Plutonic? Plastic!

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梗 概

Plutonic? Plastic!

 フユコは重たいドレスに身を包みながら、川の水に足をひたす。友人の写真家である美玲の個展を象徴する写真の撮影。それが今日の仕事だった。
 足がつらないように、徐々に身を沈めていく。冬の水着撮影で寒い現場には慣れていたつもりだったが、夏が訪れたとはいえまだ冷たい水に全身を浸けるのには時間がかかった。

「力を抜いて。そうすれば絶対に浮くから」
 写真のクオリティとフユコが川に流されないために招かれた同性のダイバーが真剣な顔で繰り返す。それは泳げる人間の理屈だろう。暖かい格好しやがって。水を一切通さないドライスーツでピクトグラムみたいな体型になったダイバーの腕に背中からもたれかかる。顔が水面に出るまでとにかく鼻から息を細く、長く出し続ける。思い浮かべるのは、仕事のあとのネギラーメンのことだった。
 レンゲで掬うたびにドロリと音を立てそうな魚介とんこつのスープ。唇に残るざらつきすらも愛おしい。少しやけどをしながら啜る固めの麺は噛めば噛むほど小麦のやさしい味わいが際立ち、塩気の効いたスープとハーモニーを奏で始める。それだけでは飽きるだろうと割り込んでくるネギがしゃくしゃくと音をたてて、少し”くせ”のあるツンとした風味を滲ませる。追加で注文した魚粉のムラが一定の味を作らせない。チャーシューは口に含んだ瞬間に崩壊が始まり唐突なしょっぱさのあとに脂のやさしい甘みを残して去っていく。さて、今日はどのお店で食べようか。
 鼻から出ていく空気の抵抗がなくなり目を開く。目の周りに水が残っているのに痛みがないのはカラーコンタクトのせいだろうか。そんなことを考えながら、フユコの瞬きと呼吸は止まった。

 彼女の死因は、ネギラーメンの食べ過ぎだった。
 厳密にいうと、マイクロプラスチックを生体分解・吸収可能な新世代特有の爪や毛髪、骨のプラスチック化を起こす『失たんぱく質症ならびにカルシウム症』に起因する腎機能障害だった。
 彼女らの体内で分解・吸収されていたプラスチックは、自己治癒ができない爪や骨を生み出す。最新の理論では、たんぱく質とカルシウムを平均以上に摂取することで、たんぱく質が正しく爪や毛髪に使われる。ということになっていたが、司法解剖の結果、たんぱく質を摂りすぎたフユコの身体からは大量のリンが検出された。リンによってカルシウムの吸収が妨げられた彼女の体内ではカルシウムやたんぱく質に変わる物質として分解・吸収されたプラスチックがありとあらゆる細胞に成り代わっており、内臓や細胞もビニル化していることが判明した。
 また、彼女が好んで食べていたラーメンのルーツを辿っていくと、魚粉をエサや肥料として使用している農家にたどり着いた。生体濃縮されたプラスチックが人間をもプラスチックに変えてしまった第1例だった。新世代の人類の登場に沸いていた世界中の政治家や研究者たちは血相を変えてマイクロプラスチックの根絶に取り組み始めた。
 大量のリンがプラスチックと結びつき安定したことで難燃性が増し、荼毘に付すことすらできないフユコの遺骸はマイクロプラスチック研究の権威である教授の研究室に飾られることになった。

文字数:1295

内容に関するアピール

ジョン・エヴァレット・ミレイ、≪オフィーリア≫、1851-52年、テート・ブリテン
ウィキペディア オフィーリア(絵画)

 ネギを追加トッピングで注文したラーメンを食べていたある日、ネギラーメンってオフィーリアだ。という謎の天啓と確信を得て、これで行こうと思ったのですが、両社が全く結びつかなくて大変でした。
 偶然読み返したメモ帳のとあるページに、退屈しながら聞いていた社長講話でお腹空いた以外に唯一書いていた内容が、マイクロプラスチックを生体分解できるようになった人間の爪や骨などがプラスチックになって細胞もビニル化していくというもので、それが見事にオフィーリアとネギラーメンを結び付けてくれました。
 プラスチックを生体分解・吸収できる新世代の人類の登場に沸く世界と、除光液やマニキュアで溶ける爪、高温のお湯でチリチリに縮むウィッグのような髪質のモデル・フユコの作中の慢性疾患による苦労の多い生活と、彼女のご褒美であるネギラーメンをひたすら美味しそうに書きたいです。

文字数:432

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Plutonic? Plastic!

 50人程度が入れる中規模の会議室。扉の前で立ち止まる。立原美玲は扉の前ですう、と息を吸い込んだ。特別講師として任用されてから早半年、月に一回の特別講演についてもペースがつかめてきたところだ。さて、今日はどんな子供たちに会えるだろう。
 扉のセンサーに手をかける。扉の窓、透明な液晶に一瞬だけ美玲の入室情報が表示されて開く。扉の開いた音で学生たちのおしゃべりはやみ、一斉に注目が集まる。教壇に発表用のデバイスを置いて口を開く。
「みなさんこんにちは。特別講師の立原美玲です。今日はお集まりいただき、ありがとうございます。1時間くらいの発表を予定しています。短い時間ですが、よろしく願いしますね」
 拍手とともに、よろしくお願いします。お願いしまーす。といった声がまばらに聞こえてくる。今日の生徒たちはみな制服を着ている。多少着崩している生徒もちらほら見かけるが、品がないものはいない。そこそこの進学校だろう。退屈してきたからと言っておしゃべりしたり、遊びだしたりはしないはずだ。
 デバイスのスリープを解除する。既に開いてある発表資料を美玲の後ろの液晶に投影すると、照明が自動的に暗くなった。

「この画像、見たことがありますか?この亀はどんな状態かわかりますか?」
 70年前の写真。ボートの上で鼻にストローが刺さった亀が血を流している。世界に海洋プラスチックごみの危険を知らしめたものだ。美玲が学生時代の教科書には載っていたが、最近は載っていないらしい。生徒たちに考えてもらい、発表者と聴講者との間のやり取りによるアイスブレイクには最適だった。生徒たちは近くにいるものと顔を見合わせている。
「近くにいる人と話し合ってもいいですよ」
 美玲が発言を許可すると、どう?わかる?といった声が聞こえてきた。頭のいい生徒はすぐにこの方法にたどり着くだろう。自分たちで考えてもらうために禁止しなくてはならない。
「ちなみに、学習用端末での画像検索は禁止です。あと1分、自分たちだけで考えて、話し合ってみてください」
 困惑する声とともに、話し合いを建設的に進めようとする声も聞こえる。しかし、考える気がないグループだろうか、雑談を始めているところもあった。特別講師は生徒たちの担任への報告義務はない。多少のなつかしさを感じながら、1分が経つのを待った。
「そこまで。答えが出たところはありますか?」
 グループを分けているわけでも、それを美玲が把握しているわけでもない。そのまま流れに任せてみると、生徒たちの側から声が上がってきた。
「亀が何かを鼻から摂取している」「ストローを食べてるんじゃない?うちらみたいに分解できるのがいてもおかしくないっしょ」「人工呼吸器の代わりの応急処置」「この写真古くない?」「ていうか、場所どこ?」「あ。ヒント全くなかったよね。ずるい」「特別講義だからふざけちゃだめだよね」「オオギリってこと?ここザブトン無さそうだよ」
 やはり、教科書にでも載っていないと歴史というか、出来事というのはうまく伝わらないものだ。美玲は気を引き締める。私がきちんと伝えなくては。
「ありがとう。途中で回答が面白くなってきたけど、正解を発表します」
 生徒たちの視線が自分に集中する。そう、よく聞いて。繰り返さないで。
「この写真は70年前の物です。亀の鼻にはストローが刺さっています。人工呼吸や何かの補助のためではありません。凶器として、プラスチックのストローが刺さっているのです」
 生徒たちは口々にうわあ……とかひどいとか、顔を捻じ曲げたりとそれぞれに引き気味のリアクションを取っている。
「しかし、この写真の撮影者や映っているダイバーが刺したのではありません。70年たった現在でも正確な事実は判明していませんが、おそらく、普段通りの生活をしている亀がストローが食べられない物であることを知らず誤って口にし、吐き出そうとしたところ、失敗して鼻に刺さるような状態になってしまったのであろう。と言われています」
 生徒たちの表情が憐れみを含んだものに変わってきた。美玲はスライドを亀から年表に切り替える。

「70年前のこの写真によって、あらためてプラスチックのごみが環境に良くない物であると世間は認識しました。そこから20年かけて生産されるすべてのプラスチックを生分解性プラスチックに切り替えを行いました。それから10年。体内に誤って摂取してしまったプラスチックを腸内細菌で分解できる新世代と呼ばれる人々が登場しました。いまだと大体40歳前後、またそれよりも若い世代。私たちもそれに該当します」
 先生いくつー?というヤジが飛んできたが、その生徒ににこりと微笑みかけて無視した。
「しかし、年長者の方たちはどうでしょうか。自分たちはその恩恵にあずかれないのです。新世代に沸きながらも、必死に海洋だけでなく、地上のプラスチックの回収をすすめ、いま現在は空気、海洋、土壌に存在する微細なプラスチックごみとなりました。回収したプラスチックはどうなったか、わかりますか?」
 さきほど年齢を聞いてきた生徒を手のひらで示す。こんなことで意趣返しをするなんて大人げない。しかし、美玲も難しい年齢になってきた。
「なんか……分厚いガラスのなかに溶かして入れて、火山の近くに埋める……?」
 戸惑いながらも出てきた回答は腐っても進学校の生徒のものだった。
「はい。その通りです。プラスチックは石油という資源から作られていました。プランクトンの死骸と地熱の働きでできたものです。ですから、火山の近くに埋めれば地熱で溶けて、再び石油の形をとるだろうといわれています。正直いってその理論、意味不明なんですけども、なぜかメジャーになって20年くらいずっとこの廃棄方法がとられています」
 講師が堂々と意味不明と宣言したことがよほど面白かったのか、生徒たちの方からくすくすと笑い声が聞こえてくる。実をいうと、これは彼らと同じくらいの年頃に教諭が言っていたことの受け売りなのだった。もちろん、当時の美玲も笑った。箸が転げてもおかしい。箸なんて教科書で見たことしかないけれども、なんでも楽しい、その感覚が美玲には懐かしく、愛おしかった。
「これね、実をいうと私の担任の先生の受け売りなの。私たちがみんなよりも少し年下くらいの時にこの廃棄方法が採用されて、教科書にも載ったばかりの説明に意味が分からん!ってブチぎれたの。先生は地質とかが専門だったから、もう授業中なのもお構いなし。1時限まるまる意味わからない!石油のでき方はこうだー、プラスチックのソセイガー、地熱からのユウカイプロセスガー……だけど、おかげでこの部分だけみんなテストで満点。カンニングとか答案流出疑惑が出て先生、校長から呼び出し食らったのよ」
 楽しかった思い出に思わず笑顔になる。生徒たちも身近な教諭を思い浮かべたのだろう。うわーやだーと口にしながら、隣の生徒と笑いあっている。
「でね。生徒に聞き取り調査をしたら、先生が1時限まるまる棒に振って文句言ってたのがばれて、それでまた呼び出し」
 ひととおり彼らと打ち解けた気がする。楽しい話題から去るのはきついが、ここから真面目な話をしていかなくてはならない。美玲は手をたたいて再度注目を自分に集める。あらかた近年のプラスチックに対する事情の説明は完了した。ここからは、いつ自分の身に起きてもおかしくない。彼らにあんな思いはしてほしくない。
「この話ならずっとしていられるんだけど、時間もあるから続きを話します」
 えーいいよーやろうよーもっと面白いの無いのー?これだけ残念がってくれたら当時の担任も校長に説教された甲斐もあるものだ。同窓会なんて久しく行っていないけれど、どこかのネットワークにポストだけしようと思った。ふただび深呼吸。美玲の顔から緩みが消える。

「ここからは、新世代特有の病気。失たんぱく質症と失カルシウム症についてお話します」
 美玲の笑顔が消え、少し深刻そうな顔になったのを察した生徒たちは黙って息をのんだ。
「小さいころからさんざん言われていると思うけど、私たちは腸内でプラスチックを分解できる分、なぜか体内のたんぱく質やカルシウムが不足しがちです。体質に合ったサプリメントが支給されたり、個々の食生活でもたんぱく質やカルシウムを含む製品を多めに摂るよう指導されます。新世代特有の症状であることが判明してからは、学生の健康診断に血液検査が追加されるようになりました。周りに症状が重い子はいますか?いなかったらそれはいいことです。私の身近な人の症例をご紹介します」
 美玲はスライドを切り替える。いまの説明で2枚分話していたことに気が付き、もう1回切り替える。スライドにはまた写真。金色の日に透けて輝く髪の束が映っている。
「失タンパク・カルシウム症は、体内で不足したタンパク質が必要な体の細胞に、プラスチックが入れ替わりに入って再生できない髪の毛や爪、骨になってしまうものです。毛根まですべてがプラスチックになるのには個人差があります。彼女の場合はかなりのペースで進行していた。ということになります」
 美玲はポケットから写真とそっくりの髪の束を取り出す。人形メーカーの知人から融通してもらったサンプルだったが、その生々しさに生徒たちは身体ごと引いている。
「これは私の本業の関係の知人からもらった偽物です。頭に植えるまえの人形の髪の毛です。玩具としては古いタイプの髪の毛なのですが、写真の髪の毛と化学的な組成に大差はありませんでした」
 えぇ!うそ!やだ!女子生徒と一部おしゃれを気にする男子生徒たちが一斉に髪の毛を確認し始めた。
「伸びるならまだプラスチック化は進んでないですよ。安心してください」
 生徒たちは不安そうにこちらを見ながらも、静かになった。私物の端末を取り出し、右手に端末、左手に人形の髪の毛を持った。
「ドライヤーのアプリを使用している人もいると思います。設定できる中で一番高い温風を髪の毛に当てます」
 右手で端末の送風ボタンを押す。温風とはいったものの、長時間手に当てるには痛いほどの風が髪の毛に当たる。髪の毛はちりぢりと短く縮み、はじめは15センチほどあったものが10センチよりも短く、太く縮れてしまった。
「この髪の毛もプラスチックでできています。熱風をあてることで縮んでしまいました。実際に彼女の髪もドライヤーで乾かそうとすると縮んでしまうため、シャンプーをするときもシャワーの温度は35度、ドライヤーも送風しかできません。夏はいいのですが、冬はドライヤーで送風したところ風邪をひいてしまったので、結局タオルドライで済ますことになってしまいました」
 一番前、こちらから見て右にいる生徒に縮れた髪の毛を渡す。風が当たっていない部分と比較したり、縮れた髪の髪質を触って確かめたりしている。衝撃的なのか、なかなかすぐに全員に回らない。美玲はスライドを切り替え、続けることにした。白魚(見たことはないが)のような白く、細長い、けれども女性らしい丸みを帯びた手指。爪先にはきれいな細工が施されている。

「次に、爪です。髪の毛と同じ原理でプラスチックになります。おしゃれでエナメルを塗ったら、はがす際に樹脂を溶かす溶剤でふき取りを行います。ここまででみなさんもう想像できたでしょう。爪も一緒に溶けたのです。この現場には私も居合わせていて、彼女はエナメルが拭いても拭いてもとれないと、言いながらずっと落としていたのですが、次第になんだか指先が沁みる、ささくれなんてないのに……気が付いたら溶剤をしみこませたコットンが真っ赤になっていました。出血はそこまでひどくなかったものの、彼女と私はあわてて病院に駆け込みました。揮発性の溶剤を使用していなくても、エナメル樹脂と近い組成の爪は溶けてしまったのです」
 ついに生徒たちから悲鳴が上がった。当時の自分たちもそうだった。
「病院でエナメルをはがしたのですが、やはり自爪でとどめる、ということはできず、彼女の爪は永遠に失われました。医療用に皮膚を守る爪のピースを移植した彼女は、割れないしネイル変更も楽になったと笑っていましたが、爪が戻らないと知った時のショックは計り知れないものだったと思います」
 割れないって?ネイルの変更簡単なの?そこに食いつくか。学生には少々高いが、手が届かない金額でもない。美玲は自らの手を私物の端末のカメラに映し、壁に投影した。
「爪がなくなるのはエナメル除去だけが原因ではありません。かくいう私も自爪はもう全滅で、原因は固いものにぶつかった衝撃でした。これが、爪がなくなるほとんどの原因だと思います。爪先だけなら削ればなんとかなるんですけど、指にまで亀裂が入ってしまったことがあって、これも血が出る結構な痛さで、思い切って全部の爪をなくしました。壁に映っているのは私の手なんですけど、表面に電気や電圧の変化に反応する物質が塗ってあって、専用のデバイスを指に当てると、表面のデザインが変えられるようになっています。立体的な装飾はできないんですけど、どんなデザインでも時間をかけずに変更ができるのは社会人にはありがたいです。値段は表面の加工に3万円、デバイスに2万円くらいだったと思います。ただ、みなさんの爪だとまだちゃんと伸びるから、伸びて切った面積に加工となると結構な維持費になっちゃいますね。きちんとフィットした付け爪を作って、表面を加工してもらえば、多少値は張りますが今からでも楽しめると思います」
 ネイルに食いついていた女子たちの顔が一気に渋くなった。最近の子はお金持ちだと聞いていたが、やはりそう簡単には手が出ない物なのだとわかって安心した。もし、やすーい!なんていって躊躇なくサロン検索なんて始められたら、美玲は動揺でこの先の話を続けられなくなるかもしれなかった。

 生徒たちの経済観念にホッとしつつ、自分の指先からスライドに切り替える。骨や細胞の入れ替わりについて、彼女の献体をもってしてもわからない。これがいまの科学力の限界だった。しかし、これ以上症例を増やすわけにはいかない。わかる範囲で美玲は警鐘を鳴らすしかないのだ。
「これまではわかりやすい髪の毛や爪に関して説明してきました。骨や細胞のプラスチック化については、現代の科学力・医療をもってしても解明されていません。私がみなさんにお伝えできるのは、食生活についてだけです。身近な食に潜むプラスチックの危険です。100年以上昔から海洋に投棄されたプラスチックは紫外線などによって劣化し、肉眼では視認できないほどに小さくなります。近年では特に、マイクロプラスチック回収のためのロボットによりプランクトンも取り込まれてしまい、エサ不足の魚たちが特にマイクロプラスチックをエサと勘違いして食べてしまうケースが増えています。小型の魚を捕食した中型の魚……大型の魚……と食物連鎖をしていくたびに、大型の魚にはどんどんプラスチックが蓄積されていきます。そして、その魚を最後に食べるのが私たち人間です」
 さすがの生徒たちも真剣な顔つきになっていた。しかし、危険なのは魚だけではない。
「マイクロプラスチックが含まれているのは、なにも魚だけではありません。水循環。海から水が蒸発する際にプラスチックが核となって一緒に上空に舞い上げられます。そして、雲となり移動し、私たちに降り注ぐこともあります。その降り注いだ雨で育った野菜はどうでしょう。土にしみこみ根から吸収され、その中にどんどん蓄積されています。魚と野菜がだめなら動物のお肉?動物の食べ物は何ですか?野菜だったり、カルシウムを摂らせる為に魚粉をエサに混ぜる農家さんもいます。そう、すべての食べ物に、水にプラスチックが含まれているのです。生前、私の友人に3食ネギラーメンを食べるという変わった女性(ひと)がいました」
 私語もなく、静まり返った会議室。美玲はスライドを切り替える。亀の写真を追いやって、代わりにほとんどの教科書に載ったのは、皮肉にも美玲がフユコを撮った写真だった。色とりどりの花が咲く川辺、白をベースに細やかな刺繍や装飾が施されたドレスに身を包んだ女性が生気なく水面に浮かんでいる。250年前の本物よりも有名になってしまった。この写真にだけは美玲はタイトルをつけることができず、世間は勝手に「フユコ」と呼んでいる。
 生徒たちはフユコだ。これ知ってる!ネギラーメン?なに?口々に私語を挟んでいる。シリアスすぎるのもこの年にはよくない。しかし、ネギラーメンなんてコミカルな死因もそうそうないだろう。

「さっきの髪の毛も、爪も、全部フユコの写真です。私、立原美玲の本業はカメラマンです。フユコとは下積み時代から一緒に頑張ってきました。いつか一緒に有名雑誌の表紙を飾ろうね。私の専属カメラマンになってね。なんていいながら、職業は違うかもしれないけれど、載る媒体は割と一緒だからライバルとして切磋琢磨していました。私の独立後はじめての個展。彼女にはそれを象徴する写真のモデルになってもらうはずでした。きっと彼女が生きていたら、2人で一緒に有名になって、世界を席捲するはずだった。今もその思いは変わっていません。けれども彼女は、ネギラーメンを食べすぎて、死んだのです」
 深刻な話をしているのにネギラーメンとはしまらない。しかし、年頃の彼らは友人の死を克明に撮影するしかなかった美玲に共感しているのか、誰も笑うものはいなかった。
「フユコとの付き合いはそれなりに長いので、何を考えているかは大体わかります。ですが、あくまで私の主観なのでそこだけは誤解しないでください」

 フユコは重たいドレスに身を包みながら、川の水に足をひたす。
 友人の写真家である美玲の個展を象徴する写真。それが今回の仕事だった。足がつらないように、徐々に身を沈めていく。冬の水着撮影で寒い現場には慣れていたつもりだったが、夏が訪れたとはいえまだ冷たい水に全身を浸けるのには時間がかかった。
「力を抜いて。そうすれば絶対に浮くから」
 写真のクオリティとフユコが川に流されないために招かれた同姓のダイバーが真剣な顔で繰り返す。それは泳げる人間の理屈だろう。暖かい格好しやがって。水を一切通さないドライスーツでピクトグラムみたいな体型になったダイバーの腕に背中からもたれかかる。顔が水面に出るまでとにかく鼻から息を細く、長く出し続ける。思い浮かべるのは、仕事のあとのネギラーメンのことだった。
 レンゲで掬うたびにドロリと音を立てそうな魚介とんこつのスープ。唇に残るざらつきすらも愛おしい。少しやけどをしながら啜る固めの麺は噛めば噛むほど小麦のやさしい味わいが際立ち、塩気の効いたスープとハーモニーを奏で始める。それだけでは飽きるだろうと割り込んでくるネギがしゃくしゃくと音をたてて、少しクセのある風味を滲ませる。追加で注文した魚粉のムラが一定の味を作らせない。チャーシューは口に含んだ瞬間に崩壊が始まり唐突なしょっぱさのあとに脂のやさしい甘みを残して去っていく。さて、今日はどのお店で食べようか。
 鼻から出ていく空気の抵抗がなくなり目を開く。目の周りに水が残っているのに痛みがないのはカラーコンタクトのせいだろうか。そんなことを考えながら、フユコの瞬きと呼吸は止まった。

 美玲はフユコの死にざまを語ってみせた。ネギラーメンのことを考えているとき、フユコは口をだらしなく開けていることが多い。モデルの悲劇的な死とセンセーショナルな報道がされたが、彼女がネギラーメンを思いながらの幸せな最期だったのを美玲だけが知っている。

「フユコの死因は、ネギラーメンの食べすぎでした。さきほどの魚、野菜、肉、すべてにプラスチックが含まれています。そして、いままで定説とされてきた規定量以上のたんぱく質とカルシウムの過剰摂取がフユコの体の細胞をすべてプラスチックにしたのです。爪や髪の毛だけじゃありませんでした。司法解剖の結果、たんぱく質を摂りすぎたフユコの身体からは大量のリンという物質が検出されました。リンは、カルシウムの吸収を阻害するそうです。そしてフユコの体内ではカルシウムやたんぱく質に変わる物質として分解・吸収されたプラスチックがありとあらゆる細胞に成り代わっており、内臓や細胞もプラスチックやビニルに変化していました」
 怖がらせるつもりはないのだが、いずれ身に起きる危険として知っておいてほしい。しかし、生徒たちは体内の見えない脅威を恐れてほとんどのものが自分の身体をさわったりして確かめている。
「フユコが死ぬ少し前、あるとき彼女に洗髪もメイク落としも手伝わなくていいといわれました。この時にはすでに、皮膚やいろいろな所、ほとんどがプラスチックになっていたのかもしれないと思ったら、何で無理やりにでも理由を確かめて病院に連れて行かなかったのだろうと、ずっと後悔しています。きっとこれからもそうだし、写真やここでお話をするたびにずっと……」
 そこから先は言葉にならなかった。涙こそ出てこないが、きっとやさしい子だろう、涙をぬぐったり鼻を啜っている生徒が何人かいるようだった。この涙が今だけのものだとしても、彼女の死にざまを伝えることで、悲しい思いをする人がすこしでも減ればいい。美玲は今日の講演の出来に満足した。

 発表用デバイスの電源を切ると、照明が付いた。美玲が会議室の入り口に手をかざす。窓に表示される液晶に、指でサインを書いて会議室の使用の完了手続きをする。
「はい。今日の講演はここまでです。いつ自分の身体がプラスチックになってしまうかはわかりません。それでも定期的な検査をきちんと受けることで、そのリスクを少しでも減らすことはできます。最後に、入口のフユコに挨拶していってください」
 笑顔で生徒たちを見送る。フユコと写真撮ってくね!と言ってくれる生徒もいた。
 この資料館に来る人たちのほとんどが入口のフユコ像がレプリカだと思っている。大量のリンがプラスチックと結びつき安定したことで難燃性が増し、フユコの遺骸は荼毘に付すことすらできなくなっていた。行き場のないフユコはマイクロプラスチック研究の権威である教授の申し出によって、彼の研究室に併設されたこの資料館に飾られることになった。しかし、どこをどう触っても作り物めいているので、これが本物の遺骸かと聞いてくるものはまずいない。変な意味で一緒に仕事をする夢がかなったが、フユコがそれを知ったらどんな顔をするだろうか。美玲は喫煙所に向かった。

文字数:9179

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