梗 概
夜明けには熱もさめる
この小説は、いささか乱れた筆致で書かれた手記の形式をとる。Covid-19のような病の蔓延する世の中で、無名の主人公はPCに向かって手記を書いている。
早く書き留めなければ、起きたことをすべて忘れてしまう。たったいま目が醒めて、もううなされるほどの熱はなかった。だからこの夢はもう終わりだ。
この手記を書く主人公はひとりきりで部屋にいるらしい。重症患者のための治療室ではなく、軽症患者を隔離するための宿泊施設。主人公は、熱に浮かされている間に見ていた夢と、その夢に関係する人物・ウィルについて、忘れてしまう前に書き記さなければと焦っている。忘却と想起を繰り返しながら書き進められるその手記は、きわめて短いセンテンスで、夢と現実の記憶を往還しつつ構成される。
主人公は焦っているだけでなく、自責の念にも駆られている。いわく、自分のせいでウィルは死んだのかもしれない。しかしその詳細がうまく思い出せないのだった。
覚束ない手記において以下のことが次第に明らかになる。
その感染症に罹った患者は熱に浮かされながら、活字によって記された夢を見ている。文字の羅列を理解しないまま目を醒ます患者の症状はきわめて軽症で済むのだが、他方で明晰夢を見ることのできる者は文字列を自在に操り、その愉悦に飲み込まれることになる。その文字列の織りなす物語が「終わった」と患者が認めて満足すれば、目を醒まして病状は快方へと向かう。ところが(たとえばエンデの『果てしない物語』のごとく)「終わらない」構造のテキストへと行き着いてしまった患者は、いわゆる永遠の眠り、すなわち死へと至る。
目が醒めれば、患者はもちろん見た夢のことを急速に忘却する。
ウィルは密かに調査を行い、活字の夢によって駆動される感染症が古来からあることに気づいていた。ウィルは主人公を道連れにして閉鎖された大学図書館に侵入し、より決定的な古文献を入手しようとしていたが、無人の閉架書庫において二人は病を発症し夢の世界に没入する。二人とも明晰夢を見ることができるため、双方の夢は自在に膨らんだ。
夢の文字列は、部分的に他者と共有される。主人公は熱に浮かされながら、会ったことのない妹とともに世界各地を渡り歩くすばらしい旅行譚を夢見ていた。飛行機が成田空港へと帰還するとき、その物語は「終わり」へと達する。一方、主人公が断片的に目にしたウィルの夢は、無数の登場人物にいろどられたミステリーの夢だった。そこでは終わりなきどんでん返しが幾度も繰り返されているらしい。犯人が特定され大団円になるかと思いきや、推理と矛盾する新しい証拠が必ずまた見つかるのだった。
手記の終盤で主人公は思い至る。いわく、終わりなきどんでん返しというアイデアをウィルに与えたのは自分自身だったのではないか。かつてなんとなく交わされた悪意なき発話が、ウィルを死に至らせていたのだとしたら?
ウィルの安否は手記の最後に至っても結局明らかにはならない。夜もすがら書かれた手記は、空のしらむ頃、電話のベルが鳴ったと記されたあとに途絶えている。
文字数:1261
内容に関するアピール
Covid-19をめぐる現実を夢のほうへと反転させて、ついでに「言葉はいまやウィルスだ」というようなかの有名なウィリアム・バロウズの言を字義通りに間に受けて、感染する言葉、夢の中で進行する病をめぐるフィクションへと仕立て上げることができたら愉快なのではないかと思いました。
うっかり洩らした言葉がだれかに感染して、その人がひどい病に冒されてしまった(かもしれない)としたらたぶん最悪の気分になるでしょう。そのようなナイトメア感と、強烈な感染力を有する言葉の目眩く快楽を演出できればと思います。
文字数:245
夜明けには熱もさめる
早く書き留めなければ、起きたことをすべて忘れてしまう。たったいま目が醒めて、もううなされるほどの熱はなかった。だからこの夢はもう終わりだ。あるいはこの病も終わり。息をあまりうまく吸えない。シーツは白いが、服はあのときのまま。埃っぽい。まだ汗に濡れている。
もっと急いで。夢のことはすぐに忘れる。夢を見たということも。瞬く間に。夢にまつわるあれこれすらも。忘れることの企図された夢。そのように変異した夢。まだ覚えている。ぎりぎり覚えている。
もっと速く。もっと急いで。そこかしこに飛躍はあって。それでも。PCをひらいた。書くために。書かなくては。ウィルについて。ウィルのことを。書こうと。書かなくてはいけないと。まだねむい。ねむくてたまらない。でも再びねむったとしても、すでに。ひとつの夢は終わって。熱は解かれて。戻れるわけではない。盗み見ることも、いまでは。
あの身体はどこにあるのか。地下ではない。たぶん。だれかが運び出しただろう。どこかで目醒めたのか。あるいは。いやきっとねむっている。目醒めるつもりは、最初から。わからない。だれも知らない。悲しくはない。気がかりでないわけではない。これを書くことも少し。少しは怖い。書いているあいだにきっと。書いてしまえば。いっそうあざやかに。できればあまり思い出したくないことまでも。
だれもあのことを書かない。手記は無数にあるのに。あちこちに。いまもだれかが。大海に小さな瓶を。克明に。検索すればたぶん。混じり気のない確かな記憶を。つながらない電話。検査手順。恐るべき症状。予兆。対策。リスク。行動範囲。隔離用ホテル。アメニティ。配給される食事の献立。それでも。その裏側は、だれも。夢なのだから。私は覚えている。まだどうにか覚えている。覚えているはず。でもまもなく忘れてゆく。残るのは不安。恐れ。後遺症。しびれ。空咳。
いまどこにいる——返信はない。いや送信に失敗している。壁が分厚すぎるのか。この部屋の窓はとても小さい。
肩が粟立つ。冷え冷えとして。非接触型体温計。枕元に備わっている。使うまでもない。明白な微熱。なんとか。まだ仄かに残っている。かろうじて。そのあいだに書かなくては。ねむたい。朦朧としているが。それでも。いやだからこそ。忘れることがなによりも怖い。
死んだようなTV。この部屋の壁際にある。古ぼけていて画面が分厚い。点けなくてもわかる。指標。分類。用語解説。わかりやすいような。きっとわかりやすいはずの。おびただしい死がカウントされる。簡明なかたちで図示される。グラフはつぎつぎと背を伸ばす。名前のない数字の群。でも。悲しいわけでは。悲しいわけではない、たぶん。さほど親しかったわけではない。親しかったなんてことは。どちらにしても、今となっては。すでにもう。いやまだ知らない。わからない。なにも知らない。だれも。いまは。死んでしまったわけでは。ウィルは。私が悪かったのかもしれない。
洋服が埃っぽい。淀んだ空気。ビジネスホテル。さみしくはない。自宅よりも広い。隔離のための。牢獄ではない。さほど柔らかくはないベッド。無骨な電気ポット。あとで着替えよう。すぐに。書き終えたらすぐにでも。着替えくらいあるだろう。きっとどこかに。どこかにたぶん。今着ているのは埃まみれの。暗闇にひそみやすい紺色のシャツ。
充電はまだある。かなりある。ケーブルはないらしい。なぜだか。ぐずぐずせずに書かなくては。夢のことを。ウィルの夢を。ウィルのことを。ウィルの言っていたことを。ウィルの声を。はやく。忘れるよりもはやく。もっと急いで。遠回りしないで。できるかぎり。すべてではなくても、かいつまんでなら。すべては読めない。読めなかった。とてもじゃない。読みきれるわけがない。仮構された頁を繰って。だれのものともしれぬ夢。あらゆる患者に継起する夢。ウィルだけではない。数え切れない。無数の断章がつらなって。どこまでも。でも書くことはできる。いや、そっくり書き写すのはもちろん無理でも。つまり言及ならば。話題にすることくらいは。なんというか。旋回しながら。輪郭とか。色味とか。シルエットとか。かたちだけでもどうにか。
頬が熱い。目元も。つま先も。書かなければ忘れてしまう。
複雑そうな憶測があって。ウィルはいろいろなことを喋って。たぶん。熱とか夢とか。病原菌とか。つまり、活字の。このことはあとで書こう。要するに。すべて経験と矛盾しない。思い返せばそうだった。飛躍はあるのかもしれないが。正しかったのだろう。ウィルは、結局は、おおむね。私の記憶の限りにおいて。あるいは偶然だったのか。でたらめとなにかが符合して。そうではない。そのはずはない。冗談かと。冗談のようなものかと。最初は思っていたが、それでも。あるいは揶揄とか。暗喩とか。でもそうではなかった。私はそうではないと思う、思っている。わかっている。いまでは確信がある。そう書くしかない。少なくともなにも齟齬を来さない。念のためもう一度書く。そうではなかった。私たちはいたって真剣で。
私のほうが優れていた。夢見ることが得意だった。ウィルはといえばほんとうに。夢見には役に立たないことばかりを。明晰さから遠く離れて。なにも呑み込めていなかった。証拠やら仮説ばかりに夢中になって。込み入ったことで頭をいっぱいにして。夢見とは泳ぐこと。自転車を漕ぐこと。波に乗ること。でも少しは。最終的にはかなり。上達して、自在に夢をえがいてみせて。だってとても細やかに教えたのだから。噛み砕いて。つまびらかに。できるかぎり。だから。大丈夫だと思っていた。それなのに。いやそのせいで。それだからこそ。
いやまずは。さしあたり細部から書く。忘却は細部からはじまる。辻褄ならば遅からず合う。
夢のことを書く。夢を忘れないために書く。多少の飛躍があったとしても。とにかく思い出せるように。あとから思い出せるように。信じてほしい。読み返すとき疑うのかもしれないが。嘘ではない。フィクションではない。いやわからない。書いたそばからあやしくなって。書かれるものは必ずそうなる。それでも。私はほとんど正気だ、ねむたいだけで。ねむたいうちに書かなくては。
ねむりについたのは、あの埃まみれの。だるくてたまらずにねむって。床で。熱があって。そして。
そして妹と出会った。〈妹〉——そのように現れる文字列。仮構された頁を繰って。そのようにして見られる夢。それはしあわせな発病だった。つまり軽症ではなかった。明らかに。妹と初めて出会った。成田空港で。無人の成田空港で。およそそのように活字は続いた。妹に会ったことはなかった。妹なんていない。存在しない妹との旅。すばらしい旅行譚。
私の夢などどうでもいい。ねむったとき、夢は私の夢からはじまって。でもここに書くのは。書きたいのは。書かなくてはいけないことは。仮構された頁を繰って。他なる夢へ。ささやかな窃視を。ウィルだってもちろん重症で。言うまでもなくかなりの重症で。しかも異なる文字で記されていた。夢は。病は。いくらかの言語が入り混じり。私の話す言語とは違う。不慣れで。なんだか難解なような感じがして。文意は私を置いて駆けてゆく。謎めいたブランク。思わず踏み外して。じりじりと盗み読むより、あの夢の駆けるほうが速かった。遥かに。増殖していた。恐ろしい速さで。どうしても。私はずっと仕事があって、いくつもの授業をさぼって、そのせいで。単語をおぼえる時間もなくて。空白をまえに立ち尽くす。無数の暗い穴がひらいて。全体がやがて散り散りになる。ひどかった。いやひどいというよりは。なにか螺子のはずれたような。その散文は。遥かな夢は。うまく読めなかったが、それでも。つねに帯電しているような。痺れるような。なにか。陶酔というべきか。なにか特別な質感が。
活字で見る夢。病原としてうごめく活字。ウィルは知っていた。あらかじめそう言っていた。たしかに私も見た。ほんとうに見たのだった。くっきりと。明晰に。熱に浮かされているあいだ。小虫のように湧き出る活字。じわじわと浸み入っていく。隅々まであまさずに。自由自在に。あの感覚はほんとうに甘美で。長くてしあわせな夢だった。でも。夢中ではない。夢中になんかならない。所詮夢にすぎない。当然のことながら。それ以上でも以下でもない。わかりきっている。それなのに。それなのにどうして。
私はラットではない。便利なサンプルではない。なんどか言おうとした。痺れを切らして。怒りすら覚えて。私ではない。私に興味があるのではない。ウィルは机に紙束を積み上げて。プリンターが延々と紙を吐き出して。あの部屋の床を覆って。うつくしく重厚な飾り文字。崇高な感じの、くすんだ色味の。なんだろう、なにか古びた写本の写しか。私には読めない。すきまない注釈。触れれば崩れおちそうな。死神の挿画とか。ダンスとか。私はそれらの紙切れを同じで。たぶん手がかりのようなものを知らずに擁して。そのせいで無数の問いに曝される。とめどない質問がとんでくる。矢継ぎ早に。あくまで明朗に。明るい尋問。活字の夢って見たことある?——なに?——活字の——文字拾い?——いや違う、活字そのものの——なにそれ——
まなうらにくろぐろと文字の流れるあの光景。
妹のことは。名前だって決まっていたのに。ここにも名前は書かない。夢の中でもそうだった。仮構された頁を繰って。文字は〈妹〉とだけ現れた。成田空港にはだれもいない。静寂。私たちは走らなかった。乗り過ごす心配はない。免税店でひかる香水の瓶。あざやかな女の横顔。琥珀のウイスキー。腕時計。天井はゆるやかな弧をえがく。塵ひとつない。除菌ジェル。ミントタブレット。文字列は夢のなかにひらかれた。文字通りそのままにひらかれた。私たちはこうふくだった、そう、こうふくと平仮名で記されていた。よく覚えている。文字通りに覚えている。このように病は進行する。深々と。私は明晰に夢を見る。終わりのことを予感しながら。いつか帰りくることをわかっていながら。いささか呑気が過ぎただろうか。でも。ただの夢なのだから。
〈private eye〉——この2つの単語。意味を結ぶまでにしばらくかかった。何度も目にした。仮構された頁を繰って。意味がうまくとれなくて。ずっと。筋書きもいまいち。きっとあの声に似ている。そのことだけは想像がつく。ウィルの声にたぶん似ている。結局のところ夢にすぎない。ウィルのひらいた夢にすぎない。低くてやさしい声音。かろやかな笑いのリズム。もちろん音はないのだけれども。向こう側から聞こえるようで。無音の文字をなんとか辿って。たぶんなにかを追っていた。そう書かれているのだとわかった。追いかけっこ。うっすらと像をむすぶ。息を潜めてひた追っている。なにを。だれを。わからない。そこらは無数の人影に満ちている。無数の名前に満ちている。だれかがなにかを行為して。行為がつぎなる行為を読んで。たぶん。その連鎖のようなものを追いかけて。因果のようななにかによって。それで。
夢の中に辞書はなかった。当然ながら。手持ちの語彙で進まねばならない。
霧が出ている。窓の外。部屋には窓がある。とてもちいさい。わずかな光。昏れるのかもしれない。赤くはない。ただわずかに色づいて。何階だろう。私はだれに運ばれたのか。大学のそばにホテルはない。たぶん。ぼんやりしている。地図がゆがむ。うまく描けない。脳裡に。ぼやけて。書けない。でもどうしても。書きたいならば。書きたいのだし。まだ夢に対して明晰で。かろうじて指をうごかして。覚えているということは。だからこそまだ。どうにかいまのうちに。まにあうように。
ねむたい。だれも真に受けないかもしれないが。目醒めたあとの私自身も、あるいは。それでも。あとで心配すればいい。忘れ始めている。まだ書いてないのに。どうにもまとまらない。まだ限りない飛躍があって。こめかみがべたついている。ひどい寝汗のなごり。
キーを打つ。とにかく速く。PCの充電はまだ足りている。
ウィルの部屋。なかなか広い部屋だった。古い家の二階の寝室。父は出かけている、そのようにウィルは言う。しばらくは戻れない。あちこちの国境が封鎖されて、検疫を抜けるのが困難で、そのせいで。その部屋で何度もねむりに落ちた。だらだら入り浸って。心地良くて。抜け出し難くて。とても大きな出窓があった。桜の大樹が枝をのべていた。女王のように優美に。
夢を見ていた。請われるままに。そのたびに夢をえがいて見せて。望まれた夢を寸分違わず。夢のえがきかたを何度も教えて。それでも試みは失敗する。繰り返し。無意識に丸め込まれて。気づけば舵を手放している。それでも教える。飽かず丹念に。呼吸の仕方に似たなんらかの。あるいは心臓の鳴らし方にも。あの部屋はいつも明るくて。清潔な香りにみちていて。さんさんと陽ばかりが差し、無数の背表紙を焼けさせる。私たちは眠りつづける。あるいは話しつづける。ささやき声で。絶え間なく、念入りに、同じことや似た話を繰りかえし。話がとぎれることはなかった。謎の数だけ話題があった。話すことがほんとうにうまくて。ずるいのだった。ウィルの声に聞き入って。柔らかな声に。応えて。思わず秘密をあけわたす。そのようにして夢見の練習は。感染のレッスンは。あたたかな午后がいくつも過ぎて。
天文学者。そうだった。ウィルの父親は著名な学者で。どこかで見たことのあるような名前の。会議に出かけていたのだろう。海の向こうの。家には書棚が。書棚に天体写真がたくさんあって。ずらりと。ずっしりと並んで。じっとながめて時間をつぶした。何冊も。ウィルは長くねむっていたから。そのあいだ。ウィルは確かに上達した。時間はかかったが、それでも。そうだと思う。もとより器用なのだろう。感覚をどうにか身につけて。無意識をかろやかに引き剥がす。驚くべき執念で。どうにか。
私はとても多くを教えて。教えたからこそ。話して。言葉をひねりだして。きわめて感覚的なことを、どうにか。くりかえし。簡単じゃなかった。口籠もりながら。きれぎれに。それでも言葉を探して。それなのに。それだから。わからない。私は知らずに手助けしただけ。知っておくべきだった。あるいは察して。ぬかりなく察して。察することができたなら。もしもわかっていたなら。後悔なのかもしれない。けれども。予想などしようがない。
仮構された頁を繰って。妹の顔は欠落している。それでも無理なく成立している。のっぺらぼう。顔立ちなどいらない。文字なのだから。雪を見たい。見てみたい。見たことがないのだという。ちいさなスーツケース。ほそい背中をぴんと伸ばして。飛行機は貸し切りも同然だった。だれもいない。飛行機は軽やかに離陸して。私たちは親密に言葉を交わす。ひそひそと。私たちはとても似ている。似通っている。日に焼けると肌のあからむことも。あたためたミルクを好んで飲むことも。でも妹はもっとすぐれて。声色もずっと深みをおびて。うわずらない。震えもしない。話す言葉には芯があって。落ち着き払ってゆっくりと話す。台詞が書かれたわけではない。鉤括弧はどこにもない。〈話す言葉には芯がある〉——ただそのように文字をひらいて。それで充足していた。
飛行機は駆けめぐる。私たちは寄り添って歩く。だれもいないソウルの路地を。ビルのはざまに立ち込める淡い霧。そびえたつ朱色の城門。銀色の巨大な建築。明かりのついたままの看板。からっぽの屋台。おどろくほど長い影。割り箸。煙。ぼやけた時計台。私たちは疲れを知らない。どこまでも歩む。度重なるトランジット。あるいはシンガポールを。さらにイランを。ローマを。剥き出しの広場を。静寂。白い柱。灰色のスタジアム。つぶれた吸殻。あるいは旅人の幽霊だとか。コインランドリー。空き缶。噴水。鳩。鐘の音がとても遠くまでひびく。それからスペイン。どこまでもつづく祈りの道を。無人に見える。無人ではない。だれもが窓の内側にいる。
窓の外でトラックの走る音がする。無数のタイヤ。遠くの音がよく聞こえる。遠いのかどうかわからない。
作り話ではない。信じてほしい。現に私は病室がわりの客室にいて。汚れた洋服を着て。髪の毛もぐしゃぐしゃで。たぶん。よく見えないが。暗い。さっきよりも、あきらかに。夜に。あるいは。書きながら思い出している。まだ大丈夫。そのような手応え。はやく着替えたい。はやく書き終えて。とにかく。まだ半分にもならない。手を洗いたい。口をゆすぎたい。埃まみれで。でもまずはすべてを書いて。
旅は愉しく景色はゆたかで。静かで。夢は。病は。活字の群れは。私のせいだった。甘く見ていた。夢なんか。夢ごときに。まさか。ウィルは。ウィルなのに。それから。それで。どうしてそうなったのかといえば。
暗闇にひそみやすい紺色のシャツ。
はじまりの夜。あるいは終わりの。夢ではない。夢のはじまる前の。もはや後戻りのできない夜に。私たちは。隣り合わせに。ぐらぐらの椅子に。霧雨だった。ガラスの外は。おおきな窓についた水滴。夏なのに冷え冷えとして。店は換気が悪かった。たぶん。私たちはある種の。ある種の計画されたなんというか。侵入を試みようと。より多くの手がかりがほしくて。図書館も閉鎖されていたから。
トレイの上に散らかっている。獣からできた食べものの屑。脂の染みた包装紙。痩けた頬には赤みがさして。子どものように笑っている。ご機嫌で。悪びれもしない。熱っぽい、あのときから熱っぽいように見えた。目がきらきらと潤んで。あるいは私も。私も病んでいたのかもしれない。そうなのだろう。窓ガラスには映らない。ガラスは濡れて。曇って。油の匂いに満ちて。24時間営業を取り止めている。なんだかぼうっとしていて。視界も。コーラの入った紙コップ。水滴に濡れている。ウィルはコップをずらす。何度も。テーブルに水の輪がかさなって。テーブルになにかをひろげて。紙切れ。たのしげに。つぶれたような拙い筆跡。驚くほど字が下手だった。みにくく潰れて。潰れた線が地図をえがいて。なにか説明している。警備のことを。警備が手薄なのだと言って。そうかもしれない。本当だろうか、訝って。訝った。訝ってはみたけれども。
透明な知人のままでいるべきだった。いや透明な知人にすぎない。ずっと透明だったのかもしれない。親密さなどどこにも。ただ愉快だった。愉快なような感じがした。ウィルの話すのは。ずるかった。あまりにずるい語り口。なんとなくうなずいてしまう。いかなる言語でも。少なくとも二、三の言語ではそうだった。嘘みたいなこともそれらしく。なめらかに。整然と。疑いをはさむまもなく。なんだか踵を返しづらくて。話にはいつも続きがあって。続きにはさらに続きがあって。好奇心なら私にもある。その声に耳をあずけて。だらだらとあずけて。帰り方がよくわからなくなって。部屋はあたたかく清潔だった。
足音が聞こえる。ドアの外から。何人かいる。せわしない。近づいて遠のく。がたがたと動く音。ワゴンのようななにか。食事あるいは医療機器が載っている。かもしれない。わからない。ともすればだれかがなにかに瀕して。そして。泣いたりもして。
果物は腐る。その様を思い浮かべる。ちいさな宅配ボックスで。りんごとか、あるいはなにか甘いもの。しばらくは帰れない。間違いない。借りた本も返せない。なにか哲学者の愛人の。そんな感じのタイトルで。まだ半分も読んでいない。だれから借りたのだか忘れた。私室の机に打ち捨てて。すべての食器を洗ったかどうか。予期されぬ不在。メールもいくらか届いているだろう。突き返されて。たいていはお気に召さない。仕事なので構いはしないが。
ふと左手を見る。血管が青く浮いている。爪が白い。力を抜いても、あるいは込めても。部屋の中が暗い。霧はもう見えない。ここはどこなのか。ベッドの横には電話がある。だれかと話せることになっている。きっと医者や、あるいはそのような。でもだれとも話したくない。話せばもっと忘れるだろう。もうこんなにも忘れつつあるのに。うつつに対して明晰になって。体温を。痛みを。呼吸の具合を。
ベルが鳴る、電話をとる、あなたのせいだとだれかが言う。そんなことを一瞬思い浮かべる。ベルは鳴らない。私のせい——そうだったっけ。そう、もうすでにそのように書いている。読み返せばそうだとわかる。書いているのだからそうなのだろう。私の。それは私のせいで。なにが。どうして。唇がふるえる。まだ忘れていない。もとより覚えていないことはたくさんあるが。書きながら思い出している。とにかくキーを叩いて。もっと急いで。書かなければ思い出せない。
仮構された頁を繰って。ベルリンを、パリを、ロンドンを。鴉が高らかに笑うタワーを。静まりかえった裁判所を。古くて重々しいあれこれを。蛍光イエローの警察官。粉々のカップ。数えきれない肖像画。スプレー缶で描かれた落書き、それも遠大な。私たちは顔を見合わせる。饐えたようなパンの匂い。やぼったい栗鼠。あちこちに放り出された新聞。めくってもめくっても同じことが書かれている。閉ざされた門。破壊されたシャンデリア。窓を震わせる白銀のコーラス。喝采。いやそれは違う、もちろん歌わない。歌声こそがまた新たな夢を。夢のかたちをした歌が。とりわけ凶悪でゆたかな夢を。病を。
盗み読むことは簡単だった。夢は滲んでいた。連続していた。連続しながら膨らんでいた。魚群のように。都市のように。銀河のように。不分明の断章。うつくしい夢のほうが悪質である。そのように作用する。ひどい高熱の裏側の。歩くたびに踏みしめられて。淡い小道があらわになって。共同の夢はどこまでも。夢のほうはいたって平らで。意思はない。意味はない。意味なんてない。かたちにすぎない。太古の昔からつづく。静かに。天然痘。黒死病。結核。ゆたかな飛躍をまじえつつ。あるいは変異というべきか。それでも連綿と。いささか比喩的ではあるが。ウィルはそのようなことを話した。確か、いま覚えているかぎりでは。それはとても微細で。はかないインクの粒子のごとく。単にそれだけ。これまでずっと。無数との病人とともに変化しながら。あくまでこちらが。認識として。仮におなじ感染であったとしても。結局はわれわれの身体の。染みから意味を見出して。好きこのんで見出すだけで。
うろたえながら。仮構された頁を繰って。甘い夢を中断までして。同時にふたつのものは読めない。たとえ夢であっても。それでも。気がかりで、わざわざ。ウィルのところへ。それなのに。いくら盗み見ても果てがなかった。とにかく長く、速く、ゆたかに、細緻に、どこまでも深く、遠い地平のさらなる向こうへ。破壊された辞書みたいに。辞書の中身をぶちまけたみたいに。なんども繰り返しぶちまけたみたいに。そんなことをしていったいなんになるというのだろう。ウィルは。夢は。それは。それはつまり。つまるところは。
つまり、と私は言う。〈private eye〉を名乗るわたくし。そのような一人称。仮構された頁を繰って。少なからぬ混乱があって。なにかがいまにも終わらんとする。なめらかには読めないが、それでもわかる。クライマックスのような手触り。夢は。文字は。病は。むろん触ることなどできはしない。文字通り書くのではない。文字通りにはとても書けない。ただなるべくそれらしく。近似させるためにどうにか。並べるとしたら。近い言葉を、たとえば。山高帽。ガチョウ。よごれたドレス。やぶれた小包。縁談。通気口。私のしらないいくつもの語群。蓋の重たい衣装ケース。ぼろぼろの犬。あらゆる点を無節操につなぎあわせて。神話のない星座のように。いや、でもよく考えれば。新しい星が光りはじめて、それならば。ピアノの調律。枕木。酒樽。ボタン穴。やきもち。タクシーの群れ。爆発。動かぬ右手。そしてなにかが諦められる。すべてがなぎたおされる。またあたらしく構成されて。神話のつづきは引き延ばされる。盤上の駒はずらされて。すべて再び絡まり合って。より一層複雑に。もういちどほとんど最初から。
能力がある。能力。能力なんて。それは無益で。私にはあってウィルにはない。ずっと無益だった能力がある。とても明晰に夢を見ること。自在に夢を構成すること。細やかに正しく覚えておくこと。しかるべき気力をかたむければ。それだけで。疲れることさえ厭わなければ。生まれたときから。いつも、いかなる晩も。とても簡単に。これが肝要だった。これだけが肝要なのだった。ウィルにとってはそうだった。
明晰な夢は。そのように見られる夢は忘却されて。それらしい根拠をならべたてつつ。珍しいことではない。だから感染は水面下でひろがって。ウィルの声。声が語る。克明な。快活な。心地よい声。とめどなく話しつづける。まったく覚えていない人が大半で。たとえ明晰に見ていたとしても。ほんとうはより多くの人がそれを見ていて。たとえ健康なときであっても。だから死ぬひとがこんなにも多い。記憶にないものは数えられない。回帰的に推し量るしかない。いくらかの仮定を置いて。いくらかの別の数字をもとに。そのころにはすでに毎日数千人が死んでいた。世界で。それゆえ、少なくとも。誤差は承知で。その脆弱さは。あらゆる人が、じつは。潜在的には。
軽症のひとも多くいる。明晰な夢を見ないひとびと。あるいは活字にたいして無効のひとびと。
少しずつ思い出している。いっそうねむくなっている。命がけの実験だった。命がけだなんてそんな。嘘みたいな。嘘じゃない。ウィルの夢は、つまるところ。立証というか。立証してしまった。終わらせなければ目醒めることができないのだと。物語の終わりが病の終わり。こういってよいなら終わりの認識が問題で。おおむねそんなところだろう。いやこんなことでは説明にならない。辻褄ならば遅からず合う。合うことになる。そうだと思う。飛躍は依然として残されつつも。終わりにはかならず外部があって。自然な果てなどどこにもない。つまりこのように換言できる。物語はいかにして終わるのか。いかにしてそれを終わらせるのか。
黒死病とか。たとえばそのような夢も。疫病がメディアを普及させるのではない。じつのところはその逆で。たとえば活版印刷。伝達をつうじて感染する。つまりはこの部屋のTVも。センセーショナルな報道そのものが。あるいは無数のつぶやき。ちいさな画面をころがってゆく。国際機関のまとめる分厚い報告書。診療室に積み重なるカルテ。むろんおしゃべりもそう。乗じて活字は伝播する。夢は。病は。ほんとうなのかもしれない。ほんとうらしい気がする。わからない。いまとなっては。ただ矛盾はしていない。正しい気がする。でも。真実だとしてどうするのか。だれも信じないのだとしたら。
部屋の電話のベルが唐突に鳴る。今度はほんとうに鳴っている。
息を止める。書くことを中断し、電話を無視し、そして再開する。このように。ベルはすぐに途切れた。医療関係者か、それとも。軽く動悸がする。光がない。ほとんどなにも見えない。ブラインドタッチ。べたべたの肌に絡まるリネン。熱をおびるPC。
まぶしい画面をゆらゆら流れる黒い文字。
夏なのに少し寒い。毛布を引き上げる。だれかが来るかと思ったが来ない。問題ない、ほとんど治ってしまった。もう終わってしまった。わかっている。着実に恢復している。記憶をつぎつぎととりこぼしながら。思い出してはわすれて。それからその逆に。窓の外が暗い。
悲しくはない。ただ忘れたくない。充電がゆるやかに減っている。息をあまりうまく吸えない。
よく考えれば、たとえ母語であっても。空白を指す無数の言葉が。ウィルの語りには割れ目があって。わたしは埋めるためのものをもたずに。ずっと仕事をしていて。ソフトウェアを勝手に使って。たぶん規約に反していただろう。図書館のいちばん目立たない席で。授業もそっちのけで、肩を丸めて。文字拾い。楽器を弾くようにキーの操作をなじませる。そうしてわずかな。わずかばかりの収入を得て。でも。ウィルはといえば。成績表は見たことがないが、あきらかに。それくらいのことはわかる。わかってしまう。話しかたや振る舞いかたで。低くてやさしい声音。かろやかな笑いのリズム。いつでも自信たっぷりで。記憶の中のだれかに似ている。だれだっけ。賢くて正しいだれか。正しくてそして。見目もうつくしいだれか。つねにひとに囲まれて。偉大な星々に祝福されて。どこかで読んだだけかもしれない。
申し訳ないと思っている。いくら書いても振り払えない。
申し訳ないと思っている。きっと二度と会えない。記憶の中にしかいない。こんなにも脆い記憶の。書くしかない。書くことでなんとか。どうにか保てるよう。完全には失われぬよう。もう病は終わってしまった。もう目醒めてしまった。私だけぬけぬけと目醒めて。二度とはもう。つぎに見るのはもうひとつの新しい夢。ウィルを迎え入れることの決してない夢。はっきりわかっている。巻き戻らない。時間は巻き戻ってくれなどしない。なかったことにはできない。因果は覆らない。うつつの側では覆らない。これは夢ではない。
いつも目立っていた。ざわついた教室は押し黙る。華やいだパーティーも声をひそめる。声色は低くやさしい。どの言語で話しても甘やか。ほとんど嘘に近いなにかを述べ立てる。あくまで落ち着いた口調。ほがらかに、淀みなく。だれもがその声に聞き入って。でも私はひとりだったから。ずっと透明で。きわめて透明で。透明な会釈をなんとなくして。だれの視線をもすりぬけて。その透明度を保てていれば。保たれていた。ずっと保たれていた。この春先までは。けれども寝ぼけた春先に。あの劇場で寝ぼけてそして。なかったことにはできない。
仮構された頁を繰って。アンカラで架空の父とすれ違う。山高帽にマスタッシュ。夢みたいな、夢なのだから。私たちは顔を見合わせて笑う。存在しない父の思い出。運転手のいない観光バスで駆け巡る。モザイクの街。バスは空を飛んだりしない。飛ばすことだってできたけれども。筆致はおさえて。明晰に。ひややかに。あくまで静かに。こがね色の墓廟を越えて。白亜の寺院にいくつも出会って。猫ではない猫の彫像。空腹ではない。けれどもアイスクリームをたべる。どこからともなく取り出して。光をあびて白くひかって。ミルクの味のような気がする。舌先でつめたくとける。頬を冷やす。ロシアへ。そしてインドへ。
〈private eye〉とは探偵のこと。そのことに気づくまでずいぶんかかった。私は夢の中ですらのろまで。仮構された頁を繰って。謎解き。試みられているのは謎解きなのだと。やぶれた文意はついに。やっとわかった。謎解きはもつれていた。混迷していた。なんども繰り返される。そのたびに話は複雑になる。重なるたびに異なっている。足跡。石鹸。長距離列車。非常に丈夫な折り畳み傘。革手袋。報復。無精髭。役立たずの傍証ばかり。それともなにか。なにかの手がかりが。私は立ち止まる。尾行を中断し、決定的な証拠を述べる。赤い髪の毛。ポットの中の茶葉。切妻屋根。痛風。ラブレター。いやしかし、それでも。やはり。丸眼鏡。擦れ傷。未使用の家具。いやな予感がする。とてもいやな予感がする。
レトリックではない。今度ばかりは文字通りの話で。夢を見終えることができれば死なない。ほんとうにそうだった。ほんとうに簡単なことだった。夢を見終えれば息を吹き返す。だから物語そのものが問題で。物語の終わりが問題で。終わりの方法こそが戦い方で。そのことはもう書いた。書いた気がする。いまなら信じることができる。だって私はあの夢を見て、夢を終えて目を覚まして。消耗して。こんなにも疲れ切って。まだ覚えている。活字としてひらかれる夢。なんと魅力的な病原体。表紙はない。もちろん裏表紙もなくて。夢なのだから。じつのところ頁もなくて。仮構するのはわれわれのほうで。文字だけ。ただ文字だけがたんたんとどこまでも。
それでも。仮構された頁を繰って。ロングアイランドの浜を歩いて。もう光らない水面をながめて。静まり返った家が立ち並ぶ。漏れ聞こえてくる追悼歌。私たちは走り出す。妹のほうが足がはやい。それでも手をとりあって。石畳はたからかに鳴る。どこまでも。悲しみに満ちたニューヨークを。あおあおとゆれる街路樹のそばを。真っ暗なショーウィンドウ、白いマネキンがうなだれている。もっと駆けて。非常階段をのぼって。摩天楼のてっぺんで息をはずませる。りんごを剥いた。果実はどこからともなくあらわれて。かじる音。つめたい果汁。無音の街。無音ではない。サイレンが鳴る。怒号がきこえる。息ができない! 窓辺にほのかな灯りはあって。
いくらもっともらしく話しても。なめらかで自信たっぷりでも。ウィルの言うことの半分くらいは、私にとって自明のことだった。私のことはなにも知らずに。知らずに話して。知るつもりはまったくなくて、好きなだけ話しつづけて。悲しくはない。親密ではない。あれは怒りだったのか。一度も声を荒げなかった。私はやはりとてものろまで。感情はとても遅延して、ひたひたと、何度も、波のように、薄膜のように。
書くことにも思い出すことにも倦んでいる。手首が軋む。充電が減ってきている。
あらゆる箇所から引きずり出して。論拠を。傍証を。もっともらしさを。手を突っ込んで。書棚から、サーバーから、他人の夢から。私がねむるねむりから。手当たり次第に掴んで。冗談じゃない。いくら探偵を気取られたところで、助手役を申し出る気はさらさらない。ウィルは私を道連れにしたけれども。はっきり言って役には立たない。身のこなしは軽くない。専門知識もない。愛想も。母語でない言葉を読むのが遅い。語彙がまずしい。まっくらの閉架書庫では迷子になるだけ。そもそも解明へと向かう情熱がない。答え合わせなどどうでもいい。明るい無気力が私の取り柄。本当に役立たずだ。まさかワトソンじゃないのだから。
現実はけっして劇的ではない。そのことはもう嫌というほど知っている。警備員は居眠りしていて。あるいは居眠りしているように見えた。どうしようもない。夢ならば書き直すだろう。退屈し切ってしまう。多少はスリリングに。愉快な光景をあつらえるだろう。夢ならば簡単なのに。笑いたくなるほど退屈だった。ただまっすぐと地下へ。なにかマスターキーとか、そうした類のものを使って。図書館へ。地下へと向かう埃っぽい階段を。飛躍はある。いや飛躍ではない。階段で足を滑らせて。手すりはない。もちろん暗い。よく滑るマット。崖下へ。身体を打ちつけながら転がって。底無しの書架へ。いやそんなことはなかった。一段ずつよく確かめて。静かに。きわめて慎重に下ったのだった。
リネンが光を受け止めている。空が白みかけている。そんな気がする。わずかに。
気のせいかもしれない。よごれた指先。いまもひっきりなしに動いている。充電が減っている。急がなくては。まだ書いていないことはあったっけ。まだ思い出していないことは。
電話が鳴り、すぐ切れる。それが三回繰り返される。もう驚かない。
いや、とにかくすべて思い出すこと。これほど多くを書いたのに。まだ。終わりには多少の距離があって。そのことが確かにわかる。この距離はいつでも正確にわかる。
どこまでも。仮構された頁を繰って。リオデジャネイロを。毛をさかだてた怒れる犬を。燐火を。香水を。掘り起こされたばかりの黒土を。煙の匂いを。あまりに鋭いこうもり傘を。つめたい両手をにぎりしめあう。祈りを。悲しみを。足がもつれる。ほほえむ剥製。花束は投げ出されている。それから。オルゴール。リボン。革靴。精霊。錆びた剃刀。ペチュニア。まだ腐っていない生肉。妹は取り乱さない。燃え立つような煉瓦の家々。テニスコート。両手をひろげたキリスト像。バラック。無数の棺を。サンティアゴを。リマを。
きっと愉しいのだろう。愉しかったのだろう。そうでなくては辻褄が合わない。仮構された頁を繰って。仮構された頁の向こうに。あの微笑が。やさしい面立ちが。唇からのぞく白い歯が。透けて見えるようで。私において意味を結ばなくても。微笑をさそうのだろうとわかった。きっとわからない愉悦があって。独り占めして。気の利いた諧謔にみちて。私は知らない。知りようがない。諧謔はつねに未筆の空間をさしていて。悦びは空白からあふれだす。ウィルはひとりぼっちで。にこやかで。ひらいた言葉を自分で笑って。虚しくはない。そのことは理解できる。読むときはかならずひとりで。書くときはかならずひとりで。それでもよろこび似たなにかが。わかっている。たったひとりで。絶え間なくこわれる謎解きも。あるいは詩情とかそういうものも。ひとりでなにかの虜になって。だれも知らない。どうしても知りようがない。
ほらね。こんなふうに。羊の夢も。あるいはねずみも。ときおりウィルが顔をあげてなにか言う。ぼやけたその声を聞いている。ぼやけたのは声ではなくて。聴覚がなんだか湿ったようで。ウィルはつぎからつぎへと引きずり出して。書棚のあいだをうろうろと歩いて回って。飽きもせず。またあたらしい星座をむすんで。目を赤くうるませて。灰色のつめたい書見台。切り出された石でできている。墓石ではない。図書館に墓などない。墓かもしれない。相槌をうつ気力もなかった。打ち付けた脛も痛んだ。たしかそうだった。たぶん。いや痛かったのはべつの理由で。背もたれにしなだれかかる。感染のレッスンが功を奏して。なにか持ち込んでいたはずの食べ物も。なにか乾いた食べ物は鞄の中に。食べる気にはとてもなれずに。ずっと。水ばかりわずかに舐めて。ウィルはひとりで重いハンドルをまわして。我が物顔で書架をさぐって。ひび割れた本をいくつも積み上げる。
かすれたインクをじっとにらめて。肩で息をしながら。どれほどのあいだそこにいたのか。
きれいだった。わずかな灯り。紙をめくる音。灰色の書庫。桃いろの頬。ぼやぼやとゆがんで。
思い出す。あのとき思い出していた。くずおれて。熱とむなしい時間ばかりあって。走馬灯のように。なにか。思い出していたことを思い出す。人気のない映画館で。そのころ劇場にひとはいなくて。あざやかな画面の前で。あざやかだったのだろう。わりあい評価の高いなにかで。ねむって。ふかくねむって私は終幕と同時に目をさます。エンドロールの最後の一行。隣席にウィルが。透明だったころのウィルがいて。笑んで。微笑んでいる。見てましたか、と笑みながら訊く。透明だった。まだとても透明だった言葉遣いで。透明に訊くのだった。見てましたよ、と私はうそぶく。ねむった理由は思い出せない。単にねむかったのか。あるいは。私は見ていた夢をぜんぶ話した。覚えていたことをそっくり。どうしてだろう。嬉々として。とても良い映画でしたね。からかうように。ちがう。単にねぼけていただけで。勝手に混乱して。寝起きの。唇がかさかさしていて。笑みが。まばゆい笑みをウィルはひろげて。満面に。子どものように。
はじまりのような。はじまりが。はじまりだった。そんなはずでは。知らずに誤ったことがいくつもある。
それから。思い出していたことを思い出していたそのことを。もつれても。書いて。思い出しながら飛躍を埋めて。すごく面白いなにかを読んでいた。その日も窓から陽がさしていた。私たちは話していた。いやウィルがまくしたてていた。一方的に。やさしく、柔らかく。物語の終わりについて。つまりは病の終わらせ方を。それは例えば結婚。たとえば死。たとえば旅立ち。たとえば凱旋。たとえば爆発。たとえば謎解き。たとえば目醒め。あるいは終わりなき活字のつらなりについて。バベルの図書館などないのだとして。それでも。劇中劇。作中作。いやでも。愉しさを損なわない方法を。私は顔をあげる。はやく続きを読みたいと思っている。答えをさっさと与えて。話を切り上げて。ウィルの目を見る。口をひらく。どんでん返し。繰り返されるどんでん返しは。
それだけなのに。でまかせのようなものだったのに。ウィルはいたく感心していて。いやに感心して。感心しすぎていた。うれしそうに。今となってはそうだとわかる。
古い紙片は床にこぼれる。音もなく。いやなにかしらの音を立てて。たぶん。あるいは私たちの体も。いつしか反故紙のようにくしゃくしゃになって、耐えかねて。
だれも来なかった。きっと幾日か経っていた。ひそかに。地下だから光は見えない。ウィルもついにはうなだれている。私は思い出すことをやめる。我にかえろうとする。焦点が定まらず声ばかり降ってくる。やさしい声が。床に。熱があって。ぼんやりとして。床はつめたくて埃っぽい。戻りたければいつでも戻れる。繰り返すようだけど。ただ夢を終わらせるだけで。そのことはもう何度も話した。それだけで戻ってこられる。
まぶたがひどく重くて。頭の奥がしびれるようで。
——おやすみ。どうか良い夢を。
そして妹と出会った——そのようにあらわれる文字列。文字列がひろがって。話を戻すこともできる。条件すらただしく整えば。あるいは冒頭へとひるがえって、あの旅を。あの旅について。仮構された頁を繰って。不完全な盗み読みを。ウィルの夢について。より細かく、あるいはより乱雑に。それともよりあざやかに、より抽象的に。同じことをまったく別様に書くことも。より明晰に。順を追って。ともすれば。でも、いまとなっては。記憶はとおく霞んで。書き直すための動機もなくて。忘れかけていて。書き加えられるべきことはなにもない。
夜は終わりかけていて時間がない。大半のことはもう書いた。あとは残りを。終わりのことを。
仮構された頁を繰って。飽きても繰って。それはますます勢いを増して、ますます意味を暗くしながら。探偵譚は。まるっきり私の言った通りに。事後的にそれは予言になって。そんなつもりはなかったのに。信じがたい。因果関係は厳然とある。うつつの側では入れ替わらない。どんでん返し、いやあれはそう呼べるものだったのか。どこまでも。終わらせないための文字列が。遠ざかるばかりの。もつれるように先へと転げて。手遅れなのはすぐにわかった。気づいた時にはすでに。気づいたところで。声は出ない。叫ぼうとしても夢だけがあって。文字だけがあって。わからない。取り乱していたのかどうかも。文字はどこまでも続く。続くためだけに続いていく。そのことはわかる。繰り返されるどんでん返し。繰り返されるために繰り返されて。それから。それで。でも。そこで。なにが意図されたのかわからない。ウィルはなにを思って。どうして。考えるときはかならずひとりで。たとえば。それとも。あるいは。冷やかしだと思っていた。つまりは実験。興味本位の。まさか。それとも。探偵ごっこが愉しくなってしまったのか。本気になって。明晰でありながらなお。みずから望んで。ばからしい。けれども。わからない。
わからない。わかるわけがない。だとしても。仮にいくらかの世界が並置されているならば。そう思い込むことができたとしたら。ばからしいと言ってよいのか。病の裏側に夢があって。夢のほうを選ぶことは。死のようにしか見えないのだとしても。その向こう側には。向こう側なら。原初的な祈りの形式。そこにもうひとつの物語があって。それは天上へとつらなっていて。ほんもののごとくあらわれるなら。真実のようにあらわれるなら。そうした祈りの考え方も。わからない。どこまでも。永遠にその愉悦はあって。
なにか言いたいことがあって。言いそびれたことがたくさんあって。それなのにここにはだれもいない。震わせたままうすく開いて。いまも乾いたままの唇。
ゆるゆると光が差す。たぶん晴れている。晴れた朝がきている。枕元の水にいま気がついた。アメニティ。洗面台にナイトガウン。石鹸。そうして。ほどなくしてリネンを蹴って。まだ。あともう少しだけ。大丈夫、すべて書き切るだろう。予感がある。もうまもなく。いま覚えていることをすべて。絞り出すように。そうすれば終わり。終わらせることはこんなにも容易い。
今となっては急ぐ必要もさほどない。
仮構された頁を繰って。メキシコ・シティを。ブエノス・アイレスを。そしてケープタウンの空港へ至る。ゆるやかに終わりへとむかう。簡単なことだった。私たちは見る。雪を見る。真夏に降りつんで。白くきらきらの。奇跡的な感じがしていて。掻き消す。すべて白くする。なかったことにする。私がそれを用意する。あくまで明晰に。自在に。ひややかに。妹は雪を目にして。降るはずのない雪を目にして。初めての雪を。私たちは向かい合っている。さみしげな言葉をいくつか述べ合う。妹は飛行機に乗らない。ともに帰国しようとはしない。私がそのように企図している。あやつる方法はこんなにも単純で。ぴったり文字通りに夢を見ればよいだけ。一文字違わずそうすればいいだけ。いまこのように文字を打ち込むのと全く同じ。なるべく誤字に気をつけて。可能であれば簡潔に記して。顔なき顔でさっぱりとほほえみあう。良き旅でしたと。
死にたいと思ったことなど一度もない。夢はいつだってくだらない。終わらせるに値する。
書くことはまもなく尽きる。こんな風にあの夢も終わった。ほんとうに簡単だった。明晰な願いを明晰なままに。夜明けと書けば陽が昇る。着陸と書けば機体は下降する。忘れたと書けば忘れている。意味はそのように作動する。ほんとうに、たったそれだけのことだったのだ。終わらせることはこんなにも。
いまどこにいる——送信失敗。でも宛先はたしかにある。いくらかの会話の履歴も。たしかに残っている。
忘れつつある。夢だけでなく。ウィルのことも。ウィルの言っていたことを。次第に。きっとそうなる。ふたたび読むとき、読み直すとき、見知らぬ人と出会い直して。あなたはいったいだれなのか。なにもかもあいまいで。もう見知っているウィルではなくて。私はウィルを見知っていなくて。どうしてだろう。文字の上にあるだけの。文字面だけの。妹とおなじくらいの軽さの。ウィルは。そんなはずでは。いたように思うが、はたして。
もう他人のようで。つくり話。ひとつのフィクション。知らない人の。知らない人に書かれたつくり話を。
仮構された頁を閉じて。音もなく。目醒めようとして。
水を手に取る。ゆっくりと口を湿らす。喉をすべりおちてゆく。記憶がにじむ。つぎつぎと。ほころびてゆく。まだ覚えている。
もう覚えていない。部屋は次第に明るくなって。照らされるとそこはさみしい部屋だった。狭くて。古びていて。ウィルのことを忘れている。ウィルのことを。ウィルの言っていたことを。思い出せない。こんなにも書き連ねたくせに。その声も。声色も。リアリティをまったく欠いて。どこから来たのか。正しい名前も。
記しておくべきだった。ウィリアム。ウィレム。ウィレケ。ウィルソン。それとも。
読み返すごとに遠くなる。それはだれで。どのような輪郭で。私のでたらめではない。でたらめを書いたつもりはない。けれども。いったいどこから夢で。
冒頭を読み返す。私ではない。いや私ではあっても、もはや。やけに真剣で。切実そうで。笑ってしまいそうになる。なにをそんなに焦っているのか。どう見てもひどい文章。みじめに焦って。救いがたい飛躍に満ちて。知らないひとのでたらめの憶測を。知らないひとのありきたりの喪失の。どこにでもあるような悲しみを。愚直なまでに引き受けて。ありえそうもない話を真に受けて。ねぼけて。騙されていたのだろう。
ここにあるのはただの怠さと。部屋と。死んだTVと。薄いベッドと夜明けと。シャワールームと。
うつつに対して明晰である。幕のむこうでゆれている。夢だった。とても深い夢だった。悲しいのかもしれない。私はひとりぼっちで。ほかにはだれもいなくて。部屋はそっけなくてさみしい。知らないひとがたくさん死んでいく。グラフはつぎつぎと背を伸ばす。名前のない数字の群。悲しい。どういうわけか悲しくてたまらない。
電話が鳴る。ベルが一度鳴る。二度鳴る。三度鳴る。そのあとも切れ目なく鳴っている。たぶん手を伸ばす。きっと繋がる。完全に忘れるだろう。完全に。
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