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「花揺れ土呟く」保坂和志を読んで~小説家の観方~

小説を読むとは、その小説とお付き合いすることだ。作家のペンが紡ぐ時間に付き合う。

文學界八月号に掲載された保坂和志の創作「花揺れ土呟く」を数行でも読み始めた時、こういった創作作品との交流時間がどのようなものになるか正直何もわからなかった。言うまでもないが文學界とは文藝春秋の発刊する雑誌であり、間違っていなければ掲載作品に関するあらすじもなければ書籍のような帯もない。これを読む前にも保坂和志の作品としては「プレーンソング」と「小説修業」を読んだ後ではあったが、まだ保坂和志という作家の輪郭のようなものはほとんど生まれていなかった。恐らくこの作家は小説がとても好きであり、型にはまったようなものや、わかりやすい謎解きのようなものは書かないタイプの作家であろうという程度の認識は持つことができたので、それを頼りにこの雑誌掲載の小説に向き合った。結果的にこの小説とのお付き合いとはどのような時間となったか。

最初のパラグラフを見てみよう。

 

事のはじまりは私は鎌倉の駅から長谷の実家へ帰るため、海に近い道に遠回りしていくことにすると私は足にはじまり体がひどく怠いことを自覚した、私ははじめ風邪の前兆なんだと思った、実際実家に帰り父の墓の掃除に行くつもりだったがその気になれずソファにもたれるとそのままうとうとした、傍で母はテレビを見ながら何かさかんに私に話しかけるのだったが私はそのまま眠った、私は結局眠れず目を覚ましたつもりだったが母は十五分くらいは寝てたと言った、とにかく起きると体は軽くなっていた、風邪の気配はどこにもなかった。

 

わかるように読点は最後のひとつだけである。この間、読み手側に何らかの考えを挟む余地が少ないことを感じるだろう。文の進行はゆっくりではあるが、こちら側に是非を問いかけたり反芻したりする隙間を与えない。語り手の話は一気に読み手側に流れ込んでくるので、この作者との交流は「やりとり」ではなさそうだと予感する。この小説に描かれた世界に対して、こちら側の思考をストップして深呼吸を挟み込むようなことは難しそうだと感じるのである。ひとつの壺の中に放り込まれた物語の紐はずっと繋がっていて、それを書き手がするすると引っ張り出すように物語が途切れないで続いていく。

実際、最初から最後まで読んでみると、ところどころでシーンが切り替わったり入れ替わったりするが、流れはずっと一続きであり、読点は通常に比べてはあまり打たれず、書き手の意識が次々に流れ込んでくる。思考や記憶、視覚的な映像の反芻が連続し、数か所に筆者の意見が挟まる。しかし、保坂和志は読み手に何かこうあるべきだろうという提案はしない。たとえば、この「花揺れ土呟く」の中にある、ヒマラヤ杉が切り倒されたり建物が壊されて空き地になったりする場面においては、破壊や喪失といったものを主題として戒め的に読めそうにも思えるのだが、実際には特にその出来事をセンチメンタルに扱ってはおらず、破壊すべきではないという結論に導きはしない。引用してみよう。

 

百年ここにいたか、二百年ここにいたか、もっとずっと前からか、案外百年以内だったりして? そんなことはない、ヒマラヤ杉はこのあたりの誰よりも年長だった、大きなノッポの古時計の比ではない、そのヒマラヤ杉が、カラスの巣があってうるさいと近所から言われたからというだけの理由で伐られた。

 (中略)

 近所のそいつはヒマラヤ杉をこの地域のシンボルと思わなかった、顔を見てみたいが口はききたくない、あのヒマラヤ杉がなければここはただ家がごちゃごちゃ集まっただけの住宅街だ。

 (中略)

 そしていよいよヒマラヤ杉が見えていた場所に来て見上げるとヒマラヤ杉はない。

 空が予測に反して広がっているのが見えたとき私は思いがけずせいせいした。私は父なるものという比喩を考えないわけにはいかなかった。守ってくれる? そこの中心? つまりシンボルということだろうが、なくなってみたら空が広がってせいせいしたのだった。

 

このように、まずは余剰感のある「怒り」でもってヒマラヤ杉が伐られたことを述べた後、伐られた後のそのあたりの価値を率直に述べ、しかし、最後にその伐採後の空き地に立って「せいせいした」という。これは「怒り」と「せいせいした」ことが一人の人間の中に共存しているのであり、父親の圧力から逃れたい息子のアンビバレントな心理を象徴しているとも読めるが、どうあれ、この出来事に良いか悪いかの判断をしない。させない書き方となっている。

保坂は小島信夫との共著である「小説修業」の中で、以下のように述べている。

 

「私はただここにいる。それでじゅうぶんじゃないか」

という人間観は、思えば私がデビュー作の『プレーンソング』以来、ずうっとこだわってきたことでした。

 

なるほど、ヒマラヤ杉を伐ることの善悪を問うのではなく、時の流れに身を委ね、そこに起きるアンビバレントな感情もそのまま受け入れる姿が描かれるのは、この人間観に基づくものではないか。

「私はただここにいる。それでじゅうぶんじゃないか」という叫びは禅の悟りのようだ。しかし本当の悟りであれば「私はただここにいる」だけで終わりであろう。その続きに「それでじゅうぶんじゃないか」という叫びがあるから芸術作品となる。叫びがなければ芸術など生まれない。だから「それでじゅうぶんじゃないか」を示そうとするところに保坂という芸術家の技巧がある。一般的な文法のルールに従ったりせず、むしろ勇気をもって裏切っていこうとする技巧、たとえば句読点の打ち方から始まる独自性においても、静かな反逆の技巧が見られるのだ。それはまるで「私はただここにいる、というのを示そうとするならば、小説の在り方は、今ある通りではじゅうぶんじゃない」と主張しているようだ。その随所にみられる反逆の技巧は読者にも自由であれと訴える。もっと言えば、自由であらねばならないことを伝えようとする不自由につかまってしまった芸術家の苦悩にさえ思える。つまり保坂はむしろ芸術家としては「ただいる」だけではいられなかったのではないか。

「花揺れ土呟く」は「私」という一人称で書かれ、作者とイコールとも考えられる人物の視点から眺めたことで埋められている。何かどこかで聞いた話だとか、自らが作り出した話を語るのだが、といった体裁をとってはいない。だからと言って事実を単にジャーナル的に書き取っているものでもない。保坂の眼を通してみた小説世界を写し取るように書かれている。さて、どのような記述だろうか。少し以下の引用を見てみよう

 

その欅はいまでもある、道沿いの桜は三本あったのがひとつもなくなった。どれも家の庭に生えていた桜で道に枝を広げていた、夏になるとセミがそこで鳴いた、晩秋には未知の隅に落ち葉がたまり、私は桜の葉の赤の濃さに感心した、桜の紅葉は色がまちまちで深紅にまで染まるのは十枚に一枚くらいか、桜の木を見上げて葉の色づき具合を見、落ちた葉の赤くなったのを立ち止まって屈んで見るなんてことをするようになったのもここに来てからの変化だ。

 

このパラグラフでもやはり、読点は最初のひとつと、最後のひとつだけである。「その欅はいまでもある、」で始まるが、その後はなんの断りもなく目線が桜に移動し、さらにその桜における季節をひとつひとつ回想してまるで数えるように伝えている。この唐突な欅から桜への移動によってむしろ桜のイメージが鮮明になって読み手の脳にも映し出される。ただぼんやりと風景を眺めているだけの人ならばこのような唐突な移動とその後の回想へと引き込まれることは少ない。画家は時を経て風景を絵として観るようになるという話を聞いたことがあるが、保坂の眼も「小説家」の眼として風景を焼き直しながら写していると言えるだろう。欅の立つ風景の上に桜が重なり、さらにそこに夏の桜が重なり、秋の桜が重なり、目線は道に移動して紅葉した落ち葉が重なるのだ。アニメーションのように場面が変化するのではなく、透明感をもって映像が折り重なっていくのである。

常人にはややもすると色褪せて退行していくばかりの日常風景でさえも小説家の視線で写し取ればこうしてフィルムが生まれる。保坂のまなざしそのものが小説家なのだ。その観方によって保坂の方から風景そのものに小説を宿し、宿したものをまた素直に写している。

眼が小説家、と思う。こんな風にいつでも小説家の眼で世界を観ることに卓越し、作家にとっては世界のすべてが作品に見えるのかもしれないと想像する時、「文学空間」の中に書かれたモーリス・ブランショの言葉を思い出した。

 

作家は、作品が存在してからあとは、死んでしまっているのではないだろうか。

(中略)

 作家は、作品のそばに留まることは出来ぬ。つまり、彼は、作品を書くことしか出来ぬ。

 

このブランショの言葉に従い、作家は作品のそばに留まることの出来ないものだというのなら、保坂は世界のそばに留らないということなのであろうか。世界の中に没入しながらもまたその外にいることになる。

「花揺れ土呟く」では特に、そういった作家の四六時中小説家としてアクティブであろう脳内と視線を濃密に追体験させる。読むというよりは追体験なのだ。

この作品における保坂和志との交流時間はこのような色合いのものであった。小説家保坂和志そのものに乗り込み、小説内の時空的界隈を同行したのである。この作品の中の一人称の語り手は読み手に身体を貸しているから、ブランショの言う通り、「作家は、作品が存在してからあとは、死んでしまっている」に違いないとさえ思うそうしてみるとこの批評の冒頭に引用した当作品の冒頭引用のイメージもまた、そのことを予感させるのだった。(了)

 

参考文献

「プレーンソング」 保坂和志著

「小説修業」 小島信夫 保坂和志 共著

「文学空間」 モーリス・ブランショ著 粟津則雄・出口裕弘訳

文字数:4038

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