梗 概
聖域
洞窟の奥にライトを当てると、水溜りの向こうで逃げ場をなくした獣じみた人物を春人は見つけた。
〈ようやく見つけたよ…、圭人兄さん〉
安堵とも、悔恨とも言えない複雑な感情が春人の胸を締め付けた。
7年前に失踪してからいったいどれくらいここでこうして生きてきたのだろう。長く伸びた髪の毛と髭が顔の周りを埋め尽くしている。それもライオンのたてがみのように勇壮であればいいのだが、圭人の場合は地面を引きずるまでにだらしなく垂れ下がっている。もはや手足の爪は人間のものとは思えず、ひとつひとつが分厚く盛り上がり、鋭く尖っている。そのように自分が磨いているのか、それとも7年という年月が爪をそのように変えてしまったのか… もうとっくに2本足の歩き方を忘れたその体つきは、腕も足も隆々と筋肉がつき、背中は異様に盛り上がっている。人間的な体の動かし方をしていればこんな筋肉のつき方はしないはずだ。
「兄さん、話をしようよ」
と話しかけても、圭人は驚嘆の眼差しをこちらに向けたまま、微動だにしない。
「ようやく出会えたというのに言葉もわからなくなってしまったのか。兄さん、俺が兄さんを人間に戻すよ。時間はかかるかもしれないけど」
春人は優しく微笑みかけ、
「それとも俺が獣になろうか?」
とおどけて言うと、圭人は威嚇するように口を開き、低い唸り声をあげた。
「人間の兄弟、獣の兄弟、どっちがいい?」
春人は着ていた衣服を脱ぎ捨て、裸になった。
膝をつき、手のひらを地面につけるとひんやりと冷たい。
春人は兄の様子を窺いつつ、四つ足でじりじりと歩み寄った。
手を伸ばせば兄に触れられそうな距離まで春人が近づいた時、圭人が春人に飛びかかり、首筋に噛み付いた。その獣の獰猛さで食いちぎらんばかりに。
春人は一瞬の恐怖に、死んだ、と思った。しかし、首筋に感じたのは、生温かく柔らかい歯茎だった。
「歯がないじゃないか」
春人は兄の顎を掴み、力づくで首から引き剥がした。
圭人は水溜りに浮かぶ自分の顔にもう一度驚嘆の眼差しを浮かべた。それは自分に歯がないことを見てとったからなのか、それとも水溜りに映る獣の存在が不思議でしょうがないからなのか…
いや、俺と再会して人間の知覚をほんの少しでも取り戻し、獣である自分に戸惑っている、そうであってほしいと春人は思った。
「俺はなにもしないよ。俺も裸だ。獣の暮らし方を教えてよ。その代わり、俺が人間の暮らし方を少しずつ兄さんに教えるよ。ギブアンドテイク、それでいこう」
春人はライトを消した。そうした方が兄と心を分かち合える、そんな気がしたのだ。
洞窟の中は苔がむしているところもあり、湿っぽい。
音のない暗闇に、夜空の星のようにエメラルドの輝きが点々と浮かび上がった。
〈ヒカリゴケか〉
春人は圭人の方を向いた。
〈兄さんは十分罪をあがなった、俺はそう信じてる〉
「戻ろう、人間に」
春人は圭人にそっと囁きかけると、エメラルドの星々が涙で滲んだ。
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内容に関するアピール
作品名:ネブカドネザル
作者:ウィリアム・ブレイク
この絵画は旧約聖書のダニエル書にあるネブカドネザルの伝説を題材に、「道徳の腐敗と獣性の出現」を描いています。ネブカドネザルはバビロンの再建などけっこう頑張った人なのですが、後年、権威を誇るあまり発狂し、草を食べる雄牛のように生きることとなりました。しかしその7年後にエホバがその発狂から救ったということです。
今回の物語の場合、学校や会社などでいじめをしている様々な人に奇病(獣化してしまう)が引き起こされるという社会現象がベースとなります。圭人と春人は血の繋がらない腹違いの兄弟です。圭人は高校1年生の時にクラスメイトにいじめをしていたのですが、突如奇病が発症し、失踪します。当時中学2年生だった春人は高校卒業後に奇病専門のフリージャーナリストとなり、様々な奇病患者やその家族への取材を行い、奇病の解明に全力を注ぎながら、兄の行方を追います。
文字数:396