トランスフォーメーション

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梗 概

トランスフォーメーション

その日は、珍しく穏やかな晴天の日で、波が優しく海岸線を撫でていた。
両手をマヤとパウルに預け、ゆっくりとエルは波打ち際まで歩いた。つなぐ手が、どんどん冷たくなって、二人は顔を見合わせた。波打ち際で二人の手を放し、キースが代わりにエルの肩を抱く。蝋人形のように表情を失ったエルに、優しく頬ずりをして。
がくり、とエルの膝が崩れた。ママ! と叫んで縋り付くマヤとパウルに、何も反応を返さない。いつもなら、にっこりと暖かく抱きしめてくれるエルが、無表情に海を見つめる。
キースが手を添えて、エルを波打ち際に横たわらせた。
「パパ! ママが、……ママは、どうしちゃったの!?」
パウルが叫んだ。エルの身体をそっと撫でで、キースは立ち上がる。まるで、パウルの叫びが聞こえないかのように。キースに手を引かれて、マヤとパウルは数歩下がった。
砂浜に頬をつけたまま、ぼんやりとしたエルの目が、三人をじっと見ていた。それは、マヤが知っている優しい母の目ではなく、意思疎通を拒む別の生き物の目。長いまつ毛が微動だにせず、瞳はやがてあらぬ方向を向いた。
エルの緩やかにウェーブを描く髪を、潮風が優しくなでる。それも、いつの間にか、動きが止まった。エルの包容力のあるふくよかな上半身は、次第に色を失っていく。
何が起きるのか、マヤにはわかっている。キースが何をしたのかも。だけど、こうやって目の当たりにするまで、信じられなかった。
この無人の惑星にたどり着いて十年。物心ついた時から、エルは、キースとマヤと、穏やかに笑っていた。この海岸を、幾度となく歩いた。生命のいない海岸には、貝殻も何も落ちてはいなかったけれど。
パウルは小さいから、まだ理解ができないだろう。父が、何をしたのか。今、何が起こっているのか。もう少し大きくなったら、父を責めるだろうか。でもそれは、誰も咎められない。父が子どもたちを、一人娘だったマヤを思ってしたこと。この寂しい星で生き抜くために。
――だけど。
こうやってエルの身体が元に戻るさまを実際に目にすると、不思議なことに、悲しみの感情は湧き上がってこない。ただただ、目の前で繰り広げられる不思議な現象に目を凝らすだけ。
キースが、マヤとパウルの肩に手をまわした。大きくてごつごつした、温かな手。ヒトでないものを妻にし、家族を守り、また、妻であったものの変態を、自ら手掛けた手。マヤはキースの手を握った。ちらりとキースが娘に視線を移す。その目に、マヤは深い愛情を感じた。
気づけば、エルの頭部は細かいうろこに覆われて、首まで切り込んだ大きな口と、瞼のない丸い目ができていた。胸の前に力なく置かれた腕は、いつの間にか灰色の身体の一部となっていた。
エルの変態が、静かに進む。
「ママ」
そっと、呼んだ。死んだわけではない。きっとこの声は届いている。
棲む者のいないこの海で、一人寂しくないように。毎日、来るから。
――忘れないで、ママ。

文字数:1200

内容に関するアピール

【梗概】宇宙船の事故で無人の惑星にたどり着いた一人の男と少女が、かりそめの家族を作る。パウルは、宇宙船の積み荷にあった魚類の卵を遺伝子操作し、エルを作る。マヤの母として、自分の妻として。また、たった一つの人の受精卵を使ってエルにパウルを産ませる。しかし、エルは出産の負荷に耐えられず、日に日に人としての機能を失う。苦渋の決断で、パウルはエルをもとの姿に戻すことにした。

エルが海に帰るシーンが、この作品のクライマックスです。パウルもマヤも、いずれ来る自分たちの別れを予感しながら、それでも互いを思いやる美しいシーンです(そうなっているかどうかは?ですが)。

採用した絵画は、ルネ・マグリットの「共同発明」(1934年)。

タイトルは、直接的には「変態」がテーマですけど、家族の変化、遺伝の形質転換などの意味も含めて、トランスフォーメーションとしました。今のところ、です。

文字数:382

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翳りゆく星の祈り

砂岩の丘から、鈍色の雲に覆われた海が見える。
 波が白く砕ける無彩色の砂浜。長い弧を描いて左右に伸びるその両端は靄に隠れ、雲にとける。海風が強く吹き、たまらず後ろを振り返れば、どこまでも砂地が広がる。それほど遠くない砂丘の手前に、銀色の宇宙船が斜めに刺さっていた。
 もともとは鏡のように磨かれていたに違いないその船体は、吹きつける風と砂に削られ、ざらついていた。宇宙船としての機能はほとんど失われ、エネルギーを供給する機関部とおびただしい量のアーカイブを有するライブラリだけが、生きていた。
 その傍らには風を避けるように小さな家が建っている。
 雲と波と、雨と砂と、そして影しかなかったこの惑星で、小さな息遣いが聞こえる暖かい家。ドアを開ければ家族がいる、かけがえのない家だった。

玄関のドアを開け、マヤは小走りに砂地を駆ける。向かうは宇宙船の中のライブラリ。風さえ強くなければ、ほんの数秒でたどり着く、大好きな場所だ。夕暮れが近づき、あたり一面の靄の中、橙色の光が揺れる家の窓から誰かが呼ぶまで、マヤは飽きることなくライブラリで過ごした。
 その生活は、ある日突然終焉を迎えた。
 マヤに弟ができたのだ。
 窓辺におかれたゆりかごから、小さな手が伸びる。開かれたピンクの手のひらにマヤがそっと指を添えると、反射的にきゅっと握り返す。思いがけなく力強い指の力が心地よい。飽きずに何度も何度も指を握らせる。
 ――小さなわたしの弟、パウル。
 自然に頬が緩む。床に膝をついてパウルをのぞき込みながら、マヤは目を上げた。
 パウルの隣には揺り椅子が置かれ、椅子の背にゆったりともたれかかって、エルが目を閉じている。白く美しい額には、一筋の金髪が流れるようにかかる。窓から差し込む夕日に照らされて、神話に出てくる女神みたいだ、とマヤは思った。
 マヤの視線を感じたのか、エルのまぶたがゆっくりと上がる。深い海の色をした瞳がマヤをとらえて、にっこりとほほ笑んだ。立ち上がり、マヤはエルの腕に手をかける。
「ママ」
 エルの腕が優しくマヤを抱き寄せた。
 エルは話ができない。宇宙船が不時着した時のショックだ、とキースは言う。
 それでも、エルの開かれることのないくちびるを見ながら、マヤは祈るように思う。いつの日か、マヤ、とその優しい声が呼んでくれるのではないか、と。その気持ちを知ってか知らずか、エルはいつも穏やかにマヤを見つめて微笑み、その暖かい胸に優しく抱きよせる。
 エルの揺り椅子に寄り掛かり、沈みゆく夕日をガラス越しに見ながら、マヤの気持ちは満たされていた。いつの間にか、パウルはすやすやと寝てしまっている。部屋の中はしんとして、時間が止まったようだった。
 と、廊下を歩く靴音が近づき、そっとドアが開いた。
「パパ!」
 厚底の革靴、作業ズボンにサスペンダー、チェックのシャツを着て、あごひげを蓄えたキースが顔をのぞかせた。
「いい子にしてたかな。マヤとパウルは」
「うん!」
 マヤは走って部屋を横切り、キースに飛びついた。大きな厚い手がマヤをつかみ、やすやすと持ち上げた。キースの肩に乗ってみれば、天井は手が届くほどに近い。マヤを肩に乗せたまま、キースはゆっくりと窓辺に歩み寄る。
「だいぶこの家も傷んだよ。全部直すには、しばらく時間がかかりそうだ」
 今朝まで吹き荒れた嵐で、屋根と雨戸が壊れていた。朝からずっと外で修理をしていたキースは、エルの隣にマヤを下すと、そのまま床に座り込んだ。エルが眉間にしわを寄せて、キースを見る。立ち上がろうとして、少しよろめいた。マヤが手を伸ばして支えた。
 最近、エルの体調がよくない。
 以前はくるくると動き回って家事をこなしていたのに、今では座っていることが多くなった。パウルを産んだから疲れているんだ、とキースは言うが、マヤは心配だ。元気になる様子が、一向に見えない。
 マヤはエルの代わりにキッチンに行き、水を一杯持ってきた。キースが、ありがとう、と言って受け取り、一気に飲み干した。さあ、もう一息、みんなのご飯を作らないとな、と立ち上がったキースに、わたしも手伝う! と後を追った。背中に、エルのさびしそうな瞳を感じながら。
 翌日から、マヤは家の修繕を手伝い始めた。
 砂地に斜めに差し込まれたように鎮座する宇宙船が、朝日を浴びてまぶしく輝く。朝日の上る方角に目をやれば、ごつごつした岩の向こうに、大海原が見えた。時折吹く風が、雲一つない空に砂を舞い上げる。柔らかいマヤの頬にあたる砂粒は、いくら細かいといっても、それなりに痛い。風をよけて、宇宙船の底部にキースがしつらえた作業小屋に急いだ。
 マヤが朝ごはんの片づけをしている間に、キースは修繕用の部材を作っていた。マヤは原材料の砂を運ぶ。なるべくきめの細かい、さらさらした砂を、と言われ、風に吹き寄せられて出来た砂場から、バケツで何度も運ぶ。運ぶそばから風に吹かれて、砂はさらさらとこぼれ、マヤはいつの間にか砂まみれになった。
 砂場と作業小屋を往復するマヤを、窓からエルが見ている。マヤが気付くと、小さく手を振った。マヤも手を振り返す。うれしくて、窓を見るたび、手を振った。
 出来上がった部材はマヤには重くて、運べない。お役御免になると、そのまま家に駆けこんだ。ドアを開けるとエルが待っていて、砂だらけの娘を見るなり顔をしかめ、手を引かれてバスルームに直行させられた。マヤの服をパンパンとたたけば、細かい砂が落ちる。髪も砂でザラザラだ。笑顔で砂をはたき落とすエルに、マヤも笑った。
 その日は、家の修繕に忙しいキースに代わって、マヤが食事の準備をした。エルも体調がいいらしく、パウルが寝ているうちにキッチンに立った。久しぶりのエルの手料理をたくさん食べて、疲れたマヤはソファに座ったまま、いつの間にか寝入ってしまった。
 気がつけば、毛布が掛けられている。窓辺の揺り椅子に、エルは見当たらない。居間には暖色の灯りがともっていて、キースも転寝をしていた。作業ズボンとシャツのまま、スツールに足を乗せ、腕組みをして。マヤは毛布をそっと掛けた。……つもりだったのに、キースはうっすらと目を開けてマヤを見た。
「ありがとう」
 キースの大きな手が、マヤの頭を撫でた。へへへ、と小さく笑って、キースの隣に座った。
「マヤは、今日、大活躍だったね。家の修理も、食事の準備もがんばった。……大きくなったなぁ」
 顔を凝視して、しみじみというキースに、マヤは少し気恥ずかしさを感じる。
「もう小さくないよ。わたし、もう十歳なんだから」
 つんと澄ましていってみれば、
「それなら……」
 と、一層真剣なまなざしを向けられて、マヤは今までになく緊張した。何か重要なことを話そうとしている。子ども心に、それが感じられた。
「少しだけ、パパの相談に乗ってくれるかな」
 キースの視線がゆっくりとマヤから離れ、床に落ちた。横顔が曇り、しばらく動かない。マヤは思わず視線をさまよわせた。なんて答えてよいのか、わからない。そのまま、ちらりとキースに目をやれば、キースは静かに微笑んだ。
「ママのこと。……それだけじゃない。これからの家族のこと。それが、心配なんだ」
 やさしくて奇麗なママ。最近はちょっと元気がないけど、すぐよくなるはず。なのに、ママのことが心配? これからの家族のこと? パウルも生まれて、こんなに幸せなのに。なにが心配なの? マヤは混乱した。
 キースの視線を追えば、窓の向こうに月の光に薄く光る宇宙船が浮かび上がっていた。今までと何も変わらない風景なのに、心がざわつく。
「マヤには、話したことはなかったけど」
 と、キースはゆっくりと口を開いた。そして、淡々とマヤに語った。家族が乗った移民船が不時着したこと。この星には、運よく空気も水もあって、何とか生きていられること。
 キースの声だけが、この惑星に、小さな家の居間に、静かに降り積もる。静寂の中で語られるキースの話に、マヤはめまいがしそうだった。
 ――この星に、家族のほかに誰も住んでいないなんて、知らなかった。
 物心ついた時から、キースとエルとマヤの三人家族。パウルが生まれて家族は四人に増えた。でも、それがすべてだとは思っていなかった。宇宙船内にあるライブラリでは、大勢の人が行きかう大都市の風景が、あたかもすぐそこにあるように投影される。大きな森や広大なサバンナ。そこに住む動物たち。手を伸ばせばすぐに触れられるぐらいの迫力で。
 マヤは信じて疑わなかったのだ。その光景は、この家のすぐそばにあると。岩と砂と海だけのこの地を離れて、大きくなれば、いつか行ける場所だと。それが……。
「……いつか、誰かが迎えに来てくれるの?」
 やっとのことで絞り出した声はかすかで、キースが首を小さく横に振るまで、本当に口に出せたのか、わからないほどだった。キースが口を開く。だから、生き延びるために、家族が協力しなければいけない、と。ママが少し疲れてしまったから、パパのお手伝いをがんばってほしい、と。
 できるね、と言われて、マヤの頭に大きな手が置かれた。うん、と小さく返事をした。
 気持ちの整理がつかないまま、マヤは、おやすみなさい、と居間を後にした。おやすみ、とキースがいつもの口調で答える。二人だけの秘密、と言われたような気がした。
 小さな窓からは、真っ暗な夜空に星がきらめいている。
 この星に、家族四人だけ。事実に想像が追い付かない。この星に、四人だけ……。張り裂けそうな想いを胸に抱えて、マヤは一晩中、眠ることができなかった。

パウルは見る見るうちに大きくなり、小さな家にはエネルギーが満ちていた。
 マヤは一人前に家事をこなせるようになり、よちよち歩きのパウルを連れて、家の中を行き来する毎日。晴れた日には、大きなかごに四人分の洗濯物を入れて外に干す。そのまま、家の裏手に小さくしつらえた畑で、みずみずしい野菜を収穫する。その間、パウルはマヤの近くで砂の山を作って遊んだ。
 パウルが生まれてから、エルは次第に塞ぎがちになった。いつか元の明るいエルに戻るはず、という期待とは裏腹に、笑うことも少なくなっていった。パウルを居間で遊ばせながら、マヤはそっと窓際の椅子に座るエルを見る。首をかしげて、遠くを見つめるエル。その瞳には、マヤもパウルも映っていない。沈む気持ちを何とか引きあげて、パウルに向き直った。
「マヤ、パウル。ごはんができたぞ」
 キースの声がキッチンから子どもたちを呼んだ。勢いよく駆け出すパウルを追って、マヤも立ち上がる。足を踏み出して、ふと窓辺を見た。エルと目が合った。
「ママ、ごはんだよ。行こう」
 そう手を差し出すと、かすかに微笑んで、エルはほっそりとした腕をマヤに預けた。真っ白ですべすべしたエルの手を引きながら、マヤは言いようのない悲しみを感じる。
 蝋のように冷たい指。手を繋げばぬくもりが伝わってきた母の手は、いつの間にか失われてしまった。生気のない、ただ物体として存在するだけの、エルの手。マヤは両手で温めるように、しっかりと握った。
 テーブルには、キースが腕を振るった料理が所狭しと並んでいた。
 季節は秋に向かっていた。年間の気温差がそれほど大きくはないこの惑星でも、植物は環境の変化を敏感に感じ取り、実りの季節を迎えていた。苗木から育てた梨や栗がやっと実をつけ始め、食卓に彩を添えている。
 陽が落ちればそこはかとなく冷え込む室内に、カボチャのスープが温かい湯気を立てていた。キースがうやうやしく皆に運ぶ。待ちきれないパウルは、さっそくスプーンを手にした。
「エルの味には負けるけど」
 とおどけながら、キースはエルの前にスープを置いた。だが、エルは手をつけようとしない。どうぞ、と勧めるキースに、薄く微笑み、黙って首を振る。いつもの食卓の風景となった二人のやり取りを、マヤは切なく見ながら、パウルの食事を手伝った。
 もうすぐパパは気を取り直したように、わたしとパウルにたくさん食べろよ、って言う。そして、わたしもありったけの作り笑顔で、うんっと元気に答えるのだ。……マヤは、キースとの約束が、つらい。

キースが宇宙船のライブラリにこもっていることが増えた。
 夜、家族が寝静まるのを待って、一人出ていくのを、マヤは知っている。今までも、そういうことは時々あった。だけど、誰かに声をかけて出て行っていた。それが、内緒でいくようになった。
 その日、マヤは眠れずにベッドに横になっていた。
 エルの体調がよくなかった一日で、身体は疲れているはずなのに、目がさえている。水でも飲めば落ち着くかと、キッチンに向かった。時計は深夜を示している。
 開けっぱなしの居間のドアから、宇宙船が見える。小さな月に照らされて、闇の中にうっすらと浮かび上がる外観。その向こうに、窓から漏れるまばゆい光が見えた。
 ――パパだ。
 そっと家を出て、宇宙船の向こう側に回り込む。あかりがついているのは、ライブラリの窓。近づけば、山のように本を積み上げ、必死の形相で調べ物をするキースがいた。ぱっと、窓の下に隠れた。
 見てはいけないものを見てしまったような気がして、胸がどきどきなっている。なにを、あんなに一生懸命探しているんだろう。怒ったような顔をして。
 マヤはそっとベッドに戻ったが、目をつぶっても浮かぶのはキースの焦りにも似た表情だけで、気がつけば、朝日が上がってきていた。
 マヤより遅くまで宇宙船にいたはずのキースは、それでも、いつもと変わらない朝食を準備して、家族を食卓に着かせた。
「どうした? 今日は眠そうだな」
 気づかれまいとあくびをかみ殺したマヤは、どきりとする。慌てて首を振り、起きたばかりだから、と答えても、言い訳のようにしか感じられない。早々に食事を終えて外に出た。
 空が高い。
 灰色のどんよりした雲か、湧き上がるような入道雲が、空の半分以上を占めている日が多いので、こんな快晴の朝は、気持ちが高揚する。なのに、今朝は、全くそんな気分じゃない。宇宙船の周りを、なんとなく歩いてみた。
 昨夜、マヤの歩いてきた足跡が、くっきりと残っている。風が運んだ砂が薄くかかっているけれど、誰が見てもわたしの足跡って、わかるよね。気持ちが沈んでいく。パパは、この足跡をみて、きっと気づいた……。
 自分の足跡をなぞるように、一歩一歩歩いた。ライブラリの窓。のぞけば、きちんと整頓されていて、まるで誰も使っていなかったみたい。……たった一冊の本を除けば。
 その分厚い本は、両袖机の上にページが開かれたまま乗っていて、メモが挟まれていた。メモは遠目でもわかるぐらい、びっしりと文字が書かれている。
 何が書いてあるんだろう。
 外から家の中をのぞいた。案の定、キースは足元にまとわりつくパウルを、エルのそばで遊ばせている。揺り椅子をゆっくりと前後に揺らしながら、エルは黙ってキースとパウルを見ていた。
 ――いまなら。
 マヤは宇宙船に入り、ライブラリを目指して一心に走った。たくさんの本や映像を山盛り詰め込んでいる、宝島のようなライブラリ。小さいときから、わくわくして訪れた。それが、こんなに焦る気持ちを一杯に足を踏み入れるなんて。なにか、悪いことをしているみたいに……。マヤは大きく息を吸った。そして、ライブラリの入り口から窓際にあるキースの両袖机まで、息を止めて走った。
 開いている厚い本は、キースが大切にしている専門書だった。マヤには内容が分からない。メモは実験方法のようで、手書きの絵と矢印を使いながら、手順が細かく書かれていた。
 わからないことがあまりにも多すぎて、エルはいらいらした。知らなくてはいけないことがたくさん書かれているはずなのに、どうして。
 ……と、隣の本棚の奥に、隠れるように置かれた写真立てが目に留まった。本を抜いた場所から、半分だけのぞいている。薄暗くてよく見えない。
 マヤはつま先で立って、手を伸ばした。
 家族写真だった。
 ゆったりとした椅子にきらびやかなドレスの裾を広げて座るエル。その両側に、ちょっとおめかしをして立つマヤとパウル。タキシードを着こんだキースは三人の後ろで中腰になり、大きな腕を伸ばして家族を暖かく包み込んでいる。皆、にこやかな表情をしている。幸せな時間が、そこに切り取られていた。
 ――あれ?
 家族を順番に目で追いながら、マヤは違和感を覚えた。何かが違う。そういえば、この写真、いつ撮ったのだろう。全く記憶にない。
 じっと写真を見つめていると、次第に違和感が強くなり、足元から不安がせりあがってくる。隠されていたように置かれていた写真。もしかすると、見てはいけないものだったのかもしれない。
 元通り、本棚の奥に戻し、勢いよく踵を返してライブラリを出た。歩きなれた道なのに、ほんの数十メートルの距離なのに、足がもつれる。
 勢いよく開いた居間のドアに、三人が驚いて振り返った。へなへなと、床に座り込んだ。
 ――ほら。みんな、ちゃんとそこにいるじゃない。
「マヤ、どうした?」
 キースの声に我に返った。ぶんぶんと大きく頭を振り、走り寄ってきたパウルを抱きとめた。ちらりとエルを見ると、頬がほのかの上気している。
 ……大丈夫。みんな、ちゃんと、そこにいる! パパも、ママも、パウルも。わたしと一緒にいる!
 そう自分に言い聞かせた。そうでもしないと、わけのわからない不安に押しつぶされそうだった。

出所のわからない不安は、マヤに影のようについて回った。そのたびに居間を覗いては、エルが揺り椅子で穏やかに座っている姿を確認し、キースの後を追うパウルを探した。いつしか、得も言われぬ不安を追い払う毎日になっていた。
 エルは、今日も窓辺の揺り椅子に座って、静かに空を見上げている。床にはパウルがおもちゃを手に、一人で遊んでいる。キースは外に出ているのか、見当たらない。居間の入り口で二人を見ているマヤに気付かず、パウルはおぼつかない足取りでエルに歩み寄る。気分がよいのか、にっこりとほほ笑んでパウルの顔にやさしく手を寄せるエル。
 ――このまま、時間が止まってほしい。
 この家族を失ってしまうのではないかという思いが、マヤをさいなむ。一番心配なのは、エルだ。どんどん弱々しくなっていくエルは、もう長くはないのじゃないか。そう考えて、いそいで否定してみるが、いつかやってくるであろう、その時が、こわい。
 天気のいい日は、家族で浜辺に出かけることが多くなった。エルが行きたいという。キースはしぶしぶだったが、マヤが背中を押した。家の中で静かにしているエルを見るのが、つらかったからだ。
 穏やかに寄せ来る波に、はだしで浸かって大喜びするパウルの隣で、波打ち際で立ち止まったまま、エルは沖をじっと見ていた。真っ白な頬に日が当たって、バラ色に輝いている。優しい風がエルの髪をそっとなびかせ、そこだけが、神々しい一幅の絵のようだ。いつものエルではないような気が、一瞬して、マヤは不安になった。
「ママ。もうそろそろ帰ろう」
 走り寄って、エルの手を取った。見上げても、エルはじっと動かない。沖の一点を見つめている。
「パパ! パウル! 寒くなってきたから、帰るよ! 風邪ひいちゃう!」
 大声で二人を呼び、エルの手を強引に引いて連れ戻した。パウルの手を引いて戻ってくるキースを確認し、エルの手をぎゅっと握って家に向かって歩く。砂丘の向こうに、宇宙船の上部がのぞいている。いつもより、大股で歩いた。エルを引っ張るようにしてしばらく行けば、いつの間にか二人の手はじっとりと汗ばんだ。
 ――ほら。ママの手はこんな暖かい。ママは、大丈夫。
 歩みを遅くしてエルの隣に並んだ。ちらりと見上げれば、エルがにっこりとほほ笑んでいた。つないだ手を二人で揺らしながら、久しぶりにマヤは歌を歌って家まで戻った。
 海から戻ったエルは、かつての生気を取り戻したように動き回る。パウルの世話も、食事の準備も手際よく。キースは、無理をしないで、と言いながらエルをサポートするが、二人で家事をこなすのがうれしくてたまらないのが手に取るようにわかる。
 マヤは、ほっとした。いつしか、例の不安は、意識に上らないようになっていった。海に行けばエルの体調が少し良くなるような気がして、時間を見つけては家族で海辺に行く毎日が続いた。
 エルの復調は、キースとマヤを家事から少しだけ解放した。季節もめぐり、日々暖かさが増してくる。これから雨が多くなる時期で、それまでに畑を拡張しようと、キースがマヤを誘った。
 十年近く耕した畑の面積は広がり、土も肥えている。砂地が続くなかで、畑の緑だけが輝いていた。キースの耕した場所に、マヤは家の裏手に掘った井戸から水を汲み上げ、かける。その繰り返しで、あっという間に夕方が近づいた。
「マヤ、先に戻って。風が強くなってきた」
 キースに促されて、マヤは勢いよく駆け出した。手には、みずみずしい野菜が握られている。この春、初めての収穫だ。冬の間、ほとんど野菜を口にしていなかった。みんな喜ぶ。家族のうれしそうな顔を思い浮かべて、玄関のドアを開けた。
「ママ! パウル! お野菜、採れたよ」
 家の中からは、物音ひとつしない。二人とも寝ているのかな? 足音を忍ばせて居間を覗く。エルの揺り椅子は空っぽ。パウルの投げ出したおもちゃが床に転がっている。
 いやな予感がした。
 急いでキッチンに行く。いない。寝室にも。
 玄関を開ける音がした。急いで戻れば、キースだった。
「パパ!」
 ――ママじゃなかった。
 泣きそうな声で、叫んだ。
「パパ! ママとパウルが、いない!」
 キースの顔色が変わる。
「どこへ行ったんだ!?」
 言いながら、玄関から飛び出すキース。マヤも続いた。二人で一心不乱に海岸を目指した。海辺にいるという強い確信がある。エルは浜辺の散歩が好きなのだ。なのに、キースもマヤも畑仕事に精を出していて、最近は出かけていなかった。待ちきれなくて、パウルと二人で行ってみたのかも。そうよ。きっと、そう。
 マヤは自分に言い聞かせた。いやな予感が止まらない。
 風が強い。黒い雲が見る見るうちに青空を覆い隠していった。陸地から海に吹く強い風が、マヤの背中を押した。転がるように、海岸に走る。
 海は荒れている。
 波打ち際を目で追った。二人の姿は見えない。
「パパ。いないよ……」
 キースの袖をつかんだ。バタバタと風がキースのシャツを打つ。マヤの髪が風にもてあそばれて、視界を奪う。手で髪をまとめて視界が広がると、マヤの目は一点にくぎ付けになった。
 灰色の雲にどんよりと覆われた、灰色の海。その遠浅の海に腰までつかって、なおも沖に出ようとするエル。左手に、パウルの頭がかろうじて水面から覗いている。波が来るたびに、小さなパウルの頭が水中に隠れる。
「エル!」
 怒鳴るように叫んで、キースが駆け出した。そのあとを無我夢中でマヤは追った。
 海の水は冷たい。浜辺を散歩しても、エルは足を水につけることはなかった。なのに、どうして? あんなに深いところまで、どうして? パウルまで連れて!
 キースとマヤは海に飛び込んだ。水の冷たさは感じなかった。水しぶきをあげながら、波に押し戻されながら、大急ぎで二人に駆けよる。マヤは首まで水に浸かっていた。気を抜けば、流されてしまう。でも、なんとしても、ママとパウルを連れ戻さないと。その一心で前に進んだ。
 キースがエルに追いついた。パウルを抱き上げ、エルの手を引く。マヤに向かって何か叫んでいるが、波と風の音でよく聞こえない。キースがゆっくりと戻ってくる。波が来て、マヤの足が浮いた。つま先でかろうじて砂をつかみ、こらえた。でも、もう先には進めない……。
「戻りなさい!」
 と、キースの声が聞こえた。いつの間にか降り出した雨で、髪までずぶぬれになっている。沖から歩いて来るキースを見ながら、マヤは後ろ向きで戻り始めた。水面が胸より下になったころ、キースが追い付いた。
 マヤはパウルをキースから受け取り、抱き上げた。ぐったりして、冷たい。息はある。キースにもたれかかるようにして、エルは気を失っている。
「マヤ。先に帰って、パウルを温めて。家の中も暖かくして」
 うん。とうなずいてマヤは家路を急いだ。海から上がると、ずっしりと体が重い。それでも、冷たく震えるパウルを抱えて、家まで走った。雨がたたきつけるように降ってきて、足元が悪い。視界もきかない。パウルを温めないと。その一心で、ただただ走った。
 キースがエルを連れて戻ったのは、パウルをベッドに寝かせて、しばらくしてからだった。二人ともびしょ濡れで、唇が真っ青だ。キースの腕から降ろされたエルは動かない。大急ぎで着替えてベッドに寝かせた。キースが酸素吸入を開始した。
「ママは、大丈夫?」
 のぞき込みながら聞くマヤを、キースはそっと抱き寄せて、大丈夫、と答えた。いつも暖かく大きなキースの手が、冷たく震えている。酸素マスクをしたエルの胸が、小さく上下していた。不安が足元から這い上がってくる。家の中は暖かいのに、マヤも震えが止まらなかった。
 一晩、昏々と眠って、翌朝、エルはうっすらと目を開けた。
 だが、パウルは目覚めない。
 柔らかかった頬が、次第に固くなった。小さく上下する胸の動きも、かすかになった。少しずつ快方に向かうように見えるエルとは対照的に、パウルの意識は一向に戻らず、やがて、身体全体が茶色く、殻のように固まった。
 不安で見上げるマヤに、キースが言った。パウルの身体の中では、命が戦っている。なんとか生きようと。――だから、パパはパウルの力を信じて、戦うための薬を作った。
 そうして、パウルの腕にキースが注射針を刺した。
 怖くなってキースにすがるマヤの頭に、暖かい大きな手が載った。
「あとは、パパが診るよ」
 マヤはパウルの部屋に入ってはいけない。そう言われて、マヤは悲しかった。――パウルが戦いに負けてしまったら、どうしよう。
 大丈夫、といって安心させてもらいたいエルも、状況は思わしくない。肺の機能が落ちている。あの日以来、酸素マスクを外せない。このまま、ママも……。弱気な心がマヤを苛む。それでも、気丈に頭を上げた。
 ――二人とも、大丈夫。パパが、絶対何とかしてくれる。
 だが、何日たっても、マヤはパウルに会わせてもらえなかった。キースは、時折エルの様子を見に来て、すぐパウルの部屋に戻る。マヤが家事の一切を請け負った。エルにはマヤが、パウルにはキースが、つきっきりの生活。
 静かすぎた。パウルの、転がるような笑い声が、恋しかった。
 せめて、ひとめでいい。パウルの顔が見たい。一人で戦っている小さなパウル。手を握って、がんばって、と言ってあげたい。
 マヤの、我慢の限界だった。
 疲れたキースが居間で転寝をしている隙に、マヤはパウルの部屋に向かった。そっと、ドアを開け、……その瞬間、驚きと恐怖に、マヤの足はすくんだ。
 ――パウルが横たわるはずの、小さなベッド。そこには、白い綿で作られたような紡錘形の何かがあった。それは、ライブラリで見た、そう、確か『繭』とそっくり……。パウルが入れるような大きさの、『繭』。
 声もなく、マヤの震える腕が、そっとドアを閉めた。そのまま、一歩二歩とドアから離れるマヤの肩を、大きな手がつかんだ。はっと振り返れば、悲壮な表情でキースがマヤを見つめていた。
「……来たら、ダメだって言ったのに」
 穏やかな声で、キースはマヤに諭すように言う。
「パパ。……あれは、何? パウルは、どこに行ったの?」
 キースがそっと目をそらす。追いかけるように、マヤが叫んだ。
「パウルは、戦ってるんじゃなかったの!?」
「ああ、戦ってるさ。パウルは、ちゃんと、自分で戦っている。……あの、繭の中で」
 ――繭! やっぱりそうなんだ!
「どうして、繭の中なの? みんな、戦う時は、繭に入るの? ママも、いつか、繭に入って、戦うの!?」
 マヤの疑問は止まらない。わからないことだらけ。その答えを知っているのはキースだけ。なのに、口を開こうとしない。いつの間にか、キースの胸を両手で激しくたたきながら、マヤは泣き叫んでいた。
 パウルに、エルに、――家族に、これから何が起こるの? わたしたちは、これからどうなってしまうの!?
 心の奥底に渦巻く黒い霧のような不安が、マヤの全身を取り巻いていた。
 やがて、叫び疲れたマヤをキースの穏やかな腕が抱き寄せた。
「ちゃんと、話そう。マヤは大きくなった。もう、話してもわかるだろうから」
 キースの大きな背中越しに、窓が見える。その向こうには、漆黒の夜が広がっていた。

パウルが繭から出てくることはなかった。
 薄茶色に変色した繭をそっと抱いたキースの後ろから、マヤはとぼとぼとついていく。小さかったパウルのための、二人だけのお葬式。マヤがキースと一緒に掘った穴に、繭はすっぽりと納まった。
 家の後ろの、海を望む砂丘の上。ぽつんとたたずむ小さな墓標。手向ける花もない。せめて、毎日、話に来よう、とキースが静かに言った。

パウルがいなくなり、その喪失感を抱えたまま、マヤはエルを献身的に看病した。酸素マスクをしたまま、寝ていることが多くなったエル。次第に、酸素吸入も効果が薄くなり、苦しそうにあえぐことが増えた。それでも、エルはマヤが隣に座ると、時折、優しく髪をなでた。その腕も、力なくベッドに落ち、気がつけばエルは眠りについている。エルのほっそりした手を、マヤの小さい手がぎゅっと握る。この手を放したくない。パウルと同じように失いたくない。
 キースの宇宙船にこもっている時間が、増えた。エルの部屋から宇宙船に向かうキースの背中を目で追い、マヤは心の中で懇願する。
 ――せめて、ママが苦しまないように、楽になるように、お願い。パパ!
 もうできることはない、とキースは言った。エルの身体は、もう手の施しようがない。それでも、キースはマヤに一つの可能性を提示した。ここで一緒に暮らせなくなっても、少しでもエルに長く生きてもらいたいなら、たった一つだけ、方法がある、と……。

その朝は、この季節には珍しい、穏やかな晴天の日で、波が優しく海岸線を撫でていた。
 両手をマヤとキースに預け、ゆっくりとエルは波打ち際まで歩いた。つなぐ手が、どんどん冷たくなる。波打ち際で、マヤはエルの手を放した。握りしめていた白い指先からふっと力が抜けて、滑り落ちるように消えるエルの感触。集中させていた全神経がむなしく空をつかみ、触れていたエルとの接点がなくなったと、マヤに伝えた。
 キースがエルの肩を抱く。蝋人形のように表情を失ったエルに、優しく頬ずりをして。
 がくり、とエルの膝が崩れた。
 ママ!
 叫ぶマヤの声は届いているはずなのに、何も反応がない。いつもなら、にっこりとほほ笑むエルが、無表情に海を見つめる。
 キースが手を添えて、エルを波打ち際に横たわらせた。
 エルの身体をそっと撫でで、キースは立ち上がる。キースに促され、マヤは数歩下がった。
 砂浜に頬をつけたまま、ぼんやりとしたエルの目が、二人をじっと見ていた。それは、マヤが知っている優しい母の目ではなく、意思疎通を拒む別の生き物の目。長いまつ毛が微動だにせず、瞳はやがてあらぬ方向を向いた。
 エルの緩やかにウェーブを描く髪を、潮風が優しくなでる。それも、いつの間にか、動きが止まった。エルの包容力のあるふくよかな上半身は、次第に色を失っていく。
 何が起きるのか、マヤにはわかっている。キースが何をしたのかも。だけど、こうやって目の当たりにするまで、信じられなかった。
 この無人の惑星にたどり着いて十年。物心ついた時から、エルは、キースとマヤと、穏やかに笑っていた。この海岸を、幾度となく歩いた。生命のいない海岸には、貝殻も何も落ちてはいなかったけれど。
 こうやってエルの身体が元に戻るさまを実際に目にすると、不思議なことに、悲しみの感情は湧き上がってこない。ただただ、目の前で繰り広げられる不思議な現象に目を凝らすだけ。
 キースが、マヤの肩に手をまわした。大きくてごつごつした、温かな手。ヒトでないものを妻にし、家族を守り、また、妻であったものの変態を、自ら手掛けた手。マヤはキースの手を握った。キースの目は、次第に形を変えつつあるエルをとらえて離さない。その目に、マヤは深い愛情を感じた。
 気づけば、エルの頭部は細かいうろこに覆われて、首まで切り込んだ大きな口と、瞼のない丸い目ができていた。胸の前に力なく置かれた腕は、いつの間にか灰色の身体の一部となっていた。
 エルの変態が、静かに進む。
「ママ」
 そっと、呼んだ。
「……死なないよね」
 自分に言い聞かせるように、マヤはつぶやいた。そう。死ぬわけではない。
 ――ママは、これから、この海で、この星のお母さんになる。
 マヤとパウルだけの母ではなく、棲む者のいないこの海で、これから生まれ来る無数の命の源に。エルは、この星の生命をはぐくむ、母になるのだ。
 だから、寂しくない。
 マヤの想いは祈りにも似て、心の中に打ち寄せては、波のように返る。
 ――ママは、これからも生き続ける。

砂岩の向こうに海を眺める窓辺に、かつてはエルが使っていた揺り椅子に座って、キースがぼんやりと外を見ていた。髪には白いものが混じり、しわが深く刻まれた顔には、四人で暮らしていた頃のはつらつとした面影はない。
 パウルとエルを失ってから後も、気丈にマヤとの二人の生活を支えてきたキースだったが、ある日を境に張りつめた糸が切れるように気力を失い、口数も少なくなった。窓から遠い目で海を眺め、日の当たるベランダでマヤと静かに日向ぼっこをすることが多くなった。
 裏の畑では、収穫されつくした作物の枯れた茎だけが風に吹かれている。冬が、近い。
 二人には大きすぎるダイニングテーブルの片隅に、家族の写真が飾られている。マヤがキースの書斎で見つけた、たった一枚の家族写真。隠すように本棚の奥におかれていたものが、今では堂々とテーブルの上にある。時折、キースが愛おしそうに手に取り、涙を浮かべることも多くなった。
 あの時感じた言いようのない不安を、今のマヤなら的確に言い当てられる。
 幸せに微笑む写真の中の家族。エルに、パウルに、マヤ。そして、キース。いつ撮影したのかも思い出せないこの家族写真の中で、キースだけが、若かった。
 ――否。
 エル、パウル、マヤの三人が写真の姿になるまで、時間がかかった。その間に、キースは年を重ねていたのだ。
 この惑星に不時着し、家族を失いながらも何とか生き残ったキースは、宇宙船に搭載してあった生物の卵を遺伝子操作し、家族を作った。なにも棲まないこの惑星に、一人は寂しすぎて。
 魚卵からエルを、昆虫の卵からパウルを。
 表面上は成功に思えても、度重なるストレスには耐えられない。遺伝子操作された身体は、大きな負荷がかかれば、簡単に元の性質を取り戻そうとする。それを、キースは何とかねじ伏せていた。それにも、限界があった。
 生物の種としての強さ、遺伝子操作の限界を目の前にして、キースは無力感におそわれたのだろうか。それは、わからない。ただ、この小さな家に、かつての暖かい笑い声はない。キースに寄り添うのは、マヤ、ただ一人となった。
 キースが窓辺で揺り椅子を揺らす。
 エルがくつろぎ、マヤとパウルが周りではしゃいでいた、思い出がたくさん詰まった揺り椅子。今は、キースの大きな身体が、ただ一人で、揺れている。ゆらゆらと揺れるたび、ギー、ギーっと床が鳴き、しんとしていた家の中に響いた。
 マヤは寂しげなキースを見かねて、そっと近づいていく。足音もたてずに。キースの隣まで来て、そっと見あげた。キースがちらりとマヤを見て、微笑んだ。
「マヤ。おいで」
 そして、そっと手を広げた。マヤは一度ゆっくりと身体を落とし、ひらりとキースの膝に乗った。大きな手が、優しくマヤを撫でる。頭のてっぺんからしっぽの先まで、ゆっくりと。
 マヤは小さく喉を鳴らした。

 

 

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