マドロミ

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マドロミ

目が覚めると、ここはどこだ?
 冷たい、痛い、硬い。どうやら俺は床に倒れているようだ。
 ぼんやりとした意識がはっきりとしてくる。しかし意識がはっきりしても自分が何なのか、それははっきりしない。
 右手、そうこれは俺の右手だ。俺の右手は何かを握っている。これは魂。いや、球らしい。夢から覚めた時のようにそれまでなかった感触が現れる。これは鉄の塊だ。
 起き上がった。床はタイルだった。身体についた砂埃を払う。
 俺が起きたここはどこかの通路、しかも地下のようだった。道幅は四メートル足らずで両側の壁には窓がない。天井は低く、壁との繋ぎ目に蛍光灯が埋め込まれ、それが道沿いにずっと続いている。前も後ろも、三十メートルほど先が階段になっており、一方は昇り、もう一方は降りのようだった。
「まずいことになった」と独り言ちてから、何がまずいんだっけ、と疑問に思う。
 確かに何かがまずいのだが、何がまずいのかがわからない。いや、自分が何者かわからず、今いる場所がどこかもわからないこの状況は、充分まずいと思うのだが、逆にまずいのはこの状況だけで、他に本質的にまずいことがあるわけではないのかもしれない。
 そんな甘い考えを打ち破ったのは鉄の熱さだった。
 掌と鉄球の接着面の温度が上昇しているようだ。俺は何かをしなくてはならない。そうこの鉄の塊が俺に訴えかけている。しかし何をすれば。
 ヒントは、あるかもしれない。それは今、俺の頭の中を漂うグネグネとした無形の感覚。
 例えばこういうことだろうか。俺はこの球をどこかに届けなくてはならない。
 掌からすっと熱が引いていく。どうやらこの見通しはあながち見当はずれでもないようだ。
 俺は眉間に伝う汗を拭い取った。まずは地上へ出ることが先決だ。
 昇りの階段を行くとまた同じような細い通路に出て、二十メートルほど進むと空間が広がった。天井は高くなり、床との間には太い円柱が立ち、それが一定間隔で幾本も並んでいる。
 人の気配はなかった。耳を澄ますと薄く響く地鳴りのような音がどこからか聞こえてくる。
 空間の両サイドには改札機が八台ずつ並んでいた。つまりここはどこかの駅の構内だ。
 正面に進んで突き当る壁には、「駅周辺案内図」と上部に記載された大きな掲示板があったが、そこに地図はなく、空白だった。
 周囲に他に見るべき情報もなさそうなので、その掲示板の右側から抜ける通路へ進んだ。今度は道の左右に複数の通路が分岐している。そこからはひたすら上へ上へと昇っていく。しかしどこまで行っても同じような通路が続くばかりだった。疲労感が募り、足取りが重くなる。天井や壁に掲げられた看板は、そのどれもが空白だった。
 一つの疑念に歩みを止める。もしかして俺は同じところをずっとぐるぐる回っているだけではないだろうか。俺はもうここから出られないのだろうか。しかし、それでももういいかもしれない。どうせ出たところで自分が何者かわかるわけでもないし、何をすべきかわかるわけでもないのだ。いや、出ればわかると思ったけれど、出られないのだから仕方がない。
 ふと一枚のポスターが目についた。それは通路の壁に掲げられていた。
 俺は腕組みしながらしばらくそのポスターを眺めていたが、突如として脳内がスパークし、右手の鉄球をガンッ、左手の掌をバンッと壁に押しつけ、今度は舐めるようにそれを見た。そこに描かれている風景が、俺にとってとても大切なもののような気がしたのだ。
 それはサーカスの広告、のようなもの、かもしれなかった。なぜかそこに書かれた文字らしき記号を俺は読むことができなかった。
 代わりに絵で判断した。そこには空中ブランコや綱渡り、ピエロや火の輪くぐりなど、典型的な演目が描かれている。
 奇妙なのは、そのいずれもパフォーマンスを行っているのは人間ではなく、寸胴で背の低い爬虫類、恐らくヘビのような生き物だということだ。
 特に気になったのはポスターの中央で胸を大きく開いている一匹のヘビだった。ヘビのくせにジャケットを着こなし、シルクハットをかぶり、腕がないにも関わらずどういう仕組みか右側にステッキを持っている。その格好からマジシャンかとも思ったが、ポスター全体の構図と、顔つきのふてぶてしさから考えて、こいつがこの一味の座長なのかもしれない。
 なんだかよくわからないが、俺はそいつを見ていると妙に腹が立ってきた。いや、どれだけにらめっこをしても、結局何も思い出せないことに対する苛立ちかもしれない。
 また、掌が熱くなってきた。俺は俯きながら、ガンッ、ガンッと何度も鉄球で壁を叩いた。
 その壁を叩く音に、いつからか別の音が混ざり始めた。それはチーンという高音で、一定の間隔で微かに響いてくる。俺は手を止め、耳を澄まし、わずかに音の強い方向に歩み始めた。階段を昇り、降り、構内を駆け巡るうちに、段々音が大きく、近くなる。これはそうだ、あれに似ている。恐らく、仏壇の前のりんの音だ。
 辿り着いたのはタイルの壁に埋め込まれた白茶色の扉だった。「詰所」と書かれた小さなプレートが掲げられている。
 扉に耳を当てると、ひんやりした。確かに音の出元はこの奥で間違いないようだ。
 一旦ノックしようとして、迷ってやめた。銀色のドアノブに手をかける。回すとカチャリ、と頼りない音がした。少し呼吸を整えてから、グッと押し開けた。
 そこは夏の古民家の居間だった。まず夏がやってきて、古民家であることがわかり、居間にいることに得心がいった。
 居間は全体に薄暗く、畳敷きで、かなり広かった。パッと見で三十畳ほどはあるだろうか。部屋の向こうでは障子戸が開け放たれており、夏の強い日差しがハレーションを起こしている。
「出られるじゃん」と思いその光の方へ進むが、ハレーションなだけあってそれは写真で、本物の扉ではなく、出られなかった。そんな気はしていたのであまり落胆はない。軽く悪態をついてから音の主を探すことにした。
 内側の障子を開けて同じような部屋をいくつもくぐるうちに、小さな和室へと行き着いた。
 仏間のようで、これまでの部屋で最も暗い。奥には観音開きの立派な仏壇が鎮座しており、その前にはりんを鳴らす小さな影の背中があった。
 その物寂しげな様子に、俺はすぐに声をかけることはできず、しばらく立ち尽くしていたが、また掌の中の鉄の熱さに急き立てられ、意を決して近づいていく。
 近づくにつれ、その背中が藍色のジャケットを羽織り、制帽のようなものをかぶっていることに気が付いた。身体はジャケットにすっぽり隠れてしまっていて、後ろからだと服だけがもぞもぞと動いているように見える。
「あの」と声をかけるが返事がない。もう一度「あの」といってから、肩の辺りをタッチしてみようと左手を伸ばす。すると、触れるか触れないかの辺りで先方がくるりとこちらを向いた。
 まず目についたのは、目だった。拳大の二つの丸い眼球が、顔面の三分の二を占めていた。真っ黒で白目はなく、俺を見ているようだが、視線が合っているかどうかは判断がつかなかった。
 身体の小ささから、子供か背中の曲がった老人をイメージしていたが、そのどちらでもなく、というよりも、そのどちらでもあるようだった。
 ジャケットの下は他に衣類を着けておらず、皮膚は茶褐色で、深い皺でひび割れている。手も足も異様に細く、長く、腹は餓鬼のようにせり出している。印象としては「邪悪なE.T.」といった感じだ。
 臀部に鈍い痛みが走る。いつのまにか俺は尻餅を着いていた。
 怪物は、その目よりも遥かに小さい口をカッと開くと、おぞましい雄叫びを上げた。口には砕けたガラスのような細かい牙がみっしりと生えている。
 干からびた手が伸びてくる。俺は身を翻し障子戸を乱暴に開け、逃げ出した。
 だが、どこをどうやってここまで来たのか、どうやって戻ればいいのか、さっぱりわからない。障子を勢いよくカーンと開ける音と、畳の上を土足で走り回る音だけが、延々とリピートする。
 そのうちすっかり息切れしてしまい、障子を開ける動作も緩慢になる。
 障子を開け、また同じような部屋、障子を開け、また同じような部屋。眩暈がしてきた。そしてまた障子を開けると、今度は目の前にあの邪悪なE.T.がいた。
 俺はみっともなくも悲鳴を上げると、バランスを崩し仰向けに倒れてしまった。
 その俺に怪物が覆いかぶさるように飛び乗ってくる。
 怪物は細長い首をくねらせながら、密集した牙をちらつかせこちらを威嚇してくる。
 牙の隙間から、ベタベタした透明の粘液が顔に降りかかり、そのドブ川のような臭いに堪らなくなった俺は、右手の鉄球で怪物の側頭部を思いきり殴りつけた。
 グニュ、とやな感触がして、怪物は俺の左手方向へ吹っ飛び、数回跳ね返りながら俯せに転がった。
 俺は横目に怪物が動かなくなったのを確認してから、顔についた粘液を拭い、動悸と呼吸が落ち着くのを待った。
 鉄球には緑色の別の粘液が付着しており、それは俺の胸元辺りから、左の方へ点々と続き、怪物のところで溜まりになっていた。
 立ち上がると、身体の節々に痛みを感じ、ぎこちない歩き方となるが、怪物の状態を確認しに向かう。
 俯せになっている怪物の左脇腹に爪先を差し込み、ひっくり返す。想像したよりも軽く思えた。
 怪物の二つの眼球は白く濁っている。鉄球て殴った個所が緑色に濡れているが、粘液の流出はもう止まっていた。
 辺りを見渡すと、取っ組み合っていた付近に藍色のジャケットと制帽が散乱している。
 俺はその二点を回収し、何となく怪物の前で跪き、ジャケットを枯草のような身体にかけ、制帽を顔にかぶせた。そして何となく目をつぶり、鉄球を持っているので両手で球を掴む感じになるが、合掌し、祈りを捧げる。正当防衛だとは思うが、こんなバケモノでも命を奪った罪悪感がなくはない。
 ほどほどで目を開けると、そこはもう古民家ではなかった。
 大体八畳ほどのスペースで、真ん中にソファやテーブルが置かれている。怪物は扉の前の床に横たわっている状態だった。壁や天井の色調から考えて、恐らく俺が目覚めた駅構内の、ここが本来の「詰所」なのだろう。
 振り出しに戻ってしまったこともショックだが、起きてから動きっぱなしで、疲労困憊だった。ソファで休もうと思うが、上手く立てない。
 またバランスを崩して倒れそうになる。違和感を覚えて左手を左耳に遣る。そのまま手のひらを確認すると、真っ赤に染まっている。足元では俺の耳殻を加えた怪物が、黒と白が混濁した目で俺を見ている。
 俺はその場に崩れ落ち、朦朧とする意識の中で、助けを求めるように、扉の方へ手を伸ばす。
 その時確かに見たのは、扉が脈打ち、分解され、新たな形に生まれ変わる様だった。
 何の面白みもない鉄の扉だったものが、ゴテゴテの装飾が施された、悪趣味なロダンの地獄門に一変する。
 その情報量の多さに処理することを拒んだ意識が、いよいよ途切れそうになったところで、ゆっくりと門が開いた。
 現れたのは、身長は二メートルを優に超えるであろう、巨躯の、黒いレザーに身を包んだ、頭部がタコの怪人だった。
 タコの怪人は、肩に背負っていた荷物を降ろすと、あの小さな怪物の側に跪き、何やら音を放っている。それから俺のところへやって来て、同じく音を放ってくる。あの小さな怪物のときのように、俺にはそれが獣の叫び声にしか聞こえない。
 タコの怪人が、音を放ちながら俺の肩をグワングワン揺らす。揺れるたびに、俺の意識は現世から遠ざかっていく。
 ああ、ほら。もう。

文字数:4716

内容に関するアピール

アピール文というか、すごいエクスキューズ文なんですけど・・・・・・。
 今期の目標は、梗概は全部出す、でしたので、それは達成できてよかったです!
 最終実作では梗概で「演劇と感情について書きます」などとイキっていたのですが、その後、演劇(フィクション)についての本当に素晴らしい演劇を観てしまい、「自分ごときが一体何を・・・・・・?」と正気に戻り、本当に無になりました。
 今後は謙虚に、まずちゃんとエンドマークを打てる存在を目指して頑張りたいと思います。
 とはいえ、本当に実作部分で提出0はさすがにアレでは・・・・・・? と自分の中の臆病な何某が訴えかけるので、
 己への戒めとして、ここに闇のマイルストーンを刻みます。
 もう少し書けるようになったら、「ここから書けるようになったのだなぁ・・・・・・」と感慨に浸ろうと思います。

文字数:361

課題提出者一覧