梗 概
東京五蓮1964
【『東京オリンピック第2号ポスター』撮影秘話】
撮影場所は、神宮外苑の旧国立競技場国立競技場。まだ寒かった3月末日。撮影に臨んだメンバーは、早崎さんとフォトディレクターに指名した村越襄さん、サブカメラマン3名、アシスタント1名、ストロボ会社のメカニック1名の計7名。モデルは日本人陸上選手3名と立川空軍基地に勤務する、元陸上競技選手のアメリカ兵3名。(中略)誰もが一度見たら忘れられない迫力あるシーンですが、実際のところ、自然に「よーい、ドン!」で一斉にスタートして、あの映像にはなりません。現場では手前の選手の姿勢をわざと低く、奥側の選手はスタートラインより1メートル前方からフライング状態で走らせることで、奥行きのある構図をつくっていました。何度も何度もやり直し、スタートの瞬間を30回以上繰り返したといわれています。
(山田ミユキ『大河の一滴~『いだてん~東京オリムピック噺』第42回 東京流れ者』)
改めて見ると、選手たちが三角形に見えてくる。亀倉はデザインの中で、様々な幾何学模様を使っている。日本の紋章にインスパイヤされ、幾何学模様をデザインに多用してきた亀倉だが、オリンピックのポスターはなぜ三角形も用いたのか。美術評論家の木島俊介さんは「矢印の三角形が入っている、そうすると動きがすっと前に向かう、それによって視覚に訴える力がある」などと語った。
(『美の巨人たち 亀倉雄策「東京オリンピック第2号ポスター」』テレビ東京)
アメリカ空軍から短距離の選手を集めた。白人が一人入っているが、この人だけが長距離なのでスタートがなかなか一致しない。みんなより三、四メートル先にスタートしてもらって、ごらんのように、やっと一致している。恐ろしいもので写真はごまかせない。
(亀倉雄策『デザイン随想 離陸着陸』美術出版社)
この時期アートディレクター・亀倉雄策の下、1964年東京オリンピックのポスターを写真家・早崎治と共に担当したことでよく知られています。躍動する身体、力強くシンプルな構成は戦後の復興から未曾有の発展に向かう日本社会を象徴的に示すものでしたが、実は、その背後に村越が西洋の宗教画にインスピレーションを得た「祈りのデザイン」の動機が隠されていました。商業デザイン界で活動した村越は晩年、5年の歳月をかけ、日本への古典回帰ともいうべき作品『蓮華幻相』の制作に取り組みました。
(『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』茅ヶ崎市美術館)
【梗概】
デバッガーの歴はバグ修正のために2020年から『第2号ポスター』撮影当時の旧国立競技場に転移。だがそこは2年後の1964年だった。
そこではスタッフの襄が八百長の撮影をお願いし、6人の選手がそれを拒むやり取りが2年間続いていた。
撮影ではスタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返す儀式的動作が行われていた。その結果オーバーフローが発生し、世間の目の参照先が1964年から2020年に繰り上がり、襄以外のスタッフや選手は炎上を恐れるようになっていた。
一方でバグ修正のためには撮影を無事終える必要があった。
歴からも撮影をお願いすると、選手は陸上競技で勝ったらいいと無理難題を言う。
歴はハンデとして襄が晩年手掛ける『蓮華幻相』の力を借りて、コースに蓮華の力を宿すことを条件に応じる。
歴と6人の選手による東京五蓮1964が始まる。
最初の難関は泥水の概念。選手が泥水の中を進むように動きが鈍る一方で、歴は親鸞聖人の説いた蓮華の五徳の一つ、〈淤泥不染の徳〉で泥水をもろともせず駆ける。
次の難関は蓮池の概念。選手が蓮池に足を取られるように失速する一方で、歴はロータス効果でアメンボの如く蓮池を駆ける。
だが歴が首位に立つと、八百長を許さない世間バグはコースから蓮華の力を奪い、6人の選手を融合させる。選手は浮遊する三角形と化し、車速で歴を再び抜く。
歴は〈一茎一花の徳〉で一身軽舟の力を得て、ロータス製のレーシングカーを呼び出し、三角形を追い上げ並ぶ。
だが三角形は融合した6人の内、3人のアメリカ人が選手兼軍人だったため歴を銃撃する。
歴は〈一花多果の徳〉で銃一丁と弾多数を呼び出し、〈花果同時の徳〉で運転と銃撃を同時にこなす。弾は三角形の銃口に当たり、攻撃手段を封じる。
だが歴が三角形を再び抜くと、八百長を許さない世間バグはコースを無限ループの地、幾陸世に変え、ゴールを消す。
一度消えたゴールの復元は難しく、最早走り続ける意義も危ういが、それでも歴は首位を守り続ける。
だが三角形は融合した選手の内、アメリカ人選手の1人が長距離選手だったためばてる気配がない。
歴は〈中虚外直の徳〉で虚無の中の幾陸世から、外の旧国立競技場にいる襄に直接通話を試みる。通話は繋がり、襄によれば幾陸世で三角形と化している筈の6人の選手が、旧国立競技場中を縦横無尽に荒ぶっている(例:時の最果てバグ)という。
歴が強引に三角形を牽引して速度や動作を調整すると、選手の荒ぶり方が連動して変化。ならば三角形を利用して間接的に選手を操作し、襄に写真を撮らせようと閃く。
蓮華の五徳を極めた歴は藕(ピンイン)の力を得て、己に不死身状態を適用し、モネの睡蓮に描かれる色彩の光の如く光速で駆け、ED呼び出しの如く三角形を儀式的に動かす。
歴が6人の選手を最高の構図で配置した瞬間、襄はシャッターを切る。写されたのはあの『第2号ポスター』の写真、バグは修正された。
文字数:1200
【参考文献】
亀倉雄策、村越襄、早崎治『東京オリンピック第2号ポスター』
村越襄『蓮華幻相』
山田ミユキ『大河の一滴~『いだてん~東京オリムピック噺』第42回 東京流れ者』
『美の巨人たち 亀倉雄策「東京オリンピック第2号ポスター」』テレビ東京
亀倉雄策『デザイン随想 離陸着陸』美術出版社
『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』茅ヶ崎市美術館
撮影場所は、神宮外苑の旧国立競技場国立競技場。まだ寒かった3月末日。撮影に臨んだメンバーは、早崎さんとフォトディレクターに指名した村越襄さん、サブカメラマン3名、アシスタント1名、ストロボ会社のメカニック1名の計7名。モデルは日本人陸上選手3名と立川空軍基地に勤務する、元陸上競技選手のアメリカ兵3名。(中略)誰もが一度見たら忘れられない迫力あるシーンですが、実際のところ、自然に「よーい、ドン!」で一斉にスタートして、あの映像にはなりません。現場では手前の選手の姿勢をわざと低く、奥側の選手はスタートラインより1メートル前方からフライング状態で走らせることで、奥行きのある構図をつくっていました。何度も何度もやり直し、スタートの瞬間を30回以上繰り返したといわれています。
(山田ミユキ『大河の一滴~『いだてん~東京オリムピック噺』第42回 東京流れ者』)
改めて見ると、選手たちが三角形に見えてくる。亀倉はデザインの中で、様々な幾何学模様を使っている。日本の紋章にインスパイヤされ、幾何学模様をデザインに多用してきた亀倉だが、オリンピックのポスターはなぜ三角形も用いたのか。美術評論家の木島俊介さんは「矢印の三角形が入っている、そうすると動きがすっと前に向かう、それによって視覚に訴える力がある」などと語った。
(『美の巨人たち 亀倉雄策「東京オリンピック第2号ポスター」』テレビ東京)
アメリカ空軍から短距離の選手を集めた。白人が一人入っているが、この人だけが長距離なのでスタートがなかなか一致しない。みんなより三、四メートル先にスタートしてもらって、ごらんのように、やっと一致している。恐ろしいもので写真はごまかせない。
(亀倉雄策『デザイン随想 離陸着陸』美術出版社)
この時期アートディレクター・亀倉雄策の下、1964年東京オリンピックのポスターを写真家・早崎治と共に担当したことでよく知られています。躍動する身体、力強くシンプルな構成は戦後の復興から未曾有の発展に向かう日本社会を象徴的に示すものでしたが、実は、その背後に村越が西洋の宗教画にインスピレーションを得た「祈りのデザイン」の動機が隠されていました。商業デザイン界で活動した村越は晩年、5年の歳月をかけ、日本への古典回帰ともいうべき作品『蓮華幻相』の制作に取り組みました。
(『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』茅ヶ崎市美術館)
【梗概】
デバッガーの歴はバグ修正のために2020年から『第2号ポスター』撮影当時の旧国立競技場に転移。だがそこは2年後の1964年だった。
そこではスタッフの襄が八百長の撮影をお願いし、6人の選手がそれを拒むやり取りが2年間続いていた。
撮影ではスタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返す儀式的動作が行われていた。その結果オーバーフローが発生し、世間の目の参照先が1964年から2020年に繰り上がり、襄以外のスタッフや選手は炎上を恐れるようになっていた。
一方でバグ修正のためには撮影を無事終える必要があった。
歴からも撮影をお願いすると、選手は陸上競技で勝ったらいいと無理難題を言う。
歴はハンデとして襄が晩年手掛ける『蓮華幻相』の力を借りて、コースに蓮華の力を宿すことを条件に応じる。
歴と6人の選手による東京五蓮1964が始まる。
最初の難関は泥水の概念。選手が泥水の中を進むように動きが鈍る一方で、歴は親鸞聖人の説いた蓮華の五徳の一つ、〈淤泥不染の徳〉で泥水をもろともせず駆ける。
次の難関は蓮池の概念。選手が蓮池に足を取られるように失速する一方で、歴はロータス効果でアメンボの如く蓮池を駆ける。
だが歴が首位に立つと、八百長を許さない世間バグはコースから蓮華の力を奪い、6人の選手を融合させる。選手は浮遊する三角形と化し、車速で歴を再び抜く。
歴は〈一茎一花の徳〉で一身軽舟の力を得て、ロータス製のレーシングカーを呼び出し、三角形を追い上げ並ぶ。
だが三角形は融合した6人の内、3人のアメリカ人が選手兼軍人だったため歴を銃撃する。
歴は〈一花多果の徳〉で銃一丁と弾多数を呼び出し、〈花果同時の徳〉で運転と銃撃を同時にこなす。弾は三角形の銃口に当たり、攻撃手段を封じる。
だが歴が三角形を再び抜くと、八百長を許さない世間バグはコースを無限ループの地、幾陸世に変え、ゴールを消す。
一度消えたゴールの復元は難しく、最早走り続ける意義も危ういが、それでも歴は首位を守り続ける。
だが三角形は融合した選手の内、アメリカ人選手の1人が長距離選手だったためばてる気配がない。
歴は〈中虚外直の徳〉で虚無の中の幾陸世から、外の旧国立競技場にいる襄に直接通話を試みる。通話は繋がり、襄によれば幾陸世で三角形と化している筈の6人の選手が、旧国立競技場中を縦横無尽に荒ぶっている(例:時の最果てバグ)という。
歴が強引に三角形を牽引して速度や動作を調整すると、選手の荒ぶり方が連動して変化。ならば三角形を利用して間接的に選手を操作し、襄に写真を撮らせようと閃く。
蓮華の五徳を極めた歴は藕(ピンイン)の力を得て、己に不死身状態を適用し、モネの睡蓮に描かれる色彩の光の如く光速で駆け、ED呼び出しの如く三角形を儀式的に動かす。
歴が6人の選手を最高の構図で配置した瞬間、襄はシャッターを切る。写されたのはあの『第2号ポスター』の写真、バグは修正された。
文字数:1200
【参考文献】
亀倉雄策、村越襄、早崎治『東京オリンピック第2号ポスター』
村越襄『蓮華幻相』
山田ミユキ『大河の一滴~『いだてん~東京オリムピック噺』第42回 東京流れ者』
『美の巨人たち 亀倉雄策「東京オリンピック第2号ポスター」』テレビ東京
亀倉雄策『デザイン随想 離陸着陸』美術出版社
『村越襄 祈りのデザイン:蓮華幻相』茅ヶ崎市美術館
文字数:2427
内容に関するアピール
亀倉雄策、村越襄、早崎治『東京オリンピック第2号ポスター』(1962年)
テーマは「オリンピック×蓮華×バグ」です。
当初はオリンピックにちなんで上記作品を候補の一つに挙げていただけでしたが、色々調べて『蓮華幻相』と繋がりました。仏教では蓮と睡蓮は同じ蓮華として扱うらしく、睡蓮には思い入れもあって選ぶ決め手になりました。
バグはスタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返すエピソードが52回全滅バグを連想させたので組み込みました。
物語は前半の2020年推理パートと、梗概で書いた後半の1964年レースパートで構成する予定です。
前半の流れは「東京2020のポスターの絵がバグる⇒隠された暗号を解く⇒『第2号ポスター』撮影にバグ要因があると判明⇒当時の撮影現場にデバッグ機能で転移」を予定しています。
前半の暗号解読の過程で撮影秘話や蓮華等の予備知識を読者に与えて、後半でそれらを一気に回収するのが狙いです。
テーマは「オリンピック×蓮華×バグ」です。
当初はオリンピックにちなんで上記作品を候補の一つに挙げていただけでしたが、色々調べて『蓮華幻相』と繋がりました。仏教では蓮と睡蓮は同じ蓮華として扱うらしく、睡蓮には思い入れもあって選ぶ決め手になりました。
バグはスタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返すエピソードが52回全滅バグを連想させたので組み込みました。
物語は前半の2020年推理パートと、梗概で書いた後半の1964年レースパートで構成する予定です。
前半の流れは「東京2020のポスターの絵がバグる⇒隠された暗号を解く⇒『第2号ポスター』撮影にバグ要因があると判明⇒当時の撮影現場にデバッグ機能で転移」を予定しています。
前半の暗号解読の過程で撮影秘話や蓮華等の予備知識を読者に与えて、後半でそれらを一気に回収するのが狙いです。
文字数:400
東京五蓮1964
A.D.2020
帰宅ラッシュの空色の下で蒸かすエンジン音と重なるように、小夜時雨が車体や窓をばちばちと叩き付けては消えていく。
そんな時に決まって浸れる闇へ迷い込む感覚も、ワイパーが駆動する度にクリアになる暗闇の向こうへの好奇心も、幼い頃から今に至るまで変わらず続いている。車や街灯、建物の放つ光、ワイパーが往来を繰り返す音。それらは綺麗だとか幻想的だと言語化し切れない心地良さを与えてくれる。その感覚を、感性を、できることなら私は見逃したくない。
車通りの多い道に出ると、丁度通り雨を抜けた。ワイパーを止めると、夜闇と音色の一部の消失をより鮮明に感じられた。
けれど車と家との距離、それに下車する際の悲惨な目を鑑みて、雨が降り止んだことを良かったと結論付ける私は、やはり子供には劣るのだろう。
純真さのない願いは叶い、到着時にはぱらぱらとした小雨に戻り、服を濡らさずに済んだ。
玄関を潜ると食指を誘うコクのある香りと一緒に、ワトの声が届く。
「歴、雨大丈夫だった?」
「さっき丁度止んでくれた。シチュー?」
気になった夕食のメニューを探ってみると、ワトは「あー分かった?」と正解だったことを伝えて作業に戻る。
歴が着替えを済ませて夕食の席に着く頃には、先程言い当てた料理が茶碗よりも一回り大きな器に盛られていた。彼女は先行して数口ばかりフライングを決めていたが、これは日課だからと特に気にせず後に続く。少ししたところでワトがいつものように食事中の会話を始める。
「そういえば今日電話があったんだけど」
「電話って仕事の?」
彼女が電話の話を出す場合は大体が仕事絡みだ。案の定「うん依頼」と肯定する。
「明日の午前に来るって。何か結構ちゃんとした人だった。……えーと、何だっけ」
考え込んでも思い出せなかったのだろう、ワトは席を立って棚にある紙切れを手にした。恐らくそこに書かれているであろうメモ書きに目を通しつつ席に戻ってきた。
「そうだあれ、何か埼玉の行田市ってとこの職員の人だった」
予想を上回るちゃんとしてる感に少し驚く。市がこんな探偵事務所に依頼だなんて何事だろうか。
「表の仕事でまともな依頼がくるの相当久々な気がするんだけど」
ワトの言う通り、歴の本業には常に閑古鳥が鳴いている。それこそ探偵業だけでは食べていけない程には悲惨で、本来なら助手の彼女を雇うこともままならない状況だ。
どうも歴の営む探偵事務所は胡散臭いと思われている節があるらしい。そもそも彼女が歴という通称でこの変わった探偵事務所を開いたのは、自身に特殊な力があったためだ。けれどその力はこの世界ではあまり役に立たないようで、とすればそんな評判が形成されるのは自然の成り行きだろう。
とはいえこの力を生かせないのも勿体ないので、結果裏の仕事に手を出し始めた。裏なんていうと胸糞悪そうに聞こえるし実際にそうだが、良いこともいくつかある。一つはまあ身も蓋もないがまとまった収入が入ること、もう一つはそこでワトと出会ったことだ。
ワトは色々あって身寄りを亡くしていて、同時に帰る場所も失っていた。そんな彼女を歴は条件付きで自身の家に居候させてやっているのだが、その条件が他でもない助手の仕事。つまるところ彼女に給料は発生しておらず、それが閑古鳥鳴くこの探偵事務所で助手を雇えている理由だった。ちなみにワトという名前は通称ですらなくただの渾名だ。
「それで、依頼の内容は?」
「詳しいことまでは言ってなかったけど、市内のあちこちのポスターが不気味な絵に替わってるって。多分不気味すぎて依頼が回ってきたんだと思う」
「うちはオカルト探偵じゃないんだけどな」
ワトはその反論を受け流すように少し笑顔を見せるだけだった。まあ似たようなものだからと割り切ってはいる。
そんな感じで暫く団欒に花を咲かせていると、底を見せたシチューの皿が急にその終わりを告げる。
夕食後は少し寛ぎつつも、明日の仕事に備えて時間を見て早めに就寝した。
その夜、随分と懐かしい夢を見た。
***
歴には昔から搾取している好きなコンテンツがあった。それは情報、中でも好物は人の情報だ。だから歴は時折人の情報を搾取し、消費し、吟味していた。搾取した人間からは大切なものを少しばかり奪ってしまうので、その点で心苦しさは確かにある。けれど最近はゲームでも通常のプレイには飽き足らず、バグを利用した極限の攻略をする特殊なプレイが横行している。ならば人間に対しても特殊な扱いをするのは別に不思議なことではない。それに何より、人の情報を搾取する瞬間はいつだって至高の一時だ。
彼と出会ったのは、まさにそんなコンテンツ消費を愉しんでいる最中だった。
「搾取中すみません、――いいね」
突然背後から聞こえた声に振り返ると、笑みを浮かべているようで、こちらを冷たく射抜く眼差しを男が向けていた。それが彼との初めての出会いだった。
「何を……言っている」
「だから、君のその情け容赦ない残虐性にいいねしたんだ」
言っている意味が分からなかった。だが彼が心から本気でそう思っていることだけは容赦なく伝わってくる。
「そもそも何で普通の人がここにいる」
「君だけじゃないってことさ」
歴はそれもそうだと思い直す。だが依然として相手の真意が掴めず、じれったくなったので単刀直入に訊いた。
「つまり何が言いたい」
「君は――裏の仕事に向いている」
***
そこで夢は途切れた。
次に気付いた時には早朝の感覚を意識していた。
奇妙な夢を見たものだと思いつつ、このことは今日のまともな依頼とも何か関係があるのだろうと歴は直感的に理解していた。人はそれを偶然と決め付け、強運の持ち主だとかラックがあるとか勝手に言うが、そうでないことを私は彼から教えてもらっている。
身支度を済ませて寝室を出ると、いつものようにワトが出迎えた。
「おはよ、今日の予定覚えてる?」
一言「依頼」と答えつつ壁時計に目をやると、普段よりも起床時間が遅いことと、依頼人が来るのが午前10時頃だったことを、改めて同時に理解する。だがまだあと1時間半程は余裕がある。ここは自宅兼事務所だから、出勤の時間を計算に入れる必要もない。
リミットは頭に入れつつもペースは崩さず、まずは温め直された昨日のシチューと、たった今狐色に焼けたばかりのトースト、その他諸々をテーブルに並べて席に着く。一口目を頬張ると、程良く脳に刺激が伝わり目が冴える。我が家に眠り人を目覚めさせる習慣はないので、ワトは一足先に朝食を済ませている。独りの食事には然程時間も掛からず、テーブルの上はあっという間に空の食器とパン粉だけとなった。
その片付けも終えて1時間程が経った午前10時前、依頼人は事務所を訪れた。
ノックと共に扉を潜ったスーツ姿の男性は、いかにも公務員らしい風貌だったが、愛想もあって印象は悪くない。
軽く挨拶を交わし、椅子に掛けてもらって早速具体的な依頼内容を覗う。
「昨日の電話でも少しお話しましたが、行田市内のポスターが別の絵に替わっているんです。それも貼り替えられた跡もなく、落書きのような上から塗り潰された形跡もないのに完全な別物と化していて。加えて被害件数も1件や2件ではなく、警察からも一周回って事件性は薄いと判断されてしまって」
タイミング良くワトがお茶を供しに来て会話が途切れたので、その隙に軽く頭で内容を整理してみる。話を聞く限り悪戯にしては度が過ぎているというか、そもそも実演が難しそうな印象だ。
「それで、言われた通りその替わったポスターを持ってきました」
言った覚えは歴にはないのでワトが機転を利かせたのだろう。市の職員は四つ折りにされたポスターを鞄から取り出してテーブルの上に置く。
「あ、すみません」
たった今配置したお茶のせいでポスターの展開が難しいことに気付いたワトは、慌てて茶托を掴んで位置をずらし、更に造花や牛の置物も作業用のデスクに退避させる。それを見届けた市の職員はゆっくりとポスターを展開させた。
視界に入ってきたそれを言葉で表現するなら、アナログテレビの砂嵐をサイケデリックに着色したようなあの感じのノイズ、といえばイメージし易いだろうか。それが紙の隅から隅まで一面にびっしりと描画されている。
「……これはまた、想像以上に不気味ですね。他の替わったポスターもこれと同じものに?」
「いえ、似てるんですけどどれも若干違っていて」
するとまた鞄から四つ折りの紙を3枚程取り出して、先程のポスターの上に重ねるかたちで次々と展開させていった。見てみると、砂嵐に色が付いたような感じは似ているが、パターンがどれも少しずつ異なっている。
「それとこれは替わる前のポスターなんですが」
次に取り出して展開させたのは不気味な絵でも何でもないただのポスター……だったが、歴はその内容に関心がいった。
「これ、東京2020の公式ポスターですよね」
巷では今、東京2020の開催を前にして日本各地で盛り上がっている。そんなポスターをなぜ持ってきたのかと歴が問う前に、市の職員の方から先に回答がくる。
「ええ実は替わっているのは全て東京2020の公式ポスターなんです」
替わっているポスターが限定されているのは調査の上で良いヒントになる。一方で問題もあった、そのポスターがローカルなものではないことだ。
「となるとこの現象は全国各地で発生してるかもしれませんね」
「いえそれが近隣の市に確認したところ、そういった被害はどうも全くないらしいんです。それこそ市の境の向こうとこちらでくっきりと分かれてるみたいで」
……とそこで不意に市の職員の表情が改まった。
「それと……これはにわかには信じ難いことなんですが、実はこの替わったポスターの絵を見た者の何名かが、まるで狂ったように自殺を行っているんです。それもその内の何名かの方はお亡くなりになられていて」
それを聞いて漸く市がこんなところに依頼を寄越した理由にも合点がいった。恐らく市としては藁をも縋る思いなのだろう。
「といっても本当にポスターの絵が関係していると立証された訳ではありませんが」
「本当にというと?」
「実は替わったポスターの絵を見て自殺を行い、未遂で生還された何名かの方が口を揃えて言うんです、異世界転生の概念が頭の中に入ってきて急に自殺の衝動に駆られたと」
なぜ異世界転生なのかは謎すぎるが、何にせよ少しずつ現状は把握できてきた。
「なるほど、それで私への依頼はその原因の調査をしてほしいと」
「はい、それともしこれがオカルトの類ならお祓いもしてもらえないかと」
そこで歴はいつものようにがくっとなった。その理由を仕方なさげに説明する。
「あー……皆さんよく勘違いされるんですが、我々はオカルト探偵ではないのでお祓いはできません。ただポスターの絵が今後替わらないようにすることはできるかもしれません。このポスターのノイズの感じもオカルトよりも我々の管轄を匂わせますし」
「管轄といいますと?」
「あえて簡単に説明すると、この世にもまるでコンピューターのようにバグが発生することが稀にあるんです。我々はそんなバグを見付けて修正するデバッグ探偵です」
細々とした話と手続きを済ませ、市の職員が帰られると、いよいよ本格的に調査が始まる。手慣れたようにそのタイミングを見計らってワトが声を掛けてきた。
「どう、もう解決できそうだったりする?」
「さすがにそれはまだだけど方向性は見えてきた。まずは行田市以外に本当に被害地域がないかを調査したい。ワトも協力頼む」
ワトは「分かった」と一言発すると、マイデスクに戻ってパソコンを操作し始める。歴もそれに続いて自身のパソコンを弄り始めた。
探偵の調査といってもいきなり野外に赴いたりはしない。各市のポスターを一つ一つ調べるなんてことは物理的に難しいし、仮に可能だとしても、そもそも零細事務所にそんな金銭的な余裕はない。
ネットの情報も案外馬鹿にならない、それを証明するようにお目当ての代物は少し調べただけであっさりと見付かる。辿り着いたサイトにはポスターの絵が替わる現象が、簡潔ではあるが複数枚の画像付きでまとめられていた。歴の探していた被害地域に関する情報もあり、読み通りやはり被害は行田市だけに限ったものではなかった。具体的にはそのサイトでは以下の地域が挙げられていた。
「千葉県千葉市、神奈川県茅ヶ崎市、埼玉県行田市、群馬県蓮田市、愛知県愛西市、滋賀県守山市」
逆にいえば以上の6市町村以外の地域では、ポスターの絵が替わる現象は発生していないことになる。それも行田市の職員も言っていたように市の境でくっきりと分かれているらしい。それを踏まえて次の方向性に当たりを付ける。
「この6市町村に何か共通点がないかを当たってみよう」
ポスターの絵が替わる地域は明らかに人為的、とすればそこには何らかの理由がある筈。そのためにまずは該当する地域のことを知る必要がある。そうはいってもこれだけの市町村からあるかどうかも分からない共通点を見付け出すことは難しく、先程のようにすぐに解決とはいかなかった。それでも時間を掛けて探っていると、ワトがあることに気付く。
「歴分かったかもしんない、ちょっと見にきて」
ワトが呼ぶので席を立って彼女のパソコンの前まで行くと――「蓮?」
「そう、これが行田市関連のサイト。でこっちが千葉市なんだけど」
床一面を覆う蓮の画像を見せたワトがブラウザのタブを切り替えると、そこに出てきたものもまた床一面を覆う蓮の画像だった。
「これどっちも古代蓮っていう蓮なんだって」
埼玉県行田市では古代蓮は行田蓮と呼ばれ、市の天然記念物に指定されている。市内にある古代蓮の里では池一面に咲く姿を見ることができ、ちょっとした観光地にもなっている。一方の千葉県千葉市では古代蓮は大賀蓮と呼ばれ、検見川の大賀蓮として県の天然記念物に指定され、県内外問わず各地に移植されている。
……とワトは説明するがどうにももやもやが残る。案の定、席に戻って調査を再開させるとそれは明確になった。
「見た感じそれ以外の市には古代蓮との繋がりはなさそうだ」
歴の一言に「ですよねー」と及び腰になるワトだったが、それでも一言だけ反論を絞り出す。
「けどしいていえば群馬県蓮田市には蓮って付いてるし……」
その控え目の呟きによって突如直感が降ってきた。それが消えぬ内にと急いで手を動かし、あるものを調べてみると――「ビンゴ」
「え、もしかして何か分かった?」
「ワトは複雑に考えすぎてたんだ、共通点は古代蓮ではなく蓮だ」
歴の読み通りほとんどの被害地域で蓮との関連性が認められた。実は日本の市町村にはそれぞれ街のシンボルなるものが存在する。その中でも特に多いのが木と花だ。そして被害地域のほとんどが市の花として蓮か睡蓮が挙げられていた。この一致は確実に何らかの関係があるとみて間違いないレベルだ。
一方でそうなってくると新たに2つの疑問が浮かび上がってきた。一つは蓮と睡蓮はそもそも全く別の植物であること。蓮はヤマモガシ目ハス科ハス属、根っこは食卓でもお馴染みのあの蓮根だ。一方の睡蓮はスイレン目スイレン科スイレン属、正式名称はヒツジグサで根は蓮根とは似ても似つかない。そしてもう一つは6市町村の中でたった一ヶ所だけ市の花に蓮も睡蓮も指定されていない市があったことだ。
「神奈川県茅ヶ崎市、この地域に謎を解く糸口がありそうだ」
歴とワトは早速茅ヶ崎市と蓮や睡蓮との接点を探り始める。だが調べてみてもこれといったものはなく時間だけが過ぎていく。
「歴それらしいの何も見付からない、これどっかで推理間違えたパターンじゃない?」
「だとしても蓮や睡蓮の一致に関しては偶然では片付け辛い。だが確かに何か重要な見落としがあるかもしれない。気分を変えてもう一つの疑問の方を考えてみようか」
「あぁ蓮と睡蓮が全く別の植物ってやつ? でもそうは言うけど似てるよね、同じって思ってる人も多そう」
「確かに、普通の人は科や属なんて気にしないな」
「何かこう、その2種類を一緒くたに考えられるようなものがヒントだったりするとか」
ワトは時折良い意見を出してくれることがある。蓮と睡蓮は植物として見れば全く異なるが、見た目は確かに似ている。ならばそれらを文化的に捉えてみたら見えてくるものがあるかもしれない。とはいえそう思ってみてもどう捉えればいいかは未だに見当がつかない。
「何だろう、ものというか、それをまとめて言い表すワードみたいな」
ワードか。
ワトのその一言が妙に頭に残り、歴は無意識にある単語で検索を掛ける。そのまま検索結果に目を通していくと、あるページで目に止まった。そのページを見終えた歴は言った。
「……五輪ポスター、蓮と睡蓮、茅ヶ崎市――繋がったかもしれない」
「え、本当?」
驚きと期待を含めたワトが呼ばずして私の席に駆け寄ってきた。そう慌てなくても今からちゃんと説明するつもりだ。
「まず蓮と睡蓮に関してだけど、ワトの言う通りその2種類をまとめて言い表すワードがキーだった。それがこれだ」
その解説と連動させるように検索欄にブラウザをスクロールさせて、茅ヶ崎市という単語と共に書かれているワードをワトに見せる。
「……蓮華!」
「そう、蓮華というワードは蓮だけを指す場合もある一方で、蓮と睡蓮の両方を区別せず指す場合もある。そしてその蓮華と茅ヶ崎市にはある関連があった」
再び説明と連動させるように今度はタブを切り替えて、ある絵をワトに見せる。
「うわ、何か凄そう。……あ、これ――」
「蓮だよ、作品名は『蓮華幻相』、作者は村越襄。茅ヶ崎市美術館のサイトに載ってたものだ」
ブラウザに表示されたのは、気品がありそれでいて圧倒される、蓮華をモチーフとした煌びやかな絵だった。
「それだけじゃない、これ」
解説と連動させて再度タブを切り替えて、用意していた最後の絵をワトに見せる。
「これ昔の東京オリンピックのポスターだよね、何で?」
ブラウザには1964年の東京五輪で使われた、6人の選手が短距離のスタートダッシュをした瞬間を写し出した『第2号ポスター』が表示されている。ワトはまだそこに隠されたある事実に気付いていないが、その説明は3人の作者名の内の1人にマウスカーソルを持っていくだけで済む。
「……村越襄!」
そう、これが歴の行き着いた結論。6市町村だけで起こる五輪ポスターの絵が替わる現象、そこに散りばめられた要素が全て繋がった。
だが勘違いしてはいけない、デバッグ探偵の本当の仕事はここから。
「それで、これからどうする」
「無論、依頼された通り、これ以上ポスターの絵が替わらないようにバグを修正する。そしてポスターの絵が替わる現象の要因は、恐らくポスターの当時の撮影現場。今からそこに行ってくるからワトは留守番を頼む、夜までには帰る」
……と行く気になり始めたところで、ワトが急に思い出したように言う。
「あ、でも撮影現場っていうけどオリンピックのポスターって何種類もあるんじゃなかったっけ」
ポスターの種類を特定できなければ現場に行きようがないとワトは言いたいのだろうが、当然それに関しても既に考えをまとめてある。
「確かにこの村越襄って人物が制作に携わったポスターは2種類あって、さっき見せた『第2号ポスター』ともう一つ、『第3号ポスター』もそうだ。ただ前者の撮影は国立競技場で、後者は東京体育館、つまりどちらも隣接してるから行き先は同じ。それにどちらがバグの要因かは大方察しがついてる」
「え、もう分かってたの」
「まず『第3号ポスター』だが、これは1人の水泳選手が泳いでいる写真で凄くシンプルなものだ。それに引き換え『第2号ポスター』はさっきも見せた通り6人もの陸上選手が写真に収められていて構造が複雑、加えてそちらのポスターにはある有名な制作秘話がある。実はこの撮影は30回以上もリテイクを繰り返しているんだ。つまり彼らはスタートダッシュだけを延々と繰り返す、本来の競技ならあり得ない行動を取り続けた」
「……それバグが起こるやつだ」
「有名どころだと52回全滅バグなんかが挙げられるな」
52回全滅バグとはフィールド上で52回連続で全滅すると発生するバグのこと。但し途中で街やダンジョンに入ったり、メニューを開いたりするとカウントがリセットされるので、通常のプレイをしている限りは絶対に発生しないバグだ。
それを今回の事例に当てはめると、全滅がスタートダッシュに該当して、街やダンジョンに入ったりメニューを開く行為がゴールに該当する。つまり彼らは意図せずバグを発生させる状況を作り上げてしまった可能性があった。
「じゃあやっぱバグが発生した方は――」
「そう、さっき見せた『第2号ポスター』の可能性が高い。今度こそ納得したかな?」
「完全に納得した」
さて、果たしてこれらの推理は当たっているのだろうか。
「じゃあ行ってくる、旧国立競技場にね」
そう言って自宅兼事務所を出た歴は車を走らせた。暫く運転して穴場の駐車場に車を止めると、そこからは足を電車に切り替える。車内に乗り込み席に着くと、これからに備えて身体を休ませた。
……見ると思っていた、朝の夢の続きを。
***
以前の歴がバグ世界に頻繁に足を運んでいた目的は、そこに住む人々から少しずつ情報を搾取してコンテンツ消費を愉しんでいたからだった。所詮はバグ世界の住民だとの思いもあって、罪悪感はそれ程強くもなかった。けれどそんな目的も彼と出会ってから少しずつ変わっていった。
バグ世界で彼と出会ってからというもの、歴は懐事情もあって裏の仕事に手を染めるようになった。けれど一番の決め手は、私の好きなコンテンツを彼らが認めてくれたことにある。特に彼はとても理解に優れていて、今では私と彼との関係は生さぬ仲といえるくらいには深まっている。
それまで独学でバグ世界を往来していた歴は、まだ本当の意味で世界の広さを知らずにいた。だからこそ彼に連れられて行く先々の世界を見てその未知に驚いた。バグ世界の住民の中にも、狂乱を交えながらも目に光を宿す者達がいることを、歴は少しずつ一見を通して知っていった。
そんな中で出会った彼女の心境を大きく変えることになったあのバグ世界は、まさにその最たるところだった。けれどそこは――
「このバグ世界を消滅させれば、俺達の任務は達成される」
「それ以外に任務を達成する方法は?」
「あるが、そのためにはあることを行う必要がある。それは――再走」
再走とは新バグや新ルートが発見されたことにより、再び序盤から苦行をやり直す行為のことだ。
「君も知っての通り、その行為は精神を極限まで削る。あえてそちらを選択するメリットはない」
「……再走はどうしても無理なのか」
「なぜ君がそんなことを考える、君は人のことを――情報としか思っていないのだろう?」
今でもあの時の彼の言葉は忘れない。
***
「間もなく新宿、新宿――」
虚ろに届いたその駅名は目的地に向かうための乗り換え駅だった。慌てて下車して中央総武線に乗り換えると、ほんの数分で下車予定の千駄ヶ谷を知らせる車内アナウンスが流れた。ホームに降り立ち改札を出て少し歩けば、目的地への玄関口、新国立競技場が無機質に佇んでいた。
実際に来てみて少し驚くが、東京2020が始まらない内はこんなものかと思うくらいに警備の目は薄かった。といっても向かう先はここではないのだから別に不法侵入には当たらない。
敷地を跨ぐ頃には既に現実が揺らぎ始めていた。まだ日中でそれも晴れている筈なのに、日の光はまるで厚い雲に覆われるように急激に陰り始める。持ってきた絵の替わったポスターが己の力を介してこの土地に共鳴している証拠だ。
少し歩くと西口観客席に通ずる出入口のゲート前に着く。念のためそこに力を加えてみるが、当然のようにゲートは施錠されていてびくともしない。とりあえずそこから場内の様子を覗ってみるも誰の気配もなく、グラウンドはしんと僅かな黄昏を浴びるのみ。
現場に向かうには何か決定的なトリガーが必要なようだ。
歴はデバッグ機能を利用して目的地への転移を試みる……が上手くいかない。こういったことよくあって昔の私だったらその時点で転移を諦めていただろう。けれどそれ以外の様々な方法を、今の歴は彼らから色々教えてもらっている。
今回はその中の一つ、出入口の設置する感覚を想像してみることにした。
これは回想バグからヒントを得たやり方だ。回想バグとは一度ゲームを中断して再開させると、中断した前と後で世界線が異なる現象が発生するバグだ。それを応用することで、本来拾えない筈の出入口や階段等を拾ったり、逆に設置することができるようになる。
つまり強制的に出入口を設置してバグ世界に向かおうという訳だ。
とはいえただ設置するだけでは駄目で、何かその行き先を示す情報が必要だ。そしてその情報の役割は恐らくあれが果たしてくれるだろう、そう考えながら歴は鞄の中に手を入れる。掴んで取り出したものは絵の替わったポスター、それをゲートに簡単に貼り付ける。あとは少し待てば結果が出る。
待っている間、必然的に歴の視線が絵の替わったポスターに向けられていると、そこである思考が割って入ってきた。
実は今回の推理には一つだけ疑問が残っている。なぜ絵の替わったポスターを見た一部の者は異世界転生をしたくなり、自殺の衝動に駆られてしまったのか。その理由は現時点では分からずじまいだが、念のため頭に留めておこう。
とその時、ゲートに貼られているだけのポスターから急に紙を丸めるようなくしゃくしゃとする音が鳴り始めた。間違いない、バグが発生した証拠だ。
歴がその確信の下、ゲートに自身の体重を預けると、施錠されている筈のゲートは軋り音を立てて――開いた。
A.D.1964
ぼやぼやとした視界に覆われたあと真っ先に入ってきた刺激は、人工的な照明の作る眩さと人の声。感覚がはっきりしてくると、自身が西口観客席にいることを認識できた。どうやら無事現場に到着したらしい。
……と思ったが早速おかしな点を発見する。本来ポスターが撮影された年は1962年の筈なのだが、どういう訳か今いるここは1964年で、2年もの差が生じている。この分だといびつな点は他にも色々と見付かりそうだ。
気を取り直し視線を移してグラウンドの方を俯瞰してみると、そこには人丈程に大きなカメラや照明と共に何人かの人影が。まずは彼らとの接触を試みようと決めて観客席の階段を下っていくが、どうも様子がおかしい。遠すぎて内容までは聞き取れないが、声色からして何か言い争っている様子だ。歴は観客席の階段を下り切り、フェンスに重心を預けて聞き耳を立てる。
「本当に頼む、そうしないとポスターが完成しない」
「何度も言ってるが、それはプライドが許さないし、炎上のリスクがある。だからどんなにお願いされてもできない」
何とか聞き取れたやり取りからすると、どうやらスタッフと選手らとの言い争いのようだ。視覚情報も加味すると、撮影を進めたい1人のスタッフに対して、6人の選手らがそれを拒んでいる構図だろう。だがその光景には違和感というか、本来の撮影とは異なる点があった。事務所の調査の際に見た情報にはポスターの撮影には計7名のスタッフが関わったと書かれてあったが、見たところここにいるスタッフはあの撮影をお願いしている1人だけだ。
加えていえば選手らが撮影を拒んでいる様子にも違和感しかない。彼らにだって当然ギャラは発生している筈だし、そもそも撮影にスポーツ選手のプライドを持ち出すのもおかしい。そもそもこの時代に本来炎上なんて単語が出てくる筈がない。恐らくバグの影響で本来の世界線とは違うバグったやり取りがここでは行われているのだろう。但しここは現実世界の過去ではないので、どんなやり取りが行われていたとしても矛盾自体は発生しない。
ここまでの状況を頭の中で整理したところで、ふと歴の中にある仮説が浮上する。スタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返したことによってオーバーフローが発生し、世間の目の参照先が1964年から2020年に繰り上がり、炎上を恐れるようになった、……そんなバグが発生したのではないかと。つまりこのバグをあえて命名するのなら――八百長を許さない世間バグ。
「おいちょっと待ってくれ、あれは誰だ」
選手の1人が私の存在にやっと気付いてくれた、と言わんばかりに歴は寄りかかっていた柵を跳び越え、観客席からグラウンドへ急降下。着地を決めて彼らのいるところまで歩きつつ挨拶をする。
「申し遅れました、私はデバッグ探偵の歴と申します」
「何だそれは、大体ここは関係者以外立ち入り禁止じゃないのか」
「ええ、本来であればそうですね。ですが逆に訊きますが、その関係者の人数が随分と少ないようにお見受けしますが」
「そんなことは俺達の知ったこっちゃない」
「それに関しては俺から話す」
歴と選手との会話にスタッフが割って入ってきて、そのまま6人の選手の声の届かないところにまで誘導されると、彼は話し始めた。
「始めは他のスタッフも皆選手にお願いしてたんだ。けど一人……また一人と消えていって、気付けば俺以外皆消えちまった。俺も今はまだ抗ってるが、まるで長い年月抗い続けてるような感覚があって苦しいんだ。そこへ歴、あんたがやってきた」
「長い年月、なるほど、それで1964年に。それは大変でしたね、……えーと」
「俺は村越襄、呼び方は襄で構わない、敬語もいらない。それであんたはこの状況を打破する何かを知ってるんじゃないか?」
歴は調査の際にその名前が出てきていたことを思い出す。もしかしたら今回のバグ修正はこの人物がキーになるかもしれない。
「分かった、お互い敬語はなしだ。それで本題だが襄の考えた通り私はこの異常を解決する術を持っている。見たところ選手らが撮影を拒んでいることに問題があるようだが、その認識で?」
「ああ合ってる、彼らに何を言っても断固撮影を拒み続けるんだ」
「本当に何を言っても? 些細なことで構わない、何か解決の糸口がほしい」
すると襄は少し考える素振りを見せる。何かあるのだろうとじっと待っていると、彼は打ち明ける。
「実は彼らはもし短距離で全員に勝ったら撮影に応じると言ったんだ。けど彼らは皆プロだ、勝てる訳がない」
それだけ聞ければ十分だった。歴は不敵な笑みを零して、再び選手らの元へ歩み寄った。背後から「お、おい」と襄の動揺を交えた声が届いたが、気にしなかった。選手らの元へ戻ると、歴は言った。
「スタッフから話は聞きました、是非お手合わせ願いたい」
「構わないが……本気か?」
「ええ、但し多少のハンデは頂きます。襄、少し手を握ってくれ」
そこへ丁度歴の後を追ってきた襄は「はぁ」と訳も分からない様子でその要求に従った。
その瞬間、世界は変化した。
黒や深緑を中心とした色々が空間を陣取り背景と化す。所々に出現する金は強く存在を主張している。グラウンドの地も黒に染まり、走行レーンを深緑を中心とした色々で導が付けられ、辛うじてここが先程までいた会場と類似した場所なのだと教えてくれる。それらの変化は襄の『蓮華幻相』の力が、歴のバグの力を媒介して反映されたものだった。
「これがハンデなのか? それに……あれは何だ」
選手の1人が走行レーンの先に視線を向けて言った。そこには褐色の靄が霞むようにかかっていて先が見えなくなっている。
「あれこそがハンデです。あれは蓮華を育てる泥水、といっても別に汚れないし濡れもしない、寧ろ泥水の概念を持った空間といった方が近い。ちなみに私もあの中を走ります」
「何だ、それじゃあハンデにならないじゃないか。しかしまあ、本人がそれでいいってのならその条件でやってやろう」
交渉が成立し、そこからはあっという間に準備が調っていく。
ちなみに選手らは競技用の服装なのに対して、歴だけは至って普通の私服で、絵面としてはかなり滑稽かもしれない。
少ししていよいよ準備が整ったらしく、6人の選手がそれぞれ位置に着いていく。歴もそれに続き、スターターを任された襄も定位置に着く。静寂の中、襄がトリガーに指を引っ掛けた。
「位置について……、用意――」
銃声と共に、彼らは走り出した!
東京五蓮1964が、今ここに開幕した。
スタートダッシュの瞬間、先行したのは6人の選手。当然の結果だが、いざ目の前にすると彼らの激走には野性味すら感じられる。その勢いを落とさず選手らは褐色の靄に飲まれていく。
少し遅れて歴もそれに飲まれると、間もなく泥水に潜ったような感覚が身体に付随される。だがこれはあくまで概念、息苦しさはない。
ペースを守り走り続けていると、前方の褐色の靄の中から3人の選手の影を捉える。歴は少しずつその距離を縮め、そして並んだ。
「な、嘘だろ、どうなってんだ」
「この泥水の概念を持った空間は我々に試練を与え、走行を妨げる。だから今我々は泥水の中を掻き分けるようにしか前進できない」
「だとしてもそれはお互い様だ。何であんたはそんなに早く走れる」
選手がその疑問を言い終わる頃には、歴は選手を追い抜いていた。
「確かに今我々が受けている妨げに違いはない。だがさっきも言ったがこれはハンデだ」
「おい、何の答えにもなってないぞ」
「……蓮華の五徳」
歴がそう口にした頃には3人の選手との差は更に離れ、それからすぐに選手は褐色の靄に消えた。
蓮華の五徳、それは仏教の一宗派である浄土真宗の祖、親鸞聖人が説いたとされる教えだ。名前の通りそれには5つの徳があり、今発動した徳は〈淤泥不染の徳〉。それによって歴は泥水の概念を持った空間に染まらず、速度を維持して前進する力を得た。
だが蓮華の五徳の発動は決して簡単ではなく、卓越した精神を備えた者のみが到達を許される。従ってハンデといっても決して生易しくはない。でなければ例えこの競争に勝ったところで、選手らはその結果に納得しない。それ程の所業を発動できているのは、襄の『蓮華幻相』の力によるところが大きいが、それでも自身のこれまでの経験を以ってしてやっと。現にやろうと思えば選手らにも発動することは可能だが、それを遂行できる者は恐らくいない。
と、急に視界が開けてきた。
褐色の靄を抜けた瞬間、ばしゃあという概念が歴の頭の中に入ってきた。感覚と認識のずれからくる齟齬の混乱を抑え、冷静に周囲を確認。どうやら水中から水上に移行したようで、そこは蓮池の概念を持った空間だった。
歴は走行に意識を集中させつつも、暫しその景色に浸った。泥水は深い青緑色に染まり、空は黄土色に金を織り交ぜたような気品のある色に染まっている。色を反射させる水面はまるできらきらの擬音を表現したような、黄色味の強い採光を乱反射させる。水上には至るところに蓮華が浮いていて、彩度の強い青緑がアクセントとして目を潤す。
気を取り直し前方を注視すると、先頭を走る3人の選手の姿を捉える。彼らは褐色の靄に苦戦しながらも、何とか首位を守り水上まで到達していた。
だが試練は姿形を変えて我々を阻む。それを証明するように、ここにきて彼らの失速が目に見えて始まっていた。その要因は彼らが皆蓮池に足を取られていることにあった。褐色の靄とは違い走行の妨げは足元に集中していて、その分先程よりも阻む力が強く、それは褐色の靄を無事突破した者でさえ抗い難い試練だった。
結果先程までの差が嘘のように、先頭を走る3人の選手と歴との距離は縮まり、そして並んだ。
「な、お前何で――水に浮いてるんだ」
「蓮の力さ」
「蓮が水に浮いてるからあんたも浮いてるってのか」
「そうじゃない、そのものの特徴を理解し、それを実践している」
「特徴? 一体どんな」
選手がそう言っている間にもその差は更に離れていく。
「……ロータス効果」
歴がそう口にした頃には3人の選手との差は大きく離れ、後方に小さくその姿が捉えられるのみとなった。
ロータス効果とは文字通りハス科の植物に見られることからそう呼ばれている現象だ。どのようなものかといえば、ハス科の植物の葉の表面はμレベルの特殊な微細構造によって決して濡れることがない。加えていえばアメンボはそれを利用して水に浮いている。
無論人間程の重量でそれを行えば、本来なら沈んで転ぶのが関の山だが、そこは自身に宿るデバッグの力と襄から借りた『蓮華幻相』の力を合わせて何とか実現を可能にしている。
人知を超えた力を操り、遂に首位に立った歴。だが彼女にはそれでもまだ余裕があった。だてにデバッグ探偵と裏の仕事をしていない。この程度で苦戦しているようではそれらは勤まらない。
あとはこのままゴールラインを切ればいい、そう考えていた時だった。
「……何、だ」
背後から存在自体に粟立つような形容し難い不気味な気配を感じた。
走りつつ、恐る恐る振り返り、遠くから迫るそれを――見てしまった。
気配の正体はその感じ取れる不気味さからは程遠い無機質な物体だった。見た目を一言で表現すれば、浮遊する三角形……としか言いようがない。厳密には象牙色をした、金属の質感と光沢を持つ、直径5m前後の正四面体。そんな形状をした物体が三角形の概念を主張し、一つの頂点を地に向け、そこを軸に時計回りに回転しながら前進し走行している。
だが歴はそれ以上にその内に秘められた、何かよく分からないぐちゃぐちゃな執念と混沌のようなものに意識を奪われる。謎の畏怖にも似た知覚に思考が鈍りながらも、混乱を抑え、考え……はっと気付いた。あの三角形には6人の選手と消えたスタッフ達の意識が出鱈目に集積され、クラスター化していることを。
そこに至って歴は己の油断を認めた。オリンピックは世界の頂点を決める祭典、人間の限界を行くスポーツのプロが世界から集う。同時にそれはスポーツ選手だけに限らず、このオリンピックの開催を支える者達、つまりこの『第2号ポスター』の製作に携わっている者もまた人間の限界を行くプロなのだ。
その卓越したプロは、1964年東京オリンピックのポスター全てに図形を隠した。『第1号ポスター』には丸、『第3号ポスター』には十字、……といった具合に。そして『第2号ポスター』に隠された図形は三角形。
つまりあの浮遊している三角形にはスポーツのプロとグラフィックのプロとが融合し、ぐちゃぐちゃな不気味さを放ちつつも、卓越し洗練された三角形としてそこに存在する。そして今、奴はそれら全てのプライドに賭けて歴に勝とうとしているのだ。
状況を整理していると、今度はフィールドに変化が起こった。煌びやかだった黄土色の空は赤みとくすみを増し、足元にあった蓮池は消えて無機質なグレーの道路へと情報が更新されるように差し替わった。道の左右は床のある概念と床のない概念とが混在して、不用意に踏み抜けばどうなるかも予想がつかない。
これらの変化は恐らく八百長を許さない世間バグが起こしたものだ。6人の選手の負けが現実味を帯びてきたことで、ハンデともいっていられなくなったのだろう。
変化に驚いている間にも、三角形は着実に距離を縮めてきていた。その速度は最早人力を超えて車速に達している。
その時、歴の横をぶわりと風が通り抜けた。
追い抜かれた。
目の前の三角形は見る見る小さくなっていく。蓮華の力は先程よりも後退していて、このままでは――負ける。
だが歴は負ける気などなかった。
「そちらがその気なら、遠慮はしない」
今までの歴はいってしまえば普段通りに仕事をこなしていただけで、全く本気ではなかった。だがここからは違う、デバッグ探偵、裏の仕事、……それらを横に置いて、一デバッガーとしてこのバグ修正に全力を尽くす。
……さてここで状況を一つ整理しよう。今私が相手をしているのは三角形で、その中には多くの五輪ポスター関係者の意思が詰まっている。つまり彼らは今、三角形に乗っている。
「ならばこちらの対抗手段は――」
言葉と同時に発動したのは〈一茎一花の徳〉。歴が手を掲げると、遠くから多くの何かが接近してくる。それは――蓮華だった。
蓮華は歴の掲げる腕の先、つまり頭上でぺたぺたと何かに貼り付くように集約していく。四方八方が完全に蓮華で隠れたと同時に歴が腕を前に振り下ろすと、それと同期するように蓮は目の前の道路に叩き付けられ、弾け、そして顕現した。
「やあロータス」
彼女が声を掛けたのは、イギリスの企業、ロータスカーズ製のレーシングカー。それには花を支える茎のような力強さがあった。
歴がそれに飛び乗ってハンドルを握れば、その存在を認めるようにエンジン音が木霊する。次いで風を切り始め、速度が人の脚を超え、そして軌道に乗った。
速い、この不安定な空間が歪むのではないかと思う程に。
レーシングカーの運転は初めてながら、彼女の真の力と襄の『蓮華幻相』の力で何とか操作できている。だが今回ばかりは本当に油断ならない。このスピードだ、一つのミスが命取りとなり、敗北に繋がるだろう。それでも勝てる自信に揺るぎはない。
前方に三角形が見えてきた。
車は尚もスピードを上げ、一気に接近し、そして――並んだ。
その時だった、車に小さい何かが衝突する感覚があった。だがスピードが速すぎて音での断定が難しい。仕方なく目視で認識して――気付いてしまう、三角形から生え出た3つの銃口がこちらに焦点を合わせていることを。
「銃を……撃ったのか」
だがなぜいきなり銃を、と考えたところで調査の際に目に留まった意外な事実を思い出す。実は6人の選手の内、アメリカ人の3人は立川空軍基地に務める選手兼軍人だった。恐らくその血とバグが銃の引き金を引かせたのだろう。そう考えれば銃口が3つ見えることにも説明がつく。
一方でそれは歴の中に様々な感情が渦巻く結果に繋がった。実のところ歴はこの戦いに期待していた、世界の頂に立つプロにはバグにも屈しないプライドがあるのだろうと。だが今しがたの銃撃は一線を越えていた。
「残念だけど君らは情報で測れる程度の人間だ」
吐き捨て、そして歴は〈一花多果の徳〉を発動させた。すると先程のように蓮華がぺたぺたと空間を囲い始める。それが弾けると、出てきたものは銃一丁と弾多数。相手がその気ならこちらも反撃するしかない。
だが歴は大勢の五輪ポスター関係者を乗せている三角形とは違い、単独で車に乗っている。このままでは銃を撃つことができない。
ならばと、歴は続けて〈花果同時の徳〉を発動させた。狙うは運転と銃撃の同時処理。その成功は蓮華の五徳の力があっても困難を極める。それでも歴は的確な運転をこなしつつ、じっくりと追い詰めるように三角形へと照準を合わせ――撃った。
弾丸は互いの走る速度をも計算に入れて、三角形に吸い込まれるように命中。当たった場所は――銃口の中。
「……いける」
間髪入れず歴は見事な銃捌きで連射を放ち、他の2つの銃口にも弾を搬入してやった。結果相手の銃は機能を失い、三角形の攻撃手段を封じることに成功した。
同時に三角形を追い抜き首位に立ち、そのまま相手を引き離していく。今度こそ勝ちだ。
だが歴はそこである不安要素に気付いてしまった。それもこの競争の根底を揺るがす大きな問題を。
「ゴールに……着かないな」
振り返ってみれば、今までの競争の過程も短距離にしては随分長い距離を走っていた。それでも今まではまだ空間を別物に変えた影響の範疇として説明できる範囲内の変化だった。一方で今はそもそもゴールの概念や情報自体を感じられない。恐らくは八百長を許さない世間バグが奥の手を行使しても敗北が確定的になったことで、ゴールそのものを消す凶行に及んだのだろう。
一度消えてしまったゴールの復元は難しい。だがこのままではゴールできず、永久にこの地を走り続けることになりかねない。そもそも最早ゴールがないのだから走り続ける意義も危ういが、とはいえ相手に追い抜かれるのには抵抗がある。
歴は首位を守り続けるが、相手もばてる気配がない。そこでまた調査の際に目に留まった意外な事実を思い出す。実は6人の選手の内、アメリカ人選手の1人は長距離選手だった。
このまま無為に走り続けても進展は見込めない、そう考えた歴は脱出の手掛かりを掴もうと、今いるここが何なのかを周囲を見渡し探ってみる。だがあるのは永久に続く灰色の道と、妙に淡い夕焼けのみ。それでも歴は視続けて――遂に情報を得た。
幾陸世、それがこの空間の名。つまりここはループ処理によって無限に続く道であり、ロックダウンされた空間だった。
いずれにせよゴールがなければそれを自ら作り出す必要がある。だがこの空間に目ぼしい情報は何もない。そしてこういった何もない空間でバグを発生させるのが実は最も難しいのだ。それでも考え、考え尽くして結論を出した。
歴は〈中虚外直の徳〉を発動させた。この世界の中が虚無ならば、外からの刺激に頼ろう。歴は襄に直接通話を試みると、暫くして受信があった。
「襄、応答願う」
「歴……なのか? 今どうなってる、何で戻ってこない」
「簡潔に言うがゴールがなく、勝敗が付かない状態に持っていかれた。よってそちら側に戻ることができない。だがこの状況を打開するにはこちら側からでは手掛かりが少なすぎる。そちら側から何か手掛かりはないか」
「手掛かりかどうか分からないが、さっきからこっちで6人の選手が空間中を縦横無尽に荒ぶってるんだ。ちなみにあんたの姿はその中にいない」
「その言い方だと選手の見た目自体は普通なんだな。挙動に規則性はあるか? それと他に何か手掛かりは?」
「見た目は普通だ。規則性はさっきも言った通り縦横無尽だ、それが規則性ともいえるが。他の手掛かりは俺の見る限りないな」
「もう少し具体的なイメージがほしい。今から色々な概念を送るから、どれが一番近いか教えてくれ」
歴が通話越しに様々な概念を送ると、暫くして襄の答えが返ってくる。
「見てみたが、時の最果てバグってのが一番近いと思う」
時の最果てバグとは、キャラが物凄い速さで空間中を縦横無尽に移動して、まるで分身しているかのように見えるバグだ。
「……じゃあ次に、もし今から規則性に変化があったら教えてくれ」
その時点である憶測がよぎり、それを胸に歴は運転に意識を戻し腕を掲げると、先程のように多くの蓮華が出現した。それらを今度は三角形に向けて放つと、あっという間に三角形を覆い尽くし、そのまま上方へと飛び立った。
「変化した!」
ほぼ同時に聞こえてきた襄の声に歴は確信する、三角形と6人の選手の荒ぶりは繋がっていると。
……だがそこで今日見た夢のことを思い出した。そして今、その説明を襄にしなければならない。
「襄、この長い年月の撮影を終わらせる方法が分かった。今私は五輪ポスター関係者がぐちゃぐちゃに融合した三角形と戦っていて、そいつは今バグの根幹と強い力で繋がってる。だからそいつを殺せばこの撮影は終わってバグも修正させられる。但し三角形を殺した場合、このバグ世界で東京オリンピックのポスターを完成させられる機会は永久に失われる」
「……ポスターを完成させる方法は一つもないのか」
「あるが、そのためには再走を行う必要がある。それは精神を極限まで削る行為、そちらを選択するメリットがない。それに三角形を殺せば彼らの情報を自由に搾取できるしな」
それを伝えると暫く沈黙が続いた。歴は彼が言葉を紡ぐのをただ待った。
「俺、は……。――少しでも望みがあるのなら俺はポスターを完成させたい。それは俺のエゴでもあるけど、それ以上にポスターを完成させて、この東京オリンピックを成功させたいんだ」
「……分かった、理解した。そうだ、君は――情報だけでは消費できない人間だ」
「歴……!」
「襄、君にも協力してほしい。なに、襄の最も得意とする写真を撮ってほしいんだ。君の求める最高のスタートダッシュの写真をね」
「スタートダッシュの……写真」
「そして私は君の願いを叶えるべく――死に続けよう」
そうだ、本来これはそのために行っていた競争。だがこんなことになってはもうそれもままならない。ならば強制的に撮ってしまえばいい。つまりこれは――
「ED呼び出し。終わらせるんだ、この東京五蓮1964を」
「……分かった、最高の一枚をこのレンズに収める。だがさっきも言ったが6人の選手は皆ばらばらに荒ぶってる。そんな状態じゃあ理想通りの写真は撮れない」
「襄はゾートロープって知ってるか」
「勿論知ってる、一定のスピードで回すとアニメーションが浮かび上がるっていう――おいまさか」
「そう、今彼らが荒ぶってるのは速度や移動方法が合っていないため。ならそれを合わせればいい」
「けどこれはそもそもゾートロープじゃない。そんなことができる訳……」
「それを――やってみせる」
蓮華の五徳を極めた歴はその身に蓮華の根、つまり蓮根の力を宿す。蓮根は藕とも言いピンインはou、つまり歴は藕の力を得た。そしてそれはバグ殿からの加護となり、不死身状態を呼び出す力となった。
次いで歴の身体を情報のオーラが纏い始め、光り輝き、色が……色彩が、氾濫した。まるでクロードモネの睡蓮の如く、歴は色彩の光になった。身体は荒々しい色彩のタッチと化し、それは瞬く間に車へ、そして周囲の空間へと及んでいく。
そして彼女はオーバーシュートの速度、光速を得た。
そのスピードを以って走行、そして蓮華に包まれた三角形を牽引していく。
だが人間の身体が光速に……いやそもそも光になることに耐えられる筈がない。だから歴は死んだ。――いや死にながら走行を続けた。
「凄い、さっきの比にならないくらい荒ぶり方が変化してる」
「荒ぶりが収まるタイミングが来たら教えろ」
歴は光の速さで様々なパターンを分析し、的確に動きを調整していく。次第にぶれぶれだった6人の選手のぶれに一致を感じ始める。それを裏付けるように襄から応答がきた。
「収まってきた。まるで6人の選手が写真みたいにスタートダッシュの瞬間の理想的なポーズと位置で止まろうとしてるみたいだ」
「あとは襄、君の感性でシャッターを押せ」
歴が最後の後押しを発してすぐ――シャッター音が聞こえた。
A.D.2021
その瞬間、歴は光に包まれ、意識を失っていく……。
ああ見るのか、夢の終わりを。
***
「なぜ君がそんなことを考える、君は人のことを――情報としか思っていないのだろう?」
「私、は……。――情報のどこかが異常なかたちで生まれてきた。だから人間に愛着が持てなかったし、他人の情報を搾取することに何の抵抗もなかった」
彼はただ黙って私の言葉の続きを待った。
「けどこのバグ世界に来て、皆私の好きなコンテンツを……私のことを認めてくれた。そんなこと現実世界でも、今まで行った他のバグ世界でもなかった。だから私はこのバグ世界を、見捨てられない」
「……分かった、理解した。そうだ、君は――バグに抗える人間だ」
今でもあの時の彼の言葉は忘れない。
それから彼は不死身状態を呼び出して、何度も死にながら、そのバグ世界を救った。
***
そして夢は終わった。
気が付いてまず認識したのは、暗闇の先に氾濫する都会の光と車の音。
次いで自身のいる位置に意識を向ければ、そこはあのポスターを貼った施錠されたゲートの前だと理解する。奥からは人の気配も光も感じられなかったが、念のためゲートに重心を預けてみて、開かないことを確認しておく。
ゲートに貼ってあるポスターは替わる前の本来の絵に戻っていた。鞄の中に入れていた他の3枚のポスターも同様だった。
バグ修正は無事成功したのだろう。
「やあ歴」
突如耳に届いたそれは、聞き間違えることのない紅に光を宿したような彼の声だった。その声源に視線を向ければ、建物の外側の柱に寄りかかっている彼の姿が確認できた。どうしてここにと思っていると、それを汲み取った彼は説明を始める。
「君がバグ修正を終えたことで現実世界の西暦が1年加算され2021年になった。但し元号は令和3年のままだし、干支は丑年のまま。こういった変化は珍しく興味深い、だから修正内容の確認も兼ねて立ち寄った」
「だとしたら変だ、確かにバグが修正される瞬間、2020年が2021年になる感覚はあったが、1964年に西暦が1年加算される感覚はなかった。それだと1964年と2021年の差が4の倍数にならず、オリンピック開催年の計算が合わない」
「それに関してだが、どうやら2020年に新型コロナウィルスなるものが流行し、それによって東京2020が1年延期になった歴史が付加されたらしい」
時に現実はフィクションを追い越していくとはよく言うが、まさかそんなことになっていたとは、と驚いていると彼はまだ話を続けた。
「それよりワトから大方の話は聞いたが、思うにまだ解けてない謎があるんじゃないか?」
考えてみると確かに、と歴は思い出す。ポスターを見た一部の者が異世界転生をしたくなった理由、結局それが分からないままバグ修正を終えてしまった。
「だが今の君は既に答えに辿り着ける情報を全て持っている筈だ」
彼の冷涼な表情に大きな変化はないが、当ててみせろと挑戦状を突き付けていることは否が応でも伝わってくる。だから歴は考え得る限りの回答を述べた。
「輪廻転生」
「……はずれ」
自分で答えておいて何だが、どうにももやもやの残る回答ではあった。とはいえそれ以外の答えが見付からないのが歴の正直なところでもある。
「駄目だ、どうにも分からない。悔しいがヒントを頼む」
「……いいんだな」
勿体ぶるように彼が言うので一瞬迷ったが、やはり分からないので無言で首肯を返す。
「そうだな、……俺と君との関係を4文字で表せ」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、とりあえず言われた通りに答えてみる。
「生さぬ仲――まさか!」
回答を述べた歴はそこであることに気付き、そこから導き出された真実を恐る恐る言い放った。
「異世界転生ウィルス」
帰宅ラッシュの空色の下で蒸かすエンジン音と重なるように、小夜時雨が車体や窓をばちばちと叩き付けては消えていく。
そんな時に決まって浸れる闇へ迷い込む感覚も、ワイパーが駆動する度にクリアになる暗闇の向こうへの好奇心も、幼い頃から今に至るまで変わらず続いている。車や街灯、建物の放つ光、ワイパーが往来を繰り返す音。それらは綺麗だとか幻想的だと言語化し切れない心地良さを与えてくれる。その感覚を、感性を、できることなら私は見逃したくない。
車通りの多い道に出ると、丁度通り雨を抜けた。ワイパーを止めると、夜闇と音色の一部の消失をより鮮明に感じられた。
けれど車と家との距離、それに下車する際の悲惨な目を鑑みて、雨が降り止んだことを良かったと結論付ける私は、やはり子供には劣るのだろう。
純真さのない願いは叶い、到着時にはぱらぱらとした小雨に戻り、服を濡らさずに済んだ。
玄関を潜ると食指を誘うコクのある香りと一緒に、ワトの声が届く。
「歴、雨大丈夫だった?」
「さっき丁度止んでくれた。シチュー?」
気になった夕食のメニューを探ってみると、ワトは「あー分かった?」と正解だったことを伝えて作業に戻る。
歴が着替えを済ませて夕食の席に着く頃には、先程言い当てた料理が茶碗よりも一回り大きな器に盛られていた。彼女は先行して数口ばかりフライングを決めていたが、これは日課だからと特に気にせず後に続く。少ししたところでワトがいつものように食事中の会話を始める。
「そういえば今日電話があったんだけど」
「電話って仕事の?」
彼女が電話の話を出す場合は大体が仕事絡みだ。案の定「うん依頼」と肯定する。
「明日の午前に来るって。何か結構ちゃんとした人だった。……えーと、何だっけ」
考え込んでも思い出せなかったのだろう、ワトは席を立って棚にある紙切れを手にした。恐らくそこに書かれているであろうメモ書きに目を通しつつ席に戻ってきた。
「そうだあれ、何か埼玉の行田市ってとこの職員の人だった」
予想を上回るちゃんとしてる感に少し驚く。市がこんな探偵事務所に依頼だなんて何事だろうか。
「表の仕事でまともな依頼がくるの相当久々な気がするんだけど」
ワトの言う通り、歴の本業には常に閑古鳥が鳴いている。それこそ探偵業だけでは食べていけない程には悲惨で、本来なら助手の彼女を雇うこともままならない状況だ。
どうも歴の営む探偵事務所は胡散臭いと思われている節があるらしい。そもそも彼女が歴という通称でこの変わった探偵事務所を開いたのは、自身に特殊な力があったためだ。けれどその力はこの世界ではあまり役に立たないようで、とすればそんな評判が形成されるのは自然の成り行きだろう。
とはいえこの力を生かせないのも勿体ないので、結果裏の仕事に手を出し始めた。裏なんていうと胸糞悪そうに聞こえるし実際にそうだが、良いこともいくつかある。一つはまあ身も蓋もないがまとまった収入が入ること、もう一つはそこでワトと出会ったことだ。
ワトは色々あって身寄りを亡くしていて、同時に帰る場所も失っていた。そんな彼女を歴は条件付きで自身の家に居候させてやっているのだが、その条件が他でもない助手の仕事。つまるところ彼女に給料は発生しておらず、それが閑古鳥鳴くこの探偵事務所で助手を雇えている理由だった。ちなみにワトという名前は通称ですらなくただの渾名だ。
「それで、依頼の内容は?」
「詳しいことまでは言ってなかったけど、市内のあちこちのポスターが不気味な絵に替わってるって。多分不気味すぎて依頼が回ってきたんだと思う」
「うちはオカルト探偵じゃないんだけどな」
ワトはその反論を受け流すように少し笑顔を見せるだけだった。まあ似たようなものだからと割り切ってはいる。
そんな感じで暫く団欒に花を咲かせていると、底を見せたシチューの皿が急にその終わりを告げる。
夕食後は少し寛ぎつつも、明日の仕事に備えて時間を見て早めに就寝した。
その夜、随分と懐かしい夢を見た。
***
歴には昔から搾取している好きなコンテンツがあった。それは情報、中でも好物は人の情報だ。だから歴は時折人の情報を搾取し、消費し、吟味していた。搾取した人間からは大切なものを少しばかり奪ってしまうので、その点で心苦しさは確かにある。けれど最近はゲームでも通常のプレイには飽き足らず、バグを利用した極限の攻略をする特殊なプレイが横行している。ならば人間に対しても特殊な扱いをするのは別に不思議なことではない。それに何より、人の情報を搾取する瞬間はいつだって至高の一時だ。
彼と出会ったのは、まさにそんなコンテンツ消費を愉しんでいる最中だった。
「搾取中すみません、――いいね」
突然背後から聞こえた声に振り返ると、笑みを浮かべているようで、こちらを冷たく射抜く眼差しを男が向けていた。それが彼との初めての出会いだった。
「何を……言っている」
「だから、君のその情け容赦ない残虐性にいいねしたんだ」
言っている意味が分からなかった。だが彼が心から本気でそう思っていることだけは容赦なく伝わってくる。
「そもそも何で普通の人がここにいる」
「君だけじゃないってことさ」
歴はそれもそうだと思い直す。だが依然として相手の真意が掴めず、じれったくなったので単刀直入に訊いた。
「つまり何が言いたい」
「君は――裏の仕事に向いている」
***
そこで夢は途切れた。
次に気付いた時には早朝の感覚を意識していた。
奇妙な夢を見たものだと思いつつ、このことは今日のまともな依頼とも何か関係があるのだろうと歴は直感的に理解していた。人はそれを偶然と決め付け、強運の持ち主だとかラックがあるとか勝手に言うが、そうでないことを私は彼から教えてもらっている。
身支度を済ませて寝室を出ると、いつものようにワトが出迎えた。
「おはよ、今日の予定覚えてる?」
一言「依頼」と答えつつ壁時計に目をやると、普段よりも起床時間が遅いことと、依頼人が来るのが午前10時頃だったことを、改めて同時に理解する。だがまだあと1時間半程は余裕がある。ここは自宅兼事務所だから、出勤の時間を計算に入れる必要もない。
リミットは頭に入れつつもペースは崩さず、まずは温め直された昨日のシチューと、たった今狐色に焼けたばかりのトースト、その他諸々をテーブルに並べて席に着く。一口目を頬張ると、程良く脳に刺激が伝わり目が冴える。我が家に眠り人を目覚めさせる習慣はないので、ワトは一足先に朝食を済ませている。独りの食事には然程時間も掛からず、テーブルの上はあっという間に空の食器とパン粉だけとなった。
その片付けも終えて1時間程が経った午前10時前、依頼人は事務所を訪れた。
ノックと共に扉を潜ったスーツ姿の男性は、いかにも公務員らしい風貌だったが、愛想もあって印象は悪くない。
軽く挨拶を交わし、椅子に掛けてもらって早速具体的な依頼内容を覗う。
「昨日の電話でも少しお話しましたが、行田市内のポスターが別の絵に替わっているんです。それも貼り替えられた跡もなく、落書きのような上から塗り潰された形跡もないのに完全な別物と化していて。加えて被害件数も1件や2件ではなく、警察からも一周回って事件性は薄いと判断されてしまって」
タイミング良くワトがお茶を供しに来て会話が途切れたので、その隙に軽く頭で内容を整理してみる。話を聞く限り悪戯にしては度が過ぎているというか、そもそも実演が難しそうな印象だ。
「それで、言われた通りその替わったポスターを持ってきました」
言った覚えは歴にはないのでワトが機転を利かせたのだろう。市の職員は四つ折りにされたポスターを鞄から取り出してテーブルの上に置く。
「あ、すみません」
たった今配置したお茶のせいでポスターの展開が難しいことに気付いたワトは、慌てて茶托を掴んで位置をずらし、更に造花や牛の置物も作業用のデスクに退避させる。それを見届けた市の職員はゆっくりとポスターを展開させた。
視界に入ってきたそれを言葉で表現するなら、アナログテレビの砂嵐をサイケデリックに着色したようなあの感じのノイズ、といえばイメージし易いだろうか。それが紙の隅から隅まで一面にびっしりと描画されている。
「……これはまた、想像以上に不気味ですね。他の替わったポスターもこれと同じものに?」
「いえ、似てるんですけどどれも若干違っていて」
するとまた鞄から四つ折りの紙を3枚程取り出して、先程のポスターの上に重ねるかたちで次々と展開させていった。見てみると、砂嵐に色が付いたような感じは似ているが、パターンがどれも少しずつ異なっている。
「それとこれは替わる前のポスターなんですが」
次に取り出して展開させたのは不気味な絵でも何でもないただのポスター……だったが、歴はその内容に関心がいった。
「これ、東京2020の公式ポスターですよね」
巷では今、東京2020の開催を前にして日本各地で盛り上がっている。そんなポスターをなぜ持ってきたのかと歴が問う前に、市の職員の方から先に回答がくる。
「ええ実は替わっているのは全て東京2020の公式ポスターなんです」
替わっているポスターが限定されているのは調査の上で良いヒントになる。一方で問題もあった、そのポスターがローカルなものではないことだ。
「となるとこの現象は全国各地で発生してるかもしれませんね」
「いえそれが近隣の市に確認したところ、そういった被害はどうも全くないらしいんです。それこそ市の境の向こうとこちらでくっきりと分かれてるみたいで」
……とそこで不意に市の職員の表情が改まった。
「それと……これはにわかには信じ難いことなんですが、実はこの替わったポスターの絵を見た者の何名かが、まるで狂ったように自殺を行っているんです。それもその内の何名かの方はお亡くなりになられていて」
それを聞いて漸く市がこんなところに依頼を寄越した理由にも合点がいった。恐らく市としては藁をも縋る思いなのだろう。
「といっても本当にポスターの絵が関係していると立証された訳ではありませんが」
「本当にというと?」
「実は替わったポスターの絵を見て自殺を行い、未遂で生還された何名かの方が口を揃えて言うんです、異世界転生の概念が頭の中に入ってきて急に自殺の衝動に駆られたと」
なぜ異世界転生なのかは謎すぎるが、何にせよ少しずつ現状は把握できてきた。
「なるほど、それで私への依頼はその原因の調査をしてほしいと」
「はい、それともしこれがオカルトの類ならお祓いもしてもらえないかと」
そこで歴はいつものようにがくっとなった。その理由を仕方なさげに説明する。
「あー……皆さんよく勘違いされるんですが、我々はオカルト探偵ではないのでお祓いはできません。ただポスターの絵が今後替わらないようにすることはできるかもしれません。このポスターのノイズの感じもオカルトよりも我々の管轄を匂わせますし」
「管轄といいますと?」
「あえて簡単に説明すると、この世にもまるでコンピューターのようにバグが発生することが稀にあるんです。我々はそんなバグを見付けて修正するデバッグ探偵です」
細々とした話と手続きを済ませ、市の職員が帰られると、いよいよ本格的に調査が始まる。手慣れたようにそのタイミングを見計らってワトが声を掛けてきた。
「どう、もう解決できそうだったりする?」
「さすがにそれはまだだけど方向性は見えてきた。まずは行田市以外に本当に被害地域がないかを調査したい。ワトも協力頼む」
ワトは「分かった」と一言発すると、マイデスクに戻ってパソコンを操作し始める。歴もそれに続いて自身のパソコンを弄り始めた。
探偵の調査といってもいきなり野外に赴いたりはしない。各市のポスターを一つ一つ調べるなんてことは物理的に難しいし、仮に可能だとしても、そもそも零細事務所にそんな金銭的な余裕はない。
ネットの情報も案外馬鹿にならない、それを証明するようにお目当ての代物は少し調べただけであっさりと見付かる。辿り着いたサイトにはポスターの絵が替わる現象が、簡潔ではあるが複数枚の画像付きでまとめられていた。歴の探していた被害地域に関する情報もあり、読み通りやはり被害は行田市だけに限ったものではなかった。具体的にはそのサイトでは以下の地域が挙げられていた。
「千葉県千葉市、神奈川県茅ヶ崎市、埼玉県行田市、群馬県蓮田市、愛知県愛西市、滋賀県守山市」
逆にいえば以上の6市町村以外の地域では、ポスターの絵が替わる現象は発生していないことになる。それも行田市の職員も言っていたように市の境でくっきりと分かれているらしい。それを踏まえて次の方向性に当たりを付ける。
「この6市町村に何か共通点がないかを当たってみよう」
ポスターの絵が替わる地域は明らかに人為的、とすればそこには何らかの理由がある筈。そのためにまずは該当する地域のことを知る必要がある。そうはいってもこれだけの市町村からあるかどうかも分からない共通点を見付け出すことは難しく、先程のようにすぐに解決とはいかなかった。それでも時間を掛けて探っていると、ワトがあることに気付く。
「歴分かったかもしんない、ちょっと見にきて」
ワトが呼ぶので席を立って彼女のパソコンの前まで行くと――「蓮?」
「そう、これが行田市関連のサイト。でこっちが千葉市なんだけど」
床一面を覆う蓮の画像を見せたワトがブラウザのタブを切り替えると、そこに出てきたものもまた床一面を覆う蓮の画像だった。
「これどっちも古代蓮っていう蓮なんだって」
埼玉県行田市では古代蓮は行田蓮と呼ばれ、市の天然記念物に指定されている。市内にある古代蓮の里では池一面に咲く姿を見ることができ、ちょっとした観光地にもなっている。一方の千葉県千葉市では古代蓮は大賀蓮と呼ばれ、検見川の大賀蓮として県の天然記念物に指定され、県内外問わず各地に移植されている。
……とワトは説明するがどうにももやもやが残る。案の定、席に戻って調査を再開させるとそれは明確になった。
「見た感じそれ以外の市には古代蓮との繋がりはなさそうだ」
歴の一言に「ですよねー」と及び腰になるワトだったが、それでも一言だけ反論を絞り出す。
「けどしいていえば群馬県蓮田市には蓮って付いてるし……」
その控え目の呟きによって突如直感が降ってきた。それが消えぬ内にと急いで手を動かし、あるものを調べてみると――「ビンゴ」
「え、もしかして何か分かった?」
「ワトは複雑に考えすぎてたんだ、共通点は古代蓮ではなく蓮だ」
歴の読み通りほとんどの被害地域で蓮との関連性が認められた。実は日本の市町村にはそれぞれ街のシンボルなるものが存在する。その中でも特に多いのが木と花だ。そして被害地域のほとんどが市の花として蓮か睡蓮が挙げられていた。この一致は確実に何らかの関係があるとみて間違いないレベルだ。
一方でそうなってくると新たに2つの疑問が浮かび上がってきた。一つは蓮と睡蓮はそもそも全く別の植物であること。蓮はヤマモガシ目ハス科ハス属、根っこは食卓でもお馴染みのあの蓮根だ。一方の睡蓮はスイレン目スイレン科スイレン属、正式名称はヒツジグサで根は蓮根とは似ても似つかない。そしてもう一つは6市町村の中でたった一ヶ所だけ市の花に蓮も睡蓮も指定されていない市があったことだ。
「神奈川県茅ヶ崎市、この地域に謎を解く糸口がありそうだ」
歴とワトは早速茅ヶ崎市と蓮や睡蓮との接点を探り始める。だが調べてみてもこれといったものはなく時間だけが過ぎていく。
「歴それらしいの何も見付からない、これどっかで推理間違えたパターンじゃない?」
「だとしても蓮や睡蓮の一致に関しては偶然では片付け辛い。だが確かに何か重要な見落としがあるかもしれない。気分を変えてもう一つの疑問の方を考えてみようか」
「あぁ蓮と睡蓮が全く別の植物ってやつ? でもそうは言うけど似てるよね、同じって思ってる人も多そう」
「確かに、普通の人は科や属なんて気にしないな」
「何かこう、その2種類を一緒くたに考えられるようなものがヒントだったりするとか」
ワトは時折良い意見を出してくれることがある。蓮と睡蓮は植物として見れば全く異なるが、見た目は確かに似ている。ならばそれらを文化的に捉えてみたら見えてくるものがあるかもしれない。とはいえそう思ってみてもどう捉えればいいかは未だに見当がつかない。
「何だろう、ものというか、それをまとめて言い表すワードみたいな」
ワードか。
ワトのその一言が妙に頭に残り、歴は無意識にある単語で検索を掛ける。そのまま検索結果に目を通していくと、あるページで目に止まった。そのページを見終えた歴は言った。
「……五輪ポスター、蓮と睡蓮、茅ヶ崎市――繋がったかもしれない」
「え、本当?」
驚きと期待を含めたワトが呼ばずして私の席に駆け寄ってきた。そう慌てなくても今からちゃんと説明するつもりだ。
「まず蓮と睡蓮に関してだけど、ワトの言う通りその2種類をまとめて言い表すワードがキーだった。それがこれだ」
その解説と連動させるように検索欄にブラウザをスクロールさせて、茅ヶ崎市という単語と共に書かれているワードをワトに見せる。
「……蓮華!」
「そう、蓮華というワードは蓮だけを指す場合もある一方で、蓮と睡蓮の両方を区別せず指す場合もある。そしてその蓮華と茅ヶ崎市にはある関連があった」
再び説明と連動させるように今度はタブを切り替えて、ある絵をワトに見せる。
「うわ、何か凄そう。……あ、これ――」
「蓮だよ、作品名は『蓮華幻相』、作者は村越襄。茅ヶ崎市美術館のサイトに載ってたものだ」
ブラウザに表示されたのは、気品がありそれでいて圧倒される、蓮華をモチーフとした煌びやかな絵だった。
「それだけじゃない、これ」
解説と連動させて再度タブを切り替えて、用意していた最後の絵をワトに見せる。
「これ昔の東京オリンピックのポスターだよね、何で?」
ブラウザには1964年の東京五輪で使われた、6人の選手が短距離のスタートダッシュをした瞬間を写し出した『第2号ポスター』が表示されている。ワトはまだそこに隠されたある事実に気付いていないが、その説明は3人の作者名の内の1人にマウスカーソルを持っていくだけで済む。
「……村越襄!」
そう、これが歴の行き着いた結論。6市町村だけで起こる五輪ポスターの絵が替わる現象、そこに散りばめられた要素が全て繋がった。
だが勘違いしてはいけない、デバッグ探偵の本当の仕事はここから。
「それで、これからどうする」
「無論、依頼された通り、これ以上ポスターの絵が替わらないようにバグを修正する。そしてポスターの絵が替わる現象の要因は、恐らくポスターの当時の撮影現場。今からそこに行ってくるからワトは留守番を頼む、夜までには帰る」
……と行く気になり始めたところで、ワトが急に思い出したように言う。
「あ、でも撮影現場っていうけどオリンピックのポスターって何種類もあるんじゃなかったっけ」
ポスターの種類を特定できなければ現場に行きようがないとワトは言いたいのだろうが、当然それに関しても既に考えをまとめてある。
「確かにこの村越襄って人物が制作に携わったポスターは2種類あって、さっき見せた『第2号ポスター』ともう一つ、『第3号ポスター』もそうだ。ただ前者の撮影は国立競技場で、後者は東京体育館、つまりどちらも隣接してるから行き先は同じ。それにどちらがバグの要因かは大方察しがついてる」
「え、もう分かってたの」
「まず『第3号ポスター』だが、これは1人の水泳選手が泳いでいる写真で凄くシンプルなものだ。それに引き換え『第2号ポスター』はさっきも見せた通り6人もの陸上選手が写真に収められていて構造が複雑、加えてそちらのポスターにはある有名な制作秘話がある。実はこの撮影は30回以上もリテイクを繰り返しているんだ。つまり彼らはスタートダッシュだけを延々と繰り返す、本来の競技ならあり得ない行動を取り続けた」
「……それバグが起こるやつだ」
「有名どころだと52回全滅バグなんかが挙げられるな」
52回全滅バグとはフィールド上で52回連続で全滅すると発生するバグのこと。但し途中で街やダンジョンに入ったり、メニューを開いたりするとカウントがリセットされるので、通常のプレイをしている限りは絶対に発生しないバグだ。
それを今回の事例に当てはめると、全滅がスタートダッシュに該当して、街やダンジョンに入ったりメニューを開く行為がゴールに該当する。つまり彼らは意図せずバグを発生させる状況を作り上げてしまった可能性があった。
「じゃあやっぱバグが発生した方は――」
「そう、さっき見せた『第2号ポスター』の可能性が高い。今度こそ納得したかな?」
「完全に納得した」
さて、果たしてこれらの推理は当たっているのだろうか。
「じゃあ行ってくる、旧国立競技場にね」
そう言って自宅兼事務所を出た歴は車を走らせた。暫く運転して穴場の駐車場に車を止めると、そこからは足を電車に切り替える。車内に乗り込み席に着くと、これからに備えて身体を休ませた。
……見ると思っていた、朝の夢の続きを。
***
以前の歴がバグ世界に頻繁に足を運んでいた目的は、そこに住む人々から少しずつ情報を搾取してコンテンツ消費を愉しんでいたからだった。所詮はバグ世界の住民だとの思いもあって、罪悪感はそれ程強くもなかった。けれどそんな目的も彼と出会ってから少しずつ変わっていった。
バグ世界で彼と出会ってからというもの、歴は懐事情もあって裏の仕事に手を染めるようになった。けれど一番の決め手は、私の好きなコンテンツを彼らが認めてくれたことにある。特に彼はとても理解に優れていて、今では私と彼との関係は生さぬ仲といえるくらいには深まっている。
それまで独学でバグ世界を往来していた歴は、まだ本当の意味で世界の広さを知らずにいた。だからこそ彼に連れられて行く先々の世界を見てその未知に驚いた。バグ世界の住民の中にも、狂乱を交えながらも目に光を宿す者達がいることを、歴は少しずつ一見を通して知っていった。
そんな中で出会った彼女の心境を大きく変えることになったあのバグ世界は、まさにその最たるところだった。けれどそこは――
「このバグ世界を消滅させれば、俺達の任務は達成される」
「それ以外に任務を達成する方法は?」
「あるが、そのためにはあることを行う必要がある。それは――再走」
再走とは新バグや新ルートが発見されたことにより、再び序盤から苦行をやり直す行為のことだ。
「君も知っての通り、その行為は精神を極限まで削る。あえてそちらを選択するメリットはない」
「……再走はどうしても無理なのか」
「なぜ君がそんなことを考える、君は人のことを――情報としか思っていないのだろう?」
今でもあの時の彼の言葉は忘れない。
***
「間もなく新宿、新宿――」
虚ろに届いたその駅名は目的地に向かうための乗り換え駅だった。慌てて下車して中央総武線に乗り換えると、ほんの数分で下車予定の千駄ヶ谷を知らせる車内アナウンスが流れた。ホームに降り立ち改札を出て少し歩けば、目的地への玄関口、新国立競技場が無機質に佇んでいた。
実際に来てみて少し驚くが、東京2020が始まらない内はこんなものかと思うくらいに警備の目は薄かった。といっても向かう先はここではないのだから別に不法侵入には当たらない。
敷地を跨ぐ頃には既に現実が揺らぎ始めていた。まだ日中でそれも晴れている筈なのに、日の光はまるで厚い雲に覆われるように急激に陰り始める。持ってきた絵の替わったポスターが己の力を介してこの土地に共鳴している証拠だ。
少し歩くと西口観客席に通ずる出入口のゲート前に着く。念のためそこに力を加えてみるが、当然のようにゲートは施錠されていてびくともしない。とりあえずそこから場内の様子を覗ってみるも誰の気配もなく、グラウンドはしんと僅かな黄昏を浴びるのみ。
現場に向かうには何か決定的なトリガーが必要なようだ。
歴はデバッグ機能を利用して目的地への転移を試みる……が上手くいかない。こういったことよくあって昔の私だったらその時点で転移を諦めていただろう。けれどそれ以外の様々な方法を、今の歴は彼らから色々教えてもらっている。
今回はその中の一つ、出入口の設置する感覚を想像してみることにした。
これは回想バグからヒントを得たやり方だ。回想バグとは一度ゲームを中断して再開させると、中断した前と後で世界線が異なる現象が発生するバグだ。それを応用することで、本来拾えない筈の出入口や階段等を拾ったり、逆に設置することができるようになる。
つまり強制的に出入口を設置してバグ世界に向かおうという訳だ。
とはいえただ設置するだけでは駄目で、何かその行き先を示す情報が必要だ。そしてその情報の役割は恐らくあれが果たしてくれるだろう、そう考えながら歴は鞄の中に手を入れる。掴んで取り出したものは絵の替わったポスター、それをゲートに簡単に貼り付ける。あとは少し待てば結果が出る。
待っている間、必然的に歴の視線が絵の替わったポスターに向けられていると、そこである思考が割って入ってきた。
実は今回の推理には一つだけ疑問が残っている。なぜ絵の替わったポスターを見た一部の者は異世界転生をしたくなり、自殺の衝動に駆られてしまったのか。その理由は現時点では分からずじまいだが、念のため頭に留めておこう。
とその時、ゲートに貼られているだけのポスターから急に紙を丸めるようなくしゃくしゃとする音が鳴り始めた。間違いない、バグが発生した証拠だ。
歴がその確信の下、ゲートに自身の体重を預けると、施錠されている筈のゲートは軋り音を立てて――開いた。
A.D.1964
ぼやぼやとした視界に覆われたあと真っ先に入ってきた刺激は、人工的な照明の作る眩さと人の声。感覚がはっきりしてくると、自身が西口観客席にいることを認識できた。どうやら無事現場に到着したらしい。
……と思ったが早速おかしな点を発見する。本来ポスターが撮影された年は1962年の筈なのだが、どういう訳か今いるここは1964年で、2年もの差が生じている。この分だといびつな点は他にも色々と見付かりそうだ。
気を取り直し視線を移してグラウンドの方を俯瞰してみると、そこには人丈程に大きなカメラや照明と共に何人かの人影が。まずは彼らとの接触を試みようと決めて観客席の階段を下っていくが、どうも様子がおかしい。遠すぎて内容までは聞き取れないが、声色からして何か言い争っている様子だ。歴は観客席の階段を下り切り、フェンスに重心を預けて聞き耳を立てる。
「本当に頼む、そうしないとポスターが完成しない」
「何度も言ってるが、それはプライドが許さないし、炎上のリスクがある。だからどんなにお願いされてもできない」
何とか聞き取れたやり取りからすると、どうやらスタッフと選手らとの言い争いのようだ。視覚情報も加味すると、撮影を進めたい1人のスタッフに対して、6人の選手らがそれを拒んでいる構図だろう。だがその光景には違和感というか、本来の撮影とは異なる点があった。事務所の調査の際に見た情報にはポスターの撮影には計7名のスタッフが関わったと書かれてあったが、見たところここにいるスタッフはあの撮影をお願いしている1人だけだ。
加えていえば選手らが撮影を拒んでいる様子にも違和感しかない。彼らにだって当然ギャラは発生している筈だし、そもそも撮影にスポーツ選手のプライドを持ち出すのもおかしい。そもそもこの時代に本来炎上なんて単語が出てくる筈がない。恐らくバグの影響で本来の世界線とは違うバグったやり取りがここでは行われているのだろう。但しここは現実世界の過去ではないので、どんなやり取りが行われていたとしても矛盾自体は発生しない。
ここまでの状況を頭の中で整理したところで、ふと歴の中にある仮説が浮上する。スタートダッシュの瞬間だけを30回以上繰り返したことによってオーバーフローが発生し、世間の目の参照先が1964年から2020年に繰り上がり、炎上を恐れるようになった、……そんなバグが発生したのではないかと。つまりこのバグをあえて命名するのなら――八百長を許さない世間バグ。
「おいちょっと待ってくれ、あれは誰だ」
選手の1人が私の存在にやっと気付いてくれた、と言わんばかりに歴は寄りかかっていた柵を跳び越え、観客席からグラウンドへ急降下。着地を決めて彼らのいるところまで歩きつつ挨拶をする。
「申し遅れました、私はデバッグ探偵の歴と申します」
「何だそれは、大体ここは関係者以外立ち入り禁止じゃないのか」
「ええ、本来であればそうですね。ですが逆に訊きますが、その関係者の人数が随分と少ないようにお見受けしますが」
「そんなことは俺達の知ったこっちゃない」
「それに関しては俺から話す」
歴と選手との会話にスタッフが割って入ってきて、そのまま6人の選手の声の届かないところにまで誘導されると、彼は話し始めた。
「始めは他のスタッフも皆選手にお願いしてたんだ。けど一人……また一人と消えていって、気付けば俺以外皆消えちまった。俺も今はまだ抗ってるが、まるで長い年月抗い続けてるような感覚があって苦しいんだ。そこへ歴、あんたがやってきた」
「長い年月、なるほど、それで1964年に。それは大変でしたね、……えーと」
「俺は村越襄、呼び方は襄で構わない、敬語もいらない。それであんたはこの状況を打破する何かを知ってるんじゃないか?」
歴は調査の際にその名前が出てきていたことを思い出す。もしかしたら今回のバグ修正はこの人物がキーになるかもしれない。
「分かった、お互い敬語はなしだ。それで本題だが襄の考えた通り私はこの異常を解決する術を持っている。見たところ選手らが撮影を拒んでいることに問題があるようだが、その認識で?」
「ああ合ってる、彼らに何を言っても断固撮影を拒み続けるんだ」
「本当に何を言っても? 些細なことで構わない、何か解決の糸口がほしい」
すると襄は少し考える素振りを見せる。何かあるのだろうとじっと待っていると、彼は打ち明ける。
「実は彼らはもし短距離で全員に勝ったら撮影に応じると言ったんだ。けど彼らは皆プロだ、勝てる訳がない」
それだけ聞ければ十分だった。歴は不敵な笑みを零して、再び選手らの元へ歩み寄った。背後から「お、おい」と襄の動揺を交えた声が届いたが、気にしなかった。選手らの元へ戻ると、歴は言った。
「スタッフから話は聞きました、是非お手合わせ願いたい」
「構わないが……本気か?」
「ええ、但し多少のハンデは頂きます。襄、少し手を握ってくれ」
そこへ丁度歴の後を追ってきた襄は「はぁ」と訳も分からない様子でその要求に従った。
その瞬間、世界は変化した。
黒や深緑を中心とした色々が空間を陣取り背景と化す。所々に出現する金は強く存在を主張している。グラウンドの地も黒に染まり、走行レーンを深緑を中心とした色々で導が付けられ、辛うじてここが先程までいた会場と類似した場所なのだと教えてくれる。それらの変化は襄の『蓮華幻相』の力が、歴のバグの力を媒介して反映されたものだった。
「これがハンデなのか? それに……あれは何だ」
選手の1人が走行レーンの先に視線を向けて言った。そこには褐色の靄が霞むようにかかっていて先が見えなくなっている。
「あれこそがハンデです。あれは蓮華を育てる泥水、といっても別に汚れないし濡れもしない、寧ろ泥水の概念を持った空間といった方が近い。ちなみに私もあの中を走ります」
「何だ、それじゃあハンデにならないじゃないか。しかしまあ、本人がそれでいいってのならその条件でやってやろう」
交渉が成立し、そこからはあっという間に準備が調っていく。
ちなみに選手らは競技用の服装なのに対して、歴だけは至って普通の私服で、絵面としてはかなり滑稽かもしれない。
少ししていよいよ準備が整ったらしく、6人の選手がそれぞれ位置に着いていく。歴もそれに続き、スターターを任された襄も定位置に着く。静寂の中、襄がトリガーに指を引っ掛けた。
「位置について……、用意――」
銃声と共に、彼らは走り出した!
東京五蓮1964が、今ここに開幕した。
スタートダッシュの瞬間、先行したのは6人の選手。当然の結果だが、いざ目の前にすると彼らの激走には野性味すら感じられる。その勢いを落とさず選手らは褐色の靄に飲まれていく。
少し遅れて歴もそれに飲まれると、間もなく泥水に潜ったような感覚が身体に付随される。だがこれはあくまで概念、息苦しさはない。
ペースを守り走り続けていると、前方の褐色の靄の中から3人の選手の影を捉える。歴は少しずつその距離を縮め、そして並んだ。
「な、嘘だろ、どうなってんだ」
「この泥水の概念を持った空間は我々に試練を与え、走行を妨げる。だから今我々は泥水の中を掻き分けるようにしか前進できない」
「だとしてもそれはお互い様だ。何であんたはそんなに早く走れる」
選手がその疑問を言い終わる頃には、歴は選手を追い抜いていた。
「確かに今我々が受けている妨げに違いはない。だがさっきも言ったがこれはハンデだ」
「おい、何の答えにもなってないぞ」
「……蓮華の五徳」
歴がそう口にした頃には3人の選手との差は更に離れ、それからすぐに選手は褐色の靄に消えた。
蓮華の五徳、それは仏教の一宗派である浄土真宗の祖、親鸞聖人が説いたとされる教えだ。名前の通りそれには5つの徳があり、今発動した徳は〈淤泥不染の徳〉。それによって歴は泥水の概念を持った空間に染まらず、速度を維持して前進する力を得た。
だが蓮華の五徳の発動は決して簡単ではなく、卓越した精神を備えた者のみが到達を許される。従ってハンデといっても決して生易しくはない。でなければ例えこの競争に勝ったところで、選手らはその結果に納得しない。それ程の所業を発動できているのは、襄の『蓮華幻相』の力によるところが大きいが、それでも自身のこれまでの経験を以ってしてやっと。現にやろうと思えば選手らにも発動することは可能だが、それを遂行できる者は恐らくいない。
と、急に視界が開けてきた。
褐色の靄を抜けた瞬間、ばしゃあという概念が歴の頭の中に入ってきた。感覚と認識のずれからくる齟齬の混乱を抑え、冷静に周囲を確認。どうやら水中から水上に移行したようで、そこは蓮池の概念を持った空間だった。
歴は走行に意識を集中させつつも、暫しその景色に浸った。泥水は深い青緑色に染まり、空は黄土色に金を織り交ぜたような気品のある色に染まっている。色を反射させる水面はまるできらきらの擬音を表現したような、黄色味の強い採光を乱反射させる。水上には至るところに蓮華が浮いていて、彩度の強い青緑がアクセントとして目を潤す。
気を取り直し前方を注視すると、先頭を走る3人の選手の姿を捉える。彼らは褐色の靄に苦戦しながらも、何とか首位を守り水上まで到達していた。
だが試練は姿形を変えて我々を阻む。それを証明するように、ここにきて彼らの失速が目に見えて始まっていた。その要因は彼らが皆蓮池に足を取られていることにあった。褐色の靄とは違い走行の妨げは足元に集中していて、その分先程よりも阻む力が強く、それは褐色の靄を無事突破した者でさえ抗い難い試練だった。
結果先程までの差が嘘のように、先頭を走る3人の選手と歴との距離は縮まり、そして並んだ。
「な、お前何で――水に浮いてるんだ」
「蓮の力さ」
「蓮が水に浮いてるからあんたも浮いてるってのか」
「そうじゃない、そのものの特徴を理解し、それを実践している」
「特徴? 一体どんな」
選手がそう言っている間にもその差は更に離れていく。
「……ロータス効果」
歴がそう口にした頃には3人の選手との差は大きく離れ、後方に小さくその姿が捉えられるのみとなった。
ロータス効果とは文字通りハス科の植物に見られることからそう呼ばれている現象だ。どのようなものかといえば、ハス科の植物の葉の表面はμレベルの特殊な微細構造によって決して濡れることがない。加えていえばアメンボはそれを利用して水に浮いている。
無論人間程の重量でそれを行えば、本来なら沈んで転ぶのが関の山だが、そこは自身に宿るデバッグの力と襄から借りた『蓮華幻相』の力を合わせて何とか実現を可能にしている。
人知を超えた力を操り、遂に首位に立った歴。だが彼女にはそれでもまだ余裕があった。だてにデバッグ探偵と裏の仕事をしていない。この程度で苦戦しているようではそれらは勤まらない。
あとはこのままゴールラインを切ればいい、そう考えていた時だった。
「……何、だ」
背後から存在自体に粟立つような形容し難い不気味な気配を感じた。
走りつつ、恐る恐る振り返り、遠くから迫るそれを――見てしまった。
気配の正体はその感じ取れる不気味さからは程遠い無機質な物体だった。見た目を一言で表現すれば、浮遊する三角形……としか言いようがない。厳密には象牙色をした、金属の質感と光沢を持つ、直径5m前後の正四面体。そんな形状をした物体が三角形の概念を主張し、一つの頂点を地に向け、そこを軸に時計回りに回転しながら前進し走行している。
だが歴はそれ以上にその内に秘められた、何かよく分からないぐちゃぐちゃな執念と混沌のようなものに意識を奪われる。謎の畏怖にも似た知覚に思考が鈍りながらも、混乱を抑え、考え……はっと気付いた。あの三角形には6人の選手と消えたスタッフ達の意識が出鱈目に集積され、クラスター化していることを。
そこに至って歴は己の油断を認めた。オリンピックは世界の頂点を決める祭典、人間の限界を行くスポーツのプロが世界から集う。同時にそれはスポーツ選手だけに限らず、このオリンピックの開催を支える者達、つまりこの『第2号ポスター』の製作に携わっている者もまた人間の限界を行くプロなのだ。
その卓越したプロは、1964年東京オリンピックのポスター全てに図形を隠した。『第1号ポスター』には丸、『第3号ポスター』には十字、……といった具合に。そして『第2号ポスター』に隠された図形は三角形。
つまりあの浮遊している三角形にはスポーツのプロとグラフィックのプロとが融合し、ぐちゃぐちゃな不気味さを放ちつつも、卓越し洗練された三角形としてそこに存在する。そして今、奴はそれら全てのプライドに賭けて歴に勝とうとしているのだ。
状況を整理していると、今度はフィールドに変化が起こった。煌びやかだった黄土色の空は赤みとくすみを増し、足元にあった蓮池は消えて無機質なグレーの道路へと情報が更新されるように差し替わった。道の左右は床のある概念と床のない概念とが混在して、不用意に踏み抜けばどうなるかも予想がつかない。
これらの変化は恐らく八百長を許さない世間バグが起こしたものだ。6人の選手の負けが現実味を帯びてきたことで、ハンデともいっていられなくなったのだろう。
変化に驚いている間にも、三角形は着実に距離を縮めてきていた。その速度は最早人力を超えて車速に達している。
その時、歴の横をぶわりと風が通り抜けた。
追い抜かれた。
目の前の三角形は見る見る小さくなっていく。蓮華の力は先程よりも後退していて、このままでは――負ける。
だが歴は負ける気などなかった。
「そちらがその気なら、遠慮はしない」
今までの歴はいってしまえば普段通りに仕事をこなしていただけで、全く本気ではなかった。だがここからは違う、デバッグ探偵、裏の仕事、……それらを横に置いて、一デバッガーとしてこのバグ修正に全力を尽くす。
……さてここで状況を一つ整理しよう。今私が相手をしているのは三角形で、その中には多くの五輪ポスター関係者の意思が詰まっている。つまり彼らは今、三角形に乗っている。
「ならばこちらの対抗手段は――」
言葉と同時に発動したのは〈一茎一花の徳〉。歴が手を掲げると、遠くから多くの何かが接近してくる。それは――蓮華だった。
蓮華は歴の掲げる腕の先、つまり頭上でぺたぺたと何かに貼り付くように集約していく。四方八方が完全に蓮華で隠れたと同時に歴が腕を前に振り下ろすと、それと同期するように蓮は目の前の道路に叩き付けられ、弾け、そして顕現した。
「やあロータス」
彼女が声を掛けたのは、イギリスの企業、ロータスカーズ製のレーシングカー。それには花を支える茎のような力強さがあった。
歴がそれに飛び乗ってハンドルを握れば、その存在を認めるようにエンジン音が木霊する。次いで風を切り始め、速度が人の脚を超え、そして軌道に乗った。
速い、この不安定な空間が歪むのではないかと思う程に。
レーシングカーの運転は初めてながら、彼女の真の力と襄の『蓮華幻相』の力で何とか操作できている。だが今回ばかりは本当に油断ならない。このスピードだ、一つのミスが命取りとなり、敗北に繋がるだろう。それでも勝てる自信に揺るぎはない。
前方に三角形が見えてきた。
車は尚もスピードを上げ、一気に接近し、そして――並んだ。
その時だった、車に小さい何かが衝突する感覚があった。だがスピードが速すぎて音での断定が難しい。仕方なく目視で認識して――気付いてしまう、三角形から生え出た3つの銃口がこちらに焦点を合わせていることを。
「銃を……撃ったのか」
だがなぜいきなり銃を、と考えたところで調査の際に目に留まった意外な事実を思い出す。実は6人の選手の内、アメリカ人の3人は立川空軍基地に務める選手兼軍人だった。恐らくその血とバグが銃の引き金を引かせたのだろう。そう考えれば銃口が3つ見えることにも説明がつく。
一方でそれは歴の中に様々な感情が渦巻く結果に繋がった。実のところ歴はこの戦いに期待していた、世界の頂に立つプロにはバグにも屈しないプライドがあるのだろうと。だが今しがたの銃撃は一線を越えていた。
「残念だけど君らは情報で測れる程度の人間だ」
吐き捨て、そして歴は〈一花多果の徳〉を発動させた。すると先程のように蓮華がぺたぺたと空間を囲い始める。それが弾けると、出てきたものは銃一丁と弾多数。相手がその気ならこちらも反撃するしかない。
だが歴は大勢の五輪ポスター関係者を乗せている三角形とは違い、単独で車に乗っている。このままでは銃を撃つことができない。
ならばと、歴は続けて〈花果同時の徳〉を発動させた。狙うは運転と銃撃の同時処理。その成功は蓮華の五徳の力があっても困難を極める。それでも歴は的確な運転をこなしつつ、じっくりと追い詰めるように三角形へと照準を合わせ――撃った。
弾丸は互いの走る速度をも計算に入れて、三角形に吸い込まれるように命中。当たった場所は――銃口の中。
「……いける」
間髪入れず歴は見事な銃捌きで連射を放ち、他の2つの銃口にも弾を搬入してやった。結果相手の銃は機能を失い、三角形の攻撃手段を封じることに成功した。
同時に三角形を追い抜き首位に立ち、そのまま相手を引き離していく。今度こそ勝ちだ。
だが歴はそこである不安要素に気付いてしまった。それもこの競争の根底を揺るがす大きな問題を。
「ゴールに……着かないな」
振り返ってみれば、今までの競争の過程も短距離にしては随分長い距離を走っていた。それでも今まではまだ空間を別物に変えた影響の範疇として説明できる範囲内の変化だった。一方で今はそもそもゴールの概念や情報自体を感じられない。恐らくは八百長を許さない世間バグが奥の手を行使しても敗北が確定的になったことで、ゴールそのものを消す凶行に及んだのだろう。
一度消えてしまったゴールの復元は難しい。だがこのままではゴールできず、永久にこの地を走り続けることになりかねない。そもそも最早ゴールがないのだから走り続ける意義も危ういが、とはいえ相手に追い抜かれるのには抵抗がある。
歴は首位を守り続けるが、相手もばてる気配がない。そこでまた調査の際に目に留まった意外な事実を思い出す。実は6人の選手の内、アメリカ人選手の1人は長距離選手だった。
このまま無為に走り続けても進展は見込めない、そう考えた歴は脱出の手掛かりを掴もうと、今いるここが何なのかを周囲を見渡し探ってみる。だがあるのは永久に続く灰色の道と、妙に淡い夕焼けのみ。それでも歴は視続けて――遂に情報を得た。
幾陸世、それがこの空間の名。つまりここはループ処理によって無限に続く道であり、ロックダウンされた空間だった。
いずれにせよゴールがなければそれを自ら作り出す必要がある。だがこの空間に目ぼしい情報は何もない。そしてこういった何もない空間でバグを発生させるのが実は最も難しいのだ。それでも考え、考え尽くして結論を出した。
歴は〈中虚外直の徳〉を発動させた。この世界の中が虚無ならば、外からの刺激に頼ろう。歴は襄に直接通話を試みると、暫くして受信があった。
「襄、応答願う」
「歴……なのか? 今どうなってる、何で戻ってこない」
「簡潔に言うがゴールがなく、勝敗が付かない状態に持っていかれた。よってそちら側に戻ることができない。だがこの状況を打開するにはこちら側からでは手掛かりが少なすぎる。そちら側から何か手掛かりはないか」
「手掛かりかどうか分からないが、さっきからこっちで6人の選手が空間中を縦横無尽に荒ぶってるんだ。ちなみにあんたの姿はその中にいない」
「その言い方だと選手の見た目自体は普通なんだな。挙動に規則性はあるか? それと他に何か手掛かりは?」
「見た目は普通だ。規則性はさっきも言った通り縦横無尽だ、それが規則性ともいえるが。他の手掛かりは俺の見る限りないな」
「もう少し具体的なイメージがほしい。今から色々な概念を送るから、どれが一番近いか教えてくれ」
歴が通話越しに様々な概念を送ると、暫くして襄の答えが返ってくる。
「見てみたが、時の最果てバグってのが一番近いと思う」
時の最果てバグとは、キャラが物凄い速さで空間中を縦横無尽に移動して、まるで分身しているかのように見えるバグだ。
「……じゃあ次に、もし今から規則性に変化があったら教えてくれ」
その時点である憶測がよぎり、それを胸に歴は運転に意識を戻し腕を掲げると、先程のように多くの蓮華が出現した。それらを今度は三角形に向けて放つと、あっという間に三角形を覆い尽くし、そのまま上方へと飛び立った。
「変化した!」
ほぼ同時に聞こえてきた襄の声に歴は確信する、三角形と6人の選手の荒ぶりは繋がっていると。
……だがそこで今日見た夢のことを思い出した。そして今、その説明を襄にしなければならない。
「襄、この長い年月の撮影を終わらせる方法が分かった。今私は五輪ポスター関係者がぐちゃぐちゃに融合した三角形と戦っていて、そいつは今バグの根幹と強い力で繋がってる。だからそいつを殺せばこの撮影は終わってバグも修正させられる。但し三角形を殺した場合、このバグ世界で東京オリンピックのポスターを完成させられる機会は永久に失われる」
「……ポスターを完成させる方法は一つもないのか」
「あるが、そのためには再走を行う必要がある。それは精神を極限まで削る行為、そちらを選択するメリットがない。それに三角形を殺せば彼らの情報を自由に搾取できるしな」
それを伝えると暫く沈黙が続いた。歴は彼が言葉を紡ぐのをただ待った。
「俺、は……。――少しでも望みがあるのなら俺はポスターを完成させたい。それは俺のエゴでもあるけど、それ以上にポスターを完成させて、この東京オリンピックを成功させたいんだ」
「……分かった、理解した。そうだ、君は――情報だけでは消費できない人間だ」
「歴……!」
「襄、君にも協力してほしい。なに、襄の最も得意とする写真を撮ってほしいんだ。君の求める最高のスタートダッシュの写真をね」
「スタートダッシュの……写真」
「そして私は君の願いを叶えるべく――死に続けよう」
そうだ、本来これはそのために行っていた競争。だがこんなことになってはもうそれもままならない。ならば強制的に撮ってしまえばいい。つまりこれは――
「ED呼び出し。終わらせるんだ、この東京五蓮1964を」
「……分かった、最高の一枚をこのレンズに収める。だがさっきも言ったが6人の選手は皆ばらばらに荒ぶってる。そんな状態じゃあ理想通りの写真は撮れない」
「襄はゾートロープって知ってるか」
「勿論知ってる、一定のスピードで回すとアニメーションが浮かび上がるっていう――おいまさか」
「そう、今彼らが荒ぶってるのは速度や移動方法が合っていないため。ならそれを合わせればいい」
「けどこれはそもそもゾートロープじゃない。そんなことができる訳……」
「それを――やってみせる」
蓮華の五徳を極めた歴はその身に蓮華の根、つまり蓮根の力を宿す。蓮根は藕とも言いピンインはou、つまり歴は藕の力を得た。そしてそれはバグ殿からの加護となり、不死身状態を呼び出す力となった。
次いで歴の身体を情報のオーラが纏い始め、光り輝き、色が……色彩が、氾濫した。まるでクロードモネの睡蓮の如く、歴は色彩の光になった。身体は荒々しい色彩のタッチと化し、それは瞬く間に車へ、そして周囲の空間へと及んでいく。
そして彼女はオーバーシュートの速度、光速を得た。
そのスピードを以って走行、そして蓮華に包まれた三角形を牽引していく。
だが人間の身体が光速に……いやそもそも光になることに耐えられる筈がない。だから歴は死んだ。――いや死にながら走行を続けた。
「凄い、さっきの比にならないくらい荒ぶり方が変化してる」
「荒ぶりが収まるタイミングが来たら教えろ」
歴は光の速さで様々なパターンを分析し、的確に動きを調整していく。次第にぶれぶれだった6人の選手のぶれに一致を感じ始める。それを裏付けるように襄から応答がきた。
「収まってきた。まるで6人の選手が写真みたいにスタートダッシュの瞬間の理想的なポーズと位置で止まろうとしてるみたいだ」
「あとは襄、君の感性でシャッターを押せ」
歴が最後の後押しを発してすぐ――シャッター音が聞こえた。
A.D.2021
その瞬間、歴は光に包まれ、意識を失っていく……。
ああ見るのか、夢の終わりを。
***
「なぜ君がそんなことを考える、君は人のことを――情報としか思っていないのだろう?」
「私、は……。――情報のどこかが異常なかたちで生まれてきた。だから人間に愛着が持てなかったし、他人の情報を搾取することに何の抵抗もなかった」
彼はただ黙って私の言葉の続きを待った。
「けどこのバグ世界に来て、皆私の好きなコンテンツを……私のことを認めてくれた。そんなこと現実世界でも、今まで行った他のバグ世界でもなかった。だから私はこのバグ世界を、見捨てられない」
「……分かった、理解した。そうだ、君は――バグに抗える人間だ」
今でもあの時の彼の言葉は忘れない。
それから彼は不死身状態を呼び出して、何度も死にながら、そのバグ世界を救った。
***
そして夢は終わった。
気が付いてまず認識したのは、暗闇の先に氾濫する都会の光と車の音。
次いで自身のいる位置に意識を向ければ、そこはあのポスターを貼った施錠されたゲートの前だと理解する。奥からは人の気配も光も感じられなかったが、念のためゲートに重心を預けてみて、開かないことを確認しておく。
ゲートに貼ってあるポスターは替わる前の本来の絵に戻っていた。鞄の中に入れていた他の3枚のポスターも同様だった。
バグ修正は無事成功したのだろう。
「やあ歴」
突如耳に届いたそれは、聞き間違えることのない紅に光を宿したような彼の声だった。その声源に視線を向ければ、建物の外側の柱に寄りかかっている彼の姿が確認できた。どうしてここにと思っていると、それを汲み取った彼は説明を始める。
「君がバグ修正を終えたことで現実世界の西暦が1年加算され2021年になった。但し元号は令和3年のままだし、干支は丑年のまま。こういった変化は珍しく興味深い、だから修正内容の確認も兼ねて立ち寄った」
「だとしたら変だ、確かにバグが修正される瞬間、2020年が2021年になる感覚はあったが、1964年に西暦が1年加算される感覚はなかった。それだと1964年と2021年の差が4の倍数にならず、オリンピック開催年の計算が合わない」
「それに関してだが、どうやら2020年に新型コロナウィルスなるものが流行し、それによって東京2020が1年延期になった歴史が付加されたらしい」
時に現実はフィクションを追い越していくとはよく言うが、まさかそんなことになっていたとは、と驚いていると彼はまだ話を続けた。
「それよりワトから大方の話は聞いたが、思うにまだ解けてない謎があるんじゃないか?」
考えてみると確かに、と歴は思い出す。ポスターを見た一部の者が異世界転生をしたくなった理由、結局それが分からないままバグ修正を終えてしまった。
「だが今の君は既に答えに辿り着ける情報を全て持っている筈だ」
彼の冷涼な表情に大きな変化はないが、当ててみせろと挑戦状を突き付けていることは否が応でも伝わってくる。だから歴は考え得る限りの回答を述べた。
「輪廻転生」
「……はずれ」
自分で答えておいて何だが、どうにももやもやの残る回答ではあった。とはいえそれ以外の答えが見付からないのが歴の正直なところでもある。
「駄目だ、どうにも分からない。悔しいがヒントを頼む」
「……いいんだな」
勿体ぶるように彼が言うので一瞬迷ったが、やはり分からないので無言で首肯を返す。
「そうだな、……俺と君との関係を4文字で表せ」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、とりあえず言われた通りに答えてみる。
「生さぬ仲――まさか!」
回答を述べた歴はそこであることに気付き、そこから導き出された真実を恐る恐る言い放った。
「異世界転生ウィルス」
文字数:22089