梗 概
祝福
祈りの場というには、艶やかすぎるかもしれない。
ぐわんぐわんと風渦巻く夕暮れのなかで、王者が去っていくのを皆が見つめている。音は無い。光によってかき消されたのだ。同じ方向からやってくる光であるはずなのに、すべてが違う。ひとつは柔らかく、ひとつは逞しく、ひとつは聡明だ。そのすべてが、王者を照らしている。埠頭に集う人々の目に異なる光が宿っている。藍。橙。水色。それぞれが水面に合わせて揺れている。翼がもげても、心臓に穴が開いても、名誉を汚されても闘い続けた王者には、静かな眠りは退屈過ぎて、これくらいが相応しいのかもしれない。旗を振って戦地から戻る王者の帰還を迎えた幼い頃が懐かしい。
眩い昼間のひと時が去り、新しい夜がやってくる。本当は、雲の向こうも海の底も私たちの明日も夜のように真っ暗なのだ。だからこそ、今この瞬間を皆が見つめている。この光景を心に留めておきたいと、皆が願っている。今日という日が分岐点となり、分かれていく時代に、伴侶となるものはいない。そして私もまた、別れのときを迎えている。
おかしな話で、貴女と私とが語り合うのは夜だけだった。どこが前なのか、先とは何なのか、何一つわからない闇のなかで、貴女と私とは自由だった。雨でもなく、私の庭の小川でもなく、広大な海に流れ出て、今初めて、貴女の姿を視界に捉えた。宵の晩には気づけなかったけれど、あなたの尾ひれには日の光がとても似合う。鱗のひとつが貴女の身体から離れていって、水面に弾けるのを見た。きらりと光って消えた。
次に会うことがあったとしても、私は今よりもずっと年をとっている。きっと皺くちゃのよぼよぼのおばあちゃんになっていることでしょう。貴女と遊び歩いたこれまでとは違って、夜目がきかないだろうから、また、窓硝子をたたいて教えてね。三十年前、海の底で、戦火によって家族を失ったのは私だけでなかった。その事実が、どんなに私を慰めたか知れない。もちろん、悲劇なんて無い方がよかった。でも、そんなことを願うのは子どもの間だけで、いつしかどんな風に明日を迎えようかと考えられるようになっていった。それは、貴女がそばにいてくれたから。一緒に旅したことを、決して忘れはしない。王者の姿を皆が忘れないように、私だけが貴女を決して忘れはしない。
じきに夜になる。王者と共に、熱を帯び、光に塗れて、あなたは私の苦しみを携えて、闇に溶けていく。私はそれを、うっとりと見つめている。
文字数:1011
内容に関するアピール
「最後の停泊地へ曳かれて行く戦艦テレメール号」
作者:ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー
製作年:1839年
種類:油彩
所蔵:ロンドンナショナルギャラリー
昔、美術の教科書から一つ絵画を選び、それを下絵にして手彫りの版画にする授業があり、きれいだからという理由でこの作品を選びました。ターナーという画家の描いた風景画。知っていることはそれだけで、朝焼けなのか夕暮れなのかも知ろうともしませんでした。不規則な絵筆の流れに準じて彫刻刀で掘り込みを入れるのに大変苦労し、仕上げに色を置く作業だけが異様に楽しかったのを覚えています。勿論、出来上がった提出物にオリジナルのような精緻さはない。けれど、私はその作業を行うことで空が青色から黄色、黄色から赤色、赤色から黒色へ移り変わることを知りました。後になって、描かれた時代背景やどんな場面なのかを知り、今でも思い返すことの多い絵画のひとつです。
そんな所縁の美しい風景を物語の最後に据え置いて、少女と人魚の交流と循環の物語を描こうと思います。
参考文献
オリヴィエ・メスレー、藤田治彦訳、遠藤ゆかり訳「ターナー 色と光の錬金術」創元社 2006年
サム・マイルズ、荒川裕子訳「ターナー モダン・アーティストの誕生」ブリュッケ 2013年
文字数:533