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保坂和志論 1、恋人がいなくなったあとの小説 2、息の震え

1、

 短編集『地鳴き、小鳥みたいな』(2016)にある『彫られた文字』は書き手の知人である木版画家箕輪邦雄と彼の本『珈琲のことばー木版画で味わう90人の名言』について書かれた一編だ。そこには、古今東西のコーヒーにまつわる言葉が印字されている。と、書いてみたがこういう紹介は、正確ではない。本書はこれが小説なのかエッセイなのかをはぐらかす。書き手は本筋をはぐらかし、書かれたことの事実性をはぐらかし、自分が保坂和志であるかどうかもはぐらかす。
 この小説に限ったことではない。これは、ほとんど保坂和志の作品に共通する特徴と言って良い。その傾向は『未明の闘争』(2013)以降より強くなる。
 あらためて『彫られた文字』はなにについて書かれた小説なのだろうか。そのはぐらかした部分から考察をはじめたい。

ここで私は木版画で文字を掘った箕輪さんの『珈琲のことば』にまるで計算があって戻ってきたみたいに戻ってきた、計算などあるわけがないがそのつどそれに戻るのだとしたらそれは本質的な何かであるだろう。(171ページ*1

 「本質」とは何を指すのか。読み進めると、箕輪が元は保坂が勤めていた会社の先輩社員だとがわかる。お互い社員であったころから二人は親しく付き合っており、二人が会社を辞めてからも小説家と版画家として交流を続け、箕輪から「コーヒーのことを書いた小説でもそういう一節はありませんか」と求められて、保坂は『珈琲のことば』に『ヒサの旋律の鳴りわたる』(以下、『ヒサ…』)という小説の一節を提供するに至った。
 『ヒサの…』は保坂のデビュー前に書かれた小説だ。インターネットを通じた文書データの形式(電子書籍ではない)で販売されている。そこには男性の一人称で彼が恋人ヒサと過ごした日々、濃密な性交の描写、男がフラれた後の彼女への未練が綴られている。原稿用紙70枚ほどの作品に「ヒサ」という単語が254回登場する。その内の一節を箕輪は木版画にして彫った。
 『彫られた文字』では書き手と「ヒサ」のモデルになったとされる彼の以前の恋人のことが綴られる。その部分を読んでいくと、保坂は「箕輪さん」について書くことを通じて、結局は箕輪によって引き出された自分の内面について書いているように解釈できる。
 小説の概要を見直そう。まず、インクで書かれるのではなく彫られた文字というのは特別な文字だという話があり、その彫られた文字を作っている箕輪さんというのはふと人を油断させて話を引き出すようなところがある人で、保坂はその引き出された本音として彼に『ヒサ…』を提供した。『ヒサ…』が小説家保坂和志の原風景だと邪推してみたくなる。
 保坂和志が恋人との濃厚な恋愛ばかり書く小説家かというと、全くそうではない。むしろ彼の小説、とりわけ初期の作品はしばしば「ほとんど何も起こらない」という評価を受けてきた。何が起こらないかというと、一つはセックスが起こらない。彼がデビュー後に性交を描いたのは『草の上の朝食』(1993)の1回だけだ。では、保坂の小説で恋愛というのはどういう重みを持っているのだろうか。
 彼が『新潮』に連載している長編論考「小説をめぐって」の第13回『散文性の極致』からそのヒントを得ることができる。ここで、小説についての思索を深めるために、アウグスティヌスの『告白』(服部英次郎訳)の分析を展開する。論考は「神とは何か?」という問いから始まる。
 アウグスティヌスにとっての神とは、あのキリスト教の一神教の神なのだから明白だ。保坂はどうか。「神」とは「精神の働きとも言えるようだし、世界がこうある秩序とも言えるようだし、世界と私とのインターフェイスとも言える」と説明する。そのインターフェイスは現代で言えば科学であり、アウグスティヌスの時代であれば当時の社会通念の中でキリスト教の神として機能する。さらに言えば、その「神」とは恋人、「恋愛状態にあるときの恋い焦がれている「あの人」」に近いものだという。

恋をしている「私」にとって世界は恋人に向かって語りかけるものとなっている。(…)しかし「あの人」はただ「私」からの報告を受け取ったり、「私」と一緒に見たりしているだけの受動的な存在ではない。「私」がこれほどすべてを美しいとか面白いとか感じることができる理由は「あの人」が「私」とともにいてくれるからで、「私」の”見る”も”聞く”も「あの人」によってもたらされている。(285ページ*2

 しかし、ここで展開しているのは「恋人」とは「神」のことであるとか、保坂が熱心なキリスト教徒だという話ではない。「神」と「恋人」とは別ものだ。それを確かめるために『散文性の極致』で『告白』から取り上げた箇所の一部を引用する。

わたしがかの女たちから受けた善はかの女たちにとって善であったのであるが、その善はかの女たちからのものではなく、かの女たちを通じてのものであった。じっさい、神よ、すべての善はあなたからおこり、わたしの救いはすべて、わたしの神から来るのである。(第一巻第六章)(284ページ*2

 「かの女たち」というのはアウグスティヌスの母や乳母、生身の人間のことだ。母や乳母から受けた「善」、親からの愛情らしきものを感じながらアウグスティヌスはその彼女たちの向こうに、目に見えない「神」を設定する。保坂にとっての恋い焦がれている「あの人」というのは他の小説ではヒサのような恋人だったり、登場人物の不倫相手だったり、妻だったり、彼の周りにいる猫たちだったりする。必ずしもそれは恋愛ではない。
 以上を踏まえて、保坂のデビュー作『プレーンソング』(1990)を読み直す。この作品が、女の子と住むはずだったけれど、契約が決まる前に別れてしまったせいで借りることになった一人住いには広すぎるアパートの一室に友人知人が集まってくる話だというのは象徴的だ。彼のデビュー作は恋人がいなくなったあとの生活を記述するところから始まった。そして『草の上の朝食』を読めば、それが必ずしも恋人のいない世界だけの記述というわけでもないことがわかる。特定のその人が、いるといないとに関わらず彼は世界を記述する。
 特別な誰かといるときの面白く美しい時間は、必ずしもその特定の誰かがいなくても、展開することができる。アウグスティヌスにはそれを可能にする「神」という装置があった。そうして世界と「私」との不安定な関係に挑んでいた。保坂は小説という方法を使って、彼の神らしきものである世界との「インターフェイス」にアクセスする。

2.

 『彫られた文字』が挑んだ「本質」とはなにか。今度はそれを形式面から見てみたい。
 『地鳴き、小鳥みたいな』に収められた4編の小説では、「。」の代わりに「、」を頻繁に使う傾向がある。試しにこのうちの一編『彫られた文字』(全66ページ)に書かれた「、」の数を調べたら658箇所あった。
 小説中のすべての「、」を数えたわけではない。動詞の「〜ウ」音、過去形の「〜た」、形容詞の「〜い」、断定の「〜だ」、疑問の「〜か」、助詞の「〜う」といった言い切りの語の後に付いている「、」を数え、文章が文法的に完結していない所や、体言止めらしき箇所、「」で囲われた会話文は除いた。
 658箇所というのが多いのか少ないのかというと、比較対象として「。」は130回、「?」は15回、「!」は11回出てくる。これによってどういう効果が得られるか。例えば、こういう箇所がある。

私はこういうおしゃれな、気の利いた、くすくす笑いを誘う、ときどきアハハと笑わせる、ウィットとかパロディがわからない、(152ページ*1

 上にあげたルールだとここでは「、」を4回数えることになる。それでこれは4つの文からできているかというと、そうではなく文脈的には「気の利いた」「誘う」「笑わせる」という箇所は「ウィットとかパロディ」という名詞節の修飾語になるだろう。「。」の代わりに「、」を使って文章を書く弊害というのは、事実内容についてはこういう「だろう」という曖昧な言い方しかできなくなる。どうしてこんなことをするのか。つまり、なぜわざと文法規則の曖昧な文章を書くのか。保坂はここで意図的に崩そうとしている言葉のシステムに対置されるものとして「意志」というものを持ち出す。

昔の人は手紙の崩した文字でしかも漢字の送りがなはまちまち、漢字の読み方さえ文部省のような機関がないんだから統一されていなかった字、文章を私がいま思うように不確かさのある気持ちで読んだりはしなかった、そこには何か大きな共通了解があった。(…)
意志が明確だったから文字が権威を持った、意志が不明確な時代、伝達手段そのものがグーグルのように権威になる、もともと文字の権威は意志が確固たるもので あったそこから来ていた(169〜170ページ*1

 文法的にはちょっと間違っているけれど、なんとなく意味が伝わるというのが保坂の目指す文体のようだ。句読点に関する文法の曖昧さを使って保坂は、文法も正しく、意味も明確な文章というのを退け、文法が曖昧なせいで文脈から意味を求めなければならない文章を読み手に強いる。句読点の制度的な正確さをないがしろにして、言葉における「意志」の復権を目指す。彼が伝えようとしている本質とはなにか。「意志」をもう少し具体的に解釈できないだろうか。
 『彫られた言葉』には「意味というのは意味でなく呼吸の方がわかりやすいときがある(…)意味には意味を逸脱して呼吸と一体化したいという願望があるのだ」という一節がある。「意味というのは意味でなく」と、矛盾しているようだが、要は彼の中に2つの「意味」があるのだ。一方に文法的な意味でのリテラルな「意味」があり、もう一方に文字になる前の、その裏で呼吸と一体化しようとする情意のようなものがある、と解釈してみる。それが「意志」と彼が呼ぶものだ。例えばこれが音声的な文章であるとするなが「、」と「。」は文法ではなく、息継ぎの記号として読むことができる。その息遣いがどう流れているのかというために使われているなら、句読点は通常の日本語文法とは別の働きを示す。リテラルな言葉を食い破ろうとする「意志」の運動のトラックとして彼の小説の形式を読み直してみたい。『彫られた文字』で『ヒサの旋律の鳴りわたる』が引用される直前の一節を引用する。

そして彼はそれを『ヒサの旋律の鳴りわたる』という小説にしたそれをMさんからコーヒーにまつわる文章と言われたとき彼(私か?)は思い出して送った、(214ページ*1

 「彼は」が2回、「それを」が2回登場し、「彼」が「私」であることを疑う。それは、『彫られた文字』を書いている「私」と、『ヒサ…』の元になったエピソードに登場する「彼」は同一人物かもしれないけれど、「私」が「彼」について書くという段階では別人として扱うということなのだと了解するが、ここで確認したいのはそうした回想録での人称の扱い方の問題ではない。
 1、で確かめたように『彫られた文字』に書かれた本質の一つとは、『ヒサ…』に綴られた小説家保坂和志の原風景だ。執拗に「彼は」「それを」と言うことで、文法が乱れる。文が呼吸なら、彼の息遣いは興奮気味に乱れている。
 引用される『ヒサ…』の一節には「それはヒサともう会えなくなったことを後悔している自分のなかの震えを確かめているだけのことだった。」という箇所がある。文法の乱れというのは、彼が記述しようとする世界の震えそのものではないか。「私」が「彼」に一致しようとするとき、その緊張感が書き手がその世界に触れようとするときの生々しさとして現れる。
こうして保坂の試みは、彼がその思考と周囲のなにげない風景について記述するとき、いちいちそこに生々しい息遣いの質感を与えようとする。彼の小説は、恋人がいなくなったあとも世界が震え続けていることを確かめ続けている。

 

引用文献

*1 保坂和志『地鳴き、小鳥みたいに』、講談社、2016

*2 保坂和志『小説の自由』、新潮社、2005

参考文献

アウグスティヌス『告白』、服部英次郎訳、岩波文庫、1976

保坂和志『ヒサの旋律の鳴りわたる』

ウェブサイト『未発表小説』
http://www.k-hosaka.com/sohsin/novel.html

文字数:5029

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