梗 概
プロフェッサー楓とアレクサンドロスの末裔
歴史学者の仕事と言えば、史料を漁り分析し、真実を明らかにすること。20世紀までは。混沌の21世紀は、フェイクニュースを生んだ。世界中で文書の偽造、捏造、破棄が常態化した。フェイクAIは文書が書かれると同時に偽造文書を作成するようになり、歴史改変ウィルスが蔓延した。そして今。歴史学者の仕事とは、偽造文書のノイズから真実を選り分けて、歴史を明らかにすること。使い魔たるカウンター・フェイクAIを引き連れ、フェイクAIと戦うこと。論文なんかは後回しだ!
ヨーロッパの由緒正しい大学に歴史講座を持つ楓は、幼い兄妹を育てるシングルマザーにしてドラマのヒロインのモデルだ。とは言え、若くないとドラマにならないらしく女優が演じるのは26歳、新進気鋭の歴史学者。当時まだ大学院生だったけどな。息子は喜んで見てるが、娘は「ママがこんなに立派なわけないわ」って5歳にして批判的。人気はある。研究費調達の役にも立ってる、良しとしよう。
楓が大学図書館で近代の文献を読んでいると、文字と図像が動き始めた。慌てて本を閉じ、隔離する。学内の被害は限定的。警備部の助力を得て感染ルートを特定。マケドニアのニュースから自分が感染したらしい。ネット経由で人と書物の両方に感染し、物理的に書き換えるプロスペロ・ウィルスだ。感染経路を追ってマケドニアへ向かう。
貧しい村でも一部の若者は羽振りが良い。その代表格、アレクサンドルと名乗る少年に出会う。身辺を調査、周囲を探索。ウィルス拡散の首謀者と判明。
「こんなのは小遣い稼ぎで、僕は世界を見ている。ご先祖様のように、世界を制服するんだ」
楓は、時間を掛けて少年と話すうちに、バルカン半島の近現代史の知識がごっそり抜けている事に気づく。紀元前のマケドニア帝国と現代のマケドニアが直結しているようだ。ウィルス感染から完治していない楓は、自信がなくなり大学に問い合わせる。
「ユーゴスラビアって、ありましたよね?」
解決策を大学の教授会と遠隔討議。バルカン半島の歴史については正しい文献があった。これをコピーして解毒剤として読ませればいい。しかし、アレクサンドルが読むことによって、ウィルスが文献を乗っ取り原本まで逆探知され汚染される危険がある。教授会は、リスクは取らず村全体を閉鎖するという意見。国境を跨いだ越権行為はいつもの事だけど、閉鎖って何、虐殺ですか?
「正しい歴史のために過去の過ちを繰り返すのでは、守っていると名乗る資格はないと思います」
楓は少年に真実の本を読ませる。最悪、自分も消される覚悟で。根が聡明な少年は素直に理解し、体内のウィルスすら抑え込もうとする。実体化したフェイクAIが口から吐き出される。使い魔と共にこれを退治。
「大王にはなれないけど、正しい歴史ってやつで、金儲けできないか考えてる。この村に仕事が無いのは変えていかないとね」
楓は大学に戻った。放り出した論文の締切は明後日だ。
文字数:1200
内容に関するアピール
腕力、武力、権力にものを言わせ正義を執行するヒーローではなく、自分自身の弱さを自覚しながらも、諦めずに粘り強く最善を尽くす主人公を描きたいと思いました。
正しい歴史を巡る情報戦をリアリズムで描くと地味な話になりそうなのを、ヒーロー・ヒロインという課題をいただいたのを機械に荒唐無稽なアクション要素を加えて派手に展開する物語にできないかと考え、歴史学の教授がヒロインのドラマシリーズ仕立てにしました。実作では『シャーロック』のようなテンポの良い語り口を狙いたいと思います。
ちなみに舞台をマケドニアにしたのは、米国大統領選ておいて大量のフェイクニュースが発信されていた記事が元になっています。偽造文書の即時作成は超高速取引業者『フラッシュ・ボーイズ』、プロスペロ・ウィルスは映画『プロスペローの本』の本の上を動く幻獣たちをヒントにしています。使い魔や実体化したAIはポケモンくらいの可愛いイメージなのですが、実際に書くともっとホラー寄りになるかもしれません。
また、リアルパートで主人公をアラフォー2児の母にしたのは、5歳でも母と娘の微妙な関係が始まっているあたりを出してみたかったというのが理由です。
文字数:497
歴史学者・楓と、アレクサンドロスの末裔
1
八月、夏休みのクロムブルク大学は学生も少なく、図書館は閑散としている。クロムブルク公国はチェコとバイエルンに隣接した小国だ。だから、ここには自国の若者よりも他国からの学生が多い。欧州域外からの留学生も三割を超える。皆、今は故郷へ戻ったり、旅に出たりしていた。
歴史講座の教室を持つ九条楓は、一人、書庫を散策していた。東洋系に特有の細身の骨格と肌の色、ショートカットの髪は漆黒と茶と白の三色に染め分けている。毛先の茶色と頭頂からの白い一房が、よく学生の目を惹きつける。楓は今の学生たちと同じように、二十年ほど前に留学してきた。それ以来クロムブルクの中で学び、職を得て、家族を得た。
図書館に来たのは、論文執筆のための資料探しという確かな目的があったのだが、本棚の間をぬってのんびりと歩く様子は散策というのが相応しい。背表紙を眺めていると、目的を忘れて目移りする。締め切りは近いのだけど。
「クジョー先生――――」
思いがけず声をかけられて振り返ると、教室で見慣れた顔があった。スラヴ系の女子学生。
「あら、大学に残っていたの?」
「はい。両親からは、お前のAKも用意してあるから夏休みくらい戻って来いって言われたんですけど、そんなの危ないじゃないですか。私はこの街が好きなので、休みでも離れたくないです」
本気で受け止めるべきか冗談と思って良いのかよく分からなくて、何も言えなくなる。故郷がそういう場所なのはきっと確かなのだろう。娘の帰郷をAKを撃つ戦力として期待する親もいないだろうから、彼女なりのジョークと判断しておく。
「それで、図書館に籠って」
「いえいえ、先生ほど入り浸ってません。うちの講座のみんな、図書館に行くと必ず先生見かけたって言ってます」
何だ、私は学生に監視されているのだろうか?
「私は今日は論文のための調べものがあって来たのだけど、あなたは?」
「借りっ放しの本を、司書の方に怒られたので流石に返しに来て。二十一世紀バルカン半島について調べていて」
故国なのだろうか。というか、探していた本が見当たらなかったのは君のせいか。
「不思議なんです。正しい歴史について書かれた本がこれだけ残されているのに、どうしてそれを信じずに非論理的に否定したり、勝手な歴史を信じたりする人がいるんでしょうね」
「正しくない本も、巷には溢れているし、それを読むことは止められないものね。本のようにまとまっていない、断片的な情報ならそれこそ山のようにあるし」
「でもそういうのって、矛盾だらけで、すぐに嘘だってわかりませんか?」
それは、頭のいい子の発想だ。
「図書館の蔵書に、二十一世紀について書かれた書物がとても少ないと言うことは、注意した方がいいね。二十世紀以前に発行された本ばかり。正しくかつ安全と保証できる二十一世紀の書物は少ないの。それより過去はその二十一世紀のフィルターを通して見ることしかできない。ここは他の本への汚染のリスクを避けるために、危険な本は置かないようにしている。過去百年について書かれた、正しいものも間違ったものも、ただ適当なだけのものも、たくさん外にはあるけれど」
「一番危険なのは、間違った歴史を書いた書物ではなく、歴史を書き換える書物、周囲を汚染していく書物」
「そう。講義で話したこと、覚えているね」
「覚えているのは、意味分からなかったからです。何の例え話なのかなって」
「例え話じゃないの。二十一世紀後半、ナノテクノロジーの進歩は、紙とインクできた本に、電子書籍と同じ機能をもたらすことに成功したのね。液晶ディスプレイ、電子ペーパー、網膜投影コンタクト。それでも、紙に印刷された書物という物理的な実体は、求められ続けた。そこで作られたのが、紙の上を動く文字と絵、動くインクと専用紙でできた書物。更新されていくテキストよ。
ところが、こいつがある日暴走した。書かれている言葉も文脈も理解して、別の意味に自ら書き換わっていくテキスト。さらに、微弱な信号で接触している他のUBに影響を及ぼすどころか、U-Inkのナノテク粒子は、通常の紙の本にまで影響を広げた」
(ナレーション)
歴史学者の仕事と言えば、史料を漁り分析し、真実を明らかにすること。二十世紀までは。二十一世紀の混沌は、フェイクニュースを生んだ。世界中で文書の偽造、捏造、破棄が常態化した。フェイクAIは文書が書かれると同時に偽造文書を作成しネットにばら撒くようになり、その尖兵となる歴史改変ウィルスが蔓延した。電子データのみならず、紙の本すらUpdatable-Bookに汚染された。
そして今、〈百年戦争〉を乗り越えた私たちの世界、二十二世紀。
歴史学者の仕事とは、偽造文書のノイズから真実を選り分けて、歴史を明らかにすること。使い魔たるカウンター・フェイクAIを引き連れ、フェイクAIと戦うこと。論文なんかは後回しだ!
大学から自宅に戻れば、リビングの一面をスクリーンにして、子供たちがドラマに夢中になっていた。五歳になる双子の兄と妹、イツキとイズミ。三人暮らしだ。ふたりが見ているのは、フェイクAIと戦い、歴史改変ウィルスと戦い、歴史を取り戻すヒロインの物語。
モデルは、九条楓その人。クロムブルクの歴史学者カエデ・クジョーが主役の『歴史学者・楓教授の冒険』だ。
とは言え、若くないと売れるドラマにならないらしい。女優が演じるのは二十六歳、今の自分より十二も若い新進気鋭の歴史学者。当時まだ大学院生だったけどな。もちろんヒロインは独身で、子供は当然のこと恋人もいない設定。うーん、ノーコメント。
イツキは喜んで見てる。イズミは「ママがこんなにちゃんとしてるわけないわ」って五歳にして妙に批判的だ。どこに着目して言われているのか、いま一つ分からないが。
人気はあるらしい。欧州ローカルには各国語で配信・放送している。地元とその周辺、つまりクロムブルク、チェコ、ドイツ諸国、オーストリア地域で人気があるのはもちろん、イタリアとスペインでもヒットしているらしい。評価に慎重だった、メジャーな中国語圏への提供も始まった。
主人公のモデル、自分の著書を(ある程度は)ベースにしているという意味での原案、さらに歴史考証スーバイザー。モデルとしては色々言いたいこともある。しかしスタッフロールに連なるこれらのクレジットは、それなりの収入になっている。半分は個人として自分の口座へ、半分は大学の自分の講座へ。つまり研究費調達の役にも立ってる、良しとしよう!
翌日は朝から研究室の自分の部屋に籠って、昨日図書館で借りた文献を読んでいた。すると、アルファベットの文字が崩壊して、動き出したように感じた。本を読んでいて、目の調子がおかしいかな、疲れているのかな、と思う。
続けて読もうとしたが、蠢く図版と踊る文字が目に入る。さっきよりも本格的に乱れてきた。怯えて、楓は本を閉じた。自分の認知能力に何かおかしなことが起きているのだろうか。おそるおそる、他の本も開いてみる。文字が、ぐじゃぐじゃに踊っていた。石をひっくり返したら、虫が一面こびりついていて蠢いていたような。さらに他の本。歴史地図のカラー図版の上で国境線が今まさに移動している。緑色で色分けされた版図が四方に拡がっていこうとしていた。
まさか、更新されていくテキストか?
大学図書館には、その手の危険な書物は置いていない。この本たちだって違う。立ち入り禁止の別棟の地下室に保存してあるものはあるが、厳重なセキュリティの下にある。しかし、U-Inkのナノテク粒子に、どこかで感染しているとしたらどうか。通常の紙の本にまで影響を及ぼすことができるのが、UBだ。とは言え、そんなものは何年も前に駆逐されたはず————
楓は、情報省のホットラインに連絡を入れた。
研究室は封鎖され、物々しい防護服に身を包んだ情報省の化学班に占拠された。端末もサーバーもセキュリティ班に隅々までスキャンされた。楓自身は、医療センターで脳内検査と三時間ぶっ通しの心理テストを受けたのち、情報省の一室に移送されて、実質的に軟禁状態となった。ソファに寛いで、コーヒー飲み放題フルーツ食べ放題という待遇ではあるが、外部との通信禁止、書物の持ち込み禁止というのが辛い。
ソファの正面にある壁に矩形の表示領域ができて、どこかの部屋のカメラからの映像が映された。映っているのは、楓の上司にあたる歴史学部のリース教授、図書館長、情報省の技術士官の男三人だ。
「君の研究室の机にあった本以外、図書館の蔵書は無事だ。君の部屋の蔵書も無事だから安心したまえ。直接の接触以外では、他の本に影響を与える能力は無いようだ」
最初に口火を切ったのは図書館長だ。それは大事なことだけど、話の順番が偏っている。館長を抑えて、技術士官が後を続ける。
「分析の結果から話そう。UBの一般書籍への感染だ。接触感染するナノテク・ウィルス。加えてクジョー先生、あなたの思考プロセスに影響を与えている可能性がある。つまり、書籍および人体に感染する、館長の言われたとおり接触感染のみではあるが、相当凶悪な奴に感染したと考えて欲しい。検査の結果だが、ウィルス自体が体内から検出されただけではなく、心理テストの結果、一部の偏向した歴史観に共感を覚える傾向が見出されている」
「具体的にはどんな歴史観? 技術大尉」
「バルカン半島の民族統一主義」
「どこの民族よ、そんな一言で済む場所じゃないでしょう?」
「ウィルスのルーツが分析できたんだ。それがヒントになると思うのだが、UBはプロスペロ・ウィルスと呼ばれていたものの亜種で、マケドニアA型の変種であると推測される」
「つまり、マケドニアから?」
「百年以上前だが、二十一世紀の前半、バルカン半島の北マケドニアという国は、フェイクニュースの産地だった。知っていますか?」
歴史学者に質問してくるとは生意気な。
「アメリカ合衆国に対して、正統な価値観を発信し続けることで——」
自分の条件反射に気づいて、血の気が引く。
「正統なものか。あなた達、歴史学部の教える歴史によれば、真実とは縁遠いニュースを発信し、それを喜び信じる人々からの広告収入で――」
「ごめんなさい、あなたが正しい。今のが」
「そう、偏向的な歴史観に基づく、条件反射的な対応を引き出すプロスペロ・ウィルスの力だ。安心していただきたいが、プロスペロ・ウィルスを人間の神経系の中では無効化できるワクチンを私たちは持っている。マケドニアA型のさらに亜種に百パーセント有効とは言い切れないが、出発する前に」
「ちょっと待って、出発ってなに?」
伝える順序を誤った、という事のようだ。気づいた技術大尉の目が、カメラ正面から向こうの室内にいる者を求めて泳ぐ。教授でも図書館長でもない、もう一人、フレームの外に誰かいるらしい。おそらく情報省の人間だろう。
ワザとらしい咳払いをしてから、リース教授が言う。
「君には、マケドニアへ飛んでもらいたい。マケドニアA型を復活させ、改良種を開発した者が、潜伏していると思われる。そして君自身も影響を受けてしまった歴史観に、現地もすでに影響を受けている可能性が高いと、我々は見ている。ナノテク・ウィルスだけでなく、フェイクAI自体が生きて動作している可能性もあるらしい。その歴史観の復元と、首謀者の発見、フェイクAIの発見と停止が君のミッションだ」
断りようのない命令。ドラマが放送されるようになってからは、初めてだ。
「あのうリース教授、夏休み中に仕上げたい論文がありまして……」
「論文だと。そんなものはな……」
教授の言葉の先を予想できたので、被せるように最後のセリフを引き取る。ドラマの主役の決め台詞。取られてたまるか。
「論文なんかは後回しだ!」
しまった。自分で行くって宣言してしまったと楓が気づいたところで、壁の映像は消えた。
決まってしまえば、動くのは早い。とりあえずのワクチンを打ち、研究室の原状回復に立ち会えば、あとはもう出かけるだけだ。移動と宿泊に必要な手配は、大学がやってくれる。諸々の予定を、一週間分まとめてキャンセルする。
心配なのは子供たちだけど、普段の出張のように、友人のクリスに世話を頼む。保育園への送り迎えくらいは、こなす能力も余力もあるよね。そもそも仕事を増やしてくれたのは、情報省勤務の彼女だという確信がある。
「子供達の世話はいいけどさ、あなた、先日話した時は、論文の締め切りが辛いとか言ってなかった?」
緊急時に、そんなこと言ってられない。だいたい、お前が言うか?
「論文なんかは後回しだ!」
2
九条楓は専用機でマケドニアに向かう。クロムブルクからスコピエまで、一千キロ弱南下。一時間ほどの旅だ。
離陸して間も無く、クリスから断続的にメッセージが飛んでくる。今回の感染源に関することなら、到着してから開けば良い。万が一、子供たちに関することならばフラグ立ててくるだろうから、それ以外は開かないことにする。
予定通りの時刻にスコピエ空港に到着した。使える滑走路が一本しかない、小さな空港だ。
――――予定どおりヴェレスへ
最初のメッセージを開いて、目的地を確認する。空港から三十キロのところにある町だ。空港でレンタカーを借りる。自動運転、ブラックボックス、各種保証付きの神龍か、何にも付いてないが半額のオンボロのシトロエンの二択らしい。デザインは一緒、工場が違うだけ。小型で柔らかい、二百年前、つまりキュートな二十世紀シトロエンのリバイバル・デザイン。予算はあるし安全第一なので、当然、神龍にする。だいたい運転していたらクリスからのメッセージも処理できない。
――――ヴェレスでは、アレクサンドロス大王がちょっとしたブームらしい。現地からのニュース。末裔を名乗っている男がいる。
楓は運転席に座り、自動運転にヴェレスへ向かうことを指示する。車はハイウェイを南下する。助手席には、カウンター・フェイクAIの水晶、トリニティが置かれている。トリニティが楓に語りかける。
(トリニティ)
ヴェレスでは、アレクサンドロス大王がちょっとしたブームのようです。ニュースの映像を映します。
フロント・ウィンドウに小さな矩形が現れ、映像が表示される。繁華街。壁を埋め尽くすポスター。パレードの隊列。青年のバストショット。
ドラマならば、大事なパートナーである人工知性が横から語りかけてきて、必要な情報と適切なアドバイスを伝えてくれるだろう。メッセージを聴きながら、楓はそんなことを空想する。物語が現実と異なるのは、主役が若い独身女性ってことだけではない。現実には存在しない、水晶球に封印されたAI、フェイクAIと戦う使い魔であるトリニティがいつも横にいる。例えば――――
(トリニティ)
ヴェレスへの情報のイン・アウトを分析していたところ、貨幣の流入が流出よりも極端に高いことが分かりました。しかも周辺の都市に比べて、一人当たりの絶対値が高い。この町だけが、潤っているというのは考えにくいのですが、何かが金を一方的に集めているようです。しかし、貯める一方というのも考えにくいですね。もしかしたら、捕捉できていない、地下の流れがあるかもしれません。
一方で意味不明なマイクロデータの出力が高く、これは、他の都市での文書の蓄積に応じて比例――――歴史改変ウィルスがマケドニア全土のネットワークに介入している可能性があります。
空いたハイウェイの三十キロはあっという間で、ヴェレスに到着する。予約を入れてあるのは、市街地のインターナショナル・パレス・ホテル。名前は豪華だけど五階建ての小さなホテルで、とは言えヴェレスではロケーションも設備も最高ランクらしい。
昼前だがチェックインして、そのままレストランで昼食を取る。外を歩いてみるが、特に何もない、寂れた田舎町としか言えない。人口五万人の町なので、そんなものかと思う。目抜き通りを歩いていけば、スーパーマーケット、カフェ、スポーツ用品店、アイスクリーム屋、ピザ屋、その他、昼はシャッターが降りているバーやクラブが点々としているだけ。どれも平屋か二階建ての建物。道の反対側には公園があり、その先に正教会、学校が並ぶ。古い石造りの正教会は街の規模に相応しく小さいが、千年以上の歴史がありそうだ。
店の壁や、掲示板、看板などに同じ図柄のポスターが何枚も貼られている。横を向いたハンサムな青年のバストショット。古代の鎧ふうのコスチューム。何かのイベント、お祭り、そんなポスターにしか見えないが、ヴェレスの住民にとってどのような意味を持っているのだろうか、と不思議に思う。
求める相手を探すにも、昼間は手がかりも無さそうだ。一旦ホテルに戻り、夜遅くにあらためて繰り出す事にする。
深夜近くになって、神龍を出した。歩きで行ける距離だが、使うことになる可能性を考慮してのことだ。通りの一車線は、駐車用になっていて、マニュアルの中古車、つまり自動運転ユニットが外され二十年以上もメンテナンスされて動いているタイプの車が何台も止められているが、そこに混じって、自動運転機能もあると思しきピカピカの長城BMWが停まっていた。車の脇には、いかつい体格の男が腕組みをして立っている。三十メートルほど先まで神龍を走らせ、空いているスペースに停める。さっきの車が気になる。珍しくお金持ち。
腕組みをしている男は、近づいて見れば顔が幼い。まだ二十歳前かもしれない。
「あなたの車?」
「誰だあんた? よそ者だな」
「旅行者よ。アレクサンドロス大王に会いたくて。それで車は――」
「ボスに何の用だよ?」
トラブル防止の歩哨にしては、口が軽い。長城が停車している目の前の歩道には、ナイトクラブが一件。看板は〈タランティーノ〉と書かれている。検索すると百年以上前の映画監督の名前らしい。自称アレクサンドロス大王のコスプレ青年は、この店にいるってことだ。
一階は閉まっている。階段を登って二階が〈タランティーノ〉らしい。重い扉を開けると轟音が耳に飛び込んできた。二十年前の――楓が学生だった頃に流行った――量子音響系ノイズに土俗的なニュアンスを混ぜた感じの音だ。
店にいるのは、車を見ていた男と同様に、随分と若い男女ばかりだった。二十歳前後か、上でも二十五歳くらいだろう。民族が異なると外見では年齢を特定しづらいが、大概の男の子は大人ぶっていても目つきが幼い。教え子たちもここの男の子たちも変わりが無い。民族的にも年齢的にも、明らかに他所者の女が入ってきて、何を言うべきか戸惑っている。楓は無視して奥へ歩いていった。
扉からは死角になっている、店の一番奥の一角に見栄えの良い青年と、取り巻きの女達が群れていた。茶色の巻き毛に明るく青い瞳、口は笑みを絶やさない。着ているのは古代の鎧なんかではもちろんなく、Tシャツに短パン、サンダルばきの、夏の若者らしい格好だ。周りの女達もやはり若く、皆、太股と臍をあらわにして、年は少女という方が適切な娘もいる。テーブルには地元のアルコールであるラキヤと、ワインの瓶が何本も空けられて、マケドニア流のパン、サラダ、肉料理などの皿が、適当に食い散らかされて並んでいた。貧しい町でも一部の若者は稼いでいて羽振りが良い。その代表が目の前の青年なのだろう。
「この店に来れば、アレクサンドロス大王に会えるって聞いたんだけど、あなたの事かしら」
「口が軽い奴がいたものだね。それで、あんたは?」
「長城を見張っている子が親切だったの。九条楓、歴史学者よ」
周りの女たちが、名乗りを聞いて睨みつけてくる。嫉妬や敵対心だけでなく、おかしなものを見る目付き。何だ?
「へぇ、面白いな。歴史学者・九条楓とアレクサンドロスの末裔の対面ってわけだ。僕はアレクサンドル。まあ、大王に相応しい稼ぎと若さと見た目があったから、末裔って名乗ってみた。ちょうど良く名前も似ているし。遺伝子検査とかしてないけど、誰も反対してないんだ。きっと正しいんだろ」
「話がしたい」
「お姉さん、ストレートだね」
アレクサンドルと名乗った青年は、ソファから立ち上がると窓の方へ進んだ。ガラス窓の外にはテラス席がある。窓を開けて、楓を招く。楓がテラスに出ると、アレクサンドルは席に座るよう促した。冷房を効かせた室内と違って、昼の暑さが引いていない。
「それで、本物なの?」
そう訊かれて、楓は面食らった。大学のIDカードでも見せればいいのだろうか。
「お姉さん。もしかして自分がヒロインだって、自覚ないの?」
ああ、そういうことか。自分がアレクサンドロス大王のコスプレを何ごとだと思っている以上に、彼も取り巻きの娘たちも、このコスプレ女は何者だって思っていたわけだ。『歴史学者・楓教授の冒険』はヨーロッパ全域で配信されている。
「恥ずかしながら、本物よ」
「ドラマより随分年上だけど、髪の色は同じなんだ」
前髪の白い一房を搔き上げる。年を取っても、これは変わらない。
「配信されているのは、若い頃に関わった事件を元にしたものよ。がっかりされないよう最初に断っておくけど、相棒のトリニティはいないし、あんなに運動神経良くないから」
「それで、何しにこの町へ? いや答えなくてもいい。お姉さんが九条楓教授なら、答えは決まっている。この町に歴史を改変しようとする何かの痕跡を発見した。だから、こんな田舎町まで来た、そういうことだろう?」
まったく正しいが、それなら自分が有力な容疑者と見做されていることも分かりそうなものだ。まったく無関係なのか、それとも、
「余裕でわたしにそんなことを言えるのは、確信犯なのかな?」
今晩はあそこにいる娘と過ごす約束がある、そう言ったアレクサンドルの言葉に引き下がり、楓はその夜は引き下がることに同意した。連絡の取れるIDを教えてもらい、その場で接続を確認する。別に逃げるつもりも無く、むしろこちらに興味を持っているようでもある。
明けて昼過ぎ、アレクサンドルからの連絡を受けて、楓は町中のカフェで待ち合わせた。と言っても〈タランティーノ〉から五軒先、飲食店が集まっている通りはいくつも無い。
「おはよう、さっき起きて女を追い返して出てきた。まだ眠そうにしててごめん」
「仕事は?」
「昼は別に働いてないし、失業者だから」
「羽振り良さそうに見えるけど」
服装こそ昨晩同様にラフなものだが、長城BMWの価格はこの国の若者が簡単に買えるものでは無い。しかもよく見れば、最新モデルだ。クロムブルクでも数台しか見たことが無い。
「ほとんど自動的にお金が入るようになってるから。誰かが何かを語る、テキストデータが流通する。それを見つけて、修正してやる、上書きしてやる。一日の結果を確認して、修正の対象と方向、何をどのように修正するかのパラメータを調整してやる。紙の本だって売ってる、寄付だって募ってる。言っとくけど、寄付をポケットマネーなんかにはしてないよ。アレクサンドロスは僕だって名乗りを上げて見せるのは、僕が恵んでもらうためじゃ無い」
「国際的に、犯罪よ?」
「この町にだって警察はいるけど、犯罪って、警察が働かないと捕まらないよね? それに、どちらかと言えば味方。同じ世界を見ているからね」
「あなた達は、信じているの?」
「正直に答えると、面白いからやってるだけで、信じてるとか無いね」
「お気楽な犯罪者ね。世界中に繋がれるっていうのは、世界中から監視されているってことなんだけど自覚している? 信じてなくても、十分罪に問える…」
実際、千キロ先から人がやって来る。
「九条楓というのは、本当は欧州警察の人?」
「ただの歴史学者よ。嘘、偽り、修正。前世紀の負の遺産であるノイズの山を掻き分けて、真実を見出すのが二十二世紀の歴史学者の仕事」
「それだけじゃ無いんだろ? あんな活躍、ドラマの中だけってことじゃ済まないよね」
すっかり有名人だな。自分が世間知らずなのか。顔見知りばかりの小国では、ドラマのモデルになったからと言って特別扱いするものも少ない。他国へ出掛ける機会は、出産と子育てで大人しくしていたこの六年間、学術的な集まりばかりだった。同業者の中で多少話題にされることはあっても――歴史考証の誤りへの指摘や、モデルになったことで研究費は稼げるのかと言った話題だ――一般の視聴者の存在なんて意識していなかった。地道に生きてる研究者がセレブみたいに意識するようになったら、おしまいだろうけど。
「作り話よ。それは確かに、似たような事件に関わったこともあるれけど」
実際に、自分がまとめた記事や著書がベースのエピソードもいくつかある。脚本家が書いたオリジナルのエピソードもある。しかし単に、フィクションの派手さだけが、こちらの正体を疑う理由ではないだろう。彼の興味は、なぜ警察や諜報機関の代わりを務めているかだ。
ドラマには欧州警察こそ名探偵の引き立て役を務める刑事のように出て来るが、クロムブルク情報省の存在は描かれない。自由と自治の名の下で若い研究者を集める開放的なクロムブルク大学、六百年に渡る独立の象徴として観光客を呼び寄せるゴシック建築のクロムブルク城、世界中から人を集めるこれら光の裏面には、警察国家の一面が覗く。アレクサンドルは、あのドラマからどのくらい想像力を働かせられるだろうか。
「まあ、いいや。他に話し相手もいない。この町で僕の周りに集まって来る連中は、女も男もバカばっかりだし。僕と同じように稼いでいるのはいたよ。でも、僕が一番稼ぐようになったら、全部敵になった」
「危険はないの? 警察は働いていないんでしょ?」
「そのための取り巻きだし。バカとは言ったけど、無能じゃない。むしろ有能。そういう方面では」
アレクサンドルは、実際、自分の境遇に飽きていたのだろう。昼も夜も、楓と二人で会うようになり、様々なことを話してくれた。昼間のカフェで。ナイトクラブの向かいにある公園で。インターナショナル・パレス・ホテルのレストランで。町の周囲は低い山に囲まれている。その一つに神龍でドライブに出かけもした。
罪に問われる自覚は無いのかもしれないし、罪だの金だの欲だのといった事柄に興味がなくなっているのかもしれなかった。自分自身の将来の境遇を含めて、現世的な価値に飽きて、刹那的にしか振る舞えなくなっているようだった。
刹那的なのは、楓も同じだったかも知れない。ナイトクラブのすぐ近くにある国教会で、〈正史〉の本を配布しているというから手に取ってしまった。ワクチンを過信して良いほど、プロスペロ・ウィルスは甘く無いのに。更新されていくテキスト製の〈正史〉は、目を通すほどに過激な、しかし外野から見れば愚かなマケドニア王国回帰のメッセージを更新していた。
「あなたのやっている事、ビジネスとしてどう思っている?」
「この貧しい町の中じゃ、目の付け所が良かったんじゃ無いかな」
「別に、あなたが初めてでもなければ、競争相手も含めて、新しい何かを産み出したりしてないのよ。単に、昔からこの町の主要産業だったものをコピーしているだけ」
「へえ、あいつは教えてくれなかったなぁ。昔からって、いつ頃?」
あいつって、誰だろうか?
「百二十年ほど昔。フェイクニュースが主要産業になって、稼いだ若者たちがいた。他の国の大統領選挙にも大きな影響を与えたっていう話」
「そいつは知らなかった。まだまだ、僕らのやってることは小さいね」
「大きくしなくていい。犯罪だし、今でもあなたが思っている以上に大事になっている」
「その割に、ここは貧しいな。当時は栄えていたの?」
「当時も貧しかった。二十世紀末にユーゴスラビアが分割して、幾つもの国に別れた時、この辺りは独立はしたけれど何も無い、小さな国だった」
「ユーゴスラビアって? 聞いたことないな」
あれ、なんだっけ? と楓も疑問に思う。二十世紀にそういう名前の国があったはずだ。
不安になって、リース教授に連絡を取った。
「先生……。ユーゴスラビアって、ありましたよね?」
部下にして元教え子の言葉に、リース教授は状況の深刻さを悟り、「教授会」を招集した。
3
クロムブルク大学の広いキャンパスには古く伝統的な校舎から、月面都市逆輸入の最新デザイン、グラナダ派建築までが点在している。そのグラナダ派建築の地上三階建、地下は表向き二階建の情報学部研究棟の、地下五階の会議室の扉に「教授会」の貼り紙が貼られている。
会議室で実際にテーブルを囲んでいるのは、歴史学部のリース教授をはじめとした代表三名、図書館長、情報学部のセキュリティ専門教授、さらに学長の六名と秘書たちだ。
そして、秘匿回線で会議に同席している学外のオブザーバー達の名前と肩書きが、出席者たちが各々の前に広げるウィンドゥの一枚に列挙されている。欧州保存委員会委員ジャン=ガブリエル・シャマユー、クロムブルク情報省技術大尉ドレン・ドロップ、同・調査官クリスティナ・ミハロヴァ。大学からの外部接続者は、マケドニアから報告の任を負っている歴史学講座カエデ・クジョー教授。最後にもう一人、名誉理事長の接続が確認された。クジョー教授以外の外部接続者は、誰も映像を出さずに無言でいる。本当に出席しているのか、実際に聞いているのか否かも分からない。
楓は、ホテルの自室から専用回線でクロムブルク大学へ接続し、出席していた。彼女の報告を出席者全員が待ちわびている。
「ヴェレスでは、アレクサンドロス大王の末裔、大王の再来と祭り上げられている青年がいて、先月パレードも行われています。これはバルカン半島のローカルニュースでは話題になっていたようですが、真剣に取り上げる話題とは見做されていませんでした。あくまで、お祭りの類ということです」
「この青年は名をアレクサンドルと言い、フェイクニュース配信を含めたネットビジネスで生計を立てています。ヴェレスの平均年収の十倍を稼いでいますが、露骨にフェイクニュースと分かる類のものは、違法性はあるものの歴史保存の意味では、実害はまだ小さいと考えます」
「さて、アレクサンドル本人は単なるパレード、アトラクションの類として盛り上がれば良いという考えでいるようですが、彼の歴史観、そして取り巻き連中や町の人々の多くも、世界史の常識から大きく逸脱しています。具体的には、アレクサンドロス大王の時代のマケドニアと今のマケドニアが連続しており、様々な帝国主義集団、すなわちオスマン・トルコ、ソヴィエト連邦、アメリカ合衆国、欧州連合などによって迫害、分裂、搾取を余儀なくされてきたのが自分たちマケドニア人であり、古代帝国の誇りと版図を取り戻すべきだという認識です」
「単に、そのような認識の社会集団が存在するというだけならば危険は少ないのですが、彼らは、フェイクニュースに乗せて、また正史と称するUB製の書物によって、この価値観を拡散させています。さらに、この価値観に反する報道、文書、データに対して、歴史改変ウィルスによるハイスピード修正を掛けていると見られます。ネットワーク上の情報と物理的な書籍の両方を使って、それぞれのタイプのプロスペロ・ウィルスを拡散させようとしているのです」
「皆様御察しのとおり、これらの事を人間の専門家だけで実現することは困難であり、確実にフェイクAIが覚醒し、活動していると見られます。マケドニアA型プロスペロ・ウィルスを拡散している本体、情報省の分析によるとフェイクAIのプロスペロ0型が潜んでいると考えるのが妥当であるとのことです」
楓の報告を聞いて、出席者は皆、沈黙した。二十一世紀後半に生み出されたフェイクAIの真の危険度についても、その停止方法についても、情報省の専門家以外は理解できていないのだ。
「封鎖することは可能なのか? 歴史感染ウィルスの拡散やハイスピード修正、さらにUBの物理的な配布自体ができないように切り離すことは? そのプロスペロ0型というのを停止させない限り、感染が拡まるのだろう。発見するだの、停止なり破壊なり、実現不透明な話よりは、感染ルートを潰していくことが重要では無いかと考えるが」
欧州保存委員会の委員、ジャン=ガブリエル・シャマユーが切り出した。歴史保存を優先させる立場の最右翼の官僚である。
「封鎖も可能でしょう。そのためのコストも、失うものの損失の大きさも考慮しなければ」
情報省のドレン技術大尉が応じる。封鎖という方法には賛成しかねるらしい。
「損失の大きさというのは、何と比べて大きいと言っているのか。クジョー教授の現地報告を聞く限り、むしろ拡散した時の欧州の被害についてリスクを見誤るべきでは無いとみるが」
本来の意味での「教授会」のメンバーは、学長以下誰も反論の声を上げない。クロムブルク大学及びクロムブルク政府が責任を取ることになるリスクを避けたいのだと、楓は理解する。
「まだ、具体的なフェイクAI対策はこれからです。今は、いかに迅速に発見して、対策を取るかを論じる段階です」
回線を通した、楓一人の反論に誰からも反応がない。間をおいて、ジャン=ガブリエル委員が口を開く。
「ヨーロッパ全土をオープンにリスクにさらしたまま、一地方をあるいは町をフェイクAIの感染から救うなどというのは、現実的ではない。そこで動いているプロスペロ0型との接触リスクを、物理的にも情報的にも遮断する方が安全だ。少なくともヴェレスを、最大でマケドニア全土を閉鎖すべき時だ」
「遮断って、閉鎖って何ですか? 物理的にも接触しないというのは、あらゆる物資の流入も止めると仰っていますか? それは、ここに住む五万人を――」
「一都市の、それも辺境の住民を、ヨーロッパ全土と比較するのか」
辺境とみなせる地域の少数の住民ならば、切り捨てれば良いというのがこの会議の総意ですか?
「正しい歴史のために過去の過ちを繰り返すのでは、歴史を守っていると名乗る資格はないと思います」
そんな結論を出してもらうために、ここに来ているのでも、報告したのでもない。悔しさと怒りがおさまらない楓は、個別回線で情報省のクリスティナ・ミハロヴァ調査官と接続し、カメラをオンにして彼女だけに向けて叫んだ。
「クリス! だんまりを決め込むつもりなの?」
情報省調査官クリスティナ・ミハロヴァはカメラをオフにしたまま、何の返答も返さな買った。
「教授会」は欧州保存委員会のジャン=ガブリエル・シャマユーの主張を肯定し、終了した。ヨーロッパ中央の行動については、保存委員会が別途協議する。迅速な決定が下されるだろう。公式には、事件はクロムブルクの手を離れた。
4
九条楓に与えられた時間は、僅かに三日、七十二時間に過ぎないと連絡を受けた。それまでにフェイクAIの実体を探し、停止させなければならない。そうでないと、国境を封鎖して、物資、情報、エネルギーの流入・流出を止める、その帰結として歴史改変の拡散を止めるという欧州中央政府の強権発動。実行されれば、少なくともヴェレスの町は地図から削除される。それでも問題があるようならば、最大ではマケドニア地方全体を削除するというのが保存委員会の決定だった。削除したという記録自体も抹消され、ただ、地図上に空白地帯ができる。
歴史的には地図に載らない町というのは、決して少なくはない。ある国が未承認の国家は、その国の地図には載らない。空白だったり、他国の領土になっていたりする。存在が認められていない場合、実際に破棄あるいは破壊された場合、地図から強制的に抹消することもある。周辺国から存在を知られていない場合、過去にはそういう国も多かった。だが、意図して物質的にも情報的にも交流を止めることで無くしてしまうというのは、けして多くはないはずだ。
内陸の貧困地域の町だ、人口は五万人に過ぎない。封鎖は技術的に可能なのだろう。しかし、それ自体が大量虐殺であり、歴史改変では無いかと楓は思う。
翌日、楓はアレクサンドルの自室に招かれた。集合住宅の一室。狭く、基本的に貧しいと思わせる。稼いだはずの金はどこに使っているのだろう。
「車とコンピュータ、それに借金の返済。あんまり言いたく無いけど、女の子との夜遊びかな」
要は仕事と女遊び。バカだ嫌いだと言いながら、交際費は掛けるらしい。
(トリニティ)
女の子との夜遊びイコール、デートとは言い切れません。
彼の口座を分析していますが、不明な口座や決済システムによる資金の流れがあります。借金の返済と女の子への金遣いに、地下経済とのつながりの可能性。
楓は、真実の歴史を、アレクサンドルに紐解いていった。一つづつ、解きほぐすように。
古代マケドニア王国と今のマケドニア人とはそもそも民族系統が違うこと。その後にやってきたスラヴ人たちは、長いことオスマン朝の支配下にあったこと。長い栄華を誇った帝国が衰退したのち、この地域全体が混乱し、欧州が、さらに世界全体が大混乱に巻き込まれる戦争があったこと。これはアレクサンドロスの戦争とはなんの関係もないこと。その後の統一国ユーゴスラビアと周辺国によって国境は安定していたこと。しかし、世界史の冷戦崩壊によってその国は消失し、小国に分裂していったこと。
そのとき、たまたま昔マケドニアと呼ばれて広い地域の一部を領土とする国家が誕生し、マケドニアを名乗り、ギリシャなどとの軋轢から北マケドニアと国名を変更して落ち着いたこと。それが〈百年戦争〉初期、二十一世紀前半の出来事。
その少し前から、この国、むしろこの町は、世界中へのフェイクニュースの一大発信地となっていた。この前、話したとおりよ。世界最大の国家だったアメリカ合衆国の大統領選に影響を及ぼした。その後もインド総選挙、中国内乱、南米再編、欧州イスラム国の建国と滅亡に関わってきたことが確実視されている。その度に、一時的には利益を得た者がいたけれど、彼らは何か意図した狙いがあったわけではなく、意志を持っていたのはロシアやアメリカや中国だった。どんなフェイクニュースや歴史観の書き換えが行われても、真偽を問い、倫理や人権に照らし、誤りを排除する動きに常に巻き返された。健全なジャーナリズムと「真っ当な」情報産業、正しい世界インフラの勝利だ。
しかしそれも人間対人間の戦いであったうちの話だ。巻き返す間も無く、事実を歪め、真実を破棄し、歴史を上書きする超高速処理システムが生まれた。フェイクAIの誕生。世界中で文書の偽造、捏造、破棄が常態化した。フェイクAIは文書が書かれると同時に偽造文書を作成しネットにばら撒くようになり、その尖兵となる歴史改変ウィルスが蔓延した。電子データのみならず、紙の本すらUpdatable-Bookに汚染された。
「最悪なことに、人間や国家の意思ではコントロールできない速度をそいつらは持ってしまったの。〈百年戦争〉後半の世界は、その混沌から世界を取り戻す戦いだった」
「へぇ。僕の信じている世界、信じたことにしている歴史とは、随分と違うんだね」
アレクサンドルの、そしてヴェレスの町の人々が、今まさに信じている歴史は異なる。古代マケドニアと現代のマケドニアを単純に接続し、同じ民族、同じ国家が続いてきたと考える単純な発想に端を発する。様々な列強、大国、他民族の支配があった。オスマン・トルコ、ソヴィエト、間接的にアメリカ、欧州政府。本来のマケドニアが、周辺の複数の国に引き裂かれているのが現在の姿だ。これらは一つにまとまるべきだし、もちろん、本来の領土は、今のような狭い内陸部だけではない。世界帝国を取り戻す必要がある。
僕らは王国の民なのだから。その、統一と再生の象徴としてのアレクサンドロス大王。末裔である、僕自身。
「それが、あなたの、あなたたちの信じている歴史ね」
そんなもの自分は信じてない。アレクサンドルが醒めた態度で反論する。
その歴史が正しいかどうかって意味じゃなく、それは僕も信じているけど、どうでもよくって、統一とか再生とか素晴らしい未来を描く主張をハナから信じてないって意味。自分が末裔かどうかにも興味はない。
真実だったとして、ただ、血が繋がっているだけだろう? だから何って思う。
ただ、熱狂が面白かったし、バカみたいな男が跪いたり恐怖に硬直するのも、金が欲しくていい思いをしたい女が股を開くのも、血とか本気で意味があると思って欲しがるのも、全部くだらないなりに楽しめた。暴力も恐怖も快楽も精液も望むだけくれてやった。
それで、僕はパーティに飽きた。でも周りの連中は飽きてない、これから盛り上がるつもりの連中が町の外にも大勢いる。寄付と称する金が合法的にも、おそらく非合法的にも流れてきた。金に困ってる奴が町に大勢いるのは知ってる。だから言い寄って来る奴らにはくれてやった。使いきれない分は、あいつにやった。
「あいつ――?」
アレクサンドルはベッドサイドの写真立てに手を伸ばして、楓に渡す。プリントした写真を飾っておくなんて古風なところがある。楓は写真を見ながら、話を促した。
「本気で、統一とか再生を信じていた。他のバカどもとは違った。本気だったし、賢かった。誰に教えられたのか、それは知らない。でも、彼女自身が誰よりも本気で信じて、僕やこの町の戦力になりそうな連中に信じさせようとした。そして、彼女が求める戦場に向かって行った」
写真にはアレクサンドルと女が肩を寄せ合って写り、レンズに向かって微笑んでいる。女は右肩に自動小銃を下げ、左肩でアレクサンドルにもたれ掛かっている。自動小銃は、
六十年以上世界中で使われているベストセラー、AK-174のようだ。
「その時、別れた。ついていけないから。そんな危険な思いをしてなんの意味があるって。でも、止められなかった。大ゲンカして、放り出した。僕があなたのように聡明なら、相手に本気で向き合う意思があったら、止められたかも知れない」
青年のあきらめた態度に怒りを覚える。
「まだ生きているなら、生きて戦っているなら、探し出して再会することもできるし、連れ戻すことだってできるかもしれないでしょう。溢れた金で享楽的に振る舞って、女に振られたって自己憐憫に耽ってみせて、それで生きてるつもりなの? まだ、あなたにできることがあるはずでしょう」
なんで、こんな若い子を相手に、ムキになって青臭いことを言っているのかと、楓は思う。ヴェレスに残ったのは、そんな事のためでは無い。
「まずはこの町を救う。フェイクAIを止める。手掛かりになりそうな事を全て教えて。あなたが歴史改変の中心にいるのなら、大王の血を引いていようがいまいが、この町、この地域、マケドニア全土の命運を握っているのはあなたかも知れない」
◎正教会前、深夜
長城BMWが正教会前の道路に停止する。車から、アレクサンドルと九条楓が降りる。二人の目の前に夜間照明でライトアップされた教会。赤い石を積み上げた、古い様式の正教会。アレクサンドルが前に、後ろに楓の順で、建物の正面扉に向かう。楓の後ろにはハンドボール大の水晶宮が、楓の頭と同じ高さに浮かんでついて来る。正面扉にアレクサンドルが両方の手のひらをかざす。顔は正面を見る。扉が微かに輝き、ロックが外れる思い金属音が聞こえる。アレクサンドルが扉を引くと、わずかに開く。重いため、力を加えても、ゆっくりとしか開かない。
◎正教会
建物の中からのアングル。アレクサンドルと楓、トリニティが入って来る。サングラスのようにスリムな、暗視ゴーグルを二人ともつける。
◎楓の視点、暗視ゴーグル
目の前を歩く、アレクサンドルの輪郭が強調された映像。左右に視界を動かすと、柱や祭壇、聖人像などが映る。そのまま前進していく。
◎正教会、隅の一角
しゃがみこんだアレクサンドル。金属製の取っ手の付いた敷石の前にいる。取っ手を持って、石を持ち上げる。その下には隠し階段。アレクサンドル、楓、トリニティの順で入っていく。石の階段をゆっくりと降る三人。
(楓)
地下は、深いの?
(アレクサンドル)
冥府までは行かない。
◎地下室
階段から、地下室に降り立つ二人。
◎楓の視点、暗視ゴーグル
地上と同等の広さがあることが分かる。何も置かれていない、空洞のような場所。
中央に何か大きな塊がある。
(楓)
トリニティ、光ちょうだい
トリニティが宙に浮いたまま、青白く発光する。地下室全体を隅々まで照らす強度。楓たちの頭よりも高く浮く。中央の塊は不定形に蠢く金属塊。メタリックに黒光りし、パイプのようなものが何本ものたうっている。液晶パネルのような平面が何枚も様々な角度で貼り付いていて、その上を文字が次々に表示されていく。頭上へ何本も伸びるワイアが脈動する。何かが金属塊から頭上へ運ばれていっているように見える。
(アレクサンドル)
トリニティに最大パワーで、ロールバックさせて。僕が取り付く。
(楓)
トリニティ、全トランザクションを強制ロールバック!
金属塊すなわちフェイクAIプロスペロの本体に向けて、トリニティから青白い稲光。ワイアの脈動が、逆流して来る。プロスペロからも赤い稲光が放たれ、トリニティに襲いかかる。実弾のような光も連射されて、楓とアレクサンドルに向かって放たれる。それぞれの方向に、走り、転がりながら逃げる二人。
アレクサンドルは、攻撃の手薄な背面に取り付く。パネルの一枚に指を動かして何か書き、パネルを活性化させる。振り落とされそうになりながら、十本の指をキーボードを叩くように動かす。パネルにアレクサンドルの入力した文字が流れていく。入力を終えてパネルを拳で叩くと二つに割れてプロスペロの内部が覗く。アレクサンドルはそこから中に潜り込む。
断末魔のプロスペロが放つ赤い光。トリニティはそれをふわふわと避けながら、ロールバック攻撃を続けている。
天井を破って、光が差し込む。空からプロスペロを直撃する光。やがて、動きが止まる。体内から、擦り傷だらけで血を流したアレクサンドルが這い出して来る。
画面にMission Completeの文字。
ドラマであれば、スペクタクル映像の大バトルになるのだろう。実際にやっていることといえば、古い教会の地下から直接ターゲットのサーバにアクセスし、有線、無線の全てのネットワーク接続から切り離し、AI本体のソフトウェアを封じ込めて、強制終了コマンドを実行した、といったところだ。
戦った二人は汗だくではあったけれど、埃まみれの血まみれなんてことは無い。情報省の調査官に一報メッセージを入れて、外部からも、ミッションの成功を確認する。完全封鎖のカウントダウンは解かれたと返信がきた。すでに地上に拡散している更新されていく歴史書と人間の神経系に感染したプロスペロ・ウィルスの処理は、欧州保存委員会がトップダウンで各地域の警察組織、時に諜報組織を動かして実行するだろう。北部マケドニア地方一帯、ギリシャ、バルカン半島、さらにヨーロッパ全域へと、影響レベルに応じた対応。適切なリソース配分と倫理的な配慮がなされるはずだ。
楓とアレクサンドルは国教会の建物を出ると、その足で〈タランティーノ〉へ行く。五分もかからない。狭い町なのだとしみじみ思う。二人は、王のために空けられている一番奥のソファに落ち着いた。
「あなたが蓄えている資金も、いずれ底をつくし、アレクサンドロスの末裔という幻想もウィルスごと消えて無くなる。あなたにとっては生きづらいね」
「前にも言ったけど、僕に言わせればこんなの茶番。大王にはなれないけど、代わりに正しい歴史ってやつで、金儲けできないか考えてる。この町に仕事が無いのは変えていかないとね。僕も仲間たちも、世界の歴史を動かした連中の末裔ではあるんだろ? あいつら、プロスペロ任せでやってたわけじゃ無いからね。末裔なりのスキルはあるよ。深圳やバンガロールにだけ、才能が集まっているわけじゃ無いって」
大した自信だ、頼もしく思う。本来のウィルスが人によって感染、発症の程度に差があるように、ナノテク・ウィルスの影響にも差があるかのも知れない。彼は、事件の渦中にいながらプロスペロ・ウィルスに実は感染していないのでは無いか。彼への検査や治療は、徹底的に行われるだろう。私の見立てを情報省は保存委員会に伝えておく必要はありそうだ。
「彼女の居場所、大学に戻ったら分かるかも知れない。知りたい?」
「もちろん」
翌朝、楓はクロムブルクに戻った。
子供たちは元気だった。留守を預かってくれたクリスには、一言、感謝の言葉だけを伝えた。リース教授は何事もなかったように労いの言葉を掛けてくれた。他の「教授会」のメンバーに会って報告する義務はない。自分の仕事に戻ろうと思ったところ、名誉理事長が直接会いたがっていると、リース教授に言われた。大学の名誉理事長、即ち大統領にしてクロムブルク公グスタフ・クロームである。
丁重にお断りしたかったが、どうも許されないようだ。訪問の予定を三日後の夜にさせてもらうことで、なんとか決着した。
放り出した論文の締切は、明後日だ。
エピローグ
夏休みの終わった大学には、世界中から学生が戻ってきた。また、新たに入学するたちも多い。九条楓も新たな学生たちの前で、新学期の講義を行い、ゼミも活況だった。しかし新旧の学生が集うそのゼミに、楓の探す学生はいなかった。
事件は、まだ解決していない。
プロスペロ・ウィルスの感染ルートについては、有耶無耶のうちに、幕が引かれつつある。九条楓もクリスティナ・ミハロヴァもそれで済ませたくは無かったのだが、確かめるべき相手がいないのでは仕方がない。
感染発覚の前日、図書館で楓に話しかけてきたスラヴ系の女子学生は、楓自身がマケドニアへ発ったときには既にクロムブルクから姿を消していたことを、帰国してから聞かされた。陸路をチェコからオーストリアへ向かった後は、行方不明という。二十一世紀に拡大した欧州の境界線は、結果的に大小の紛争地帯を域内に含み、未だに内戦状態と言っても良い。治安維持を名目とした監視とプライバシー概念の対立。各国、各都市の警察能力と犯罪者や犯罪組織の能力の対立。有利なのは残念ながら逃亡者の方だった。
一ヶ月が過ぎ、十月になってから連絡があった。
本人からでは無い。黒海沿岸警備隊からの連絡である。武装勢力の女性兵士の遺品からクロムブルク大学のカエデ・クジョー教授宛と書かれた封書が見つかったという連絡だ。受け取ることを要望すると、翌日、警備隊の士官が大学まで訪れた。
ありがたい事に、封は切っていないという。亡くなった女性兵士や自分への配慮というよりも、クロムブルク政府と揉めたくはないためだろう。ただし、自分にも中身は確認させて欲しいと立ち会いは要望された。同席を認め、封書を受け取る。最悪の事態を想定して情報省のセキュリティチェックを通したが、問題無しの結論が出たので、自分で封を切らせてもらう。中からはプリントされた写真が一枚。
AK-174を型に右肩に下げた女が左肩で男にもたれ掛かっている、男は彼女の肩に手を回し、二人はレンズに向かって微笑んでいた。アレクサンドルの部屋で見せてもらった写真と同じものだ。私宛に何を伝えたかったのかは不明だが――――
「まだ生きているなら、生きて戦っているなら……」自分がアレクサンドルに放った言葉が脳裏に蘇る。
自分もアレクサンドルも、彼女には間に合わなかったのだ。
(了)
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