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「動く」時間と「形容される」時間

 物語とは始まりがあって終わりのあるものである。それは常に、ある時間の流れの中に置かれている。いや、ちょっと待て。時間の流れとは? それは線分のようにはっきりとわかりやすく存在しているものではない。もしかしたら「流れ」なんていう単純な言葉で説明するにはあまりにも複雑なのものなのかもしれない。今回はこの「流れ」というものについて考えていきたい。

 小説では、冒頭や結びで物語の以前や以後にも、ちゃんと時間が流れているということを意識させる文が書かれることが多い。たとえば『走れメロス』の冒頭「メロスは激怒した」であったり、『雪国』での「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」といった一文は物語以前の時間の存在を意識させる。「メロスは激怒した」という一文をもって物語は始まったが、それ以前にもメロスは取るに足らないにせよ平凡な日常を送っていたのだろうということが思い浮かぶ。また、汽車がトンネルを抜け雪国へと辿り着くことによって、島村はそれまで雪国にいなかったということが暗示されるわけである。

 同様に『羅生門』での「下人の行方は、誰も知らない」という結びの一文は物語以後の時間を読者に想像させている。物語の主人公である下人の行方は誰も知らないが、この物語の世界ではこの後も時間が流れつづけていることがこの文ではっきりとわかる。

 しかし、上にあげたこれらの文章は、ある特定の瞬間を描写しているだけである。「つい5分前までは皆でワイワイとにこやかにワインを傾けていたメロスは、今しがた王が行なっている悪政の数々を聞いて激怒した」とは決して描写されないのにもかかわらず、我々がこれらの文に時間の存在を意識してしまうのはなぜだろうか。このような問題を文法の観点から考察した人に、山田孝雄がいる。

 国語学近代化の一端を担い、「山田文法」として知られる文法理論を築いた国語学者である山田孝雄は、用言の作用の一つとして「陳述」を定義した。山田のいう陳述とは、述べあげ、言い切るということであり、つまりはある一つの「客観として見た属性」に対して話者は用言を使うことによって説明をし切ることができるというのだ。しかし、一般的に用言の中には「形容詞」と「動詞」の二つの品詞が存在している。この二つの区別はいったいどのようにされているのか。山田はそれを話者の主観がその属性を「超時間、存続性のものとして吾人に思惟せられた」ものなのか「時間的、発作性のものとして吾人に思惟せられた」ものなのかの違いにあるとしている。つまり山田は形容詞とは「時間的観念には無意識に固定したもの」であり、動詞とは「時間の推移をはらんだもの」であると意味的に定義したのである。山田の例によれば、「この柿の実は赤い」という文での形容詞「赤い」は、この柿が以前はどのような色をしていたかなどを考えずに、ただこの瞬間の色を描写している。一方「この柿の実が赤らんだ」という文で「赤らむ」という動詞を使えば、この柿の実は以前は青い色をしていたが次第に色が変わってきて今ではすっかり赤くなっている、というような時間感覚の上に表現が成立しているというのだ。しかし、この二つの文からわかる通り、形容詞と動詞の区別は何かの必然によって決まるわけではない。柿の実がついたところから一つひとつ丁寧に時間をかけて育ててきた柿農家の人でも「丹精込めて育てた赤い柿の実」と現在の状態のみを表現することができるし、ふらっと訪れた場所で立派な実をつけている柿の木を見つけた旅人が「大きな柿の実が赤らんでいる」と知りもしないはずの過去の時間をも含んで表現することができるのだ。つまり、ある物事を形容詞によって表現するか動詞によって表現するかは話し手がどのように世界を切り取るかという意識によって決定されるのだ。

 このように考えると、保坂和志の小説の主人公は、極めて「動詞的」に世界を切り取る。例えば、『明け方の猫』では猫になるという夢を見ている主人公が夢の中で世界について考える場面がある。

 

 この世界は何のためにあるんだろうと悲しい気持ちとともに彼は考えた。三十億年とか四十億年に及ぶ時間にわたって生命を生産しつづけているこの世界というのは、何のためにあるんだろうと思った。
 ただ生まれて生きて死ぬだけならともかく、人間のようなパースペクティブを持ってしまったら、「何のために」ということを考えざるをえないじゃないか。人間以外の生物がすべて本当にただ生まれて生きて死ぬだけだとしても、人間は現にそういうことを考えるように頭が発達してしまったわけで、その発達がいっさいこの世界や宇宙の原理と無縁だとしたらそれはとても奇妙な現象だと思った。

 

 このように人間はどうしても、過去の結果として今自分が存在しており、自分がどのようにして影響を与えることができるのかを考えてしまう側面があり、それは逃れようのないことであると保坂の小説では繰り返し主張される。つまり、人間が「動詞的」に物事を考えることができる以上、そのようなことはどうしても発生してしまうのだ。

 しかし一方で、保坂の小説には猫や子供が登場することが多い。彼らは「動詞的」にものごとを考えることがうまくできない。たとえば『もうひとつの季節』では、「僕」の息子である「クイちゃん」が、赤ちゃんだった頃の「僕」と当時飼っていた猫が写っている写真を見ても、過去の瞬間であるその写真と現実に存在している「僕」との等号関係をうまく想像できないという場面がある。その場面に続いて「僕」は以下のように続ける。

 

 さっきも言ったように息子は、そんな大人にも赤ちゃんだった時代があることも、パパにも赤ちゃんだった時代があったことも一応は理解できているのだけれど、それの表現がかわって、
「すべての赤ちゃんが大人になる」
 となると、ちょっとわからなくなるというか、そのセンテンスと現実との対応が難しくなる。そこからさらに進んで、具体的に一枚の写真を見せられて、
「そこに写っている赤ちゃんがパパだ」
 というのは、もっと現実との対応が難しくなってくる。

 

 このように猫や子供はどうしても今この瞬間の出来事は過去や未来の流れの中にあるということがうまく想像できずに、今の状態だけが世界の全てであるかのように世界を受け止めてしまう。この「形容詞的」な世界の受容は保坂の小説の主人公たちと明らかに対立している。それは、主人公と対立するキャラクターを登場させて、物語の輪郭をはっきりさせるという小説の常套手段である、と考えるにはあまりにも執拗にこの対立が描かれるのだ。

 では、保坂の真意はどちらにあるのだろうか。「動詞的」に考える主人公と「形容詞的」に考える猫や子供。この二つの関係を考えるにあたって補助線となる文章を保坂は書いている。保坂は、自分が引用しようと思っていた箇所を探そうと思ってその文章にあたってみると、そのような箇所が存在しなかったと告白する文章をたびたび書いているのだ。たとえば『小説の自由』では、引用箇所が見あたらなかったことについてこう書いている。

 

 現代音楽の作曲家オリヴィエ・メシアンがクロード・サミュエルという音楽評論家を質問者にたてて語った『オリヴィエ・メシアン その音楽的宇宙』という本がある。その中で歌と伴奏(あるいは主旋律と伴奏というのか)の関係を説明しているところがあって、そこでメシアンは歌に対する伴奏は和音だけではない、たとえば日本の三味線の伴奏では和音に基づかない、歌といわば独立した旋律が弾かれるような形態もあり、こういう歌と伴奏の関係は世界的にみても決して珍しいものではない(つまり、和音という考え方もまた、世界の一地域で育ったものなのだ)、ということを言っていたのを読んだ記憶があったので、それをこの連載の冒頭に置こうと思って本をめくったのだがそれがちっとも見つからず、しかし私がたしかに九四年この本を読んだときにつけた附箋の箇所がおもしろかったので、まずそれを引用することにする。

 

 以上のように、保坂は引用しようとしていた箇所が見あたらなかったことを告白をしている。また、当時つけた付箋の箇所を読み直し、おもしろいとは思うのだが、読み返してみるまでそんなところに付箋をつけたというなんてことはこの付箋を見つけるまでは思い出さない。さらに保坂は『読書実録』でも引用したい箇所が見あたらないことについて書いている。

 

 信仰や祈りというのは体に大きな負荷をかける、たいていは自分の体を故意に痛めつける。この対談でも吉増剛造は「毎日、筆写をつづけていると肩から指先にかけての筋肉がキリキリ痛くなる。ペンを持つのもつらいこともある」と言っていた、私は今そこを引用しようと思ってこの対談をもう一度読み直すと、そんなことはどこにも書いてない。

 

 他の作家であれば、このように引用しようとしたことが書いていなかったので、手に取ったその本の別の部分を引用するなどということは書かずに省いてしまうだろう。それは少し恥ずかしいミスであるということ以上に引用先の文章を曲解した、誤解をしていたと読者に捉えられかねないからだ。しかし保坂はそんなことを思われるかもしれないという心配をもろともせず、原点にあたる前の自分の記憶違いを惜しげもなく文章にしていく。

 つまり保坂は、時間の流れの中で人間はどうしても、過去にはある出来事がたしかにあって、その結果として今があるというような「動詞的」にものごとを考えてしまうが、その流れというのも結局は今この瞬間に作り出した記憶にすぎず、やっぱり本質的にはこの瞬間を「形容詞的」に生きるしかないと考えているのではないだろうか。

 そう考えてみると、保坂が一貫して「保坂和志的」としかいいようのない独特な文体で小説を書きつづけていることにも納得できる。小説とは読者が物語の中の世界を「動詞的」に読み解いていく営みである。そのために作家はできるだけ出来事を「動詞的」に描写し読者に時間の流れを意識させる。一方で保坂の小説では、事件らしい事件は起こらない。現代口語演劇を思わせるような、読者が小説を読む時間と小説を流れるの時間が同じであるかと錯覚を起こしてしまうほど一定した時間が流れている。主人公は「動詞的」にものごとを考えるものの、一方で小説には時間の飛躍があまりなく「形容詞的」に描かれているといっていいだろう。つまり保坂は、一人の人間が複数の時間を生きることはできない以上、けっきょく小説も「形容詞的」に書くしかないのだという諦めにも似た思いがあるのではないだろうか。しかしそれはそのまま、読者が物語を「形容詞的」に受け取るということを意味しない。そう、人間はどうしてもものごとを「動詞的」に考えてしまうのだ。その呪縛から逃れられない以上、保坂の小説も常に「動詞的」に受け取られる。決して小説的ではない小説をいくら書いたとしても、それは小説的に受け取られるしかないのだ。

 保坂は小説に自由を感じている。もっといってしまえば、保坂ほど小説の可能性を信じている作家はいないのではないだろうか。どんなに小説からかけ離れたものを書いても、それを小説として発表してしまえばどうしたって読者はそれを小説として読んでしまうし、読まざるをえない。しかしそれは、裏を返せば小説とはどのように書いても問題ないということなのだ。保坂のまわりにいる小説を書いたことがなかったような多ジャンルの人物たちが次々と小説家デビューし、しかも彼らが続々と芥川賞を取っているという事実も、こうした保坂の思いの結果であるといえるだろう。

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