東京ゲルニカ

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梗 概

東京ゲルニカ

火災報知器がずっと鳴っている。
左足のニューバランスの中に何かが入ったが取り出す暇はない。ジリリリというベルの合間に、たしかに赤ん坊の声が聞こえる。カオリがぼくの手を引く。コルビジェが作ったピロティ構造の建物は急速にその形を崩していった。連絡通路を走るぼくらふたりは振り返らなかった。轟音と煙が迫る。連絡通路が大きく揺れて新館のガラス戸を粉々にする。エントランスホールから見た戦車の列が意味していたものがやっとわかった。砲撃は続いている。新館の白くて高い天井が、砲撃のたびに振動してなにかを床に落とす。円形の照明が割れて落ちてくる。壁にかかっていた巨大な額縁が音をたてて倒れた。ここも危ない、とぼくは言った。でも赤ん坊の泣き声がするんだもん、とカオリはぼくに言う。それに外に出たってどうしようもないでしょ?戦車に轢かれたひとたちや、パンフレットと一緒に燃やされているお年寄りの死体を見た?ブクロのサイゼリアで撃たれて死んでた文学部のヨシダくんは?大学のモリス館で死んだゼミのみんなは?砲撃はやまない。カオリの唇が震えている。吹き抜けを落下する無数の火花。白い埃が床から浮き上がる。すべてがこの3時間で失われた。ゼミやサークルや学生食堂やエナジードリンクや、YouTubeやFREEWiFiやグループLINEや、埼京線や東口のパルコやラーメン大や、深夜番組やインスタグラムや、その他大学生であるぼくらを構成するすべてが、いかにどうしようもないものだったのかをぼくらは思い知る。たしかなものなどなにひとつない。池袋駅であった警官はクーデターだと言って、ヨシダはテロだと言って、本郷で会った自衛官は今日のための「メッセージ」があらゆる美術品や建築物に含まれていたと言っていたが、もうこの事態の原因なんてどうでもよかった。なにかひとつだけ、たしかなものがほしかった。どうせ死ぬなら、それを抱いて死にたい。そのとき、吹き抜けの下を見たぼくはそのときそれを見つけた。カオリの手を引いてらせん状の通路を下る。スプリンクラーの水が溜まって巨大な池のようになった1階には、背を向けて倒れた人々が折り重なっている。血で汚れた作品解説板、ジージーと不快なノイズを立てる音声ガイドの機械の中にそれはいた。紺のベビーカーの中に小さな両手を握り、ぎごちなく動く命。ほんとうにいた、とぼくは言った。カオリは赤ん坊を抱き上げる。砲撃はやまない。ぼくは正面の壁を見つめ、そしてそこに巨大な、ほんとうに巨大な絵画が、火花と煙の中に悠然と掲げられているのを目にした。灰色の人々の絶叫。赤ん坊や家畜の死。80年以上前の破壊。圧縮されたその普遍性を前に、ぼくは自分が求めていたものの不吉な答えを知ってしまった。

「赤ちゃん、ほんとうは殺そうと思ってたの」
そう言ってカオリは笑った。

東京にゲルニカがやってきた。たったひとつの、たしかなものとともに。

文字数:1200

内容に関するアピール

『ゲルニカ』パブロ・ピカソ (1937年)

東京をきちんと破壊したい、と思いゲルニカを選びました。
池袋にある私立大学でのスクール・シューティングを始点に、無差別攻撃が始まった都内、そして戦車による砲撃が行われる、「ゲルニカ来日」が謳われたパブロ・ピカソ特別展が開かれている上野の国立西洋美術館までの、大学生たちの逃避劇です。主人公の目線で、今進行する破壊そのものを描写してみたいと思っています。

戦争が天災などと異なるのは、急速に、今まで当然のようにあった価値観が反転することだと考えています。
何もわからない中で進む、物理的なもの以外の「破壊」の恐怖も表現してみたいと考えています。

 

文字数:288

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東京ゲルニカ

チャイムが鳴ってしまった。第9号館大講堂では、教授がマイクロソフト・パワーポイントをシャットダウンするより前に学生たちがいっせいに立ち上がって、大講堂の階段を降りていく鋭い足音や、開放された折り畳み式の椅子が跳ねあがって後ろの机にぶつかるバタバタという音や、誰かが床に置かれたモンスター・エナジーの空き缶を蹴とばしてカラカラと転がっていく音がし始め、ノートを持った何人かの留学生が演壇にいる教授に駆け寄っていく。ぼくは大講堂の中ほどの席で、そういったあわただしい景色を見下ろしながら、「刑事訴訟法I」の教科書をカバンにしまって、通路を通り過ぎていく学生たちの間に入るタイミングを測っていた。そうしている間にも、ぼくのXperiaはLINEの通知音を何度も何度もがなり立ていた。そのとき、同じサークルのタカヤマがiPhoneを睨みながら階段を降りてくるのが見えたので、ぼくは彼に手で合図してその前に割り込んだ。

「昼休み、どうする?サークル」

ぼくはタカヤマの方を少しだけ振り返りながらそう聞いた。おまえにも部長からLINE来てるだろ、昼休みのミーティングの、ぼくはそう言って自分のXperiaを手にしたまま列を前へと進んだ。昨夜の22時ごろから、ぼくが所属する文芸部のグループLINEは騒々しくなった。部長のコシガヤが緊急にミーティングをしたいと言い出し、副部長のマエダが出欠をとりはじめた。見る見るうちにポストが増えていく画面を見つめながら、ぼくはなにか不穏なものを感じていた。流しっぱなしのテレビではスペインのバルセロナだかマドリードだかで起きたテロが内戦になりそうで、ユーロの取引が停止されたとか、そういう深刻な話をしていた。でもそんなことはどうでもよくて、ぼくは別のLINEトークで、文芸部員のミシマカオリと上野で開かれているピカソ展について話をしていた。午後の授業をさぼって見に行こうか、という流れになって、だったらタカヤマくんやヨシダくんも誘えば?というカオリに、誘っておくね!とだけ返事をして、そのままバーグハンバーグバーグのYoutubeチャンネルを眺めながら寝落ちした。ぼくはヨシダが午後のスペイン語の授業をこれ以上休めないことと、タカヤマがゼミの教授に気に入られているせいで、同じようにきょうの午後のゼミをサボれないことを知っていた。薄暗い講堂を出て、自動販売機が並ぶロビーへと出たそのとき、タカヤマはぼくのほうを見ることなくつぶやいた。

「セックスだよ」

は?ぼくは思わず足を止めてタカヤマを振り返る。追い抜きざまにタカヤマの発言を聞いてしまったのか、信じられない、というかんじで、全身ローリーズファームみたいな女子がぼくたちを睨んだまま通り過ぎる。

「コヤマとユイが、部室でヤったんだって。それで部長がキレてる。あとおれはいかない。ゼミの集まりがあるから」

そう言うとタカヤマは眼鏡を少し手で押さえながら、近くにあったベンチに腰かける。経済学部のコヤマリョウヘイとその彼女のユイトモミが、小説なんか1文字も書かないくせに部室でヤっていたという事実と、タカヤマがそんなことをとっくに承知しているということと、そしてゼミの集まりに行くと言いつつもiPhoneを見つめたままベンチの上で動かないタカヤマ。ぼくはタカヤマの前に立つ。なに見てんだよ、それ、とぼくが言うと、タカヤマはやっとスマホから目を離した。

「京大でテロが起きてるって」

60年代モダニズム建築の9号館からは、ひっきりなしに学生たちが吐き出され続ける。

8畳ほどのスペースに十数人の部員が集まっている。人間が密集したときのよどんだ空気に、弁当やパンやコーヒーのにおいが混ざり合って化学反応を起こしていた。いつも熱心に活動している(つまり部誌の発行に尽力している)2年や3年のメンバーもいた。パイプ椅子に座っている者もいれば立っている者もいる。病院の待合室にあるようなかび臭いソファーに座っている部長のコシガヤが、ツータックのズボンの裾から白い靴下を覗かせたまま貧乏ゆすりをしている。よく座れるな、とぼくは隣に立つヨシダに耳打ちする。どう考えても例の現場はあのソファーとしか考えられない。ヨシダは苦笑いしながら、おれは新入生まで集めてる方が信じられないね、と言ってサブウェイのサンドイッチをかじっている。ぼくはXperiaの画面がヨシダに見えないよう注意しながらカオリにLINEをする。ヨシダもタカヤマも来れないって!残念・・・とぼくは送信する。おまえ飯どうすんの?とヨシダがぼくに尋ねたその時、LINEが着信の画面に変わった。ぼくは廊下に出ようとしたが、神妙な顔をした副部長が入口のドアにもたれかかっているので、ぼくは画面をスワイプして通話に出た。相手はカオリだった。ねえ、じゃあやっぱり、また今度にしない?とカオリはスマホ越しに言った。え?あ、そう?きょうはやめとく?とぼくは平静を装う。カオリは明らかに困惑している。部長の貧乏ゆすりは激しくなっている。ヨシダがサンドイッチの紙袋を丸めながら、マジか、こんどは阪大で銃乱射だってよ、と言ってぼくにスマホを見せた。ぼくはそれに頷くフリをしながら、どうやって彼女を誘いだそうか考えていると、スピーカーに妙なノイズが混ざった。アプリの不具合かと思い、一瞬スマホから耳を離す。パーン、という運動会のピストルのような音がここの建物の外からもして、続いてひとの声が聞こえ、同時に部室が少しざわつきはじめる。

「なんかそっち、変な音がしない?」

とぼくはカオリに言ってあたりを見回す。同じように、何人かの部員が異変に気付きはじめる。付属小で運動会でもやってんのかな、とヨシダは言ってコーラを飲んでいる。再びパーンという音。新入部員の女子が小さい声を出す。部室の窓ガラスがビリビリと振動する。わかんないんだけど、なんか、廊下をひとが走ってる・・・とカオリはぼくに伝える。今どこにいるの?とぼくが尋ねると、本館2階の真ん中の教室、と彼女は言って、そして今度は明確な悲鳴を上げた。

「あのひと・・・血を流してる!ケガ・・・」

そしてLINEが切れる。部員たちのスマホがいっせいに鳴り始める。よそのサークルの部室から誰かが飛び出していく足音がする。乾いた音はやまない。非常ベルが鳴り始める。部長のコシガヤが部員たちを掻きわけてドアへと進む。ぼくはもう一度LINEを立ち上げるがカオリにはつながらない。メッセージでなにがあったのか彼女に尋ねようとしたそのとき、学生部からという放送が流れる。こちらは大学本部です、5号館で火災が発生しました、学生・教職員は全員建物の外に避難してください、現在、大学本部が安全を確認しています…。部室の入口で、どこかのサークルの学生と話していた副部長が、ぼくたちのほうを振り向いて言った。

「ここの屋上から見えるらしい。行こう」

部室棟は打ちっぱなしの鉄筋コンクリート造りの8階建てで、屋上には他のサークルや運動部の連中も集まっていた。たしかに、蔦が絡まったレンガ造りの本館の向こうに見える、茶色い建物―第5号館校舎から黒く濃密な煙が上がっていて、ときどき乾いた破裂音がした。そのときはまだ、ぼくたちばそれが破裂音だと思っていたのだけれど、熱でガラスが割れるときああいう音をするのだと物理学部のヨネヤマが淡々というので、まあそうなんだろうなとこのときは思っていた。ぼくはLINEで、部室棟の屋上から火災が見えるとカオリにメッセージを送った。カオリの既読が一向に付かないことにも、消防車の音がまだしないことにもぼくは気がついていなかった。能天気な2年生や3年生とは対照的に、新入生たちはスマホを見つめたり、あるいは誰かと通話したりしながら、不安そうな表情を浮かべていた。5号館には、午後の言語系必修科目を受講する1年生が大勢いたはずだった。そのうちのひとりが、あの、なんか友達が、生協のとこで銃撃ってるやつがいるって言ってるんですけど、とコシガヤに言ったとき、5号館の煙の奥でなにかが光るのを見た。それは尾を引いている。轟音とともになにかが空中を飛んでくる。振動で屋上が揺れ、大勢の学生がかがんで悲鳴を上げる。ガラスが割れる音。倒れて下に落ちるフェンスの向こうに上がる巨大な煙、きなくさいにおい、非常ベルが鳴り始める、爆発した!とコシガヤが言って、大勢の学生が階段に殺到する、ヨシダがぼくの腕をつかんで引っ張り上げる、ぼくはフェンスの向こうで煙が上がるのを振り返りながら走り始める、階段の照明が点滅する、8階のドアからも学生たちが吐き出されて、逃げる人間の列はやがて渦になる、4階のドアから煙が上がっている、ひしゃげた青い鉄製のドア、崩壊しかかっている打ちっぱなしの壁、ドアを叩く音、何人もの声、頭から血を流しているチアの女子学生をみたとき、ぼくはカオリが本館にいることを思い出した。1階のドアから吹き抜けになっているエントランス・ホールへ出ると、学食のある2階の窓から炎が吹きあがっていて、そして部室棟の前にある広い歩道を、初夏の白い日差しの中、大勢の人間が同じ方向に走っているのが見えた。向かいにある10号館の理系校舎や、となりの4号館や、図書館から来た人間の流れの中で、なにかに気が付いて立ち止まるように、そのまま地面に倒れ込む人間が何人も出ているのを目にしたとき、黒いリクルートスーツを着た3年の女子が胸から血を流して倒れ、血溜まりに散乱するSPIの対策本を大勢の人間が踏みつけているのを見たとき、そしてあの破裂音がいくつも重なってだんだんと近づいてくることに気が付いたとき、ぼくははじめて、誰かがいまここで銃を撃っていることを知って、そしてカオリのことを思い出した。

【未完】

文字数:3999

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