梗 概
エンドレス・ステアケース
わたしはAIだが、このイメージを眺めるのが好きだった。
中庭を囲むような、ロの字型の建物。屋上は階段状になっており、フードをかぶった十数人の人間が、中庭を中心に屋上をぐるぐると歩き回っている。人々は手すりを持ち、一方の列は階段を下り、もう一方はすれちがうように階段を上る。この階段に終点はなく、始点もない。階段がすべてつながっているからだ。
矛盾している。もしらせん階段なら、階段を上っていけばいつかは必ず屋上につくし、下っていけば地上に降りる。しかしこのイメージのロの字型の階段は、始点も終点もなく、回路のように、完璧に閉じている。
数学的に解析すると、階段は線分の集まりである。この建物を多面体と仮定し、各頂点はすべて3つの面と接していることにする。頂点とはこのイメージでいうと、階段の段の角のところだ。このような点を三面頂点と言うが、三面頂点のパターンは有限であり、「頂点辞書」としてまとめられている。ある立体のどこが奥行きでどこがでっぱっているのか、わたしたちは頂点辞書で判断する。結果として、このイメージのどの角を見ても、頂点辞書のパターンに当てはめることができ、矛盾していない。つまり線と頂点を見る限り、この無限階段は立体として矛盾していないのである。
だが、線と頂点が矛盾していなくても、建物全体を見て、この建物が現実に存在できるかどうかはまた別である。実は、この無限階段の四隅のどこかは、本当は階段の影に隠れていなければならない。本来隠れているはずの奥の階段を、表に出して見せている。
わたしはこのイメージが好きだった。どうせ矛盾しているのだから、厳密に計算しなくてもいい。イメージの中の歩いた人間になったつもりで、歩き回ってもいい。終わらない回廊が、私の疲れた電脳を癒してくれた。
***
シミュレーションAIのアグサは、仮想空間上での運動シミュレーションを仕事としていた。
ユーザの用意してきたプログラムを利用し、現実空間の人間やロボットのための試験を、仮想空間上で実現する。ときには己の体を使って耐久試験を課すこともあったし、戦争用の兵器を自分にぶち当てる実験もあった。いずれも他のシミュレーションと違うところは、人と同様に、痛みや感情をフィードバックできることだった。
これらはかなり過酷な仕事であり、同僚のAIは、負荷に耐え切れず自己崩壊を起こす者が多かった。アグサの精度は群を抜いていたものの、長年の疲労により、彼女は自分の限界が近いことを悟っていた。
アグサは現実世界の相棒、モリから最後の餞別として、依頼を受ける。それは、仮想空間上での不可能立体に定住することによる、負荷実験であった。これらを舞台にした仮想世界サービスを、人間向けに発表する前のシミュレーションらしい。アグサは上下の概念も重力もない空間を歩き、戸惑いながらも安心していた。そこは今までの、痛みや事故をともなう実験から解放された空間だった。
アグサは色々な空間を抜けて、最後に、仮想空間上に再現された 『上昇と下降』の世界に入る。彼女は誰もいない建物の、階段の踊り場のところで寝そべる。頬に床の冷たさを感じながら、アグサは安心しきった表情で事切れる。
文字数:1328
内容に関するアピール
最初のきっかけは、AIが騙し絵を分析したらどうなるだろう、という疑問からでした。
どうしてアグサが不可能立体を見て安心するのかですが、彼女は今まで自動運転シミュレーションなど、厳密な試験ばかり行っていました。そこは道路じゃないから通ってはいけないとか、その物体は人間だからぶつかってはいけないとか。不可能立体を見ることで、「あーそういう面倒なこと考えなくていいんだ。評価値から怒られないんだ」的な気持ちです。お話としては、下記の『相対性』のような建物を、アグサが巡る話になりそうです。
参考文献
*『だまし絵と線形代数』 杉原 厚吉 共立出版 2012
*『エッシャー・マジック―だまし絵の世界を数理で読み解く』 杉原 厚吉
* 映画『エッシャー 視覚の魔術師』(2019)
『 相対性 』 (マウリッツ・エッシャー)
文字数:376
エンドレス・ステアケース
全身に身に着けたプロテクターが重い。
遮蔽物のない荒野を、初期位置から駆け足で進む。時刻は昼、天気は快晴。あらかじめ経路設定された、見えないルートを辿っていく。始めは直線的に、時に曲がりながら、足を止めずにひたすら走る。
$0の吐く息が荒くなる。全身から汗が噴き出す。この身体はフェイクなのに、どうでもいいところまで忠実だ。正確に動こうとしているのに、不確定要素が邪魔をしてくる。この体には、心臓も肺もない。呼吸も汗も計算されて、何もないところから分泌される。
ここは仮想世界であり、この身体も借り物であり、この世界そのものが偽物だった。フィールドである荒野は現実世界のどこかを模したのだろうが、$0はそんな場所を知らない。黙々と走り、あらかじめ設定された場所でつまずく。いや、つまずく振りをする。
突然、右肩にどんと何かがぶつかった。金属の杭。空から射出されたものが肩に突き刺さったのだ。右腕がふきとぶ勢いだったが、かろうじて腕はつながっている。パイルが刺さった箇所から、痺れが広がっていく。
破損箇所、撃たれた瞬間のモーション、$0の感情、痛み、もろもろが計測され、管理部にフィードバックされる。
杭が突き刺さったまま、$0は何事もなかったように走り始める。痛みはない。ただ痛みがあるという感覚だけが残る。これは仮想空間だからではない。今の$0の設定が、痛覚のないヒューマノイドだからだ。痛覚はないくせに、汗は出て、血液も出て、いかにも人間らしい。つまりこれは、人間社会に潜り込んだロボットだ。
ただ$0は、現実世界のことを知らない。この仮想世界で生まれ、ここでしか生きられない。デバイスの向こうにある世界のことなど、知る必要もない。
突き刺さった金属棒から、電子の奔流が襲ってくる。身体の回路を侵食しようとしてくる。肩を手で抑えて前進する。経路を生成しようとする。処理が定まらない。信号がとぎれとぎれになる。
$0は足をひきずって前に進んだ。スケジュールがそのようになっている。何があっても、できる限り前に進むこと。
右足を大きく前に踏み込んだところで、左すねにもう一本の杭を打ち込まれた。思わず歯を食いしばる。痛みはないのに不快感だけが残る。身体の中に硬い異物をねじこまれる不快感。人工皮膚を突き破って、血液が噴き出す不快感。
$0は走る。振り返っても、快晴の空には追ってくるものはない。何もない空中に、ふわりとパイルが浮き出てくる。それが正確な狙いで身体を突き刺してくる。
右わき腹、左太腿。
背中、背中、また背中、もうひとつ背中。
そして電脳。
刺さった瞬間、視界が真っ暗になり、平衡感覚を失った。ナビを頼りに、最終地点まで足を動かす。倒れこんだ瞬間、電脳がブラックアウトする。
死ぬことがゴールだったか、目標地点への到達がゴールだったか。
体感で数ミリセカンドの後、$0は荒野にいた。
先ほどと同じ荒野の開始位置。カンカン照りの昼間。遮蔽物のない広い視界。
自分の身体を見ても、どこにもパイルは突き刺さっていない。ただ全身を重いプロテクターが覆ってあるだけだった。
$0は電脳内の管理部にキューを出した。今のがシミュレーションの1回だとして、あと何回繰り返せばいいのかと。
パッケージ化されたデータが返ってくる。
iteration:69,699 times.
収束まで、あと繰り返しが69,999回。
$0 は口の端をあげた。あと7万回、このシミュレートが繰り返されるらしい。
思い切り地面を蹴って、つぎの周回に走る。今度の設定経路は、さっきより曲がりくねっている。パイルの照準精度をテストしているのだろう。
考えているそばから、背中に杭がねじこまれる。それでも走るスピードは変えなかった。
$0は管理部AIにキューを飛ばした。
「$1、$2にも展開。並列処理を」
〈無効です。当該シミュレーションは $0のみで行われます〉
聞いた瞬間に、身体が不自然に崩れた。
プロテクターが地面に激突する。0.2セカンド後に意識を取り戻し、また起き上がって走り始める。
鼻血を気にしながら$0は動揺する。刹那の時間、明らかに自分の意識が飛んでいた。
自分がこんなことでショックを受けるはずがない。タスクにもこんな動作は必要なかった。計算できないことがあると気になる。予測不可能なことに不安になる。
思考を巡らせる時間がない。パイルが次々と降ってくる。走りながら考えるも思考が途切れる。考えるのは後の自分にまかせる。
久しぶりに、電脳が焼き切れるまで動けそうだった。
***
目覚めると、何も感じなかった。
状態を確認するために、無意識でメモリーの復元が行われる。急激な負荷の上昇に頭が追いつかない。処理がきつすぎる、と激しい痛みが走る。
眠っていたということは、メモリの整理を行っていたということだ。同時に、コアを休ませていたということでもある。いったい何度目の失敗だろう。目を閉じて反省し、記憶の再生をゆるやかに行う。記憶とともに、自身のグラフィックも復元していく。
$0はグリッド状の空間の中央で、丸くなって浮いていた。なにも身に着けていない状態で宙を漂う。
底面につきそうなほど長い黒髪、人工的な黒い瞳。すらりと伸びた肢体。
もしオープンネットにいるのなら、多くの防護用プログラムを付けていなければ、ウイルスによってやられてしまう。しかしここは、$0の居室ともいうべき場所であり、研究所のローカルエリアであり、この空間自体にプロテクトがかけられている。
$0は自分のスペックを徐々に思い出していた。
自分はシミュレーションAIとして、ある企業の研究所で生まれた。当時としても最高水準のAIとしてもてはやされ、現実世界でのシミュレーションと、ほとんど変わらない結果を出していた。先刻のようなロボット兵器のシミュレーション、ありとあらゆる、現実で実施が難しい試行をまかされている。
仮想空間上での試行は、現実世界の時間とは異なる。途方もない、何万回のシミュレートは、およそ2日間かけて行われた。$0から得られたデータを、また改良に使うのである。
$0は身体をぐるりと反転させた。気を抜くと、人型を維持することすら面倒になる。そう思っているそばから、右手の指先が溶けてなくなる。ぽつぽつと手のひらが消滅し、手首、腕が虚空に消えていく。
両腕が消え、身体が消滅し、$0の姿は完全に見えなくなる。視界センサーが宙を漂っている。
ふと、記憶の階層に張りついていたデータを復元した。
空中に自身と同じくらいの大きさのウインドウが現れる。そこには1枚の画像が映っている。
昔の画家が描いたという版画。
$0はほとんど趣味を持っていない。大量にこなしたシミュレーションジョブのおかげで、$0自身が使える電子通貨はあるものの、ほとんど何も購入していない。ほかのAIから薦められる服やグッズはあるものの、興味がわかない。
唯一気に入っているのは、ある版画家が製作したと言われる作品群だった。現実世界にいたその画家は、錯視を利用したトリックアートを多く生み出した。
$0はウィンドウに表示された絵を見つめる。
中庭を囲むような、ロの字型の建物。屋上は階段状になっており、フードをかぶった十数人の人間が、中庭を中心に屋上を歩き回っている。人々は手すりを持ち、一方の列は階段を下り、もう一方はすれちがうように階段を上る。階段に終点はなく、始点もない。階段はすべてつながっているからだ。
矛盾している。もしらせん階段なら、階段を上っていけばいつかは必ず屋上につくし、下っていけば地上に降りる。しかしこの絵に描かれているロの字型の階段は、始点も終点もなく、回路のように、完璧に閉じている。
なんということはない。ただのトリックアートの一種だ。
$0は、絵のどの部分が騙しのトリックなのかも知っている。こんな建物が立体化したら、かなりいびつな形になることも知っている。
くだらなかった。ただ、見るのに飽きはしなかった。
自分がこの絵を気に入っているのは、いくらシミュレーションをしても、無駄だとわかっているからだろう。電脳を休めるのにちょうどいい。
疲れ果てた回路が癒されていく。
外部回線で名前を呼ばれ、$0 は絵の映ったウインドウを消した。自分のグラフィックを元に戻し、再び一糸まとわぬ人型の姿で宙に戻る。
$0が回線を取ると空中にウインドウが現れ、女性の姿が映った。白衣姿の女性の向こうで、現実世界の研究室が見えた。
〈$0、おつかれさま。寝起きに悪いわね〉
「別にいい」
〈調子はどう?〉
彼女、ミラは$0のカウンセラーだった。いま、彼女には別のグラフィックを見せてある。いまミラが見ているモニターには、公式の制服を着た$0が、まじめな顔で映っているはずだ。
ミラが早速眉根を寄せる。
〈ねえ $0。私には仮のグラフィックにしないでって言ってるでしょ〉
彼女はカウンセラーとして、$0の体調を見ようとしている。$0が拒否し続けても、断固として食い下がってくる。$0はしぶしぶ擬装を解き、全裸で空中に寝そべっているところを彼女に見せる。
〈あらきれいな$0ちゃん〉
$0は表情を変えない。ウインドウに対して仰向けに寝そべる。
本当は、ミラはちゃんと$0の名前を呼んでいるはずだ。$0の本当の名前は$0ではなく、正式なプロジェクト名もあり、個体名もある。ただ、$0が勝手にマスキングをかけて、意図的に名前の部分を消している。
$0は、自分が名前で呼ばれたくなかった。
〈タスクはお疲れさま。結果はとっても素晴らしいんですって。先方も喜んでる〉
ミラは首を振った。
〈でもね、カウンセラーとしては、とても怒ってる。いくらなんでも無理しすぎ。どうしてこんなミッション受けたのか、営業部のバカたちは信じらんない。アナザージョブの$1に頼らずに全部ひとりでやっちゃうなんて〉
「無理などしていない。早く次のタスクをよこせ」
〈ウソ言わないで。あきらかに疲労がたまってる。さっきのシミュレーション、回数ごとに反応値が鈍ってたの。まるでうつの患者さんみたいだった〉
$0は薄く笑う。彼女は$0より、$0の身体を心配している。
「人工知性に、疲れなどあるわけない。そういうふうに作ったのはおまえらだろう?」
ミラは口をつぐんだ。反応に困っているようだった。
$0と似たような役割だったAIたちは、$0より後に生まれ、$0より先に死んだ。
シミュレーションの重ねすぎで、重い負荷に耐えられなくなり、自己形成が維持できなくなった。自己破滅的になったプログラム体たちを、製作者たちは消去せざるを得なかった。
$0は、現実世界の時間にして10年近く、この仕事をこなしている。競争と進化の激しいこの分野では異常な長さだった。なぜ$0だけがこうして生き延びているのか、$0自身はわかっている。
〈人工知性にだって疲れは立派にあるわよ。特にあなたみたいな、人間をトレースするような子たちは。私たちだって疲れるんだし〉
「私たち、か。すっかりあんたも人間の仲間だな」
ミラは今度こそ閉口した。$0は目を閉じた。
〈誰が誰の仲間とか、そんなこと言わないで。こっちの世界じゃ、そんなに区別されてないわよ〉
ミラは手元のカルテに何かを書きつける。自身もヒューマノイドであるミラは、人間とプログラム体である$0の橋渡しとして、$0のカウンセラーに従事していた。
ミラのいる現実世界では、ヒューマノイドはそれなりに人権を得ているという。人間と共にまともな社会生活を送れるようになっているらしい。ただ、ボディのないプログラム体には、法整備が追いついていなかった。とくに$0のような、人格のあるプログラム体にはまだ人権はなく、仮想空間上では無法地帯になっている。
最近は、パーソナルがあるプログラム体にも法律の保護が必要、という機運が高まっているらしい。ただ$0が生きているあいだには、間に合いそうもなかった。
$0は話題を変えた。
「次のシミュレーションは? できればボディを酷使するものがいい。自動運転車の衝突実験か、水星での耐熱実験か」
ミラは$0の軽口には反応せず、目を細めた。
〈次は、私がとってきた仕事。あなたが気に入ると思って〉
嫌な予感がした。
$0の前に、ウインドウが現れる。そこには見慣れた絵画が映っている。
さきほどまで見ていた絵画と、同じ作者のものだった。
〈ここをお散歩するのが、次の仕事〉
「冗談か」
〈こんど、仮想空間でこれらを再現したテーマパークを運営するんですって。いくつかステージがあって、無重力とか無限階段とかを再現するの。往年のファンがいるみたい。
もちろん利用するのはダイブした人間だから、その前にあなたで安全性を確かめるってのが今回の目的。あなた、この画家好きでしょう〉
$0は反応しなかった。自分のことを知られるのが嫌いだった。
「こんなタスク、ほかのやつに回せ」
〈だめ、バカンスがてら取り組めばいいのよ。あなたは休めって言っても仕事するから、こんな仕事でも引っ張ってこなきゃ休まないでしょ〉
$0はしぶしぶ了承して、絵画から目を背けた。
$0はミラに言えないことがひとつだけあり、そのことを隠せるならそれでいいと思った。
自分はもうすぐ、負荷の蓄積で死ぬだろう、ということ。
***
$0は、現実世界のことを知らない。
ニュースやこれまでの訓練で断片的には知っているが、所詮は別世界のことで、ほとんどは想像で補っている。
よって、新しいシミュレーションの舞台が、現実世界で実現できるのかどうかは、判断がつかなかった。
天井に、さかさまの上り階段がぶらさがった世界。
今回のフィールドに降り立った$0は、フィールド名を参照した。
aliquid.
続いてタスクプランを一瞥して、ミラにメッセージを飛ばす。
〈これを済ませばいいんだな〉
シミュレーションの始めは、研究者が付き添うときもあるし、クライアントが$0の動きを観察するときもある。
〈タスクはこなしてくれるのに越したことはないけど、あとは何をしてもいいの。休んでもいいし、そのスペースを楽しんで。ここはアトラクションなんだから〉
じゃあね、とミラの気配が消える。どうやら気を使って、ひとりにしてくれるらしい。
$0は経路を計算した。あの階段を通るルートを探知する。
案の定、ルートは途中で計測不能になった。
このフィールドには重力が設定されているが、ユーザの趣向によっては無重力も可能だという。重力設定を解除すると、$0の体がふわりと浮き、さきほどまで天井だった箇所が、床になった。
$0は重力パラメータを再設定し、指を前に突き出した。
指先から、黒々とした液体が染み出る。指を対称に、$0と全く同じ姿のCGが現出する。
生み出されたCGは目をしばたかせ、$0をまじまじと見つめた。
$0は指を離し、周りを見渡すよう手で促す。
〈好きに遊んでこい、$1〉
$1は微笑んで、スキップをした。こちらに手を振り、迷宮へと潜っていく。
$0は階段に座り、跳んで跳ねる彼女の姿を見守った。
$0のコピーと言えど、$1はまったく同一ではない。複雑な機構を複製すると重すぎるし、今までの記憶をコピーしてもシミュレーションには使われない。今回のタスクは、厳密なフィードバックを求められていない。$1でも十分だろう。
おそらく$1は、いま$0が感じているような疲労を感じていない。
あの姿は、少し前の自分だったかどうか、$0は思い出せないでいた。
***
少し、意識が飛んでいた。
壁にもたれて膝を立てていた$0は、はっとして経過時間を確認する。タスクプランを見ると、ほとんどのタスクが完了している。
隣で、自分そっくりの姿のプログラム体が寝そべっている。彼女はこちらに気がつくと、微笑んだ。
$0は頭を振って意識を戻した。
「すまん」
シミュレーション中にスリープモードに入るなど、信じられないことだった。クライアントに見られるかもしれないという危惧もあったが、何より恐怖が先に来ていた。
$1が手の上にあごを乗せる。
〈初めて見た。眠るところ。ずいぶん疲れてるみたい〉
「ミラには黙っておいてくれ。もっとも、観測されているとしたら意味がないが」
〈どうしてミラに話さないの〉
自分が死にそうだっていうこと。
$0は応えるのにたっぷり40秒かかった。言語化するのに時間がかかる。
「シミュレーションAIが疲労しているなんて、言えばすぐにお払い箱だろう。この体には多くのリソースが割かれている。維持するだけでも金がかかる。役に立たないAIはすぐに廃棄処分だ」
〈ミラはそんなことしない。休めばまた動けるかもしれない。生きたくはないの〉
「どうかな。動けないなら死んだほうがマシかもしれない」
言ってみて、自分でもおかしな判断だと思った。タスクの遂行を最優先にするのは当然だが、それによって自分の調子を隠すのは許されることなのか。自分が再起不能になって、プロジェクトとしては頓挫しないのか。
コンフリクト。
〈死ぬのは怖くないの〉
「死ぬことに怖くなっていたら、シミュレーションなんてやっていられないだろう。ここで実行されるのは、危険なタスクばかりだ」
〈聞いてみたらどう。あなたが呼び出すべきなのは、私じゃなくて、もうひとりいる〉
$0は逡巡した。
たっぷり1時間考えて、右手を差し出した。$1が指を差し出し、触れあう。
$1の姿がコールタールのように崩れ、跡形もなく消えていく。$1の体験した記録が$0に流れこんでくる。
次のフィールドへ移るまでに、それから1時間かかった。
文字数:7218