梗 概
DOUBLE STRAND
佳冬ミュアンはドイツのバレエ団に所属しているダンサー。プリンシパルを目指しているがライバルにその座を取られ自分に限界を感じる。次のチャンスを狙うには歳を取りすぎている。失意の中ある島で遺伝子編集による身体能力拡張を秘密裡に行なっている噂を聞く。ミュアンは休暇をとり島へ向かう。
地中海に浮かぶその島は小さいながらも市街地と美しいビーチを持ち、ある大金持ちが私的に所有しているという。ミュアンはその夜バーで会ったクロエと名乗る女に連れられてパーティーに行く。ビーチの見えるクラブにつくと敷地で飼われている動物たちが人々の目を楽しませるが見たことない動物ばかりで違和感を感じる。深夜を回った頃突然フロアの天井が開き上から舞台が降りてきた。その舞台で紫や青の蛍光で体が発光する動物たちやキリンのような象や角の生えた大型猫らのショーが始まった。そこへ発光する馬に乗った男が現れマントを取ると全身が発光していた。呆気に取られながら見ていると天井から垂れ下がった布を超人的なパフォーマンスで降りて来た蛍光ダンサーや道化師が、ミュアンにも信じがたい動きのサーカスを繰り広げた。
翌日クロエに会い自分の目的を言うと遺伝子編集を行うバイオハッカーを紹介するという。一緒に市街地の外れの小さな家に行くが中には誰もいない。不審に思うとクロエがそのバイオハッカーだという。クロエからバイオハッキングについて説明を受けて本当にやる覚悟があるか聞かれるミュアン。バレエ団よりもはるかに凄いパフォーマンスをやってのけるサーカス団に入るためにその処置を受けたいと答える。遺伝子を改変するために注射を打つ。そして細胞周期を早めるための赤いピルを飲むことにより数日で効果が出るという。
数日後ミュアンはサーカス団に行きパフォーマンスを見せる。素晴らしい演技を見せたミュアンはその日から雇われ一躍スターになり、狂瀾の日々が始まった。そして遺伝子編集はエスカレートしていく。
しかしある日体に異変が起こり始めた。そこへかつてのライバルダンサーがパトロンと共に島に現れる。ショーを見たかつてのライバルにパフォーマンスの賞賛を受けるが同時にバレエを辞めてしまって残念だとも言い残して去る。
ミュアンはかつて自分がただバレエが好きで舞台に立つだけで幸福だったことを思い出した。それがいつしか競争心だけで舞台に立つようになってしまっていることに気づいた。
体の異変がさらに進行しDNAを調べるとテロメアが急速に短くなっていて死ぬ恐れもあるという。クロエはDNAの配列は元に戻せす方法はあるがとそれで細胞全てが元通りになることはないしその後何が起こるかは結局わからないという。ミュアンはDNA配列を元に戻す注射を打ち青いピルを飲む。
港でチケットを買うミュアン。行き先は北アフリカのアルジェ。船の出航を静かに待つ彼の肌を隠すように着たシャツ中からうっすらと発光した腕が見える。船はゆっくりと地中海を南に向かった。
文字数:1224
内容に関するアピール
2020年のノーベル化学賞がCRSPR-cas9の発見に付与されました。2012年に発見されて以後ものすごい速度で遺伝子編集技術は発展しているようです。しかし一方でエピジェネティクスという概念が一般化するなど、生物発生の仕組みがわかったと言えるには程遠い状態でもあります。バイオハッカーの定義は様々でサプリ系やデバイスインプラント系などありますが、中には筋肉増強の為の遺伝子編集を自己実験するものが現れ動画配信をして注目を集めるということも起こっています。ゲノム編集キットなどもすでに販売されており個人でもある程度の知識があれば手軽にできるようです。病気を治すこと、寿命を伸ばす事と人間の能力を向上させることの間にどのように線を引くのか。安全性が確保されれば行ってよいのか。など遺伝子編集技術には倫理的社会的な問題が多く付随しますが実作はそうしたこともある程度踏まえて書ければと思います。
文字数:394
オーディン
その跳躍の軌跡は重力と人間の筋力の二つの力から織りなされた滑らかな弧を描いた。大きな弧の最高点でほとんど静止したダンサーの周囲からは重さが失われ、その黒々とした髪の毛はゆっくりと宙に浮かび上がり、琥珀色の光で輝く空中にシャンパンの泡のようなきらめく水滴が弾け飛んだ。音も無くしなやかに着地したさまは猫を思わせ、次に踏み出した一歩で力強く素早く回転し、両腕は大きく広げられた。繊細に伸ばされた両手の指先は、妖精の様に彼の周囲をゆっくり回り始め、近づいたり広がったりを繰り返しながら舞台の上を自在に動き回った。跳躍と回転を繰り返しながら舞台を一周すると、一度高く飛んでから着地して腕を広げ体を大きく反らせて止まった。強く施されたアイラインで一層エキゾチックさが際立った目に映るのは、はるか遠くに見えるどこか異国の風景なのか、それとも永遠に続く幻想の世界なのか、兎に角どこか遠くを見ていた。感嘆と賞賛の拍手が同時に沸き起こると男は名残惜しそうに観客を見つめてから舞台の袖に駆けていった。
出番待ちしながらストレッチしているダンサーや舞台の進行を確認しているステージマネージャーで混み合っているバックステージに、演技を終えた男は澄まし顔で駆け込んでくると、急に苦しそうにどさりと床へ倒れ込んだ。「ハァ、ハァ、ハァ」と玉粒の汗を床に落としながら肩で息をして呼吸を整えようとするが一向に落ち着く気配はない。心臓の鼓動が周囲に聞こえる程激しく脈打つ。佳冬ミュアンのいつもの舞台裏での光景である。なんとか息を整えてからふらりと立ち上がり楽屋へ向かう。すれ違うマリインスキー劇場の職員たちに「Устал!( おつかれ!)」と声をかけらながら古びてはいるが隅々まで手入れの行き届いた廊下を抜けて楽屋へと戻っていった。
カーテンコールに出ることのない出番を終えた群舞のダンサーたちでごった返す楽屋に入ると化粧鏡の前でニコライが椅子の座面で体育座りのようにして突っ伏していた。ミュアンは隣に座ると声をかけた。
「どうした?」
「今日群舞でミスっちまった。」ニコライはそのままの姿勢で言った。
「今度の昇格発表だめだな。もしかしたら首になるかも。」
「たった一度ミスしただけで首になるなんて聞いたことないな。そんな事で気を落とすな。」と自分のメイクを落としながら慰めの言葉をかけるミュアン。
ニコライが顔を上げ正面の鏡をぼんやり見ながら言った。
「お前はいいよ。今日のソロも受けてたな。ここまで拍手が聞こえてたよ。次の主役お前だって皆噂してるぜ。だいたいあんな歓声を受けるやつがセカンドってのもおかしいよな。」
ニコライはバレエ学校からの同期生でマリインスキーバレエに同時に入団した。しかしミュアンは5段階に分かれているダンサーの階級のうち3番目のセカンドソリストとして入団したがニコライは群舞を踊る5番目のコール・ド・バレエだった。
「どうかな。俺アジア人だし。」
ニコライがミュアンの方に頭だけ向けて少し感情を荒げて言った。
「おい。今はもう21世紀も半ばだぜ。そんなこと関係ないだろ?マリインスキーは保守的すぎると批判されてるんだぜ?俺たちはもっとオープンになるべきだ。」
「生憎そういう話には興味がないんだ。俺が興味あるのは踊りと酒と・・・あとは今晩誰と過ごすかって事ぐらいだな。」
呆れた顔してミュアンの顔を見るニコライ。
「あー、今日帰っても眠れそうにないな。今日これから一杯付き合えよ。モルドヴィアのウォッカを出す店を見つけたんだ。」
「明日の朝個人レッスン頼んでるんだ。悪いけど今度な。」
「ちぇっ」と舌打ちするニコライ。
サンクトペテルブルグの寒い夜を少しでも癒そうと暖かみのあるアンバー色でライトアップされたネオ・ビザンティン様式のマリインスキー劇場の楽屋口から出ると何人ものファンがダンサーが出てくるのを待っていた。ミュアンもそのうちの一人から手渡された花束を受け取って帰った。
マリインスキーバレエ団はロシアで最も歴史あるバレエ団である。サンクトペテルブルグに拠点を置く国立バレエ団の歴史はおよそ1740年頃の帝政ロシア時代まで遡る。宮廷バレエ学校を発祥とし、1783年に女帝エカチェリーナ2世により帝室劇場として定められたことによりクラシックバレエの中心となった。19世紀に西ヨーロッパでバレエが衰退していく中、ロシアのクラシックバレエは成熟し、後にマリインスキー出身のダンサーや振付家たちはフランスでのバレエの復興にも大きく関わった。マリインスキーにはコンテンポラリーバレエの演目はなく、帝政時代の衣装や振り付けを今でもそのまま受け継いでいるという事が彼らの誇りなのである。そしてマリインスキーの人間たちは本物のバレエを見られる場所は世界に3ヶ所だけと思っている。一つはマリインスキー、もう一つはモスクワのボリショイ、あとはパリオペラ座だけだと。
その劇場に併設されている教育機関としてワガノワバレエアカデミーがある。佳冬ミュアンは14歳で日本からワガノワに留学し、そこで徹底的にワガノワメソッドによるバレエ教育を受け、卒業後そのままマリインスキーバレエに入団した。ロシアのクラッシクバレエの世界は20世紀の終わり頃から国際化しており、今では様々な国籍のダンサーが所属しているが未だアジア人の男性で主役を演じたダンサーはいない。佳冬ミュアンは初めてのアジア人男性の主役として期待されているのである。
冬のサンクトペテルブルグの昼は短く、その日の午後も低くなった陽光がわずかな雲間からレッスンルームへ差し込み、壁いっぱいに貼られた鏡に反射した光が部屋を照らしている。ダンサーたちがレッスン前のウォーミングアップをしながら談笑している所へコーチがやって来ると皆バーの脇に立った。「じゃあ始めるわね。ドゥミ・プリエからグラン・プリエ」バーを使って基本の動きを確認する。「ディアゴナ、ドゥーベル アラベスク」基本動作が終わると振り付けの練習に入る。レッスンピアニストが弾く曲に合わせて一つ一つの動作を確認していく。コーチがステップや顔の向きを細かく指導する。連続した動作ですぐに心拍数が跳ね上がる。少しでも動きが不安定になるとコーチの指導が入る。「苦しそうにしてはだめよ。あなたたちダンサーは海の水面で輝く泡よ。観客たちに見せるのはそのきらめきだけ。あなたたちの努力は観客に決して見せてはいけないわ。」
その日は昇格と共に配役の発表もあった。レッスンを終えたミュアンが廊下の掲示板にその発表を見に行く途中、ファーストソリストのアンナがすれ違いざまに言った。
「あなた主役外されてたわ。残念ね。」
振り返るとアンナはその言葉だけ残してさっさと行ってしまった。配役表を確認すると主役にはミュアンの2年後輩のボリスが抜擢されていた。ミュアンはパドゥドゥはあったが村人の役だった。
翌週のレッスンは芸術監督のユーリ・ミロノフが担当の日だった。レッスンの後ミュアンは廊下でミロノフに声をかけた。
「ミロノフさん。」
かつてマリインスキーのプリンシパルを長年務めた事を思わせる長身をぴたりと体に合ったスーツに包んだミロノフが立ち止まる。
「今度の昇格について伺いたいことがあります。」
ミロノフは振り返って言った。
「なんだ、ミュアン?」
「昇格の基準を教えていただけますか?」
少し間を置いて「納得いってないのか?」と聞き返す。
「そういうわけではありませんが、ただどういうご判断をされたのか知りたいのです。」
「自分が今度の主役をやるべきだ思っているな。」
「・・・はい。」一瞬躊躇したが思い切ってそう答えた。
「確かに実力的に君は申し分ない。君がそのように自信を持つのもっともだ。君のジャンプはすばらしいし表現力もずば抜けている、それに人気もある。だがただ一つ足りないものがある。」
「何です?」
「どこからでも映える高い背と手足の長さだ。マリインスキーの主役にはどうしてもそれが必要なんだよ。マリインスキーはロシアの魂だ。伝統をそう簡単に変えるわけにはいかないんだ。残念だが君はマリインスキーでは主役にはなれない。少なくとも私が芸術監督を務める間はね。厳しいようだがこれははっきり言っておくよ。その方が君のためだろう。私は君には良いキャラクターダンサーになってもらいたいのだよ。」
「マリインスキーの伝統を更新しようとするお考えはないのですか?」
「伝統とは守っていても自然と変わっていってしまうものだよ。あえて変えようとする事はないと思うがね。」
話が終わるとミロノフはミュアンの肩に手を当てて去っていった。
マリインスキーの主役には手足の長い大きなダンサーが求められるという事はミュアンにもわかっていた。しかしミュアンは少しの可能性にかけてここまでやって来たのである。それが今はっきりと打ち砕かれた。
ミュアンはその日ニコライを誘ってバーに酒を飲みに行った。ふさぎこんでいるミュアンを見てニコライが訪ねる。
「お前から誘うとは珍しいな?何かあったか?」
「人生で初めての挫折を味わっているんだよ。」ウォッカを一口飲んで言った。
「どういう事だよ?」
経緯を話すとニコライは憤慨して言った。
「お前のジャンプが身長の低さを十分に補っているって事はあの大歓声が証明していると思うぜ。ミロノフさんの考えが保守的だってのはわかっていたけどそこまではっきり言うとはな。」
「まあ最初からわかっていたことさ。」ミュアンは投げやりに言った。それを見たニコライは自分が何もできない事にもどかしさを感じながらつぶやく。
「背の高さなんて今じゃ生まれる前から遺伝子操作でデザインできる時代だってのにそんな事が価値を持つなんて難儀な職業だよな。身長だけじゃない髪の色、目の色、骨格まで体の特徴なんて全部デザインできる。そうなったらそんなことに意味があるか?」
「遺伝子?へえ、そんなことできるのか?」
「お前踊り以外の事何も知らないよな。そういえばこの前アメリカのサーカス団が遺伝子編集で身体能力を向上しているってニュースを見たな。スーパーヒーローみたいな連中たちがすごいパフォーマンスするらしいぜ。ちょっと気味の悪い話だけどな。」
「サーカス団ね・・・・」
ミュアンは家に帰るとその事が気になって調べてみた。するとシルクミュータントというサーカス団が検索に引っかかった。遺伝子編集?身体能力向上?身長ものばせるのか?次から次へと興味が湧いてきた。そして次の公演が終わったら休暇を取ってそのサーカスを見に行くことにした。
***
サンフランシスコ国際空港から出ると空は青く晴れ渡りこれ以上ないほど快適な気温と湿度であった。空港で予約してあったSUVを借り途中で必要な物資を買い込みネヴァダ砂漠に向かった。旅の気分を味わいたかったので自動運転は使わずに自分で運転して丸一日砂漠の中をひた走った。目的地に近づくにつれ、見渡す限りの砂漠の中を通る辺鄙な道が大きなトレーラーやキャンピングカーで混み合うようになってきた。年に一度音楽とアート、テクノロジーのフェスティバルがこの砂漠の平原の真ん中で行われるのである。イベントが行われる一週間の会期中だけ砂漠の中に突如一つの街とでも呼べるほどの会場が出現するのである。数万にも及ぶ参加者は水や食料など必要なものを持参するのがルールだ。会場に着くと車から荷物を下ろし自分の宿泊用のテントを貼った。巨大な駐車場に車を停めて戻ってきた頃には日が既に暮れていた。
数キロにわたる会場にいくつもの大小のテントが張られバンドやDJ、パフォーミングアーツまで様々なショーがその中で開催されていた。ハムスターの回し車を大きくしたような車輪の中央を人が動いて回転させる人力観覧車や、荷台に積まれたスピーカーから大音量でテクノを流している派手に改造されたトラックの間を通り過ぎて会場中央のメインテントが張られているエリアへ向かう。テント内のステージではフェスティバルファッションで着飾った人々で賑わっている。喉の渇きを癒そうと奥のバーでビールでも注文しようとメニューを見ると蛍光ビールと書いてあるのを見つけて頼んでみる。バーテンダーは目の前のサーバーでジョッキいっぱいに緑に発光した液体を注いでミュアンに差し出した。ミュアンが手を付けずにまじまじとその液体を見ているとバーテンダーが「それはゲノム編集した酵母を使ったビールだよ。健康には全く影響ないので安心しな。味もまあまあ悪くないぜ。試してみて。」と言って飲むのを促した。泡は立っているので色以外はビールに見える。飲んでみると味は確かにホップの苦味がしっかりした旨いIPAであった。そのままカウンターでビールを飲んでいると隣で女が酒を注文しに来た。女が酒を注文して待ってる間に何気なくそちらを見ると目があった。すぐに注文した酒が来たので女は受け取ってカウンターから離れていく。しかし数歩進むとくるりと振り返ってこう言った。
「モントリオールのナショナルシアター、2039年。」
女はミュアンに一歩近づいてさらに続ける。
「あなたの出たジゼルを見たわ。あなたのジャンプホントに素晴らしかったわ。」
「ああっ、ありがとう。」
ミュアンはまさかこんな所で自分の公演をみた観客がいる事に少し戸惑いながらも感謝を伝えた。女は片側を刈り上げて青く染めた髪をかきあげると手を差し出して握手を求めた。
「力強いけどニュアンスもあって・・・あの時の主役は誰だったかしら・・・ポルーニンだったかしら?完全に彼を食ってたわ。今でも鮮明に思い出せる。あなたのスタイルはヌレエフに少し似ているわね。私はロシア時代の彼の古典的スタイルが好きだわ。映像は多く残ってないのが残念ね。バリシニコフの方がテクニックでは上だけどパッションはやっぱり・・・・・」としばらくバレエについて持論を延々と続けた。ミュアンはしばらくそれを聞いていたが遮って「バレエが好きなのかい?」と尋ねた?
「まあね。でも世界最高峰のクラシックバレエ団のダンサーとこんなところで会えるとは思わなかったわ。で、どうしてこんなところに?」
「ああ、シルクミュータントってサーカスの評判を聞いたんで見に来たんだ。君知ってる?」
「もちろん。実は私もここに来たのはシルクミュータントが目当てね。今夜最初のショーがあるわ。あなた一人?私も明日友人が来るまで一人なの。よかったら一緒にどう?去年も来てるから案内できるわ。私はクロエ。よろしく。あなた名前は確か・・・」
「ミュアン・・・」「佳冬でしょ。」クロエがそう言って微笑んだ。
このフェスティバルの参加者は全員が出演者であるべきだという主催者の考えの元、参加者は皆出来る限りの想像力を駆使した独特のコスチュームでこのフェスティバルを楽しんでいた。ポストアポカリプススタイルをベースにリオのカーニバルとハリウッドのヒーロー映画と中世ヨーロッパのコスプレをマッシュアップしたような感じだった。砂漠で快適かつフェスティバルファッションとしても機能する服には必然的にある類似性が生まれる。誰もが砂を避けるためゴーグルとマスクをつけ、手足にバンテージを巻きバックルを出来る限り多く付けたブーツを履いている。それがこのフェスティバルの独特の雰囲気を生んでいた。派手にデコレーションされた砂まみれの車やバイクに乗って移動する様は核戦争後のテーマパークにでも来たようだった。
会場の奥に一際大きいテントがあった。近づくて見上げるとそれはテントというより塔と言った方がふさわしい程高く数千人は入る大きさだった。入り口の両脇では裸の男達がファイヤージャグリングで客を迎えていた。その中の一人が口に含んだ液体を火の付いたトーチへ吹き付けて炎を吹くと一気に辺りの温度が上がった。肌に熱を感じながら中に入ると舞台中央に本物と見まごうほど精巧に作られた数十メートルに届きそうな巨木がしつらえてある。その幹から外側に向かって太い枝が何本も伸びていた。その枝は場内を縦横無尽に入り乱れまるで熱帯雨林の中にいるかのようだった。照明が落とされると観客たちが静まった。
民族的なドラムが場内に鳴り響き開演を告げた。暗闇の中そのドラムが鳴り止み、スポットライトが付くと巨木の高い所に生える枝の上に男のシルエットが浮かび上がった。続いて反対側のライトが付くと、今度は複数の男たちが現れた。男たちはアマゾン先住民のようないでたちであったが顔のメイクやその他の意匠はどことなく無国籍な感じがした。最初に現れた男が急に枝の上を走り出すとドラムの演奏が再び始まった。続いて複数の男たちが追跡を始めた。男たちは全力で細い枝の上を駆け巡りジャンプして次々と交錯しながら枝の間を飛び移る。地上から数十メートルの高さに広がる枝の間を飛んだかと思うと枝の上を滑るようにして下り、そうかと思えば枝から垂れているロープに掴まって次の枝に飛び移る。その動きははミュアンには人間業とは思えず猿か何かの野生動物のように見えた。追跡者たちは男を捉えようと飛び掛かったり、矢を射って逃走を阻止しようとするが男はうまく身を躱し巨木の周囲を回りながら数十メートルの高さからどんどん下降していく。ネットは無く一歩踏み外せば下に転落する程度の幅しかない枝の上を男は全速力で走っていく。その危うさにミュアンは息を呑んだ。地上まで降りた時男はとうとう捕まった。すると奥から巨大な動物に乗った男が現れた。脚の長さはキリンのようだが象のような鼻と耳を持つ不思議な生き物だった。その生き物に乗っている男は着けていたマントを脱ぎ捨てると全身が蛍光の緑で発光していた。発光した体表の内側にはレントゲン写真のように骨格がうっすらと透けて見え、心臓が脈打っているのもわかった。その生き物が追跡者たちを長い鼻で薙ぎ払うと、男たちは吹き飛んだ。ミュアンは目の前で起きていることが現実だと信じられず思わず周りを見渡すと、他の観客達も口をあんぐりと開けて驚いていた。
ショーは更に続き、次々と信じ難い事が起こった。眉間に真っ直ぐ生えた角を持つ大型ネコ科動物が道化師とじゃれ合って人を笑わせ、虎の顔を持った男が空中ブランコを行い、3メートルはあるように見える巨人が器用にジャグリングし、女性歌手がとても人間に出せるようには思えない高音から低音までの声を自在に操って歌った。どれもミュアンの常識を超えた不思議なものばかりだった。このパフォーマンスはストーリーサーカスと呼ばれ演劇とサーカスとスタントショーが混ざったような物だった。ミュアンはそのパフォーマーたちの演技に打ちのめされた。バレエダンサーとしてのミュアンは100年以上前から続く古典バレエの振り付けをできるだけ忠実に再現することが役目であった。しかし今ミュアンが見たのはまさにこの時代に創作された新しい表現であった。瞬く間にそのショーの魅惑的な時間は過ぎ去り、ミュアンは放心状態で自分のテントに戻っていった。
翌日のランチタイムにクロエと会った。クロエはシルクミュータントの公演を何度か見ているようだったのでサーカス団について詳しいようだった。クロエが言うには出演しているダンサーや動物たちは皆、ゲノム編集を行い身体の能力拡張や改造をしているというのだった。ミュアンは自分が全く知らなかったその技術についてクロエに尋ねるとやけに詳しかったので、質問を延々とし続けた。クロエは少しうんざりした様子でこう言った。
「そんなに興味あるんだったらフェスティバルが終わったらここへ行ってみて。」
そして住所を手渡すと友達を迎えに行かなくてはならないと言って去った。
***
サンフランシスコの街にはいくつもの有名バイオテック企業のロゴが入ったビルが並んでいるのが目立った。アメリカではゲノム編集を制限する法律が緩くバイオテック産業が急速に成長していた。中国との覇権争いの中、バイオテクノロジーは国家安全保障上重要だとみなされ、他国に遅れをとる事を政府が恐れて法的制限すが緩かったのだ。それほど各国の技術発展は速く熾烈なものとなっていた。規制がされないままどんどんと産業は成長し、徐々に人々はそうした技術に違和感を感じなくなり、ゲノム編集による身体や認知能力の強化を行なっている者も少しづつ増えていた。特にサンフランシスコはバイオテック産業の集積地でそうしたヒューマンエンハンスメントを行う者も少なくなかった。ミュアンはダウンタウンでトラムを降りクロエに渡された住所へ向かって歩いた。途中で寄ったコーヒースタンドでエスプレッソを飲みながら、ぼんやりと人々の様子を眺めていると多くの人が手の甲に埋め込まれたデバイスで支払いしているのに気づいた。ダウンタウンから少し治安の悪いエリアへ歩くと指定された住所には少し古ぼけた低層のオフィスビルがあった。部屋の扉には”Daidalos Biotechnologies”と会社のロゴが入っている。呼び鈴を鳴らすと中から人が出てきた。
「ミュアン?」
扉を開けたのはクロエだった。
「どういうことかな。」
「驚かせちゃったかな。言わなかったのは謝るわ。本当に来ると思わなかったのよ。まあ中に入って。」
白衣の下に人気バンドのロゴの入ったTシャツを来てフェスティバルで会った時と雰囲気は違ったが少し早口で喋るところは変わらない。部屋に入ると小さなオフィスに所狭しと実験器具やら大型の冷蔵庫並べられている。部屋の一部はガラスで仕切られて実験室のようになっていた。部屋にはもう一人男がいる。
「レックス、こちらミュアンよ。彼はレックス。」
ブラウンの長髪を頭の後ろでまとめた男がすごい速度でキーボードをタイピングしている手を止めて「ハイ」と言って半分腰をあげてデスク越しにミュアンに手を差し出した。軽い握手をした後ソファのある一角に行き座るように促された。
「私達は二人でバイオテックのスタートアップをやっているの。私は合成生物学が専門で医師免許もあるわ。レックスの専門はバイオインフォマティクス。私達のミッションはバイオテクノロジーを誰でも低価格で使えるようにすること。ゲノム編集技術のオープンソース化って言ってもいいわね。」
「ゲノム編集技術のオープンソース化?」
「そう。ゲノム編集技術はすでに医療目的では当たり前に使用されているわ。だけどこの技術は人間の身体や認知能力の向上にも積極的に活用出来る。実際その2つは区別はできないのよ。その人間の能力向上に対して使う事をヒューマンエンハンスメントと言うわ。」
クロエはそう話しながらフレンチプレスで淹れたコーヒーをミュアンに勧めた。
「でも今は誰でもエンハンスメント出来るわけじゃない。一部の金持ちだけよ。それはボストンのバイオマフィアと呼ばれる巨大企業が特許を独占しているから。ワンショット数万ドルのゲノム編集の薬剤を買える人だけがヒューマンエンハンスメントできるなんておかしいでしょ?エンハンスメントできない人々は仕事にあぶれ格差は広がって二度と埋められない階層差が出来るわ。そんな世界に住みたいと思う?だから私達はバイオテックを誰でも自由に使える技術にするためにこの会社をやっているのよ。」
一口飲むとミュアンはこう尋ねた?
「なるほどね。俺はダンサーなんでそういうことには疎いんだけど、誰でもゲノム編集をすればシルクミュータントの連中みたなジャンプや宙返りができるようになるって事なのかい?」
「そうね。・・・じゃあ、ちょっと基本的な事に戻りましょう。私達の体を作るタンパク質の設計図は遺伝子に格納されているわ。私達の先祖のネズミとかトカゲとかミジンコみたいな生物から、今あなたが飲んでいるコーヒーの酸味を味わえるようになったのはその遺伝子が少しづつ突然変異によって進化してきたからよ。突然変異にはその時々の環境に有利なものもあれば害になるものもある。生物はその実験を無数に繰り返してきているわ。ゲノム編集技術はそれを人為的に起こしているようなものね。だから遺伝子編集は遺伝子組み換え技術とは違うと言えるわ。」
「遺伝子組み換え?」
「遺伝子組み換え技術はDNAに新たな遺伝子を組み込むのよ。例えばあなたがこの前飲んでいた蛍光ビールは酵母にクラゲの遺伝子を導入している。これは自然界では起こり得ない。それに対してゲノム編集は自然界で起こり得ることを人の手で行っているのよ。つまりより安全性が高いってこと。」
「あのバーテンダーは安全は保証するって言ってたぜ。」
「安心して。あれに関しては人体に影響無いことは証明されてるわ。今じゃ遺伝子組み換えしている食品なんて当たり前よ。だけど人体に適用するのは別。編集した遺伝子配列でターゲット遺伝子を書き換えるためにはベクターが必要なの。ベクターというのは言ってみれば正確な所に遺伝子を届ける運び屋ね。有名なのはCRISPR-cas9。cas9はとても便利だけど基幹技術はすべてバイオマフィアに握られてるわ。使う度にパテント料を払わなきゃならない。私達が開発しているのはそれに代わる技術よ。私達のベクターMAD-Jはオープンソースで開発されているわ。誰でも自由に使えるし開発に参加できる。」
「OK。君たちが大志を抱いているレジスタンスだという事はよくわかったよ。それで宙返りはできるようになるのかい?」
クロエは少し呆れた顔をして言った。
「宙返りができるようになる遺伝子があるのかは知らないけど筋肉を強くすることはできるわね。あなたがゲノム編集したいなら私達は協力できるわ。ただしリスクも受け入れなきゃならない。」
クロエはそういうとミュアンの目を覗いた。
「本当にやる覚悟がある?」
ミュアンに迷いはなかった。
「ああ。迷いはない。」
一寸間をおいてクロエは言った。
「OK。じゃあ。契約よ。」
書類にサインした後クロエはミュアンの唾液を採取して小型のデバイスに入れてコンピュータに繋いだ。
「これからあなたの希望に沿ったDNAカクテルを作るわ。」
タブレットで幾つかのアンケート項目に答えるとそれに沿った遺伝子配列を生成するという。項目には筋力増強や視覚機能向上などいくつかのメニューが並んでいた。ミュアンはミオスタチン遺伝子の抑制による筋力の向上という項目を選んだ。
クロエはタブレットを受け取って言った。
「レックス。コードの生成よろしく。」
レックスのモニターにそれぞれの塩基の形状までリアルに再現された遺伝子配列が3DCGで描き出されていく。
「編集した遺伝子を機能させるには配列だけでなく三次元的な構造も重要な鍵になっている。」レックスがPCを操作する。
「だから配列を書き換えただけじゃだめだ。」
モニタのDNAは複雑に絡まり合って毛玉のようになっている。
「この絡まりあってメチル化したDNAをほどく必要がある。それをコンピューターでシミュレーションしているんだ。」
レックスがインターフェースのアイコンをクリックするとDNAが伸び綺麗な二重螺旋になった。モニタに映し出されたパラメータを確認するクロエ。
「ちょっと待って。あなた将来83.2パーセントの可能性で精巣ガンになるわ。それも修正しておく?」
「えっ・・・、ああ、頼むよ。」
「OK。この遺伝子配列でDNAカクテルを作るわ。明後日にはできてるはずね。あなたはこれで才能を手に入れたのよ。」
クロエがミュアンを見て言った。
数日後ホテルの一室で準備は始まった。クロエとレックスは部屋をアルコールスプレーで消毒しビニールシートを部屋中に張りめぐらせた。
ミュアンはその間ベッドの上で誰かと電話で話している。
「はい。急ですいませんがそういうことです。ミロノフさんにも連絡しておきます。では。」
ミュアンはマリインスキーの事務局に連絡してバレエ団を辞めることを伝えていた。
クロエはレックスの仕事ぶりを見て言った。
「レックス、消毒はもっと丁寧にして。」
「ウェットやってる連中はこういう事に細かいんだよな。」
「生物はコンピューターと違うわ。こういう細かい事が大切なのよ。」
クロエは準備が終わるとポータブル冷凍庫に入れてあった瓶を取り出し注射器で薬剤を吸ってミュアンに手渡した。
「注射を打つのはあなたよ。」
やり方を教えてもらったミュアンは自分の腹部に注射器の針を差し込み液体を注入する。
「体内の細胞全てが書き換わらなくても80%程度でも効果が出るわ。それまでこの部屋に缶詰ね。」とクロエ。
その夜ミュアンは発熱に苦しめられたが翌日の朝には熱は収まった。身体に何か変化は感じられなかった。ソファで一晩中待機していたクロエは言った。
「もちろんトレーニングしなければ効果は薄いわ。ゲノム編集はあくまでもあなたの能力の最高値を上げるもの。そこに到達するにはあなたの努力は欠かせないわ。」
クロエに指示されてしばらく安静にしていた期間が過ぎ、ジムでトレーニングを始めると治療の効果は明らかだった。みるみるうちに筋力が向上していくのが感じられた。
***
サンフランシスコ北部のエミリービルにあるシルクミュータント本部はかつて倉庫として使われていた建物を改装して使っていた。ミュアンがその一角にあるレンガ造りの倉庫の一つのエントランスに入り受付で名前を告げると別の棟のトレーニング場に案内された。途中、フェスティバルで見たあの不思議な動物達が飼われてているのが見えた。
シルクミュータントはシルクドソレイユのメンバーが独立して立ち上げたストーリーサーカスで、近年注目を集めているサーカス集団である。圧倒的なショーの素晴らしさで評価され、また彼らのヒューマンエンハンスメントは人間の可能性を拡大するものだとして称賛する人もいた。一方、エンハンスメントしているダンサーや動物の使用に関して倫理的な面を問題視する声も上がっていた。
ミュアンがこれから始まるオーディションのためウォーミングアップをしていると、シルクミュータント創業者でありアートディレクターも兼ねているピーター・ドックが何人かのスタッフと共にやってきた。元々ジャグラーだったピーターは禿げ上がった頭に薄いサングラスをして短く刈り込んだ髭を生やしていて、今もなんとなくその雰囲気を残しているが、やり手のビジネスマンとしても名が知られていた。彼は軽く挨拶した後「はじめてくれ」とミュアンを促した。
ミュアンはそこで踊ってみせた。彼のジャンプは更に高さと距離を増し、回転もこれまでに無く速い速度で美しいものになっていた。ミュアンは演技者としての華を元々持っていたが、そこに野生動物のような迫力が加わっていた。シルクミュータントは危険なパフォーマンスだけでなくストーリーも重視したサーカス団であったので、ミュアンの演技力と役者としての華はピーターに魅力に映った。
「俺たちは今まで無いものを創ろうとしている。それを人間の可能性の拡張だと言われることもあるが批判を受けることも多い。それにリスクもつきまとう。君にはその覚悟があるのか。俺達はエキサイティングなことのためなら何でもするならず者集団だ。君が昔いたバレエ団とは全然違う。それでもやるのか?」
「俺はただ新しいことをしたいんだ。誰に批判されようが自分がやりたいと思った事をやるだけだ。」
ピーターはミュアンの目をじっと見て言った。
「・・・OK。気に入った。来週から来れるか?」
「明日からでも。」二人はがっちりと握手をした。
ミュアンのトレーニングが本格的に始まった。彼はサーカスで一番の見せ場でありかつ最も危険でもあるエアリアルチームに配属された。エアリアルチームは空宙ブランコやフープなど空中演目を担当する。広大なトレーニング用の施設は空中ブランコやエアリアルシルクやフープ、どのように使うのかわからない巨大な車輪などのサーカス器具で溢れていた。ミュアンは空中ブランコの前で指示を出している男に紹介された。
「ミゲルだ。よろしくミュアン。フライングトラピスの経験は?」
トレーナーのミゲルはメキシコ出身で空中ブランコで5回転半ひねりの宙返りで世界記録を保持している、サーカス界のレジェンドであるが現在はトレーナーをしている。シルクミュータントは世界中から最高の人材を集めているのである。
「まったく。」と言って頭を左右に振るミュアン。
「OK。じゃあまずはニーハングからやってみろ。デニス、キャッチャーをやってくれ。」
梯子を登ってプラットフォームから見下すと地面から見ているよりも遥かに高く感じる。
少し緊張を感じたが深い呼吸を一度してからバーを掴んで思い切って飛んだ。膝をバーに引っ掛け逆さまになる。逆側のプラットフォームからブランコに乗ったデニスが同様に逆さまになって手をミュアンの方に伸ばす。ミュアンはタイミングを合わせて引っ掛けていた膝をバーから外し、一回転宙返りしてキャッチャーのデニスの手を掴みそのまま彼にぶら下がった。反対のプラットフォームに着地するや否や下からミゲル怒鳴り声が聞こえた。「ミュアン!サマーソルトしろなんて一言もいってないぞ。フライングトラピスで重要なのはキャッチャーとの信頼関係だ。二度とするんじゃない。いいな!」遅れてプラットフォームに着地したデニスはミュアンの肩をたたいて言った。「初めてでニーハングサマーソルトを成功させるとはやるじゃないか。」とウィンクをした。
チームメートのデニスは奇妙な男だった。彼は虎のようなのである。事実彼の顔は虎の特徴を複数備えていた。彼の頭部の骨格は眉間から鼻先までが真っ直ぐに前方に伸び額は狭く奥に長い。ネコ科のそれである。彼の髪の毛は黄色と黒で染められ口元には白く長いヒゲが生えていた。最初はメイクだと思っていたが顔には虎模様の短い毛が生えいてショーにもメイクなしで出演している。そしてなにより彼の歩き方や仕草は、なぜだか虎を思わせた。彼にそのことを尋ねるとこう答えた。
「俺は虎の神の声を聞いたんだ。虎の神は俺に虎の道に従えと言った。その時俺は虎として生きる事を決めた。そして俺はこの姿に生まれ変わった。」しかしどのような処置をしてそのような姿になったのかについては詳しく教えてくれなかった。
トレーニングは徐々に難易度を上げていき回転やひねりが加えられていった。ミュアンはバレエダンサーだったためそうした回転に対する身体的適応は早かったが、それでもシルクミュータントのトラピスで要求される回転はバレエにはない三軸回転を高速で行うため、上下左右がわからなくなり失敗することが多かった。デニスにそのことを相談すると
「お前平衡感覚のジーンアンロックやってなかったのか?」と返ってきた。
「ジーンアンロックって?」
「ああ、ゲノム編集治療のことを俺たちはそう呼んでるのさ。遺伝子のスイッチをオンオフするだけで能力が解除される。まるでゲームキャラクターに課金してるみたいじゃないか?」
「なるほどね。」
「しかしアンロック無しであそこまでやるとは大したもんだ。」とデニスは驚く。
翌週ミュアンはクロエのラボに行った。実験用バーナーで沸かした湯で淹れたコーヒーをミュアンに手渡してクロエが尋ねた。
「で、調子はどう?」
「悪くないね。100メートルでメダルが取れそうだよ。」
「残念。あなたは遺伝子ドーピングで失格よ。」
「へえ、そんな検査あるのか?」
「ええ、ただ検査技術も発達してるけど実際のところ精度はあまり高くは無いわね。何しろ遺伝子自体は突然変異と見分けがつかないから痕跡を発見するしかないの。まあそのへんは今議論がされてるところよ。この前新生児の遺伝子情報の登録義務化の法案を提出した下院議員が大炎上してたわね。」
「サーカスは競技じゃないからそういう規制もないってことか。」
「そんなとこね。」
「まあ規制してもやる奴はいるだろうな。」
「そうね・・・スポーツだけじゃないわ。遅かれ早かれいずれゲノム編集は当たり前のものになるわ。これはいい悪いじゃないのよ。こんな技術を作ってしまったら人間はやらずにはいられないわ。だから私はこの技術を一部の人間だけが利用するようにはしたくないの。」
そう言うとクロエは少し浮かない顔をした。
「・・・ところで今日は何の用かしら?こないだ定期検査はこの前やったし。」
コーヒーを一口飲んでミュアンが言った。
「ああ、そうだ。平衡感覚を向上させるにはどうしたらいいんだ?」
「平衡感覚。そうね・・・オトペトリン1を活性化させるのが一般的ね。オトペトリン1はプリン作動性ヌクレオチドで活性化するわ。細胞内のカルシウムを調節して耳石の形成に適したpHに・・・・どうしてそんな事を?」
「そいつをやって欲しいんだ。」ミュアンはわざとらしい笑顔で言った。
「規制がないから何やっても大丈夫だと思ってないでしょうね。」
「そんな事思ってないさ。ただこれは人間の可能性の拡張に必要なことなんだよ。君もそう思うだろ?」
クロエはソファに背をもたれて腕を組み軽い溜息をついた。
セラピーを受けて数日後、ミュアンはフライングトラピスで5回転半宙返りに成功した。こ れはミゲルの記録に匹敵するものだった。チームメンバー達がミュアンを囲んで祝福している。それを見ていたミゲルが隣にいたデニスにつぶやいた。
「俺の時代にはジーンアンロックなんか無かったからな。同じに扱って欲しくはないもんだね。」
「記録はいつか抜かれていくものですよ。」とデニス。
「・・・そうだな。素直に喜んでやるべきか。」と言ってミゲルはミュアンの囲むメンバー達の方へ駆けていく。
ミュアンの肉体改造は着々と進んでいった。赤血球の生成を活発化させることによる酸素運搬能力の増大化、アンジオテンシン変換酵素の遺伝子編集による持久力の向上など次々と能力を拡張させていく。それとともにどんどん新しい技を吸収し、ついには6回転のサマーソルトを成功させ、ミゲルの回転記録を更新した。ミゲルは相変わらず複雑な表情をしていたがミュアンを讃えた。練習の後更衣室でデニスがミュアンに言った。
「おい、ミュアン。お前最近ちょっとやりすぎじゃないか。」
「なにが?」
ミュアンはそう言ってとぼけた。
「アンロックだよ。アンロックは博打だぞ。ベクターがDNAの狙った所を狙い撃ちできればよし。外れたらアウト。下手したらDNAの別の所に組み込まれて細胞が癌化する。いわゆるオフターゲットってやつだ。やるならそいつを覚悟しておけよ。」
「デニスに忠告されるとはね・・・」
デニスはあるのか無いのかわからない眉を寄せてみせた。
「まあ、ありがたく聞いておくよ。」
ミュアンはそう言うとシャワー室へ入っていった。
これに指を差し込んで。少し痛いわよ。」
クロエがフィンガークリップが付いた小型のデバイスをミュアンに手渡して言った。定期検査のためミュアンはラボに来ていたのである。そのクリップに人差し指を差し込むと指先がチクリとした。デバイスのランプが着き分析が終わったことを知らせる。PCのモニタにヒストグラムや散布図が表示されクロエはそれを読み取っている。
「BCAAの血中濃度がすこし高いけど・・・特に問題なさそうね・・・」
「なあクロエ、身長を伸ばしたいんだけどできるか?」作業を続けるクロエにミュアンが尋ねた。
「背を伸ばしたいなら運動と健康的な食事と睡眠が一番ね。」
クロエは作業を続けながら答える。
「そうじゃないよ。大人がアンロックで背を伸ばせるのかって事を聞いてるんだ。」
「えっ?うーん・・・成人の身長には数百の遺伝子が関わっているし環境因子の影響も大きいわ。それに成人の身長に関わる遺伝子は成長期の終わりとともにメチル化を起こしているから再活性化させなければならない。どの遺伝子がどのように影響しているかはまだわかってないわね。だけどそれらの遺伝子をすべてを同時に書き換えることによって成長をコントロールすることに成功した実験はある。遺伝病の患者をその手法で治療してかなり身長が伸びた例はあるの。理屈としてはそれと同じだからできなくはないわね。ただその分オフターゲットの可能性は高まるから健常者にその手法を使う事は無いわ。」
「じゃあ君がやったら世界で最初の例になるわけだ。」
クロエはPCにテキストを打ち込でいた手を止めていったミュアンを向いた。
「まさかやれなんていうんじゃ無いでしょうね?」
ミュアンは口元に笑みをうかべて肩をすくめた。
「あなたついこの間セラピー受けたばかりでしょ。」
「遺伝病患者に使ってるなら俺に使ったって問題ないだろ。」
「断るわ。」
「そうか。残念だな。やってくれないというなら他のクリニックに行くしか無い。」
部屋を出ていこうと立ち上がってドアへ向かうミュアン。
「待って。」数歩進んだところでクロエが言った。
クロエを背にしたミュアンの口元に笑みが浮かんだ。
「負けたわ。」
ミュアンは研究者としてのクロエがこの実験の結果を知りたがっているのを見越していた。
その日のトレーニングルームにはアートディレクターのピーターが技の出来栄えをチェックする合同リハーサルのため、エアリアルチーム以外のメンバーも全員集まっていた。紫外線がなければほとんど発光しているようには見えない蛍光ダンサー達、クラウンチーム、ジャグリングチーム、ミュージシャンにトランポリンアーティストなど総勢100名近い出演者達が集まっていた。久しぶりに会う他の出演者たちと挨拶を交わす。
「ハイ、ミュアン。元気か?・・・あれ?お前大きくなってないか?」
「ああ。今第三次成長期なんだ。」
軽口をたたいているとピーターがトレーニングルームに入ってきた。彼がこの合同リハーサルで自分たちの演技にOKを出さなければ本番から演技が削除されることもあるので皆気が気でない。次々に演技を確認していく。OKの演技もあればピーターの納得が得られず演技内容を改善することになるチームもあった。
「じゃあ次はエアリアルチームよろしく。」
ミュアン達の出番が来た。プラットフォームから勢いよく飛び降りるミュアン。より大きくなったミュアンの演技にはスピードやテクニックにダイナミックさが加わっていた。5回転半のサマーソルトが成功すると自然と拍手が湧き上がった。ピーターは演技を見終わった後腕を組んでしばらく考えている。時折隣にいる舞台監督と何か話している。皆ピーターに注目している。
「ミュアン。お前には次の公演でアーチャー役をやってもらう。準備しておけ。エアリアルチームはOKだ。」
ミュアンは主役に抜擢されたのである。
「やったなミュアン。」
チームメートが祝福しデニスがハグしてくるが彼のヒゲが顔に刺さって痛い。ミュアンはそれを我慢していた。
サンフランシスコの湾岸に専用テントが建てられ公演が始まった。ミュアンはエアリアルのパフォーマーとしてだけでは無く、主役としてそのエモーショナルな演技とダンスで観客を魅了した。そしてそれまでバレエダンサーとして踊ってきた中で感じたことの無い充実感を感じていた。ショーが幕を閉じカーテンコールで出演者が観客の前に集まった時、ミュアンは観客の視線がこれほど自分に集まるのを感じたことは無かった。それは主役という立場でしか感じられないものだった。
公演は初日から好評で地元ニュースサイトでのレビュー記事での得点も高かった。その上ゲノム編集反対派や動物愛護団体から抗議デモを受けることによってSNSで話題が拡大し始め世界的に注目されるようになった。治療目的でないゲノム編集技術の人への応用がこれほどはっきりと問題になった例はこれが初めてだったのである。
ニュースメディアのピーターへのインタビューがネットで配信されるとそれも話題拡散に一役買った。
『あなたがゲノム編集を出演者に強要させていると噂がありますが本当ですか?』
『私が彼等に強要したことは無いね。彼等が自主的にやってることだ。彼らが自分の意思でやっている事を私には止められないよ。』
『動物にゲノム編集技術を施す事に抵抗は感じませんか?それに動物をショーに使用することを問題視されてますが、どう思いますか?』
『私があの動物達作ったわけじゃない。あの動物達は大学の研究室で生まれたんだ。私は彼らを引き取って生きる場を与えているんだ。』
視聴回数がランキング上位に入ったことで勢いづいたピーターはサーカスのメンバーたちに宣言する。
「世界ツアーをやるぞ。世界中で俺たち事が話題になっている!人類の新しい時代の幕開けを告げるショーを作るんだ!」
シルクミュータントの団員達は皆これから起こる事を想像して沸き立った。
***
世界公演はカナダから始まり欧州の主要な国を巡った。きついスケジュールだったが行く先々の都市で新たな出会いや発見があった。休演日にはデニスやサーカスの仲間と夜の街に繰り出すのがいつものことだった。バーへ行くとデニスはいつも人気があった。はじめは彼がよく出来たマスクをしているのだと思うのだがよく見るとそうではないこと気づき皆驚く。中には気味悪がる者もいたが、たいていはマンガかアニメから出てきたみたいだと言って喜んだ。デニスはそんなバーの客にいつもうんざりしてたが何も言わずに飲んでいた。街へ出るとシルクミュータントのポスターがあちこちに貼られている。そのポスターのキャッチコピーには「人間の進化を目撃せよ。」とあった。
公演の休暇中にバーで飲んでいたある日、日本にいるミュアンの姉から連絡があった。
『久しぶりね。ニュース見たわよ。』
『ああ。すごい話題になってる。今ベルリンだ。今度東京にも行くから姉さんたちも招待するよ。』
『・・ミュアン・・・詳しいことわからないけど記事に書いてあることほんとなの?』
『何の話?』
『ゲノム編集治療を許可なくやってるってことよ?』姉の声が少し高くなった。
『あんたがやってること日本じゃ違法だってこっちで騒がれてるわ。』
『そんな知らない奴らが騒いでるのなんてほっとけよ。』ミュアンがそう答えると姉は更に続ける。
『あなた父さんと母さんにも連絡しないでバレエまでやめてそんな事して何考えてるの?それにあの動物達何?かわいそうに・・・』と捲し立てた。
ミュアンはマリインスキーを辞めてから家族との関係がぎこちなくなっていた。母が彼をバレエダンサーにするために大変な苦労したことを思うとマリインスキーを辞めた事が心苦しく感じるのだ。
『なぜあなたはいつも相談しないで自分ひとりで決めてしまうわけ?私達家族でしょ?』
姉の小言をひとしきり聞き、とにかく今度日本に戻ったら説明すると言って電話を切った。
バーに戻るとデニスがミュアンの様子を見て尋ねた?
「どうした?」
「えっ、いや・・・何でもないよ。なあ、親からもらった遺伝子を変えたら親子の縁も切れると思うか。」
「何ばかな事いってるんだ。親は親だろ。俺のママは俺が虎になる事に反対したよ。あんたなんか産まなければ良かったとも言われたさ。まあそれも理解できなく無いがね。だが俺にとっては唯一の母親さ。俺はそれでもママを愛してる。」といってグラスに残っていたビールを飲み干した。
ツアーはミュアンの第二の故郷とも言えるサンクトペテルブルへ向かった。マリインスキーのソリストがアメリカのストーリーサーカスの主演でサンクトペテルブルグに凱旋してきたことは、それだけでも話題価値は十分にあったが、そのうえゲノム編集の問題でも人々の興味を引き地元公演のチケットはすぐに売り切れ、追加公演が検討された。
初日の公演後、ミュアンが楽屋でマッサージを受けているとドアがノックされた。「ミュアン。お客さんがきてるよ。」アシスタントプロデューサーがそう言ってドアを開けた。入ってきたのはミロノフだった。ミュアンは急いでシャツを着てマッサージをしていたトレーナーには外してもらった。
「楽にしててくれ。疲れているところ悪かったね。」
「いや、とんでもない。来てくれて感謝します。」
握手すると長身のミロノフと目線の位置がそんなに変わらなかった。
「身長が・・・伸びたのかな・・・」
普段表情を変えないミロノフが一瞬驚いた表情を見せた。
「・・ええ、まあ。・・マリインスキーの皆は元気ですか?ボリスがプリンシパルになったとか・・・」
「ああそうだ、彼は素晴らしいダンサーだ。間違いなく今後のマリインスキーを背負う男だ。そうそう、君の友人のニコライはセカンドソリストになったよ。キャラクターダンスをやらせたら意外とはまってね。」
「そうですか。それは良かった。」
「今日のショーは素晴らしかったよ。君がバレエを辞めて何をしているのか確かめに来たんだ。確かに君たちのショーは驚くべきものだった。」
「ありがとうございます。」
「斬新で感動的だった。しかし私にはわからないんだ・・・君たちの言う人間の拡張というのは一体何なんだね?、私には人間性を破壊しているように思えるのだが・・・」
「破壊ではありません。これは進化です。」
「進化か・・・私達には今まで築いてきた素晴らしい歴史と文化がある。君にも素晴らしいジャンプを飛べる肉体と情熱が備わっていた。君もその大いなるものの一部だったのだよ。それを無理に変えようとする必要があったのかね?」
「僕はこの体を大きくし強化したおかげで今ここにいることが出来ている。」
「・・・君のジャンプはただそれだけで十分美しかったんだ。私には君がその事の価値を過小評価しているように思える。バレエをもう一度やる気はないか?」
「僕達は今誰もが成し遂げられなかったことに挑戦しているのです。」
「・・・そうか。それは残念だ。」
ミロノフはそういうと手土産に持っていたモルドヴィア産のウォッカを化粧台の上において出ていった。
***
世界公演が終わりサンフランシスコに戻って来て束の間の休暇の後。ミュアンはシルクミュータントの工房に呼ばれた。サーカスで使われるセットや機械装置は全てそこで作られている。工房へ行くとピーターとコーチのミゲルが待っていた。
「よく来たなミュアン。休暇はどうだった?カンクンに行ったそうじゃないか。メキシコ女はいいだろ。情に厚くて面倒見がいい。だが別れる時は気をつけろ。俺の知り合いで刺されたバカがいる。」
メキシコ人のミゲルは苦笑いを見せた。
「心配には及びませんよ。」とミュアン。
「そうか。まあそんな事はどうでもいいんだ。こっちへ来てくれ。見せたいものがある。そうそう、新しいショーのシナリオが出来たから後で届けるよ。今回は北欧神話が題材だ。君には主役のオーディンをやってもらうよ。」
工房の奥へ連れて行かれると巨大な舞台装置があった。高さ15メートル程の太い鉄製の棒が2本、30メートル程の間隔を開けて並んでいる。それぞれの上端を軸に振り子が設置されている。振り子には更にもう一つ別の振り子が接続されていて、その先端には手で掴めるバーがある。二重振り子である。
「これは新しいショーのためのエアリアルの装置だ。お前の為に作ったようなものだ。見ててくれ。」
ピーターはそう言うとミゲルを促した。ミゲルが手前に設置された操作パネルのスイッチを入れると大きなブザーがなった。すると2本の巨大な振り子がゆっくりと左右に振れ始めた。1番目の振り子の振幅が徐々に大きくなっていくのに合わせて2番目の振り子も遅れるように揺れ始める。最初は比較的安定していた2番目の振り子の挙動は、1番目の振り子がほぼ水平にまで上がるようになると徐々に乱雑さを増していった。1番目の振り子の軸を中心に一周したかと思えば急に止まったようになり、そうかと思えば急激に反転する。その影響で1番目の振り子の揺れも周期的ではなくなり、それが更に2番目の動きを複雑にした。巨大な二重の振り子が作る風圧で気のせいか少し息苦しく感じる。全く予想のつかない回転をする二重振り子は凶暴なモンスターが暴れまわっているように見えた。
「あの振り子の先端でフライングトラピスをやるんだ。キャッチャーはいない。バーからバーへのジャンプだ。これをやれるとしたらお前しかいない。」
この複雑な動きのバーの間をジャンプして渡るには予測は意味をなさない。極限まで反射神経を研ぎ澄まし、瞬間的な判断にゆだねるしかない。ミュアンは一瞬無謀とも思える行為に怯んだが彼の生来の挑戦心がそれを覆した。
「やって見せます。」
「頼むぞ。ミュアン。期待してるぜ。俺たちでこのショーを歴史に残すんだ。」
ミュアンは体が疼くの抑えながら回転する振り子をじっと見ていた。
トレーニングルームの四方にネットを張り巡らせ、その中に巨大二重振り子が設置された。ミュアンは早速を練習を始める。二重振り子の先端をプラットフォームまで持ち上げバーに捕まって勢いをつけて飛び降りる。もう一方の振り子も同様に動き始める。ミュアンが掴まっているバーにもベアリングが付いていて回転するようになっているので、彼自身が3番目の振り子のように回転する。最初はある程度周期的な振幅だが急速に回転し始めると凄まじいGが彼にかかる。変則的な回転の変化に体がついて行けずに遠心力でセーフティーネットにふっとばされてしまう。
「さすがのお前でもこの回転はきついか。」とデニス。
「何度か試せばすぐ慣れるさ。」と言ってもう一度プラットフォームへ向かう。トライするうちに不規則な回転には慣れてきた。しかしその状態で非周期的カオス状態にあるもう一方の振り子に飛び移るのは至難の業であった。予測ができない状態でもう一方の振り子に飛び移るには2つの振り子が極力接近した時に反射的に飛び移るしかない。通常の空中ブランコであれば飛び移るタイミングは体に染み付いているのでもし目を瞑ってていたとしてもそんなに間違わないであろう。しかしこの二重振り子のトラピスでは予測して飛ぶという事ができないため反射的に動く事が必要なのである。
いつまでも飛び移るタイミングが掴めないミュアンはバーの位置を予測して飛んで見る。しかしバーを掴もうとした瞬間にはもう一方の振り子は動きを変化させて遠くへ行ってしまう。空中に放り出されたミュアンは放物線を描いてネットに落ちてしまった。何度やってもタイミングが合わずネットに落ちてしまう。
「予測して飛ぶんじゃ無理だ。集中して反射神経に任せろ。」とミゲル
「”考えるな。感じろっ”てわけか。」とミュアン。
しかしその日何度繰り返しても進歩はなかった。
いつものようにラボにやって来たミュアンはクロエに紙袋を手渡した。
「今日は手土産を持ってきた。スマトラ産アラビカ種。遺伝子組み換えなしのオーガニック。」
「ゴールデンマンデリン?」
今や遺伝子組み換えなしのコーヒーを手に入れるのは難しくなっていたのでクロエは喜んだ。
「これ自然な酸味でおいしいのよ。手に入れるの大変だったでしょ?」
「まあね。」
ミュアン少し皮肉のある笑みを浮かべた。
「こんなモノ持ってくるなんて何かあるわね。今度は何なの?」
「ああ、実は今問題にぶち当たってるんだ。運動神経の反応速度を速めたいんだ。」
ミュアンは自分でもある程度のゲノム編集の知識を持つようになっていた。ネットを検索すれば解りやすく解説した教材が山のように出てきたし、どの遺伝子がどのように機能するかデータベースですぐに分かるようになっていた。
「ニューロンを太くすれば伝導速度も速くなるわ。だけど神経系や脳に関しては筋肉や臓器の働きよりはるかに複雑なのよ。ちょっと難しいと思うわ。」
クロエはコーヒー豆をミルにセットしながら言った。
「レックス。この間頼んだデータできてるか?」とクロエを無視する形でミュアンはレックスに尋ねた。
「ああ。できてるよ。」とレックス。
クロエは手を止めてレックスを見て言った。
「えっ?」
レックスがモニタに遺伝子の三次元モデルを表示させてミュアンに説明する。
「いくつか論文があったからそれを元に量子レベルのシミュレーションしてみたがちゃんと機能したよ。猿での実験も行われているみたいでかなりの成果は上げているみたいだな。」
ミュアンがレックスのモニターを覗く。
「ちょっとレックス。どういう事?」
「この前君がいない時にミュアンが来て頼まれたんだ。」
「私聞いてないけど?」
「言ってなかった?」
「そんな人間の臨床試験が何もされてないことをやるわけにはいかないわ。何が起こるかわからない事許可できるわけ無いでしょ。」
「そうか・・・じゃあ他のクリニック行くよ。」
「無駄よ。同じ手には乗らないわ。そんなリスク高い事やる所があるわけ無いでしょ。今度は本当に無理。あなたもっと自分の体を大事にしなさい。」クロエが声を荒げていった。
「俺の体に何しようが俺の自由だろ!」
「ええそうね。あなたの自由よ。ここは自由の国アメリカだもの。だけど私は協力しないわ。」
「おいおい、二人共コーヒーでも飲んで落ち着けよ。そう怒鳴り声を上げるものじゃ無いぜ・・」とレックスが割って入った。
「レックス。だいたいあなた勝手にあんなデータ作って私に言わないのはおかしいでしょ。あなた黙ってて!」とすごい剣幕で言われたレックスはすごすごと隣の部屋に引っ込んでいった。
気まずい無言の間がしばらくあった後、ミュアンはクロエの肩に手を置いて言った。
「なあクロエ。これが成功したら俺はどこか南の島にでも休暇で行きたいと思ってるんだ。もし君がよかったら一緒に・・・」
言い終わらないうちにクロエがミュアンの手を振り払って言った。
「はっ、バカにしないでくれる。」と更に怒りを募らせた。
「あなたにゲノム編集したの間違いだったわ。今日はもう帰ってくれる。」と言い残してクロエは隣の部屋に行ってドアを締めた。
部屋に一人残されたミュアンはおずおずと帰ろうと出口へ向かった。しかしその途中でレックスのモニターに表示された3次元モデルが目に入った。隣の部屋に続くドアをちらりと見るが戻ってくる気配はない。ミュアンはPCを操作してデータをクラウド上の自分のサーバーにアップロードした。アップロードは一瞬で終わりミュアンはウィンドウを閉じた。
ミュアンは自宅のPCで遺伝子編集のサポートサービスを検索した。すると似たような業者のサイトがたくさん出てきた。たいていはCRISPRやTALENを使ったガイドRNAを作成するサービスだった。その中の業者の一つにクラウドに保存したDNAデータを送って遺伝子編集用の薬剤を発注した。価格はかなり高額だったがミュアンにはシルクミュータントとの契約金があった。数日後、冷凍された薬剤が自宅に届いた。ネットで購入した医療用注射器吸入し自分の脚の付け根に注射した。やり方はすべて動画で丁寧に解説されている。驚く程簡単だった。
巨大な二重振り子がトレーニングルームの中を凶暴に暴れまわっている。エアリアルチームのメンバーが見守る中、ミュアンはその振り子の一方に掴まって振り回されていた。ミュアンはタイミングを伺っている。意識を集中させると、そんな状態にあるというのに心がいつもより平穏になっていくのを感じる。予測するのを止め、ただもう一方のバーの場所を意識し続けた。すると不思議な事に辺りの風景がゆっくり動いていくように感じられた。天地が逆さまになり自分の頭上にデニスやミゲルが見える。デニスがゴクリと固唾を飲んだのが見えた。ミゲルは腕を組んでしかめっ面でこちらを睨んでいる。向こう側のバーは不規則に回転しているがそのスピードはまるでスローモーションのようだった。自分の目の前にバーが来た瞬間、ミュアンは掴んでいた手を離した。勢いで飛ばされる方向の先にもう一方のバーがゆっくり近づいてくる。手を伸ばしてそのバーを掴む。するとそのバーの回転の勢いで飛んできた方向と違う方向に体が引っ張られていく。『成功した』そう思った途端一気に回転で生まれる遠心力を感じてふっとばされてセーフティーネットに叩きつけられた。だが手応えは感じた。あと数度繰り返せばものに出来る感触は合った。見ていた者は皆驚いた。
「まるで予知能力でも持ってるみたいに見えたぜ。」とチームメイトの一人が言う。
「お前何アンロックしたんだ?」デニスが目を丸くして尋ねるとミュアンは答えた。
「そいつは言えないね。」ミュアンがセーフティーネットに絡まって逆さまになりながら言った。
本番公演の直前、異変は起こり始めた。ミュアン化粧鏡の前に座って集中力を高めながらメイクをするのがいつものルーチンだった。メイク箱からアイライナーを取り出そうとした時、掴んだと思ったのに間違って化粧箱を落としてしまった。はっと気づくとその奇妙な感覚は元に戻ったが二重振り子のジャンプをする時のように世界がゆっくりに感じられたのだ。もう一度鏡を向いてメイクを始めるとまた奇妙な感覚が訪れた。何もかもがゆっくりと進む世界で自分が鏡に映った姿を見る。永遠に見ているような感覚に襲われると映っているのが誰なのかわからなくなってくる。ミュアンの体感で何時間も見続け、はっと気づいて辺りを見回すと相変わらず他の出演者もメイクや準備で忙しそうにしていた。そんな事を何度か繰り返してなんとかメイクを終えると、開演時間が近づき舞台裏で待機するため呼ばれた。
公演が始まる前の観客たちのざわめきがバックステージにも聞こえる中、ピーターが出演者を集めた。皆初日の緊張感を感じながらピーターが声を発するのを待った。
「みんなよく聞いてくれ。観客を感動させるために必要なものが3つある。何だと思うか?」
ピーターを見続けている出演者達。
「第壱に情熱、第弐に情熱、第参に情熱だ。わかったか?OK、さあ始めよう!」
それを聞いた出演者たちはお互いを称え合う言葉を掛け合って抱きしめあった。
ゲルマンウォードラムが暗い闇の会場に鳴り響く。開幕だ。ドラムが鳴り止むとどこからともなく現れた巨大なワシが空中を舞う。そのワシは観客席のすぐ目の前をゆっくりと飛びながら、羽ばたかせた翼で観客席に向けて風を巻き起こした。ワシはぐるりと会場を周回すると会場の中央上方に舞い降りる。スポットライトが光ると舞台中央にそびえ立つ巨樹が照らし出された。世界樹ユグドラシルだ。再び音楽の演奏が始まると、観客席まで届くほど枝を広くはりめぐらせた世界樹の上に、様々な動物や巨人や妖精などの登場キャラクター達が現れ踊り始めた。物語はミュアン扮する北欧神話の神オーディンが知恵を求めて冒険をした末にルーン文字を獲得する為に片目を差し出すというものだった。
オープニングのダンスが終わるとストーリーが進行しながら様々なパフォーマンスが始まる。太い枝の上には牡鹿やリスに扮したダンサー達が見事な舞踏や雑技を披露し、下方では機械仕掛けで動く巨大なドラゴンが火を吹きながら根を噛じる。すると巨樹全体が生きてるかのように左右に悶えた。それを癒やすため3人の女神が会場全体をエアリアルパフォーマンスをしながら飛び回り泉から汲んだ水を撒いく。出演者達は様々な演技で観客を魅了した。そして物語はとうとうクライマックスに差し掛かる。
頭上から2本の二重振り子が下降して中央に吊り下げられた。少しづつ動き出した2本の振り子は徐々に振幅を増していく。ミュアンはプラットフォームの上で一度大きく呼吸をしてから片方の振り子に飛び移った。ゆっくり動く1番目の振り子と高速な回転の2番目の振り子が組み合わさり複雑な軌跡を作り始める。ミュアンの体がブラックライトで照らし出され発光した。その軌跡がペンで描いたかのように光で空中に描き出された。深く呼吸をして意識を集中すると徐々に辺りの速度がスローダウンし始める。目の前にもう片方のバーが見えた。反射的にジャンプを行う。ゆっくりと近づくバーに手を伸ばしキャッチする。成功した。再び二度目のジャンプをし反対側のバーに戻る。また成功。しかし三度目のジャンプをしようとした時、急に世界が止まったようになった。動いているのが感じられない程だった。時間感覚が奇妙に歪み、ミュアンの意識は勝手に動く体の観察者といった方が適していた。意識と体がバラバラに分離して、永遠に続くかのような時間が過ぎ去っていった。観客席に意識を向けると観客の表情まではっきりわかる。家族連れや恋人同士、どこか外国から来た団体客らしき人々。彼らはどこから来たんだろう。永遠に続くかに思われた間にそんなどうでもいいことを考えていた。そしてふと意識を頭上に向けると振り子が目の前に迫ってきているのがわかった。しかしミュアンは今や完全に空中に浮いていた。もはや慣性の法則に身を任せる他ない。振り子がゆっくりとミュアンに近づいていくる。そして身体を叩きつける。ゆっくりと骨が砕かれていく感覚。痛みはまだ感じない。上も下もわからない。無重力の宇宙に放り出されたようだ。何時間にも感じる。そして徐々に重力を感じ始める。ゆっくりと地面にが近づいてくる。観客たちの驚く表情がはっきりと見える。人の驚く顔をこんなにまじまじと見ることは今まで無かった。なんて面白い顔してるんだろうと笑いそうになる。何かをコントロールすることを諦めたミュアンは奇妙な事に自由を感じた。そして地面が目の前に迫る。真っ暗になる視界。意識が遠のいていく感覚。
目覚めると病院のベッド上にいた。辛うじて動く首を横に向けるとクロエがいた。気づいたクロエが椅子から立ち上がってミュアンの脇に来る。
「気がついた。」
「俺は・・・どうしたんだ?」
「ショーの最中に事故が合ったの覚えてない?」
まだ朦朧としているが思い出そうとすると徐々に記憶が蘇ってきた。
「あなたのDNAを検査したわ。編集された形跡を見つけた。めちゃくちゃだったわ。あちこちでオフターゲットが起こってた。」
無言のミュアン天井を見る。
「すまなかった。」
「どの遺伝子がどこに影響しているかもう分からなくなってた。だからバックアップしてあったあなたの元の遺伝子配列にすべて戻したわ。」
「そうか。手間かけたな。」
「・・・それでもすべての細胞が元通りになることはないと思うわ。それにあなたの脚が・・・」
ミュアンは自分の脚に違和感を感じた。動かしてみると感覚がないのである。被せられたブランケットをめくると両脚が無かった。
「高くついたみたいだな。」
「こんな事いっても何の慰みにもならないことはわかってるわ・・・・だけどあなたのおかげで新しい発見があったの。人間の時間感覚に関わる遺伝子を見つけたの。これは大変な発見よ。」
「・・・そうか。それは良かったな。」そう言うとミュアンはもう一度眠りについた。
***
マリインスキー劇場の正面入り口に二人の影が入っていく。劇場はすでに開演していたため玄関には人が少ない。ぎこちなく歩いている男の足首には義足が見える、もうひとり女は倒れぬよう肘をとって寄り添って歩いている。二人は誰もいないホワイエを通り過ぎる。ここはかつてロシア帝政時代貴族たちが着飾り、社交の場として利用された場所だ。二人は部屋を抜け二世紀の長きに渡って人々の目を楽しませた荘厳な劇場へと入る。2階の奥の席に座ると男はサングラスを外した。よく知っているあの舞台を見つめると、自分があそこに立っていたのがついこの間の事のように思える。今は2年後輩だったボリスがプリンシパルとして踊っている。ミュアンは自分がステージで踊っている所を想像した。ステージを一杯に使って跳躍と回転しながら一周する、マネージュ、アサンブレ、アラベスク。ミュアンは想像の中で跳躍し、その風を感じていた。
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