FLIX!!

印刷

梗 概

FLIX!!

1998年7月16日
レンタルビデオ「フリックス」京成さくら店で、コギャルバイトの水上みなかみマミ(17)は驚愕した。高さ3m近くある赤いロボットが入店し、自分が浪人生バイトのなだくん(19)だと名乗ったからだ。灘くんは雷に打たれて気がついたらこうなっていたと言い、そばに落ちていたというVHSを水上に渡す。店内で綾瀬ユカ(11)と山口ケイ(11)に失楽園の万引きを強要されていた、灘くんを慕う谷口ショウ(11)も輪に入る。VHSは外銀河連合より無作為に抽選された人間とロボットの身体を交換したこと、現在このさくら市に潜伏する感染型無形生命体を回収したら灘くんの身体と交換するという内容だった。水上は灘くんの人柄(駅で知らない妊婦を助けたために大学入試に遅刻した)からこの話を信じる。

1998年7月17日
テレクラで知り合った男に会うと言って聞かない友人の松トラ子と言い争いになりながらも、世間の目(習志野の自衛隊等)から灘くんを守る方法を考えていた水上は、脱輪したペリカン便のトラックを助ける灘くんと翔を下校中に見つけて激怒する。灘くんはこの力で人助けをしたい、自分の都合で信念を変えたくないと言う。その夜、松からPHSで助けを求められた水上は松がいるはずのホテルへ向かう。そこには床に倒れた松と鼻血を出した男がいて、彼は口から黒い霧のようなものを出す。水上はフリックスに逃げ込む。灘くんが待ち構え、追ってきた黒い霧を銃のような装置で吸い込むが、その半分は外へ逃げてしまう。彼の話ではビデオに続きがあって、あれこそが感染型無形生命体であり、知的生命体の脳に感染し、より若く能力の高い個体の脳を使って増殖するのだという。逃げた半分は向かいの学習塾に侵入し、居残りを受けていた山口が感染する。

1998年7月18日
小学校では綾瀬と山口が終業式を抜け出して校舎裏で翔をいびり始めるが、突然山口が鼻血を出しながら綾瀬に襲いかかる。翔は昨日の灘くんの言葉を思い出し綾瀬を救う。山口から出た霧は二人を追うが、プールに差し掛かると体育館の方へ向きを変える。谷口はフリックスに電話をかけ、水上に自分が見たものを話す。水上が駆けつけると、体育館では教師と生徒全員が倒れていた。空から姿を現した灘くんが中に突入する。起き上がった生徒達は灘くんに飛びかかり、装甲を剥がし始める。綾瀬は先程のプールでの霧の挙動を思い出し、塩素水が苦手なのかもしれないと考えて体育館に突入すると、熱感知器に隠し持っていたライターの火を近づける。塩素入りの大量の消火用水を浴びたそれは生徒の身体から出て、自分は連合製の違法な宇宙兵器であり、連合は未開の惑星の住民を騙して後始末をさせているのだと嘲笑いながら白煙を上げて消える。

水上は、火花を散らしながら膝をつく灘くんの顔にキスをして、綾瀬と翔のふたりはそれを見ながら手をつなぐ。

文字数:1199

内容に関するアピール

「SUNNY 強い気持ち・強い愛」に影響を受けたSFを書く受講生は少数派だろうと考え、
90年代を舞台にしました。

90年代はソ連という「巨悪」の喪失、「キレる17歳」とオウム事件、
そして新自由主義の台頭の始まりと、現代ヒーローモノに繋がりそうな社会背景があるので、
灘くんの人の良さやヒーロー性についてはそれらと関連付けて表現したいと思います。

アルマゲドンやインデペンデンス・デイといった90年代のパニック映画、PHS、プリクラ、恋のマカレナ、ナタデココ、MK5など、
梗概では字数の関係で割愛せざるを得なかったキーワードも実作ではふんだんに使います。

文字数:272

印刷

FLIX!!

1998年7月16日(木)22:52 天候:あめ
レンタルビデオショップ・フリックス京成さくら駅前店

 

何度目かの稲光に続いて、あれだけうるさかった店の入り口にある“プリント倶楽部”の音が消えた。“踊る大捜査線”のプロモーション・ビデオを流していたブラウン管テレビに続いて店の照明がすべて落ちる。マジでキレそうだった。日曜日の夜、日付変更時刻である23時を前にして大量に返却されたビデオテープが山となっているにもかかわらず、ビデオ・リワインダーは停電で沈黙した。それだけでも十分なのに、きょうは頭の痛い問題があとからあとから多重衝突を起こしていた。期末試験の結果が最悪だったので親にPHSをねだることができなくなくなったし、高校では幼稚園から一緒の松トラ子がテレクラで会った(厳密に言うとまだ会ってはいない。テレクラだし)得体のしれない男と付き合うと言って聞かなかったし、だいたいこのものすごい雷はマジで“ヤン坊マー坊天気予報”でも言ってなかったし、外のタクシー乗り場の様子からすると京成電車は落雷で運転見合わせだから帰れないし、さっき「雷怖い〜〜〜(笑)」と言って出ていったカップルのシノラーが持って行ったのはどう見てもあたしのビニ傘だし、ついには交代で来るはずの「灘くん」がまだ姿を現さない。灘くんはいつも原付で来るから電車は関係ないし、浪人生のくせにどこで油売ってるのか知らないケド、あたしはトラ子が間違いを犯す前に外の公衆電話に走ってベル打ちをかまさなきゃならないんだ。そんなことを考えながらカウンターに頬杖をついたそのとき、「テレビドラマ」の棚の前でたむろする小学生3人が目に入った。男女ふたりがあたりを気にしながら、もうひとりの男子小学生が持つ有名学習塾のロゴの入ったショルダーバッグにビデオソフトを乱暴に押し込む。渋滞の最後尾にNISSEKIのタンクローリーが時速150キロのノーブレーキで突っ込んでいく映像がわたしの頭の中に広がっていく。わたしはカウンターを飛び出す。彼らの前に立つと、3人は驚いた顔をしてわたしを見た。停電で暗いから万引きしてもわからないとでも思ったのだろうか。実際には、彼らの犯行現場は蓄電池式の非常口誘導灯にガンガンに照らされていた。消防法なめんな。

「まだ店の敷地を出てないから、万引きじゃないと思うんですけど」

わたしの顔を見上げたまま硬直する男子ふたりを尻目に、女子がひとり毅然と言い放った。黒い髪にホットパンツ。“千葉県のSPEED”といういで立ちの彼女を無視して、わたしはその後ろの男子ふたりを睨みつける。ショルダーバッグのベルトを握りながら怯えた目でわたしを見たのは、灘くんと仲の良い常連の谷口くんだった。谷口くんは泣きそうな顔をしてバッグからビデオソフトを取り出すと、震える手でそれをわたしに差し出す。わたしはテープを受け取ってラベルを見た。

“月曜ドラマ 失楽園①”

なんで?

「警察に言うのかよ?レイジョーがないと逮捕できないんだぞ、“ルーズババア”!」

襟足を伸ばしたもうひとりの男子小学生が震える声でささやかな抵抗を見せる。ルーズババア?クソうるさい店長のせいで店ではルーズソックスは禁止されていて、かわりに赤いロゴ入りのダサいエプロンを強要されている。そう、この“レンタルビデオショップ・フリックス”のエプロン。ガキはアニメコーナーに行って“はれときどきぶた”でも借りてろ、と言おうとしたその時、入口の自動ドアで金属音がした。ガラスをひっかく音に続いて、それが粉々に砕け散る。破片がキラキラと輝くなか、黒く巨大な影が立っているのを見たわたしは、“失楽園”を手にしたままポカンと立ちすくんだ。じゃりじゃりと床に散らばったガラス片を踏みつけながら、それはゆっくりと店に入ってきた。非常口サインの緑色の灯りに照らされる、水滴のついた赤い金属のなにか。まるでブーツのような足音を響かせて歩くシルエットは3メートルちかくある。そのとき、天井の蛍光灯がカンカンという音を響かせながら点灯し、店に入ってきた“それ”の姿がはっきりと浮かび上がった。

それは真っ赤なロボットだった。

アニメに出てきそうな姿のそれは、青く光る両眼のレンズであたりを見回し、ドラマコーナーで立ち尽くすわたしたち4人を見つけた。わたしはこの前の木曜洋画劇場でやっていたターミネーター2を思い出していた。撃たれて死ぬならシュワちゃんみたいなのに撃たれて死にたい。でも目の前のそれは人間の皮をかぶった筋肉ムキムキのサイボーグなどではなく、トヨタの工場にある産業用ロボットを人型にしたような、完全な機械だった。それはふたたびわたしたちのほうに歩き始め、そしてわたしたちの前で立ち止まった。

「ごめん水上さん、遅刻した」

ロボットはそう言って、この店のバッジを見せる。そこにはこう書かれていた。

“洋画担当 灘”

「…灘くん?」

わたしはそれ?いや、彼?に対してそう尋ねる。自分が灘くんだと名乗る赤いロボット略して灘くんは、わたしの問に対してゆっくりとうなずいた。そのとき灘くんの肩が右の棚にぶつかり、ピックアップのため平置きされていた“ショムニ”が床に散らばる。灘くんは慌ててそれを拾おうとするが、さらに反対の棚にも灘くんの身体がぶつかったため、GTOとか“ロング・バケーション”とかが余計に散乱することになった。肩を落として力なくビデオソフトを見つめる灘くんを見ていたわたしは、ついにそれが灘くんであることに確証を抱いた。

「灘くん!?どうしたんだよそれ!?」

わたしの背後で谷口くんが素っ頓狂な声を上げながら飛びあがって、ビデオテープを拾う灘くんに駆け寄ろうとする。わたしはとっさに彼の履いているリーボックのスニーカーを掴んでそれを止める。それは灘くんだと思う、けれどもやはりまだ不安だった。谷口くんは顔を床のビデオテープに突っ込む形になって、その様子を見ていた小学生二人がクスクスと笑う。谷口くんはわたしを睨みつけたあと、「ぼくの好きな隕石が落ちてくる映画は?」と灘くんに尋ねる。

「アステロイド最終襲撃」

灘くんが答えると、すごい、ほんとうに灘くんだ、と言って谷口くんは立ち上がった。谷口くんと灘くんは洋画のパニック映画が大好きで、灘くんが店に新作のポスターを貼っているといつも谷口くんが寄ってきてはマニアックな映画の話ばかりしている。“ディープ・インパクト”は意外にも、二人の間での評価が低いらしい。

 

 灘くんは床のビデオテープの山からひとつのソフトを取り出してわたしに差し出した。灘くんのロボット版ジャイアント馬場みたいな手で持つとVHSもカセットテープに見える。わたしも谷口くんら小学生たちも一瞬たじろいだが、わたしはレジのところにあるサンヨー製のテレビデオを抱えてドラマコーナーに戻ると、灘くんからテープを受け取ってそれをテレビデオに突っ込んだ。1機と4人は床に置いた14インチの画面を凝視する。そこに映ったのは、NHK教育とかで高校化学を解説していそうな女性アナウンサーだった。

「こんばんは。このビデオは、外銀河連合政府制作、連合非加盟の惑星住民に対して、感染型無形生命体に対する対策と回収装置の貸与についてわかりやすく解説するものです。当該惑星の住民の理解を助けるため、この映像は皆様の文明レヴェルに合わせて合成されました」

そう言ってそのアナウンサーは少し不気味な笑顔を見せた。映像がやや荒かったので、それが“3倍モード”で録画されていることがわかる。

「現在、皆様の惑星に“感染型無形生命体”とわれわれが呼称する危険な生物が侵入しています。この生物は若く知性と体力のある知的生命体の脳神経系に感染し、新たに感染者を増やすことで増殖します」

まるで“ためしてガッテン”に出てくるような人体模型に、黒い霧のようなものが侵入するようすを映したアニメーションが流れる。小学校の社会の授業で見せられた公害についての古い教育ビデオにも近い。いったい自分はいま何を見せられているんだ?感染?

「多くの惑星がこの感染型無形生物のパンデミックで滅びました。しかし感染型無形生命体は宿主の脳神経系を短時間で崩壊させるため、一つの個体に長く留まることはできません。また外気に長く晒されても生命を維持することはできません。この生物のメカニズムは」

ちょっとごめん、そういってロボットの手が伸びてテレビデオの早送りボタンを押す。機械音とともに画面に白い横線が入って映像が高速で進んでいく。

「―よって、感染型無形非生命体の駆除に際しては、脳神経系を含め完全に機械化された身体が必要となるのですのが、まだあなた方の惑星の技術レヴェルでは到底不可能です。現在、外銀河連合政府では感染爆発に際して政府代表を通じた国交正常化プロセスを踏まえた駆除作業を行う時間的猶予がなく、また皆様の惑星に関しては感染がまだごくごく限られた範囲、すなわち日本国千葉県さくら市さくら町内に限られているため、身体機械化に“適性”のあるあなたにその身体を“貸与”いたしました。駆除が完了した際に、元の身体にお戻しいたします。」

たいよ、ってなに?と襟足のがながい男子小学生がSPEEDの女子に尋ねる。

「駆除方法につきましては第②巻のテープをご覧ください。それでは、今後とも外銀河連合政府をどうぞ宜しくお願いいたします。」

 

女性アナウンサーが笑顔でお辞儀をすると、著作権は外銀河連合政府に属します、という字幕が出てテープが止まった。わたしは何も言えずにテープをイジェクトすると、テレビデオを背にして振り返る。

「これ灘くんがつくったの?特撮サークルの自主制作映画とか?」

「ちがうよ、さっき印旛沼のところで雷に打たれて、気がついたら体がこうなってて、それでそのテープが隣に落ちてたんだ」

表情はわからないが、灘くんはちょっと怒ったようにわたしに言う。わたしもよく考えたらバカなことを聞いた。灘くんは浪人生なんだから、自主制作映画をつくる大学のサークルに入れるはずがない。灘くんの赤い機械の身体にはよく見ると落ち葉や泥がついたままだ。谷口くんは目を輝かせて灘くんを眺めている。

「おねえさん、なにマニアのコスプレ本気にしてんの?超“きもい”」

突然、谷口くんと一緒にいた女子が立ち上がってわたしたちに吐き捨てる。“ルーズババア”の男子がそれに合わせて慌てて立ち上がり、谷口くんが怯えたようにそれを見つめる。なんとなくこの不良小学生ふたりの力関係がわかった。わたしたちは狭い通路の間で、テレビデオ、わたし、谷口くん、灘くんロボ、そしてその後ろの小学生二人という順番で並んでいたので、わたしはまるで校外学習とかでふざける学生と対峙する新任教師みたいな立場に立たされたような奇妙な感覚に陥った。わたしの高校の担任はこんなのの相手を毎日10倍くらいやっているのかと思うと、いつも先生すみませんという気分になる。

「いますぐ店を出るか、警察にチクられるか好きな方を選べよクソガキ」

警察なんて怖くねえっつーの、と“襟足”が怒鳴るが目は泳いでいる。襟足はタウン・アンド・カントリーのシャツの上から谷口くんと同じ学習塾のカバンを肩にかけている。店の前にある中学受験予備校のものだ。こいつらはもういっちょまえに未来に対するしがらみを抱え込んでいるとゆーわけ。わたしは立ち上がってカウンターにあるコードレス電話を取りに行くと、バタバタという足音がして不良二人が消えていた。

 わたしは入会特典に配っているハンドタオル(FLIX!という赤いロゴが入っている最高にダサいやつ)を灘くんに渡した。灘くんは自分の頭部や肩を拭きながら、ねえ谷口くん、さっきの二人はほんとうに友達かい、と質問して、谷口くんは「綾瀬ユカと山口は・・・別に友達じゃないよ、いじわるだし」とうつむきながら答える。先程の不良小学生のうち、SPEEDみたいなのが綾瀬ユカ、襟足を伸ばした男子が山口というらしかった。この期に及んでまだ他人の心配してんのかこいつはとわたしは思いつつ、ねえどうするの灘くん、それ、ていうかマジでさ、と崩壊した日本語で尋ねる。かっこいいよ灘くん、エヴァンゲリオンみたいだもん、と谷口くんが口をはさむ。

「おまえもいい加減に帰れよ。あと、こんどあんなことしたら、あいつらと一緒に警察に突き出すから」

こいつがいると埒があかねーと思ったわたしがそういうと、谷口くんは怯えたような顔をして立ち上がった。ちょっと言いすぎたかと思ったわたしは、出口に向かう彼の背中に、ていうかぶん殴れよあんなやつらさ、と声をかける。谷口くんが自動ドアの向こうに消えたのを確認してから、わたしは真剣な顔をして灘くんに向き合った。

「コスプレじゃない?」

「コスプレじゃない」

「じゃあこれからどうするの、そんなんで社会生活は超ムリでしょ」

灘くんは口のない顎に手を当てて少し考え込んだ。

「とりあえず、そのビデオの言う通りにするしかないと思うんだよね」

「つまり、そのなんとか連合とかいう宇宙人の政府みたいな奴の言う通りにして、なんとか感染なんとかとかいうやばいやつを駆除するってこと?」

灘くんはうなずく。

「あとさ、ビデオで言ってた第2巻て、どこにあるの?そのヤバい敵の倒し方、まだわからないでしょ」

あー、と灘くんは言ってわたしの方を向く。

「たぶん、そのうち届くんじゃないかな!」

だめだ、この浪人生に自主性をソンチョウみたいなことを許したら、最終的には習志野の自衛隊に戦車砲を撃たれことになるんじゃないのか。そう思ったわたしは頭を抱えて灘くんの隣に体育座りをする。あのビデオで言っていた「適性」って、どれだけお人よしな人間なのかということなのかもしれない。もう雷の音も聞こえないし、プリクラの機械から「プリント倶楽部ゥ」というムカつくセリフが店内に響き渡る。

「とにかく、しばらく目立たないようにして。わたしがなんとかする」

灘くんを見てそう言った直後、目の前で別の悲鳴が上がった。わたしたちは驚いて顔を上げる。

 事務所から出てきた店長が、床に散らばるテープと灘くんを目にして卒倒した。

1998年7月17日(金)15:20 天候:はれ
千葉県立葛飾東商業高校 2年E組

「みなかみマミぃ~~」

帰りのホームルームが終わるとすぐに、松トラ子がわたしの席に駆け寄ってくる。日サロで焼いた顔に白いアイメイク、手には鬼のような数のストラップがついたアステルの“ピッチ”。ああ、ポケベルをやめてPHSを買ったのか、じゃあきのうベル打ちしなくても良かったんだな、とわたしは思ったが、もはやそれどころではない。こんなところで夏期講習や江の島やヴィトンや安室奈美恵やおそろのシュシュの話をしている場合ではないのだ。京急みたいに真っ赤なあのロボットはいまどこでなにをしているのか。

「ねえ、今晩会う約束したから」

松トラ子は自信満々な顔でわたしにPHSを見せる。例のテレクラの男にメルアドを訊いて、今夜会う約束を取り付けたらしい。

「そうかい」

「なにその返事、もっと怒ると思ったのに」

わたしの生返事に松は驚いてそう言う。

「わたしはもう、あんたを心配してる場合じゃないんだよ。あんたが誰と会おうがもう勝手にしろってカンジ」

なにそれ、マジなくなーい?と松が頬をふくらませる。

「ホテル、いっちゃうかも」

これでどうだ、というカンジで松はわたしにそう畳み掛ける。わたしは法政二高のスクールバッグに“Popteen”をしまいながら言った。

「そうかい」

松が怒って席を離れていくのを見送ったあと、わたしは最後に教室を出た。

1998年7月17日(金)16:20 天候:はれ
さくら農免道路 高橋梨園前

 道の両側の梨園からセミの鳴き声が響く。きのうの雷雨で吹き飛ばされた葉っぱや草がU字溝の中に溜まっている。雨上がりの果樹園や農道から漂う、この肥料のようなにおいがわたしは好きじゃない。大きくなるにつれてきらいなものが増えている気がした。子供のころ、きらいなものはグーフィーとらっきょうしかなかったのに、いまはこの街にあるものすべてがきらいかもしれない。きらいなものが増えるにつれ、世界はどんどんせまくなっていく。この道も、幼稚園ぐらいの頃はどこまで続いているのか知りたくてわくわくしていたけれど、いまはたった3キロ先でゴミ処理場にぶった切られていることをわたしは知っている。このチョベリバなカンジは山一証券や拓銀や日経平均株価のせいだけではないと思う。自転車をこぎながら“アイワ”のCDウォークマン(正確にはソニー製じゃないのでウォークマンではないのだけど)でスーパーカーを聴きながら、わたしはそんなことを考える。バイトを始めたらなにかが変わるかと思ったんだけど、意外にも単調な毎日が続いていたので、こうなったら“バザールでござーる”でパソコンを買ってインターネットでも始めようかと思っていた。そう、昨夜までは。

 道の先に、斜めに傾いた状態で停まっている“ペリカン便”のトラックが見えたとき、わたしは驚いて急ブレーキをかけた。赤いロボットがトラックの周りをうろうろしているのが見える。わたしは高校に入って以来、最大の脚力を発揮してブリジストン製の自転車のペダルを漕いだ。

「灘くん!!」

私は自転車全体を傾けながらトラックの前で急停車する。振動でヘンな音がしてCDが止まったけどンなこと気にしちゃいられない。ペリカン便のトラックの前部を持ち上げた灘くんと、その横にいた谷口くん、そしてペリカンのマークの入った帽子と制服を着た運転手らしき男のひとが、わたしの方にキョトンとした顔を向けた。

「なにしてんの?きのう目立つなってあれほど言ったじゃん!!」

「いや、だって脱輪して大変そうだったから・・・」

灘くんはそういうとペリカン便の黄色いトラックをゆっくりと道路に戻す。いやあ、すいません、助かりました、と言って運転手さんがペコペコお辞儀をしながら運転席のドアを開ける。

「あの、このひと、ロボットに見えますけど、違いますから。たんなるコスプレマニアなんですよ」

わたしは自転車にまたがったまま大声で運転手にそう怒鳴る。今年に入ってついた嘘の中で一番くだらない気がする。灘くんと運転手さんは何度もお辞儀しあったあと、トラックはゆっくりと農道の奥に消えた。

「ちょっと、まさか他にもこんなことしたんじゃないよね」

「おねえさんすごいよ、灘くん、クロネコヤマトとカンガルー便と“フットワーク”のトラックも助けたんだよ」

ランドセルを背負った灘くんがうれしそうに灘くんの違反行為を告発するのを、灘くんは慌てて止めようとする。MK5。猫とカンガルーと犬のマークがついたトラックたちがわたしの頭の中でぐるぐると回転する。というかなんでそんなに脱輪しまくるんだ、日本の運送業者よ。ふと横を見ると、ランニングに作業着のズボンを着た梨園のおじいさんが軽トラックにカゴを積みながら、驚いた様子でこちらを見ている。おねえちゃん、それはあれかい、ラジコンで動いてるのかい、とおじいさんがわたしにそう言うので、そうですよ、女子高生の間で流行ってるんです、とわたしは答えた。ことしワースト嘘、更新。

 

 わたしたち3人はとぼとぼと農道を並んで帰る。なぜかさっきのおじいさんが梨ではなくおかきをくれたので、わたしと谷口くんでわけあって食べた。わたしは谷口くんの歩調にあわせて自転車を漕いでいるので、ひどくフラフラする。灘くんはやはりその身体になってから、ものを食べられないらしい。カラスの鳴き声、ひぐらし、そして遠くを走る京成電車の音。かすかに黄色がかる入道雲。さっきはごめん、と灘くんはわたしに言った。

「たしかに、水上さんの言うように、あんまり目立つことはしちゃいけないと思うんだけど」

JAのマークが入ったワゴン車がわたしたちの横で驚いたように減速し、そしてそのまま通り過ぎていく。でも、せっかく人を助ける力があるのにさ、と灘くんは言う。

「それを使わないのは、人としてどうなのかなって」

わたしはおかきを飲みこんで灘くんを見た。人として、という灘くんの言葉。谷口くんも、わたしと灘くんの間に流れ始めた異質な空気を感じ取ったのか、何も言わずにおかきをバリバリと食べている。

「灘くんはひと、だよ」

わたしは灘くんに言った。

「でもわたしは、現実的にっていうか、世間の目っていうか」

なんでわたしが口ごもっているんだ、とわたしは思った。灘くんは年上の浪人生で、はっきり言ってまだ高2のわたしのほうが何倍も大人だと思う。でも前にもこんなことがあった。別に灘くんは面と向かってわたしが間違っているとか、残酷とか非難するわけじゃないのに、わたしの考えが非現実的なわけではないのに、なぜかそれまでおわたしの考えや言葉が、ひどいものだったように思えてくる。わたしはひどいことを言った。ひどいことをずっと考えていた。でもそれが何なのかわからない。

「灘くん、こんどうちの学校に来てあいつらにロケットパンチしてよ」

さっきまで空気を読んでいるだけだと思った谷口くんが、おかきが口から消えた瞬間にしゃべり始める。ロケットパンチ。

「そんなことしたら、あんた学校でひとりになった瞬間に仕返しされるよ」

わたしの指摘に、谷口くんは表情を固まらせる。

「あんたいま5年生でしょ?じゃああと1年とちょっとで卒業じゃん。どうせ受験してばらばらの中学に行くんだから少し我慢してりゃいやがらせも終わるって」

「ええッ!1年も我慢できないよ」

あしたの終業式の後だって我慢できないのにさ、と谷口くんは泣きそうな声で言った。

「あした終業式の後、さくら市の全小学生がスポーツセンターに集まってさ、“WAになって踊ろう”でダンスするんだよ」

おれのグループ、山口と綾瀬がいんだよ、最悪だよ、と谷口くんは頬をふくらませた。まあ確かに、嫌いな奴らとWAになって踊ろうは最悪だ。すこし同情する。わたしと灘くんは顔を見合わせて少し笑った。

 

1998年7月17日(金)21:20 天候:くもり のち あめ
さくらニュータウン 水上邸

母の作った生姜焼きを食べながら金曜ロードショーの「紅の豚」をぼーっと見ていた時、家の電話機が鳴った。我が水上家には「立っているものが電話を取る」という暗黙のルールがある。その時立っていたのは、冷蔵庫に“鳳凰”を取りに行こうとしていたわたしだった。父も母も中学生の弟もスタジオジブリの独特な色彩に見入っている。わたしはため息をついて電話を取った。

「マミ、助けて!!」

受話器の向こうから松トラ子の切迫した声が響いたので、わたしは弟にテレビの音量を下げるように言った。わたしはトラ子に少し待つように言って、通話をコードレスの子機に切り替える。ポルコ・ロッソの大冒険に夢中の家族を背にリビングを出たわたしは、「あんたいまどこにいんのよ」と子機に耳打ちする。トラ子は去年の夏休みも同じように電話をかけてきたことがあった。そのときはなぜか船橋競馬場そばのボッタクリ居酒屋から電話をかけてきて(なんで?)、仕方がないから灘くんに電話してかわりに6万5千円を支払ってもらった。そういえば今日学校で、テレクラの男に今夜会いに行くと彼女は言っていた気がする。あんたいまどこにいるの、何されたの、わたしは玄関に出て、子機を肩と頭で挟みながらナイキのバッシュを履く。あいつおかしいんだよ、人間じゃない、松トラ子は泣きそうな声でそう言った。

「マミ早く来てよ、あいつが見張っててホテルから出らんないの、いまお風呂に隠れてる・・・」

「ホテル?あんた本当にホテル行ったの?」

どこのホテルよ、わたしは子機に向かってそう叫んだ。ブツブツと音声が途切れる。わたしは子機を持ったまま玄関を飛び出す。アスファルトが濡れたにおい。家の前に止めた自転車のスタンドを蹴り飛ばす。松トラ子が叫んで電話が切れる。

「四街道の高速沿いの、”ウィング”っていう・・・」

 

わたしは雨の中、東関東自動車道に沿って自転車を漕ぎ始める。

 

1998年7月17日(金)21:43 天候:あめ のち くもり
ホテル「ウィングけいよう」301号室

ホットパンツにムラサキスポーツで買ったクイックシルバーのTシャツという格好で側道を疾走したわたしはずぶぬれだった。トラックやリムジンバスが轟音とともに通過する高速道路の横の細い道沿いに、そのホテルはあった。ピンク色のビルにWingと書かれた赤いネオンが、雑木林の中に光っている。私は乗り捨てるように自転車から飛び降りると、建物への入り組んだ階段を駆けあがっていく。フロントの小さな窓から、わたしは太った女子高生と変な男が休憩していないか尋ねる。学校の用務員のようなおじさんが面倒くさそうにこちらを向いて、「301」と答えた。狭くて上下に揺れるエレベータで3階に上がるとすぐにその部屋は見つかった。

 

「トラ子!!」

 

ドアには鍵がかかっていなかった。最初に目に入ってきたのは黒く汚れた回転ベッドとシーツ。割れたブラウン管テレビと扉の外れた小型冷蔵庫。天井のシャンデリアは床に落ちて灯りが消えている。開け放たれた小さな窓から、高速道路の音と雨が部屋に入ってきている。わたしは息を飲んで扉を閉める。歩くたびにカーペットがじゃりじゃりと鳴る。最初はガラスか何かかと思ったが、よく見ると黒い砂のようなものが部屋じゅうに散らばっている。回転ベッドのシーツの黒い汚れもそのせいだった。なんだこれは。わたしはそっと部屋の奥への歩みを進める。部屋の奥にある浴室から黄色い光が漏れている。わたしはトラ子の名前を呼びながら浴室のガラス戸をそっと開けた。大きな丸い浴槽の中でトラ子が学校の制服を着たまま震えている。シャワーからは冷たい水が出しっぱなしで、アメニティのボトルが浴室の床に散らばっていた。

「トラ子」

わたしは出しっぱなしの水を止めてトラ子を抱きしめる。「何されたの、オトコはどこ」わたしはバスタオルを探してトラ子の頭に押し付ける。あいつ、人間じゃない、あいついっぱい吐き出して、わたしの脳がどうとか言って、でも水を怖がるから、だからおふろにいたの、トラ子は震えながらとぎれとぎれにそう言った。

「あいつ、わたしに脳を寄越せって」

そのとき、浴室のドアがゆっくりと開いたので、わたしは悲鳴を上げて振り返った。

そこにはスーツを着た男がいた。

 

バイト先の店長と同じぐらいの、血まみれの、男。

 

男は眼鏡をかけていたが、そのレンズは血で汚れていて眼を見ることができない。アルマーニとかヒューゴボスとかそういうかんじの、紺色の高そうなスーツも同様に汚れていた。ぽつぽつという水滴の音。換気扇から洩れる夕立と風の音。よく見るとそれは血ではなかった。墨だ。さっき部屋で見たのと同じ、黒いなにか。わたしは一瞬安心した。そういうプレイなのかもしれないと思ったが、よく考えると、人の身体から墨が流れ出ているというのおかしい。男が口を開く。ボトボトと墨を口から垂らしながら男は言った。

 

より、よい、脳が、いる。

 

そのときトラ子がシャワーで男に水をかけた。男はゴポゴポという音を喉から出しながら、墨汁のようなものを延々と吐き出し、やがてそれは洗面所の中央で渦を撒きはじめる。男の身体すべてが墨になって消え、紺のスーツが床に落ちる。わたしはきのうの夜、FLIXで見たあのビデオのことを思い出した。

 

「感染型無形生命体だ」

 

それは、より優れた人間の脳神経を使って、増殖する。

 

トラ子がシャワーの水流を、黒く渦を巻く墨に向かって放つと、それは浴室の外に出た。

「わたしがひきつけるから、あんたは早く逃げな!」

わたしはトラ子にそう言って浴室を出た。部屋中の墨が集まって何かを形作ろうとしている。その向こうにわたしが入ってきた部屋のドアが見えるが通れそうにない。わたしはわたしの背にある小さな窓を見る。窓ガラスには夕立の丸い粒が、東関東道の黄色い道路灯の光を反射している。ここから下りられるかもしれない。わたしは迷わなかった。夏目漱石の「坊ちゃん」だって3階からなら無事だったんだ。わたしは消防隊突入用の赤い印のついた窓の縁に手をかけて、そのまま落ちた。バサバサという音と葉のにおい、そしてセミの驚いたような鳴き声から、私は仰向けで街路樹にひっかかったことを知った。そして窓からあの墨が出てくるのが見える。雨は止んでいる。わたしはなんとか起き上がって街路樹から下りると、自分の自転車を探して必死にそれにまたがった。足をすこし痛めた。それは、うねりを上げてわたしを追いかける。ペダルをこげ、水上マミ。逃げろ。逃げろ。

 

でも、どこへ?

 

タイヤが泥を撥ねる。東関東道の跨線橋を渡り、どこか逃げ込めそうなところ探すが見つからない。雑木林、梨園、送電鉄塔、エロ本の自動販売機、農園の倉庫代わりに使われている旧国鉄のコンテナー。潰れた“ヤオハン”の店舗に逃げ込もうとしたが、すでにチーマーによってすべての窓ガラスが破壊されていた。あいつは脳が欲しいと言っていた。よいよい脳、より若い脳。家には弟がいる。振り返ると墨の渦はまっすぐわたしに迫っている。捕まったらあの男みたく、どろどろになって死んでしまう。いやだ。こうみえてもまだやりたいことがある。もうこれからは世間に文句たれたりしないと約束する。どこをどう走ったのか覚えていない。京成電車の線路を越えて、そのまま京成さくら駅へと走った。見慣れたガラス窓、ガチャガチャの機械、会員募集中と書かれた旗がいくつも並ぶ入口。たすけて。わたしは泣きそうに泣きながら自転車から飛び降り、雨粒がまだ付いた自動ドアを開けた。

たすけて!

 

たすけて、灘くん!!

 

1998年7月17日(金)22:15 天候:はれ
レンタルビデオショップ・フリックス京成さくら駅前店

灘くんはその大きな機械の身体に、店の赤いエプロンをつけて返却されたビデオソフトを棚に戻していた。葉っぱや泥まみれになったわたしを見て一瞬驚いたように立ち止まった灘くんは、なにかに気が付いて持っていたビデオソフトを床に投げ捨てる。水上さん、と灘くんは言った。

「水上さん、逃げて」

 

灘くんは自分の背中から何かを取り出して構える。それは「銃」だった。消防車についているホースのようにも見えるし、「ゴーストバスターズ」にでてくるゴースト回収装置にも似ている。わたしはカウンターへ駆け寄ってその反対側に身を伏せる。銃口を自動ドアに向けた灘くんは、狙いを定めるようにしてゆっくりとドアに近づく。客はいない。自動ドアがなにかに押されてバタバタと揺れる。それが来た、とわたしは思った。

 

「来た」

 

灘くんはそう言うと、何か黄色く光るものを撃った。自動ドアが嫌な音をさせて少しだけ開き、あの黒い渦が店の中へと入ってくる。一発目の「光」の弾道は外れた。渦は、そのまま灘くんの身体に衝突する。灘くんの身体から轟音がして、灘くんが洋画アクションの棚を押し倒す。予告編を流していた20インチのブラウン管テレビや、視聴用のCDラジカセや、天井のパネルボードや、234本のビデオソフトと146枚のコンパクトディスクを吹き飛ばしながら灘くんは倒れた。黒い渦はそのまま垂直に向きを変える。灘くん、わたしは叫んだ。灘くんがそれに刺されてしまうと思った。そしてビデオソフトの山からいくつもの光が照射される。黒いVHSテープがいくつも宙に舞う中、灘くんは新体操の選手のように滑らかな動きで立ち上がり、銃を撃った。レーザーのような光は黒い渦に当たると、なにかを形作り始める。それは“網”だった。黒い渦はどんどん目が細かくなっていく光の網の中で、もがくように渦を巻いた。灘くんもわたしもその様子を見ていた。光の網は、ワンルームくらいの大きさから野球ボールくらいにまで縮んだ。そして、灘くんが撃った網は強烈な光を放ち、消えた。

 

店は奇妙な静寂に包まれた。

 

 

わたしはカウンターから身を乗り出すと。ビデオテープの山に尻もちをついている灘くんの所へと駆け寄る。灘くんの赤い鎧のような身体は熱を帯びていて、わたしは添えた手を反射的にひっこめた。うごける?とわたしは灘くんに尋ねる。すごく疲れたよ、と灘くんは言った。

「でも、これで倒したんじゃないのかな」

灘くんはそう言って自動ドアの奥を見つめる。ぼくなんかよりも、水上さんのほうこそだいじょうぶ?ケガしてない?灘くんはわたしにそういうと体を起こそうとして、床についた掌でビデオソフトを何本か押しつぶした。わたしはそれを見て少しだけ笑った。

「実はきのう、あのビデオの2巻が下宿先に届いたんだ」

灘くんが言うには、あの放送大学みたいなビデオがまた届いて、感染型無形生命体の具体的な「回収」方法を教えられたのだという。いわく、目標をセンターにいれて、スイッチ。わたしは灘くんの大きな身体の横に座る。灘くん、じゃあ身体返してもらえるんだね、とわたしは言った。

「谷口くんが悲しむんじゃないの」

「勘弁してよ、この姿だと下宿先でも煙たがられるんだから。廊下の置物とか割っちゃうし」

だいたい入試の時困るよ、と灘くんは言って肩をすくめる。

「でも店長はぼくを店のマスコットにしたいみたいだけどね。きょうから時給上がったし」

「え?マジ?」

正気か?とわたしは思ったが、いまのこの店内の惨状を見たら店長も正気に戻ってしまうかもしれないな、とわたしは思った。

「はやく元に戻らないかな。いつごろ戻るんだろ。ビデオだと回収次第ただちに、って言っていたのにな」

灘くんといっしょにわたしもそわそわしながらあたりを見回していると、店の入口から入ってきた店長がふたたび卒倒した。起きたらきっと店長も正気に戻るだろう。灘くんが相変わらず慌てている。そういえば忘れていたけれど、明日は終業式だ。

 

夏休みが始まる。

 

1998年7月17日(金)22:45 天候:はれ
中学受験のさくらゼミナール本校 特進クラス

 

山口ケイはふてくされながら補講を受けていた。4年生のとき、綾瀬ユカとともに入塾して以来、特進クラスでも成績はトップだったのに、どういうわけか最近授業に追いつけなくなった。親は開成中学か筑波大付属に入れなかったら人間失格だと言うように、毎晩つきっきりで山口の勉強を監視する。自分でもその原因がわからないことが山口をパニックにさせた。ついさきほど、塾の担当者から君は特進クラスにいられなくなったと言われ、山口は泣きそうな顔でひとりで教室に残っていた。綾瀬とクラスが離れる上に、綾瀬より下のクラスになったら、いよいよ綾瀬にも見放されると思った。今から一般クラスの教科書を持ってくるからここで待つようにと山口は言われた。死刑宣告だ、と山口は思った。山口は泣くまいとして手で口を抑えながらふと窓の外を見る。そのとき、向かいにあるレンタルビデオショップ・フリックスで

なにかが割れる音がして、店内照明がちかちかと点滅するのが見えた。あのオタク店員が何かやってるのかと思い、山口は店の中を見ようと席を離れて窓を開けた。黄色い光が何度か漏れたあと、自動ドアの隙間から、なにか黒い帯のようなものが、するりと抜け出すようすに山口は気が付いた。そしてそれはほんのわずかな間だけ、風に揺られたティッシュペーパーのようにふわふわと浮いたあと、山口に向かって突進した。

 

山口は鼻に何かが入ったことに気が付いた。直後にひどい頭痛に襲われ、そして意識が急激に変質していく。

山口は、感染型無形生命体に感染した。

1998年7月18日(土)12:15 天候:はれ
さくら市総合スポーツセンター 総合体育館

 

終業式が終わったというのに、谷口翔は憂鬱だった。終業式後、炎天下の中を学校から徒歩で20分もかけてスポーツセンターまで歩かされたあげく、これから見ず知らずのやつらと文字通り輪になって踊るのだ。3000人近い数を5つか6つのグループと会場に分けてダンスを踊るという取り組みは昨年から始まり、かわりに臨海学校が費用削減で中止になった。おとなは頭がおかしいんだと思う。スポーツセンターまでいく道の途中でも、お前のせいで失敗するとか、お前が“WA”を乱すんだとか、綾瀬ユカからさんざん言いがかりをつけられた。谷口くんは、こんなことなら早くノストラダムスが来て(実際に来ると言われているのは恐怖の大王なのだが)世界を終わらせてほしいと思っていた。

 

スポーツセンターの中はものすごい熱気だった。エアコンのない鉄筋コンクリート造りの体育館にはすでに300人ちかい小学生がひしめいているが、このあと第四小学校の連中がわざわざ観光バスで200人ほどやってくると聞いて、谷口くんはいよいよ死にたくなった。大人に気にいられる術を身に着けている連中が、じゃあみんなで一回通しで練習してみようと言い出して、あちらこちらでラジカセからWAになって踊ろうが流れ始めたので、谷口くんはいったいどのWAになって踊ろうに合わせて踊ればいいのかわからなくなった。おい谷口、おまえ本当に死ねよ、と言って綾瀬ユカが谷口くんを押し倒した。

 

「おまえ、いるだけで迷惑なんだよ」

 

谷口くんのせいでうちのチームだけWAになれないんですけどぉ~と綾瀬が笑いながら言ったとき、それまで黙っていた山口ケイが突然、吐いた。

 

それまで綾瀬と一緒に谷口くんを笑っていた連中も、そして綾瀬ユカ自身も、嗚咽を漏らしながら黒い吐しゃ物を流す山口に目を見張った。他のチームのダンスする足音や、熱血教師の声や、本番まであと30分ですというアナウンスに混じって、バシャバシャという音とともに墨汁のような液体を山口は吐く。そして山口は顔を上げると、目や鼻からも黒い液体を流しながら、床に卒倒した。近くにいた女子が悲鳴を上げたとき、突然山口が起き上がってその女子に飛びかかった。やめて、やめて山口くん、と彼女は言って、仰向けに押さえつけられたまま山口から“墨汁”を浴びるのを、ぼくも綾瀬も口をあけたまま見ていた。そのとき体育館のワックスがけされた床に広がっていた黒い液体が集まり始め、やがて小さな渦を形成すると、山口を引きはがそうとしたチームリーダーの男子に飛びかかって顔を覆った。恐怖が伝染を始める。山口と学級委員長と女子がまた起き上がると、近くにいた生徒に飛びかかり、吐く。他のチームもこの異常事態に気がつきはじめる。3人の体育教師が、彼らがふざけていると思ったのか怒鳴りこんできたが、黒い液体を浴びた生徒たちに飛びかかられると、やがて見えなくなった。綾瀬ユカが泣きそうになりながら恐怖と混乱が支配する総合体育館を出ようとしたそのとき、白いイルカモデルのBabyGをつけた右腕を引っ張られた。山口ケイだった。眼球は黒ずんで見えなくなり、ピコのTシャツも真っ黒い液体でロゴが見えなくなっている。ケイ、やめてよ、友達でしょ、と綾瀬は顔をぐしゃぐしゃにしながら言った。

「わたしのこと、好きなんでしょ?だったらやめてよ」

そのとき、山口の身体がパイプ椅子で吹き飛ばされる。黒い飛沫が床に点となる。殴ったのは谷口くんだった。綾瀬はその場で硬直し、息を切らせる谷口くんを見る。

「逃げよう」

谷口くんは綾瀬の右手を掴むと出口へと走る。まるでデモを鎮圧する警官隊のようにパイプ椅子を構えて、黒いゲロを浴びせる怪物と化したさくら市の小学生たちをかきわけた。廊下に出た谷口くんは、後から追ってくる“やつら”にパイプ椅子を投げつける。どうして自分は綾瀬なんかを助けているのか理解できないが、放心状態で言われるがままに自分の後についてくる綾瀬が、さっきまで自分をいじめていた嫌な女子と同じ人間なのか不思議に思えた。廊下には他にもたくさんの小学生や、その保護者や引率の教師がいて、後からやってくる“恐怖の大王”たちに不思議そうな目を向けたあと、その餌食となった。やめて、やめなさい、痛い、やだ、押さないで、押さないで、押さないで・・・という声が背後から聞こえる。恐怖で心臓が破裂しそうだった。ふたりは非常階段の白い鉄製のドアを開ける。閉めたドアの向こうから文字通り恐怖の足音が聞こえる。ドアを抑えるものは何もなかった。ふたりとも泣きながら、階段を駆けあがって3階のドアを開ける。

 気が付くと体育館から廊下を通ってレクリエーション棟に来ていた。ここは少し新しい建物で、3階にはランニングマシンやエアロバイクが並んだジムが併設されているが、照明はすべて落とされて誰もいなかった。綾瀬と谷口は汗だくになりながら、静かにガラス製のジムのドアを開けて、ランニングマシンと陰に身を隠した。

 

「なんなのあれ、意味不明だし、キモいし、超ムカつく」

綾瀬はそういうと足をばたつかせて涙を流す。非常階段の方を様子を見ながら、あれがそうだよ、絶対にそうだ、と谷口くんは言う。

「あれがノストラダムスだよ、1年早いけど、ノストラダムスってゾンビのことだったんだ」

そのとき谷口くんはジムの受付カウンターに電話機があることに気が付く。綾瀬さんはここに隠れてて、と言うと、谷口くんは匍匐前進でカウンターまで行って受話器を取った。プーという音がして、谷口くんは安心する。でもどこにかければいいのだろう。警察か、消防か?でもなんていえばいい?スポーツセンターにゾンビが出たとか言っても誰も信じないだろうし、そもそも警察に勝てるのだろうか。谷口くんはポケットをまさぐる。定期入れの中に、いつも使ているあのカードが入っていることに気が付いた。

 

“レンタルビデオショップ・フリックス会員証”

 

1998年7月18日(土)12:35 天候:はれ
レンタルビデオショップ・フリックス京成さくら駅前店

 

わたしは事務所のソファで目が覚めた。きのうはあのあと、疲れ果ててここで眠ってしまったらしい。時計が12:15を指しているのを見て、ああこりゃ終業式さぼっちゃったな、と思った。そういえば、トラ子は無事だったんだろうか。わたしが頭をわしわしと掻いて上体を起こしたそのとき、事務所のドアが開いて巨大な影が姿を現す。もはや見慣れた赤いロボット、灘くんだった。ちょっと待て、とわたしは思う。なんであんた、まだロボットのままなんだ。無邪気にモップを持って、昨日荒らしてしまった店内を清掃する灘くんを見ながら、わたしは嫌な予感を抱いていた。

 

もしかして、まだ、あの墨汁の怪物が死んでいないのでは?

 

そのとき事務所の電話が鳴る。店長、電話ですよ、とわたしは怒鳴ったが、店長は反対側のソファで寝ている。わたしは仕方なく受話器を取ると、相手はあの谷口くんだった。

 

「おねえさん、たすけて!!」

 

わたしの予感はいつも的中する。

 

1998年7月18日(土)13:45 天候:はれ
さくら市総合スポーツセンター 1階非常階段

 

綾瀬と谷口くんは、なぜか静かになった1階にまた戻るかどうか、非常ドアの前で逡巡していた。谷口くんが先頭に立って、その後ろで綾瀬ユカが続く形で、白い防火扉をゆっくりと開けた。大きなガラス窓から夏の日差しが降り注ぐ健康的な廊下は、黒いすすのようなものであちこちが汚れていて、壁に穴が開いたり、照明が壊れて床に落ちたりしているが、先程までの大パニックが嘘のようにしんと静まり返っている。でもよく見ると、大人たちが床に倒れていた。もしかしてゾンビになったのは小学生だけなのかな、と谷口くんは思った。

「どうするの?」

綾瀬は泣きそうな顔で谷口くんに詰め寄る。

「わたし、家に帰りたい」

「だめだよ、あいつらをほっとけないだろ」

谷口くんは言った。

「あいつら、ああやって数を増やしてくんだよ。ほっといたら人類滅んじゃうかもしんだいんだぞ!」

そのとき、窓ガラスに目をやった綾瀬は、大型観光バスが何台もこちらにやってくることに気が付いた。第四小の連中だ、と綾瀬は言う。だがバスは正面玄関に来ることなく、次々と脇道に逸れていく。谷口くんは受付カウンターに走っていくと、「スポーツセンターのご案内」と書かれたパンフレットを持って綾瀬に見せた。1989年に関東南部最大のスポーツ振興施設として建てられた当館は、という文言に続いて、“大型観光バス5台が止められる地下駐車場も併設し”という案内がそこにはあった。

「もしさ、自分がノストラダムスで、人類を皆滅ぼしたかったらどうする?」

谷口くんは真剣な顔をして綾瀬に尋ねる。

「・・・のりものに乗って、遠くへいく?」

“バス地下P”と書かれた案内板の向こうへとバスは消えていく。1、2、3、4、5台。ふたりは走って体育館へと戻るがそこにはすでに誰もいない。やっぱりそうだ、あいつら地下駐車場だ、バスで逃げる気だよ、やばいよどうしよう、谷口くんは泣きそうな顔をしてまた廊下を走り出す。非常階段を駆け下りて、地下1階の駐車場の扉の前にたったふたりは、扉の向こうから近づいてくる大きなエンジン音と、小学生たちの足音を耳にして立ちすくんだ。

「バスだけでも止めないと」

谷口くんはそういうと階段の踊り場じゅうをうろうろ歩きはじめる。もう時間がない。バスのエアブレーキの音。そのとき、綾瀬はある表示に気がついて谷口くんの腕を引っ張った。

 

“消火ガス式消火装置設置施設・・・火災を検知した場合、警報音とともにすべての防火扉が自動で閉鎖され、消火用のガスが散布されます。警報が鳴ったら直ちに施設外へ避難をしてください”

 

「火事を起こすってこと?どうやって?」

そう谷口くんが言い終わる前に、綾瀬はドアを開けて駐車場へと入った。小学生たちが黒い液体を垂らしながら、車が入ってくる料金所のところでバスを待ち構えている。誰も綾瀬たちには気がついていない。保守管理会社が使っていると思わしき脚立を見つけて、止めてあった運送会社のトラックの屋根に谷口くんと綾瀬のふたりは登る。バスが止められる地下駐車場は、まるで空港の車止めのように広い。バスのヘッドライトが小学生たちの人垣の間から漏れている。綾瀬がライターを持って天井に腕を伸ばす。

 

「なにがWAになって踊ろうだ、クソども」

 

けたたましい警報音が鳴って、駐車場入り口の巨大なシャッターが降り始める。バスは急停車して、運転手が不思議そうな顔をして窓から顔を出しているが、それは防火シャッターの向こうに見えなくなる。集まった小学生たちは、何が起こったのかわからない、という顔をしている。

 

「やった!」

 

綾瀬と谷口くんはトラックの上で小躍りした。

でもどうしてライターなんか持ってるの、と谷口くんは綾瀬に尋ねる。タバコ、と綾瀬が答えてポケットからハイライトを取り出したとき、小学生たちがふたりに気が付く。まずい、と谷口は言って、立てかけてあった脚立をトラックの上に引っ張り上げる。黒いなにかにまみれた子供たちはトラックの周りを囲んで、唸り声を上げて車体を揺する。わたしたちを落とそうとしている、と綾瀬は言った。かつて山口だった怪物が見える。どうしてこんなことになったんだろう、と綾瀬は思った。友達だと思っていたクラスメイトが怪物になって、死ねと言っていた同級生とトラックの屋根に登っている。

「いままで、ごめんね」

綾瀬は泣きながら谷口に言った。ふたりは揺れるトラックの荷台に座って顔を見合わせる。別にいいよ、と谷口は言う。非常階段のある区画への防火シャッターも降りてしまった。消火装置、作動します、退避してください、というアナウンスが流れて、白いガスであたりが見えなくなったそのとき、巨大な金属製の腕が伸びて、トラックのふちに腰かけていたふたりを抱きかかえた。

 

それは文字通り、綾瀬と谷口くんを抱え、小学生ゾンビたちをつき飛ばしながら進んでいった。非常階段への防火シャッターを蹴破ると、ふたりを地面に下ろす。赤い巨大なロボット。谷口くんはガスで朦朧とする意識の中、にやりと笑って叫んだ。

 

「灘くん!」

 

1998年7月18日(土)14:35 天候:はれ
さくら市総合スポーツセンター 地下駐車場

 

わたしは非常階段のドアを開けて、谷口くんと綾瀬ユカのふたりを抱きかかえた。谷口くんはぼおっとした様子で、一方の綾瀬ユカはひどくせき込んでいるがいるが無事だった。わたしは自販機で買ったヴィッテルを二人に飲ませる。小学生たちは赤いロボットたちの周りをぐるぐると回っている。あれ全部が「感染型無形生命体」なのか。灘くんを取り囲む300人近い小学生たちは、灘くんの頭や肩によじ登っている。灘くんの様子がおかしい。灘くんはあの銃を取り出す様子がない。もしかして、とわたしは思った。撃てないのだ。灘くんは小学生が撃てない。

「もう、そいつら人間じゃないんだよ!」

わたしは叫んだ。人間じゃない、という私自身のことばに、昨日の農道での灘くんのセリフが覆いかぶさる。でもそれは、人としてどうなのかなって。

 

怪物になった小学生たちは灘くんの身体から装甲版のようなものを剥がし始めた。赤い破片がばらばらと待っているのが白い消火ガスの向こうに見える。灘くんが死んじゃうよ、殺されちゃう、と谷口くんが泣きそうな声を出す。灘くんがゾンビキッズの山に埋もれて見えなくなる。どうすればいい、わたしはどうしたら灘くんを救える?そのとき、わたしはきのうのホテルでのできごとを思い出す。どうしてトラ子はあいつから逃げることができた?トラ子は風呂場にいた。シャワーをずっと浴びて・・・

「あいつは水を嫌がる」

 

わたしは谷口くんが持っていたここのパンフレットをひったくると、館内案内図を見た。やっぱりそうだ。ここには小学生のころから何回も来ている。このうえはプールだ。

 

「灘くん!銃を上へ撃って」

わたしは叫んだ。

「上はプールなんだよ、早く撃て!!」

 

オレンジの光が、何度も何度も黒い人だかりから照射される。土煙とともに轟音がして、地下駐車場全体がきしみをあげた。塩素のにおい。水の音。巨大な水流が子供たちも、車も、脚立も押し流していく。わたしは谷口くんと綾瀬を抱きかかえていたが、やがて冷たい塩素の中に飲みこまれた。

 

1998年7月18日(土)17:15 天候:はれ
さくら市総合スポーツセンター 地下駐車場

 

非常ベルの音が聞こえる。それに川のせせらぎのような音。

わたしは車のボンネットの上で目が覚めた。たくさんの子供たちが、くろい水たまりの中に寝ている。その向こうに、赤いロボットが膝をついてうなだれている。

 

「わたしが悪だと思うのか」

 

それは山口だった。地面に仰向けになった山口は、真黒な眼をこちらに向けて話し始める。

 

「お前たちはだまされている。わたしはもともと知的生命体を最大効率で殺すための生物兵器だった。わたしは外銀河連合自身によって作られた」

 

わたしは山口を見下ろす。おまえたちはだまされて、外銀河連合の尻拭いをさせられているのにそれに気がついていない、愚かだ。山口は聞いたことのない奇妙な声でそう言った。

 

「じゃあそのなんちゃら連合に文句言うわ」

 

わたしがそういうと、山口はゴポゴポと笑った。外銀河連合は滅んだよ、わたしが滅ぼした・・・。

 

わたしは灘くんの下へと歩いていく。灘くんの顔はひび割れている。目も鼻も口もない。他人のために、ばかだね、とわたしは笑った。どうしてあなたはそうなの。神戸の地震ではボランティアに行って、大学受験の日には倒れた妊婦を駅で助けて試験を受けられなくなった。あなたはそれでどんな得があるの。それが人として正しいことだというの。

 

「あなたは人だよ」

 

わたしはそう言って、もう動かないこの赤いロボットの顔にキスをした。

 

白いしぶきが駐車場の中で上がって、非常口の明かりを反射している。

子供たちはみんな暗闇で倒れている。

 

綾瀬ユカと谷口くんが、手をつないでわたしたちを見ている。

 

赤いロボットが、わたしに隠れてVサインを送っていることに、わたしはまだ気がつかない。

文字数:21026

課題提出者一覧