梗 概
親愛なるレオナルド様
けれど、私には貴方がよく見えている。
色とりどりの貴方の瞳に映った、額縁の私がくっきりと。
防弾ガラス越しの私は鏡映しで、そのせいか体の重心が偏っているように見える。陰影に溶け込んだ椅子へ腰かけ、左腕を肘掛けに載せている私は、いかにも尊大といったところ。思わせぶりに重ねたこの手が、どれほどのウワサと想像を掻き立てたかとおもうと、ちょっぴり罪悪感をおぼえる。けれど、残念ながら期待に応えるようなエピソードを〈彼〉はなにひとつ、口にしていない。
貴方の瞳に映り、左右が反転しただけで〈彼〉の描いた黄金比はこうも容易く崩れ落ちる。
腕に纏う黄色いドレスの袖にゆったりと浮きあがった皺。ダークグリーンのブラウスの上から薄手のショールを羽織った私は、大胆に胸元を曝し、それでいておおよそ寒そうな素振りはない。後ろの風景はだいぶ、殺風景だけれど。
私の背景を描いたときの〈彼〉は、ずいぶん適当だったようにおもう。
ブラシをぞんざいに(素人の私にはそう見えた)キャンパスへ塗たくるあいだ、「未来が寒空の下であってはならない」とつぶやいていたことを覚えている。凍えた曇り空が〈彼〉の見た未来だとしたら、私の頭上に垂れこめた理由はなんなのだろう。
でも、私の左肩へ乗っ掛かるような、あの橋を描いたときには「ちっぽけでも人々の橋渡しとなれるように心掛けなさい」と、いつもの自信に満ちた声で私へ刻んでいる。対照的に、右の渓谷に取りかかったときの〈彼〉は、「人の臓器は曲がりくねって……」とかブツブツと言っていた気がする。
お気に入りの黒のロングヘアに関しては〈彼〉も時間をかけていた。でも、もっと集中しなければならない部分があった。私の眼だ。
「キミの眼は千里眼ではないし、ボクみたいに未来が見えるわけでもない。キミの眼は、万物をあるがまま見るためにあるんだ」
キャンバスへ真っ先に描いた私の眼に、何度も修正を加えながら〈彼〉はそう繰り返した。
「キミは、ボクなら狂ってしまいそうなくらい、人の目にさらされることになる。だからキミが、人々を見てあげるんだ。いずれ数多になるキミの目でね」
見続けることがなにになるのですか?
私の疑問を察したように〈彼〉はブラシを変え、まるで本物のレディにメイクを施すような手つきで吐息を漏らす。
「ボクがおもうにだね……『だれかが見守ってくれる』だけで、人は、前に進めるんだ」
だからボクにできるのはこれだけだよ、後代のトレードマークとなる立派なヒゲをきちっと束ねた〈彼〉はブラシを動かしつつ、私に刻み続けた。
「それに見守られるならやっぱり、微笑みの美女じゃなきゃ」
少年のようないたずらっぽい笑顔をして〈彼〉は、そう言うとふっと、私と目を合わせた。あとにも先にも、〈彼〉が私の眼をまっすぐ見たことはない。
ちょうどいま、貴方が私を見つめるように。
文字数:1197
内容に関するアピール
Portrait de Lisa Gherardini, épouse de Francesco del Giocondo
1503-1506年
Leonardo di ser Piero DA VINCI
絵画を鑑賞していると、作品に鑑賞されているような視線を感じることがあります。作品にはクリエイタの意志が表われるので、「創作者に見られている」と感じても不思議ではないかもしれません。
今回、世界的名画が語りかける作品に挑戦します。かの天才が未来に何を見て彼女に託したのか。五百年にわたり見続けてきた彼女が、人々に何を想うのか。
彼女は盗難にも度々遭っていますが、人を憎んでもいなければ絶望もしていません。どこか「やれやれ」と高飛車ながらも、人の世の移ろいを楽しんでいるのが彼女です。
本作は、そんな彼女から鑑賞者へのメッセージです。
文字数:377
Caro Leonardo,
一日に約三万人。長い列を辛抱強く待った人たちがようやく、私のアパートを訪れる。
私を目当てに来る人が大多数だけれど、この場所を私の“家”と言ってしまうのは、さすがにおこがましい気がする。収蔵品、という扱いにはなっているけれど、私は間借りしているつもり。私はだれの物でもないし(拉致されたことは何度かある)、これからもなるつもりはさらさらない。
創造主は確かにいた。
けれど、〈彼〉に所有物扱いされたことは、一度もない。
ここは、かのルーヴル。世界でもっとも有名な美術館。
パリ地下鉄一番線または七番線を乗り継ぎ、Palais-Royal Musée du Louvre 駅、通称“ルーヴル駅”から地下街へ入って、巨大なシャンデリアのように光を放つ“逆さピラミッド”を目印にひたすら進んでゆく。ここまでくれば、マホガニー色の入館口「Carrousel du Louvre」が目に入るはずだ。
迷子になる心配はいらない。そこら中に「Musee du Louvre」の標識があるし、なんなら私の写真でもスマートフォンに出して、道行くパリっ子(贔屓するつもりはないけれど、おしゃれだからすぐわかる)へ「Excusez moi」と声をかければなんとかなる。去り際の「Merci」も忘れずに。
もし、ルーヴルのシンボル「ガラスのピラミッド」を目指して地上をきたのなら、開館前の行列が良い目印になるはず。そうでなくとも、大統領肝いりの文化政策「Grand Louvre」で建てられた煌めくルーヴル・ピラミッドは、見失うほうが難しい。
ゲートでセキュリティチェックを済ませ、館内を二階に上がり、人の流れへ吸い寄せられるように歩くうち、国家の間へたどり着くはず。ルーヴルはどこもごった返しているけれど、展示室七一一は尋常じゃあない。私の前で立ち止まる人の平均時間は五十秒。他の作品たちの軽く十倍もあるのだから。
展示室の入り口は二カ所。通い慣れた人が使う最短ルートで“私の裏”に出ないかぎり、この二カ所が私の部屋の玄関ということになる。
“間”へ入ってすぐは、私が見当たらないかもしれない。人垣と、居並ぶ“同居人”に呆気に取られるから。
「国家の間」こと、ドゥノン翼イタリア絵画ゾーンの展示室七一一には、私以外にも数十の絵画が彩られている。日本の放送局が出資してくれたおかげで、私たちの部屋はずいぶん、明るく鮮やかになった。特に、幅九メートルにおよぶ同居人たちの宴は圧巻で、そっちへ目がいくのも無理はない。私はいつも正面から、にぎやかなこの華燭の典を楽しませてもらっている。
そう、展示室のいちばん奥、『カナの婚礼』と向かいあう壁の特殊ケースに私はいる。
来館者を見おろす高さに吊られ、額の遙か下から迫り出している台形のカウンターは、名残で木製。だれも使えないこのカウンターテーブルは、私へ、これ以上“ちかづいてはならない”というさりげない境界線。警告は床ちかくにもあって、たゆたうオーロラにはキャプションへ混じって「Garder hors」の各国語版が流れている。
かつて、カーブした長い手すりが遮っていた場所へ群れる人たちのなかに、新型の“浮遊”カメラデバイスへ向かってしゃべっている人がいた。館内でのストリーミングは禁止されているから、すぐ止められるのだろうけど。
でも私は、配信はキラいじゃない。ルーヴルからのストリーミングなら視聴者数はそこそこ集まるから。
いま、このときも増えていく私を見つめる人の数と、私が“見つめる”人の数。
そのすべてが、私の“眼”になる。
◎ ◎ ◎
全方位カメラに向かって叫んでいる若い男性が、有機ELディスプレイのフローティングウィンドウに映っている。口の端から泡を飛ばしながら、男性はせわしなく背後を指さしている。そのさきの”絵”を視聴者に見てほしいらしい。広角レンズに映りこんだ周囲の、いかにも迷惑そうな顔たちに気づいている気配は微塵もない。
「ルーヴル……か」
耳の下に貼りついたワイヤレス骨伝導イヤホンを無造作に指でいじりつつ、机イスに置いたラップトップでストリーミングを観ていた青年がため息をもらした。
薄手のスリーブシャツにオールドブラウンのウルフヘア。いまは机の下が見えないけれど、普段通りならバスケットシューズ。
青年の名は都那瑠烈桜。飾り気のないありふれた美大生、という感じだけれど教室ではかえって地味さが目立つもの。
焦げ茶色の瞳は情熱を持てあまし、自分でも説明のできない焦燥感を隠しきれていない。
「おっ、プロフェッサー“アンドレア”の授業中にストミーか? リィオも優等生やめたかついに。えらいぞえらい」
隣で机に突っ伏した“レインボーヘア”がジャラジャラ鳴る腕を伸ばし、幼子でも褒めるように烈桜の頭をぽんぽんと叩く。さきまで寝息が聞こえていたけれど、虹色のショートボブはウルフヘアの一挙一動に鋭い。
「やめろって瑠華! あとそのよび方もよせってっ」
腕輪やら指輪やらがフル装備された手を払い、烈桜がクラスメイトの羽千依莉瑠華をにらみつけた。声の大きさを自覚して慌てて講義室を見回している。ディスプレイに映っているルーヴルの“眼”から、ついでに私も別の“眼”へ移動する。場所は、烈桜のラップトップカバー裏。
百八十人を収容可能な大講義室は、お世辞にも満員とは程遠い。巨人の肋骨さながら教室を横切る幾列もの机イスには人影がぽつぽつと、合計して十数人がいいところ。講義はライブ配信もされていて、遠隔地の受講者もそれなりにいるらしい。といっても、こっちの生放送を視聴している人数は多くない。
ディスプレイ裏の私の“眼”には、つまり、講義室はガラガラに映った。
「ルネサンス初期、のちにヴェロッキオの師となる彫刻家ドナテッロは、フィレンツェの織物職人の息子として生まれ、多くの作を残している。たとえば一四一七年、『聖ゲオルギオス像』をオルサンミケーレ教会の依頼で制作し……」
幸い、学生たちは真剣に各々のデバイス(大学の支給品じゃなくて、個人の)へ目を落としているし、教壇でルネサンス初期の美術品を次々にホログラフィで宙に散りばめている教授は、完璧に自分の世界へ入って作品それぞれの特徴や時代背景について熱弁をふるっている。
ちょうど、その“ホロ展覧”に私も出てきたので教室前方の“眼”も確保できた。制作年代は少しあとになるけれど、教授は授業中たいてい、私を傍に置いている。
「ふぁ〜あ……」
『ストミー』の“眼”では瑠華が、微睡みを背伸びとあくびで締めくくっているところだった。それから躊躇なく机に腰を下ろすと、おまけにあくびをもう一つ。背中は完全に教壇向きで授業は眼中になし、といったようす。
「リィオのレポって、ラ・ジョコンダだったよな。好きだなーホント。どこまでいった?」
左右でカラーリングのちがうスニーカーとローヒールをぶらぶらさせつつ、トレードマークの“サングラス”の下から目をこすりながら瑠華が眠そうな口を開く。両脚のニーハイソックスが、すっかり流行り廃れたサイバーパンク調にケバケバしいネオンをフラッシュしている。
「だから机に座るのやめろって。ジョコンダはおまえも選んだじゃないか。あー、テーマはなんだっけ……サイバーパンク的仮装?」
「ちげーよ。わざとだな、こいつっ」
ニヤつく烈桜の肩をひっぱたく瑠華。
「アタシのはな、美の融合っつったろ。『複合現実層による古典美術の再定義』だ。で、リィオは?」
「おれは『リーザ・ゲラルディーニの背景の考察』だけど」
「ぶっ。お固っ」
口を押さえた瑠華が頬をヒクつかせる。
「おまえな……」
「悪りぃ悪りぃ。んで、進み具合は?」
「まぁ、ほぼ終わっちゃいる……けど」
「けど~?」
やたら語尾を伸ばしながら顔を寄せる瑠華。嗅覚がない私にはわからないけれど、瑠華は香をつけるタイプじゃない。
「ち、ちかいって」
だとしたら、昔の刑事ドラマに出てきそうな仕草でサングラスをズラす同級生に烈桜が顔を赤くさせるのは、なぜだろう。ますますキレイになっていく幼なじみへの照れ隠しだけではないはず。瑠華はファッションにこそ拘れど、メイクは無頓着だ。でも、肌はよく手入れされてキメが細かい。
「い、いやさ、本物みてみたいなーって」
「モノホンねぇ」
色付きメガネから覗いた瑠華の目は、光を求めて彷徨うように“焦点が合っていない”。慣れない人はギョッとするけれど、付きあいの長い烈桜はそんなことない。もちろん、目が泳いでいる烈桜とは、またべつだ。鼻をならして体を離す瑠華に、烈桜がこっそり息を吐く。
「こっのご時世にかリィオ?」
アクセサリーをジャラっと鳴らし、リングを着けた親指が後ろに向いた。
「……以上のように、偉大な芸術家たちのよき師でもあったヴェロッキオは、十五世紀の中ごろ、メディチ家の支援を受け、この『David』を……Dis donc!」
イタリアの偉大な音楽家をおもわすアロンジュ風の白髪をゆらしつつ、とっさにフランス語が出てくるアンドレア教授。こと、美術史専門の安東先生は、こよなくルネサンス美術を愛するイタリア語とラテン語まで流暢に使いこなす御仁だ。
教授室でボローニャからの交換留学生と快談するところも“見た”し、奥さんも知らない自宅の書斎で、Vergiliusの『Aeneis』を情緒豊かにポスターの私へ朗読してくれたこともある。もちろん、そのポスターをルーヴル美術館で購入したときの安東先生も、私は“見ていた”。
「Madame・羽千依莉っ! またきみは! Vマテリアルにレイヤーするんじゃないと、いつも言ってるだろう!」
文字通り、顔を真っ赤にさせた安東先生が講義室の後ろを指さす。
「アートフュージョンっすよ、プロフェッサーアンドーレア!」
「わたしの名前は安東だ! それにこのレイヤーはなんだっ?!」
有名サッカークラブのユニフォームに着がえ、右手の短剣の先端に赤いユリの旗を垂らしているのは、安東先生が解説中のブロンズ像。ただし、先生の肩あたりまでしかないホログラフィのダヴィデ像がすっかり、サッカーのスターに様変わりしてしまっている。足元のゴリアテはサッカーボールという徹底ぶり。
背を向けたまま、イタズラの張本人は「なんでもない」と言わんばかりに頭の上で手を振っている。さしずめ、スタンディングオベーションに応じるアーティストだ。そのモーションで、教材が筆を持つ画家にイメチェンしたのは予想通り。
「おい瑠華っ。あんまり教授をからかうなって」
「からかってねぇよ。“ディベート”よ、ディベート。現代と古代のアートフュージョンってやつさ」
腕を引っぱる烈桜に瑠華が茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。ウルフヘアはため息を漏らすしかない。幼なじみの二人はだいたいがこんな調子だ。
けれど、二人ともちゃんと勉強はするし、成績はいつも申し分ない。美術作品が好きで仕方ないのだ。だから、しょっちゅう“討論”を吹っかけられる安東先生も、その場で叱りはしても、教授会へ上申はしないし、なにかと気にかけてくれる。それが二人を評価しているなによりもの証。
ホログラフィをリセットさせようとして「ダヴィンチを被せたのか。時代の信ぴょう性はべつとしても、やはり彼がモデルというのは……」と教授がブツブツつぶやくあたりといい、私の異名を使わないあたりといい、瑠華のジョークが知識に裏づけられていることを表している。
「んなことより、モノホンがいいんならさリィオ、あれみてみな」
ついと耳元へささやく幼なじみに、わかりやすく狼狽えながらも指された背後の壁を振り向く烈桜。振り向いて、盛大に“吹きだした”。
「どうよ、あれ? “モノホン”のラ・ジョコンダその人だぜ?」
講義室の最後列、その後ろの壁に私はいた。
ただ、“服を着ていない”。いわゆる裸婦画。
「ぶほっ……瑠華っ、おまっ! それはちがうだろ!」
そうか?、と首をかしげた瑠華が指を鳴らす。
今度は、裸の私が壁からぬっとせり出して、ファッションモデルばりに歩きながらさまざまな衣装を着ていく。まるで、中世から現代までの服飾の歴史を見ているみたい。
モデルの私の“眼”から見ると、口の端をヒクつかせて笑いを堪えるサイケデリックなファッションの瑠華と、座った状態でちらちら目を向けてくる烈桜がなんとも対照的だ。烈桜の頬が赤らんでいる。
おしゃれがしたいとおもったことはないけれど、こうやっていろいろな”私”で疑似体験できるのはまさに、現代ならではといったところ。
「おい瑠華!」
いきなり立ちあがった烈桜が瑠華の肩をつかんだ。投影中のファッションショーが跡形もなく消える。
「な、なにさリィオ……」
「いい加減にしろ。やりすぎだ」
烈桜の怒った顔はめずらしい。少し厳しすぎな目で瑠華をにらみつけている。いまの私は、講義室前方のヴァーチャルマテリアルから、二人を眺めていた。
「……レオ、言ってる意味わからねぇんだけど。なにイキってんのさ? モノホンみたいっていうから、わざわざホログラフィで作ってやったんじゃねぇか。感謝されてもキレられる筋はねぇとおもうけど」
瑠華がサングラスを外してにらみ返していた。普段はひょうきんな瑠華だからこそ、徹底的に落とした声は薄ら寒さを感じる迫力。ちらほら、他の学生が何人か振り返ってまた手元に目を戻すほど。講義を続けながら、二人へ目をやった安東先生に気づいたのは私だけかもしれない。
「本物じゃない。ただの悪ふざけだ。やりたいなら勝手にやれ……おれには見せんな」
「……そうかよ」
乱暴に烈桜の手を振りはらうと、色違いのシューズが教室のドアの向こうへ消えていった。そっちは視界の外で瑠華に追いつけない。
「くそっ……言いすぎた」
ラップトップの前に戻ってきた烈桜が歯を食いしばっている。耳元のパッチに触れているのはミュートにするためと、罪悪感をおぼえたときの仕草だ。
ストリーミング(ルーヴルの配信者がセキュリティに見つかったところ)のウィンドウを閉じ、烈桜がトラックパッドの指を滑らせる。刹那、私の“眼”が途切れ、すぐにまた、浮かない顔の烈桜が見えるようになった。
烈桜の焦げ茶色の瞳に映って見えるのは、ディスプレイに表示された壁紙の私と書きかけのレポート、それに“サングラスを掛けていない”瑠華と烈桜の写真。肩を組んでくるセーラー服の瑠華に驚いて引き剥がそうとする烈桜の照れ隠しがとても初々しい。じゃれ合う二人が卒業式のサイネージを遮り、風に舞った桜の花びらがシーンを彩る。
それからまもなくだった。瑠華が視力を失ったのは。
視覚サポートデバイスのおかげで瑠華は何の支障もなく生活できる。けれど、その目を通し、光を感じ、友の顔を見ることも好きだった絵画をありのまま鑑賞することもできない。
「おれたちの約束は……どうなんだ瑠華」
塗料の染みついた指がトラックパッドをなぞって他のフォルダをたどっていく。細かく分けられたディレクトリには『レーザー人工視覚』『疑似色覚再現インプラント』『ハイブリッド義眼』などの文字が並ぶ。矢印はそれらを素通りし、『パリ』と名前の付いたフォルダで止まった。その日付は烈桜たちが美大に入学する少しまえ。
フォルダには旅行代理店のパンフレットやら、『初級フランス語』の電子書籍に混じってルーヴル美術館の館内案内まである。“キャンセル済み”のホロチケットが主張するように立体のサムネイルを点滅させている。
「……さて、本日の講義はここまで」
安東先生の声で講義室がにわかに騒がしくなった。あちこちで立ちあがる音や電話をかける学生までいる。当の安東先生はいつも通りとばかりに手際よく片づけを進め、教授用のリストバンドを叩くとホログラフィの作品たちが瞬時に姿を消す。
講義室に残った唯一の眼を烈桜が閉じる直前、安東先生の声がした。
「Monsieur・都那瑠、あとでわたしの部屋へ来たまえ」
「えっ。あ、はい」
キョトンとした烈桜の顔を最後に、私の“眼”が閉じた。
安東先生の部屋は学者の書斎というより、画家のアトリエにちかい。
八畳ほどの教授室は四方の壁を背高の本棚が取り囲み、中央の空いたスペースを大小のイーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスが占めている。パレットやブラシ類をある程度片づけているあたりが〈彼〉の工房に似ている。
私の位置はというと、キャンバスの一つがそう。安東先生は最近、頭のなかのイメージだけで私の模写を試みている。先生のために言っておくと、私だけじゃなく、たとえば横のキャンバスではハンカチを持ったご老人がスケッチのまま、色付けを待っている。
「安東先生……?」
「烈桜君か、はやかったな。そこのソファを使ってくれ。すぐいく」
控えめなノックに振りかえった安東先生が烈桜の姿を認めると、そう促してからキャンバスに向きなおった。ちょうど先生は私の髪に取りかかっている真っ最中で、手が離せない。
「あの先生、拝見しても?」
もちろんだとも、と振りかえらずに即答する安東先生。北欧家具のやわらかそうなペアのソファの脇を抜けて、ラップトップを抱えた烈桜が近づいてくる。
「ラ・ジョコンダの模写ですか」
そう言って目をこらす烈桜は作画者の邪魔にならないよう、距離を取って背後に立っている。
「ああ、そうだ。模写は、ただ先人の真似をするためではない。画家の吐息を感じとり、なぜ、彼らがこのように描いたのか、そして題材をえらんだ理由を考えることに意義がある」
淡々と答える安東先生の声は講義というより、自らの信じているものを口にしている響きがあった。
「画家の、吐息」
噛みしめるように先生の言葉を繰り返す烈桜。ラップトップを抱えた手を握りしめるのを私は見逃さなかった。
「とはいえ、想像に頼らざるをえない部分は多いがね。われわれは所詮、過去の偉人へ想いをはせるのが精いっぱいだ。……さて烈桜君、待たせてしまったな」
毛先を細い丸筆で整え、安東先生がパレットに置く。回転椅子を回すと見学者へ向き直った。
「きみのことだ。わたしがよんだ理由の察しはついているんだろう?」
「……瑠華のことですか。あいつが先生に迷惑をかけているのはわかっています。おれが代わりに謝ります」
「いやいや。たしかに瑠華君のおふざけは困ったものだが、まぎれもなく彼女の才だ。デジタルアーティストは数あれど、呼吸するように表現してみせる者は少ない」
頭を下げる烈桜を制し、地毛をゆらす安東先生。立ちあがって烈桜をソファへ促す。
「そこでわたしは、瑠華君をパリのボザールに推そうとおもっておるんだ」
「ボザール・ドゥ・パリですかっ?!」
座りかけた烈桜が素っ頓狂に叫ぶのも無理はない。ボザールはフランスの高等美術学校のことで、光や色の魔術師たちが学んでいた場所として知られている。なかでも、パリ国立高等美術学校はもっとも権威のある学府だ。
「でも教授、どうしてそれをおれに?」
烈桜の表情は”訳がわからない”と言っている。こういうところは実に鈍いというか、人が良いというか。そんなものは決まっているというのに。
案の定、安東先生もデキのよくない学生を諭すように鼻をならした。
「きまっているだろう。きみは瑠華君の親友ではなかったかね。彼女はきみが行かないだろうことをよんで、ことわったんだからな。言っておくが、ボザールの推薦枠はひとりだ」
「ことわった……?」
今度の烈桜はショックを受けている顔だ。狼狽えているといってもいいくらい、顔から血の気が引いている。私も驚いたけれど、烈桜ほど青ざめた顔はできない。
「とりあえず、わたしのほうで保留ということにしてあるがね。編入手続きにはまだ時間がある。ただ、瑠華君は意思が固いから、そうそう変えんだろうとはおもうが」
烈桜の向かいに座り、安東先生がじっと見つめる。
「おれは……おれもアーティストを目指していました」
うつむいてぽつぽつと話しはじめる烈桜。その目はさながら、道しるべを探す旅人のよう。
「ですがいまは、迷っています。アーティストよりも自分にはやらなければならないことがあるんじゃないかって」
「まずこれだけ言っておこうか。本学を出たからといって芸術家になるわけではないし、なれるほど容易い世界でもない」
戒める安東先生の言葉は、やはり正しい。
いまも昔も、自分の腕一本で生計を立てられる者は限られている。人も社会も変わりゆくけれど、それだけは結果として変わらない。アーティストはなおさら厳しい世界だ。
「そもそも、将来の可能性など無限にある。しかし……きみの迷いは、そういう類いではないのだろう?」
「……はい」
うなずいた烈桜の手元をちらりと見て、安東先生が続けた。
「いち教員としては、才ある者をより伸ばしてやりたいと願うのが本心だ。だがそれも、あくまで本人次第。突き放すつもりはないが、最後は本人が決めねばどうにもならん。わたしがきみをよんだのも、そういうことだ。瑠華君を説得できるとすれば、きみしかいないだろう」
時間をとらせたな、と立ちあがった教授に遅れて立った烈桜が頭を下げる。その顔はわかりやすいほどに暗い。
「そうだ烈桜君」
部屋を出ようとした長袖の背中をよび止め、安東先生がツイード生地の内ポケットから輝く紙切れを差し出す。
「意見がききたいと、きみが持ってきた中間レポートだが……わたしがどうこう言うより、自分でたしかめてくるといい。ルーヴルには先人たちの足跡が息づいている。きみたちにはよい刺激となるだろう」
それは、ルーヴル美術館のアカデミアパスと、パリ行きのペア・オープンチケットだった。
キャンパスを歩きながら、烈桜は自分の気持ちを整理しようとしていたのかもしれない。
廊下の突き当たりを曲がらずに顔をぶつけたり、並んで歩くカップルのあいだを迷わず突き進んだり、あげくの果てには階段を踏み外しそうになって、たまたま擦れ違ったラグビー部のたくましい腕がなければ行き先が病院になっていた。
「……どしたそのアザ?」
だから、暗室に入ってきた烈桜をあきれ半分、心配半分の表情で瑠華が見たのも無理はない。
「あーいや、転けただけ」
額をこすりつつ、見えすいたウソをつく幼なじみに、アトリエの主は「あっそ」とそれ以上は詮索しなかった。烈桜がラップトップの筐体に貼ってあるステッカーのおかげで、私は二人の様子がよく“見える”。
ここは写真科がかつて使っていた現像室で、デジタルの波に押しながされて以降は物置にされていたものの、瑠華が入学したあとはそのアトリエと化している(安東先生の口添えで)。視覚サポートデバイスの光量調整がめんどうらしく、暗室のほうが落ち着いてアートに専念できるとか。
「おまえの新作か……」
漆黒の烈桜の足元では、ゆっくりと、天の川銀河が回転していた。よく見ると、恒星の一つ一つが”牛”になっている。自ら光を放つホルスタインが数多に群れて、暗黒の銀河間にラテを作っている。
「うわっ?!」
烈桜が“牛銀河”を踏まないよう避けて歩いていると、突然、目の前に実物大のホルスタインが出現。「搾取からの解放~」と明らかに裏返った瑠華の声で叫びながら、彼方へとスキップしていった。入れ替わるように空中へ、『galassia latte』の筆記体が浮かびあがる。
「やっぱ、リィオはいいリアクションしてくれるぜ~。どうだ、この大作?」
腰を抜かした烈桜に手を差し伸べつつ、瑠華が得意げにサングラスを跳ねあげる。暗闇で瑠華のネオンカラーファッションは、クラシックな地球外生命体の登場シーンを彷彿とさせなくもない。
「……デカ牛はいらないんじゃないか?」
床に落としたラップトップを拾い、瑠華の手をおそるおそる握る烈桜。やわらかく温かい手がひょいっと、烈桜を引きあげた。普段と変わらないおどけた様子で、新鋭のデジタルアーティストが首を振る。
「なにいってんだリィオ! サプライズなくしてなにがアートだ」
「おまえのサプライズは下手すりゃ、びっくりさせすぎて死人が出るぞ」
「おっと、ペースメーカーか。さすが医師志望。そいつはわすれてた」
パチンと指をならすと、サングラスを掛け直した瑠華が宙に向かって両手を動かしはじめた。期待の芸術家の目には、新しいアイディアが見えているのかもしれない。
「なあ瑠華」
星の光が照らす横顔。幼いころから見てきたその顔に烈桜がなにを想うのか、私にはわからない。
ただ、手を止めない瑠華の「ん~?」という気の抜けた返事はいつものこと。
「ボザール、いけよな」
「いかねぇよ」
瑠華の即答に一瞬、烈桜がひるむ。手が震えていた。
それでも烈桜は一歩を踏みだす。ミルキーウェイの中心に一歩、近づいていく。
「こんなチャンスがそうそうないのはおまえだってわかるだろ。だから……」
「んじゃ約束、わすれたんだレオ?」
サングラスを外し、手を止めた瑠華が目をつぶった。ホログラフィプロジェクターのキーンという小高い音が現像室を満たしていく。
「三歳の誕生日。庭で夜空をみながら約束したよな。『アタシたち自身が二人を別つまでいっしょにいる』って。……いまが、そのとき?」
両腕をだらりと垂らし、銀河の真ん中で顔を上に向けるその声は、とても静かだった。
私は、かつて烈桜が私の画像を壁紙にして以来、ずっと彼の部屋を“見てきた”。
よく片づいている部屋には美術に関する本と、医学書がずらりと棚にならんでいる。本棚のところどころにはスペースがあって、いくつもの写真が収まっていた。どれもが烈桜と瑠華のツーショットで、二人の歩みはこの写真たちでもじゅうぶんわかるほど。
医学書をめくっているときに行き詰まると、決まって烈桜は、引き出しから古い一枚紙を取りだした。目を通しては、うなずいてから勉強にもどる。そういうことがなんどもあった。まるで、その紙に「がんばれ」とでも言われているように。
烈桜の瞳に映っていたのはいつも、拙い幼子の描いた絵。烈桜の表情を見れば“画家”の察しくらいつく。それに、現代に無数ある私の“眼”で見るかぎり、蛍光クレヨンの丸と線分の集合は、手をつないで立つ二人の絵で間違いない。その背後に散った黄金色の点々は星々なのだろう。
「……そんなわけない」
「へぇ~でもレオ、アタシひとりにパリ行ってほしいんだろ?」
「さきに行っててほしいんだ。おれは医師になっておまえの目を治したい。準医師を取ったら迎えに……」
「レオさ、なんか勘違いしてない?」
銀河の中心に立つ瑠華が幼なじみへ顔を向ける。焦点の合わない双眸がまるで、数多の可能性を見る創造主のように微笑んでいた。
「べつに自分の目が不憫なんて、おもっちゃいないから。視力がなくなってアタシはほんとうの自分になれたんだよ」
まるで烈桜の表情が見えているように、瑠華が「わからない?」と首をかしげてみせる。
「そりゃあ、“物をみる”ってことに関しちゃ、まえのアタシにかなわない。デバイスがあったってレオのまばたきとか、無理してるときの目とか、みえないのはかなしいよ」
色違いのスニーカーとヒールが銀河を渡っていく。足取りに迷いはない。
「でもね」
アクセサリーに彩られた両手が烈桜の手を包んだ。
「アタシにはわかるんだ。レオがここにいるってことも、アタシはいま、大好きなアートを大好きな人とみている、ってことも」
「瑠華……」
シチュエーションまで計画していたとはおもわないけれど、銀河の中心で想いを告げるとは、なかなかにロマンチストだ。この位置からは見えないけれど、きっと、烈桜のほうが顔を真っ赤にしているに違いない。ラップトップを抱えた腕が小刻みに震えている。この震え方は拒絶されたときと、ぜんぜんちがっていた。
「だからさ、レオが医者になるっていうなら止めない。でもアタシのためだってなら、ほかの道もあるってこと、考えてほしい」
「……おれは、おまえが自暴自棄にみえた。あんなに好きだった絵画やら彫刻に派手な飾りをつけているのは、目がみえなくなった怒りをぶつけてるもんだとおもってた。だから、おまえの作品をみるのは……つらかった」
腕の震えが大きくなる烈桜。水を差すわけじゃないけど、せっかくいい場面なのに手ブレがひどくて酔いそう。
「ショックだな〜アタシ、そんな湿気たツラしてた?」
「ほら、そういう心配させないようにって作り笑いしてるの、おれの目は誤魔化せないからな」
「ちぇっ。バレてたか。だいぶ慣れてきたけど、やっぱ、たまにズーンってなる」
「じゃあガマンするな。親や先生にガマンしてもおれにはガマンしなくていい。落ちこんだときは泣いたっていいんだ」
「……なかねぇよ」
すすりあげる音がするなり、瑠華がドカッと床にあぐらをかいた。赤らんだ鼻は見なかったことにしよう。
「おれも、もうちょい考えるから、瑠華もボザールのこと、考えなおさないか?」
瑠華の横に腰を下ろしながら烈桜がラップトップを開く。宙に浮かんだフライトチケットとルーヴル美術館のホログラフィパスのおかげで、私にも二人の表情が見える。
「ルーヴル行ってからでも遅くない」
「おっ?!」
瑠華がサングラスを掛けると、一気に顔がほころんだ。烈桜と顔を見あわせ、
「スカイフランスの往復チケットじゃねぇかよ! どっから盗んだリィオ?」
「盗んでないし。どうやったらチケット盗めるんだよ……これは、安東先生がレポートの仕上げに、ってくれたんだ」
「さっすが、プロフェッサー“アンドレア”だな。話が通じる」
「……はっ?」
「いやさ、ボザールの話んときに『下見しないと決めらんないし、行くんなら美大生としてルーヴルは欠かせないから、フライトのペアチケットたのむ』って言ってみたんだけど、うれしいね」
言いながら、瑠華がホログラフィのチケットに私と〈彼〉の似顔絵を描きはじめている。なんとなく髪型が見たことあるのはアートフュージョン、なのだろう。
「おまえが頼んだのか?! ずぶといな相変わらず。ていうか、よく先生も買ってくれたな」
「いいっていいって。教え子がボザール入ったら本人よりよろこぶタイプじゃん。それにプロフェッサーはしょっちゅう行ってるし、副業で儲かってから」
「そういう問題か……?」
うんうんとうなずく幼なじみに烈桜はやはりため息をつくしかない。
「できた! みてレオ」
瑠華が烈桜にホログラフィチケットを突きだす。
「これ……ぶはっ!」
短冊状のチケットを横向きにつないだフィルムに、ミニチュアサイズのパリの街並みが描かれていた。エッフェル塔や凱旋門がゆっくりと横に流れ、手をつないだ二頭身の私と〈彼〉がシャンゼリゼ通りを歩いている。いわゆる、横スクロール系というタイプか。
「な、なんだよリィオ! おかしいか! なら返せっ」
光る床の照らす瑠華の頬がめずらしく赤い。
「わるいわるい。そうじゃないって」
チケットを奪い返そうとする瑠華をなだめ、烈桜がパリのランドスケープを上に掲げた。
「やっぱすごいなおまえは。いつか個展やるときは、受付くらい任せてくれよ」
「やだね。つーかレオ、アタシの作品はみたくないっつってなかったっけ」
「え?! いやあれは……その、言い過ぎたっていうか」
ばつが悪そな烈桜の肩にそっと、瑠華が頭をのせる。
「わかってるよ。ねぇレオ? いっしょに個展、開くんだよ。レオの人工眼球にこのアタシがペイントしてやるからさ」
「……それは趣味が悪そうだな」
「言ったなーこのっ!」
瑠華が頬を膨らませる。それからさきに笑いだしたのはどちらのほうか。
宇宙の片隅で、いつまでも二人の楽しげな声が響いていた。
◎ ◎ ◎
“眼”をルーヴルの私にもどそう。
パリの街に陽が昇り、セーヌ川を曙光が照らしていく。
貴方たちは四つあるゲートのうち、煌めくガラスのピラミッド中央入口を抜け、ほぼ無人の館内を足早に進んでいく。事前調査を念入りに済ませた貴方の足は迷わなくドゥノン翼を目指し、たいがいの来館者が立ち止まる逆さピラミッドには目もくれない。そんな貴方に手を引かれ、色も形もちがうシューズが磨きあげたフレンチヘリンボーンのフロアに軽やかな音を立てていく。
そして開館と同時に駆けこんだおかげで、貴方たちはきょう、最初に私の部屋へ到着した人となった。
貴方はだれもいない(監視カメラは別にして)展示室をまっすぐ進み、足を止める。ケースの下のカウンターテーブルに突っこみそうな勢いの貴方を阻むのは、床からぼんやり、たゆたう逆さのオーロラのみ。
オーロラの際まで、息を整え、つま先を近づけた貴方たちとの距離は三メートル。貴方は連れ合いへ私の特徴を簡潔かつ正確に述べ、“サングラスを外した”傍らの人はまぶたを閉じて貴方の説明に聞きいっている。
表情から察するにきっと、肉眼で見る以上に私の姿が鮮やかに虹色の頭へ浮かんでいるにちがいない。
私にも、貴方たちがよく“見えている”。
焦げ茶色の瞳に映った、額縁の私までくっきりと。
防弾ガラス越しの私は鏡映しで、そのせいか体の重心が偏っているよう。陰影に溶け込んだ椅子へ腰かけ、左腕を肘掛けに載せている私は、いかにも尊大といったところ。おもわせぶりに重ねたこの手が、どれほどのウワサと想像を掻き立てたかとおもうと、ちょっぴり罪悪感をおぼえる。けれど、残念ながら期待に応えるようなエピソードを〈彼〉はなにひとつ、口にしていない。
瞳に映り、左右が反転しただけで〈彼〉の描いた黄金比はこうも容易く崩れ落ちる。
腕に纏う黄色いドレスの袖にゆったりと浮きあがった皺。ダークグリーンのブラウスの上から薄手のショールを羽織った私は、大胆に胸元を曝し、それでいておおよそ寒そうな素振りはない。後ろの風景はだいぶ、殺風景だけれど。
私の背景を描いたときの〈彼〉は、ずいぶん適当だったようにおもう。
ブラシをぞんざいに(素人の私にはそう“見えた”)キャンパスへ塗たくるあいだ、「未来が寒空の下であってはならない」とつぶやいていたことを覚えている。凍えた曇り空が〈彼〉の見た未来だとしたら、私の頭上に垂れこめた理由はなんなのだろう。
でも、私の左肩へ乗っ掛かるような、あの橋を描いたときは「ちっぽけでも人々の橋渡しとなれるように心掛けなさい」と、いつもの自信に満ちた声で私へ“刻んでいた”。対照的に、右の渓谷に取りかかったときの〈彼〉は、「人の臓器は曲がりくねって……」とかブツブツと言っていた気がする。
お気に入りの黒のロングヘアには〈彼〉も時間をかけていた。
でも、もっと集中しなければならない部分があった。私の“眼”だ。
「キミの“眼”は千里眼ではないし、ボクみたいに未来が見えるわけでもない。キミの“眼”は、万物をあるがまま見るためにあるんだ」
キャンバスへ真っ先に描いた私の“眼”に、なんども修正を加えながら〈彼〉はそう繰り返した。
「キミは、ボクなら狂ってしまいそうなくらい、“人の目にさらされる”ことになる。だからキミが、人々を見てあげるんだ。いずれ数多になるキミの目でね」
“見続けることがなにになるのですか?”
私の疑問を察したように〈彼〉はブラシを変え、まるで本物のレディにメイクを施すような手つきで吐息を漏らす。
「ボクがおもうにだね……『だれかが見守ってくれる』だけで、人は、前に進めるんだ」
だからボクにできるのはこれだけだよ、と〈彼〉は後代のトレードマークとなる立派なヒゲをきちっと束ね、ブラシを動かしつつ、私に“刻み”続けた。
「それに、見守られるならやっぱり、微笑みの美女じゃなきゃ」
少年のようないたずらっぽい笑顔をして〈彼〉は、そう言うとふっと、私と目を合わせた。あとにもさきにも、〈彼〉が私の“眼”をまっすぐ見たことはない。
ちょうどいま、貴方たちが私を見つめるように。
私は世界でもっとも美しくあって、もっとも複製された最高傑作。
揶揄されてもかまわない。それが、私の使命の手助けとなるから。
それが、〈彼〉の望みでさえあるのだから。
親愛なる貴方たちへ。
私はいつまでも貴方たちを見届けよう。
貴方たちのさきに、たとえなにが待ち受けていようとも、私の“眼”は貴方たちと共にある。
未来に幸あれ!
La Gioconda
(完)
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