トランスフォーメーション

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梗 概

トランスフォーメーション

その日は、珍しく穏やかな晴天の日で、波が優しく海岸線を撫でていた。
両手をマヤとパウルに預け、ゆっくりとエルは波打ち際まで歩いた。つなぐ手が、どんどん冷たくなって、二人は顔を見合わせた。波打ち際で二人の手を放し、キースが代わりにエルの肩を抱く。蝋人形のように表情を失ったエルに、優しく頬ずりをして。
がくり、とエルの膝が崩れた。ママ! と叫んで縋り付くマヤとパウルに、何も反応を返さない。いつもなら、にっこりと暖かく抱きしめてくれるエルが、無表情に海を見つめる。
キースが手を添えて、エルを波打ち際に横たわらせた。
「パパ! ママが、……ママは、どうしちゃったの!?」
パウルが叫んだ。エルの身体をそっと撫でで、キースは立ち上がる。まるで、パウルの叫びが聞こえないかのように。キースに手を引かれて、マヤとパウルは数歩下がった。
砂浜に頬をつけたまま、ぼんやりとしたエルの目が、三人をじっと見ていた。それは、マヤが知っている優しい母の目ではなく、意思疎通を拒む別の生き物の目。長いまつ毛が微動だにせず、瞳はやがてあらぬ方向を向いた。
エルの緩やかにウェーブを描く髪を、潮風が優しくなでる。それも、いつの間にか、動きが止まった。エルの包容力のあるふくよかな上半身は、次第に色を失っていく。
何が起きるのか、マヤにはわかっている。キースが何をしたのかも。だけど、こうやって目の当たりにするまで、信じられなかった。
この無人の惑星にたどり着いて十年。物心ついた時から、エルは、キースとマヤと、穏やかに笑っていた。この海岸を、幾度となく歩いた。生命のいない海岸には、貝殻も何も落ちてはいなかったけれど。
パウルは小さいから、まだ理解ができないだろう。父が、何をしたのか。今、何が起こっているのか。もう少し大きくなったら、父を責めるだろうか。でもそれは、誰も咎められない。父が子どもたちを、一人娘だったマヤを思ってしたこと。この寂しい星で生き抜くために。
――だけど。
こうやってエルの身体が元に戻るさまを実際に目にすると、不思議なことに、悲しみの感情は湧き上がってこない。ただただ、目の前で繰り広げられる不思議な現象に目を凝らすだけ。
キースが、マヤとパウルの肩に手をまわした。大きくてごつごつした、温かな手。ヒトでないものを妻にし、家族を守り、また、妻であったものの変態を、自ら手掛けた手。マヤはキースの手を握った。ちらりとキースが娘に視線を移す。その目に、マヤは深い愛情を感じた。
気づけば、エルの頭部は細かいうろこに覆われて、首まで切り込んだ大きな口と、瞼のない丸い目ができていた。胸の前に力なく置かれた腕は、いつの間にか灰色の身体の一部となっていた。
エルの変態が、静かに進む。
「ママ」
そっと、呼んだ。死んだわけではない。きっとこの声は届いている。
棲む者のいないこの海で、一人寂しくないように。毎日、来るから。
――忘れないで、ママ。

文字数:1200

内容に関するアピール

【梗概】宇宙船の事故で無人の惑星にたどり着いた一人の男と少女が、かりそめの家族を作る。パウルは、宇宙船の積み荷にあった魚類の卵を遺伝子操作し、エルを作る。マヤの母として、自分の妻として。また、たった一つの人の受精卵を使ってエルにパウルを産ませる。しかし、エルは出産の負荷に耐えられず、日に日に人としての機能を失う。苦渋の決断で、パウルはエルをもとの姿に戻すことにした。

エルが海に帰るシーンが、この作品のクライマックスです。パウルもマヤも、いずれ来る自分たちの別れを予感しながら、それでも互いを思いやる美しいシーンです(そうなっているかどうかは?ですが)。

採用した絵画は、ルネ・マグリットの「共同発明」(1934年)。

タイトルは、直接的には「変態」がテーマですけど、家族の変化、遺伝の形質転換などの意味も含めて、トランスフォーメーションとしました。今のところ、です。

文字数:382

課題提出者一覧