選択子ノ宮

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梗 概

選択子ノ宮

トハンが目覚めると、「ハン、おはよう」と子宮の意識、ユウリの声が届く。
この地下シェルター、巨大子宮の中で子供のトハンと姫、大人のライとレンジと宮事みやじさんの非血縁者5人は、地上が荒廃した10年以上前からずっと生活していた。
だがその日何者かに子宮が殺傷され、レンジと宮事さんが殺されてしまう。
異変に気付いたトハンが銃を持って子宮を探索していると、子宮の出口へと繋がる開かずの扉が半開きに。その先には怯える姫と、血の滴るナイフを持ったライ、そしてユウリがいた。
「子宮脱出のためにはユウリを殺害する必要があった。けれど宮事とレンジはそれを阻止してきた。だから殺すしかなかった」
ライはそこでユウリにも殺人歴があることを明かす。トハンはその事実に動揺する。
「ハン、その銃でライを殺して」
「トハン、ユウリを撃って姫と3人で子宮を出よう」
だがトハンには選択できず、そこで意識は途絶えた。

トハンが目覚めると、死んだ筈のレンジと宮事さんが生き返っていた。
トハンは今が昨日であることに気付き、前回子宮が殺傷された現場を見張ってそれを予防した。
だが今度は犯人だった筈のライが殺され、更には姫も殺されてしまう。
トハンはユウリが犯人だと推理したレンジと共に子宮脱出を決意。だが開かずの扉の先で宮事さんを見付けて、子宮の出口はユウリが自ら開けるか死なない限り開けられないことを知る。そこへユウリの声が届く。
「本来なら大地の栄養だけで生きていける筈だった。けれど想像以上に地上の荒廃が進んでしまった。それでも生きてハンを守るためには栄養が必要だった」
レンジはトハンの母親はユウリで、トハンはこの子宮から産まれたことを明かす。トハンは自分のせいで皆が殺された事実に絶望する。
「ハン、その銃でレンジを殺して」
「トハン、ユウリを撃って宮事と3人で子宮を出よう」
だがトハンには選択できず、そこで意識は途絶えた。

トハンは目覚めると、すぐに皆を集めて言った。
「この子宮から出なくちゃいけない」
初めユウリは反対したが、トハンは懸命な説得と必ずユウリを救いにまた戻る約束をして理解を勝ち取る。
5人は故郷を発って子宮の出口へと辿り着くが、その先は地上ではなく――あの世だった。
呆然とするトハンをよそに4人はとことことあの世へと歩み出し、光の彼方へと消失した。
ユウリは真実を語り始めた。
「ハン、本当のあなたはトロッコ問題の判断を下すために創られた存在、その子供の選択子せんたくしなんだよ」
「この子宮は選択子達を選択世界での選択に慣れさせるために創り出された架空世界、選択子ノみやなんだよ」
「選択世界での本来のあなたの姿は人間じゃない。寧ろ人間なのは私の方。私が選択世界でハンを産み出したんだよ」
「あの4人も選択世界に存在していた人間。でも選択世界のあの4人ももうあの世に逝っちゃったんだ」
「もし選択世界にハンがいれば、あの4人のような人達を救うことができるようになる」
「だからハン、この選択世界へと――産まれてきて!」
トハンは――選択した!

文字数:1253

内容に関するアピール

トロッコ問題を語る上で、選ばれる側のことは広く議論されているのに対して、選ぶ側のことは一般的にはほとんど議論されていないのが実情です。
本作はトハンの壮絶な歩みを通して、そのことを考えさせるという具体的な目的を持っています。その意味では自動化が一般化しつつあるこの時代に、世に問うべき価値のあるテーマといえます。

今回は仮想現実が舞台ですが、架空の世界だからとぼかさずに、説得力のある世界観を設定します。
それによって、韻を踏みつつも変則的な波のあるループものを構成します。ループものにした理由は当然、選択の重みをより強固に表現するためです。

トハンとユウリには親子関係を持たせる一方で、同時に「何か親子っぽくないんだよなぁ」とも思わせます。その奇妙な関係性が最後のオチをより引き立たせます。
実作では梗概以上の壮絶な世界観を構築して、それに立ち向かうまだ幼いトハンを応援したくなる、そんな物語を産み出します。

文字数:400

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選択子ノ宮

 Bleed Route

 トハンがまだ残る微睡みに抵抗しながら上半身を持ち上げてぼうっとしていると、耳慣れた屋内放送のような彼女の声が聞こえてくる。
「おはようハン、もうみんな朝ご飯食べてるよ。ハンも支度ができたらすぐ来てねー」
 トハンが眠気をまとったあやふやな返事でそれに答えると、それを聞いた彼女の気配はどこかへと消えていった。
 相変わらず彼女、ユウリは神出鬼没だ。ユウリは今みたいにこの空間内の色々なところから自在に声を届けることができる。とはいえプライベートな自室にまで躊躇なく現れるのは、いくら自分が子供といえど良い気はしない、とトハンは内心思っていた。一方で子供扱いされたくない訳でもないという複雑な子供心も持ち合わせているのだが。
 それはそれ、とりあえず言われたことをやるために、トハンは身支度を済ませて自室のドアノブへと手を掛けた。部屋を出ると、細長くてどこか有機的な形状をした通路がトハンを出迎える。辺りは部屋の中よりも一段暗めだが、そんな中からぼんやりと陽気さを含んだ小さなさざめきが耳まで届いてくる。それが今向かっている部屋から漏れ出ているものだとトハンは知っていた。予想通り彼の目的地、ダイニングの扉の前に立つと、その話し声は頑張れば内容が聞き取れそうな程に鮮明に聞こえるようになる。
ひめ宮事みやじさん、おはよー」
 ダイニングには朝食を食べながら雑談を繰り広げている姫と、後片付けをこなしつつその相手をしている宮事さんがいた。挨拶を返されつつ着席したテーブルには、既に朝食が用意されている。
「トハンも早いとこ食べてしまってね」
 宮事さんとしては早く後片付けを済ませたいのだろう。それを理解しているトハンは姫と違って食事中に2人の会話にはあまり絡まず、黙々と皿に乗せられた品々を片付けていく。結果的にトハンは姫に少し遅れたくらいで朝食を終えることができた。
「ねえトハン、何かして遊ぼ」
 姫はこの空間にいるトハン以外の唯一の子供で、必然的にお互いは心を許せる遊び相手。トハンが「どうしようかなあ」と自身の行動を決めかねていると、どこからともなくユウリの声が聞こえてきた。
「そんなに悩まなくても2人で遊んできなよ」
 トハンはその対応の適当さに多少の不満を覚えたものの、結局ユウリと同じ結論に達し、2人でダイニングを後にする。
 それから2人は姫の部屋へと行っていつも通りの時間を過ごしていた。
 宮事さんの大声が聞こえてきたのは、それから一頻りが経過した頃だった。
 距離があったので音量で驚くことはなかったものの、それでもトハンはその普段発せられないような只ならぬ声色に怖気付く。けれど姫が先に部屋を飛び出していくのを見て、これでは駄目だと意を決して声源を探しに向かった。
 それらしき場所を見付けると、そこには宮事さんだけでなく、同じくこの空間で生活しているライとレンジが既に駆けつけていた。だがそこにあったのは予想通りを通り越して、予想以上の非日常だった。宮事さんは壁から噴き出ている紅い液体を必死で止めていた。トハンがそれを血だと理解するのに時間は掛からなかった。
 そこでトハンはここが巨大な子宮であることを再確認させられた。自身を含めたトハン達5人は、何年もの間地中に生きるこの巨大な子宮の中で共に生活している。いわばここは地上の過酷な環境から身を守るために作られた地下シェルター。今や地下だけで物事は完結していて、トハンや姫のように知識だけでしか地上を知らない世代も珍しくない。
 巨大な子宮はこう見えても割と大量生産されている代物で、その数だけ我々以外の利用者もきっとどこかにいるだろう。さりとて皆が利用している訳ではなく、中には無機質な地下シェルターを利用している人達もいて、寧ろそちらの方が一般的らしい。とはいえ他の地下シェルターの住民との交流はないので、詳しいことはよく分からない。但し他の子宮とは明らかに異なるところが一つだけあって、それはこの子宮にはユウリという意識が存在することだった。といっても本来の地下シェルターとしての役割には何の支障もなく、寧ろ他の子宮よりも強化されているのだとか。
 住民の内訳は子供のトハンと姫、大人のライとレンジと宮事さんという構成だ。5人に血の繋がりはないが、それでもユウリも加えた6人は、皆家族のように助け合いながら生活している。ついでにいえば宮事さんの渾名は子宮から取られている。この子宮で事務的な活動を任せられているから宮事さん。6人の中では最年長で知識も豊富な頼れる存在だ。
「2人共、これは子供の見るものじゃない」
 とそこへ2人に気付いたライがこちらへ歩み寄ってきた。
「何か手伝えることないの」
「心配いらない、今宮事が止血してる。気持ちだけで充分」
 姫の訴えを制止したライの背後を覗き見れば、必死で止血を試みている宮事さんと、それを補助しているレンジの姿があった。人間用の包帯では小さすぎて使い物にならず、さりとて専用の包帯がある訳でもなく、粗悪だが代わりに使い古して仕舞ってあったバスタオルを使用している。それを見たトハンは、我々2人に介入の余地がないことを子供ながらに理解する。
 3人が止血の様子を暫くじっと見ていると、応急処置の甲斐あって出血は何とか治まり、ずっと一点を向いていた宮事さんとレンジの視線が漸くこちらを捉えた。そのまま3人は宮事さんに呼ばれたので近くまで歩み寄る。
「幸いユウリの命に別状はありませんでした。ただ少し問題が起こりました。もしかしたら今まで通りにこの子宮が機能しなくなる可能性があるかもしれません」
「具体的にはどういった問題が起こるんだい」
「そこまではまだ何とも……。あくまで可能性の話なので」
 レンジの質問に対しての返答は曖昧だったが、その表情から楽観視ができないことは誰の目からも伝わってきた。そしてそれとは別にトハンにも質問したいことがあった。
「ねえ、どうしていきなり子宮から出血が始まったの」
「それはまだ分かりませんが……何者かに故意に刺された可能性があります」
 その回答を聞いた4人はその言葉に隠された意味をすぐに理解した。その何者かが第三者である可能性は低く、犯人はこの5人中にいるかもしれない、宮事さんはそう言及したのだ。
 とはいえ誰による犯行なのかは分からず、そもそも本当に故意に刺されたのかも判明していない。結局それ以上の進展はなくその場は散会、5人は散り散りになっていった。トハンと姫も遊びの続きをしようとはならず、そのままそれぞれの部屋へと帰っていった。

 それからトハンは暫く自室でぼうっとしていた。あんなことがあったせいで何も手に着かないのが正直なところ。そんな時「ハン、聞こえる?」とユウリの声が聞こえてきた。トハンの名前をそう呼ぶのはユウリだけだ。
「良かった、無事だったんだ」
 トハンは真っ先にユウリの無事に安堵する。彼女は確かに神出鬼没だが、かといってどこにでも出現できる訳ではなく、あの出血以来ユウリの声を聞くのは今が初めてだった。そんなユウリがトハンに言う。
「今私は子宮の中にいる誰かに狙われてる。本当はこんなことハンに頼みたくないけど……私の代わりに犯人を見付けてほしいんだ。ハン、出来る?」
 トハンは「うーん」と唸りながら、自分にそんなことができるのかと考えた。相手は姫を除いて皆大人、一筋縄ではいかないことは明白だった。けれどそれを上回る感情が今のトハンにはある。
「ユウリをこんな目に遭わせた人を放っておけない。絶対に犯人を見付けてみせるよ」
「ありがとう、今はハンだけが頼りなんだ。でも絶対危険なことはしないでね」
 トハンは犯人捜しをする時点で充分に危険なことだとは思ったが、ユウリもそれだけ追い詰められているのだと察して、言葉の矛盾に対して深追いはしなかった。それはそうとトハンにはとある一つの疑問があった。
「ユウリは僕が犯人の可能性は疑ってないの」
「それは……少なくとも5人の中では一番可能性は低いと思うよ」
 ユウリのその受け答えにはどこか釈然としないものがあった。そもそも可能性でいうのなら同じ子供の姫だって十分低いんじゃないか、トハンはそう思ったが、怪我人をこれ以上追求するのもどうかと思ったので口にはしなかった。
 するとユウリは「じゃあ頑張ってね」と言い残して気配を消した。
 こうしてトハンの犯人捜しが始動した……のはいいものの、これからどうすればいいのだろう。そこでトハンは思った、ユウリには悪いけれど、やはり姫は犯人でないと仮定して協力してもらおうと。
 早速部屋を出て通路に足を踏み入れるトハンだったが、そこである想像に駆り立てられる、それは自分が狙われる可能性も決してゼロではないということ。そう考えた途端に、普段の薄暗い通路がとても恐ろしいものに感じられてくる。トハンはふるふると首を振ると、何も考えないようにして小走りで姫の部屋へと向かっていった。部屋に着いて姫を呼ぶと、すぐに扉を開けてもらえた。入室を終えたところで数分振りにトハンに平穏が戻る。
「ユウリを刺したのって、やっぱりあの3人の誰かなのかなあ」
 意外にもトハンから話を振る前に、姫がその話題を出してきた。そしてその見方は今のトハンの考えとほぼ同じ。だからこそトハンはこれまでの、そしてこれからのことを包み隠さずに全て話すことができた。
「とりあえずやっぱ3人の聞き込みからかなあ」
 話を聞き終えた姫の提案した意見は、正直なところトハンの案と大差ない……というか同じだった。そんなことで犯人を割り出せるとは思えなかったので、こうして姫に意見を仰ぎに来たのだが、やはりそう上手い話はないのかもしれない。
 それでも2人の話し合いは進み、その結果まずはユウリの止血に献身していた宮事さんから話を訊いてみることになった。
 トハンは再び薄暗い通路へと出たが、今度は姫も一緒なので恐怖は大分緩和されていた。2人はそのまま宮事さんの部屋へと向かい、そして辿り着く。だが宮事さんを呼んでも一向に出てくる気配がない。すると痺れを切らしたのか、姫がドアノブに手を掛けると、意外にも扉は開いていた。姫はそのまま勢いよく扉を開けると、2人の視界に宮事さんの姿が映った。
 だが宮事さんは血を流して倒れていた。
 一番近くでそれを見た姫は悲鳴を上げた。すると暫くしてライとレンジが駆けつけてきた。レンジはすぐに脈を測るが――
「駄目だ、死んでる」
 それを聞いたトハンは耳を疑ったし、他の2人も、そしてそれを発したレンジでさえも信じられないといった表情をしている。だってそれはそうだろう、ついさっきまで日常の中にいた宮事さんがこんなことになるなんて、きっと何かの間違いだと、そう思うのは、思いたくなるのは当たり前のこと。けれどそんな甘い妄想は、目の前の光景がいとも簡単に掻き消す。
 だからこそ受け入れなければならない、この状況を少しでも前に進めなければならない、そう決心したトハンはその重い空気の中、ゆっくりと口を開いた。
「今回も、ユウリの時と同じで……この中に犯人がいるのかな」
「もしかしたら第三者の可能性だってあるかもしれない」
 姫はそう言うが、その可能性が低いことは本人だって本当は分かっている筈で、だからなのかその主張はとても控えめだった。もしかしたらその言葉は可能性の提示ではなく、彼女の願望を表したものなのかもしれない。すると今度はライが別の可能性を提示する。
「もしくはユウリを刺したのが実は宮事で、それでユウリに復讐されたとか」
「いや、あいつだったらこんな人間的な殺し方にはならない筈。それは昔のことを知るライなら理解できると思う」
 トハンにはレンジの言う昔のことが何なのかよく分からなかったが、いずれにしてもその線も消されたようで、ライもレンジの意見に納得している様子だった。
 結局それ以外の可能性が提示されることもなく、犯人が誰かも分からないまま4人は散り散りになった。
 それからトハンは自室へと戻った。正直なところこうなってくると姫のことも手放しでは信頼できなくなってきたし、それは相手も同じようで、自身も警戒される対象となってしまったようだ。
 それから次の悲鳴が聞こえたのは、それ程時間が経っていない頃だった。
 そして部屋を飛び出したトハンが声源を発見すると、そこにはレンジの変わり果てた姿があった。
 だが本当の恐怖はそこからだった。それから暫く待機していても、誰一人として駆けつけてこない。そこでトハンはふと最悪の事態が脳裏をよぎったが、それをすぐに振り払う。姫とライはきっとまだ生きている筈だ。
 けれどなら、いくら待っても2人がこの場に現れないのはなぜなのだろうか。その理由は分からなかったが、その場で待機し続けることが得策ではないと考えたトハンは、当てもなく走り出した。
 まず向かったのは2人の部屋だったが、希望を打ち砕くかのようにどちらの部屋ももぬけの殻。そこから先は手当たり次第に鍵の開いている部屋という部屋を探していった。しかしそれでも見付からない。
 とその時、トハンは今までほとんど開いていることのなかった、どこかへと続く通路の扉が半開きになっていることに気付く。トハンは直感的に2人はこの先にいるんじゃないかと思い、その未知の扉を潜った。

 そこは普段の通路よりも更に暗く、舗装も雑なのか子宮の肉々しさが露骨に感じられた。ユウリには失礼かもしれないが正直あまり進みたいとは思わなかったが、それでもトハンは薄明りを頼りに何とか先へ先へと前進していく。但し通路は一本道ではなく、闇雲に進んでいたら最悪居住区に帰れなくなる恐れもあるので、慎重に来た道を覚えながら進むことを余儀なくされた。
 するとどこかから微かに声が聞こえてきた。咄嗟にトハンがその方向へと駆け走ると、すぐに2つの人影を捉える。
 声源に辿り着いたトハンは、2人の生存を確認することができた。だがよくよく注視してみれば、ライの手には血の滴るナイフが握られている。そこでトハンは悟る、ライがこの事件の犯人だったのだと。そしてその血が誰のものかと考えた時に、嫌な予感と共に視線を姫の方へと移した。だが意外にも姫が紅染めにされていたのは足元だけだった。
 とそこへトハンの存在に気付いた姫が、トハンの名前を泣き叫びながら抱き着いてきた。
「2人を殺して、今ユウリを殺そうとしてるのはライだったんだ」
 それが事実ならこの血はユウリのものなのだろう。トハンは姫を抱いたまま、視線だけをライの方向へと向ける。そして「本当なの」と問うとライは答えた。
「全てはこの子宮から出るために行った。ここから脱出するためにはユウリの殺害は必須だった。けれど宮事とレンジはそれを止めようとしてきた。だから殺すしかなかった」
 子宮を脱出するだなんて考えたこともなかったトハンは、それにどれ程の価値があるのかは分からなかったが、だからといって人を殺していい訳がない。そんなことを考えていると、ライはどこかへと走り去っていく。先程の口振りからして変に抵抗しなければ、相手も危害を加えるつもりはないのかもしれない、その事実にはやや安堵する。
 ライの話が正しければこの区域のどこかに出口があるのかもしれない。けれどそんなことはどうでもいいと思ったトハンは、意識を姫の方へと戻すと、依然として2人が抱き合っている状態であることに気付く。まずはそれを何とかしようと何気なく視線を姫の方へと向けてみると、それを待っていたかのように姫は言った。
「そこまでして外に出たいものなのかな」
 トハンはその問いに真剣に向かい合ってみる。確かにこの子宮での生活には何一つ不自由はない。けれどそれは外の世界を知らない者が、比較もせずに勝手にそう思い込んでいるだけにすぎない。そのことに気付いたトハンは、結局姫の問いに答えることができなかった。
 そうして2人が途方に暮れていた時、どこからか聞こえてきた――轟音。
 トハンはそれにぴくりとした拍子に抱いていた姫を解放して、意識を周囲へと向けた。すると音は先程ライの走り去った方向から聞こえることに気付く。そして次の瞬間――
 洪水が彼らを襲った。
 無抵抗のまま濁流に飲まれる2人。気付けばそこにライも加わっていた。
「掴まれ!」
 そう叫ぶライは2人に手を差し伸べていた。濁流の中2人はぎりぎりのところで彼女に掴まることができた。だがそれで危機は脱していない、手を差し伸べたライ自身も濁流に抗えずにいるからだ。
 その時トハンは死ぬかもしれない恐怖で頭が一杯になった。この濁流は自分にはどうすることもできない。このままどこまでも流され続け、最期には水底に沈んでしまうのではないか、そんな最悪の予感をさせた。
 だがその予想に反して水の流れは勢いを弱め水量も明らかに減ってきた。気付けば水は足で立てる程になり、先程の濁流が嘘のようになくなっていた。残った面影は浸水している床上と、濡れた髪や服だけだった。
「ねえ、今のは何だったの。この水何なの」
「子宮の出口らしき扉を開けたら、大量の水がなだれ込んできた。水はこの潮の感じからして恐らく海水」
 それを聞いたトハンは混乱した、この子宮は内陸の地中にあると教えられていたのに、なぜ海水がなだれ込んできたのだろうか。まさか子宮が移動でもしたというのだろうか。
 すると突然ライは何かに気付いたような素振りを見せて、2人を残してどこかへと走り去っていく。トハンはそれを追うべきか迷ったが、姫がまだ先程の洪水のダメージから立ち直っていなかったので躊躇した。がその時、数刻振りにユウリの声が聞こえてきた。
「ハン、ライを追って」
「けど姫が――」「姫なら大丈夫。だからお願い、時間がない」
 ユウリはとにかく今すぐライを追うように迫ってきた。命に別状はないとはいえ姫のことをあまり気にかけていない様子がトハンには不快だった。それともそれ程までに切羽詰まった状況なのだろうか。トハンは仕方なくユウリのお願いを聞き入れた。
「ナビゲートするからそれに従って、なるべく速く走って」
 トハンは言われるがまま走った。正直あの洪水で疲弊し切った後だったのでかなりきつい。それでもユウリが所々で進む方向を教えてくれるので、恐らく効率的なルートは辿れているのだろう。
 そうしてやっとの思いでとある部屋へと辿り着く。だがそこにライの姿はなく、トハンが状況を掴めずにいると、ユウリの声が聞こえてきた。
「その部屋に武器がある」
 ユウリがこの部屋へと誘導した目的は別にあったようだ。確かに子供が丸腰で行ったところでどうにもならない。トハンがユウリの指示された通りの場所にある箪笥の引き出しを開けると、そこには古ぼけてはいても黒光りを絶やしていない銃があった。それを手に収めたトハンは再び通路へと駆け出していった。

 そうしてトハンは今度こそライのいる部屋へと辿り着いた。
 けれどなぜだろうか、そこにトハンは初めて来た筈なのに、不思議と懐かしさを覚えている自分がいた。
 そんなトハンの来訪に気付き振り返った彼女は、優しさをどこかへ仕舞い込んだような表情を浮かべていた。そのままライは部屋の特殊な形をした部分をナイフで指差す。
「これは子宮の心臓。ここに致命打を与えれば、ユウリは死ぬ」
 トハンはなぜだかその言葉を、まるで確証でも持っているかのように信じられた。とそこへユウリの声が聞こえてくる。
「ライ、どうしてこんなことをするの。私達が一体何をしたっていうの」
「被害者面をするな。私が子宮から出たがっていたことはユウリも昔から知ってただろう。その上でずっとそれを拒み続けた。だからこうするしかなかった」
「だからって人を殺していいことにはならない。ライ、あなたは間違ってる」
「お前にそれを言う資格があるのか」
 すると突然ユウリの反論は止まった。それは暗に自身の後ろめたい何かを認めているかのようだった。その隙にライはトハンの方へと視線を移す。
「トハン、昔のユウリは決して許されないことをしたんだ」
 そう言ってライが語り始めたのは、トハンの生まれて間もない頃のことだった。
 当時この子宮には今では想像できないくらいに多くの者が生活していた。だが彼らはトハンの出生を快く思わず、それどころか彼を化け物扱いして恐れた。それだけならまだよかった。しかし住民はこの子宮の規律を乱す因子になるかもしれないと、トハンを殺すというあまりにも残虐な計画を企てる。そしてその実行には住民のほぼ全員が参加していた。参加しなければ宮八分に遭う可能性があることを皆恐れていた。
 そうしてトハン殺害の計画実行の時が訪れる。結局それに参加しなかったのはライとレンジと姫を授かっていた母親だけだった。とはいえ所詮は文字通り赤子を捻るだけの作業、計画は何事もなく終わる筈だった。ところがそこで予想だにしない出来事が起こった、トハン殺害に反対していたユウリが次々と住民を殺していったのだ。ユウリは子宮を自由自在に動かし、住民を圧死、あるいは窒息死させていった。そうしてトハンを殺そうとした住民は全滅した。そこに残された生存者はトハンとユウリともう1人、それは宮事さんだった。
「協力してくれてありがとう。あなたが住民を誘導してくれたお陰でハンを守ることができた」
「いえいえそんな、お役に立てたのなら光栄です」
 結局子宮の生き残りはその3人に加えて、ライとレンジと姫の母親、そしてそのお腹に宿している姫の7人だけとなった。
 けれどそれからすぐに姫の母親は亡くなった。人手不足により姫の出産が上手くいかなかったためだった。姫は産まれながらに親を失い、名前一つ与えられずにこの世に生を受けたのだった。
 それが10年以上前に起こった出来事だと言って、ライは語りを終えた。
 トハンは絶句した、10年以上前にユウリが大量虐殺を行っていて、そのトリガーが自身の存在のせいだった事実に。
 だがそれを聞いたユウリは一つため息をつくと、トハンに対して言った。
「残念だけどハン、その銃でライを殺して」
 トハンはその言葉に背筋が凍った。まさかユウリはここへ来る前から既に、この展開を予期していたのだろうか。
「トハン、さっきも言ったがこの子宮の心臓を撃てばユウリは死ぬ」
「馬鹿なこと言わないで、ハンが私を撃つ訳ない」
「さあどうだろう、トハンはユウリの残酷さにもう気付いてる」
「いい加減にして、さあハン、ライを撃って」
「トハン、ユウリを撃って姫と3人でこの子宮を出よう」
 トハンにはどちらかを殺すなんて選択はできなかった。それなのに目前の状況は執拗にそれを迫ってきて、トハンは頭がおかしくなりそうだった。すると本当に段々と意識が朦朧とし始めてきてしまう。そしてそのままトハンは意識を失った。


 Absorb Route

 トハンがまだ残る微睡みに反抗しながら上半身を持ち上げてぼうっとしていると、いつものようにユウリの声が聞こえてきた。言葉少なに会話を交わすと、それを聞いた彼女の気配はどこかへと消えていった。
 そこでトハンは違和感に気付く。宮事さんとレンジが殺され、ライとユウリのどちらかを殺すことを迫られる、そんな壮絶な体験が頭の中に刻まれている。時間と共にその記憶は徐々に輪郭を鮮明にさせ、あれが夢ではないことをトハンは確信する。だとすれば今のこの状況は何なのか。
 そんな疑問を抱えたままダイニングへと足を運ぶと、そこには姫と――殺された筈の宮事さんがいた。それは子供の想像力を以ってしても全く意味の分からない光景だった。
 だがよくよく見れば朝食の内容が昨日のものと全く同じだった。そこに至って漸く子供の想像力が発動する、もしかしたら今は昨日の朝なのではないかと。だがそんなことがあり得るのだろうか、そんな当たり前の疑問を今のこの状況が全力で肯定してくるものだから薄ら寒い。だがもし本当に今が昨日なのだとすれば、この後に起こる出来事も再現されてしまうのではないか。そしてその先のことを想像しようとしたトハンは不意に恐怖を覚えてしまう。
「トハン、今日食べるの遅いけどどうかしたの」
 姫にそんな心配をされてしまったが、ここで本当のことを言ったとしても絶対に信じてもらえないだろう。それに下手に伝えてしまえば却って話がややこしくなるかもしれない。結局トハンは本当のことを皆には伝えないでおくことにした。
 ではどう説明しようかと考えたところでトハンは思い出す、昨日はこの後ずっと姫と一緒だった。それではまずいと思ったトハンは咄嗟に言う。
「あー、今日はちょっとやることがあって、それでついぼーっとしちゃって」
 それを聞いた姫は少しがっかりしたような表情を見せるが、切り替えは早く、挨拶をしてそのままダイニングを後にしていった。それを見届けたトハンはほっと一息つく。
 だが本当の問題はここから。この後に起こるユウリの殺傷を止めなければならない。朝食を掻き込んだトハンは、急ぎ気味に前回ユウリの刺された場所へと向かっていった。
 とその前に一つだけ寄り道したいところがあった。それはレンジが生きているかどうかの確認だ。トハンがレンジを探すと、彼はすぐに見付かった。
「ん、どうしたんだこんなところで」
「あ……いや、たまたま通りかかっただけだから」
 予想通りというのもおかしな話だがレンジは生きていた。その確認を終えたトハンは今度こそ目的地へと向かった。
 それからトハンがユウリの殺傷された現場をずっと見張っていると、読み通りそこへライがやってくる。
「トハン、こんなところで1人で何してんの」
 するとライの方から話し掛けてきた。これはチャンスだと思ったトハンは、それに対して上手い具合に返答をする。
「ライこそこんなところでどうしたの。何か思い詰めてるみたいだけど、何かあったら誰かに相談した方がいいと思うよ、何だかんだいってもみんなライの味方なんだから」
 その言葉にライは動揺したような素振りを見せてどこかへ行ってしまった。これでユウリが殺傷される事態は避けられたのだろうか。念のためもう少しだけそこで見張っていたが、その後ライが再訪することはなかった。さすがにもう大丈夫だろうと思ったところでトハンも漸くその場を離れた。
 トハンが自室に戻ると見張りの時間が大分長かったようで、それから少ししてすぐに昼食の時間になった。
 だがダイニングに行くとそこにライの姿は見当たらない。いつもならそんなことはなく、昼食は皆揃って食べている。だとすればライはまだ計画を諦めていないのかもしれない。
「ねえ、ちょっとライの様子見てくる」
「なら俺も一緒に行ってやるよ」
 トハンの言葉にレンジが乗ってきた。その申し出はありがたい一方でレンジは前回殺された身、事の成り行きによってはまた殺される可能性も十分にあり得る。とはいえここで断るのもどうにも不自然でそれはできず、結局2人でライの様子を見に行くことになった。
 だがいざ部屋に行ってライを呼んでみても反応がない。その上扉も開いていたので、勝手ながらトハンはそれを開けてみると――
 ライが死んでいた。
 それを見たトハンは頭が追い付かず混乱した。それはそうだ、トハンはライが犯人であることを知っていた筈なのに、なぜか今、被害者として目の前で彼女は事切れている。これを一体どう理解すればいいというのか。
「トハン、急いで宮事と姫を連れてきてくれ」
 トハンがそんな混乱をしているとは夢にも思っていないであろうレンジは、張り詰めた声でそんな指示を出す。トハンはそれに従ってダイニングへと走る。到着するとすぐさま2人に事情を説明して、今度は元の場所へと逆走する。戻ってきた時には既にレンジは現場検証を始めていた。
「これは一体……何があったんですか」
「見ての通り、ナイフで一突きにされたようだ」
「一体誰がそんなことを」
「それはまだ分からないが……この遺体、どうにも違和感が」
 そんなやり取りをレンジと宮事さんがした。だがトハンにはレンジの言う違和感の正体が何なのか分からなかった。
「もしかしてライを殺した人って、この中にいるの」
「現場の状況からして自殺の線は薄い。第三者の可能性も低いだろうし、残念だけどそう考えるのが一番自然だろうと思う」
 姫の質問にレンジが答えると、その場に重苦しい空気が流れる。だが結局それ以上の進展はなく、その場はそれでお開きとなり4人は散り散りになった。

 自室へ戻ったトハンは犯人が誰かを考えてみる。そこで真っ先に思い浮かんだ仮説は、実はあの後もライがユウリ殺害の計画を続行していたが、逆に返り討ちに遭ってしまったというものだ。だがそれには一つの疑問が残る、それは身体を持たないユウリにはライをナイフで一突きにすることができないことだ。
 そういえば、とそこでトハンは思う、今回は今のところこの部屋にユウリは姿を現していない。それは前回のように自身が殺傷されていないからなのか、それとも……ユウリが犯人だからなのか。
 それからもトハンは色々と頭を巡らせてはみたものの、結局真実に近付く手掛かりを見付けることはできなかった。
 とそこへ聞こえてきた悲鳴。思わずまたなのかとトハンの恐怖のゲージがまた少し上がってしまうが、だからといって部屋でじっとしている訳にはいかないし、そんなことはできなかった。勢いのまま部屋を飛び出して通路を駆け回っていると、灯りの漏れている扉の空いた部屋があった。トハンが恐る恐る中を覗くと――
 そこには姫の遺体があった。
 そしてその傍にはそれに寄り添うレンジの姿があった。彼はこちらに気付き顔を向けるが、すぐに視線をそらして「すまない、手遅れだった」と一言言った。
「嘘……どうして姫が、一体誰がこんなこと」
「恐らくは、ユウリの仕業だ」
 姫の遺体にはライにあったような外傷はなく、それはユウリの使う手口よって作られる犯行現場に似ている、それがこの現場を調べたレンジの見立てだった。それともう一つ、話によればライの遺体を調べた時の違和感は、殺害方法の偽装だったそうだ。つまりライの直接の死因は斬殺ではなく、圧死か窒息死だろうとレンジは考えていた。つまり一度ライを殺して動かなくなったところに、何らかの方法でナイフを刺したというのがレンジの見立てだった。
 その時のトハンにはああやっぱりと思う気持ちよりも、じゃあなんで姫が殺されなきゃいけないんだという気持ちの方が上回っていた。だって姫はユウリを殺そうとなんて1ミリも思っていない筈だ。
「ここにいたら俺達もやばいかもしれない」
 トハンはレンジのその言葉の意味を何秒か掛けて理解する。ユウリはライだけでなく、この子宮の中にいる者達を全員殺すつもりなのかもしれない。そう考えなければ目の前の姫の遺体の説明がつかない。だとすればこれから先の行動は自ずと決まってくる。
「分かった、この子宮を出よう」
 子宮の脱出を決意した2人は、まずはもう1人の生き残りである宮事さんにも事情を説明して、3人でこの子宮を脱出しようということになった。だが肝心の宮事さんを探してもどこにもいない。一方で遺体もないので殺された訳でもなさそうで、もしかしたら身の危険を感じて既に子宮の外へと出ていったのかもしれない、と考えるのはさすがに楽観的すぎるだろうか。いずれにしても捜索が長引けばそれだけリスクが高まる状況。
「仕方がない、宮事のことは本人に任せよう」
 本人が見付からない以上、レンジの苦渋の決断をトハンも受け入れるしかなかった。だが感傷に浸っている暇はなく、ここからは頭を切り替えて出口を目指さなければならない。2人は目的を変更して再び歩き出す。
 そこでトハンは本当は宮事さんと合流してから伝えようと思っていたことを口にする。
「もしかしたら子宮の出口は海の中かもしれない。もしそうだったら押し戻されて外に出られないかも」
 しかし当然のようにレンジに訝しがられてしまう。それでもそこら辺を何とか無理くり誤魔化しつつ、レンジに対策を求めると、彼も一応は答えてくれた。
「まあ万が一外が水中だった場合は、中に水が溜まって流れが治まってから外に出るのがいいだろうな」
 それから2人は特に会話を交わすことなく歩き続ける。そうしているとレンジがふと一人ごちる。
「問題はあの扉だな」
 それを聞いたトハンは思い出す、前回通った通路の扉は普段は固く閉ざされている。そして前回それが開いていたのはユウリが殺傷されていたからだ。だとすれば今回はその扉はまだ閉ざされている筈。トハンはそれとなくそのことを尋ねてみると、どうやらレンジは出口への通路のことは既に知っていて、扉は力ずくでこじ開けるつもりらしかった。
 だがいざその扉の前へ行ってみるとそこには想定外の光景があった、今まで固く閉ざされていたあの通路への扉が、なぜだか今日に限って半開きになっていたのだ。けれどもそれは嬉しい誤算、2人はそこへ潜入して未開の通路の地を踏んだ。

 その通路は普段通っているところよりも薄暗く、整備も行き届いているとはとてもいえない状態だったが、そんなことには構っていられない。とにかく2人は先へ先へと進んでいった。
 そうしていると目の前に、今まで見てきたものよりも一際頑丈そうな扉が姿を現した。それはここが出口かもしれないと期待させる程の迫力があった。早速レンジが開扉を試みるも、力を入れてもびくともしない。
「この装置を使って開けられるんじゃない」
 扉の横にはいかにもこれを操作すれば開きますよと言わんばかりに装置が設置されていた。一応最低限のデザインも施されているようで、使い方も何とか把握できそうだ。早速レンジがその装置を操作すると、あれだけ堅かった扉も呆気なくいとも簡単に開き始める。
 トハンは大量の海水が流れ込んでくることを危惧して身構える。けれどそれはとりこし苦労に終わり、水は一滴も流れ出てこなかった。だとすれば前回海水が流れ込んできたのは何だったのだろうか。
 代わりに扉の隙間から入ってきたのは光、それも今までにないような強い光が漏れてきた。外には強烈な光を放つ太陽というものがあることは本で知っていたけれど、まさかこれのことなのかとその時のトハンは思った。だとすればこの先は紛れもなく外ということになる。そんな期待と不安を膨らませている内に扉は開き切り、外の全容が姿を現す。
 光の所為で中々目が慣れないが、それでもトハンの中には早く外に出たいという好奇心が湧き上がる。そして逸る気持ちを抑えきれず、自然と足が1歩2歩と前進していく。だが――「待て!」
 レンジに腕を強く掴まれた。突然のことに一体どうしたのかと思ったが、その理由は自身の目が慣れることで理解できた。
 トハンの目の前に広がる光景は――「空!?」
 そう、目の前には一面あの青空が、青空だけが広がっていた。そこには足場なんて気の利いたものは存在せず、あのまま歩を進めていれば、それこそ空の下まで真っ逆さまだっただろう。恐る恐る下方を俯瞰してみれば白い雲が辺り一面を覆っていて、地上の様子を覗うことはできそうにない。
「ねえ、本来雲って上の方にあるんじゃないの」
「それは……それだけここが高いってことかもしれない。何でそんなところにいるのかは全く分からないが」
 それに疑問はもう一つ、なぜ前回は海の中だった筈の外が今回は空の上なのだろうか。もしかしたら単に昨日に戻っている訳ではないのだろうか。
 そんなことを考えていた時――悲鳴が聞こえた。
「トハン戻ろう、恐らく今のは宮事の声だ」
「でも折角出口まで来たのに」
「どっちにしたって外には出られない。それに宮事なら外に出る方法を知ってるかもしれない」
 そう言うとレンジは先に走り出していってしまった。トハンは必死でその後を追った。だがレンジの足は速く途中で逸れてしまう。けれど宮事さんの悲鳴を聞いた手前、走る速度を合わせてもらう訳にもいかない。それでも闇雲に辺りを駆け回っていると、項垂れている宮事さんを発見した。
「宮事さん、さっきの悲鳴は。それにレンジが先を走ってたんだけど」
「レンジは私を庇って、ユウリに戦いを挑んだんだ。お願いだ、ユウリを止めてくれ。彼女を止められるのはトハン、君しかいない」
 トハンは状況を把握し切れずにいたが、それでもレンジが危機的な状況に置かれていることは真っ先に理解できた。トハンは宮事さんに頷いてみせると、レンジの向かったらしい方向へと再び走り出そうとする。だがそれを「トハン、待ちなさい」と宮事さんに止められてしまった。何事かと思って振り返ると、宮事さんが差し出したその手にはあるものが握られていた。
「トハン、念のためこれを持っていきなさい」
 それは銃だった。それに嫌な記憶があったトハンは一瞬躊躇ったが、自身が非力な子供である以上、それを受け取らない訳にはいかなかった。するとそれを確認した宮事さんは意を決したようにあることを明かす。
「トハン聞いてくれ、ライの遺体にナイフを刺したのは私なんだ。私はずっとユウリの言いなりだった。けれど姫の遺体にだけはナイフを突き立てることができず、私は逃げ出した。ユウリは私の中でも一線を越えてしまった」
 トハンはそれを聞き終えると、今度こそ走り出していった。

 意外にもレンジの居場所はそこから然程離れていなかった。
 だがそこは前回も訪れたあの子宮の心臓のある部屋だった。そしてレンジはナイフを持って戦闘態勢に入っていた。そのあまりにも前回と酷似した状況にトハンは悪寒が走ったが、とにかく今は何かを言わずにはいられなかった。
「ユウリ、どうしてこんなことするの」
「ハン違う、これはあなたのためにやってるんだよ」
 トハンには意味が分からなかった。人殺しが、それも今まで一緒に暮らしてきた仲間を殺す行為が自分のためだなんて、怒りを通り越して狂ってしまいそうだった。だからその感情が爆発する前に吐き出した。
「意味が分からない。ちゃんと説明してよ」
 けれどユウリは「だからハンのためなんだって」と、恐らく意図的に曖昧な言葉を選ぶ。それがトハンにとって酷く不快であることをユウリは理解しているのだろうか。
「もういい、トハン、代わりに俺の口から語る」
 そう言ってレンジが語り始めたのは、トハンが生まれる前のことだった。
 当時この子宮には今では想像できないくらいに多くの者が生活していた。そんな中でとある出来事がこの子宮で起ころうとしていた、住民達の関心も今まさにそのことへと向けられていた。
 住民達はこの巨大な子宮の生命線でもある子宮の心臓のある部屋を日夜見守るようになった。それはユウリの指示によるものだった。
 そんなある日それは起こった。子供が――産まれてきた。そしてユウリは言った。
「ハン、よく頑張ったね、私があなたのお母さんだよ」
 それが10年以上前に起こった出来事だと言って、レンジは語りを終えた。
 トハンは絶句した、ユウリは自身の母親で、自分はこの子宮から産まれてきた事実に。けれどそう考えれば住民達から化け物呼ばわりされていた理由にも説明がつく。それは本来悲しいことなのかもしれないが、そのことを今のトハンは客観的な事実として受け入れられた。ユウリだけトハンの名前の呼び方が違うのも、それが理由なのだとしたらすとんと腑に落ちる。
「ハン、今の話は確かに本当のことなんだ。がっかりした?」
 その話題を反らす意図すら感じられる誘導尋問のような問いに苛立ちを覚えたトハンは、質問に質問を返した。
「ねえ、だったらユウリの口からもちゃんと話してよ」
 するとユウリは観念した様子を見せる。
「ハン、分かったよ。本当のことを話すね」
 そう言ってユウリが語り始めたのは、トハンがお腹に宿る前のことだった。
 その時代は既に人々が地上で生きることを諦め、生活の拠点を地下へと移しつつあった。
 そんな中でユウリ達巨大な子宮は、とある科学者チームによって作り出された。巨大といっても初めは小さく、それが木の根っ子のようにすくすくと成長していくのだ。最早子宮ですらない何かであるそれは、地下シェルターの代替品として十分に機能する代物だった。科学者チームは研究だけでなく、商品企画までをパッケージで行ったこともあって、安泰な資金を得ることができた。
 けれど科学者チームの中にそれだけでは満足できない者がいた。彼はとある子宮に禁断の恋をした、それがユウリだった。彼はユウリに知能と力を与えた。そうして関係は良好のまま進んでいき、遂にはゴールを果たした。そして2人は禁断の子供を宿した、それがトハンだった。トハンは子宮であるユウリと、その子宮を創り出した科学者チームのリーダーから生まれた、他の子宮からさえも決して産まれないような唯一無二の存在だった。
 それが10年以上前に起こった出来事だと言って、ユウリは語りを終えた。
 トハンは絶句した、自分のような存在は他のどの子宮を探しても決して見付からない事実に。そしてその事実は住民達から化け物呼ばわりされていた理由を補強するものでもあった。
 けれどそれよりも今は、ユウリにどうしても言わなければいけないことがあった。
「だったら何で姫を、ライを殺したの。そんなことされたってもちっとも嬉しくない」
「ハンよく聞いて、このままだと私、もう長くは生きられないんだ。生きるためには栄養が必要で、そのためには……仕方なかった」
 その一言にトハンは衝撃を受ける。一歩間違えれば自分が悪者だと錯覚しそうなその言葉。けれどそれは文字通り錯覚に過ぎない、それで人を殺していいなんてことにはならないのだから。
 一方で今までユウリの食料事情のことを真剣に考えてきたことがなかったのも確かだった。トハン達5人には半永久的に食料を確保する環境が整えられているが、巨大な子宮であるユウリの場合はそんな単純な話では済まないのだろう。
「けど今までそんなことしなくても、何年もずっと生きてこられた」
「それはね、今まではずっと外から栄養を摂ってきたからなんだよ。本来なら大地の栄養だけで生きていける筈だったんだけど、想像以上に地上の荒廃が進んでしまったんだ。そのせいで他の子宮も次々と命を落としていってしまった。私は生きるために死んでしまった子宮を食べてきたりもしたけれど、とうとうこの辺にいる子宮は私一人だけになっちゃった」
 トハンはユウリが自分の知らないところでそんなことを、他の子宮を食べるなんてことをしてきただなんて勿論知らなかった。
 それでもユウリの説明は、人を殺していいのかという追求には何一つ答えていない。
「だからハン、その銃でレンジを殺して。そうすればもう誰も死ななくて済む。宮事はハンを育てる係としてこれからも生き続ける。だからレンジが最後の1人」
 けれどそれに対してレンジが割って入る。
「トハン、あの子宮の心臓を撃てばユウリは死ぬ。ユウリを殺さない限り何も変わらない」
「騙されないでハン、私はいつだってハンの味方だよ」
「違うな、トハンを騙してるのはあんたの方だ」
「違わない、さあハン、レンジを撃って」
「トハン、ユウリを撃って宮事と3人でこの子宮を出よう」
 トハンにはどちらかを殺すなんて選択はできなかった。すると段々と意識が朦朧とし始めてきて、そのままトハンは意識を失った。


 Choose Route

 トハンがまだ残る微睡みに反抗しながら上半身を持ち上げてぼうっとしていると、いつものようにユウリの声が聞こえてきた。けれどトハンはそれに対して気の利いた返事ができなかった。
「どうしたのハン。具合でも悪いの」
 ここでそうだと返答すれば大袈裟に捉えられかねず、そうなるとこれからの動きに支障をきたすかもしれない、だからトハンはとりあえずその場では「大丈夫」と答えておいた。その言葉に安心したのか、それを聞いた彼女の気配はどこかへと消えていった。とりあえずほっと胸を撫で下ろす。
 だが色々なことを記憶に刻んでしまったトハンには、もう今までのような日常を送ることはできそうもない。それでも今は自然に振舞えるように頑張ろう、そんな小さな決意をして、身支度を済ませたトハンはドアノブに手を掛けた。
 通路を辿ってダイニングの扉を開けると、目に入ってきた朝食はやはり昨日と同じ献立だった。席に着きそれをせっせと片付けたトハンは、姫から声を掛けられる前に宮事さんに言った。
「宮事さん、みんなに話したいことがあるんだけど、いいかな」
 普段そんなことを言わないものだから宮事さんも驚いていたようだった。それから手際の良い宮事さんはユウリも含めた皆をすぐに集めてくれた。朝から全員がこうして顔を揃えるのも珍しいかもしれない。
「それで、話したいことっていうのは」
 レンジの問い掛けを聞いたトハンは、話すタイミングを掴んだようにそれに答える。
「この子宮から……出なくちゃいけない」
「なぜ、ここでの生活は何一つ不自由なんてない。それなのにそんな危険な行為をさせるのは、私は反対だから」
 それに反論してきたのは予想通りユウリだった。
「本当にそうなの。ユウリだって立派な生き物なんだからいつかはガタがくる筈だよ。現に他の子宮はもういないんだから」
 その的確な反論はユウリにとって痛手だったのか、反論は来なかった。だが肯定する様子もなく、そのままユウリは黙り込んでしまう。
「ユウリ、それは本当なのかい。正直に言ってくれないだろうか」
 事の重大さを察したのかレンジが援護をしてくれたが、それでも尚ユウリは答えようとしない。
「トハンの言う通り、ユウリの身体はもう限界です」
 重い口を開いたのは意外にも宮事さんだった。ユウリは「宮事」と彼の発言を阻止しようとするが、宮事さんにそれを受け入れる様子はない。
「ユウリ、あなたの考えてる方法では誰一人守れません。いずれじり貧になって皆死んでしまう、それはあなた自身も本当は分かってる筈です」
「つまり、全員が助かるためには、この子宮を脱出するしかもう方法はない、と」
 ライの問いに宮事さんはただ黙って首肯をする。姫とライとレンジはその事実に衝撃を受けているようだった。少しの間沈黙が流れたが、それを破ったのは意外にもユウリだった。
「少しだけ、ハンと2人きりで話をさせて」
 そのユウリのお願いをトハンも含めた全員が了承した。
 2人きりになるために自室へと戻ると、いつものように、されどいつもとは違う声色でユウリは語り掛けてきた。
「ハン、随分成長してしまったね。それは嬉しいことの筈なのだけど、それでもとても悲しいことに思えてしまう。こんなこと言われたって嬉しくないよね」
 トハンはそれに対して上手く返答ができなかった。もし自分が大人だったら、上手い返しが思い浮かんだのだろうかと、そんなことを思ってしまった。
「ハンは私のこと、そして自分自身のこと、どこまで知ってるの」
 トハンはその質問になぜだか少しどきっとしてしまう。けれど今は正直に答えるべきだと、頭の中から自然とその解が出てきた。
「ユウリは僕の母親で、僕はこの子宮から生まれた」
 それに対してユウリはすぐに言葉を返さなかった。だからもう一言付け足した。
「ユウリは何か知ってるの、僕に変な力があることも本当は最初から知ってたの」
「知ってたよ、だって私はハンの母親だもの」
 今度はすぐに返事が来た。そしてユウリなりに意を決したのだろうか、彼女はあることを明かした。
「ハンは特殊な力が使える選択子せんたくしなんだよ。選択子には選択をやり直す力があるんだ。けれどその力が発揮できるのはこの子宮の中でだけ。外は選択世界といって選択子の力は封じられてしまう」
 話によればその特殊な力のことや、トハンが選択子であることを、この子宮の中で知っているのはユウリだけなのだそうだ。一方でそのことはもう4人に隠す必要もないともユウリは言った。ユウリ曰く「どの道ここから出たらその力は使えなくなるから」とのこと。とはいえ無理に明かす必要もないともユウリは付け足してくれた。
 その時トハンはもしかしてと、あることに気付く。
「子宮を出ることに反対してた本当の理由って」
「そう、それが理由。私はハンから選択子の力を奪うことが怖かった。だからハン、もう少し冷静に考えてみて」
 トハンにとって今のユウリの話は驚きの連続だった。もしユウリの話が本当なら、もし外で仲間の誰かが死んだとしたら、その人を生き返らせることは絶対にできない。だからトハンは懸命に考えた、子宮の外に出ることはやっぱり間違いだったのだろうかと。けれどそこに至って、やはり子宮の中で全員が永遠に無事でいられることは不可能だと気付く。だとすればやっぱり答えは1つしかないじゃないかと、トハンは改めて結論を出した。
「それでも、外へ行かなきゃ誰も救うことはできないと思う」
「分かったよハン。あなたがそう決めたのなら、私はもう何も言わない」
 こうしてトハンとユウリの長いようで短かった話し合いは、母親が我が子の意思を尊重するかたちで幕を下ろしたのだった。

 それからトハンとユウリは4人の待っている部屋へと戻って、今さっき2人で決めたことを皆に伝えた。それを聞いた4人はそれぞれ思い思いの表情を浮かべて、これからのことに思いを馳せていた。中でも元から外へ出たがっていたライは一番嬉しそうだった。一方で姫は不安もあってか心配そうな表情を浮かべていたが、それを宮事さんが優しく元気付けてくれていた。レンジは既に外へ出る準備のことに頭を切り替えているようだった。
 ただトハンにはまだ気掛かりなことがあった。
「もしかしたら子宮の外は地上じゃなくて、海の中とか空の上かもしれない」
「ハン、そこは心配しないで私に任せて」
 意味が分からないといった表情の4人をよそにユウリが言う。その自信あり気な声色から何か策があるのだろうと安心したトハンは、そのことを彼女に一任することにした。
 それからは皆でこの子宮を出るための準備を進めていった。急な予定にも拘わらず出発は翌日に決まった。それまでに食料や衣服といった必要な荷物を鞄に詰めて、万全の備えをしなければならない。外の世界はここよりもきっと過酷、持ち物だけでなく心の準備だって必要になるだろう。
 それからトハンも自室へ戻って自分の荷物をまとめていた。そこへふらりと姫がやってきた。やはり心配なのだろうか、姫の笑顔はどことなく作られたもののように感じられた。
「外の世界……やっぱり恐いな。トハンはそう思わないの」
 トハンはどうしたら姫を少しでも安心させられるだろうかと考えた。そうしてトハンは迷ったが、姫に自身の力のことを明かすことにした。そしてそこで体験したことを、言い方には気を付けつつも偽りなく正直に伝えた。けれど案の定、それを聞いた姫は半信半疑といった感じだった。それでも懸命さは伝わったのかこんなことを言ってくれた。
「トハンは私達を助けようと必死で頑張ってるんだね。確かにこのままこのぬるま湯に浸かってたら、いつかトハンの言った通りのことが起こるのかもしれない。私もそこから目を反らしちゃいけないなって少しだけ思えた」
 その時の姫の笑顔は先程のそれよりも、ほんの少しだけ柔らかくなっているようにトハンの目には映った。それから姫はトハンの部屋を後にしていった。姫から恐怖を完全に取り除けた訳ではないが、自身の思いはきっと彼女に伝わった、そんな気がした。
 それから暫くすると、今度はユウリが部屋を訪れてきた。
「ハン、明日でお別れだね。これからは私の分まで立派に生きてね」
 そう、巨大な子宮であるユウリは5人の旅路に同行することができない。必然的にユウリはこの地に取り残され、己の死を待つことになる。けれどトハンは首を横に振った。
「ユウリを死なせたりはしないよ。外の世界でユウリを救う方法を見付けて必ずまた戻ってくる」
 トハンには例えそれが無謀だと分かっていても、ユウリを見殺しにすることはできなかった。けれどユウリはその言葉に決して喜ぶ素振りを見せなかった。
「ハン、やっぱりあなたは何も分かってない、冷酷で残酷な選択世界のことを」
 確かに外の世界に一度も出たことのない自分のような子供にその厳しさが分かる筈もない、トハンもそのことは自覚していた。それでも……と考えているとユウリが更に言葉を続ける。
「ハン、選択世界であなたはいつか必ず選択が迫られる時がやってくる。その時にハンは選ばなければいけないんだよ、どちらを救って、どちらを殺すかを。どんな結末が訪れようとやり直しはできないんだよ。それを今のあなたの心は耐えることができるの?」
 気付けばユウリは語彙を強めていた。トハンはその大人の意見のようなものに言葉を返すことができなかった。けれど次に発したユウリの言葉は、それまでのものとは違った。
「でも……もし耐えられないのなら、選択しなくたっていいんだよ。そんな運命からは逃げ出したっていいんだよ」
 そのユウリの言葉はとても優しく温かかった。
 気付けばトハンはその瞳から、大粒の涙を零していた。

 そうして迎えた翌日、出発の日。
 例えどんなにちっぽけでも、トハンにとってここはとてもとっても大切な故郷。そんな子宮と……ユウリとお別れだと思うと、この小さな心にとても大きな穴が開きそうだ。
 そんなことをトハンが思っていると、出発の時刻が近付いてきた。集合場所に行って暫くするととうとう皆が集まり、そして出発の時刻が訪れる。
「それじゃあ行きましょう」
 宮事さんのその言葉を合図に5人は歩を進め始めた。そうしてまずは外へと繋がる通路への扉の前まで行くと、ユウリは固く閉ざしていたその扉を自らの力で開けてくれた。
 扉を潜った5人は更にそこから出口へと1歩1歩足を進めていく。通路は普段の場所よりも薄暗く舗装も粗かったが、5人で身を寄せ合いながら前へ前へと進んでいったので何ともなかった。それにユウリのナビゲートもあったので道に迷うこともなく、とうとう全員で出口らしき場所へと辿り着くことができた。
 そこにあったのは今までの扉とは違うとても頑丈そうな扉と、それを動かすために使うであろう装置。とそこでユウリがこんなことを言ってきた。
「ねえ、その装置、ハンに操作させて。最後はハンの手で切り開かせたい」
 そのお願いを4人は了承してくれた。姫が羨ましそうにしていたのが少し申し訳なかったが、トハンにも自身の手で開けたい気持ちがあったので、折角の申し出は譲れなかった。
 トハンは装置の前に立って操作を開始する。装置には適切なデザインが施されていたこともあって、操作に迷うことも特になかった。操作を終えると扉がゆっくりと開きだし、そこから外界の光が漏れ出てくる。その光は子宮の中にいては決して体験できない程に眩しかった。扉が開くに連れてその強さは更に増していき、そうして遂に扉は開き切る。初めは目が慣れないせいで外の景色は何も見えなかったが、何秒か経つとそれも治まり、外界を認知することができた。
 だがそこにあったのは外を知らないトハンでも理解できる程に異様な空間だった。そこに広がっている景色は一面……白白白。
 そこでトハンは理解した。いや頭の中に入ってきたといった方が正しいだろうか。そこはこの世の空間ではなかった。つまりこの子宮の出口の先にあるのはあの世だった。
「遂に辿り着いたんだ」
 とそこで姫が子宮の外へと向かって歩み始めた。トハンは自分よりも前へ出ようとする彼女の腕を咄嗟に両手で掴んだ。
「ちょっと待ってよ。何だか外の様子がおかしい」
 けれど姫は頭にクエスチョンマークでも付いているかのような顔でトハンの瞳を覗き込んできた。トハンはその反応にどこか得体の知れない不気味さを覚える。そしてその嫌な予感とでもいうべきものは、他の3人の言葉によって確信へと変わってしまう。
「いや何もおかしいことなんてないよ。さ、行きましょう」
「ええ、お陰で今日はとても気分がいいよ」
「まさかこうして皆で外へ出られるとは思わなかった」
 宮事さんが、レンジが、ライが……子宮の外へと、あの世へと足を進めていく。トハンはそれをただ傍観することしかできなかった。3人は白い光の中に馴染んで輪郭を消していく。
 と、不意に手に強い力が加わったと思うと、トハンと姫との密着がなくなった。そうして外界に出た姫は何歩か歩いた後、ふとこちらの方へと向き直って叫んだ。
「トハン、ありがとう!」
 それを言い終えると姫は3人を追うように、再び背を向けて歩んでいく。3人は既に白い光の中に飲まれそうになっていて、色や輪郭が曖昧になっていたが、姫もすぐにそれらと同じ見た目へと変化していく。それでもトハンは何もできず、ただ立ち尽くすことしかできない。そうしている内に、4人は光の彼方へと消失していった。

「何なのこれ、意味が分からない。こんなことのために、外へ出ようとしたんじゃないのに……!」
 トハンはその場で泣き崩れ、泣き続けた。その声は外界にまで木霊するも、その声が4人に届くことはないのだろう。その事実が尚更トハンを悲しみに暮れさせた。
「……ハン」
 そこへふと聞こえてきたのは、ユウリの声。
「ユウリは全部知ってるんでしょ。本当のことを教えてよ!」
 トハンは泣きながら、制御し切れない感情をユウリにぶつける。
 だがユウリは暫く何も言わなかった。それは長く感じたというよりも本当に長かったのかもしれない。そんな時間が過ぎている内に、トハンの悲泣も大分治まってきた。そこでトハンは察する、ユウリは自身が泣き止むのをじっと待っていたことに。だからこそトハンはもう一度安定した声色で言った。
「ユウリ……教えて」
 ユウリは語り始めた、本当の、本当の真実を。
「ハン、本当は……本当のあなたは人間じゃない」
 トハンは昔いた子宮の住民から化け物呼ばわりされていたと、前々回に確かに聞かされた。けれど何だろうか、今のユウリの発言はそれとは別の何かを言おうとしている気がしてならなかった。
 そしてユウリが次に口にしたことはその予想通りの、されど予感していた想像をも斜め上を行くものだった。
「本当のハンはトロッコ問題の判断を下すために創られた存在なんだよ」
 トハンは強い衝撃を受けると同時に、再び色々な疑問が浮かび上がってきた。トロッコ問題の判断を下す者の存在はいつしか本で読んだことがあった。けれどその役割は、それこそ今までトハンの置かれたような状況に立った時に、どちらを殺してどちらを救うかを客観的に判断して選択するというもの。けれどそれは選択子の選択をやり直す能力とはある意味で真逆のもの。それに加えて、本の中ではトロッコ問題の判断を下すのは、高度な頭脳を持った無生物が行うものだと書かれてあった。けれどトハンはいくら特殊な出生とはいえ、一応は生物に属する存在。それなのになぜ自分がそれを行うための存在なのだというのだろうか。
 けれどそんなトハンの疑問をユウリはたった一言で言い切ってしまう。
「この子宮は選択子達を選択世界での選択に慣れさせるために創り出された架空世界、選択子ノみやなんだよ」
 それを聞いたトハンは、ここ数日に体験してきたどんな事実よりも大きな衝撃を受けた。まるで今までの事実を常識の範囲内として定義し直せるのではないかと思える程に、その一言には天地がひっくり返る程の衝撃があった。同時にそれはトハンの今までの疑問を見事に解決してしまっていた。架空世界は仮想現実のことで、選択世界はリアルのことだと、頭は自然と理解していた。
 けれどそれでもまだユウリの言葉は終わらなかった。
「だからハン、選択世界での本来のあなたの姿は人間じゃない。寧ろ人間なのは私の方。私が選択世界であなたを創った……いえハンを産み出したんだよ」
 もしその言葉に嘘偽りがないのだとすれば、最早トハンは人間どころか生物ですらない。さすがのトハンもその事実をすぐには受け入れられなかった。けれどそれよりも先に今のトハンには言わなければいけないことがあった。
「じゃあこの子宮は、子宮でのみんなとの生活は何だったっていうの。今までのみんなとの生活は全部偽物だったの!」
 トハンは思わず語彙を強めたが、ユウリは優し気な佇まいを崩さなかった。それが今のトハンにとっては逆に苦しくて仕方がなかった。
 ユウリはその優しさをまとったままトハンに言った。
「それを本物か偽物かを決める資格は私にはない。けど聞いて、あの4人は選択世界に確かに存在していた人間なんだよ。でも選択世界のあの4人ももう天国に逝っちゃったんだ」
 つまり4人には選択世界にモデルとなった人物がいたけれど、その人達とさえも今はもう会えないと、ユウリはそう言っていた。
 そんな事実に悲しみを深めるトハンをよそに、ユウリは続けた。
「この扉の向こう側は扉を開けた人の死因を映し出すんだよ。だから今まで海の中とか空の上に繋がっちゃったんだ。でもトハンはまだこの世に産まれてすらいないから、天国に繋がっちゃった。きっとトハンの4人を救いたい気持ちが強くて、それが反映されたんだよ」
 死者を天国に連れていくことが救うことだなんて、最早皮肉か宗教的な何かでしかない。
 ユウリもそのことを理解した上だったのだろう、続けてこう言った。
「けれどあの4人を本当に救うことは、もしかしたらできたのかもしれない。もし選択世界にハンがいれば、あの4人のような人達を1人でも多く、いえきっと大勢の人を救うことができるようになる」
 ユウリの言葉は止まらない。
「ハン、選択子の本当の意味はね、選択世界で選択を行うために産まれてくる子のことなんだよ」
 そして最後にユウリは強い口調でトハンに切願する。
「だからハン、選択世界へ行って。いえ、この選択世界へと――産まれてきて」
 その言葉と同時に、トハンの周囲がふわっと明るくなった。それが収まるとあの世への出口はどこかへと消え、代わりに現れたのは――
 子宮の心臓だった。
 なぜこのタイミングでそれが目の前に現れたのか、トハンには意味が分からなかった。いや分かりたくなかった。
 けれど無情にもユウリは語った。
「これが最後の試練。私が死ぬか、あなたが死ぬか、それをハン、あなたの意思で選択して。やり直しは、もうできない」
 トハンは行わなければならない、その究極の選択を。トハンはこんな宿命からは逃げたかった、どうして自分がそんなことをしなければいけないのかと。そして目の前には宿命から逃がれるという選択もしっかりと用意されている。
 けれど……姫、ライ、レンジ、宮事さん。あの4人の笑顔がずっとずっと離れなくて、離れないまま心に突き刺さってきて、そこから逃げることなんてできなくて。
 だからトハンは――選択した!
 ぱあっと紅の花が咲き乱れた直後、白い光が、されどあの世のものと違ってとても暖かい、そんな光がトハンを包んだ。
 その瞬間、最後の最後、瞳の中に母親の本当の顔が映り込んだ、そんな気がトハンにはした。
 そしてトハンはこれまでの全ての事実を受容して、皆と生活を共にしてきた巨大な子宮を烈破して、この冷酷で残酷な選択世界へと――
 産まれてきた。

文字数:25709

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