シネフィル・ヴァンパイヤ

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梗 概

シネフィル・ヴァンパイヤ

 重たい雲が月を隠した。

 今にも降りだしそうな、湿度を含んだアスファルトの匂いが鼻腔を緩ませる。

 深夜上映の映画館を出て暗い繁華街を、男から十分な距離をとって歩いた。昨今この街にも深夜営業している店は少なくなってきている。

 時計屋の角を曲がり少し行くと、小さな交差点に面した、目隠しもブラインドもない店の明かりが目に入る。今どきタバコの看板を掲げたままだ。角の二つの面が大きな水槽のようにガラス張りになっていて、店内のクリームイエローの壁紙から反射した蛍光灯の平たい光が、歩道を緑色に照らしていた。

 男がすでに店内に入り、席に着きカウンターに肘をついているのが窓越しに見えた。タバコに火をつけている。こけた頰、鷲のように尖った鼻。もう逃がさない。

 私にはもう、男を自分が追っているのか、それとも自分が奴に追いつめられているのか、わからなくなってきていた。それほどまでに、自分がその男に固執していることは、自分でも奇妙に思えたが、もうやめられない。奴は死神だ。そんな想念にとらわれてから、もう二週間以上経つ。その男は私で、私は奴だ。奴が私を死へと解放してくれる。

 店内に客は少なく、足を踏み入れるのが少しためらわれたが、そんなそぶりも見せず私はカウンターを進み、男と視線が交錯しない位置に腰を下ろした。

 帽子をかぶったままの男の隣には、いつの間にか女がいた。さっきまでスクリーンで拳銃を構えていた女優のドレスも、モノクロでなければきっとこんな色だったろうと思える赤いブラウス姿の女。

 帽子のひさしが軽く影になり男の細い目がどこを見ているのかはわからないが、店内にいる客は3人だけだ、私の存在には当然気づいているはずだが、顔をこちらに向けようとはしない。

「生憎コックが帰っちまったもんで、でもサンドイッチなら作れます」

 夜勤の年若いマスターにコーヒーを注文し、私は横目で二人を観察した。目も合わせず、話すそぶりもないが、二人は知り合いではあるのだろう。男はタバコを口に運び、女は手持ち無沙汰そうに紙マッチを弄んでいる。かすかに化粧の匂いがする。

 こちらから声をかけようか、それともコーヒーを飲み干して席を立とうか。

 

 ふと音が途切れ、それまで低くジャズが流れていたことに、その時初めて気がついた。

 目を上げると、3人が私を見つめていた。

 そうだ、それを待っている。

 店の照明が消えた。

 外では降り出した雨が、激しくアスファルトを叩いている。

 店のシャッターが、下がりだした。 

 

文字数:1037

内容に関するアピール

 「ナイトホークス」https://www.artic.edu/artworks/111628/nighthawks

 エドワード・ホッパー/1942

 もう十何年も前、自分の居場所が映画館の暗闇くらいにしか見つけられなくて、東京中の小屋を毎日のようにハシゴしていた時期がありました。情報誌で見られる限りのプログラムをリストアップして、渋谷の早朝上映を見たあと銀座で洋画を二本立ち見し、さらに池袋で邦画モノクロ作品の三本立て鑑賞という感じで、最後の方になると、朝見た映画の内容も覚えていないようなありさまでした。あるときは発展場と知らずに入って痴漢にあったり、寝不足で見たスプラッターに貧血を起こして、椅子からズリ落ちたりもしていました。今考えてもたぶん頭がおかしかったのだろうと思います。緩慢に自殺しようとしていたような気もします。

 ある日、どの映画館に移動しても、朝からずっと同じ野郎が、自分と同じようにシートに身を沈めスクリーンを見上げているのが、視界の隅に入ってくるのに気がついて、ゾッとしました。

 その時感じたよくわからない恐ろしさが、そんな生活から足を洗う契機となりました。今でも、あれはもう一人の自分だったか、死神だったのかだろうと思っています。(助け上げてくれたのかもしれませんが)

 映画館の闇に身を潜めている、都会でひっそり暮らす異界の人たちの姿を、ホッパーの絵のようにおしゃれではなかったけれど、あの頃の孤独だった記憶と重ね合わせて描こうと思います。

文字数:634

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