赤い!

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梗 概

赤い!

 画家の暁アカリは、米国で物理学者として働いている妹のミナから高校生の娘ハナを預かり、日本で二人きりで暮らしている。
 美大の受験準備に余念のないハナをアカリは真っ赤な夕焼けの海に連れ出す。日が落ちかけ、ハナは「あれが落ちる瞬間に跳ぼう」と誘う。太陽が水平線に消えたまさにその瞬間ジャンプして勝ち誇るアカリに、ハナはまだ光が消えていないと言い張り何度も跳ぶ。はじめは笑っていたアカリはそのうち恐ろしくなる。「赤い! 赤い!」とハナは跳び続けている。
 アカリはハナの色覚の異常を医師に見せ、後日その結果をひとりで聞きに行く。原因はわからず、長期の検査入院を提案される。視覚異常患者が増えているが、殺菌をすれば治るといったデマに惑わされないように、と医師は念を押す。消沈するアカリに画商から絵の催促が入るが、何も描く気が起こらない。アカリはそのまま美術予備校へとハナを迎えに行く。あらわれたハナは信号を無視して轢かれかける。色が変だと先生に怒られた、とハナは車で軽く笑うが、入院について聞くとひどく落ち込む。
 自宅にたどり着くと、ハナはとつぜん駆け出して行く。真っ暗な路地を走り抜ける彼女をアカリは必死に追いかける。ハナはある民家の前で、真っ白な光をついに見つけた、と目の前の花を指差す。殺菌のためか、紫外線ライトに照らされた白牡丹は紫に妖しく光っているようにアカリには見える。アカリはハナを抱きしめ、癒やしのための絵を描こう、と諭す。完成したハナの絵は真っ黒な筆致で埋め尽くされている。追い詰められたアカリはミナに電話をかけ、助けを求める。
 数日後の深夜、ハナに直接会うのを避けるかのようにミナがやってくる。ハナを病気にしてしまったと嘆くアカリに、これは病気ではなく災害だ、と真相を知っている様子でミナはこたえて眼鏡状のデバイスを取り出す。そこにハナが起きてきて、饒舌だったミナは気まずく黙り込む。ミナにはハナを捨ててしまった負い目がある。しかしハナはデバイスをかけて歓喜の声を上げる。視覚が戻ったのだ。「ずれた光の周波数を補正してるだけ」とミナは短く解説する。「ずれを逆にはできないの?」とアカリが聞く。何の意味がと渋るミナに補正の正負を入れ替えさせると、アカリはデバイスを手にミナが描いていた真っ黒な絵の前に立つ。地獄のように赤い視覚のなかで、絵は輝いている。それは可視光では見ることのできないミナとアカリの肖像画だった。アカリからデバイスを手渡され、ミナはいつまでもその絵を見つめていた。
 個人の視覚間で光速が突然異なるようになり、特に色覚にずれが出るようになったと国連が発表する。ミナはニュース番組でその発表を解説し「自分が見ている姿を普遍的なものと捉えるべきではない」と、暮らしやすい社会のありようを提言する。
 アカリが生け垣を見上げたとき、牡丹は白くきらめいている。

文字数:1186

内容に関するアピール

 この一年は分断の年だったと思います。コロナ禍やグローバリズムの終焉を目の当たりにしているぼくたちには、十分な身体性をもって今しか書けない分断を書けるのではないかと考えました。十年、二十年ののちに分断SFアンソロジーが編纂されるとき、その一助となるような物語が編めていればと思います。
 分断や災害をテーマとするアイデアを二十個出し、その一つ『日没のタイミングがとつぜん観測者によって同時ではなくなる。我々が見ていた太陽とは何だったのか』を膨らませました。太陽をどのように書けばいいのかと恒星について調べているうちに年周視差などを知り、絶対不変の光速が変わってしまう恐ろしさを作れないかと考えました。煩悩に囚えられたひとが宗教によって救われるように、この物語が誰かの救いになればと思います。

文字数:344

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うさぎなおし

 授業時間中のキャンパスからは喧騒が消え、透き通った空気が満ちている。アタシはそれをすうーっ……と吸い、「うええええー」と犬みたいに舌を出しながら思いきり吐き出した。それくらいしないとマジで息以外のものを吐いてしまいそうだった。誰かに見られていた気がして、被っていたキャスケットを目深に直す。ヘッドホンから溢れんばかりの音量で流れていたクラシックミュージックの音量を、チキ、とさらに上げ、校舎の影から出る。
 あかるい。
 強い日差しのせいでほとんど見えないスマートホンの曲選択画面をじっと睨んでいると、ぽこ、とさっきまで授業に一緒に出ていたフミちゃんからメッセージが飛んできた。
『どうしたの? 途中退出』
『(ごめんね、と謝るスタンプ)』『私語多すぎ』
 アタシは返信を打ちこんで、ため息をつく。授業内容は面白いけど、講師がいつも自分が話している内容に熱中しすぎていて、学生の私語を注意しない。要するにうるさいのだ。耐えられないくらいに。
『お昼一緒に食べよー』『天気いいし、生協でなんか買って外で食べよっか』『芝生とかで待ってて』
『いや、今日おべんと』
『お弁当!? アキが作ったの?』
『初弁当』『公園かどっかで一人で食うわ〜』『(むふふ、と笑うスタンプ)』
『お〜』『写真送ってよ』
 アタシはかすかに笑う。割と気分が良くなる。「どうしよっかな〜」と呟いて、キャンパスの外に出る階段を下っていく。金管に合わせて鼻歌を歌いだす。
 こんな時間が一生続けばいいのに、と思う。
 その幸福は十分と少しで終わる。
 公園でアタシはきれいな東屋を見つけ、意気揚々と座る。写真を五枚ほど撮って一枚をフミちゃんに送ったあと、返信の『意外とまとも』という褒め言葉に口角を上げたまま、最初の一口を食べて激しく咳き込んだ。しょっぱすぎるおひたしが喉に詰まって、軽く死にかけたのだ。涙が滲み、鮮やかな公園の緑は青空と溶け合ってまぶしい輝きに消えた。あまりにも苦しくて、身体を折り曲げる。「こほ」と、十回は続いた最後の咳を軽く吐き出しながら水筒のほうじ茶を出し、一気に飲み干す。
 はあーっ……。
 まともだ。
 多分、お茶と、お弁当の見た目だけが。
 アタシは色とりどりのお弁当の中身を見下ろして暗澹たる気持ちになる。
 ばあちゃんが身体を本格的に悪くしてから、家事のほとんどは家政婦の伊藤さんとアタシの仕事になっていたけど、何かとトラブルの多かった彼女が先週ついにやめてしまってからは、大学のあいだご近所さんにばあちゃんをちょっと見てもらう以外はほとんどアタシひとりで何もかもを切り盛りしようとしていた。正直、伊藤さんの派遣会社とまでバトルを繰り広げ、家の手伝いをしてくれるひとの当てを完全に断ってしまい、慣れない料理の練習をはじめる羽目になったアタシが全体的には悪かったから、おひたしがめちゃくちゃしょっぱいのは一種の罰かもしれない。
 いや認めん。
 悪いのはアタシとばあちゃんの話をまともに聞かないあいつらだ。何度言ってもやばい親戚と結託して、ばあちゃんをめちゃくちゃ評判の悪い遠くの病院へと無理やり送ろうとするのだ。
 お茶を飲み干す。
 お弁当を食べ終わり、暴力じみた余韻にしばらくぼうっとしたあと、時計を見る。もう次の授業がはじまってしまう。家事と課題で寝不足の頭はふわふわ軽い。荷物をまとめ、東屋を出て大学へと戻ろうとした。ちょうどヘッドホンからはドヴォルザークの管楽器が荘厳な調子で鳴りはじめたところだった。
 きゃあー! という叫び声がする。
 すぐ近くで遊んでいる小さな子どもたちがヘッドホンを突き抜けて耳に刺さるような悲鳴を上げていた。アタシはその喧騒に思わず顔を上げ、道のすぐ先、帽子のつばの外側と内側ぎりぎりのところでベンチに座っている女の子に気づく。
 同い年ぐらいの子だ。
 どことなく野暮ったい服を着ている。その子は、俯き、両手でぎゅっと耳を押さえ、この上なく激しい痛みに苛まれているというような辛そうなようすで、何かをじっと耐えている。たとえば恋人が死んでしまったという報せが届いて、彼女はもう二度と、誰の話も聞きたくないのだ、という印象をアタシは受ける。ああ――。
 ばあちゃんだったら絶対声をかける。
 アタシはヘッドホンを取って、肩にかける。その瞬間、強い雨の只中に傘もなく立っているような圧力が耳を叩きはじめて、アタシは眉をひそめる。うるさい。草むらの上で走り回り、ボールを投げあって笑っているひとびとを睨みつける。彼らに一切の罪がないのはわかっている。でもそれはアタシだってそうだ。
 かすかな発作の気配がする。ひらけた場所のせいか、耐えられる。
 アタシは吐き気を無視してすたすた歩くと、すとん、と彼女のもとに跪き、キャスケットを少し持ち上げて「気分が悪いのか?」と抑えた声で聞く。ぱっ、と彼女は顔を上げる。瞳にじっと溜まっていたのか、涙が散って太陽に輝き、不可逆に分かたれたばかりのガラスのようにきらめいた。
 きれいな顔。
「あー……」
 アタシは思いがけないうつくしさに躊躇して、顔を逸らした。青空を一箇所だけ剥ぎ取ったかのように、半分に欠けた月がこちらを見ていた。
「なぜ……」
 と彼女は呟いた。アタシは彼女に視線を戻し、その呆然とした顔に向かって「……なぜ?」とアタシは聞き返す。
 きゃあーあーあー、という子どもたちのよろこぶ声が、アタシたちの間を切り裂いた。全身に割れが走ったような不快感がアタシの顔をぐっとそちらに向けさせ、その直後、アタシは元のように彼女の横顔に視線を戻した。
 頬が濡れて輝いている。
 彼女もかれらのほうを見ていたのだ。
「ひょっとして……うるさい?」
 と私は質問する。
「え」
 しかめっつらのまま、驚いたように振り向いて、彼女はけっこう間抜けな声で聞き返した。アタシの顔を見つめて、ぽかんとくちをあけた。耳を押さえる指が白くなっていた。アタシは凄まじい偶然に「はは」と笑って、うれしさが滲み出るように「うるさいんだな、人の声が」と確かめながら、バッグをごそごそ探る。
 彼女はゆっくりと、たしかに頷く。
 アタシは巨大なイヤーマフをバッグから取り出す。外出中、本当に耐えられなければ使うのだ。「きれいにしてあるから」と囁き、彼女のあたまにかぶらせて、耳をしっかりと覆うように調節してやる。完成した配置にほっと息を吐いて、「マシになった?」とアタシは聞いた。
 耳をすっかり塞いだのだから、聞こえるはずもなかった。
 でも、唖然としてアタシのほうを見上げる顔からは棘が消え、事実を語っていた。何も聞こえないひとというのは、なんだかかわいらしい。滲むようにうれしくなって目を細める。
「うるさかったら、逃げりゃいいのに……」
 とアタシは小さく呟く。
 ごおおーん……。
 時計台の音があたりに響き渡る。
 授業がはじまってしまった。「っと……」とアタシは身体を伸ばし、彼女を見下ろす。何かどうしようもないことがあって、そのベンチから逃げ出すことができなかったのかもしれない。皮肉の笑みが自然と浮かんだ。アタシだってどうしようもなく逃げられないときがある。
 アタシは地面を蹴って駆け出す。
「えっ、あの」
 声が聞こえた。
 アタシは振り返り、イヤーマフを少し浮かせて戸惑いの視線をこちらに向けている彼女に笑いかけ、「いらなかったら捨てていいから!」と叫ぶと、前に向き直って走る勢いを早めた。ヘッドホンを被ると、雷鳴のように打楽器の音が鳴り響きはじめた。太陽のほうをまっすぐ向いたときのように顔が火照っている。
 今だったら、自分の傘を女の子に放り出して、ひとりで雨の中を逃げていく男の子の気持ちが、アタシにはわかる。

 電信柱を睨んでいる。
 この先↑江原宅、家事手伝い・ヘルパー募集、住み込み可。ご連絡の際はこちら↓アタシの携帯電話番号。
 藁にもすがる気持ちで貼った張り紙だったけど、電話なんて一件も来てない。
「どーすっかなあ……」
 消沈して、自宅にたどり着く。
 家の前にほとんど見たことがないくらいでかい軍用っぽい車が停まっていた。違法駐車か? 特殊な窓なのか、中が見えない。怖い。
 門をくぐり、家屋を見上げる。アタシの家はでかい庭付きのけっこう立派な日本家屋で、掃除が大変なのだ。ていうか、まず料理だ。あんなしょっぱいものを食わせたらばあちゃんが寿命の前に死んじまう。伊藤さんが最後の良心で作ってくれていた大量の常備菜と病人食も昨日底をついた。「どーすっか……」とアタシはもう一度呟く。
 玄関をあける。
「ただいま〜」
 ふひい、と息を吐きながらヘッドホンを外し、アタシは靴を脱いだ。汗が吹き出る。買ったばかりの大量の食材を冷蔵庫にしまって荷物を私室に放り出すと、ばあちゃんが寝ているはずの寝室に向かいながら「ばあちゃーん」と呼んだ。知らない女の子にイヤーマフをやってしまったことを謝らないといけないけど、きっとばあちゃんは褒めてくれる。
「あれ?」
 畳の上、敷かれた布団には、姿がない。
「……ばあちゃん?」
 血の気がざあっと音を立てて顔から引いていったのがわかる。今のばあちゃんがひとりで出歩くなんて無理だ。誰かが連れ出したのか。あの親戚だろうか。どうしよう。怖い。もしアタシからばあちゃんが奪われたら、アタシは――。
 かすかな話し声が一瞬聞こえた気がして、アタシはびくっと顔を上げた。庭の方だ。それがばあちゃんの声だとわかって、アタシはほっと息をつく。
 近所の井口さんがまだ残って、ばあちゃんと話をしてくれているのかもしれない。アタシは井口さんが正直なところ苦手だった。悪い人ではないのだが、とにかく話し好きで、一度喋りはじめると長い。頭を振って、洗面所に行く。帽子が暑くて汗が吹き出ていた。井口さんと話す前に、少し身支度を整えたかった。
 アタシはキャスケットを取る。手の中のそれをひっくり返して見つめる。汗の染みが浮いている。鏡を見ないまま、自分の顔を頭に描く。アタシはけっこうアタシの顔が好きだ。大学に入って試行錯誤した化粧もけっこう合ってると思う。
 でも、耳が。
 アタシはついに顔を上げ、鏡の中にいる異形の人物を見つめる。
 暑さを避けるために、自分で短く整えた金髪の隙間から伸びる、普通のひとよりもだいたい十センチほど長い、うさぎじみた耳。
 大学に入って耳の聞こえかたが妙に良くなったとき、耳鼻科でお医者さんに「少し耳が長いですね」と言われた。そのときには言われてみればと思って、もともと長かったのかもしれないねとか、ずいぶん平和な会話をばあちゃんとしていた。周囲の声は、次第に普通にしてたら耐えられないほど大きくなっていった。それと同時にみるみるアタシの耳は伸びていき、五月の終わりころには形成手術を進められた。同じころ、ばあちゃんの病気が死病とわかってアタシの耳どころではなくなり、ばあちゃん以外にはひたすら隠して生きている。
 どんどん伸びる。
 どんどん聞こえるようになる。
 他人の声が気持ち悪くなる。
 突然頭のはんぶんを隠しはじめたアタシのことを、みんながどう思っているんだろう。
 帽子に圧迫されてうっ血したそれを、軽く水にさらして絞ったタオルでそっと拭いた。冷気は心地よく、耳はアタシの意思とは関係なく動物のようにぴくぴく動いた。自分の身体の一部なのに、その動きが気持ち悪くて、アタシは軽く泣きそうになって目を逸らす。髪を少し整えて、帽子を元のように被る。すべてをすっかり隠した自分を見つめ、はあーっ……とため息をついた。
 洗面所を出る。
 廊下のガラス戸をあけ、つっかけを履いて歩き出る。庭を覗いた。
「――池のほとりに、菖蒲がね、この前までまっすぐに咲いていたの。ここ十年でいちばん深い青で……お見せしたかったわ」
 ばあちゃんが庭木のかげで朗らかに笑っている。元気そうだ。よかった。
「ばあちゃーん」
 とアタシは呼ぶ。
「あら、おかえり、アキさん」
 ばあちゃんは顔をこちらに向けて、微笑む。車椅子が引かれて全身があらわれる。ピンとした和服だ。ばあちゃんが好きな服を着ているのをひさしぶりに見る。着せてもらったのか。
 うれしい。
「ただいま」
 アタシはにこにこ笑い、それから「あ」と声を上げる。井口さんなんかじゃぜんぜんなかった。
「こちら、神谷さん、神谷リョウコさんとおっしゃるそうよ。アキさんさえよければ、住み込みで家政婦をやりながら、私の面倒を見て下さるそうなの」
「どうも」
 ばあちゃんの紹介で実直に頭を下げたその子は、公園で座り込んでいたあのイヤーマフの女の子だった。カフェ店員風の、どことなく制服っぽい格好に着替えている。端的にメイド服と言ってもいいかもしれない。アタシはどきどきして思わず自分の服の胸のあたりを掴み、地面を見つめた。この女の子が家に来るということが、すぐにはきちんと飲み込めなかった。彼女と私は、苦しみを共有できるかもしれないのだ。アタシは必死に言葉を探して「……偶然だな」と、囁き、顔を上げて笑みを作った。
 神谷さんと友人になれたら、うれしい。うれしい!
「何がでしょうか」
 と神谷さんは眉をひそめて言った。
「あら、アキさんのことをご存知なの?」
「いいえ」
 というばあちゃんと神谷さんのやり取りを遠く感じた。
 冷水をかけられたような気持ちになり、そして、気づく。
 彼女の肩にはアタシがあげたイヤーマフなんて影も形もない。あるいはあの子と神谷さんは、別人なのかもしれない。むしろそのほうが救われる。だってひょっとしたらアタシがあげたイヤーマフを神谷さんは捨てたのかもしれない。
「これからよろしくお願いします」
 と神谷さんは言って、下げた頭を戻したあと、こたえを待つように黙り込んだ。
 色のない、静かな視線。
「……こちらこそ……」
 とアタシは消沈してこたえた。
 ちちっ、と声を上げて、松から小鳥が飛び立った。ばあちゃんはそれを満足そうに見送ったあと、「そろそろ戻りましょうか。夕食の準備をする時間ね」と言った。ばあちゃんと神谷さんが石畳の上をゆっくり進み、アタシを追い越そうとする。
 アタシと彼女が並んだとき「アキさん、ご両親は」と神谷さんは聞く。
 彼女がこれから一緒に暮らすなら、その質問は当然のものかもしれなかったけど、アタシはいっぺんにけっこう神谷さんが嫌いになる。アタシが力のこもったことを何か言い返しそうになったとき、ばあちゃんが「アキさんは私の養子なの」と涼しげにこたえた。
 肩から力が抜ける。
「……失礼しました」
 神谷さんは静かに謝ると、庭を歩きながら視線をアタシの全身に巡らせて、「かわいいですね」と神谷さんは囁く。
「何が」
 アタシはこたえる。
 とん、と神谷さんは自分のあたまを指した。
 帽子。キャスケット。
「ありがと」
 アタシがこたえると、神谷さんはアタシの肩口の、ほとんど胸元にまですっと顔を近づけた。払いのけようとする隙を与えず、ばあちゃんには聞こえないような小さな声で、アタシの顔を見上げながら「それで何を隠しているのか、私、知っています」と神谷さんは囁いた。
 アタシはすとん、と立ち止まる。
 容姿を褒めるひとがするような好ましい態度ではぜんぜんなく、皮肉を含んだいたずらっぽさもなく、何かを求めて脅迫するようすでもなく、ただ、最初から知っていたことをそのまましゃべった、という感じだった。
 ばあちゃんと神谷さんは廊下から直接部屋へと入っていく。その奥で、ばあちゃんが心配そうに「アキさん、どうしたの?」と聞いたのが、はっきりわかった。
「あいつなんなん」
 とアタシは誰にも聞こえない声で呟いた。
 
 はあー……。
 長いため息をつき、「あいつなんなん、マジで……」とアタシは図書館に向かって急ぎ足で歩きながら独り言を言った。
 神谷さんは一晩で完全に家に溶け込んだ。口数はそれほどでもないのに、ばあちゃんはまるで十年来の友人みたいに神谷さんと接するようになっていた。アタシが買ってきた脈絡のない食材でつくり上げられた夕食はどの品も信じられないくらい美味しかったし、今日の課題のためにアタシが深夜まで作業していたら、夜食までそっと差し入れてくれた。でもそのやさしさとは裏腹に、アタシが昼のことばの真意を聞こうと口をひらいた瞬間「おやすみなさい」のひとことで逃げたりする。
 アタシの耳のことを知って、それからどうするつもりなのだろうか。
 よくわからない。
 図書館にたどり着く。
 アタシは再びため息をつき、顔を上げる。神谷さんどころではなかった。不安がアタシの心に満ちているのだ。
 最近進めていた課題は、今日のグループワークのための準備だ。大学の図書館にはオープンスペースがあって、学生が課題に向けた打ち合わせを行うことができる。ただ、個別のスペース間に仕切りがないから、周囲の声が聞こえすぎて、とにかくうるさいのだ。フミちゃんはアタシが話し声が苦手になったのをぼんやりと知っているから、それとなく別の場所で集まろうと提案してくれたのだけど、結局資料を追加で探せる手軽さが勝ってしまった。
 仕方がない。アタシはあんまりみんなの足を引っ張りたくない。それに、ちょっと前にそこで一度集まったときはなんとか大丈夫だった。
「あっ、アキー」
 場所を取っていたフミちゃんが手をブンブン振ってアタシを呼んだ。いつも寡黙な金田くんもはにかみながら小さく手を上げたので、アタシは笑って軽く手を振り返す。
「大丈夫だった? 昨日」
 フミちゃんが心配そうにアタシに聞く。
「うん、ごめんな迷惑かけて。ノート助かった」
「ノートはいいけど……ずいぶん調子悪そうじゃん」
「課題と試験勉強であんま寝てないだけだよ」
「江原さん、おばあちゃんの具合は?」
「あ、大丈夫」
 アタシは笑みを金田くんに返す。「昨日からあたらしいお手伝いさん来てくれたし」と返事をすると、「よかった」と彼はほっとした声でこたえた。
 アタシたちはそのままお互いの資料をとりあえず並べて、山崎くんの遅刻癖をどうしたら治せるかをテーマにしばらく談笑した。しかし、近くに同じようなグループがみっつ、よっつ、と増えてきて、アタシはだんだん気分が悪くなり、少しずつ無口になっていった。
 ひどい発作の予感があるのに、課題があるせいで立ち去ることができない。ごおおおおおおっ、周囲のひとびとの声はひとかたまりのまっくろい轟音となり、アタシを叩き続けている。
 結局のところ、そこに座り続けていたのは間違いだった。最後に山崎くんが遅刻に対する謝罪のような言葉とともにあらわれたとき、アタシはほとんど黙って、じっとテーブルの何もない一点を見ていた。そうやって無心で耐えていないと、この大嵐を乗り切ることができないほどになっていたのだ。
「アキ!」
 暗闇を割くようにフミちゃんがアタシの名前を叫んだ。はっ、とアタシは顔を上げ、フミちゃんを見つめる。
「……顔真っ白だよ」
 三人が心配そうにアタシを覗き込んでいる。アタシは二度、三度と口をひらき、「大丈夫」とこたえようとして、結局無言で椅子を蹴り、お手洗いへと走った。
「ごほ」
 白い便器を見つめて、咳をする。
「ごほ……」
 吐き気はなかなか消えない。吐瀉物のかわりに唾液が垂れ、ぽた、と落ちた。お手洗いの扉がひらく気配があり、コンコンと個室の扉が鳴って、「アキ」とフミちゃんの声が聞こえた。
「大丈夫」
 こたえた瞬間に、食べたものを戻した。水を流す。はあ、はあ、と荒い息が、まるでアタシのそれじゃないみたいに響いている。
「アキ、大丈夫?」
 こたえられない。吐いてしまう。
 はあ、はあ、はあ。
 息がうるさい。
「ごめん、あとで、戻るから、出て」
 とアタシはやっとのことでこたえる。
 アタシはそのあとの数分間をひどい吐き気に苦しんでから、青白い照明の手洗い場で汚れた手を洗い、口を軽くすすいだ。わずかに水滴の残った指で、キャスケットの上からそっと耳を抑え、位置を調整する。
 ここでは誰もしゃべることがないのに、わずかに緩んだ嵐は結局完全には収まらない。
 ごおおおっ、アタシを襲い続けている。
 お手洗いから出たところで、フミちゃんが書棚を背にしてアタシの荷物を抱えて座り込んでいる。「悪い」とアタシが言うと「ううん」と彼女はこたえて立ち上がった。
「資料だけぜんぶ抜いてあとは戻しといた。グルワは男子がやってるから」
「うん」
「えっと……どっか、連れてこうか。車あるし、病院とか」
 アタシは首を振ってフミちゃんからバッグを受け取ると、「ありがと、でもいいや」と、かすかな笑みを作りながらこたえた。
「そう」
 フミちゃんはひどく心配そうな顔をして、短く黙ったあと、腕をそっと伸ばした。気遣いに満ちた指で、アタシの頭に、帽子越しに軽く触れようとした。
 バシッ。
 乾いた音があたりに響いた。アタシが、フミちゃんの伸ばされた腕をはたき落としたのだ。
 フミちゃんがわずかに顔を歪めて、「ごめん……」と謝ったから、彼女がものすごく傷ついたのがわかって、アタシはほとんど泣きそうになった。ひょっとしたら彼女はアタシの頭を撫でたりとかして慰めようとしたのかもしれなかった。フミちゃんが三人姉妹の長女だってむかし言っていたのを、アタシはそっと思い出した。
 フミちゃんはぎゅっと真面目な顔を作り、もう一歩踏み出す。すごい勇気だ。
 アタシにはない。
 ごうごう風が巻いている。
「あのさ……本当に、余計なことかもしれないんだけど……アキ、その帽子――」
「ごめんもう行くね」
 アタシは短く謝ってフミちゃんを遮りながら、バッグを探ってヘッドホンをつけた。「あとで連絡する」と床に向かって呟き、そこから逃げ出した。フミちゃんはアタシがそこを去るまで黙って立っていた。ひょっとしたら何か声をかけてくれたかもしれない。でもどちらにせよ、ヴィヴァルディがすごい音量で流れていたから、聞こえなかった。
 授業をやっている時間には、キャンパスに人通りは少ない。
 アタシはそのまま図書館の裏手にある芝生に仰向けに倒れ込み、深呼吸する。高い太陽が、嵐を少しずつ追いやっていく。
「くう」
 涙があふれた。
 あまりにも惨めだった。弦楽器がひしめき合う中で、アタシはひとりきりで泣いていた。
 誰もアタシのことをぜんぶ知らない。
 うさぎみたいに耳長で、人の声が気持ち悪くて、拾われっ子で、お父さんもお母さんもいない。
 じいちゃんとばあちゃん曰く、十五年ほど前、彼らは山の中をひとり裸で歩いていた小さなアタシを見つけ、拾い上げたそうだった。それからの人生で、アタシを取り囲む友人たちはみなやさしかったけど、アタシのことをきちんとぜんぶ話せたことはただの一度もなかった。
 だってアタシ自身がアタシのことをよく知らないのだ。
 じいちゃんが死んで、お医者さんの話ではばあちゃんももうじき死ぬ。アタシが立派な人間に育つことは、じいちゃんとばあちゃんの強い願いだった。アタシはふたりのためにしっかりしなければならない。ばあちゃんのたった一人残った家族として、誇りに思われるように生きなければならない。
 だけど。
 ひとの声に耐えられないひとが、ひとと異なる容姿のひとが、ひとびとのあいだで生きていけるわけがない。それは、もう人間じゃない。
 どんどん耳が伸びていく。アタシは化け物になっていき、発作はひどくなる。
 たすけてほしい。
 はあーっ……とアタシは湿った息を吐き、唇をぐっと強く結んだあと、青空の端で淡く滲んでいる月を睨みつけながら「誰か……」と小さな声で呟いた。

 ヘッドホンの向こうからなんとなく呼び止められた気がしたけど、アタシは無視した。目は泣き腫らしていたし、誰とも話す気にならなかった。人違いだったかな、と思われれば良いのだ。
 帰り道を急ぐ。
 でも次の瞬間、パアーッ、というつんざくようなクラクションの轟音があたりに響いた。パアッ、パアーッ。何度も響いている。なんなんだ。暴走族か。まだ昼。周囲を歩いていた二、三人のひとびとは、みんな車道に注目していた。アタシはどことなく身の危険を感じ、ヘッドホンを外して、車道のほうを見た。
 見たこともないほど巨大な車だ、と一瞬思って、昨日それが家の前に停まっていたことに気づく。
 そのばかでかいまっくろな車に乗り、窓から少し身を乗り出して、神谷さんは「アキさーん」と、どこか間延びした声でアタシに呼びかけた。
「は?」
 アタシは一瞬呆然と突っ立ち、それから彼女を無視してふたたび歩きはじめた。
 て言うか、今、地球上でもっとも顔を合わせたくない相手が彼女だった。謎だらけの彼女のことを知ろうとするとき、否応なく自分のことも話さなければならない予感がした。しかしあろうことか神谷さんはパアアアアアアーッとクラクションを鳴らしっぱなしにした。「うるせえやめろボケ!」とアタシは振り返って叫び、アタシの方を白い目で見つめる周囲の通行人に慌ててすいません、すいません、と何度も頭を下げながら、やたら車高の高い神谷さんの車に乗り込んだ。
「神谷さん、一体なんなんですか。嫌がらせですか」
「はい? いえ、滅相もありません。少し入り用のものがあったのですが、たまたまアキさんを見つけたので、ついでにと――」
「ていうか何このでかい車」
「私の車です。こっちに出てくるときに使ったんですよ」
 会話を二往復したところでそれ以上話す気がなくなり、アタシは「はあ」とこたえて外を流れていく景色を見つめた。車は家のずいぶん手前で車道を外れ、コンビニに吸い込まれる。
「何がいいですか?」
 複雑な手順でエンジンを切って、神谷さんは言う。意味がわからず、アタシが細めた目で彼女をぼんやり見ていると「アイスクリームです。暑いときに食べると美味しいですよ。ご存知ないでしょうか」と彼女は付け加えた。
「……なんもいらないです」
 アタシはこたえると、シートベルトを外してシートを深く倒し、彼女とは反対のほうを向いて目を閉じた。神谷さんはしばらくそこでじっとしていたあと、ドアを閉じ、去っていった。ごと、ごと、ごと、女性らしくない、重々しい靴音で歩いていく。本当に捉えどころがないひとだと思った。誂えたようなメイド服でアタシの家の家政婦になり、意味不明なほど巨大な車でアタシを連れ帰ろうとする美人……。
 車に戻ってくる。
「アキさん」
 呼ばれて、アタシはゆっくり目をひらく。アイスのパッケージを二つ持って、神谷さんはアタシのほうを見つめている。ハーゲンダッツのリッチミルク味とガリガリくんソーダ。
「どちらがいいですか」
「いらないって言いましたよね」
「買ってしまいました。溶けてしまいます」
 アタシは意図の見えない瞳をしばらく見つめ、ため息をつくと、ダッツを取った。
「あっ」
 悲鳴が上がる。
 アタシは思わず動きを止め、神谷さんを観察する。口元にどことなく名残惜しそうな歪みがある。彼女がうちに来てからはじめての感情らしい感情だ。ダッツをその手に戻す。口角が戻る。
 本当になんなんだマジで……。
 アタシは半ば呆れながら仕方なく「こっちにします」と言ってガリガリくんを取り、袋から取り出した。正直なところ、吐いたあとには水しか飲んでいなかったから、爽やかな氷菓は心地よく体に染み込んだ。そうやってアタシたちはしばらくのあいだもくもくとアイスを食べる。
「こちらの大学は、面白いですか」
 と神谷さんがとつぜん言う。
「はあ。課題ばっかで大変です」
 シャク、とアイスをかじり取り「神谷さんは学校行ってないんですか」と聞き返す。
「少し前に卒業しました」
「……へえ」
 だいぶ年上。あるいは高卒。
 アタシは神谷さんを盗み見る。
「耳……」と囁きかけ、「大丈夫ですか」と聞く。
「耳ですか。おかげさまで」
「おかげさま?」
「頂いたイヤーマフです。昨日は助かりました」
 アタシはアイスを食べ終わり、ガサガサとゴミをまとめる。
「捨ててないんですか」
「はい?」
「や、イヤーマフですよ。アタシがあげたやつ」
 神谷さんはスプーンを咥えたまま、驚愕した、という顔でアタシを見つめた。
「何言ってるんですか捨てるわけないでしょう。おばあさまに頂いた部屋の高いところに飾りました。本当に嬉しかったので」
「かざ……る……?」
「はい」
「いや、だって、昨日、神谷さん、偶然だなって言ったら、なんか黙れって感じで――」
「おばあさまのいる場で偶然ではないなどと申し上げられるわけないでしょう」
「偶然じゃなかったらなんなんですか」
「より深く観察し、あなたを診断するために伺ったのです」
 神谷さんは最後の一口を食べ終わると、アタシから袋を受け取り、空になったカップをしまいながら「観察していたんです、私。あなたのことを、一月ほど前から」と言った。
 あたりが、しいん、とした気がした。
 観察? 診断? 何を?
「あ、そうだ。忘れていました。耳」
 神谷さんは言うと、波打つ黒髪の流れをそっと拾って、耳を出した。その耳たぶには飾り気のない、不透明な白い石のピアスがついていた。見ようによっては河原に転がっていそうなその小さな石が、彼女の肉体にはまるで宝冠の頂点に輝いているかのように埋め込まれていた。
「少し、耳の先のほうを触ってください」
 アタシは軽くためらったあと、神谷さんに言われたとおりに彼女の耳先を触った。あたたかさはなく、やわらかな大理石のようにすべすべとしている。しばらくそうして擦っていると、撫ぜたところが赤くなっていることに気づき、なんだかいやらしいことをしている気持ちになって軽く胸がざわついた。
 そのとき、神谷さんがピアスを触った。アタシは「うわっ」と驚いて声を上げ、彼女の耳から指を離した。神谷さんの耳が、その先の方へ、まっすぐにすうっと一、二センチメートルほど伸びたのだ。
 神谷さんは少し得意そうに、「触覚まわりまでずらせるんですよ、何かと便利でしょう。必要とあれば、これで隠せるのでご心配なく」と言った。
「え……」
 アタシはほとんど絶句して、身体から力が抜けた。
 ぐったりとシートに深くもたれかかる。
 神谷さんはじっとアタシの全身を見ていた。それから身を乗り出すと、アタシの身体の両側に手を突き、アタシを上から見下ろした。
「大丈夫、外からは見えません」
 と神谷さんは言った。
 アタシは彼女に頷きを返しも、首を振りもしなかった。どう反応していいかさえわからなかった。でも彼女を拒絶する気にはなれなかった。彼女が抱えている謎の裏側がどうしても知りたかった。そうして神谷さんがキャスケットをそっと取るのを、アタシは黙って見送った。ぴん、と、耳が帽子のふちで弾かれて、外に出る。エアコンで冷えた空気に触れて、涼しかった。隠し続けていたアタシの耳が、ついに家族以外の目に触れたのだ。
「ずいぶん大きくなってしまいましたね」
 という神谷さんのかなしそうな囁きに、耳先がぴくっと動くのを止められなかった。
「神谷さんも同じなんですか……」
 とアタシは恐る恐る呟いた。
「地球上には、今現在、私とアキさんふたりきりですね。耳が伸びた原因、お聞きしますか?」
 アタシはわずかに頷く。
「私たちと違って、地球人は密集して暮らしますし、ここには気体が潤沢です。つまり、うるさいんです。だから私たちが地球人の都市部で社会に溶け込もうとすると、彼らの発する声に刺激を受けて耳が伸び、うさぎになってしまう。私たちは今すぐに帰還しなければならない。そう私は警告しにきたんです」
 掠れた声で、「どこへ?」とアタシは聞いた。
「え、月です。つまり私たちは、地球への入植に完全に失敗したので……」
 神谷さんはしばらく黙ったあと、訝しげな顔をして、「は? アキさん? どこまでわかってないんですか?」と呟いたあと再び絶句し、そのままアタシたちは見つめ合った。

「話をまとめます」
 とアタシは言い、
「はい」
 と神谷さんは力なくこたえた。
「アタシは宇宙人……っていうか、月から来た人間の家族の子どもです。なんらかの事故があって、アタシは誰からも月から引っ越ししてきた事実を知らされないまま、ここまで育った」
「そうなります……申し訳ありません。入植を請け負った私たちの落ち度です。月びとは人生のほとんどをひとりで暮らすので、特に問題と認識しておらず……まさか、初等学習装置を利用されたご経験もないとは……」
 神谷さんはこたえる。彼女が長々と喋った推論は信じられないことばかりで、アタシの脳はふらふら揺れた。
「で、神谷さんはほかの星に月のひとが入植する機関に所属している、お医者さん、と」
「はい。今年入局したばかりの新人ですが」
「なんでそれでいきなりひとの家に来てメイドじみたことをはじめたんですか」
「家政婦を探されているご様子で、お困りに見えたので……アキさんの調査に備えて、地球の家事はシミュレーターで完璧に修めましたし、イヤーマフのお礼代わりに」
 アタシは頭を抱え、「最初から言えよ……」と呻いた。
「申し訳ありません、アキさんはすべて了解されているものと考えておりました」
「じゃあ何、あの『私は秘密をすべて知ってるぞ』的な、帽子の下がどうとかいう最初の挨拶は――」
「私も同じ月びとですよ、あなたのご病気を理解しておりますよ、とご紹介したつもりでした」
「いや、説明! 下手すぎ!」
「すみません……。しかしそもそも好感度ポイントも溜まっておりませんでしたし、急な話をするには時期尚早と思いましたので……」
「好感度ポイント?」
「あ、いいことをすると貯まるポイントです。家政婦、夜食、アイス、三ポイント。だから今ならお話をしても許されるものかな、と」
「宇宙人ってみんなそんな感じでポイント貯めて話すんの?」
「いえ……たぶん、私だけです。仕組みも今はじめてひとに話しました」
 オーケー、わかった。コイツが大分変なのは、宇宙人だからどうとかじゃなくて、地だ。
 ふうーっ……とアタシは息を吐く。「それで」と、話を元に戻す。
「この、耳が伸びるのは、月のひとにだけ起きる病気みたいなものなんですね」
「はい。実際のところ、地球におけるうさぎ化は、かつて静かの海の地下大都市で発生し、成人した月びとをほとんどうさぎに追いやった風土病とほとんど同じものです。はるか遠くの地で復活したということになります」
「……その病気が地球で起きるってわかったのって、十五年くらい前ですか」
 アタシはついに胸に抱き続けていた質問を口にしようとする。
「いえ、比較的最近です。都市部に住んでいる月びとはまったくいないので」
「じゃあ、アタシの、お父さんとお母さんは、それで月に帰ったんじゃないんですか」
「ご両親ですか? 帰還されてはいませんね。アキさんがご両親と地球にいらしたのは確かですが、月と交信可能なあらゆるチャネルでこれまで救難信号を発されていなかったわけですし……」
 神谷さんは軽く息を吸い込み、「まあ、ほぼ確実に亡くなっているでしょう」と、さらりと言った。
 アタシは神谷さんを見つめたまま、あ、と気づいた。
 ああ――。
 やっぱりコイツは宇宙人なのだ。
 アタシは「はっ」と呟き「随分軽く言うよね」と言った。
 不思議そうな表情を浮かべた神谷さんは、すぐに涙の膜に隠れた。「うう」とアタシは呻き、袖で頬を拭う。
「……あの、すみません。私、ご気分を悪くするようなことを――」
「きっとどこかで生きてるってずっと思ってた……。いい子にしてたら戻ってきてくれると思ってた!」
 アタシは叫んで、神谷さんの驚いたような顔を睨みつけた。
「大人になってからはお父さんとお母さんが無事にいられるように毎日祈り続けてた。ばあちゃんがそうしろって教えてくれたんだ。何か理由があってどうしようもなくアタシのことを置いていってしまっただけで、お父さんとお母さんは、きっと生きてるって。二人こそアタシの無事を祈り続けているって……そう信じろって!」
 そのまま「ぐう」と嗚咽して、アタシは身体を折りたたんで膝を抱えた。
 やはり私は一人きりで放り出された子どもだったのだ。
「あの、わかります」
 と神谷さんは言った。
「月びとは広大な地下でみなバラバラに暮らすので、地球人より数はぜんぜん少なくて、親や子どもともお互い話すことはほとんどないって言うか、ええと地球人は違うんですよね」
 神谷さんは一息に喋って、「その」と囁き、「ごめんなさい」と、ひどくかなしい声で言った。
 アタシはひどく泣いていたけど、伸ばされた手は受け入れた。
「ごめんなさい」
 と神谷さんは繰り返し謝りながら、アタシの頭と耳をやさしく撫で続けた。
 アタシが泣き止むにはものすごい時間がかかった。アタシたちは真横から差す夕陽で真っ赤に照らし出され、アタシは「帰りましょう」と言った神谷さんの声に力なく頷いた。
「でも私は本当にアキさんを助けに来たんです。うさぎになるのは、本当に苦しいんです。治療には途方も無い時間がかかります」
 ハンドルを握りながら、神谷さんは囁いた。残りわずかな太陽のひかりで神谷さんの輪郭はうっすらと浮き上がり、金いろにきらきらと輝いていた。
「今すぐ帰らないといけないんです」
 と最後にもうひとこと続けて、そのあとは黙った。

「夕ご飯のご用意ができました」
 神谷さんが呼びに来て、アタシはばあちゃんの居室へと向かう。高膳を使って食事をするのがここ数ヶ月の日課だった。自室へと戻ろうとする神谷さんを呼び止めて、アタシは「三人で食べない?」と誘う。
「食欲がありません」
「お願い。アタシが月に戻るってこと、話すから」
 神谷さんは、くっと唇を結んでアタシを見つめた。それから小さく頷いて「すぐ用意します」と言った。
 アタシは帽子を脱いで、三つ目の御膳を用意した神谷さんとばあちゃんの部屋に入る。ばあちゃんはアタシの長い耳が神谷さんに晒されているのを見て、「あらあら」と呟くと、それっきり驚いたようすを残さず、目を細めた。
 アタシたちは口数少なくゆっくりと夕ご飯を食べ終わり、お茶を飲む。神谷さんが「アキさん」と言った。じっとアタシを見つめている。「あー……」とアタシは言葉を探しながらぼんやり呟いた。
「アタシ、月から来たみたいなんだ、ちっちゃいころ。ばあちゃん」
 とアタシは囁く。
「まあ」
 ばあちゃんは声を上げ、ははは、と笑った。
 アタシは神妙な顔をして、ばあちゃんを見つめていた。こんなに長い間笑うばあちゃんを久しぶりに見た。やがて少しずつ笑いを沈めていき、「それで、何かしら。かぐや姫みたいに帰ってしまうの?」とばあちゃんはアタシをやさしく見つめた。
「寂しいわ、何をあげたら思いとどまってくれるのかしら」
 とばあちゃんは言った。
 アタシは「神谷さん」と言った。
「はい」
 神谷さんはこたえる。
「あのピアスって、もう一つあったりする? 借りられないかな」
 アタシの頼みに、神谷さんは軽く迷った顔をしたあと、結局「承知しました」とこたえた。席を立ち、戻ってくると、アタシに四角く白い機械を差し出した。
「あ、けっこう怖いな。神谷さんやってよ」
 とアタシははんぶん笑って彼女を見上げ、そっとお願いした。
 神谷さんが静かに機械をアタシの耳にセットしていくのを、ちら、と見てから、「神谷さん、月のお医者さんなんだ、実は」とアタシはいたずらっぽくばあちゃんに言った。「まあ、すごいわ」とばあちゃんは感動したようすで、かわいらしく手を合わせた。
 ぱちん。
 小さな音を立てて、特段の痛みもなく、白い石はアタシの耳に収まった。
「えーと、それで……ごめん。これどうやって使うの?」
 神谷さんは、はあ、とため息をつき、「耳が短かった時を思い浮かべて……いいですか?」とアタシに聞いた。アタシは目を閉じ、鏡に映った高校のころの自分を思い出して、頷く。
 神谷さんがアタシの耳に触れ、カチ、と耳元で音がした。
「ああ――」
 とばあちゃんは短い感嘆の声を上げた。それから「治ったの? 耳」と聞いた。
 戻った耳がばあちゃんには見えている。
 アタシは神谷さんの手をそっと触って、その茶色い瞳を見つめた。そのまま「これって月の病気で、今のピアスみたいなやつをつけてれば簡単に治るんだって。神谷さんのおかげ」と呟いて、神谷さんの目が驚愕に染まるのを見た。
 彼女の手が慌てたように浮き上がったのを、無理やり抑えつける。
 頼むよ。
 アタシはそう心で呟いて、一呼吸置き、神谷さんから視線を逸らす。
「だからばあちゃん、安心してよ。アタシこれからはもっと元気に大学通うからさ」
 そうアタシが宣言し終わった瞬間、ばあちゃんはぐっと身体を起こして、立ち上がろうとした。
「うお」
 アタシは神谷さんの手を離してばあちゃんに近寄り、膝で立って、身体を支えた。神谷さんも同じように、アタシの反対側から腕を伸ばして彼女を支えていた。
 ばあちゃんは神谷さんの手を取って、「ありがとうございます」と言った。
 アタシは、はっとばあちゃんの顔を見た。
 その目には涙が溜まり、わずかにひかっていた。「ありがとうございます。ありがとうございます」と繰り返しばあちゃんは言った。ぐっと、力強く、神谷さんの手を握りしめているようだった。神谷さんはしばらく逡巡したあと、動揺を抑えこんだような声で、「……いいえ」と、短くこたえた。
 ばあちゃんは神谷さんの手を取り上げ、下げた額にそっとつけた。それからもう一度、「ありがとうございます……」と小さな声でお礼を言った。

「騙しましたね」
 神谷さんは小皿を拭きながら言った。
「悪かったよ」
 アタシが最後の椀を洗って渡すと、「最悪の気分です」と呟いて神谷さんは小皿をかしゃりと水切り籠に置いた。
「西瓜でも切ろうか」
 アタシが冷蔵庫をひらいて言うと、
「……お願いします」
 神谷さんはわずかに怒りが薄らいだ声で言った。
 ふふ、とアタシは笑う。一ポイント。神谷さんはけっこう食いしん坊なのだ。夕食だって食欲がないと言いながらアタシの五割増は食べていた。
 それでアタシたちは、アタシの居室から半月を眺めながら西瓜を食べる。種を丁寧にくちから取りながら、「それで、どうする気ですか」と神谷さんは言う。
「いや、言ったじゃん。この変身ピアスがあれば帽子は少なくともいらなくなるし、過ごしやすいなって。て言うか、耳を塞ぐ小さな機械とかあったりしないの」
「……そもそも、雑多な会話音を選択的に減衰させて、うさぎ化への影響を軽減する機能がそのデバイスについています。完璧ではありませんが」
「ほらー」
「別に私はあなたを無理やり連れ去っても良いんですよ。月の法制で入植機関の権限は何かと大きいので」
「そんなことになる前にアタシは神谷さんをぎゅうぎゅうに縛ってそこの蔵に放り込むから」
 アタシは親指を背中のほうに向ける。神谷さんはまっくらなそちらのほうを向いて、はあーっ……と長いため息をついた。
「……たとえば、私が地球に残って、おばあさまのお世話をすると言うのはどうでしょうか」
「お、ひょっとして、それでたまにようすを見に来るって手も――」
「来れません。地球はもう渡航禁止地域に指定されているので」
「その地域に来てる神谷さんはなんなんだよ。耳、ちょっと伸びちゃってるし」
「私は医師ですし、自分の判断で帰還できます。労災も下りますから」
「労災! あはは。最初、公園であんなに苦しんでたのに」
「新人なんですから最初の任地で勝手がわからなくても仕方ないでしょう!」
 神谷さんの叫びを聞いて、アタシは愉快な気持ちで笑顔を彼女に向け、それからすぐに笑みを消した。
「なんで――」
 ぐす、と神谷さんは鼻をすすり、しゃく、と食べた。そのままもごもご口を動かす。まるく膨らんだ頬は、電球のあたたかさと月のつめたさに触れて、うつくしく輝いていた。
 西瓜を飲み込む。
「私はあなたを、助けたいだけなのに」
 くう、とくぐもった声を上げ、神谷さんは泣いた。
「ごめん」
「あなたご飯作るの下手でしょう。どうやっておばあさまのお世話するつもりなんですか」
「悪いけど、これからしばらくは神谷さんに教えてもらうよ。神谷さん、そのうちちゃんと帰れよな。あんたもこのままだとうさぎになっちゃうんだろ。アタシはだいぶ元気になったし――」
「元気になんかなってません」
「でもいい感じに治ったじゃん」
「治ってません!」
 神谷さんは地面を見つめたまま叫び、「嘘をついただけです。治ったふりをしてるだけです」と続けた。アタシは神谷さんを見つめて、「頼むよ」とひとこと言った。
「月びとは成人したらそれぞれ離れて暮らすのが普通なんです。そうやって文化に反することをするからうさぎになるんです」
「でも地球人はそうじゃない」
 神谷さんは背中を丸めたまま、涙をぽろぽろこぼし続けているまるい目で、アタシを見上げた。その瞳の中心に、わずかなあかるさで、まっすぐに背筋を伸ばしたアタシの金髪が浮き上がっていた。
「地球の家族は、そうじゃないんだ」
 アタシはもう一度そう言って、ふっと笑ってお盆の上の布巾を取り、神谷さんの口元と頬を軽く拭いた。

 * * *

 黒い喪服に身を包んでいるアキさんを見下ろした。ベッドの上に横たわり、ものも言わず、目は見ひらき、ここしばらく彼女を覆い続けていた涙のあともなかった。まるで死んでしまったひとのようだった。おばあさまの葬儀には、あらゆるひとびとがやってきていた。アキさんはその中心で喪主をしっかり務められ、今やぐったりと倒れ込んでいた。私はアキさんの手をそっと取って「いいですね?」と聞いた。おばあさまが亡くなられたら、彼女を私の好きにして良いという約束をしていたのだ。
 こたえはない。
 肩を貸し、無理やり引き起こす。ずるずると足が引きずられているので、私は軽く笑い、「少しは自分で歩いてください」と言った。
 車のうしろに彼女を乗せ、その身体を見つめた。く、と腕時計からコンソールを起動する。
「戻ります」
 ひとこと上司にメッセージを伝えて、あとは車が不可視のフィールドを展開し、ゆっくりと私たちの家を離れていくのに任せた。あの家で過ごしたのはたったの一年で、その忙しない日々は、濃かった。最初のころはアキさんととにかく意見が合わず大変だった。今となっては何もかもを懐かしく感じる。
 雲が同じ高さに見えはじめる。
 はあーっ……と長いため息をつき、私はやわらかな荷台に横たわった。三十センチメートルほど離れて、表情のないアキさんの顔を見つめる。く、とその目蓋が閉じられて、ひらいた。また閉じて、ひらく。地球の大気圏を離れていく車中に、アキさんのかすかな呼吸音が響いていた。私は黄金いろの髪をかき分けて耳たぶにそっと触れ、必要のなくなった変身機能を切った。
 人間と同じ大きさの、金いろの毛皮に包まれた、うさぎ。それが今の彼女だった。
 うさぎになりかけた月びとが元に戻るためには、完全隔離生活が必要になる。家に引きこもっていたとは言え、私もアキさんと出会ったころの彼女と同じ程度には耳が伸びていた。期間は半年ほどだろうか。アキさんの場合は、想像もつかないほど長い。通常の方針に従えば、これからアキさんは人生のほとんどをひとりで暮らさなければならないはずだ。
 どうにか彼女から孤独を退けてやらなければならないと、私は決めていた。うさぎ化に対するあらたな治療方法を見つけるのだ。心が燃え立つようだった。でも今は、とにかく疲労が濃い。
 く、く、と鼻がうごめいている。
 私は彼女にすり寄って、そのあたたかさにやさしい幸福を感じ、目を閉じた。アキさんの鼻先が私の頭に埋められるのがわかった。
 私たちは限りない沈黙の中心にいた。
「疲れましたね……」
 アキさんに小さな声で話しかけた。アキさんはそれにこたえるように、とん、と私の額に触れた。それから月にたどり着くまでのわずかな時間を、私たちは言葉もなく抱き合い、眠り続けた。

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