梗 概
絵の中の女
アートテロリズムを標榜する「根無し草」の絵画描きかえ事件が起きた後、ロシア中の美術館は絵画を透明なカバーをつけて展示するようになった。それはロシアが世界に誇るエルミタージュ美術館も同様であったが、根無し草の犯行は止まらなかった。奇妙な事にカバーが外された形跡はなく、人々は絵のすり替えを疑ったが、美術鑑定士であるウラジミールが調査した結果、絵は紛れもなく本物であった。美術館側は大いに困惑したが、ウラジミールの頭にはある可能性が浮かんでいた。
消灯した美術館の暗く冷たい静寂の中で、ある絵画の前だけが光を放っている。その絵画は、餓死刑に処されて鎖で拘束された半裸の老人が、面会に来た彼の娘に抱き寄せられて、娘の乳房を口に含んで母乳を飲んでいる場面を描いた――ルーベンス作『ローマの慈愛』だ。
「君だろう、ドリー」
物陰から現れたウラジミールが絵画に向かって声をかけると、何もない空間がびくっと歪んだかと思うと豊満な黒髪の女性が現れる。可視光をねじ曲げる光学迷彩のコートを脱ぎ捨てたようだ。
「どうして分かったの?」
「逆転の発想さ。絵は描きかえられたんじゃない、既に変わっていたんだ。それを出来るのは絵画修復師の君しかいない」
ドリーは一瞬うつむいたかと思うと、観念したように頭を上げる。
「……あと少しで終わるの。それまで待ってくれる?」
ウラジミールは無言でうなずくと、ドリーの作業を眺め始めた。彼女はペンのように細い照射機からレーザー光を飛ばして、レーザーマーキングの要領で絵具を溶かし、削り出していくと、彼女がこの絵画をかつて修復した際に仕込んでいたであろう絵具が浮かび上がって絵画が描きかわっていく。
「ルーベンスは、幼い頃に母親から奉公に出されたそうよ。そして、晩年になって16歳の少女と結婚するの……どうかしている」
ドリーがそう言い終わると、『ローマの慈愛』はすっかり姿を変えていた。青白く衰弱していた老父キモンは生気を取り戻しており、彼の下腹部を覆い隠していた黒い布は消え去って、娘のペロは母乳を与えながら隆起した父の性器を甲斐甲斐しく手で包み込んでいる。
「これじゃあ、ピンナップじゃないか」
「いいえ、隠されていた願望を表に出しただけ。ペロはキモンにとって娘であり聖母であり娼婦なの」
「なるほど、そうかもしれない。でも、これを見た人々は君の活動に誰も賛同しなくなるだろう」
「へえ。そんなに批判的なのに、どうして私を止めなかったの」
「それは……君の描きかえた絵を見て才能があると思ったからだ。正しく使えば、きっと世に認められる表現として出せるはずさ」
「ふふ、あなたも同じなのね。女を組み伏せて自分のものにしたいだけ。私を絵の中の女にしたいのよ」
そう言うと、ドリーは光学迷彩のコートを羽織って駆けだした。ウラジミールは追いかけようとするが、透明となった彼女を見つけ出す事は二度と出来なかった。
文字数:1200
内容に関するアピール
題名:ローマの慈愛
制昨年:1612年ごろ
作者名:ピーテル・パウル・ルーベンス
梗概内では書ききれなかったのですが、舞台となるエルミタージュ美術館は元々ロシア皇帝の離れとして造られたそうで、調べてみると飾られている絵画かそれ以上に豪華絢爛というか煌びやかだったので、実作の際は美術館の描写もきちんと入れられればと思っております。
例えばですが、この美術館には「大使の階段」という大階段があり、各国の大使がかつて皇帝にここで謁見をしていたという逸話があるそうなので、最後にドリーが身投げをして、命をとして自分の主張を訴えるといった流れも考えています。
文字数:273