スノードームの魚たち

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スノードームの魚たち

 

 
 うすいまぶたの下で、眼球がきょろきょろと動いているのがわかる。水槽のなかで、小さなネオンテトラが尾びれを忙しく動かしながら、ちょこまかと泳ぎ回る様子をわたしは思い出す。
 こんなふうに瞳が動くということは——レム睡眠中だ。ひと晩のあいだに幾度も繰り返されるという、深い眠りと浅い眠りの波のうち、浅いほう。だから夢を見ているのかもしれない。行儀よく並んだまつげはとてもきれいで、わたしは蛍(けい)を起こすのが惜しいと思ってしまう。
 でも、しかたない。いつまでもこんなことをしていたら遅刻してしまう。
「蛍」
 名前を読んでみたけれど、相変わらず寝息は規則正しく続いている。少しでも物音がすると目覚めてしまうわたしとは、ちっとも似ていない。
「蛍」
 わたしはもう一度名前を呼びながら、かけぶとん越しに肩の辺りをつかみ、そっとゆすった。
 眉間にぎゅっとしわがより、蛍の目がうっすらと開いた。
「おはよう」
 わたしが言うと、かすれ声でつぶやくように、
「おはよう」
 と返ってくる。わたしは梯子に足をかけ、二段ベッドの二階にあがると、充電完了しているスマートフォンをコードから抜きとった。
「朝ごはん、食べるでしょ。遅刻するよ」
 声をかけるわたしへの返事のかわりに、蛍は大きなあくびをひとつ。そして、眠そうな目をこすりながら、夜(よる)、となぜだかわたしを手招きした。
「なに?」
 怪訝に思いながら近づいていくと、長い腕がわたしの胸のほうに伸びてくる。
「あいてる」
 と、セーラー服の左脇の下にあるファスナーを、蛍の指がおろした。
「蛍ー」
 階下から、瑞穂さんが呼ぶ声がする。きっとまだ寝ていると思っているのだ。
「起きたって言ってくるね」
 と言い残し、わたしは部屋を出る。うー、とも、おー、ともつかない間延びした返事が、うしろから追いかけてくる。

 
 食卓には大きな魚のひものが三尾に、ふっくらとした卵焼き、オクラの煮びたし、わかめごはんとなめこのお味噌汁、香の物が並んでいる。太陽はすでに行儀よく席につき、エプロンをつけた智恵子さんと瑞穂さん——ふたりのお母さんたちはそれぞれ自分のぶんのごはんと味噌汁を持って、キッチンからテーブルに向かおうとしているところだった。
 わたしもいつもの自分の席、太陽のとなりにあわてて腰かけ、みんなと一緒に両手をあわせる。
「いただきます」
 太陽は真っ先に、黄色い卵焼きに箸をのばす。わたしはお味噌汁をすすろうと碗に口をつけるけれど、とろみのついたなめこ汁はまだたっぷりと熱をしのばせていそうで、唇をとがらせてふうふうと冷ます。
「あれ、香織さんは?」
 姿の見えないもうひとりのお母さんについてたずねてみると、智恵子さんはいたずらっぽく笑って、
「お泊まりよ」
 と言った。
 お泊まり。その響きに心臓がひやりとする。香織さん、昨日はどんなひとと過ごしたのだろう。このあいだ会って、楽しかったと浮かれていた相手とは、また別のひとだろうか。
「ぼく、妹がほしいなあ」
 と太陽が言う。どうかしらねえ、と智恵子さん。
 遅れて蛍が姿をあらわす。
「おはよう」
「おはよう」
 いちおう制服には着替えてあるけれど、まだ髪の毛にはばっちり寝癖がついたまま。それなのに二十分後にはちゃんとわたしと一緒に家を出るから、いつも感心してしまう。
 わたしは干物に手を伸ばす。ぱりぱりに焼けたしっぽを指先でつまみ、箸の先で身のはじっこをおさえながらひっぱりはがす。つるりときれいに骨と身が分かれ、気持ちがいい。
 と、骨の下に隠れていた弾力のある身を、すかさず蛍がさらっていった。
「ちょっと」
 半ば本気でとがった声を出したわたしを見て、瑞穂さんが愉快そうに笑った。

 
 学校まで歩く道すがら、蛍は三分に一度ほどのペースであくびをしていた。昨日も遅くまで勉強していたから無理もない。
「今日のテスト、なに」
「物理と数学」
 と、聞いてもどんな内容なのかはわからない。男子と女子のカリキュラムはぜんぜん違うし、女子も一応テストは受けるけれど、結果が悪かったからといってこれという不都合も特にない。
「蛍も、テストは今日で最後でしょ」
 ん、と蛍は軽くうなずいて、またあくびをした。
「じゃあ、帰り、ここでソフトクリーム食べよう」
 わたしは、まだ開店前のスタンドを指さした。小さな頃から、ちょっとしたご褒美のときに、お母さんたちに連れてきてもらっていた場所だ。
「いいよ」
 と、蛍は言う。
 ソフトクリームスタンドのとなりには、ゲームセンター、八百屋、薬局、小さな神社が並んでいるけれど、まだ朝なのでしんと静かだ。通りに向かい合うようにしておだやかな海原が広がり、朝陽を受けて水面がきらきらと輝いている。
 わたしは、少し前を歩く蛍のうしろ頭を見る。おさまりきっていない寝癖の毛が一束、ぴんと元気に跳ねていた。
「寝癖、なおってないよ」
 蛍の硬い髪を指先ですいた。
「あらら」
 と口では言うけど、それほど気にしてはいないのだろう。
 わたしは、ふらふらと太腿の横で揺れている、蛍の左手をつかんだ。蛍はぼうっと歩きながら、反射のようにして握り返す。
 蛍の手はわたしのそれとほとんど同じ温度をしている。あと数ヶ月でこれを失うことになるなんて、やっぱりまだ現実味がわかない。

 

 
 明日から産休に入るマユリちゃんのまわりに、女の子たちが集まっている。
 わたしは窓際のうしろから二列目、自分の机の横のフックにかばんをかけ、目の前の席で突っ伏している奈美の、左耳のイヤホンをそっとはずした。
「おはよう」
 わあ、びっくりした、と奈美はおおげさにおどろいて見せる。前髪を切ったばかりなのだろう、上まぶたのちょうど上のところで、黒々とした艶のある髪がきれいに揃っている。もとから愛嬌のある目に、ますます視線が吸い寄せられる。
「なにを聴いてたの?」
「そんなの、愚問だね」
 と言うので、奈美の大好きなバンドの名前を出すと、彼女はなぜか得意そうにうなずいた。
「マユリちゃん、明日から産休だね」
 必然的に話題にせざるをえないくらい、マユリちゃんとそのまわりの女の子たちは、教室のなかで多大なる存在感を放っている。大きく突き出したおなかを、かわるがわるみんながさする。まるでそうすることで、ご利益によって自分も妊娠できるみたいに。
「あんなにおなかが大きいって、どんな感じなんだろうなあ」
 正産期に入ると、おなかが頻繁に張りやすくなります。少しずつ、おなかのふくらみの位置が下がってきます。
 さんざん授業で聞いてはいるけれど、こればっかりは実際に体験してみないとわからない。
 マユリちゃんのおなか、いいな。わたしもさわってみたい。わたしのおなかがあんなふうになるのは、まだいつになるかわからないから。
「ねえ、奈美」
 同意を求めたわたしから、奈美は、ひょい、となぜか目をそらし、なにも言わないまま、肘をぽりぽりと掻いた。
「奈美」
「え?」
 なんだか奈美の様子がおかしい。普段なら、赤ちゃんができたらマタニティドレスはこういうのを着たいだの、こんなマタニティフォトが撮りたいだの、お産のときに流す用のプレイリストをつくっているから聴いてほしいだの、聞いているこちらがたじたじになるくらいあれこれと憧れを語ってくれるのに。
「奈美、もしかして」
 視線をきょろきょろと彷徨わせながら、今度はおでこを掻いている奈美を見て、わたしは確信した。
「もしかして、妊娠、したの?」
 わああ、と大きな声をあげて、奈美は手のひらで顔を覆ってしまった。
「誰の?」
 とうとう奈美もわたしより先に行ってしまった、という焦りと、純粋な興奮とが胸の内で入り混じる。
 手と手のあいだから漏れ聞こえた奈美の声が、
「幸人くん」
 と告げるのを聞いたとたん、しかし、焦りのほうにぐっと天秤が傾くのがわかった。自然に視線が、右斜め前のほうの席でほかの男子生徒たちと談笑している姿に吸い寄せられてしまう。ここからは、きれいな耳のうしろがしっかり見える。
 わたしはまばたきをひとつした。
「いいなあ」
 素直な感想が口をついて出る。うん、と、奈美は噛み合っていない返事をする。
「でもほら、まだ、ひと月しか経ってないから。ちゃんと無事に生まれてくるかどうか」
「でも、第一歩だよ」
「うん、そうだね」
「いま、ひと月ってことは、生まれるのは……」
 わたしが頭のなかで計算をしていると、
「来年の四月」
 と奈美がつづきを引きとってくれる。
「四月か」
「うん」
「卒業してすぐだから、ちょうどぴったりだね。スタートダッシュだ」
 自分の声に薄暗いうらやましさがにじみ出ていないかどうか、少し不安になって、でも、相手は奈美だから、変に隠さなくてもいいのかもしれないとも思う。そんなわたしの心のなかをすべて読みとったみたいに、
「大丈夫だよ」
 と奈美が言った。やっぱり、わたしは思っていることが全部顔に出てしまうみたいだ。
「別に、卒業前に妊娠しなくちゃなんて決まりはないんだから」
「うん」
「最近、セックスはしてる?」
「してるよ」
「幸人くんとも?」
「うん」
「楽しい?」
「楽しいよ」
「それがいちばんだよ。まだ卒業前なんだから、うんと楽しまなきゃ、ね」
 わたしは一昨日の幸人くんとのセックスを思い出す。たしかに楽しかった、と思う。けれどそれは、奈美が、マユリちゃんが、感じているセックスの楽しさと比べてどうだろうか。同じくらい、わたしは楽しんでいるのだろうか。
 うんと楽しまなきゃ。
「でもさ。これで夜も幸人くんとの子どもを妊娠したら、なんだかうれしいよね」
 そう言って奈美はわたしの腕に腕をからませ、くつくつと笑った。奈美の髪の毛から、シャンプーのいい匂いがふわりと漂った。
「あ、蛍くんだよ」
 窓の外を指差して奈美が言う。
 セックスのことを考えていたところに蛍がまざってきて、脳が小さなバグを起こしたのか、なぜか脳裏に蛍と裸で抱き合う映像が浮かんでしまった。思わず顔をしかめ、頭の遠くに追いやる。腐った食べ物を間違えて口に入れちゃったみたいな気分。
 蛍は中庭の自動販売機で、友達とジュースを買っている。きっとまた例の紙パック入りの、甘ったるい乳酸菌飲料だろう。蛍は昔からあれが大好きだ。
「蛍くんは、どうなのかな」
「え?」
 もう、誰かのこと妊娠させたりしたのかな。
 長いまつげに縁取られた目で、蛍の姿をまっすぐにとらえて奈美は言った。
「知らない」
「そういう話、家族でしないんだ」
「したくないよ、蛍とセックスの話なんか」
 ふうん、そういうもんか、と言う、奈美のきょうだいたちはみんな女だ。
「もう、どこかに子どものひとりくらいいたりして」
 冗談みたいに奈美が言って、わたしは考える。蛍の子ども。かわいいだろうか。

 

 
「やあ、夜。はじめまして」
 そのひとがやってきたのはある夜のことだった。近所に夕飯の買い出しに出かけたはずの智恵子さんが、左手にスーパーマーケットの白い袋、右手にそのひとの左手を握って帰ってきたのだ。そのひとは、右手に智恵子さんの左手、左手にやはり、スーパーマーケットの白い袋を握っていた。
「誰?」
 玄関先で、わたしはたずねた。無意識のうちに、隣に立っている蛍の腕をつかんでいた。
 動揺しているわたしの顔を見て、智恵子さんとそのひとは顔を見合わせて笑う。
「ぼくはね、夜のお父さんだよ」
「お父さん?」
 わたしは、そういったそのひとの顔をまじまじと見た。二重まぶたの、目尻の垂れた目が、眼鏡のレンズ越しにわたしを見つめている。
「じつはさっき偶然ね、スーパーの前で会ったの」
 智恵子さんはにこにこと言う。わたしの「お父さん」の顔とわたしの顔を行ったりきたりしながら。
「今日は一緒に晩ごはん、食べましょう」
 ほら、お父さんにそこのスリッパ、とってあげて、という智恵子さんの声にうながされて、わたしはお父さんの足元にスリッパを置いてあげる。
「ありがとう」
 お父さんは、おなかに直接ひびくような、やさしい声でそう言って、グレーの靴下に包まれた大きな足をスリッパにすべり込ませた。
「今日はね、餃子にしようと思って」
 歌うようにそう言いながら台所へ向かって先陣を切る智恵子さん。餃子はわたしの大好物だ。けれど智恵子さんは、
「お父さん、私のつくる餃子が好きなのよね」
 と、すっかりお父さんしか目に入っていないような甘ったるい声で言う。夜もね、と智恵子さんはつけ加えたけれど、なんだかつまらない気持ちは消えない。
 みんなで餃子の準備をしようと、各自エプロンをつけていると、二階から瑞穂さんと香織さんが降りてくる。
「おじゃましています」
 お父さんがほがらかに言った。普段、頻繁に来客がある家でもない。どうも、と怪訝そうにお父さんの顔を見た香織さんは、しかしとたんにひらめいたようだ。
「もしかして、夜のお父さん?」
「ええ、ご無沙汰しています」
「やだ、ちょっと、ひさしぶりじゃないですかあ」
 興奮したように大きな声を出す香織さんを見て、智恵子さんも楽しそうに笑う。
「香織はね、何度か会ったことがあるのよね」
「会ったっていっても、夜が生まれる前ってことだから」
 香織さんは頭のなかの記録帳をめくるように視線をさまよわせ、もう十七年以上よ、と突き止めると、その数字に自分でもおどろいたようだった。
「瑞穂は会うの初めてだったっけ?」
「うん、私は、初めましてだと思う」
 どうも瑞穂です、智恵ちゃんと香織ちゃんと一緒に、家族やってます、と瑞穂さんは自己紹介をしながら、お父さんと握手をした。お父さんは腰を折り、丁重にそれに応じた。
 智恵子さんが大きな鍋で、キャベツをゆではじめる。
「ちょっと、タネの用意ができるまで、座ってたら?」
 香織さんが着席をすすめ、瑞穂さんが冷蔵庫から冷たい麦茶をとりだしてグラスに注ぎ、お父さんに差し出す。
「ああ、どうも」
 と言いながら口をつける。飲み込む瞬間に、喉仏が上下に動いた。
 冷静になって頭を整理してみる。
 このひとがわたしの「お父さん」。このひとがわたしの「お父さん」であるということは、つまり。智恵子さんとこのひとがセックスをして、その結果わたしが生まれたということだ。
「夜、ちょっとこの生姜すりおろしてくれない」
 智恵子さんに呼ばれて、となりに立った。
 小さな生姜のかけらが、おろし器にちょこんと載っている。智恵子さんは鼻歌を歌いながら、まな板の上でニラを切っている。
「智恵子さん」
「うん?」
 わたしは振り返ってお父さんを見た。あのひとのDNAが、わたしに生きている。
「わたしとお父さんって、似てるところあるの?」
 智恵子さんはニラを切る手をとめてわたしの顔を見る。茶味がかった虹彩の瞳に、大きな口。わたしは智恵子さんの顔が好きだ。そのDNAも生きているはずだけれど、わたしは智恵子さんにあまり似ていない。
「眉毛かなあ」
 と思案した結果、智恵子さんは言った。
 ゆであがったキャベツをきざみ、大量の豚肉に、ニラと生姜、調味料と一緒に混ぜる。できあがったタネをいくつかのボウルに分けて、総出で皮に包んでいった。お父さんはとても器用で、美しいひだをたくさんつくった。

 
 二階の部屋で宿題をしていた太陽も降りてきた。台所では智恵子さんと瑞穂さんが並んで、二つのフライパンで同時に大量の餃子を焼き、香織さんとお父さんは漬物をつまみにビールを飲みはじめている。
「ほら、太陽。夜のお父さんよ」
 ほろ酔いですっかり上機嫌になった香織さんが、雑に紹介する。
「夜のお父さん?」
 太陽は警戒するそぶりひとつ見せず、お父さんに寄っていき、ぺたぺたと体を触ると、腕に生えている毛をつまんではひっぱった。お父さんは笑いながら応じる。
「太陽のお父さんは?」
 とたずねる太陽を見て、香織さんはビールグラスに口をつけながら目を細めた。お父さんは、
「太陽を産んだのは、三人のお母さんのうち、誰?」
 と訊く。香織さん! と太陽は元気よく答えた。お父さんの真向かいに腰かけた香織さんは、はーい、と手を挙げる。
「夜は、智恵子さんと、ぼくの娘」
「うん」
「でも、太陽は、香織さんと、また別のお父さんの息子だよ」
「そうなの?」
「うん、そう」
 なあんだ、と残念そうに太陽はぼやいた。
「じゃあ、蛍のお父さんも違うひと?」
「うん、そうだよ」
 太陽はしばらく考えて、
「お母さんたちは、夜と蛍と太陽、みんなのお母さんたちなのに」
 と言った。なんか、変なの。納得がいかなそうにしている太陽の小さな頭を、お父さんはやさしくなでた。
「さあ、焼けたよ」
 しっかりと焼き色のついた大量の餃子が、大皿に盛られ、食卓に届けられる。太陽はとたんに餃子に心を奪われ、「やった、こんなにいっぱい」と目を輝かせる。
「これでも、まだ焼いてないのがあるのよ。つづきを焼かなきゃ」
 キッチンに逆戻りしようとする智恵子さんの腕を、お父さんがつかんだ。
「いいんじゃない? せっかくだから、まずはみんなで焼きたてを食べようよ」
 お父さんの提案で、みんなが席についた。ゲストのお父さんが、お誕生日席だ。
「では」
 いつもよりひとり多いだけなのに、なぜだかずいぶんテーブルが狭いように感じられる。
「いただきます」
「いただきます」
 我が家の餃子は、肉の味つけが少し濃いめで、なにもつけなくてもたっぷりの肉汁とともにおいしく食べられる。けれどアクセントとして、酢と胡椒を混ぜたのにつけて食べるのもいい。
「智恵子さんのつくる餃子、ひさしぶりに食べたな。やっぱりうまいね」
 お父さんはていねいに餃子を味わって、そう言った。
 わたしはなんだか複雑な気持ちになる。お父さんはわたしが生まれる前から、智恵子さんの餃子の味を知っていたのだ。でも、いままでに食べた累計の回数は、きっとわたしのほうが多いはず。
 そんなことを思いながら、大皿から箸でつかんだ餃子は、たぶんお父さんが包んだものだ。細かいひだがたくさん寄って、肉がたっぷり詰まっている。
「お父さん、餃子を包むの上手いね」
 と言ったのはとなりの蛍だ。見ると、蛍も同じ皿から餃子をとったところだった。お父さんはうれしそうに笑う。
「男なのに、料理できるの?」
「ぼくのお母さんたちはね、男でも、つくりたいと思ったときにはつくれたほうがいいからって、小さいときから料理の手伝いをさせてくれたんだ」
「じゃあ、いまもつくったりするわけ?」
「そうだね、週末は好きなものをつくって食べたりするよ」
 それにね、セックスしてみたいなと思ってる女の子を家に誘うとき、料理をご馳走するよっていうのは格好の口実になるんだよ、お父さんはそう言って笑った。
「まあ、平日はやっぱり仕事が忙しいから、ミールサーバーに頼ってしまいがちだけどね」
 お父さんの話から、わたしは気ままなひとり暮らしを想像した。男のひとたちが、集まって住むコンドミニアム。わたしが住むことは永遠にないけれど、蛍はあと数ヶ月でそこに引っ越す。
「どんなところなの」
 ずっとだんまりだったわたしが急にしゃべったせいか、みんながわたしを見た。
「コンドミニアムって」
 お父さんはわたしの顔をじっと見て、
「シンプルで便利で、居心地のいいところだよ」
 と言った。今度、遊びにきたらいいよ。
 わたしはなんと答えたらいいのかわからなかった。智恵子さんが、いいじゃない素敵、と言って、太陽が次の質問をしてくれたので、助かったと思った。
「仕事って、なにしてるの?」
 太陽は口のまわりを脂でぎとぎとにてからせている。わたしはウェットティッシュを一枚抜き取ってぬぐってやった。またすぐに汚くなるのかもしれないと思いながら。
「ファミリーカウンセラーだよ」
「ファミリーカウンセラー?」
 ほら、うちにたまにくる、小林くんっているでしょう、と香織さんが解説をはさむ。
「彼もファミリーカウンセラーよ」
「その家のお母さんたちにいろいろ質問して、子どもたちが心も体も健康に育っているか、お母さん同士の関係は良好か、ストレスを抱えているお母さんがいないか、定期的にたしかめるんだよ。それで、なにか問題がありそうだったら、適切な機関に介入してもらったり、場合によっては家族の組み合わせを変更することもある」
 前にお母さんたちが見せてくれたことがある。うちのカウンセリングシートはいつも成績優秀だって。
「先月から、このあたりの家の担当になってね。それでさっき、仕事終わりに歩いていたら、偶然智恵子さんに会ったってわけ」
「ほら、たしかあれよね」
 と瑞穂さんが口を挟む。
「いちばん最初に、智恵ちゃんと出会ったのだって——」
 よく知ってますね、と、お父さんは照れたように言う。そりゃあ、私も夜の母のひとりですから、と瑞穂さん。
「いや、じつはね。智恵子さんと最初に会ったのは、カウンセラーとしてだったんだ」
 お父さんはわたしに向かって言った。
「本当に、料理をご馳走するよっていうのは格好の口実になるのよ」
 と笑いながら智恵子さんが続く。私もそう言われて、初めて彼の家に行ったの。
 幸人くんのきれいな耳のうしろのことを、わたしは思い出した。智恵子さんもお父さんの耳のうしろを見て、わたしと同じような、おなかの底がむず痒いような気持ちになったのだろうか。
「太陽は、将来なにになりたいの?」
 お父さんの質問に、
「うん、ぼくは、エンジニア!」
 元気よく太陽が答える。
「へえ。なんのエンジニア?」
「家族とか、国のシステムをつくるエンジニア」
 優秀なエンジニアがいればね、この国で暮らす人はもっと幸せに生きられると思うから。
 そうか、それは頼もしいなあ、とお父さんは感心している。太陽は得意そう。
「蛍は?」
 蛍はしばらく餃子を咀嚼して、すっかり飲み込み終えると口を開いた。
「おれは、魚の研究者かな」
 お父さんは、自分も気持ちゆっくりと、おだやかに相槌を打つ。
「おもしろいね。ぼくも魚、好きだよ」
 思わずわたしはお父さんを見た。蛍が相槌を打つ。
「そうなんだ」
「うん。蛍はどうして、魚が好きなの?」
 たずねられると、蛍は少し考えて、答えた。
「いろいろ知ったら面白かったから。だけど、最初に興味を持ったのは、夜が好きだったからだよ」
 お父さんは目を細めて、わたしを見た。
「そうか、夜は魚が好きなんだ」
 わたしは小さく、うん、と答えた。
「どうして、夜は魚が好きなの?」
 お父さんの視線は、心の奥底を覗き込んでくるようで、少し居心地が悪かった。わたしは慎重に言葉を選んだ。
「魚は人間とは、まったく違う世界で生きているから」
 だから、気になるの。
 お父さんの満足するような答えを返せただろうか、とわたしはおそるおそるお父さんを見た。
「そうか」
 とお父さんは言って、深くうなずいた。わたしはほっとして、麦茶を飲んだ。

 
 寝返りを打つと、二段ベッドがぎしり、と軋む。なるべく思考を頭の外に追い出して、閉じたまぶたのなかの暗闇に目を凝らすようにする。それでもなかなか、睡眠はわたしを迎えに来てくれない。
「蛍、まだ起きてる?」
 半々くらいの確率かな、と思いながら、ごく小声で呼びかけると、
「起きてるよ」
 と返ってきた。奇妙なことだけれど、蛍の声を聞いたとたんに少しだけ眠くなった。
「なんだか疲れたね」
「そう?」
「お父さん、どう思った?」
 と、わたしが訊いたのに、
「夜はどう思ったの?」
 と質問で返される。
「わたしは、突然でびっくりして」
「うん」
「でも、智恵子さんがあのひととセックスをしたいと思った理由は、なんとなくわかるような気がする」
 ふうん、とだけ蛍は言った。顔が見えないので、どんな感情でいるのかあまりよくわからない。
「それは、夜があのひととセックスしたいって思うこととは、また違うの?」
 たずねられて、わたしは言うべきことを探した。
「それは、違うんじゃない? だって、わたしがあのひととセックスしたいって思うのはおかしいし」
「どうしておかしいの?」
「だって、お父さんじゃない」
 蛍はしばらくだまって、それから、
「べきじゃないかどうかと、夜が思うかどうかは、また別の話だよ」
 と一言つぶやいた。
 変な気分だった。蛍とこんな話をするなんて。
 わたしは二段ベッドの上から、蛍の寝転ぶ下の階へ、腕をだらりと伸ばしてみる。蛍の頭はどこか、手探りであれこれともがいていると、その手がそっとつかまれた。蛍の手のひらはいつも乾いている。

 

 
 「幸人くん、自分のお父さんに会ったことある?」
 わたしの問いに、え、お父さん? と幸人くんはとんきょうな声をあげて、わたしを振り返る。少し前かがみの姿勢になっているので、白い背中に骨のでこぼこがくっきりとうきあがっている。楽器みたい、と思って、下から上に指先でなぞると、幸人くんはくすぐったがって、ふたたびベッドの上に横になった。
「お父さんって、あの『お父さん』?」
「そう、自分を産んだ母と、性交した男のこと」
 幸人くんはこちらに顔を向けると、左肘をついて自分の頭を支えながら、わたしをまじまじと見る。
「会ったことなんか、あるわけないじゃない」
「そっか、やっぱり、そうなんだ」
「なに、それ? まさか、夜、会ったの?」
「うん」
 まじ、と、切れ長の目を三白眼になるくらい大きく見開く幸人くんに、わたしは状況を話して聞かせた。智恵子さんがとつぜん、スーパーマーケットの前で偶然会った、と家につれてきたこと。みんなで餃子を包んで一緒に食べたこと。
「それ以来、我が家を気に入ったみたいでね。ときどき家にやってくるの」
 お父さんは、週に二度ほどのペースで家を訪れた。たいていの場合は、近所の家でカウンセリングがあったあと。夜ごはんを食べて帰っていくことが多いけど、このあいだ金曜日にきたときは、智恵子さんの部屋に泊まって、翌日の朝ごはんまで食べて帰っていった。
 物好きなひともいるもんだなあ、と幸人くんは嘆息して、
「あ、奈美の家がどうとかって意味じゃないよ。ただ、昔の性交でできた子どものことよりも、これからいかに性交して子どもをつくるかを考えるひとのほうが、男には多いんじゃないかって話で」
「大丈夫、わかるよ」
 幸人くんは、空いているほうの右手でわたしの髪を弄びながら、たずねる。
「どうだった、お父さんに会って」
「うーん、どうかなあ。べつに、国語の綿貫先生と会ったときと、変わらないかな。綿貫です、そうですか。父です、そうですか。みたいな」
「ふうん、そんなもんなんだ」
「だって、実際のところ本当かどうかなんてわからないわけだし」
 まあ、たしかに、おれの父が綿貫先生という可能性もゼロではないからなあ、と幸人くんはつぶやいて、リアルにそれを想像したのか、鼻の頭にしわを寄せた。
「でも、いきなり知らない大人の男が家にやってきて、ほかの家族はどんな気分なの?」
「みんな、楽しいみたい。昨日なんて、ごはん食べたあと、蛍は一緒に海まで散歩に行ったの。なんだかいろんな魚の話をしたって、帰ってきてうれしそうにしてた」
 幸人くんは笑みをうかべながらわたしの話を聞いていた。
「夜は、やきもち妬いてるんだ」
「え?」
「蛍をとられるような気がして、心配なんじゃない?」
 そんなこと、とわたしは言った。べつに思ってない、たぶん、きっと。
「それか、本当は夜もお父さんともっと話してみたいとか」
 奥まで覗き込んでくるようなお父さんの目を、わたしは思い出した。
「わかんない」
 考えているうちに、頭のなかに固い結び目ができてしまう。
 幸人くんはなぜか喉を鳴らしながら笑った。
「どうして笑うの?」
「いや、なんでも」
 そうして、おれとは? とたずねた。同時に幸人くんの冷たい手のひらが、太腿の内側をなぜて、わたしは背筋がぞわりとする。
「おれとはきっと、おしゃべりよりもしたいことがあるよね」
 わたしはなにも言わずに見つめた。幸人くんは至極満足そうに笑って、わたしの胸に顔をうずめた。
 その頭のうしろには、ネオンテトラの泳ぐ水槽が見える。名前のとおり、ネオンのような青に、ビビッドな赤。たくさんの彼らに見つめられながら、わたしは幸人くんのからだの熱にふたたび身を預ける。

 

 
 お父さんは校門のすぐ外のガードレールに腰をかけていて、わたしを見つけるとうれしそうに右手をひらりとあげて挨拶した。
「なにしてるの、こんなところで」
 ちょっと、夜に会いたくなってね、とお父さんはうそぶく。
 まわりの生徒たちからの視線がいたくて、わたしは小さくなりながら早足で校門から遠ざかる。どうしてこんなところまでやってくるんだろう。面倒だ、と思いながらも、どこかに喜んでいる自分がいることにもわたしは気づいていた。そしてそんな自分がなんだかとても嫌だった。
「本当はなに?」
 自分でもそれとわかるほど尖った声が出た。お父さんは笑いながら、
「本当もなにも、夜に会いたくてきたんだよ」
 とまた同じことを言った。笑うと喉仏が上下に動く。
「家でいつも会ってるじゃない」
 わたしはそれから目を逸らしながら言った。
「だってさ。夜だけはいつもぼくに冷たいじゃない。ふたりきりで親睦を深めるのもいいかなと思ってね」
 お父さんは同情をひくようなさみしげな声色をつくった。演技じゃないか、とどこかで思いながらも、わたしは少し胸が痛んだ。
「親睦を深めるって、どうやって?」
「たとえば、ケーキでも食べに行くとか」
 お父さんがやさしくささやく。ケーキは好きだ。心が少し揺らぐ。でも、素直にはうなずけない。
「ああ、それか、いいこと考えた」
 お父さんは意味ありげにわたしの顔を見る。
「ぼくの住んでるコンドミニアム、見にくる?」
 わたしの心が今度は大きく揺れたのを見逃さなかったお父さんは、
「じゃあ、決まり」
 とすぐに言うと、さっとわたしの手をつかみ歩き出した。突然のことにおどろいて、右頬にちりちりと鳥肌がたった。
「どうして手なんかつなぐの?」
 お父さんの手のひらは大きく、温かくて、つないでいると汗をかきそうだった。
「理由なんかなくていいじゃない、家族なんだから」
 お父さんは涼しい顔をして、わたしの手を強く握る。

 
 お父さんの部屋はとても物が少なかった。けれど、みんなこんなものだよ、とお父さんは言う。
「紅茶、緑茶、コーヒー、それとも、ハーブティーなんかもあるけど」
 ハーブティーのなかにもさらに数種類ありそうだったが、わたしは普通の紅茶を出してもらうことにした。お父さんによれば、「とにかくいろんな女の子がやってくるから、その都度種類を増やしていたらいつのまにかこんなになっちゃって」ということらしい。
 紅茶が入るのを待つあいだ、わたしは手持ち無沙汰で、見るものの少ない部屋を見てまわる。カウンセリング関係の本に、小説の単行本、レシピの本。スキンケアやボディケア、コスメの類は、けっこうな種類があった。
「体調によって使い分けたりもするからね」
 という化粧水を、一種類、手の甲に馴染ませてみる。とろみのある液体は、わたしの皮膚にぐんぐん吸い込まれていった。
 男の人も、大変なんだ。女に選ばれる努力をしないとならない。
「ほら、紅茶が入ったよ」
 お父さんに呼ばれて、テーブルにつく。
 カップからは湯気がたちのぼり、まだ口をつけるにはいささか熱そうだった。けれど香りが華やかな種類なのだろうことは、カップを持ち上げなくてもすぐにわかる。
「これ、なんていう紅茶?」
「アールグレイだよ」
「ふうん。いい匂い」
 お父さんはわたしより一足先に、カップに口をつけた。丸い眼鏡がうっすらと曇る。
「いつもここでひとりなの?」
「うん、そうだよ」
「さみしくないの?」
 わたしがたずねると、お父さんは少し考えて、あまり考えたことなかったな、と言った。
「なにもかも便利だし、もう二十年近くこの生活だし」
 やっぱりお父さんとわたしとじゃ、普段見ているものも考えていることもぜんぜん違うんだ、と思った矢先に、でも、とお父さんは続けた。
「夜の家族がいるあの家に行って帰ったあとは、もしかして少しさみしいと思っているかもしれない」
 本当はなにを考えているのだろう、とわたしは思った。わたしに話を合わせてくれているのか、それとも、本当にさみしいと思っているのか。わたしはお父さんの眼鏡の奥の瞳を見てみる。けれどなぜか、わたしが見ているというよりも、見られているような気分になってしまう。
 わたしは目を逸らして、紅茶に口をつけた。
「そうだ、わたし、見せてほしかったものがある」
「なに?」
「ミールサーバー」
 わたしの答えを聞くと、お父さんはおかしそうに笑った。
「おやすい御用だよ」
 お父さんは立ち上がると、ダイニングテーブルのほうを向くようにして設置されている、対面式キッチンのなかに入る。シンクに電子レンジ、ポット、コンロは二口のコンパクトなもの。冷蔵庫はおもちゃみたいに小さい。開けてみると、五〇〇ミリリットルの牛乳パックとマヨネーズ、ミニトマトが少しと、キウイがひとつ入っていた。
「ミールサーバーはこれだよ」
 キッチンのいちばん奥に、電子レンジのような扉がついている。開けてみようと取手をひっぱったけど、びくともしなかった。
「注文した料理が届いているときしか、開かないようになってるんだよ」
「どうして?」
「知らないけど。安全のためじゃないかな」
 扉が開かずにがっかりしているわたしを気遣って、お父さんは、なにか頼む、と訊いてくれた。わたしは勢いよくうなずき、タッチパネルを操作して、餃子を注文した。
「これだけでいいの?」
「うん、そうだよ」
 あまりにも簡単すぎた。このあいだ、キャベツをゆでたり、切ったり、肉を混ぜたり、包んだり、そして焼いたり、あんなにも複雑な工程の数々を経て、ようやく餃子にありついたことを思い出す。
「部屋の掃除は?」
 お父さんは部屋の隅に充電してある掃除ロボットを指差して、
「あいつが定期的に働いて、勝手に掃除してくれる」
 と言う。
「洗濯は?」
 お父さんはわたしをともなって洗面所に移動すると、手洗いスペースの横にある引き出しを開け、
「ここに入れておくと、そっちにきれいになって出てくる」
 そっち、の引き出しはひとつ上の段にあって、開くときれいに折り畳まれたタオルやシャツが重ねられていた。
「ずいぶん便利だね」
「便利だよ」
 ピー、という甲高い電子音が、ちょうどキッチンのほうから聞こえた。
「餃子ができたんじゃないかな」
 とお父さんが言う。キッチンに戻りミールサーバーの扉を開けると、案の定、皿に乗った餃子が届いていた。
「これ、どうなってるの?」
「エレベーターと同じだよ。上のほうの階に、調理室があるんだ」
 お父さんはなんということもなさそうに言った。
 パリパリに焼けている餃子を、テーブルに持っていく。紅茶はいい具合にぬるまって、飲みやすくなっていた。餃子はまずまずの美味しさだけれど、智恵子さんの餃子を食べ慣れていると、少し物足りない。
「蛍ももうすぐこんな家で暮らすんだ」
 そうだね、とお父さんは言った。
 部屋のなかを見渡しながら、ここで暮らす蛍を想像してしまう。ひとりぼっち。さみしくないだろうか。
「そうなったら、夜も蛍とは離ればなれだね」
 お父さんの言葉に、うん、と答える声が、つい暗くなる。
「蛍は蛍で、いまよりももっと積極的に、たくさんの女のひととセックスをするようになる」
「うん」
 わかっていることだけど、あらためて言われると気が滅入る。そんなわたしの気持ちに気がついているに違いない、お父さんはわたしを試すように言った。
「夜も蛍とセックスをしてみたら?」
「なんで?」
 と、反射的にわたしは言った。
「だって、いけないことはなにもないでしょう。夜は智恵子さんの、蛍は香織さんの子どもだよね」
 そうだけど、とわたしは言いながら、蛍とセックスしているところを想像しそうになって、あわてて首を横に振った。
「嫌だ」
 お父さんは頬杖をついてわたしを見ていた。もう片方の手はテーブルの上に載っていて、その指先が、ピアノを弾くように人差し指から順に動いた。
「嫌なんだ」
 と言われて、わたしはうなずく。蛍とセックスするなんて、やっぱり気持ち悪い。
「じゃあ、しかたないね」
 とお父さんは言った。
 しかたない。蛍と離れて暮らすことも、蛍がいろんな女のひとと子どもをつくることも、わたしが、いろんな男のひとと子どもをつくることも。
「心配ないよ、夜にも新しい家族ができるから」
 新しい家族なんて想像もつかない。エンジニアの開発した人工知能がわたしに合う家を見繕ってくれるというけれど、いったいどんな母たちがいるところだろう。そのひとたちは、どんな子どもを育てているだろう。
「夜、」
 お父さんがわたしの名前を呼んだ。
「夜、妊娠するのが心配?」
 お父さんは言った。おだやかな口調だった。
 大丈夫、わたしはつぶやいた。
「だって妊娠は、幸福な、祝福されるべきものだもん」
 自分ではそんなつもりはなかったのに、わたしの口調は頼りなく、少し言い訳がましく聞こえた。それに気づいたように、お父さんはゆっくりと言う。
「幸福な、祝福されるべきものであったとしてもね。不安を感じちゃいけないってことじゃあないんだよ」
 わたしはべつに、そんなふうに言ってほしいなんて思っていたわけじゃなかった。
 お父さんはまた紅茶に口をつける。わたしもそうした。温かい液体が食道を通って、胃袋に流れこんでゆく。
 丸くはちきれそうにふくれたおなか。そこから生まれ出る、小さな命。自分の思いどおりにならない、か弱いもの。
「でもきっと、大丈夫だよ」
 わたしは言った。
「みんな、乗り越えたんだから、わたしにだってきっとできるはず」
 それを聞いたお父さんは微笑んで、
「夜はえらいね」
 とだけ言うと、人差し指でわたしの頬をなぜた。お父さんにえらいと言われると、わたしは誇らしかった。

 
 そうっと部屋の扉を開けると、学習机に向かっている蛍の横顔が見える。
 テストはもう終わったけれど。
 蛍は研究者になるためにいつも一生懸命だ。
「ただいま」
 小さく声をかけると、蛍は参考書から顔をあげないままで、
「おかえり」
 と言った。
 わたしは蛍が勉強に集中していることになぜだかほっとして、抜き足で部屋に入ると、蛍のうしろをすり抜けてそそくさと着替えをはじめる。
 脇のファスナーを開けてセーラー服を、そしてプリーツスカートを順に脱ぐ。なにを着ようか少しだけ迷って、肩の落ちる大きめのTシャツに袖を通し、ぴたりとしたレギンスを履いた。
 蛍はわたしに背を向けたまま、静かにシャープペンシルを走らせる。
 わたしはお母さんたちの料理を手伝うために部屋を出ようと、ふたたび蛍のうしろをすぎる、しかしそのときになってふと、蛍が、わたしを振り返った。
 いったいなにを言われるのだろう。心臓が奇妙に高鳴る。
「知らない匂いがする」
 蛍はわたしの胸元のあたりに視線をぼんやりと据えて言った。なにかを見透かされているようで、落ち着かない。けれど、なにかとは、なにを?
 椅子の肘かけにだらりと置かれた腕。筋肉の硬く締まっていそうな肩。耳の下から顎につながる角張った骨。薄い唇。
 蛍って、もとからこんなかたちをしていたのだったか。
「新しいTシャツだからかな」
 わたしが言うと、蛍はふうん、とだけつぶやいて、また机に向き直る。

 

 
「夜、あたしに隠してることあるんじゃない?」
 興味津々の笑みを浮かべながら奈美がわたしにたずねた。
「え、なにが?」
 とぼけないでよ、と肘でわたしを小突き、奈美は楽しそうにパックのイチゴミルクのストローをすする。
「大人のパートナーができたなんて、教えてくれてないじゃん」
 大人のパートナー。わたしはコロッケサンドの、すっかりしんなりとして衣のていをなしていない衣を咀嚼しながら、その言葉から思い当たるものを頭から洗い出してみようとして——すぐにその答えを見つけた。
「あれは、パートナーじゃなくて」
 わたしは心持ち声をひそめた。
「お父さんなの」
 奈美はわたしの言っていることの意味がよくわかっていないようだった。
「お父さん? って……お父さん?」
「うん、お父さんなの」
「お父さんが、どうして夜と一緒にいるの」
 わたしは幸人くんに話したのと同じように、お父さんが我が家にやってきた経緯を奈美にも説明して聞かせる。
 彼がわたしのパートナーではないとわかった奈美は、がっかりして興味を失うかと思いきや、むしろますます興奮したように目を輝かせた。
「じゃあ、セックスは」
 しかしわたしが、「しないよ、もちろん」と答えると、もったいないとでも言うように心底残念そうな表情を見せる。
「どうしてしないの」
「血が濃くなることは、好ましくないって習ったじゃない」
 どんどん声が小さくなるわたしに、奈美はおかまいなしだ。
「そんなの、子どもができないようにすればいいだけじゃない」
 と、あっけらかんと言い放つ。
「それに、どこか違うところで出会っていたら、夜だってあのひとがお父さんだなんて気づかなかったでしょう」
「それはそうだけど」
「なんだかすごくセクシーなひとだったよねえ」
 うっとりと言う奈美に、なぜかわたしはぎくりとする。
「そうかな?」
 とわたしは言った。そうだよ、と奈美は高い声で言う。
「あんなにセクシーなひとと、ただ一緒に歩くだけなんてもったいない」
 夜は家族だからわからないのかな? と言った奈美は、思いつきのように続ける。
「血が濃くならないように、DNAに刷り込まれているとしたら面白いね」
 そうだね、とわたしは言ったけれど、かならずしもそうじゃないということをわたしは知っていた。

 
 明かりのついたお風呂場の窓が薄く開いていて、太陽が元気よくアニメの主題歌を歌う声と、瑞穂さんの笑い声が外にまで漏れ聞こえている。ふわりと石鹸の匂いが、鼻腔をくすぐった。わたしは誰に聞かせるつもりもなく、玄関を入ってすぐに、ただいま、とつぶやく。
 予想外に、奥のリビングから、おかえり、と返ってきた。
「ただいま」
 わたしは部屋に入ると、お父さんの顔を見てもう一度言った。キッチンのシンクで手を洗う。
「遅かったね」
 リビングのソファに座って本を開きながら、お父さんは言った。
「幸人くんと会ってたんだって?」
 なんで知ってるの、とわたしが質問する前に、智恵子さんから聞いたよ、とお父さんは答えた。
「なにを飲んでるの?」
 少し近づいて手許を覗き込みながら、今度はわたしがたずねる。お父さんは本を閉じたので、わたしはなんとなくそうしたほうがいいような気がして、隣に腰かけた。
「ウィスキーだよ」
 お父さんは、グラスに注がれたオレンジの液体を示しながら言う。
「一口飲んでみてもいい?」
 興味を示したわたしにお父さんは笑って、
「でも、まだ十八歳じゃないでしょう」
「あと数ヶ月だもん」
「うーん、そうだなあ」
 仕方ない、お母さんたちには内緒だよ、とお父さんは言って、わたしにグラスを差し出した。
「舐めるくらいにしなさい」
 グラスを口許に運ぶと、嗅いだだけでくらりとくるような濃い香りが立ち上ってくる。お父さんの言う通り、唇が少し、湿る程度に浅くグラスを傾けた。
「にがい」
 わたしの感想に、そうだろうね、とお父さんはうなずいて、わたしからグラスを受け取ると自分でも一口舐めた。爪の大きな指先だった。
 少し遅れて、米神のあたりがほんのりと熱くなり、ぎゅっと固まっていた脳味噌がふわりと弛緩していくような感覚に陥る。これが酔っ払うってことなんだろうか。
「お父さん、今日はずいぶん遅くまでいるのね」
「うん、明日は朝からこのあたりで面談があるから、泊まっていこうかと思ってね」
「ふうん」
 座ったはいいものの、そんなにしゃべることもなくて、静かになってしまう。
「ああ、夜、帰ってたの」
 二階から智恵子さんが降りてきて、わたしはだから少しほっとした。
「ただいま」
「おかえり」
 どうだった、幸人くんとは、と智恵子さんはいつものようにたずねた。
「うん、まあ」
「いいセックスができた?」
 うん、とわたしがうなずくと、よかった、と智恵子さんはやさしくわたしの頭の上に手のひらを乗せた。
「私も一口もらっちゃおうかな」
 智恵子さんは立ったままウィスキーのグラスに手を伸ばし、
「にがい」
 とわたしと同じ感想を述べて舌を出した。
「お風呂終わった!」
 とパジャマ姿の太陽が髪を濡らしたまま駆けてくる。その肩にかかったタオルを智恵子さんは手にとり、小さな頭を拭いてやる。
「お待たせしましたあ」
 遅れて、香織さんと瑞穂さんが風呂から出てくる。二人とも、上気した頬がつるりとして、目の下のいちばん頬骨が高いところがつやつやと光っている。
「さて。じゃあ次は誰が入ろうかしら」
 残るはお父さんと智恵子さん、それにわたしと蛍。
「お父さんと智恵子さん、先に入ってきたら? 蛍はきっとまだ部屋で勉強してるし」
 わたしがうながすと、智恵子さんは、そうお? と言いながら、お父さんと二人でお風呂場に消えていった。さ、部屋で髪の毛かわかすよ、と、太陽とふたりのお母さんも二階にあがっていってしまう。
 ひとりぼっちになったソファの上で、わたしはごろりと横になってみる。いま部屋に行ったら、きっと蛍がいる。だからなんとなくここでひとりでいたかった。
 いいセックスとは。
 お母さんたちはときどきあんなふうにたずねるから、わたしはいつもなんとなくうなずいてしまう。特に深い意味のない、挨拶のようなものだということもわかっているけれど。本当はなにがいいセックスかなんてよくわからない。気持ちいいこと? 心が満たされること? それとも、命が宿ること?
 夜、とわたしを呼ぶ幸人くんの声を、わたしは思い出す。
 ふと、甲高い声が聞こえてきて、閉じていたまぶたを開いた。ほんの少しの間、眠っていたような気がする。
 いまの声は、たぶん智恵子さんのもの。わたしは上体を起こした。するとまた声がした。今度は、さっきのような伸びのあるものではなくて、絞り出すような短い声が立て続けに数回。
 それが、なにを意味するのか。本当はたぶんわかっていた。わかるのには十分すぎるほど、あけすけな声だった。
 けれどわたしはどこかで知らないふりをして、そっと立ち上がった。知りたかった。お父さんがいったいどんなふうに女のひとを抱くのか。
 わたしは無意識のうちに足音を殺しながら脱衣所へと近づき、静かに扉を開けようと、手を伸ばした。
 そのとき、みしりと床なりがして、わたしは振り返った。階段の下、暗い廊下に立っていたのは、蛍だった。
「ああ、おかえり」
 蛍はいま風呂場で起こっていることに気づいているのかいないのか、呑気にそんなことを言う。
「ただいま」
 わたしは開きかけていた脱衣所の扉を閉めながら返す。
 蛍はわたしのうしろをすり抜け、リビングに向かってゆく。わたしは部屋に行くかどうか逡巡した。だけど蛍も、きっとすぐにまた部屋に戻るだろう。そうしたら、少しのあいだ別の空間にいられたところでどうにもならない。喉がかわいた気もしたので、あとについていった。
 蛍は冷蔵庫を開ける。取手に手をかけて力を入れると、腕の内側の骨が浮き出ているのが見える。ドアポケットに入った飲み物をしばらく吟味すると、蛍は白く濁った瓶入りのりんごジュースを取り出し、グラスに注いだ。柔らかそうな下唇がグラスに触れ、蛍の喉が冷たいジュースを嚥下していった。
「わたしもそれがいい」
 わたしは気がつくとそう言っていた。蛍はジュースを継ぎ足して、グラスをわたしに差し出した。
「ありがとう」
 受け取る瞬間にわずかに指先が触れた。わたしは、さっきまでわたしのからだじゅうをなぞっていた幸人くんの指先を思い出す。そしてウィスキーのグラスを口に運んでいた、お父さんの爪の大きな指先を。
 蛍は瓶のジュースを冷蔵庫にしまう。Tシャツ越しに、肩甲骨の形がうっすらと見える。
 わたしは知っていた。でも、たぶん、本当は知らなかった。
 蛍は男なんだ。
 笑い声がした。智恵子さんの声だ。振り返ると、お父さんと連れ立って洗面室から出てくる。
「お風呂、空いたよ」
 長い髪を頭のてっぺんに近い場所でひとまとめにした智恵子さんが、そう言った。

 
 今日は別々で入ろうか、と言い出すのもかえって変な気がしてできなかった。
 いつも風呂でなにを話していたのだったか、考える。しかし蛍はそんなわたしの心中など知る由もなく、ゆったりと湯船につかっている。
 さっき聞いたばかりの、智恵子さんの嬌声をわたしは思い出す。ここでお父さんと、智恵子さんがしていたこと。
 むっとした湯気が立ち込めるなか、蛍と裸でここにいることが、わたしは急に恥ずかしくなった。けれど、恥ずかしくなったことを悟られたらもっと恥ずかしくなる。
 わたしは努めて普段どおりにふるまおうとした。でも、一緒の湯船に入ることはできなくて、洗い場でからだをきれいに洗うことに集中してみる。ボディタオルをお湯でたっぷりと濡らし、石鹸を泡立てる。
 手の指に細い毛が生えてきていることに気づいて、剃ってしまおうと剃刀を手に取った。
「やってあげようか?」
 前髪が湿り、いつもと違って額があらわになった蛍が言う。
「あ、うん」
 なんだか断るのも不自然に思い、頼んでしまう。蛍の濡れた指先が、わたしの手から剃刀をさらってゆく。
 わたしは湯船のふちに、両手のひらをそっと置いた。ちらりと蛍を見ると、蛍はわたしの指を見ていた。わたしの腕の上でもくもくと立った白い泡を、蛍は人差し指でそっとぬぐい、指の産毛の上に載せていった。
「じゃ、動かないでね」
 一本ずつ丹念に、指の上を剃刀の刃がなぞる。蛍は真剣な顔をしている。湯船につかって少しずつ暑くなってきたのか、間近で見ると鼻の頭に玉の汗が浮かんでいるのがわかった。
「汗かいてるね」
 わたしは言った。
「うん、ちょっと暑い」
 蛍は言いながら、産毛を剃った。剃刀の刃が通り過ぎた箇所は、白い泡も消えて、つるりとした肌色が覗いている。
 ふたりともが息を詰めて、同じ指先を見ていた。わたしは湯につかっているわけでもないのに、湿度の高い空気が少しずつ苦しくなってきた。呼吸をしようと思っても、どんなリズムでするのが普通だったのかもう思い出せない。そうして頭もふやけてしまったのか、
「蛍はもう、子どもいるの?」
 質問が、口から滑り出した。そのすぐあとで、どうしてこんなことを訊いたんだろう、と思った。じっと自分の指を見ることしかできなかった。
 けれど蛍は身構えた様子もなく、笑い飛ばしもせず、
「ううん、いないよ」
 と言った。そうして、
「知らないところで生まれてたら、わからないけどね」
 と冗談っぽくつけ加えた。
 わたしは自分で訊いておきながらなんと答えたらよいかわからなくて、
「そっか」
 とだけ言った。あっけないことだった。蛍はわたしの最後の指を剃り終えた。
「はい、おしまい」
 蛍は湯船の湯を洗面器ですくって、わたしの手にかけた。刈り取られた毛は、泡とともにさらさらと排水溝に流されてゆく。
「蛍の指も、やってあげようか」
 と言うと、お、よろしく、と蛍は答えて、とうとう限界を迎えたのか湯船から立ち上がった。わたしは深く息を吸って、そして吐いた。

 

 
 テーブルいっぱいにならんだ、フライドチキンにポテト、ちらし寿司、カルパッチョ、彩り抜群のコブサラダ。智恵子さんと瑞穂さんはスパークリングワインを、私たち子どもと香織さんはぶどうジュースをグラスに注いだ。
「では」
 誰からともなく音頭をとる。
「香織さん、おめでとう」
「おめでとう」
 真ん中の席に座った香織さんが、みんなから差し出されたグラス一つひとつに応じていく。
「さあ、みんな食べましょう」
 それぞれ思い思いの皿に手を伸ばし、腕と腕が交錯する。それとって、はいはい、ちょっと待って、とにぎやかなやりとりが交わされる。
「チキンおいしい!」
 フライドチキンにかぶりついた太陽が歓声をあげた。
「初めてつくってみたけど、お店の味みたいね」
 と、智恵子シェフも満足そう。
「夜のお父さんも来られればよかったのにね」
 さみしそうに太陽がつぶやいて、誰もが一瞬黙り込む。
「そうね」
 智恵子さんが、誰もいない誕生日席にちらりと視線をやって言った。
 お父さんと智恵子さんが喧嘩したのは、一週間ほど前のことだった。お父さんの皿の洗い方に対して、智恵子さんがひとこと苦言を呈したのが原因だったらしい。お父さんは口論のあと家を出ていき、智恵子さんは、やっぱり男を家のなかに入れるものじゃないんだわ、と泣いていた。だけどその翌日には、智恵子さんはべつの男のひととデートに出かけたようだったから、もしかして殊更にことが大きくなってしまったのにはもしかしてそれも関係があるのかもしれないけれど、実際のところはわからない。きっと智恵子さんとお父さんだって、自分たちの気持ちを全部わかっているわけじゃないだろう。
 とにかくそんなことで、もうお父さんが我が家に訪れることはない、と聞かされた数日後に、今度は香織さんの妊娠が発覚した。相手は、わたしのお父さん。だから彼の不在に対する悲しみよりも、その縁からまた新しい命が生まれることへの歓喜のほうがまさって、我が家は幸福なムードに包まれていた。
 いま、太陽の発言で、誰もがしばらくひさしぶりに、お父さんの不在について思いを馳せた。
 しかし太陽はすぐにまた、
「妹だといいなあ」
 と、生まれてくる命への期待を口にする。
 どうかしらねえ、と笑いながら、香織さんは自分のおなかを左手でなでた。
 わたしはちらし寿司を口に運ぶ。橙色の宝石のようないくらが口のなかで弾ける。
「家族がいっぱいで、楽しくなるね」
 にこにことはしゃぐ太陽に、蛍は少し逡巡するそぶりを見せたあと、それでも意を決したように、でもね、とそっと言った。
「その子が生まれる頃には、おれも夜もいなくなるよ」
 おだやかだけれどきっぱりとした言い方は、時がきたときに悲しませないための蛍のやさしさだろう。十八になれば、わたしたちは家を出ていく。それは変えようのない事実だから。
 太陽はさっと笑顔をひっこめて、唇をとがらせた。
「忘れてた」
 蛍は太陽の頭をなでて、大丈夫だよ、と言う。
「その子とふたりで、太陽もきっと楽しくやれるさ」
 そうかな、と太陽が心配そうに言い、そうだよ、と蛍が勇気づける。
「とにかく、今日はたくさん食べて楽しみましょう」
 瑞穂さんが明るく言った。
「でも、ケーキもあるから、ごはんの食べ過ぎに注意ね」
 はーい、と行儀よく返事をしながら、わたしは冷蔵庫のなかで冷えている、大きなホールのショートケーキを思い浮かべる。

 
 海からの風が吹いてくると、少し肌寒いくらいだ。もう、夏は終わりだと思う。
 うだるような炎天下では、早く夏が終わってほしいと心から願っていたにもかかわらず、こうして実際に終わりが見えてくるとものさびしい気持ちになるのはなぜだろう。
 結局ごはんをたらふく食べ、そのうえショートケーキもひとり一切れしっかり食べて、太陽は満足して眠ってしまった。わたしは蛍とふたりで、腹ごなしの散歩に出てきた。
「なんだか今日は、一段と海の匂いが濃いような気がする」
 蛍がつぶやく。
 潮の匂いは、植物プランクトンや海藻が放出する化学物質を細菌が分解することで生じるものだという。中学生くらいのときに、蛍とふたりでふと気になって調べたことがあった。
「このあいだ、夜のお父さんと散歩したときに聞いたんだけどさ」
「うん」
「タツノオトシゴの仲間のなかには、オスが妊娠する種が多いらしい」
「そうなの?」
「うん。といっても卵を産むのはメスなんだけど、その卵から稚魚がかえるまで、オスがお腹のなかで育てるんだって」
「へえ」
 わたしはタツノオトシゴの特徴的なフォルムを思い浮かべる。もともとおなかがちょっぴり出ている造形だから、妊娠してもあまり目立たなそうだ。
 くだらないことを考えているわたしを置いて、それでさ、と蛍は続ける。
「近縁のイシヨウジっていう種類のやつはね、ずっと同じ相手としか子どもをつくらないんだって」
「ずっと同じ相手と?」
「うん」
「次の年も?」
「そう」
「そのあいだに、別の異性にめぐりあったら、どうするの」
 どうもしないんだよ、と蛍は言った。どうもしない。
「そんなの、窮屈じゃないのかな」
 もしも人間がそんなふうに、一度決めた相手としかセックスをしないのだったら。どんな世界になっていただろう。わたしはその相手を、どうやって選んでいただろう。
「お父さんに会えなくて、さびしい?」
 蛍は急にたずねた。
 お父さん。
 もう我が家に来ないとわかってから、あまり考えないようにしていた。
 わたしはお父さんのことを思い出す。じっと覗き込んでくる瞳。おだやかで丸い声。つねに微笑をたたえたような口許。
 もう家に来ない、を、もう会えない、に、頭のなかで変えてみた。もう会えない。きっとこれは事実だ。そしてもう一度、心で理解した。
 もう会えないのだ。
「さびしいよ」
 わたしは蛍の手をとった。自分から蛍にふれるのは、少しひさしぶりな気がした。けれど蛍の手は相変わらず、わたしとほとんど同じ温度をしていた。
「でも、きっとすぐに忘れる」
 わたしは言った。それは願望でもあったし、同時にたしからしい予測でもあった。わたしはきっと、すぐにお父さんのことなんて考えなくなる。あのひとのいない世界で、わたしはずっと生きていたし、これからも生きていくことになる。
「そうだね」
 と蛍は言って、わたしの手をそっと握り返した。
「香織さんの新しい子ども、どんなふうに育つのかな」
 わたしはふと言った。
「ときどき会いにきたいな」
 太陽とその子は、どんな関係を築くのだろう。近くで見ていたい気もするけれど、その子が生まれる頃にはわたしの仕事はもう、きょうだいの面倒をみることじゃない。自分の子どもを産んで、育てることだ。
「夜も自分の子どもが生まれたら、それどころじゃないかもね」
 蛍も言った。
「わたしも子どもを産むんだね」
「そうだよ」
「ちゃんとできるかな」
 つぶやくと、蛍がわたしを振り返る。
「大丈夫だよ」
 弓形に細められた蛍の目が、わたしをやさしくとらえている。いま言ってくれたことをもう一度言ってほしくて、ただそれだけのために、
「大丈夫かな」
 わたしはわざと言った。
「大丈夫だよ」
 と、やっぱり蛍は言ってくれた。
「夜が妊娠して、子どもを産んだらさ」
「うん」
「おれも一緒に育てようか」
 男が子育てなんて——と思って、わたしはすぐに、タツノオトシゴのことを思い出した。
 この世界にはいろんな生き物がいる。だったら、人間の社会や常識がこのかたちをしているのだってじつは偶然にすぎなくて、ひとつなにかが違っていたら、人間のオスだって子育てをしたかもしれない。ずっと同じ相手としか、子どもをつくらなかったかもしれない。
「それも楽しいかもね」
 わたしは言った。
 右手には、小さな頃からずっと変わらない蛍の体温があって、左にはどうと広がる海が、濃く艶めいた匂いを放っている。わたしは心地のよい空気のなかに抱かれて、両脚をリズムよく順に動かした。
 夏は終わっても、来年もまたやってくる。

文字数:24029

内容に関するアピール

梗概で提出したものをベースに書きました。梗概の講評では「まだ世界のスケッチという感じで物語がない」とコメントいただいたので、実作にするにあたって再度、自分がこの世界を通じて何を描いてみたいのかを考えてみました。どこか心にとまるものになっていればうれしいです。よろしくお願いします。

文字数:140

課題提出者一覧