梗 概
粛清
罰する者と罰される者を見分ける術を、もはや誰も持たないのだとそのとき誰もが気づいていた。裏切り者をつまみだそうとする手のこわばりと、無実を訴え逃れようとする者の心臓の高鳴りが、それぞれどこからどこまでなのかもはや区分できなくなっていた。誰もかれもの脚は既に地面に穿たれているも同然だ。逃げることはできない。
今、倒れ伏した彼の肩を掴み女が強引に引きずり起そうとしている。彼は既に憔悴し息を切らしながらも、必死に床にしがみついている。二人ともに懸命に力を込め続け、二人の汗が混ざりはじめている。そうしているうちにやがて、男の腕とベッドが、女の手と男の肩が、二人それぞれの腰が、混ざり始めているようでさえある。もちろんそれは今そのように思われるだけで、不思議なことは何もない。ただ、彼らは今明らかに灰色の一塊に過ぎなくなりつつある。
そうまでもして膠着する二人に、取り囲む衆のうち誰一人として手を貸そうとはしないのだ。女の側について共に彼を引きずり出そうとする者もいなければ、女の手を払って彼に安心しなさいと声をかける者もいない。誰もが灰色だ。区別できない。灰色のままで、しかし立ち去らずに二人を取り囲んでいる。節度ある距離を取ったまま固唾を飲み、ときに「はやくしろ!」という野次を交えながら二人を見ている。
たった一人、先ほど女に指示をした男だけは、二人が引っ張り合いを続けているすぐ後ろに立っていて、「はやくしなさい」と女を何度も急かす。その度に女は「はい」「すぐに」と荒くなった息の間を通すようにして返事をし、改めて今度こそ指示を全うすべく全身に力を入れ直す。男は自分の正しさを知っている風に、力強く睨みを利かせて女の背中を睨んでいる。
誰もが気づいている。皆、この先に進むのが怖いのだということを。事態の膠着をこそ皆が望んでいるのだということを。
囲む人間たちは真剣に固唾を飲み、彼の処罰を待つふりをしている。男は毅然と指示を出し、決まりごとの遂行に一途であるふりをしている。女は必死に男を引き揚げようとするふりをしている。そして男は他に抵抗の手段がないかのように、仕方なくベッドにしがみつき続けるふりをしている。
この場にいる全員、誰もが嘘をついている。
そのことがなおも彼らを縛り付け、夜が明け始め立ち込める霧が、村ごと彼らの姿をそのまま、隠しきってしまった。
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内容に関するアピール
パウル・クレー『粛清』1937年
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(拡大表示はPCからでないと行えないようです)
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