梗 概
あなたは外
オンラインゲームに傾倒している私は、ウイルスなんて無害だから外に出るべきだ、と主張する対戦相手に遭遇する。少女をアバターとする相手の主張は牽強付会な陰謀論であり、私はバカにする。
強毒性の感染症が流行した結果、人々は基本的に自室を出られず、かつその生涯で三人の人間としか直に接触できないことになった。多くの人間は〝母〟の世話のもとオンラインで教育を受け成長し、出会える三人の異性から伴侶を選ぶ。母は人とされず接触対象としてカウントされない。また「偉大な仕事」につく男性は特権として部屋を出ることができる。私には双子の兄がおり、また体が弱かったことから〝先生〟〝教授〟らに直接世話になっており、新たな出会いはもうない。
先生や教授は定期的に部屋を訪れ、私にセックスを求める。それは苦痛だったが、家事のすべては母が行っており、私は部屋の中でゲームだけしていればよかった。ゲーム上の少女は何度もしつこく絡んできて、外に出ようと言う。バカにしつつも、私はだんだん少女と話すこと自体が楽しくなってくる。
私と兄は成人し、母は他の赤子の世話のため別の家へ追い出される。兄もまたオンラインで会っていた女性と番うため家を出て行く。結婚はうまくいったと思われたが数ヶ月後、兄は女を殺して戻ってくる。
兄も先生の診療を受けていたことから、妻になる女性は兄にとっての「三人目」だったが、彼女にとって兄は「二人目」だった。二人の関係はうまくいかず、まだあと一人の候補がいることから女は兄の元を去ろうとし、それに焦ったから兄は彼女を殺したのだという。こうなってしまった以上、妹であっても私を伴侶とするしかないと言う兄を拒絶し、私は部屋に閉じこもって少女に助けを求める。少女は必ず助けに行く、と言うが結局兄は部屋に入ってきてしまう。
私はそのまま部屋を出れず、兄との間に娘を産み、その子の成人後は他の家で〝母〟をさせられることになる。娘もまた部屋を出ることはできず、同じことがくり返される。その娘も、その娘も部屋を出られない。ひたすら家事に従事していたはずの私は、いつしか娘たちをずっと眺めている自分に気づく。部屋を出られない女の苦しみはいつしか部屋そのものとなっている。
やがて老いた男が部屋を訪れるが、発熱しており異様な様子である。彼の語る牽強付会な理論に、私はあの少女であると気づく。少女の語る生命の定義は三つ。1、自己複製する2、細胞で構成されている3、代謝を行う。セルであり、その内部で人間が生まれる部屋はすでに二条件を満たしている。哺乳類の胎盤を構成するタンパク質の由来はウイルスにあり、ウイルスは部屋に自己複製を可能にさせる。ウイルスたる少女はこのためにこそ人間を乗り継ぎやってきたのだった。外に出ようとウイルスは語る。自己複製し続ける部屋に世界は飲み込まれていく。
もう外に出る必要さえない。あなたが外なのだから。
文字数:1194
内容に関するアピール
部屋とウイルスの百合です。また、2020年のステイホームSF。
現在の私たちにとって旬で切実な問題といえばコロナ禍ですが、その影響にはジェンダー差があるように感じます。DV相談件数や、女性の自殺が顕著に増加していることも報道されています。
ステイホーム期間、私は部屋で小松左京を読みながら、マリア・Kのいた縮潰し続ける部屋のことを考えていました。彼女を、あの部屋をどうすれば救えるのか。「冷蔵庫の中の女」というフレーズもありますが、長い間多くのフィクション、また現実で女性は暴力の被害者となり、閉じ込められてきました。
現実にウイルスが流行している今、「外に出よう」とそのまま伝えることはただ無謀で愚かです。でもだからこそSFのフィルタを通すことで、この社会を読み替えたい。そしてあの部屋を、誰かを救う希望ある物語を語りたいと思います。
文字数:365
あなたは外
――かつて、それは「部屋」だった。 小松左京『ゴルディアスの結び目』
『外に出ようよ。ウイルスなんてそんな大した影響ないんだしさ』
反論するのも面倒で私が何も言わないでいるのをいいことに、少女の姿をしたそのプレイヤーはチャット画面で語り続ける。
『家にいろ、なんてみんなが外に出たら困る人達が言ってるだけだよ。もっと外に出ようよ』
「バカじゃねぇの……」
私は思わずつぶやく。こんな典型的な陰謀論者がいるんだなと思った。ゲーム内では髪を二つに結った少女の姿をしているが、もちろん中身はどんな人間かわからない。きっとおっさんだろう。
『くだらないこと言ってないで、クエストやるんだろ、行くぞ』
『わかってるよー』
私は別に外に出られなくたって構わない。ウイルスがうようよしている危険なところに行くより、快適な部屋にいるのが一番だ。家事は〝母〟がやってくれるから、私は勉強とゲームだけしていればいい。
『外はいいよ、きれいな空気に広い空、四季のたびに木々の色が移り変わって、海なんかもただ見てるだけでも楽しいよね。映像とは全然違うんだよ』
そのプレイヤーがなおもチャットに書き込み続けているのは、典型的な旧世代の言い分だった。外は素敵だとかオフラインでこそ価値があるとか何とか。今どきオンラインでできないことなんてほとんどないのに。
『ウイルスがほんとはドアを通れたらいいのにね。ほら、人間だって確率的には何億回かやればドアをすり抜けられるって言うしさ。おんなじようにウイルスだって通り抜けられないのかな』
少女はひたすら喋り続ける。いっそチャットを切ってしまいたいが、それもこれからのクエストに差し支えそうでできない。
『ドアを通れたら、世界中に感染できる。ウイルスもどうせ生きてないっていうなら波ってことにしない?』
『来るぞ、敵』
『あ、ウイルスって生きてないんだよ。知ってる? 生命の定義は三つあってね、自己複製する、細胞で構成されている、代謝を行う。ウイルス的にはこれって当てはまらないんだよね』
『来るって言ってんだろ、用意しろ』
『わかってるよー、特攻よろしくね』
バトルが始まると少女は実際、頼りになる相棒だった。凶悪なゴーストを魔法で的確に弱体化させ、私の攻撃がとどめを刺す。見事な連係プレイだった。
『やったねー! お疲れ! それでさぁ、生命の……』
クエストが終わってすぐ、私はゲームの電源を切る。その途端、ぶつんと音がして部屋は静かになった。
「ふぅ……」
私はベッドに身を投げ、白い天井を見つめた。十二平方メートル程度の、壁に囲まれた窓のない小さな部屋。家具らしい家具はベッドと机、少しの服やタオルを入れた棚くらい。衝立の向こうには洗面台とトイレがある。何の変哲もない、普通の国民に与えられる平凡な部屋。
私はここから出られない。
・
人間社会は歴史上、何度も感染症に襲われてきている。天然痘、ペスト、新型インフルエンザ……。2020年代にも同じことが起こった。だけどウイルスの強毒化と流行は抑えられないほどになり、やがて人は外に出ることをやめた。
私が生まれたときにはもう世の中はそういうものだった。ウイルスを流行させないためには、とにかく人と接触しないことが重要になる。都市のロックダウンなど様々な方法が試されたそうだけれど、最終的に日本政府は厳しい基準を定めた。
生涯に三人。それが、直接的な接触が許される対象の数となったのだ。まぁ普通に考えて少なすぎる、と思う。でもどうでもいい。私はじっと、苦痛に耐えながら白い天井を眺めている。いっそあの天井になれたらいいのに、とさえ思う。
「どうしたの? 今日、あんまりよくないみたいだね」
よかったことなどない。だけど何を言ったってまともに受け取られないことはわかっていた。私は男の体の重さに辟易しながら言葉を濁す。
「まぁ」
「気持ちよくない? 何か体調に問題があったらすぐに言うんだよ」
そうしたら彼はすぐにやって来て、私の体をあれこれ診察した後に犯すのだろう。
「……はい、〝先生〟」
もう別に慣れていた。だけどたまに新鮮に不快になって吐き気がする。中年太りした先生の体は重く、刺激されれば私の体も分泌液を出すことはあっても、彼がどうやら私を恥ずかしがらせたくて言うように、「感じて」なんていない。
先生は私の上で大げさに喘ぎ、湿った息を吐く。私が思うことはいつもただひとつだけだ。
――早く終わればいいのに。
『先生、もう帰った?』
濡れタオルで体を拭っていると、兄からのメッセージが飛んできた。同じ家に住んでいても、私と兄が顔を合わせることはない。家族であろうとあくまで一人に一部屋というのが国の定めだからだ。私はこの家に何部屋あるのかも知らない。生まれた時に国からこの部屋が与えられ、そして終のすみかになった。
『帰ったよ。用事あった?』
『別に』
そうだろうな、と思った。先生の側も、男である兄には興味がないようなので、二人はしばらく会っていないはずだった。
私はあのゲーム内の少女のことを話そうか、と思った。他愛のない雑談として。だけど彼に話して何になるのだろう。私は言葉を続けなかった。
もし私たちが双子でなかったら、私の人生はもう少しは違っていたのかもしれない。私たちは未熟児の双子として生まれた。そのため遠隔医療のみでは命の危険があり、先生の直接的な診療を受けて育った。母は子供の世話はできても専門的な治療はできない。だから先生との接触は、仕方がないことだった。
兄、先生と出会った時点で私の接触可能な相手は残り一人になる。
母がシーツを洗濯のために回収しているのを、私はぼんやりと眺めていた。
「寝たいから早くして」
「わかりました」
白髪の目立つ彼女は、決して私と目を合わせようとせず、伏し目がちに口にする。母は必ず経産婦だが、彼女は私の産みの親ではないし、彼女の年齢も名前も知らない。母は食事の用意や掃除、洗濯など家事をすべて行う存在であり、三人の接触対象のうちに入らない。つまり、人間であって人間でない存在だ。私は彼女と必要最低限以外の会話はしたことがない。
とはいっても、私と兄との会話だって似たようなものだ。もう何年も顔をあわせてはいなかった。兄は今頃きっと、結婚予定の相手とオンラインで会っているのだろう。
私と兄はあと半年で成人する。もう教育プログラムはほとんど履修し終えていた。本来ならプログラムを終え、成人したら伴侶となる人と出会うことができる。何しろ直に接触できる対象は三人に限られているので、配偶者選びで失敗はできない。まずはオンラインで顔合わせをして、気が合いそうな人を選ぶことになっている。直接会わなくても、性格や外見などほとんどのことはネットを通して知ることができるし、デートもできる。どうやら兄はもう対象を絞り込んでいるらしい。
だけど私には配偶者候補なんて現れない。じかに接触が許される人間は三人だけ。兄、先生、それから教授。私のカウントはそれで尽きてしまった。オンラインで友人を作ることまでは禁止されていないけれど、そんな気にもなれなかった。
――どうせ、直接会うことはできない。
そんなことにこだわるのは無意味なのかもしれない。本当に接触が必要なことなんて、セックスくらいだろう。友達とはセックスをする必要がないのだからオンラインの存在でいい。結論ははっきりしていた。でも、私はせっかくできた友達なら、いつか会ってみたいと思う。そんな相手はいないのだけれど。
私には友人もいなければ伴侶もいない。これから先もずっとそうだろう。でも別に構わない。これが私の人生なのだ。仕方がない。
運命の人がいるとしたらどんな男だろうかと、たまに想像はした。私がもっと違う時代に生まれていたら、会っていたかもしれない人。顔はたぶんかっこよくて……背が高くて優しい人。でも私の想像力が及ぶ範囲はせいぜいそのくらいだった。
『教授がいらっしゃいました』
ぽんと音を立て、モニタにメッセージが表示される。
「うそ、今日?」
さっき先生が帰ったばかりだ。彼らはいつ私の部屋に来るのかを、示し合わせたりしないのだろうか。さすがに一日に二人相手にするのはきつい。ちょうど母がベッドメイクを終え、部屋を出ていこうとしているところだった。せっかく気持ちのいい新しいシーツに寝転がって眠ろうと思っていたのに。
教授が来たら、またすぐにこの清潔なシーツは血や体液まみれになる。だけどどうせ私には拒否権なんてなかった。
教授はあるとき、私の教育プログラムの進捗が悪く、特別な指導の必要があるとしてやってきた男だった。私は特に頭が悪いらしい。教授自身のことは学術研究をしている偉い人だ、としか聞かされなかった。おそらくどこか上位の教育機関に職のある男なのだろう。
先生よりも教授の方が私を乱暴に扱う。だけど訪問してくる頻度は低い。どちらがマシかは言い難い。
医師、教師、警察官、消防士、政治家等の「偉大な仕事」につくと、特権として部屋外の移動ができる。彼らは重要な仕事を担うため、特例的に三人以上との接触も許されている。女には就けない決まりだ。何しろ重要な仕事だから。
「くそっ、痛いんだよ……」
教授の帰った後、再度母にシーツを替えてもらったベッドに私は横たわっていた。体はひどく疲れていたけれど眠れない。今日も教授のセックスは嗜虐的かつ執拗で、変な角度で縛られた腕は軋むように痛んだ。仕方なく私はゲームを起動する。
「なんか面白いこと、起きてないかな……」
ゲーム世界に特に変化はないようだったけれど、秩序だった風景は私をなごませる。
映像がきれいと評判のゲームで、確かによくできていた。ゲーム世界では毎日、現実の時間と連動して日が昇り日が暮れ、様々なキャラクターが生活している。私の使用するキャラは男で、大きな剣を背負っていてとても強い。
ゲームに没入したいのに、乱暴に扱われた局部がひりひり痛むのを感じてしまう。こんな生活がいつまで続くのだろう。先生も教授ももうそれなりの年齢のはずだ。そのうちに私に飽きるのではと思っていたが、今のところその気配もない。
私にはどうせ運命の相手なんていない。誰に何をされてもどうだっていいけれど、やっぱり痛いのは嫌だ。教授は私を痛めつけるのが好きで、私の頭が悪いと言っては持ってきた板で私を打ち、あらゆる手段で私を貶める。
今日はなるべく、さくさくと敵を倒したい気分だった。そこそこの難易度で、倒すのが苦じゃないくらいのボスが出てくるステージがいい。そう思っていると、急に話しかけられた。
『あ、また会ったね、運命かな』
あの髪を二つ縛りにした少女だった。
『真面目にクエストをやる相手を探してる』
『わかってるわかってる、西の山の期間限定クエストでしょ? あのドラゴン、私の魔法がよく効くよ?』
相手にしないつもりでいたが、彼女の実力は確かに高い。無視をして適当な野良のプレイヤーとクエストに向かうことはできる。だけど今日は、強敵に会ってぼこぼこにされるのは絶対に避けたかった。気持ちよく敵を倒してレベルを上げたい。そして、彼女の手助けがあればそれが叶うだろう。
私はしぶしぶ彼女と他数名の野良プレイヤーとともに、クエストに向かった。彼女が言った通り、ボスのドラゴンに彼女の魔法がかかると、気持ちいいくらい弱くなった。恐ろしい顔つきのドラゴンに私は思い切り剣を振るう。
『やったー! 倒せた!! よかったね!!』
倒れたドラゴンの隣で、ぴょんぴょんと少女は飛び上がる。
西の山は景色のきれいなステージだった。ドラゴンのいた頂上からは、山が並々と続いているのが見える。その向こうの空はほの明るくなってきていた。窓のない現実の部屋ではわかりにくいけれど、深夜というよりもう朝が近づいているようだった。
『そうだな』
ボスが落としたアイテムを誰がもらうかの抽選が終わると、すぐに他のプレイヤーは離れていった。私ももう彼女に用はない。いい加減疲れたし、もう眠れるだろう。離脱しようと思ったとき、彼女が言った。
『ねぇ、外に出てみない?』
『どこのステージ』
『そうじゃなくて、あなたに言ってるの。あなたの、部屋の外だよ』
いちいち答えるのもばかばかしかった。外出はそもそも禁じられているし、偉大な仕事には男しか就けない。私は頭が悪いから、もし仮に男だったとしても無理だろう。
『外に出てどうすんだよ』
『別に楽園だなんて言わないよ。でも、きれいだよ。世界はあなたを待ってるんだよ』
いちいち大げさな言葉遣いをする少女だった。でも疲れているせいか、なんだか今日は笑えてきた。
『別に誰も待ってない』
彼女の背後に見える山裾から、太陽がのぼり始めていた。昼間に頭上にあるときには意識もしていなかったそれが、かすかに姿を表すだけで空は変わった。
『見て。茜色のマントをまとった朝が、東の丘の露を踏んで歩いてくる』
彼女の指さす先に、私は思わず目をやる。薄暗がりに沈んでいた東の空が、みるみる灰色から白、白から淡い青へと色を変えていく。そしてそのグラデーションは、ゆるやかにまだ暗い西の空に続いている。
『知ってる? シェイクスピア』
『知らない』
『ああ昇れ、美しい太陽!』
彼女が何を言っているのか、私にはよくわからなかった。こいつは詐欺師なのかもしれない。聞く耳を持つべきではない。
それなのになぜか、朝焼けの前に立つ彼女の言葉をもっと聞いていたいと思ってしまった。
ゲームに熱中しているはずなのに、私はどこかで縛られ叩かれた体をまだ感じている。私のこの汚れた体はゲームの中のそれとは全然違って重い。私がいるのは窓のない部屋で、ドアを自由に通ることもできない。
外に出たとしたって、警察に連れ戻されるのがオチだ。重い罰金を負わされるし、下手をしたら即射殺だってありうる。それに私だって、ウイルスに感染するのは怖い。
毎年あまりにもたくさんの種類のウイルスが流行るので、もうその名前もいちいち覚えていないけれど、感染したら多くの場合は死ぬし、回復したとしても後遺症は残る。そんなの嫌だ。たとえ何のためかもわからなくても、私はまだ生きていたかった。
『あなたにはね、素晴らしい無限の可能性があるの。それを世界にわからせなきゃ』
彼女の背後で、太陽は丸々とした姿を現し、山並を照らし出していた。空の色は澄んだ青に変わっている。私は何も言い返せなかった。
・
翌朝、国からメールが来ていた。直接連絡が来ることは珍しいので一気に目が覚めた。私はゲーム内の少女からの「外に出よう」という誘いを断ったけれど、まさかあれがバレて罰則を与えられるのだろうか。
だが開いてみるとそれは単に、私に受胎のしるしがないか尋ねるものだった。あなたは妊娠可能年齢であり、成人間際だが婚姻の可能性がないことから「偉大な仕事」につく男性の子どもの妊娠が求められます、とある。
更に、必要があれば現在とは別の複数の「偉大な仕事」の男性を派遣することができる、とも書かれていた。
先生も教授も避妊はしないが、彼らが高齢であるせいなのか、これまで私は妊娠したことはなかった。今まで、私はそのことを真剣に考えてこなかった。だけど今までもずっと、彼らの子どもを身ごもる可能性はあったのだ。
『あなたができる唯一の偉大な仕事は出産です』
メールはそう結ばれていた。
――それなら、素敵な配偶者ぐらいあてがってくれたらいいのに。
私はもうすぐ成人する。そうなったら母は別の家に行くし、兄は結婚するだろう。いずれ私はどこかの家の母となるのだろうと思っていたけれど、母になるためには子を産まないといけない。
「偉大な仕事……」
私が男に産まれていたら、頭が悪くたってどうにかして仕事を得られたかもしれない。そう、男だったら私は猛勉強だってきっとした。
母が用意した朝食が部屋に届く。健康を維持するために私達は毎日母の手料理を食べている。今朝は形のきれいなオムレツだった。作り方を学んだことはあるけれど、私は実際にこれを作ったことはない。
私には何もできない。ゲームのレベルも大して高くないし、妊娠していないから国にとっての価値もゼロだ。
――妊娠しないといけない。
偉大な仕事の男は配偶者にはなりえない。何人来たって同じだ。二人の相手をするだけでも辛いのに、更に複数の男が部屋に来るなんて悪夢だ。
私は慌てて、先生や教授との関係は良好であり、子作りに励んでいると返信をした。吐き気のするような文面だった。おそらく、このままの生活を続けていたらいつかは国もしびれを切らすだろう。
どうしたらいいのか。考えたけれど、何も浮かばなかった。どこにも逃げ場なんてないし、私の人生は詰んでいる。
〝あなたにはね、素晴らしい無限の可能性があるの〟
どうして彼女は外に出ようと言うのだろう。私が外に出たら彼女に何かメリットがあるのだろうか。外で待ち構えていて身ぐるみをはぐとか……だけど私にはろくな財産などないし、それではあまりにリスクが高い。ならもっと何か違う理由かもしれない。私にウイルスの蔓延する外に出てきてほしい理由。そんなものが、本当にあるのだろうか。
疑いながらも、私は彼女とゲーム内でのフレンド関係を続けた。彼女はほとんど常にログイン状態だった。この間一緒にクエストをしたのだって深夜だ。一体いつ寝食を取っているのだろう。私だってそれなりに時間はあるけれど、彼女ほどではない。
『どうしてそんなにいつもゲームをやってられるの?』
『まぁここが今の私の居場所だから』
彼女の語る言葉を、私は完全には理解できない。わけのわからない内容ばかりでも、彼女と会話することは楽しかった。そんな風に感じるのは初めてだった。
『私もずっとゲームの中にいたいな……』
『それはそれで不自由なもんだよ』
彼女は何かというと私に話しかけてきた。新しく実装された服のレースが素敵だとか、周囲をぐるぐる回るだけのプレイヤーがいて面白いとか、飲み屋の食べ物が美味しそうだとか、鹿の剥製の目がきれいだとか。他愛のない話ばかりだった。
『このゲームはほんとによくできてて、雨が降ると村の入口の鳥は巣に戻るし、女将さんが看板をちゃんと仕舞うんだよ。知ってた?』
ランダムにときおり降る雨は、今までの私にとっては反応速度を遅くさせる邪魔なものでしかなかった。
『雨雲はいつも東から流れてくるの。雨をいっぱい含んだ、黒くて重い雲』
彼女は空を指さしてみせる。私はそんな風にゲーム内の風景を見たことはなかった。
彼女の言葉を聞いていると、私までその湿った空気を感じられる気がした。一緒に何気なくフィールドを歩き回るだけでもすべてが新鮮だった。
『そろそろ私と一緒に外に出てくれる気になった?』
『何を企んでるの? どうせ私だけじゃなくて誰にでも調子のいいことを言ってるんでしょ』
実際、彼女はゲーム内に知り合いが多く、よく話しかけられていた。そうなるとなぜ彼女が私をやたらと構いたがるのか、不思議に思えてくる。私はとりたててレベルの高いプレイヤーではないし、ゲーム内通貨やアイテムを豊富に持っているわけでもない。
『えー、嫉妬? 嬉しいな、モテる女は辛いね』
彼女はご丁寧にキャラの頬を赤らめてみせる。
『私が聞きたいのは、なんで私なんかに声をかけるのってこと』
『何度も言ってるよ、あなたが素敵だから』
『でもそれも誰にでも言ってるんでしょ』
『私が他の人に声をかけることと、あなたが特別な存在であることは矛盾しないよ』
彼女は穏やかに答えた。まるでずっと年寄りの人が子供に語りかけるみたいな、優しい口調だった。私は何と言っていいのかよくわからなかった。
その日、ゲームを終えてからも私は彼女の言葉を何度も反芻していた。
――否定されなかった。
自分ががっかりしたのだと気づいて愕然とした。あなたにしか言ってないよ、そう言われたかったのだ。
あなただけが特別だよ、と。彼女の言葉なんて調子のいい、ばかげた戯言だと思っていたのに。
もうこれ以上、彼女の言葉に耳を貸してはいけない。外に出ようなんていうのは危険思想だ。そう思うのに、私は彼女との関係を切れなかった。むしろ一日彼女と会話ができないだけで、気が狂いそうになった。
成人の日が近づいてきていた。私にまだ、妊娠の兆候はなかった。産まれたときこそ未熟児だったけれど、今の私は健康だ。妊娠しないのは、私ではなく先生や教授の機能の問題なのかもしれない。だがそれを誰に言えるわけでもない。
最近、先生はあまり部屋に来なくなった。
「あんまり……国にやれって言われるのは盛り下がるんだよね」
そんなふうに言っていたから、彼の側にも国から妊娠させろと連絡が来ているらしい。
先生とは逆に、教授の訪問頻度は上がった。それは私にとっては、苦痛が増えるだけのことだった。彼は何も言わなかったが、やはり国からの連絡があったのだろう。干からびた男がいくら頑張ったって、きっと意味はないのに。
縛られ、モノのように扱われるたびに頭が朦朧としていく。体が軋む。可動領域を無視して縛られた腕が折れそうに痛い。
「お前は生きてるだけ無駄な肉だ、使ってやるだけ感謝しろ」
そういうとき、私は少女との会話をずっと頭の中で反芻するようになっていた。
もし私が外に出たら。そうしたら彼女に会いに行く。どんな素性の人間なのかはわからない。老いた男である可能性さえある。でも、私は彼女に気づくだろう。どんな外見をしていたって、きっと気づく。そして彼女も私を見つける。
――そうしたら、一緒にどこかに行けるだろうか。
あの夜明けのように美しい外の風景を、もっと一緒に見れるだろうか。
「返事をしろ、クソが」
兄は結婚できる。でも私だって、本当はできたかもしれないのだ。先生による診察が必要だったことはまだわかる。なぜ、教授はわざわざ私に接触したのか。
「……はい、ありがとうございます」
私の頭が特別悪かったから仕方がないのだと思っていた。でも本当にそうだろうか? 私は一応教育プラグラムはこなせていたし、こうして直接会っても結局彼がするのはセックスだけで、まともな指導なんて受けたことはない。
「生かしてもらってるだけ感謝しろ」
痩せた貧相な体で彼は私を犯す。骨と皮ばかりの男で、髪が申し訳程度に側頭部に張り付いている。彼のせいで、私は「三人目」と出会う権利を奪われた。もし彼さえいなければ、私の人生はもっと違っていた。きっと優しい配偶者を見つけて子供をもうけてかわいがった。それだけで私は満足だったはずなのに。
「……聞きたいことがあるんですけど」
「余計なことを喋るな」
教授はすぐに私の口にタオルを詰め込んだ。乾いた布地が気持ち悪く、息苦しい。
「んん……っ」
「黙っていろ」
あまりに苦しく、もがこうとすると叩かれた。視界がちかちかして、息ができない。涙がぼろぼろと溢れる。泣いたのなんていつぶりなのか、わからないくらいだった。乱暴に腕を掴まれ、柔らかい場所をこじ開けられ、揺さぶられる。痛い。苦しい。早く。
――早く終わればいいのに、ぜんぶ。
私は外の世界を知らない。でも、部屋の中にいても多くを知ることはできる。重要なことはほとんどオンライン化されている。そう言われて育った。実際、知るべきことはちゃんとプログラムにまとめられていた。私はそれを学べばいい。それだけで必要十分だ。
そう思っていた。
「さっき、何か言ってたか」
服を身に着けながら教授が言ったとき、やっと解放された私はぼんやりと血で汚れたシーツを眺めていた。自分の体が、自分のものだと思えなかった。もう言葉を発するだけの気力もなかったけれど、教授が私と会話しようとすることなんてきっとこの先ないだろう。だから力を振り絞って尋ねた。
「……私の兄さんは、頭がいいんですか?」
教授は眉根を寄せ、何を言っているのかわからないという顔をする。
「双子の兄さん。私とたぶん、そんなに頭の良さは変わらないと思う。なのにどうして私だけ特別指導が必要だったんですか」
「俺は男に興味なんてない。そういう趣味のやつもいるけどな」
彼の言葉を理解するまで、少しだけ時間がかかった。
私には配偶者を得るという道が絶たれている。だけどそれは、兄よりずっと私の頭が悪いことが原因なのだと思っていた。もし彼がそう言ったら、私は納得していたかもしれない。
――じゃあ、私って何?
初めて私は強い怒りを感じた。この男さえいなければ、私の人生はもっと違っていたはずなのに。この男の骨ばった首を締めたら、少しは気が済むんじゃないだろうか。
それでも私はベッドに横たわったまま、何もせず、できなかった。教授が来た日はしばらく体が使い物にならなくなる。目の端から涙がシーツにこぼれ落ちていく。
ゲームがしたい、と思った。あの少女の調子のいい言葉を聞きたい。もうセックスなんて二度としたくない。男に生まれていたならよかった。兄が羨ましい。こんな体をほしいと思ったことなんてなかったのに。
私たちの成人の日は迫ってきていた。
部屋。白い壁に囲まれた、窓のない十二平方メートル程度の空間。私はここから出られない。この小さな部屋で私は成人の日を迎えた。もちろん兄も、彼の部屋で同じく。
その日、本当なら母も家を出て行くはずだった。だが私が妊娠をしないため、特例的に任期が延長されたらしい。私はそのことをメールで知った。母は直接は何一つ口にしなかった。
『じゃあ行ってくる。元気でな』
兄は予定通り、家を出ていった。彼はやっと、伴侶となる女性と直接会うことができるのだ。
『じゃあね』
別れの挨拶もチャットで済まし、顔を合わせることはなかった。私と兄は産まれる前から既に接触をしているので、直接触れても支障はない。だけど規律に則りずっと別々の部屋で育ったし、今更会う気にはなれなかった。彼も同じだっただろう。
兄も母もいなくなってしまうと、部屋の中に何も変化はないのに、急にがらんとして感じられた。
あの少女と話したい。
そう思いながらも私はしばらくゲームを起動していなかった。あまりに彼女の言葉が自分をむしばんでいることを感じ、プレイすることをやめたのだ。
数日間は平穏な生活が続いた。とはいっても、教授、それからまれに先生がやってくることには変わりがなかった。痛みに耐えながら、本当に妊娠したいとさえ思った。そうしたら、この苦しみにも意味があったと感じられる気がする。
今頃兄は、妻になった女性との間に第一子をもうけている頃だろうか。
あの少女はどうしているだろう。
ゲームをすることもない夜は長かった。浅い眠りをさまよい、私は何とか生きていた。
その日、目を覚ますとモニタの隅がちかちかと光り、メッセージの受信を知らせていた。それはもう連絡をよこすことはないはずの兄からだった。
内容はほんの一行だった。
『俺、人を殺した』
・
詳細を問うと、兄はあっさりと語った。兄の妻になる予定だった女性は兄にとっての「三人目」だった。だから兄は相当慎重に相手を選んだ。オンラインでのデートをくり返して、この人ならと思ったから結婚を決意して会ったのだ。
だけどそこまでして選んだはずの彼女と、兄はうまくいかなかった。誰とも付き合ったことがない私には、その機微はわからない。とにかく彼女は兄に、婚約の破棄を申し出た。彼女にとって兄は「二人目」だった。だから彼女にはまだ可能性が残されていたのだ。
『何様なんだよ、あの女。俺にはもう後がなかったんだ、しょうがなかったんだ』
兄は強引に彼女に関係の継続を迫り、拒絶されたので殺したのだという。彼女の家にもカメラがあるだろうし、そもそも彼女と会っていたのが兄であることは明白だ。
『自首したほうがいいよ』
『お前までそんなこと言うのか、いいか、俺は結婚に失敗したんだ、わかるか? 女一人に言うことも聞かせられない、子どもも作れないなんて男として失格だ』
兄が捕まるのは時間の問題だろう。私は彼をかばうような発言を避けた。このログもすぐに調べられるだろうからだ。
『あの女が悪い、あいつのせいで俺の人生は散々だ』
私は少しだけいい気味だ、と思っていた。私と同じように、兄ももう配偶者を持って子どもを持つ可能性が絶たれたのだ。
――私にはそんなもの、最初からなかった。
そもそも兄は男なのだから、勉強やトレーニングをして仕事に就くことだってできたはずだ。警察官や消防官になるのは難しいが、男だったら不可能ではない。努力をしないできたのは彼の怠惰な性質のせいだと思った。
『お前も俺をバカにしてるんだろ、だけどな。もうお前しかいない。お前が俺の子を産むんだよ』
「……は?」
私は耳を疑った。冗談にしてはたちが悪い。もちろん近親間で子どもを持つことは奨励されていない。そんなこと誰だって知っている。
『冗談言ってないで、自首して』
返事はなかった。代わりにドアが乱暴に叩かれる。
全身の血の気が引いた。同じ家に住んでいる者同士でも、ウイルスの感染は起こる。だから血縁者であっても、私たちはずっと別の部屋に暮らし接触をしないできた。
「おい、開けろ! 別にいいだろ、お前が汚れてることは知ってるんだからな! 俺だって子どもくらい作れる、バカにしやがって!」
ドアを叩く音はどんどん激しくなる。ドアに据えつけの鍵は室内用のちゃちなものだ。
話し合おうか、と一瞬思った。顔を合わせていないとはいっても、やり取りはあったし血を分けた兄だ。そんなことは考えられないと、丁寧に説明したらわかってもらえるのではないか。
「邪魔すんなババア!! どいつもこいつも俺をバカにしやがって……!!」
だけどだめだとすぐに悟った。彼が誰に怒鳴っているのかと疑問に思い、おそらく母だと初めて思い当たった。何も喋ることは許されていないはずなのに、兄に意見したのだろうか。
感謝の気持ちを抱く余裕もなかった。兄と寝るなんて私は嫌だ。絶対に嫌だ。確かに兄が接触した三人は私、先生、殺した女だ。先生は男だから、兄が子を成すとしたらあとは私しかない。理屈はわかるけれど、到底受け入れることなんてできない。
「正気じゃないでしょ……」
手が震えた。私の声は誰にも届かずに消えていく。乱暴な声とともに、ドアは叩かれ続けている。ドアを破られたらどうなるのか。
私は部屋の中を見渡し、机をドアの前に引きずっていった。このままだときっとドアは破られてしまう。ほんの少しでも突破されるのを遅らせたかった。
どうすればいいのか。窓もない部屋から直接脱出することはできない。どうしたってドアを通らないと出られない。外に出たとして、逃げる先もない。
ネットには繋がっているから通報はできる。そうしたら殺人犯である兄を捕まえてもらうことはできるはずだ。私は警察へ通報をしようとして、だけど手を止めた。
〝あなたができる唯一の偉大な仕事は出産です〟
国からのメールにはそうあった。兄は私との間に子どもを成すしかないと言っている。彼のしようとしていることは、国にとってはむしろ奨励されることではないのか。たとえそれが近親姦の子供であっても。
――国に一度も助けてもらったことなんてない。
さすがに私だってわかる。先生や教授が私とセックスするのは彼ら自身の楽しみのためだ。そのために私が何度苦しく痛くみじめな思いをしたか。それなのに国は彼らの子どもを孕めという。
そもそも私を自由にする権利を教授に与えたのも国だ。偉大な仕事のための特権なんて建前だ。警察が私を助けてくれるわけがない。ネット上の不特定多数に助けを求めても無視されるだけだろうし、バカ女だと嘲笑されるのがせいぜいだ。助けを求められる相手などいなかった。
この世に私の味方なんて一人もいない。
誰も助けてはくれないし、どこにも行けない。
〝あなたは素晴らしいよ〟
ドアを叩く音はどんどん大きくなる。息が苦しかった。私はほとんど無意識にゲームを起動していた。あんなのただ調子が良いだけのうわごとだ。何の意味もない。きっと何か魂胆があって言っているだけ。他の人にも言っていることを彼女は否定しなかった。自分だけ特別扱いされているかもなんて幻想は抱くだけ愚かだ。私は頭も悪いし妊娠もしていなくて、何の価値もない。ゲームなんてやってもどこにも行けないことには変わりがない。
『お願い』
私は震える声で、チャットに音声入力する。彼女はいつものようにオンラインだった。
『お願い、助けて』
突然こんなことを言っても何も伝わらないだろう。何かのクエストに苦戦していると思われるかもしれない。ドアを叩く音は続いている。指先が震えた。助けを求めたって仕方がない。フレンドになって何度もクエストをこなしたからといって、私は彼女のことを何も知らない。本名も年齢も性別も、実際の外見も。
『ここから出して』
私はか細い声でつぶやいた。マイクがすぐにそれを文字にして彼女に伝える。
彼女が姿を表すことはなかった。だけど彼女の答えを無機質なチャットの文字が伝える。
『わかった。必ず助けに行く』
ほっと体から力が抜ける。ドアが破られたのはほとんどそれと同時だった。
・
結論から言えば、少女は助けになど来なかった。兄は執拗に私を犯し、警察が彼を逮捕し連れて行ったのは三日後だった。
私は兄の子どもを産んだ。出産時の手伝いは母が行った。彼女の顔にはしばらく兄に殴られた痕が残っていた。そしてそのまま、母は出て行った。同じ家に母は一人でいいからだ。ある朝目が覚めたらもういなかった。別れを告げる暇もなかった。
国からはお祝いと称したメールが届いた。息子だったらいいのにと思っていたけれど、子どもは娘だった。今のうちに殺してやろうかと少し思った。でも顔を見ていると愛しくて、そんな風に感じること自体が辛かった。
私は彼女を育てた。母の仕事には細かなマニュアルがあり、余計なことを少しでも伝えようとすると警告される。警告が重なるとその家からは追い出され、強制労働に従事させられる。
私はどうしても、娘のそばにいたかった。だから口をつぐんだ。この家にかつていた母も極端に無口だった。でも、彼女にも何か言いたいことはあったのかもしれない。
やることは常に山積みだった。母にはゲームをすることも許されないので、あの少女がどうしているかはわからなかった。
最初から、別に私は希望なんて持っていなかった。自分にぴったりの配偶者と会って、じかに触れあって、そして愛を育むなんて奇跡みたいなこと、最初から夢の夢だった。
――でも、この子は。
なにひとつ与えられたものを疑うことなくすくすくと育っていく娘を見ていると、喉元まで言葉が出てきそうになる。何もかもすべておかしい、この国から早く逃げてくれと言いたくなる。
でも私にはできない。娘は素直に教育プログラムを受け、この社会の成り立ちを学び、自分がすべきことを理解していった。彼女は双子ではなかったし、まだまっさらだ。きっと良縁に恵まれて幸せになるだろう。そう思えることだけがまだ幸いだった。
だけど私はまだわかっていなかったのだ。
彼女が十四歳になって少しした頃、教授が部屋を尋ねてきた。声ですぐにわかった。彼は更に年老いていたが、その趣味趣向は何も変わっていなかった。
彼女は双子ではないし、特別頭が悪いわけでもないはずだった。でも、教授は私のときとそっくり同じに、娘に「お前は頭が悪い」と口汚く伝えた。そんなわけはない、と私は訴えたかった。だが母は必要のない会話をすることを禁じられている。そして教授に偉大な仕事の特権がある限り、娘は部屋のドアを開けなければならない。
それでも私は、どうしても嫌だった。罰則を受けるのも承知で、私はドアの前に立ちふさがり、彼を押し留めようとした。だけど思い切り突き飛ばされただけだった。
「どけ、老いぼれ」
教授は私が、かつて自分がいいように扱った女だということさえ気づいていなかった。
私はもう自分の年齢も把握していないことに気づく。それだけの年月が経ったのだ。化粧も肌や髪の手入れも、自分自身のことは何一つしてこなかった。
「十四か、まぁ俺の好みには少し早いけどいいだろう、治りが早いしな」
部屋の中から、娘の悲鳴が聞こえた気がした。どうして私は何もできないのだろう。殺人犯になった兄のように、教授を殺したらいいのだろうか。でもそうしたら、私は彼女から引き離される。私が逮捕されるのはもとより、娘にも何らかのペナルティが与えられるかもしれない。
娘にはまだ配偶者を得られる可能性がある。まだ候補は残っているのだ。私の経験からいって、教授に相手を妊娠させる能力はない。苦痛だけれど、耐えていれば終わるはずだ。
――助けて。
私もあの日、そう言った。でも誰も来なかった。あの調子のいい少女はゲームの中だけの存在で、現実にはいない。あの西の山の美しい風景も現実にはない。あるのは壁に阻まれた小さな部屋だけだ。それが全部なのだ。私にはどうにもできない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
私はドアの前でうめき続けた。
娘は成人し、夫になる男性のところに嫁ぐことになった。
それと同時に、この家での母としての仕事は完了し、私は別の家での業務を命令された。もちろん嫌だった。何を変えられなくても私はせめて、娘の側にいたかった。
だけど私はもう逆らう気力も失っていた。他の家でもすることは同じ、ただ家事だけだ。せめて娘が幸せになってくれたらいい……そんなことがあるのだろうか? 娘もまた子どもを産むだろう。そしてその子も。同じことのくり返しだ。
私は新たな家に配属され、そこでひたすら家事に従事した。面倒を見る少女は新生児ではなく、三歳だった。実の母は死んだのだろうか。詳しいことは何もわからなかった。知る必要もないのだろう。
私は余計なことを言わない。これ以上の罰則を受けたら生命さえ危うい。少しずつ育っていく少女は、彼女のために食事を作り部屋をきれいにする私のことを空気のように扱う。でもそれが当たり前だ。
少女は部屋から出ない。偏った教育を受けて素直に成長していく。まるで似ていないのに、娘を見ているようだった。私の娘はどうなっただろう。もう子どもを産み、母になったのだろうか。
私は、自分がとりわけ不運なのかと思っていた。だけど別の家に行くと、かつていたのだろう物言わぬ母の気配を感じた。キッチンに残された料理のメモや、丁寧に継ぎを当てられたエプロンなどに、濃厚にそれは残されていた。彼女たちにも、言いたいことはきっとたくさんあったはずだった。
私の育てる少女のもとにも、ある警察官が訪れてくるようになった。どうやら彼らは各部屋に住む娘たちの情報を把握し、仲間内で共有しあっているようだった。そして好みの年齢になった彼女たちを、好きなように弄ぶ。誰も止める者などいない。
この苦しみはいつまで続くのだろう。冬でも母は水仕事をしなければいけない。体調が悪いときでも代わりはいない。機械を使うことも許されない。自分が与えられていたときには何の疑問も持たなかった手料理が、ただわずらわしい。だけどマニュアルはすっかり頭に染みこみ、私は考えずに行動できるようになってしまった。
抗うより手を動かした方が早かった。私はもう立派な〝母〟だ。そう考えるとおかしかった。偉大な仕事と違って、誰が褒めてくれるわけでもないのに。
助けに来ると言ったのに、彼女は来なかった。期待なんてもう本当にしていない。でも今でもたまに彼女の言葉を思い出す。私に向かってあんなことを言ってくれたのは彼女だけだった。嘘でも、騙すための甘言でもよかった。
部屋。悲鳴を閉じこめた、十二メートル四方の白い部屋。私たちの世界の限界、そのすべて。私の娘。せめて私は、娘たちを見守っていたかった。そう、兄が来た時にもっと強固にドアが閉ざされていたらよかったのだ。本当に出られない部屋なら、外からも入って来られないはずだ。私たちはどうしたって生き物で、ウイルスには勝てない。だから接触は禁じられ部屋に退却した。三人。それが決められた社会の広さ。部屋を出てはいけない。それが個人の単位。それが守るべき範囲。強固とは決していえないドアと白い壁。私ならもっとうまくやるのに。大事な娘を誰にも会わせない。私が部屋なら。……私が。
・
私はかつて、部屋だった。いや今もかもしれない。わからない。
十二平方メートル程度の床と、壁に囲まれた空間。ウイルスの脅威から身を守るために人々が撤退した、小さな部屋。私はドアを閉ざした。出ていくことはできない代わりに、誰も入ってくることはない。
どれだけの時間が過ぎたのかもわからない。窓のない部屋から外は伺えない。だけどもうそれでよかった。私はもう何も感じない。何も受け入れない。何も期待せず、何ひとつ許さない。平穏に時だけが降り積もっていく。
「おい、開けろ……」
どれほどの時が過ぎたのだろう。唐突にノックの音がして、私は反射的にびくりとしてしまう。かつての記憶が抜けないらしい。誰かが訪れてくることは、いつも私にとって苦痛の合図だった。
「開けろって言ってんだろ」
どこか懐かしい声だった。乱暴なノックにも覚えがある。そう、絶対に開けてはいけない。理由もなく私は反射的に思う。なぜだかそう知っている。
「――」
だけど彼がその名前を口にしたとき、私はふっと気を緩めていた。何十年ぶりに呼ばれたのだろう。まだその名前を知っている人間がいるなんて思わなかった。
わずかに開いたドアから入ってきたのは、老いた男だった。顔中に痘痕が広がり、荒い息を吐いている。明らかに苦しそうな様子で、ずるずると壁に手をついてしゃがみ込んだ。ある種のウイルスの感染者だろう。
外なんか歩くからいけないのだ。外は危険だ。ウイルスがうようよしているのだから。懐かしさと嫌悪を同時に感じた。私は確かにかつて彼を知っていた気がする。でも私は彼の名前を思い出せなかった。
「俺は……俺だって、ああするしか」
男がとぎれとぎれに何か言いかける。聞きたくない、と思った。それが罵倒であれ謝罪であれ、聞きたくない。私の望みを聞き届けたかのように男は苦しげに咳き込み、そのまま倒れた。絶命したのだろう。ざわめいていた空気がまた静かになる。彼が入ってくる前と同じように。
だけどそのときふと、声がした。
「ごめん、遅くなっちゃった」
男は確かに倒れ伏し、絶命しているはずだ。そもそも男から発されたものとはとても思えない少女の声だった。
「でもそんなじゃないよね?」
男はぴくりとも動かない。だけど声は聞こえ続けていた。
「すごくすごく探したんだよ。でも、うまく行きあえなくて。隣の家にまで来たこともあったんだよ! でも、どうしてもこっちに来るルートはなかったの。ぐるぐる同じところを回っちゃったりしてさ。誰かに全戸訪問とかしてほしいよね。そうしたらその人に感染すればいいだけだったのに」
私が部屋であるように、彼女は〝少女〟だった。彼女はしげしげと壁を、私を見た。
「久しぶり。元気? さぁ、外に出よっか」
少女はただ語り続ける。私は何も答える言葉を持たない。彼女の細い手足が床を踏み、ぺたぺたと足音を立てるのをそれでも確かに聞いたように感じた。
だけど私が、外になんて行けるわけがない。
「生命の定義って知ってる? 一つ、自己複製する。二つ、細胞で構成されている。三つ、代謝を行う。あ、これ話したっけ?」
懐かしい口調だった。バカバカしい内容もそうだ。そう、確かに私は彼女を知っていた。じわりと死んだはずの感情がうずくのを感じる。
「私はあなたに感染しようと思うの。そうしたらもっと、二人でいろんなとこに行けるでしょ? 二人でクエストやってたときみたいにさ」
少女はぐるりと首を回した。
「さっきの生命の定義からいうと、まずあなたは小部屋、つまり壁のあるセルであるわけ。そして内部では代謝たる生殖行為が行われている」
彼女にずっと言いたかったことがあるような気がした。だけど思い出せず、声にならない。もうずっと、人間だった頃から自分の言葉なんて発していなかったから、喋り方がわからない。
「そもそも哺乳類の生殖が可能になったのも、タンパク質にウイルスが化合したおかげなんだよ。すごいでしょ?」
えへん、というように少女は胸を張ってみせる。
――そもそも、〝あなた〟って誰?
「あなたはあなただよ。あなた自身」
私はもうとっくに生きてはいない。さすがにそれくらいわかっている。みじめでちっぽけな、名前を残す価値もない女は死んだ。無数のたくさんの母たちと同じように、何も言葉を残さずに。だけどそれでいいのだ。もう私の体を好き勝手、誰かに使われることはないのだから。
「違うよ。あなたは生きてる。あなたは本当は、広がり続ける銀河なんだよ。こんなところにじっとしてる必要なんてない」
少女はそう言って笑った。私も笑えるなら笑いたかった。苦笑というやつだ。相変わらずの大げさな言いようだった。彼女はそっと壁に頬を寄せる。
「私はあなたに感染するの。……いい?」
――何が。
「触っても」
私は頷いたのだろうか。わからなかった。
彼女の指先が私に触れる。最初は探るようにゆっくりと、中指一本で。だけどそれから優しく、だけど容赦なく深くにまで入ってくる。
ああ。
私はすぐに、彼女の言葉のすべてを理解する。そう、彼女は私に感染するのだ。私の中で何かが変わっていくのがわかる。それは人間だった頃、男たちにされた行為と少し似ていたけれど、それでもまったく違っていた。彼らは私の中に押し入ってきて、私を奪った。叩きのめし、モノにした。
「大丈夫? 痛い?」
彼女のそれは侵食であるのに、やっぱり侵食ではなかった。むしろ逆だ。もっと気持ちが良くて、優しかった。
彼女が私に触れる。柔らかく奥深いところにまで彼女自身が入ってくる。そして同時に、私も彼女に触れていた。
触れられることで、触れ返していた。
私たちは溶け合う。どうして今まで気づかなかったのだろう。私は生きている。そうだ、どうしてこんなに簡単なことがわからなかったのだろう。私は生きている! 私はもう誰にも縛られなくていいのだ。もう誰かに指図されたりしない、こんな家に閉じ込められたりしない。私には制限なんてない。私は私自身のままで、どこにだって行ける。
私はかつて部屋だった。今もかもしれない。わからない。
私は生きている。だから増殖することができる。無人の街路を、ささやかな公園を、町のすべてを飲み込んで私という部屋は増え続ける。誰かが誰かを支配し、誰かが悲鳴を上げるあらゆる空間を踏み潰し、すべてを部屋に変えていく。
私は世界を知っていく。澄んだ大気と複雑に色を変え続ける空、移り変わる雲の形、ゆるく吹き抜ける風。
彼女とゲーム内で見た夜明けのことを思い出した。太陽は金に輝いている。世界は美しかった。そしてそのすべてが私だった。
「遅いよ」
私はやっと、それだけを口にする。そう、本当に遅かった。でもそうだろうか。すべては一瞬のことだったのかもしれない。
「だからごめんって言ってるじゃん」
少女は両手をあわせて必死に言う。でも私もわかっている。彼女だってこれが精一杯だったのだ。これ以上怒るつもりはなかった。大事なのは来てくれたということ、それだけだ。
「どこに行こっか」
「どこでもいい、もっと遠いところ」
私は自分の中に、確かに彼女を感じた。彼女の気持ちが伝わってくる。彼女も広がりたがっている。もっと外に、新たな場所へと行きたくてうずうずしているのだ。私も同じだ。
「行こう」
もう閉じこもる必要なんてない。誰も私たちを縛ることはできない。二人ならきっとどこにだって行ける。だから外に出よう。
――いや違う。わざわざそんなことを言う必要ももうない。
私たちが、外なのだから。
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