印刷

小説という「事件」――『プレーンソング』による小説/映像の比較論

 

「事件らしい事件が起こらない」小説

 

「特質を認めながら、最初の投票でこの作品を受賞作におさなかったのには、理由があった。〔…〕なにひとつ事件らしい事件が起こらぬ日常を語るのが保坂氏の作風だが、これから作家生活を続けてゆかれるには、やはり小説らしい物語をつくる能力が――あるいは、それを試みてみようとする意欲が――必要ではないだろうか。」

 

これは保坂和志が1995年に『この人の閾』で芥川賞を受賞した際の大江健三郎による選評だが、かように保坂の小説は「事件らしい事件が起こらない」と評されることが多い。しかし大江によって批判的に用いられているそのフレーズは、保坂にとってはむしろ自覚的な方法論として息づいているものである。

 

事件を起こすと、「結局それがどうなるか」ということしか読者は考えないし、作家もそうなっちゃう。好きな女の子ができたとして、うまくいくかいかないかのどっちかでしょ? 読む人はどっちになるのかを読みたいわけだけど、どっちか選択肢が出たのなら、どっちでもいいんですよ。そういうことには僕は関心がないんですよね。本当に面白いのは、選択肢を絞り込むまでなんです。*1

たとえば、女の子を監禁した札幌の男性の事件があったけど、「美人なお母さんにちやほやされて育って、そのお母さんが亡くなったから」とワイドショーは説明する。でも、そんな奴は世の中に、たくさんいるわけで、なぜ、本当に彼が事件を起こしたかは分からないんだよね。そういう事件に至るファクターなんかいっぱいあるっていうことを普段考えることがないから、そういうすごい単純なつなぎ方だけが起きてしまう。*2

 

時期の異なる二つのインタビューからの引用だが、ここで保坂が問題にしていることは同じである。つまりは、小説というものには「小説という全体」を通してしか感受し得ない固有の時間性があり、それは穿たれた点のような「事件」に還元することはできない、ということだ。2005年に自身初の本格的な小説論として刊行した『小説の自由』の中で、保坂は次のように語っている。

 

日常や新聞・ワイドショーのレベルで考えられている人間や世界のイメージと別のイメージを作り出すことが小説の真骨頂であると私は考えるから、「読む」「書く」だけでなく、「考える」という抽象的な時間を多く持つ必要がある。
そういう時間を積み重ねていくと、小説というものがテーマとか意味という限定された読まれ方をするものでなく、もっとずっと動的で多層的なものだということが感じられてくるだろう。*3

 

ここで改めて注目すべきは、保坂の中で小説とは「作者」から「読者」に与えられるようなものでも、また「読者」によって「作者の意図」なり「テーマ」なりを見出されるためのものでもなく、「小説」という巨大な存在がまずあって、そこに「作者」も「読者」も動員されていくのだというような、いわば「小説」の一元論とでもいうべき価値観が存在しているということである。保坂にとって小説とはそこでしか展開され得ない思考、イメージを産み出す装置としてある(保坂はその性質を自身の用語で「(小説の)能産性」と呼んでいる)。

 

 

「事件らしい事件が起こらない」映像

 

ところで、「事件らしい事件が起こらない」というフレーズは2000年代後半にその存在を認知され始めたアニメのサブカテゴリ、「日常系」を特徴づけるフレーズとしてもよく耳にするものである。キネマ旬報映画総合研究所編『“日常系アニメ”ヒットの法則』によればその内容は、「登場人物たちの『まったり』とした普通の日常生活」であり、「他愛もないおしゃべりが繰り返されるだけ、といったシーンが多々ある」というものである。これは専らキャラクター表現に焦点を当てた際の特徴だが、「日常系アニメ」は映像作品でもあるわけだから、キャラクターをフレームに収めるカメラの存在についても考えていくことが重要になってくる。同書でジャンルの代表例として取り上げられている『けいおん!』を制作した京都アニメーションは現実に存在する土地をロケハンして精緻な風景描写を行うことでも知られるが、そのような「何を写しているか」ということだけではなく、カメラ自身のふるまいにも特徴が見られることを、ブロガーのヒグチは指摘している。

 

 僕らのような生者にとって、時空間は「今」と「ここ」の積み重ねとして認識されている。言い換えれば、生者はあらゆる瞬間を、価値判断によって次の行動を決めるという意味で、選択行為の絶え間ない連続として生きている。
 しかし死者にとって時空間は、そのようなものではない。死者にとって、生きていた時間は、自分が選択することでそれを変えられるものではなくなってしまったために、あらゆる瞬間が等価値である。

(中略)

 あらゆる瞬間が等価値になってしまった場所から、もう届かなくなってしまった過去の出来事をを眺めるような視線。僕はこのまなざしを、日常系が持っている特別な響きなのだと考える。*4

 

アニメにおけるカメラとは実写映画とは違いあくまで仮想的なものであり、現実世界にも、もちろんアニメの中の世界にも対応物を持たない。いわば純粋な「視点」とも呼べるものであって、そうした本来存在しない「視点」に同化して世界を眺めるということは、その世界における「死者」の立ち位置を得るということと同義である。上の引用文で言われているのは、「日常系アニメ」を観る私たち視聴者は、そんな「死者の目=あらゆる瞬間が等価値になってしまった場所」に、否応なしに置かれてしまうということである。

 

 

『プレーンソング』による小説/映像の比較論

 

前節で引用した「生者はあらゆる瞬間を、価値判断によって次の行動を決めるという意味で、選択行為の絶え間ない連続として生きている」というヒグチの文章と、第1節で引用した「事件を起こすと、『結局それがどうなるか』ということしか読者は考えないし、作家もそうなっちゃう。〔…〕本当に面白いのは、選択肢を絞り込むまでなんです」という保坂の発言を対応させてみる。「日常系アニメ」の視聴者は、「選択行為の絶え間ない連続」がすべて終わった地点=「死者の目」から出来事の推移を眺めることになるのだが、保坂によればまさに「選択肢を絞り込むまで」の試行錯誤をリアルタイムで体験できるのが小説だというのである。

異なるメディアとの比較を通して「小説」の特質に迫るそのような思考は、デビュー作である『プレーンソング』(1990年)にすでに表れている。同作では語り手のもとに彼よりいくらか年下の若者たちが次々転がり込んでくる様を描いているが、中でも注目すべきは後半を過ぎたところで登場する「ゴンタ」というキャラクターである。彼には何の前触れもなく思いついたようにビデオカメラを回す癖があるのだが、「ふつう誰かが動作してればそれを撮りたくなるもんだけど、そうじゃないんだよ。ゴンタのカメラはなんかふわふわ動いてるんだよね」という語り手の指摘に応えて、自身の撮影する映像について以下のように語る。

 

「こうやってビデオ撮ってると、ぼくはビデオのフレームでまわりを見ちゃうわけでしょ。だから、油断するっていうか、油断はちょっと大げさだけど、とにかく、つい、しゃべってる人とか一番動いてる人にカメラがいっちゃって。〔…〕そういう風に撮ってると映画に、って、普通の映画のことだけど、普通の映画になっちゃうんですよ」*5

 

こうしたゴンタの発言を受けて、語り手はゴンタを称賛する。「〔…〕映画やってるやつらなんか、そんなところから出発しようとしないだろ。/面白い話を撮ることしか考えてないじゃん。/ゴンタはねえ。/面白いって、どういうこと? とか、この世にカメラが存在してるって、どういうこと? とかね、そういうことを考えられるんだよ」。ここでいう「面白い話」とは、すなわち「事件」と言い換えられる。それを志向しないゴンタのカメラが「ふわふわ動いてる」というのは、この世界に本来居場所を持たない幽霊のような――すなわち「死者の目」のようであると言えるだろう。しかしゴンタは紛れもなく生きている人間なのであり、実際このような撮影を行うのには「けっこう訓練がいる」と彼自身が語っている。逆にいえば訓練を積むことで限りなく「死者の目」に漸近することはできるということで、ゴンタはもともと小説を書きたかったのだが、「小説って、何かないと書けなくて。ただ時間が経っていくって、書けなくて」と悟り、ビデオを撮り始めることにしたのだという。

しかし保坂はゴンタのように、「ペンをカメラに持ち替える」ようなことはしない。むしろゴンタが言ったような小説の「制約」を逆手にとって、小説に固有の表現とは何か追求し続けている。たとえば保坂はチェーホフの『子どもたち』という小説を取り上げ、「この小説を楽しむためには、五人の子どもたちがそのときどきに何をしていて、何を見て、何を聞いて、何を感じ、何を言うのかに、いちいちそのつど焦点を切り換える必要がある」と評した後で以下のように述べる。

 

私はここに小説という表現の真骨頂があると思う。小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。*6

 

つまり『子どもたち』という作品でいえば、五人の子どもたちが「何を言ったか」ということや「どんな行動をとったか」ということ、または地の文で顔を出した作者が「何を述べているか」ということは重要ではなく、それらを逐次的に書く/読む「運動」の中にこそ小説の真髄があるというのである。そうした「運動」を作り出すのが、保坂にとっての「文体」である。

 

書いていく順番、部屋に入ったり人と会ったりする印象をつくっていくというのを、映画でカメラをどういう位置に置いて、どういうカットの長さでつないでいくかということに置きかえていくのが、文体をいうのにわかりやすいのではないか。*7

 

ここではカメラの「位置」やカットの「長さ」、つまりカメラワークだけが問題にされており、それを「誰が」撮ったかということや「何を」撮っているかということは問題にされていない。映像においては「黙って回していればただ流れる時間を撮ることのできる」カメラと「事件を追いかけてしまう」カメラマンとが常に対立しているわけだが、小説においてはカメラとそれを操るカメラマンとは「常に一体化している状態」と考えられるのである。カメラ=三人称客観視点、カメラマン=一人称主観視点と置き換えるならば、『小説の自由』で人称の問題を超えたところにあるものとして、小説の「語り」が真っ先に問題にされていたことにも頷けるだろう。

 

小説の語りとはどうなっているのか。
〔…〕これは一人称か三人称か、場合によっては「あなたは今……している」というような二人称を使った呼びかけか、というような簡単なことではなく、主人公の人称をこえたというか、その基盤となっている、小説の書き方と世界との関係の作り方のようなもののことだ。*8

 

保坂にとっての、あるいは保坂作品の読者にとっての小説を書く/読むということは、この「語り」に併走するということに他ならない。それは仮想的なカメラの位置=「死者の目」に逃げ込むようなことを許さず、世界に直接対峙することを要求する――そのようにして「小説を生きさせられる」ことそのものが、巨大な「事件」であるとは言えないだろうか。

 


 

*1: ウェブサイト「マンモTV」に掲載のインタビューより。 http://www.mammo.tv/interview/archives/no136.html

*2: ウェブサイト「クリエイターズワールド」に掲載のインタビューより。 http://www.creatorsworld.net/archive/tokushu/k-hosaka.html

*3: 保坂和志『小説の自由』「まえがき」より。

*4: ブログ「あにめマブタ」内の記事「日常系とはなにか ~死者の目・生を相対化するまなざし~」より。 http://yokoline.hatenablog.com/entry/2017/06/03/133012

*5: 保坂和志『プレーンソング』より。

*6: 保坂和志『小説の自由』「3 視線の運動」より。

*7: 「群像」1998年5月号に収録の阿部和重との対談より。(保坂の公式ウェブサイトに本文が転載されている。 http://www.k-hosaka.com/nonbook/t-abe.html

*8: 保坂和志『小説の自由』「2 私の濃度」より。

 

文字数:5140

課題提出者一覧