光子美食学

印刷

梗 概

光子美食学

男が自室のドアを開けると、そこには、今朝とはまるで異なる味わいが広がっていた。
 まず、しゃきっとした渋味が彼の目に飛び込んでくる。部屋の中央から、すっと立ち上がってくる痺れ。それはワインを飲み干したあとに往生際悪く舌を伸ばしたときのガラスの後味とそっくりだった。実のところ部屋の中央には何もなく、ただ浮遊する埃が日差しに反射して白く輝いているだけなのだが、彼の脳はその視覚情報を渋味としておいしく味わっていた。
 そう、それはおいしかった。これほどまでに安定したおいしさは、幹細胞治療による視力回復に失敗して以来はじめてだった。ここ数ヶ月間、左右の眼からめちゃくちゃにやってくる味や食感が邪魔をして、まともに食事もできなかったのだ。
 しかし、ついにピントが合った。
 味覚が像を結んだ。
「おかえりなさい。病院どうだった?」
 声がしたのでベッドのほうを見ると、皮脂の香ばしさや汗の塩気がまだらに混じり合った、独特の軽い苦味がある。それがベッドの上に立つ妻だと彼にはすぐにわかった。瞬きのたびに感じられる、ポリポリとした歯ごたえが心地よかった。
「ねえ、ベッドの真上のとこ、天井がひび割れちゃってる」
 男の返事を待たず、妻は深刻そうに言う。天井を見上げる彼女は知る由もない。今日、男の身に何があったのか。その結果、ずっと彼を振り回していた味覚めいた視覚が、どのように調和をなしたのか。
「たいしたことないよ」
 彼は天井を一瞥もせず、代わりに壁を嘗めるように見回した。さっぱりした癖のない甘さが部屋を包み込み、壁紙の退色や光の加減、周りの家具の形状とのマリアージュによって、どこまでも奥行きがあるような深い味わいを生み出していた。
 足もとに目を向けると、両眼が受け取る複雑に織りなされた食感と、足の裏で絨毯に触れる感覚が、奇妙に重なり合った。そこにアクセントとして鋭い辛味がひとすじ走る。また、視線を横にずらすと、粒子の細かい泥のごとくなめらかな舌触りに、酸味にも似たぴりぴりした味が刺激的で楽しい。
 楽しいけれど、実際にそこに何があるのかは直に触って確認しないとわからないな。そう苦笑しながら、男はふたたび顔を上げる。
 すると、ある一点から目が離せなくなった。
 男の記憶では、視線の先にはクローゼットがあるはずだったが、そこからはなぜか壁の甘さを感じた。いや、なぜかではない。クローゼットの扉に大きな鏡があることを彼は知っていた。その鏡に反対側の壁が映っている、それだけの話だ。クローゼットの上に荷物でも置いてあるのか、上方から獣の肉のような臭みと旨味がするが、それもどうでもいい。
 問題は鏡に映ったあれだ。
 あれの向こうに、何か、とてつもなくおいしいものがある気配がした。
 昼間に味わわされたのと同じくらい、絶品の光景が。
「どうしたの? ……ちょっと、何してるの」
 窓に足をかける彼に、妻の声は聞こえていない。

文字数:1200

内容に関するアピール

題名:Les Valeurs Personnelles(個人的価値)
 制作年:1951~1952年
 作者名:ルネ・マグリット

課題を読んで、描写について何か挑戦してみたくなったので、味覚に関する表現にあふれた話を書こうと思いました。
 生まれてすぐに事故で失明した主人公は、大人になってから角膜の再生医療を受けます。しかし脳が視覚情報をうまく解釈できず、目で見たものを味覚(や嗅覚、口腔内の触覚)として感じるようになってしまいます。左右の眼がばらばらに、色を味、形を食感として受け取るイメージです。その後、紆余曲折あって彼は高所から落っこちるのですが、そのとき猛スピードで変化する景色=視覚情報の奔流が未曾有の味を生み出し、ショック療法的に彼の視覚は統合されて安定した味を結像するようになります。そんな彼の見ている(味わっている)世界と現実世界を重ね合わせて絵に描いたら『個人的価値』になる、という感じです。

文字数:400

課題提出者一覧