ホメーロス偽伝

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ホメーロス偽伝

ギリシャの叙事詩は元来、文字とは無縁のものであった。
                      『オデュッセイア』松平千秋訳
              
    
一  処刑場にて

紀元前九世紀。ギリシャ、アテネのあるギリシャ本土の真向かいにある、エウボイア島、カルキスでの出来事である。
 この日の主役は、受刑者となるアウロス。盲人である。年は、四十歳前後。登壇する首斬役人はアウロスより十歳ほど年上で、でっぷりと腹が出ている。アウロスは痩せ型の長身。
 刑場として代用した劇場の舞台に、二人が上ると観客たちのざわめきは静まっていった。すっくと立っているアウロスは、後ろ手に縄で縛られている。奴隷階級のような生成り色のたっぷりした布をまとい、腰のところを麻紐で締めている。足下は革の短靴。一方、首斬役人は、武勲輝かしい兵士のように青銅製の肩当てをたすき掛けの革紐で着けていて、腰に大きな刀を挿している。三角形にとがった青銅の鎧をかぶっている。長いブーツを履き、紐を編み上げている――。
 アウロスは劇場を包む静寂に心を打たれて、呆然と客席を見渡した。首斬役人の咳払いが響いた。とたんに観客は、合図したかのように、一斉に唸り声を上げた。盲目のアウロスの耳には、この怒声の中に、声の一つ一つが聞こえてきた。赤子の泣く声、同情する声、に加え、笑う声、が混じっている。その笑いにもさまざまな笑い――嘲笑、享楽の笑い、酒乱の笑い、泣き笑い――があり、興味深い、とアウロスは思った。アウロスは目を閉じて、その音の波に身を委ねた。目を開けたアウロスは我に返ると、ふとあることに気づき、首斬役人に向かって内緒話でもするように何かをささやいた。しかし、首斬役人は首を横に振った。
「だから、違うって云ってるでしょうに!」とアウロスは声を荒げた。
「間違っているのはお前のほうだ。囚人第九八二三六六七二四五三一七号よ」首斬役人が冷静に答える。アウロスはあきれた顔で言った。
「何度も言いますが、私の囚人番号は第九八二三六六七二四五三一八号です。第九八二三六六七二四五三一七号ではありません」
「ばかもん! 囚人番号は、ちゃんと羊皮紙に書いてあるのだ。そんな減らず口がきけるのも、あと少しだ。舞台の真ん中までさっさと歩け」
 首斬役人は刀の束で、アウロスを小突いた。アウロスはあきらめて、よろよろと歩みを進めた。
「書かれたものが、正しいなんて、誰が言い出したんだ」
 神々しい朝日が劇場全体に斜光を投げかけている。アウロスは見えない目で、処刑場となる舞台全体を眺め渡した。この街はこの時間になってもまだ、昨晩からの結婚披露宴の大騒ぎの余韻をそこかしこに引きずっているような気がした。割れた酒壺が散らばり、ぶどう酒の匂いがそこかしこに立ちのぼっていた。
 レンガを積んで作られた扇形の劇場には、観客がぎっしり詰めかけ、これから行われる処刑の瞬間を心待ちにしていた。場外にも人だかりがあふれ、そこでは出店が出て、たとえば、玉細工師が文字を刻み込んだニセモノの水晶を売っていたり、捨てられ野ざらしになっている羊皮紙が点々と続いているのを拾って歩いている男もいた。劇場の向こうに見える広場の端に立っていた樹には牛がつながれ、その横で牛飼いが眠っていた。牛はその潤んだ漆黒の瞳で、過去の栄光の時代から、この処刑の成り行き、そして、未来永劫までを知り尽くしていて、すでに消化しきっているかのような超然とした態度で、首をもたげて寝そべっていた。
 観衆の最前列には、ペリオン王太子が、護衛とともに、新妻を連れて立っていた。
 二人は昨夜、結婚の宴を済ませたばかりだった。朝まで続いた結婚披露宴の喧騒に、新郎新婦の二人も疲れ切っていた。王太子の後ろに立つ新妻クリュタイムネストラは眉根を寄せ、目には涙を光らせていた。王太子は、口を真一文字に結び、腕を組んで仁王立ちしていた。王太子が、クリュタイムネストラに向かって何かをささやいたが、壇上のアウロスはそれを聞き逃さなかった。王太子は舞台を睨みつけていたが、こうつぶやいた。
「さっさと、済ませてくれよ…頼むから」
 王太子のその言葉にクリュタイムネストラはきつく目を閉じた。
 アウロスは小さく何度かうなずいた。
「さあ、ご託は終わりだ。刑の執行にうつるぞ」
 アウロスは縄をほどかれ、膝をついて中腰の姿勢になる。手は後ろに組んでいる。首斬役人はふところより白い布を出して言った。
「目隠しはいるか?」
「できましたら、目隠しはなしでお願いいたします。この青い空、山並み、遠くにみえる屋根に日光がきらめく・・・・・・それをわが心に抱きながら旅立たせていただきたいのです」
「諒解した」
 盲人のくせに…という言葉は口にせず、首斬役人は、白い布を懐へ押し込んだ。刀を腰から引き抜いた。大上段に振りかぶって構えると、客席に向かって叫んだ。
「では、始める」
 観客たちは総立ちになり、怒声と歓声とを一斉にあげたが、それは一つの獣のようだった。アウロスは舞台中央に直立したまま、観客席をまっすぐに見ている。首斬役人は続けた。
「囚人番号第九八二三六六七二四五三一七号! の刑をこれより執行する!」
 ここで、声のトーンを落とし、アウロスに向かって言った。
「最後にひと言だけ、なにか言い遺すことはあるか? 辞世の言葉を皆に伝えることができるが」
「いえ、とくにありません。とっとと済ませてください」
「潔いやつだ。では参る。目を閉じよ」
 刀を更に大きく振りかぶった。そのとき、突然アウロスは、何かに気づいたように頭を上げ、声を張り上げて叫んだ。
「だんな! やっぱり、辞世の言葉を一つだけ!」
 首斬役人は刀を上段に振りかぶったまま言った。
「なんだ、いまさら!」
「ザキュントスの一族よ! よおく聞けい」
 アウロスは、声を張り上げた。
「なんと無礼な! 黙れ!」
 アウロスはかまわず叫んだ。
「私の叙事詩は、今日限りに滅ぶ。文字に書いても、だ! それを忘れるな」
 王太子が舞台に上がってきて言った。
「とっととやるんだ! 情は無用だ」
 王太子の声だった。クリュタイムネストラが不安げに見守っている。
「早く、しろ」王太子は吐き捨てるように言うと、壇上を降りた。
 首斬役人は、素早く立ち上がると、大剣を大きく振りかぶった。
「もう話は終わりだ。刑の執行にうつる。覚悟しろ」
 アウロスはぎゅっと目を閉じて、頭を垂れた。
 客席は静寂に包まれた。首斬役人は、観客たちが自分を見ていることを確認すると、刀を振り上げ大きく息を吸い込んだ。
 首斬役人は、ひとりごとのように、こうつぶやいた。
「では、永遠に口を閉じよ。盲人よ」

 

 

 

二  語り部の一族   

アウロスは、語り部だった。
 ラプソードスと呼ばれる語り部で、竪琴弾きだった。
 エーゲ海で一番大きな島、クレタ島のすぐ北に位置する、
 小さなイオス島に住む族長の息子で、
 竪琴弾きであった。
 族長の息子で竪琴弾きのアウロスは、生まれつき視力が非常に弱く、
 イオス島に住んでいた。
 アテネからもスパルタからもはるか遠いイオス島に住む族長の息子、
 それがアウロスだった。
 しかも、アウロスはなんと、
 生まれつき視力が弱かったのである。
 母のモイネリアスはアウロスが赤子の頃、
 息子の黒目がいつまで経っても自分の顔に焦点を結ばないことで、
 息子の将来を毎日のように嘆いていた。
 したがって、祖母のエリオピスもまた、モイネリアスと同じく、
 族長としてのアウロスの将来を案じていた
 それは、孫の視線が自分に焦点を結ばなかったからである――。

イオス島メレース村の語りは、このように繰り返し、行きつ戻りつ語るのが通例だった。なぜなら、イオス島ではこの二百年の間で、すっかり文字の使用が失われていたからである。言葉は人の体内にしかなく、空間のどんなところにも視覚化されず、存在自体しなくなっていた。
 クレタ島のミノス文明、そして、ギリシャ本土由来のミケーネ文明など、ほとんど一夜、といっても良いほどの速度で、完全にその姿を消してしまっていた。かつてエーゲ海いったいで繁栄を誇った線文字は、後世に伝わることなく絶滅してしまっていたのである。いわゆるカタストロフである。
 それから、二百年、暗黒時代のさなか、イオス島の廃墟の中から生まれたのがこのメレース村だった。したがって、母のモイネリアも、祖母のエリオピスも、その母すらも、文字というものの便利さも、恐ろしさも、香りさえも知らずに育ち、そして、知らないままに死にゆく運命にあった。
 この一族は後に、〈声の一族〉と呼ばれた。
 この声の村は契約であれ、婚姻であれ、商売であれ、何かに書き付けて残すということを習慣とせず、生活全ての意思疎通を声と記憶とだけによって済ませていた。とりわけ記憶力に長けたアウロスの家は代々、村の族長をつとめ、村の尊敬を集めていた。書きつけることを知らない彼らは、後の世の人々にはもはや想像もできないやり方で記憶していたが、一方、新しいものを受け入れる寛容さに貧しく、保守的でもあった。

エリオピスはしわがれた手のひらで、よく、沐浴をすませたばかりのアウロスに香油を塗ってやっていると、幼いアウロスは口を縦に開いて歌い出したものだった。笛が鳴るように澄んだ声だった。
「おばあちゃまは、いい香り―」
 エリオピスは目を細めると、声色をまねて復唱した。
「おばあちゃまは、いい香り―」
「まねしないでよ、もう」
「この子の、声は、いったいどこから出てるのさ」
そう言うと、髪を拭くため、孫に麻布を頭からかぶせて、ぎゅっとだきしめた。
「ここから出てんだよ」
 麻布の中で、アウロスは自分の眉間を指していた。
「そりゃ、あたしのセリフさ、マネすんじゃないよ」
 そう言ってエリオピスは、アウロスの眉間を人差し指で押すと、アウロスはケラケラと笑った。抱きしめようとする祖母の腕の間から抜け出して、アウロスは笑いながら裸のまま走って逃げていった。
 アウロスは、類まれなる鋭い耳をもっていた。ラプソードスの末裔であるアウロスの能力は、一族のなかでも特別だった。アウロスは、母、祖母より、幼い頃から、先祖より伝わる物語を繰り返し聞かされて育ったが、その耳の良いことと言ったら、それがどれだけ長い場面であっても、聴いた物語はたった一回で覚えてしまうというほどだった。しかも、語られる物語に耳を澄ませている間に、聞こえた扉のきしむ音や開け締めの音、チーズ売りの呼び子の声、鳥の声、風の音、葉ずれのさざめき、あるいは、庭のオリーヴの木の熟れきった果実が地に落ちる音がいくつ聞こえたかなどまで含めて、聞こえたものは完全に記憶していて、物語とともにいつでも思い出すことが出来た。
 アウロスが子供の頃覚え始めたのは、祖母から受け継いだ物語だった。最初に覚えた短い物語は、勇者が、魔女の島へ幽閉された後、命からがら脱走する冒険譚だった。長じていくに従い、次第に、長いものを覚えていった。勇者は戦争帰りの智将であるとか、妻が長い帰りを待っているとか、その息子が迎えに旅立つとかのエピソードが加わっていく。それは歌のようにしか聞こえなかったものの同時に長い物語でもあり、このようなリズムに載って話されたのである。

ドーン、ドードー
 ドーン、ドードー
 ドーン、ドードー
 ドーン、ドードー
 ドーン、ドードー
 ドーー、ドーー

これは英雄がゆったり歩む足音のようでもあり、あるいは、神々の歩行でもあった。
 長短六歩格ヘクサメトロスと呼ばれるこの形式は、長音と短音を組み合わせることで、英雄詩にふさわしいリズムを与えていた。彼ら「ラプソードス」の一族は、互いに対話の中で掘り起こされた描写やエピソードを豊かに含みながら伝承された物語を、頭の中で記憶し、再構成して、また一続きの物語として語ったが、アウロスは、このような深堀りによって追加されたエピソードや描写や細部などをことごとく記憶していたため、余すところなく物語の要素として覚え込んだ。それゆえ、アウロスの体内にある物語は自然と長大化し、音韻や修辞は複雑さをきわめ、語り芸術としての完成度を高めていった。最初は、夕食後の沐浴後、香油を体に塗っている間に語り尽くす程度の短さだったのが、毎夜毎夜自分自身で語り返すうちに、物語を編み直し、いつしか、壮大な叙事詩へと変貌させた。そして、十年以上もかけてついに、語るに七日間を要するほどの大叙事詩を編み上げた。
 アウロスは二十歳を迎えていた。背丈は、大柄の祖母をはるか昔に追い越し、村で一二を争うほどだった。
手足も長いが、とりわけ指の一本一本がしなやかで、詩を語るときに両手を開くときには蓮の花が開くようであり、握りこぶしをつくるときには火の灯った蕾のよう、指一本を立てるときには輝く一角獣の角のよう、そして、竪琴を爪弾くときにはアテネの薔薇持てる指先を思わせるがごとくに、聴く者見る者を魅了したのである。

 

 

 

三  牛頭の刺青

老境に差し掛かった父に変わり、二十五歳となったアウロスは、いよいよメレース村の族長となったが、まだ嫁をめとってはいなかった。視力は更に弱まり、そのことを気にかけていたため、村のどんな世話焼き婆の紹介も受け付けなかったせいである。アウロスが就任の挨拶のため、サトゥルヌス祭の舞台に立ったとき、すでに百歳をゆうに越えていた祖母は大変喜んだ。盲いた老婆と、視力の弱いアウロスの間には、声だけがあった。アウロスが、この大きな劇場ではじめて、あの大叙事詩を村人の前で披露すると、エリオピスは満足げにうなずいた。
「わが一族は、ついに黄金を生み出したのかね。この声が、このまま消えるなんてこと自体、奇跡のようさ」
 七日間に渡って繰り広げられた語りは、若いラプソードスたちをはじめとする、村の聴衆たちの耳に深い霊験を与えた。
 だが、運命の風は、まるで群狼のように、すでにこの村を取り巻いていたことに、誰も気づいていなかった。
 七日目の終演直後のこと。聴衆にまじっていた見知らぬ男がこう叫んだのである。
「その物語をくれないか? おれに」
 アウロスは、驚いてその男をみた。男は浅黒い肌をもち、筋骨たくましいその上腕と、髪型から、島から島を行き来している別の国の船乗りのようだった。だが、船乗りにしては、不思議な威厳を備えていて、実際、耳や首周りに、宝飾品をつけていた。
「あげることはできる。聞けば受け取れる」
「いいや、羊皮紙に書いてくれ、と言ってる」
「〈かいてくれ〉って、どういうことだ?」
 今度は、男のほうが怪訝な表情をした。そうして、ふっと自分だけが納得したような笑みを浮かべ、独り言をいった。
「そうか。ここも、声の村か…」
 男は、舞台に上ってくると、アウロスの目の前に、握りこぶしをかかげた。
「おまえさん、ことばを見たことはあるかい?」
「ばかをいいなさんな」アウロスは笑った。
「ことばは、どこにも存在しない」
 男は表情をかえずに、こぶしを更に掲げ、その手に力をこめて、言った。
「ことばは、見えるものだ。見えるから、書ける」
「かける?」
 男は、アウロスにはこたえず、握りこぶしをゆっくりと開いていき、指を広げ切ると、手のひらをアウロスに見せた。
「よく、みえないんですよ、私には。失敬」
 アウロスは、男の手を両手で握ると、引き寄せて、目のぎりぎりまで持ってきた。その掌には、刺青が入っているのだった。
「これが、〈ことば〉だ。」
「何か、かかれていますね。牛の頭のような…絵ですが」
「これが、世界を統べる」
 アウロスは、周りが止めるものきかず、興味津々で、そのあやしい男を邸に招き、晩餐を催した。なんとも落ち着かない気持ちになっていたからだ。
 男の名は、ペリオン=ザキュントスと言った。男は掌に入れていたのと同じような刺青を、首と腕にも入れていた。その男の生まれた場所はコロポーン村だという。その男は遠い村や国の話を始めた。日が暮れてしまったので、話は翌日に持ち越されることになった。男は邸を出ていった。男は去り際に「物語は、書かれねばならない」とも言った。
 アウロスは、よそ者の話に興奮し、月夜にさまよい出た。村の果てまで歩きながら、〈書かれた物語〉の内容を想像して、ひとり朗唱してみたりした。それに、この物語が書き記されているさまを夢想した。
 どうしてもわからないのは、この物語がどうやって絵で語り尽くせるのか、ということだ。
 絵になったところで、どうやって読むのだろう。目の良い人間なら、それが可能なのだろうか。絵が語りだすのだろうか。アウロスは悶々としながら、村のはずれの森に入り、手頃な樹木を見つけて、そこに、小刀で引っかき傷をつけた。男の掌にあった文字を、書いてみた。牛の頭を逆さにしたような文字だった。とげとげした引っかき傷を指先でなぞってみたが、どうしてもこれが声を発するとは思えないのだった。
 森を出て、邸のほうに戻っているうちに、あたり一面燃え盛っていることに気づいた。
 村じゅうの家屋や倉庫が炎に包まれていた。
 馬や牛があたりかまわず暴れ狂っている。アウロスは真っ赤に染まった視界の中を走りに走った。女子供の泣き叫ぶ声と、騎馬隊のような足音が轟いていたが、それが遠のいていくにしたがい、村に静寂が戻った。パチパチと火が弾ける音だけが、さみしく聞こえている。よろよろと邸にもどると、焼け野原のなかで、エリオピスの遺骸を見つけた。他の死体と同様、喉が掻き斬られていた。語り部の村の声という声をすべて根絶やしにしていた。血と焦げた匂いのする祖母を抱きしめると、かすかに、あの香油の匂いがした。
「なぜ、こんなことが…」
 枯れたうめき声が、アウロスの喉から漏れ出た。そして、さめざめと泣いた。
 数頭の馬の足音が戻ってきたので、アウロスはとっさに柱の陰に隠れた。男の声がきこえた。彼は依然として何かを探し回っているようだった。アウロスは更に身を潜めた。
「王太子様! 見つかりません!」騎馬隊の部下が言った。
「よく見たのか? まだ、そのあたりに潜んでいるはずだ。よく探せ」
「ですが、ゴルギウス王のご側近が船でお待ちです。急がねば」
「王のご機嫌など、いちいち気にしてられるか。徹底的に殲滅するのだ」
「で、ですが、王のご命令は、ぜったいです」
「ほっておけ。朝になるにはまだ時間はある。族長の邸は、調べつくしたのか? 残党は残らず殺し尽くせ。このあたりでは、この村が最後の〈声の村〉だ」
 あの男の声だ。騎馬隊はあたりを長い槍で突き刺しながら、しばらく検分を続けていたが、空が白む頃、男たちが勝どきを上げた。朝日が照らし出した村は、アウロスをのぞいて、全員殺し尽されていた。
 アウロスは邸の倉庫の焼け跡を掘り起こした。青銅の箱に入ったそれは略奪を逃れた短剣だった。
〈わが喉を掻き切る覚悟にて用ゐるべし〉
 この戒めとともに一族に伝わってきた剣だった。
「すでに、みんな、掻き斬られてしまった」
 アウロスは、短剣を額に当て、朝日に向かって復讐を誓った。旅支度を整えると、視野に残るわずかな光だけを頼りに、よろよろと歩き始めた。海岸に出ると、すでに船出した軍船が遠くに点のように見えた。アウロスは、小舟に乗り、紺色の海に漕ぎ出した。
「ゴルギウス王よ、牛頭刺青のザキュントス一族の王よ。私は、その名を覚えている」

 

 

 

四  銀髪の少年  

アウロスがコロポーン村にたどり着くと、そこもまた焼け野原になっていた。あの男の生まれ故郷だというのは嘘だった。あちこちで煙がのぼり、死体が転がるいたましい景色が広がっていた。
 炭のようになった瓦礫の中から泣いている声が聞こえる。灰を掘り返すと、青銅製の蓋がある。蓋をあけると、地下へ降りていく階段があった。アウロスは、手探りで、暗闇の中に下りていった。
 階段をおりていくと、泣き声は次第に大きく聞こえてくる。まだ声変わりする前の、男の子のようだ。
 階段の上からわずかに差している光が、少年の頭を照らすと、銀髪が光った。
「こ、こ、ころ、さ、ないで」
 アウロスは、無言で一歩ずつ近づいた。
「こ、こ、こ、ころさ、な、いで…」
 少年は、うつむいているようだった。アウロスは、暗闇の中にあてずっぽうに手をのばした。少年は身をちぢこまらせて、体を引いた。
「お母さんは? きみはひとり?」
「おかあ、さは、や、槍で、喉…を」
「お父さんは?」
「おと、さも、や、槍で、喉…を」
 アウロスは、それ以上近づかず。その場に座り込んだ。少年がしくしくと泣き続けるのをずっと聴いていた。
「私の村も、焼かれてしまったよ。同じだね」
「お、お、なじ」
 食べ物と水を与えて落ち着かせると、少年は、とつとつと、自分の話を始めた。後に、彼がこの村の、たった一人の生き残りだったことがわかった。少年は、未来を託され匿われた、このコロポーン最後の語り部ホメーロスだった。
 しかし、彼は襲撃のショックで強い吃音を患ってしまっていた。
 ホメーロスによれば、村を襲った者たちの多くは異国の奴隷だったが、それを率いていた一団は、背中に矢筒をさした歩兵が中心で、牛頭の絵を刺繍した旗を掲げていたという。
 アウロスは、イオス島の自分の村が襲われた日のことや、祖母の在りし日の面影を、詩にのせて、語り始めた。その詩は、風の神ヘルメスが島に村を誕生させた日にさかのぼり、詩神ミューズたちを招いて祝宴をあげた話へと展開した。銀髪の少年は、泣くのをやめ、アウロスの語りに聞き入っていた。少年は吃音につまりながらも、ときおりアウロスの言葉を復唱しようとして、小さくつぶやいた。
「あ、あなた、し、し、詩の…か、神だ」

アウロスとホメーロスの二人旅が始まった。
 エーゲ海の島々を、小舟で漂いながら、アウロスは、牛頭刺青の一族の消息を追いかけていた。ホメーロスは、アウロスと違って、物覚えがわるく、教えられた言葉も、ましてや、物語もすぐに忘れてしまった。アウロスは、自分にはかんたんにできることがホメーロスには出来ないことに苛立ったが、苛立てば苛立つほどにホメーロスの吃音がひどくなることに気づいてからは、この少年が一人で生きていくための方策を真剣に考え始めた。島に上陸すると、吟遊詩人の仕事をなんとか探し、ときには奴隷同然の雑用や肉体労働もやりながら、なんとかホメーロスを育てていった。
 いらいらや疲れを、ホメーロスにぶつけることも増えてきた。アウロスに叱られたホメーロスは、よく灰の地面に指先で絵を描いていじけるようにして自分を慰めていた。この絵は次第に上達をみせ、ホメーロスの思考を助ける道具へと進化していった。ホメーロスの物覚えのわるさが、絵によって補完されていくのを、アウロスは哀しくも、仕方がないと感じるようになった。アウロスはあらためて、物語を教えていったが、ホメーロスは、それを場面場面で絵にかくことで、記憶のよすがとしていく方法を覚えた。
「が、がん、眼光、す、す、鋭き、ア、ア…テネ、が」
 ホメーロスはたどたどしく物語を語りながらも、指先のほうは対照的に、雄弁そのものに、物語世界を展開させていくのだった。ホメーロスの背丈が伸びていくのに従って、アウロスは、より長い物語を教え込んでいった。ホメーロスが声変わりをするころには、英雄叙事詩のいくつかも、断片的に描けるようになっていた。
 そんなある日、テラ島に逗留していたときのこと。
 ホメーロスが息を切らせて走ってきた。
「あ、あうろっっっふ」
「どうした?」
「で…でき。た。きて。きて。」
 ホメーロスは、アウロスの手を引いて、海岸のほうへ連れて行った。ホメーロスは、息を弾ませて道を急いでいた。ホメーロスがこんなふうに目の悪いアウロスの手を引いて歩くことは日常のことだったが、こんなに急いで手を引いていくのは初めてだった。
「おいおい、いったいどうしたんだ、はっは、ちょっとまってくれ」
 浜辺に出た。紺碧のエーゲ海を背景に、強い陽光に照らされ、アウロスの目にもうっすらと見えた。長い長い海岸線をいっぱいに使って、砂浜に描かれた絵だった。横へ横へと展開していく巨大な続き絵は、アウロスの物語を語っていた。
「あうろっふ、の」
「わたしの…物語?」
 ホメーロスは、髪が跳ねるほどの勢いで、大きくうなずくと、にんまりと笑顔を浮かべた。アウロスはおもわず、ホメーロスを抱き上げた。
「すごいぞ! すごいぞホメーロス!」
「ぜぜ、ん、ぶ」
「え?」
「あうろっっっふ、の、ぜ、ぜんぶ」
 果たして、この砂浜に描かれた物語とは、アウロスの作った英雄叙事詩の、ほとんど全体であった。ホメーロスは、絵を描くことで、自尊心を育めている。アウロスにはそれが嬉しかった。
 アウロスは、ホメーロスの長い絵をもとにして、長短六歩格の音韻をふむ雄大な叙事詩を、更に紡いでいった。ホメーロスは、アウロスによって語られる物語をききながら、まるで、自分の描いた絵がひとりでに声を上げて語りだしているような錯覚をおぼえ、身を震わせた。
 アウロスは、ホメーロスの理解者として、慈父のように彼に接した。絵だけに頼らず、少しずつでも吃音に向き合うことを教え続けた。ホメーロスは吃らずに話せたときには、大いに自尊心を回復した。アウロスに近づきたかったからである。
アウロスが三十五歳の壮年を迎えていた頃、ホメーロスは十八歳、長い銀髪を風になびかせる、美しい青年に育っていた。

 

 

五  かくしごと  

二人は、牛頭刺青の一族を求めて、島から島へと、酒場から酒場、宮廷から裕福な商人の家を流れながら、吟遊詩人の仕事を見つけ、食いつなぎ、旅を続けた。物乞いに身をやつしたことも、一度や二度ではなかった。ボロを着て、放浪の民となった二人、とりわけ、盲目の吟遊詩人に対して、世間の目は冷たかったが、ホメーロスの青い瞳と銀色の髪が目を引き、有閑階級の子女からの依頼仕事にありつけることもあった。そうこうして、クレタ島に着いたときには、もうすっかり日が暮れていた。かつて威容を誇ったミノア文明も、この暗黒時代にあっては、クノッソス宮殿の廃墟のなかにその残滓をとどめているに過ぎなかったが、依然としてエーゲ海で最大のこの島は、今も行商人や兵士たちが周辺の島々から集まり賑わっていた。アウロスとホメーロスは、街のはずれに酒場を見つけた。
 店内はすでに混み合っていた。二人は店の奥にあるテーブルに座を構え、ぶどう酒に加えて、肉の皿をいくつかを注文した。ホメーロスは、運ばれてきた大きな牛肉の塊を鉄串で突き刺して、何かを言おうとした。
 アウロスはそれを制して言った。
「食いたいだけ食え。次はいつ食えるかわからない」
 この日のアウロスは、小銭を稼いだ直後だったことと、稀に見る大きな街にたどり着いたことで、いつになく気前がよかった。
 アウロスは、今度は料理長に向かって叫んだ。
「だんな! 豚のカシラ肉などの内臓類はあるかい? とにかくホルモンいりのでかいソーセージをお願いしますよ。とにかくでかいソーセージを!」
 料理長は得意げに答えた。
「ガリアとアラゴンからハム、イオニアからセラーノとパタ・ネグラまで揃ってますぜ。黒足の野生豚で猪に近い上質なものですぞ」
「どんどん持ってきてくれ。ところで、酒はあるのかい?」
アウロスが酒に弱くなっているなどと、ホメーロスはまさか思っていなかった。料理長がもってきた酒がいけなかった。料理長が密かに確保しておいた例のキオース島のぶどう酒をここぞとばかりに抜栓してくれたのだった。ここまで飲まず食わずの状態で過酷な責務を遂行し続けてきたアウロスにとってこの一献は疲れと空腹で枯渇した身体に隅々まで染み渡ったことだろう。芳醇で濃厚な味わいをもつ伝説の美酒はあっというまに底をついた。
「たまには、いいだろう、私だって、酔いたいときはある」
 一瞬の気の緩みが大雪崩を起こした。判断の是非もなくアウロスは、ぱっくり口を開けたかと思うと獣のように肉をむさぼり美酒に酔いしれ、次第に我を忘れていったのだ。
 そのとき、ホメーロスが、アウロスの衣服の袖を引っ張った。
「う、し。牛、牛の、あたま」
「わあってるさ、わあってる」
 それだけ言うと、テーブルについていた肘から崩れ落ちるように臥せってしまった。
 ホメーロスはまた、アウロスの袖を引っ張った。今度は二回、三回と。
「ち、ちがう。あで。見て」
 アウロスは目をあけずにテーブルに伏せている。口をむにゃむにゃさせていたかとおもうと、そのまま寝息を立て始めた。
 ホメーロスは、ほとんどひとりごとのように、ささやいた。
「牛、の、頭。あの日と、おんなじ、の」
 入り口から三人の護衛を連れて、身なりのいい男が入ってきた。ホメーロスはしばらくぽかんと見ていたが、ゆらゆらと立ち上がった。
 眠りこけているアウロスの脇にある鞘から短剣を抜き取ると、テーブルに飛び上がった。テーブルからテーブルを飛び歩き、店の奥から入り口のほうまで猛然と駆けた。入り口付近で大きく跳ね、短剣を逆手に構えて振りかぶると、そのまま男に飛びかかった。
「ザキュントス!」
 ホメーロスは、この十年の間、この名を呪文のごとく每日每日唱えていたが、それも、まさに今このときのためといえるほどに、流暢なものだった。
「くせ者!」
「王太子さま!」
 護衛の者たちが動いたのも遅かった。
 ホメーロスは、あっというまに王太子と呼ばれた男に馬乗りになって組み伏せ、首元に短剣の切っ先を当てた。護衛の男たちは、囲むと口々に叫んだが、ホメーロスは男を睨みつけたまま、ぴくりとも動かない。
「動けば、さ、さ、さ、刺す」
 ホメーロスは、店が崩れるほどの音声で叫んだ。
「おおおおお、ペリオン王太子よ! ザキュントスの一族よ! この卑怯者よ! イオス島の悲劇を覚えておるか! そして、コロポーン村の炎を! われらこそ、その末裔にして復讐の長槍! 姑息な小動物め、いまこそ覚悟せよ!」
「無礼者!」
「きさま!」
 護衛の男たち三人が、ホメーロスに襲いかかろうと、一斉に抜刀して身構えた。
「おまえたち、まあ待て」
 ペリオン王太子は、ホメーロスに組み敷かれながらも落ち着き払っていた。
「あのコロポーンに生き残りがいたとは不覚だ。おれは、王の命で、諸国を征伐して遠征してきた。お前の村を焼き払ったのは気の毒だが、恨みがあったわけじゃない。従わない国を平定しただけのことだ」
「お、お、おまえは、ころした」
 ペリオンは平然と言ってのけた。
「ああ、ころしたさ」
「ぜ、ぜ、んぶ、ころした」
「そういうものだ。戦争だからな」
 こいつのせいで吃るようになったんだ。怒りのせいで頭がくらくらした。
 そのとき、ホメーロスの目が泳いだ。
 ペリオンはそのスキを逃さず、ホメーロスから短剣を奪い、仰向けになったままホメーロスの胸のあたりを斬りつけてきた。ホメーロスは上体を反らせて間一髪刃先を逃れたが、上衣だけが裂かれた。ペリオンは立ち上がり、さらなる一突きを繰り出してくると、ホメーロスが上体を低くして怒り狂った猪のごとくに突っ込み、ペリオンの腰のあたりに体当たりをぶちかまし、店の扉を派手に鳴らして外に弾き飛ばした。ホメーロスは店外に飛び出ると、立ち上がろうとするペリオンに飛びかかり、店の前でもみ合った。護衛の男たちも、外へ追いかけていく。
 店内の客たちはおびえ、外の物音に耳をすませていた。居酒屋の店主が、壁づたいにそろそろと出口へと歩いていき、店の外をのぞき見た。
 店主のみたところ、護衛の男たちは三人とも、血を流し、白目を剥いて伸びていた。その向こうで、止め絵のようになっている二人の姿がみえた。仰向けに倒れているのは王太子と呼ばれた男、そこに馬乗りになっているのは、銀髪の青年だ。短剣を逆手に握って、振り下ろそうとする腕を、ペリオン王太子が握り、留めている。力の拮抗は徐々にホメーロスの優勢となり、短剣の刃先は王太子の首筋に描かれた牛頭刺青に触れるところまで近づいた。
 ホメーロスは、左手で男の喉元を押さえつけていた。左手の下には、金属製の硬い何かがあった。ペリオン王太子が身につけているものようだ。ホメーロスは王太子の衣服の上から乱暴にそれを握った。
 ペリオン王太子は言った。
「青年よ、よくおぼえておけ。おれを殺しても、わがカルキスが、〈アブジャド〉によって、全エーゲ海を掌握するだろう」
 ホメーロスは、躊躇なく、短剣を進め、首を掻き切った。そして、返り血を避けるため、冷静に飛び退いた。吹き出す血を眺めながら、ようやく、アウロスから聞かされていた〈短剣の戒め〉が脳裏をよぎった。血が一通り流れると、ホメーロスはペリオンのもとにひざまずいて、その死を確認した。ペリオン王太子が懐に入れていたのは、鉄製のブローチだった。革紐で編まれた首飾りの先に、鉄製の小さな丸い板がついていて、そこには直線と曲線だけで書かれた、羊や壺のような、指先ほどの小さな絵がいくつか並んでいた。革紐を引きちぎって、血に染まったその絵を指先で拭った。
裏をかえすと、そこには、頭に白い花を差し、紺色のドレスを着た姫が描かれていた。ホメーロスは、しばらく見つめていたが、それを懐に仕舞うと、店の客たちが野次馬のように出てきたので、走り去った。

港までくると、島にやってきた小舟で寝転び、星を眺めていた。全天空が、北の空を中心にして、ゆっくりと回っているような気がした。ホメーロスは懐からブローチを取り出し、月明かりに照らしてそれを眺めた。汚れをふきながらじっと見ていると、次第に胸のうずきを感じた。裏面にあるのは、女の名前か? 王太子は、「かかれている」と言った。ホメーロスは、これが女の名なら、読みたい、知りたい、と思った。これが、アブジャドか?
 ざっざっと足音がきこえたので、ブローチをしまい、身構えた。
 アウロスだった。ホメーロスは、舟から飛び降りて、駆け寄った。
「ホメーロス、ここにいたのか。店先はえらい騒ぎだったぞ。死人まで出たとかで。盲の私をおいて、いなくなるなんて」
 ホメーロスが舟を降りて駆け寄ると、アウロスはホメーロスを両腕で抱きしめてやった。
「おまえ、血の匂いがするぞ。けがは??」
 そう言って、体を引き離して、手で探った。血はどこからも流れていない。
「お前が、喧嘩したのか?」
「に、に、逃げて、った」
 ホメーロスは、おもわず、嘘をついた。
「にげた?」
 ホメーロスはさきに舟に乗ろうとした。アウロスが腕を握って引き止め、ホメーロスに問いかけた。
「待ちなさい、そう急がなくても。だれが逃げたんだ? 誰とやりあったんだ?」
「う、う、牛の頭、刺青、の、おとこたち」
「まさか!」
 アウロスは顔を歪めた。
「に、にげて、った。ここから、ふ、ふねで」
 アウロスは沖合に目を凝らしたが何も見えない。
「一歩遅かったのか…! やつらは、どこに行ったんだ?」
「か、か、か、カルキスって」
「カルキス。エウボイア島か!」
 アウロスはしばらく顎に手を当て、考え込んだ。
「お前、ほんとうに、怪我はないのか?」
「だ、だい、じょぶ」
「短剣を返しなさい」
 ホメーロスはぎょっとして、小舟に跳び戻り、短剣をとってきて、アウロスに手渡した。
 アウロスは短剣の刃を指先であらためた。アウロスは、しばらく黙っていた。短剣の柄はまだ温かいような気がした。アウロスは、店先の騒動とホメーロスの関係を考えていたが、これ以上考えても仕方がないとあきらめた。カルキスにいけば分かるだろう。
 二人は、そのまま舟で島を離れ、大海へ漕ぎ出した。波がちゃぽちゃぽと舷をなでたが、二人はしばらく黙っていた。月もない暗い夜だった。アウロスが抑えた声で、歌い出した。冥界のハデスを称える詩だった。すべての悪人にもやすらかな眠りを賜るように願う詩だった。ホメーロスは疲れて眠ってしまった。舟は北へ北へとむかった。

 

 

 

六  豚飼いの娘  

海に出た二人は、太陽の方角だけをたよりに、エーゲ海西方の小島を沿岸づたいに渡っていくうちに、ポセイドンの怒りにあい、嵐に見舞われた。西も東もわからぬほど潮に流され、木の葉のように揺られた舟は、夜間、見知らぬ浜辺に打ち上げられ、漂着した。
 ホメーロスが先に意識を取り戻した。ゆさぶって起こしているうちに、夜が白んできた。海に向かって城塞が姿を現した。城壁には幾度の戦争を防いできた傷が刻まれていた。
 そこに、村の娘があたりをキョロキョロ見回しながら、おそるおそる近づいてきた。
 ホメーロスよりは、少し年上にみえた。簡素な衣服は素朴なもので、身分は低く、奴隷のようでもあったが、表情に気品があった。金色の髪がたっぷりと腰のあたりまで流れていて、大きく二つに束ねられている。
ホメーロスは、こんなに美しい娘を見たことがないとおもった。言葉を完全に失った者のように、娘の容姿に打たれていた。
 娘が、まだ意識を失っているアウロスを介抱しはじめたので、我に返り、ホメーロスも手伝った。
 アウロスはようやく目を覚ました。
「お嬢さん、ここは、なんという国ですか?」
 娘はこたえた。
「アラゴンから海を隔てて二百スタディオンの地、エレトリアです」
「エレトリア? カルキスからすぐの、あのエレトリアですか?」
「そのとおりです。カルキスは、ここから数十スタディオンです」
 アウロスは、ホメーロスの背中をバンと叩いて言った。
「やったぞ! 潮にはばまれて、なかなか近寄れなかった。この地こそがエウボイア島だ」
「う、う、おお」
「ところで、あなたたちは、どちらから?」
「イ、 イオス島」
 ホメーロスが先に、言った。
「そうです。私がメレース村、こいつがコロポーン村の出身です」
 エウロペの顔が曇った。
「イオス、ですか」
 エウロペは聞きにくそうに、こう言った。
「たしか、イオスの村は、すべて…」
「よくご存じで。全滅しました」
「そうでしたか…この街でも、話題になっていましたから、存じておりました。それなのに、私どもは…」
 エウロペはそういうと、ぽつぽつと涙を落した。アウロスとホメーロスは驚いた。ここまで共感してくれることに内心喜びつつも、涙をみせる女性を前にして男ふたりでおろおろと慌て始めた。
「あなたが、責任を感じることはありません」
「ですが…」
「それより、ここは、たしかにエレトリアなのですね」
「たしかです、よろしければ、なにかお持ちします。お召し物は? 食べ物は? お口に合うかどうか…」
 エウロペは涙を拭うと、立ち上がり、なにか、世話を焼かせてほしいと申し出た。
 娘は、この村で豚飼いをしているという。
 そのとき、雨がぽつぽつと降り出した。すぐに本降りになった。
 二人は娘に導かれ、丘の上にある館の豚小屋に匿われた。二人は、エウロペの厚情に心から感謝した。藁の寝床で横になりながらしばらく待っていると、娘がミルク粥をと野いちごが盛られた皿をもって現れた。二人はむさぼるように野いちごを頬張り、ミルクを飲み干した。
 人心地ついたホメーロスは、改めて娘を見た。なめらかな肌、豊かな髪。聡明なまなざし。おもわずアウロスをみるが、アウロスの目は、嵐で完全な盲となっているようだった。ホメーロスは、王太子の首飾りにあった美女の肖像を思い出した。だが、ホメーロスが、およそ美女というものを初めて見たことも事実だった。
 ホメーロスは、娘に言った。
「あ、あの、ぜ、ひ、な、なな、名前を、お、教えて、くくくくっください」
「それは…」
 娘は、顔をそむけた。ホメーロスは自分の吃音を恥じて頭をかいた。エウロペは、そっぽを向いたままこう言った。
「いや、エウロペです。エウロペとお呼びください」
「エ、ウ、ロ、ペ」
 エウロペは毎朝、ミルクと野いちごの配膳をしに、二人の前に現れた。器にもられた朝餐に夢中になっていると、エウロペは、竪琴を弾きはじめた。それを聴いたアウロスは野いちごを頬張るのをやめ、すっくと立った。簡単で恐縮だが、自分に出来る形で感謝を申し上げたい、というと、竪琴に合わせてささやくように朗唱した。

雨は降る。葉の一枚一枚に。
 雨は降る。野いちごの一粒一粒に。
 雨は降る。青年の銀色の髪の一房に。
 雨は降る。少女の薔薇持てる指の一本一本に。
 一つ濡らして、地に落ちる。
 はたして、合一し、流れ、大河となり、ついにはエーゲの海へ注ぎ、
 すべてをお導きくださったポセイドンのもとへ還る――。

アウロスの美声は、娘への感謝が添えられて一層澄み通った。高音はやわらかく、低音は野太く、中域はしゃがれ気味に吐息がまざった熟練の声だった。豚小屋の屋根に降り注ぐ雨音の一粒一粒が、句の合間に聞こえてくるようだった。ホメーロスは思った。眉間から声が出る、とはこのことか。エウロペは、おもわず両手を胸の前で組み合わせていたが、我に返ると朝餐を片付け始めた。ホメーロスもまたアウロスの語りに打たれていたが、一方で、それだけではない複雑な感情が芽生えるのを感じた。
 豚小屋を出るとき、エウロペはアウロスの手を取り、指で手のひらに何かを描き、頬を赤らめた。アウロスには意味は分からないが柔らかい指先の感覚に胸が高鳴った。
「これは何ですか?」
「いえ、なんでもありません。でも、大事なものです」
「というと?」
「ええ、私が大事にしているものなのです」
 ホメーロスは、エウロペの表情をみて、奥歯を噛みしめた。エウロペの表情に重なるように、さっきエウロペが書いた絵を、空中にイメージした。線だけで描けるかんたんな絵だった。ホメーロスは、うっとりとそのイメージに見とれていた。

 

 

 

七  アブジャド

二人はこの島でラプソードスの仕事を探していると言うと、エウロペは豚飼いの主人に頼んで、エレトリアの有力者キテントスを紹介してもらい、さらにキテントスは、織物を扱う豪商レメネスを紹介した。レメネスはでっぷりと太った中年男でアナトリア地方の織物貿易で得た金で、多くの食客を雇い、エーゲ海を股にかけた東西の文化交流に一役買っていた。レメネスはエウロペに対して、非常に丁重な態度をとった。エウロペは、街の商店主たちにいくぶん顔が効くようだった。ホメーロスはこれもエウロペの美貌ゆえのことだと悟った。レメネスは、ホメーロスの絵描きの腕と、アウロスの美声とに興味を示して、二人はレメネスの食客となった。ホメーロスはレメネス邸の大食堂の壁を飾る絵を次々と描いていき、アウロスは晩餐に集まった招待客のために竪琴をつまびき、詩を吟じ、人気を集めていった。

アウロスは、ホメーロスを連れて、牛頭刺青の手がかりを探し始めた。
 エレトリアの商店主たちは、声だけでなく、絵を粘土石や石版に書いて、帳簿や商売の補助としていた。それは、木が一本、二本、三本と描いてあったり、あるいは、トリやヘビ、見たことのない獣が横たわる姿だったりした。
 すこし違うが、牛の頭のような絵も見かけた。
 エウロペにいわせると、あれは「判じ絵」というものだという。すなわち、それぞれの絵は、たとえば、トリならトリそのものを表してもいるが、トリ以外のものをも表しているというのである。それは、〈音〉だと言ったが、二人には理解できなかった。二人は、広場に出ている市場での売買が、貨幣の代わりに小さな粘土石によって行われていることに気づいた。ここでも、粘土石には、柔らかいうちにシンプルな判じ絵が刻み込まれて素焼きされたものを使っていた。表面には、例の鳥や馬の絵や、笛などの楽器、手や足などの絵が描かれていた。
「あれは、アブジャドの原始的な姿です。カルキスでは、もっと洗練されていますが」
「アブジャド?」アウロスは復唱した。
「アアア、アブジャッッド!」
 ホメーロスがいきなり叫んだので、二人はびっくりした。
「どうした、ホメーロス?」
「ア、ブ、ジャ…ド」
 ホメーロスは、今度は重々しく、一音ずつ、口から呪いのように吐き出した。ホメーロスは王太子の最期を思い出していたが、そのことは口には出さなかった。
「アブジャドというのを、おまえ、知っているのか?」
 ホメーロスは首を横に振った。
 ホメーロスは、王太子ペリオン=ザキュントスをこの手で討ち果たしたことを、いまだにアウロスに話せずにいた。ホメーロスは、自らの残虐さを隠したかったのである。ホメーロスは怒りを爆発させるときに、同時に、非常に矮小な自己愛に包まれることを自覚していた。それは、吃音ゆえに感情の吹き出す場所を塞いでしまっているせいだ、それゆえ、それが爆発してしまうんだと思っていた。
 すべては、この吃音のせいなのだ。
 エウロペは続けた。
「カルキスのアブジャドは、たとえば、羊の絵なら、〈羊〉という『意味』を表すと同時に、羊を意味する『音』も表します。それが判じ絵の素晴らしさです。『意味』と『音』を同時に表します。この石を組み合わせて、様々な音を表現することができます。音の連なりが、そのまま、言葉になります」
「すすす、ば、らし、い」
 興味津々なのはホメーロスだ。声でなく、絵を介してやりとりする文化に、あこがれに近い思いを抱いた。音を満足に表現できないホメーロスは、目をうるませていた。
「カルキスは、アブジャドによって繁栄した国なのです。文字に力によって、このエーゲ海世界をすべて統一しようとしています」
 ホメーロスは、不意に小石をつかむと、それで地面に、牛頭刺青の絵をかいた。
 エウロペは驚いて言った。
「アブジャド、の一つですね。なぜ、書けるの?」
 ホメーロスは小さくうなずいた。
「この刺青を入れた人間を知っていますか? その一族を探しています」
 エウロペは、たちあがると、配膳の片付けを始めた。
「私には、見覚えがありません」
 エウロペは声の調子を落した。
 ホメーロスは言った。
「これ、の、もちぬし、さ、さ、探してる」
 ここでエウロペは言い淀んだ。ホメーロスはエウロペを見た。
「カルキスのアブジャドは、たった一人の人間の手によって創られました」
「だ、だれ?」
 エウロペは、視線を落として言った。
「ザキュントス」
 アウロスはホメーロスと顔を見合わせた。
 アウロスは言った。
「旅の支度をはじめるぞ」
 エウロペが不安げな声で言った。
「カルキスへ?」
「行くしかないだろう」
「あそこに行くと、おそらく、帰ってこれなくなりますよ」
「どうしてですか?」
「アブジャドに魅せられるからです」

 

 

 

八 ホメーロスの盗作  

カルキスは、エウボイア島の中央部にある都市国家だった。ホメーロスはアウロスの手を引き、レラス川にかかった小さな橋を渡り、さらに数スタディオン歩いた。二人は、新月の夜を狙って忍び込んだ。カルキスは城塞もなく、緩やかな丘が続くぶどう畑に囲まれていた。無防備とさえ言えた。隣国のエレトリアや、海を隔ててすぐにあるアッティカにある、アテネやスパルタという国を、歯牙にもかけていないということなのだろうか。実際、海岸沿いの洞窟で一夜を明かし、明け方、街の中に入ったときには、二人は、今まで見たことのないほどの、街の繁栄ぶりに目を細めた。真っ白に整地された大通りの両側に象牙色の邸はどこまでも続き、道のそこかしこに市が出ていて、様々な肌の色をした人間で賑わっていた。うろこをきらめかせる魚が並べられ、赤や黄色の果物がごろごろと店先に山積みされていた。辻ごとに竪琴をつまびく吟遊詩人が腰掛けていて、二十数人の観客を集めているかとおもえば、教師が子供たちを引率して羊のような群れを率いていき、酒場では鎧をつけた兵士たちがどやどやと騒ぎながらぶどう酒をあおっていた。
 アウロスは言った。
「牛頭刺青とは、アブジャドだったんだな」
 ホメーロスはこくんとうなずいた。
「ならば、イオスの村々を滅ぼしたのは、カルキスの王だ」
「ざ、ざ、ざ、ザキュントスの、一族」
 ホメーロスはうなずいた。だが、問題は、どうやって王に近づくかということだった。王は護衛に守られ、巨大な王宮に住んでいると言われていた。
 通りに面した建物には、見たことのない絵が描かれていた。ホメーロスは見上げた。
「こ、こ、これが、アブジャド」
 ホメーロスは羨望のまなざしでながめた。
 エレトリアの判じ絵よりも、ずいぶん単純だった。
 直線、あるいは曲線、あるいは、その組み合わせだけで描かれ、二画か三画で描いてしまえるようだ。小さく描かれたり、ヒゲをつけて立派に描かれていることもある。アブジャドは、エレトリアの判じ絵のように第二第三の意味が与えられているだけでなく、更に洗練されていて、写実性を失った抽象的な曲線と直線だけで表現されていた。
 アブジャドはたった二十二個から成り立っていた。二十二個の全体はアブジャドと呼ばれ、あるいは、アブジャドを構成する一文字一文字もまた、アブジャドと呼ばれた。各々のアブジャドは、固有の子音をもっていた。しかも、それらの子音は、口を使って表現できる、単純な〈子音〉を表していた。アブジャドを読解するときには、文脈と規則性にしたがって〈母音〉を補うことで、声に出して「読む」事ができたのである。それに、アブジャドを、粘土石や、羊皮紙、木片などに描きつけることにより、目の前にいない人間に、言葉を伝えることができた。
 族長として、かつては、村を切り盛りしていたアウロスは、アブジャドの経済的価値、軍事的価値を、ホメーロスよりも先に悟っていた。この粘土石の絵こそが、この島の繁栄を支え、周囲の村々を力でねじ伏せる原動力なのだということを直感し、忌み嫌い始めた。したがって、積極的に市場や酒場に出入りしては、街の人たちから、王太子の手がかりをつかむことに専念していた。
 だが、ホメーロスは違った。ザキュントス一族の消息よりも、アブジャドのことが気になってしょうがなかった。
 町人たちから、見様見真似でアブジャドの並べ方を学んでいった。粘土をまるめ、自分自身でも、絵を刻み込み始めた。自らも新たな粘土石を描き、夜を徹して、並べ方、組み合わせについて勉強した。生活上、交易上のあらゆる物事だけでなく、発したい心の言葉をすら、そのまま表現できる気がした。ホメーロスは、アブジャドの一文字一文字の造形に取り憑かれていた。幾何学的な均整。何かを具体的に表象しているようでいて、つかめない抽象性。その抽象性こそを、美しいと感じた。余計なものを削ぎ落として、意味だけの存在になったアブジャドに、ぞくぞくしたのである。
 ホメーロスはわが声を得たと思った。
 ホメーロスは、吃音による狭い世界から解き放ってくれるアブジャドの力に魅せられ続け、どんどんアブジャドにのめり込んだ。ホメーロスがアブジャドに上達していくに従い、吃音のせいで隔てられていたコミュニケーションに、大きな風穴があいた。背中に羽が生えたように、ホメーロスは街中を飛び回り、さまざまな職種、さまざまな階層の人間と交わった。

ホメーロスの心には、アブジャドを学んでいくうえで、明確な目標が芽生えていた。
 それは、あの娘エウロペに、自分の言葉を伝えることだった。それは、愛の言葉だった。アウロスがエウロペの前で詩を朗唱したのが羨ましかった。アブジャドこそ、吃音の自分に与えられた翼のように、光輝く道具だと感じたのだ。アブジャドを並べ、詩をつくり、エウロペの心を動かしたいという野望に燃えていた。
 だが、それを実現するためには、アブジャドの鍛錬だけでは足りないこともわかっていた。
 ホメーロスにはそもそも、愛のことばを書くだけの詩心が足りていない。それを自覚していた。詩吟の朗々さだけでなく、詩の創作においても、アウロスには遠く及ばなかったのである。声は音楽そのものだった。詩は音楽と密接不可分なもので、吃音の自分には、それが歌えないのである。歌えない者は作れない。それが詩であり、自分は吟遊詩人として、不具者なのだと理解していた。つまり、ホメーロスは、自分の詩的表現力のなさに、ますます嫌気がさしていた。ホメーロスは、アウロスの吟じた詩を思い出した。あの美声と、リズムの緩急。抑揚。野太さと繊細さの混淆。

ホメーロスは、アウロスを頼った。
「詩、詩を読ま、ないと、いけ、ない。もっと、も、もっと」
「ホメーロス、いいか、声に出して朗詠する訓練を怠ってはいけない。文字だけに頼っては、詩の豊かさのほとんどが失われてしまう。記憶力もだ。長短六歩格の音韻が、体に自然に身につくまで、每日つづけるんだ」
「で、でも、おれ、おれ、歌え、ない」
 アウロスは、ホメーロスの肩をがっしりとつかむと、ぐっと抱きしめて言った。
「だいじょうぶだ。お前の声が、ほんとはどれだけ澄み通っている、私は知っている。お前には才能がある。時間はかかるが、急いではいけない。文字と、詩とは、別のものだ。それをよく理解するんだ。お前は、誇り高き語り部一族の末裔だぞ。自信をもて」
「し、し、詩を、教、えて」
 ホメーロスは、たびたび、叙事詩の朗読をせがんだ。アウロスは言われるがままに、竪琴を片手に吟じてやった。ときにはエウロペがそばに付き従っては、アウロスの朗詠に耳を傾けていた。
 たしかに、ホメーロスは、アウロスの美しい朗詠を懸命に暗記した。
 しかし、ホメーロスは、それをアウロスに教えられたように繰り返し声に吟じて訓練することはなかった。むしろ、それをアブジャドで羊皮紙に書き記していった。作者としての署名には自分の名を記した。アウロスに読まれる心配はなかった。
 盗作だという意識はなかった。アブジャドは自分が書いているのである。この羊皮紙のうえに、はじめて創られているのだ、と。生み出しているのは、いま、このホメーロスである。
 子音ばかりで構成されているアブジャドで、詩を書き取っていく。時間はかかるが、自分が直接これを朗詠する困難さに比べれば、造作もなかった。ホメーロスはアウロスの声を頭に浮かべ、浮かんだ詩句をどんどん書き写していった。
 ホメーロスが書いた叙事詩は、戦争の生き残りの知将が、ふるさとの島へたどりつくまでの冒険譚だった。第一歌を、十部、書き写すと、羊皮紙業者を通じて売り出した。それまで、アブジャドを使って本格的な叙事詩を書いたものはいなかったこともあり、大変な評判となった。
 アウロスの詩が、ホメーロスの名前でどんどん読まれていった。子音だけで書かれたその詩は、長短六歩格の美しく勇猛な音韻をすでに失っていたが、それでも、読者は、神々の意志に翻弄される主人公の行く末と、その幽玄な詩的世界に心を奪われた。
 その評判は、ついに、カルキスの財界人を通じて、カルキスの王家へと届いたのである。
 ある日、ホメーロスは、美しい木箱に入った羊皮紙を受け取った。王の書記官からの手紙だった。

アブジャドの申し子へ。
 アブジャドの創始者に会わせたく。
 三日の後、陽の最も高き時、
 王宮まで参内されたし
 王の命にて  書記官 某

 

 

 

九  ホメーロス、王に会う

ホメーロスが王に会う好機を得たことに、アウロスは興奮した。なぜなら、手紙には、牛頭を横にしたような、あの絵が書かれていたからである。
「いまこそ、復讐を果たす時ぞ」
 ホメーロスは、一人で参内することになった。懐には、アウロスの短剣を隠し持っていた。ホメーロスは、例によって自分の残虐さが発露しないか不安だったが、今回を逃せば、次はいつ王にまみえるチャンスが来るか、わからなかった。
 石壁が高い天井を支えている王室には、牛皮で出来た絨毯が敷かれ、一番奥に、ひときわ立派な椅子があった。耳が痛くなるほどの沈黙のなか、ホメーロスが指示された場所でひざまずいてじっとしていると、ざわざわと後方から音がきこえてきて、ついに、側近をしたがえた王が現れた。
「表をあげよ。世に名だたる詩人、ホメーロスよ」
「ぎょ、御意に」
 ホメーロスは王の顔を見た。かのメネラウス王もかくや、というごとくに、筋骨隆々とした巨大な男だった。薄紫色の上衣からみえる腕は、森の千年樹ほどもあるように見え、そこには、牛の頭を模したアブジャドがある。冠飾りには小さな花が飾られている。ホメーロスは興奮しながら、また頭を伏せた。
「詩の荘厳さにもまして、なんという美しい青年ぞ。よく来たナ! 楽にせよ」
 ホメーロスには、この時点ですでに、復讐の怒りよりも、まず先に、尊厳に満ちた王を前にした自尊心に身を焦がしていた。
 生まれてから感じたことのない、大きな充足感だった。
 おれは、ここまで昇ってきた。アウロス、おれは、ついに、ついに、ここまで来たよ。
 王は、そのアブジャドで書かれた詩文の流麗さに舌を巻いたと、早口で話し始めた。側近たちは、王の賛辞に一様にうなずいた。王はまた、銀色の髪をなびかせるホメーロスの美しい容姿と、書かれた詩の美しさを結びつけた。さらに、王は、書記に命じて、粘土板にホメーロスへの賛辞をかかせた。最後に署名をしたが、これだけは、王が自ら、したためた。

カルキス王ザキュントスが族長、ゴルギウス
 ここに璽を押す

 ホメーロスは、あらためてそのアブジャドを眺めた。自分はいま、まさに、わが一族を滅ぼした王を目前にしているのである。胴に巻きつけている短剣が冷たい。
 ゴルギウス王は言った。
「アブジャドの使い手よ。そなたほど流暢にアブジャドをあやつる者は今までこの国にいなかった。褒めてつかわすぞ」
「も、もったい、ない、ことで」
「褒美として、ナルキッソスも驚くほどの美貌を備えたそなたに、ふさわしい人間をひきあわせてやろう」
 ホメーロスが頭を下げ続けていると、ゴルギウス王は言った。
「紹介しよう。アブジャドの生みの親を」
 ホメーロスはおもわず頭をあげた。
「この文字体系をたった一人で作り上げた、真の天才だ。フェニキアの民がもたらした文字を利用して、アブジャドなる表音文字に編み上げた人物。おおい、入ってまいれ」
 ホメーロスの後方の扉から、足音をしのばせて入ってきた。ちらっと見ると、それは女性だった。裳裾を広げて、しずしずと歩いていくと、王の隣に並んで座った。
「ホメーロス、おもてをあげよ」
 ゴルギウス王は得意の絶頂といった面持ちで、こう言った。ホメーロスは息を呑んだ。
「ギリシャ・アブジャドの創始者にして、わが最愛の娘」
 そこには、まさに叙事詩に現れるプシュケー神のような、薔薇の指もてる女性がいた。豊かな長い髪に、青く光る聡明なまなざし。
「クリュタイムネストラだ」
 そこには、エウロペが、そしらぬ顔で立っていたのである。だが、洗練された衣装には金刺繍が施され、首元は宝飾品で輝いていた。ホメーロスを静かに見下ろしている。目があったが瞳は揺るがない。
「え、え、エウ……」
「クリュタイムネストラよ。ご挨拶せよ。こちらが、当代随一のアブジャドの使い手にして、稀代の詩人、ホメーロスだ」
「かしこまりました、お父さま。ホメーロスさま、お初にお目にかかり光栄でございます。ゴルギウス王が一子、クリュタイムネストラにございます。アブジャドを美しく編み上げてくださって、まことに幸甚の極みに存じます」
 クリュタイムネストラと呼ばれた姫は、すました顔でホメーロスを見下ろした。見違えるような蓮色のドレスは、裾までゆったりと広がり、首元は大きく空いていて、鎖骨のすぐ下のあたりには、艷やかに施された牛頭の刺青が見えた。ホメーロスは目をそらすために頭を下げた。
「ももも、もったい、ない、ことです。ま、まさか、あなた、さま、が」
 ゴルギウス王は眉をひねって、こう言った。
「そなた、娘を存じておるのか?」
「あ、え、エウ…、いや、エレト…で」
 ホメーロスがまごついていると、クリュタイムネストラはすっと言葉をはさんだ。
「まさか、まさか。他人の空似でしょう」
 そう言って、くすくすと笑ってみせた。
「このような美貌の詩人、万一どこかでお会いしていれば忘れることはありません。でも、ホメーロスさまのお噂はかねがね、うかがっておりましたよ。すばらしい詩をお書きになるとか」
 王はがっはっはと無意味に笑ったあと、こう言った。
「娘がアブジャドを創り、わしが、この国に広め、強大な力をもった。いまそのアブジャドを花の形に昇華させる美男子が現れた。クリュタイムネストラよ、どうだ、この男は。お前の婚約者に匹敵する美男子だろう」
 そう言って、また爆発的な笑い声を響かせた。
「お父さま、あのむさくるしいペリオン様にくらべたら、このホメーロス様は、ヘルメスもかくやという、男っぷりでございます」
 ホメーロスは、ことばどおり真に受けて、顔を赤らめた。
「ペリオン王太子は、もう、長きに渡る遠征から戻らぬ。ゆえに、お前にも寂しい思いをさせているだろう。アブジャドの達人とのやりとりは、しばしの慰めにもなるだろう。ホメーロスよ、王宮には、遠慮なく訪ねてくるがよい。よろしくたのむぞ」
「寂しいだなんて、婿養子を取るのは、そもそもお父さまの御勝手ですわ」
 王は、まあまあそう言うな、と取りなすと、謁見をしめくくるべく、娘にホメーロスを見送るよう命じた。ホメーロスは、もう一度頭を下げると、クリュタイムネストラの後をついて退座した。
 宮殿の廊下を歩いている最中も、後ろから護衛が付き従っていたので、二人は黙って歩いていた。玄関ホールのところまで来ると、クリュタイムネストラは護衛を下がらせた。途端に表情をかえて、ホメーロスのもとへ近寄り、おさえた声で、早口にこう言った。
「このことは、アウロスさまには、内緒で。お願いです。お願いよ」
「あ、え、じゃ、や、やっぱり、エウロペ?」
「アブジャドの実情をみるために、身をやつし、隣国まで出かけているのです。こっそりよ」
 そう言うと、ウィンクした。
「まさか、あなたが、現れるなんてね。びっくりよ」
 ホメーロスは、目をキョロキョロさせた。いまになって、エウロペとの久しぶりの再会の喜びが胸にこみ上げてきたものの、何も言えず、口をもごもごさせていた。クリュタイムネストラは周りに目線を走らせたあと、こう言った。
「私は、ゴルギウス王の実子。ザキュントス一族の末裔なのです」
 そういうと、かなしげに声を落とした。
「つまり、わたしたちは、あなたがたの村を滅ぼしました」
 ホメーロスは思わず、クリュタイムネストラの手を握った。
「い、いいのです」
「どういうことですか?」
「ア、ア、アブジャドが、お、お、おれを、育てて、く、くれました。こ、これからは、お、おれが、まもり、ます」
 ホメーロスは、自分で言いながら、自分の中に狂気が目覚めていることに気づいていた。しかし、それは、愛と自尊心ゆえの狂気だということを、誰も教えてはくれなかった。
「何をいきなり?」
 ホメーロスは、懐から、ブローチを取り出した。今や、ここに描かれた肖像が、クリュタイムネストラであることは明白だった。クリュタイムネストラは、ブローチを手にとり、思わず息を呑んだ。
「これは! 王が、出征するペリオン王太子に贈ったもの。なぜ? これを、あなたが?」
 ホメーロスはとっさにこう言った。
「ぷ、ぷ、ペリオンから、あ、あ、あ、あ、あ、あなたの、ことを、た、頼むと、言わ、れました」
「なんという…たしかに、ペリオン王太子ご本人ですか?」
「た、た、たしか、です」
「いつのことです?」
「し、死の、間際に」
 クリュタイムネストラは、ホメーロスの手をとった。
「ペリオンは、死んだ、のですね」
「は、はい。クレタの酒場で。酔客、との、乱闘で」
「はああ!」
 クリュタイムネストラは小さく叫ぶと、思わずふらつき、壁に手をついた。
「私は、ほとほと、運命に翻弄されています。王太子は、しんだのですね」
クリュタイムネストラは、われに返ると、ブローチをもう一度眺め、小さくうなずいた。
「王の命令とはいえ…政略結婚とはいえ…この運命とは」
そして、ホメーロスの手にブローチをおさめると、それを握らせた。
「このブローチは、あなたが持っていてください。私が持つわけにはいきません」
 手渡すときに、ブローチごと、両手で包むようにして手を握られたホメーロスは、女性の手のひらのなめらかさと、これまで感じたことのない恋情に身を震わせた。

 

 

 

十  声の人、文字の人

ホメーロスは後ろ盾を得て、吃音の弁論家として、その名をほしいままにした。
 王の出資のもと、高価な石版にアブジャドを掻きつけることで数々の著作をものし、著述家の仲間入りを果たした。王の宮殿に一室を与えられ、そこで著述活動をなすことを許された、お抱えの思想家となっていった。
 アウロスは、王に近い位置に昇ったホメーロスの栄達を、喜んだ。
「すごいじゃないか。王に重用されるなんて。お前のアブジャド使いは、そこまで来ていたんだな」
 ホメーロスは、複雑な思いでうなずいた。
「懐中に、常に短剣をたずさえよ。すきあらば、討つべし、だ」
 ホメーロスは、またうなずいた。だが、ホメーロスは、アウロスの知らないうちに、短剣を部屋に戻してしまっていた。ホメーロスにとっては王への復讐よりも、王の手で栄達することが頭を支配していたのである。アブジャドが彼の人生を変え、自尊心を植え付けていた。
「書かれた詩が流行しているというが、お前はどう思う?」
 ある日、アウロスが、突然ホメーロスに問いかけた。
 アウロスは、まさか自分の詩が書かれて、街に出回っているとは知らなかった。だが、詩というものがアブジャドで書けるものだとは到底考えられなかったのである。出回っているものは、下等なものだと決めつけていた。
 アウロスは言った。
「書かれた詩も、書かれた言葉も、もはや言葉ではないのだが」
 ホメーロスは応酬した。
〈それはいかなる理由ですか? 話し言葉も言葉です。書かれたものも、それを読むことが出来る限り、また言葉でしょう〉
 ホメーロスは、羊皮紙にアブジャドを書いて、返答した。アブジャドによる論戦のほうが、自分の思考を円滑に表現できる気がしていたし、これなら雄弁なアウロスにも対等に張り合えるとおもった。エウロペが通訳としてアブジャドを横で読みあげ。介添えしていた。アウロスは言った。
「話し言葉は、意味だけをなすのではない。音の高低、アクセントの強弱、旋律の流れ、息継ぎ、沈黙、抑揚、それに、律動というさまざまな要素によって支えられているのだ。それが言葉だ。書かれたアブジャドには、意味の残骸だ」
〈書くことにより、言葉は視覚化されます。それを見ることによって、また思考を深められるのです。書くことは人を賢人にします〉
「書くことは、記憶を破壊するだろう。書くことができる、という前提は、記憶しようとする努力、鎖から人間を解放するが、書かないからこそ、記憶力は維持されるのだ。記憶こそが、個人の知的基盤を支えるすべてなのだぞ」
〈記憶の必要など、もはやアブジャドの前にはありません。書かれた言葉を読み返すことにより、いつでも思考することができるからです〉
 ホメーロスがアブジャドを書くスピードが速まってきた。
「じゃあ、なぜ、文字を読むには訓練が必要なのだ? 文字は言葉ではないからだ」
〈文字は特別な思考と表現の道具だからです。道具には練習が必要ですが、使えば、更なる髙みに登れます〉
「人間なら、誰でも言葉を話せる。言葉を声として出すのに、練習はいるか? どんな赤子だって、人の子として生まれたなら。言葉を声にできる」
〈私は、限定的にしか、できません。私は、人間ではないのでしょうか〉
「そんなことは言ってない!」
「あ、あ、あ、あなたは、おれ、を、否定、し、し、し、してるんだろうが!」
 ホメーロスは感極まって叫んだ。アウロスは、ホメーロスの肩に手をおき、冷静に続けた。
「書かれた言葉を読んだ者が、それを書いた人間の思想を理解できるとおもうのか? 大切なのは、言葉に対して行う、吟味と対話だ。吟味と対話によって、一枚一枚、皮をはぐように、思想の成すところを明らかにしていくことでしか、言葉は理解され得ない」
〈書かれた言葉も、活きた言葉です!〉
「書かれたものは言葉ではない。墓に刻まれた文字と同じだ。死んでいる」
〈ではこれは、この対話はなぜ成立しているのでしょう? 吃音の私が、あなたとこのように議論できるようになったのは、なぜでしょう? 吃音者はね、いいですか? 吃音者は、自分の本当に言いたいこと、伝えたいことがあるときほど、ことばに詰まってしまうものなのです。あなたにはその気持ちがおわかりですか? 私には、表現できない言葉が、この胸の中に、そして、頭の中に、破裂するほど溜まっているのです! あなたとの、この対話は、アブジャドがあるからこそです! いまこそ、私は言葉を得ることができました。これは私の言葉ではないのですか? 私は、アブジャドのおかげでこのように、思考を深め、あなたと対等に対話できたのです! 対話が大切というのなら、これは一体、なんなのでしょうか!〉
 ホメーロスの書いた文字列が、いよいよなぐり書きになっていった。
 アウロスは叫んだ。
「ああ! アブジャドというものは、なんと死に近いものだろうか!」
 ホメーロスは、自分のことばで、こう言った。
「な、な、なぜ! おれ自身を、ひ、ひ、ひ、ひ、否定するんだ!! アブジャドで、やっと、自由に、な、なれる、のに」
 そう言って、走って出ていった。アウロスはつぶやいた。
「われわれは、詩人なんだ。ことばを使って物語を紡ぐ。極上を生み出すのは、違いを理解する力なんだ。文字でも表現出来ているなんて考えたら、詩人としては終わりだよ」

 

 

 

十一  ホメーロスの告白   

ホメーロスは、自分の気持ちをクリュタイムネストラに打ち明ける日に向けて、準備を進めていた。
 アウロスの詩を書き写す日々が、自らの詩心の鍛錬になっていることを自負していた。もう昔の自分ではなかった。羊皮紙に書かれたいくつもの叙事詩が、ホメーロスの名声を獲得していた。ホメーロスはアウロスに並び立つ詩の実作者であるという自信を深めていた。
 ホメーロスは、アブジャドの力を盲信し、クリュタイムネストラへの愛の言葉を準備した。花を漬け込んだ香油で四隅を濡らした羊皮紙に、格式の高いひげ付きのアンシャル体で書くことにした。
 詩の表現は、アウロスの詩から借用することにしたが、ホメーロス自身、それが借用であることに、すでに気づいていなかった。ホメーロスは王宮でクリュタイムネストラを見かけるたび、思慕の気持ちをつのらせた。王宮で見るクリュタイムネストラは、気品にあふれていて、かつ、エウロペの姿のときの素朴さと優しさをどこかに香りのように漂わせていた。

月の美しい夜、ホメーロスは、王宮のテラスにクリュタイムネストラを呼び出した。もちろん、アブジャドの書かれた羊皮紙によって。クリュタイムネストラは白い浴衣をまとっていたが、月に照らされて銀色に光っていた。ホメーロスはひざまづき、羊皮紙をまるめて巻物にしたものを両手で握り、頭を下げて献上した。
「お、お読み、くだ、さい」
 クリュタイムネストラは、羊皮紙の巻物を受け取ると、それを顔のあたりに近づけた。
「いい香り。すてきね」
 ホメーロスはうつむいた。クリュタイムネストラは、いま読んでよいか? と断ってから、巻紙を開いた。そこには、百行にわたる抒情詩が書かれていた。勇者が、ナウシカアに対して述べた愛のことばだった。クリュタイムネストラは最後まで読んだ。アウロスの顔がよぎり、かすかに、アウロスの声がきこえた。
「すばらしい詩です。ありがとう」
 クリュタイムネストラは、そう言うと、ホメーロスの手をとって立ち上がらせた。ホメーロスに一歩ちかづいて、言った。
「これはあなたのことばですか?」
「う、う。う。うん」
 ホメーロスは、目をそらしながら、うなずいた。
「これは、わたしに対する、あなたのことばなのね?」
 ホメーロスはまたうなずいた。
 クリュタイムネストラは、ため息をついて、こう言った。
「わたしには、伝わらないわ。大事なことなのなら、ぜひ、あなた自身のことばを、声に出して言ってほしかった。せっかくなのに、ごめんなさい」
 そういうと、羊皮紙をまるめて、ホメーロスに返してしまった。
「わたしには、愛するひとが、いるのです」
 そう言うと、クリュタイムネストラは、銀色のドレスの長い裾を翻して、立ち去ってしまった。
 ホメーロスは月に照らされながら、ひとり身動き出来ずにいた。長い時間立ち尽くしたあと、ようやく自分が袖にされたことを受け入れることが出来た。つたない言葉であっても、口で言うべきであったのか。いや、そうじゃない、そうじゃないんだ。ホメーロスは、思った。
 吃るせいだ。どもるからなんだ!
 ホメーロスは握りこぶしで地面を殴った。
 この声の、せいなんだ。馬鹿にしやがって。ことば、ことば、ことば。ことばが出せないからって!
 ホメーロスは、月に向かって顔をあげると、叫んだ。
「みみみみみみみみみ! み! みてろよ! おまえは! お! おれの! もの! なんだ!」
 黒い炎で胸を焦がしながら、天を仰ぎ、両手を広げた。

 

 

十二  風のようなことば

クリュタイムネストラは、よく、町外れの森に、アウロスの手を引いていった。
 この地域では珍しい高い木が茂る場所があり、その中に、小さな泉があった。二人は、その泉のそばにたたずみ、そこから小川に流れ出る、せせらぎの音に耳を澄ませた。鳥がなき、葉ずれがさらさらときこえる。クリュタイムネストラにとっては、目の前の色彩世界と匂いが、すべて音に還元される場所のように感じていた。ここにいると、盲目のアウロスと、同じ光景を共有できているという強い気持ちをもつことができた。ときには、アウロスのほうから、手をにぎり、前を歩くこともあった。
 二人は岩場に腰掛けると、小川を魚が跳ねた。
 そんな中で、アウロスはよく詩を吟じた。
 神話的な美しさに、クリュタイムネストラは恍惚とした。詩は、音楽であり、ことばでもあった。そのふたつが溶け込んでいた。
 クリュタイムネストラは、アウロスこそ、真の詩人だと感じるようになっていた。こと、詩については、アブジャドのなんと無力なことだろう。いまのアブジャドには、彼のことばを、書き留めることは出来ないだろう。詩の朗詠のなかで、アウロスはよく泣き、よく怒り、よく笑った。抑揚をつける中で、怒り、悲しみ、喜びが表現されたが、なかでも笑いの表現については、限られたアブジャドだけではなんと表現してよいかわからない、豊穣さがあった。アウロスの笑い。それは、アブジャドの創始者にとって、汲めども尽きぬ神秘の泉だった。
 アウロスは竪琴を爪弾いた。クリュタイムネストラは目を閉じた。アウロスの声が、風のように、木々の間を回遊するような気がした。ことばとは、人のもっている空気そのものなのだろう、だからこそ、こんなに心地よいものなのだ。日だまりの中に揺れるように、爽やかな声だった。クリュタイムネストラは、やわらかく野太い声に身を任せていた。
 クリュタイムネストラが言った。
「ああ、詩がこんなにも美しいのに、アブジャドなど、何の役に立つでしょう。私がアブジャドを使うのは、ただ、死が怖いからです。だからこそ、書き留めたくなるのです」
 アウロスは、やさしくうなずいた。クリュタイムネストラは、アウロスの手を包んで、こう言った。
「あなたは私より年長者です。あなたがいなくなったあと、あなたの言葉を想起させるものは、アブジャドしかありません。声はこの世に、永遠に留めることはできないのです」
 アウロスは、クリュタイムネストラの眉間にそっと指先で触れた。クリュタイムネストラの金色の前髪が揺れた。
「いま、あなたは、わたしの目の前にいて、わたしの声をきいている。わたしは、あなたの声や吐息を感じることができる。それがすべてだよ」
 二人はしばらく黙った。音だけが二人のまわりに豊かに横溢していた。
 そこへ、静謐を引き裂くように、馬の駆ける足音がきこえてきた。
 踊り込んできたのは、ホメーロスだった。
「こ、こ、ここに、おったか!」
 ホメーロスは手をつないでいる二人を見て、どうしようもない嫉妬心に狂いそうになった。
「お、お、お、お前さんは、こ、こ、この女の、正体を、し、し、知ってるのかい?」
 クリュタイムネストラが、立ち上がった。
「ホメーロスさま!」
「ご、ご、ご自分で、言ってみよ!」
 ホメーロスは、アウロスがきいたこともない甲高い声で、こう叫んだ。
 クリュタイムネストラは、アウロスをみた。クリュタイムネストラは、いつか、すべてはこうなることを理解していた。
「私の本当の名は、クリュタイムネストラ=ザキュントス」
 そう言って、うなだれた。
「ザキュントス?」
 アウロスが、よろよろと立ち上がった。
「そ、そ、そうさ! こ、この女はね! ご、ご、ご、ご、ご、ゴルギウス王のむ、む、娘! あんたの村を全滅させた、ゴルギウスの、愛娘なんだよ。こ、この女は! それを隠していたんだ!」
 ホメーロスは、クリュタイムネストラの手をひっぱった。
「な、何をするの!」
「ほら、こ、こに何がある」
 白い細腕に現れたのは、牛頭の刺青だった。
「言え!」
 ホメーロスは、更に腕を引っ張ると、クリュタイムネストラは悲鳴をあげた。
「さ、さ、さあ、言えったら!」
 ホメーロスは、馬にムチを打つと、にぎやかに、走り去っていった。
 アウロスは、クリュタイムネストラを抱き起こしてやった。
 アウロスは、それにも動じず、空をみあげていたが、クリュタイムネストラの手に、自分の手を添えて言った。
「一つだけ教えてくれ。王太子がわがイオス島に遠征してきたのは、彼の意志ですか? それとも、王の意志ですか?」
「島への遠征は、もちろんゴルギウス王の命です。ですが…」
「うん」
「村を焼き尽くしたのは、ペリオン王太子の……一存です。彼はアブジャドを受け付けない、声の村を、忌み嫌っていたのです」
 ううむ、とうなってから、アウロスは言った。
「私の耳には、いまも祖母エリオピスの声が残っている。そして、祖母の最期の姿も。一族を根絶やしにされたのです。族長として、復讐しないわけにはいかない」
「アウロスさま…」
「ありがとう。本当の敵が、いまハッキリとわかった」
 その夜、アウロスは長い時間、ベッドに横になっていた。大義そうに起き上がると、手探りで部屋の隅にある箱を取り出した。空けると中には、先祖伝来の短剣が横たわっていた。短剣を取り出し、刃先に人差し指をあててみた。指先が切れて、血でぬるっとした。
「ペリオン=ザキュントス」

 

 

十三  クリュタイムネストラの秘密

王宮の反響する柱廊の突き当りにあるその部屋は、護衛もつけさせず、クリュタイムネストラと親しい女中だけが出入りしていた。
 ホメーロスの狙いは、いまや、ゴルギウス王にあった。ゴルギウス王の寵愛を確かなものとすることで、クリュタイムネストラとの婚約を認めてもらう、せこい算段だったのである。
 そのために必要なものは、王の心を動かすだけの、詩だった。ホメーロスは、詩で身を立てていくのだと決めていた。
 だが、ホメーロスは、みずから語るようにアブジャドに表すことに、まだ、不自由を感じていた。アウロスの詩を完全な形で書き写すために、何かが足りない。それを極めれば、王の心を動かす詩が書ける。クリュタイムネストラの心だっていつかは動かせる。
 自分が吃音をのりこえ、自由自在に自分の声を書き記すために。どうしても、足りないものがあったが、それがなにかわからなかった。
 もしかしたら、アブジャドの創始者であるクリュタイムネストラなら、自分と同じ問題に行き当たっているに違いない。ホメーロスがそう考えたのは、王宮内で、見たことのない書式の羊皮紙を入手したからだった。それは女中たちへの指示書の下書きのようなものだったが、倉として使用していた部屋の棚に、何枚か捨て置かれていたのである。そこでは、文字の使い方が、いくぶんアブジャドと違っていた。
 ホメーロスは、本丸を攻めようと、今回クリュタイムネストラの不在を狙って、部屋にしのびこんだのである。きっと今頃、クリュタイムネストラはアウロスのもとを訪ねているだろう。嫉妬心が彼の倫理観をゆるがせていた。
 女中頭からこっそり入手した黄金の鍵には、アブジャドの最初の文字である「アレフ」が、浮き彫り加工で彫られていた。頑丈に作られた閂の鍵穴に差し込むと、鍵は力なくとも、すっと回った。牛の吠え声のような音を立てて、扉が開いた。
 石壁の室内には若い女性の生活の甘い息吹がなまぬるく残されている。床は掃き清められ、水が打ってあった。什器のたぐいはどれも磨かれている。窓からはオオモモザクラの大木を、本邸の向こうにちらりと見ることができた。椅子には、牛の毛皮が重ねて敷いてあり、ひとの尻の形に沿ったように沈み込んでいた。ホメーロスは、その沈んだ部分を指先でなぞった。
 書棚の横に据えてある立派なマホガニーの机上には、小さくまるめられた粘土石が、数多く転がっていて、なかには試作品もたくさんあり、見たことのない文字もあった。砂と水をまぜただけの、大きな粘土のかたまりも、いくつか放置されている。
 そこに、ホメーロスは見つけた。
 一冊の羊皮紙の束が静かに置かれていた。ホメーロスの上半身ほどもある大判の羊皮紙が百枚以上束ねてある分厚いものである。
 表紙には『ある吟遊詩人、アウロスの声について』と書かれている。
 ホメーロスは戦慄した。
 大部のノートを開くとクリーム色の上質で薄い羊皮紙の表面に細かい青黒インクの文字がびっしりと書き込まれてある。この偏執的な記述は、アウロスという人間についての、笑いと人間の文化的・社会的・医学的な百科全書の趣があった。
 ホメーロスは、これほど多くの文字を一度に見るのは初めてだった。
 よほど熱を帯びて 書き込んでいたのか、紙の頁はどれもクリュタイムネストラの手汗を吸収して立体的に歪んでいた。ホメーロスはそのページの歪みをそっとつまみ、いとおしさと尊敬と嫉妬心とが、ないまぜになった心情でたたずんでいた。主なき椅子に座ると、姿勢を今一度正し、ノートの最初の頁をめくった。
 読み始めると、この『ある吟遊詩人、アウロスの声について』の記述は体系的・分類的・ 実証的にまとめられているのではないことを直ちに了解した。あくまで断片の連続で全体としての構成はないようである。その日にきいた、アウロスの声についての分析を、日誌のように来る日も書き込んでいったのであろう。まるでアウロスの遺言を書き留めているようにもみえる。
 圧巻だったのは、中盤だ。
 頁をめくるとそこには、アウロスの笑いについての、様々な表現の羅列が、アブジャドによって書き込まれていた。
「アウロスの声のうち、笑いとは、書くことのできない、声の中の声」
 この言葉ではじまり、狂気を感じさせるほど執拗に続く――愛嬌笑い・愛想笑い・あざ笑い・一笑・薄ら笑い・薄 笑い・打ち笑み・似非笑い・笑笑い・艶笑・大笑い・呵々大笑・天笑・海笑・片笑み・歓 笑・嬉笑・譏笑・戯笑・嬌笑・苦笑・言笑・巧笑・哄笑・嗤笑・下笑まし・失笑・忍び笑 い・せせら笑い・窃笑・絶笑・そぞろ笑み・そら笑い・大笑・蚊笑い・ミミズ笑い・尿漏 れ笑い・逆立ち笑い・大回転笑い・小回転笑い・エジプト笑い・鼻腔笑い・羊笑い・ 牛笑い・ラマ笑い・ティンパニ笑い・突発的笑い・押し殺し笑い・目だけ笑い・怒り笑い・愛想なし笑い・微愛想笑い・極微愛想笑い・空洞笑い・一神教笑い・多神教笑い・ アメンボ笑い・ガラス玉笑い・綿棒笑い・ゴシック笑い・バビロニア笑い・フェニキア笑い・高笑い・談笑・人笑・図無笑・伝笑・鈍笑・嘲笑・追従笑い・作り笑い・照れ笑 い・諂笑・泣き笑い・苦笑い・盗み笑い・大爆笑・花笑い・曽我笑い・内蔵助笑い・核爆笑い・水爆笑い・イラワ笑い・アウロス笑い・アガメムノン笑い・アテネー笑い・ 道化笑い・トリストラム笑い・ゼウス笑い・ブヴァール笑い・ペキュシェ笑 い・猫笑い・熊笑い・ルキアノス笑い・キュプロクス笑い・ペネロペ笑い・丸谷笑・A笑・ B笑・Γ笑・Ω笑・半笑い・ルチフェロ笑い・微苦笑・媚笑・独り笑い・二人笑い・三人 笑い・含み笑い・放笑・貰い笑い・冷笑・温笑・極寒笑え・雪崩笑い・笑輔・笑太郎・笑 美子・朗笑・強笑・弱笑・悲劇笑い・道化笑い・盗まれ笑い・整列笑い・上向き笑い・下 向き笑い・斜め下向き笑い・吐き出し笑い・唾棄笑い・引き笑い・押し笑い・吸い込み笑 い・大吸い込み笑い・叫笑・漏れ笑い・全停止笑い・火山性微動笑い・噴笑・流笑・落笑・ 反笑・大反笑・転笑・延笑・数笑・円笑・方笑・縦笑・横笑・腎臓笑い・肝臓笑い・直腸 笑い・肛門笑い・屁笑・雪の宿り笑い・露の雨傘笑い・恋隠し笑い・秘笑・露笑・不秘笑 い・暗笑・黒笑・魔笑・鈍笑・重笑・夜笑・朝笑・黄昏笑・嚥下笑・嘔吐笑・嗚咽笑・喉 笑・鼻笑・耳笑・肩笑・右手笑い・検事笑い・異端審問官笑い・叩き笑い・撫で笑い・突 き笑い・鳩尾笑い・薔薇笑い・向日葵笑・赤笑・紫笑・白笑・灰笑・水笑・土笑・米笑・ 英笑・豪笑・魔女笑い・陰陽笑・天地笑・始終笑・四十笑・傘寿笑い・伝笑・不伝笑・握 笑・豚笑い・鳥笑い・秋刀魚笑い・エウボイア派笑い・岩笑・天狗笑い・山笑い・睦笑・懇笑・ 荒笑・書笑・読笑・筆笑・消笑・遁笑・西笑・東笑・炎笑・凍笑・怖笑・啼笑・某笑・非 笑・無笑・滅笑・空笑・数笑・算笑・ポ笑い・ペ笑い・ヌ笑い・エ笑い・イ笑い・ 母笑・妹笑・翁笑・媼笑・軽笑・枯笑・幽笑・仄笑・新笑・故笑・段笑・鷹笑・昇笑・饗 笑・宴笑・酸笑・甘笑・犬笑・辛笑・油笑・卵笑・塩笑・誤笑・道連笑い・恋歌笑い・秋 歌笑い・蛇笑・蔵出し笑い・走笑・歩笑・跳笑・百万遍笑い・春笑・冬笑・雨笑・泣雨笑い・号笑・貴笑・霊笑・詩笑・散弾笑・機関笑・正笑・善笑・悪笑・仁笑・慈笑・贈笑・捨笑・垂れ笑い・窪み笑い・甲笑・乙笑・活笑・砲笑・撃笑・鬱笑・聞き笑い・読み笑い・思い出し笑い・狂笑・福笑い・屈笑・食笑・常笑・変笑・寝笑い・界笑・境笑・神笑・いびき笑い・怒笑・罪笑・何笑・哀笑・媚笑・阿諛笑・俗笑・怜悧笑・磊落笑・髪笑・豪放笑・年末笑い・鬼笑い・巨樹笑い・閻魔笑・海笑い・天使笑・芋虫笑い・蝉笑・鵩笑・鼠 笑・都笑・収笑・吐笑・呼笑・話し始め笑い・話す前笑い・相槌笑・中笑・嫌笑・停笑・ 眠笑・風笑・死笑・陽笑・遅笑・皆笑・独笑・奇笑・骸笑・血笑・吉笑・凶笑・鄙笑・急 笑・忙笑・嘘笑・巧笑・内笑・老笑・塊笑・魂笑・贋笑・偽笑・僭笑・妙笑・一笑・合笑・ 斉笑・重笑・爆笑。
 その一つ一つに、細かい解説が加えられている。聖なる書物を書き写す原理主義者として、アウロスの声を、一語一語、アブジャドによって、しつこく書き込んでいくクリュタイムネストラの姿がホメーロスには悲哀に満ちたものとして浮かんだ。

しかも…、これは、〈アブジャド〉では、ない?
 A〈アレフ〉が、やたらと多用されている。E〈エプシロン〉もそうだ。いくつかの文字の使用頻度が、ふつうのアブジャドより格段にあがっている。
 実験的な語りだった。
 そこには、リテラとは、異なる「音」が当てられているようだった。
「アレフには…〈アー〉か?」
 ホメーロスは、この文書を読み進めていくうちに、かすかに湧いてきた違和感が、だんだん大きくなっていくことに気づいていた。
 それは、〈母音への転用〉だった。
「そ、そう、来たか!!」
 ホメーロスは小さく叫んだ。これは、母音を盛り込んだ、表音規則をもった文字列の発明であった。
 これまでの、アブジャドは、すべての文字を子音として使用していた。子音だけで表記されているので、読むときは文脈や法則からわざわざ母音を補う必要があった。アブジャドとはそういうものだった。だが、クリュタイムネストラは、この文書で、まったく、別次元の文字体系へと進化させている…。
 ホメーロスが見るかぎり、アウロスの笑いの表現で使われているリテラのうち、〈A〉〈Ε〉〈O〉〈I〉〈V〉〈W〉などは、従来の、子音の発音と異なる音を表現するものとして使われているのである。
 さまざまな箇所を対照させると、おそらく、〈A〉アレフは「アー」、〈E〉エプシロンは「エー」、〈O〉オミクロンは「オー」、〈I〉イオタは、「イー」と発音することを想定されている。母音を担う表音文字を、ホメーロスは初めてみた。
 これは…すごい!
 文字が…しゃべりだす!!
 子音と母音を組み合わせれば、文字から声が出る…。
 クリュタイムネストラの文字体系は、文字を、声を写し取る言葉として、完成させるものだった。これは世界を一変させる。

アブジャドが、ついに受肉した――。
 クリュタイムネストラの愛が、とんでもないものを発明してしまっていた。ホメーロスは、クリュタイムネストラの抱いているアウロスの声への愛情を、まざまざと見せつけられ、嫉妬心に気を失いそうになりながらも、文書をどんどん読み進めていった。次第に、黒い野望がいよいよ完成する喜びに打ち震えていた。
 だが、クリュタイムネストラは、これを発表することはないだろう。失われた声の村の末裔の言葉を、しつように書き記したものだ。一族の恥になりかねない。
 ホメーロスは椅子から立ち上がった。
 おれのちからで、この国へ持ち込む。
 おれは、完全な文字を手に入れたのだ!
「こ、これ、で、すべて、は、おれの、ものだ」

 

 

 

 

十四  アレフベト

翌日、ホメーロスは、ゴルギウス王への謁見を願い出た。
 天井の髙い立派なザキュントス家の王室に、ゴルギウス王のほかは側近だけだった。謁見を快く受け入れた王の前に、ホメーロスはかしづき、床にあの羊皮紙を広げた。蓮の香油をたらした芳しい、抒情詩を。
 王をはじめ、書記官たちはみなで、羊皮紙を覗き込んだ。
 ホメーロスは文字を指でなぞりながら、ゆっくりゆっくりと、文書を読み上げた。
 羊皮紙を奪うと、ゴルギウス王は、これを一瞥し、即座に言った。
「羊皮紙が歌い出すようだ! どういうことだ! 今までのアブジャドと、どう違うのだ?」
「ア、ア、アレフベト、です」
「アレフベト?」
「アレフベトと呼びます。最初の、二文字、〈アレフ〉と〈ベト〉を用いて、そう名付けました。子音と母音の組み合わせです。いくつかの文字の使い方が大きく変わります」
「どう変わるのだ?」
「こ、声を、埋め込んだのです。ぼ、ぼ、母音を、埋め、込みました」
「声を埋め込んだ、だと?」
 この王との謁見は、ホメーロスにとって一世一代の大舞台だった。力の限り落ち着いて、ゆったりと心を落ち着かせ、吃音をおさえて話した。
「たと、えば、A(アレフ)という、アブジャドが、あります」
 ゴルギウス王は、腕をまくって、刺青を見せた。
「これのことだろう。牛頭文字だ」
「アレフは、喉を閉じて声を押し出すような子音を表していました。『ん〜〜〜』ですね」
 王は、いらいらした調子で言った。
「知っておる。それがどうした」
「こ、これを、ぼ、ぼ、母音に、あてます」
「つまり、どういうことだ? 早く結論をいえ!」
「こ、これ、を、『アー』と読ませ、ます。声を、埋め込み、ます」
「アーという声を? うーむ!」
 ゴルギウス王はおもわず、うなった。
「だが、声には、『アー』以外にも、『エー』や『オー』など、他にもある。それはどうする?」
「そ、それにも、い、い、一文字ずつ、当てます。〈E〉や〈O〉や〈I〉です。す、す、すべての声が、文字で書くことが、で、で、できます」
「なるほど!」
 勘のいいゴルギウス王は、膝を打った。
「アブジャドが、いまや、声を得たのだな!」
「そ、その、とおり、です。いま、も、も、文字は、まさしく、ここここ、『ことば』になりました」
 ホメーロスは息を呑んで、調子を整えると、こう言い放った。
「アレフベトの誕生、です!」
 子音しか持たなかったアブジャドはいまや、子音と母音を組み合わせることで、話し言葉を、音のとおりに書き写すことができる、完全な表音文字となったことを王は理解した。王は、話し言葉をそのままに書き写せることの効用を、為政者としてよく承知していた。これを使えば、どれだけ多くの人民、軍隊に対して、一度にわが言葉を、そのままに布告できるだろう。どれだけの偉人の言葉を王室に蔵書できるだろう。どれだけ多くの国の歴史や状況を、王室の威容としてストックすることが出来るだろう。教育に、図書館に、軍隊に、市場に、あるいは、隣国との交易の拡大に、戦争に、利用することが出来る!
「でかした! 褒美をとらせる! これは歴史に残る、重大な発明品となるだろう。なんでも、好きなものを言ってみよ!」
「も、も、申し上げ、ます! わ、私を、王太子に!」
「なんだと!」王はさすがに仰天した。
 ホメーロスは、例の、王太子のブローチを懐から取り出した。
「ま、まず、こ、こちら、を」
 王は目をまるくして、それを受け取った。血のあとがついていて、王太子の運命を如実にあらわしていた。
「こ、これは? 王太子が身につけていたものでは」
「そ、その、とおり、です」
「どこで、これを?」
 王は、石の敷居を降りて、ホメーロスのそばにやってきた。
「そ。その、け、経緯は、こちらに、書き、ました」
 つづけて、ホメーロスは、懐から羊皮紙をもう一枚取り出し、王に献上した。王は、目を走らせた。そこには勇者ペリオン=ザキュントスの、冒険と遠征、その雄姿をたたえる叙事詩が、流麗な〈アレフベト〉で記されていた。
 王太子はエーゲ海の島々を転戦し、連戦連勝、いくつもの、〈声の村〉を征服、あるいは、殲滅し、キオス島にいたって勝利の美酒を兵たちとともに分かち合った。カルキスへの帰還の途中立ち寄った島で、最期は、蛮族に先陣きって立ち向かい、槍で貫かれる場面だった。ペリオン王太子が死の間際、ホメーロスに対して、このブローチを形見として受け渡し、ゴルギウス王にこれを献上するよう、頼んだ場面で終わっていた。
「あ、あ、あっぱれ、な最期でござい、ました」
 ホメーロスは、ペリオン王太子をしのんで、おいおいと、泣いてみせた。
 この詩だけは、ホメーロスが自らしたためた、まぎれもないホメーロス作の叙事詩だった。母音を手に入れたペリオンには、完全なるアレフベトをあやつることで、わが思考のままに、ことばを書くことが可能になっていたのである。
 もちろん、そこでは、朗詠のときに重視される長短六歩格の音韻も完全に無視され、ほとんど散文のようにかかれていた。しかし、アレフベトによって書き文字に表現されたがゆえに、音韻や音楽的美点に関する拙劣さはきれいに捨象されていた。その代わりに、あふれ出る臨場感と迫真性が王を圧倒した。王は、ただただ、物語としてこれを読み、興奮した。王は、無我夢中でそれを読んだ。そして、王は、最後まで一気に読み上げると、終わるやいなや、羊皮紙を投げ捨て叫んだ。
「クリュタイムネストラを呼べ! 金盥に、湯水を用意せよ!」
 クリュタイムネストラが、急ぎ足で王室へ参内した。
「お呼びでしょうか」
 王は命じた。
「そこへ、ホメーロスの隣へ、座りなさい」
 ホメーロスは、なにが始まるのかと、目をまるくして、あたりをしきりに見回した。クリュタイムネストラは落ち着き払っていた。まるで、死刑を前にした囚人のように、青い顔をしていた。
「ホメーロスよ。よくぞ届けてくれた。よくぞ語ってくれた。今日から、お前はわしの養子だ」
「はっ」
 ホメーロスは、深く頭をさげた。
「今日から、ペリオン=ザキュントスと名乗るがよい!」
「は、ははっ」
 王は続けた。
「クリュタイムネストラよ。これを見よ、ホメーロスがすごいものを発明したぞ」
 王が、ホメーロスの羊皮紙を手渡した。
「どうだ。アブジャドをも軽々と凌駕する、すばらしいものだろう」
 クリュタイムネストラは、軽くお辞儀をすると、羊皮紙を開いた。文字列の一瞥すると、たちまちすべてを悟った。盗んだのね。小さくつぶやくと、ためいきをついて目を閉じた。
「クリュタイムネストラよ。お前の、あたらしい婚約者だ。ホメーロスの足を、湯水で洗いなさい」
 立ち上がり、ホメーロスのそばに寄った。ホメーロスはちらりとクリュタイムネストラの目を見た。クリュタイムネストラの目が燃えていた。それがホメーロスを貫いた。怒りと諦念のまじった、かなしい目だった。
「恥を知りなさい」
 クリュタイムネストラはそうささやくと、ホメーロスのもとにひざまずいた。ホメーロスは、まんぞくげに、足を差し出した。クリュタイムネストラは、金盥の中で、ホメーロスの右足を、白い指で洗った。ホメーロスは、おそるおそる、クリュタイムネストラの右肩に接吻をした。
 ゴルギウス王が立ち上がり、拍手を送った。場内の書記官や大臣たちも拍手した。高い石天井に、ゴルギウス王の声がこだまする。
「アレフベトの誕生だ! ここに、夫婦の約束をかわした二人が、この完全なる文字体系、アレフベトによって、世界を席巻するのだ! 宴を催せ! 国の内外に、ペリオン王太子の即位と、婚礼とを披露し、わが国力を見せつけるのだ!」
 夜更けには、二人は、王太子の寝室にいた。
 天蓋のぶらさがった下に、ベッドがひとつ。上質な牛の毛皮が三枚、羊の毛皮が五枚重ねて敷かれているうえに、二人は腰掛けていた。女中もさがらせ、部屋には二人だけだった。
 ペリオンは、肌着を脱いで、背を見せた。
 背中全体に、牛の頭を逆さにした文字〈アレフ〉が大きく描かれ、その周りにも、無数の文字が散りばめられていた。ペリオンは、クリュタイムネストラの首筋に手をあてた。そのすぐ下にも、刺青が刻まれていた。ペリオンは、差し入れた手をそのまま奥のほうのやわらかいところまで延ばしてていくと、クリュタイムネストラは目を閉じて身を任せた。
 明け方、クリュタイムネストラはそっと寝所を抜け出し、邸を出た。森へ入り、あの泉へいくと、声をあげて泣いた。

翌朝、クリュタイムネストラは、エレトリアに馬を走らせ、アウロスを訪ねた。
 クリュタイムネストラは、アウロスに詩の朗詠をせがんだ。アウロスは、一昼夜かけて、長い叙事詩を朗詠した。それは、トロイア戦争の顛末を語る大叙事詩で。初めて聴くものだった。二人は、飲み食いさえ忘れて、声だけで惹起する物語世界のなかに没入した。暁の光が部屋に差し込む頃、ようやく叙事詩は終わった。ふたりは、どちらから、ともなく抱き合った。長い時間、抱擁が続いたが、それ以降、声は、どちらからも発せられなかった。だが、二人の脳裏には、互いの声がずっと響いていた。
 クリュタイムネストラは、アウロスが望むなら、王や家を捨てる覚悟さえ持っていた。だが、アウロスが望むわけがなかった。アウロスは自分の一族を焼き払ったこの国を絶対に許さない。二人は、そういう互いの宿命については何も触れず、ただ、もう残り少ないおだやかな時間に、身を浸していたのである。
 クリュタイムネストラは、アウロスの手を取り、そこに別れを意味するアレフベトのひと綴りを書き、掌に、最初で最後の接吻をした。
 アウロスはクリュタイムネストラのため息から全てを察した。

 

 

十五  結婚披露宴

西日が真っ赤にカルキスの街を照らす頃、ゴルギウス王宮の前庭には、王と、その側近や護衛、ゴルギウスの三人の従兄弟、大臣たち、王の幼なじみとその子供たち、この教区の主席司祭であり王家の後ろ盾を務めてきたテンティウス、ゴルギウスの悪友でもあり街の顔役でもあった武器商人ポイニアス、あとは商店街の店主たちや修道士たちがわらわらと集まっていた。集会の中心にはオオモモザクラの巨樹が濃い桃色の大粒の花を今が盛りと咲かせている。
 オオモモザクラの樹下にペリオンの姿があった。この日のペリオンは、新しい王太子ペリオン=ザキュントスのお目見えにふさわしく、アンゴラ山羊の張りのある生地で仕立てられた濃紺の上衣に、金色の帯を合わせ、首元には同じく濃紺のリボンを結んでいた。銀色の髪は、ますます美しく、雄々しい額と張り出したあごはペリオンが人生の円熟期にあることを、客たちに示していた。
 この日の結婚披露宴は、酒も料理も申し分ないものだった。中でも主賓テーブルに並んだ合計三十六本もの神秘的な雰囲気をまとった酒壺の壮観な整列である。これらの酒壺はこの日のために開栓を待たれていた選り抜きのぶどう酒で、ギリシャの内外の老舗の酒蔵から供されたものであった。巨大な海ウナギは、水晶のごとき鱗片を丁寧に下処理された後、新鮮なオリーブオイルと黒胡椒のかぐわしい炭火焼きにされ、規格外の大きな皿に豪快に盛りつけられた。他にトリュフとともに五種類のハーブを詰めに詰めた七面鳥、その立派な丸焼き七十四羽が三十七皿に盛られ、アウロスの言葉によれば、「パリパリ と香ばしく焼き上げられた表皮とそれと対照的に包まれた身は水分と油分をたっぷり含んでおりまさしく絶品」であった。さらに地場産の大粒ムール貝を上等の小麦ビールで虹色に酒蒸しにし山高く盛りつけた二十四もの大壺が絢爛にテーブルを賑わせていった。
 ここでもうひとりの主役が現われた。新妻クリュタイムネストラ=ザキュントスである。
 クリュタイムネストラは、後ろへ垂らしたいつものスタイルではなく、髪全体を一つに束ねて後ろから上部へまとめ上げていた。鈍い光沢を放つ純白の繻子のドレスは、冥界の王もそのうなじに陶然とするほどの神々しさで、オオモモザクラの濃赤色をなめらかに照り返している。手に抱えた繻子のポーチはドレスと共地でつくられていて、簡素な造りに見えながら、垂れ下がる白い腕が黒繻子のドレスとポーチに優雅に映えていた。肩には青銅色の絹のストールを纏まとっている。
 クリュタイムネストラは、大臣たちに囲まれながら、周囲を見渡し、アウロスを探していた。
 宴は夜が深まるにつれ、ますます喧騒を深めていった。

「ガシャン! パリン!」
 酒がなみなみと注がれた酒器があちこちで割れ、庭のかがり火は、ますます煌々と周囲の闇を集める。結婚披露宴の夜はすでに真夜中、披露宴を彩るカルキスの街の明かりは、酔客たちに無数に降り注ぐ星の存在を忘れさせていた。まだ明け初めぬ空が、少しずつ青さを緩めていた。黄緑色の夜鶯が、休みなく喉を震わせて伝えている。カルキスじゅうの酒屋からは赤ぶどう酒樽、干しぶどう酒、それに黄金の大麦で仕込んだビールの木箱が際限なく届けられ、増殖した招待客の喉を甘美に潤し続けていた。豚や牛の臓物料理は、腸や胃、横隔膜や舌、その他食べられる部位はどんなものでもたっぷりした脂身をつけたまま処理され、素朴に岩塩焼きや熟成葡萄酢の照り焼き、ビール煮込みや葡萄酒漬けにし、大蒜ニンニク油で炒めたかと思えば煮凝りにしてバビロニアの化粧を思わせる原色の混淆に皿を彩り、こんな夜中に至り、塩と油に飢え果てた、豚野郎とか豚女、彼らの腹なる臓物をまた臓物でふくれさせ、臓物の臓物による臓物のための食べ過ぎでっぷり腹の酔客はそれぞれ用足しのため次々と姿を消すと、老いも若きも幼きも美男美女も一同便器にまたがり臓物の中の臓物を綺麗さっぱり絞り出し最早これまで断固これまでと、水をがぶがぶがぶと飲んで体内の管という管を清め、尻を拭いたら眠ってしまおう、と固く誓いを立てたはよいが、いざ尻を拭く段に、羊皮紙が善いか、葉っぱが善いか、麻か木綿か天鵞絨か、繻子か猫かイタチかリスか、果ては鵞鳥の雛の産毛による拭き心地、これに勝るべき柔らかき気持ちよき肌触りはなしと、一夜のうちに集められた千羽以上の鵞鳥の雛、使用前のも使用後のも併せてパポス・パエストス広場をガアガアガア、ガアガアガアガアと、牛祭りの牛追う群衆のごとく埋め尽くしたため、是にて万事済ませたりと宴席に戻ってみれば其処は新たなる銘酒美酒の注ぎに注がれた酒杯の林立、ふたたび臓物とバッカスの支配する深海へ沈んでいったのである。いつしか街の外からきた披露宴目当ての賓客を乗せた馬がパポス・パエストス広場にひっきりなしに乗り付けられ、広場にはすでに三百頭を越える馬が主を待てりといななき喧しくひしめき勝手に宴会を始めたせいでごった返した。港では貨物船が到着するたびに、ペリオン=ザキュントスの婚礼のためにこれに密かに便乗して里帰りしてきた者たちではぎゅうぎゅう詰め。それでも乗客はぞろぞろぞろと手荷物かかえて徒歩でゴルギウス王宮を目指す。結婚披露宴の群衆規模は、かのトロイア戦争・ディオニュソス祭のそれを遙かに凌駕し、群衆は総計二万四千五百四十四人に達した。
 宴の主役たるペリオン王太子の姿も、幾度かは目撃されたが、もはや幻影のような存在として酔客のあいだで語られていた。ときには、ほとんど裸のような格好をした女十数人がかつぐ神輿の上で、ペリオン王太子は極彩色で彩られた木像のように揺られていて、群衆の雲海を泳いでいく神輿はまるっきりオリュンポス山に凱旋する全知の神ゼウスそのもので、木像を載せた神輿をみれば、横笛や小太鼓、中太鼓や大小さまざまな弦楽器をかき鳴らす異教徒らしき子供たちでひしめきあっていて、リリン! リリリン! と鈴の音はパレードの往来に鳴り響き、この祭りはこのまま何日も続くかと思われた。
 群衆のすべてが神輿の上の人物に釘付けになっている中、アウロスは一人そっぽを向いて佇んでいた。アウロスは一人俯いていたが、ゆっくりと空を見上げ、神輿が真横を過ぎる瞬間に、つぶやいた。
「ホメーロス?」
 しかし、その声は 巨大な群衆の蠕動にあっというまに飲み込まれてしまい、王太子も三たび消え去った。

 

 

十六  偉大なる詩人

宴の中心は、ゴルギウス邸から、通りを隔てた、ディオニュソス劇場に移っていた。
 みな何かを待っていた。
 祭が終わる。
 劇場だけでなく、すぐ前の通りも広場まで人がぎっしりと詰まっていたが、みなのろのろと劇場に向けて歩を進めていた。群衆はディオニュソス劇場に向けゆっくりと巡礼を開始しているようにもみえた。放射線状に、人垣が街を埋め尽くし、その熱気は、ぎしりぎしりと悲鳴をあげている。なにかが起ころうとしている。
 ペリオン王太子が、クリュタイムネストラを連れて、ひょいっと劇場の舞台に現れた。
 拍手が嵐のように沸き起こった。ペリオンが、最後の挨拶をしようと、ことばを選んでいる。だが、一言目が言い出せない。
 群衆は砂塵の舞う更地に水を打ったように、一気に静まっていた。
 ゴルギウス王もまた、あごヒゲをなでながら腕を組み、護衛を引き連れて、最前列でそれを眺めていた。誰もが、ペリオン=ザキュントス王太子の、一声を待ちわびていた。
 そのときだ。
 一人の盲人が、杖をつきながら、よろよろと舞台へあがっていった。連れは一人もおらず、止める者もいない。まったくの闖入者だった。披露宴の名残が、なんでもありの余興を許す空気を、いまだ引きずっていたせいかもしれない。ペリオン王太子とクリュタイムネストラが驚いて言葉を失っている、その目の前に現れたのは、アウロスだった。
「吟遊詩人でございます! エーゲ海随一のラプソードスとして、名を馳せる、アウロスでございます。今宵の宴に花をそえるべく、詩と音楽を上奏させていただきたく。全知全能なるゴルギウス王様! そして、ゴルギウス王が一子、ペリオン王太子様! なにとぞ、お許しを」
「これは一興! 続けたまえ!」
 ゴルギウス王は、詩の朗詠に目がなかった。
「王太子よ! 今宵、最後の余興だ。稀代のラプソードスの登場だ!」
 おおきな拍手が起こった。それは、波のように群衆の間を広がっていった。
 そして、幾万の群衆、そして、エウボイア島のすべての民、あるいは、エーゲ海の全人民が、宴のラストに現れた吟遊詩人の一挙手一投足に注目し、聞き耳を立てた。
 アウロスは杖を投げ捨てると、舞台に用意された椅子に腰掛け、竪琴をぽろんと爪弾いた。しわがれ声が、徐々に伸びやかな美声へと変化していく。それこそはアウロス、一世一代の絶唱だった。

ムーサよ、わたくしに、かの男の物語をしてくだされ。
 ドーン、ドンドン、
 ドーン、ドンドン、
 ドーン、ドンドン、
 ドーン、ドンドン、
 ドーン、ドンドン、
 ドー、ドー、
 朝のまだきに生まれ、
 指、薔薇色の曙の女神が姿を表すと、
 オデュッセウスの寵愛の息子は床から身を起こし、
 衣服をつけると肩には鋭利な剣を懸け、
 艷やかな足には見事なサンダルを結んで、
 寝所から立ち出る姿は、
 神かと見紛うばかり。

劇場を埋め尽くした群衆たちは水を打ったように沈黙し、ただ呆然と中心に立つアウロスを眺めていた。ゴルギウス王、クリュタイムネストラ、ペリオンをはじめ、司祭、ヨマイデカ、アキレス、それから、孤児院の子供たちとその保護者たちまで、誰もが口をぽかんとあけて突っ立っている光景は止め絵のようであった。アウロスの声が響く以外には、怖ろしいほどの静けさである。永遠に続くかと思われたその沈黙も、 じつは数秒だったのかもしれない。
 アウロスは、第一歌からはじめ、第二歌、第三歌。際限なく朗詠を続けた。あまりの熱演と美声とに、聴衆はすっかり心を奪われ、王太子も、これを中断させようとするスキを見つけられなかった。クリュタイムネストラは、陶然としてアウロスの朗詠を聞きながらも、この歌が終わったときに起きるであろう混乱をおもうと、胸がかき乱されるのだった。
アウロスは朗詠しながらも、自分の目的を果たす機会を鋭敏に狙っていた。上衣のあいだに手を差し入れ、懐にある短剣の革紐を解きほどいていった。
 
 やがて、陽は、不死の神々には光をもたらし、
 死すべき人間には、稔りを恵む田畑を照らすべく、
 美わしい海面を離れて、
 青銅の蒼穹に昇る。

アウロスは、詩神ムーサのごとくに、鐘の鳴るような輝かしい声で朗詠を続けながら、少しずつ、舞台真ん中へ立つ新郎新婦のもとへと近づいていく。
「真ん中へ! もっと真ん中へ!」
 ゴルギウス王は顔を紅潮させて興奮し、アウロスの朗詠に対して合いの手を入れるように叫ぶ――

ついに、アウロスは、第三十歌まで吟じ終えた。
 一瞬の静寂のあと、一斉に観客たちが立ち上がり、怒号のような吐息を放った。地鳴りのような声が、次第に大歓声となっていき、劇場を包んだ。
 勇ましきゴルギウス王が立ち上がり、たくましい両手を広げて称賛した。
「なんという美声よ。なんという詩心、そして、なんという物語。その物語こそ、わが一族伝来の物語なり! さあさ、もっと前へ出よ、舞台中央へ!」
 ペリオンも、目に涙をためて手を叩いていた。王も大臣もみな同じだった。クリュタイムネストラ一人が、アウロスを目の前にして不安の絶頂にいた。
 歓声はしばらく続いた。落ち着くのを待って、王がよく響く声で言った。
「褒美を取らせよう! なんという物語だ」
「勇者オデュッセウスの物語、すなわち、『オデュッセイア』でございます。ゴルギウス王が一子、明智類い稀なるペリオン=ザキュントス王太子の、偉大なる遠征を褒め称えんと、吟じた次第にございます」
「『オデュッセイア』とな! 書記官よ、記せ! この偉大な叙事詩の題名を!」
 アウロスはうやうやしく、実にゆっくりと頭をさげると、こう言った。
「褒美とは、滅相もない、これは単なる余興でございます。ですが、全知全能なるゴルギウス王のお言葉とあらば、所望するところを申し上げなくては、かえって無礼千万。謹んで、私の、小さな願いを、この哀れな口に昇らせ参ろうと存じます」
「申せ。好きなものを言え」
 アウロスは、一礼して言った。
「では、わが宿敵の、お命、ちょうだい致します」
 そのとき、アウロスは、盲とは思えない身のこなしで後ろへ翻り、背後に立っていたペリオン王太子の腕をしっかり掴んで投げ飛ばすと、倒れた王太子の上へ馬乗りになり、いつのまにか手にしていた短剣の刃先を、胸の中心へぴたりとあてた。
 ペリオン王太子は、あっけに取られたが、事態を把握すると目・鼻・口から水をあふれさせ、顔を歪めて暗殺者をみあげた。それはかつて父のように慕った男の、決然とした顔だった。ペリオンは、アウロスにしか聞こえない声で言った。
「お、お、おれ、が、だ、だ、だれだか、わ、わ、わわ分かるでしょう? あ、あ、相手を、ま、ま、間違えてる」
 もうほとんど泣き出しそうだった。親の非常なせっかんを受けている子供のようでもあった。
「あ、あうろっっっふ」
 アウロスは眉間に深いシワを刻み、口をへの字にぐぐぐっと歪めると、目からぽろっと涙を出し、絞り出すような声でささやいた。
「わからない、わけが、ないだろう、わが最愛のホメーロスよ」
アウロスは、声を張り上げてこう言った。
「王太子よ! 牛頭刺青の一族よ! わが一族を滅ぼしし、仇敵よ! 文字の狂信者よ! いまこそ復讐の時は満ちたり! 死ね!」
「アウロオ―――――――――――――――――――――――――ッス!」
 ホメーロスの、澄んだ伸びやかな美声が劇場全体に響いた。かれは皮肉にも、こんなときになってようやく、吃音の呪いから解き放された。
 クリュタイムネストラが悲鳴をあげた。
 アウロスは、短剣を王太子の胸に突き下ろした。
 王太子は、とっさに、自由になった手で、アウロスの顎を打ち抜いた。
相手の態勢がゆらいだ隙に、体をひねり、アウロスの馬乗りから抜け出た。舞台袖にいた護衛の手から長槍を奪うとくるくると回して、アウロスに正対して下段に構えた。
 舞台の中央に、槍一本の距離をおいて、二人は向き合った。
 にらみ合う二人は、どちらからも動けない。
 王太子はアウロスの表情をまじまじと見て、改めて思った。
殺さねば、殺される。アウロスは本気だ。アウロスが動いた瞬間を狙って、長槍を突き出すしかない。しかし…。
「一同、弓矢をもてい!」 
 ゴルギウス王が舞台下から部下たちに向かって大声をあげた。その瞬間、アウロスが動いた。声のした方向をめがけて、短剣を投げたのである。
 ホメーロスが見たときには、ゴルギウス王が胸を抑えて目を閉じていた。短剣はゴルギウス王の左胸に深々と刺さっていた。王の胸がみるみる血に染まっていくと、王はガックリとひざまずき、そのまま、巨大な牛のようにどうと倒れた。
 舞台後方で構えていた弓矢隊の一人が叫んだ。
「打てい!」
「待て!」
 制したのは、ホメーロスだった。
 だが、一本の矢だけが放たれてしまった。弧を描いて飛んだ矢は観客席を越えて、舞台中央にいるアウロスに向かって正確に飛んでいった。王太子は長槍を振り上げると、すんでのところで、矢を叩き落とした。
「待て、というのに!」
 それを見た、弓多隊の隊長が叫んだ。
「王太子殿! まさか、かばい立てされるのですか!」
 観客たちが一斉にわめき始めた。
「そうだ! かばうのか! 殺せい!」
「王太子もグルなのか!」
「王を殺すつもりだったんだ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」
 声は波のように、扇形の劇場全体に、同心円状に広がっていった。怒りの大合唱は劇場の端から通りへ吹き出した。王宮のオオモモザクラの大樹を揺らせて、花を降らせると轟然とした声の輪はあっというまに通りを抜けてパモス・パエストス広場まで拡大し、カルキスの街中を飲み込んでいった。巨大な雲が声に鼓舞されてみるみる盛り上がっていき、蒼空を埋めていった。
 ホメーロスは圧倒されながら、座り込んだアウロスに向かって、長槍の先を突きつけた。アウロスは言った。
「これからは、お前たちの時代だ。情けは無用だ」
「あなたの声は、ずっと忘れません」 
 ホメーロスは客席に向き直ると、力なく言った。
「処刑は、このディオニュソス劇場の舞台でおこなう。関係者は、半刻後に集合せよ」
 クリュタイムネストラは気を失った。
 

 

 

終章  

首として転がったアウロスの脳裏にのみ存在した『オデュッセイア』は、書かれざる物語として、彼の頭の中以外、どこにも存在しなかった。豊かな音調や、波のように寄せては返す抑揚や、うつくしい旋律とともに、これもまた未来永劫失われた。
 処刑も披露宴の片付けも終わったころ、弓矢隊の一員が、隊長に聞いた。
「ところで、あの吟遊詩人の名は?」
「忘れました。ただの盲人でした」
 クリュタイムネストラは、アウロスの詩を、書き写していた。かつて愛した男の声と忠実に反映させるべく、アレフベトによって、『オデュッセイア』『イリアス』のすべてを書き記した。これこそが、人類史上、最初の完全な表音文字体系、アレフベトによって書かれた、最初の文学だった。完全なアレフベトは、後にも先にも、たった一度しか発明されず、洋の東西を席巻した。
 しかし、この原テクストもまた、幾百年のうちに、散逸してしまった。
 そして、その作者の名すらも、「ホメーロス」とのみ伝わり、永遠に失われてしまっている。

〈了〉

 

 

 

 

 

【参考文献】
W・J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳 藤原書店
スティーヴン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』鈴木晶訳 研究社
ホメロス『イリアス』(上・下)呉茂一訳 岩波書店
ホメロス『オデュッセイア』(上・下)呉茂一訳 岩波書店
ホメロス『イリアス』(上・下)松平千秋訳 岩波書店
ホメロス『オデュッセイア』(上・下)松平千秋訳 岩波書店
ヘシオドス『仕事と日』松平千秋訳 岩波書店
「ホメーロスとヘーシオドスの歌競べ」松平千秋訳
伝ヘロドトス作「ホメーロス伝」松平千秋訳
ヘシオドス『神統記』松平千秋訳 岩波書店
竹本住大夫『人間、やっぱり情でんなぁ』文藝春秋
竹本織太夫『文楽のすゝめ』実業之日本社
玉川奈々福『語り芸パースペクティヴ かたる・はなす・よむ』晶文社
神田松之丞『神田松之丞 講談入門』河出書房新社

文字数:47862

内容に関するアピール

この小説を書くに至った問題意識は三つあります。
まとめると「文字に書かれた言葉」への過信を疑うことにあります。

 第一に、コロナ禍は、世界のコミュニケーションを一変させました。
 直接会うことを厭う環境は、ますますTWITTERやLINEでの文字での交流を加速させた一方で、ClubhouseやZOOMなど、相手の声をききたいという欲求も顕在化しました。

第二に、過去のインタビュー記事や、記者会見の発言の抜粋が記事化され、ネットで拡散されるようなことも増えました。発話者以外の人間が文字に書いたものを、発話者に結びつける強い意図(悪意の場合も)を感じることが増えました。
 私は、直接会って対話することでしか得られないものを考え直す機会が増えました。

第三に、本が読まれなくなっている現状です。文字を読むのがしんどいと思われるのは、なぜなのだろうかということです。文字に書かれたものが本当に言葉そのものであるなら人間に、小説は、その一番シンプルな形式なはずです。
 私は、映画でも演劇でもテレビでもなく、小説でしか表現できないことを書きたいとずっと考えてきましたが、文字情報が持つ貧しさを再認識するところから出発したいと思うようになりました。

かつて、文字のない空白の時代がありました。
 ギリシャ・エーゲ海一帯に繁栄したミュケナイ世界は前十二世紀になると、いわゆる「カタストロフ」によって崩壊し、使用されていた線文字Bも完全に忘れられると、以降、ギリシャ世界は文字をもたない暗黒の時代が二〇〇年以上続いたと言われています。

そこに現れたのが、ホメーロスの叙事詩と、ギリシャアルファベットでした。

全く文字に書くことを前提としない声の文化のなか、これらが同時に起きた、という可能性に、私は強く惹かれました。文学が生まれた瞬間に何かの熱意があったはずです。しかし、ホメーロスの素性も含め、記録はほとんどありません。
 文字は自然発生する言語とは違い、意志をもった人間が創り上げるものだと言われています。私は、このドラマを書きたいとおもい、この小説を書きました。

この一年で教えていただいたことを、自分なりにエンタメとして盛り込んだ、この講座の最終実作です。よろしくお願いします。

 

文字数:926

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