立ち合いの時にお客さまから聞いたのですが――」
 と、わたしが口を開いたその時だった。
「あの、あれ」
 一人の社員がドアの向こうを指さした。わたしはその指の先を目で追いかけ、彼が何を示しているのかすぐにわかった。路面の先、横断歩道を渡り、こちらに近づいてくる人物のことだ。
 セミロングのシルバーヘアを雑に後ろでハーフアップに束ねているその女性は、全身黒ずくめだった。身体にぴたりと貼りつく布部だけ見ればキャットスーツを着ているようにも見えただろう。しかし実際には、肩、ひじ、膝など各関節部には装甲板が付いてゴツゴツと角ばっており、二の腕や胸部、ふくらはぎの箇所は布内部に人工筋肉を入れているのだろう隆々としている。背筋はしゃんと伸び、背丈はおそらく一七〇センチを越えていた。
 すれ違う通行人たちはみな彼女を振り返り、目を見張っていた。
 そんな通行人の視線などものともせず、彼女はこちら目がけて迷いなく闊歩していた。
「あれは……」
 支店長も思わずつぶやく。まだ開いていない自動ドアの前に立ったその人はドア越しにこちらを覗き込んでいた。
 わたしはとっさにドアに駆け寄った。間近に見た彼女の顔には、目尻や額、ほうれい線に無数の皺が刻み込まれていた。目鼻立ちははっきりしていて彫りが深く、目元に影ができるせいか、全体的に険しい印象だった。
「すみません、まだ営業準備中でして」と頭を下げようとした瞬間、彼女はドアの縁に手をかけたかと思うと、頑強に閉じられた自動ドアをものともせずにこじあげた。勢いよく左右に滑ったドアは建枠にガツンとぶつかり、その衝撃に驚いたわたしは思わず尻餅を付いてしまった。
 間違いない。パワードスーツ老人だ。
「やってる?」
 しゃがれた声を張り上げた彼女は、足元のわたしに目もくれず、ずかずかとカウンターの前まで近づいていく。
 さっきまで暗かったカウンターの天井に電灯がパッと灯り、小気味のいいBGMが店内に流れ始めた。正面の壁の時計がたった今、十時ちょうどに切り替わった。営業開始だ。
「いらっしゃいマセ!」
 一番に彼女に声をかけたのは、来客だと判断し接客モードに切り替わったヤドカリだった。声の主に気づいた彼女は「なんだこれ」とヤドカリを一瞥し、どかりと席に腰を下ろす。わたしははたと我に返り、慌ててカウンターの奥に回り込むといつもの接客スマイルを繕った。
「いらっしゃいませ、お客さま。失礼ですが、本日ご予約などはされてますでしょうか?」
「してないよ、そんなもん」
 してなきゃだめなわけ? 
 彼女はぶっきらぼうに答えると、カウンターの下で窮屈そうに足を組んだ。
 ちらりと背後を振り返る。従業員たちはわたしが彼女を引き受けたものとして、他のお客さまからの問い合わせや各自の仕事に取りかかっている。
「いえいえ、とんでもございません! ご来店いただきありがとうございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「このスーツを契約して、新しい職場で働くことになった。再開発ビルの施工工事でさ。できるだけ現場に近いところで部屋を探そうと思ってね」
 なるほどですねえ、と相づちを打ちながら、わたしはヤドカリに「五反田駅 徒歩七分以内」でデータベース内を検索するよう指示をした。
「そのほかご希望の条件などありますか? 家賃の上限や広さ、築年、日当たりの良さ、収納スペースや常時ゴミ出しスペースの有無、独立洗面台とか……」
 フン、と彼女はわたしの上げ連ねる条件を一笑に付し、ひじ掛けに頬杖をついた。
「家賃はできるだけ安く。あとは住めりゃなんだっていいよ」
 ヤドカリはわたしからのさらなる条件追加を待っている。わたしは鼻の穴からゆるゆると息を吐き出した。今日は早く上がれなさそうだ。

2.
 五反田エリアの再開発は、東五反田一丁目区域、二丁目区域、五丁目区域と、五反田駅を中心に囲う三つの区域に分けられて同時並行で施工されている。
 今回わたしが見学することになったのは五丁目区域の一角だ。ビルへ続くゆるい坂道を歩いていくと、エントランスの前にまん丸としたシルエットが見えた。ヘルメットを被り、腹の肉でパツパツになったブルゾンを着た男がこちらに大きく手を振っている。間違いない。同期のダイキチだ。およそ六年ぶりの再会になるが、見た目は入社時からほとんど変わっていない。ずり下がった丸眼鏡をかけ、眠たそうに垂れ下がった目の下には、濃い隈ができている。まだ昼過ぎだというのに二重顎の髭はすでに伸びつつあった。
「ご安全に!」
 目の前に立って開口一番、ダイキチはわざとらしく改まり、敬礼ポーズをしてみせる。
「なにそれ」
 再会の挨拶よりも先に、わたしもつっこまざるを得ない。
現場ここでのあいさつ」
 皮肉っぽくにやりと笑うと、ダイキチは「見学に来たんだろ。まあとりあえず入ろうや」と親指でビルの中を示し歩き始めた。
 手渡されたヘルメットを被りエントランスに入ると、ブルーシートが床を覆い、壁には一面半透明のシートが張り巡らされ、八〇〇平米ほどの空間が養生されている。工事業者数名と建築ロボット一台が忙しなくあたりを行き来して、天井工事のための足場を組んでいた。
「いずれの階もまだ仮設工事の段階で、これから軽鉄工事が始まる。軽鉄って部材と石膏ボードを使って、壁や床の骨組みを設置していく作業だな」
 ご安全に! ダイキチは工事業者が通り過ぎるたびによく通る声であいさつをしている。すると彼らも「おう! 相変わらず今日も元気だな!」と威勢よく手をあげた。
「一応おれ、現場では最若手だからさ」
「同期の間では一番老け顔だってからかわれてたのにね」
 そんなこともあったなあ、と懐かしむような口ぶりで、ダイキチは二階に続く非常用階段のドアを開けた。
「いつから出向になったの?」
「組合が発足した時からだから、三年前くらいじゃないか」
 建築プロジェクトのプロセスは、企画・設計・施工・使用の四段階がある。プロセスが進むにつれ、業務の中心的な担い手は移って行き、企画は発注者である当社と物件所有者である電鉄会社、設計はその元請けであるゼネコン、施工はその下請けの専門工事業者となっている。ダイキチはこのうちゼネコン会社に出向し、工事業者の管理を任されているという。最年少で自分より一回り二回り目上の工事業者に指示をする立場も、難しくあるのだろう。手すりを掴んでフウフウ息を切らし階段を登ってくる彼を踊り場からちらりと見下ろす。
 二階の扉を開けると、エントランスと同じように辺りは全面養生され、資材がそこかしこに置かれている。
「今回の、工事の肝は、フロアの、細分化、に、ある」
 後ろで説明するダイキチは息も絶え絶えだ。
 二〇二〇年以前、より広い巨大なワンフロアにあらゆる部門が集まり、それを一望に見渡し管理のできる風通しの良い執務スペースがトレンドだった時代に内装されたこのビルは、全フロアとも壁面によるブース分けがほとんど施されていなかった。それを今回は細分化させ、テナント一社あたりの保有面積は狭くなるが、より多くのテナントを受け入れられるようにするのだという。
「大きなフロアのテナントビルを小さくするには、エレベーターからの各部屋への導線を再構築して間仕切りしなきゃいかんとか、トイレどうするとか、全く窓のないブースはダメとか、レイアウト能力が問われるんだ。設計時にはずいぶん苦労したけど、勉強になったし、図面が空間に立ちあがっていくのはやっぱり壮観だよ」
「おいそこのデカいの! ロボットの通り道の邪魔になってんだろうが!」
 ようやく息を整えて、得意げに話しだすダイキチを、聞いたことのあるしゃがれ声が叱りつけた。
 声の主はワタライモモ。先週部屋を借りに来たパワードスーツ老人だ。彼女は壁際で作りかけの足場に立ち、わたしたちの背後を顎でしゃくった。
 振り返ると、鋼鉄パイプを抱えたアーム型ロボットが小刻みに前後に動き、まるで「どいてください」と言おうかどうしようかためらっているように見える。わたしとダイキチがとっさに道を開けると、ロボットはそのまま直進し、モモさんのほうへと向かっていく。ロボットのアームからパイプの四本の束を受け取るとモモさんは軽々片手で担ぎあげた。
「あのパイプ、一本で十二キロはするんだぜ」
 片手で四本一気に持つなんて、おれでもできない。ダイキチはモモさんがせっせと淀みない手つきで足場を組み立てていく様をうっとりと眺めていた。
 契約に来た時はどうなることか思ったし、パワードスーツも信用ならなかったけれど、こうして実際に働く姿を見てみると、その需要は日毎増えていきそうな予感がした。
「モモさんってどんな人なの? おれが現場で見る限りは、すごく寡黙で孤独に仕事しているように見えるけど」
「どんな人もこんな人もないけどさ……」
 ダイキチの問いかけにわたしはヘルメットの中に手を突っ込んで頭をボリボリ掻くしかなかった。
 モモさんは今年一一〇歳を迎える超高齢単身者。夫に病で先立たれてから身寄りはない。夫の治療費で生活費が底をつき、生計を立て直すべく今月はじめにフィットコム社とパワードスーツの契約を結んだという。
「物件候補をあげてくれるのはいいけどさ、その前にあんたの名前はなんなのよ」
 案内をした二週間前のあの日。ヤドカリが選定してくれた複数の候補物件をモニタに映しながら、それぞれの特長をプレゼンしようとすると、モモさんは足を組みなおし、わたしのスーツの胸元に付けたネームプレートを顎でしゃくった。
「失礼いたしました。オオヌキと申します」
 ネームプレート見りゃわかるだろうが。と内心悪態づきながら、わたしはプレートが見やすいようにピンと胸を張る。
「フルネームは?」
「モエです。オオヌキ モエです」
 わたしはチカリと歯を見せて愛想よく笑いかけた。
「へえ。そんじゃあ呼び名は〝キモエ〟だな!」
 モモさんは一人で合点が言ったようにケタケタ声をあげてはしゃいだ。そして、わたしの話を隣で黙って聞いていたダイキチもブフッと噴き出した。
「なにがおかしいのさ」
 何度思い返しても屈辱的だった。実際、わたしはモモさんを目の前にしていた時も、相手がお客さまであることをすっかり忘れ、下唇を突き出し「なんですかそれ」と反射的に言い返してしまったのである。するとモモさんはなぜかますます愉しそうに目を細めた。
「なんでって。〝気持・・ち悪い顔〟から取って〝キモエ〟だろう。わかりやすいじゃないか」
「わかりやすい以前に失礼ですよ!」
「だって、あんたの接客時の笑顔、おかめの面を付けてるみたいに不気味なんだもの。無理してるのバレバレ。やめたほうがいいよ、それ」
 雷に打たれたような衝撃が走った。日々鏡の前に立ち研究を重ねた結果生み出された、誰も不快にさせない笑顔だったはずが、そんなふうに見えていたなんて。恥ずかしさまで込み上げてくる。
「じゃあキモエ、さっそくその物件を案内してよ」
 まだ紹介もほとんどできていないにも関わらず、モモさんはディスプレイに映る外観写真をコツコツと叩いた。わたしは気持ちが立ち直れないまま、されど「かしこまりました」と席から立ちあがり、急いでVR内見用のヘッドセットを持って戻ると、モモさんは「はあ?」と呆れたようにため息をついた。
「ここからそう遠くないなら、この目で直接見に行きゃいいじゃない。居住者がまだ住んでる物件じゃないんだろ」
 それはたしかにそうだけれど、今どき現地内見をすることなんてほとんどない。わたしはちらりとマツナガ支店長を振り返る。彼は右手の親指を立て、声は出さずに口だけ動かして伝えた。「お・ま・え・に・ま・か・せ・る」。いや「俺に任せろ」じゃないのかよ。
「決まりだね」
 モモさんは乱暴に席を立ち上がり、わたしは愛車のカエルを出して内見先へ向かうことになった。
 モモさんは後部座席にでんと構え、助手席にはヤドカリが鎮座する。沈黙が気まずい。何か話題はないものかと思案しながら自動走行モードにする。アクセルがかかると国道一号の左手に大きなドーム型の建物が顔を覗かせているのを発見する。
「あ! モモさん、あの建物知ってます? 最近できた介護施設らしいんですけど、なんでも入居費用がすごい高いらしいですよ。この前あそこに引っ越すからって退去される方に立ち会ったんですけど、介護用アンドロイドも付いてきて……」
「どうせ現代の姥捨山だろ」
 身体の自由の利かなくなった大量の老人たちを檻の中にぶち込んで、ロボットに関しさせるなんざ、人の住処じゃないね。あんなところに世話にならなきゃ生きていけないなんて恥さらしもいいとこだよ。モモさんはフンと鼻を鳴らして笑う。
 車内にふたたび沈黙が訪れる。
 カエルは国道一号線を右折し、花房山通りの細い道路をまっすぐ進んでいく。都道四一八号線にぶつかったところで左折し、三つ目の信号の手前で左手に目黒川が見えてくる。川沿いに等間隔に並ぶ満開の桜に目を奪われそうになりながら、手動モードに切り替え左折し、岸辺の駐車スペースに停めた。
「ここから車は進入禁止なので」
 後部座席のドアを開けると、モモさんは気持ちよさそうに伸びをした。
 案内するマンションは「よすがマンション」という名前で、目黒川沿いの道路から細い路地に入って二つ目の区画にあった。築五十年を超えなかなか借り手のつかない激安物件で、修繕工事も成されないため、なんというか触ったら崩れそうなほどボロい外観である。
入口中央のエレベーター脇を通り過ぎ、端の階段を使って二階へ上がる。共用廊下に沿って一列に並ぶ十戸のうち、奥から二番目の二○八号室の扉の前に立つと、鍵をさした。
 古びたダークグレーのフローリングは、上り框でスリッパに履き替えるだけでミシミシと悲鳴をあげた。二十五平米のワンルームで、古びた台所には今どき誰も使わないガスコンロが設置されている。すぐそばに目黒川が流れているせいか、川底で有機物が腐敗する硫黄のような臭いがせりあがってきていた。
「いかがでしょうか?」
 いくら契約が取りたくても、本当に推したいと思っていない物件を無理に勧めたりはしない。
 モモさんはスリッパも履かないまま、土足で室内に上がり、正面のサッシまで迷いなく歩いていった。外からは川の様子がよく見える。モモさんがガラリとサッシを開け外の空気を取り込むと、ふんわりとした桜の香りが鼻を掠めた。
「気に入った。ここにするよ」
 こちらを振り返るモモさんは鼻にしわを寄せて笑った。
「――まあその後、百歳を越える超高齢単身者の一人暮らしでは、物件の家具に見守り人感センサーを付けることが義務付けられているって説明したら、相当嫌がって駄々こねて大変だったんだけどね」
一定時間センサーの反応が生じない場合は、管理会社にアラートがあがるようになっているのだが「監視なんてまっぴらごめんだ」の一点張りだったのである。
「それで、なんかわからないけど、何か困りごとがあったらわたし宛に連絡するって言って聞かなくて、連絡先を交換したんだけど。……正直、モモさんとどういうふうに接したらいいのかよくわからない」
 ダイキチはきつそうなブルゾンを身をよじりながら脱いだ。閉じ込められていた彼の汗の臭いがむわっと解放されこっちにまで届く。
「まあさ、生きている人間の相手ができるっていいじゃんか」
 ブルゾンは肉付いた手の中でぐしゃぐしゃに丸められていた。ダイキチはブルゾンから目を離さず、何ならブルゾンに言って聞かせているような仕草でつぶやいた。
 新卒入社した頃、ダイキチの配属先は見守り人感センサーの管理部門だった。他の同期たちと飲みに行き互いの近況を報告しあっても、ダイキチはいつもがばがばと酒をあおり飯をかき込むばかりで自分の仕事について一切口を開こうとはしなかった。大雑把だが愛嬌のある奴だから、まあそれなりにうまくやっているんだろうとわたしたちはさして彼の事情を深追いすることもなかった。
彼の仕事がどういうものなのか具体的に想像がついたのは、入社して一年くらい経った頃、わたしが人感センサー管理部門から受けた問い合わせを支店長につないだ時だった。
「ああ、死体処理部ね」
 それは、支店長がその時思いつきで名付けたというよりも、普段からそう呼び慣れているものがうっかり口を衝いて出たように感じた。
「ここへ出向する前、新卒で配属された部署で、おれは人感センサーに不具合の生じた物件の調査で毎日歩きまわってたんだけどさ。当然、孤立死の現場を目にする機会も多かったよ。布団の上で、浴室内で、玄関先で、亡くなっているご遺体と接してきた。心筋梗塞に襲われて亡くなった人の死に顔はさ、苦痛で表情がゆがんで、酸欠で真っ黒に変色しているんだ。なんというか、穏やかな死からは程遠いなって感じたよ。……そういう景色が繰り返されるたび、翻って、『自分はどうやって死にたいか』ってことを考えるようになっていって。ああもうだめだって、異動願を出したんだ」
 ぐしゃぐしゃのブルゾンを我が子の頭のように優しく撫でるのを、わたしはずっと目で追いかけるしかなかった。
「そろそろ戻らなくていいんか」
 かける言葉に迷っていることを察知してくれたのだろう。ダイキチが話題を変え、わたしははたと時計を見る。
「うん、そろそろ戻らないとだ」
 わたしたちは再び階段を下りて玄関前に戻った。
「……ありがとう。現状いまのこと、すごくよくわかった。なんていうかさ、今度飲みに行こうよ」
「もち。せっかく互いに五反田にいるんだからな。肉食おーぜ、肉」
「よ! さすが! 太っ腹!」
「おごらねーよ!」
 わたしはヘルメットを脱いでダイキチに返した。すっかり蒸れた頭皮の汗が外気にさらされ涼しかった。

3.
 モモさんが入居してから一か月が経った日曜日。仕事中に突然彼女から連絡があった。のっぴきならない事情で、どうしてもマンションへ来てほしいという。仕方なくわたしはヤドカリを連れ、急ぎよすがマンションへ向かったのだが、目黒川沿いの駐車スペースに停めようとしたところ、雨でぬかるんだ街路樹の根元の土に片輪がはまってしまったのだ。
「最悪だ……」
 泥が前面に跳ね斜めに傾く愛車のあられもない姿を前に、わたしは思わずひとりごちる。後からついてきたヤドカリが、不思議そうに車の周囲をうろうろしている。運搬用に作られたわけではないため、ヤドカリの脚で車を持ち上げることはできないだろう。
 ため息をつきながら、ロードサービスの連絡先を調べようとしていると、何やら近くが歓声と拍手で騒がしい。それもよすがマンションのほうから聞こえてくるではないか。
 玄関前を訪れてみればやはりそうだった。二階の共用部に入居者たちが三人ばかり集まって拍手を送っている。彼らの視線の先には脚立に乗るモモさんがいた。モモさんは片腕に二十センチほどの蛍光管をいくつも抱え、もう片方を天井に伸ばしている。蛍光灯を付け替えているらしい。
「ちょっと何してるんですか!」
 慌てて入居者たちの間に割って入ると、
「おお、キモエ」
 モモさんはひょいと脚立を飛び降り、「あんたもやる?」と涼しい顔で脚立を担いだ。
「やりませんよ! オーナーの許可なく何勝手なことしてるんですか」
「勝手なことなんかじゃねえぞ!」
 モモさんは俺らのために新設でやってくれてんだ! すかさずわたしの前に立ちはだかったのは、白髪を角刈りにした猫背のヨネダさんだ。一人暮らしの九〇歳で、ここの三〇三号室に住みはじめてからずいぶん経つけれど、威勢のよさは入居当初から変わらない。
「そうさそうさ。この前はうちの雨漏りも直してくれたし」
「うちも、水道管を見てもらったよ」
「オオヌキちゃんなんかちっとも様子見に来ちゃくれないもんなー!」
 ヨネダさんに続き入居者たちが口々にモモさんを庇いはじめ、わたしは返す言葉もなかった。
「いやあ、しっかしすげえな、パワードスーツってのは。俺も契約しようかな」
 ヨネダさんが何かを企むように顎に手を添える。
「良いですけど、保証人変更の手続きもちゃんとやってもらいますよ」
 釘をさすと、彼は「へーへー」と小指だけ長くとがらせた黄色い爪を耳穴に突っ込んでかっぽじった。モモさんはわたしたちの応酬には一切関心を示さず、「こうやるのよ」とヤドカリロボットにちゃっかり蛍光管を握らせて付け替え方を教えている。
「変なこと教えないでくださいよ! 試用だし壊れたら修理費が高くつくんですから!」
「キモエはほんとうにケチだよなあ」
 モモさんがわざとらしく肩をすくめ下唇を突き出すと、周囲の入居者たちはあっはっは、と大げさな笑い声をあげる。わずか一か月でずいぶんご近所付き合いがうまくできているようでよかったですこと。
「で、今日はなぜわたしはここに呼び出されたんですか」
「キモエに五反田を案内してもらおうと思って」
 まだこっちに来たばっかりでよくわからないんだ。普段は夕方まで現場で、よそを出歩く用事もないし。早くこの街に馴染みたいじゃないか、と照れくさそうに頭を掻くモモさん。
「いやいや、他人ひとの部屋の水道管なおせる人がなに言ってんですか。もう充分馴染んでますよ。……それに今は無理です。片輪はまっちゃったんで」
「え?」
 わたしは愛車の前までモモさんを連れていった。車体についた泥が渇きつつある愛車は「なぜこの状態で置いていったし……」と恨めしげに見上げてくる。なぜか一緒になってついてきた他の入居者たちが「あちゃあ」「こらだめだ」と背後で口々に苦い声を漏らしている。
 モモさんは顔色ひとつ変えずにつかつかとカエルに近づき、ぬかるみにはまったほうの車輪をまじまじ見ると、「なんだ、パンクはしてなさそうじゃないか」と言うやいなや、フロントの縁に片手をかけ、ひょいっと持ち上げて路面に戻した。
「これでいけるだろ」

 案内できるところと言ったって、この街には本当に何もないのだ。戦後闇市から始まって今なお続いていたゆうらく通り沿いの風俗店や飲み屋も、今回の再開発でほとんど撤退するというし、撤退しなかったとしても、モモさんに需要はなさそうだし。この街についてわたしが知っていることといえば、あらゆる場所の裏道・抜け道・近道くらいだ。
 あてどもなく車を走らせるうち、辺りはすっかり夕暮れになっていた。国道一号のゆるい上り坂に差しかかり、左手にはNTT東日本関東病院が見えてくる。たしかこの辺りで肩車をしてくれていた祖母が転倒し、わたしは顔面を強打したのだ。
「キモエはずっとこの街で働いてるんだろ。一番気に入ってる場所を教えてくれよ」
 わたしの気に入りの場所。そんなもの特にないし、見つける余裕もなかった。
 病院の見舞いに訪ねると、母はいつもわたしに言ったのだ。
「おばあちゃんのことをしっかり守ってあげるんだよ。元気そうに見えてもなんだかんだお年寄りだし、あれでいて弱いところだってあるんだから……」
 だからわたしは祖母に守られながら、祖母を守る気概で過ごしてきた。それは母の死後も変わらなかった。大学入学や就職の時、地方の主要都市へ出ていく友人たちを何度も見送りながら、彼らに対するあこがれもあったけれど、わたしは年々身体が弱くなっていく祖母を一人置いて街を去ることはできなかった。しなければならないことばかりが、この街に山積していた。
「あんたそれでも不動産会社で働く人間かよ。自分が街を好きになろうとしなきゃ、街も人も仕事もあんたを気に入ってくれるわけないじゃんか」
 祖母が死んだのは去年の冬のことだ。離婚した父からの養育費や母の遺産もあったし、何よりわたしだってそれなりに稼いでいるのだから無理に働く必要はないのに、祖母は八十歳になっても在宅でできるコーチングの仕事をしていた。リビングのテーブルに一人座り、画面越しに悩める社会人と対話をし、彼らの内省を深める手助けをしてあげるのだ。お人好しな祖母らしい。
 その日、わたしが仕事から帰ってくると祖母はリビングに突っ伏していて、コーチング終わりに疲れてそのまま眠ってしまっていたのかと思っていた。寒いんだからベッドで寝なよ、とそっと肩に触れた時、祖母がもう逝ってしまったことを悟った。誰に連絡したらいいのかもわからず、ひとまず警察と救急車を呼んだ。警察の調べにより祖母の死に事件性がないことがわかり、医師は「顔にうっ血の跡もないし、最期はとても穏やかだったと思いますよ」と励ますように言った。検死もロボットを使えばすぐにできると勧められたが断った。自殺だったのかどうか、真実を知るのが怖かったし、これから一人で生きていくことを考えると、なるべく金銭を費やしたくなかった。
「どういうことを成し遂げたいか、ではなく、どういう感情でありたいか、を考えてみてはどうですか」
 あるコーチングの最中、転職をしようか及び腰になっている二十代の社会人に向かい、そんなふうに問いかけていた祖母の姿をふと思い出す。
「……一か所だけ思いつきました。好きな場所」
 わたしはモモさんにそう告げると、手動走行モードに切り替えハンドルを握り、病院に向かう坂道で左折した。それから病院を通り過ぎ、そのまま真っすぐ坂を登っていく。かつては小学校だった廃墟の渡り廊下の下をくぐり抜ける。傾斜がきつくなりアクセルを強く踏み込んだ。ガタガタと小刻みに車体を揺らしながら一気に坂を登りきったところで急ブレーキをかける。
 ドアを開け来た道を振り返ると、五反田東部から高輪台にかけての街並みが一望できた。低層住宅がみっしりと並ぶ間に、かつてはランドマークと称されていた高層ビルが薄桃色の夕焼け空にぽつりぽつりとそびえ立っている。あのビルにどれくらいの入居者がいるというのだろう。大きく構えられてはいるが中身は空っぽに違いない。西に落ちていく太陽に照らされ、家々の窓は一様にやさしい黄金色の光を放っていた。
 坂の右手にある池田山公園の中に入り、わたしたちは高台に位置する東屋に腰かけた。東屋の先は草木が鬱蒼と生い茂る急斜面になっており、その斜面を岩の段差を伝い下っていくと、中央には滝と池があった。わたしたちは滝の流れる音を聞き、黙って池の鯉を見下ろしていた。
「別に好きかどうかって言われたら、正直なところよくわからないんですけど。昔から何か持て余した時に、気づけばよくここへ来てました」
 母を見舞った病院の帰り道。離れがたくていつも泣きわめいて、そのたびに祖母がここまで連れてきてくれて、この夕焼けの景色を見せてくれた。祖母の葬儀を終えた後も、一人ここへ来て泣いた。
「良い街じゃん」
 モモさんは誰に言うともなしにつぶやいた。そうだろうか。
「あたし高いところ好きなんだよ」
「馬鹿と煙は高いところへのぼるらしいですよ」
「おい」
「……良いところかどうかわからないけれど、わたしはもう祖母もいなくなったので、仕事が落ち着いて生活が整ったら、この街を出て行ってもいいんじゃないか、なんて最近考えたりもします」
 ふうん、とモモさんは相づちを打ったきり何も言わない。
 わたしは自分の一部を晒したからだろうか、つい気が大きくなって、モモさんに前々から知りたかったことをたずねてみることにした。
「モモさんはどうしてわざわざパワードスーツを着ようと思ったんですか」
 しかしモモさんからの答えは至極あっさりしたものだった。
「別に。着なきゃ生きていけないからっていうほかに理由なんてないさ」
 それからモモさんは鼻歌を歌いはじめた。池で鯉がぽちゃりと跳ねる音がした。

4.
 あれから三か月が経ち、季節は七月を迎えていた。池田山で夕陽を見たあの日以来、モモさんには何かと用事をつけて呼び出され、わたしは頻繁によすがマンションへ赴くようになっていた。用事といっても、共用部の電灯交換や備品補充、清掃など、業務的な呼び出しであることもあれば、ヨネダさん主催のマンション入居者同士の交流パーティーなど、ごく私的な集まりへの招待であることもしばしば。いやむしろ最近は後者の方が多い気がする。
「いや、本当に感謝しているんです。パワードスーツ老人の方々には。剥がれた壁の塗装や水道管工事まで無償でやってくださるなんて。本来ならばこちらが手はずを整えなければならないところを……なにぶん、他の人気物件のこともあって手が回らず……」
 モニター越しにオーナーが何度もへこへこと頭を下げる。今日は月に一度のオーナー定例報告会の日。よすがマンションのオーナーに向けて、担当物件の空室状況や管理状況を報告する場なのだが、話題はもっぱらモモさんたちが勝手に老朽化したマンション内を改修しはじめていることについてだった。
「いえいえ! こちらこそ、彼らへの注意や管理が行き届いておらず申し訳ございません。よすがマンションの入居者さまたちはご高齢の単身者が多いので、コミュニティを築き上げられるようなイベントを欲しているのだと思います。モモさんのような元気で動けるご老人が現れてから、他の入居者さまも触発されて活力がみなぎっているみたいで」
 家賃滞納率もここ三か月で右肩下がりとなっています。説明をしながら、わたしは画面に直近半年間の滞納率グラフとともに、モモさんをはじめとする入居者たちによってきれいに塗装された壁や共用部の画像データを映し出した。
「それにしても、このごろ街でも見かけるようになってきましたよね。パワードスーツを着ている高齢者。新しい技術が現れて、最初はどこか胡散臭い気もするのだけど、こうして社会に浸透しはじめると、ワクワクしてくるものなんだなあ」
 僕もあと二十年後くらいには、着ることを検討してみようかな。オーナーはさして写真には興味を示さず、二十年後にスーツを身にまとう自分の姿を夢想しているのだろう、目をつぶり、二、三度深く頷いている。

 オーナーの言う通り、たった三か月の間にパワードスーツ保証代理人サービスはみるみる広がっていた。つい最近では、パワードスーツ老人がひったくり犯を俊足で取り押さえるなどの活躍もあり、有事の際にはパワードスーツ老人の積極的な協力が認められるようになった。
 パワードスーツ老人による部屋探しの問い合わせも続々と増えていた。これまでは、高齢単身者と伝えるとそれだけでオーナーに入居NGとされてしまうケースも多かったが、今では「パワードスーツを契約している」と伝えれば二つ返事で了承され契約まで至っており、五反田支店も近年まれにみる忙しさだった。
 さらに昨晩のことだ。パワードスーツ老人が増えたと実感する出来事が身近にも起こった。
 仕事終わりにモモさんから晩酌に付き合わないかと連絡があり、わたしは急きょよすがマンションへ向かうことにした。途中でコンビニへ寄ると、アンドロイドがレジに立つ傍ら、女性のパワードスーツ老人が陳列を行っていた。弁当を大量に詰め込んだコンテナを肩に担ぎ、五段になったラックの上段から下段まで、背伸び・中腰・かがみ込みの動作を俊敏に繰り返しながら、各段正確な位置に弁当を並べ、あっという間に作業を終えていた。
 モモさんの部屋でビール片手につまみのメンマをつつきながらそのことを話して聞かせると、彼女は「まあ慣れればそんなもんよ」と驚きもせず、人工歯の奥に挟まったメンマの筋を爪楊枝で取ろうと格闘しはじめる。
「パワードスーツを着るって、どんな感覚なんですか?」
「はじめて身に着けた時は半信半疑。だけど『動けるんだ』ってわかってからは早い。でも、あたしの場合は『いけるよな?』って毎回身体とスーツに語りかけている感覚がある」
 太いメンマの刺さった爪楊枝を口から出してティッシュにくるみながらモモさんはこともなげに言う。
 わたしが感心していると、突然インターフォンが鳴った。ドアの向こうから「モモさあん!」と大声で繰り返されている。十中八九ヨネダさんだろう。
「夜中にうるさいんだよ、さっさと入んな!」
 モモさんがヨネダさんよりさらに大声で怒鳴ると、間髪入れずにドアが開き、予想的中、ヨネダさんが飛び込んできた。
「オオヌキちゃんじゃねえか! なんでこんな夜中にモモさんとこいるんだよ」
 ヨネダさんが目を丸くしわたしたちを見下ろしているが、わたしたちはそれ以上に彼の変わりように驚いて口をあんぐりあけるほかなかった。
「俺も契約しちゃった、パワードスーツ」
 てへへ、と恥ずかしげに身を捩るヨネダさん。彼が纏うそのスーツは、ぴたりと身体に張り付く特殊加工生地、内部で隆起する人工筋肉、関節部の装甲版――いずれのデザインもモモさんのものと同じだが、生地の色味が黒ではなく、目が覚めるような群青色だった。小柄だった彼はスーツにより猫背が矯正され、見違えるほど身長が高くなっていた。
「なんだ、しけたつまみ食ってんなあ。……うし、俺がなんか作っちゃる」
 まくる袖などないのだが、ヨネダさんは腕まくりをする仕草をして、勝手に冷蔵庫をあけると素材をざっと点検しはじめた。それから卵とネギ、ハム、シイタケ、にんにくチューブ、醤油、冷凍庫から余った白米を取り出すと、手際よく台所に並べていく。
「チャーハンは俺の得意料理なんだ。食ってけよ。うまいぞお」
 まな板の上にネギを寝かせ、シンク下の観音扉を開けて包丁を取り出すとサッと水で流し、ネギの腹に刃をあててみじん切りにしていく。
「すげえ! 包丁がめちゃくちゃ軽く感じるや!」
 興奮気味のヨネダさんを前に、わたしとモモさんは困ったように顔を見合わせた。トントントンと、包丁の小気味のいい音が部屋に響く。
「――若い頃はさ、自衛隊で働いてたんだ。だけど訓練がきつくて、毎日のように吐いてた。上からもしごかれて、ほとんどパワハラ状態だった。そんで辞めた後、三十代になってから地方都市の中華料理店で働き始めたんだ。再出発ってやつだな」
 ヨネダさんはハム、シイタケを次々にみじん切りにしながら、沈黙を埋めるかのように自分のことを話し始めた。
「料理店はずいぶん長く勤めて楽しかったよ。飯って一人で食うより誰かと食ったほうが美味いんだなって、凡庸な、手垢にまみれた表現だが、そのことに改めて気づかされたのもこの時だった」
 だが、とヨネダさんは口をつぐみ、フライパンに火をかけ、ごま油とにんにくチューブを投入した。香ばしい匂いが漂い、食欲が刺激される。油があたたまったタイミングを見はからい溶き卵を一気に流し込むと、ジュワッと弾けるような音が広がり耳に心地よかった。
 「両親が倒れちまって。介護のために実家のある東京こっちに戻ってきて、料理人を辞めたんだ。五十代に差しかかった時だった。正社員はあきらめてバイトをしながら介護が続いて、両親が死んだ頃には、今度は俺が介護されるぐらいの歳になってた」
 オタマで卵が半熟になるようにかき混ぜると、その上にレンジで解凍しておいた白米を投入しチャッチャとフライパンをあおる。
「仕事に就きたくて求人サイトをたずねてみても、こんな歳でろくな体力もなく、持病もある俺に、働き口なんか見つかるわけもねえだろ。今までは実家を売った金で細々と食いつないできたけど、それももう限界だったんだよな」
 卵と白米がパラパラになった頃合いで、刻んだ具材も投入し十五秒ほどフライパンをあおりオタマでかき混ぜる。醤油をひとかけして香りを立たせ、最後に塩コショウで味を調えると、皿の上に盛り付けた。
「だから、モモさんと出会った時、俺は『これだ!』って惚れ込んだのさ」
 ヨネダさんはまっすぐモモさんを目で捉えながら、彼女の前にチャーハンの皿をドンと置いた。冷めないうちにとモモさんは彼から蓮華を受け取ると、ドーム状になったチャーハンを掬う。ほわりと湯気を浴びながら、一口めを噛みしめるように食べると、二口、三口と手が止まらなくなった。
「うまいよ」
 モモさんは感想を言う間も惜しいのか早口にそう告げると、皿を持ち上げて掻っ込んだ。
 わたしもつられて一口運ぶと、たまごのほわりとした優しい味が広がった。
「本当においしいです! これ、お店開けますよ絶対」
「あのビルが完成したら、ヨネダさんの店入れてもらったらいいんじゃないか」
「事務所用なんでそれは無理ですけど」
 わたしたちのやりとりに、ヨネダさんは照れ臭そうに鼻の頭をかき、夜はゆっくりと更けていった。

5.
 八月の終わり。開発ビルは軽鉄工事を完了し、いよいよ内装工事に取りかかっていた。壁面にパネルを設置したり、床面にタイルカーペットを敷くことでオフィス空間を作り上げていく工程だ。それが終わると、次はドアや窓など開口部に建具をつけていく。
 工事業者にもパワードスーツ老人が続々と増えていた。パワードスーツはロボットに比べ、シンプルな作りで耐久性があり、不確実性の高い仕事においても融通が利く。そうした点を魅力ととらえ、積極的な採用をはじめているらしい。
 モモさんと同じ再開発ビルの現場に斡旋されたヨネダさんは、張り切りすぎて壁面パネルを両脇に抱え俊足であちこち移動しては、「あぶないですよー!」とダイキチに怒られていた。
「今度の週末――といっても不動産会社うちは営業日なわけだけど、仕事終わりに――モモさんたちと花火やろうって話してるんだけどさ。ダイキチも来ない?」
 現場から直帰の許可をもらえた夜、わたしはダイキチと飲みに行くことになった。
 しかし、ダイキチは何やら様子がおかしい。ビールジョッキと好物の唐揚げが運ばれてきたというのに手も付けず、浮かない表情だ。
「おらおら、乾杯!」
 わたしは彼の目の前でビールジョッキを掲げると、はたと我に返ったダイキチは「あっ、週末って日曜?」と慌ててジョッキを打ちつける。それから予定を確認しはじめた隙をついて、わたしはダイキチの手つかずになっているお通しのミートボールを奪おうと箸を伸ばすが、すかさず彼の箸がそれを掴み口へ放った。
「うん、大丈夫。空いてるわ」
「元気ないくせに肉のことになると急に俊敏になるんかい」
 ダイキチはもごもごと口を動かしながら合掌して「すまんすまん」と軽く頭を下げ、ビールをぐびりと流し込む。
「いやさ、ついこの前、競合不動産会社の物件で事故があったって話、聞いてない?」
 わたしは唐揚げに伸ばそうとしていた箸の手を止めた。
「パワードスーツを着た入居者が認知症になっていたんだ。レビー小体型認知症といって、視覚野のある後頭葉の血流障害や委縮が原因で、実在しないものを幻視したり見間違えを起こしたりするらしい。その入居者の住んでいる部屋から大きな物音がして、異変に気づいた隣人が駆け付けてみたら、パワードスーツ老人が呆然と立ち尽くしていて、部屋の壁に穴が空いていたらしい。本人は、家に不審者が侵入したので追い出そうとしたと言っているが、おそらくハンガーにかけていた服を見間違えて殴ったんじゃないかって」
「どうしてパワードスーツを借りられたのかな」
「さあな。なにせまだできて一年にも満たないサービスだし、審査が甘かったのかもしれない」
「にゃーん」
「なんだそら」
「壁に穴が空いたときは、猫ちゃんのカレンダーで隠すといいらしいよ」
「ふざけてる場合じゃないぞ」
 ダイキチは灰皿を手元に寄せ、煙草に火を付け一口含んだ。
「おれはたぶん、今回みたいなパワードスーツの事件が、これからどんどん増えていって、何か嫌なことが起きるような気がしてんだよな」
 ダイキチは背もたれに寄りかかり、鼻からゆるゆると煙を出した。わたしはおよそ五か月前に退去立ち合いをした老爺の部屋で見つけた、三つの暗い穴を思い出していた。

「調子はどうだ?」
 マツナガ支店長に再開発の進捗状況を報告し終えた頃にはすっかり定時を過ぎていた。他の社員も今日はみんな退勤して、ワークスペースにはわたしと支店長だけが残っていた。ここのところ、日曜日の営業時間中はほとんど案内に時間が割かれ、他業務や打ち合わせが行えるのは閉店時間を過ぎてからになっていた。
「良好です。実は今日もこの後、よすがマンションの入居者のみなさんと花火をやろうって約束しているんですよ」
「そうか。ちゃんと監視するよう頼んだぞ」
 監視? わたしはその物騒な物言いに眉をひそめた。
「すまない。実は、別物件に入居していたパワードスーツ老人が隣人トラブルを起こしたんだ。なにやらその老人が突然『財布を盗られた』という被害妄想に駆られて、向かいの部屋の入居者を犯人だと疑い、その部屋のドアノブをこじ開けて飛びかかったらしい。――急ぎ対策を講じる必要があるが、それまでの間、オオヌキの担当物件の入居者についてもくれぐれも目を離さないようにしておいてくれ。今日は俺ももう帰るから、オオヌキも早く上がるようにな。お疲れ」
 支店長が身支度をして帰っていくのを見守っていると、ブルブルとスマートフォンが鳴った。モモさんから「まだか」の一言メッセージが届いている。
 受付の前を通り抜けると、掃除を終えていそいそと充電ベースに戻ろうとしているヤドカリに出くわした。
「……きみも来る?」
 その背中がなんだか妙に寂しげで、わたしは自分の今の状況と重ね合わせてしまったのだろうか、つい呼びかけてしまった。くるりと振り向いたヤドカリはキュッキュと触覚センサーを動かし始める。思案しているのだろうか。しばらく待っていると何かを決めたようにスススと静かにこちらへ近づいてきた。
 ここ数週間の忙しさに魂を持って行かれたわたしは、マンションへ向かうまでの道中、背もたれをいつもの倍以上傾け、ほとんど天を仰ぐような格好で脱力していた。カエルはゆっくりと花房山通りを走行する。駐車スペースに停めて外に出ると、セミの声に混じり、昼には聞こえなかった虫の音が聞こえた。夜の目黒川の水面が街灯を反射してきらきら揺れている。
「おっせえぞ!」
 入口前ではすでに手持ち花火が始まっていた。わたしとヤドカリが近づいていくと、ヨネダさんがススキ花火を両手に持ってぐるぐると振りかざしている。危ないからやめてください、と他の入居者が真面目な口調で注意をしている。ダイキチは腰をかがめ、一人一人の花火にライターで火を付けて回っている。
 モモさんは輪から少し離れたところで、股を大きく広げてしゃがみ花火の様子を眺めていた。わたしと目が合うと気だるげに手を振った。わたしはスパーク花火を二つダイキチから受け取るとモモさんに近づいていき、その一つを彼女に渡しながら隣にかがみ込んだ。入居者の輪の中心に迎えられたヤドカリは方々で放たれる火花のどれを追いかければいいのか戸惑うように、カメラのレンズを素早く絞ったり開いたりしていた。
「この笑い声、ぜったい近所迷惑ですよね」
「そしたらキモエの責任だな」
「苦情が来たら、わたしはいなかったことにしてください……」
「それだけはできねえな」
 モモさんはニヤリと口角をあげ、くつくつと喉を鳴らして笑った。

6.
 ダイキチの言っていた「嫌なこと」は予想していたよりもずっと早く訪れた。パワードスーツ老人による住居トラブルは、あれからわずか二か月の間で、雨が止むとそこかしこに顔を出すミミズのように次々と明るみに出はじめた。オーナーや他の近隣住民から、トラブル報告や、苦情、問い合わせがひっきりなしに届き、わたしたちも日夜物件を駆け回っては謝罪する日々が続いている。
 これから一体どうなるのだろう。ヤドカリロボットが故障で停止状態のエレベーターに進入するのを眺めながらぼんやりと考えた。エレベーターに閉じ込められたと思い込みパニックを起こしたパワードスーツ老人が、開閉ボタンを何度も強打してしまったのだ。頑強な鋼鉄でできた操作盤はひび割れ、激しいへこみ跡をいくつも残していた。その様子をヤドカリが撮影し、リアルタイムでオーナーへ配信する。
「ひどいな、これは……」
 画面越しにオーナーの唖然とした表情が見える。これだけの威力を持つ拳が同じように人間に向かってきてしまったら、死者が出てもおかしくないだろう。顔を覆うオーナーに、何と返そうか考えあぐねていると、こちらが口を開くより先に彼は続けた。
「……もうね、ちょっと、貸したくないんですよ」
 パワードスーツ契約者には。
 オーナーはそう吐き捨てたのをきっかけに、腹に据えかねた文句を垂れ流した。
「こうもしょっちゅう壊されて、そのたびに直していると、うちも採算が取れなくなるんだよ。パワードスーツによる保証代理人サービスなんてさ、どうも最初っからうさんくさいとは思っていたんだ。あんたら不動産会社だって、入居審査の時には『物件の安全は保証する』なんて胸張って良い顔してたくせに、そこんとこどうなってんだよ。あいつらのこと、追い出してもらえないのかよ。あんたらが言えないんだったらこっちから直接やつらに退去するよう迫ってやるからな」
 ここは何度も頭を下げるしかない。信頼関係が損なわれ、管理会社の変更を余儀なくされることだけは避けねばならない。オーナーの怒号を聞き流しながら、どのようにお詫びの言葉を並べ立てようか思案をめぐらせていたその時だった。
「人感センサー管理部門より、伝達事項がありマス」
 隣にいたヤドカリが、突如メッセージを発信をはじめた。
「オオヌキモエさんの担当物件、よすがマンション二〇五号室、ワタライモモさんの見守り人感センサーより、アラートがありましタ。センサーの反応が取れなくなっていマス。ただいま、当部門より調査員を派遣していマス」
 いくつもの映像が脳裏をよぎった。勢いよく自動ドアを開けた険しい顔つきのモモさん、壁に空いた三つの穴、監視しておくようにというマツナガ支店長……。
「――すみません!」
 まだ文句をまくしたてているオーナーをさえぎって、「このお詫びはまた今度させていただきますので!」と続けると、わたしは急いで終話し、ヤドカリを連れ愛車に飛び乗った。

 マンションの周辺には相変わらず閑散としていて、人感センサーの派遣社員もまだ到着していないようだった。わたしは二段飛ばしで階段を駆け上がり、二〇八号室の前に立つ。インターホンを押してもドアを叩いても返事がない。ドアノブに手をかけると鍵は空いていた。わたしはモモさんの名前を何度も呼びながら玄関に足を踏み入れた。ワンルームの部屋に彼女の姿はない。バストイレにも収納スペースにもいない。どうしよう。ついひとりごちて立ち止まると、視界の隅でサッシのカーテンがはたはたと揺れるのが気になった。恐る恐るサッシに近づき外へ首を伸ばす。するとベランダ床に横向きに倒れているモモさんを発見した。顔が焼けただれて赤黄色くなっている。そばには殺虫スプレーの缶が転がっていた。外壁に取り付けられた給湯器は黒く焦げ、煙が小さくプスプスと音を立ててのぼっている。
「モモさん!」
 慌てて身体を起こそうとするも、スーツの重みでびくともしない。モモさんの目がうっすらと開く。口を真一文字に結んだまま、手のひらを床につきゆっくり起きあがろうとしている。
「無理して起き上がらなくていいですから」
 彼女をなだめているうち、背後から派遣社員が駆け付けてくる足音がした。わたしは混乱しながら彼らの肩を掴み、息も絶え絶え伝えた。
「負傷者一名、顔にやけどを負った重症ですが、生きてます!」
 瞬時に状況を察知したらしい彼らは、すぐに救急車を呼んでくれた。モモさんはおもむろに上半身を起こし、「大丈夫ですからね」と呼びかけるわたしに黙ってこくりと頷いた。火傷しているため口が開けないのだろう。しおらしくする様子は、大人しい子どもみたいだ。
 救急車がやって来ると、モモさんは救急隊員が担架へ担ぎ上げようと差し伸べた手を払いのけ、自らの足で乗り込んだ。玄関の外には救急車がやってきたことに気づいた入居者たちが様子を見に集まっていた。しかし本来ならまっさきに駆けつけるであろうヨネダさんの姿が見当たらない。こんなにも弱りきったモモさんを、まだ誰も見たことがなかったのだろう。不安そうな表情を浮かべた彼らは、救急車が角を曲がるまで、ずっとバックミラーに映り続けていた。

 結局、全治二週間のやけどと診断されたモモさんは、しばらく顔面にぐるぐると包帯を巻くことになった。そのせいで視界が狭くなり、また何か怪我につながるのが心配だったので、包帯が取れるまでは食事や入浴、着替えを手伝うことにした。
「お客さまだからといって何もそこまで面倒を見る必要はない」とマツナガ支店長には注意をされたが、打算的に彼女を助けるわけではない。これ以上、自分の預かり知らないところで親しい人を失いたくないだけだった。
 はじめのうち、風呂を手伝うのをモモさんはとてつもなく嫌がった。まだ口の周りは動かしにくいのか、ほとんど声は発さなかったが、わたしがスーツの装甲板を外そうとするのに激しく身体を揺らして抵抗した。自分でなんとか脱ごうとしているが、やはり視界が悪いようでうまくいかない。わたしは最低限必要な手助けをするだけで、あとは時間がかかってもモモさんが一人で脱げるよう辛抱強く見守ることにした。
 スーツから完全に足先を抜きモモさんの裸が露わになった。吹けば飛ぶようにやせ細り節くれだった腕と足には、太くて青い血管の筋が浮き出ている。皺が集まった乳房は重力に無抵抗にぶらりと垂れ下がっている。腰から臀部にかけてはまっ平らで、腰骨は今にも皮を突き破り飛び出てきそうに見えた。わたしは不思議とその身体にどこか神聖なものを感じ、なるべく触れ合わぬよう注意しながらそっとタオルを巻きつけた。
 浴室内まで手を引いて一歩ずつ進みバスチェアに腰をおろすよう促すと、シャワーで足元からお湯をかけ、身体が温まってきてからシャンプーハットを被せた髪を洗う。その後は、上半身、下半身の順に優しく洗身していく。
「本当のことを言えば不安さ」
 モモさんの身体を洗いはじめてからそろそろ二週間。石鹸をつけたタオルで足先を洗っている最中にモモさんは突然自嘲気味に言った。わたしは顔をあげ、聞き返すかわりに首を傾げた。
「メディアの言うとおりだよ。パワードスーツを着て、いくら身体の衰えを補えようとも、脳の衰えはどうにもできない」
 パワードスーツ老人による事故はマスメディアでも大きく取り沙汰されるようになっていた。政府はパワードスーツを着用以後、認知症を発症した場合における処遇について法案をまとめる見通しを立てるとのことだった。SNSでは、専門家を名乗るコメンテーターをはじめ多くの一般市民たちが、パワードスーツ老人たちに対しスーツの自主返納を求めるよう非難する投稿が目立っていた。しかしあらゆる発信媒体においても、恣意的に「パワードスーツ老人はいつ暴走してもおかしくない」という不安をあおっているように感じられてならなかった。
「いつか自分が自分でなくなるのではないか。誰かに――キモエに迷惑をかけやしないかって」
「何を今さら。モモさんは、初めてうちに部屋探しに来た時からずっとわたしに迷惑かけてますよ」
 わたしはモモさんのふくらはぎにタオルを這わせながら、らしくないモモさんの不安を笑い飛ばした。
「……ベランダで気絶したあの時。あたしには、給湯器に巨大な虫がへばりついているように見えたんだ。一瞬この手で潰そうかとも思った。だけどきっとそうしたら給湯器がダメになるだろう。そう思ったからあわててそこに防虫スプレーをかけたんだ。そうしたら、給湯器が爆発してこのザマだよ。しかも、そこには虫なんていなかった。あたしはその前の夜に靴下をかけて干していたのを忘れてたんだ」
 わたしは何も言わずに足にお湯を丁寧にかけ泡を流していった。
「出会った頃、キモエに『なんでパワードスーツを着てまで働いているのか』って訊かれたことをたまに思い出すんだよな」
「『着なきゃ生きていけないから』って一蹴されました」
「あの時は、なんだこの娘ナメてんのかってケツひっぱたいてやろうかと思ったけど」
「人の尻爆発させようとしないでくださいよ」
「でも、じゃあなんでそうまでして生きなきゃいけないんだ、って訊かれたら、返す言葉が見つからない。旦那ツレも死んで子どもも作らず、友人もどんどん先に逝く。それなのになんでこの歳まで元気なんだろうな。ただひたすら、迷惑をかけたくなかった。自分の面倒は自分で見続けたかった。誰かに頼ってケツを拭かれるなんて恥ずかしいこと、たまったもんじゃない。いっそピンピンコロリで死ねたらいい。……ゆくゆくは、安楽死も認められる国になればいいんじゃないかって、主語のデカいことが頭をよぎったりもする」
 このままここにいれば身体が冷えてしまう。わたしはゆっくりとモモさんを立ち上がらせ、滑らないように支えながら脱衣所へ一歩一歩踏み出す。
「まあでも」
 足ふきマットに片足を乗せた時、モモさんが口を開いた。
「死んだ奴らに背中を押されて、生きてるあんたらに引っ張られるから、もうちょっとやってみるかって気もするんだよな、この街に来て、スーツを着るようになってからは特に」
「そうですよ、モモさんにいなくなられたらみんな困りますよ」
 用意しておいた柔らかいコットン素材のパジャマに腕を通し、わたしたちは居間へ戻った。
サッシを少し開けると、十一月の静謐でどこか硬質な空気が肌を撫ぜた。モモさんは窓際にぺたりと腰を下ろし、ドライヤーで髪を乾かされるのを待っている。
 ドライヤーを探して壁沿いに置かれたチェストを覗き込む。そこにはキャラメル色をした細いフレームのメガネがあった。
「二十代の頃に使ってたやつだよ。こう見えてあたしは建設会社の経理だったんだ。ずいぶん長いこと働いて、見積もり設計はお手のものだったんだ。よかったらキモエにやるよ。あたしはもう義眼だし、要らないから」
 あんた何か見るときいっつも額に力が入ってんだよ。額だけじゃなくてしゃべる時の態度もだけど。だから笑顔も変なのさ。モモさんは急にいつもの調子でまくしたてる。どうやらもう包帯を取ってもいいくらい回復しているようだ。
「メガネはおしゃれだからいいですけど、度と高さが合いますかね……?」
 さっそくかけて振り向くと、モモさんは一瞬虚を突かれたような顔をして、すぐに「似合ってんじゃん」と破顔した。
 その時だった。急にドアが激しく叩かれ「モモさん! モモさん!」と呼ぶ声がする。
「またかよ、あいつ」
「そういえばヨネダさん、最近見かけませんでしたよね」
 わたしがドアを開けるや否や、ヨネダさんが息を切らして飛び込んできた。彼のその真剣な表情から、ただならぬ事態なのは間違いなかった。
 ヨネダさんはモモさんの前に膝を落とすと、か細い声で言ったのだ。
「俺、この家出ることになったわ」

7.
 冬の寒さが厳しくなってきた十二月。コンビニで昼食を買い店に戻るまでの道すがら、パワードスーツ老人が一人歩いているのを見かけた。一瞬ヨネダさんかと思い声をかけようとしたけれど、すぐに人違いだとわかった。アンドロイドに腰を支えられ歩いている見知らぬ老爺が、すれ違いざま彼に向かって飲み干したカップ酒を投げつけていた。
「この前の件は気の毒だったな」
 店に戻ると、マツナガ支店長が隣の席に腰を下ろし、弁当の包みを広げはじめた。彼の言う「この前の件」が何を指しているのかは言われなくともよくわかっている。ヨネダさんがよすがマンションを出て行ってしまった件だ。
 あの日「この家を出る」と言ったヨネダさんは、その翌日から本当に退去手続きを進めてしまった。ヨネダさんに理由を問うと、オーナーが彼に直談判して、ここから出ていくようにと半ば脅すようにせっつかれたらしい。
「今回の駅前の再開発プロジェクトが完成すれば、若年層が都市へ戻って来るだろう思ってね。とすれば、若い借り手がつくように、あのマンションもこのタイミングで本格的なリフォームを進めていこうかと思うんだ。借家人への退去勧告は原則期間満了の六ヶ月前までに申し入れなければならないでしょう? ヨネダさんはその期間が近かったから、僕から先にお願いさせてもらったんですよ」
 寝耳に水の話だった。「言ってなかったっけ?」とオーナーはすっとぼけているが、わたしに事前に相談して反対されるのを忌避していたに違いない。
「なに? あのマンションのオーナーは僕ですよ。その僕の判断に口出しするつもりですか。それなら東都不動産さんとの今後の付き合い方も、考えていかねばなりませんね」
 語気を強めたオーナーは有無を言わさず終話した。リフォームを理由にしているがパワードスーツ老人が何か事件を起こさぬうちに退去させてしまいたいという本心がみえみえだ。
 不動産には借地借家法という法律があり、六ヶ月猶予においての解約申し入れに関しても、正当事由がない限り解約は出来ないとされている。ここは定期借家でもないし、言われた通り出て行かずに抗うことだってできるはずだと、ヨネダさんを説得してみるものの、ヨネダさんは「もう腹は決まってんだ」と頑なに首を縦に振らない。「俺はしょせん邪魔な危険因子みてえだからよ」。出ていく前、彼は笑いながらそう吐き捨てた。
「悔しい思いをしているだろうけれど、朗報もある。今回のパワードスーツ老人の相次ぐ暴走を受けて、再開発プロジェクトの方も政府と都庁にかけ合って、対策を講じはじめたらしいんだ。来週、緊急で組合関係者を招集して会議が開かれることになったから、オオヌキも忘れず参加よろしく頼むよ。来週はもう年末になるってのに悪いな。今日もこのあと現場だろ?」
「はい、そうですが……」
「そのまま直帰でいいからさ。お疲れ」
 支店長に促されるまま、荷物をまとめてコートを羽織り店を出る。急を要する会議とは一体何なのか。午後の太陽のまぶしさに目を細め寒さに首元を縮めながら暗澹たる思いのままビルへ向かった

「ご安全に! ご安全に!」
 エントランスの中央に立つダイキチは、ちょうど昼休みで外に出ていく工事業者たちに相変わらずよく通る声であいさつをしていた。しかし彼らのほうは冷ややかな視線を向けるだけで返事をしない。
 ふと、非常階段扉のほうに目をやると、ちょうどヨネダさんが降りてくるところだった。退去に立ち会って以来の再会だった。次の転居先が決まるまでは友人の家に寝泊まりすると言っていたが、連絡をしても一向に返事が来ず、あれからどうしているのか気になっていたのだ。見た目については変わっていなさそうで、ひとまず安心する。
「ヨネダさん!」
 わたしは思わず手を振り駆け寄った。しかし彼がわたしに向けた視線は、先ほどの工事業者がダイキチに向けたものと同類だった。ヨネダさんはそれから気まずそうに俯くと足早に外へ出て行った。
「まあ、仕方ないわな」
 いつの間にか隣に立っていたダイキチが、こちらにヘルメットを差し出した。非常階段をのぼるにつれ、自分の足が鉛のようにどんどん重たくなっていくのがわかった。
 電線やコンセント、照明、LANケーブルを配線する電気設備工事や、エアコンや換気扇など空調換気設備の工事も終え、いよいよ後工程は消防設備の工事とエントランス部に会社のロゴを入れるサイン工事のみとなっていた。
 二階から最上階の二十階までを順繰りに点検していきながら、わたしは初めてこのビルに訪れた時の景色を思い返していた。皮がはがれ骨がむき出しになった状態から、たった八か月ちょっとでよくここまで進んだものだ。今はたしかに不安もあるけれど、再開発が進めばきっと何かが変わるはずだ。最上階の窓から、駅前を行き交う豆粒のような人々を見るともなしに眺めていると、ガラス越しにモモさんがフロアに入ってくる姿が映っていた。
 モモさんはわたしからずいぶん距離をあけ、窓ガラスの縁に腰を下ろして立膝をつき、外を眺望しながらアルミ製の弁当箱を箸でつついていた。
「お久しぶりです」
 ヨネダさんがよすがマンションを去ってから、入居者の集まりもすっかり途絶え、モモさんと会話をするのもおよそ一か月ぶりだった。
 モモさん、お弁当なんて作るんですね。からかうように隣に座ると、「買い食いなんて贅沢している余裕なんかないんでね」とモモさんは窓の外から視線をそらさずぴしゃりと返した。卵焼きひとつくださいよ、とおどけて弁当箱を覗き込もうとすると、隠すように背を向けられてしまう。
「……それにしても、ずいぶん工事進みましたよねえ」
 わたしはつとめて明るい方へ話題をそらそうとした。
「皮肉なもんだよな わたしたちの住む場所を奪うやつらのために建物を建てかえなきゃいけないなんてさ」
 モモさんの声は冷ややかだった。どうやら話題を転換する方向を見誤ったらしい。ヨネダさんが去って行くのを誰より強く反対したのは、他でもないモモさんだった。
「ヨネダさんには、本当に申し訳ないことをしたと思っています。何もできなかった自分がふがいない……」
 モモさんは何も言わない。
「でも、わたしたちは決して、モモさんたちパワードスーツ老人の場所を奪おうとなんかしていない。なんとか救えたらなと思って――」
「救うなんて傲慢だな。言うはやすしだよ。誰も救ってくれなんて思ってない。あたしらは、あんたたちに迷惑かけずに生きようと思ってやってんだ。それが何さ、勝手に称賛してもてはやしたかと思えば、非難されて追いやられる。そもそもこんなビル作り直したり、スーツ作ってみたりするまえに、労働力のねえ老人をこき使わずに済むようにしろって話だろうが」
「そんなこと、わたしに言わないでくださいよ! ……一一〇歳も生きておいて、何子どもみたいに屁理屈言ってんですか。周りはどうだか知りませんが、わたしがいつ、モモさんに迷惑かけないでくださいなんて頼みましたか」
「あんただって、てめえのばあさんの面倒背負わされて、奪われた未来を嘆いてきたんじゃなかったのかよ」
「知ったふうなこと言わないでください!」
 わたしは勢い余ってモモさんに向かってヘルメットを投げつけていた。ヘルメットは膝の装甲版にぶつかり、彼女の足元にあった弁当にべちゃりとつっこんだ。
「上等じゃんかよコラァ!」
 モモさんはバックルを片手で外すとヘルメットを地面に叩きつけ、ズカズカとこちらへ近づいてくる。すかさず間にダイキチが「ご安全にぃ!」と割って入り、工事業者たちが憤るモモさんの身体を羽交い絞めにした。居てもたっても居られなくなったわたしは、ダイキチが引き止める声に耳も貸さず、走って非常階段を駆け下りた。

8.
「本当にごめん」
 再開発プロジェクトのオンライン会議直前、わたしは会議の待合い画面を立ち上げながら、ダイキチと個人通話をしていた。先週のモモさんとの騒動は、ダイキチのほうでなんとか情報を差し止めておいてくれたという。念のため、わたしは背後に座るマツナガ支店長の様子を確認した。彼も会議を待っているはずだが、他作業をしているらしくこちらのやりとりは気にも留めていないようだ。
「別におれは平気だけどさ。オオヌキの気持ちもわかるっちゃわかるし。なんだかいたたまれないよな。おれたちは誰のために働いてんだろう。……でもたぶん、オオヌキが謝る相手はおれじゃないよ」
 会議始まったから切るぞ。ポロンと終話を示す音とともにダイキチの声が消えた。わたしも慌てて会議にログインする。画面には全開発エリアを統括するプロジェクトマネージャーが映し出され、彼の自己紹介と共に説明資料も映し出された。
 謝る、とダイキチは言っていたが、わたしはまだ腑に落ちてはいなかった。なぜわたしがモモさんに謝らなければならないのか。弁当をダメにしてしまったから? いや、それはもちろん違う。モモさんの怒りの矛先は、わたし個人ではない。わたしが所属する組織自体の意思決定についてであり、ひいては社会が向けてくる冷徹な視線それ自体に対してではなかったか。では、なぜそれをわたしが代表して謝らなければならないのか。仕事だから? 担当のお客さまだから? そもそも、モモさんはわたしのことをどう思っていたのだろう。
「おい、オオヌキ。マネージャーの話、聞いてるか」
 ダイキチから個別チャットが送られてきた。すっかり心ここにあらずだったわたしは、再度意識を会議に戻す。
「この度、パワードスーツ着用高齢者による相次ぐ暴力事件を受け、日本政府からパワードスーツ提供元のフィットコム社に対し、パワードスーツの機能制限を要請しました。つまり、パワードスーツは今後、着用高齢者が認知症などを機に何らかのトラブルを引き起こした場合、その雇用主が彼らの行動を制限することが可能となります」
 ダイキチからすかさずチャットで肩をすくめる絵文字が送られてくる。画面には、新たな発話者の顔が映し出されていた。フィットコム社でパワードスーツの開発部隊に属していたエンジニアだと名乗る。
「今から彼が、制御機能の発動および操作方法について説明を行う。年明けから、各エリアとも現場のパワードスーツ着用者たちに向けて、制御機能を搭載した新スーツの配布と着脱方法のレクチャーを実施し、順次本格導入に踏み切ります」
「ちょっと待ってください」
 マネージャーが当たり前のように進めていく議事をさえぎり、わたしは自分のマイクをオンにして問うた。
「制御機能と言いますが、具体的にどのような機能なのでしょう。聞く限り、その機能はまるで、『パワードスーツ老人に人権はいらない』と声高に宣言しているようなものと受け止められるのですが」
 マツナガ支店長が「オオヌキ」と諭すように呼び掛ける。しかしわたしは食い下がるのをやめられなかった。
「わたしはこの一年、パワードスーツを着用した超高齢単身世帯とともに過ごしてきました。彼らの判断や倫理観はいたって正常ですし、造詣も深い。是正すべきはパワードスーツそのものやそれを身につける彼らのほうにあるのではなく、わたしたちの彼らへの向き合い方なのではないでしょうか」
 いい加減にしなさい! と支店長が怒鳴った。あまりに大声だったため、マイク越しの声は割れ、背後の席から聞こえる肉声が突き刺さった。彼によってわたしの声は強制的にミュートにされる。
「オオヌキさんと言いましたね」
 マネージャーが呼びかけた。
「あなたの発言ももっともだと思います。特に、公私の垣根を越え彼らと密接に過ごしてきたというあなたならなおさら。ですがその一方で、彼らと共生しなければならない、ごく普通の市民たちの身に迫るリスクについて考えてみてください。現に、彼らの暴走問題によって、家屋を破壊されたり、怪我をしたり、生活を脅かされている人たちも存在する。死人が出ていないのが奇跡なくらいだ。そのことをどう考えますか」
 ミュートにされ続けているから、わたしの声は届かない。たとえ解除されたとしても、わたしは喉の奥がぐっと詰まり、何も返すことができなかっただろう。

9.
 エントランスの前には大きな門松が飾られていた。むしろの中央から斜めに切られた三本の竹がすんと伸び、その周囲には松や梅の花が豪華絢爛に飾り付けられている。
 中へ入るのが億劫で、しばらく門松の前に突っ立っていた。置かれた状況によって、こんなにもめでたさを感じられない門松というのもあるのかと、冷静に驚いている自分がいる。ビルの影が落ちていっさい日が当たらないせいもあるだろう、正午だというのに鋭く冷たい辺りの空気を肺いっぱいに吸い込み吐き出しきると「よし」と小さく気を引き締めわたしはエントランスへ足を踏み入れた。
 中央には、すでに人が集まっていた。パワードスーツ老人を中心とした工事業者たちと、弊社やゼネコンなど再開発プロジェクトの元請け側の社員たちが静かに対峙している。
わたしは社員の列の一番端に立っていたダイキチの隣にそそくさと並んだ。目の前に立つパワードスーツ老人たちはすでにわたしたちへの不信感を募らせており、両腕を組んでこちらを睨みつける者や、片手を腰にあてて退屈そうに俯く者、腰を屈めて怪訝そうな上目遣いをする者など、思い思いの態度でこちらに向かい合っている。
 ぐるりと空間を見渡すと、天井には所どころ四角く切り抜いた穴があいていた。穴からは様々な太さの電線コードやケーブルが数十本ほど束ねられ、地面に向かってだらりとぶら下がっている。まるで巨大な生物の筋肉の繊維みたいだった。これから建てる支柱の壁にこれらのコードを這わせることで、コンセントや電灯と接続させるのだ。壁の四隅には寒さをしのぐため電気ストーブが設置されていた。
「本日はお集りいただきありがとうございます」
 口火を切ったのは昨年末の会議でプレゼンをしたプロジェクトマネージャーだった。彼はパワードスーツ老人たちのぎらぎらとした眼差しに物怖じせず、淡々とした口調で挨拶を続けた。それからわたしたちへ説明したのと同じ資料を奥の壁面に照射し、翌週から支給される新しいパワードスーツの機能概要について、政府の発表した方針とともに説明した。
「――と、堅苦しくお話したところで判然としないでしょう。本日はこの場で、新パワードスーツの着用方法と新機能について実演してみようと思います。そこのあなた、ちょっとご協力いただけませんか」
 彼はそう言うと、最前列に立っていた気弱そうな老人男性を手招きした。それからダイキチの名前を呼び、この男性が後ろのパーテーションで新スーツに着替えるのを手伝うよう指示をした。苦い表情を浮かべたダイキチは、マネージャーの足元に積まれた新スーツの一つを両腕に抱え、男性を連れてパーテーションの影に消えていった。
 数分後、わたしたちの前に戻ってきた彼は、一見すると旧スーツを着ていた時となんら変わっていない様子だった。何が変わったのかと小首を傾げる老人たち。しかし、マネージャーが背中を見せるようにと促し、彼がくるりと彼らに背中を向けた途端、はっと息を飲む音が聞こえた。頸椎から仙骨にかけてまで、背骨をかたどるように一本の鋼鉄製の外骨格がスーツの生地に縫い込まれていた。
「制御機能として今回スーツに大きな改修をかけた点は大きく二つ。一つは皆さんご覧いただきお分かりのように、この脊髄モジュール。そしてもう一つがスーツ内部に埋め込まれたチップです。パワードスーツを装着されるみなさんの身体に、あきらかな体温の急上昇や神経のたかぶりなどといった異常値が認められた場合、こちらのチップから我々プロジェクトメンバーに異常アラートが届きます。アラートおよび現場の実態の迅速な調査に基づき、危険な状況だと判断すれば、手元のデバイス装置から、異常検知したスーツの機能に制御指示を出すことが可能になります。制御をかけられると脊髄モジュールが反応し、着用者の動作を強制的に止めます」
 試しにやってみましょう。マネージャーは、今度はわたしに指示を出した。わたしは事前に頼まれていた通り、愛車に丸めて持ち運んできたマットレスを新スーツを着用した彼の前に起き、コロコロと平らに敷いていった。
 元の位置に戻ろうとしたとき、老人たちの列の一番後ろで集まりから少し距離を取り立つモモさんの姿を見つけた。彼女もこちらを見ていたようで一瞬目が合ったような気がしたが、「では、実際に今から機能を発動させてみます」というマネージャーの合図とともに、視線はすぐに逸らされた。 
 新スーツを着た老人が、がくりと両膝をマットレスに落とした。膝の甲板がマットレスの上でぼすんと鈍い音を立てる。老人が低いうめき声をあげる。それからぐっと前傾になったかと思うと、そのままうつ伏せになるように倒れた。老人は、ふんふんと勢いをつけ、何度も身体を動かそうとしている様子だが、起き上がるのは彼の頭だけだった。
「開発されたばかりですので、少々手荒な動作になってしまっておりますが、本プロジェクトが規定した異常数値の水準に到達しなければこのような機能を発動させることはございません」
 機能が解除されると、老人の身体が弛緩するのが見て取れた。わたしはすぐに彼に駆け寄り、起き上がるのを手伝った。
「……つまりあれか、俺たちが呆けちまったとあんたらが判断したら、こういうむごたらしい始末をするって脅すわけなんだな?」
 前列を掻き分けてマネージャーの前までずかずか歩み寄って行ったのはヨネダさんだった。歯糞を取る用に小指だけ伸ばした爪の先端をぐっとマネージャーの目の前に突きつけた。
「先ほども申し上げたとおり、我々としても政府の指示と受けたうえ、フィットコム社の開発要件に従ったまでですし、この機能の発動条件を満たす可能性は――」
「いい加減にしてくれ」
 ヨネダさんは社員の言葉をさえぎって両手を振り、マネージャーから引き下がると、一歩一歩重い足を引きずるようにして歩きだした。誰もが固唾を飲んで彼のことを目で追いかけていた。リノリウムの床に彼の足音だけがこだまする。
 ヨネダさんは壁に立てかけられていた鉄骨の前まで歩み寄ると、そのうちの一つを手に掴み、ゆっくりと振りかざした。
 まずい、と立ち上がった時には遅かった。
「もううんっざりだ!」
 ヨネダさんはそう叫ぶやいなや、掴んだ鉄骨をこちらに向かって投擲した。鉄骨は猛スピード放物線を描きながらマネージャーの頭上を通り抜け、窓ガラスを突き破った。ガラスの細かい破片があたりに飛び散り、それを合図とするかのように、ヨネダさんに触発されたパワードスーツ老人たちが次々と暴れはじめた。鉄骨を振り回して壁を殴打し、天井のコードの束にぶら下がり天井板を次々と引きはがしていく。落ちてきた天井が激しい音を立てて地面にぶつかり砂ぼこりが舞う。剥がれた壁から石膏ボードの粉も舞いはじめ、視界がたちまち悪くなる。辺りを探るように恐る恐る腕を伸ばそうとしたら、誰かが思いきり肩にぶつかり、そのまま地面に突き飛ばされた。
「オオヌキ! ここだ! 早く立て!」
 ダイキチがどこかで叫んでいる。起き上がろうとするも出口に向かって逃げる幾人かに背中を踏まれ激痛が走る。
「やばい! オオヌキ、上だ! 逃げろ!」
 見上げると、叩き割られた壁板がこちら目がけて倒れかかってきていた。このままだと下敷きになる。だけど足がすくんで動かない。思わず目をつぶろうとしたその時、空気を切り裂く音とともに目の前に人影が現れ、右ひじで壁を押しとどめた。セミロングのシルバーヘアが衝撃波になびいている。
「モモさん!」
 壁はなおもこちらに凭れかかってくる。モモさんは歯を食いしばって呻きを漏らしながら、じりじりと両足で踏みとどまり、左手も壁に押し当てると反動をつけて吹っ飛ばした。その衝撃でパラパラと欠け落ちた壁の破片がモモさんの左の義眼を強打する。身体をふらつかせる彼女に駆け寄ると瞼の下から血が滴り落ちていた。どうして、と呟くわたしに、左目を抑えたモモさんは「知らねえよ」と鼻で笑った。
「パワードスーツに勝手に動かされたのさ」
 部屋の四隅からもうもうと黒煙が昇り出し焦げた臭いが漂いだした。
「ストーブの火が移ったらしいな。煙を吸ったらまずい、出るぞ!」
 エントランスに残っていた人々はモモさんの呼びかけを頼りに俊足で出口へ向かった。

 日の暮れかかる空の下、ビルの周辺には人だかりができていた。
「おい、大丈夫だったか!」
 人だかりを掻き分けてダイキチがこちらに近づいてくる。顔じゅう煤にまみれ汚れている。
「こっちはモモさんの目が……そっちは?」
「大丈夫だ。幸いにも、中にいた従業員はみんなエントランスに集合していたからすぐに避難することができたよ」
 ダイキチは頭を掻きながら、他の人だかりと同じようにビルを見上げた。二階から三階の窓にかけて黒煙がもううと立ち込め、火はどんどん上階に向かっているらしい。さらによく見ると、ビルの裏手にある五反田公園の木々にまで真っ赤な炎がパチパチと音を立て燃え広がっているではないか。
「おいおい、木々に火が移っちまったらやべえぞ。一気に広がるぞ」
遠くの方からサイレンが鳴り響く。消防車だ。路肩に停まった車内から隊員が続々と飛び降りてくる。
「現場の責任者の方はどなたですか」
 消防士の隊長と思しき男性が、わたしとダイキチを交互に見て険しい表情で訊ねてきた。わたしたちは辺りを見渡したが、プロジェクトマネージャーの姿が見当たらない。
「野郎、ビルを出て真っ先にずらかりやがった……」
 ヨネダさんが背後から覚束ない足取りで近づいてくると、たちまち足元へくずおれた。
「すまない、俺のせいだ、こんなことになるなんて」
ダイキチは二、三度小さく頷きヨネダさんの肩を叩くと、消防隊の前に一歩踏み出した。
「はい、ぼくが責任者です。ぼくがずっとこのビルの開発を見てきました。今の状況を包み隠さずお伝えします」
 ダイキチの話に耳を傾けながら消防隊長はすかさず消防隊員、はしご隊員、火消しロボット隊に指示を出していく。各隊はそれに従い迷いのない足取りでビルへ向かっていった。
「オオヌキ、これは一体、どうなってるんだ……?」
 次によろよろとこちらへ近づいてきたのはマツナガ店長だった。隣にはヤドカリも付いてきている。
「見りゃわかんだろ、燃えてんのさ」
 モモさんが吐き捨てるように言った。あああ俺の昇格があ、とがっくり肩を落とす支店長にわたしとモモさんは呆れて顔を見合せた。先ほど渡したハンカチは真っ赤に染まり、モモさんの息が荒くなってきている。早く止血してもらわないと。車内の救急隊員に呼びかけ、応急処置を任せることにする。
「まずい」
 隊長との話を終えたダイキチが額から汗を噴き出して戻ってきた。日没寸前の暗い空を、燃え盛る炎が照らしていた。消防隊の火消活動は追いつかず、火は五反田公園と、老朽化した空きビルの蔦を伝い、どんどん住宅地の奥へ広がっているらしい。
「公園側は道が細くて救急車が入れないし、大通りのほうも路上駐車が多くて火事の場所まで近づけないらしい。火消ロボットなら入っていけるが、高台の木々を消すには高さが足りないんだ。……このまま行くと、五反田保育園が危ないぞ」
「もっと広がれば、池田山にまで及ぶ。あそこらの高級宅地は江戸時代からの継がれた古い木造建築の大名屋敷も多く残ってる」
「あの先にはNTT関東病院も、できたばかりの有料老人ホームだってある……」
「簡単な話じゃねえか」
 わたしとダイキチ、マツナガ支店長が輪になって頭を抱えていると、応急処置を終え左目を眼帯で覆ったモモさんが消防車から降りてきた。
「要は、消防車の入れねえような入り組んだ細い道から火元に近づいて、高所うえから水ぶっかけろってことだろ」
 前も言っただろ、あたしは高いとこが好きなんだ。モモさんはそう言って口角を持ち上げた。
「おい、いつまでメソメソしてんだ!」
 地面であぐらをかきがっくりと肩を落とすヨネダさんの背中を蹴った。
「あんた、このままでも良いのかよ。このままだと世間さまの言う通り、あたしたちは手も付けられない野蛮な呆け老人だと誤解されたままだぞ」
 小刻みに肩を震わせるヨネダさんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あたしはあんたのチャーハンがまた食いたいんだ。あんたはこのビルで、中華料理屋出さなきゃなんねーんだろ」
 ヨネダさんは「ちくしょう!」と叫びながら目をぬぐうと、「てめえら!」と人だかりの脇からこちらの様子を見ていたパワードスーツ老人仲間たちに呼びかけた。
「俺たちで燃え上がらせちまった火は、俺たちで落とし前つけてやろうじゃねえか! てめえの世話はてめえで見る、それがパワードスーツ老人の生き方ってもんだろうが!」
 彼に鼓舞された仲間たちがいっせいに「おう!」と拳を掲げる。
パワードスーツ老人あたたたちだけじゃないですよ!」
 すかさず、わたしも負けじと声を張り上げた。
「この暗いなか、どうやって入り組んだ路地を伝っていこうと思ってるんですか? 裏道・抜け道・近道、この街のことは不動産屋わたしたちのほうがよく知ってます」
「決まりだな」
 モモさんがわたしの肩に手を添えた。わたしはヤドカリに五反田駅近辺の地図を照射するように頼んだ。
「三手に分かれて攻めましょう。ダイキチはわたしのカエルに乗って国道一号――東側のほうへ回って、ヨネダさん率いる床・壁工事組を案内して。そして東側はヤドカリ。電気配線工事組を連れていく。……できるね? ヤドカリの遠隔操作はマツナガ支店長、お願いします。そしてわたしとモモさんは真ん中。公園沿いの道を突っきってのぼる。各自高所を確保出来たら、一気に炎上箇所に向かって放水してください」
「別にあたしは一人でも平気だって」
「モモさんは片目怪我してるんですよ。誰があなたの目になるんですか。これはそういう時のためにもらったメガネのつもりです」
 わたしがこれ見よがしにクイとメガネ中央のブリッジを持ち上げると、モモさんは苦笑して、周りのみんなも思わず声をあげて笑う。
「――航空救助隊のヘリが来るまでの、あくまでもサポートですからね。決して無理はしないこと」
 わたしが地図に手をかざしながら話していると、消防隊長が釘をさした。ダイキチがすでに話をつけておいてくれたらしい。
「そして消防隊員の無線機を必ず装着し、状況は随時報告してください。我々にとっては、あなたがたも大切な守るべき人命ですから」
 彼が一人一人と目を合わせながらわたしたちに無線機を手渡し、わたしたちもそれに無言の頷きで応える。
「では、ご安全に!」
 全員に行き渡ったところで、ダイキチの号令を合図にわたしたちはいっせいに動きだした。炎はいまだ消えず夜空に火の粉を焚き上げている。夜はすっかり深くなっていた。
 モモさんはビルの前に整列していた体長二メートルほどの火消ロボットを難なく抱えると、ビルの狭間に伸びる細い路地の前に立った。わたしがそれに追いつくと、突然ロボットを道端に置き、こちらを振り返った。
「どうしたんですか」
「手はロボットを抱えなくちゃなんないから、肩車でいいよな」
 わたしが問い直す間もなく、モモさんはすかさずわたしの股の間に身体を屈めると、あっという間に肩の上にわたしの太ももを乗せ、しっかりと地に足をつけて、おもむろに立ち上がった。
「全速力で行くからしっかり捕まってくれよ。モエ、道案内、頼んだぞ」
「はい!」
 わたしはぐっとモモさんの頭にしがみついた。瞬間、猛スピードでモモさんが駆け出し、身体が一気に引き寄せられて上半身がよろめく。それでもなんとかバランスを取り、冷たい夜風を顔で受け止めながら、わたしはモモさんに高台へ向かう最短ルート伝えていく。
 その時、わたしはふと、四歳の夏、祖母に肩車をされた時の言葉をようやく思い出した。
――モエちゃん、怖い?
 祖母はわたしのほうに首を向け、笑いながらそんなふうに訊ねたのだ。
――怖いと思った時は、足元を見ないで遠くのほうを見るの。ずっと、ずーっと遠くだよ。そうしたら見える景色が広がるから。おばあちゃんは、モエちゃんとこうやって遠くを見つめていると何にも怖くないんだ。
「モモさん、右手の石段をのぼってください! のぼりきった左手に、今は廃墟で取り壊しが決まっているマンションが建っています。その壁の外階段を伝って屋上まで行ってください! そこから放水すれば火の手の真下に届くはずです!」
「任せな!」
 モモさんはマンションの外階段の下で両足を深く沈みこませると一気に跳躍して三階の踊り場まで着地し、息つく間もなく十二階まで駆け上がった。空はうっすらと白みはじめている。眼下の木造邸宅に向け、炎が木々を伝いじわじわ迫ってきていた。
「床・壁工事組、高所を確保! いつでもいけるぞ!」
「電気配線工事組も着きました!」
 無線機からヨネダさんたちのひび割れた声が届く。
「よっしゃ、行くぞ、放水!」
 モモさんは再び跳躍すると、抱えた火消ロボットの砲口から激しい轟音とともに水がぶっ放された。その勢いでわたしの顎が彼女の頭にがつんとぶつかる。モモさんはそのままロボットを持つ腕を左右に動かし、広範囲に水を撒いていく。同じタイミングで東西からも大量の水が噴射され、滝のような白い線を描いているのが見えた。バラバラと大粒の水が頭上に降りかかってくる。
「すごい……なんか、雨みたい……!」
 空中を飛びながらわたしが呆然と呟くと、そんな大それたもんじゃねえよ、とモモさんが叫んで返した。
「ただの年寄りの冷や水さ!」

 ***

 急斜面の上り坂を、疲れを通り越して感覚がすっかり麻痺した身体を引き連れて駆けていく。ずぶ濡れの服からポタポタと足あとみたいに滴が地面に染みを落としていく。
「モモさーん! 遅いですよー!」
 後ろを振り返ったわたしは、早朝であることも忘れ、ずいぶん遠くでゆっくりと歩を進めるモモさんを大声で急かす。モモさんは何かぶつぶつと唇を動かした。
「えー? なに聞こえなーい!」
「うるせえなあ、こっちは疲れてんだよ」
わたしは彼女に背を向け、さらにずんずんと坂道を登っていく。呼吸があがり、吐く息が白く曇る。
登りきった場所からわたしはいつものように、五反田東部から高輪台にかけての街並みを眺めた。白に溶けてなくなりそうな淡く青い冬空の下、まだしんと眠りにつく低層住宅と、ぽつりぽつりと孤独にそびえ立つかつてのランドマークたち。
 やっとのことで追いついたモモさんが隣に並んだ。
「これからどうなっちゃうんでしょうねえ」
 わたしは頭の後ろで手を組み、あっけらかんとした口ぶりを意識して呟いた。
「まあとりあえず、戻ったら説教どころの騒ぎじゃないだろうな」
 モモさんは大きなあくびをし、目に涙を浮かべている。
「キモエこそ、どうするつもりなのさ。このプロジェクトが終わったら、五反田ここを出ていくとか言ってたじゃないか」
 よくそんなこと覚えているものだ。たしかに、新しい街に行くのも悪くはないだろう。でも。
「わたし、よすがマンションで冬のバーベキューをやりたいんです」
「やだよ、さみーじゃん」
「いいじゃないですか! 火おこし担当はマツナガ支店長にやってもらって、肉焼き担当はダイキチでしょ。ヨネダさんにはとっておきのチャーハン作ってもらうんです」
「あんたの担当は何なんだよ」
「決まってるじゃないですか。食べる担当ですよ。食べるの好きだもん」
「しょーもな」
「うそです。わたしの担当は東都不動産賃貸部五反田支店ですから。バーベキューの良い匂いで入居者を勧誘してやるんです」
 そうやって、この街をゆるく、少しずつ、つなげていく。
「バーベキューでまた火事だけは勘弁だな」
「その時は、またみんなでがんばって消しましょう」
「消した後は?」
「そうだなあ……」
「なにいい笑顔してんだよ」
 辺りが急にまぶしくなる。日が昇りはじめていた。

文字数:44678

内容に関するアピール

 不動産×超高齢社会がテーマです。

 実家が五反田の近くで小さな不動産会社を営んでおり、わたし自身も不動産業界に勤めていた経験があるため、この経験を活かした不動産の話をSFで書いてみたいと思いました。
 不動産業界で目の当たりにした問題のひとつとして、単身高齢のお客さんが保証人が見つからず部屋を借りられないということがありました。現実では歯がゆい思いをしましたが、小説で解決できる未来はないものかと模索した時に出てきたアイデアがパワードスーツでした。結果として、パワードスーツは彼らにとっていいものなのかどうなのか。パワードスーツを着て生きていくとはどういうことなのか。主人公オオヌキとモモさんと一緒にがんばって考えて書きました。
 少しでも何か感じ入ってくださるものがあればうれしいです。

 一年間、本当にありがとうございました。

 

 

文字数:365

課題提出者一覧