光子美食学

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梗 概

光子美食学

男が自室のドアを開けると、そこには、今朝とはまるで異なる味わいが広がっていた。
 まず、しゃきっとした渋味が彼の目に飛び込んでくる。部屋の中央から、すっと立ち上がってくる痺れ。それはワインを飲み干したあとに往生際悪く舌を伸ばしたときのガラスの後味とそっくりだった。実のところ部屋の中央には何もなく、ただ浮遊する埃が日差しに反射して白く輝いているだけなのだが、彼の脳はその視覚情報を渋味としておいしく味わっていた。
 そう、それはおいしかった。これほどまでに安定したおいしさは、幹細胞治療による視力回復に失敗して以来はじめてだった。ここ数ヶ月間、左右の眼からめちゃくちゃにやってくる味や食感が邪魔をして、まともに食事もできなかったのだ。
 しかし、ついにピントが合った。
 味覚が像を結んだ。
「おかえりなさい。病院どうだった?」
 声がしたのでベッドのほうを見ると、皮脂の香ばしさや汗の塩気がまだらに混じり合った、独特の軽い苦味がある。それがベッドの上に立つ妻だと彼にはすぐにわかった。瞬きのたびに感じられる、ポリポリとした歯ごたえが心地よかった。
「ねえ、ベッドの真上のとこ、天井がひび割れちゃってる」
 男の返事を待たず、妻は深刻そうに言う。天井を見上げる彼女は知る由もない。今日、男の身に何があったのか。その結果、ずっと彼を振り回していた味覚めいた視覚が、どのように調和をなしたのか。
「たいしたことないよ」
 彼は天井を一瞥もせず、代わりに壁を嘗めるように見回した。さっぱりした癖のない甘さが部屋を包み込み、壁紙の退色や光の加減、周りの家具の形状とのマリアージュによって、どこまでも奥行きがあるような深い味わいを生み出していた。
 足もとに目を向けると、両眼が受け取る複雑に織りなされた食感と、足の裏で絨毯に触れる感覚が、奇妙に重なり合った。そこにアクセントとして鋭い辛味がひとすじ走る。また、視線を横にずらすと、粒子の細かい泥のごとくなめらかな舌触りに、酸味にも似たぴりぴりした味が刺激的で楽しい。
 楽しいけれど、実際にそこに何があるのかは直に触って確認しないとわからないな。そう苦笑しながら、男はふたたび顔を上げる。
 すると、ある一点から目が離せなくなった。
 男の記憶では、視線の先にはクローゼットがあるはずだったが、そこからはなぜか壁の甘さを感じた。いや、なぜかではない。クローゼットの扉に大きな鏡があることを彼は知っていた。その鏡に反対側の壁が映っている、それだけの話だ。クローゼットの上に荷物でも置いてあるのか、上方から獣の肉のような臭みと旨味がするが、それもどうでもいい。
 問題は鏡に映ったあれだ。
 あれの向こうに、何か、とてつもなくおいしいものがある気配がした。
 昼間に味わわされたのと同じくらい、絶品の光景が。
「どうしたの? ……ちょっと、何してるの」
 窓に足をかける彼に、妻の声は聞こえていない。

文字数:1200

内容に関するアピール

題名:Les Valeurs Personnelles(個人的価値)
 制作年:1951~1952年
 作者名:ルネ・マグリット

課題を読んで、描写について何か挑戦してみたくなったので、味覚に関する表現にあふれた話を書こうと思いました。
 生まれてすぐに事故で失明した主人公は、大人になってから角膜の再生医療を受けます。しかし脳が視覚情報をうまく解釈できず、目で見たものを味覚(や嗅覚、口腔内の触覚)として感じるようになってしまいます。左右の眼がばらばらに、色を味、形を食感として受け取るイメージです。その後、紆余曲折あって彼は高所から落っこちるのですが、そのとき猛スピードで変化する景色=視覚情報の奔流が未曾有の味を生み出し、ショック療法的に彼の視覚は統合されて安定した味を結像するようになります。そんな彼の見ている(味わっている)世界と現実世界を重ね合わせて絵に描いたら『個人的価値』になる、という感じです。

文字数:400

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光子美食学

飛び込み台のてっぺんで、徹平てっぺいはサイドの手すりから腕を突き出していた。ここは10m台で、眼下には併設された7.5m台が見える。持っていたタオルにもう一度力を込めると、水滴がわずかに滴った。軽く振ってから手を離す。タオルは水滴の後を追うようにまっすぐに7.5m台へと落ちていった。
「もう行ける?」
 後ろから声がする。10m台には徹平の他に、飛び込み選手がもう一人いた。双子の弟、響平きょうへいだ。志尾しび徹平・響平は飛び込み競技界では名の知られた兄弟で、特にシンクロナイズドダイビングという、二人一組で飛び込む種目での息の合った演技が高く評価されていた。
「いつでも」
 すでに飛び込み台の縁へ行こうとしている響平にそう返事してから、徹平も歩き出す。プールに向かって瓜二つの顔が並んだ。
 国際大会への切符が懸かった選考会だったが、コンディションは好調でこれまでの成績が良かったこともあり、徹平の心は穏やかだった。辺りを見渡す余裕もある。灰色がかったドーム天井はいつ見ても無骨な印象で、緑の椅子が並ぶ二階左側の観覧席は対照的にどこか浮かれている。奥に見える競泳用プールは赤と黄色のレーンロープが目立つが、手前の飛び込み用プールは一面真っ青で、徹平たちを飲み込もうと待ち構えているかのようだ。
 しかし、徹平と響平は飛び込み台の縁に立つと、二人同時にプールに背を向けた。かかとを縁からはみ出させ、両手を真上に挙げて爪先立ちになる。
 後踏切前宙返り3回半・抱え型。
 それが、二人がこれから披露しようとする技だった。ミスしにくいわりには設定された難易率が高いため、シンクロナイズドダイビングでよく選択される技だが、それゆえに失敗は許されない。
 徹平は一瞬、響平に目配せした。
 響平もまた、徹平に向かって頷く。
 産まれたときからずっと一緒の二人にとって、それ以上の会話は必要なかった。掛け声もいらない。あとは呼吸が完全に揃ったタイミングで飛び込むだけ。
 ――いまだ。
 ところが、鏡写しのように同じ体勢で二人が踏み切ろうとしたそのとき、徹平の左足爪先が空を切った。珍しいことに足を滑らせたのだ。否、珍しいどころではない、こんなポカをするのははじめてだ。徹平が小学三年生のころ、弟と一緒に体験教室に参加して飛び込みにハマってから、一度だって足を滑らせたことはなかった。
 このまま落ちるわけにはいかない。そう思った徹平は無理矢理に身体をひねろうとする。鏡写しはとうに崩れている。視界がぐるりと反転する。弟の驚いた表情がちらりと映った気がする。自分も同じ表情をしているのだろうか。
 ドーム天井の鉄骨。それが徹平の見た最後の光景であった。
 後頭部を飛び込み台の床にしたたかにぶつけたかと思うと、意識が遠のき、目の前が真っ暗になったからだ。
 
          *
  
 人間は弱々しい生き物で、ときに道端でつまづいて頭をぶつけただけで死んでしまうこともあるという。そのような不運に比べたら、志尾徹平の不運など取るに足らないものなのかもしれない。運の良し悪しなどという曖昧なものを定量化できればの話だが。
 脳挫傷による両眼失明。
 眼球ではなく脳の問題なので、今後視力が復活する可能性もなくはないが、断言はできない。
 病室で医師は徹平とその家族にそのように告げた。今後の精密検査と入院に関する説明を聞いている両親の震える相槌や、弟の静かな息遣いを徹平は傍で聞いていた。あまりのことにショックが大きすぎたせいか、どうにも自分ごとのように感じられない徹平だったが、苦々しさにどっぷり浸かったような心地だけは、見えなくても確かにそこにあった。
 目が見えなくても、飛び込みってできたんだっけ。
 スイミングクラブのコーチやメンバー、日本水泳連盟の偉い人、大学の友達などがかわるがわる見舞いに来てくれたが、誰もその質問には答えてくれなかった。別に、徹平からわざわざ訊いたわけでもない。パラリンピックには競泳種目しかなかったような覚えがあるが、わざわざスマホで慣れない音声検索をしたいとは思わなかった。
 取材の類は丁重にお断りした。医師から目の見えない人の集まりみたいなものの紹介も受けたが、参加を拒みつづけていた。今後の人生が思い描いたものとはまるっきり変わることが確定したとはいえ、まだその準備をする気にはなれなかった。
 入院している徹平は当然練習には出られないだが、弟の響平もまた練習を休んでいるという。日頃から二人とも、シンクロナイズドダイビングだけでなく一人で飛び込む種目も練習しており、むしろそちらがメインといっても良いのだが。
 どうして、と本人に訊くと、散々返事を渋った挙句に「空気悪いから」と弟は答えた。申し訳ないなと徹平は素直に思った。
 弟が帰ってから、何をするでもなくぼんやりとしていた。扉の向こう側でときおり人や機器が通る音以外は何も聞こえない。室温は暖かくも寒くもない。病室のにおいには慣れてしまった。こうも情報らしい情報に触れられない状態だと、頭の中の苦い気持ちだけが際立ってしまう。頭の中というか、まるで顔一面が苦々しさですっかり覆われているかのようだ。
 ふと、何かが変だなと思ったら、涙が頬を伝っていた。
「…………ん」
 すっぱい……?
 そう感じたのは、涙が口に入ったからではない。唇はさっきからずっと閉じていて、口内の舌はすっかり乾いており、何も味わっていない。第一、涙は普通塩味なのだから「すっぱい」ではなく「しょっぱい」となるはずだ。
 徹平が酸味を感じたのは、舌ではなくだった。
 とても奇妙な物言いになってしまうが、徹平にはそうとしか言い表せないのだ。見えなくなったはずの両眼が味を感じているのだ。否、実際に知覚しているのは脳なのだろうが、まるで左右の眼球がそれぞれ舌に変わってしまったかのように、それぞれ別個に、微妙に異なる酸味を味わっている。酸味だけではない、入院して以来ずっと続いている苦々しさ――否、苦味もそこにはある。そう、あたかも、涙が徹平の眼球をコーティングしたことによって、それまで無意識に両眼で感じていた苦味の上から、新たに酸味が加わったかのような……。
 ここでようやく徹平は自覚した。
 自分は、ただ両眼が見えなくなったのではない。
 なぜかは分からないが、視覚が、すっかり味覚に置き換わっているのだ。
 
          *
  
 知覚というのはつまるところ神経細胞のつながりのなせるわざで、物理刺激なり化学刺激なりによって感覚器にもたらされた情報が、適切な経路を辿って対象の感覚を司る部位に到達し、正しく処理されることではじめて何かしらを「感じる」ことになる。視覚も味覚も、聴覚も嗅覚も触覚も、温度覚や痛覚などのその他の様々な感覚も同様だ。しかし神経細胞のつながりが変わって経路が変化してしまえば、感じられるものも変わってしまうというのもありえる話だそうだ。要するに志尾徹平の脳内では、後頭部を強く打ったせいで視覚情報を処理する部位がダメになってしまい、その欠損を補うように味覚情報を処理する部位が情報処理を受け持つようになった結果、視覚が味覚に置換されたというわけだ。何も見えない代わりに、何かの味がするようになったのだ。
 医師から長々と難しい用語の並ぶ説明を聞いた徹平は、ざっくりそのように理解した。さすがに「ダメになった」なんて乱暴な表現はされていない。
 徹平に説明したのは、最初に精密検査の説明をしたのとは別の医師だった。視覚が味覚に置き換わるという珍妙な現象が判明したとたんに病院の医療体制は大きく変わった。というか、退院して通う場所が変わった。紹介状を手に両親に連れられた徹平を待ち受けていたのは、前の大学病院とは段違いに巨大な研究施設だった。不意の味覚によるパニックを防ぐため、目隠しをしている徹平には何も分からなかったが。なんでも、徹平のことを知った砂原すなはら某とかいう親切な金持ちが、各種費用を全面的に援助してくれているらしい。この研究施設のその人の資産で成り立っているのだとか。
「砂原さんってどんな人なんですか?」
 そう、施設の職員に訊いてみた。
「そうですね、美食家で、研究者です」
「美食家で研究者……ちょっと想像がつきませんね」
「まあ、研究者といっても私たちとも畑が違いますので詳しいことは。志尾さんは幸運ですね。砂原様に治療費も、研究費もサポートしていただけるのですから」
 そう、いまや志尾徹平は、治療対象にして研究対象であった。通院なので24時間ずっと拘束されることはないし、基本的には、徹平が再び日常生活を送ることができるようにサポートするための研究とのことだったが。
 日が過ぎるにつれ、徹平が両眼で感じる味わいはしだいに鮮明に、そしてバリエーション豊かになっていった。
 苦味と酸味の次に感じ取ったのは、甘味、塩味、そして旨味だ。五感のひとつであるところの味覚は、さらに「甘味」「塩味」「旨味」「酸味」「苦味」の五つの基本味で構成されるが、そのうち酸味と苦味については、人間はごくわずかな刺激でも敏感に感じ取る。酸味は腐敗を、苦味は毒素の存在を知らせるシグナルだからだ。徹平が最初に苦味と酸味を感じたのもそれが影響しているのだろうと推測された。
 また、徹平の視覚は、味覚だけでなく他の感覚にも置き換わっていることが判明した。それは嗅覚と、触覚などの体性感覚だ。
 人間がものを味わっているとき、感じているのは味覚だけではない。口中香と呼ばれる口腔から鼻腔へ立ち上るにおいや食感も重要な要素であり、味わいについてはむしろ口中香のほうが味覚よりも支配的だ。辛味や渋味もまた、味覚とは別の感覚に分類される。味覚と嗅覚と口腔内の体性感覚の組み合わせによって、人間は「味わい」を感じているのだ。
 味覚だけでなく、口の中で感じる様々な感覚としても視覚情報を受け取っていることにより、多種多様な味わいが徹平の両眼を渦巻いていた。徹平が初めて両眼で酸味を感じたときの「まるで左右の眼球がそれぞれ舌に変わってしまったかのように」という喩えにならうならば、左右の眼窩はそれぞれ口に変わってしまったのだ。
 それから、実在する物体やVRシステムを使った何種類かの実験を経て、大まかに次のような傾向が見られることが分かった。
 視覚における光の強弱は、主に味わいの濃淡に置き換わっている。
 視覚における色の変化は、味覚や嗅覚(口中香)に置き換わっている。
 視覚における形の認識は、舌触りや歯ごたえなどの食感に置き換わっている。
 そのころ徹平は実験に飽き飽きしていた。細かい条件が変わるたびにどんな味わいがするか逐一答えるという作業にいい加減うんざりしていたのだ。しかしその結果を聞いて、すぐにこう質問した。
「それってもしかして、置換される感覚の対応関係がはっきりすれば、目の前にあるものが何なのか、本当だったら何が見えているはずなのかがわかるってことですか」
 
          *
  
 徹平がそのような質問をしたのは、もちろん、もう一度弟の響平とシンクロナイズドダイビングで世界一を目指したかったからだった。たとえパラリンピックに飛び込み種目があったとしても、はたして自分のような特殊な視覚/味覚を持った人間が参加できるのかわからないし、参加できたとしても目の見える響平と一緒に飛ぶことはできないかもしれない。
 もし、脳内で味わいに置き換わってしまった視覚情報を、自分で対応関係を逆算してふたたび視覚に置き換え直すことができたら。そのような仮定に徹平は望みを抱いた。実現のためにはいくらでも実験台になるつもりだったし、どんなにつらいリハビリだってやり遂げてみせる覚悟だった。
 ただ、これには二つの問題があった。
 一つ目は、現状、徹平が両眼で感じる味わいは左右ばらばらであるため、同時に味わいを感じ分けるのが極めて困難だということだった。感じ分ける以前に、意識しなくても強制的に流れ込んでくる数十種の味わいに対応しきれないのだ。舌とは違って、両眼は常に光を捉えているのだから。満腹中枢がおかしくなり、危うく普段の食事を忘れ栄養失調になりかけたときもあった。布などによる目隠しだと、目を押さえたときにまぶたの裏に映る模様を味わいとして感じ取ってしまうため、日頃は特製のゴーグルを着用し、なるべく薄味のものだと分かっている静止画を映し続けて凌ぐこととなった。
 二つ目は、語彙力の問題である。視覚情報と味わいの対応関係を完璧に把握するには、何を見たときどんな味がするのかを正確に記憶あるいは記録する必要がある。しかし徹平には、いま自分が感じている味わいをどう言葉にしたらよいのかわからなくなってしまうことが多々あった。グルメ志向というわけでもないただの大学生の徹平には、食レポする語彙力があまりにも欠けていたのだ。もっとも、この世のどんな美食家だって、彼の味わっている世界を形容することは不可能だろうが。
 しかし、徹平は不可能を可能にしなくてはならないのだ。
 徹平の立てた戦略は、とにかくいろんなものを口にして味覚表現の語彙を増やすことだった。小洒落た言い回しはできなくとも、「これは○○味」と言うことさえできれば対応関係を記録するには充分だ。研究施設の人たちもなぜか徹平の考えに協力的で、様々な食材を用意してくれた。徹平は、肉を咥え、魚を舐め、野菜を歯ですり潰し、酒を口内で転がした。実際に飲み込んでしまえば腹が膨れてしまうので、味わったのちにはすぐに吐き出す。満腹中枢はますますいかれてしまった。
 当然、食べ物や飲み物以外のものも積極的に口にした。食べられないからと言って、味がしないわけではないからだ。どれだけまずくても、弟のことを考えると不思議と我慢できた。思いつくままにどんどん味わっていく。肉の骨、魚の鱗、野菜のへた、酒のびん、食器、包装紙、ビニール袋、花、雑草、虫、電化製品、コンセント、埃、カーテン、壁、床、水着、インナー、革製品、硬貨、紙幣、マッチ、芳香剤、排泄物、爪、髪の毛、櫛、洗剤、石鹸、小麦粉粘土、ティッシュペーパー、消しゴム、タイヤ、アスファルト、黒土、腐葉土、ペンキ、鉄棒、凍った池の氷、雪……。
「なにしてるの」
 ある雨の日、徹平が自室でテイスティングしていると、後ろから冷たい声が飛んできた。いつのまにか弟が勝手にドアを開けていた。
「なにって、水漏れの味を確かめてるだけだけど」
 ベッドの上に立っていた徹平は、それだけ答えるとまた口を大きく開けて上を向いた。天井の、ちょうどベッドの真上にあたるところに大きなひびが入っていて、そこから雨水が漏れ出していた。
「……徹平、最近おかしいよ」
「そんなこと今更言われても。見えなくなっちゃったものはしょうがないじゃんか。受け入れたうえで、じゃあどうするかって話だろ」
「そうじゃなくて。目のことじゃなくて、なんで、こんな……」
「何回も説明しただろ。もう一度響平と世界一を」
「おれ、もう飛び込みやらないよ」
 弟の宣言に驚いた徹平はドアの方を向いた。数十種の味わいが同時に変化し、右眼は主に甘味を、左眼は主に旨味を感じる。その組み合わせに意味はない。ただ対応関係があるだけ。
 頭に雨水が滴り落ちる。
「……なんでだよ。今までずっと一緒にやってきただろ」
「…………」
「もしかして、おれのせいか? おれが大会で失敗して、頭を打ったせいで」
「違うよ」弟の声は一瞬大きくなってから、雨音にかき消されるほどに小さく弱々しくなる。「徹平は楽しくて気づいてなかったかもしれないけど。おれ、最初から飛び込みそんな好きじゃなかったんだよ」
 
          *
 
 目的を失った徹平は、それでも研究施設に通いつづけた。いつのまにかそういう契約を結んでおり、毎朝迎えの者が来るようになっていたからだ。弟やいる家には居づらかったから、ますます研究施設に入り浸るようになった。
 なんでも口に含むことはなくなり、実験も一通りやり尽くしたため、ガイド歩行の練習や日常生活技術の習得が日課となった。また、施設の人々の提案や徹平自身の希望もあり、ここ最近はいろいろな人と会って話す日々を過ごしていた。たとえば、生まれつき目の見えない人。たとえば、何かを見るとその色に応じて味覚も同時に感じるという共感覚の持ち主。たとえば、ただのセラピスト。誰と話してみても徹平の気分は晴れず、結局最後は分かりあえないと感じてしまうのだった。
 双子の弟とさえまるで分かりあえていなかったというのに、いったい誰と分かりあえるというのだろうか。
 思うに、自分は理解者を求めているのだろう。そう徹平は自己分析していた。しかし、視覚が味わいに置換される人間が日々の生活をどんなふうに味わっているのかなんて、誰にも理解できるものではないとも思う。この奇妙な感覚を共有できるわけでもなし、研究施設の人々だって徹平のことなんか全然わかっちゃいないのだ。
 どこかの誰かが、すっ転んで頭を打って、視覚が味わいに置き換わらないかな。
 響平も、自分と同じように足を滑らせればいいのに。
 自分じゃなくて、響平が足を滑らせればよかったのに……。
「砂原様が面会したいと仰っています」
 研究職員からアポイントメントを求められたのは、鬱々としたそんなある日のことだった。
「砂原って、誰だっけ」
「志尾さんの治療を援助してくれている方ですよ」
「ああ……」
 とりあえず頷いてみたものの、記憶はおぼろげだった。味のこと以外は忘れてばっかりだ。いつ会うかと訊かれたので、来週以降ならいつでもいいと適当に答える。
「まあ、おれとしてはありがたい話ですけど、見ず知らずの人にこんなにお金を使うなんて、ずいぶん奇特なお金持ちですよね。それともあれなのかな、こうやって面会することで、何か面白い話が聞けると思っているのかな」
「いえいえ、きっと砂原様も志尾さんと同じ境遇だからですよ」
「え?」
「あれ、他の職員から聞いていませんでしたか?」
 研究職員の話によると、徹平を援助してくれている人物は砂原すゞめというその筋では有名な食通で、調理法を科学的に分析しその応用として新たな調理法を生み出す、分子美食学ガストロノミーという学問においても第一人者なのだとか。
 徹平が特に興味を惹かれたのはその生い立ちだった。生まれてすぐに事故で失明した砂原は盲目の美食家として名をあげたが、四十歳になってから角膜の再生医療を受けた。ここからは研究施設内では周知の事実でも一般には伝わっていない話だが、砂原の手術自体は無事に成功したものの、新しい角膜を通して受け取った視覚情報を脳がうまく受け止められず、味覚に関する情報として解釈するようになってしまったのだ。その結果、さらに砂原は美食をきわめることになったという。
「面会、来週じゃなくて明日にしてください。いや、できるだけ早く」
 徹平は声を荒げてそう言った。
 
          *
   
 そして面会日。
 徹平のもとに現れたのは、背の小さな老齢の女性だった。色の異なる小さなドットが散りばめられた、変わった織目の服を身に纏っている。
「はじめまして、えっと、砂は……さ……」
 当然のことながら徹平はその佇まいを視覚として捉えることができなかったが、しかしその味わいにひどく驚いた。なぜなら、ばらばらな味覚であるはずの左右の眼球が、ともに同じ味わいを感じ取っていたからだ。ここまで左右で味わいが一致するなんてことは、今まで一度も経験したことがなかった。
「どんな味がしたかい」
 そう、砂原はゆっくりと問いかけた。まるで、自らが仕立てた服の味を確かめることこそが、徹平と面会する主目的であるかのように。
「あ……、青りんごの味がします」問いに答えるというより、勝手にずるずると言葉が漏れ出てしまっていた。「青りんごです。青りんご青りんご。普通の赤いりんごじゃなくて、これは絶対青りんご。爽やかそうで、でも、ちょっと熟れ過ぎて味がぼけてしまったような感じもあって。それが部屋一面に。ああ、すごい、こんなのはじめてだ……」
 砂原すゞめを前に、徹平は感動していた。どのような手段を使ってこの統一された味わいを生み出しているのかはまったく分からないが、この砂原という美食家が、視覚と味わいの対応関係を完全に掌握し、自由自在に扱うことができているのは間違いない。彼女こそが自分の真の理解者なのだと徹平は確信した。
「青りんご、ねえ」
 ところが、感動している徹平とは裏腹に、砂原はどこか不満げだった。
「残念ながら、どうやらあんたも、あたしとは舌が合わなかったようだね。共感覚者じゃないから、今度こそちょっとはものになると思ったんだけど。あーあ。いや、それともまだ早かったかな。まあ、ちゃんと食べ物の味がしているだけマシなほうか……」
「舌が合わない? えっ、どういうことですか」
「あたしとあんたじゃ、目に映っているものが違うってことだよ。同じ配線ミスでも、つなぎかたが違ってるってことさ。本来この生地は濃厚なチーズケーキの味がするべきなんだよ。なんだよ味がぼけたって、失礼だな」
「ええええ、そんな、すみませんでも」
「その慌てようだと、両眼でひとつの味に結像したのも今回がはじめてだろう? まだまだ食経験が圧倒的に足りてないんだよな、若いから。珍味とかろくに食べたことがない子供舌なんだ」
「虫は食べたことありますけど」
「毒虫?」
「いえ……。でも、たとえ舌が合わなかったとしても、同じものを目にして感じる味が違ったとしても、おれにとっては、ここまで自分と同じ人に会えるのなんてはじめてで」
「ふうん」
 砂原は全然興味なさそうな相槌を打つが、それでも何か思うところがあったようで。
「そこまで言ってくれるんなら、とっておきのレシピを教えてあげるよ。もしかしたら、あたしと味わっているのと一緒の、めくるめくグルメの世界に行けるかもしれないよ」
 そう言って、他に誰がいるわけでもないのに耳打ちしてくるのだった。
 
          *
 
 その日は大雨だったが、徹平は久しぶりにひとりで外出していた。本来ならまだ介助人が必要なのだが、今日はどうしてもひとりで行かなければならなかったのだ。視覚の代わりに左右の眼でばらばらの味わいを感じるといっても全体的な味わいの変化で目の前の障害物くらいは知覚できるし、幸い今までに何百回と通ったルートだったので、そこまで戸惑わずに目的地に到着することができた。ちょっとブランクがあるので無事に辿り着けるか心配していたのだが、どうやら杞憂だったようだ。
 入り口を通り抜けたところで誰かに話しかけられた。
「あれ? えっと、響平だよね?」
 スイミングクラブのメンバーの声が呼んだのは徹平ではなく、弟の名前だった。
「ああ。今日から練習再開」
「ついに復帰するんだ。ええと、とりあえずはおめでとう」
「ありがとう。でも、徹平のことはそんなに気にしなくていいよ」
「そう……」
「あいつも今では元気にやってるよ。それじゃあお先に。一刻も早く飛び込みたいんで」
 誤解を訂正せずに、徹平は更衣室へと向かう。選考会の会場だったプール場は、ときおりスイミングクラブの練習にも使われていた。
 弟のふりをした徹平は手探りで水着に着替え、駆け寄ってくる知人を軽くいなし、きちんと準備運動とストレッチを済ませて、身体を水に慣らしてから飛び込み台に登る。向かう先は10m台、飛び込み台のてっぺんだ。明後日の方向に投げ落としたらいけないから、タオルは地上に置いてきた。もちろん、また足を滑らせることのないよう、念入りに身体を拭いてから。
 あの日と同じように、徹平はプールに背を向け、両手を真上に挙げて爪先立ちになる。
 あの日と違って、隣には誰にもいないけれど。
「それじゃあ、いただきます」
 下の方から何やら声援が聞こえるが、気にせず徹平は跳び上がって、両脚を抱え込んだ。それは、あの日失敗した、後踏切前宙返り3回半・抱え型――でありながら、砂原すゞめから教わった秘蔵のレシピの実践だった。
 徹平は勢いよく前転する。しっかりと両眼を見開いている。その開きっぱなしの二つの口に飛び込んで来るのは、視覚情報の奔流だ。動体視力も追いつかないほどの猛スピードで変化する景色が、徹平の脳を揺さぶる。そのような暴力的な味わいの変化、普通の舌では味わいようがない。目に映ったものを味わっているからこそ、もともとは光の粒だからこそ、ここまでの恐ろしい速さで味わい変化し続けるのだ。したがって、未曾有の味わいが徹平の脳内に産み出されていた。
 灰色がかったドーム天井。
 緑の椅子が並ぶ観覧席。
 赤と黄色のレーンロープ。
 一面真っ青な飛び込み用プール。
 自分の肉の色。
 それらが入れ替わり立ち替わり視界に入ってくる、二つの口の中に入ってくる、混ざり合っていく、溶け合っていく。甘い、苦い、旨い、すっぱい、しょっぱい、辛い、渋い、まずい、甘い、苦い、しょっぱい、渋い、薄い、旨い、まずい、濃い、あっぱい、辛い、苦い、甘い、にずい、すっぱい、濃い、こまい、しょぶい、かすい、苦い、ぎらい、ぽない、だまい、じったい、甘い、どない、旨い、しょっぱい、らもい、薄い、ずろい、ちらい、がわい、おっちゃい、むない、渋い、あっぱい、かすい、こまらい、わからない、わかる、わからない……。
 あらゆる色や形を一緒に味わう。色や形が認識できなくなるほどの速さで味わう。それはつまり、視覚と味わいの対応関係がどうなっていようが同じということ。志尾徹平の二枚の舌も、砂原すゞめの二枚の舌も、同じものを味わっているということ。
 恍惚の中で徹平は着水した。
 それはたった2秒にも満たなかった。
 
          *
 
 徹平が自室のドアを開けると、そこには、今朝とはまるで異なる味わいが広がっていた。
 まず、しゃきっとした渋味が彼の両眼に飛び込んでくる。部屋の中央から、すっと立ち上がってくる痺れ。それはワインを飲み干したあとに往生際悪く舌を伸ばしたときのガラスの後味とそっくりだった。実のところ部屋の中央には何もなく、ただ浮遊する埃が日差しに反射して白く輝いているだけなのだが、徹平の脳はその視覚情報を渋味としておいしく味わっていた。
 そう、それは明らかに食べ物の味ではなかったが、確かにおいしかった。これほどまでに安定したおいしさは、砂原すゞめに会って以来はじめてだった。だって、今までずっと、左右の眼でばらばらの味を感じ取っていたのだ。
 しかし、砂原のレシピを実践することにより未曾有の味を経験したためか、ついに徹平のピントは合った。
 味覚が像を結んだ。
 もっとも、美食家の砂原の両眼が結ぶ像とは、似ても似つかないだろうが。
「どこいってたの? いつもの介助の人は?」
 声がしたのでベッドのほうを見ると、皮脂の香ばしさや汗の塩気がまだらに混じり合った、独特の軽い苦味がある。これは知っている、櫛の味だ。その櫛の味がベッドの上に立つ弟だと徹平にはすぐにわかった。どうして自分の部屋に弟がいて、ベッドの上に立っているのかはわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。瞬きのたびに感じられる、ポリポリとした歯ごたえが心地よかった。
「雨だったから、ほら、雨漏りが」
 徹平の返事を待たず、弟は言い訳めいた口調で言う。弟は知る由もない。今日、徹平の身に何があったのか。その結果、ずっと彼を振り回していた味覚めいた視覚が、どのように調和をなしたのか。
「そうなんだ」
「いや、だから、おれも飲めば、徹平の感じているものがすこしはわかるかなって」
「うーん、どうかな」
 徹平は天井を一瞥もせず、代わりに壁を嘗めるように見回した。さっぱりした癖のない甘さが部屋を包み込み、壁紙の退色や光の加減、周りの家具の形状とのマリアージュによって、どこまでも奥行きがあるような深い味わいを生み出していた。これは味わったことがないが……そうだ、空の味だ。
 足もとに目を向けると、両眼が受け取る複雑に織りなされた食感と、足の裏で絨毯に触れる感覚が、奇妙に重なり合った。そこにアクセントとして鋭いマッチの辛味がひとすじ走る。また、視線を横にずらすと、粒子の細かい泥のごとくなめらかな舌触りに酸味にも似たぴりぴりした石鹸の味が刺激的で楽しい。
 楽しいけれど、実際にそこに何があるのかは直に触って確認しないとわからないな。そう苦笑しながら、徹平はふたたび顔を上げる。
 すると、ある一点から目が離せなくなった。
 徹平の記憶では、視線の先にはクローゼットがあるはずだったが、そこからはなぜか壁の甘さを感じた。いや、なぜかではない。クローゼットの扉に大きな鏡があることを彼は知っていた。その鏡に反対側の壁が映っている、それだけの話だ。クローゼットの上に荷物でも置いてあるのか、上方からシェービングブラシのような臭みと旨味がするが、それもどうでもいい。
 問題は鏡に映っただ。
 の向こうに、何か、とてつもなくおいしいものがある気配がした。
 先ほどプール場で味わったのと同じくらい、絶品の光景が。
 実のところ、やみつきになっていたのだ。
「徹平? ……ちょっと、なにしてるの」
 はたして、鏡の向こうには窓が映っていた。徹平の両眼――二つの口と同じで、開きっぱなしだ。今にもよだれが垂れそうだ。どこまで落ちていくだろう。
 その窓に足をかける徹平に、もはや弟の声は聞こえていなかった。

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