美神像の誕生

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梗 概

美神像の誕生

そうして、世界全体がメデューサの合わせ鏡の中に捕らえられた。

すべては固まり、石になろうとしていた。大地も海も、英雄も、巨人族も、人間たちも、体内の神酒ネクターの量によって生き物が石と化す速度は違えども、確実に世界は滅びに向かっていた。それは、オリュンポスの神々とて例外ではなかった。

さて、自らも大いに責任がある世界の滅びとは無関係に、アフロディーテは悩んでいた。かつての夫、ヘファイストスの呪いである。アレースとの一件以来、その両腕は、醜い男の腕に変えられていたのだ。キュプロス島に身を引き、他の神々と会うときは肩から指先までを隠すようにローブを重ねていた彼女の変容を知るものは、年若い恋人だけであった。

世界がゆっくりと石と化していく間も、季節は巡り、春である。この島もこの一年で石化が進んできた。アフロディーテの身体も固まりつつあり、一人生き永らえても仕方ないという諦念を、冬の間に募らせていた。
 しかし、季節は巡り、春である。しかし――
 主神の下で定められた、ペルセポネとの約束は今も有効であった。それはつまり、冥府王の妻も健在であることを意味する。約束では、春になれば、恋人は彼女のもとに帰ってくることになっている。けれど今年は、春もひと月が経とうというのに、彼は帰って来ないのだ。やはり、人間である彼は、先に石になってしまったのであろうか。

そのように美神が思いつめているところに、アドニスは帰って来たのだった。
「生きていたのですね」
「幸いにも、わたしには今まで多くの神酒が注がれていますから」
「そのわりには、到着が遅かったですね」
「寄るところがあったのです。貴女の昔の夫のところへ行きました。残念ながら、彼はすでに石と化しておりましたが、目当てのものを得ることができました」
 恋人が取り出したのは、一振りの剣であった。石化の影響を受けていない、鋼の剣である。
「アフロディーテ、石と化して滅びる運命は変えられないとしても、醜い男の腕のまま石となることは耐えらない。貴女はそうお考えだ。ですから、貴女の身体を傷つけることが叶う剣を手に入れて来たのです」
「おお。まこと其方はわたしの最後の恋人にふさわしい」
 そう言うと、美神は立ち上がって上半身にまとっていた衣を脱ぎ、恋人に肌を晒した。完璧に均整のとれた豊かな胸と柔らかな腹。しかしその両腕は、不釣り合いに大きく、獣毛に覆われ、左右の均整を欠き、しかも曲がっていた。
 アドニスは剣を構え、別れの言葉を告げると、恋人の、先ずは右腕を、次に左腕を切り落とした。両腕から、溢れるように血が、石化を抑える神酒が流れ落ちる。
 腰に浅くローブを巻き、左足を恋人の方へ一歩踏み出して、身体をひねった姿勢のまま、アフロディーテは石になっていた。右腕は二の腕から先がなく、左腕は肩から失われている。その顔には腕を失った痛みはなく、ただ、無言で恋人を見つめていた。

文字数:1200

内容に関するアピール

「ミロのヴィーナス」(リンク先はWikipedia)

本来ならば「ミロス島のアフロディーテ(アプロディーテー)」と呼ぶべきでしょうか。製作年は紀元前130年頃、作者はアンティオキアの彫刻家アレクサンドロスと考えられています。

美術作品として、彫刻はOKなのか、それとも絵画のみ対象でレギュレーション違反なのか、若干悩んだのですが、誰でも知っているミロのヴィーナスです。

ルーヴル美術館の美神像の前で、如何にして作られたのか、なぜ腕が無いのかを考えていたとき、彼女自らが答えを物語ってくれました。これは、その最後の場面をまるごと描写したものです。

せっかくですので、ギリシャ神話をモチーフにした様々な絵画を途中の場面で引用し、華やかな絵が並ぶような物語にしようかと目論んでいます。ただの妄想の羅列に終わるのか、SF的な筋を通せるのかはこれから考えますが、「絵的に美しいバカSF」という線を目指したいと思います。

文字数:400

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美神像の誕生

アフロディーテ、ウェヌス、ヴィーナス――

海の泡より大人の姿で生まれた女神であり、主神ゼウスの娘であり、その泡は切り落とされたウラヌスの陽物が海に投げ込まれて生じた泡であり父も母もなく生まれ、父はゼウスなれど母は正妻ヘラではなく天の娘ディオネであり、泡立つ海はオリュンポス山より見下ろせるエーゲ海ではなく遥か東方おそらくはキュプロス島の近海であり、そうして東方オリエントの大地母神こそがその正体でもあり――
 少なくとも二つ、あるいは不連続な幾つかの伝承をその出自に持つもの、それが愛と美の女神、恋多きアフロディーテの生い立ちである。
 彼女に限らず、神々とその眷族はみな、一つの事象に固定される存在ではない。いくつもの可能性を同時に併せ持ち、量子的な揺らぎの中に存在する。誰あるいは何から生まれたのか。いかなる属性を司るのか。誰を、いや、誰と誰と誰を愛し愛されたのか。愚かな人間がパンドラの箱を開けてみるまでは、そこに入っているものの名が希望か絶望か分からぬように、神々はいくつもの不連続な可能性を持つ複数の過去と未来と現在を同時に持ち合わせて、見るものの眼差しの角度しだいで色合いを変えるのだ。
 ミクロの世界、量子的な世界の存在ではなく、神という大きな存在でありながら、そのように在ることができる理由は二つあると、ある秘教的な教団を率いる男が語っている。ひとつは、無論、大地ガイアウラヌスから連綿と続く巨人族ティターンの血。いまひとつは、彼ら一族が飲み続け、彼らに愛された特権的な人間たちもまた飲んできた天上の酒、神酒ネクターゆえであると。

その神酒が体内を巡る感覚に酔いながら、しかしその日のアフロディーテは醒めて、疲れていた。青く穏やかな海を照らす春の太陽の光は、女神の棲まう別荘のテラスにも降りそそぐ。しかし陽光の強さも暖かさも、彼女の疲れを癒すことはできないでいた。
 男の手――よく知る男の手が、彼女の肌に触れる。その感触、嫌悪感が、彼女を酔いから醒ますのだ。アポロンの手のように美しくも繊細でもなく、かつての愛人アレースの手のように逞しくもない。一生の大半を鉄を鍛えることに明け暮れる手は硬く、黒く汚れ、火脹れの痕がいくつも醜く残っている。さらに腕は全体に歪で、曲がり、左右の長さも異なる。
 残念ながら、これは夫の手。鍛治の神、ヘファイストスの手なのであった。
 そもそもが、神の身としては驚くべきことに、愛しあっての夫婦ではないのだ。少なくとも彼女の側では。なぜ結ばれることになったのか、経緯もその時の感情も忘れてしまったが、醜く陰気で、火山の火口で鉄を鍛え続けるような男は、オリュンポス十二神に名を連ねていようとも、彼女の好みであろうはずがない。
 欲望に忠実で妥協できないことこそ、神々の特性である。愛の無い結婚などに縛られずに、神とも人とも愛を交わした。時にはヘラが眉を顰めることもあるが、そもそも本性が異なる。そうだ、ヘラだ。ヘファイストスとの婚礼を取り仕切ったのは。あの女なりの、オリュンポスの秩序を重んじるがゆえの判断、息子を愛するがゆえの判断だったのだろうが、理不尽この上ない。十二神といっても、対等でもなければ協調性があるわけでもない。座の三分の一をを占めるゼウスの兄弟姉妹と、アフロディーテたちとでは断絶がある。父親、母親であるという理屈で、秩序の中心を占めていることになっているが、たとえば太陽と音楽アポロン戦と智恵アテナ、そして愛と美アフロディーテ。どう考えても、自分たちのほうが大切なものを司っているではないか。
 だいたいヘラは、トロヤ戦争でも余計なことしかしない女ではないか。戦のきっかけは、三人の女神の中で誰がもっとも美しいかという他愛もない諍いだが、なぜそこにあの女がいるのか。愛と美の女神であるわたしと、オリュンポス軍の総大将ともいうべき処女神アテナ、若く美しく神々しい二人を敵に回すとは、勘違いも甚だしい。

 鏡を見ろ、クソババア

    *

ところで、夫の事などきれいさっぱり忘れるくらいに、近年のアフロディーテは実は年若い恋人に夢中だった。
 人間の、少年である。しなやかな肉体を持ち、見目麗しく、高めの声は耳に心地よい。甘え上手で、甘やかすのも上手だ。名をアドニスと言う。出生には、アフロディーテ自身が関わっていた。父を愛した娘の禁断の恋の成就を後押しし、さらには産まれた赤子を匿う手を差し伸べたのだ。日に日に成長する子供に対していつ恋心を覚えたものか、あるいは最初から(アフロディーテの誕生のように)少年の姿でいたのか。いくつかの可能性が存在し、どの経緯も実際に起こったことだ。父と娘の名もいくつかの変奏がある。波動関数の演算においてすべては確率の中に存在する。
 いずれの状態においてもアドニスがミルクの代わりに神酒を飲んで育ったことには変わりない。
 そのアドニスが、季節が春になるのに合わせて、帰ってきた。神々の定めた契約によって、春夏はアフロディーテと共に過ごし、秋冬は冥界の妃ペルセポネのもとで過ごすことになっている。冥府の大河ステュクスを遡り、大地を往き、海を渡りアフロディーテの待つ島まで航海するといった旅程を、人間が単身で旅していたら、有限の時間が削られてしまう。季節が変わったらすぐに連れてくるようにと、アフロディーテはヘルメスに命じていた。今年もその約束は守られ、春の訪れとともに、アドニスは帰ってきたのだ。

昼から神酒を酌み交わし、花々の中で二人は恋を語る。キュプロス島は彼女の支配する島だ。ここにいる限り、他の神々も巨人族の残党も二人に手出しはできない。幸せな時を幾日か過ごした頃、アドニスはようやく(彼なりに、女神に気を使っても、怖れてもいたのだ)、冥府で見たものを語ろうとした。ペルセポネと暮らす冥府での出来事を話題にするのは本来、禁忌である。女神の怒りを買うことを承知で――それは命を落とす可能性を受け入れるに等しい――アドニスは口を開いた。
「ステュクス河に死者が流れてくることは、ご存知ですよね」
 冥府を取り囲む大河の名はアフロディーテも聞いたことがある。地上で死を迎えた者たちの遺骸は、この河に流されて、冥府にたどり着くのだ。敢えて、別の女のところにいた時のことを話そうと言うのは、何か大事なことがあるのだろうと、賢明にも女神は怒りを抑えて先を促した。
「意外な男の死体が流れ着いたのです。ハデス王も驚きを隠そうとしませんでした」
「人間、誰の命も有限だろう」
 君の命も――と言外に語る。恋人以外の男には、今は興味がなかった。
「ペルセウス、英雄と呼ばれるはずだった方です。アルゴス王の娘ダナエを母に、父は――」
「どうせゼウス殿だろう、血筋の話はよい。それで、英雄の一人が死んだから何と。戦もあれば戦死する者も出るだろう」
「ただの死体ではないのです。五体バラバラの裸に、それも白亜の石となって流れ着いてきました」
「戦った相手は、人間ではないということ? どこかの化け物の返り討ちにあった」
 相手を石にするような魔物の心当たりを探る。いくつかの存在が思い浮かぶが、決め手はない。
「はい、人間と戦ったのではありません。しかも、ヘルメス様にここへの道の途上で教えていただいたのですが、戦いに赴くに当たってヘルメス様とアテナ様が武具を与え、支援されていたというのです。当然、この化け物退治に勝利し、これから英雄として名を残すことになるはずだったと、死を嘆いておられました」
「相手は――答えなさい、アドニス」
「ゴルゴン三姉妹の一人、メドゥーサとのことです。ヘルメス様は、天上と海と地上とを飛び回って伝えると」
「伝令の神の役目を果たすのは良いが、ならば、何故わたしには自分で伝えに来ぬのだ。あの若造は」
「ベルセウスの遺体を見たお前が直接話せと、わたしに託されました。すみません、お伝えするまで幾日も経ってしまい」
「よい。あの若造は、お前に嫉妬しているのさ。冥府の話を聞かされたわたしが、怒りに任せて君の命を奪うならばそれもよしとでも思ったのだろうさ」
 アドニスの手が女神に触れる。夫とは異なる心地よい感触を愉しむ。

春、そして夏が終わるまでの半年の間、二人はそのまま幸福な季節を過ごした。そして、秋になると再びヘルメスがやって来て、アドニスを地底へと連れて去っていった。アフロディーテとヘルメスは、一言も言葉を交わなかった。
 秋、そして冬となってもキュプロス島の気候は温暖だ。しかし恋人と別れた女神の心は冷えていた。かつて、生まれたばかりのアドニスを匿ってもらうために、ペルセポネを頼ったのが間違いだったのだろうか。オリュンポスの裁判では、法の番人のテミスも、疎ましいヘラも、そしてゼウスも、「可愛いからわたしもこの子が欲しい」とか言うあの女の我儘を受け入れたのだ。ペルセポネは秋冬を冥府王ハデスの妻として過ごし、春夏の豊穣の季節をトラキアに隠棲するデメテルの娘として過ごす。そして、その秋冬はアドニスが側にいる。
 うん? あの女、寂しいことないのでは? 母親と楽しく暮らすか、恋人と楽しく暮らすか。ハデス伯父はよく我慢しているな。それでいいのか、冥府王? ことの真相に気づいたら、怒りがこみ上げて来た。妥協なき女神の怒りはおさまる事はない。

 あのコムスメ、いつかブッコロス!

死と再生を繰り返す、冥府王の妃にして豊穣の女神の娘を相手に、殺すも何もないのだが。

    *
 

翼あるサンダルを履く伝令の神ヘルメスが空を駆ける速度には、他に敵うものがいない。ヘルメスに抱かれたアドニスは、瞬く間に、大きな洞窟が口を開けている冥府の入り口へ到着した。地下を流れる大河へと注ぐ流れが、その口の半分を占めている。かなりの水量が、勢いよく飲み込まれていた。
「彼女には、ペルセウスのことを伝えましたよ」
「アフロディーテは何と?」
「あなたが嫉妬しているって、僕に」
「田舎に退いたら、危機感がなくなったな。呑気に睦言を交わせるのも今のうちだ。メドゥーサがペルセウスを倒すなんて確率は誤差と言えるほど低かった。英雄一人のことでは済まないんだよ。世界が揺らぐ、と言っても分からぬか――学問を学んだ事はあるか」
「いえ、まったく」
「春になったら、ディオニュソスの教団を探すとよい。世界の真理と生き抜くための知恵と、何より神酒を飲むことができるだろう。もっとも、神酒は身体のすみずみまでいきわたっているようだな。長生きすることを祈る」

ヘルメスが語ることの意味はよく分からなかった。詳しい説明を求めたところで自分に理解できる言葉で教えてもらえるとは思わなかったし、ヘルメスの方でもそれ以上の話をするつもりはないようだ。別れの挨拶を簡単に済ませるとさっさと飛び去ってしまった。伝令の神には、まだまだ行くべきところがあるようだ。

渡し舟に乗って、漆黒の大河を下っていくと、やがて冥府の側の川岸に船が着く。渡し守に礼を言うと、アドニスはペルセポネを探した。いつもであれば、彼女はアドニスの到着を岸で待っているのにその姿がない。いつもの――はたして自分は何回ここを訪れたのだろうかと思う。一年に一度の訪問と半年間の滞在を何回繰り返しているのか。記憶は定かではなかったが、何度目であれ、彼女が岸にいなかったのは初めてだ。
 奥へ奥へと、地下宮殿を進んでいく。いつものように暗く、陰気な場所だ。当然なのだが、生気を感じられるものの気配はまったくない。生気ではない、腐臭を伴ったものの気配はあるが、冥府の番犬にも、他の連中にも用はないし関係を持ちたくない。ついにハデス王の玉座がある謁見の間の前まで、まっすぐ来てしまった。
「生きた人間が来とるな――アドニスか」
 玉座に腰掛けたハデス王ただ一人が、そこにいた。先に声を掛けられて、アドニスは玉座の前まで歩を進め膝をついた。
「毎年ご苦労なことだが、ペルセポネは来ないぞ。昨年のペルセウスの遺骸と同じだ」
「まさか、彼女が――」
「そうではない。そうではないが、時間の問題かも知れぬ。メドゥーサを止められるものが、オリュンポスにはおらぬらしい。滑稽なことだ。ここにいても仕方あるまい。地上に戻れ、入り口までは送ってやろう」
 回りくどい事を言って誤魔化すヘルメスと違い、ハデス王は直截だ。神の血を引くとはいえ人間にすぎない英雄が殺されただけではなかった。オリュンポスがどうやら危ないらしい。

       *

キュプロス島へヘルメスが戻って来たのは、アドニスを連れ去ってからひと月以上を経てからのことだった。島の主人は、とくに歓迎する態度でもなく伝令の神を出迎えた。ローブを身にまとい、両肩から指先までを隠すように布を重ねている。温暖な島といっても冬になれば冷え込むし、海も荒れる風が強い季節だ。
「アドニスを、連れ帰って来てくれた訳でもないようね」
「ハデス王のところに置いて来ました。もっとも、ペルセポネは冥府にいないので地上に戻って来ていると思いますが」
「彼は、どこにいるの」
「さて。生きていれば、いずれあなたのもとへ戻ってくるのでは」
「とぼけないで、あなたは空からすべてを見ているでしょう。教えなさい」
多島エーゲ海」
 何百の島がある海だ。正しかったとしても、あまり意味はない。
「わたしを怒らせに来ただけなら、帰りなさい」
「それでは、飛んできた意味がない。危機を伝えに来たのです。倒されたのはペルセウスだけではありません。オリュンポス山に、彼女は迫っています」
「わたしはこの島から離れるつもりはないの。そちらはそちらで、勝手にやっていなさい」
「隠棲されてから、すっかり変わりましたね。以前は華やかな姿でわたしたち皆を楽しませ、世界中に愛を振りまいていたと言うのに。島の外の世界には興味がありませんか」
「神でも人でも、変わるものよ」
「やれやれ。私が伝えたかったことは一つだけです。この島も安全ではありません」
「ここまで、あの化け物が来ると言うの?」
「実際に島まで来なくても姿を見せることはできるし、向こうから、あなたを見ることができるのです。そんな魔術をどうやら手に入れたらしい。我々神々の血の濃さや、体内の神酒ネクターの量によって石になる速さは違うようですが、何れにしても、見たら終わりです」

言いたいことだけを言って、ヘルメスは飛び去っていった。アフロディーテは、かつて愛人アレースとの逢瀬を神々の前に晒されて以来、キュプロス島に退いて静かに暮らしてきた。ここでアドニスと二人で心穏やかにいられれば、それで幸福だと今は思っている。
 ここも安全ではないという警告はありがたく聞いておこう。争いの絶えない神々の中で生き抜いてきた身である。変事、有事に慌てたりはしない。なんだって起こりうるという事は了解済みなのだが、敵を知り、備えがあるに越した事はない。さて、いかなる備えをしたものか――ヘルメスの奴、島まで来なくても姿を見せることができるとか、教えてくれたが、どういう術を使っているのか何も肝心な事は語っていないな。あの若い伝令の神は、色々とダメなところが多い。

 若造が! 伝令風情が気取ってないで、役に立つ事をちゃんとやれよ!

       *

地上へ戻るまではハデスの助けがあったものの、その先は自力で旅を続けるしかない。どこへ向かうべきか、アドニスは考えた。ペルセポネは、母デメテルのところにいるのだろう。彼女は来ないと言うハデスの断言が、彼を不安にさせる。アドニスは、彼女と過ごす半年もけして嫌いではないのだ。
 しかしながら、気にかかるのは何と言ってもアフロディーテだ。ペルセポネの事は忘れ、アドニスは最愛の人のために動くことにした。

東の海を渡りキュプロス島へ帰還する前に、彼女のために寄りたい島が多島エーゲ海にあった。北のほうにレムノス島という火山島がある。東へ向かえばトロヤの沿岸に、北上すればトラキアの大地にたどり着くようなあたりだ。モスキュロス山がときどき噴煙をあげるその島に、船を乗り継いでアドニスは上陸した。
 途中の島々で足止めを食いながらの船旅だったので、何週間も掛かってしまった。途中、どこの港も人が少なく、海も静かで、何もかもがゆっくりと静止しようとしているとアドニスは感じていた。レムノス島も例外ではない。むしろこの島からは、ほとんど誰もいなくなっていることに、ようやくアドニスは気づいた。目当ての場所に行くにはどうすれば良いのか、尋ねる相手もいない。
 それでも、モスキュロス山の頂上に向かって歩いていけば、目当ての場所を見つけることができそうだ。そう楽観的に考えるアドニスの前に、地下へ向けて穴を開けた洞穴が姿を現した。また冥界下りだね、そう言って笑いながら、目当てのものを探し求めて下っていく。探すのは、鍛治の神ヘファイストスだ。恋人の夫であり、十二神の一柱である。この火山島は彼が、鉄器や青銅器、武器から装飾品までを製作する鍛冶場なのだ。やがて、地熱でサンダル越しに足の裏が暖かくなるほどの場所にたどり着くと、そこが、彼の仕事場だった。

ヘファイストスはいた。会ったことは無いのだが、一目で、この男がそうであると直感した。胡座をかいて座り込み、捻じ曲がった背骨で俯いた姿勢のまま正面を睨み――石になっていた。白亜の、石像だ。
 自分が、一年前に冥府で見たものを思い出す。ペルセウスの遺体は五体が引き裂かれ、すべて石になってステュクス河まで流れてきた。目の前の鍛治の神も同じだ。メドゥーサを見たのだ。
 さらに、彼の体にはもう一つ異変があった。両腕がないのだ。鉄を鍛えることに明け暮れる為に硬く、黒く汚れ、火脹れの痕がいくつも醜く残っているという手。歪に曲がり、左右の長さも異なるという腕。恋人にそう教えられた腕がそこには無かった。白亜の胴体はただ背中を捻じ曲げるだけで、その肩から先が生えておらず、まるで胴体だけで手足のない、下等動物の類のようだった。
 アドニスには、それですべて合点がいった。
 壁には、彼が製作したものがたくさん捨て置かれていた。武器も多い。アドニスはその中から一振りの剣を手に取った。これなら、神の肉体でも斬ることができそうだ。
 今すぐに、アフロディーテのもとに戻らないとならない。

       *

冬の曇り空が続くなか、その日は久しぶりに晴れわたって、陽光が海を照らしていた。海も今日は穏やかだ。アフロディーテは室内から外に出て、庭を歩いていた。島の高台にある別荘からは、海が遠くまで見渡せる。春のように花々が庭を彩ることはないが、オリーブの樹々が高く伸びて、立体的な景色を生み出していた。
 その立体的な景色を、細長い矩形が切り取っていた。背丈ほどの鏡が、ふいに庭に出現したのだ。鏡が置かれたことで、その向こうにある景色のかわりに、反射して後ろの景色が映っている。アフロディーテは、後ろを振り向いた。そこにも、鏡が、置かれている。鏡の角度はアフロディーテの正面に向いてはいないので、さらに斜め後ろの光景があり、そこにも鏡がまた、置かれている。
 一回り見回していくと、気がつけば、周囲に距離も角度もまちまちに何枚もの鏡が置かれているのだった。地上だけではない。天空にも鏡が重なり、島から離れた海の上空にも浮いている。鏡と鏡の連なりによって、光が行き来しているのだろうか。鏡面の凹みによって、見慣れぬどこか遠くの景色が拡大されて、よく見える。そんな景色が見える角度を探して、アフロディーテは庭を歩き回った。見る鏡を変えればもちろんのこと、角度を少し変えてみれば、映るものが変わってしまう。自分自身で気づかぬうちに、夢中で歩き回っていた。鏡の向こうの景色を探していると、ふいに、鏡と鏡の反射の連なりの果てで、向こうに誰かの後ろ姿が一瞬、見えた。
 メドゥーサだ。アフロディーテは直観した。蛇の髪の女。目をそらして角度を変えれば、すぐに消えてしまう。
 そのまま見ないようにしなければならない。頭ではそのように言い聞かせるが、目が彼女の姿を求めていた。一目見たら忘れられない印象的な女。アフロディーテの視神経は、一瞬捉えたメドゥーサの姿に乗っ取られたかのようだった。
 夢中になって、庭をくるくると歩き続ける。時々、彼女の姿をかすかに捉える。太陽が真南に、そして西へと動いていく。雲が出てきた。いつまでも、彼女を探した。もう歩いてはいられない、駆けまわった。光が乱反射する中をくるくると駆けまわった。
 ついに、振り向いた彼女と目が合ってしまう。メドゥーサの顔は正面からアフロディーテを見ていた。どのくらいの空間を隔てているのか想像できないが、二人はお互いに、見て、見られた。顔を背ける、他の鏡を見る。しかし、すでに彼女は無数の鏡の連なりに囲まれていた。どちらを向いても、正面からメドゥーサの顔がそこにある。強い光を放つ目が見つめている。
 どこか遠くからの反射で映る女の顔が目の前にあっても、声は聞こえない。しかし、唇の動きをアフロディーテは読んだ。
「わたしを見なさい。そしてゆっくりと石になりなさい。
神酒を浴びるように飲み、ウラノスの血をまっすぐに引くお前は、わたしを見ても。すぐに量子的な存在から一つに固定されたりは、きっとしないだろう。ゆっくりと、石になりなさい。その腕と共に」

       *

そうして、世界全体がメドゥーサの合わせ鏡の中に捕らえられた。

       *

すべては固まり、石になろうとしていた。大地も海も、英雄も、巨人族も、人間たちも、体内の神酒ネクターの量によって生き物が石と化す速度は違えども、確実に世界は滅びに向かっていた。それは、オリュンポスの神々とて例外ではなかった。

 さて、自らも実のところ責任がある世界の滅びとは無関係に、アフロディーテは悩んでいたのだ。かつての夫、ヘファイストスの呪いである。その両腕は、醜い男の腕、ヘファイストスの腕に変えられていたのだ。キュプロス島に身を引き、ヘルメスの訪問のように他の神々と会うときは、肩から指先までを隠すように衣を重ねていた彼女の変容を知るものは、年若い恋人だけであった。

 世界がゆっくりと石と化していく間も、季節は巡り、春である。この島もこの半年で石化が進んできた。アフロディーテの身体も固まりつつあり、一人生き永らえても仕方ないという諦念を、冬の間に募らせていた。
 しかし、季節は巡り、春である。しかし――
 主神の下で定められた約束では、春になれば、恋人は彼女のもとに帰ってくることになっている。しかもヘルメスの言葉を信じれば、冥府ではなくエーゲ海のどこかにいるらしい。それなのに、春もひと月が経とうというのに、彼は帰って来ないのだ。やはり、人間である彼は、先に石になってしまったのであろうか。

そのように美神が思いつめているところに、アドニスは帰って来たのだった。
「生きていたのですね」
「幸いにも、わたしには今まで多くの神酒が注がれていますから」
「そのわりには、帰還が遅かったですね」
「寄るところがあったのです。あなたの、夫のところへ行きました。残念ながら、彼はすでに石と化していたけれど、目当てのものを得ることができました」
 恋人が取り出したのは、一振りの剣であった。石化の影響を受けていない、ヘファイストスが鍛えた剣である。
「アフロディーテ、あなたにとっては醜い男ヘファイストスの腕のままでいることこそ、大問題ですよね。世界と共に石と化して滅びる運命は変えられないとしても、そんな腕のまま石となることは耐えらない。貴女はそうお考えだ。ですから、貴女の身体を傷つけることが叶う剣を手に入れて来たのです」
「おお。まこと其方はわたしの最後の恋人にふさわしい」
 そう言うと、美神は立ち上がって上半身にまとっていた衣を脱ぎ、恋人に肌を晒した。完璧に均整のとれた豊かな胸と柔らかな腹。しかしその両腕は、不釣り合いに大きく、黒く汚れ、左右の均整を欠き、しかも曲がっていた。火膨れの痕がいくつも残っていた。
 アドニスは剣を構え、別れの言葉を告げると、恋人の、先ずは右腕を、次に左腕を切り落とした。両腕から、溢れるように血が、石化を抑える神酒が流れ落ちる。
 腰に浅くローブを巻き、左足を恋人の方へ一歩踏み出して、身体をひねった姿勢のまま。
 瞬く間にアフロディーテは石になっていった。右腕は二の腕から先がなく、左腕は肩から失われている。その顔には腕を失った痛みはなく、ただ、無言で恋人を見つめていた。

文字数:10004

課題提出者一覧