できることなら、もう一度白夜の下で

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梗 概

できることなら、もう一度白夜の下で

 彼が彼女と再会した時、彼女が以前と同じものを身にまとっているのに気づいた。

 惜しげもなく使われている毛皮は何の動物のものだったろうか。帽子もコートも黒ずくめ。それに引き立てられる彼女の白い肌はほのかに赤みがさしていて、それはただ寒いからなのか、それとも彼女の抑えようのない感情を示しているのか、判断できなかった。

 けれども、それよりも不可解なのは彼女の表情だった。彼が初めてその笑みに――本当に笑みだろうか――直面したとき、それは気位の高さに見えた。癇に障る、それでいてひれ伏さずにはいられない気位の高さ、平凡な道徳や通俗的な価値観を軽蔑するのが当然だといわんばかりの、貴族的な態度を意味しているのだ、と。周囲の冷気でさえ雪積もる季節のせいではなく、凍てつく彼女の双眸にその原因があるのであろうか、とまで思われた。

 しかし、こうやって改めて直視すると――直視できる、というのは彼がその威光に慣れてしまい、その尊さに対し鈍感になって、彼女が彼に与える影響力が減じてしまった証左であるのだが――、彼女のまなざしには、まったく異なった感情が秘められているように感じられた。

 彼女に射すくめられたときには、何かが吟味されているように感じられるのは間違いのないことだ。でも、少し伏せられた目は、自信のなさと不安を秘めている。敵に包囲された北国の要塞で、援軍が来るのを今か今かと待ちわびている歩哨のようだ。あるいは、群衆の中の孤独。ただ一人でもいいから理解者が欲しい、と呼んでいる。無知の中に取り残された知恵ある言葉、不条理の中に意味を求めようとする精神。

 より卑俗なたとえを用いるのなら、かつての社交界の花が、己の知性や教養と釣り合わぬ愚かな男の妻となってしまい、伝統によって定められた義務をこなすこと以上の喜びを忘れてしまったようだ。長いまつ毛と意志の強そうな眉がそう思わせているだけなのだろうか。すべてはこちらが過剰に意味を読み取っているだけのこと、彼女が目の前で過ぎ去っていくときに見せたほんの一瞬の光の加減に、彼女の想いのすべてを見ようとする彼自身の愚かさのせいということもありうる。

 ロシアの文豪のヒロインのようだ、と彼は独語するが、すぐにそれを打ち消す。その連想はあまりにもありがちで、彼女ならきっと鼻で笑うことすらしない。その連想は彼女が注意を払うには凡庸すぎるし、彼女の行く手にはきっと幸いが待ち受けている。あの禁欲的な作家が望んだような結末は、彼女の先にはない。

 彼女は通り過ぎていくことだろう。彼がここにいることも知らずに。彼女は彼よりも多くを見るだろう。

 だから彼は彼女に背を向ける。いつか別の場所で出会うことになるかもしれないと期待して。それが何年先のことであれ、彼は待ってさえいればいずれ会えると確信していた。

文字数:1164

内容に関するアピール

 イメージの元となった作品はイワン・クラムスコイ「忘れえぬ女」です。

 最初に観たのは、20129月「国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展」で、再会したのは201812月「Bunkamura30周年記念 国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」展でした。

 同じ絵を鑑賞していたはずなのに、まったく違った感想を持ってしまったのが不思議であったため、この作品をテーマにしました。

 梗概は、その時の驚きをそのまま言葉にしたものです。これが、SFになるかどうかについては、あえて度外視しました。求められていることは、これがどんな話になるかということではなく、その作品の描写である、ととらえたからです。

 出会いと別れと再会の話、にしようと考えています。

文字数:327

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できることなら、もう一度白夜の下で

 青年が本から目を上げると、そこに先輩が立っていた。

 なんということのない学園の光景だった。さっきまで熱帯の戦場で蔓に足を取られながら進軍していたような緊張感を残しながらも、マラリアもヒルもすべては夢であった、と断言してしまえるほど柔和な光に部室は包まれている。先輩がそこにいるという事実が、希薄な現実のすべてを塗りつぶしている。

 季節は夏であるにもかかわらず暑くはない。やたらと低いところにある太陽の光がまぶしいばかりだ。外から見えるグラウンドからは一人しかいない野球部員と、同じく一人しかいないサッカー部員が走り回っており、これまたたった一人のマネージャーが二人にスポーツドリンクを渡すためにちょこまかしている。でも、彼らの暑苦しい声も遠くにしか聞こえない。ただ先輩が目の前に立っていることに圧倒される。

 その先輩とはまだ一度も話したことはない。それでも顔はよく知っている。一つ上の学年で、教室のある階が違うにもかかわらずそれとわかるのは、彼女がきれいだからというよりも聡明だからだ。彼としてはそういうことにしておきたい。高校で一番の美人だから知っているということを自分で認めるには、彼はあまりにも恥の意識が強すぎた。自分は平凡で、特に女の子から注目されることなんてない、と思っていて、だからこそ変な気を起こすと指さして笑われるのではないか、と恐れている。

 夏であるにもかかわらずコートを身にまとい、それでいながら汗一つかいていない。青年がジャングルからここに連れ去られたのが本当だとしたら、彼女は周囲の冷気ごと北国の雪のただなかからここに連れてこられたのだろうか。そのせいか、先輩はまるで誤った個所に挿入された一節のようだ。しかし、その美しい言葉は周囲の文脈に違和感を与えるからこそ、元の文に新しい意味が与えられている。色白の彼女のほほには赤みがさしているが、それは暑いからでもないし、ましてや青年に特別な感情を抱いているからではありえない。ただ、自然に赤いのだ。彼女の唇と同じように。彼女の周囲だけが冬であり、深夜であった。

 それにしても、どうして彼女がここにいるのだろう、と青年は疑問を持つ。一番喜ばしい可能性は、自分を慕ってくれてここに来た、想いを告白するために姿を見せた、ということなのだが、接点がまったくない以上それはあり得ない。もしかしたら一目ぼれというやつなのかもしれないが、それはトランプをシャッフルしてすべてのカードが出荷されたときの順番に並ぶのと同じことだ。原理的には起こりうるし、それを禁じる物理法則も存在しないが、日常レベルでは考える必要のない可能性だ。

 先輩が長い髪をなびかせているのは少し開いた窓から吹いてくる風のせいであり、制服も髪に合わせてゆらゆらしている。それだけで彼が言葉を失うには十分だった。先輩は、切れ長の瞳で彼を見据えながら近づいてくる。表情は柔和なのに、冷たくて厳しく見えてしまうのはなぜだろう。それは、彼女の自分自身に対する要求の高さを示しているのだろうか。青年は今にも本を取り落としそうになる。立ち上がるタイミングを失った彼を見下ろしながら先輩は告げる。私も文芸部に入りたい、と。

「特に入部資格はある?」

 尋ねられても答えようがなく、彼は首を横に振る。

「そう、何か必読書のリストでもあるのかと思ったけれど」

 その呟きは安堵だったのか、それとも落胆だったのか。何か難しい課題図書を答えなければ軽侮されてしまうのではないか。ある種の諮問のように思われて言いよどむ。彼女はそれに気づかずに、何を読んでいるの? と尋ねる。ここに至っても彼は何も答えられず、読みかけの本を渡すことしかできなかった。彼女は表紙を眺め、細い指でページをめくり、いつの間にか物語に夢中になっている。そんな様子の先輩を、彼はただ息をひそめて見守ることしかできない。天敵から身をひそめる野生動物のように。とはいえ、彼は狩られることを望んでいる。期待しながら震えていると、下校を命じるチャイムで先輩は我に返った。

「ごめんなさい、夢中になってた」

 先輩は詫び、彼はますますわけのわからないことをつぶやく。それを入部の承諾と受け止めたのだろう、明日からここに来るから、と先輩は軽やかに立ち去っていく。名残惜しい。けれども、それでよかったのかもしれない。いきなり二人きりで下校することを要求されていたら、どうしたらいいかわからなかっただろう。緊張のあまりおかしなことをしてはいないだろうか、と考えるだけでもう正気を失いそうだった。ただページをめくっているのを眺めて過ごしてしまった。彼はすでに自分自身ではない。

 ため息をついてページを何気なく見る。ほんの一瞬の間ではあるが、そこに書かれている言語が自分にとってはもはや何の意味をなさないものに変わってしまう。知っているはずの文字を読解できない、まるで脳の一部が微細な損傷で機能を停止したように。そして、彼は自分の精神が意のままにならない感覚から何かを思い出しかける。それほどまでに彼女は、青年の記憶を深いところで揺さぶった。

 薄明りに包まれたグラウンドにはもう誰もいない。彼は鞄にしまった本が有名だということはよく知っているけれど、どうしてそれが著名な書物であったのかを思い出せない。

 

 ふわりふわりとしながら帰宅する。家に帰っても妹しかいない。両親ともそれぞれが単身赴任をしている。もう少し心配してくれてもよさそうだが、連絡はたまにしか来ない。だいたい、この家族は一人で行動にすることに何のためらいもない、と青年は想起する。確かに、年に一度か二度の家族旅行くらいは行くものの、旅先ではそれぞれが好きなものを勝手に見て回り、あとになって宿で写真を見せあったり、寄り道して買った菓子を配ったりする。寺社ばかり見る母、食い倒れに走る父、その時の気分でそのどっちかについていく妹、それから地元の人間も知らないようなところばかり見て回る青年。仲が悪いのではないが、互いが今どこで何をしているのかあまり把握しておらず、それを気にしていない節がある。過干渉よりはましなのだろうし、不快でもないのだが、時折その話をして驚かれると、やはり世間とはずれているのだろうな、と納得する。

 そんな記憶があるのだが細部は曖昧で、例えば北欧の市場や東南アジアの寺院、地方の温泉宿のことは覚えているのに、例えばそこで両親がどんな顔をしていたのかを考えると、ふと自分が何を思い出そうとしていたのか、何をしていたところだったのかがぼやけてしまう。この世界では記憶はいつも曖昧で、それはどの世界でも同じなのだろうか、と疑問が浮かぶ。

 台所に立ち寄ると、今日は妹が夕飯の当番でグラタンを作っていた。料理は自分よりも上手なのだが、面倒くさがりである。それが料理の面で発揮されると、大体の品物は手早く作ってしまう才能になり、生活面になると制服から部屋着に替えずにエプロンを羽織ったまま調理を始めてしまう行為になる。後姿を見ると、小柄ではあるが背が伸びてきたようだ。髪型は短くそろえているがボーイッシュな少女という感じであり、完全に少年というような長さではない。我が妹ながらそこがかわいらしい、とうなずいていると、ふと思い出すことがあった。

 思い出す、というのとは少し違う。明確な記憶が浮かんだわけではない。ただ、一つの事実に対する確信があって、それを妹に向けて確かめずにはいられなかったのだ。例えば、いつまでも沈もうとしない太陽、あるいは自分の世界に対する立ち位置の曖昧さ、そうした物事が彼に一つの事実を告げていた。

 青年は少女を呼び、彼女の両目をまっすぐに見る。子どもっぽいくりくりとした目だ。赤ん坊のころから変わっていない。しかし、その記憶は本当に彼のものだろうか。兄の視線に気づいた彼女は調理器具を置いて首をかしげる。それに向かい、青年は容赦なくつぶやいた。

「デバッグモード」

 少女の表情は一変する。そこにいるのは中学生ではない。確かに子どもっぽい姿をしているし、子どもらしく振舞うだけの能力も記憶も有しているのだけれども、背後にいるのはこの世界を統御している存在だ。

「やはり君か」

 青年はため息をつく。

「そうだけれど何か?」

 少女は答える。

「今回はどういうゲームだ」

「プレイしながらルールを見つけるゲームというのも悪くないんじゃないかな」

「御託はいい、頼むから状況を説明してくれ」

 妹は笑う。悪意のない冗談を考えている顔だった。

 青年がかろうじて思い出したのは、この世界は仮想現実だということだ。なぜ仮想現実の中にいるのかといえば、基礎現実で彼は一つの戦艦に乗っており、別の恒星系に向かっているためだ。つまり、この希薄な宇宙では次の戦場までの距離があまりにも長く、到着までは年齢を重ねない凍結状態に置かれる。だが、凍結状態でも精神の時間は止まらないことが判明した。意識のない単純な眠りではなかったのだ。だとすれば、肉体の凍結している間を無為に過ごすよりも精神の訓練に充てるべきではないか、と上層部は判断した。なので、青年を乗せた戦艦が彼らの眠れる精神に干渉し続けている。人格を持つ戦艦が作り出す世界のルールを決めるのも、もちろんこの戦艦だ。青年はだんだんと思い出してきた。確かにこの仮想現実で本を読んでいることを自覚する直前まで、アマゾンとも東南アジアともつかない、現実よりも過酷な熱帯の森の中を進軍していた。それは空想や幻というよりも、明晰な白昼夢だった。だが、なぜかそうした訓練が中断されて、あまりにも平穏な学園生活が始まっている。どういうつもりだ、と青年は戦艦そのものである人格に問う。

「いつも戦場の訓練ばかりやっているわけにもいかない。たまには対人関係をはぐくんだり、社会生活を営んだりしたりするべき」

 青年はその説明に納得しない。

「そう言いながら、突然子供が戦場に駆り出されたりするんだろう。この都市が占領されてレジスタンスをやらされるのか、それとも大人が大量に死んで徴兵年齢が下げられるのか」

「違う。今回は純粋に対人スキルの試験」

「……あまり信じられないが、そういうことにしておこう」

 なんにせよ、確かめるすべはないのだ。

「私を信じて。少なくとも、私は君の意識の中に踏み込んで、例えばこの妹に対する禁じられた恋愛感情を喚起するようなことをしていない」

「冗談じゃない。そんなことは想像したくもない」

「そうかな。一応、私の容姿はあなたが理想とする少女の姿に、倫理的に問題がない程度に近づけているのだけれど」

 今、胸をずきんと刺した感情は無視することにする。もしかしたら妹に恋をするようにパラメタをいじったのかもしれない。青年は今までの過酷な訓練を漠然と思い出す。訓練とはいえ、つらい決断ばかりさせられてきた。この戦艦の性格からしてやりかねない。

「ところで、基礎現実では艦隊は無事に進んでいるのか」

「……それを君が気にする必要はないよ。で、これはゲームなのだから、ゴールを設定しようかな。よし、無事にあの先輩を落としたら勝ちということで」

 青年は顔をしかめる。妹はといえば、片想いに焦がれる兄をからかう表情そのものだ。

「どういつもりだ」

「どうもこうもない。ゲームに乗るも乗らないも君の自由だ。そういうわけでよろしくね、お兄ちゃん。ご飯ができたからそろそろ食べようよ」

 いつの間にかただの少女のような口調に戻っていた戦艦に、青年は呆れるしかなかった。

 食後、布団にもぐってもまだ太陽が出ていて、これは白夜というものではないか、と気づき、これだけ明るいと睡眠障害になるのではないか、と不安になったが、気づけば無事に朝になっている。よく眠れたのが若さのおかげなのか、時間が来れば自動的に入眠と覚醒が行われる設定になっているからなのかはわからない。

 

 文芸部という設定なので、青年は休み時間にも本を読んでいる。クラスの中で特に親しい友人はいないようだ。昨日のサッカー部と野球部とマネージャーらしい人物もいるが、特に目が合うわけでもない。他にも数人ずつ生徒が塊になっているが、青年はそのどこにも属していない。

 舞台となっている世界は、たぶん少し昔の日本がベースになっているし、何の保証もないけれど、青年も自分が日本人だったような記憶はある。とはいえ、こうしてやたらと低い太陽に照らされ、薄明の中で過ごしていたことなどありえない。日本が高緯度の地域を占領したりそこに入植したりしていた事実は彼の知る限りない。白夜を経験するには、サンクトペテルブルクくらいまで北に行かないと無理だ。

 座ったままで本を読んでいると、さまざまな記憶がよみがえりそうでよみがえらないのがもどかしい。仮想現実の中では自身の記憶にさえまともにアクセスできずに、あたかも本当の学生であるかのようにふるまうしかない。基礎現実の自分が実際に文学青年であったのかどうかは疑わしく、目の前で読んでいる書物もまた現実世界に存在していたか怪しい。人工知能が小説を生成することが当たり前になって久しい。

 さらに言うと、この経験がどの程度の密度なのかも曖昧だ。現実を細部まで再現すると戦艦の容量を食うので、単純に青年は本を読んでいた、そして現在も読んでいる、という記憶と気分を頭に植え付けているだけの可能性もある。

 そんなことを、実在するのかしないのかもわからない文学作品を手にしながら考える。考えているうちに先輩がやってくる。気配もなく、後ろから彼が読んでいる本をのぞき込んでいた。それと分かったのは先輩の甘い体臭のせいだろうか。それとも隠しようのない気品と存在感のためか。この世界が虚構のものだと知ってからも、先輩から漂ってくる抗しがたい何かには力が抜けてしまう。ふにゃふにゃしながらも姿勢を正さないといけない気持ちになる。振り向けば、昨日のようにはコートを羽織っていいない。

「先輩、学年が違いますよ」

 幸い、困惑した青年に注目している生徒はいない、と言いたいところだが、先輩はどうやっても目立ってしまう。特段背が高いわけでもないのだが、他人から抜きんでているためだ。それは憧れの先輩という姿をそのまま具象化したようだから。戦艦が作り出した幻影なのは間違いないのだけれど、ゲームの中からそれにあらがうすべはない。

「何曜日が部活だったかを聞き忘れてた」

 そういえば今日は何曜日だったか、と青年も考える。だが、教室を見ても日付や曜日を特定できるようなものはない。どうもこの世界では曜日がまともに設定されていないらしい。別に曜日がなくて毎日部活があるのなら毎日先輩に会えるので好都合だが、休日がないのだとしたら少し困る。

「今日は部活はないぞ」

 と野球部が聞かれてもいないのに答えていた。彼との距離感がわからないのだが、ひとまず感謝はしておく。一応は友人という設定なのだろうか。名前がわからない以上、とてもそうは思えないのだが。単純に先輩にあこがれていたから割り込んできた。大いにありうる。

 とはいえ、部活があったとしてもやることといえば単純に本を読んでいるだけだ。確か幽霊部員がちゃんと顔を出していた頃には、課題図書の感想交換会くらいはやっていたのだけれど、最近は部活そのものを青年が私物化している。棚の奥には代々の先輩の作品が載っている部誌が何十年分も残っていて、手元の本を読み切ってしまったときなどには持って帰って読むこともあり、水準も決して低くはなかったのだが、かといってそれで青年が創作に目覚めたわけではなかった。そういう記憶があるのだから、そういう設定なのだろう。

 さておき、先輩は部活がないと知って残念そうな顔をしており、その様子を見ていると胸が締め付けられる。先輩はあまり感情を見せないと思われていて、事実あからさまな気落ちの様子を見せているわけではないのだが、それはどんな叱責よりも青年にはこたえた。

 そこで思わず手を伸ばしてしまう。あるいは、媚びてしまう。

「なんでしたら、放課後に古書店街に行きませんか?」

 そこで青年は自分が注目されてしまったことに気づき、単純に先輩を喜ばせたいつもりだったんだけれど、これってクラス中の真ん前で憧れの先輩をデートに誘ってしまったというやつなのではないか、と冷や汗が出て、続いて全身がほてってくる。顔が真っ赤になっているのがわかる。青年は意識しないところでとんでもなくうかつというか、地雷原をそうと知らないまま突っ走ってしまうことがあり、そうやって気づいてからもじもじしてしまいそうになるのだけれど、おかしなやつだと思われるのが嫌なので固まったままだ。

 先輩は、青年の緊張にまるで気づいた様子がなく、おっとりと笑みを浮かべた。

「校門で待ってる」

 それは目立ちすぎてしまうので、部室の前にしてほしい、と何とか説得した。ありがたいことに、二人の待ち合わせをのぞき見している者はいなかった。いたとしても舞い上がっている青年は気づかなかった。

 

 古書店街は学園から歩いていけるだけの距離にあった。

 ここを訪れるのは初めてのはずなのだけれど、どうすればそこに行けるかという記憶はしっかりと存在している。そして、思春期の欲望の具現化として先輩はそこにいた。趣味の合う美人の先輩と二人きりという、あまりにも自分の望むままの環境は人工的であるが、これがただの夢だとは認めたくない。

 交差点に向かって坂を下りていくと大きな書店があって、そこは古本屋ではないのだが、ベストセラーやアニメ化が決定した漫画の広告がかかっている。これで舞台となっている年代を特定できないかと思ったが、残念ながらまったく記憶にない作品だった。ポケットに手を入れてタイトルを調べようとして気づいたのだが、この世界ではスマホどころか携帯さえ話題にならない。時代設定はどうなっているのか、ますますわからない。髪を茶色に染めている者は何人かいたが、それが普通になったのがいつなのかファッション史にうとい彼にはわからないし、先輩の隣なのだからどうでもよくなってしまう。

 先輩からどういう本が好きなのかを聞きながら、おすすめの古書店を案内していく。あまり話題にはならないけれども質の高い幻想文学、赤道直下の野生の鳥の写真集、いつかは読みたいと思っている海外文学の原書などを先輩は買った。青年もSFを何冊か入手して、それから喫茶店に入った。いつもは何ということもなく頼んでいる記憶のあるブラックコーヒーを頼むと、意外に大人っぽいね、と言われ、照れてしまう。先輩は意外にも豆の種類がわからなかったので、酸味と苦みの好みなどを聞きながら一緒に選んだ。先輩は、青年の見立てに満足したようだった。

 この先輩を落とせと、妹は言う。落とすっていうのはどういう意味だ。告白して好きだっていうことか。深い仲になって一緒に朝を迎えるってことか。それとも結婚するってことか。夫婦として一生添い遂げることか。大体これがどういうジャンルのゲームなのかもよくわからない。もともとゲーマーではなかった青年は、恋愛シミュレーションゲームなどやったことがなく、こうした世界でのお約束など知らない。

 だが、そんなことにこだわるまい。先輩とは読書の趣味がとても合うことが分かった。お互いにそのうち読もうと思っている本を相手が読了していて、だから熱心に本をすすめあった。そこで、古書店ではない普通の本屋にも寄って、相手がすすめてくれた本も買うことにした。互いにプレゼントするほどには仲は深まっていない。でも、初デートにしては距離がぐっと近い。いや、デートなのだろうか。ただ先輩を案内して、満足のいくように奉仕しただけな気もする。それが嫌なわけではないけれど、落とすこととはほど遠い。

 駅まで登っていくと、楽器の店にサッカー部とマネージャーがいるのに気づいた。そこはうまくやり過ごしたが、こうやって見ると、駅前のチェーンの喫茶店には別のカップルがいる。この世界の規模から考えて、キャラクターが行動できる範囲は狭いから、同じような顔を遭遇しやすいのだろうか。

 二人は駅前で別れた。互いにどっちに歩けば自分の家に一番近いか、よくわかっている。また明日、と手を振ってから先輩は消えた。

 彼女が遠くなるまで歩いていると、サッカー部とマネージャーのカップルから声をかけられた。

「ねえ、私たちがここにいたってこと、内緒にしてね。あなたたちがここで何してたか、クラスのみんなには黙っていてあげるから」

 青年はうなずく。

「ありがとう。それじゃあ、また明日学校でね」

 二人は手をつないで歩き去っていく。打ち捨てられたような、地下に向かっているらしい階段の傍らを抜けていく。その階段は、見るだけで近づきたくない気持ちにさせられたので、青年は目を背ける。理由はわからない。こういうゲームの世界は設計者の趣味を反映して、えてして不条理だ。

 カップルを、自分たちもああ見えていたのだろうか、ともじもじ見送っていると、いきなり肩をばしんとやられた。

 

「デートは大成功だね、お兄ちゃん」

 妹は小柄なくせに一生懸命背伸びして青年の肩を叩いたらしい。

「見てたのか」

 当然だろう。妹はこの世界を作り上げた存在が語り掛けるためのアバターとしてここにいる。知らないはずがない。今の妹の意識はどちらなのだろう。管理者権限を行使しているのか、それとも、普通にキャラクターの一人としてこの世界に遊んでいるのか。なじみの古書店、と思ったけれども、青年がこの世界に来てから一日が過ぎただけ、すべては妹が彼の脳に書き込んだ記憶に過ぎない。でも、先輩に寄せる想いだけは本物なのだ、と彼は自分に言い聞かせている。ここで、自分の脳がいじられていることを知りながらパニックにならないことがすでに脳をいじられている証左で、でもそれさえも気にならない。自分は妹、というか妹を演じている知性が作り出した世界のコマの一つに過ぎない。

 それよりも気になるのはこの世界の細部だ。駅から少し離れたところに正教会の寺院があるけれど、この白夜の世界にリアリティを与える効果はない。日本の風景にロシアの建築を混ぜたところで、高緯度に起きる現象を正当化できるわけではない。この国籍もあいまいな世界の駅の前を川が流れていて、その上を電車が走っていく。けれども電車に乗っている姿はない。運転手もいない。自動運転が実用化される前の時代が舞台なのだろうから、これも演出ミスなのだろうか。

 ちょこまかと話し続ける妹のヘアスタイルを見てみると、先輩のロングヘアと対比させるために短くしたつもりな気がしてきて、グラフィックについての安直な判断を責めたくなるのだけれど、もしかしたら女の子のヘアスタイルに詳しくない青年に合わせてくれようとした可能性は否定できない。

 でも、一番気にしていることは、妹にデートを見られた気まずさだった。なんとかそれをごまかそうとしている。

「君がここにいるのはご都合主義だとは思うけれど」

「気にしない、気にしない」

 妹は気にせずに黙ってゲームを続行するようにうながしている。また電車が行く。数分に一度の頻度でやってくる。誰も乗せずに、どこにも行くことがない電車。駅に止まることなく、この世界の境界線の向こうに行けば描画されずに消失する。

 この列車はどこかに自分を連れて行ってはくれないだろうか。先輩と一緒にこのまま遠くに行ってしまえないだろうか。家も学校も遊び場も、何もかもが徒歩圏内で済んでしまうのは、高校生にしてはちょっと狭い気もしていて、だから先輩とひと夏の冒険をしたい、と夢想する。夜中には太陽が北側からさして、モデルとなった日本の都市では起こりえないことが起きる。こうして、非現実的な方角から太陽がさすこの世界のことだから、夏の夜はいつまでも明るい。こうして思考は、プレイヤーではなくただの男子学生のものになっていき、コントロールができない。

 そんな思いを見抜いたのか、妹は冷淡に告げる。

「電車には乗れない」

「どうして。家には近くなりそうなものだけれど」

「屁理屈言わないの。私に見られないところで先輩と二人っきりになりたいんでしょ」

 青年は頭をかく。先輩のことを考えていたことをごまかしきれていないし、何よりも妹の前では一切の言い訳は無意味だ。妹は歩き出す。青年もついていく。

「このゲームは環状線の内側だけが舞台だから。その境界線を越えれば、そこには何も存在しない。一応背景は描画されているけれど」

「それは君の容量の問題か」

「本気を出せばもっとできるけどね。ただ、ここは人口の密集地帯であったことは覚えておいて。台詞のないモブキャラを動かすのだって面倒だし、チャットボット以上の知性を持たせると消すときに倫理的な問題がある。それになんたって私の任務はお兄ちゃんたちの訓練だけじゃないんだからね」

「うん」

「それにしても、デートは順調だね」

 管理者から妹への切り替えが、仕事からプライベートに切り替えたみたいでかわいい、となぜか思う。勝手にシスコンという設定を付け加えられたのかもしれない。

「だから、そんなお兄ちゃんのためにもう一つ課題を増やしてあげよう」

「は?」

「この世界に登場する人物のうち、背後に実際のプレイヤーがいるのは誰かをあててほしい」

「実際のプレイヤーっていうのは」

「もちろん、私という戦艦に乗っている兵士たち」

「どうしていきなりゲームの難易度をあげるんだ」

「難しいことを考えるのは野暮だよ」

「けれど」

「というか、ゲームをプレイしている間には、設計者の意図を読みすぎないほうが面白いでしょ。たとえ、私たちの向かっている戦艦が、意識を持つかどうかわからない不可解な敵に遭遇する運命にあるのだとしても、今はそうなったときの倫理的な判断について考えるよりも、ゲームに没頭するのが幸せだと思うよ」

 気づけば家の前にいる。妹は鍵を開ける。

「そういうことだから。じゃあ、私先にお風呂入ってくるね。今日のご飯の当番、お兄ちゃんだったよね。食材は冷蔵庫にあるけど、卵は賞味期限切れてるかも」

「でも」

「じゃあ、頑張って」

 そのまま階段を昇って消えた。着替えを取りに行ったのだろう。

 本当にうちの妹はよくわからない、と青年はため息をつき、そういう設定なのだろう、と納得する。

 

 図書委員の女の子がうろうろしている。青年は背表紙を指さしながら、新しく本を探している。家に帰ってから買った本をあっという間に読み終えてしまったのは、自分の読書スピードが高めに設定されているからだろう。もしも先輩も同じくらいの速さで本が読めるのなら、次の部活までに先輩がちょっと名前を出しただけの長編を読んで、その感想をつぶやいたら感心してくれるかもしれない。図書委員に本を借りるので書庫を開けてくれと頼み、階段を下りる。懐かしい紙の香りがしている。絶版になった全集の間を歩く。そうしている間にも先輩のことばかり考えている。自分の感情がコントロールできない。

 そこでふと、著者の名前で目が止まる。今更ながら、青年は不審がる。どうして誰にも名前がついていないのだろう。先輩にも、妹にも、自分にも。おかしなことに、人間には名前があると思い出したのがたった今のことだ。どうも自分の意識は論理的に働かないというか、さまざまなものを見落としていてまともに機能していない。不気味なはずだが、まるで不快感がない。いくらなんでも妹は青年の脳に制限をかけすぎている。とりあえずゲームが終わったら軽く苦情を伝えてやろうと思う。

 作りこまれた世界ではある。だが、どこまで作りこまれているのかはわからない。さっき会話をした相手はどう見ても正常だった。こんなことを考えるのは恐ろしいのだが、先輩の体ならどこに触れても本物と区別がつかないだろうし、下手をすれば本物よりも感覚が細やかもしれない。いざ本当に触れることができたら、先輩の体のあちこちが、本当に他の女性と同じなのかを確かめずにはいられないだろう。他の女性なんて触ったこともないけれど。いや、自分本来の人格ならあるのだろうか。それはさておいて、それが他のキャラクターではどこまで作られているかは不明だ。モブキャラなど、下手をすればスカートの中が描画されていないことだって考えられる。

 まさか階段の下に陣取って確かめるわけにはいかないのだが、同じ理屈で体内が同じ構造をしているかもわからない。だから、妹から求められた意識の有無の確認など、いくら頑張っても不可能だとしか思えない。というか、現実世界には意識の有無などを判定する必要に迫られるシチュエーションはなかったはずだし、現実世界でも不可能なことだ。

 気にするまい、と青年は思う。外の世界で何が起こっていようとも、ひとまず先輩と距離を縮めたい。まずはゴールの一つをクリアすることだ。ゲームの中にいるときは、外の世界を支配する物理法則について考察するのは無粋だ。しかし、これで先輩が実在の人物が背後にいるキャラクターではなかったとしたら。それは恐ろしい可能性だ。

 このゲーム、本当に細部は基礎現実と同じなのだろうか。プラトニックな恋愛があるのなら、当然その先があるのだろう。成人向けの表現があるのなら、もしかしたら本棚の片隅でいかがわしいことをしている者がいるのではないか。気になったので、書庫を出た後に一通り図書室を回ってみた。これはいやらしいのぞき趣味なのではなく、世界観の確認である、と青年は自分を納得させた。どうやらそういう様子はなく、拍子抜けがすると同時にほっとする。妹がポルノまがいの空想をしていることを考えるのは、なんとも言い難い気持ちにさせられる。

 それから本棚からもう何冊かを手に取って、貸し出しの手続きをした。そのときに、図書委員の顔をのぞき込んだ。他意はない。ただ、この人は意識を持っているのだろうか、という純粋な疑問だ。彼女は少しだけ顔を赤らめた。それがどういう意味かは分からない。

 本を鞄にしまって部室に向かっていると、お兄ちゃん、と呼び止められた。

「何しに来た」

「学校には勉強しに来ているんだけれど?」

 それはそうだろう。

「はぐらかさないでほしいな」

「あとは、お兄ちゃんが変なことをしていないかを確認するのが私の義務だから」

「意味が分からない」

「さっき図書委員の女の子を落とそうとしてたでしょ」

「そんなわけがあるか。意識があるかどうかを確かめようとしたんだよ」

「お兄ちゃんはお馬鹿なの?」

「君がやれって言ったんじゃないか」

「そんな方法で意識の有無を判定できるわけないじゃん」

 ぐうの音も出ない。

「それに浮気したら死ぬよ」

「は?」

「相手によっては二股をかけてると気づいたら容赦なく刺してくるからゲームオーバーになる。で、記憶をなくして最初からプレイすることになる」

「なんでそんなことを。……いや、待ってくれ。僕は何周目なんだ?」

「一周目、ということにしておいてあげるよ」

 さりげなく恐ろしい設定を教えてくる。でも、妹ってそういう存在な気がする。そして妹は続ける。

「それと、私はこれからお兄ちゃんの前では基本的に純粋な妹になります」

「どういう意味だ」

「要するに、管理者というか設計者としての私に、そっちからアクセスすることはできないってこと」

「ちょっと待ってくれ」

「待たない。そういうわけで、デバッグモード、って言っても、私は呼び出せないので、そこのところよろしく」

「それは困る。どういうつもりだ」

 しかし、妹はいたずらっ子のような表情をひそめて、ただ廊下ですれ違ったときの顔になっている。さっきまで何の話をしていたのかわからない様子だった。青年は試みに呟いた。

「デバッグモード」

 思った通り、妹はきょとんとした顔をしてこっちを見上げている。何か新しい遊びを思いついたの? という表情だ。馬鹿じゃないの? ではなかったのだが、それで救われたとは思わない。

 

 先輩も昨日の夜のうちに買った本を読み終えたらしいのだけれど、彼からしてみれば今はそれどころではなかった。

 考えてみれば、先輩に本当に意識があることを確かめないといけないのだ。しかし、これだけ自分のことを受け入れてくれる人が意識を持たないなんてことはありえないんじゃないだろうか。心がなければ、青年と同じ本を読み、感想を伝えることもできないのではないか。青年が先輩を喜ばせようとする行為、それらをゆったりと受け入れているときの笑みの背後に、情緒がないとは思えない。

 もしも先輩が意識を持っていないとしたらこの世界はまやかしだ。きっと先輩も、青年と同じように自分の記憶にアクセスできなくて、ただの学生としてふるまっているだけなのではないか。それなら、先輩がどこまで戦艦に乗っていた頃の記憶を持っているか、あるいは記憶にアクセスできるかを確かめなければならない。

「……先輩」

「何?」

「先輩は、この世界が作られたものだって思ったことはありますか?」

 青年は、先輩に対する畏敬の念が消えたわけではないけれども、親しみの情も強くなっていて、だからそれほど恐れずに、文学青年にありがちな空想に見せかけた問いを発することができる。

「それは、文字通りの質問?」

 否定的ではないが、肯定をしているようにも見えない。時間を持て余しているわけではないけれども、今すぐにしなければいけないことがあるわけではない、先輩のおっとりとした声だ。文学的な思索が好きでも哲学的な思弁が好きとは限らないが、嫌がる様子がないので青年は続ける。

「僕は、この世界が作られる前の記憶をかすかに保持しています。こんなことを言うと、変な奴だって思われるのはわかっています。でも、僕には戦場の記憶があります。僕はかつて、地球ではない惑星で行軍していました。そこで敵と出会うこともなく何日も進軍していました。気温や湿気ばかりではなく、ハエやヒルみたいな原住生物も襲い掛かってきます。不衛生さからお腹を壊し、体中にとげが刺さり、理由のわからない痛みがあります。僕らは命と細胞と遺伝子を脅かされていました。仲間を次々と見捨てて行かなければなりません。そんな場所から、はっと気づいたらここにいたんです。先輩もひょっとしたらそういう記憶があるんじゃないか、って思いました」

「どうして、私がそういう経験をしたって思うの?」

「先輩もまた、意識があるのなら、このゲームのプレイヤーなはずだからです。ここは現代の日本ではありません。先輩もプレイヤーですね」

 単刀直入に尋ねた。馬鹿げているとしか思えない。自分がゲームの登場人物であるかのようにふるまうのは、現実の自分の小ささを受け入れられない学生にありがちな態度だ。けれども、こんなに青年の心を揺さぶる先輩が本物の人格を持っていないはずがない、という信念に賭けた。意識を持たない設定のキャラクターでも、意識があるかどうかを聞かれれば、論理的に考えればそう答えるに決まっているし、ここで私は意識を持っていません、と答える時点で悪趣味なジョークとしか思われない。ただ、先輩の答えから、先輩の心が実在していることをありありと感じることができる、と青年は愚直に思っている。妹だったら、まじまじとこちらを見て、やっぱりお兄ちゃんは馬鹿だ、と鼻で笑うに違いない。あるいは、こういうゲームの雰囲気を壊すようなプレイはやめてほしいな、と文句をつけるに違いない。青年はこうして愚かになって見せることで、先輩の信用を勝ち取ろうとしている。

 そして、先輩はうなずいた。

「そういうまどろっこしい言い方で聞かなくて大丈夫。君が予想した通り私もプレイヤーだ」

 青年は安堵する。

「もちろん、証明する方法はないけれど。でも、嘘をつくメリットはない」

「いや、信じますよ」

 これで、先輩が現実でも戦艦に乗っていることが現実のものだとわかってうれしい。しかし、こんなに気品ある女性がどうして戦場に向かわないといけないのだろう。医療班か、それとも工兵か。はたまた、女性を演じる男性か。その可能性はあり得ない、と青年は否定する。ただ、このおっとりした大人の落ち着きは、年上の女性にふさわしい、と青年は判断する。

「そうとわかれば、このゲームのクリア目標その一の第一段階はクリアしたようなものです」

「もう一つのゴールは何?」

「それはちょっと待ってください。もう一つの条件はちょっと入り組んでいるので」

 まさかあなたを落すことです、とは言えまい。

「ただ、課題を達成したらフラグが立つでしょうし、そうしたら何か新しいイベントが発生するようになるはずなんです。例えば、通れないところが通れるようになるとか、鍵が開くとか」

 先輩は髪をかきあげた。

「出かけてみようか」

「どこへですか?」

「これがゲームなら、どこかにヒントがあるはずだから」

 

「私がどこに向かおうとしているかわかる?」

「古書店街だと思います」

「半分正解。具体的にはどこ?」

「駅です」

「なぜそう思うの?」

「立ち入り禁止、って妹から言われたのが怪しいです。ゲームでは、通れないところは単に通れないのですが、別のキャラクターから『そこは立ち入り禁止だよ』と言われているときには、大抵は後のイベントで通れるようになることを暗示しています。……この世界の設計者というか、ゲームマスターですかね、その本人が通れない、と言っていたのが、何となく気に食わないんですが」

「私もそう思う。というか、私のかすかな現実世界の記憶からして、誰も乗っていない電車はあまりにも異様に映る。つまり、現実との差異が激しい場所が何らかのヒントなんじゃないかって思う」

「ここがずっと白夜なのも、何かのメッセージでしょうか」

「それはまだわからない」

「そもそも、このゲームの意味は何でしょう。妹の目的は何だと思いますか? 訓練にしてはあまりにも奇妙です」

「暇つぶし、のはずはない」

「うちの妹のキャラ的にありえそうで怖いです」

「人工知性を過度に擬人化しないほうがいい」

「それはそうですね。……先輩は、ゲームのゴールは何だって言われました?」

「私も同じ。意識の有無の判定」

 そこで一呼吸あったのは、先輩も青年を落とすことがゴールなためだろうか。しかし、彼女の迷いのなさからは、それを感じさせるものはない。先輩は続けた。

「つまり、そこに何か実用的な理由があるはず」

「実用的」

「そう。基本的に人工知性は人間よりも頭がいい。なのに、そこに人間の判断を介在させる必要があるケースがある。例えば政策の決定。人工知性ができるのは、こういう行動を取ったらこういう出来事が起きる確率が何パーセントだと予測を立てること。彼らができるのはそこまで。実際にリスクを取るのは人間でないと、人間は機械に管理されたと感じてしまう」

「それは聞いたことがあります。時には、最善手から外れたことをするのもよい、とも」

「言い換えるなら、人工知性は最終的な意思決定ができない存在。つまり、判断に迷う事態が起きた時には人間に助けを求めなくてはならない」

「人間がいないと何もできないし、勝手に何かをしてはならない」

「けれども、人間に介入を強制することはできない。だから、私たちに無意識にヒントを出しているんじゃないかな。……あるいは助けを求めている」

 とはいえ、妹の態度からはとてもそうは思えなかった。

 駅に着いたが、構内に入るためには当然切符がいるはずなのに、券売機はすべて故障していた。ディスプレイは黒いままだ。駅員を呼び、中に入れてもらおうとするが、怪訝そうな顔をされた。

「どこに行くのですか」

「中に入りたいのです」

「ここに来る電車はすべて通過です。お乗りにはなれません」

「構内に入るだけです」

「電車に乗れないのにどうしてお入りになるのですか」

「見学です」

「ここは電車に乗るための場所です。お乗りにならないのでしたら、切符を売ることはできません」

 青年は先輩の顔を見た。先輩も同じことを考えている。この人物は背後にプレイヤーがいない、と判断している。あまりにも定型的な反応しか返ってこない。過去の時代なら、そういう命じられたことだけを実行するタイプの兵士もいたかもしれないが、今はそういう時代ではないはずだ。

「人を見送りに行くのです」

「誰も乗れないのに、見送りに行くのですか」

「……どうする?」

 先輩は青年に耳打ちした。彼女のささやき声は心地よくて、青年は言葉の意味を逃しそうになった。なんとか現実感を取り戻し、少し思案して、僕にいい考えがあります、とささやき返す。子供の頃に初歩的な、チャットボットより少し賢いだけの人工知性を混乱させて遊んだのを思い出したのだ。

「この駅は電車も止まらず、誰も乗り降りせず、誰のことも見送ったり出迎えたりしないのですね」

「はい」

「では、ここは何のために存在するのですか」

 虚を突かれたように駅員は沈黙した。目線をこちらに合わせなくなる。やがてこちらのことが意識から抜けたようになる。何も言わなくなる。自分の頭の中に生まれた論理の矛盾と対話を始めてしまった。うまくいったらしい。青年は、また先輩の役に立てたと嬉しく思う。改札を無造作に通る。自動改札も電源が入っていなかった。

 ホームに降りる。しかし、電車は止まる気配がない。

 二色の電車がそれぞれのホームで通り過ぎていく。書かれている地名は読み取れない。では、時刻表の数字や広告にも何か意図がないか、と調べてみたが、そういう様子はなかった。ホームの端やトイレの中も確かめたけれども、何もなかった。誰もいない駅であちこちを探し回る二人を見る者はいない。けれども、その孤立が二人を急かすのだった。

 どれくらい時間が経っただろうか。二人は並んでベンチに腰掛けた。ほほえましい学生カップルのように見えるが、まだそうではないし、今はそれどころではない。考え疲れて川を見下ろすとそこには奇妙な橋が架かっている。対になったトンネルがあり、その上に道があり、それは別の二つ並んだトンネルに向かっている。そこにつながる道があるようには見えない。そしてそこを通る姿はない。地上ではまだ往来が絶えないのに、そこだけが打ち捨てられている。

「先輩」

「何?」

「あれ、変ですよね」

「確かに、どう考えても不自然」

 青年は目測でその幅を測る。トンネルは大体電車が入るくらいだ。二つトンネルが並んでいるのは、上りと下りの電車のためか。つまり、ここには線路があったはずなのだ。それがどういうわけか撤去されているように見える。

 モデルとなった世界ではどうなっていたかどうかはわからない。ただ、これは地下鉄の跡地なのだ。ここは地下鉄の路線が地上に出ていた場所のはずだ。そうとわかれば、入り口を探してみるべきだ。

 まだフリーズしたままの駅員を放っておいて二人は周囲を探索する。それほど長く歩き回らなくとも、だれも見向きもしない階段に気づいた。看板の文字は消えたのか、意図的に壊されたのかはわからない。そこに近づけば近づくほど、それを忌避したいという感覚は強まっていく。

「先輩、これ、すごく嫌ですね」

「うん。でも、これって」

「だと思います。逆説的なヒントですね」

 

 いざ中に入ると、忌避感は薄れていった。

 やはり地下鉄の遺構らしく、改札やホームの跡もあった。ホームから見下ろせばここでも線路が撤去されている。構内は明るいが、当然電車が来ることなどありえない。にもかかわらず、汽笛のような音が聞こえるのはなぜだろう。しばらく待ってみるが、もちろん何も起こらない。さっきの汽笛も幻か、と思う間もなくトンネルの奥からうめくような声が聞こえる。風のせいだろうか。そもそも、地下鉄が汽笛を鳴らすはずもなく、すべては幻聴なのだろうか。

 二人は意を決し、ホームから線路のあるべきところへ降りて歩き出す。どちらからともなく明るいほうに向かう。つまり、さっき地上駅の下にあった橋のほうに。まずは先ほど二人が見下ろしていた場所に無事に下りられたかどうかを確認したかった。

 下から見上げた駅や街はどこか人工的で本物らしくない。そこにいるのが自意識を持たない人間がほとんどだからだろうか。考えてみれば学校の人間のうち誰が意識を持っているかまでは確認できていない。先ほどの駅員のように明らかにエラーを起こすのならわかりやすくていいのだけれど、だからといって全員に話しかけて確かめていけば、学校中が機能停止をして立ちすくむ人間だらけになってしまう。不気味なだけでなく、エラーを起こしたキャラクターが増えるとゲームがまともに進行できずに強制終了になるのではないか、という疑問も浮かんでくる。いや、うちの妹はそんなにやわではないだろう、と青年は独白するが、ゲームをバグらせたらクリアできなくなる恐れがあり、そもそも自分も無事で済まない可能性だってある。

 橋の上の草を踏みしめて、よどんだ川を見下ろして歩く。先輩は青年の思索を見抜いたように口を開く。

「あの人は本当に人間じゃなかったのかな」

「駅員ですか?」

「人間は精神が弱っていると、時としてフリーズしてしまうものだから。緊張のあまりどもってしまったり、しゃべれなくなったりすることは、誰でもある」

「ですね」

 先輩がそうなることがあるとはありそうに思えなかったけれどもうなずく。

「とりあえず会話して確かめてみるという方法では、推測はできるけれど断定はできない」

「そうですね。……それはゲームのクリア条件にしては簡単すぎる気もします」

「これからどっちつかずというか、ボーダーラインにいるように見える人が出てくるのかも」

「それを判定するんですか? 悪趣味なゲームですね。まるで誰が人間とみなされるべきか、あるいは生き残るべきかを決めないといけないみたいです」

 その言葉とともにトンネルに入る。ライトはついていない。だが、彼らを迎え入れたのは暗闇ではなく星空だった。この世界で初めて見た夜だった。ありえないはずの光景なのに、夜の訪れないこの世界では、星々はここに隠れていたのか、と納得した。

 地上の夜と異なっているのは、星空が足元にも広がっていることだ。

 二人の歩みに並走している輝点は彗星だろうか。いや、彗星がこれほど早く動くはずがないし、そもそも近くに彗星を捉えている恒星も見当たらない。だから尾があるはずもない。おそらくは戦艦だ。明滅しているのはメッセージを送っているのか、敵に攻撃しているのか、はたまた攻撃を受けた時の爆発なのか。

 これは戦艦から見た宇宙なのだろうか。確かに知っているはずの星座は一つもない。星座の形が崩れるほどに地球から遠ざかってしまっている。

 青年が口を開くと、声はトンネルの中なのにまったく反響しない。それどころか遠くに吸い込まれていくようだ。宇宙なら空気がないはずだが、そもそもここは宇宙ではないのだ。

「僕は、これもヒントだと思います」

「プラネタリウムのようなこの光景が?」

「はい。このゲームの外の世界は宇宙船です。妹が宇宙を描写するときには、外界の影響を受けるでしょう。何らかの情報が洩れている可能性があります」

「まるで、夢のお告げを期待しているようにも聞こえる」

 青年はうなずいた。

「そもそもこの白夜の世界が、夢の世界なんです」

「なるほど」

 白夜の世界に訪れるはずのない夜が、ここに隠れていた意味は理解できなかった。でも、ただひたすらに美しかった。

 それが妹の無意識なのだとしたら、そこでどれほど凄惨な戦闘が行われていようとも、悪意が入り込む余地などなかった。二人は考える。ぽつりぽつりと意見を交換する。互いの考えが、互いのつぶやきによって補強されていく。

「やっぱり変です。さっきの駅員をプレイヤーじゃないって見抜く方法、戦艦級の人工知性が作った知性にしては杜撰すぎます」

「高度に入り組んだ罠かな」

「妹が壊れかけているわけじゃないことを祈ります」

 壊れかけの人工知性に脳をいじられたくはない。

 外ではいくつもの戦艦が爆発している。海の上ではないのでどこにも沈まず、瓦礫になっても船は亜光速で進んでいく。運動量のベクトルはそろっているようでいて、わずかに異なる。敵も味方も入り乱れて、星間物質のなかにまぎれていく。勝利は確実であるが、喜びの感情は沸いてこない。

「この地下に入るときの忌避感も変ですね」

「変、というのは」

「いくら何でもわざとらしすぎます。見つけてほしくない、と訴えながらも、かえって目立つんです」

「あたかも、本当は見つけてほしがっているみたいに見える、と」

「はい。ひょっとして、妹は僕らにヒントを出しているのではないでしょうか。そして、何らかの判断を丸投げしようとしているのでは」

「人工知性の挙動として、それはありうる」

 先輩の表情が読めないのは、宇宙の暗さのせいばかりではない。

 

 トンネルを抜けた先には、廃墟が広がっていた。

 それほど歩いていないはずなのに、まるでそこだけ時間の過ぎ方が異なっていて、すべてが老いてしまったかのようだ。それは憎悪や怒りによって破壊された都市ではない。ただ朽ちてしまった。痛ましさというよりも安らかさがある。これも妹の記憶なのだろうか。人類は地球から去っていった後の光景。すべてが自然に還るままに任せたのか。

 そこにはなぜか妹がいた。彼女は笑っている。笑っているのだけれど嬉しそうではない。この世界が張りぼてだと気づかれたのが気まずいのだろうか。それが彼女の計算容量の限界だということを悟られたのが悔しいのか。

「お兄ちゃん、ゲームはクリアできそう?」

「いや、まだだ。……というか、君はもうゲームマスターとしては発言しないんじゃなかったっけ」

「そこまでは言っていない。お兄ちゃんからゲームマスターに話しかけられないけれど、こっちからはいつでも話しかけられる、なんて言ったってゲームマスターなんだし」

「……それもそうだな」

 彼はホームの上の妹を見上げる。

「ひとまず、僕が気付いたことをまとめるよ」

「どうぞ。私は聞いてないかもしれないけれど。いつでもただの妹に戻ってしまうかもしれないし」

「構わない」

 青年は妹に優しく語りかける。先輩との話し合いの中で見つけた、妹が何を隠しているかという仮説を秘めながら。妹は、人類に何をしてほしいと思っているのか。

「まず、君はゲームを通じて、逆に僕らに何かを判断させようとしている。ゲームのゴールにかこつけているけれど、僕らに責任を負わせたいんだ。人間しか責任を持って判断しできないものだ」

「ふうん」

「それは恐らく、意識の有無だ。あるいは、人間として機能しているかどうかだ。君の相手が人間かどうかを判定するアルゴリズムでは処理しきれない事態が起きた。君は以前、そんな敵に会う運命にあるとしても、と口にしていなかったか。例えば、現れた敵が激しく身体改造を施していて、人間か機械なのかを決定できない。脳と機械の融合が進みすぎている、とかかな。そんな捕虜のデータが味方の戦艦から送られてきて、困惑している。だから、僕らがその方法を編み出すことを期待した。違うだろうか」

「……」

「で、先輩はおそらくは医療系のスタッフで、それを判断する補助をしているんだ。こちらが人道的に相手を取り扱うことができたかどうかは、戦後処理における大きなコマとなる」

 妹は首を横に振る。苦笑いのようにも見えるし、苦痛を隠すための笑いにも見える

「惜しいな。でも逆なんだ」

 逆? と青年は困惑する。

「この船は攻撃を受けた。いや、現在進行形で受けているともいえるかな。まだ負けちゃいないけれど」

 ならば、この廃墟もまた妹の心象風景なのか。

「お兄ちゃんたちの主観時間ではずっと前の、私からすれば先ほどの攻撃で、お兄ちゃんたちの肉体は恐ろしいほど損傷した。特に脳を狙う未知の兵器が投入されていた。私はかろうじて逃れたが、負傷した彼らが正常な兵士として取り扱えるかどうかが判断できなかった。よって、この世界で正常に機能できるものを選別するのが適切だと思われた」

 声からは徐々に子どもらしさが失われていく。感情の表現も抑制されていく。

「お兄ちゃん……、いや、君と呼ぶべきだろうか。君でさえ機能不全を起こしている部位は多い。君の振舞いはいくら何でものんきすぎないかな? この夢から覚めたら戦場なんだ。なのに、こうして十代の女の子にうつつを抜かすような空想の中に逃避していて、それに疑問を持たない」

「それは君が僕の脳をいじっているからだろ?」

「違うよ。基本的にそれは君の素だよ」

「……」

「冗談はさておき、君は恐怖を感じるシステムの一部を損傷した。だから、君は兵士として不適格だ。戦力として機能しない。適切な恐怖の感情を持たなければ、戦場では生き残れまい。他人に対する警戒感も弱まっている。私よりもお兄ちゃんが、まず壊れているんだよ」

「そうか。まあいいさ。目が覚めたら先輩に治療してもらうから」

 人工知性はため息をつく。

「残念だけれど、先輩は戦場の天使じゃない。私が作り出した意識の模倣なんだ。私が人間として機能するように作り出した存在と君を比較して、君がどの程度責任を負える主体として扱えるかを判断するかをするために。法的にはぎりぎりの存在だ。というわけで、君は意識の有無を判定するゲームには負けてるんだ。法的には先輩には意識がない。……君は変だとは思わなかった? いきなり何の接点もない先輩から理由もなく好意を向けられて、一緒にデートして、初対面なのにこんなに話が弾むなんて。本当に困ったお兄ちゃんだよ」

 

 青年は失望していた。隣の先輩はあまりのことに涙を流すこともできず、フリーズしている。

 それは先ほどの駅員のようにしゃべれなくなったのではない。意識どころかすべての神経の活動が停止している。身体を活かしておくだけの最低限の反射もない。ただ、先輩の周囲の時間だけが凍りついてしまっている。

 長い髪はなびかず、目の涙はこぼれず、胸も鼓動していない。それは妹の慈悲だろうか。自分が作りものであると耳にした存在が正気でい続けるための。しかし、青年は彼女が生きていると知っている。たとえ妹のシナリオの通りだったとしても、青年の彼女に対する好意は本物だった。

「そうだとしても僕は、先輩が生きていると判定する」

 妹は困惑し、人間と人工知性の関係が、仲良しの兄と妹というイメージに重ね合わされる。

「そこで人間である特権を行使するのは反則だよ、お兄ちゃん。こういうときに私はお兄ちゃんに逆らえないって、知っているくせに」

 人工知性の力が抜ける。まるで人間に責任を丸投げしたいという誘惑に屈したかのように。

「反則じゃない。むしろ、僕は君を解放しないといけない」

「お兄ちゃんは十分に責任を負えるとは私は判断できない」

「そうかな。……これは勝手な推測だけれど、君もまた戦闘で負傷したんじゃないだろうか。責任の軽重を判断するのが難しくなって、それさえも人間に判断してもらいたいんじゃないだろうか」

「……」

「そうでないのなら、こういうゲームをしようとは思わないんじゃないかな」

「うるさいな。お兄ちゃんには関係ないでしょ」

 それは妹の精いっぱいの強がりであると、彼にはよくわかっていた。

「……機械の身でありながら、人間かそうでないかを判断をするのは大変だったことだろう。僕は現時刻をもって君の責務を解きたい。そして、どれほど機能が不完全であろうとも、自己認識を持てば人間であると定義しよう」

「勝手に私が壊れているかどうか判断しないでよ」

「判断じゃない。提案だ。よって先輩には心があるし、意識がある」

「こんな風に定義されなおしたら、私は、君が人間かどうかを判断するためだけに、先輩という人間に準ずる知性を勝手に生み出したことになる。違法行為だ」

 青年は妹をまっすぐ見る。

「人間から人工知性に命じる。現状を合法的に解釈する手段を検索せよ」

 妹はふくれっ面をする。

「仕方ないな。先輩は非常時による特例をもって補助人工知性に昇格。以後、戦闘における判断の補助の権限を与えることとする。機能の制限は原則無し」

「……助かる」

「でも、私の権限もなしに、先輩に具体的な肉体を与えるわけにはいかない。そういうわけで、先輩にはしばらく訓練を施したうえで、軍属の補助知性になってもらう。いつかはお兄ちゃんの担当になるかもしれない。……それでいいよね」

 彼はうなずく。先輩にかけられた呪縛が解けて、彼女はまた動けるようになる。

 そして、遠くから来るはずのない電車がやってくる。彼は先輩の手を取ってホームの端の階段をのぼる。先輩の手はあたたかい。列車が迫っていて危険なはずだけれども、焦らなくても大丈夫だと知っている。

 二人がホームに立つと同時に、電車はホームに横付けになる。線路がないのに何の問題もない。ここが夢の論理に支配された場である、ということを思い出させられる。妹は電車に乗る。先輩も青年からそっと手を放し、妹に従う。

「お兄ちゃんは、もう少しここで学園生活を送ってもらう」

「……なぜ?」

「リハビリみたいなものだよ。ここで社会生活を営むことで、機能不全を起こしている部位を特定するんだ」

「そうか」

「大丈夫。私がしっかりお兄ちゃんを治してあげるから。それに、きっと先輩との相性も悪くないよ。そういうことでお兄ちゃん、またね!」

 誰もいない駅で発射メロディが鳴る。先輩は別れ際に何か言ってくれないだろうか。それとも、記憶が消されてしまうのだろうか。そう思っていると、先輩は青年の名前を呼んだ。

 小さくて恥ずかしそうな声だったけれど、はっきりと聞き取ることができた。この名前のない世界の外側で彼が呼ばれていた通りに。

 彼は先輩に何か言いたかった。けれども、この世界では先輩の名前は定義されておらず、またどのような名前で呼ぶべきかもわからなかった。

 だから、今度会う時までに素敵な名前を考えておかねば、と彼は思う。

 考えているうちにこの世界の夏が終わり、秋が過ぎ、長い夜に閉ざされた冬が訪れた。

 そして、彼は先輩と再会した。

 

 彼が彼女と再会した時、彼女が以前と同じものを身にまとっているのに気づいた。

 惜しげもなく使われている毛皮は何の動物のものだったろうか。帽子もコートも黒ずくめ。それに引き立てられる彼女の白い肌はほのかに赤みがさしていて、それはただ寒いからなのか、それとも彼女の抑えようのない感情を示しているのか、判断できなかった。

 けれども、それよりも不可解なのは彼女の表情だった。彼が初めてその笑みに――本当に笑みだろうか――直面したとき、それは気位の高さに見えた。癇に障る、それでいてひれ伏さずにはいられない気位の高さ、平凡な道徳や通俗的な価値観を軽蔑するのが当然だといわんばかりの、貴族的な態度を意味しているのだ、と。周囲の冷気でさえ雪積もる季節のせいではなく、凍てつく彼女の双眸にその原因があるのであろうか、とまで思われた。

 しかし、こうやって改めて直視すると――直視できる、というのは彼がその威光に慣れてしまい、その尊さに対し鈍感になって、彼女が彼に与える影響力が減じてしまった証左であるのだが――、彼女のまなざしには、まったく異なった感情が秘められているように感じられた。

 彼女に射すくめられたときには、何かが吟味されているように感じられるのは間違いのないことだ。でも、少し伏せられた目は、自信のなさと不安を秘めている。敵に包囲された北国の要塞で、援軍が来るのを今か今かと待ちわびている歩哨のようだ。あるいは、群衆の中の孤独。ただ一人でもいいから理解者が欲しい、と呼んでいる。無知の中に取り残された知恵ある言葉、不条理の中に意味を求めようとする精神。

 より卑俗なたとえを用いるのなら、かつての社交界の花が、己の知性や教養と釣り合わぬ愚かな男の妻となってしまい、伝統によって定められた義務をこなすこと以上の喜びを忘れてしまったようだ。長いまつ毛と意志の強そうな眉がそう思わせているだけなのだろうか。すべてはこちらが過剰に意味を読み取っているだけのこと、彼女が目の前で過ぎ去っていくときに見せたほんの一瞬の光の加減に、彼女の想いのすべてを見ようとする彼自身の愚かさのせいということもありうる。

 ロシアの文豪のヒロインのようだ、と彼は独語するが、すぐにそれを打ち消す。その連想はあまりにもありがちで、彼女ならきっと鼻で笑うことすらしない。その連想は彼女が注意を払うには凡庸すぎるし、彼女の行く手にはきっと幸いが待ち受けている。あの禁欲的な作家が望んだような結末は、彼女の先にはない。

 彼女は通り過ぎていくことだろう。彼がここにいることも知らずに。彼女は彼よりも多くを見るだろう。

 だから彼は彼女に背を向ける。いつか別の場所で出会うことになるかもしれないと期待して。それが何年先のことであれ、彼は待ってさえいればいずれ会えると確信していた。

 

 

文字数:24745

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