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「夢も見るんだよ」と言った。

4月から急に豊島区の図書館に通うようになったのは、翌月の頭にはロンドンに行かねばならず、行かねばならぬのは、去年末にダメ元で応募したアーティスト・イン・レジデンスというプログラムに採択されたからで、ダメ元で応募した時の多分ダメだろうという気分から抜け出せず、採択されてもいつまでも旅の準備を始めることができずにとりあえず本を読んでおけば自分に対しての示しがつくというぐらいの取り掛かりで読みはじめ、一冊や二冊ならいざ知らず、いっぺんにたくさんの本を買うお金がないので図書館で借りたところで、図書館の本たちは欧州旅行には持ってはいけないからという理由が後押しして、「保坂和志」の本は急いで読まねばならなかった。

そもそもなぜ「保坂和志」なのかといえば、いつでも私は勉強不足なのに、自分を律することができないので、他人に律してもらおうと批評再生塾に応募したからであって、つまりは批評家を目指しておらず「批評ではなく随筆として思考の体系を書き留める技術を手に入れるというのが目標なので、会の趣旨に反しているようでしたらお伝えください。」と批評再生塾に二度ほどメールしたが、返信がなかったので、返信がないのは良い便りと解釈し、一方で批評文でないから選考の対象外つまり票集めのレースに乗らないだろうという気軽さもズルく持っていた。

保坂の本は読んだ事がなかったが、保坂和志は小説家なのだし、私は批評文にしろ随筆にしろ何かを書かねばならず、効率的に彼の代表作もしくは私の書きやすそうなテーマを扱っている小説を、インターネットを使ってあらすじから探し出して読み、また同じくインターネットを使って代表的な彼への評価を知らなければならなかった。そんな筋書きは簡単に思いついたが、なぜかエッセイである「小説の誕生」を最初に読む本に選んだ。そしていつもの遅いペースで読んだ。いつでも私につきまとう何もやりたくない感じは、何かに抵抗する感じに少し似ているが、天邪鬼と何が違うのかと言えば、わからい。「小説の誕生」のハードカバーは厚さが五センチくらいはあり、図書館から持ち帰る私のカバンを圧迫した。短い時間で読みきる事も、短い時間で課題用の感想エッセイとして書ききるにも適していない本だとは、開かずとも本の厚みからすぐに理解できた。

まだ開いてないのに私は、ニーチェの「悲劇の誕生」をもじったような「小説の誕生」が気に入った。保坂の他の多くのエッセイにも通じるが、引用が長い。時々引用が長すぎて、読んでいるうちに引用の世界に引き込まれ誰の本を読んでいるのかわからなくなっていった。そして哲学的な記述が多く、このエッセイだけでなく小説「この人の閾」の真紀さんの口を借りても哲学について言及したり、「考える練習」はタイトル通り哲学的な思考を中心にしたインタビューをもとにしたエッセイだ。それは小説家になる前の保坂がカルチャーセンターで哲学についての講義を長く担当していたからというのは容易に想像がつくが、「小実昌さんのこと」を始めいたるところで述べているが「哲学」と「哲学的」を別の思考法として何度も保坂は注意している。

ところがおもしろいことに、その頃から小実昌さんも『カント節』なんて、露骨に哲学を話題にした小説を書くようになっていた(くり返すが、哲学を話題にしても小実昌さんの小説は「哲学的」ではない)。

(「小実昌さんのこと」太線は筆者による)

保坂の本は図書館で借りた複数の本のうち、1冊それも3分の2程度しか読めずに、私は旅行に出かけ、欧州旅行中は「小説の誕生」や引用されていた小説のことをうっすら考えていたが、実際は毎日の作業に追いつかなくてほとんど忘れていたが、日本に帰ってきてからは「小説の誕生」の続きでなく、「生きる歓び」を読み始めた。「小説の誕生」を選んだ4月はまだ肌寒かったし、庭の植物も弱々しく芽吹き始めたばかりだったし、何もかもが始める前からダメな予感しかしていなかったが、旅行から帰ってきた7月は毎日暑い日が続き、庭の植物たちも成長して生きる力を見せつけているので、自然と読むべき本も「生きる歓び」となっていた。それにもう課題の提出まで10日を切っているという現実的な問題もあった。「生きる歓び」はハードカバーの中に46ページと短く収められている。私は保坂がえがかなかったことを覗き見ようと、笹乃雪の暖簾をくぐり「明け方の猫」のページをめくった。

「生きる歓び」は、私のこの随筆のように自分の身の回りに起こっていることをダラダラとえがき始めている。特に前半は一文がいやに長く、読みづらい。はっきりしているようなはっきりしてないような相対的な月日の書き方、日記なのか小説なのか随筆なのかわからない内容。この随筆の一文を長く書いたのは「生きる歓び」の文章を下手ながらも真似て、読者に小説の引用をせずに「ダラダラ」の共有を試みたかったからだ。下手な真似だからこそ、ダラダラがより、ダラダラとしての効果が出るだろうとの目論見だ。果たしてこの行まで辛抱強く読んだ人はいるかしら。

ではなぜ小説の引用をせずに、感覚だけを共有したかったのか。小説の内容を読ませてしまうと、これは小説ではなく日記ではないかという点に気を取られてしまうのを恐れたからだ。小説の中で保坂は子猫の「花ちゃん」と出会ってしまう。それを機にダラダラの文章は短くなる。短い文章は小気味よい。リズムが良い。晴やかだ。子猫の花ちゃんの生きる力に影響されたかのように、長い文章は徐々に小気味よくなっていく。それは突然ではない。読んでいて違和感の無い程度の緩やかさ、つまり内容と文章の切れが対比するような緩やかさで行われている。「生きる歓び」が日記ではなくて小説である所以は、この文章構造にある。

ただ一つ注意したいのは、「生きる歓び」だけが感情を操作するためにダラダラした文章かと言えばそうではない。他の小説も長い文節のものがあり保坂の文章の特性の一つでもある。保坂が敬愛する田中小実昌に影響を受けている可能性がある。

「バカだねおまえ、小島信夫っていうのは、田中小実昌とか後藤明生みたいな、ダラダラ書く作家の総本山みたいな作家なんだよ」

と言ったのだった。

 ぼくはそれまで小島信夫については『アメリカン・スクール』で芥川賞をとったということしか知らなくて、どうせあたり前の私小説作家だろうぐらいにしか思っていなかった。それが田中小実昌が「先生」と書いていることでいっぺんに注目すべき作家となった。

(「小実昌さんのこと」)

実際私は読み始めてすぐに「生きる歓び」は日記ではないかと混乱し、「あとがき」に助けを求めた。本当のことを書くという日記の基本ルールと小説の技法である文章の構造で感情を操作する技術が、ここでは使用されている。しかし小気味よくなったと言えど、内容は前半と同じく、白を書き黒を書きグレーな部分までも書き、最後にそのどれでもないというようなことを書いている。

一例を出すとまず最初に「理屈の正しさ」が現実の「正しさ」ではないことををえがく。

 だいたい、捨てられたり親からはぐれてしまった子猫なんて、その同じ時刻に日本の中だけでも何百匹といただろう。こうして私が家の中でこんなことを書いている時刻にも、拾われなければ死んでゆくしかない猫がたくさんいる。保健所にいけば処分されるのを待っている猫も犬もいる。アフリカでもアジアでも中南米でも飢えて死ぬのを待っている子どもたちがたくさんいる。だから、私がいまここで立ち去ってしまっても、世界全体で起こっている生き死にには何の関係がない、と言って、さっさと立ち去ることもできるし、そんな子猫ごときにかかずらっているヒマがあったら、世界の難民救済の募金にでも行った方がいい--というのは一見正しい理屈のように見えるかもしれないけれど、じつは全然正しくない。

(「生きる歓び」)

そして理屈の正しさではなく行動の様式の基本の行為規範、つまり倫理や道徳といったものも否定する。

それは世智にだけ長けて、わかったようなことを若いタレントに向かって頭ごなしにしゃべる、五十すぎの関西芸人の理屈にとてもよく似た理屈で全然正しくない。そういうバカな理屈を出す人にかぎって世界の難民や飢えた子たちへの募金をするわけではないということではなくて、人間というのは、自分が立ち合って、現実に目で見たことを基盤にして思考するように出来ているからだ。

(「生きる歓び」)

最後に哲学的な思考をえがく。通常なら著者の考えは最後にかかれるここにあたる。

人間の思考はもともと「世界」というような抽象でなくて目の前にある事態に対処するように発達したからで、純粋な思考の力なんてたかが知れていてすぐに限界につきあたる。人間の思考力を推し進めるのは、自分が見ていない世界をもってくるのは、突然の神の視点の導入のような根拠のないもので、それは知識でも知性でもなんでもない、ご都合主義のフィクションでしかない。

(「生きる歓び」)

最後に保坂は自身が信頼する思考も諸行無常に否定して締めくくる。

もっともそんなことをいくら強調してももともと捨て猫に関心のない人は別だ。現にここでも人だかりをかすめていった人たちもいた。それはそれで仕方ない。

(「生きる歓び」)

とはいえ保坂はのらりくらりと全てを否定して、ダラダラとした文章を書く作家ではない。白や黒やグレーを書かず、自分の意見だけを書く場合もある。

私は言った。「死ぬ」という言葉は露骨で響きが(音としてでなく意味として)強くて、無神経に聞こえるかもしれないが、私はいつもできるだけはっきり使うようにしている。「楽にする」とかただ「このまま」というような遠回しの言葉を使うと逆の意味に取り違えられる可能性があって、そっちの方があぶない。いまこの子猫はどうということもないけれど、切羽詰まっているようなときに「早く楽になってくれないかなあ」などを言われると、居合わせている人はどっちの意味に解釈していいかわらなくなるだろうし、そういう斟酌に労する余計な手続きは必要な判断に対する負担になるんじゃないか。

(「生きる歓び」)

このように、死との関わりを「仕方ない」と言い放つ保坂は、一方で死の捉えさせ方に関しては強い意志を見せている。死との関わりは精神的に負担になる。そのような状況では関心を持たぬことを「仕方ない」と言う。そして死との関わり合わせ方は、心の負担にならぬようにと断言する。これは死を配慮するということではない。死がどういうものかこの小説にはえがかれていないし、対になっているという死んでしまった「小実昌さんのこと」でも死についてはえがかれていない。わからないものに対しての距離の取り方だ。話を戻そう。この小説は子猫の花ちゃんが生きているという状態そのものを生きる歓びとしてえがいているように読める。実際にp45の5行目にこう書いてある。

「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きることが歓び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しくも何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさんくさくて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。ミルクを飲んで赤身を食べて、段ボールの中を動き回りはじめた子猫を見て、それを実感した。

(「生きる歓び」)

先にも書いたが、この小説は子猫との関わりによって、ダラダラの文章が短くなる。P11(小説はp7から始まるので実際にはp4と早い段階で)の7行目「子猫の柄は三毛だった。」が、最初に私たちが出会う小気味良い文章だ。この時はまだ「花ちゃん」は名付けられておらず、病気の只中で、保護者もいない。しかも餌としてカラスに狙われている。つまり花ちゃんを「生きる歓び」として小気味良くえがくにはまだ時期尚早だ。小気味良くするなら、「生きることが歓び」ならせめて食べ物を自分から食べ始めてからになろう。だたそれは花ちゃんを主体とした視点からの話であって、保坂を視点として考える場合、この文章以前と違う点は保坂が行きがかり上、子猫をみている(目に入っている)という受動的な表現から、この子猫の特性を自分の知識から読み解こうとし始めた最初の能動的な場面であることだ。

つまりは保坂が小説を書く行為が生きる歓びである。保坂はテレビで見た草間彌生が、制作を療法と言っていることに驚いている一方で、保坂自身も書くことで現実の世界にとどまっているのだ。もちろん花ちゃんの生も歓びだろう。言ってしまえば生きとし生けるもの全てが歓びだ。世界は歓びで満ちている(同時に悲しみに満ちている)。草間に絵筆があるように、保坂はこの世界にとどまり続ける技法として小説がある。

文字数:5279

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