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するりとズレる〈猫〉のあしどり―『プレーンソング』を読む

1 日常のヴァイブレーション
保坂和志の小説は、一見したところ何も起こらない日常の時間をダラダラとした筆致で写し取ったかのように見える。反面、保坂和志の小説は、日常の「ある」を揺らがせる「なる」の運動を喚起せずにはいられない。例えば。

歩きはじめると全体がよう子のペースになる。・・・・・・よう子はだいたい道の真ん中を歩きながら堀の隙間や屋根の上や木の枝に休みなく目をやりつづけていて、そのまわりでアキラとゴンタが先に行ったりうしろになったりしている。ぼくたちはよう子という母猫を中心にした子猫の家族のようになっていた。(『プレーンソング』p167)

猫を待ち続けるよう子は「じいっと獲物を待ち伏せしつづける習性」(p120)を持った猫のようになり、キャットフードの「箱を開けて中身をカリカリと音をさせて食べはじめ」(p165)すらして、今度は歩くと「ぼくたちはよう子という母猫を中心にした子猫の家族のようになって」(p167)いる。こうした「なる」への力学は、保坂の小説に繰り返し現れる。

彼の小説の人物、あるいは語り手はいつの間にか私ではない「何か」に「なっている」のだ。これはどうしたことだろう? もし保坂の小説が何も起こらないではないにしてもわたしたちが過ごす日常の起伏を超えない程度には何も起こらない日常をありのままに写し取っているのだとしたら、これほどに奇妙な日常はない。なぜなら、「よう子」がいつの間にか家にやってくる猫に気がつけば感染してしまっている、つまりはそれそのものに「なっている」のが「何も起こらない日常」ということになるのだから。

ここには、語り手の「私」が日常を写実しているのではない、日常が「私」に写実されるのだという逆説が潜んでいる。日常はヴァイブレーションを起こす。私を震わせる。そして、私は私ではないものに「なる」のである。こうした「なる」への通路は、「私と世界」「言葉と風景」「現在と過去」「人間と猫」「生と死」「こことあそこ」といった〈ズレ〉の空隙によって呼び起こされる。その全てを本稿でカヴァーすることは残念ながらできない。しかし、『カンバセイション・ピース』がほとんど『プレーンソング』の裏側であり、「世界を肯定する方法」の萌芽は、奇しくも『プレーンソング』に現れたあの一匹の猫によってみちびかれている、とこれから筆者は言いたいと思う。

2 猫の身振り
保坂和志は猫が好きだ。

いや、「好き」という一語で語ることがはばかられるほどに、保坂の執筆活動と「猫」は切っても切れない絡み合った関係でつながっている。猫がでてくる代表作だけでも『プレーンソング』『草の上の朝食』『もうひとつの季節』『猫に時間の流れる』『生きる歓び』『明け方の猫』『カンバセイション・ピース』『未明の闘争』などがあり、エッセイにも度々登場する。猫から「書く」ことの生命力が流れ込んでくるかのような印象すら受ける。そして、「猫」は実際に保坂が「書く」原動力にもなっている。

(猫の)ペチャが生きてくれた感謝から『人が死なない小説を書こう!』と思って、私はデビュー作『プレーンソング』を書き始めた。(『猫の散歩道』「我が家の猫たちの歴史」p32)

保坂における「猫」は一種、神秘的な雰囲気すら漂わせるが、そもそも保坂自身が繰り返し語るように「猫を比喩として使わない」というルールのもとで『プレーンソング』が書かれたわけであり、猫の隠喩系―猫が象徴する意味―を読み解くことが本稿の目的ではない。

とはいえ、犬や白鳥やクジャクという語がそれぞれ要請する意味のベクトルがあるのと同じように、「猫」の語が要請する意味のベクトルはあるだろう。これはある意味、至極当然の話で、もしも『吾輩は猫である』が『我輩は犬である』であったら、あるいは『猫町』が『犬街』であったらどうだろう? 両者の「話」の輪郭は私たちが知っているそれと同一のものだっただろうか?

そんなことはありえない、全く別物になっただろうというほどの意味で「猫」の語がもたらす意味のベクトルは無視し得ない。だから、繰り返し現れる「猫」は何らかのかたちで小説の時間に介入して影響を与えるファクターとみなしうるものであるのだが、一方でそれは『吾輩は猫である』が擬人化のレトリックに基づき、『猫町』が猫を隠喩的に用いることで象徴化=抽象化してしまうのとは真逆の介入、隠喩にもとづく解釈の機制を作動させるのではない「猫」の具体的身振りそのものが小説の時間性を誘発していく介入の仕方なのだ。

3 〈ズレ〉の運動/『プレーンソング』-1
猫の具体的な身振りが誘発する時間とは、どのようなものなのか? 保坂のデビュー作『プレーンソング』(1990年)の冒頭より。

アルミサッシの引き戸を開けて掃除機をかけていると、子猫がそこにちょこんといて、ぼくのやっていることを見ているのに気がついた。・・・・・・それがサッシのところから首だけ覗かせてぼくのことを見守るようにしている。その真ん丸な目をぼくからそらさずに見ているものだから、ぼくも一瞬子猫と見つめ合うかたちになった。それでも子猫は僕を見つめつづけているからぼくに好意のようなものがあるのだと思って、掃除機を止めてかがみこみながら近寄ろうとしてみたけれど、動いた途端に子猫はすっと首をひっこめて消えてしまった。(p10)

『プレーンソング』は、部屋を借りて一緒に住むはずだった女の子に引っ越し直前で振られた「ぼく」が、ひとり暮らしには広すぎる(ことになった)2LDKのスペースに入れ替わり立ち替わり現れる個性的なメンバーと奇妙な共同生活をおくる様を淡々とあるいはダラダラとした筆致で描いた小説だ。そのみずみずしい若者たちのやり取りは、当時のリアルを惜しげなく記録しているように思えるし、同時に大きな物語が終焉を迎え、生き方の規範が失われた後に続く90年代的な「終わりなき日常」を生きる若者たちの新しい生き方=リアルを予感させる。といった読み方は、基本的に間違っている。

どれだけリアルであるかどうかといった「人間」への近似値を測定するよりは、何らかのクライマックスを導くわけでもない「猫」の出現/消失のリズムが、いわゆる「物語」に変わる継起的な時間の生成をうながす点に注目すべきだし、その時間がどこへわたしたちを連れていくかを読まねばならない。

「ぼく」の前に現れた「子猫」は引用文にあるように、「何かをしていると―やってきて」、「近寄ろうとすると―消えてしまう」。「ぼく」が猫との距離を縮めようとすると、猫はさっと逃げるのであるから、結果的に「ぼく」と猫とのあいだには見えないスペースが存在しはじめる。このスペースは猫の出現/消失の身振りが生み出す間隙であり、「ぼく」が猫のスペースに足を踏み入れると、その分だけ猫は後ずさり、またそのスペースに踏み込もうとすると、その分だけ猫は後ずさる。〈ズレ〉は間隙=スペースを空ける。「ぼく」と猫は、一定の緊張感のもとでそのスペースを保ちつづけながら〈ズレ〉が〈ズレ〉を生む〈ズレ〉の運動を生じさせる。

「ぼく」が「ツュッツュッ」と猫を呼ぶ音とさっと逃げる猫の〈ズレ〉の運動と連動するように、『プレーンソング』の時間の上には「ゆみ子との電話」「競馬場での会話」「部屋に転がり込んでくるアキラや島田」といった断片的なシークエンスが現れては消え、現れては消える。それはいわゆる物語の時間とは異質なものだ。

物語とは、日常の安定性を脅かす大きな欠如を回復することを目的として機能する時間のことである。いささか単純な例ではあるが、お姫様がさらわれ日常が脅かされたからこそマリオは日常を回復するためにピーチ姫の救出へ向かう。仮に、さらわれたのがクリボーで、マリオにとってクリボーが「大きな欠如」でないかぎりは「救出」へ向かう物語が動き出すことは無いだろう。

『プレーンソング』に、こうした意味での物語はない。つまり日常の安定を脅かす大きな欠如は主人公の「ぼく」にも、どの登場人物にも、どの出来事にも見当たらない。その代わり、読者が追いかけるとふっと消えるシークエンスが配置され、読者とシークエンスの〈ズレ〉を孕んだ追いかけっこが、一定の緊張感のもとで読書の時間を運動させる。この出現/消失のリズムは、シークエンスとシークエンスのあいだが二行の改行を持った空白で示されることでも強調される。1・2・3・4と続く起承転結に従っているというよりも、横並びに置かれたブロックの一つ一つを追っていくという感覚を読者に与える。

なにより、この〈ズレ〉の運動は、より本質的には登場人物の言葉(セリフ)の出現/消失がもたらす時間に内在している。「ぼく」の住む部屋にはユニークな友人たちが現れる。読者は彼らのおしゃべりが特にオチもなく続けられる様を聞いていくのだが、それぞれが「空気を読む」なんてことはせずに、個別独特の自分ルールに則って喋りだすことで、一致を持たない複数の声のリズムが立ち上がる。

「アッ、アッ、頭に陽が当たるッ、/アッ、アッ、アーッ、/アッ、アッ、熱い、/熱い、熱いゾ、焼けそうダッ」と歌って居候の身でありながら海へ旅行に連れていくことをせがむアキラ、そのアキラがナンパして連れてきたキャットフードを食べにくる猫をみつけることに熱中するあまり(?)自分もキャットフードを自然に食べてるよう子、背広だけ脱いでワイシャツを着てネクタイをしめたまま1周間は風呂に入らない自分自身に無頓着な存在感がおかしみを感じさせる島田、8ミリビデオをふわふわと動かしながら回し続け「ただ時間が経っていく」ことを映そうとするゴンタ。それに、競馬仲間の石川さんと三谷さん、大学の同級生で「猫」の相談をきっかけにいつも独特の切り口で突飛なアドバイスをくれるゆみ子。

こうした好き勝手な彼らのおしゃべりは、猫的運動性のリズムとも言いうるパッと現れスッと消える言葉の連鎖反応を起こすことで、読者とのあいだに〈ズレ〉の運動を喚起し、読むという行為そのものがそのまま小説の時間となるのである。

しかし、その内容に目を向ければ、『プレーンソング』は単に何気ない日常の群像劇であると言えば言えてしまうのだが、一方で、この日常にはラストの海のシーンでアキラがしきりにつぶやく「いいねえ、海って」に凝縮されるように世界そのものへの肯定感が通奏低音として流れている。この世界を肯定する感覚は、(小説内で)そうと明示はされないが、このあとにつづく保坂作品に陰に陽に織り込まれる感性だと筆者には思われるが、いまはこの「世界の肯定」が一体どこからやってくるのかを、少しまわりみちをしながら訪ねてみることにしよう。

4 知覚の宙吊り/『プレーンソング』-2
困ったときの相談相手は、やはりゆみ子だろう。

二度目に会ったはずの「猫」が妙に警戒心を働かせていたと相談されたゆみ子は「よく似た茶トラが、二匹いるんじゃないの」(p51)と、これまた的を得ているようで奇妙なことを言い出す。ゆみ子の言う「よく似た二匹」という言い方は芥川が自身のドッペルゲンガーに会ったから死んだという都市伝説を思い起こさせる、つまり存在/不在の境界線をひどく曖昧にする。その後にゆみ子は「猫って、一匹だけ選び出すのって、できないんだから。猫はつねに全体なのよ」とまで言うのだが、これを字義通り受け取れば、いま見えている「この猫」は、いま見えていない「無数の猫」であり、見えている「この猫」を見ることは、見えていない「無数の猫」を見ることである。どういうことだろう?

すぐさま指摘できるのは、ここにも〈ズレ〉が生じている、ということだ。〈ズレ〉の運動は間隙=スペースを孕む。であれば、見ようとして見えている猫と、見ようとして見えていない猫を知覚しようとする「ぼく」の知覚は二つの知覚に分かれて、二つの知覚は「いま見える猫/見えない猫」を「見ようとする」と「見える/見えない」の4パターンのズレを孕んだ現前性のあいだで宙吊りになる。ならば逆に、知覚のズレが宙吊りになる空白地帯では、「見える猫」も「見えない猫」も、それらの現前は等しく存在しはじめる、とも言えるのではないか。そしてそれは、私が見ている/見ていないとは独立した猫の存在を息づかせ始めるのではないか。ゆみ子はそうした世界への態度を教えてくれているのではないか。

〈ズレ〉について逆から光を当ててみよう。〈ズレ〉が孕むスペースは能動的に行為する主体の前には現れることがない。なぜなら、目的を見すえ向かって動くときには、目的以外のものは見えないからだ。能動的な行為の主体は、猫が逃げれば全速力で追いかけ、あるいはハンターさながら罠を仕掛けて生け捕りにする。そして、猫とわたしとの〈ズレ〉を抹消して対象との距離を零化することを目指すだろう。言い換えれば、猫をわたしにとって価値のある存在と一致させようとするのである。

つまり、能動的な主体あるいは主人公と名指される彼は、わたしにとって価値ある存在としてしか猫を認識することができない。「見える猫」だけが彼が触れられる猫である。猫をわたしの認識と独立した存在として存在させることができないのだ。

だから一貫して猫にえさをやって友人たちの話を聞くくらいで何もしていないように見える「ぼく」は、実は何もしないということをしている。わたしと一致しない、わたしの認識とはズレる、わたしに見えていない猫が確かにある。こうした世界への態度は、主人公の持つ能動性を切断することでしか、捉えることができない。言い換えれば、わたしと〈ズレ〉つづける空白地帯においてはじめて「見える/見えない」「いる/いない」を含みこんだ「存在」を触知することが可能になるのだ。

こうした事情が〈ズレ〉の運動がもたらす空白地帯に留まりつづける「ぼく」の無為な態度を決定づける。それは能動的な主体(物語の主人公)が決して気づけない、わたしと〈ズレ〉つづける世界そのものに触れる目をもたらすのであり、つまるところ、わたしと一致することのない自由な猫の存在を息づかせる、世界を肯定する態度なのだ。

5 存在の触知/『プレーンソング』-3
「ぼく」はこんなことを言う。

新しい四分の一はまた間違いなく猫が食べると思うと、キャットフードで見えない猫たちと密かな交信をしているような気持ちになってきた。(p55)

見えない猫たちとの密かな交信。

「ぼく」がこともなげに実践しているそれが、実は二重化された〈ズレ〉が準備する空白地帯によってはじめて可能になるというのは、いまや明白だろう。猫の運動性が「ぼく」とのあいだに孕む〈ズレ〉と、猫への知覚が「見える猫」と「見えない猫」とのあいだに孕む〈ズレ〉。この二つのズレは、それぞれ空間と知覚を〈ズレ〉を孕んだ「空白地帯」の「空間と知覚」へと変容させ、ついには、ここにいる猫(見える猫)とここにいない猫(見えない猫)を同時に含んだ世界の側に存在する猫を息づかせる。どれでもあり、どれでもないことによって、それを見る、のである。

猫をめぐる二つの〈ズレ〉が孕んだ空白地帯の原則は、「ぼく」の部屋にも胎動している。だからこそ、「ぼく」の友人たちはてんでばらばらに〈ズレ〉を保ったまま「ぼく」の部屋に同時的に存在しうるし、それは「どれでもあり、どれでもない、それ」として肯定されうる。そして『プレーンソング』は〈ズレ〉を駆動し続けることで、いつしか「わたしと世界」の境界線を宙吊りにし、あるいは本を読み「認識する読者と認識される登場人物」の境界線をも宙吊りに、ただ「ある」としか言えない美しい光景を立ち上げる。

アキラの念願叶い海へ旅行に出かけた五人がゴムボートに乗って、沖へ出る。

「ねえ、海にいると暑くないんだねえ」
「あ、そうね」
「水の上はやっぱり涼しいのかなあ」
「でも涼しくはないよ」
「暑いのがいい感じに感じられるんじゃないか」
「あ、でも風が吹いてくるとやっぱり涼しい」
「気持ちいいって言うんじゃない?」
「涼しいから気持ちいいんだろ」
「ちがうよ。気持ちいいのは気持ちいいんだよ」
「や、そうかなあ」
「気持ちいいねえ」
「いいねえ、海は」
「おれたち、どの辺にいたんだっけ」
「あのビルの辺だろ」
「ビルって?」
「屋根の緑のやつ」
・・・・・・こんな調子で二日間が過ぎていった。
(『プレーンソング』p212)

ざわめき。剥き出しのおしゃべり。この描写は(中公文庫版で)15ページ続く。ここでは、まるでゴムボートに揺られる五人のおしゃべりそのものが「海」そのものであるような印象すら受ける。いや、実際にこれは「海」なのだ。いや、確かに海の揺れはおしゃべりの揺れと共振するものであるが、ある意味ではゴンタが「時間がただ経っていく」というときの時間そのものでもある・・・・・・だから、ここでもう一度、あの一匹の猫から始まった〈ズレ〉の運動を思い出す必要があるのだが、これをより濃密に思い出すためには、一度、保坂の換喩的文体について触れねばならない。そして、「なる」から「ある」へといたる道筋を示してみよう。

6 換喩的文体/『季節の記憶』
保坂の文体は『プレーンソング』以後、明らかによりダラダラしはじめる。もちろん、ダラダラしているとは正確でない比喩で、物理的に言えば、ワンセンテンスがどこまでも長大になっていく。『季節の記憶』(1996)の散歩のシーンから一例をとろう。

歩いているあいだ休みなく聞こえているのは足元の厚い層になっている落ち葉の立てる音で、落ち葉の音は夏や秋のからだに触れる低木の葉の音と違って乾いて硬質で、冬の山の道は秋までのような湿気のあるカビ臭いような土のニオイはしなくなっていて、そのかわりに乾いた木の枝の表皮のようなニオイになっていた。/といってもそれはこっちが漠然と想像するイメージというか置き換えで、実際には何のニオイかわからないというか、それが冬の山道にあるもの全部が合わさったニオイなのだろうが、山の道を歩いているあいだ、足許や歩く先や音のした方に目を動かしたり木の枝の向こうにあるものを覗き込む目の動きが子供の頃に感じた楽しさで、そういう目の動きよりも途切れずに山の道を歩いているあいだずうっとつづいているのが山のニオイで、この山のニオイが子供の頃に感じていたものの主低音のようなものだったが、しかしそれが本当に子供の頃のものかどうかはわからない。(『季節の記憶』p284-285)

句点は「/」を入れた部分の一つのみ。どうしてこんなに長くなるのか? 結論から言えば、保坂の文体が分割不能な現実を〈ズレ〉を介してまさぐる文体だからである。

〈ズレ〉とはある意味で、その対象を触知的・具体的に辿り直すことである。これをロシアの言語学者ロマン・ヤコブソン(1896-1982)に即して換喩的方法ということができるだろう。ヤコブソンはギリシア時代に端を発する(ここでもアリストテレスが『詩学』と『弁論術』でもって体系化した)伝統的レトリックのなかでも極めて曖昧にしか定義されていなかった「換喩」のレトリックを「隠喩」と対置させ、「換喩」を隣接性に基づく比喩、「隠喩」を類似性に基づく比喩と再定義した。しかし、この定義も佐藤信夫や樋口桂子といったレトリックの専門家によれば疑問点も多くあるようだが、ここでは、樋口が『イソップのレトリック』で提示した次の定義を参照しておこう。

換喩は、抽象的なことがらや事件もまた、もともとは現実的な、手にとることのできるものごとの総体であることを思い起こさせる。・・・・・・換喩はすぐれて知覚的な転義法である。換喩は現実物(もの)によって言葉を置き換えて行く。こうして、ものを言葉と化す。(『イソップのレトリック メタファーからメトニミーへ』,勁草書房,1995,p34・p58)

換喩はものごとを感覚的/触知的に特徴のある細部から喩えることで、触知的な了解を生み出す比喩である。例えば、落胆を「肩を落とす」で喩えたり、大臣になることを「大臣の椅子に座る」で喩えたり、といったように。言うなれば、換喩的方法は意味的に分割された世界を、具体的に触知される感覚へと引き戻し再-体験する方法である。

以上を踏まえて、もう一度、保坂の文体に注目してほしい。これは風景描写であるのだが、この部分で対象化されているのは主に「山のニオイ」である。さて、それでは「山のニオイ」をわたしたちはどのように写実するだろうか? と問われれば、まるで困ってしまうだろう。もちろん、ニオイは視覚的に分析不能な対象だからであり、引用文中に「子供の頃に感じた楽しさ」とあるように、それは今現在のことでありながら過去の記憶でもあり、またニオイそのものは科学的単位のような厳密な定義を持たず、むしろそこで感じられる音や空気感や見えるものといった多様な知覚と絡み合ったものとしてしか、「それ」そのものとして存在しない。つまり、「山のニオイ」は「ニオイ」というカテゴリーでは記述不能な、もはや「それ」としか言えない「それ」としてあるはずなのだ。では、「それ」とはなにか? それに答えることはできない。「それ」はわたしの認識とは独立して存在するからこそ「それ」であり、言葉と「それ」のあいだには常に「ズレ」が生じざるを得ないからだ。

だから、こう考えるほかない。

辿り直すのだ。一語で言い当てることの出来ない「それ」を、換喩的方法でもって具体的に触知される感覚へと言葉を引き戻し、「これ―それ―あれ」と動きつづける流れのなかに放り込み、読者がそれそのものを再-体験することでしか、「それ」が現前することはない。つまり、「それ」に「なる」こと。

したがって、「山のニオイ」には引用文の全てが含まれているのであり、主体の最終的な判断を限りなく遅延させるためにこそ「句点」は打たれない。「それ」が、より豊かな「あれでもあり、これでもあり、それでもあり・・・・・・」を含みこむことができる余地を与えるのだ。換喩的な〈ズレ〉の運動は、わたしの認識と一致し得ない独立する巨大な世界の空白と触知的な感覚の自由を招き寄せる、世界そのものを肯定する原理なのである。

これが、あの海でのざわめきが「ある」としか言えない理由であり、換喩的な〈ズレ〉の運動は、それをたどるものを、いつのまにか「なる」へとみちびき、「ある」を現前させるのである。

文字数:9131

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