暗闇のなかの盲目の男

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梗 概

暗闇のなかの盲目の男

 以上が、わたしが像になった経緯だ。
 わたしはもはや指先ひとつ動かせず、足を摺ることもできずにただ歩くように立っている。
 誰も来ない部屋で長い時間を過ごすにも技術が必要なのだと、わたしはすぐに理解した。暗闇のなかでただ立つことはそのまま長い思索へと直結し、それによってかつてのわたしが抱えていた悩みへと合流した。
「暗闇のなかの盲目の男」
 像になったわたしをここへ運んだ須賀は、わたしをこう形容した。須賀のこの言葉の思惑がどこにあったのか――つまりかつて人間としてのわたしと、いま像として暗闇のなかをただ歩くように立つわたしのどちらを指してそう言ったのかは、今となっては不明だ。どちらであってもおかしくない、とわたしは思う。かつてのわたしの創作活動はまさにそのようにして進んでいたし、いまのわたしは物理的な暗闇の最中だ。
 かつてのわたしは自作に言葉にならない欠陥を見た。また、その欠陥をどのようにすれば埋められるのかについて大いに悩んだが、こうして自身が像になって気がついたのは、わたしの作品の欠陥とは、見る者の不在によるものなのだということだった。
 わたしはいま、誰からも見られていない。そのような像は眠るのだ。誰かから見られることによって、像の側も相手を見る。見る者のない像は視覚を奪われているようなものなのだった。
 だからわたしは長いあいだ眠り――奇跡のように目覚めた。
 わたしの背後から足もとに光が伸びて、周囲を埃が踊った。ドアが開く音は割れた木琴のような音がした。
 久しぶりに見る人間はやはりとても小さく見えた。
 おそらく七十代ほどの見た目の男だった。彼は薄暗闇のなかで何やら作業をして、部屋の明かりを点けた。彼が傍らに連れていた猫が小さく鳴く。わたしを見る男の口から洩れた言葉に馴染みがないことにまず困惑した。わたしが眠っていた時間は言葉の変質に充分なものだったらしく、男のひとりごとのことごとくが理解できない。だがわたしを捉える男の視線はわたしを再び生き返らせた。つまり、わたしはようやく目を覚まして、周囲を見回すことが本当に久しぶりに行うことができ、かつ同時にわたしのことを見る者との視線の交感を経て、まるで人間であった頃のわたしの作品の欠落が埋められたかのように感じた。
 その高揚がひと段落したところで、同様にわたしを鑑賞することから離脱しつつあった男にわたしは須賀の面影を見た。人の緊張を和らげることができる目尻のしわがとくに似ていた。それは彼固有のもので、わたしはその餌食だった。わたしが彼と友人で居続けた理由の一つだ。男も、わたしをもう一度正面から見て、浅く息を吐いた。部屋の外がなにやら騒がしかった。三人から五人くらいの足音と声だ。須賀の末裔が何やら大声で言って、それから部屋に数人が入ってきた。二人は協力してソファを抱えていた。
 ここに住むのか、とわたしは須賀の末裔を見た。

文字数:1200

内容に関するアピール

題名:《歩く男》

制作年:1960年

作者:アルベルト・ジャコメッティ

 

 今回、作品を選ぶにあたって自分が見たことのあるものにしようと思いました。と言っても、自分は特段美術の教養があるわけでなし、年に数回美術館に行く程度で、それもここ数年に始めたこと。思い出せるのは去年のボルタンスキー展とか、バベルの塔展ぐらいだったのですが、そういえばデンマークのルイジアナ美術館で見たジャコメッティの《歩く男》は印象的だったなと思い、決めました。
 ルイジアナ美術館の《歩く男》は、通常の倍ほど天井が高い一室に、大きな窓とともに展示されており、その窓の風景が季節によって変わることで《歩く男》もまた変化するという素晴らしいものでした(というか、3期のころからずっとゲンロンSFの私のトップ画はそのとき撮った写真なのでした)。

 本作はデイヴィッド・シルヴェスターの『ジャコメッティ 彫刻と絵画』(2018 みすず書房)を参考にしました。「暗闇のなかの盲目の男」というワードもこの本で紹介されているもので、ジャコメッティが本人のことをこう形容したのだと言います。
 ストーリーはジャコメッティ本人の創作風景を遠景に、一人の人間の屈折した制作の所作を、人が像に変わるという寓話を用いて展開されるものになります。

文字数:541

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